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くつくつ。ことこと。 土鍋の重いふたのしたで泡がはじけて音を立てる。小さい穴から湯気が噴き出す。 「まだかよぅ。もう生でもいいから食おうぜっ。ハラ減って我慢できねぇよぅ!」 「いや真人。これは旨さを増すための最後の試練だと考えるんだ。目を閉じて想像する…味の、桃源郷をッ!駄目だ余計腹が減ったぁっ!!」 「ほわぁっ!?」 「ええい鬱陶しい。いい大人が少しくらい待てんのか」 「でもいいにおいなのですー」 「ん、じゃあそろそろいいかな?」 「まあ待て理樹、俺の見立てではあと40びょ…」 「よし。はるか、たのむ」 「頼まれたっ!ちょいやーーっ!!」 ぶわぁっ! ふたを開けると同時に中に押し込められていた湯気が解放される。そして湯気に乗って匂いも。 ごとごとごとごと。沸き立つ醤油だしにねぎの香りが乗っかって、そのなかに具の匂いが混ざり合って。 「うおぁっ、に、肉ぅっ!」 中毒患者のように飛び込んだ真人が唯湖に撃墜されたのはご愛嬌。みんな揃ってさん・はい。 『いただきます』 〜 ゆげゆげ 〜 古い瓦屋根の一軒家。普段は人気のないそこに、今夜は灯りと賑やかな声があった。 「みんな、お待たせー」 「そこの馬鹿、じゃまだ。道をあけろ」 こたつでみんなが囲むコンロの上、どーん!と大きな土鍋が据えられる。 「おっきいお鍋〜♪」 「くつくつ言ってるのですー」 そして鈴が運んできたのは追加の具。大皿には肉やら肉やらがぎっちりと盛り付けられ、竹ざるにはこんもりと白菜の山。 「肉っ!肉すげーっ!」 「そっちはまだ生だからね?」 興奮してそのまま箸を伸ばしかねない幼馴染を、すかさず理樹が牽制する。 「あ、直枝」 「なに?」「なんだ?」 「…直枝夫」 「っ。お約束すぎですヨ」 同時に反応した二人に気まずそうに訂正した佳奈多を、妹が含み笑いでからかう。 「…別に間違ってはいないわ。それより直枝…別にどっちでもいいわ、笹瀬川さんたちはもう少し遅れるから、先に始めていていいそうよ。…何が可笑しいの?」 「いや別に。そう、なら始めちゃおうか?」 「よぉーし、点火するぞ理樹」 仏壇に小皿とお猪口を供えていた理樹は、口もとを押さえ、佳奈多の視線から逃げた。理樹の言葉に謙吾がいそいそとコンロのつまみに手を伸ばす。 かちん、かちんっ。青い炎が輪を描くと、それだけのことで周りからおー、とかわー、とか声が上がる。 そして鍋(どんちゃんさわぎ)がはじまった。 〜〜〜〜 年代ものの薄い窓ガラスが湯気で白く濁っている。その向こうは真っ黒な夜だ。 「よっしゃニク取ったぁ!」 「待て真人、一人でそんなに取るんじゃない」 「ああっ!?謙吾てめェ何しやがるっ」 早速ごっそりと肉をさらっていった真人の器から、一瞬にして半分以上のぶた肉が奪われた。両者の間に火花が散り、血で血を洗う戦いの幕が切って落とされた。 ぶつかり合う箸、千切れる肉、飛び散る汁。 「汚れるだろーがっ!外でやれ!!」 男二人を庭へ放り出し、ガラス戸に鍵をかけた。ねじがきゅっきゅっと締まる音は、真人たちの悲鳴に紛れた。 二人少なくなった居間で、皆なにごともなかったように箸をのばす。 理樹は鍋に春菊を投入しながら、寒さをごまかすようにバトルを再開した二人を見ていた。 「ちょっとかわいそうだったかな」 「大丈夫さ、寒くなったら玄関から戻ってくる」 「そうかなぁ…」 〜〜〜〜 ふつふつ、ことこと。 鈴の箸が鍋からぶた肉を一切れつまみあげた。 薄切りのバラ肉の表面を脂の粒子がきらきらと滑り落ちる。ポン酢でのばした大根おろしをちょんちょんとつける。あーんと大口を開けたところで唯湖の熱い視線に気がついた。 「な、何だ?何で見てるんだ」 「なに、気にするな。それより冷めないうちにその熱く濡れた肉をその口に含み、あふれ出る肉汁をその舌で味わうといい」 「ふ、えっ、えええ〜っ!?」 「…卑猥です。主に小毬さんが」 「ちーがーう〜〜」 「こらーっ!小毬ちゃんをいじめるなーっ」 唯湖の言葉に過剰反応してのぼせた小毬が、美魚のつうこんのいちげきで半泣きになった。助けに入った鈴の顔もちょっと赤かった。 〜〜〜〜 「あ、このトリ団子うまっ。チョーでりしゃすっ!」 「うん〜、ふわふわのじゅわーっ、だね〜♪」 「ん?そ、そうか。うむ、くるしゅうないぞ」 下味にしょうがを効かせて、ぶたとごまをちょっとだけ混ぜた自信作だ。 口々に褒められて、なぜか時代がかった言葉づかいで鈴が頷く。頑固オヤジっぽくむっつりしても、小鼻や口もとが嬉しそうにひくひく揺れてしまって台無しだった。 「鶏団子だけは得意なんだよね」 「うっさい理樹」 「ほらほらミニ子、これおいしいよ〜。食べさせてあげる、はいあーん」 「わふ?は、恥ずかしいですがありがとうございます。あ、あーん…」 急に振られたクドリャフカは、上機嫌で鶏団子を差し出してくる葉瑠佳に、戸惑いながらも素直に応じる。 何故か目を閉じて口を開けたクドの淡い紅色の舌が震えるのを見下ろすと、葉瑠佳の首筋がむずっとして、反射的に焼き豆腐を放り込んでしまった。 「んっ、はふ、…っ!?〜〜〜〜〜〜〜っ!?」 「クドリャフカっ!?」 くわっ、と目を見開いたクドは口を手で押さえて居間を駆け回った。慌てて佳奈多が水を手にして追いかける。 「や、やははー。なーんか口がえろいなー、と思ったら手が勝手に。ごめんねクド公ー」 頬をぽりぽりしつつ今ひとつ誠意が感じられない葉留佳の口に、 「ふむ、そんな葉留佳くんにはこれをやろう」 熱々のもち巾着が放り込まれた。 〜〜〜〜 「わひゅう…まら、くひのなかがひりひりしまひゅ…」 「わらひも…」 「あなたは、自業、自得よ…」 数分後、犬のように舌を出した二人と、結局妹も追いかけるハメになった佳奈多が肩で息をしながらへたり込んでいた。 この惨状に、静観していた一人の男が満を持して立ち上がった。 「ふっ…お前ら、なっちゃいないぜ。ああ全然なっちゃいない」 「恭介?」 腰に手を当てて仁王立ち、顔にかかる前髪をさらりと払ったその人は、恭介・THE・鍋奉行。 「俺が本当の鍋ってヤツをお前らの舌に叩き込んで――」 「直枝夫、そろそろ肉を追加したほうがいいわ」 「えびっすよえびー、あとタラも追加でっ」 「あ、ちょっと待って、煮えてるのを避難させちゃうから。はい、鈴」 「う…春菊か」 「好き嫌いしちゃだめだよ〜?大きくなれません」 「ち、ちっちゃいと言いましたか!?ミニマムと言いましたかっ!!」 「ふえぇ?」 「…能美さん、小さいことは正義です。ええ、正義ですとも異論は認めません」 「うむ、その通りだな。小さいからこそ愛で甲斐があるというものだよ」 「姉御が言うとシャレになってないですヨ…」 「――いいんだ、いいんだ俺なんて…」 どんよりと雲を背負い、部屋の隅で膝を抱えた棗恭介(独身・失業中)。しかしそんな彼にも救いは差し伸べられる。 「はい、恭介さん。とろっとろの白菜、どうぞ〜♪」 「小毬…?」 「せっかくのお鍋、みんなで楽し〜く食べた方が、おいしいのです」 「…そう、だな」 「うん、それがお鍋のじゃすてぃす♪だから恭介さんも、すま〜いる。ね?」 「小毬…」 両手で、小毬の手ごと器を包み込む。冷え切った恭介の心に、器の温かさが染みる。小毬の手の温かさが、優しい。 「馬鹿だな俺は。こんなに傍にいてくれたのに、今ごろ気付くなんて…。なあ小毬」 「なんですか〜?」 「俺は…俺はその、つまり…」 いつも根拠のない自信に満ち溢れた瞳も今は宙を泳ぎ、言葉もしどろもどろ、いつのまにか周りのみんなが注目していることにも気付かない。 「好――」 「うおぉーーーっ!あったけぇーーーっ!!」 「暖かいマーーーーーーーーーーーン!!」 「ひゃあぁあっ!?」 居間を支配していた甘酸っぱい緊張感は、馬鹿二人の帰還によって粉々に砕かれた。 脱力する皆にひとり気付いていない小毬が、魂の抜けかかった恭介に止めを刺す。 「あー、びっくりしたぁ。…えっと、何だったっけ?」 「あー…いや、なんでもない。美味いな、これ」 恭介は虚ろに笑いながら軸がとろとろに煮えた白菜を、熱さも気にせずぱくぱくと口に放り込んでいった。 「ヘタレね」 「…ヘタレです」 「うむ、ヘタレだな」 「ヘタレなのです」 「やーいヘタレー」 「え、ヘタレなのかよっ?」 「確かにヘタレだな」 「ああ、もうくちゃくちゃヘタレだ」 「ぐっ…」 傷心に次々とヘタレ認定を受け、何も言い返せない恭介を見て、理樹が頷き、呟いた。 「…そっか。恭介ってヘタレだったんだ」 「お前にだきゃ言われたくねぇっ!」 〜〜〜〜 ことこと、ことこと。 窓を覆う湯気が、大粒の玉になってガラスをつたい落ちていく。 「いやぁ、身体動かしたら腹へったぜ!」 「まともに食っていないんだから当たり前だろうが」 「てめぇが突っかかってこなきゃ食えてたんだ」 「何だ、まだ負け足りないようだな?」 「んだとぉ?デタラメ言ってんじゃねぇよっ!」 一触即発の二人を止める役目は相変わらず理樹に任される。 「やめなって二人とも。そうだ、さっきお肉追加したところだから、そろそろ煮えてるんじゃないかな?」 「マジでっ!?」 「あ、おい待て抜け駆けするな!」 先を争って土鍋のふたに手をかけ、結局二人でそっと持ち上げた。 たちまち湯気がわきあがり、土鍋の中を一瞬隠す。そして霧が晴れたとき…男たちは悲鳴を上げた。 「なんじゃこりゃあーーーーっ!!」 「にょろにょろがっ!にょろにょろがいっぱいだっ!!」 男二人を恐怖させたもの。それは鍋いっぱいに敷き詰められた、えのきだけ。 「いつのまにこんな…」 理樹は戦慄する。ふたを閉めたときはこんなに白くはなかったはずだ。生肉の紅色や野菜の緑でフレッシュな色合いだったはず。それが今は白い。暴力的なまでの、白。 「…ああ、煮えましたね」 白さに圧倒されてか誰も手をつけず、湯気をあげるばかりの鍋に箸をつけたのは美魚だ。 独特の白さの細長いきのこを無造作にすくいあげると、ふぅふぅと冷ましておもむろに口に運んだ。 えのきを噛み切るぷりっしゃきっという心地よい音が静まり返った居間にやけに大きく響く。 皆が注目する中、かすかにうっとりと「おいしい」と呟くと、鍋を覆い隠すえのきたちを手元の器に山盛りにしていく。 「…この線の細さ、なまめかしい白さ、これぞ耽美だとは思いませんか?たくましいのに美しいブナピーも捨てがたくはありますが。やはり基本はえのきだと思うのです」 「何の話さっ!?」 美魚の熱の入った解説に皆が押し黙るなか、理樹のツッコミとしての使命感がそれだけを言わせた。「きのこの話ですが何か問題でも?」と目で聞いてくる美魚に疲れた顔になった一同を、雑なノックの音と声が救った。 「こんばんはーっ!開けてーっ!入れてーっ!」 「ちょっと、近所迷惑ですわよっ?」 「……から、……けど」 ばんばんばん!木の枠にすりガラスをはめただけの戸を遠慮なく叩く訪問者に、理樹が慌てて玄関に向かって怒鳴る。 「あ、いらっしゃい!開いてるよーっ!」 「へ?開いてたんだ」と間の抜けた声。がたがたんっ!建て付けの悪い引き戸をこじ開けて、あやたちがお土産を引っ提げて登場した。 「遅れてきたヒロイン登場っ!」 大きなエコバッグを手にしてポーズを決めたあやは、皆に沈黙をもって迎えられてしまったが。 「はいはい、部屋の前で固まっていないでどいてくださる?荷物が重いんですから」 「こんばんはっ、お、遅くなってすみません…」 ポーズを決め、会心の笑顔のまま固まったあやを無造作に押しのけた佐々美と睦美は、缶でいっぱいになったエコバッグと一升瓶を手にしていた。 「おそかったなはらみ。道に迷ったのか?」 「だ、誰にきいていますの?あのような田舎道で私が迷うはずがないじゃありませんか」 「私は同じお店の同じ看板を六回は見ましたけどねー…」 「そ、それは大変だったね…」 理樹は、斜めに傾いて口の端だけで笑う睦美に乾いた笑いで返すのが精一杯で、佐々美が、美味しそうな呼びまちがいを受け入れてしまっていることに突っ込む余裕はなかった。 いっぽう、硬直時間が終了したあやには、自己嫌悪に陥る暇も与えずにクドがじゃれついていた。 「ししょー、Goodいぶにーんなのですっ!」 「Hi.こんばんはクーニャ。ちょっと発音も上手くなったみたい。頑張ってるのね」 「わふー、Thank you!」 睦美の持ってきた袋からチューハイを物色していた葉留佳は、今あやがいる国のことなど英語を交えて話し始めた二人から、巨体が背を丸めてこっそりと離れていくのを発見した。 「はれ、どしたの真人くん?」 「ひいっ!?…い、いや。何でもねぇぜ。ちょっとハラごなしにスクワットでも…」 「Hey. What happened, Mr.Muscle?(おい、どうしたそこの筋肉ダルマ)」 「ぬおぅあがぁっ!」 「英語を聞いたくらいでいちいちのた打ち回るんじゃない。進歩のないやつだ…」 たちまち頭をかきむしってのた打ち回る真人を、元凶である謙吾は文字通り首根っこを掴んであやたちのそばへと引きずっていく。 「スパルタですネ…」 「…熱い友情、ですね」 〜〜〜〜 ぐつぐつ、ごとごと。 つたい落ちた水滴で窓の桟がじっとりと濡れ、色を変えていた。 「あら、この鶏のお団子、美味しいですわ…」 「ふっふっふ、食ったなかなしみ。お前はもうしんでいる」 「はっ、謀りましたわね直枝鈴っ!お団子に毒を!?」 「入れてない入れてない」 本気でやっているのか、それとも二人だけで通じる遊びなのか分からないやり取りにおざなりな突っ込みを入れながら缶ビールをひとくち。 あや達が持ってきたアルコール類が全員に行きわたり、鍋はさらに混沌の度合いを深めていた。 「佳奈多くんは柑橘系が駄目だったな。ではこれを薬味代わりにするといい」 梅酒ソーダをちびちびやっていた佳奈多に差し出したのは目に染みる唐辛子レッド、その名もキムチ。 「わふっ、韓国風ですねー。それはおいしそうなのですっ」 「ありがとう来ヶ谷さん。でも、それにもずくを合わせるのはどうなのかしら…」 燃えあがるキムチの下にはぬばたまの、そんな風情でもずくが埋まっていた。唯湖も自分で試したわけではないようで、佳奈多が難色を示すとすぐに真人の器に投入してしまった。 「ねーねーおねえちゃん。えびえびー。ほら、きれいに剥けたよっ」 「はいはい。…もう、手がべたべたじゃない。ほら、これで拭きなさい」 佳奈多に妹が差し出した器には、紅白のきれいなしま模様が三匹。しっぽの先までていねいに剥かれていた。 しかし佳奈多はその仕事の出来には触れず、ポケットからハンカチを取り出して葉留佳に渡した。 「ありがとうおねーちゃん。じゃあ…はい、あーん」 「え?」 「私が佳奈多に食べさせてあげる」 「え、あ、いや…」 「はっはっは、麗しい姉妹愛だな」 「はい、仲良きことはうつくしいのですー」 にこにこと無邪気に海老をつまんで差し出され、咄嗟に左右を見ると、唯湖とクドがなま温かい笑みで頷いていた。背後では真人の「んおっ、かっ、すぱっ!…ヌル?」という妙な悲鳴が上がっている。 進退きわまり、観念した佳奈多はおずおずと口を開いていった。 「あ、あー…」 「いいな、あれ…」と呟いたのは鈴。隣では触発されたのか天然なのか、小毬が佐々美に同じことを仕掛けている。「あづっ!やめっ!」と悲鳴が上がっているのは仲のいい証拠だ。 そして、鈴の器にはタラと春菊がある。真っ白で、口に入れるとほろほろと身が崩れるタラ。緑鮮やか、爽やかな香りが鼻を抜けていく春菊。「理樹っ」呼びかけて一呼吸、意を決して具を差し出す。 「あーん、だ」 差し出された緑を、しょうがないなあと笑って食べた。 〜〜〜〜 睦美はせっせとあくを取っていた。 〜〜〜〜 「あーあ、うらやましいなぁ」 「…ええ、正直独り者には刺激が強すぎますね」 ひとり言のつもりだったのか、美魚に声を掛けられてあやはばつが悪そうに振り向いた。 手酌で一升瓶を半ば空にしていた美魚は、毒のある言葉とは裏腹にうっすらと微笑んでいた。 「あー、いや。そういうわけじゃ…ないことはないか」 「ええ、ありありのように聞こえましたが。ご同類」 「うっ、そう言われるとなんか…」 まるで顔色が変わっていない美魚は酔っているのかしらふなのかまるで判断が出来ない。対応に困って額に手を当てると、すっと白で山盛りになった器を差し出された。 「まあお一つどうぞ」 「え、あ、ありがとう…」 酒でなかったことに安心して、ひとくち頬張ってみる。もぐもぐ、もぐもぐ、もぐもぐ、もぐもぐ…もぐ? 「味はよく染みてるけど…なかなか、噛み切れない」 「美味しいですか?…タコ糸は」 「タコ糸かいっ!!」 〜〜〜〜 杉並睦美はせっせとあくを取っていた。そして、機をうかがっていた。 今、睦美の周りでは筋肉馬鹿とマーーーン馬鹿の二人が肉王位争奪戦の第三ラウンドを開始している。汗や汁や肉片が飛び散っているが、唯一止めに入りそうな理樹が、既に突っ込み疲れてしまった今、他の皆は酒が回っていてまともに止めようとする気配がない。 だから睦美は待っていた。彼女が痺れを切らすのを。そしてその時は訪れた。 「へっ、おしまいだぜ…おめぇはオレを怒らせた…。目覚めちまったぜ、オレの中のケモノがよぉっ!!」 「ふ…片腹痛い。そんなもの片手で叩き潰してくれるわっ!!」 「こらーっ!お前らいいかげんにしろっ!!」 鈴が実力をもって不毛な争いを止めに立ち上がったのだ。 今だ、好機をとらえた睦美の行動は素早かった。 あくをすくう柄杓とお椀を置くと、箸と器に持ち替える。 そして白菜の下に隠し、じっと育ててきた鶏団子を素早くつまむ。 汁が下に垂れないよう器でフォローしながら、からからに乾きそうな喉を震わせた。 「直枝君、あ、あーん…」 緊張のせいで声がかすれてしまった。理樹は振り向いたけれど、そこから先に進まない。 唾を飲み込み、もう一度はっきりと言うのだ。 「直枝君、あーー「肉ぅぅっ!!」あぁあああぁ〜んっ!!」 睦美の希望を乗せた鶏団子は…戦いの中、野生に目覚めた筋肉の腹の中へとはかなく消えてしまった…。 「よーしお前ら。そこに正座だ」 「杉並さん、だ、大丈夫?」 鈴だけでなく、見かねた女子全員に鎮圧され、馬鹿二人はこんこんと説教された。 その間、呆然とする睦美は理樹に肩を抱かれ、「夢が…私の夢…」とうわごとを呟いていた。 説教が終盤に入り、ようやく少し立ち直った睦美に、理樹は頭を下げた。 「本当にごめんね。たださ、あの二人は馬鹿だけど、真性の馬鹿なだけなんだ。できれば許してあげて欲しいな」 「ううん、いいの。夢は叶わなかったけど…想い出はできたから」 「そ、そう?なんか嬉しいな、はは…」 頬を赤らめて指先で胸をつつく睦美に、理樹も照れながら笑う。次の瞬間、理樹は背筋にぞくり、と寒気を感じた。 「ほほーう。妻の前でいい度胸だ理樹、後で裏庭に来い」 恐ろしさに振り向くことも出来ない理樹は「裏庭ってどこ!?」とつっこむ代わりに「はい…」と頷くしかなかった。 〜〜〜〜 「さて、具もあらかた食べちゃったし。そろそろ締めにしようか!」 理樹はぼこぼこに腫れあがった顔で晴れやかにに宣言した。蹴られすぎて大事なところが壊れてしまったんじゃないかと心配になるくらいの陽気さだったが、誰も何も触れなかった。 「よし、じゃあ準…」 「ちょっと待ったぁっ!!」 準備を、と立ち上がろうとした鈴を聞き覚えのある声が遮った。 「鍋の締めをしようってんなら、この俺を忘れちゃぁ困るぜ、うまうー」 「どうしたの恭介?」 恭介と全く同じ服を着て同じ声をした仮面の男は、ちちち、と人差し指を振って理樹の言葉を否定した。 「俺は恭介などと言うナイスガイは知らねぇ。俺はさすらいのおじや番長、マスク・ザ・斉藤だっ!! 今日はお前達に最高にうまうーな、真のおじやを味わわせてやるために地獄から蘇ったぜ、うまぁうー」 「えと…」 「さあ、卵はどこだ?俺の華麗なとき卵さばきで今夜の鍋をびしっと締めてやるぜっ!!」 服の裾が引っ張られる。振り向くと、鈴が哀しげな目で理樹の裾を摘んで、仮面の男を見つめていた。 おそらく仮面の下で今日一番の活き活きとした表情を浮かべているだろう斉藤に、理樹は言いにくそうに伝えた。 「…今日の締めはうどんだよ」 〜〜〜〜 ふつふつ、くらくら。 あつあつのうどんを皆額に汗してすすっている。仏壇も汗をかいている。 細く切ったあぶらげと、刻みねぎをたくさん入れたきつねっぽいうどん。つゆをたっぷり吸ったあげを、馬鹿二人が懲りずに奪い合う。 「待て真人。それは俺のお揚げさんだ」 「へ?オレのためにとっといてくれたんだろ?」 「そんなわけあるかぁっ!」 「やめんかお前らーっ!」 「ちょ、危ないって鈴っ!」 「棗さんかっこいい…」 「待て、君はいつの間に乗り換えたんだ?」 「そこ、そこですわっ!」 「やはは、やれやれーっ」 「こら、お行儀が悪いわよ?」 「食べ物を粗末にしてはいけないのですっ」 「はい、あ〜ん♪」 「あ〜ん♪…うん、美味いな!」 「ま、マイペースねぇ」 「…気にしたら負けです」 鈴が怒り、理樹がなだめ、皆が笑う。 ひとつの火で、主をなくして枯れた家は、湯気と笑い声をたっぷり吸って、ひと時息吹を取り戻す。 『ごちそうさまでした』 [No.9] 2009/03/06(Fri) 21:09:46 |
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