![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
ビーカーの向こう側で、硫酸銅水溶液色をした横長の真人が深いため息をついた。 「ねえ、真人、聞いてる?」 「ああ、聞いてるって。だがな理樹、相談する相手を間違えてるんじゃないのか?」 真人は、実験机にのっぺりと付けた顎を面倒くさそうに動かして、答えた。 「だって、こんなこと相談できるの、真人か謙吾か恭介くらいしかいないもの」 「意外といるじゃねーか。つーか、それじゃ鈴が泣くぞ」 「鈴は……だって」 女の子だから。恋の相談なんて恥ずかしくてできないから。件の鈴はというと、教卓近くの女子グループの中で、借りてきた猫のように小さく佇んでいる。 「お前に彼女ができてから、随分と親離れが進んだようだな」 真人の隣から、塩化銅水溶液色をした横長の謙吾が言った。 「親離れって、そんな」 「実際、そんなものだろう。鈴が俺たちより神北たち女子グループを優先し始めたのは、明確にその時期からだからな」 「別に、だからってわけじゃないよ。仲間外れとか、そういうのじゃない」 「無論それはわかっている。いずれにせよ、あいつにとっては成長の証だ。心配しなくてもいい。……ま、今のお前は、それどころではないのかもしれんが」 理樹は、どこか責めるような謙吾の言葉にわずかばかりの不服を覚えながら、手にしていた虫眼鏡越しに鈴を見た。しかし、その視線はあっという間に隣の人物に奪われてしまう。彼女は物静かで、凛としていて、メチルブルーのビーカー越しだと消えてしまうくらい、透き通っている。 「……このようにして青色の結晶はできるのであり、つまり」教師の講釈など、もはや理樹の耳には入らない。「全ての事象には必ず理由があるのです」 「重症だな」 「ああ、肉離れ並の重症だ」 二人の呆れた様子など、気にもならなかった。 要するに、直枝理樹の悩みとは、西園美魚との関係についてなのだった。 エロいことをしたわけでも、したいと訴えたわけでもなかった。そりゃ理樹とて年頃のオトコノコなのだから、そういうことをしたい気持ちがないわけではなかったが、それでもオトコノコならではの意地で、本人の前ではおくびにも出さないように努めあげてきた。なので彼女とのすれ違いの原因がエロスにないことだけは確かで、そうなると理樹には、彼女がなぜ一歩先の関係に進むことを拒み続けるのか皆目見当がつかなかった。 「本当に心当たりがないのか?」 恭介に改めて念を押されたところで、ないものはないのである。 「だから困ってるんだ」 「本当にエロじゃないんだな?」 耐久ブリッジをする真人の上に腰かけた謙吾が、竹刀の先を理樹に突きつけて言う。 「だから、違うって。いい加減信じてよ」 「いや、別にお前の信用がどうとかいう話ではなくてだな、お前の話を聞いた限りだと、こちらにはどうも決定的な理由が見えてこんのだ」 「ふぐぐぐ……そのなんだ、付き合って一ヶ月そこらなんだろ? よくわかんねぇが、世間一般的には一番楽しい時期だったりするもんなんじゃねぇのか?」 そんな疑問、言われずとも他らなぬ理樹がすでに百回は自問自答している。海での告白から一ヶ月、少なくとも理樹は美魚の気持ちを無視するような真似も、決定的な地雷を踏むことも、友情を優先して彼女を放置するなどという暴挙をかましもしなかった。ゆっくりと愛を育もうと思っていた。ゆっくりした結果がこれだった。 「一人で考えても、どうしてもわからないんだ」 「ふぐぐぐ……ま、それでまず身近なオレたちを頼りたくなるのもわかるけどよ」 「お前にわからないことが、俺たちにわかるわけがないだろう」 竹刀の先が、カツッ、と地面に打ちつけられる。 「お前の彼女のことなのだから」 それはそうだけど、と理樹は口をつぐむ。悩める相談主が閉口してしまったものだから、放課後の屋上は運動部のやけっぱちな掛け声と下手くそなブラスバンドの音色だけに包まれた。 「つーか、なんでさっきからテメーはオレの腹の上に乗っかってるんだよ!」 「ようやく気づいたのか、阿呆が」 間もなく真人と謙吾のじゃれ合いが始まり、うららかな静寂は終了する。阿呆とはどういう意味だこのヤロ、いやなに腹筋の鍛えすぎで触感が鈍くなっているようだったのでな、最初から気づいてんに決まってんだろ、ならば鈍いのは脳だな、テメーやんのかコラ、望むところだ腹筋怪獣グドンなんぞに俺は負けはせん。 賑やかな空気が戻ってきても、理樹の心は晴れないままだった。 「ま、謙吾の言う通りではあるな」 二人が離れたところで異種格闘技風ベーゴマ決戦を始めた頃、タイミングを見測ったように、給水塔に陣取った恭介が口を開いた。 「西園のことはお前が一番よく知っている。そうだろう?」 「……うん」 「これはお前の恋人だからという意味じゃないぞ。お前は、お前にしか知らない西園を知っているはずだ」 「――あ」 理樹は、そういえば恭介に一度助けを求めたことを思い出した。信じがたい話を最後まで聞いてくれた上に、俺を信じるな、と進むべき道まで示してくれた恭介は、その後何ひとつ説明もないまま今に至ってなお、指標を与えてくれているのだ。 「本当にお前に心当たりがないというのなら、他に答えを知っている人間は、おそらく一人だ」 美魚本人。 「……そうだね」 「何も怖がることはないさ。聞いてみればいい。それを聞く権利があるのは、お前だけなんだから。ほら、」 恭介は、憎らしいほど様になった動作で、学校の一番高い場所から地上を指差した。理樹は、フェンス際に歩み寄ってその指先を追う。 中庭の木の下、そこに、オフホワイトの花が咲いていた。忘れもしない、彼女のトレードマーク。 「――っ」 理樹は、天と地がひっくり返るような衝撃を覚える。持病の前触れのような感覚、しかし、そんなものとは比較にならないほどの一撃。 ありえない。 だって。 ――彼女はあの日から、その日傘をたたんだはずなのだから。 考えるよりも先に身体が動いていた。フェンスから飛び跳ねるように身体を翻して、あっけにとられる恭介の足元をすり抜けていく。サッシにぶらさがるようにして窓から校舎に入り、机や椅子やガラクタ諸々を押しのけ、階段を二段飛ばしで、徐々に三段、四段飛ばしで駆け降り、廊下を駆け抜ける。 渡り廊下に出る。 中庭の木の下を注視する。いない。 もう一度目をこらして、おそらく不審者に思われるくらいの目つきで周囲に視線を巡らせる。視界の隅から一瞬で消えていく白い日傘。 校舎の角を曲がった。確かにその目で見た。 だから、考えうる最短距離で校舎の角に駆け寄ったというのに、曲がった先にその姿が見当たらないことに驚いた。 運動神経にも体力にも自信はないが、視力だけは大丈夫だという自負があった。校舎の反対側の角に残像のような白い影が残されているのを、理樹は見逃さない。 逃げ水を追うような鬼ごっこが始まる。 校舎を、駐輪場を、寮の裏手を、裏庭を這うように駆けずりまわり、決して掴めない白い影に手を伸ばし続ける。どれだけ全力で走っても、どれだけ手を伸ばしても、手にすることはままならない。ようやく追いついたと思ったら、伸ばした手は空を切り、気がついたときには、それは忽然と姿を消している。そしてやがて視界の隅に、幽霊のように白く浮かび上がる。あるときは遠く近く、あるときは正面に背後に、あるときは正しく逆さに、変幻自在に浮かび上がる。 アリスのようだ、と理樹は思う。 パラドクスと不条理と非現実の世界で、アリスは白ウサギを捕まえることができない。同じように、理樹はあるはずのない、ないはずのないその白い影を掴むことができない。 もしかしたら、そんなもの最初からないのかもしれない。自分の見間違いか、あるいは蜃気楼のようなものだったのかもしれない。だから白ウサギはアリス以外の誰にも気にされないし、彼女の白い日傘は自分以外の誰にも気にされない。 アリスだけが感じた違和。自分だけが知っている違和。 誰も気にならないようなわずかな差だった。 気になったとしても、ああ今日は暑いもんねとか、その色お洒落だねとか、その程度の感想で終わったはずだ。 それでも。 それでも直枝理樹にとっては、その日傘の存在は、世界の終わりと同等の重さがあるのだ。 「――西園さんっ」 視界が開けた。 そこは、不思議の国でもなんでもない、ただの中庭だった。 最初に確認したはずの大きな木の下で、まるでずっとそこにいましたとばかりに、美魚は静かに佇んでいた。 日傘を差して。 目が合った。 そんなこと、何の気休めにもならなかった。 全身で大きく呼吸を整えながら、理樹はゆっくりと美魚に近づき、誤解されても仕方のないような乱暴さで、その頭上から日傘を押し退けた。 影は、あった。 腰が砕けた。首筋の汗が、するすると背中に入りこんでくる。 「よかった……」 呟いてから、視線を感じて、理樹は美魚の存在を思い出した。 美魚は、驚いたふうでも、責めるふうでもなく、ただ少しだけ首をかしげて、澄んだ瞳で理樹を見つめるだけだった。 聞きたいことはたくさんあった。けれど、何から言葉にしていいものかわからなかったし、走っている間にほとんどのことは飛んでいってしまった。 だから、理樹はすがるような気持ちで、 「どうして」 とだけ言った。 「忘れないためです」 美魚は、どうして、の後に続く言葉を待たずに、言った。 「そして、大切な人を守るため」 理樹は、肩で大きく息を吐いた。酸素とともに、彼女の言葉をゆっくりと脳に浸みこませる。 彼女の言う、大切な人、に理樹は心当たりがある。忘れもしない、あの快活な、人懐こい、それでいて少し寂しげな笑顔。 「それが、僕と前に進めない理由でもある?」 「それは違います」 美魚は、即座に否定した。 「あの子のことは――」 いいえ、と美魚を首を振る。地面に落ちた傘を拾い上げ、雨でもないのに空を見上げてから、頭上を覆った。 「たとえば、虫眼鏡があったとしましょう」 「虫眼鏡?」 「ええ、直枝さんが先ほどの実験で持っていたものです」 見られていた。いつどのタイミングかはわからないが、理樹は急激に恥ずかしさがこみ上げてきて、頭を掻き毟りたくなった。それでも彼女の話を聞き続けるために我慢した。 「そこに火のついたロウソクを近づけるんです。どうなるかわかりますか?」 「どうなるって……虫眼鏡で覗くんだから、大きくなるんじゃないの?」 「そう、大きく見えます。では、逆にロウソクが虫眼鏡を覗くと、何が見えますか?」 「ロウソクが?」 理樹は、その様変わりな質問を真摯に考えた。 「ロウソクは、虫眼鏡の先に、見知った姿を見かけるんです」 美魚のヒントに、理樹はある構図を思い出した。それは、中学の理科で習った、焦点距離を知るための凸レンズ実験だった。凸レンズを中心に、その核から左右に直線が伸びていて、線上に火のついたロウソクが置かれている。ロウソクの火は、一本は直線と水平に伸びて折れ曲がり、焦点を通る。もう一本は、凸レンズの核を素通りする。二本はやがて交差し、 「自分が見える。逆さまの」 「そうですね。虚像が浮かび上がります」 どうやら、思い浮かべる図としては彼女の意図と違っていないらしい。 「ですが、それはあくまでも虚像です。ロウソク自身ではありません。自分によく似た、しかし正反対の、実在しない姿です」 そこまで聞いたところで、理樹は美魚が何のことを言っているのかに確信を持った。 美鳥だ。 レンズを境に、対象的に存在する二本のロウソク。それは、かつて海と空を境に存在した、美魚そっくりの少女の姿とそのまま被る。 「実在はしないかもしれないけど」理樹は、彼女に伝えた約束を守り続ける。「存在はするでしょう?」 「もちろんです」 美魚は、噛みしめるように頷く。 「ですが、ロウソクが虫眼鏡に近づくと、虚像は姿を変えます」 「大きくなる」 「そう、逆に遠ざかると、小さくなります。あの子があの子ではなくなってしまう」 美魚はようやく、例え話が美魚と美鳥のことであると認めた。 そして理樹はようやく、例え話が何を指しているのか理解することができた。 「そうか、僕は、」 レンズなんだ。 虚像は虚像。実像と全く同じものになることはできない。それでも、同じ姿形になることはできる。レンズからある一定の距離のところから実像が動かなければ、等しく存在することができる。 等しく、レンズを共有することができる。 「だから、近づこうとしないんだ。彼女に気を遣って」 「……違います」 「まいったな。そんなふうに言われちゃうと、僕のほうからは何も言えないよ」 「直枝さんは、誤解をしています。あの子は、」 美魚は、少し迷うような素振りを見せて、理樹に近づいた。日傘を握る手に、力がこもる。 「美鳥は、もう私なんです」 そっと傘を、理樹の頭上にかざす。 ただでさえ小さな日傘は、あっという間に定員を超える。それでも傘は、密着した二人の影を、十分に包みこむ大きさを持っていた。 「美鳥が私になっても、私の気持ちは変わりません。それは決して私の気持ちのほうが強かったからとかそういうことではなく、美鳥も同じ気持ちだったからなんです。最初から、同じ気持ちだったんです」 だから、と美魚は理樹を見上げる。まっすぐに捉えられた視線から、理樹は目を反らすことができない。 「だから、私たちは二人で、貴方を――」 美魚は、その先を言わなかった。 理樹は、その先の言葉を、どこかで聞いた気がした。 キスでもするときのような距離に顔があることに気づいて、理樹は馬鹿みたいに真っ赤になった。だというのに、先に顔を背けたのは美魚のほうだった。傘が跳ねるように頭上からスライドしていく。 心臓の鼓動を抑えるのに手間取った。 心地の良い鼓動だった。 理樹は、木の裏側にまで逃げていってしまった美魚を追い、顔を覆っていた日傘をそっとずらした。これみよがしに膨れ面をつくった彼女がいた。 「……危うく、直枝さんの罠に嵌るところでした」 「ええー、僕のせいなのかな」 「あんな恥ずかしいことを言わせるなんて、直枝さん、鬼畜です」 「どんな恥ずかしいこと?」 「鬼畜です」 いつもの調子に戻って、理樹はようやく顔を綻ばせた。 久々に笑った。胸のつかえが飛んでいってしまったような気分だった。 傘を握る手を取って、指を絡めた。拒絶されるかと思ったが、彼女は一瞬だけ寂しそうな笑顔を理樹に向けて、結局何も言わなかった。二人で握った日傘を、二人の頭上に掲げる。 「さっきの例え話だけど」 「はい」 「あれって、僕から近づくのもダメってことだよね」 「ええ、直枝さんが私に近づけば、美鳥が嫉妬しますから」 「嫉妬の炎を」 「大きくして。ロウソクごと」 「じゃ、今みたいにこんなに近かったら、怒るかな?」 「背後霊になって、私たちの後ろに現れます」 「それはたまらないね。じゃあ、逆に、美鳥に近づいた場合は?」 「美鳥が小さくなります。私に遠慮して。あの子らしいです」 「ここは真面目に答えるんじゃなくて、嫉妬してほしかったところなんだけど」 美魚は、また膨れた。含み笑いでにやける理樹に向かって、今度こそ責めるような視線を送る。かと思えば、つん、と澄まし顔をする。どんなときでも冷静な、西園美魚の素顔。 「しませんよ」 その中には、確かに美鳥の面影が見え隠れしていて、 「自分に嫉妬する理由はありませんから」 「よう、お二人さん」 帰り道、背後から突然恭介に声を掛けられて、理樹は反射的に、繋いでいた手を離してしまった。あざとく目をつけられる。 「その様子だと、無事仲直りできたみたいだな」 「いや、まあ、別に喧嘩してたわけじゃないから」 「へぇ、そうかい」 恭介はこれみよがしに理樹の肩に顎を乗せ、明らかに美魚をからかうような顔といい声で、 「ま、エロスはほどほどにな」 耳元で耽美に囁かれて、理樹は鳥肌が立った。 「うわ――あ?」 飛び跳ねるより先に、理樹は自分の身体が引っ張られるのを感じた。 腕を見る。腕が巻かれていた。 これほどの餌を目の前にして、美魚は気丈にも理樹の腕を取り、挑発に挑発で返すように恭介と対峙していた。 「西園さん?」 その表情はまるで記憶の中の彼女そのもので。 「行きましょう」 悪戯に笑う彼女に、腕を引かれる。理樹はつんのめりながらも、その透明な瞳で、美魚を見た。 海と空の青が、広がった。 どこまでも、どこまでも青かった。 [No.8] 2009/03/06(Fri) 19:19:58 |
この記事への返信は締め切られています。
返信は投稿後 60 日間のみ可能に設定されています。