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『……理樹くんさ。つらくない?』 いきなりだった。 トイレで用を足して戻ってきたところ、入口近くで待っていた沙耶はそう言った。何のこと、と問い返す。誤魔化しとかじゃなく、真剣に何の話なのか掴めない。彼女は見るからに言いにくそうに、 『あー……それはほら、アレよ、アレ。いろいろあるでしょ? あるのよね?』 とかなんとか、要領を得ないことを言う。 「そう言われてもなぁ。いったいなんなのさ」 一応、思い当ることがないか考えてみる。そういえば、ちょっと周囲の視線が気になる、ということはよくある。というか、今もだ。でも、さすがにとっくに慣れたことだし、別に辛いというわけでもないけれど。そう、辛いというわけではないが、早く教室に戻ったほうがいいだろう。教室近くのトイレが混雑していたから遠出したものの、それで授業に遅れるのも馬鹿らしい話だ。 『だから、その……ああ! ちょっと、引っ張らないでよっ』 「引っ張るなと言われても」 沙耶は僕からあまり離れることができない。そっちが勝手にくっついてくるだけで、僕には引っ張っているつもりなんてないんだが。言ったところで納得する子じゃないのはわかっているのだけど、つい溜息が出てしまう。せめて自主的についてこさせようと思って、立ち止まって振り返る。 色素の薄い彼女の身体越しに、雲間に覗く青空が見える。その奥から射し込む太陽の光。どこか神秘的な匂いの漂う光景だった。 『――ああ、もうッ! 理樹くんだって年頃の男のコなんだから、オナニーとかいろいろしたいんじゃないの!? あたしがいたんじゃできないでしょ!? そこんとこどうなのって話よ! わかった!?』 台無しだった。いろいろと。 何を怒っているのか、授業中、沙耶はずっとそっぽを向いていた。さすがに授業中は話しかけられても応えられないのだから、どちらかといえば楽だけど。そんな、いかにも怒っていますって態度を取られたら、気になるじゃないか。 「――じゃあ、テキストの43ページ、問の3。10分で」 数学教師が告げると、教室中からページをめくる音が聞こえてくる。僕もそれに倣った。該当ページを確認する。解こうと思えば解けないこともないけれど、いかにも面倒そうな問題である。どうせ今日の日付なら僕が当てられることもないし、放置して沙耶の様子を窺うことにした。彼女はどこを見ているのだろう。 窓の外。どんよりと広がる灰色の雲に、そういえばもう6月に入っていて、梅雨が近いのだということを思い出す。その代わり映えしない景色を眺めている沙耶。透き通るように美しい髪は、目を凝らして見れば本当に透けていて。その向こうに映る曇り空のせいで、少し濁っているようにも見える。 『あ』 沙耶が唐突に振り向いた。ドキリとして、僕は慌てて黒板に視線を戻す。しかし沙耶は、目敏くも僕のキョドっぷりに気付いたらしい。 『ん? どうかした?』 いやなんでも。沙耶の後姿に見惚れてたとかそういうのは全然ないから。とかなんとか必死こいて弁解したい心持ちではあるんだけど、さすがに授業中にそれをやるわけにもいかず。誤魔化すつもりで例の練習問題に着手する。意外とすらすら解けた。 『……ま、いっか』 ふう。 『ねぇ理樹くん』 沙耶だって今は応えられないことはわかっているはずなんだから、そんな風に声をかけないでもらいたい。無視してるみたいになって気分が悪いじゃないか。そういえば今気付いたが、いつの間にか怒りのオーラは鳴りを潜めている。 『雨降ってきた』 その日の授業が終わる頃には、雨脚はだいぶ酷いことになっていた。寮まではそんなに距離がないとはいえ、傘なしで行くには少しばかり辛い感じである。まあ僕はちゃんと持ってきているけども。 「うーむ」 昇降口で立ち往生しているのは鈴だった。腕組みして仁王立ちして唸っている様子は、意味もなく偉そうに見える。明らかに傘を持ってくるのを忘れた風だったけど、声をかけたほうがいいだろうか。いやしかし。 迷っているうちに、鈴のほうが背後に立つ僕に気付いたらしく、 「うにゃあっ!? な、なんだおまえ! あたしの後ろに立つな!」 警戒心ビンビンの猫よろしく、ずしゃあっと距離を取られる。いつも通りの2メートル。 『わーお。なんか今のってスパイっぽい台詞じゃない? いいなぁ、言ってみたいなぁ』 「いやいやスナイパーだから」 ついツッコミを入れてしまったけど、それはしっかり鈴にも聞かれていたらしく、じりじりと後ずさっていた。これも慣れたこととはいえ、ちょっと傷つく。 「……い、いるのか?」 「うん、まあ」 これでも出会ったばかりの頃よりはだいぶマシになったんだよなぁ、とちょっとした感慨に耽る。当時はちょっと目が合っただけで、電車内で遭遇した痴漢を見るような怯えと警戒心に満ちた表情をされていたものだ。距離も常に3メートルは空いていた。それを思えば、たいした進歩であるような気がしてくる。 「……理樹、なんだかジジ臭い顔してるぞ」 「あれっ、そう?」 少しショックだった。それはともかく、なるべく鈴に近寄らないようにしつつ傘立てへ。自分のものはわりとあっさり見つかった。 「傘、貸そうか?」 「…………」 「いやそんな、別に一緒の傘に入ろうとか言ってるわけじゃないから」 『嫌われたもんねぇ、理樹くんも』 ええい、うるさいな。いったい誰のせいだと思ってるんだ。 『威嚇されないだけまだマシよね』 だからうるさいって。もうツッコみたくてしょうがないけれど、耐える。この状況でちょっと怒り気味のツッコミなんか入れたら、それこそ鈴は逃げ出しかねない。 そんな感じで悶々としていると、砂糖菓子みたいに甘い声がかかった。 「あれ、理樹くんとりんちゃん?」 小毬さんだった。いつものほんわか笑顔でこっちに歩いてくる。 「こんなところでどうしたの?」 「ああ、それが……」 掻い摘んで説明する、というかそれほど込み入った事情があるわけでもなく、単に鈴が傘忘れて帰れないというだけなんだけども。とにかくそれを伝えると、 「じゃありんちゃん、私の傘に一緒に入って帰る?」 さすがの小毬さん。鈴の表情もぱっと明るくなる。傘を貸す貸さないというだけの話だったはずなのだが、どうしてここまでこじれてしまったのか。なんにせよ、これで問題は解決だ。 「じゃあ小毬さん、悪いんだけど鈴のこと、よろしくね」 「いえいえ、おっけーいですよ〜」 ニコニコと可愛らしい笑顔で快諾してくれる。鈴に彼女みたいな友達ができたことを、改めて良かったと思う。 引き継ぎが終わってもう長居する理由もないし、そうしていては鈴に迷惑だろうからさっさと立ち去ることにする。 「り、理樹!」 その僕を当の鈴が呼び止めたものだから、少なからず驚いた。 振り返ると、鈴は小毬さんの背中に隠れてチラチラと窺うように僕を見ている。何か言いたげな様子だ。僕を避けているはずの鈴が、わざわざ呼び止めてまで言いたいこと。期待してもいいようなことなのか、それともその真逆なのか。 やがて鈴の小さな口から紡がれた言葉は、 「……ごめん」 そのたった一言で。僕はなんと言うべきか迷い、結局何も言えないでいる内に、鈴は小毬さんを引っ張って行ってしまった。 なんだったんだろう、と誰にともなく呟く。 『……へぇ。ふーん』 沙耶はなにやら訳知り顔で、何かに納得したように呟いた。 「傘、入ったら?」 『別にいいわよ、濡れるわけでもないし』 寮に向かう道の途中。僕の提案を、沙耶はあっさりと流してしまった。確かに間違いではない。降り注ぐ大量の雨粒は、ぷかぷかと浮かぶ彼女の身体を濡らすことなく、通り抜けて地面に落ちていく。間違いではないし、わかってもいるのだが、こんな大雨の中に女の子を晒しておくのはどうにも気分が悪くて仕方がない。これで『あ、あああ、相合傘なんてできるわけないじゃない!』みたいな反応だったらまだ可愛げがあったんだけどなぁ、なんて馬鹿なことを考えていると、 『……理樹くんさ。つらくない?』 沙耶が突然そんなことを言い出した。さっきも聞いたような台詞である。 一応女の子なんだし、しかも美少女なんだから、あんまりオナニーとか言ってほしくないんだけど。それとも僕がずっと気付いていなかっただけで、この娘、実はかなりの変態さんだったりするのだろうか。だとすれば、長い間ずっと一緒にいたというのにそんなことにも気付けなかった自分が不甲斐なく思えてくる。 『……何よ、その目は?』 「いや……大丈夫だよ。沙耶が変態だとしても、僕は軽蔑したりしないから」 『なんの話をしてんのよッ!?』 一頻りぎゃあぎゃあと喚いた後、ハァハァと息を荒くしながら沙耶が補足説明してくれた。 『だから、さっきも話したけど! あたしがいると、理樹くんはいろんなことが出来ないでしょ? それがつらくないのかってこと!』 だったら最初からそう言ってくれればよかったのに、とは言わないでおく。 「そうだなぁ」 沙耶とは小さい頃からずっと一緒で、今となってはそれこそ一緒にいるのが当然みたいな、そんな感じの間柄であると、僕は勝手にそう思っている。沙耶の言動にいろいろ困らされた経験も多いし、喧嘩だって何度もしたけれど、それを辛いとか苦しいとか、あまり考えたことはない。 『例えばさ、あたしがいなかったら鈴ちゃんに避けられることもなかったんじゃない?』 「あー」 それは確かに、と僕は頷く。 僕が恭介たちと初めて会った時のことだ。どういうわけか蜂の巣退治に巻き込まれた僕は、よくわからないまま地元の新聞にまで載る事態となってしまったのだが、その写真に偶然、沙耶が写ってしまったのが問題だった。悪いことに、撮影当時の沙耶は何を考えていたのか、見えないのをいいことに鈴へのイタズラを敢行していたのである。小学生が蜂の巣を退治したというお騒がせ記事は、まるで別方向の騒ぎを巻き起こすことになった。 「まあ結果はアレだけど、沙耶にだって悪気があったわけじゃないんでしょ?」 だいたい、最悪な出会いのわりに、僕らの関係は今に至るまで続いているのだ。細かいことを気にしない恭介、真人、謙吾が僕と鈴の間にいてくれたから、というのが大きい理由だろうけど。なんにしても、鈴だって今はもう沙耶が人畜無害な存在であることはわかっていると思う。鈴が僕、というか沙耶を避けているのは、彼女が来々谷さんを警戒して近づこうとしないのと同レベルなんじゃないだろうか。 そうやって、自分でもなんでこんなに熱心なのかわからないぐらい沙耶を擁護するような理屈を頭の中で並べ立てていると、 『あったかも、悪気』 僕の努力をブチ壊しにするようなことを言ってくれた。悪気あったのかよ! 『あー、別に鈴ちゃんにはなかったけど。そもそもアレ、恭介さんにやったヤツだし』 「え、そうなの?」 そういえばあの時、恭介は写真を嫌がる鈴を逃がさないように捕まえていた。恭介へのイタズラが鈴に対してのものに見えてもおかしくはない。というか、初耳である。鈴もあれで単純だから、ちゃんと説明すればあそこまで気にしなかったかもしれないのに。失われた10年ってこういうことか。いや、まだ10年も経ってないけれど。 しかしここでひとつ、新たな疑問が生じる。 「なんで恭介?」 『ないしょ』 悪戯っぽく笑う沙耶に、これは聞き出せそうにないな、と小さく溜息をつく。 『話戻すけど』 目の前に寮の入口がある。僕はもう少し沙耶と二人で話をしていたくなって、来た道を引き返すことにした。 『あたしがいたら理樹くん、彼女とか作れないでしょ? お年頃なのにかわいそう』 可哀想とか言うわりに、声音はむしろ面白がっているように聞こえる。しかし彼女か。言われてみて気付いたけど、実はあんまり考えたことがない。お年頃なのに、だ。別に僕は同性愛者でもなければ二次元に嫁がいるわけでもないというのに、これは問題じゃないだろうか。 『鈴ちゃん、たぶん理樹くんのこと好きなんだと思うよ』 「はぁ?」 沙耶がいきなり変なことを言うもんだから、思わずそれ相応の変な声が出た。もしかして、さっきの『……へぇ。ふーん』はそれなのか。あの流れからどうしてそういう結論に達するのか理解できない。根拠はなんだ根拠は。 『女のカン』 まるで当てにならない根拠だった。というか、こと恋愛に関して沙耶に大きな顔をされるのは納得いかない。沙耶にだって恋愛の経験などあるはずがないのだから、それで女のカンだなんて言われても。その旨を伝えてやると、沙耶はむくれて、お姉さんぶった口調で言った。 『童貞の理樹くんと違って、あたしにはちゃんと恋愛の経験あるんだからっ』 「はぁ?」 また変な声が。って、いやいやいや、ちょっと待て。沙耶にいつ、どこで、どうやって恋愛をする機会があったというのだ。まさか一丁前にクラスメートの男子Aに片想いでもしていたというのか? そもそも文脈からしてここで言う恋愛に片想いは含まれないのではないだろうか。え? 片想いしてたの? え? マジで? 誰に? 誰にだよ!? 誰―!? 『言っとくけど、ちゃんと両想いだったわよ』 ああ、なんだ片想いじゃなかったのか、よかった、って全然よくないじゃないか! それこそいったいいつどこで両想いになれるっていうんだよ! そして相手は誰だよ! 『懐かしいなぁ……甘くて、切なくて、ちょっぴりお馬鹿な恋……もう、懐かしいって思うぐらい時間が経っちゃったのね』 なんだか感慨深げに言っているが、甘い切ないというのはいいとして、お馬鹿なのはどうなんだ。ちょっぴりなんて可愛らしく形容しているせいで余計浮いている。 しかし沙耶の言い草からするとけっこう昔のことみたいだけど、それって子供の頃ということだろうか。果たしてそれは本当に恋愛だったのかという疑念が湧いてくる。 「なんかこう、おままごととかと勘違いしてるっていうのは……?」 『失礼ねー、ちゃんとした、オトナの恋愛よ』 オトナってカタカナで言うのやめて! やめてよちょっと! 最初に沙耶が言ったことを思い出す。童貞の理樹くんと違って。単に比較対象として出すだけなら、「理樹くんと違って」と言えば事足りるはずである。そこにわざわざ、「童貞」だなんて屈辱的な単語を付け加えるということは、その、つまり。 ――なんだろう、この得も言われぬ喪失感は。 『まあ全部冗談なんだけどね』 「…………」 沙耶は、やーいひっかかったひっかかったー、と僕を笑った。 開いた口が塞がらないとは、このことだろう。あまりの脱力感に、ツッコミを入れることさえ叶わない。そもそも口が開きっぱなしなので喋れない。もっとも、いろいろ矛盾だらけで明らかに破綻しているのに気付けず、まんまと騙されてしまった僕も僕なのだが。まあなんにせよ、安心した。 ――安心? 今、安心したのか、僕は? 『理樹くん』 沙耶はふわりと宙を舞うと、傘の下に入り込んでくる。そんなに大きい傘ではないから、二人で入るにはぴったりとくっつかないといけない。沙耶は僕に身を寄せると、恋人同士がするように腕を絡める真似をした。僕の身体と沙耶の身体はいろんなところが触れ合っているはずで、でも僕には沙耶を感じることができない。いつのまにか僕は、立ち止まっていた。 いつも浮いているからその印象は薄いが、沙耶は小柄だ。その小柄な沙耶が、僕にぴったりと寄り添ったまま、見上げてくる。ひどく儚げな笑みを浮かべて。その儚さは、色素の薄い彼女の姿によるものなのか、それとも。 『これまで、ずっといっしょにいたけど』 聞いたことのないような声だと思った。ずっと年上の……なんというか、そんな感じの声だ。 『あたしがいなくなったほうがいいなら、ちゃんと言ってね』 「…………」 それは、本来の話題から決して外れてはいないはずの言葉だ。なのに、この違和感はなんだろう。いや、これまで気付いていなかっただけで、そもそもがおかしいのだ。どうして沙耶は、自分がいなかったら、なんて話を始めたのか。沙耶との付き合いは長いが、彼女がこんなことを言うのは初めてのことだ。 『言ってくれたら、そうするから』 僕はただ、混乱していた。混乱しているなりに、僕が望めば本当に沙耶は消えてしまうのだろうということだけは、なんとなく感じられた。根拠なんてないけれど、でも、さっきの恋の話みたいに冗談を言っているわけではないのだと。そう、感じ取ってしまった。 何か言わなければならない。何と言えばいいのだろう。僕が望めば沙耶は消える。でもそれは、逆を言えば―― ずっといっしょにいてほしい。 そう言えば、望めば、沙耶はその通りにしてくれるということにならないだろうか。 それは、素晴らしい考えであるように思えた。言うっきゃない、むしろ言わなきゃ男じゃないと、僕はなぜか確信した。しかしいざ口を開こうとすると、心臓がなんかもうすごくバクバク鳴っているのに気付く。なんだこれは。まずい。なんかクラクラしてきた。落ち着く必要があるが、こういう時の定番である深呼吸ができるような状況ではない。このみっともなく鳴りまくる心臓の音が沙耶に聞こえやしないだろうかと不安になり、挙句、そもそも今言う必要はないのではないだろうか、とヘタレ極まる考えが浮上してきた。僕は僕のヘタレっぷりを責めない。戦場で最後まで生き残るのは、臆病なやつなのだ。臆病もヘタレも似たようなものだ、きっと。そう、一度撤退すべきかもしれない。こういうのはもっとこう、ムードとか考えて、うん。ムード。ムードというなら、それこそ今この時が絶好の機会ではないのか。雨の中、傘の下に二人、身体を寄せ合って。儚げな笑顔で僕を見上げてくる沙耶が、『いなくなったほうがいいなら、言ってね』なんて悲しいことを言って。今言わないでいつ言うというのだ。これはやっぱり今言うべきだ。言ってやれ。どうせそんなにこっぱずかしいことになりはしないのだ。沙耶が『うんがー!』とか奇声をあげてギャグシーンに早変わりするに違いない。だから大丈夫、何も恐れることはない。言え、言うんだ、言ってしまえ、直枝理樹――! 『あっ』 「ひぃっ」 テンパりまくっていた僕の思考は、そんな沙耶の小さく短い一声でまとめて吹っ飛ばされた。正直ビビった。急に声を出さないでほしい。しかも沙耶は、僕から身を離して傘の外に出て行ってしまった。まるで逃げるみたいに。 『雨、止んだみたい』 「ああ、うん……そうだね……」 傘を閉じる。 いつの間に降り止んでいたのだろう。あれだけ分厚かった雨雲は散り散りになっていて、実は雨が止んでからそれなりに時間が経っていたのかもしれない。遠く西のほうに広がる夕焼けと宵闇が、妙に美しかった。 『あっ、一番星見っけ』 どこ、と僕が聞くまでもなく、沙耶は空を指差していた。その先をずっと辿っていくが―― 『ああ、雲に隠れちゃった……』 沙耶は見るからに落胆していた。一番星なんて流れ星と違って別に珍しくもないんだから、そんなにがっかりしなくてもいいと思うけど。しかし彼女はあっさり気を取り直したようで、 『うーん。あたしの星も、この広い空のどこかにあるのかしらね』 またよくわからないことを言い出した。 「あたしの星、って……どういう意味?」 何かの喩えだろうか、と僕はその程度に考えている。対する沙耶の回答は、実に簡潔だった。 『どういうって、そのまんまよ。ほら、ヒトって死んだらお星様になるって言うじゃない』 昔理樹くんのお母様に教えてもらったの、うちのお父さんにはなんとなく聞きにくくって――軽く笑いながら、なんでもないことであるかのように言う沙耶。僕は軽い衝撃を受けていた。いや、軽くはない。じわりじわりと、少しずつ響いてくる。 沙耶は死んでいる。 僕は、なぜか、今になって初めてそれを実感した。重力を無視して宙に浮き、色素の薄い半透明の身体は、モノに触れることができない。僕以外の誰も沙耶の姿を見ることはできず、その声は届かない。そんな、あきらかにヒトではない存在――幽霊である沙耶とずっと一緒にいて、それなのに僕は、沙耶は生きているのだと思い続けていたのだ。 あるいは、ずっと一緒にいたからこそ、かもしれない。沙耶は、明るくて、考えていることが顔に出やすくて、子供みたいに拗ねたりして、呪いとかポルターガイストとか、それっぽいことも全く出来ない。沙耶にはそもそも、そういう陰湿なイメージがまるで似合わないのだ。それは、沙耶とずっと一緒に過ごしてきた僕が、一番よく知っている。 そうだ。僕は沙耶とずっと一緒にいた。ずっと一緒にいたのに、わからない。 沙耶が、いつ、死んだのか。 小さい頃、沙耶と一緒にサッカーをやっていたのを覚えている。あの時、彼女は確かにボールを、その足で蹴っていた。僕と沙耶が出会った時、彼女は生きていたはずなのだ。なのに、彼女は死んでいて、幽霊として僕の傍にいる。 僕には、沙耶の死を悲しみ、涙を流した記憶がない。 心がひどくざわついているのがわかる。沙耶は、ほとんど夜闇に変わりつつある夕焼け空を見上げていた。その表情は窺えない。色素の薄い彼女の身体が、そのまま空に溶けて消えてしまうのではないか。そんなことはありえないと思いながらも――僕が望もうが望むまいが、沙耶は遠からず僕の前からいなくなってしまう。そんな、強く恐ろしい予感があった。 「さ、沙耶」 勝手に口が開いた。声は震えている。 『んー?』 振り向いた沙耶はいつも通りの様子で、僕を見ていた。穏やかな笑みを浮かべている。少しだけ、落ち着くことができた。 しかし、僕は言葉に詰まっている。そもそも、何を言おうと考えていたわけでもないのだ。沙耶は僕のすぐ前に降りてきて、僕の言葉を待つように覗きこんでくる。 「……う、うう……」 『理樹くん……?』 何か、変な心配をさせてしまっているような気がする。あまりの情けなさに泣きたくなってきた。早く何か言わなければ。結局、どうせいくら考えたところで言葉は出てこないのだから、もう思うままに言ってしまえと、なかばヤケクソ的な結論に達して、 「こ、今月の修学旅行!」 そんなことを言っていた。 『修学旅行?』 「その……デート、しよう」 もっと気の利いたことを言えないのかと、僕は自分自身に軽く失望を覚えた。しかも微妙に前後が繋がっていなくて意味がわからないような気がしてくる。慌てて補足を入れる。 「いや、だから、その! 自由時間とか、二人でいろいろ見て回るとか、そういうことで!」 頭を抱えたい気分だった。恐る恐る、沙耶の様子を窺う。もし断られたら――それは、考えないことにする。 僕はやはり、これからも、沙耶とずっと一緒にいたいのだと思う。でも、それは叶わない願いなのではないか。信じたくないのに、僕はもう、心のどこかで信じてしまっている。だから、せめて、 『……いいよ』 沙耶が約束してくれたなら。少なくとも、それまでは、沙耶は僕と一緒にいてくれる。我ながら、あまりに後ろ向きで、けれど切実な願いだった。 『デート、しよ』 無邪気な沙耶の笑顔がどうしようもなく愛おしくて、僕は、この幼馴染みの幽霊に恋をしているのだということに気付いた。 [No.79] 2009/05/01(Fri) 10:13:44 |
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