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   第34回リトバス草SS大会 - 主催 - 2009/05/28(Thu) 21:27:13 [No.128]
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ふと空をのぞんでみれば - じみつ(誤字) 13946 byte - 2009/05/28(Thu) 22:26:03 [No.131]
婚礼には焼肉が必要だ。 - ひみつ 9131 byte - 2009/05/28(Thu) 22:16:03 [No.130]



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第34回リトバス草SS大会 (親記事) - 主催

 詳細はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/rule.html
 この記事に返信する形で作品を投稿してください。

 お題は「空」です。

 締め切りは5月29日金曜24時。
 締め切り後の作品はMVP対象外となりますのでご注意を。

 感想会は5月30日土曜22時開始予定。
 会場はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/chat.html
 はじめにMVP投票(最大3作まで投票可能)を行いますので、是非是非みなさまご参加くださいませ。
 ご新規、読みオンリー、感想オンリー、投票オンリー、大歓迎でございます


[No.128] 2009/05/28(Thu) 21:27:13
婚礼には焼肉が必要だ。 (No.128への返信 / 1階層) - ひみつ 9131 byte


 がちゃり。ばたむ。がちゃり。ばたむ。
 ――よく、小説や映画なんかでは現実から目を逸らすな、とか、現実と戦え、なんてことを恥ずかしげもなく押し当ててくる。当たってるよ?当ててんのよ。
 だけど、真っ直ぐ見据えて立ち向かってみても誰も幸せになれないことは多々あるわけで。
 今なら、この何度開け閉めしたところで変わりばえのしない、出来そこないのどこでもドアがそうだ。
 何度閉じて念じなおしても呪文を唱えても、ドアの向こうに変化は訪れない。
 ……長々と思考に寄り道させるのにも限界がある。改めて立ち向かうまでもなく現実ってものはこっちに干渉してきてしまうのだから。
 電気代がもったいない。現実からの牽制攻撃は、私の動きを封じ込めるのに十分な威力を持っていた。
 まあ、なんだ。つまり、冷蔵庫が空なんだ。


   〜 婚礼には焼肉が必要だ。 〜


 バター、ドレッシング、マヨネーズ。チューブのマスタードと炭の力の消臭剤。冷蔵庫は現在彼らの貸しきり状態だ。冷凍庫は見るまでもない。
 自業自得、自己責任。時折見かける逃げ口上だ。自分で言うならともかく、他人に言われると途端に不快指数マックスを記録する。当を得ていることもないではないのが始末に悪い。
 キャミソール(黒だ)一枚でキンキンに冷えたフローリングに寝そべって思い返せば、一昨日食べたプリ○ュアソーセージが最後の晩餐だった。
 そのとき私は思ったはずだった。明日は出かけよう、と。艶かしい肌色の棒状物体を頬張りながら誓った、はずだった。
 まあ、鏡を見ながらよりエロい食べ方を模索していて速攻で忘れたわけだが。
 だが昨日も食料はなかったはずだが一体どうしたのだったか。……ああそうだ部屋を片付けようと思い立ったんだったな。
 うん、だんだん思い出してきた。別に汚いというわけではないが、少々散らかっているのが気になったので、当面使わないものだけしまおうと思ったんだ。
 読んでしまった本や資料の束を片付けているうちに疲れて眠ってしまったんだ。やはり途中でコレクションの整理まで始めてしまったのがいけなかったか。だがぱんつはいい。
 硬いフローリングを間近で見るとうっすらと埃が積もっていた。私の髪はさぞかし絡め取っていることだろう。モップ犬を思い出した。クドリャフカ君はどうしているだろうか。アメリカンにHAHAHAHAHA!と笑うようにだけはなって欲しくない。
 一度想像してしまうと心配で仕方なくなってしまった。電話してみよう。確かソファーの上だったか。フローリングの上を転がって携帯を取りに行く。身体の凹凸が大きいせいで揺れが酷い。魅惑のボディもここでは無用の長物ということか。たしかにつるぺたはいいな。
 クドリャフカ君の平面に思いを馳せながらボタンを押す。ええい早く出ろ。
『はろー、クドリャフカですっ!』
「遅い。罰として胸を撫でさせろ」
『ご無体なっ!?確かに揉むほどないですがそういう問題でもなく!』
「はっはっは、どうやら心配は無用だったな」
 用は済んだのでクドリャフカ君の近況などを聞いて電話を切った。身長がとうとう148センチ台に突入したと喜んでいたので、いつまでも愛らしい君でいて欲しいとお願いした。泣かれた。
 運動をしたせいで腹が減った。マヨネーズは遭難した際に非常食として有効らしいが、最後の晩餐であるのならせめて人間らしい食事で締めくくりたい。
 食料がなければ持って来させればいいじゃない。私の中の佳奈多君が囁く。いや、これは佳奈多君の顔をしているがいるが全くの別人、マリーカナトワネットの仕業だ。常に背中に薔薇を背負って現れ、氷の微笑で地球温暖化を阻止する超人だ。
 超人には逆らえないので理樹君を呼び出すことにした。
「やあ理樹君、これからお茶会でもどうかね?」
『わかりました、適当にバランスよく買っていきます』
「うむ、任せた。時計の秒針と睨めっこでもしながら待つとしよう」
『せめて一時間くらいは待ってください』
 何という以心伝心。素晴らしいことだ。だが待ち合わせは理樹君が嗚咽交じりに頼むので1時間後ということにした。うむ、我ながら慈悲深い。

 しかしいざ食事にありつけるとなると、我が肉体の方が先走ってシンフォニり始めてしまった。指揮者不在の無秩序楽団。やかましさここに極まれり。
 よし、音には音で対抗しよう。適当にレコードを抜き取り、タイトルを見ずにテーブルに載せる。適当に置いた針が奏でるのはシューベルトの三重唱。聞き覚えはあるが、おそらくじっくりと聴くのは初めてだ。未知との遭遇。この空腹にも価値があるというものだ。
 聴いていると少しずつ話が分かってきた。どうやら結婚式を翌日に控えたとあるカップルの話らしい。きっと式直前の緊張と期待と喜びの交じり合った恋人同士のキャッキャウフフが描かれているのだろう。理樹君を待つのにちょうどいい。
 いやまあ何だ。結婚だのなんだのというのはまだ私にはちょっと早いとは思うというか憧れとかそういうものはないのだが、いや、全くないかというと問われると返答に窮しかねないので出来れば聞かないで欲しいと言うところか。いかん、何だか落ち着かない。
 というかちょっと待て。結婚式の前日に狩りとは随分とアグレッシブなカップルだな。確かに料理は大事だがそれはお前達がやることなのか?もっと他にヤることとかあるだろう。ああいや別に自分に重ね合わせたりなんかしないぞそもそも予定だってないんだからな!しまった、何だか自分で言ってショックだぞ?くそっ、何なんだこの曲は!
 半ば八つ当たり気味にジャケットを確認すると、タイトルは『婚礼の焼肉』。止めた。取り出した。割……るのはやめてジャケットにしまう。もったいないからな。
 しかし余計に腹が減った。どうしてくれる。頭の中でさっきの曲が再生される。なまじ一部だけ聞いてしまったからぐるぐると回り始めた。なんだ、これは洗脳か?

 仕方ない、可愛らしいものを想像することに没頭しよう。
 この場合はやはり鈴君あたりが妥当だろうか。普段のあの素っ気ない態度が何とも堪らない。私を頑なに避けるほど狩猟本能をそそられてしまうよ。ああ、そうしてまた猫に逃げるんだな。私とのひと時よりも猫との戯れを選ぶと。ふむ、ならばそれもいいだろう。好きなだけ戯れたまえ。だがしかし、私も好きにさせてもらうぞっ!見よ、このねこみみを!!猫耳でもネコミミでもネコ耳でもなく!匠の技の粋を集めたこのねこみみを!今ならこのねこぱんちとねこしっぽをセットにしたお得プライスなのだ!!
 じゅるり。おっと、どうやら勢いのまま可愛らしいから美味しそうに雪崩れ込んでしまったようだ。これ以上鈴君の妄想を続けるのは危険なようだ。別の対象を探すとしよう。
 だが、どうするか。小毬君はいつもお菓子とセットだし、クドリャフカ君はそのまま食べてしまいそうだからな。ちゅるり。
 ああ、美魚君を忘れていたわけではないぞ。ただ君はこういう場所に呼ばれるのは好まないだろう?私としても嫌がる娘を無理矢理と言うのは……いやかなり好きだが。いやまあつまりある種同志と認めているからだと理解して欲しい。うん。
 なに、あと二人忘れていまいかだと?ばか者、あえて意識を逸らしていたのが分からないのか!ああ、もうだめだ。あの二人の名前を思い出しただけであの単語が心を支配する……っ!

 『姉妹丼』

 くそぅっ!何て、なんて甘美な響きなんだ姉妹丼!!真面目で愛想のない姉と頭のネジは緩いがほのかな毒が隠し味の妹をいっぺんに味わうなんて……贅沢すぎるっ!
「というわけで姉妹丼を所望だ。裸エプロンで頼む」
「ちょっと待ってどこから突っ込んだらいいのかな!?」
「焦らした上にそれを私に言わせるのか。ドS極まりないな理樹君は。君の激情のほとばしるまま、私の好きなところに突っ込みまくればいいじゃないか。私は君に熱い突っ込みをイれてもらうのを待ってるんだぞ?」
「ああもうそれなら好きにするよ!チャイム鳴らしても出ないから勝手に入ってみればなんかよだれ垂らしながら妄想してるしかと思えば声も掛けてないのにいきなり姉妹丼とかそれって僕に気付いた上でまだ妄想して経ってことだよね?しかも妄想の中身はまあ大体想像つくけどそれ料理じゃないからオーダーされても僕作れないし!ていうか僕の言葉にドSとかプレイとか調教とか何でもエロく返すのはやめようよ!僕だってそんな挑発的に言われたりするとたまにスイッチ入っちゃいそう、って何言わせるのさっ!?」
 これをほとんど息継ぎなしで噛みもせずに言い切ってしまうのだから大したものだ。私は彼に惜しみない拍手を送った。
「素晴らしい突っ込みだったよ理樹君。おねーさんは感動のあまりじゅんと来てしまったよ」
「じゅんって……」
 私のエロティックな賛辞に理樹君はたちまち顔を赤らめる。なんとも可愛い瞬間だが、あえて厳しいことも言っておかねばなるまい。
「しかし一つだけいただけないことがある。始めに私が言った『裸エプロン』に対しての突っ込みが欠けていたぞ?理樹君らしくないケアレスミスじゃないか」
 だが、私の指摘に彼は「なんだ、そんなことか」と微笑を浮かべた。
「唯湖さんが見たいなら僕は構わないよ?裸エプロン」
「な、っ」
 ちょ。え?いやいやいやいやそれはまずいだろう理樹君!いや、あの、いざやってもいいとか言われると、その、心の準備が!
 ま、待った。いや待ってください!せめて深呼吸する時間を私に下さい!その、嬉しいとか恥ずかしいとか申し訳ないとか何て言ったらいいのか言葉が!?
「あ……う……そのっ」
「可愛いなあ。唯湖さんは」
 ばっ、
「……ばか。やっぱり君は鬼畜だ」
「唯湖さんの可愛いところが見られるなら、いくらでも鬼畜になれる気がする」
「調子に乗るなっ」
「痛たたたっ!あは、ごめんってば」
 理樹君はずるい。私がどんなに優位に立っていても簡単に主導権を奪われてしまう。そしてそれが少しでなく嬉しいのが悔しい。悔しいので尻の辺りをつねっておいた。
「で、どうしようか。姉妹丼は無理だけど、何か食べたいものはある?」
 だが、理樹君はすぐにまた穏やかな笑顔で私の心をざわつかせる。ええい、この爽やかさんめ。
 私だけみっともない姿を見られるのは不公平極まりない。出会い頭に見せた慌てぶりでイーブンなんて納得しない。余裕の私と慌てる彼、それが二人の平等だ。
 自由と平和と愉しみを取り戻すために反撃の手段を考えていると、ふと出しっぱなしのレコードが目に留まった。ふむ……いや、そうだな。
 唇を少し湿らせ、それを拾いながら私は言葉を紡ぎ出す。
「焼肉……そうだな、焼肉が食べたい」
「えー?いや焼肉って何でまた」
 案の定、唐突な私の申し出に戸惑った顔を見せる理樹君。
 私はやられっぱなしで終わったりなどしないのだよ。さあ、私に素敵な表情を見せてくれないか。
「なんでも、婚礼には焼肉が必要だそうだからな」
 はぁっ!?とかええっ!?とかどひゃーとか言いながら私の前で熟れたりんごのように顔中を真っ赤に染め上げるといい。
 これからも、ずっと。


[No.130] 2009/05/28(Thu) 22:16:03
ふと空をのぞんでみれば (No.128への返信 / 1階層) - じみつ(誤字) 13946 byte

 珍しく美魚一人の食事だった。だけど独りではない。少し前と同じような、中庭で小鳥と戯れながらの食事。パンの耳をみんなに差し出して、ささやかな時間を地面で共有する得難い時間。みんなと喧嘩した訳でも、みんなが嫌になった訳でもない。たまには昔のような時間に浸るのもいいなと、ふと思っただけだ。
 やがて食べる物がなくなったと分かった小鳥はめいめいが思う通りに空へと飛びたっていく。どこまでも遠く、彼らが思う場所へ。
 本から目を離して彼らを見送った時、ふと頭によぎる。彼らを見送る時、本から目を離して空を見上げる美魚だけど、突発的にわいた疑問に再び本に視線を戻す気にもなれない。
 僅かな雲に彩られた青空。人はそれにどんな感慨を抱くのだろうか。





 ふと空をのぞんでみれば





「という訳で、これからリトルバスターズ定例会議を行います」
 委員会用の会議室を借り切っての美魚の言葉。もちろん司会進行は彼女自身だ。ちなみに書記は小毬で、ホワイトボードに丸っこい字を書いている。
「定例会議も何も、今回が初めてな気がするのだが」
「ええ、今回が初回ですから。でも安心して下さい。毎週この時間に会議室は押さえておきました」
 自分が出した質問だったが、戻ってきた返答に来ヶ谷も呆れてしまう。そんなやりとりを見つつ、理樹はこっそりと隣の恭介に話しかける。
「どうやったの?」
「何がだ?」
「この会議室を押さえたの。委員会とか部活とかで取るの大変なはずだけど、ここ」
 最初はキョトンとしていた恭介だったが、理樹の言葉を聞いて言いたい事は理解したとばかりに返事をする。
「今回の事、俺はノータッチだ」
「へ?」
「と言うか、一回ならともかく定期的に会議室を取れる自信なんて俺にもないな」
 よく見たら恭介は微かに冷や汗をかいている。どうやらマジ話らしい。
「ソフトボールだって会議室をとるのは難しいのに、いったいどうやって」
「本当に取れてるわ……」
 少し離れた場所で佐々美は呆然としてるし、佳奈多は何かのプリントを見て頭を抱えている。あれは大方、会議室のシフト表とかそういう類のプリントだろう。
「美魚さんってさ、たまに異常な行動力を見せるよね。例えば同人誌を作るときとか」
「すまん理樹。その事は忘れさせてくれ」
「ごめん恭介。墓穴を掘った」
「出来れば掘ったという言葉も使わないでくれ」
 妙なトラウマを発動していく二人はさておき、全員を見回した後で厳かに口を開く。
「と言っても、次回以降の議題も決まっていませんが」
「ダメじゃんそれ!」
「大丈夫です。毎回みんなが集まって話し合う、順番に議題を決める。それが次からのミッションです」
 しれっと言う美魚。
「そうだな! それも等しくミッションさっ」
 そしてミッションという言葉に異常な食いつきを見せる恭介。恭介がそういうならば否と言えるはずがない。とりあえず話が進んでいく。
「では早速今回のお題ですが」
 いったん区切りを入れる美魚。
「空です」
「異議ありっ!」
 瞬間大声をあげる来ヶ谷。そんな彼女に目を細める美魚。
「なぜでしょうか、来ヶ谷さん」
「西園女史ならば同性愛について熱く語ってくれると思っていたのに! そしてその話を聞いて真っ赤になるクドリャフカ君や書き出して真っ赤になる小毬君を楽しみにしていたのに!!」
 興奮のるつぼといった風情で大声をあげる来ヶ谷。
「……あーちゃん先輩の苦笑いが見えるようだわ」
 佳奈多の言う通り、隣は寮長室だという事は忘れてはならない。ここにいるのは隣が校長室でも大騒ぎをするようなメンバーだけど。
「ならば次回、来ヶ谷さんが同性愛としての議題でお話になっては?」
「違う。私は可愛いものが好きなだけで同性愛者ではない」
「来ヶ谷さんが可愛いものを愛でるにはどうしたらいいのかという議題にすればなんの問題もありません」
「うむ、なんの問題もない。話を進めてくれて結構だ」
「ええっ!? そんな私的な議題でいいのっ?」
 理樹のつっこみ。
「では改めまして空についての話です。漠然とした問いになりますが、みなさんは空についてどう思いますか?」
 しかしそれはスルーされた。つっこみがスルーされるという得難い経験をした理樹は軽く落ち込んでいたりする。
「へーいみおちん、それって漠然とし過ぎじゃね? そんな事を言われたってぱっと言葉なんて出てこないって」
 葉留佳の言葉に冷ややかな視線を浴びせる美魚。一睨みで水も氷になりそうな冷たさだ。
「想像力のない馬鹿は置いておきまして」
「馬鹿扱いされたー!? ちょっとみおちんそれは納得出来ないですヨ。私を馬鹿馬鹿いうなら真人くんに話を聞いてからにして貰いましょーか」
「へ? オレ?」
 くってかかる葉留佳を他人事で見ていた真人はいきなり自分に話をふられて目を丸くする。
「そうそう。真人くん、空って聞くと何を思い浮かべる?」
「そうだな。どのくらいの筋肉があれば空を飛べるんだろうな」
 即答。葉留佳のチャシャ猫笑いが凍りつく。ついでに会議室もシンとなる。
「とある学者の意見によれば、2m程度の大胸筋があれば空を飛べるらしいが」
「2mの大胸筋、か。面白ぇな、燃えてきたぜ!」
 そう言うとガバリと席を立ち、その場で腕立て伏せを始める真人。
「ふんっ! ふんっ!」
「さて、葉留佳さん」
「う……」
 美魚の、とても綺麗な満面の笑み。
「あなたの称号は『井ノ原さんより馬鹿』です」
「みおちんすまんごめん許してそれだけはー!!」
 泣き崩れる葉留佳だが、残念ながら称号は変わらない。
「ふんっ! ふんっ!」
「何名の方々が葉留佳さんと同じ称号を得るのでしょうか?」
 美魚の言葉に緊張が走る。視線は自然とマジ泣きをしている葉留佳へと。いくらなんでも人間としての尊厳を傷つけられたくはない。
「ふんっ! ふんっ!」
「では、次のいけに……発言者は」
「今すごい不穏な事をいいかけたよねっ?」
「ふんっ! ふんっ!」
「…………」
「ふんっ! ふんっ! ふんっ!」
「やかましいです」
 ズビシと傘を真人の額へブチ込む。腕立て伏せをしていた真人はそのまま潰れるように地面に落ちた。
「一撃KOか、初めてみたな」
 感心したような恭介。だがこれが意味する事は、答えられなかったら尊厳を傷つけられ、うざかったなら物理的に黙らされるという事。
 恐怖の女王、西園美魚。ここに爆誕。
「では小毬さん。あなたは空と聞いて何を思い浮かべますか?」
「ふぇ? 私?」
「はい。小毬さん、あなたです」
 ホワイトボートに、
『はるちゃん・真人くんよりばか
 真人くん・筋肉でお空を飛びたい』
 と書いていた小毬は手を止めてうーんと唸る。
「私はねぇ、お星さまが大好きなんだ」
 お下げをまとめた、星形の飾りを揺らしながらにっこりと笑う小毬。
「だからね、お空はお星さまがいっぱいあってとってもキレイで輝いているところ。見ていて全然飽きないところ」
「小毬さんらしいですね。では能美さんは?」
「私ですか? そーですね。空の向こうには宇宙があるじゃないですか。ですから、乗りこえるところでしょーか。ア パッシッグ ポイントなのです」
 あっと言う間に空についての意見が埋まっていく。小毬がクドの意見を英語でスラスラと書いていき、クドがそんな綴りなのですかー。と会議室に響くのが可愛らしい。
「みおちーん! ここは一つ私にも名誉挽回の大チャンスを!」
「汚名返上の間違いでは? 葉留佳さんに名誉があった試しがないと思いますが」
「さっきからみおちん毒が多すぎるっスよ〜。ほらほら、一緒のベッドでにゃんにゃんした中じゃないですか」
「妄想を現実化するのはやめて下さい」
「現実だって! ベッドで一緒に理樹くんにねこっ娘のコスプレさせたじゃん!」
 ぶっと何人かが吹き出す音がした。特に理樹が何か金切り声をあげたりしているがもちろんスルー。
「次は是非とも私も混ぜるように」
「了解っス、姉御」
「本人の意志を無視した話を続けないで!」
「では葉留佳さん、改めて空についてどうぞ」
「空と言えばアレですよ、理樹くんの女装の時の下着の色が空色でしたネ」
「完璧ですね、葉留佳さん」
「でしょでしょ? 私の事見直したー?」
 葉留佳と美魚はグッとサムズアップしあう。
「お願いだからそういうカミングアウト大会はしないで」
「え〜と。はるちゃんは理樹くんの下着の色が空色。って、ほぅわぁー!?」
「小毬さんも律儀に書かなくていいからっ」
 自分ですごい事を書いている事にようやく気がついた小毬に理樹が全力でつっこみを入れる。
「まあ、葉留佳さんの称号は変わりませんが」
「みおちんのSっ子ー!!」
「どちらかというと、Mです」
「だからなにこのカミングアウト大会!?」
 てんやわんやの大騒ぎ。ちなみに美魚の欄には『Sっ子Mっ子』と書かれていた。小毬はやる時はやる子らしい。
「ほんと、葉留佳の脈絡のない話は脱線がしやすいわね」
「そんなお姉ちゃーん」
「さて、では続きまして空について。今発言した佳奈多さんにお願いします」
 美魚が次に指名したのは佳奈多。そし指名された佳奈多は作業のように、つまらなそうに口を開く。
「空についても何も、空は太陽光線が青の光線が拡散されて青く見えるからでしょう。地上、人が見上げるという行為をする部分から宇宙までの距離を空と呼ぶ。それ以上でも以下でもないでしょう」
「なんだ佳奈多君、面白味のない答えだな」
 来ヶ谷がちゃちゃを入れる。佳奈多はそれにムッとする訳でもなく、淡々と答えを返した。
「面白味がある必要性がありませんから。ただ私が思った通りの事を言っただけです」
「いかんな、それでは人生つまらないだろう」
「別にそうは思いません。しかしそれなら来ヶ谷さんは空と言われて何をイメージしますか?」
 佳奈多に問われてうむと頷く来ヶ谷。そして窓の外を眺める。つられてみんなも窓の外を見る。
「空と言っても青だけじゃない。白い雲も上にはある。だから、私は空を見上げてこう思うんだ。
 あの雲の形は、今日の佳奈多君のぱんつの形に似ているとか、あの青と白のコントラストは、葉留佳君のぱんつのストライプを連想するとか」
「なにその斬新なロールシャッハテスト!?」
 全力で理樹がつっこんだ。ちなみに件の姉妹は顔を真っ赤にしてスカートを押さえている。
「あ、姉御〜。どうしてそんな事を知っているんで?」
「はっはっは。おねーさんに知らない事はない」
「出来ればそれは知らないでいて欲しい事ですから」
「うむ。そういう事ほどよく知っているぞ、私は」
 色々と最低な事をサラリという来ヶ谷。そんな来ヶ谷を見ながら神妙な顔をして口を開くのは美魚。
「来ヶ谷さん」
「ん? なんだ、美魚君」
「ちなみに、恭介さんと理樹さんと宮沢さんの今日のパンツは?」
「わーーーー!! それで恭介と謙吾は空って聞いて何を思い浮かべる!?」
 自分の都合の悪い方向に話が逸れてきたと感じた理樹は全力で話を元に戻す。美魚も少し不満そうな顔をしたが、来ヶ谷から聞き出そうとはしない。
「では、また後で」
「ああ、また後で」
「いや、また後にしなくていいから。それで恭介と謙吾の答えは?」
 一生懸命な理樹に後押しされてちょっと引き気味な恭介と謙吾だが、この話の流れに乗らないと自分にもダメージがきかねない。結構真剣に答えを探す二人。
「そうだな……俺にとって空は気持ちのいい場所かな。
 剣道場で竹刀をずっと振っているとどこか頭の中が麻痺してくるんだ。そういう時に軽くロードワークをして空の青を見上げると心が晴れ晴れとしてくるからな」
「たしかにそうね。剣道場って閉塞感があるから」
 そう同意するのは佳奈多。剣道部員だった彼女にも、今の言葉に思う所があるのだろう。そして自然にみんなの視線は恭介に。満を持しての真打ち登場である。
「……何か物凄いプレッシャーを感じるんだが」
 冷や汗を流す恭介だが、全員からの視線とプレッシャーは全く減らない。っていうか、むしろ間を空ければ開ける程増えていく。
「では恭介さん、どうぞ」
「ふ、任せておけ」
 だがそこは流石恭介というべきか。コホンと一つ咳払いをしてから口を開く。
「俺にとっての空。それは――空さっ!」
 沈黙。ダメな意味での。
「見上げてみろよ、あの空を。そこに空がある、青空も夜空も夕焼けも。つまりは空、それ以上の言葉はいらないはずだぜ?」
 続く沈黙。とてもダメな意味で。
 そんな耐えがたいような沈黙が続く中で、口を開いたのは鈴。
「このバカ兄貴。思いつかなかったら思いつかなかったって素直に言えばーか」
「はい、すいません」
「鈴に素直になれって結構キツイよね」
 理樹の言葉にうんうんと頷くみんなと、落ち込む恭介と、どういう意味じゃぼけーと騒ぐ鈴。
「はっ!」
 と、いきなり目を見開く美魚。ちらりと視線の隅で美魚をとらえた理樹は首を傾げながら美魚の方を見る。
 美魚はその視線を無視して日傘を開き、さかさまに持つ。
「なに、それ?」
「パラボラアンテナです」
 訳の分からない事を言いながら日傘を北東の方向に向ける美魚。

 ――空? そうね、やっぱりスパイにとっては空は重要で、そして安心できない場所ね。目に見えないとは言え、監視衛星にずっと見張られているっていう意識を持たなきゃいけないから。
   そうよ、そうなのよ。そんな所で人様に見せられないような行為をしてたわよ。おかしいでしょ、自分初めてを敵対組織の映像記録に全部残されていたスパイは滑稽でしょ、笑いなさいよ、笑えばいいじゃないの。あーはっはっはっは。

 何かが聞こえた。
「さて、残りは理樹さんと鈴さん、佐々美さんですか」
 スルーした。
「では、理樹さんからどうぞ」
「僕? そうだね、僕にとっての空ははじまりかな」
 そう言って昔に思いを馳せる理樹。
「僕を引きこもっていた部屋から引っ張りだしてくれたのは、恭介だった。その時の空はやっぱり広くて、感動したんだ。あの時の空を見なきゃ今の僕はないしね。だから僕にとっての空ははじまりだね」
「理樹、いいこと言うじゃねーかこんちきしょう!」
 満面の笑みを浮かべる恭介。だが。
「始まりの恭介はあんなに格好良かったのに、今はどうしてこうなっちゃったんだろう?」
「……お前らは一度は俺をおとしめなきゃ気がすまないのか?」
「どちらかというと」
「誰だ今すごい事言ったのは!?」
 落ち込んだり怒ったりの恭介は全員の顔を見渡すが、全員が全員しれっとした顔をしている。
「そんな事を言われたくなければとっとと就職先を見つけろぼけー! いつまで心配かけるんだ!!」
 そこに妹の叱責が飛ぶ。兄としてはそこをつかれるとシュンとするしかない。
「では鈴さんにとっての空とは?」
「気持ちのいいものだな。あいつらと一緒に芝生で空を見上げながら昼寝とかすると、最高に気持がいいんだぞ。特にドルジの腹枕は天下一品だ。あれは病みつきになる」
 微笑を浮かべて嬉しそうに言葉にする鈴。その表情を見れば今言った言葉なんか霞むくらいにそれが鈴にとってのお気に入りなんだと分かる。
 そうしてみんなして微笑ましい気持ちになると、最後に佐々美がゆっくりと口を開く。
「最後はわたくしですわね。わたくしにとっての空は目標、目標ですね。バットを振りぬいてボールを彼方まで飛ばす時、自分のスイングや芯に当てる事も重要ですけれど、そこに目標があった方が感じがいいのですことよ。ですから空のどこかに目標を定めて、そこに向かって振りぬくのですわ」
 言いきる佐々美。どこか通じるものを持っている謙吾はうんうんと頷いているし、そうではないメンバーも佐々美のソフトにかける情熱にかける言葉がない。
 そしてしばらく余韻に浸った後、美魚が静かに口を開く。
「最後に素晴らしい話が聞けてよかったです。ではこれで第一回リトルバスターズ定例会議を――」
「あ、待って美魚さん」
 締めくくろうとした所で理樹から待ったがかかった。ちょこんと首を傾げながら美魚は理樹を見る。
「どうかしましたか、理樹さん?」
「まだ大切な人の意見を聞いていないよ」
「まだ聞いていない人がいましたっけ?」
「うん」
 間髪いれないでそう言う理樹に、会議室全体の顔ぶれを見渡して見るが話していない顔はない。未だ地面に倒れている真人でさえ話したのだ。
「誰でしょう?」
「美魚さんだよ。美魚さん、空について何も話してないじゃないか」
「わたし、ですか?」
「そう、美魚さん、美魚さんは空についてどう思ってるの?」
 理樹の問い。それに頭で考える前に、美魚の口から言葉が出てくる。
「自由でしょうか」
 その言葉が出てから頭に情景が思い浮かぶ。地面でパンをついばんだ小鳥たちが空を飛ぶ。高く高く、どこまでも高く自由に空を飛ぶ。鳥たちが空を飛ぶ姿を地上から見れば美しく、鳥たちが地上を眺める景色は美しい。そんな情景が思い浮かぶ。
「空は自由で、きっと美しいものなのだと思います」



 綺麗なオチにはピクピクと痙攣する真人が邪魔だった。


[No.131] 2009/05/28(Thu) 22:26:03
空の頭はいつまでも (No.128への返信 / 1階層) - ひみつ 14421 byte

「緊急事態だ」
 突然の恭介の招集、そして言葉に誰も驚かない。だって無駄だし。
「今度はどーした。またなんかくだらん事でもあったのか?」
 既にやる気がない鈴だが、それでも一応招集には応じている辺り律儀というかなんというか。
 そしてじっくりと間を取り、ためを作ってから一言。
「実はな、真人がバカじゃなくなったんだ」
「いい事じゃないですか」
 至極まともな美魚の言葉にカッと目を見開いて、ガシっと肩をつかむ恭介。
「いい事の訳あるか! 真人が、あの真人がバカじゃなくなったんだぞ! そんなのは真人じゃない、俺たちの愛する真人はバカでこそじゃないかっ!!」
「ふ、ふぇぇぇ〜!?!?!?」
 なぜか、小毬の肩を。突然の恭介の行動に、小毬の顔は赤く目は白黒と。
「そうだぞ小毬くん、真人少年はバカ。この真理が覆ったら余りにつまらないじゃないか!」
 そしてどさくさに紛れて後ろから抱きつき、小毬に頬擦りする来ヶ谷。ぷにぷにと柔らかい感触を楽しんでいる。
「はわわわわわ」
 そして小毬はと言うと。前には肩を掴んで顔を近づけてくる恭介、後ろからはおっぱいを押しつけて頬擦りしてくる来ヶ谷。顔どころか首まで真っ赤だ。
「や、やめてよ恭介さん、ゆいちゃん!」
「あ、ああ。すまん」
「おふぅ……」
 顔の赤い小毬の言葉で我に返った恭介は離れ、来ヶ谷は光悦の表情で崩れ落ちた。ダメージを受けつつもニヤけるその顔を見ると、何か新しい扉を開けてしまったらしい。
「来ヶ谷さんは受けだったのですね」
「いや、私はどっちもOKだ!」
 そしてすぐに復活して的確に受け答えをするダメ人間。
「って言うかさっきから気になっていたのですが、何で理樹くんがつっこまないのですかネ? なんで西園さんにつっこまないの!? って真っ先に突っ込みをいれそうなものですが」
「そう言えばさっきからリキの姿を見ないです」
「宮沢様と二木さん、それに騒ぎの張本人の井ノ原さんの姿もありませんわ」
 騒ぎに加われなかった葉留佳とクド、そして佐々美は蚊帳の外でほのぼのとそんな談笑をしている。ちなみに鈴は何かを諦めてレノンと戯れていたり。
「遅刻でしょーか?」
「真人くんや謙吾くんはともかく、理樹くんとお姉ちゃんが? 一番遅刻しなさそうな人たちですヨ?」
「ちょっと三枝さん! 宮沢様はともかくってどういう事ですの!?」
 葉留佳の言葉尻をとらえて目をつり上げる佐々美。
「まあ、落ち着けみんな。理樹と二木は真人の看病をしている」
「看病、ですか?」
 穏やかでない言葉にクドの表情が曇る。言った恭介も厳しい表情のままで全員を見回した。
「説明するより見た方が早い。理樹たちの部屋に来てくれ」



「こっ」
「これは」
 部屋に入った途端に絶句する一同。
「これはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「恭介、うるさい」
「はい、すいません」
 そして調子にのった恭介が理樹にたしなめられた。しかし他のメンバーはそれどころではない。机に向かってカリカリとペンを走らせている真人に目が釘付けだ。
「二木さん、出来ました。採点をよろしくお願いします」
 真人の声。真人の声なのだが、口調が全く違う。ここまでくると違和感しか生まれない。
「え、ええ」
 すっかり調子が狂ってしまった様子で真人から紙を受け取り、採点を始める佳奈多。その空いた時間を利用して、真人は入り口で固まっているリトルバスターズの面々を見てニッコリと微笑んだ。
「やあみなさん。揃ってどうなさったのですか?
 ああ、私が少し変わったからびっくりしているのですね。こんな私ですが、どうか今後とも仲良くして頂けると幸いです」
 おぞけが走る。
「い、井ノ原さんが敬語をっ!」
 一人、クォーターの少女だけが若干違う意味で戦慄していたけれど。
「ええ。この井ノ原さんなら理樹×井ノ原もありですね。ああ、礼儀正しい体育会系の少年を襲う直枝さん…………」
 また別の、本好きの少女も別の意味で我を忘れていたけれど。
「バ、バカがバカじゃなくなってる!」
 そういった特殊な例はさておいて、小さい頃に出会いその印象のまま育った鈴には特に衝撃が大きかったらしい。引きつった顔ままで後ずさり。
「顔色が悪いみたいですが、鈴さんはどうなさったんですか?」
「きしょいんじゃぼっけぇー!!」
 心配そうに隣の理樹の方を見た真人。その側頭部に後ずさった分だけ距離を稼いだ鈴の飛び膝蹴りが炸裂する。ぴんくだった。ピンクじゃなくてぴんくだった。
 足から崩れ落ちる真人。ふーふーふーと肩で息をしながら威嚇する鈴。それらを苦笑いで眺める理樹。
「で」
 そんな様を全く動じないで見ていた美魚が口を開く。
「どうして井ノ原さんはこんな気持ち悪くなったのですか?」
「やはは。みおちんも結構容赦のない事をいいますネ」
「それは俺から説明しよう」
 冷や汗を流す葉留佳と澄ました顔で言う恭介。横目でチラリと時計を確認する。
「そうだな、あれはだいたい2時間程前の事か」
 せつせつと語り始める恭介、その後ろから。
「はい、採点終わったわよ。4点」
「まだ私の勉強量は足りないのですね…………。やはりまだまだ勉強をしませんと」
「ごめんなさい、素直に気持ち悪いわ」
 佳奈多と真人が間の抜けた会話が聞こえてきていたりしたけれども、特に意味はない。勉強する真人なんて気色悪いものは全力で無視しているから。
「だからきしょいんじゃー!」
「ごばぁ!」
 鈴の蹴たぐり。残念ながら鈴は無視しきる事が出来なかったらしい。



 ◇



「忍術をやろう」
「ちなみに昨日読んだ漫画は?」
「スクレボさっ! 沙耶に迫る執行部の副部長・忍者東雲翔! くうぅ、燃えるぜ!!」
「だろうね…………」
 放課後、いきなり恭介に呼び出された理樹、謙吾、真人は揃って盛大なため息をついた。相変わらずの破天荒さにとにかくため息しか出ない。
「それで他のメンバーは?」
「まずは男だけだ。実験も兼ねてな」
 周りを見渡しながらの理樹に注釈を加えてから、こほんと軽い咳払いをする恭介。
「今回、覚えたいと思う忍術は空蝉の術だ。何度も沙耶を騙した翔の必殺技さっ!」
 ちなみに空蝉の術とは自分の外装だけを残し一瞬で隠れる術で、変わり身の術と隠れ身の術の複合応用技と言える。
「また難易度の高い技を…………」
「不可能な技とは言わないんだね、謙吾は」
 呆れる謙吾と更にそんな謙吾に呆れる理樹。
「そんなの当然じゃないか。この世に不可能な事などない!」
「すげぇ。この世に不可能な事はたくさんあるはずなのに言い切りやがった」
 そして便乗して調子に乗った恭介だが、今度は真人につっこまれる。
「ああ、この世に不可能な事はたくさんあったな。例えば真人が史上最高の筋肉を手に入れる事とか」
「この世に不可能な事はなーい!」
「だろう!? じゃあその筋肉を手に入れる手始めに空蝉の術をやろうぜ!」
「おっしゃあ! 任せろ恭介!!」
「おいおい恭介、いくらなんでも無茶じゃ……」
「真人が空蝉の術を覚えたら謙吾に勝ち目はなくなるな」
「やるぞぉー! 空蝉の術ぅー!!」
 結局やる事に。まずは真人。
「うぐぐぐぐぐ!」
 校舎を背にして思いっきり力入れている。そんな様子を見て手に汗を握る2人と1人。
「頑張れ真人!」
「もう少しで成功するぞ!」
「うおおおおおおおおおおおおおぉー!!」
 気合い一閃。空の下で大声をあげる真人。
「で、空蝉の術ってどうやるんだ?」
「知らん」
「って言うか、それが分からないで気合いを入れないでよ」
 真人と恭介の会話と特に恭介の責任感のなさに呆れた理樹だったが、謙吾の言葉で話が変わる。
「そうだな、自分の残像を残したまま高速でジャンプをすれば空蝉の術になるんじゃないか?」
「おおっ! 確かに」
「流石は謙吾だな」
「いやいやいやいや。無理だから、どう考えてもありえないから」
「ようし。そうと決まれば善はみそげだ!」
「やっぱり聞いてないし。って言うか善をみそいじゃダメでしょ」
 完全に理樹を無視しつつ、話は続いていく。足に力を溜めた真人は全力で垂直飛び。残像が見える程ではないものの、かなりのスピードで真上に飛び上がり、

 ガラ ガイン ドサ

 いきなり開いた窓から差し出された、ガラス板にしこたま頭をぶつけて地面へと落下した。しかも図ったようにまた頭から。
「「「「あ」」」」
 理樹たち3人とガラス板を出した人物の声が重なる。3階で呆然と立っていたその人物は、佳奈多だった。



 ◇



「で、お姉ちゃん。何で窓の外にガラス板を?」
 若干引き気味の妹に、疲れたように口を開く姉。
「理科の準備の手伝いをしていたのよ。3年生の光の勉強で使うらしいんだけど、埃がたまっていたから少し払ってくれって言われて」
「そ、それはすごいタイミングなのです。ベストタイミングなのですっ!」
「どちらかというとワーストタイミングな気がするよ〜」
「本当、二木さんは最悪のタイミングで窓を開けましたのね」
「それで佳奈多さんはどうしたのですか?」
 佳奈多を中心に変な盛り上がりを見せる女の子集団。恭介を放置して、今度は佳奈多の口から話の続きが語られていく。



 ◇



「せ、先生。失礼しますっ!」
「おい、どうした二木?」
 真人の惨劇を見ていなかった理科教師は、血相を変えて飛び出していく佳奈多を呆然と見送る事しかできない。佳奈多とて自分が原因の一端となった事に平常であろうはずもない。普段はしない廊下と階段の駆け下りも凄まじいスピードで走破していく。
 そうしてきわめて短時間で佳奈多は事故現場へとたどり着く。
「早いな二木」
「そんな事はどうでもいいです。井ノ原の容態は?」
 恭介の言葉をさらりと流して謙吾と理樹に介抱されている真人を凝視する。それに冷静な返事をするのは淀みなく手を動かし続ける謙吾。
「頭を強く打っているが、こぶもできている。外傷的には全く問題ない。脳へのダメージは気にはなるが……まあ大丈夫だろう。馬鹿は丈夫と昔から相場が決まっている」
「そう、よかった」
 謙吾の言葉を聞いて口元を少し綻ばす佳奈多。
「…………ぅぁ」
「真人、大丈夫?」
 噂をすればなんとやら。早速うめき声をあげながら体を起こして目をこする真人。
「ほら、大丈夫だ」
「全く、心配して損をしたわ」
 得意げな謙吾に、声には皮肉があるけど顔には小さな笑みが浮かんでいる佳奈多。
「ええ、心配させてしまったようで申し訳ありません」
 そしてその笑みが凍る。さわやか過ぎる笑顔の前に、全員が全員とも絶句する。
「ちょ、ま、おまっ!」
「ま、真人、だよ、ね?」
「もちろんですよ。私がそれ以外のどのような人間に見えるのですか?」
「どこをどう聞いても真人以外の何者にしか見えんわぁーーーー!!」
 謙吾の一喝。
「うるさいですよ、謙吾さん」
 そして真人の一般論にあえなく撃沈した。10点差をひっくり返されてWBC決勝に破れた守護神が崩れ落ちたようだった。バカに常識を諭されるのがよほどショックだったらしい。
「大丈夫ですか? 謙吾さん」
「放っておいてやれ。それが情けってものだ」
「はぁ、そうなのですか。それじゃあそろそろ帰りましょうか」
 曖昧に頷いた真人は唐突にそんな事を言う。
「おいおい、どうしたんだよ真人。空蝉の術はどうするんだ?」
「常識的に考えてそんなバカな事が成功するはずがないじゃないですか。それよりも明日の宿題の方が重要です」
「ぐ」
 真人の言葉によろめくが、そこは打たれ強い恭介。なんとか踏みとどまる。
「き、効いたぜ真人。まさかお前に冷静にバカ呼ばわりされる事がこんなにもダメージがでかいとは夢にも思わなかったぜ…………」
「あ、そうだ。理樹さん、二木さん」
 普通にスルー。今度こそ恭介は地面に沈んだ。
「な、なに。真人?」
「どうかし、したのかしら。井ノ原」
「そんなに警戒しないで下さいよ。ただ、勉強を教えて頂きたいだけです」
 爽やかな笑み。すごく爽やかな笑み。すごく爽やかな筋肉の笑み。
「「わ、分かった」」
 それに思わず頷いてしまった二人は後悔した。なぜなら、爽やかが更に増したから。
「ふ、ふたりとも」
 なぜか死にかけのような声を出す恭介。
「心配、するな。他のメンバーを……連れて、必ず助けに。行、く…………」
 がくりと力尽きながら、それでも絞り出した声を背中に受けて、理樹と佳奈多は死地に赴く兵士のように部屋と向かう。爽やかな真人の顔に連れられて。



 ◇



「根本的にお前のせーだろーが、ぼけー!!」
 長身の実兄に向かって踵落としを叩き込む鈴。だんだん足技のレパートリーが増えてきた。恭介の口がぴんくと動きながら倒れた気がするが、確証はない。
「それで、宮沢様はどうなさったのですか?」
 佐々美がキョロキョロと周りを見回しながら聞く。確かに話の渦中の一人である謙吾の姿が見あたらない。
「ああ。今し方見てきたが、謙吾少年ならば裏庭で打ちひしがれてたぞ」
「いつになったら立ち直るのよ」
 呆れた佳奈多の声に関係なく、ハテナと首を傾げるのはクド。
「そういえば来ヶ谷さんの姿がしばらく見えませんでしたけど?」
「ああ、ちょっと自室に取りに行くものがあったから取りに行っていたんだ」
「そーなのですか。それなら私が今までの話をまとめて話ましょうか?」
「はっはっは。クドリャフカ君の心使いはありがたいが、心配御無用」
 ふっさぁと舞う。小毬のスカートが。白を基調にした青の水玉模様だった。何がとは言わないが。
 一瞬だけ状況が理解できない小毬。
「ふえ?」
「こんな事もあろうかと、小毬くんのスカートの中に盗聴器をしかけていたのだよ。話は全て聞いた」
「ふえええええぇぇぇぇぇぇぇー!?!?!?」
 テンション高く声をあげる小毬だが、パニクっているせいか別段スカートを押さえる事はしない。重力に従って元通りになるのを待つのみである。
「…………、なんでわざわざそこに仕込みますかネ?」
 つっこみ役の理樹が思いっきり目を逸らしている為、代わりに葉留佳がつっこんでみる。
「うむ。純然たる趣味だ」
「ところで部屋から持ってきたものとは?」
 すこぶる反応がしにくい言葉が返ってきた為、美魚が別の話題を口にする。その言葉にガサゴソと懐を漁って古ぼけた巻物を取り出す来ヶ谷。
「これだ」
「これはなんでしょーか?」
「来ヶ谷代々伝わる忍術書だ。空蝉の術の詳細ももちろん乗っている」
「…………いつも思うんだけど、本当に来ヶ谷さんって何者?」
「はっはっは」
 笑うだけの来ヶ谷。しかも空蝉の術に興味ある3人がいない為に忍術書も宝の持ち腐れ。だが鈴はそれでもその忍術書をじっと見る。
「ちなみにそれにバカにする方法はあるのか?」
「いや、そんな忍術はこの世のどこを探してもないと思うが」
「なんだ。くるがやも案外使えないな」
「おねーさん今ぐさっと来たよ。鈴女史の毒性も最近あがってきたな」
 ちょっとひるんだ来ヶ谷。
「とーぜんだ。今必要なのは忍術がどうこうじゃなくてバカをバカに戻す方法だろう」
 そして平然と話を続ける鈴。彼女の視線の先には最初の攻撃から沈みっぱなしの真人の姿が。
「っていうかコイツはいつまでのびているんだ」
「これはアレじゃないっすかネ。いつもはバカだから立ち直りも早いけど、今はバカじゃないから立ち直りが遅いとか?」
「バカでもなくて筋肉でもないのか。酸素の無駄使いだな」
 ピク
「いやそんな真人がそんな事しか才能がないみたいな事は」
「じゃあ直枝は井ノ原にそれ以外のいい所を見いだせるのかしら?」
「あ、いや、それは…………」
「井ノ原さんは優しいです。私が重い荷物を持っている時に手伝って下さいますよ」
「そりゃ筋肉があるからじゃん? 筋トレをしなくなったらすぐに筋肉なんてなくなっちゃうって」
 ピクピクッ
「本格的に存在価値がないな、コイツは」
「点数も2桁いかないしね」
「と、いう事は勉強も筋肉もダメか。この筋トレグッズももはやただのゴミだな」
 ピクピクピクピクッ!
「ちょっと待って下さい」
 そこで唐突に美魚が口を開く。
「どうかしたかな、西園女史」
「井ノ原さんを見て下さい」
 全員がのびている真人へと視線を向ける。
「……筋肉」
 ピクピクピクッ
 真人が気色悪い動きをした。
「まさか」
「おそらく」
 アイコンタクト。全員が今の現象の意味を理解する。同時に自分の中の大切な何かを捨てる決意も固めた。
「きんにーく」
 ピクッ
「きんにーく」
 ピクピクッ
「きんにーく、きんにーく」
 ビックンピックン
「きんにーく、きんにーく、きんにーく」
 ピックピックピックピック
「「「きんにーく、きんにーく、きんにーく、きんにーく、きんにーく、きんにーく!」」」
 ピックピク ビックンピク ピックピク ピックピク
「「「「「「「「「きんにーく! きんにーく! きんにーく! きんにーく!!」」」」」」」」」
「うおおおおお! 筋肉レボリューションだぁ!!」
「きっしょいわぼけぇー!」
 復活した瞬間、鈴のハイキックで再び沈む。彼女の中で溜められたフラストレーションを思いっきりぶつけられた瞬間だった。
「せっかく元通りに目を覚ましましたのに、また眠らせてどうなさるのですの?」
「うっさい! さささは今のが蹴らずにいられるのか!?」
 逆切れる鈴だが、佐々美はなんとなく反論する気になれない。内容もともかく、さささと呼ばれるのもいい加減慣れたらしい。
「ほら、真人。起きて」
 苦笑しながら真人を起こす理樹。今回は比較的あっさりと目を覚ます真人。
「あ。理樹さん、おはようございます」

 ふりだしに戻る。


[No.133] 2009/05/28(Thu) 22:49:16
羂索は空から (No.128への返信 / 1階層) - ひみつ 6470 byte


時々空を見上げる癖がついたのはいつごろだっただろう、ふと思った。
見上げたからと言って視線の先には雲ぐらいしか存在せず、特に面白くない。
なのに何故自分は空を見上げるのだろう。改めて考えてみると訳がわからなかった。
そんな事を考えていたせいか久しぶりに遅刻しそうになってしまった。
時間ギリギリに教室つき、机に座る。
いや突っ伏してみた。乱れた息は中々整わず、少し鬱陶しかった。
教師が淡々と点呼をしていく。高校にもなったのにわざわざ点呼なんて煩わしいだけだと思う。
なので空を見上げた。窓際の最後列と言うポジションは少し顔を上げただけで空が見える。
曇っているから、特に感慨も浮かばなかったけれど。その代わり、一つ同時に決心した。
今日は授業をサボって屋上に居よう。良い天気とは言えないけれど。

空へと続く扉はいつもは施錠されており、生徒は行くことが出来ない様になっている。
だがこの前、窓からなら行けるかも、と思いつき工具箱を持ってきてみたら
割りと簡単にドライバーだけで窓が開いた。
それ以来、制服のポケットにはドライバーを入れている。
小さなそれを使って、屋上へと出る。
その瞬間に始業のチャイムが鳴り、同時に背徳感と興奮が生まれた。
他の生徒は大人しく椅子に座り授業を受けていると言うのに、自分だけは屋上に居て
自由に動き回ることが出来る。たったそれだけで、特別な感覚がする。
わくわくする気持ちを抑えずに屋上を見渡してみた。
特に何も無いが兎に角、空が近かった。そして、もっと近くで見たいと思った、
そう思い、窓へと戻る。そこに足を掛け、一息で体を持ち上げる。
登りきったそこは、さっきの場所よりも空が近かった。
当たり前と言えば当たり前だけれど、近かった。
手を伸ばせば手が黒く染まってしまうのでは無いかと思うほどに。

そのまま暫く手を伸ばしていた。もしかしたら手が染まるかもと期待して。
体が黒くなってしまったらどうなるのだろう。そう誰かに訊きたかった。
いつも一緒に居た幼馴染なら、そう問うた瞬間に考え始めるだろう。
そして痺れを切らしたあいつがあいつを蹴り、それを困り顔で見つめるあいつ。
そんないつもの光景を呆れた様に見るあいつもそこには居るだろう。
一人一人がとても個性的な幼馴染は、今ここには居ない。
もう少し時間が経てばここに来るかも知れないが、少なくとも今は居ない。
五人が揃っていないと、自分のどこかが欠けているような感覚さえする。

伸ばしていた手を引っ込め頭の後ろで組み、その場に寝転んだ。
その視線の先には当然のように空があった。黒く、時に白く、存在していた。
吸い込まれそうに厚い雲なのに、何故か先程の様に手を伸ばしたいと思わなかった。
何故だろう、と一瞬考えたがすぐに首を振った。理由などわかりきっているから。
ただ、寂しいのだ。一人はやはり寂しい。
一人が好きだ、なんていう人が居るがそれは嘘だろうと思う。
話し相手が居ない、自分以外の体温を感じられないなんて想像もしたくない。
やはり誰かと一緒に居たい。子供っぽいかもしれないが、本心だ。

そう考え始めると、一気に人恋しくなってしまった。
教室に戻ろうかと思ったが、まだ授業が終わっていない。
今戻ったら何かと面倒なので仕方なく、起こした体をまた倒し、空を見つめた。
だけど、すぐに顔を横に向けた。面白くない。
何か面白いものは無いかと制服を探る。漫画が出てきた。
スクレボの最新刊だった。適当にページを開いて読んでみて、すぐにしまった。
何回も読み返していると台詞を覚えてしまうな、と思いながら。
漫画をしまって寝返りをうった。校門の先の景色が見えて、なんだか悲しかった。
立ち上がって、ずっと先の景色を見てみた。
自分の視力はそこそこ良いとは思ってるが、それを最大限利用しても、雲は途切れなかった。
当たり前だ、と苦笑してもう一度眺めた。今度はただただ、ぼーっと。
やはり悲しい気持ちになった。何故だろう。

チャイムが鳴った。
考えるのを止め、とりあえず教室へと向かう。窓の鍵を閉めるのを忘れない。
教室へ向かう途中、ある人物を見つけた。やけに人懐っこいという印象が強い、クラスメイトだった。
詮索されるのも嫌だったので、彼女の進行方向とは逆に歩き出した。
次の時間はどこで時間を潰そうか、いっその事寮にでも帰るか。と思ったときだった。
足音が背後から聞こえた。何気なく振り返ってみると。
すごく綺麗なフォームでクラスメイトが迫ってきていた。フォームを指摘したかったが
とりあえず逃げることを最優先した。気がつくのが少し遅かったとは言え、結局は男と女。
女が男に運動で勝てるはずは無いと力を抑えて走った。
だが、あっさりと捕まってしまった。なんだこいつ、足速すぎるだろう。
仕方なく、口で応戦することにした。

「廊下は走っちゃいけないんだぞ」
「お互い様よ」
「こっちは正当防衛だ」
「まあ良いわ、さっきの時間どこに居たの?」

こっちのペースに引き込む隙も無いまま、問われてしまった。
今度論争の特訓でもするか。
そう思いつつ、こう反論してみた。

「ちょっと夢と希望を探しに地下の大迷宮へ」
「あっそう。で、どこに居たの?」

スルーされてしまった。これは痛い。
だが一つだけわかったことがある。これを上手く使えばこの場から逃げられるかもしれない。

「なあ、一つ訊いていいか?」
「良いわよ?何?」
「お前スクレボ読んでないだろ?」
「何それ?」
「やはりな…あの台詞に反応しないのは読んでない奴だと決まっているからな」

制服を掴まれていた右手をゆっくりと離し、そっとその手にスクレボ最新刊を持たせた。
そしてゆっくりと向きを変え、手を振りながらこう言った。

「じゃあな…今度会うときは敵同士だぜ…」
「クラスメイトが敵になるわけないでしょう。ほらさっさと教室へ行く!」

名台詞がスルーされた。何故だ。
この台詞は原作を知らない奴が聞いても必ず感動するんだぞ。
まさか言った台詞が間違っていたのか。その可能性を探るためにも寮に戻らなくては。
だが再び制服をがっちりと掴まれてしまったために動くに動けない。
ここで仕方なく秘密兵器を出すことにした。息を吸い、彼女の耳元で囁く。
正直これはやりたくは無かった。お互い恥ずかしくなるだろうから。

「頼む、見逃してくれ…あーちゃん」
「…」

呆然となり力が抜けた彼女の腕を振り払い、距離をとった。
当の本人は掴んでいた制服が右手をすり抜けた事すら気がついて居ないらしく、まだ空中を掴んでいた。
心の中で彼女に謝りつつ、寮へと駆け出した。
寮へは五分位で到着した。それでも全力で走れば流石に息が切れた。
自分の部屋に入る前に寮の壁にもたれ掛かり息を整えていると、こんな声が聞こえてきた。


「やっぱり止めた方が良いんじゃない?見つかりでもしたらどうするのさ」
「そのときはこいつのせいにすればいい」
「なんで俺のせいなんだよ!」
「うっさい!見つかるだろぼけーっ!」
「お、あそこが寮じゃないか?」

個性が服を着てやってきたかのようなその集団は、男子寮へと向かってきた。
その集団を見た時、不思議にも空が見たくなった。
ふと上を見上げると、厚い雲の切れ間から光が差し込んできていた。
その光を手でさえぎりつつ、どうすればあいつらが驚くような登場の仕方が出来るだろう、と考えた。
考えた末に、一つの案が浮かんだ。
だが、あまり時間が無い。急いで寮に入り、二階の廊下の窓に到着した。
用意しておいたロープを傍の柱に括り付け準備完了。

四人が窓の傍に来た。ロープを掴み、一気に飛び降りた。
そして落ちながらこう言った。

「ミッション・スタート!」

今日のミッションはこいつらを一日楽しませること。
久しぶりに面白くなりそうだ、と笑いが止まらなかった。




「ところで馬鹿兄貴、授業はどーした」
「自主休校だ」
「つまりサボったんだね…」


[No.134] 2009/05/28(Thu) 23:03:44
ノンコミタル (No.128への返信 / 1階層) - ひみつ@13410 byte

 朝、早くに家を出た。日の出間もなく頃。自転車にクーラーボックスを括りつけ、背中には釣竿、頭には麦わら帽子、首にはタオル。
 高校時代、色々ありはしたが、大学受験には成功した。高校を卒業して、一人暮らしを始めた。順調に人生を歩んでいる感触があった。それは、勘違いだったようだ。
 夏休みに入った。友達は、まだ一人もいない。
 大学という場所は自分から動き出さないと何も動かない場所だ。そう気づいたのが入学して一月ほど経った後だった。時既に遅し。周りはグループで固まっていた。サークルも新歓コンパが終わっていた。一人ぼっちだった。学食で、一人うどんを啜るのにもなれた。まあ、見事に楽しいキャンパスライフというレールからは振り落とされてしまったようだ。残念なことである。
 そして、実は、金も無かった。
 金に関しては保険金とか遺産とかそういう類のものはあるにはあるが、あまり手をつけたくはなかった。面倒だからバイトもしたくなかった。
 友達がいないことは生きる上では、それほど問題にはならない。別に高校時代の人間とは、たまに遊ぶのだから。しかし、金。こちらは非常に切実な問題である。一人暮らしをする上で、一番お財布事情を圧迫するのは、家賃。これは奨学金という、借金でなんとか賄っている。そして、食費。こいつが一番のネックだったりする。人は食べないと死ぬ。その事実を自らの身で体感できたことは非常に勉強になったようだ。
 たまたまテレビで一か月を一万円で過ごすという企画を見た。それがきっかけ。趣味と実益を兼ねて、気付けば近くの河原で毎日釣りをしている。夏休みに入って、日の出前に起き、日が落ちる頃に晩飯を抱えて家に帰る。そんな生活習慣になっていた。おかげで電気代は節約、暇つぶしも完了。嗚呼、しかし、虚しさだけは募っていく。
 自転車の鍵を開け、サドルに跨る。目的地はいつもの河原。昨日は雨が降った。今日は大漁の予感がする。そんな期待に胸を膨らませて、出発した。
 夏だが、早朝は少しだけ涼しい。この時間帯の空気が好きだった。自転車で風を切り裂くと、より気持ち良く感じる。メリハリの無い生活で唯一頭が冴える気がする時間が、この朝っぱらにチャリンコのペダルを漕ぐ時である。空も飛べそうな気がした。気のせいだ。
 無駄なカロリーを消費して、酸素を減らし、二酸化炭素を増やす。今日ものんびり死んでいく。










 餌には、いつもそこら辺の岩の下でずるずる動いているミミズを使っている。三匹ほど釣ったところで餌が無くなった。自前のスコップで穴を掘ってミミズを探していると、久方ぶりにほぼ時計としての機能以外使われることの無かった携帯電話が振動した。少し戸惑いつつ、着信の相手を見ると幼馴染の井ノ原真人からだった。
 真人は現在、浪人生をしている。彼という人物に最も似つかわしくない肩書きである。「俺、筋肉研究する!」と言って医学部を受験しようとして見事に足切りされて、凹んだ後、「俺、理樹と同じ大学に行く!」と言って見事に桜散り、「頭の筋肉が足りなかったのかっ」とか訳の分からないことを言い出して浪人することを決めた彼を、誰も止めやしなかった。
 久しぶりに通話ボタンを押してみた。少しドキドキした。
「おっす」
 久しぶりに聞いた真人の声は、やっぱり真人の声だった。
「今どこ?」
 河原で釣りをしていることを伝えると、二秒で行くと言われて、一方的に切られた。もう少し電話で話したかったのだが。若干の寂しさを感じつつ、穴掘りを再開。この時、既に二秒は経過していた。
 ミミズをタッパー一杯集めたあたりで、電話からもう結構な時間が過ぎた頃、やっと真人が河原に現れた。
「わり、遅れた」
 久しぶりに聞いた真人の肉声は、どうしようもなく真人だった。
 予備の釣竿を渡す。やっていいの? とジェスチャーを返されたので、右手親指をグッと立てて了承を示す。真人も同じポーズを取る。嬉しくなった。餌、とタッパーを渡す。ミミズにビビる真人。かわいいところがあるんだなぁ、と長い付き合いの幼馴染の珍しい仕草に新鮮さを感じる。なんでも知っているつもりだった。知らないことはまだまだある気がした。丁度、浮きが沈んだ。晩飯四匹目ゲット。
「おお、すげえな」
 真人の称賛する声に胸を張る。
「すげえちっちぇー」
 真人のケタケタ笑う声に肩を落とす。
「こういうの唐揚げにすると上手いらしいぜ」
 笑顔。真人はいつも笑顔だ。真人の釣竿にミミズをつけてあげた。ありがとうよ、と言われる。嬉しかった。
 二人で何も喋らず、魚釣りをする。電話が掛かってきた時点で感じたこと。真人は何か悩んでいるようだ。こちらから、何か悩んでいるのかい? と聞くのは野暮な気がした。だから、黙って魚を釣る。晩飯は、六匹に増えた。名前も知らない小魚。勝手にクドと呼んでいる。
「あのさ」
 満を持して、現在の釣果ゼロ匹の真人が口を開いた。
「結構な、勉強をな、頑張ってみたんだけどな」
 頭をボリボリと掻きながら、釣りの才能ゼロの真人が続ける。
「無理かもしれん。というか、無理っぽい」
 そう。一言返した。別に大学に行くだけが人生じゃない。大学に行ったって楽しいわけじゃない。寧ろ、今の自分はとっても苦しい。慣れたとか考えていた。それは言い訳。一年待てば、真人が来る。それを、糧に頑張っていた部分もあった。嗚呼、僕も大学辞めちゃおうかなぁ。
「は? 理樹、大学辞めるのか?」
 今の自分の状況を話す。初めて、人に話す。友達がいないこと。学食で一人で食べていること。金が無いこと。この小魚の名前を勝手にクドにしていること。
「そうかー」
 釣竿を脇に置き、真人はどっこいしょー、と河原に大の字で寝そべった。
「ままならねーなー、本当」
 真似をして寝転がる。視界の先には空があった。無駄に開けた青い空。雲になりたい、とか考えた。ふわふわーってどっかに行きたい、とか思った。
「本当ままならないよねー」
 声とともに、視界を縞縞模様が遮る。ふわりと浮かぶプリーツスカート。何気なく現れたのは高校時代の同級生だった。
「や」
「よ」
 真人も驚きも無く寝ころんだまま挨拶を返す。彼女の登場の仕方はいつもこんな感じだった。唐突にひょっこり現れて、気づいたら居なくなる。三枝葉留佳の一つの特徴と言える。だから、驚かない。彼女は、これが普通だから。
「驚かないのかあ。残念」
「慣れた」
「そっかぁ」
 やはは、と笑う。変わらない。その笑い方に何故か安堵する。変わらないことを望んでいるのだろうか。未だ置いていかれていないことに安心したのだろうか。パンツの柄も変わっていない。パンツ見えてるよ。そう注意してみた。
「見せてるんですヨ」
「いらんもん見せるな」
「真人くんのアホ。だから女にモテないんだ」
「女よりも筋肉が欲しい」
「相変わらず」
「今はそれよりも学力が欲しい……」
「切実だね」
「切実だ」
 真人はそう言うとため息を吐いた。パシャリ。シャッターを切る音がした。起きあがり、音の出所を見る。彼女の首には大きなカメラが掛けられていた。
「最近、これ、マイブーム」
「マイブームって、死語だろ」
「うっさいなぁ」
 更にパシャリ。
「理樹くんのアホ面ゲットー」
 アホ面と言われた。どちらかというと、ゲットーとか言って笑っている彼女の顔の方がアホ丸出しなのだが、それは言ったら可哀想なので、心の内にそっと仕舞っておくことにした。それにしてもいい天気だ。麦わら帽子を被りなおす。何も持ってきていない真人の頭にタオルを投げる。日射病になられでもしたら困る。
「ありがとよ」
「真人くんだけずるいー」
「お前、普通に帽子被ってるだろ。あの、あれ、西部劇帽子」
「テンガロンハットって言って」
「それ。カッコいいな」
「でしょでしょ」ご満悦、と言った表情。「お姉ちゃんからパクった」
「ああ、そういえば急に姉ちゃんできてたな。二木だっけ?」
「まあ、未だにそんな仲良くないんだけどね」
 やはは、と笑う。彼女の悩みが見えた。彼女もまた悩みを抱えているのだ。それが、なんだか嬉しい。自分の醜さが垣間見えた。
「おし」
 真人がガバっと勢いよく起き上がる。流石に筋肉を鍛えているだけあって、体のキレは凄まじい。河で魚が跳ねた。
「帰るわ。帰って勉強してみる」
「がんばれー」
「ああ」
 便乗して応援する。グッと真人が拳を突き出した。それに自分の拳を合わせる。何故か、もう一人も拳を合わせた。三人で拳を合わせた。
「若干一名、増えたが気にせん。お前らも頑張れ。俺も頑張る」
 オー。何となくの誓い。それだけでも、以前より頑張ろうと言う気になれたから不思議だ。
 拳を離して、真人は帰っていった。
「あ、言い忘れ」
 真人が戻ってきた。
「また、明日来るわ。じゃあな」
 ……さて。本日の釣果、クド六匹。まあ、今晩の飯は唐揚げにしよう。帰る準備を始める。
「ありゃ、理樹くんも帰るの?」
 頷く。
「じゃあ、私も帰ろ。バイビー」
 颯爽と去っていく。何しに来たのだろう。パンツを見せに来たのだろうか? たぶん、パンツを見せに来たのだろう。帰ろ。
 唐揚げはそこそこ旨かった。











「なあ、理樹」
 あれから毎日、真人は河原に遊びに来る。たぶん、勉強は諦めたのだろう。それならば、それでいいと思う。元々、真人には厳しいことだったのだ。脳みそまで筋肉の男に勉強しろと言うほうが酷なのだ。それに、毎日二人で釣りが出来ると思うと、それはそれで嬉しい。相変わらずの坊主っぷりには泣ける。
「ねえねえ理樹くん」
 そして、葉留佳さんもまた、毎日河原に遊びに来ていた。日に日に身につけてくる「お姉ちゃんからパクった」品が増えている。なんて手癖が悪いのだろう。まあ、悪戯してかまってもらう以外、付き合っていく方法を知らないのだろう。それに、二人より三人のほうが楽しい気がするので、まあ、邪魔をしない限りは、居てもいいのではないかと思う。パシャパシャ撮るカメラは少し鬱陶しいが。
「おーい、聞いてるか?」
 ぼーっとしていて聞いていなかった。真人のことだ。またくだらないことでも言っていたのだろう。
「おいおい、大丈夫か?」
 頷く。話を聞いていなかったことを謝り、もう一度話してもらう。しょうがないなぁ、とは言いながらも、再び同じ内容を話そうとしてくれる真人はやはりいい奴なのだろう。それに茶々を入れるのが、葉留佳さんの役目。なんだか、平和だ。もう、このままでもいいんじゃないかと思う。
 夏休みに入り、約一か月ほど経った。このまま学校に行かずに、魚を釣って生きていこうか。そうすれば毎日真人が来て、葉留佳さんが来て、グダグダして。そんな生活もいいかもしれない。だって、もう、今更無理なのだから。大学に溶け込むなんてこと。
 だって、僕はずっと皆に守られて生きてきたから。何を勘違いしてたんだろうね。なんでも出来る気でいたんだろうね。一番の馬鹿は僕だ。真人でも、葉留佳さんでも無い。僕が一番馬鹿なんだ。
 真人が受験を諦めた。僕はそれを見て、自分より下の人間がいると安心した。
 葉留佳さんはニートだ。僕はそれを見て、自分より下の人間がいると安心した。
 最悪だ。人として。心の中でこんなこと思いながら、外面ではニコニコ笑って付き合っている。僕は最低な人間だ。死んでしまいたい。このまま生きていたってどうしようもない。何かいいことがあるなんて、そんなことを思えるのは、子供の時だけ。あとは、優越感を探して、ぐるぐる回るだけの人生なんだ。たぶん、そうに決まってる。
「理樹、おい。聞けよ」
 またもや真人の話を聞きそびれた。懺悔なんざ家に帰ってからすればいいのだ。今はただ、このぬるま湯でゆっくりと半身浴をしていればいいのだ。
「ああ、もう! もう! くそ!」
 真人が突然じたばたと暴れだした。薬が切れたのだろうか?
「誰がジャンキーだ! おい理樹! もう我慢ならない!」
 見透かされていたのだろうか?
「お前も、俺も、あと三枝! お前もだ!」
「え? 私?」
「俺ら、こんなところで燻ってる場合じゃないだろ!」
「へ?」
 葉留佳さんと二人顔を見合わせる。何を言っているのだ。この筋肉だるまは。
「くそ。くそ。俺はこんなもんじゃねー! もっと出来るに決まってる! 理樹、お前はすげーいい奴なんだ。友達の一人や五憶人くらい軽く作れるに決まってるだろ!」
 五億は無理。
「三枝だって、姉ちゃんとかの前に就職するかなんかしろよ! お前なら植木職人とかなれるって!」
「別になりたくない」
「あー、くそ! 俺だってな、もう筋肉で空飛ぶなんざ朝飯前なんだよ! 勉強なんて出来ないけど筋肉はすげーんだよ! いいか見てろ! 三枝、お前俺が空飛ぶ瞬間を撮れよ!」
「まあ、飛べたらね」
「絶対だかんな! おっしゃー!」
 そうして真人は堤防から助走をつけて翔んだ。
 パシャリ。
 河に落ちた。











「へっくし」
 三人で堤防沿いを歩く。三人の中で一番近い家が僕の家だ。そこで服を乾かしつつ、風呂に入ってもらうことになった。流石に夏だと言っても、これほどびしょ濡れでは風邪を引いてしまうかもしれない。そうなると、困る。寂しい的な意味で。葉留佳さんも暇だから付いてくとのこと。
 先ほどの河にダイブするシーンの写真を見せてもらった。それはもう本気で空まで飛んでいきそうな勢いをもってはいた。しかし、現実は河へとボチャン。結局、夢を見ても駄目なんだと、そう現実を突きつけられる結果に終わった。所詮、そんなものなのだろう。
「へっくし」
「ダイジョブ?」
「丁度水浴びしたかったところなんだ」
「やっぱり、空なんて飛べなかったね」
 真人くんなら出来るかも、なんて……。やはは、と笑う。彼女も期待したのだ。このどうしようもない現実を真人が突き破ってくれるかもしれないと。僕も抱いてしまった想いを。
「今日は、調子が悪かった。だから、また挑戦する」
「マジで?」
「マジで」
 真人の目は本気だ。ダメだこいつ。
「無理だよ」
 立ち止まり呟く。いい加減期待させるだけなのはうんざりだ。
「人間が空飛ぶなんて無理なんだよ」
「分からんだろ」
「分かるよ。さっきだって結局落ちたじゃんか。びしょ濡れじゃんか」
「調子が悪かったんだ」
「もうやめてよ……」
 期待させるのは。
「くそっ! いいか見てろよ!」
 言うや否や、真人は濡れた服を脱ぎ捨てる。そして、再び河へと身体を向ける。
「いいか、理樹。俺は飛べる。だから、お前も友達が出来る。三枝も社会に出れる。それを証明してやる」
「やめてよ」
「いいや、やめないね。さっきのは多分、スピードが足りなかった」
 真人はクラウチングスタートの構えを取る。そして、「よーい」と自分で掛声を出した。グッと足に力が入るのが分かる。裸なので分かりやすい。
「ドン!」
 その掛け声とともに溜めた力を爆発させる。風が走った。
「あ」
 そして、丁度通りかかった車に跳ね飛ばされた。
「ぐえ」
 空をぐるんぐるん回りながら飛んでいる。真人は今、筋肉で空を飛んでいる!
「真人! 飛んでる! 今、真人は空を飛んでるよ!」
 隣で葉留佳さんがパシャリパシャリと連続でシャッターを切る。
「真人ー! 飛んでるよー! ひゃっほー!」
 飛んでいる真人は笑顔だった。たぶん。僕にはそう見えたから。ぎゃーって聞こえたけど、真人はきっと笑顔だった。間違いない。











 当然の如く、真人は入院した。怪我は右足の骨折。それだけで済んだのは奇跡なくらい吹っ飛んでいたので、やっぱり真人の筋肉はすごいな、と改めて実感した。
 一度お見舞いに行った時、「俺、スタントマンになる」と新たに見つけた夢を語る真人は輝いて見えた。
 僕の部屋には、あの時吹っ飛んだ真人の写真が飾ってある。葉留佳さんから貰ったものだ。しっかりとお金は取られた。葉留佳さんは、「私、戦場カメラマンになる」と物凄い目標を立てていた。貰った写真の顔がピンボケで見えなかったので、説得して、諦めてもらった。「じゃあ、植木職人になってみる……」と悲しく語った。
 僕も、真人に勇気をもらった。臆病な僕は、まだ、真人たちみたいに夢は語れないし、思いつかない。
 でも、だからほんの少し。
「すいません、バイト募集を見たんですが……」
 まだ、これぐらいだけど。まずは一歩。


[No.135] 2009/05/29(Fri) 00:54:24
今にも落ちてきそうな空の下で (No.128への返信 / 1階層) - ひみつ@15546 byte

 目の前には空があった。
 今にも泣き出しそうな曇り空。もしかしたら、既にポツポツと降り始めているのかもしれない。だが、今の私にはそんな小雨を感じる余裕は無い。
 私は道路に横たわっていた。車に轢かれたものの、当たり所が良かったのか悪かったのか、未だに意識があった。最初は、全身が痛くて熱くて堪らなくて、芋虫のようにもがくばかりだった。だが今では、血を流しすぎた所為か、或いは傷が深すぎた所為か、痛みはそれほど感じない。ただ、体が寒くて寒くて仕方なかった。血と一緒に体の熱が奪われてしまったのだろう。そのためなのか、既に体が動かない。指を動かそうとしても、指が動いている気配が無い。そもそも、私の指はどうなっているのだろう?骨折して、動かせないのかもしれない。或いは――――。そちらまで視線を向けることが出来ないことが、不幸中の幸いだ。そんなものを見てしまったら、私はどうなってしまうのか。想像すらしたくなかった。
 止めよう、そんなことを考えるのは。私は視線を再び空に向けた。
 結局、最期まで私は誰にも必要とされなかったな。口元が歪む。理樹くんにさえ、結局私のこと気付いて貰えなかったわけだし。悲しいなあ。ずっと一人ぼっちで、最期のときも一人ぼっちで。寂しいなあ。
 でも、今は必要とされたいとかそんなこと関係なく、誰かに会いたかった。私の最期に傍に居てほしかった。
 誰が良いかな?クド公とか?すっごい泣き顔でオロオロする様が想像できてしまう。ああ、やっぱりダメだ。なんかこっちが悪い気がしてくる。姉御なんかはどうだろう?ああ、すっごい安心できそう。姉御はこうゆうときどうするかな?冷静に救急車の手配を済ましてしまうだろうか?あ、なんかヤだな。こんなときにそんな事務的な姉御なんて見たくない。姉御は私の意図を汲み取ってくれる人だ。きっと最期まで私のこと見ててくれる。うーん、でもこれもやっぱりダメだ。私を心配そうに見る姉御なんて想像できないし、きっと私は姉御にそんな顔して欲しくないんだと思う。あーでもないこーでもないと、順番にバツ印を付けていくと、結局最後にはそこに行き着いた。
 理樹くん。やっぱり好きなものは止められないのですヨ。
 理樹くんはこんなときどうするのかな?きっと、理樹くんは優しいから、うんと心配そうな顔して、うんと優しい言葉をかけてくれるんだろうな。
 いや、別に理樹くんは何もしないでいい。そんなことよりも私は、理樹くんにお礼が言いたかった。理樹くんは、それを聞いてくれるだけで十分だ。
 あのとき、ベンチで座っているだけだった私に話しかけてくれて、ありがとう。
 仲間に入れてくれて、ありがとう。
 そして、「好き」って言ってくれて、ありがとう。
 そんなことを考えていたら、急に悲しくなって涙が溢れてきた。どんなに空想しても、それは決して叶わないどころか、今の惨めさを強めるだけだ。誰か、お願い。私の傍に来て。誰か誰か誰か。一人ぼっちは寂しいの。悲しいの。苦しいの。痛いの。怖いの。誰か私を助けて。助けて助けてたすけてたすけてタスケテタスケテ、理樹くん!

 空から降る雨粒は大きくなっていき、私の体を冷やしていく。空には雨雲がかかり、私の視界から色彩を無くしていく。
 と、そのとき。色彩を無くした視界に、突然鮮やかな紫色が見えた。それは円の一部分を切り取ったようで、骨組みが中心から放射状に延びていた。これは、傘だ。誰かが来てくれたんだ!私は嬉しさで心臓が止まるかと思った。一体誰なんだろうか?しかし視線を動かし、その誰かを確認した途端、私は凍り付いてしまった。

「ばかね。・・・本当にばかな子ね」

 二木佳奈多。
 何で最期の最期、こんなときに限って。私は運命をこれ以上なく呪ってやった。
 こいつは私を見て何をするだろうか?何を喋るだろうか?私の無様ななりを指差して、嗤うのだろうか?もし、人が死のうってときに、そんなことができたら尊敬してやる。おまえは最低の人でなしだ!
 だけど、こいつの行動は私の予想に反するものだった。
 私は、二木佳奈多に抱きしめられた。それも壊れ物や赤ん坊でも扱うかのように優しく。私の体は血や泥やらで汚れているのに、そんなこと気にする素振りも見せなかった。

「はるか・・・」

 二木佳奈多の声は優しかった。それはいつも高圧的な態度で私を脅かす「あいつ」ではなく、かつて私が大好きだった「おねえちゃん」だった。ミントの匂いがする。でもこれは「あいつ」の匂いじゃなく、「おねえちゃん」の匂い。
 ああ、多分私は幻を見ているんだ。きっと、もう駄目だから。誰も来てくれないだろうから。私は、私のために、私の願いを幻として映しているんだ。そう考えると、酷く空しい気持ちになるが、納得がいく。「おねえちゃん」が来ることなんて無いから。「あいつ」はもう「おねえちゃん」ではなくなってしまったのだから。

「これは夢よ。起きたら、きっといつもの日常が待ってる」

 ほうら、やっぱりね。それにしても、最期に理樹くんじゃなくお姉ちゃんの幻を見るとは。理樹くんと、自分の出生について色々調べ物をしてたけど、もしかしたら私は本当はこうなることを望んでいたのかもしれない。ただ、お姉ちゃんと一緒になりたかったのだけなのかもしれない。あはは。本当バカだなあ、私は。もう、こんなタイミングで気付いたってどうしようもないのに。
 お姉ちゃんの体は、私と違って暖かだった。さっきまで寒くて堪らなかったのが、今は嘘のように暖かい。大好きな人に抱きしめてもらうというのは、こんなに安らぐものなのか。さっきまでの恐怖や怒りは霧が晴れたように消え失せ、代わりに干したての布団で包まれたような心地よさが胸の奥から湧き上がった。こんな気持ちは何年ぶりだろう?お姉ちゃんが私に、この髪飾りをくれた時以来か。

「今まで、辛かったでしょう?もう、忘れなさい。これまで起こったことも、直枝理樹のことも、全部」

 そうだね。私、もう疲れちゃった。そろそろ全部忘れて眠ってもいいよね。理樹くんのことは忘れたくないけど、やっぱり思い出すと、辛いから。

「次に起きたら、あなたがこれまで大切にしてたもの、全て切り捨てなさい。直枝理樹も、リトルバスターズの人たちも、全部。そして、私だけを見なさい。あなたには、私以外は何にも必要ないの。あなたの全ては、私だけのものなのだから」

 あはは、凄いこと言うね。でもお姉ちゃんとなら、私は二人きりでも構わないですヨ。 私は想像してみる。お姉ちゃんと二人だけの世界を。
 寮では三人部屋に私とお姉ちゃんの二人だけ。そこには邪魔な監視役の子も居ない。朝起きたら一緒に食事して、学校行く準備したら二人で登校する。私たちは同じクラスだから、途中で別れることも無い。休み時間には、授業でわかんなかったことをお姉ちゃんに訊こうとして。そしたら「どうせ寝てたんでしょ」とか言われたり。そんな感じで、お昼休みも午後もずうっと一緒で。でも、お姉ちゃんには風紀委員の仕事があるから、そのときだけは離れ離れ。だけど、はるちんは寂しがり屋のイタズラっ子だから、風紀委員のいるところでわざと騒ぎを起こしちゃうのデス。で、正座させられて、お姉ちゃんからお説教されるけど、怒った顔も可愛くて。私が思わずニヤニヤしちゃうと、勘違いしてもっと怒るんですヨ。まあ、そんなこんなで、放課後はお姉ちゃんの仕事の邪魔なんかしながら、テキトーに時間を潰して、最後は委員会室の前でお姉ちゃんの仕事が終わるを待ってるんだ。で、一緒に帰るときに、手を繋いじゃったりして。お姉ちゃんは「子供じゃないんだから」なんて言うけど、おやおや?顔が緩んでますヨ?帰ったら二人で食事して、その後、お姉ちゃんが勉強、私がお姉ちゃんの邪魔といった感じに分担作業して?最後はお風呂に入って寝るだけですヨ。お姉ちゃーん、たまにはお風呂一緒に良いでしょ?女同士だし。ちぇ、ケチんぼ。寝るときは一緒のベッド、ななな何だってーー!お姉ちゃん、最後の最後で大胆ですネ。ちょ、ちょっと狭いんですケド。え?もっとくっ付けって?しょうがないなあ、お姉ちゃんは。
 なんて、そんな感じで一日が過ぎていって。
 ああ、それはとっても幸福な世界。二人で完成された世界。そんなことが出来たなら、他には何もいらないかもしれない。

「私を憎みなさい。私を呪いなさい。私を殺しなさい。―――――だからお願い、ずっと私の傍にいて」

 一際大きい雨粒が、私の顔に落ちてきた。
 いやだなあ。「あいつ」ならともかく、お姉ちゃんにそんなことするわけないじゃないですか。だから安心して。私はずっと、お姉ちゃんの傍に居るよ。
 アラアラ、そんな暗い顔しないで下さいヨ。可愛いお顔が台無しですぜ。って、私の視界が暗いのか。テレビの砂嵐みたいになってきてるし、端っこは墨汁でも垂らしたように真っ黒になって、殆ど視界がない。耳もキーンといって、もう断片的にしか聞き取れない。もう体の感覚だって、随分前から無いし。ああ、これはもうそろそろ限界かな?まあ、結構もった方じゃないかな?十分だよ。
 あ、そうだ。私、最期にお姉ちゃんに言いたいことがあったんだ。私は顔の筋肉を精一杯動かしてみる。満面の笑みになるように。思いっきり、空気を吸い込む。血の匂いが肺に充満し、えづきそうになる。とても苦しいけど、これだけは言っておきたい。例え、目の前のお姉ちゃんが幻でも構わない。私の、ただただ苦しいだけだった人生の最期に、こんなに安らいだ幸福な気持ちになれたのだから。あの時の、優しかったお姉ちゃんに会えたのだから。この気持ちを、お姉ちゃんに。

 お姉ちゃん、大好きだよ。





「ぉ、ねぇ・・・ちゃ・・・・・・・・・」

 葉留佳が、―――――逝った。
 ぱきん、と。私の中で何かが砕けたような、そんな音がした。
 先程まで、雨脚が弱まり霧雨程度の雨を降らせるだけだったが、徐々に空から大粒の雨が降ってくる。
「――――――――――――っ」
 私は葉留佳を腕に抱いたまま空を仰ぎ、息の続く限り叫び声を上げた。しかし、私の口からはヒューヒューと息が出るだけで、声を出すことすら出来なかった。胸を体の内側から掻き毟られている気がし、今にも鼓動が止まってしまうのではないかと思われた。
 見上げた空から降ってきた雨粒が、私の顔を叩く。空は雨雲に包まれて真っ黒で。雨と一緒に空まで落ちてきそうな気さえしてくる。いっそ、落ちてしまえばいいのに。
 私は天を睨み、声にならない嘆きや呪いを投げつける。

 何故、なぜ、ナゼ。どうして、「また」?
 私には、こうなる未来が分かっていた。
 だから、私は葉留佳を止めようと、以前の世界でも、そのまた前の世界でもそうしたようにこの子を探し、追いかけた。だけど、何度も何度も、いくら急いでも、待ち伏せをしても、私の手が、この子の肩を掴むことは叶わなかった。私は、永遠に葉留佳に到達することができないのかもしれない。それはさながら、アキレスと亀のように。私がこの子のいた場所に到着したとき、この子は既にその先の場所に進んでいて。また私がこの子のいた場所に行っても、この子はそのまた先にいて。
 そして、葉留佳は必ず車にはねられて、死んでしまう。私が駆けつけたときには、いつだって手遅れで。私には血に塗れたこの子を抱き、この子の体から力が抜ける瞬間を、瞳孔が開ききる瞬間を、胸の動きが無くなる瞬間を、ただただ看取ってあげることしか出来なかった。

 この世界は狂ってる。
 棗恭介が虚構世界と呼んだこの世界は、一見すると「今がいつまでも続けば良い」とさえ思えるほど平和で優しく、悲しみの無い世界だ。しかし、私は知っている。この世界で奪われ、蹂躙され、犠牲になっている人たちを。
 クドリャフカ。あの子の心に大きな傷を残した、あの哀しい出来事を何度も再現させ、その度にあの子が壊されていることを、私は知っている。そのさまは傷口を無理やりこじ開け、そこに執拗に塩を塗り込む、そんな拷問のように思われた。
 リトルバスターズの他の子たちとそれほど仲が良かったわけじゃないから、よくはわからない。しかし恐らく彼女たちも、自身が抱える、他人が触れてはいけない部分を暴き立てられ、責められ、壊されているのだろう。
 その中でも葉留佳に対する仕打ちは、悪辣を極めた。棗恭介の差し金で中傷ビラがばら撒かれ、学園全体から排除される。ここまでは他の子たちと同じだ。しかし、ここからが本当に恐ろしい。学園から排除されたこの子は、「必ず」車にはねられる。即死すら出来ず、意識を保ったまま、苦痛に呻きながら死んでいく。そして、死んだ後も、この子は何度もそれを繰り返す。そう、この子だけは、現実世界で「死ぬ」ことが決まっているにもかかわらず、更にこの世界で無限に「死に」続けなくてはならないのだ。
 私はこの仕組みに気付いたとき、二木や三枝の連中のやってきたことが児戯に見えてしまうほどの、棗恭介の、その限りない悪意に肌が粟立ったのを憶えている。
 果てしなく死の苦しみを与え続け、永遠に死後の安らぎを与えない無間地獄。こんなことが果たして人間にできるのだろうか?
 棗恭介はその意味で、もはや人間ではなくなってしまっている。この世界は、今や出口の無い無限の迷宮となり、棗恭介は迷宮の主、ミノタウロスになったのだ。人肉を貪り食らう、おぞましい怪物。生贄は、この迷宮で彷徨い続ける私たちだ。

 私は、子供の頃からずっと葉留佳を守りたかった。
 でも今まで私は、この子を守るどころか、傷付けてばかりだった。そしてあのバス事故の結果、この子を守る機会は永遠に失われてしまったはずだった。
 だから、この世界に迷い込んだとき、私は最後のチャンスを与えられたのだと思った。現実世界での私の罪を償える、最初で最後の機会。しかし、結局のところ私はこの子を守れずにいた。それどころか、私がこの子を何度も何度も殺していたのだ。
 葉留佳を死に追いやったのは私ともう一人、直枝理樹。葉留佳を守りたい私、葉留佳を救いたい直枝理樹。それぞれ、手段は違えど目的は同じ二人。それなのに、そこに棗恭介が手を加えることで、二つの歯車は歪に噛み合ってしまう。そして、歪に噛み合った歯車は、歯車が全く望まない方向へとこの子を暴走させ、やがて死へと導いてしまう。全くもって皮肉で滑稽な話だ。本当に救えない。
 繰り返す日々の中、私はずっと同じことを考えていた。どうすれば、葉留佳をあの運命から救えるだろう?どうすればこの子は、無間地獄から抜けられるのだろう?
 考え抜いた末に得られた結論は、この子を直枝理樹から、リトルバスターズから引き離すことだった。直枝理樹が傍に居ることが、いつか葉留佳を追い詰める。他の子たちも近づけたくなかった。近づけば、いつか必ずリトルバスターズと関わりを持ってしまうから。そして何よりも、棗恭介をこの子に近づけたくなかった。この諸悪の根源を、この子の視界にさえ入れたくなかった。
 そうすれば、この子の居場所は殆ど無くなってしまうかも知れない。でも、少なくとも中傷ビラが撒かれて、本当に居場所を奪われることだけは回避できる。

 いや、葉留佳を救うため、なんて嘘だ。
 本当は私が彼らから葉留佳を奪いたかったのだ。私は彼らが羨ましかった。妬ましかった。この子が彼らに笑顔を向けること。この子が彼らと楽しそうに話すこと。全部全部、私には許されないことだったから。
 私は、葉留佳の身も心も縛り付けたかった。今までも、これからも、私には葉留佳しかいないから。葉留佳が私を見てくれないと、私には生きていく意味が無くなってしまう。それは、自分が葉留佳の身代わりになることより、一生自分を殺して生きていくことよりも、ずっとずっと恐ろしいことだった。
 今まで散々葉留佳を傷付けた私を許して欲しいなんて思わない。好きになって欲しいなんて思わない。私は、この子の憎しみのはけ口でも構わない。
 だからおねがい、葉留佳。私だけを見て。憎しみでも殺意でもいい。私のことだけ考えて。私の傍を離れないで。
 私を独りにしないで。

 どれくらい、私はここに居たのだろうか。さっきまでは空を見ていたのに、いつの間にか、私は地面を見つめていた。いや、見てはいなかったように思う。うつむいて、気を失っていたのかもしれない。
 雨は本降りになっていて、私と葉留佳の体を濡らしていた。
 葉留佳。
 私は、葉留佳をもう一度抱きしめた。この子の手を握りたい。この子に触れていたい。そんなちっぽけな願いが叶えられるのが、この子が死んだ今だけしかない。そのことが酷く悲しい。だけど、だからこそ私は葉留佳の亡骸に触れていたかった。この子の存在を私の肌で感じたかったのだ。
 葉留佳の全てが愛おしかった。
 葉留佳の体は柔らかだった。これまでこんな優しく頼りない体でずっとあいつらの虐待に耐えていたのだ。よく頑張ったね。
 この子の温もり。もう事切れて時間も経ち、更に雨にうたれた所為か、体は冷え切っていた。寒かったでしょう。私が暖めてあげるから。
 葉留佳の匂い。いつもの柑橘系の香りはもうしない。するのは生臭い血の臭い。柑橘系は生理的に受け付けないので、あの匂いも苦手だったが、せめて最後くらいこの子の匂いを感じたかったのに。それが残念でならない。
 私は体を起こし、葉留佳の顔を目に焼き付けようとした。口角がわずかに上がっていることに気付く。それだけでこの子の顔が一気に大人びて見えた。憂いを含んだその微笑みは、私が終ぞ見たことのない表情だった。私の目の前でこの子は、笑顔なんて見せてくれなかったから。ああ、何て綺麗な表情なのだろう。私は、葉留佳の前髪の乱れを直してやると、人差し指をこの子の唇に当て、その微笑みをなぞってみた。そして、一瞬躊躇った後、私は葉留佳の唇に、そっと自分の唇を重ねた。

 もうしばらく、葉留佳と一緒にいたかった。だが、私にはまだ、やることが残されている。
 私は葉留佳の亡骸を近くの軒下まで動かした。雨が当たらないことを確認すると、葉留佳の顔には私のハンカチ、体には私の上着を掛けてあげた。最後に念のため私の傘を葉留佳の頭上に差して置く。
 ごめんなさい、葉留佳。もう私には、あなたを部屋まで運ぶ時間は残っていないの。だから、ここに置いて行くわ。せめて、雨があなたの体をこれ以上濡らさないようにしておくから。
 空から、ざあざあと雨が降り注ぐ。私はずぶ濡れになるのを気にせず歩く。上着を脱いだから、私の両腕の傷が濡れた服の上から透けてくる。だが、それすらも気にならない。もう、この世界も、この世界での私も、既に終わっているのだから。

 葉留佳。また会いましょう。
 今度こそ、あなたを守ってあげる。
 そのためになら、どんなにあなたに憎まれてもいい。
 あなたに呪われてもいい。
 あなたに殺されたっていい。
 私の全ては、あなただけのものだから。


[No.136] 2009/05/29(Fri) 01:55:03
リン、ジュテーム (No.128への返信 / 1階層) - ひみつ@20480 byte

深く青い色の空を見上げて、私はこれから自分の人生に起こることの予感に漠然とした不安を感じ、すでにあきらめはじめていた。
――よしもとばなな『彼女について』


 ドリンクサーバーにグラスを押しつけた。注ぎ口からジュースが流れ出てきた。グラスの中で氷が音を立てた。七分目くらいまで注ぎ、かたわらに置いておいた自分の分のグラスを手に取った。緑茶だった。席へ戻る途中で、棗鈴とすれ違った。「ちょっと鈴どこ行くのさ」と、理樹は声をかけた。 
「デリケートゾーンの欠片もないな、馬鹿」
「あるよ欠片くらい! それを言うならデリカシーでしょ?」
「あーもー、せがらしか!」
 鈴は理樹にそう吐き捨てて、トイレへ向かった。女子トイレは個室が三つあったが、どれも無人だった。一番奥の個室に入り、除菌ペーパーで便座を拭いた。そして下着もスカートも下げないまま腰を下ろして、頬杖をついた。店内でかけられている音楽が遠くから聞こえていた。
 個室を出て、洗面台の前に立った。喉が渇いていたが、ジュースを飲みたいとは思わなかった。鏡の中の自分を見つめた。無愛想な顔をしていた。
 化粧室を出た鈴は席には戻らずにレジの前を通り抜けて、店を後にしようとした。入口の自動ドアのところで、見知った顔の少女と鉢合わせした。神北小毬だった。小毬は大きめのトートバッグを抱えていて、スケッチブックや色鉛筆入れが突っ込まれていた。
「あー、りんちゃんだ」
「や、こまりちゃん」
「帰るとこ?」
 鈴は困ったような顔で曖昧に頷き、早足で店を出て行ってしまった。小毬は首を傾げながら、店員に「一人です」と言いかけてから、「あ!」と声を出した。窓際の席に直枝理樹が座っていた。ストローをくわえて、だらしのない表情をしていた。店員に「あそこです」とだけ言い、理樹の元へと向かった。
 小毬はバッグを椅子に置き、「こんにちは」と理樹へ声をかけた。理樹は窓の外を見やっていて、彼女の存在に気づいていなかった。驚いたように小毬を見上げ、「あ、小毬さん」と言った。
「ここ、いいよね」
「うん。あ、でも、鈴が」
「りんちゃん? さっき出てったよ」
 メニューを手に、小毬が何でもないような口ぶりで言った。
「え?」
「そこ」
 理樹の目が小毬の指先を辿った。信号待ちをしている鈴の後ろ姿があった。そわそわとして、理樹の視線はいったん小毬の顔に戻り、すぐにまた外を見た。それから「え? 何で?」と口走り、立ち上がった。
「理樹くんどうしたの?」
「あの、ごめん、小毬さん」
 それだけを言い残し、理樹は駈け出していた。小毬も席を立ち、通路から理樹の背中を見送った。理樹はレジで立ち止まることなく、店を走り出た。小毬は席に戻り、窓の外を見た。信号が変わって、鈴が歩き出した。半分くらいを渡ったところで後ろを振り返り、逃げ出すように走り出した。理樹がその後ろを追っていた。鈴は信号を渡った向こうにある公園に入り、公衆便所へ姿を消した。
 小毬はその様子に苦笑いを浮かべながら、メニューを取った。長居をするつもりはなかったが、何かを頼まないわけにもいかなかった。コードレスチャイムを押し、店員を呼び出した。「ショートケ……あ、いやポテトサラダと、あとドリンクバー」と言った。店員は一旦下がり、グラスを持ってすぐにやってきた。ドリンクバーの説明を始めたが、小毬はほとんど聞いていなかった。
 店員がいなくなってから、ノートを出して新しい絵本の構想を練った。全体の構成を考える一方で、余白にイラストを書いていった。ふと伝票立てが目に入った。そこには数枚の伝票が入っていた。小毬は伝票に手を伸ばした。理樹と鈴が頼んだものがそのまま残っていた。
 小毬は反射的に立ち上がり、窓から外を見た。ちょうど公衆便所の窓から鈴が出て行こうとしているところだった。理樹はそれに気づいていなかった。理樹と目が合った。小毬は身振り手振りで鈴が逃げていることを伝えようとするが、理樹はまったく気づかなかった。やがて鈴よりも支払いのことが頭を占め始め、親指と人差し指で輪を作り、理樹に戻ってくるように促した。しかし理樹にはまったく伝わらなかった。
 鈴の脱出に理樹が気づいたのは間もなくだった。鈴が空き缶に蹴躓いて転んだのだった。すぐに立ち上がって走り出したが、すでに気づかれてしまっていた。理樹は小毬に軽く手を振って、走って行ってしまった。すぐに彼の姿は見えなくなった。お金は何とか足りるだろうし、後で理樹から返してもらえばいいと思った。鈴から返してもらうという考えが浮かばなかったことに苦笑し、席に座った。
 テーブルに一冊の本が置かれていた。理樹か鈴のものだろうと思い、何気なく手に取った。紙のブックカバーが巻かれていた。表紙を開いた。「よしもとばなな……?」。そう呟いていた。ぺらぺらと頁をめくっている内にサラダが運ばれてきた。


 寮の前の車道を渡った。鈴はガードレールをひょいと跨いで、女子寮へ歩いていった。理樹の姿は近くにはなかった。うまく逃げられたようだった。どうして逃げ出そうとしたのかは自分でもよくわからなかったが、そうすることは間違ったことではないと漠然と思っていた。
 女子寮の前には救急車が停まっていた。白い車体を眺めていると、女子生徒が一人ストレッチャーに乗せられて、寮から出てきた。鈴は背伸びをして、様子を伺った。能美クドリャフカだった。意識がないのか、ぴくりとも動かなかった。走り出す救急車を見ていると、不意に肩を叩かれた。振り返ると、兄が立っていた。
「帰ってたのか」
 鈴はこくんと頷いた。視線はそらしたままだった。
「理樹は? いっしょだったんだろ?」
「知らん。置いて帰ってきた」
「え? なんで?」
 鈴は肩をすくめて、「じゃ」と歩き去ろうとした。恭介は彼女の肩へ手を伸ばし、「待て」と言った。が、鈴はすかさずその手を振り払い、小走りになってじゅうぶんな距離を取った。
「触るな、馬鹿兄貴」
 恭介は呆れたように「お前な」と口を開いた。
「いい加減、理樹の気持ちにも」
「うっさい!」
 兄の言葉を遮るようにそう言い放ち、鈴は女子寮へ歩き始めた。恭介は「待てって」と呼びかけるが、素早く反転した鈴は兄に向かって中指を立てて、「メルド!」と叫んだ。兄の反応を確認しないまま、寮の入口の戸に手をかけた。恭介は何も言わずに屋内へ消えていく鈴を見送った。
 やれやれと言わんばかりにため息をつき、男子寮へ戻った。ちょうど理樹が帰ってきていた。理樹は恭介を見るなりすたすたと駆け寄ってきた。恭介はそんな理樹に笑顔で、「おお、帰ったか」と言った。
「鈴と何かあったのか? 先帰ってきてたけど」
「わかんない。いきなり逃げられて」
「逃げられてって、何だそれ」
「わかんないって。それより救急車、何あれ?」
 理樹は救急車が走り去った向こうへ顎をしゃくった。恭介は「ああ」と思い出したように言った。
「そうそう、能美が熱出して運ばれたんだ。倒れて」
「クドが? 大丈夫なの?」
「わからん。女子寮の廊下で倒れたって話だ」
 理樹は「へえ」と相槌をうちながら、車道のはるか向こうを見やった。救急車の影が見えるはずもなかったが、そうせずにはいられなかった。
「どうも。新型らしい」
「え? インフルエンザなの?」
「そうそう犬インフ……いや、クドインフルエンザ」
「いや、そんな目を輝かせて言われても……」
「なんてな」
 と、恭介はにやっと笑った。理樹もつられるように笑い、じゃれるように恭介の胸を押した。そのとき背後から「理樹君!」と声を掛けられた。振り返るとバッグを抱えた小毬が立っていた。彼女の顔を見て、理樹は「あ!」と声を出した。
 素っ頓狂な声を上げた理樹に小毬は「どうしたの理樹君」と言った。理樹は慌てたように両手をくるくると動かして、「さっきはごめん!」と頭を下げた。「別にいいよー」と小毬は手を振って笑い、すぐにこう問いかけた。
「そんなことより理樹君、この本ってりんちゃんの?」
 小毬はバッグからブックカバーの付けられた本を取り出した。理樹はそれを見て、「あ、うん」と頷いた。
「やっぱりそうなんだ。じゃ、届けてあげないと」
「そうだね。あ、小毬さん、悪いんだけど」
「うん。私持ってくよ」
「あ、ありがと……」
 小毬は女子寮へ向かって歩き出した。途中で振り返ると、理樹と恭介はまだ立ち話をしているようだった。仲の良さそうな二人の様子に目を細めながら、ふと空を見上げた。先程までは晴れていた空が、今では雲に覆われてしまっていた。今にも一雨きそうな雰囲気だった。
 寮の廊下を歩いていくと、鈴の後ろ姿を見つけた。廊下の窓から外を見下ろしているようだった。位置から考えると、ちょうど男子寮の入口が見えているはずだった。たそがれているような彼女の姿を前に、声をかけるタイミングをなんとなく逸してしまった小毬はとりあえず荷物を自室に置きに行くことにした。その上で戻ってこようと考えた。彼女の真後ろを通り抜けた。鈴の後ろ髪とスカートの裾が揺れた。鈴はふっと顔を上げ、緩慢な動作で後ろを振り返った。小毬の背中に声をかけようとしたが、どうにも言葉を発することができなかった。
 再び窓の外へ目をやった。寮に入っていく理樹と恭介が目に入った。二人の姿が見えなくなると、外は無人になった。風が出てきたようだった。空き缶がうつろに転がっていた。雨が降り始め、アスファルトの色が濃くなっていった。
 鈴は部屋に戻った。開けっ放しにしていた窓から雨が入り込んでいた。短い間で本降りになってしまっていたようだった。鈴は早足で窓際へ向かい、窓を閉めた。タンスからタオルを取り出し、水浸しになった床へ落とした。それからしゃがんで水を拭き取ろうとしたが、すぐにまた立ち上がった。打ちつけられている雨粒を見ながら、窓をゆっくりと開けた。風にあおられた雨がまた吹き込んできた。
 不意に顔の真横から細い腕が伸び、窓が閉められた。振り返ると、小毬が立っていた。小脇に本を抱え、かすかな笑顔を浮かべていた。
「ダメだよ、りんちゃん。こんな濡れちゃって」
「こまりちゃん?」
「うん。本届けに来たの。忘れ物」
 小毬はそう言いながら、本を傍らのベッドに置いた。「あ」と鈴が目を丸くした。よく見ると、小毬の半身は濡れてしまっていた。慌てたように鈴は別のタオルを用意しようと、タンスに向かった。
 雨の音が強くなった。小毬はまた窓際へ近寄った。曇った窓ガラスを拭き、外の様子を伺った。空の灰色はいっそう濃くなっていた。「さっきまで晴れてたのに。りんちゃんみたい」と呟いた。背後から鈴のくしゃみが聞こえ、小毬は静かに微笑んだ。


 早朝だった。くしゃみをした表紙に目を覚ました。鈴はむっくりと身体を起こして、パジャマの袖で鼻を拭きながら大きく伸びをした。少し熱っぽかった。枕元に置いてあるミネラルウォーターのペットボトルへ手を伸ばした。水を口に含むと、ぼんやりとしていた頭の中が晴れていくようだった。立ち上がってカーテンを開けた。雨は止んでいたが、雲が空を覆っていた。またじきに降ってくるかもしれないと鈴は思った。
 制服に着替えて、廊下へ出た。私服にしようかと思ったが、結局はまた着替えることになるのでその手間を省いたのだった。洗面所で顔を洗い、そのまま外へ出た。この時間ならどうせ誰にも会わないだろうと高をくくっていた。寮を出て、前の歩道まで歩いていった。外は涼しかった。秋の空気がすぐそこにまで来ているようだった。
「あ、鈴、おはよう」
 理樹がいた。紙パックの牛乳を手に持っていて、ちょうどストローをさそうとしているところだった。鈴は一瞬言葉を失くしたが、すぐに「なんで……?」と言った。
「なんでって、なんか牛乳飲みたくなっちゃって。牛乳って朝でしょ」
「いまさら背は伸びないぞ」
「え、まだわかんないよ」
「……往生際の悪い奴だな」
「まだわかんないから!」
 そう言って、理樹は笑った。心底楽しそうな笑顔だった。それが妙に腹立たしく、「なんだお前」と冷たく言い放っていた。理樹はまったく気にしない様子で「別に」と答えた。
「そんなことより、昨日なんで帰っちゃったのさ」
「え?」
「食堂でも端っこの方にいるし」
「だって……」
 理樹はガードレールに座り、「だって?」と問いかけてきた。鈴は何か答えようとするが、うまい言葉が見つからず、口をぱくぱくと動かすことしかできなかった。そもそも、答えなんて持ち合わせていなかった。こいつ、わかってやってる、ずるい。そう思うと、いっそう腹立たしくなってきて、「知るか馬鹿!」と怒鳴っていた。そして早足で歩道をずんずんと歩いていった。理樹はその剣幕にひるんでしまい、彼女の背中が遠ざかっていくのをどこか他人事のように眺めていた。
 鈴の姿が見えなくなってから、はっと我に返り、追いかけなければいけないと考えた。腕時計を見た。まだ七時前だった。近くのごみ捨て場でごみ袋の口をほどき、牛乳の紙パックをねじ込んでからまた元に戻した。それから彼女を追うことにした。昨日から追いかけっこばっかりじゃないか。そう苦笑した。
 今度は逃げ出したわけではなさそうだった。理樹はすぐに鈴に追いついた。「どこに行くの?」と訊ねても、彼女は答えなかった。ただ足を動かしていた。理樹もやがて無言になった。見慣れた街並みを、言葉を交わさずにしばらく歩いた。寮を出たときは涼しさを感じたが、今ではひどく汗ばんでしまっていた。すでに残暑が顔を覗かせ始めているようだった。
 鈴は急に立ち止まった。個人経営の商店の前だった。中年の小太りの男がシャッターを開けているところだった。鈴は理樹の顔を見て、「ジュース買ってこい」と命令した。
「まだやってないよ」
「待ってればいいだろ」
「わがままだなあ……」
 ぶつくさと言いながらも、理樹はその男の元へ近寄り、声をかけた。鈴のいる場所まではその声は届かなかったが、開店まで待つつもりのようだった。鈴は「先に行ってる」と言い、また歩き始めた。「どこに?」という声が聞こえたが、無視した。すぐに十字路にさしかかり、右へ曲がった。
 住宅街だった。立派な門構えの家があり、黒塗りの車が停められていた。その周りには三人の背広姿の男がいた。鈴は構わずにその脇を通り抜けた。男たちが鈴に興味を示すこともなかった。自転車に乗った男が前方から近づいてきていた。上半身は油で汚れたランニング一枚で、下はハーフパンツを穿いていた。のろのろと自転車をこいでいた。その様子が不安定だったので、鈴は道の脇に寄った。ぶつかりそうになることもなくすれ違った。鈴は走り出した。
 男は加速も減速もしなかった。黒塗りの車の横を通りかかったとき、ちょうど門が開いた。スーツ姿の男と和装の男が出てくるところだった。サングラスの男が後部座席のドアを開けた。自転車の男はハーフパンツのポケットから拳銃を取り出し、彼らへ向かって発砲した。静かな住宅街に響いた銃声はひどく乾いたものだった。男たちはその場に倒れしばらく痙攣していたが、やがて動かなくなった。男は自転車を止めず、顔だけを動かしてその様子をちらちらと見ていた。十字路にさしかかったとき、左から曲がってきたごみ収集車にはねられた。鈍い音がして、その場に倒れた。自転車の前輪が外れ、ころころと転がっていった。
 清掃服姿の男がエンジンをかけたまま降りてきて、後ろを回って倒れた男に近寄った。男はちょうど助手席の脇に倒れていた。しゃがみこんで、頬をたたき、首筋に手をやった。すぐに立ち上がって助手席のドアを開き、グローブボックスから拳銃を取り出した。倒れた男の頭部へ銃口を向け、二度発砲した。それから助手席から車に乗り、運転席に座った。ドリンクホルダーのペットボトルへ手を伸ばした。緑茶だった。四分の一くらい残っていたそれを飲み干した。ドアミラーを見やった。少年が一人、きょろきょろと周囲を見回しながら歩いてきていた。目が合ったような気がした。男は銃口を自分の喉元へ押し当てた
 銃声に理樹は身をすくめた。足が震えてしまい、うまく歩くことができなくなっていた。何が起こったのかはよくわからなかったが、目の前に停車しているごみ収集車の中で人が死んでいることだけは見当がついた。窓ガラスに血が飛び散っていた。理樹が立ちすくんでいると、収集車がゆっくりと動き始めた。人間が一人、ハンドルにもたれかかっているのが見えた。収集車は家の前に停められていた車に激突した。ごん、と音がし、クラクションの音が鳴り響いた。
 その道をかなり行ったところに鈴が立っていた。クラクションが鳴りやむことはなかった。理樹は彼女へ近づこうとした。鈴もまた、理樹の元へ道を戻ろうとしていた。二人の間には死体がいくつも転がっていた。火薬の匂いと煙が距離感をおぼろげにしていた。理樹は彼女の名前を呼んだ。返事はなかったが、声はしっかりと鈴に届いていた。鈴はかすれた声で「ここ、怖いよ……」と言った。その場にへたり込んで、動けなくなった。二つの瞳からは涙がこぼれていた。雨が降り始めた。二台の車からの煙が収まると、理樹はようやく鈴を確認することができた。彼女は路上に蹲っていた。その姿はひどく弱々しかった。


「死んで花実が咲くじゃなし、怨み一筋生きて行く」
「A・NE・GO! A・NE・GO!」
「女、おんな、女ごころの怨み節」
「いえー!」
 歌い終えた来ヶ谷唯湖に三枝葉留佳が喝采を送った。しかし手に持ったタンボリンの音が大き過ぎ、「やかましいぞ、葉留佳君」と一蹴された。葉留佳はそれでも構わずに椅子の上に土足で立って、タンボリンをめちゃくちゃに叩き続けた。呆れたように西園美魚が言った。
「馬鹿みたいにテンション上がってますね」
「なんか、留年らしいですよ」
「うるさいクド公。インフルエンザだったくせして」
「えー違いますよ。ただの風邪です」
「ふふふ。夏風邪は馬鹿しかひかないんだヨ」
 入口のドアのすぐ近くに座っていた鈴は何も言わずに席を立った。廊下に出ても、各部屋から漏れる音楽や歌声が耳に入ってきていた。クドリャフカの全快祝いにカラオケに来ていた。しかし鈴は部屋の隅にちょこんと座って、文字通り借りてきた猫のようになっていた。一時期肺炎を併発していたクドリャフカが冗談を言えるくらいに回復したのは嬉しかったが、喧噪は苦手だった。
 化粧室に行き、手を洗ってから鏡の中の自分の顔をじっと見た。かわりばえのない顔だった。鈴は化粧室を出て、細い廊下を歩いた。けたたましい打楽器の音が聞こえていたから、皆のいる場所がどこの部屋かはすぐにわかった。ドアノブに手をかけ、動きを止めた。戻りたくなかった。壁一枚隔てたくらいの音量がちょうど良いように感じられた。ドアはガラス張りになっていて、中の様子が窺い知れた。誰も自分に気をかけていないように見えたが、理樹だけがじっと見ていた。鈴は踵を返して、階段へ向かった。「書きかけのあなたの似顔絵、似てなくて何度も消したわ――」。美魚の歌声がわずかに聞こえた。
 理樹は鈴が店の外へ出ようとしていることに気づいていた。追いかけるつもりだったが、部屋の奥の方にいたためになかなか出られなかった。恭介に目で事情を伝えたが、アゴゴを楽しそうに叩いているところを見る限り、正確には伝わっていないだろうと思った。しかし後で電話をすればいいだろうと思い、部屋を出た。
 鈴は歩道をとぼとぼと歩いていた。理樹は彼女の名前を呼んだ。鈴が振り返り、鋭い視線で理樹を射抜いた。一瞬、二人は動きを止めた。鈴はすぐに走り始めた。「え?」と理樹は声を上げた。彼女の後ろ姿はどんどん小さくなっていった。夜だった。暗さにまぎれて、すぐに見えなくなってしまった。
 理樹も遅れて走り始めた。走りながら、昔はかけっこでいつも負けていたことを思い出した。しかし成長した今は、勝てなくとも、追いつけないこともないだろうと楽観していた。実際、鈴の背中が再び視界に入るまでに時間はあまりかからなかった。
 走っている内に、不思議と気分が高揚してきた。こうして身体を動かすこと自体が久しぶりだった。真人とトレーニングをしてみるのも悪くないかもしれないと思えた。赤信号を無視して、横断歩道を駆け抜けた。鈴の背中が大きくなってきていた。彼女のスピードは明らかに落ちていた。追いつくまでに二ブロックもいらないだろうと感じた。
 実際に要したのは一ブロック半だった。走るのをやめた鈴は膝に手をやり、肩で大きく息をしていた。後ろから迫ってきている理樹に「降参」と言おうとしたが、走ってきた理樹は彼女を追い越して走っていってしまった。
「ちょ、お前なんで――!」
 反応すらせずに走り去っていく理樹を見て、カチンと来た。息は切れたままだったが、鈴は額の汗を拭って、理樹の背中を追い始めた。鈴は夜目がきいた。理樹の姿を見失うことはなかった。
 いつの間にか土手沿いを走っていた。理樹がようやく立ち止まるのを確認し、鈴はほっと胸を撫で下ろした。しかし足は止めなかった。その勢いのまま、理樹に体当たりした。それくらいしないと気が済まなかった。突然の衝撃に理樹の身体は近くの建物の鉄製の門扉に激突した。
「いてて」
「あ、悪い」
 理樹は門扉にもたれかかるように座り、身体をさすった。さすがの鈴もやりすぎたかと反省し、「大丈夫か?」と訊ねた。理樹は「大丈夫じゃないよ……」と小声で答えた。「そうか」と鈴は言った。どうすればいいのかわからなかった。だから何気なく門扉を押した。すると重々しく見えたそれはあっさりと開いた。
「あ、開いた」
「ここって……工場だっけ?」
「うん。でももう潰れた」
 鈴がふらふらと敷地に入っていき、理樹もその後を追った。肩のあたりに痛みがあったが、動けないほどではなかった。あざくらいにはなるだろうが、たいしたことではないだろうと判断し、理樹は鈴の隣に立った。鈴は入口と思われる鉄扉の前にいた。南京錠がかかっていたが、劣化していたのか、理樹がそれに手をやった途端ぼろぼろと崩れてしまった。二人は顔を見合せて、頷き合った。中に入ると、すえたような匂いが鼻をついた。明かりがないために、ほとんど何も見えなかった。
 鈴は思い切って口を開いた。
「理樹」
「何?」
「今日、もう帰りたくない。なんかいやになった。疲れたし眠いしめんどい」
「うん。じゃ、泊まる?」
「どこに?」
「……探してくる」
 そう言い残し、理樹はつかつかと奥へ歩いていこうとした。鈴は慌てて「あ、待て」と言った。振り返った理樹に「怖い」と言った。正直な気持ちだったが、理樹が笑うのでむっとした。
 理樹は鈴の元へ戻り、手を取った。「行こう」と言った。理樹の手のひらのぬくもりがやけに生々しく、反射的に手を離した。
「ど、どうしたの?」
「恥ずかしいだろ!」
「なんで?」
「なんでって、なんで?」
 逃げようとする鈴の手を取った。今度は離さなかった。携帯電話をポケットから出し、バックライトで建物を照らした。思っていたよりも広かった。鈴の手を引き、階段を上った。二階に事務所があり、大きめのソファーがあった。埃をかぶっていたが、どうにか使えそうだった。埃を払い、鈴をそこで寝させた。
 理樹はまんじりともせず夜を明かした。疲れはあったが、眠れなかった。鈴が寝返りをうとうとする度に落っこちやしないかとひやひやした。やがて夜明けが訪れた。理樹は汚れた窓をシャツで拭ったが、汚れはまったく落ちなかった。押しあけようとすると、窓ガラスが外れて向こう側へ落っこちてしまった。ガラスの割れる音で鈴が目を覚ました。
「理樹……?」
「おはよ。何でもない。大丈夫だよ」
「大丈夫なわけあるかー!」
 ガラスは粉々に砕け散っていた。子供が遊びに来ようものなら、大けがをするかもしれない。鈴はそう思って、理樹の後頭部をぱんと叩いた。「今度掃除しに来るよ」と理樹は項垂れたまま、言った。
 二人は裏の階段から外に出た。階段は手すりもステップも錆ついていて、危なっかしかった。敷地を隔てるフェンスを乗り越え、寮へはどうやって帰ったものかと周囲を見回した。群青色だった空に太陽の色が加わり始めていた。理樹はふと捨てられた工場を振り返った。壁にペンキで落書きがしてあった。

ロバート・イエガー、航空中尉だ。
最高のパイロットだったが、戦闘機でロンドンにいる恋人を訪ねた。
最初は戒告、2度目は地上勤務3カ月で今度は軍法会議だ。
――"Inglorious Bastards"

 なんなのかよくわからなかったが、戦闘機で恋人に会いに行くというのはロマンティックだなと思えた。戦闘機に恋人を乗せて、空を飛ぶのだろう。理樹は隣の鈴を見た。鈴はその視線に気づき、首を傾げた。
「ぼくも戦闘機で君に会いに行きたい。君はパリにいるかもしれない。僕は言う、翼よあれが――」
「寝ぼけてるのか? きしょ」
 鈴は気味の悪いものを見るように顔をしかめて、すたすたと歩き始めた。


(了)


[No.137] 2009/05/29(Fri) 02:11:29
星色夜空 (No.128への返信 / 1階層) - ひみつ 8506 byte

修学旅行が終わって3ヶ月が経ったある日の夜。
星空の下、一人立ち止る。見上げるとビー玉をばら撒いたような星が輝いている。
無意識に描かれるあの子の姿。この星の下であの子はいったい何を思っているのだろう。
最近夜になってはそんなことばかり考えている。
素直になれたらいいんだけど、つい強がって素っ気無い態度をとってしまう。
本当は葉留佳のことが大好きで、一緒に居ないと寂しいのに……
もう一度上を見る。するとさっきは気づかなかった、2つの星。
仲良く寄り添って一際美しく輝いてる。
そんな輝きであるように、葉留佳を想い、願う。


そんなことを考えていると寮につく。あとは課題と明日の予習をして寝るだけ。
朝になるといつも通り強がってしまうんだろうか……
いや、それじゃあいけない。明日こそは素直になろう。そう心に決め、寝る私だった。


「おはよーお姉ちゃん」
「おはよう、葉留佳」
いつものように私は葉留佳と二人で学食に来た。
券を買って食べ物を受け取り、席に着くという習慣化された動作を行う。
「葉留佳、醤油とってー」
「またかけるの?好きだねー」
「だってこの魚味薄いんだもの、しょうがないじゃない」
「いや、これで普通かと……朝だし」
「そういうものなのかしら」


朝ごはんを食べ終えた私たちは教室へと向かった。
1時間目の準備をしていると、葉留佳がノートを持ってこっちに来た。
大体の予想はつくけど、ここで甘やかしちゃ駄目よね。
「お姉ちゃん、宿題を」
「だめ」
「即答!? 最後まで言わせてー」
「自分でやらないのがいけないんでしょ。昨日だって時間あったでしょ」
「うん、まあね……じゃあ姉御のとこ行ってくるー」
まったく、すぐそうやって人に頼ろうとするんだから。
でも先に私に言ってきたのはうれしかったかな……



授業が終わり昼休み。昼ご飯も葉留佳と一緒に食べる。
やっぱりこういう他愛ない時間が好きだ。
「ねえねえ、テキパキってどういう意味?」
「物事を手際よく迅速に処理するさま、という意味よ」
「うーん……迅速ってどういう意味?」
「すみやかなこと、きわめてはやいこと。だったと思うわ」
「じゃあさ、すみやかってどんな意味?」
「はやいさま、ひまどらないさまって言う意味よ」
「ひまどらないって?」
「そろそろやめにしない?」
「わからなくなりましたネ?」
「そんなことないわよ。あ、醤油とって」
「どうぞお姉ちゃん」
「ありがと」
「ホントに好きだよね、醤油」
「ケチャップも好きよ?」
「じゃあマヨネーズは?」
「普通かな。カロリー高いし」
「そこは気にするんだ!? はるちんの新発見!」
「いいじゃない。それより、はるちんっていう言い方子供っぽくない?」
「そうかなー。じゃあお姉ちゃんはこれからかなたんで」
「じゃあってなによじゃあって! そんな呼び方しても無視するだけよ」
「かなたん〜」
「無視よ無視。現在の世界情勢はどうなっているのかしら〜」
「むー、いいもん。無視されたってかなたんって呼ぶもん」
「くっ、それは反則よ……」
上目遣いでかなたんと連呼してくる葉留佳はとてもかわいい。
昼ごはんの代わりに食べてしまいたいくらいに。
その後も連呼されて大変だった。
理性が本能に辛くも勝利したところで予鈴がなった。







1日の授業が終わり放課後になった。
ここしばらく活動していなかったリトルバスターズは、最近活動再開していた。
今も前と同じように野球をしているようだ。私はその様子を木の陰で見ていた。
葉留佳は楽しそうに皆と野球をしている。
それは本当に楽しそうで、うれしくもあり、少しうらやましい。
入ってみたいという気持ちはある。でも私から入りたいなんて絶対にいえない……
自分の中で揺れる気持ちが戦っていた頃、練習の方は終わったようだ。
しばらくして葉留佳が走って来た。
「ふー、今日も疲れましたヨ」
「疲れるんだったらやらなきゃいいのに」
「いや、身体は疲れたけど精神的には元気ー!」
「ちゃんと休みなさいよ。授業とかで寝ないように」
「疲れてなくても寝るから大丈夫!」
「自信を持って言うことじゃないでしょ」
「やはは。それよりさ、そろそろリトルバスターズに入らない?」
「それはちょっと……あ、でも」
反射的に出てしまった否定の言葉を訂正しようとするが、それより早く結論が出された。
「やっぱりダメか、しょうがないよねー。まあ気が変わったらいつでも言ってよ」
どう返せそうか考えているうちに、寮に付いてしまった。
はあ……なにやってるんだろ、私。


もうすぐ夜になる。また今夜も葉留佳のことを想いながら過ごすのだろう。
そう考えていると1つの考えが浮かんだ。
今葉留佳と話せば素直になれるのではないか。
ずっとこんな気持ちでいるなんて嫌だ。
そう思った私は少し迷ったが、葉留佳にメールを送った。
『話があるから9時に校門前に来て』と。







私が校門前についたのは8時50分。葉留佳はまだ来ていない。
誰かに見つかるといろいろ言われそうだが、今の私にはどうでもよかった。
正直これからのことで精一杯だ。
その5分後くらいに葉留佳がゆっくりと歩いてきた。
軽く挨拶してから中庭に向かう。
私の隣で歩く葉留佳はいつもと違う感じだった。かなりおとなしい。


しばらくして中庭に着いた。木に寄り添うようにして二人腰を下ろす。
「ところで話ってなに?今しか出来ないようなこと?」
「うん。正確には私が話せなかっただけなんだけど……」
不思議そうにして見つめる葉留佳の目を見ながら話していく。
「さっきはあんなこと言ったけど、やっぱり私もリトルバスターズに入って葉留佳や
みんなと居たいの」
「……それだけ?ホントにそれだけ?」
「そうよ。なにその『えー、それくらいのことでわざわざ呼び出し?別にそれくらいどうってことないじゃん。そんなことも出来ない気弱な性格だっけ?あまりのギャップの激しさに引くなー』って顔は!」
「惜しいかな。ギャップが激しくてかわいいとは考えてたけど」
普通に返された!? しかも今さらりとかわいいって……
私の顔が赤くなっていくのがわかる。きっといきなり言われたからだ、これは。
「今のお姉ちゃん、なんか話しやすいな」
「それは……」
せっかく今は葉留佳と二人きりなんだ。この際思ってることを言ってしまおう。
「それは、私が夜になるといつも葉留佳のことを考えてるから」
「そうだったの?」
「ええ。だから今しかこんなこと言えないんだから」
「ふーん。まあでも、私もお姉ちゃんのこと考えてたかな……」
てっきり今の言葉に突っ込んでくるかと思ったら、意外にも控えめだった。
何か様子がおかしいので聞いてみると、
「お姉ちゃんと二人きりだとなんか調子でないっていうか……どうしてだろ?」
そんな答えが返ってきた。もしかしたら葉留佳も私と同じで今以外は素直に
なれないんじゃないのか、そう思った。
それをそのまま口に出すと、葉留佳は自分の恋心に気づいた乙女のような表情で
押し黙った。

沈黙が流れる。静かなのは嫌いじゃないけど少し気まずくなってしまった。
ともかく私の気持ちを正直に話そう。そうしないと伝わらないから。
「ねえ葉留佳、もう気にしてない?これまでのこと……」
「うん。それより私は今こうやって話せてることのほうがうれしいかな」
「そう言ってくれるのね、ありがとう」
「けどお姉ちゃんも大変だったんだよね。……でも風紀委員は辞めたんでしょ?
だったらさ……」
「そうね。これからは葉留佳とたくさん話したり遊んだりできるわね」
先を読んだつもりだったけど、それは外れた。
「それもそうだけど、ホントのお姉ちゃんを私は知ってる。みんなの前でもそうしていたら気が楽になるんじゃないかな?」
「……そうね。葉留佳にはもう嘘の自分でいたくない。そうして過ごせば私でも、自然に笑えるのかな?」
「きっと、いや、絶対に笑える。だって私たち双子でしょ?だったらお姉ちゃんにもそうなれる素質があるってことだよ。ね!」
だったら葉留佳もまじめになる素質はある、とはいわないでおく。
葉留佳には今のままが1番だから。変わってほしくないから。
そして、その言葉が私にはとてもうれしかったから否定はしたくない。



「ねえお姉ちゃん、星がきれいだよ」
「そうね。でも今そばにいる葉留佳の方がずっときれいよ」
「え、やだちょっと! 何言ってるの……」
照れて私に背を向けてる葉留佳。こういう仕草は双子なんだなと思った。
そして、こんな葉留佳を見ることをなかなかできないと気づいた私は、
もっと今まで見たことのない葉留佳を見たいと思った。
そっと後ろから抱きしめてみる。あ、温かい……
「わひゃっ! ど、どうしたの?」
「なんでもないわ。ただ反応がかわいいから、つい」
「姉御みたいなこと言わないでよー」
「他の人の名前今は出さないでよ……」
「お姉ちゃんがそんなことするからでは? というか、もしかして嫉妬してたりする?」
「まあ、ね」
当然じゃない。今まで1番葉留佳に近かったのはあの人なんだから。
「それじゃそろそろ戻ろうか」
「……いや。もっと葉留佳と居たい」
「ホントに性格変わってますネ。……でも私もこの時間は終わってほしくないな」
「夜をとめておく魔法があればいいのにね」
「そうだね。ならあと30分だけ。ね?」
「わかったわ。……楽しい永い夜になりそうね」
どうせ時間が延びるだろうと思いそう返した。



名目上の30分という時間。私はここで1番言いたいことを伝える。
「ねえ葉留佳、上手くいえないけど……ごめんね。それとありがとう。私は葉留佳のことが心から大好きだから。」
「そんなこと思ってくれてたんだ……私もお姉ちゃんのこと大好きだよ」
「ありがと。これからはずっと一緒よ。何があっても絶対に離れない。約束よ?」
「うん、約束。じゃあ半分こだね」
ポケットからビー玉を見せる葉留佳。それは一際美しく輝く2つのビー玉。
空を見上げる。そこにはやはり昨日と同じように2つの星。
仲良く寄り添って一際美しく輝いている。
そんな輝きであるように、葉留佳を想い、願った。
その願いは届いたのだろうか。私たちは輝いているだろうか。
隣を見るとそこには、空の星のように、手に持つビー玉のように輝く唯一無二の妹がいた。
周りを見ると、星やビー玉以外にもいろいろなものが光っている。
それでも私のそばにいる存在が、1番輝いて見えた。


[No.138] 2009/05/29(Fri) 19:28:14
fly away (No.128への返信 / 1階層) - ひみつ@9574 byte


       ――むかし、鳥を飼っていた。
          白くてきれいな、ちいさな鳥。
          傷つかないように、大事にかごのなかに入れていた。
          あの鳥はいま――



 ずいぶんと懐かしい夢を見た。
 暗闇のなか、ゆっくりと目を開けた。知らない天井、固い枕、うすい布団。
 自分はいまどこにいる?
 じっとりとした肌に心地よい夜風が吹く。潮のにおい。それにつられるように、今日のひと時を思い出す。
(そうだ、海に……)
 入院中にひらめいた思いつき。『俺たちだけの修学旅行』を実行したんだったか。
 ブーーーン、ブーーーン、ブ。
 俺の頭の上から、とつぜんの低いバイブレーション音。携帯のマナーモードだろうか? そういえば、俺の目が覚める前にも聞いたような気がする。むしろ、この音で目が覚めたというべきか。意外に大きい音がするんだなぁおいおいしっかりしろよマナーモード。というかこれ、もしかして俺の携帯か?
 俺は腕を伸ばして、枕もとの携帯を確認する――よりも先に、動く気配が。
 ぱちん。
 折りたたみ式の携帯が開かれ、薄ぼんやりとした光を生み出す。その光に照らされているのは、理樹の顔。気だるそうにポチポチとボタンをいじっていたが、唐突に跳ね起きて、
「…………!!」
 息をのんで動きを止める。
 なんとなく寝たふりをしていると、理樹はほーっ、と息をついて、今度は慎重に立ち上がる。まるで俺たちを起こさずに部屋を抜け出そうとするかのように。
「ミッション、スタート」
 小さく、理樹がつぶやく。そして俺の予想通り、そろりそろりと出入り口に向かう。
 ギシ、ギシ、ギシ。トン、トン、トン……。
 板張りの廊下のきしむ音。階段を下りる音。だんだん小さくなり、やがて聞こえなくなる。
「ふむ。外か」
 両腕を上げ、振り下ろす勢いで起き上がる。窓際にひそんで外をうかがっていると、理樹の後姿が、おっかなびっくり歩いている。歩く先には寝る前まで遊んでいた浜辺。なにをたくらんでいるかは知らんが……しかし、『ミッション』ときたか。
 まったく、誰に似たんだか。知らずに口元がつりあがる。
 窓枠から体を乗り出し、左右を見渡す。幸い人の気配はない。
「ならこっちも、『ミッションスタート』だ」
 真正面の木の枝に飛び移り、枝と幹を伝って音もなく地面に着地する。衝撃を殺した低い姿勢のまま前方をうかがう。『ターゲット』がこちらに気づいた気配はない。
「大佐、フェーズ1コンプリート。このままフェーズ2に移行する」
 スパイにでもなったつもりで、本部の上司に報告する。「頼んだぞ、キョウスケ」もちろん応答はないので、自分で上司の役も演じる。楽しくなってきた。右手でピストルを作り、左手は銃底にそえる。銃口は下に。中腰のまま物陰から物陰へ移動し、ターゲットの後を追いかける。
 空き缶を蹴飛ばして「うひゃあっ?」と驚いたり、隣の道路のヘッドライトに首をすくめたりと、ターゲットはどこか頼りなく歩いている。「おいおい、大丈夫か。付き添ってやろうか?」と何度声をかけそうになったことか。危ない危ない。きっとあれは、スパイをおびき出すターゲットの演技なんだ。
 やがて、浜辺へとたどり着いた。ターゲットは海より一段高くなっている道路から下へおりる。この先はさえぎる物がなにもない。仕方なく、道路のはしに身をかがめて下の様子をうかがう。浜辺にはすでに人がいた。ターゲットが接触する人物だろう。ちょうど月が隠れ――ああ、月明かりってかなり明るかったんだな――誰だかわからない。
 【だけどわかってしまった】
 間違えるはずがない。間違えようがない。血のつながった肉親の姿を誰が間違えられようか。普段は結んでいる髪を下ろしていたって、そんなものは関係ない。
「…………」
「…………」
 ザザー、ザザーという波音にまぎれて、ふたりの会話がよく聞こえない。
 【だけどわかってしまった】
 間違えるはずがない。間違えようがない。腕組みをして仁王立ちをする人影・だがその足が小刻みにふるえている・精一杯の強がりの証明。――そして、とまどうように挙動不審になる、もうひとつの影。
(マンガなら、ここでふたりを包むように虹色とかちいさな花とかをまき散らすんだろうな)
 頭の片隅で、くだらないことを考える。そして、ずいぶんと野暮なことをしてしまった自分をドン、と殴りつける。
 なるべく音を立てないようにその場を離れる。……大丈夫、気づかれた様子はない。
 外に出たときと同じルートをたどって、自分の部屋へと戻る。部屋では、真人と謙吾がいびきをかいて眠りこけていた。なんとなくふたりの頭をはたいておいた。びくともしねぇ。
 凸形に配置された布団の頂点、自分の布団にどっかりと寝っ転がる。
 そういえば、この布団の配置だけで結構もめたな。



 最初は四組が平行に敷かれてて、理樹がまずはじめに端っこを陣取った。すると真人が
『よっしゃ、オレは理樹の隣な!』
 とか言い出して、謙吾も
『なにぃ? 馬鹿を言うな、理樹の隣は俺だ! おまえはいつも理樹と寝てるじゃないか』
 と対抗。
『いつもはオレが上なんだよ! たまには気分変えてもいーじゃねえかよ!』
『否。よくない。俺は常にひとりなんだ。ここはひとつ、親友ならゆずるべきではないか?』
『いいや、ゆずらねえ』
『ゆずれと言っている』
『なんだ、やるか?』
『ああ。やるさ』
 ヒートアップするふたり、うろたえる理樹。
『恭介! ふたりをとめてよ!』
『任せろ理樹。――俺が隣で寝れば、万事解決だ』
『恭介……オレの筋肉に勝てると思ってるのか?』
『茶番だな……だが、やるからには全力でいかせてもらおう』
『火に油を注いでどうするのさ!? あーもう、だったら僕真ん中に行くよ! それでみんなで僕を囲めばいいでしょ!?』



 とまあこんな一悶着があって、今の凸形に落ち着いたんだったな。
 ……たまたま遊びに来ていた来ヶ谷と西園が、なぜか鼻血を噴いていたが……なぜだ。
 スーッ。
 ふすまが開く音。理樹が帰ってきたか。さっきと同じように、寝たふりをしてやり過ごす。
 しかしそれは無用な気遣いだったようだ。どう見てもまわりが見えないほど浮かれている。あ、真人が踏まれた。
 布団についたらついたで、三秒とじっとしていない。掛け布団に抱きつき、左右にごろごろごろ〜っと転がっている。ドルジか。
 しかし、やがて睡魔が興奮を上回ったのか、身動きを止めて、真人と謙吾のいびきの合間に静かな呼吸音を響かせる。
 まあ……なんというか。
(わかりやすいやつ)
 夜の浜辺。ふたりきりの男女。戸惑うふたつの影。地に足が着いていない男。
 告白、か。
 布団を頭からかぶり、胎児のように体を丸める。眠ろう、眠っちまえ。
 眠りにつく直前、思い出したように呟いてみる。
「大佐。ミッション、失敗だ……」





「で、俺はどうしてここにいるんだろう……」
「恭介? やっぱり、迷惑だった?」
 そんなんじゃねぇよ、「どうする? 愛Full!」な目で俺を見るな。
「それより、こんなところに呼び出してなんの用だ?」
 こんなところと言っても、昨日の朝昼夕と遊びほうけていた砂浜だ。
 ……そして、夜は理樹たちが密会していた場所。
「実は、恭介に話があるんだ」
「話?」
「うん。大事な話なんだ」
 まあ十中八九「鈴と付き合うことになった」って話だろうな。その証拠に、理樹は緊張をほぐすために深呼吸を繰り返し、しかし手はぎゅぅっと握り締められたままだ。明らかに緊張しすぎている。
 さてと、なにを言ってやろうか? やはりオーソドックスに「俺の妹は渡さん!」だろうか。それとも「鈴と付き合いたくば俺を倒してからにしろ!!」とか。意表をついて「むしろ俺と付き合っちゃえよ、ゆー☆」とでも言ってやろうか。
 内心ニヤニヤしながら、表面だけはマジメを装って理樹を見つめる。
 意を決したのか、やがて口を開いて、
「実は、鈴と付き合うことになったんだ」
 まっすぐに、俺を貫くように言った。迷いなんかなにもない顔で。
       ――むかし、鳥を飼っていた。――
「…………そっか」
 だから俺も、まっすぐに気持ちを伝える。
「よかったじゃないか」
「え? よかったじゃないかって、それだけ??」
「なにかほかに言ってほしいのか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
「俺はな、ずっとそうなったらいいなと思っていたんだぜ?」
       ――白くてきれいな、ちいさな鳥。――
「恭介……」
「鈴を頼んだぞ」
「う、うん!」
「……で、帰ったら早速デートでもするのか?」
「いやいやいや、いきなりなんの話さ!?」
 真っ赤になって手をぱたぱと左右に振る理樹。
「なんの話って、デートだよデート。恋人どおしになったんだろ? いきなりでもなんでもないさ」
「それは、その、そうだけど……うん。考えておくよ」
「なんなら、俺がデートのセッティングをしてもいいんだぜ?」
       ――傷つかないように、大事にかごのなかに入れていた。――
「ううん。僕がやるよ。僕がやらないと、意味がないと思うんだ」
「そっか」
 目をつむって想像してみる。
 雑誌で紹介されたお店へ行こうと提案する理樹。なにも考えずにうなずく鈴。行ってみたら『本日臨時休業』の張り紙。呆然とする理樹。怒り出す鈴。どうしようかと悩む理樹。野良猫を追い始める鈴。
 なんだかんだと空回りしている姿しか思い浮かばないことに苦笑する。それは、デートというにはほど遠いかもしれない。だけどきっと……幸せ、なんだろうな。
「それじゃあ……えっと、ありがとう恭介!」
 ぱたぱたと、宿のほうへ走り去る理樹。すれちがう。
(……少し、背、伸びたか?)
       ――あの鳥はいま――
 振り返る。背中が遠い。遠い、背中。手を伸ばす。届かない。やがて、視界から消える。
 その光景が、昔の情景と重なる。
 あのちいさな白い鳥の行方。



 むかし、鳥を飼っていた。
 白くてきれいな、ちいさな鳥。
 傷つかないように、大事にかごのなかに入れていた。
 だが。
 ガシャッ。
 横から伸びてきた小さな手が、かごの戸を開けてしまう。
 鳥は一瞬だけかごの出口に足をかけ、
 ぱさぱさぱさっ。
 あっというまに窓から出て行ってしまった。
 染みるような青に溶け込まない、孤高の白。
『きれーだな』
 逃がした本人は、悪びれもせずにそんなことを言う。
『……ああ』
 俺は、苦笑交じりに、妹の頭をなでた。
 あの鳥はいま。自由に空を駆け回っているんだろう。



 視界の隅に、白がよぎる。目で追うと、
「あ……」
 染みるような青に溶け込まない、孤高の白。
 首が痛くなるほどに見上げる。俺の真上に、ちいさな白。一歩あとずさる。
 ドサリ。
 背中に衝撃。柔らかい砂に足を取られて、転んでしまった。目の前いっぱいに広がる、空。
 そして、空に溶け込まずに、優雅に舞う白い鳥。それが、二羽。
 一方が逃げれば、一方が追う。そばにくっついたかと思えば、また離れてしまう。その繰り返し。
 手を伸ばす。精一杯手を伸ばす。白い鳥に手を重ねて、優しく握りしめる。大事にしまいこんだはずなのに、鳥はするりと手を抜け出して、楽しそうに空を飛ぶ。
 ――俺の手のなかでは、きっと狭すぎるんだろう。
 心に穴が開いたかのような悲しみが俺を襲う。でもこれは、いつかは味わわないといけない悲しみ。遅いか早いかの違いだけで。
 かざしていた手を落とす。日に焼ける前の砂が、ざりざりとした感触を返す。
 染みるような青。そこにはもう。孤高の白たちは、見当たらなかった。
「広い、な」


[No.139] 2009/05/29(Fri) 23:58:00
キミを待つあのソラの下 (No.128への返信 / 1階層) - ひみつ@9898byte

 謙二は真男の最奥で果てると同時、その赤く艶やかな唇にむしゃぶりついた。突然の嵐の如き接吻に、真男の括約筋が引き絞られる。体内を荒れ狂う熱の本流に真男は成すすべなく飲み込まれていく。荒い息と熱い唾液が互いの口腔内を廻り、逞しい肉体に浮かぶ汗が溶け合い、二人は永く昏いまどろみへと落ちていった。
 窓の外に広がる空はどこまでも高く青く澄み渡っていた。



 キミを待つあのソラの下



 人はどこから来たか?
 海から来ました。
 想像力はどこから来たか?
 人から来ました。
 小説はどこから来たか?
 想像力から。
「海から生まれた人、人から生まれた想像力、想像が生む小説」
 西園さんの慈しみ深い声がする。浅く日の差す午後だった。
「そして小説は空へと還る。……この意味がわかりますか?」
 問いかけられて、クドは口ごもった。
「それはつまり」
 逡巡し、ためらうようにそう前置いて。
 それでもクドは、言葉にしない。
 少しの沈黙。意を決し。
「海×空、ということでしょうか?」
「いえ、正確には海の誘い受けと解釈するのが妥当でしょう」
「クドになに吹き込んでんのさ」
「わふー、奥が深いです」
「ええ、直腸だけで20センチはありますからね」
 スルーときたか。
 僕の声を意に介すことなく、二人の会話は流れていった。思い切って張り上げた声が空しく頭の中に響いた。
 それで、ようやくクッキー缶のラベルを剥がし終える。額に汗が滲んでいた。なんだってこんな無闇に厳重なんだろう。二度と買うまいと心に決めてスルーされた鬱憤を晴らし、用意した小皿にクッキーを移し替える。
 キッチンからリビングへ。
「はいクッキー」
 あれ居たの? みたいに二人が振り向く。三人がけのテーブルにクッキーを置く。西園さんが冷ややかな目で僕を見る。
「一時間もなにしてたんですか?」
 そんなに経ってたのか。びっくりして時計を見ると、そろそろ昼下がりとも言えないような時間になろうとしていた。
「ちょっと緊縛を解いててね」
「ちょっとお会いしないうちに下品になりましたね」
 合わせただけなんだけど。
 よっぽど言ってやろうかと決意する間際、
「わふっ、すみません、はさみ、私の部屋でした!」
 クドが慌てて椅子を蹴る。
「あ、いい、いい。もう済んだし、クドも片付け途中でしょ?」
 僕がそう言っているのに、クドは腰を浮かせたまましょげて、青い瞳をふるふる揺らす。なんとなくその肩に手を回して引き寄せる。
「西園さん、クドに変なこと教えないでね」
「変なこととは失礼ですね」
 目を細めて睨まれる。
「でも知ってますよ? 毎日毎日能美さんにわたし以上に変なことを」
「してないよ!」
 クドもいるっていうのになんてことを!
 とんでもないことを言い出すもんで、いやいやと手を振りながらムキになって言ってしまう。
「……してないんですか?」
 だが、逆に西園さんがびっくりしたような顔をした。憐れっぽい目をして、それから気まずそうに視線を逸らす。中央に赤いジャムの乗ったクッキーをもそもそと口に運ぶ。
「そ、そうでしたか。これは大変な失礼を……クッキーおいしいですね」
「なに想像したのさ」
「直枝さんのツッコミ気質は変わりませんね」
「言っとくけど違うよ?」
「あ、お茶どうぞ。出涸らしですが」
「人んちのお茶になんてこと言うのさ」
「勝手知ったるなんとやらというやつですよ」
「僕らもまだ慣れてないのに!」
 結局はぐらかされる。ちょっとこのままだとクドの顔が見られない。抱く腕に力を込めたら、クドが手をパタパタしだしたので慌てて緩める。ちらっと見た顔はなんだか赤い。
 いやまあ、しょうがないでしょ? 心の中で続けて弁明する。しょうがないでしょ?
「ところで直枝さんは先ほどお見せした小説、どう思われましたか?」
 ティーカップを優雅な手つきでソーサーに置き、藪から棒にそんなことを訊ねてくる。パクっとティースプーンをくわえて、上目気味に僕を見た。
 どう答えて欲しいのか。直視しがたいものがあってそもそも流し読みしかしてない。だけど、不快にしてしまうかもしれないが、下手に言い飾るより率直な思いを伝えようと思った。
「卑猥だね」
「直枝さんに聞いたわたしが……ふぅ。能美さんはどうでした?」
 どう答えて欲しいのか!
 すごい釈然としない。
「あ、わふ、私ですか」
 クドはぴょこんと僕の手から逃れて、椅子に腰掛ける。もうクドの顔色は、いつもの透かしたくなるような白色をしていた。胸の前で指を絡めて、視線をテーブルのあたりに落とす。考えをまとめているのだろうか。テーブルはそっけない、自然色とは聞こえはいいがニス塗りしただけの木目色で、もう少し飾り付けてもいいなと思った。
 クドが息を吸った。
「なんだか、こう、懐かしい感じがしました」
 ぎょっとしてその横顔を見る。
「やはり能美さんは分かってくださいましたか」
 西園さんも頷いている。
「ちょっと、いい?」
 西園さんが手に持っている、文庫サイズより一回り大きい本を借り受けて目を通してみた。
 『吐息』『絶頂』『ジェル』。
「学校で、みんなといたときのことを思い出します」
 クドは胸に手を置き、満たされた笑顔で目を閉じる。
「あの頃は夢と希望が溢れていました」
 西園さんの目が、ふと横に流れる。窓の外だ。あいにく、部屋の中からだと煤けたビルくらいしか見えてこない。でも西園さんは、この上ない、すばらしい光景に目を奪われるかのように、目を細める。瞳になにが映っているのか、僕には分からなかった。
「いろいろな可能性が、ありました。この本にあるように」
 ひとりごこちるように西園さんが言う。
 その言葉はどこに向いているのか分からなくって。
 僕は急に、不安になった。
 わけの分からない焦燥感が芽生えて、促されるまま文字を追う。『らめっ!れちゃう!』
「例えば、恭介×理樹」
「ないないない!」
 思わず必死に全否定。
「そんな可能性どこにもなかったよ!」
 全身を使ったオーバーアクションに、西園さんはあっけにとられたような顔をして、ふっと笑った。
「冗談です」
 立ち上がって空のカップを手に持つ。
「直枝さんは能美さん一筋でしたから」
 紅茶の残りを口にしていたクドが、盛大にむせ返った。その顔はまた真赤。
「それじゃあお約束通り、片付けのお手伝いしますよ」
 そう言って西園さんはカーディガンの腕をまくって見せる。



 騒がしかった分、静寂がいやに耳についた。ポケットの上から、箱とライターの感触を確かめてベランダに出る。くわえてタバコでライターを擦る。
 足元に置かれたコーラの缶。欠け始めの月の明かりを受けて、積もった吸殻が浮かび上がっている。それを見て、口に含んだ煙を吸うか吐くのか躊躇したけど、結局肺に入れてしまった。ひやりとした感触が喉を落ちていく。
 目線の高さを無人の電車が右から左へ流れていく。ため息を吐く。町並みのシルエットが白くもやで霞む。不意に、クドの小言が思い出された。冗談に混じった、気遣わしげな表情も。
 吸いかけのタバコを足元に落とすと、暗がりに火花が散った。鮮やかな朱色の粒をサンダルで踏みつけ、残る燃え殻を缶の上に積み上げる。
 薄暗い部屋に戻る。西園さんが来てはしゃいでしまったのだろう。クドはソファーに横になっている。珍しく寝相を乱し、薄手の毛布を蹴り出していた。僕はフローリングに膝を突いた。足裏で感じるよりずっと冷たい。読みっぱなしの犬の雑誌と、床に落ちた毛布を拾って、深く安らかな寝息を立てる小さな身体をそっと覆う。布団を挟んで、クドの胸に顔をうずめる。息を吸うと、温かでいとおしい匂いが胸を満たした。
 どれくらいそうしていたか、僕はクドの頭をそっと起こして、ソファーに腰掛けた。小さな頭をももの上に置いた。
 座ったままリモコンに手を伸ばして、テレビの電源を入れる。
『――ロ野球セパ交流戦。楽天のエース田中と、あの人との投げ合いがついに実現しました!』
 音量に一瞬驚く。慌ててボリュームを絞り、それからクドを見た。穏やかな顔をしていた。あどけない表情に、自分が安堵するのが分かった。
 その一方で、昼間の焦燥感が、どうしても拭えないでいた。
『――意気込みを語った斎藤ですが初回、いきなり先頭打者を不運な内野安打で出塁させると』
 カン! という乾いた音。画面では白球が青空に浮かんでいた。
 布教用にと置いていった例の本に手を伸ばす。西園さんやクドの感想の意味が、僕にも分かりはしないかと。
 リトルバスターズがみんな一緒だった頃の話。楽しく無邪気だった時間の話。明るい希望に満ちた時代の話。
 僕はそこになにか、大切なものを忘れてきてしまったような気がしているのだ。
 本に目を落としながら、クドの髪を梳く。心なしか、以前より強張っているように感じられた。
 教育学部を希望すると言った。先生になりたいんだと語る女の子を、みんなして応援した。一生懸命なその子を僕は大好きになった。一緒になってがんばっていきたいと思った。今日まで全部うまくやってきた。他に望むものなんてなかった。
 それなのに、なんで、こんなに。
 テレビの中では野球が続けられている。僕とそう歳の変わらない人が大きな夢を語っている。僕も、なにか成し遂げなくてはいけないことがあった気がする。
『今期2勝目を挙げた斎藤投手。次は野手のみんなに恩返しがしたいですと語ってくれました』
 ヤニクラでも起こしたんだろうか。鈍い頭痛がする。タバコなんかやめてしまおうと思う。野球。あの頃。斎藤。田中。クド。ボール。バット。気が滅入る。代わりにクドの雑誌を読む。犬。大型犬。黒い犬。ヴェルカみたいな。猫。段々と、意識が自分の手元を離れていく。その間際思い出される、忘れもしない、朧な姿。クドの寝顔は何も悪くはなくて。僕は何度も何度も謝って。僕は成し遂げなくてはいけなくて。
 それでようやく、忘れ物を思い出す。



 無人の校舎裏だった。霧がかかったように、世界は不確かだった。音はなかった。自分の鼓動だけが確かだった。
 異様な場所なのに、とても懐かしく思えた。
 そこに、他人の気配が現れる。僕のすぐ背後だった。
「久しぶりだね。ちょっと遅くなっちゃった」
 振り向かず、気配に告げる。
 なんて無茶を、とつぶやく声に、らしくなく動揺しているのが見て取れて、思わず笑ってしまった。
「君が僕の忘れ物だったんだ」
 再会の喜びに詰まりそうになる声を、相手に気取らせてはいけない。精一杯抑えながら話し続ける。
 こんな無味乾燥な、ボロボロの世界なのに、僕はこんなにも充実している。こんなにも生きているのだ。
「もう一度、会いたかったんだ」
 逸る気持ちを闘志に変えて、ぼくはゆっくりと振り返る。
「俺もお前のことなんか忘れていたさ、うまうー」
 血が沸騰しそうに熱されて、身体中を駆け巡る。その熱で汗が噴出す。
「……いい顔だ。段々思い出してきたぜ」
 マスクの下の表情が変わり、周囲の温度が下がるのが分かった。
 目の前に立つ、人生最大の強敵。
 なぜ忘れていたんだろう。
「武器は……ごめん、用意できなかったよ」
 なんたって僕ひとりの力じゃ、限界がある。
「ふふ。そう言って、お前は肉と肉のぶつかり合い。本当の勝利が欲しかったんだろう? うまうー!」
 ダメだ、なぜかこいつには見抜かれてしまう。また、笑ってしまう。
 見抜かれているのだ。僕の心の最奥さえも。
 でもだからこそ、僕が恋焦がれるにふさわしい!
「来い! 斎藤は逃げも隠れもせん! あの斎藤も、彼の斎藤も、己の敵に背は向けなかった!」
 土を蹴って、僕は一気に距離を詰めた。
「斎藤は最強の苗字だ!!」
「うおおおおおお!!!!」

 空はどこまでも高く青く澄み渡っていた。


[No.140] 2009/05/30(Sat) 00:00:54
[削除] (No.128への返信 / 1階層) -

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[No.141] 2009/05/30(Sat) 00:04:04
しめきり (No.128への返信 / 1階層) - しゅさい

しめきりだよもん

[No.142] 2009/05/30(Sat) 00:43:04
そして、おほしさまに (No.128への返信 / 1階層) - ひみつ。ちこく。5116byte

「ドルジ、おまえどうした?」
「ぬお〜」
「寝てるのか?だとしたらそれはいびきなのか?それとも寝言なのか?」
「ぬお〜」
「おまえは寝言までその鳴き声なのか……やっぱ変なやつだな」
「ぬお〜」


  そして、おほしさまに


 僕は夢を見た。僕が夢を見ることはない。しかし…なぜ、突然夢を見ることが出来たのか。それだけが、謎に包まれたままだった。

 夢は起きたらすぐ忘れるとよく耳にした。
 だけど。
 僕は忘れなかった。忘れられなかった。幸せな夢でもない。夢の内容を手帳へと書いたわけでもない。誰かに話したわけでも、二回、三回も続けて見たわけでもない。一回だけ、初めて見た夢だった。
 また、悪夢は永い間記憶に残るとも聞いたこともある。
 でも。
 僕が見た夢は悪夢でもなかった。誰かに殺されてしまう夢、誰かを殺してしまう夢。大切な人がみんないなくなってしまう夢。そんなことはなかった。
 そして、夢で見たことが実際に起こる事。所謂予知夢というもの。そんな風にも見えなかった。
 僕が見たのものはただ、ずっとドルジが出てくる夢だった。何をするわけでも何かがしたいわけでもなく、僕の夢にはドルジが居座っていた。夢の中では何も起こる事はなかった。そして、ぬお〜という鳴き声が耳から離れる事はなかった。

 今朝、真人に僕の夢の内容は伏せて少し話してみたら、僕が夢を見たことに少し驚いていたけれど……その後すぐに、こんなことを言い出した。
「なあ理樹、知ってるか?」
「なにが?」
「寝てる時に見た夢は、起きた時にすぐ空に昇って星になっちまうみたいなんだぜ?」
「へぇ……」
 初めて聞いた説だった。
「もしかしたらさ、オレが見た筋肉の夢も星になっているんじゃねーかと少しワクワクしてるんだっ!星の名前も付けられるみてぇだし、最近オレはどんな名前にしようか迷ってるんだ。理樹も一緒に考えてくれねーか?いまんとこの名前の候補はだな……」
 マッスルスター……マッスル星……筋肉……どれもこれも似たようなものばかりだった。
「それで、真人。誰がそんなこと言ってたの?」
「あん?あぁ、謙吾のやつから」
「多分、それ真人をだますための嘘」
「な…なんだってー!?」
 とてもショックを受けていた。

 僕は授業中でも、授業が終わった後でも夢のことを引き摺って考えていた。
 今朝、真人が言った事を思い出していた。その時は適当に流していたけど、今になって急に気になり始めた。そう思ったときにはもう既に僕は窓の外を見上げていた。しかし、今は昼。当然星は見当たらない。いや……見えない、と言った方が正しいのかもしれない。
 僕はまだひとつ気にかかることがあった。ドルジのことだ。どうしてもドルジのことが気になった。昨日は鈴と一緒に居たところを見かけた。なら、今日も一緒に居るはずだ、と思い僕は席から立ち上がる。教室に飛び交う様々な話に興味を向けることもないほど、今の僕はドルジのことでいっぱいだった。廊下を抜ける途中

、真人と謙吾がバトルをしていた。だけど、僕は脇目も振らずに駆け抜ける。そして、僕は中庭へと出た。
 辺りを見渡すと、鈴と猫が数匹。そこにドルジは居なかった。鈴を見てみると、ずっと空を見上げている。他の猫達もそうだった。ドルジのこともそうだけど、鈴に少し疑問に思った僕は、迷わず鈴に話しかけた。
「ねえ、鈴」
「……」
 鈴の表情を観察してみると、驚いたような。考えているような。謎に包まれた物を見ているような。そんな風に僕には見えた。
「鈴」
 肩に手を置いてみると。
「にゃっ!?」
「そんなびっくりしなくても……」
「なんだ、理樹か。びっくりさせんな」
 ごめん、と心の中で謝っておく。そして鈴は今、何をしているのか僕は訊ねた。
「空を見上げてただけだ」
「それはわかってるから……じゃあさ、なにを見てたの?」

「ドルジ」

 その鈴の一言に、僕は心臓がドキドキと鳴る。鈴の表情も変わらぬままだ。この瞬間に、その名前が出てくるのがとても予想外だったからだ。また、同時に疑問が浮かぶ。鈴が空を見上げていて、なぜドルジを見ていたのか。それは、ドルジが空を飛んだ。でも、なぜ空を飛んだのか……理由が見つからない。わからないことだらけだった。僕は少しでも疑問を減らそうと、鈴に深く追求することにした。

「その……ドルジは昨日どうしてた?」
「昨日は、そうだな……ずっと寝てた。ぬお〜と鳴きながらずっと寝てた」
「放課後、ドルジはどうしてた?」
「寝たままだった」
「寝顔はどんな風だった?」
「笑ってた。寝ながらゴロゴロ転がりそうだった」
「じゃあさ、なんでドルジは空を飛んだの?」
「そんなの知るかぼけっ!ていうか質問攻めはやめろ!」
 怒られてしまった……でも、質問だらけだったのも悪かったかなと思い、一旦僕は空を見上げる。また戻ってくるのかなと考えたけど、その様な気配はひとつも感じられない。真人が言ってた事から、僕の夢が原因でドルジは空に昇ってしまって、星になったのかと思った。でも、逆に考えたらドルジが空に昇るからこそ、僕はドルジの夢を見たのかとも考えられる。だけど…このことは誰にもわからない。
「そうだ、理樹」
「え、なに?」
「ドルジが空を飛ぶ時、羽が生えてた」
「羽……?」
「そうだ。あれは鳥のような羽じゃなくて天使の羽のようだった」
 そこで僕はひとつのあることが思い浮かぶ。
 そう、それは。
 「死」
 死の間際に天使に迎えられたと、僕は考えた。また、流れ星は死を意味すると聞いた。何処から、誰から聞いたかはもう覚えていない。僕が見た夢が星となって、そして流れ星となって――。だけど、そう考えても不思議と悲しい、という感情は浮かんでこなかった。また、ドルジのぬお〜という鳴き声が聞こえるかもしれなかったからだ。
 ひとつだけ、鈴に訊ねたい事があった。
「ねえ、鈴。最後にひとつだけ質問いい?」
「なんだ…?そんな深刻な顔して」
 今、僕はそんな顔してたのかと思った。そう言われてすぐに表情を直す。
「別れに立ち会えるのと、立ち会えないのってどっちが悲しいのかな?」
「…知らん」
 鈴は少し考え込んだけど、僕の質問は一蹴された。
「そっか」
 僕は、そう言うことしか出来なかった。


[No.145] 2009/05/30(Sat) 10:31:46
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