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   第35回リトバス草SS大会 - しゅさい - 2009/06/11(Thu) 23:22:09 [No.154]
そりゃ、煙じゃ腹は膨れねぇが。 - ひみつ@10211byteここからがほんとうの遅刻だ! - 2009/06/13(Sat) 18:28:57 [No.171]
しめきりー - しゅさい(笑) - 2009/06/13(Sat) 00:23:57 [No.167]
どくどく - ひみつ@8596byte - 2009/06/13(Sat) 00:06:48 [No.165]
[削除] - - 2009/06/13(Sat) 00:00:08 [No.164]
駕籠の鳥と毒りんご - ひみつ 8074 byte - 2009/06/12(Fri) 23:56:40 [No.163]
精神解毒薬 - ひみつ@7950byte - 2009/06/12(Fri) 23:53:01 [No.162]
気の毒な姉妹 - ひみつ@1071 byte - 2009/06/12(Fri) 19:10:20 [No.161]
毒は上に積もる - ひみつ 9397 byte - 2009/06/12(Fri) 18:25:23 [No.160]
コルチカム - ひみつ@12180byte - 2009/06/12(Fri) 14:34:55 [No.158]
(No Subject) - ひみつ@12180byte - 2009/06/12(Fri) 14:36:16 [No.159]
修正しといたよ! - すさい - 2009/06/13(Sat) 00:17:30 [No.166]
Sweet Baggy Days - ひみつ@14977 byte - 2009/06/12(Fri) 04:34:51 [No.157]
彼岸花 - ひみつ@7372 byte - 2009/06/12(Fri) 00:21:30 [No.156]
彼岸花 - 橘 - 2009/06/28(Sun) 15:37:45 [No.207]
『彼岸花』修正しました - 橘 - 2009/06/28(Sun) 15:42:27 [No.208]
All I Need Is Kudryavka - ひみつ@18627byte - 2009/06/12(Fri) 00:05:09 [No.155]



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第35回リトバス草SS大会 (親記事) - しゅさい

ひとまずスレ立て。遅くなってすいません。

[No.154] 2009/06/11(Thu) 23:22:09
All I Need Is Kudryavka (No.154への返信 / 1階層) - ひみつ@18627byte


 ◇


 僕が愛したクドリャフカは爆炎に呑まれて死んだ。
 と、僕はメモ帳に書きつける。


 ◇


 僕が愛したクドリャフカは爆炎に呑まれて死んだ。
 あの日の事故から生き残った僕は小説を書くことを覚えた。記した物語はメモ帳の中に閉じ込めて誰にも見せなかった。それで構わないと思えたのは僕が自分自身のために小説を書いているからだ。ゆえに物語の中心には常に彼女がいた。僕の手によって形作られた世界の内側で彼女は元気に走り回っていた。僕に無邪気な笑顔を向けてくれていた。
 数本の小説を書いたところで閉塞感に覚えた。彼女のことを小説にしたいと強く望んでいるのにどうしても新たな物語を紡げない。一行も書けずに手が止まってしまう。何故かと思い、これまで自分の書いた小説を読み返してみて愕然とした。その小説のどこにも僕の愛した彼女がいなかったのだ。こんな小説には何の意味もなかった。
 僕は能美クドリャフカという人間を、彼女の仕草や発言を、蓄えた記憶の中から一つずつ掬い出してノートに書き溜めていった。一週間も経てばノートは彼女に関する膨大な量の記述で埋まった。これだけあれば足りるだろうか。本当の彼女を書き記すことができるだろうか。
 書き記した本当の彼女を、救うことができるだろうか。
 一ヶ月ほどかけて僕はメモ帳に新たな小説を書き上げる。ノートに記した情報を元に彼女を描き出すことができたはずだと思う。僕は興奮気味に書き上げたばかりの小説を読み始める。だがページをめくるにつれて期待に膨らんだ胸は萎んでいった。全てを読み終えた僕は打ちひしがれていた。この小説に描かれているのはやはり彼女ではなかった。絶望と激情のあまりメモ帳を投げ捨てる。ゆっくりと首を横に振る。涙で視界が滲み始めた。
 どうしてか、彼女のことを書けば書くほど、彼女は彼女という存在から離れていくことに、本当の彼女でなくなってしまうことに、気づいた。どれだけ仕草や口癖を真似させても、彼女は彼女にならない。なってくれない。こんな小説は欠陥品だ。
 どうしてこんなにままならないんだろうと思う。
 どうして思い通りの小説を、彼女を、書けないんだろうかと思う。


 土曜日の昼前、鈴に連絡を取る。話がしたいと言うと家に来いと返された。外出するのが億劫らしい。お土産は何がいいかと尋ねると、観たい映画があるからDVDを借りてきてくれと頼まれた。告げられた珍妙なタイトルをメモして携帯の電話を切る。
 厚着をして家を出る。先に用事を済ませようと思い、バス停付近のTUTAYAに立ち寄った。ガラスの扉に張り紙がしてあって、今月限りで店を閉めるという旨が印字されている。三ヶ月も前に張り出されたものらしい。透明なガラス越しに店内を覗き見る。薄暗い空間には山積みのダンボールやメタルラックが放置されていた。床に堆積した分厚い埃が取り払われる日はいつだろう。
 諦めてバス停に引き返す。時刻表を眺めているうちにバスが来た。鞄から舞城王太郎著の『スクールアタック・シンドローム』を取り出す。収録された三つの短編の中の『我が家のトトロ』に栞が挟まっている。既に内容を忘れていたので冒頭から読み返すことにした。
 小説を書くことと同時期に、僕は小説を読むことも覚えた。幸か不幸か、購入したものの一行も読まずに本棚に眠らせていた本が数多くある。今はそれらを一冊ずつ読み崩している最中だった。
 愛が等しく世界や人を救うなんて嘘っぱちだ。でも気まぐれに意地悪に、愛が何かを救ってしまうことはきっとある。その不完全さや残酷さを思わず糾弾したくなるけれど、どんな形であれ人や世界を救えるというのはそれだけでたぶんほとんど奇跡的なことだ。
 僕はそのことに対してうまく自覚的になれない。今だって僕は自分の愛がいつか必ず彼女を救うと信じている。だけどもし、この愛が彼女の救いに繋がらないのなら、小説に詰め込んだありあまるほどの愛はどこに行ってしまうんだろう。どこにもだれにも届かず無意味に消えてしまうんだろうか。それはひどく悲しいことのように思える。悲しいことだと切り捨ててしまってはいけないことのように思える。
 バスを降りてから交番でTUTAYAの位置を尋ねる。鈴の住むアパートからそう遠くない場所にそれはあった。店内に人の姿はまばらだ。併設された本屋を素通りして邦画ホラーの棚に向かう。五分ほどかけて『自殺サークル』『紀子の食卓』『回路』の三作を探し当てる。中身は手つかずだ。三枚まとめてレジに持っていくと店員にカードの有効期限切れを告げられた。そういえばもうずっと更新していない。次にまた借りるあてもないが更新料を支払い、鞄にDVDを押し込んで店を出た。
 半年ぶりに会う鈴は心なしかやつれて見える。挨拶も抑揚に乏しく素っ気ない。お邪魔しますと一応口にする。六畳一間の彼女の部屋にはゴミが散乱していた。僕の基準からすればとても来客に耐えられるものではない。ベッドの上には服が脱ぎ捨てられているし、キッチンの流しには洗い物が放置されている。たぶん長く掃除も自炊もしていないのだろう。
「はい、頼まれてたDVD。一週間後まで大丈夫だから」
「適当にどれか再生してくれ」
 言いながら、鈴はこたつに潜り込んでコンビニ弁当を食べ始める。
「そういうのばかり食べてたら体に悪いよ」
「余計なお世話だ。最近、なにをするのも面倒でしかたない」
 食事も呼吸も、もちろん僕との会話もだるいという感じの表情をしている。
 苦笑しつつ、僕は三本のDVDを床に並べる。正直どれも食事時に観る映画とは思えない。悩んだ末にタイトルが一番穏当な『紀子の食卓』を手に取る。鈴が素早く「それは『自殺サークル』の続編だ」と指摘してくる。さすがに苛立ちを覚えるが、無言で『自殺サークル』を選び取る。再生を始めてから僕は鈴に倣ってこたつに足を突っ込む。わけもなく横顔を盗み見る。画面を見つめる彼女の瞳はどこかうつろで濁っている。
「大学はちゃんと行ってるの?」
「ろくすっぽ行ってない」
「単位は大丈夫なの?」
 鈴は露骨に顔をしかめて舌打ちをする。リモコンに手を伸ばして映画を一時停止する。ペットボトルのお茶を一口飲んでから僕の方を向く。
「かろうじて留年はしないぐらいだ。サークルは入ってなくて友達も恋人もおらん。バイトは深夜のコンビニだったが愛想が悪いとかで先週クビになった。明日は新しいバイトの面接だ。生活は楽じゃないが死ぬほどではない。まだ他に聞きたいことはあるか」
 かつての鈴はこんなに攻撃的な物言いをする人だっただろうか。気圧されて何も言えずにいると彼女は僕から視線を逸らして一時停止を解除する。画面の中のプラットホームには数十人にも及ぶ女子高生が白線を越えて横並びに手を繋いで立っている。バックに楽しげな音楽が流れている。「いっせーの」という掛け声に合わせて彼女たちは繋いだ手を振り上げる。「せっ」で躊躇なく飛び降りる。迫り来る電車が線路に落下した数多の肉体を轢き潰す。衝撃で四方に血と臓物が撒き散らされる。僕は吐き気を覚えて口を覆う。鈴は無感情に画面を見つめながら割箸で弁当のおかずを口に運ぶ。こちらを一瞥して「おまえ、なにしに来たんだ」と吐き捨てるように言う。
 僕は持参したメモ帳を鈴に差し出す。誰にも見せるつもりでなかった小説を、僕はこのとき初めて他人の目に晒す。無言で受け取った鈴がそれを読み始める。相変わらずの無表情だが瞳は文字を追って動いている。やがてこたつの上にメモ帳を放り出した彼女が「で、これがなんだ」と不機嫌な声で言う。テレビに流れているのは、母親と思しき女性がまな板に載せた自分の手を穴開き包丁で切り落としている映像だ。
「クドの物語を書きたいんだ」
「書いてるだろ、ここに」
「そこに出てくるのは本当のクドじゃない」
 鈴は呆れたようにため息をつく。
「なにを言っているのかさっぱり分からん。それは単におまえがここに出てくるクドをクドだと思ってないってだけだろ。それともなんだ、おまえの書いた小説だから、その中に出てくるクドも作者であるおまえそのものでしかないとか言いたいわけか。このクドは物語の駒でしかない、作者の言葉を代弁させているだけだ、愛が足りていない、とか思っちゃうわけか」
 愛は足りているし、僕は彼女のために物語を書いた。それでも僕の書いた彼女は彼女にならない。やはり別の何かになってしまう。そう感じている。
「そもそもだ、はっきし言って死ぬほどつまらん。読むに堪えん。どうせ書くなら面白いものを書け、面白いものを。起承転結とか三幕構成とか序破急とかで物語をちゃんと整えろ。技巧を凝らせ。メタフィクションとかミメーシスとかミザナビームとかオマージュとかなんでもいいから取り入れてやってみろ」とよく分からないことを偉そうに言いながら、鈴は自前のノートパソコンをベッドの上から引っ張ってくる。そういう問題じゃないんだよ、とは言わずにおいた。
「実はあたしも暇なときに小説を書いてる」
 マウスを託された僕はデスクトップに並んだ文書ファイルの一つを適当に開いてみる。
 鈴の書く物語はどこまでも陰惨だった。彼女の描く世界からは致命的に倫理が欠如していた。登場人物たちは偶然や事故や不運や悪意で次々と苦しみながら死ぬ。血が流れ肉が裂け四肢が千切れ飛ぶ。差し出された一握りの希望は誰かが手にする前に叩き潰される。作中に蔓延する数々の死が現実にいる僕の精神をも蝕むようだった。
 他にもいくつか読んでみたが、程度の差こそあれ鈴の小説はどれも似たような作風だった。登場人物は老若男女の区別なく徹底的に蹂躙され、流れた血は物語の潤滑油になる。提示される幸福はどれも擬装されたもので、薄皮一枚剥がした先には破滅だけがあった。
「愛だとか恋だとか、幸せだとかがな、書けないんだ」
「それこそ」と言って僕は自分のメモ帳を拾い上げる。
「ただ普通に書けばいい」
「普通ってなんだ」
「普通は普通だよ。世間一般が持ってる常識だよ。出会った二人が惹かれ合って恋に落ちて、愛し合うようになって、困難があるかもしれないけど結ばれて、それで家庭を持つようなことが愛であり恋であり幸福だよ」
「そんなの、嘘くさい」
 愛を愛として、恋を恋として、幸福を幸福として書き記すことのできない鈴が哀れだと思った。人を殺し世界を壊し物語さえも破綻させた先に、彼女は何を描き出そうとしているのだろう。
「実際に書いてみれば、考え方も変わるんじゃない?」
「書いたことはあるが、だめだった。どんなに頑張って書いてみても、最終的にそれは愛でも恋でも幸福でもない、なにか別のものになるんだ」
 既視感を覚え、そして悟った。僕に鈴を哀れむ資格はない。愛を愛として、恋を恋として、幸福を幸福としてしか書き記すことのできない僕もまた、彼女にとってたぶん理解不能な存在なのだと気づいたからだ。僕たちはおそらく共通の病に侵されている。書きたいものが書けない、書こうとしたものが書こうとしたものにならない、あるいはそう感じてしまう、病だ。あの事故で僕たちは、大切な人たちの命と共に大切な何かを炎の中に持ち去られてしまったのかもしれない。焼け崩れたその何かが返ってくることは永遠になくて、だからこの病は不治なのかもしれない。そんなことを思う。


 虹色のシャボン玉が飛んでいる。数え切れないほどたくさんだ。
 僕もまた淡い膜の内側にいる。そっと膜に触れてみる。ぶよぶよとした感触だ。指先で思い切り突いてみる。僕を包んでいたシャボン玉は一瞬にして割れてしまう。重力のない闇の中に投げ出される。たちまち上下左右が分からなくなった。宇宙空間はこんな感じかもしれないと思う。
 何となく近くにあるシャボン玉を覗き込んでみる。思わず声を上げる。シャボン玉の表面がスクリーンみたいになって映像を映し出している。彼女がいた。教室で授業を受けている。声をかけてみるがこちらに気がつく様子はない。他のシャボン玉も次々と覗き込んでみる。その全てに彼女の姿があった。野球の練習に励んでいたり、料理に夢中になっていたりといった状況の差異だけでなく、年齢もまちまちだった。今より大人びている彼女もいた。我慢できなくなって、僕はシャボン玉の中に腕を突き入れる。指先に彼女が触れたのが分かる。
 一気に引きずり出す。彼女は僕と視線を合わせる間もなく液状に変化する。彼女の残滓が空間に舞い漂う。どこからか悲鳴が上がる。シャボン玉の中の世界にいる僕が号泣している。地面に散乱した肉片を抱き締めている。
 僕は別のシャボン玉から彼女を引っ張り出す。やはり同じように溶けてしまう。構わない。シャボン玉によって囲われた世界から彼女をさらい続ける。この世界に存在することのできる本当の彼女を捜し求める。やがてこの世界には、絶叫とすすり泣きと怨嗟の声だけが残される。彼女はどこにもいない。いなかった。頭痛がする。うまく呼吸ができない。シャボン玉を叩き割る。一つの世界がぱちんと弾けて消える。ぱちん、ぱちん、ぱちん。もう耳障りな音も声も聞こえない。
 方々に拡散していた液体が急に凝集を始める。彼女だったものが一つの塊を練り上げていく。それは人の形をしていた。ゆっくりと形作られる四肢と胴体と顔を見た瞬間に、僕は自らの行いを後悔する。人に似ているがそれの顔も体も造形がおかしいのだ。無数の世界に散らばった無数の彼女たちが、僕とは違う誰かの手で紡がれた物語の中に存在する彼女たちが、溶け合い混じり合い一つの個体になったところで本当の彼女にはなれない。ならない。それを思い知らされる。
 彼女になり損ねた彼女がこちらに寄ってくる。恐怖を覚えて反射的に突き飛ばす。打ちひしがれたような表情を浮かべた彼女が、脈絡なく両手で自らの首を絞め始める。突然の事態に僕は何もできずにいた。間もなく息絶えたそれの瞳には涙が滲んでいた。
 僕の口から吐息が漏れる。この子は僕が身勝手に産み出してしまった存在であることに気づいた。罪悪感が体中を満たす。どんなに出来損ないでも、僕はこの子を守るべきだったんだ。誰からも嫌われ見捨てられたとしても、親である僕だけはこの子を受け入れてあげるべきだったんだ。どうして信じてあげられなかったのだろう。どうしてそこにいることを許してあげられなかったのだろう。この子だけじゃない。僕はこれまでどれだけの子を自分の都合で産み出して、それが気に入らないからといって切り捨ててきたのだろう。どんな謝罪の言葉ももはや救いにはならない。
 もう一度、小説を書こうと思った。彼女についての物語を。
 今度こそ、僕は産まれてくる子を愛してあげようと思う。
 そのための物語を、彼女を、書こうと強く思った。 


 電気の消えた暗い室内でうごめく小さな影がある。何も見えなくともそれが彼女であることを理解する。胸の中に彼女が飛び込んでくる。華奢な体をそっと抱きしめる。柔らかな肌の感触と甘い匂いに脳が痺れる。言葉は必要なかった。僕たちは唇を重ねる。重ねた唇をそのままに二人揃ってベッドに倒れ込む。僕は手を伸ばして彼女の服を脱がせる。さらけ出された彼女の肉体はもしかすると焼けただれているのかもしれない。でもきっと綺麗なままだ。彼女が本当の彼女であるということも、これが現実であるということも、死んだ彼女と出会うということも、僕は疑わずに受け入れる。この暗闇は僕から想像力を奪わない。
 服を脱ぎ捨てた僕は静かに彼女と交わり合う。彼女が僕の中に流れ込んでくるのを感じる。たぶんこれは錯覚じゃない。溶け合って一つになる感覚を味わいながら僕は彼女のことをより深く知る。ここにいる彼女が僕の愛した彼女であることを思う。彼女を抱いているという感覚が徐々に薄れていく。たまらなく眠い。彼女を決して離してしまわないよう、僕は背中に回した手に力を込める。
 一度散り散りになった意識は翌朝まで戻らなかった。目覚めると僕の腕の中に彼女はいない。部屋に彼女を思わせるものは何一つ残されていなかった。あるとすれば僕の記憶ぐらいのものだろう。強烈な喪失感の只中で僕はまた新たな小説を書き始める。
 この日を境に僕のお腹は膨らみ始めた。
 僕は妊娠していた。
 小説を書くのと等速度でお腹の子どもは大きくなっていく。戸惑いはなかった。産まれる子どもはきっと彼女そのものだ。これから産まれる彼女のために僕は物語を書く。できるだけ楽しく幸せな世界を描写によってつくり上げ、そこに彼女を産み落としてあげようと思う。
 僕の描く世界は以前よりも随分と美しかった。世界に色を乗せる術を僕はお腹の子のために学んだからだ。逆に物語それ自体は大きく意味を失った。物語の駒として動く彼女の姿は見たくない。産まれ落ちた彼女自身が物語をつくるべきだと思った。
 数ヶ月の期間をかけて僕は小説を完成させる。文句のない出来栄えだと思った。かつてない充実感に胸が満ち溢れていた。逸る気持ちを抑えて小説の文字を最初から順に追っていく。だが読み進めるうちに違和感を覚えた。それは際限なく膨らんでいき、中盤を越えた辺りで確信に変わる。
 違う。これは彼女じゃない。
 この小説にも本当の彼女は不在だった。だがもう落胆はしない。やれるだけのことはやったのだ。産み落とした子を愛することに変わりはない。
 そのとき初めて、僕は床に横たわる我が子を見た。絶句する。そこにいる子の姿は彼女と似ても似つかないどころか醜悪な化け物だった。不器用に立ち上がったそれの腹は横に裂けていて、そこから血に押し出された臓物がいくつもぼたぼたとこぼれ落ちる。再び床に転倒したそれの、長い頭髪が放射状に広がる。剥き出しになった顔面は肉が派手に崩れていて目も鼻も口もどこにあるのか分からない。親である僕を求めて伸ばされた片腕は数秒ともたずに血溜まりを叩く。
 唐突に確かな理解が胸中へ落ちてきた。めまいがする。馬鹿みたいに嗚咽を漏らす。僕はその場に座り込み、床に倒れて痙攣を続ける我が子を見つめる。あたたかな涙がどうしようもなく頬を伝う。
 僕の子はじきに死ぬ。彼女になれなかったから死ぬんじゃない。彼女になったから死んでしまうんだ。僕の愛した彼女は焼け死ぬことでしか本当の彼女足りえないんだ。フィクションの世界と物語の中でさえ、僕は彼女に爆炎に呑み込まれる以外の結末を与えてあげることができないんだ。


 肉の焦げつく臭いが部屋に充満している。
 彼女を救いたい。幸せにしてあげたい。
 その気持ちは、僕もあなたも変わらないはずだ。
 彼女のことを小説にする僕がいて、彼女のことを小説にする僕のことを小説にするあなたがいる。僕にとってこの世界は《彼女が事故に巻き込まれて数年後》の《現実》で、あなたにとってこの世界は《彼女が事故に巻き込まれて数年後》の《創作》なのだろう。僕とあなたで立場は違うが、彼女を救えないという状況は同じだ。僕もあなたも、彼女が事故に巻き込まれたという確かな記憶を持っている。記憶喪失にでもならなければ、その事実を頭から消し去ることはできない。できない以上は僕たちが何度小説を書いたって同じことだ。どんなに優れた物語も彼女を救いはしない。
 涙を拭い、燃え続ける彼女の死体から視線を逸らす。床に落ちたメモ帳を見た瞬間、ある一つの考えが僕の頭の中に落ちてくる。それはあまりにも無謀で突飛な考えのように思えた。しかし試してみるだけの価値はあるかもしれない。元より彼女のためならどれだけ分の悪い賭けでも乗るつもりだった。僕はメモ帳をそっと拾い上げ、部屋の片隅にある椅子へ腰かける。机の上に白紙のページを開けてシャーペンを手に取った。彼女のために小説を書こう。僕にできるのはいつだって小説を書くことだけだ。書き出しの文章はもう決めている。いや、決まっている。


 僕が愛したクドリャフカは爆炎に呑まれて死んだ。
 と、僕はメモ帳に書きつける。


 ――と、僕はメモ帳に書きつけた。


 ◇


 マグカップに注がれた珈琲を口に運ぶ。苦味が舌先を痺れさせる。僕は握ったシャーペンを机の上に放り捨て、大きく伸びをした。椅子の背が軋みを上げる。
 僕たちを題材にしたゲームが発売されていると聞いたとき、僕はひどく驚いた。慌てて購入して、つい一週間ほど前に全てのシナリオを終えたわけだが、これがなかなかよくできていた。ゲーム内では僕たちがバスの事故に巻き込まれたり、それが原因で虚構世界なんてものが生み出されたりしていたけれど、もちろん現実でそんなことはなかった。しかし、と僕は思い、手元にあるメモ帳を見下ろす。何故、僕はこんな小説を書いたのだろう。どれだけ頭をひねっても何一つ思い出すことができない。
 この小説の最後で、僕は彼女を救うために小説を書いている。このとき、僕は自らの現実とその物語を小説化することで、バス事故が起きた世界を丸ごと創作のレベルに落とそうと試みたのではないだろうか。事実として事故は起きていないし、起こらなかった。とはいえ、あまりに突拍子もない推測だ。非現実的に過ぎる。だけどもし、この小説に書かれた世界を生きる僕が、彼女に対する愛だけを根拠として、今ここにある現実と、今ここにいる僕に至ることができたなら、それは――……いや、もう考えるのはよそう。
 本当のところは分からない。そうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。ただ、この世界が本物であることは確かだ。この世界を創作している人間なんてどこにもいない。僕の物語は僕だけのものだ。彼女が在るこの世界を、あなたが不在のこの世界を、僕はきっと喜ぶべきなのだろう。
 メモ帳をめくり、記された小説の最後のページを開く。この物語は僕が小説を書き始めたところで終わっている。それ以降のページは白紙だ。どれだけめくっても何も見つかりはしない。もし彼女が永遠に未完のこの小説を読んだなら果たして何を思うだろう。
 僕と彼女の物語はこれから書かれるだろうし、これまでも書かれてきたのかもしれない。あるときは誰かを愛し、あるときは誰かに愛され、あるときは誰かに苦しめられてきたのだろう。そんな未来や過去がきっとあるし、あったはずだ。それでも構わない。今ここにある、彼女の生きるこの世界だけが僕にとっての本当だ。この世界と物語だけは絶対に誰にも引き裂けない。引き裂かせはしない。
 僕は引き出しの奥深くにメモ帳を仕舞い込み、何気なく掛け時計を見る。彼女との約束の時間まではまだ随分あるが、早めに準備をしておこうと思う。何かの手違いで遅刻でもしたら目も当てられない。彼女と二人きりで出かけるのは久しぶりのことなのだ。マグカップに残された生温い珈琲を飲み干して立ち上がり、僕はその場でもう一度だけ伸びをした。


[No.155] 2009/06/12(Fri) 00:05:09
彼岸花 (No.154への返信 / 1階層) - ひみつ@7372 byte

 私は満面の笑みを浮かべると、彼にこう告げた。
 手にはナイフを、刃を彼に向けたまま。
「ばいばい。理樹くん」





 私は土砂降りの雨の中、傘も差さずに歩いていた。
 寮に戻ると、部屋には誰も居なかった。それもそのはずだ。この時間帯は未だ授業中なのだから。
 私は、ずぶ濡れになった服を脱ぎ捨てると、シャワーを浴びた。冷え切った体に熱が戻っていくのが分かる。
 シャワーから出て、脱ぎ捨てた服を見る。シャツやスカートに血や泥で汚れた跡があった。こんな状態の服なんて、いっそ捨ててしまってもいいのではないか。もう、どうせ着る機会も無いのだし。
 そこで気が付いた。そもそも洗濯する機会も無いのだ。ならば、このまま放っておいても同じことだろう。それより今は時間が惜しい。
 私は下着を着け、予備の制服に袖を通した。白黒ボーダー柄のニーソックスを穿く。軽く化粧をし、髪をセットする。いつもの、ビー玉を思わせる子供っぽい髪飾りを二つ使って、ツインテールに。さらにヘアピンを前髪に付ける。
 姿見に、自分の姿を映してみた。

 そこには、あの子の、葉留佳の姿があった。
 違うのは瞳の色くらい。それさえもカラーコンタクトを着けてしまえば、誰にも見分けが付かなくなってしまう。そう、誰にも。
 今の私の姿は、葉留佳そのものだ。私は葉留佳の頬に手を添える。鏡の中の葉留佳もそれに合わせて手を頬に添えていた。
 私は葉留佳の唇に指を這わせる。葉留佳の唇であると同時に、私の唇。

 違う。
 私は静かに目蓋を閉じる。
 私は葉留佳ではない。あの子はもう、居なくなってしまった。車のブレーキ痕。路上の血の華。それをさっき、確認してきたばかりではないか。
 私が葉留佳に似せようとすればするほど、あの子との違いが大きくなる。あの子が、私の手の届かないところにいる事実を突きつけられる。こんな形でさえ、私はあの子と一緒にはなれないのだ。
 私は床に座り込む。上を向き、天井の色を見つめ続ける。目蓋から、涙が零れ落ちないように。
 やがて校舎から、チャイムが聞こえてきた。出番が近い。私は準備が整え、部屋を出る。玄関で傘を掴むと、寮を後にした。

 外は未だ土砂降りの雨だった。雨で景色が滲んで見える。
 私は、校門で彼を待っていた。何にも連絡はしてないけれど、彼なら、直枝理樹ならきっと「葉留佳」を見つけてここに来る。そんな確信があった。

 果たして彼はやって来た。一輪咲いたビニール傘が、私の傍に走ってくる。
 私はいつものように、葉留佳の口調で挨拶する。
「やは、こんにちわ、理樹くん」
「こんにちわ、じゃないよ!」
 彼は大声を出した後、早口でまくし立てた。
「今までどうしてたのさ!?みんな、葉留佳さんが辞めたって噂してる!一体、どういうことなのさ!?」
 ああ、結局彼は、葉留佳を認識できないでいる。あの子が居なくなった後でも。
「やはは、そんなに一度に質問されても困るよ。怖いナァ、今日の理樹くんは」
「・・・あ、ご、ごめん」
 直枝理樹が口ごもる。彼は私から目を逸らし、俯いた。
「・・・でね、みんなが噂してることは本当のこと。もう、ここには居られないよ」
「そんな・・・」
 直枝理樹は眉を寄せ、哀しそうな表情をした。
 今更そんな顔をするのは止めて。私の決心が鈍るから。
「で、本当は誰にも話さず、ひっそりと居なくなろうと思ったんだけどネ。やっぱり、理樹くんにだけは、最後に会っておこうと思って」
 そう言うと、私は傘を手から離し、制服のポケットから小さなキッチンナイフを取り出した。その刃を彼に向ける。
「はるか・・・さん?」
 自分に向けられたナイフを見て、彼の声が震えた。恐怖で動けないのか、あるいは何かの覚悟でも出来たのか、彼の足が動く気配は無い。
 土砂降りの校門前。二人の間には雨の音だけがあった。ナイフの刃に雨粒が落ちる。こんなに曇っているのに、刃にはぎらぎらと、鈍く不吉な光が浮かび上がっていた。
 私は満面の笑みを浮かべると、彼にこう告げた。
「ばいばい。理樹くん」
 そして、ナイフを自分に向け直し、左手で柄尻を支えると――――


 取り返しのつかない音がした。刃が熱くて、切り口が焼けたような、そんな感触。痛みよりも熱さの方が強かった。
 私の中から、刃を引き抜く。
 途端に、盛大に流れ出す血。いくら指で押さえても、脈打つごとに指の間から血が湧き出してくる。止まらない。血が私の服に吸い込まれる。体を伝って、地面に吸い込まれる。肺の中にまで血が入り込んで、私は溺れそうになる。
 膝が笑う。まずい。足に力が入らない。
 でも、私はまだ、倒れるわけにはいかない。葉留佳だって苦しんだ。だから私も、最期の瞬間まで苦しまなければならない。
 直枝理樹がようやく我に返ったのか、私の傍に駆け寄ってきた。
 私は彼の体に寄りかかり、倒れ込むのを何とか堪える。血でべっとりの右手で彼の頬を撫でた。
 苦しまなければならないのは、あなたも同じよ。直枝理樹。
 あの子の最期を、私が教えてあげる。これが、あなたを傷付けることが出来ない私に許された、あなたへの復讐。

 あなたが葉留佳を殺した。私が葉留佳を殺した。
 これは、私たち二人が背負うべき罪。
 私が一緒に堕ちてあげる。だからあなたも、地獄に堕ちなさい。

 私の体は、直枝理樹に支えられていた。首を動かし、彼の顔に向き合う。あまり急に動くと、痛みと失血でそのまま意識を失いそうになるから、ゆっくりと、慎重に。
 彼は、何かを叫んでいた。しかし、私と目が合うと、彼は声を上げるのを止め、私を見つめた。私の震える唇を見て、何か言おうとしていると思ったようだった。
 私たちは、互いの顔が触れ合ってしまいそうな、そんな距離で見つめ合っていた。
 彼の顔は、私の血で半分赤く染まっていた。私の、いや葉留佳の、最期の言葉を聞いてあげようと、とても穏やかな優しい表情をしていた。目に涙を溜め、悲しみを必死で堪えながら、私の言葉を待っていた。
 そんな彼に、私は追い討ちをかけた。
「理樹くんの、せいじゃ、ないよ・・・・・・」

 声になっていただろうか?私の声は、彼に届いただろうか?あまり自信が無い。でも、もう彼に届いていようといまいと関係無かった。既に充分、メッセージは届いているだろうから。
 葉留佳の最期の苦しみを忘れないで。あの子の血の温かさを忘れないで。
 あなたの罪を忘れないで。
 そしてもう、私たちには近づかないで。

 もう、立っているのも限界だった。既に膝は、がくがくと震えるばかりで、私を支える役目を果たしていなかった。
 膝から上を重力に任せる形で、私は崩れ落ちた。直枝理樹の手をすり抜けるように。
 そのまま、私の上体は横に倒れ込む。地面は思っていたよりも硬くはなかったが、雨に打たれたためか、冷たかった。
 目の前に、直枝理樹の顔があった。私の横にしゃがみ込み、私を覗き込んでいるのだろう。何か言っている気がするが、もう聞き取れない。視界が霞んで、彼がどんな表情をしているのかもわからない。

 直枝。
 あなたとは、もっと別の出会い方をしたかった。
 もしも、私たち姉妹が、普通の家庭に生まれた普通の双子であったなら。こんな結末にはならなかったのだろう。
 そこでは、葉留佳はあなたの傍にずっと居られたのかもしれない。
 私も、あの子の、そしてあなたの傍に、居られたのかもしれない。

 葉留佳。
 いつか、私を殺そうとしたね。私にハサミを向けて、あなたは私を刺そうとした。あの時は結局、そうしなかったけれど、私はあなたになら刺されても良かった。殺されても良かった。あなたにしてきたことを思うと仕方の無いことだし、それに私には、あなたしかいなかったから。あなたがそう望むなら、私は喜んでこの命を差し出しただろう。
 でも、私は置いてけぼりにされた。一人ぼっちで立たされて、私にはどうしたらいいのかわからない。
 もし許されるのなら、私はあの時、あなたの傍で、あなたと一緒に死にたかった。
 私は、葉留佳が居たから今まで生きてこられた。あなたが居たから、こんな下らない、苦痛しかない人生を耐えてこられた。
 私は、葉留佳が居ないと駄目なのだ。
 だから葉留佳。私も行くわ。

 私は目を瞑る。もうこれ以上、見るべきものも無かったから。
 静かだ。雨の音も何も聞こえない。痛みも、傷の熱さも、恐怖さえも感じない。
 暗闇の中、あるのは、自分の血が地面へと流れ出る感じと、流れ出た血に自分の意識が溶けていく感覚だけだ。

 雨の日に咲く、彼岸花。これはあなたに捧ぐ花。
 その花びらは、血の紅。雨に散りゆく、儚い花。





 おねえちゃん――――

 はるかの声が聞こえた気がする。それは遠い昔、あの子が私を呼ぶときに使っていた言葉だ。もう一度だけ、そう呼ばれたかったな。
 私からも伝えたい言葉がある。ずっとずっと言いたかったのに、結局言えなかった言葉。

 ごめんね、葉留佳。
 ずっとずっと、愛していたわ。


[No.156] 2009/06/12(Fri) 00:21:30
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《誰も来ない街を買って顔見知りの猫と暮らしてる》


「みーおちーん!」
 やけに賑やかな声がしたので少し目を上げると、中庭の向こうの方からぶんぶか手を振り駆けてくる騒がし乙女がいた。見なかったことにして、ささと意識を読書に戻す。
「ちょちょちょちょ、ちょいちょいみおちんそれはいくらなんでもひどくないッスか」
「読書の邪魔なので消えてください」
 ぱっ。
 本当に消えた。
「……ごめんなさい冗談です」
 屈辱に身を焼きながら断腸の思いで謝ると「うふふのふ」と、頭上の木の幹からしゅたっと現れる三枝さん。
「みおちんの冗談はキツすぎるので、たまにみおちんの愛を疑ってしまうはるちんなのでした」
「どうやったら一瞬で木の上に行けるんですか」
「そりゃま、愛ですヨ、愛」
「愛ってすごいですね」
 素直に感心してしまった。
「そんなことより、一緒に遊ぼうよー。ほらー、一緒に廊下にビー玉ばらまくの。どっちが綺麗にまけるか競争しよ。たーのしーいよー」
「普通に嫌です」
「ぶーぶー!」
「わがまま言わないでください」
「あーそーびーたーいー! ひーまー!」
 ため息をついた。本当のことを言うことにする。
「この後実は当番なんです」
「あれ? でも次はみおちんじゃなくて姉御じゃん? はるちんに抜かりはありませんヨ」
「来ヶ谷さんに頼まれたんです。『すまんがちょっと代わってくれないか』って」
「へぇ、めずらしーね。何か用事でもあるのかな」
「あまり調子よくないみたいですよ」
 底抜けの笑顔が少し曇る。
「じゃーしょうがないかー」
「はい」
「ところでさ、みおちんは大丈夫なの」
「はい、今のところは大丈夫みたいです」
「そっかー」
 またあそぼーねー、と彼女はすたこらさっさと走り去っていった。
 一人になる。
 腕にはめた時計を見て、空を見上げた。夜になる前の少しオレンジがかった空。そろそろ行かなくては、と膝に置いたままの本を閉じる。













《ありったけのアンプつないでサロンミュージック鳴らしたいな》


 グラウンドを通り抜けようとしたら、井ノ原さんがえびぞっていた。
「ふっ! はっ! 筋肉っ! 筋肉っ!」
「……」
 一生懸命なのはわかるし、何かこう鬼気迫るものがなくはないのだけれど、胸の奥深くからふつふつと湧き上がってくる生理的嫌悪感のような感情を、私はどうにも否定することは出来なかった。端的に言うと、キモかった。
「おうふっ! 西園ぉっ! なにぃ、やってん、だぁっ!?」
「私も井ノ原さんが何をなさっているのかわかりません」
「何ってっ! ふぅはっ! 見ればっ! わかんだろぉっ!」
「わかりたくありません」
「背筋だよ背筋っ!」
 いよーっしゃあぁ――っ!
 今日のノルマたっせいぃぃ――っ!!
 雄叫びを上げ、ようやく止まったえびぞり。少しほっとする。
「ふぅ、いい汗かいたぜ」
「かいたんですか?」
「気分的にはな」
 そう言って豪快に笑う井ノ原さん。さすがにこの人は計り知れない。別に計り知りたくもない。
「直枝さんたちはもう寮ですか?」
「あぁ、そうだな。さっきまではその辺にいたんだけどな。俺が筋トレしてる間に帰っちまったみてぇだな」
「すみません。遅くなりました」
「いいってことよ。そんなことより見てくれこの筋肉! 西園に会えて、この筋肉達も今日は一段と嬉しそうにわなないているじゃねえか」
「そーですね」
「西園、なんか棒読みじゃね?」
「気のせいです」
 井ノ原さんのマッスルポージングに恨みはないが、出来ればこれからもずっと私と関わりの無い場所で存在してほしいものだ。
「……お」
「はい?」
「そういやよ、今日は来ヶ谷じゃねぇんだな」
「はい」
 なんだか調子が悪いみたいですよ、と三枝さんに説明したことと全く同じように説明した。すると、
「まぁ人間そんなこともあらぁな」
 井ノ原さんはそんなことを言った。思わず目を瞠る。
「井ノ原さんは、不思議なことを言うんですね」
 素直にそう思った。思ったことをそのまま口にした。
「あぁ? 別に不思議でもなんでもねぇと思うぜー?」
「そうでしょうか」
「あぁ、そんなもんだ」
 こんなに自信たっぷりに言われると、なんだかそんな気もしてくる。
「じゃあ、もう行きます」
「ああ、またなー」
 マッスルポージングパート2を軽やかに無視して歩き出した。
 当番は、滞りなく済んだ。














《寄り添ってた人間とは嘘をついて喉が渇いたな》


 眠れない夜、君のせいだよ、と口ずさみながら、今日も今日とてページをめくる作業に勤しんでいる。読んでる本が面白くないのか、それとも読んでる私の頭が面白くないのか、むしろ口ずさんでいる歌の方に集中してしまうのはなぜだろう。第一、口ずさむにしても、もっと何か他の歌があるんじゃないだろうか。一体なんなんだ、はじめてのちゅう、って。眠れないのは個人の勝手な都合であって、それを何の脈絡もなく他人のせいにされたらたまったものじゃない。
「はじめて〜の〜ちゅう〜、きみとちゅう〜、あうぃるぎーみおーまいらー」
 誰にも聞こえない程度の声で小さく口ずさんでいるのは、私のいる木陰から五メートルほど離れた場所で直枝さんと鈴さんが濃厚なキスを交わしているからだ。男のくせに泣いてしまうかどうかは定かではないが、初めてでないことだけは確かだった。直枝さんが吸い上げる唇の音が、まるで耳元でされているかのように聞こえてくる。舌を絡め味わい合い、互いの口内の組織をこすりあって、時に吸って、吸われて、甘噛み、優しく、
「ひゅっ」
 笛鳴りがした。音のした方に視線を向けると、あまりに甘く曖昧にあんまりな光景にわふーとなった能美さんがいた。何事かを叫ぶ前に素早く能美さんの口をふさぐ。
「むぅぅぅ――っ! むふぅぅぅ――っ!!」
「うるさいです」
「むぐぅっ!」
 あまりに暴れるので、当身を食らわせたらすとんと大人しくなった。あまりの効果に自分でも驚いてしまう。詰まらないのを我慢して『サルでも出来る! 格闘技入門』を読んでおいた甲斐があったというものだ。
 直枝さん達は私達のすったもんだに気付く様子もなくキスを続けている。私はそっと能美さんを彼らから見えない茂みの奥へと運んだ。
 草の上に寝かせて、両手を胸の前で行儀良く組ませてみる。ふぅ、ふぅ、と、相変わらず自己主張の少ない能美さんの胸部が、規則正しい寝息に合わせて上下する。寝かしつけたのが他ならぬ私自身であるという事実を忘れてしまえば、これはこれで中々に神聖かつ扇情的な光景だった。
「よいしょ、と」
 辛抱たまらなくなった私は、音を立てないように自らの身体を能美さんの横に滑り込ませた。肩と肩が少し触れ合い、こすれた部位が発熱するような感覚を覚えた。茂みの向こう側で舌と下を絡め合っている直枝さんと鈴さんのことなど、もはや忘却の空の彼方だ。どこか遠い所に来たみたいだと勝手なことを思った。膝の裏を刺す草の感触。木の影に隠れた太陽。青い空。
 ざらっとした風が吹いて、周りの木の葉がざわざわと擦り合う音がした。私達の前髪と少し短めのスカートの裾がひらひら揺れる。あまりスカートの裾を短くするのは好きじゃない。隠しておかなくてはならない場所を晒すか晒さないかのスリルなど私には必要ないものだ。だけど、少しでも短くしてみようかと思えたのは、それだけ私の生身に近づいてくれる人達が現れたからなのかもしれない。
「みーおさーん」
 耳元でかすかな声。首を傾けると、柔らかな笑顔の能美さんがいた。
「痛かったですか?」
「気付いたらここに寝てました」
「そうですか」
 黙っておこう。能美さんに一生の秘密が出来た。














《愛の皮だけを噛って笑っちゃった ないてるみたいに》


 一日ぽっかりと時間が空いてしまったのは、直枝さんと鈴さんが連れ立ってどこかに遊びに行ってしまったせいだ。直枝さん達がいないと何も出来ないというわけではないが、これはこれで何か気が抜けてしまったような。学校の敷地の中ですれ違った他のメンバー達の様子を見ていると、誰もが同じ気持ちを抱えているらしい。そんなに暇ならくっついて行けばいいのかもしれないが(実際に三枝さんや井ノ原さんあたりは引っ付いて行ってるらしい)、私はどうにもそんな気になれなかった。無理をしてまでし付いていくのは周りの皆にも悪いし、楽しくないだろう。三枝さんに言わせれば「そこがみおちーのダメダメなとこなのさー! ぶーっ! だー!」となるのだろう。でも、私は私だ。
 仕方がないので、部屋に溜まった書物の整理をして一日を潰すことにした。書棚の掃除も、もう随分長い間していない。本棚の隅を指で拭うとこんもりと埃が削り取れる。ふっと息を吹きかけると埃が部屋の中を舞った。差し込む光と重なった部分がきらきらと輝いている。
「西園じゃないか」
 窓の外には剣道着の宮沢さんがいた。
「どうしたんだ、掃除か? 俺も暇だし、良かったら手伝おうか」
「ここ、男子禁制ですよ」詮無いことを言ってみる。
「いいじゃないか」二の句を継ぐ前にひらりと窓枠を飛び越える。
「怒られますよ」
「はっは」
「まぁ、いいですけど」
「ルームメイトは?」
「妙なこと考えたら舌噛んで死にます」
「…………」
「すみません」
「いや」
「ルームメイトはいませんよ。私は一人部屋でしたから」
 へぇ、と驚いたような顔をした。
「それより、宮沢さんはいいんですか」
「ん? 何がだ?」
「てっきり井ノ原さんや三枝さんと一緒に直枝さんに付いて行ったのかと思ってました」
「たまには、あいつらと別行動もいいだろう」
 ここのところずっとべったりだったしな、と。
 確かに、そうかもしれない。それは私もきっと。

   △ ▼ △ ▼ △

「しかし、凄い量だな」
 部屋の隅あたりに巧妙に隠してある文庫を全て引っ張り出すと、それだけで部屋の半分以上が埋まってしまった。出してくる度にページをぱらぱらとめくっては卒倒していた宮沢さんも、三分の一も出してきた頃には、げんなりと作業的に積み上げていくだけになっていた。
「こんなにどこに隠してたんだ」
「知りたいですか?」
「いや、いい」
 ちえっ。
「俺はあいつらの中では本を読む方だと思うが、西園にはとても敵わんな」
「どんなのを読むんですか?」
「歴史物が多い。日本の」
「藤沢周平とか」
「有名所だと司馬遼太郎も読むな。これなんかは、俺の人生の指南書だった」
 そう言って文庫で全八巻だかのシリーズの一巻目を手に取る。
「こんな風に生きたいと思ったものさ」
「もう無理ですか」
「道は踏み外した。だが、後悔はしていない」
 そうですか、とだけ返した。
 後悔しているかどうかなど、本人にすらわからない。取り返しの付かないほど遠くまで来て、初めてあれがそうだったんだと気付く。
 それが、後悔だ。














《夢を見ない 陽は昇らない 月も出ない 星だけ流れて》


「もういこうと、思ってるんだ」
 直枝さんと鈴さんのキャッチボールを見ながら、来ヶ谷さんはそんなことを呟いた。
 直枝さん達のキャッチボールは手馴れたもので、どこか適当な学校の野球部の人より上手いのではないかと思えた。二人以外誰もいないグラウンドで、制服のままいつまでも白球を投げ合っている二人の姿は酷く滑稽で、それでも風景の一部のような自然さがあった。
「この前は悪かったな、代わってもらって」
「いえ、役目ですから」
「役目、か」
 鈴さんが投げたボールが大きく逸れて、私達の方へ飛んできた。直枝さんが慌ててこちらに駆けて来る。
「そんな役目なんて決めた覚えは、私には無いぞ」
「私にもありません」
「誰にだってないはずだ。例え恭介氏にだってな」
 不意に来ヶ谷さんが立ち上がり、転がってきたボールに手を伸ばす。駆けてきた直枝さんとぶつかりそうになる。
 思わず目を背ける。
 そして、泣きそうな顔で立ち尽くす来ヶ谷さんの姿があった。
 直枝さんはさっさとボールを拾って思い切り鈴さんの所に投げ返していた。高く高く投げられたボールに向かって鈴さんは両手を伸ばす。
 そう。これは自然な流れの中で起こった一つの動きだ。誰からとなく始まったその行為は輪を広げて、いつの間にか仲間内で当番のように予定を組むようになった。誰に強制されたわけでもなく、誰が主導したわけでもない。
「だから、もうやめるってことですか」私の言葉に険が混じってしまったのはなぜだろう。
「変わったな、美魚君」
 すたすたと歩いてきて、とすんと、また私の隣に腰を下ろした。
「疲れたんですか」
「いや」
「飽きましたか」
「そんなことはないぞ」
「嫌いになりましたか」
 くっくっく、と二人して笑った。その仕草が妙に悪者ぶっていて、おかしくなった私達はさらに笑った。おかしくて、涙まで出てきた。
「終わらないものはないんだな、という話だよ。とっくに消えてなきゃいけないはずの私達が言うのもなんだがな」
 知っている。私達はそれを痛いほど理解している。
「小毬君は、きっと誰よりもそのことを分かっていたんだ。終わってしまわないものはない、なくなってしまわないものはない、ってな。だから一番最初に消えてみせた」
「それは」
「想像さ、全てな」
 今すぐに消えてしまうというものでもない、と。来ヶ谷さんの長い髪がたなびいて私の身体に触れた。
「いくって、どこへ行くんですか」
「わからない」
「わからないのに」
「わからないからこそ、さ。それがどこなのか、何なのか、いつなのか、なぜなのか、わからないからこそ私達は生きていたんだろう?」
 何も言えなかった。
 来ヶ谷さんは立ち上がり、キャッチボールをしている直枝さん達に背を向けた。私は立ち上がれず、足下の草を千切りながらグラウンドの一点をただ見続けていた。千切っては投げ、千切っては、また投げて。
「――そんな顔するな!」
 振り返ると、仁王立ちした来ヶ谷さんが泣いてるみたいに笑っていた。
「楽しかっただろう?」

 来ヶ谷さんが消えたのはそれから数日後のことだった。














《悲しいフリをするのって向いてないな 動物みたいに》


 今夜は私が当番だったが、どうしても行く気がしなくて、前に小毬さんに教えてもらった秘密の鍵を使って屋上に出てみることにした。
「本当は使う必要なんて無いんですけどね」
 隣にいるはずだった誰かにだけ聞こえるように、呟いてみる。 鍵を差し込んで回す。もちろんかちりと開いた手応えなどもらえない。確か去年の秋ぐらいに壊れてしまったんだと、小毬さんが悲しそうに、そしてどこか申し訳なさそうに教えてくれたのを覚えている。それでも回してみるのは、自分のためだけの儀式のようなものだ。ぎぎぎと錆びついた音をたてて窓が開いて、夜の風が吹き込んでくる。風の向こうに身を投げ出すと、星空に包まれる。夜に巻かれて、私は一人だ。

 ここで星を見ていた彼女はもういない。














《たった一人キミを思い出す 死ぬ直前の人間を気取って》


 曲が終わり、恭介さんはフォークギターをじゃらん、と鳴らした。私は音楽のことはよくわからないが、声を枯らして必死に歌う姿には、どこか胸打つものがあった。
「でもま、これはアコギで歌う曲じゃないような気もするけどな。興味あったらそのうちどっかで聴いてみろよ」
「最近は野球よりも音楽なんですか?」
「そうだなー。バンドをやろう! バンド名はリトルバスターズだ! なんて、最近見たアニメでもバンド物やってるみたいだし、流行にはのっとかないとな」
「流行なんて興味ないように見えますけど」
「まぁ、無いけどな」
 なんだかよくわからない曲を弾いている恭介さんの肩はリズムに合わせて揺れている。上手い下手はよく分からないが、なんだか一緒に身体を動かしたくなる。
「やっぱ、ソロよりもデュオ、デュオよりもトリオ、カルテット」
「はい」
「だよな」
 素直に頷いている自分が不思議だった。
「一人で弾くのは楽なんだよ。全部自分のやりたいようにやれる。リズムを合わせる必要もないし、感情だって好きなように上げたり下げたり。二人になるとそういうわけにはいかない。合わせなきゃいけないんだ、何もかも。相手の気持ちを推し量って、俺はこういう風に弾きたい、俺はこういう風に歌いたい、互いを尊重して初めてそれは音楽になる。三人になれば三人の、四人になれば四人の苦労がある。だけど、それって実は凄く楽しいことなんだよな。それに気付いてしまったら、もう一人には戻れないだろ。もしもそういう人が一人になったら、強くならなきゃいけない。一人でも平気だって、泣きながらでも強くいなきゃいけないんだ」
 弾き出したのは、さっきまで恭介さんが歌っていた曲だ。
「けどな、一人でいることってのは寂しい反面、中毒性があるんだよ。孤独に馴らされた人間は、誰かといても心が勝手に壁を作る。壁の向こう側には傷つきやすくて脆い自分がいる。触られたい、でも触られたくない。バランスが崩れりゃどっちかに傾いて過剰になる。結局、どっちにしたって一人さ。でも、一人でいることがたまらない快感でもあるんだ」
「でも、一人は嫌、です」
 そりゃ良かった、と恭介さんは笑った。「けど、いつかは一人になる」
「そうですけどね」
「だろうけどな」
 楽しかっただろうと口にした来ヶ谷さんの顔はどうしようもなく笑っていた。私はそれを見て、悲しいことなんて何一つないんだと思った。
 ここで皆と一緒にいられて、楽しかった。
 それだけはきっとこれから先に何があったとしても本当だと思う。
「西園も、行くか?」
「恭介さんは」
「俺は這いつくばってでも最後の一人になるまでいるさ。まだあいつらのこと、心配だしな」
 なぜか、あいつら、の中には直枝さんと鈴さんだけでなく、消えてしまった神北さんや来ヶ谷さんも含まれているような気がした。もちろん、まだこうして残っている私達も。
「なら、私もまだここにいます。まだ、いられるみたいですから」
「そうか」
 恭介さんは床にごとんとギターを置いた。それもすぐに消えた。後には無機質な教室だけが残った。














《Sweet Baggy Days》










〔引用元〕


「Sweet Baggy Days」the pillows


[No.157] 2009/06/12(Fri) 04:34:51
コルチカム (No.154への返信 / 1階層) - ひみつ@12180byte

 本来ならば人間と言うのは異性を好きになる動物らしい。女は男に惹かれ、男は女に惹かれる。
それが普通の恋愛なのだと言う。少し下品な言い方をするのであれば、欲情や性的興奮を覚えるも
のらしい。
 だがしかし。そんなことを言っても人間と言うのは意思を持ち、自らの感情にしたがって生きる
動物なのだ。稀にそのルールから外れる者も居るには居るのだ。そう、私みたいに。
 私の性別は女。胸もまあそこそこに膨らんでおり、全体的に丸みを帯びている体系からもわかる
だろう。まあ腰の辺りは丸みを帯びて欲しくないが。出来れば余計な脂肪は胸等に行って
欲しいものである。是非ともそう願いたい。今の自分に不満がある訳ではない。親族による負の
連鎖から逃れ、最愛の妹とも仲良く過ごすことが出来ている。
 そして、自慢ではないが私はそこそこ男子に人気があるらしい。それに気がついたのは前よりも
雰囲気が丸くなった、と妹に言われてからだが。成績もまあまあ良い。
それは以前の癖が抜けていないせいで必要以上に勉強してしまうから。つまるところ、私の生活は
充実していた。他人から見れば、だけれど。
 私には授業中や食事時、就寝前に必ず考える悩みがある。
その悩みと言うのは口に出して言ってしまうと他人から変な目で見られてしまうものであり。
そして解決が非常に困難であると言うものだ。


 上でも触れたが、私二木佳奈多は。
 同性が、好きになってしまったのだ。


 その相手は違うクラスの女子で、来々谷さんと言う。同級生なのにとても大人びていて、
綺麗な人だ。おまけに頭も良くて運動も出来てスタイルも良い。それなのにお茶目と言うか、
飄々としている。妹の言葉を借りるならば「姉御」と言う感じである。
 私がその「姉御」を何故好きになってしまったのか。
それは別に特別な出来事があったわけでもなく。ただ、あの人の優しさに不用意に
触れてしまったからだと思う。その時の事は今でも鮮明に思い出すことが出来る。


 高校に入学し、暫くたった頃だった。その頃の私はまだ葉留佳に厳しく当たらなくてはいけな
くて、心身共に辛かった。そんな時、あるクラスメイトが話しかけてきた。
いや、正確に言うならば科学の実験の際に組んだので話さなくてはいけなかった、というのが
正しいのだろうけど。けれどその些細な出来事で、私は救われ恋に落ちた。単純だな、と自分で
も思う。
 来々谷さんと話したのはその時が初めてだった。印象としては変わった人だなと思った。私が
実験の用意をしている時も彼女はずっと座って腕を組んで、私を見ていた。少しは手伝ったら
どうなのか、と言おうと思ったけど止めた。一人でやったほうが早いと判断したから。
 一通り準備を終え、私が椅子に座ったその時だった。

「二木女史、実験をする時は立ったほうが良いと思うぞ」

 正直驚いた。私に話しかける人なんて居ないと思っていたし、何よりも名前を呼ばれた事に。
私は動揺を悟られないように、黙って腰を上げた。

「ふむ、中々に素直でよろしい」
「…実験、するの?しないの?」

 何故か少し腹が立ったので、さっさとやる事を済ませて会話を止めたいと思った。だけど
来々谷さんは少し顔を微笑ませこう言った。

「まあ急がなくても良いだろう。こんな実験やる方が無駄だ」

 小学生でも出来るようなものをやらせる意味がわからない、と小さく付け足した。この時
彼女に好意を抱いた。恋愛的な意味では無く、親愛的な意味で。少し、勇気を出すことにした。

「来々谷…さんだったわね、何で私に話しかけたの?」
「なに、そんなに深い意味は無い。ただ君が可愛いからだ」
「…お世辞が上手なのね」
「素直な気持ちで言ったのだが」
「口説くなら他の子にしたら?」

 見せ付けるように溜め息をついたのにも関わらず、来々谷さんは余裕の笑みで私を見ていた。
まるで私の全てが分かっているかのように。その後は彼女と取り留めの無い話をしつつ
実験をした。来々谷さんが手伝ってくれたのが意外だったけど。これがきっかけで私達は
休み時間などに話すことが多くなった。例えばある休み時間で

「佳奈多君、おねーさんとゆっくりとお茶でもしないか」
「次の時間が数学だからって私を誘わないで」
「君の成績と生活態度なら別にサボタージュしても平気だろう?」
「日々の積み重ねが大切なのよ、こういうのは」
「真面目すぎるのが佳奈多君の悪いところだな。少しは羽目を外してみるといい」
「放課後にするわ」

 ちなみにこのやり取りをしてる時、私は一度も来々谷さんの方を向いていない。
何故かと言うと、私はその時数学の予習をしていたから。昨夜うっかりと数学の予習をせずに
寝てしまい、それに気がついたのがつい先程。毎回予習は三十分ほどかけてやるので確実に
間に合わないということは理解していたけれど、それでもやらずには居られなかった。
 そんな私の様子を見ていた来々谷さんは、何を思ったか隣の席に座りノートを覗き込んできた。
何事か、と思ったけれどそんな事に気を配っている余裕が無い。私は再び予習を始めた。すると
不意に横から手が伸びてきた。

「ここ、少し違うな。おそらく途中の計算が間違っているのだろう、見直してみたまえ」

 近づいた顔と甘い香り。シャンプーか何かだとは思うが、やけに甘く感じた。不覚にもぼうっと
してしまった私に気がついた彼女が手を伸ばしてきた。

「おい?佳奈多君、どうかしたか?」
「…別に、何でもないわ」
「顔が真っ赤なのに何でも無いことは無いだろう、保健室にでも行こう」
「え?ちょ、ちょっと…」

 無理矢理手来々谷さんにを引かれ、教室を出る。その途中でこの人は数学をサボる理由が
欲しかっただけじゃないか、と思った。本人に確認を取った訳では無いから
分からないけれど、おそらくそうだろう。
 それか本当に私を心配してくれたか。そうだったら、とても、嬉しい、のだが。

 そんなことを考えながら彼女に引っ張られていた、その時だった。角から妹の葉留佳が
ひょっこり姿を現したのだ。その瞬間、どこか浮ついていた頭の中が一気に冷たくなった。
葉留佳はこんなにも傷ついているのに私だけがこんなに普通の生活を送っていて良いのだろうか。
そう思った瞬間にはもう私の手は来々谷さんの手から離れていた。それに気がついた来々谷さんが
振り向く。そして葉留佳に気がつき、私を見た。流石の彼女も私達が姉妹だとは分からなかった
のか珍しく困惑していた。
 久しぶりに見た葉留佳は、どこか元気が無く。私を見たというのに
睨みつけることすらしなかった。おそらくクラスに馴染めなかったんだろう。それでも私は精一杯
葉留佳に嫌がらせをするしかなかった。するしかなかったはずなのに、口が動かない。
 代わりに体が動いていた。葉留佳とは逆の方向へ全速力で走った。途中で躓いたりもした。けれ
ど止まらなかった。止まってしまったら、葉留佳の元へ駆け寄って抱きしめてしまうと思ったから。

 鐘の音でようやく足が止まった。ここは何処だろうと荒い息のまま周りを見渡した。自販機が
傍にあると言う事は、ここは裏庭なのだろうか。あまり来た事が無いので良くわからない。
 とりあえず飲み物を買うことにした。何も考えずに押したボタンから出てきたのは、オレンジ
ジュース。思わず笑ってしまった。私は柑橘類アレルギーだ。それなのにオレンジジュース。
 いっその事一気に飲み干してやろうか、とも思ったけど止めて置く。後ろから聞こえて来る足音
の主に迷惑は掛けたくないし。

「走ってきたみたいだから、これでも飲む?オレンジジュース」
「ありがたく受け取りたいのだが、君が買ったものだ。遠慮しておこう」
「良いのよ、私オレンジジュース嫌いだから。飲んでくれたほうが嬉しいわ」
「ふむ、じゃあ頂くとしよう」
「召し上がれ」

 プルタブを空ける音がやけに響いた。暫く私たちは無言だった。私は私で何と言って良いか
わからなかったし。来々谷さんはおそらく私が言い出すのを待っているだろうから。このまま無言
で居ても仕方ないから、私は重い口を開いた。

「さっきはごめんなさい…」

 …困った。とりあえず謝罪してみたのは良いけれど、この後が出てこない。私達の関係を暴露
するのもありかもしれない。でも出来れば彼女には知られたくない。
 こうなったら逃げよう、と思った。来々谷さんから逃げられるとは思えないけどもしかしたら。
 どの方向に逃げようか迷っていると、不意に背中に柔らかい感触を覚えた。それと同時に仄かに
甘い香りと、吐息も。やっと理解した。私は今、来々谷さんに抱きしめられているのだ。

「…君達の関係は良くわからないし、分かりたいとも思わない」

 その言葉は彼女にしてはとても優しげな声色で。

「けれど、君がなにやら悲しんでいる時に慰めてあげたいとは思う」

 思わず涙が出てしまったのも仕方が無いと思える程、暖かで。私は来々谷さんに抱きついて
涙を流してしまった。不様に声を上げて、情けなく弱さを晒して。それでも来々谷さんは何も言わ
ずに、私を抱きしめてくれていた。
 その時気がついた。私は彼女のことが好きなんだと。




「うううう…」

 さて、今現在の私はと言うと。ベッドで頭を抱えながら転がっていた。好きになった経過を思い
出していたらあまりにも恥ずかしくてどうにかなってしまいそうになったのだ。
 現にこの出来事の後から私は来々谷さんとあまり会話をしていない。彼女の顔を見たら顔が赤く
なってしまうからだ。
 二年になったら話す事は出来るだろうと楽観的に思っていたのが間違いだったのだ。いざ進級
してみたらどういうことか、あのお騒がせ集団リトルバスターズに彼女が入ってしまった。
その集団には葉留佳も入っていたから、近づくことすら出来なかった。それに私は風紀委員長とし
てその集団とは敵対しなければいけなかった。踏んだり蹴ったり、いや泣きっ面に鉢だと思った。
 でも、今は違う。違うのに、話すことが出来ない自分が馬鹿らしくなってくる。自分がこんなに
弱いなんて思ってもみなかった。

 いじけてベッドでごろごろと転がっていたら、突然ドアが開いて誰かが入ってきた。転がった
ままドアを逆さまに見ると、葉留佳が息を切らしてへたり込んでいた。
 普段なら慌てて姿勢を整える所だけど、今はそんな気分になれなかったし、葉留佳なら良いかと
思ったのでそのままだ。とりあえず、葉留佳に質問してみた。

「どうしたの?そんなに息切らして…」
「ちょっと姉御に追われてるんですヨ…ってお姉ちゃん凄いカッコしてるね」

 言われて自分の格好を見直してみると、成る程凄い格好だった。上の服はおへその辺りまで捲れ
上がっていてボタンも大体外れていたし、ズボンはお尻のあたりまで下がっていた。下着が両方
ちらりと見えているのが我ながら少し扇情的だな、と思った。

「休みの日なんだから良いじゃない…」
「まあはるちん的にはもうバッチコーイ!って感じなんだけど、多分姉御とかに見られたら」
「呼んだか」
「く、来々谷さん!?」

 いつの間にか来々谷さんが部屋に入ってきていた。私は慌てて服の乱れを直そうとしたけれど
その前に来々谷さんが私の両手を掴んでいた。しかも片手で。

「別に構わんだろう?休日だしな」
「は、離してください!あれは葉留佳だけだと思ったから…」
「私が居てはその格好は駄目か。じゃあたまたま持っていたこのメイド服でも着てくれ」
「そっちの方がよっぽど恥ずかしいわよ!」
「じゃあこのままで良いではないか」
「そういう問題じゃない!」

 この間も来々谷さんは私の両手を掴んでいて、振りほどこうにも何故か出来なかった。
来々谷さんの力が強いのか、それとも私に振りほどくつもりが無いのか。
 どちらにしても、今、来々谷さんと触れ合っているというのは変わらない。それが嬉しかったり
恥ずかしかったりで、顔が真っ赤になってしまった。

「は、葉留佳!助けて!」

 思わず葉留佳に助けを求めた。だけど我が愛しの妹は携帯を構えて

「ごめん、このまま姉御を応援してた方が可愛いお姉ちゃんが見れる気がするから…」
「うむ、ナイス判断だ葉留佳君。その期待には必ず答えると約束しよう」
「裏切ったわね葉留佳あああ!!!」



 十分後。結局メイド服に着替えさせられた私は二人の前で

「お、おかえりなさいませご主人様…」

 と言わされたりしてとても恥ずかしい思いをした。葉留佳にはお説教したけど、来々谷さんには
逃げられてしまった。まあ不幸中の幸いかもしれない、と思い直した。
 そして、未だ私の足元で正座中のアホな妹を見下ろして溜め息交じりに訪ねた。

「全く…なんで来々谷さんの加勢をしたのよ?」
「やはは…やだなぁ言ったじゃないですか。可愛いお姉ちゃんを見たかったのですヨ」
「嘘ね」
「全く信用されてない!?」
「メイド服なら一度着てあげた事あるじゃない」

 そう、あれは葉留佳に神北さん、それにクドリャフカと鈴さんと私を含めた五人で密かに開いた
お茶会での事。何故か私とクドリャフカがメイド服で給仕をさせられたのだ。あの出来事は、心の
奥深くにしまっておくと誓った。

「…怒らない?」

 どうやら正直に言う気になった様で、上目遣いで私を見上げてくる。とても可愛かったので、
まあ正直に言えば許してあげないこともないと思い頷いた。葉留佳はゆっくりと口を開き、小さい
声で言った。

「お姉ちゃんさ、姉御の事好きでしょ?だから…ってうわ?!」
「…なんで知ってるのよ…?正直に言えば今なら頑張って許すわ…!」
「い、一緒に寝た時に寝言で姉御の名前呼んでたから…」

 私はがっくりと両手をついた。まさかそんな時に自分でバラしてしまっていたなんて……
 うな垂れる私の肩に優しく手が置かれた。顔を上げると葉留佳がにっこりと微笑んでいた。

「協力するよ」
「え?」
「お姉ちゃんが姉御に想いを伝えるの、手伝うよ」
「…良いの?」
「姉妹だもん、遠慮は要らないですヨ」

 そう言って笑う葉留佳は、とても可愛かった。思わず抱きしめてしまったのも無理はないと思う
ぐらいに。






 その後。葉留佳や直枝達に手伝ってもらい、想いを伝える事が出来た。結果は、保留という事に
してもらった。来々谷さんは快諾してくれたのだけれど、私の家の事がが落ち着くまで保留という
事にしてもらったのだ。
 なので、まだ正式に付き合っては居ない、けれど

「かなたん、お茶を淹れてくれないか。喉が渇いた」
「自分で淹れなさい、ゆいちゃん」
「手が離せないのだから無理だ」
「私も誰かさんに抱きしめられているせいで動けないのだけれど?」
「言っておくが離すつもりはないぞ」
「…わ、私も離れるつもりはないわよ」
「ああ…佳奈多君は可愛いなぁ」

 落ち着くのはまだまだ先でも。それまでの生活は、退屈しないと思う。


[No.158] 2009/06/12(Fri) 14:34:55
(No Subject) (No.158への返信 / 2階層) - ひみつ@12180byte

すみません、間違えました…orz
タイトルは『コルチカム』です…


[No.159] 2009/06/12(Fri) 14:36:16
毒は上に積もる (No.154への返信 / 1階層) - ひみつ 9397 byte

 ――例えば水俣病やイタイイタイ病に代表されるような病気は毒性成分の堆積によります。食物連鎖の上に行くに従って毒が溜まっていく仕組みになっていますので、捕食者には毒が蓄積しやすいのです。





 毒は上に積もる





 その日、真人は朝早くに目を覚ました。その日も、といった方がより正しい表現なのかも知れない。
 真人の目覚めはとてもいい。夢と現の間をまどろむ事もなく、目覚めと共にガバリと体を勢いよく起こすのが常。
「ふぅ、今日は理樹と一緒に筋トレをする夢を見ちまったぜ」
 そして見た夢の内容を軽く口にするのがクセになっていた。真人曰く、夢は心の筋肉だそうだ。
 深い眠りについている理樹が聞かない方がいい言葉はさておいて、真人は理樹を起こさないようにゆっくり2段ベッドから降りていく。実際にはギッシギシと常人ならばすぐに目を覚ましそうな音をたてているのだが、慣れとは恐ろしいもので理樹は一向に目を覚ます気配もない。
 真人は冷蔵庫から麦茶を取り出すと、一気に煽って睡眠中に失った水分を取り戻す。
 体を動かす時に水分は重要だ。不足すれば脱水症状で倒れてしまいかねない。
「さあ、行くか!」
 早朝のメニューはランニング10キロに腕立て伏せ30回を3セット、スクワット50回を5セット。
 ドアを開けながら真人は思う。いくらなんでもこの早朝トレーニングの量は少なすぎるのではないかと。



 ――食物連鎖の上辺と聞くだけでは語弊が生じますね。下層に位置する植物の危険性に言及していません。確かに植物は捕食をしませんが、多くの物質を生涯の間ため込み続けるという性質を持ちます。もちろんそれは自然界における毒も含めまして、人間が除草剤などとして散布する毒物も例外ではありません。そのような毒性物質もどんどん植物はためこんでしまいます。



「ふんっ! ふんっ! ふんっ!」
 スクワットの5セット目を始める。もぞりと布のこすれる音。なぜか理樹はいつも筋トレが終わる直前に目を覚ます。
「ふんっ! ふんっ! ふんっ!」
「おはよう、真人」
「ああ理樹、おはよう。もうすぐ筋トレが終わるから待っていてくれ」
「気にしないでいいよ」
 そう言って理樹はベッドから這い出して洗面所の方に向かう。顔を洗って歯を磨く。いつもの朝の行動だ。それをスクワットをしながら見送った真人は、直後ふうと息を吐きながら汗を拭う。
「いい汗かいたぜ」
 汗をたっぷりと吸って不快なグラデーションをかもしているシャツを脱ぎ、用意しておいたエクササイズマッスラー29を適量飲み干す。
 筋肉によさそうと言われているものを、例えば大豆とか魚の骨の粉末とかクコの実の粉末とか、節操なく配合したドドメ色の物質が入っていたペットボトルを空にした真人。そして理樹とは違ってシャワー室へと足を運ぶ。以前にシャワーを浴びずに食堂に向かった時、汗臭いはぼけーと鈴に牛乳をぶっかけられた事がある。
 ちなみに、鈴曰く消臭効果を狙っているらしい。ちなみに、そのまま学校に行ったら授業が成立しなかった。
 消臭効果が足りないのか、量が足りないのか、シャワーの水の代わりに牛乳を使ったらいいんじゃないだろうか。真人が最近頭を悩ませている事柄だ。



 ――更に注意が必要なのは飼育されている食用動物です。日本の法律において彼らの食事を制限することはできません。つまり彼らには農薬たっぷりの穀物を与えたところで、なんの罰も受ける事はないです。もちろん良心的な人々も多いですが、そうではない人々もまた多いという事を忘れてはいけません。豚を例にあげてみますが、毎日のように毒に汚染された穀物をこれでもかと食べさせられ続ける豚たち。彼らの中も毎日有害な物質が蓄積され続けています。



「いっただっきまーす!」
 これ以上の幸福はないと、危機とした笑顔で朝食にとりかかる真人。それを見てうんざりとした表情をしている一同。特に鈴。
「なんだお前は。なんで朝からカツ丼なんて濃いものを食べてるんだ。見てるだけで食欲なくす」
 そう言う鈴の前にはバタートーストとサラダ、カップゼリーという女の子らしい慎ましい朝食セットが。
「だってよぅ、カツ丼だぜ鈴。カツ丼ならいつだって腹一杯になるまで喰いたくなるのが人間じゃねぇか」
「それはお前だけだ」
 珍しく冷静な突っ込みを入れる謙吾。これでリトルバスターズジャンパーを着ていなかったら完璧だったのだけど。
 真人と謙吾、そして要所にハイキックを混ぜた鈴のやりとりを見ながら理樹に目配せをする恭介。
「いや、この騒ぎなら普通に話をしてても気がつかれないと思うよ」
「そうだな。
 それで理樹、どうして真人は朝からカツ丼なんだ? いくらなんでもいつもはもっとまともな物を注文していただろ」
「ああ、それね。昨日の夜は真人が決めたカツ丼の日だったんだ。だけど食事時に財布が見つからなくて僕が代わりに素うどんを奢ったから」
「なるほど。その後財布を見つけて、昨日の夕食の分を取り返そうと思ったんだな」
「そういう事だと思うよ」
 ズズ〜とお茶をすすり、プハーと息を吐く二人。
「よし、このまま三人で言い争うのもつまらないだろう。ここは変則バトル、バトルロワイヤル方式で決めようじゃないか」
「ほぅ、それは面白そうじゃないか」
「へっ。この筋肉の前には何人だろうと無駄に決まってるぜ」
 いつもと違った展開に目を輝かす男二人だが、焦るのは鈴。
「きょーすけ、ちょっと待て。あたしをこのバカ2人とひとくくりにするとはどーいう了見じゃぼけー!」
「ん? そうだな。確かにハンデがありすぎるな。よし、理樹は鈴と協力する事。2人でタッグマッチだ」
「ちがう、そういう問題じゃない!
 ま、まあ理樹と一緒ならやってやらんでもないが」
 後日、理樹は語る。その時の鈴はかなり萌えたと。
「じゃあ僕と鈴が組で」
 理樹がそんな事を言っている間に、わらわらと下らない物を持った観客たちが恭介が招集をかけた訳でもないのに集まっていた。彼らも彼らで大分慣れてきたようだった。
「それじゃあバトルスタートだ!」



 ――そして現代において捕食者の頂点に立つのは人間です。わたしたちは農薬まみれの野菜を食べ、毒物をため込んだ動物性タンパク質を摂取します。これは天然の物でも例外ではありません。むしろ海や山には産業廃棄物など猛毒が大量に存在すると言っていいでしょう。そのような毒物は人間の体内にも積み重なっていき、やがて四大公害病のような重篤な障害を発症させるのです。



 机に突っ伏している真人と謙吾。ピンピンしている理樹と鈴。
「ばかだろ、お前ら」
 そんな二人を見下しての鈴の言葉。ぐぅの音も出ない。バトルロワイヤルだというのにバカ二人は真っ先にぶつかり合い、そして消耗したところをタッグペアに狙いうたれた。
「くそぅ。謙吾さえ先にぶっ潰せば筋肉の足りない理樹と鈴なんて瞬殺する予定だったのによぅ」
「そういうお前らはおつむが足りん」
「ありがとよ」
「なんでお礼を言うの!?」
「え? つまりその分筋肉があるって褒め言葉だろ?」
「そういう意図は全くないと思うけど」
 ちなみに謙吾は真人と一括りにされたショックが大きすぎるらしく、机に突っ伏して身動き一つしない。体のダメージを全く引きずっていない辺りが彼らが彼らである所以だろうけど。
「ところでよぅ、理樹よぅ」
 教室をキョロキョロと見渡しながらの真人。彼の目には一心に勉強するクラスメートたちの姿が。
「今日って何かあったっけ」
「普通にテストがあるよ」
「…………マジか?」
「マジだよ」
 一瞬の沈黙。
「悪い理樹! カンニングさせてくれっ!」
「本当に悪いよ、自分で勉強するって選択肢はないのっ?」
「オレはオレの筋肉を信用している。だがな理樹、いくら筋肉様でもテストじゃあ助けてくれねーんだよ!」
「極めて当たり前の事だよね、それ」
 いくらなんでもカンニングをさせるのは論外だ。だったら今から少しでも頭に叩き込むのがいいのかも知れないが、理樹とて自分の勉強がある。テスト直前の大切な時間をおいそれと手放す訳にはいかない。
 それじゃあ他に誰かいるかと教室を見渡してみる。
 恭介は食堂から真っ直ぐに自分の教室に向かってしまったし、いつの間にかいなくなっていた鈴は小毬とクドと一緒に楽しそうに、けれど一生懸命に勉強しているので真人を頼むのは可哀想だ。突っ伏している謙吾には流石に無理だろう、勉強から乱闘までに移行するギネス記録に挑戦なんてしたくもない。空気読めずに教室で騒がしくしている葉留佳は論外だ。彼女に勉強を教えるというコマンドはチートを使っても会得する事は出来ないだろう。
「となると後は2人しかいない訳だけど」
 ぼーと窓の外を見ながらエロい事を考えているであろう来ヶ谷か、教室内で堂々とBL本を読んでいる美魚か。彼女たちに勉強を教えてもらうのは、ある意味人間として終わっている気がしないでもない。
 真人をみる。今更か。
「なんだよ理樹、じっと考え込んだりしてよぅ」
「いや、何でもないよ。それでテストだけど、まだ時間があるし勉強をするっていうのはどう?」
「うげっ、勉強かよ。まあ理樹と一緒ならいいか」
「ちなみに僕は自分の勉強があるからね。暇そうなのは来ヶ谷さんか、美魚さんかな」
 ガシッっと理樹の肩を鷲掴む真人。ずずいと前に迫り出す様はどこからともなく美しくないですと聞こえてきそうな体勢だ。
「頼む理樹っ! オレの事を思うなら来ヶ谷だけはやめてくれっ!!」
「来ヶ谷さんは勉強を教えるの、上手いけど」
「そういう問題じゃねぇんだよ、分かるだろ?」
「なんとなくね」
 ちらと横目で窓の外を見ながらえへえへと笑っている来ヶ谷をみる理樹。全般的にリトルバスターズの男性陣は来ヶ谷を苦手としているのは分かっている。
 だがそれは他のメンバーが苦手とされていない訳ではない。
 教室の反対側、入り口近くの席でうふふふふと淑女のような笑みを浮かべている美魚の手にはでかでかと18禁のマークがついたBL本が。それのせいで恭介や謙吾だけでなく、理樹もやや美魚の事が苦手だ。もちろん来ヶ谷も美魚も悪い人ではないことは分かっているし、嫌いでもなくむしろ好きなのだが。
「それに僕らならともかく、真人ならそこまで苦手って訳でもないか」
 そう結論つける理樹。
「それじゃあ美魚さんに頼みに行こうか」
「西園か。そうだな、そっちで頼む」



 ――蓄積されていく毒物は、わずかな時間で症状を表さないのが最も恐ろしい点と言えるでしょう。他の病気でもそうです、潜伏期間が長ければ長い程その治療は困難になると言えます。そういう意味において毒物の蓄積は場合によって、親子で継続してしまう事すらあるのです。その毒性成分は脳やホルモンに悪影響を及ぼし、低知能や奇形児が誕生する原因になっていると言われています。蓄積されていく毒物は、次世代の子供たちにその負債を残していくのです。



「――と、こんな所でしょうか」
「すまん。説明して貰って悪いが全く分からん」
「ふふふふふ。わたしの貴重な読書の時間が割かれたあげくがこれですか。これは理樹さんも同罪ですね。
 やはり新刊はあえて理樹さんが井ノ原さんを襲う、ギャップ萌えな展開に」
「わー! しないでしないでそんな展開!!」
「ところで理樹さん。井ノ原さんもですがもう少しで授業が始まりますがテスト勉強の方は――――」

 キーンコーンカーンコーン……――


[No.160] 2009/06/12(Fri) 18:25:23
気の毒な姉妹 (No.154への返信 / 1階層) - ひみつ@1071 byte

「おねーちゃん聞いて。私、今日から自立する!」
 朝、リビングに現れた葉留佳は、ベーコンエッグをかじる佳奈多に向かって高らかに宣言した。
「そう、いい心がけね」
 佳奈多は特に驚いた様子もなく、妹の決意表明ををあっさりと受け流した。
「はるちん思ったのですよ。このままじゃ自分ダメだなーって。人に迷惑かけてばっかの生き方じゃろくな大人になれないなーって」
「そうね。よく気づいたわね」
「それって結局甘えじゃん? 人に代わりに責任とってもらってるようなもんじゃん?」
「そうね。葉留佳が学校で騒ぎを起こすたびに先生に頭下げてるの私だものね」
「せっかくまた二人で実家からガッコ通うようになったんだからさ、これを機に私もしっかり自立した大人の女になろうと思うのですよ!」
「あーはいはいがんばってね。ところで今日のお弁当のおかず何がいい?」
「ハンバーグ!」
 その後、葉留佳は自立した大人の女に見える制服リボンの結び方を研究し、佳奈多は弁当を作り、朝食の後片付けをし、炊飯器を夕食前にセットし、換気扇を消し、ゴミを出し、新聞を取りこみ、洗濯物を干し、観葉植物に水をやり、ガスの元栓を確認し、戸締りをして、二人は学校へと向かった。
「はっ、私ダメじゃん!」
 夜、布団の中で気がついた。

<END>


[No.161] 2009/06/12(Fri) 19:10:20
精神解毒薬 (No.154への返信 / 1階層) - ひみつ@7950byte

秋風が吹く夜、私は寮の自室を出て一人、物思いに耽っていた。
それは大切な姉、佳奈多のこと。
前よりは優しくなったが、その毒舌はあまり変わらなかった。
そこでもっと素直で可愛いお姉ちゃんを見たいと思うのは妹として普通の思考である。
だからいろいろがんばった。耳に息を吹きかけたりとか、背中を人差し指でつーっとなぞるとか。
1瞬だけ「ふひゃあ!?」なんて大げさに驚いてくれるんだけど、すぐに元に戻って怒られるからなあ……
それが今回はマジギレされて、追い出されて今に至るというわけだ。
ちょっぴり考えた結果、姉御の力を借りるという結論に至った。あの人はこういうことには協力してくれそうだし。
善は急げということで、駆け足で姉御の部屋へ向かった。



すぐに到着して、すぐにいるか確認。ノックをすると声が返ってきたのでいるみたい。
とりあえず素直なお姉ちゃんを見たいというと、ゆっくりとドアが開き、中に入れてくれた。
靴を脱いでそろえ、殺風景な部屋を見渡す。落ち着きが無かったのか、座れといわれたのでその通りにして本題に入る。
「ふむ、つまり素直で可愛い佳奈多君を今夜食べるので手伝って欲しいと。わかった」
「今夜以降が違いますヨ」
「何だ面白くない。まあでも素直にさせることなら出来る」
「どうやって?」
「それはな……」
そう言って怪しげな笑みを浮かべる姉御。何か企んでいるに違いない顔だった。
「飲ませた相手を恐ろしいくらい素直にさせる薬がここにある。名前を精神解毒薬というらしい」
手渡された薬は液状のものだった。紫色のいかにも怪しい色をしている。
姉御の説明によると、それを溶かして飲むと心の毒が浄化され、好意を抱いているが素直になれない相手に対して素直になれる。
しかし微量の毒を含んでおり、120mlの水に1滴が原則。それ以上は身体に悪影響を及ぼす可能性が出てくるらしい。
つまりは毒をもって毒を制す、ということか。
よし、さっそくお姉ちゃんに使ってみよう。どんな表情が見れるのか楽しみで仕方がない。
想像しただけで楽しくなってくる。ルンルン気分でスキップしながら帰ろうとした。
しかし私の腕を姉御の手ががっちりと掴んでいた。
「まて葉留佳君。佳奈多君への想いを聞かせてくれ。それを使うにはそれなりの理由が必要だからな」
「いや、それは関係ないかと……」
「言わなければやらんぞ?」

なんていうか、恥ずかしい。本人に伝えるのもむず痒いが、姉御に言うのも気が引ける。
でも言わないと貰えないのかー。こんな時には、「ようし」とこまりんマジック。うん、準備オッケー。
「え、えっと、いつもは素っ気ないんだけどたまに優しくしてくれるところとか、私のことをちゃんと見ていてくれること。
あとは私だけに見せてくれる表情があることかな。照れたり、笑ったり、そんなお姉ちゃんが大好き!」
姉御はしばらく余韻に浸りながら薬を渡してくれた。表情は呆れてはいたが、どこか満足そうな雰囲気だった。
言ってるときはーー言い終えてもだけどーーものすごく恥ずかしかった。でも言葉は勝手に溢れてきたから困ったものだ。
炊事場を借り、姉御の指示通り120mlの水に薬を1滴垂らして魔法の薬が完成した。それをビンに入れ、蓋をする。
「これでいいの?」
「うむ。気が楽になる薬だと言って渡すといい」
「わかった。姉御ありがと!」




薬を左手に持ち、一礼して部屋を出た後、私たちの部屋の前に着いた。ふう、後はこれを飲ませるだけ。
いざとなると緊張するものですネ。ここは少し落ち着いて、素直に謝って部屋に……
「なにしてるの?」
「うひゃう!?」
緊張していたところへ声をかけられたものだから腰が抜けちゃいましたヨ……
その声の主は意外にもお姉ちゃんだった。
開けてくれたってことは許してくれたのかな? 表情もいつもどおりだし。
「さっきは少し大人気なかったわ……ごめん」
「ううん、私の方こそ。それで、さっきこれ貰って来たの。リラックスできるらしいよ」
「ありがと、貰っておくわ」

許してもらえてよかった。しかも普通に受け取ってもらえたし。
これからの展開にわくわくしながら部屋へ入る。
さっさと飲んでもらおうとお姉ちゃんのほうを向くと、意外なことにもう飲んでいた。
味に違和感があるのか顔をしかめていたけど、結局無言のまま全部飲みきった。



少しボーっとしてると、上気した顔と潤んだ瞳で、上目遣いで見つめてくるお姉ちゃんが視界に写った。
普段の刺々しさは無くなり、仄かに輝く灯のような印象を受けた。
ていうかこれは効き目抜群ですネ。でもいきなりすぎてどう対応していいか分からない。
助けて姉御! とか考えていると本当に姉御が現れた。
「どうだ、って聞くまでもなしに効いているな」
「上手いこと言わなくていいですヨ。効きすぎじゃありませんか?」
「実はな……あの時渡した水、私が開発した無臭の酒なんだ。君が帰ったあたりに間違って渡したことに気づいた」
「え? それじゃあ原因はそれ?」
「正確には薬と酒の相乗効果だな。偶然とはいえ予想以上のものを見ることができそうだ。今夜はここに泊めてもらおう」
「それだけはダメッ!。葉留佳は私と一夜を明かすの!」
「ちょっ、その言い方エロくない?」
「それは……言葉だけじゃ嫌って事?」
そう言うと同時に、そっと優しく抱きしめられた。いきなりそんなことされたら私……
あ、なんか姉御の目つきが危ない。このままじゃ二人共ピンチなのでは!? 
私じゃ姉御にかなわないし、でも今のお姉ちゃんは……
「もし今夜を邪魔するならリトルバスターズメンバー全員にあなたのことをゆいちゃんと呼ばせます」
酔った勢いで姉御の弱点を突いていた! 
「くっ……それなら明日から君たちは校内認定カップルと放送しよう。いいのか?」
「名誉なことじゃない。ね、葉留佳」
突然キャラが変わるとどう対応していいか分からない……
そのまま動揺していると、今のお姉ちゃんには敵わないと思った姉御は仕方なさそうに退散した。
ただ、その後姿からは赤いオーラが感じられた。
私に薬を渡したこと、それを酒と間違えたこと、酔ったおねえちゃんに敵わなかったこと、それらに憤りを感じているのだろう。
ああ、明日から私たちは校内認定カップルになってしまうのかな……





とりあえずほろ酔い状態のお姉ちゃんを連れて中に入った。
いつもとは全く違い、緊張感ゼロのその姿は、他の人に見せるのがもったいないくらい可愛い。
しばらくはとりとめのない話をして過ごした。
やはり薬の影響があるようで、いつもと対応が全く違う。
性格が丸くやわらかくなり、私が望んだとおりになった。
しかし少しずつお姉ちゃんの様子が変わってきたことに気づく。
少し切なげに見えるのは気のせいではないだろう。
「葉留佳……今まで、ホントにゴメンね?」
「いいよ。今こうして2人で居れるだけでうれしいし」
「ぐすっ……葉留佳ぁ……」
もう二度と離れないと言いたそうに、泣きながら私に寄りかかる。
今まで見たことも無いほど弱々しく。
さっきまでは素直なお姉ちゃんを見たいと思ってたけれど、私はどうやら間違えていたようだ。
素直になること、それは本当の自分を出すこと。お姉ちゃんの全てを知っているわけがなかった。
それを知ろうと思って今回のことを思いついたのだが、予想外だった。
いや、知らないことを知ることは予想外の連続なのだろう。
本当のお姉ちゃんはこんなにも脆く儚い。それが今日分かった。
だから私はその頭を撫でる。ゆっくりと、優しく。
うん、たまには姉的立場になってみるのも悪くない。


数分後、お姉ちゃんは泣き止んだ。でも互いに離れたくないからこのままでいる。
その表情はとても穏やかなものになっていた。ああ、この顔を見たかったんだ。私はそう思った。
すると突然声をかけられた。
「ねえ、葉留佳、その……キスしない?」
「ええ!? 酔っているとしてもさすがにそれは……」
「そうね、私は酔っているわ。葉留佳という唯一の妹に」
言い終えると同時に、そっと優しく抱きしめられた。さっきは姉御がいたけど、今は誰もいない。二人だけの部屋。
動揺している隙を見てか、お姉ちゃんの顔が近づいてくる。5cm、1cm、そして……
「んっ……」
唇が触れ合った瞬間、身体に衝撃が走る。それと同時に暖かいものが私の心を満たしてくれた。
でもそれだけじゃ満足できなかった。お姉ちゃんも同じみたいで、二人抱き合う。
お互いの身体を隙間なく埋め尽くすくらいの深い交わり。
それは心の隙間も埋まり、とても暖かく幸せな温もりがある。
さっきの質問に答えるとするなら、言葉だけでは嫌。
ならば、それを望んでいいのだろうか。私を受け入れてくれるだろうか。
さっきまではそんなこと考えなかったのに……

一旦離れて表情を窺う。
そこには……規則正しい寝息を立てるお姉ちゃんがいた。
あれ、なんだろうこの感じは。
知らずに済んだ安心感と知りたかった好奇心がごっちゃになってる。
考えてるうちにお姉ちゃんが寝返りをうって抱きついてきた。
それだけで満たされたのかは分からないが、そのまま眠りについたことは紛れも無い事実だった。





朝が来た。窓の外には2本の木の枝が絡み合っているのが寝惚けた眼に映る。
お姉ちゃんはというと、私を抱いたまま依然として眠っていた。
ずっと起きていたらどうなったのか、そんなもしもを考える。
線と線が交われば点ができる。ならば私とお姉ちゃんが交わればどうなるんだろう。
考えるのが苦手な私はすぐに答えを求めてしまう。それは別に悪いことじゃないと思うんだ。
だから今夜、答えを知る。
今更お酒や薬のせいになんて絶対にさせないんだから。
覚悟しててね、お姉ちゃん。


[No.162] 2009/06/12(Fri) 23:53:01
駕籠の鳥と毒りんご (No.154への返信 / 1階層) - ひみつ 8074 byte

 カリカリカリカリ、カリカリカリカリ。
 シャープペンの先がノートにぶつかる音、それだけが寮の一室を満たす。
 私は、読んでいた本から目を離し、同居人に目を向ける。佳奈多さんは机に向かって明日の予習に取り組んでいた。
 と、急にノートに書き込むペースが遅くなる。シャープペンのお尻で二、三度ノートを叩く。書き込みが再開される。が、しばらくするとまたシャープペンのお尻でノートを叩き始める。
 しばらくそうした後、彼女は苛立たしそうに自分の髪を掻き乱すと、シャープペンをノートに叩きつけ、机から離れた。そして、腕を組んだ体勢で机と入り口の間を行ったり来たりしはじめる。
 彼女をずっと見つめていた私の目が、彼女の目と合う。眉間に皺が寄り、目も血走っていた。話しかけたくない人の顔、と問われれば誰もが迷わず、今の彼女を指差すだろう。
「ねえ、あの子何処に行ったか知らない?」
「葉留佳さんですか?」
「そう」
 そんなこと言われても返答に困ってしまう。私には、葉留佳さんの監視なんてする必要は無いわけだから。
「さあ?また来ヶ谷さんの部屋ではないでしょうか?多分朝まで帰ってきませんよ」
 彼女の舌打ちが聞こえる。彼女は再び部屋の周りを苛立たしそうに動き出した。
 私も再び読書に戻ろうとするが、佳奈多さんが気になって読書どころではなくなってしまう。早々に本をベッドサイドに置き、読書を諦める。
 私はベッドから立ち上がると、険悪な雰囲気を打破するため、こう提案した。
「お茶でも飲みますか」

 紅茶を淹れ、買っておいたエクレアをテーブルに置く。
 しばらく彼女は、憮然とした態度のまま私の姿を眺めていた。が、やがて乱暴に床に腰を下ろす。
 私がエクレアを差し出すと、彼女は私の方を見ず、何処か一点を見つめたまま、受け取ったエクレアを黙々と頬張っていた。
 誰も話す者はいなかった。しかし、この沈黙は先程までの硬質なそれとは全く異なり、いくらか柔らかな印象を覚えさせた。
「ふう」
 熱い紅茶を飲んで、いくらか落ち着きを取り戻したようだ。
「もう一つ、いかがですか?」
 私は、一つ残ったエクレアを彼女に差し出す。
 彼女は、ばつが悪い様子で、どう答えるべきかとしばらく迷っていた。
「・・・ありがとう。でも、もういいわ。甘いものはあまり食べないから。それは明日、あの子が食べてなかったら、あなたが食べておいて」
「わかりました」

 再び訪れる沈黙。今度は、どちらが話し始めるのかを牽制しあう、そんな沈黙だ。
 恐らく、彼女から言い出すことは無い。だから、私の方から口火を切ってみた。
「どうしたんです?珍しいですね」
「・・・・・・」
 しかし、それでも彼女は何も言おうとはしなかった。彼女は、カップの底を眺め続けるばかりだった。
「そんなに気に食わないんですか?葉留佳さんが他の人と一緒に居るのが」
 彼女の顔が跳ね上がる。
 気付かない方がおかしいだろう。先程のやり取りが無かったとしても、私は一年間、ずっとあなたを見ていたのだから。
 休み時間の廊下で。放課後の委員会室で。時折外を眺める佳奈多さんがいた。視線の先には、いつも彼女がいた。あなたはいつも葉留佳さんを見つめていた。
 その時のあなたの表情を、私はずっと見ていたのだ。もしかしたら、あなたよりもあなたの事を知っているのかもしれない。
「最近、増えましたものね。葉留佳さんのお友達」
「・・・・・・」
「そんなに他の人に取られるのが嫌なら、いっそ駕籠の中にでも閉じ込めてしまえばいいんじゃないですか?」
「そんな訳無いじゃない!・・・・・・それにそんな、三枝の叔父達のような真似、私はしたくない」
「そうですか?確かに手段は同じですが、目的が全く違う。あなたは彼女を守るためにそうするんですから」

 それから、私は語り始める。佳奈多さんと葉留佳さん、二人だけの世界を。
 佳奈多さんが両親を囲っているあの家。あそこが二人の舞台だ。両親は仕事で忙しく、早朝から深夜まで家を空けてしまう。
 だから佳奈多さんが母親代わりに朝の準備をする。準備が整えば、寝ている葉留佳さんを起こして二人で朝食を摂る。食事が終われば、葉留佳さんを家に残して、佳奈多さんだけ登校する。家を出る際には、「内から開けられない」よう鍵を掛けて。
 そして、放課後になれば、佳奈多さんはすぐに家に戻る。葉留佳さんが佳奈多さんの帰りをきっと心待ちにしているはずだから。
 家に戻れば、一緒に夕飯の支度をするために二人で買い物に出かける。その時、葉留佳さんが行きたがったところには全部連れて行ってあげて。葉留佳さんが欲しがったものは全部買ってあげて。彼女にとっては、外界に触れる唯一の機会になるかもしれないから。
 でも、外に出かける時にはずっと葉留佳さんの手を握っておくことを忘れずに。それは、彼女が逃げないように。彼女が誰にも会わないように。
 家に帰り着けば、もう二人を引き離すものは何も無くなってしまう。
 だから、それからの時間は全て、二人だけのもの。
 食事の準備、夕食、食後の団欒、二人が眠りに付くまでの諸々の時間。テレビさえも二人の邪魔をすることが出来ない。テレビも電話も、壊して捨ててしまっているのだから。
 そして一日の最後、二人は一つのベッドに寄り添って、抱き合って眠れば良い。夢の涯てまでも、二人が離れることが無いように。
 そんなふうに毎日を過ごせば良い。
 葉留佳さんにはこれまで食べられなかったようなおいしいものを食べさせてあげて。これまで着られなかったような綺麗な服を着せてあげて。
 これまで葉留佳さんに与えられなかった幸福を、佳奈多さんが与え続ければいい。
 そして、佳奈多さんもこれまで得られなかった幸福を、葉留佳さんから貰えばいい。
 葉留佳さんの髪を梳って。葉留佳さんの手を握って。葉留佳さんの体を抱きしめて。
 そんなふうに二人で過ごせば良い。
 ずっとずっと佳奈多さんの手の中で。他の誰も愛さないように。他の誰にも見つからないように。

 そこまで話したところで、佳奈多さんが鼻で笑うのが聞こえた。
「お話にならないわね。そもそもあの子は私を嫌っている」
「それは、あなた自身がそう仕向けたからです。でも、まあ問題ないですよ。溺れた人は藁にも縋るものです。それが例え、自分を貶めた原因であろうとも。肝心なのは、徹底的に追い詰めて、あなた以外に頼るものが無いという状況を作ることです。そうすれば、きっと彼女はあなたに従順になる」
「そんなものかしら?」
 私は、口角を吊り上げる。今の私は、きっと醜悪な笑顔を晒しているのだろう。
「そういうやり方は、あなたが一番、よくご存知のはずでは?」
「・・・・・・」
 佳奈多さんは私を睨みつけた後、静かに目を瞑った。怒りや悲しみ、そういった暗いものを必死で抑える、そんな表情だった。彼女は今、何を思い出しているのだろうか?
 私は平手で殴られる覚悟をしていたのに。今の佳奈多さんの表情を見る方がよっぽど辛い。
「すみません。失言でした」
「・・・それにそんなこと、あいつらが許すはず無い」
「どうせ、彼らにはそんな情報が届くはずがありません。私が全て握っているんですから。あなた達が何をしようとも、彼らにはずっと同じ報告が届くだけです。これまで通り、何一つ変わることなく」
 佳奈多さんがテーブルに身を乗り出してきた。顔と顔がぶつかりそうな距離で私を睨みつける。
「それは、あなたが報告しなければの話でしょ?」
 私は鼻で笑う。
「こんな話、報告して何の得になるんです?」
「前から訊きたかったんだけど、あなたは一体、誰の味方なの?」
 私は手を広げ、「さあ?」というジェスチャーをする。
 彼女は険しい表情のまま私を見ていたが、やがて私から顔を離し、鼻で一笑するとこう言った。
「・・・・・・止めておくわ。あなたに借りを作ると後が怖そうだし。あなたの話を聞いてると、あなたがまるで、白雪姫に毒りんごを勧める悪いお妃のように思えてくるわ」
「それは酷い。私はいつだって紳士的に接しているのに。今まであなたに危害を加えたことがありましたか?」
「淑女、でしょ?」
「ああ、そうでした」
 ひとしきりおどけてみせると、私は黙ってテーブルの上の片付けを始めた。カップやソーサーがかちゃかちゃいう音以外は何も聞こえない。
 食器を洗い、私がテーブルに戻ると、佳奈多さんが布巾でテーブルを拭いていた。私たちは無言のまま片付けを続けた。最後にテーブルを片付けてしまったとき、私は佳奈多さんの方を振り返った。
「まあ、先程の話は冗談として。しかしあなたは、やろうと思えば、いつだってそれを実行に移すことができる。誰にも邪魔できないようにすることだって簡単です。そう考えていれば、少しは気が楽になるんじゃないですか?」
 私の言葉がそんなに意外だったのか、彼女は目を丸くして唖然としていた。
「毒も適量なら薬になる、ということですよ」
 やがて、その表情を先程までの挑発的な笑顔とは異なる、優しい笑みに変えて、彼女は言った。
「うまいこと言うわね。でも、うん。・・・ありがとう」

 しばらくして。ストレスが溜まっていた所為だろうか。彼女は普段よりも随分早い時間に床に付いた。
 私も彼女に合わせて、ベッドに横になっていたが、寝付けずにいた。佳奈多さんを起こさないよう、私はそっと上体を起こし、彼女の方へと目を遣った。
 彼女は私に背を向けて眠っていた。穏やかな、彼女の寝息だけがこの部屋を満たしている。
 夢でも見ているのだろうか。
 もし見ているのなら、さっき私が話したように姉妹が一緒に暮らす、そんな夢であって欲しい。せめて夢の中だけでも、世界が彼女の望むままであって欲しい。
 私が与えた毒りんご。
 それが彼女の苦しみを少しでも麻痺させる、そんな優しい毒となっていることを、私は願わずには居られない。


[No.163] 2009/06/12(Fri) 23:56:40
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[No.164] 2009/06/13(Sat) 00:00:08
どくどく (No.154への返信 / 1階層) - ひみつ@8596byte

「な、棗鈴! 覚えてらっしゃい!!」
「……おとといきやがれ」
「むきーっ!!」
 ばたばたばた、と取り巻きをたずさえて走りさっていくツーテールの少女。それを見送るポニーテールの少女。
「ん?」
 ツーテールの少女が立っていた場所に、ふくろが落ちていた。拾い上げる。
「んー? どうしようか」
 ポニーテールの少女はしばらくんーんーうなっていたが、やがて「良し」とうなずいて走り出した。
 向かう先はツーテールの少女の部屋。
 ではない。





   「どくどく 〜気の毒・毒電波〜」





 男四人でまったりとババ抜きをしていた夜十時。さっきから姿が見えなかった鈴が僕の部屋に入ってきた。
「理樹。戦利品だ」
「ありがとう……?」
 入ってくるなりなにかを押しつけてきた。
 反射的に受け取ってしまった布のふくろ? を開けてみる。ふわり、といつも使っている洗濯洗剤とは違うにおいがする。文字が見えた。『笹瀬』……。
「って待って待って待って! これ笹瀬川さんのだよね? どうして僕に渡すのさ!?」
「私のよそうでは、たぶん、すばやさが上がるような気がするかもしれないぞ。つかえ」
「どうやって!?」
「まあ良いじゃないか。もらっておけよ」
 事態を見守っていた恭介からの助言。……助言?
「良いか理樹。鈴はバトルに勝った。つまりこいつは正当な報酬だ。それをどう使おうと鈴の自由だ。それに……これは、良いものだ……!!」
「うわぁ」
「変態かよ」
「さすがに今のはないな」
「きょーすけはきしょい」
 幼なじみ四人でかたまって、恭介から一歩遠ざかる。
「なんでみんなしてドン引くんだよ! 泣くぞ! 俺はやましい気持ちで言ったわけじゃねえよ!
 理樹。おまえのバトルランキングはいくつだ?」
「さ、最下位だけど」
「なら、こいつを使って逆転してみせろ。もっと上をめざそうぜ?」
 たしかに、ここ最近の僕は負け続きだ。この辺で挽回したいところだ。
 そのきっかけが、『これ』だと言うのなら。
「そうだね……うん。恭介の言うとおりだ。これを使って、勝ち抜いてみせるよ」
「その意気だ。めざすのはもちろん?」
「優勝だよ」
「上等!」
 恭介は最後に僕の頭をぽむり、となでて部屋を出て行った。謙吾と鈴もそれを追うように自分の部屋へと戻っていった。
「さて……ちょっと早いがオレは先に寝るぞ」
 言うが早いが、真人は床に寝っ転がって、背筋をはじめる。
「ふっ。ふっ。ふっ」
 いつものペースではじめたと思ったら、徐々にペースダウンしていき、動きを止めるころには吐く息が寝息に変わっていた。
「……ふっ。……ふっ。……ぐごー」
「何回見てもすごい寝方だよね……」
 名づけて筋トレ睡眠だぜ! と言っていた真人のまぶしい笑顔が思い出される。
 さてと。
 手には鈴から譲り受けた戦利品がある。バトルに使えと言っていたけど、バトルがはじまったとたんにこれを取り出して使うのはなんだか変な気がする。
「あ。じゃあずっとつけてれば良いじゃない」





 びょるん。
 理樹の体力が80UPした!





 明けて翌日。僕はランキング9位の西園さんにバトルを挑んだ。

   【真人の唯一の友達】直枝理樹
             VS
             【日傘を差した物静かな天然素材】西園美魚

 途中でなんだかよくわからない兵器を使うようになったけれど……。
「負ける気がしない!」
 ガッシボカッ!
 というわけで圧勝。
「今日の理樹は一味違うな」
 ジャッジの恭介も息をのむほどの気迫を出しているらしい。
「じゃあ、西園さんの称号は【柔らかい昆虫】ね」
「……どうコメントしていいかわかりません」
「お、なんだよ、もう終わっちまったのかよ」
 そこに、タイミングよく真人が現われる。真人のランキングは7位だ。
「いや、これからはじまるんだよ。【せくしー!!】真人」
「へへっ。やる気マンマンじゃねぇか、【真人の唯一の友達】理樹!
 ……ん? うおぉぉー!!? オレ、友達少ねーーー!!!!」
 ぐしゃぐしゃぐしゃー、と髪をかきむしりはじめる真人。バトルがはじまる前からダメージ受けてるよ。

   【真人の唯一の友達】直枝理樹
             VS
             【せくしー!!】井ノ原真人

「さっさとはじめるぞ。……Are you ready!」
 恭介の合図で、次々と武器が投げ込まれる。目をつぶって、手を伸ばす。と、胸に当たったなにかを、とっさに抱きかかえて持つ。僕の武器が決まった。
「じゅ、十万石ま○じゅう……どう戦えと?」
「世の中には『まんじゅう投げ』なる慣習があるらしい。投げて良し」
「理樹……悪ぃな。これも勝負だ」
 ひゅんひゅんひゅん、と槍のように振り回される……深谷ネ○。しかも二本。
「格好つけたわりには五十歩百歩だね」
「この深谷ネ○は今までの深谷ネ○じゃねぇ。言うなれば超深谷○ギだ。マジでハンパねぇぜ?」
「バトルスタート!」
「ていっ!」
 先手必勝。スタートと同時に、十万石ま○じゅうを投げつける。
 でも。
「甘ぇ!」
 真人の左の深谷ネ○によって切り払われる。そのまま距離を詰められ、右の深谷ネ○が――。
「うわぁ!?」
 とっさに飛びのいたが、左の肩口に攻撃を受けてしまった。
 飛びのかなかったら、頭にもらっていた。
「さすが真人、強いや」
「もう降参か? 今降参すれば、【真人の友達のひとり】にしてやるよ」
「冗談。勝たせてもらうよ」
「そうこなくっちゃ、な!」
 風を切る深谷ネ○。右から左から、僕を叩きのめさんと荒れ狂う。
 守りに入るしかない。深谷ネ○をよけ、よけきれずにくらい、ときには十万石ま○じゅうで受け止め、隙をうかがう。
「そらそらそらーっ! くらいやがれ、理樹!!」
 一気に決める気だ!
 二本の深谷ネ○を、背中に隠れるくらいに振りかぶる。
 その瞬間。攻撃が止んだ。
「今だ!」
 手に持ったすべての十万石ま○じゅうを、真人の顔に投げつける!
 たまらずひっくり返る真人。が、すぐにジャック・ナイフで立ち上がる。その顔は、苦渋。
「ちぃっ。今日の理樹はしぶといな……」
「まあね。僕には『これ』があるからね」
 ネクタイに手をかけて、一息に引き抜く。そして上着とYシャツを同時に脱ぎ捨てたそこには、
 『 笹 瀬 川 』
 の文字が入ったTシャツ。
「もちろんこっちも」
 ベルトを緩め、ズボンを落とす。小さくて見にくいが、こちらにも
 『 笹 瀬 川 』
 の文字が入ったクォーターパンツ。
「な、なにを着てらっしゃいますのおおおぉぉぉぉ!!??」
 群衆の中から、大声が上がる。見るまでもなく言葉尻だけでわかる。笹瀬川さんだ。
「なにって……体操着だよ」
「そんなの見ればわかりますわ! その体操着は、わた、わたくしの……!」
「そうだね」
「返しなさい!」
 怒りの形相でつかみかかってくる笹瀬川さん。しかし、その進行を恭介が止める。
「おっと、まだバトルの途中だぜ? お嬢さん」
「そんなの関係ありませんわ! いいから通しなさいな!」
「そんなに返してほしいのかい?」
「当然ですわ!」
「なら道はひとつ……バトルだ」
 恭介の言葉に、目を丸くする笹瀬川さん。その顔が徐々に呆れ顔に変わっていく。
「あなたたちがやってらっしゃる『バトルランキング』に参加しろとおっしゃるの? 馬鹿馬鹿しい」
「おや、逃げるのかい?」
「くだらないと言っているのですわ」
「ちなみに、今のバトルランキング暫定王者は、俺の妹だ」
「受けて立ちますわ、棗鈴!」
 簡単に乗せられた!?
「直枝さん、まずはあなたからですわ」
「ちょっと待て! 今はオレとのバトル中なんだよ!」
「こっちのカードのほうが面白そうだからな。いったんおあずけだ」
「ちっくしょーーー!!!」
 野次馬から投げ込まれる武器。
「これだ! って草加せ○べい……」
「うなぎパイと同じだ。それで叩け」
 対する笹瀬川さんは、
「高枝切りバサミ!?」
「おーっほっほっほっほ! これでちょん切って差し上げますわ」
「な、なにを?」
「ナニを」
 頭に血が上りすぎて、さっきから笹瀬川さんらしくない言葉ばかり出てくる。
 ショキン、ショキン。
 空を切るハサミに、お股がひゅんっとなった。

   【真人の唯一の友達】直枝理樹(内股)
             VS
             【唯我独尊の女王猫】笹瀬川佐々美

「ば、バトルスタート! とりあえず理樹逃げろー!!!」
「言われなくても切られたくないよ!」
「ええいちょこまかと!!」
 ばっつん。
 紙一重でよける。けど、よけきれずに体操着の胸元に切れ目が入る。
 右胸がぽろり。
「さささがわさん!? 体操着、体操着!」
「あとでつくろいますわ。わたくし、和裁洋裁なんでもござれでしてよ」
「意外に家庭的……ぅわひぃ!?」
 ばっつん。
 切れ目ふたつ目。僕のおっぱいが丸出しだ。
「これ、笹瀬川さんがこのまま着たら、大変なことになるね。いや、大層なことになるね」
「……〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!??」
 自分が来た姿を想像したのだろう。笹瀬川さんの顔が真っ赤にゆであがる。
「それっ、そのっ、わたっくし!」
 あうあうあう、とつぶやいたあと、笹瀬川さんはぱったりと倒れてしまった。初心だ。
「言葉責めですか……直枝さんは鬼畜ですね」
「ごめん、笹瀬川さん……僕は負けられないんだよ。どんな手を使っても、ね」
 そうして僕は、気の毒な少女に称号を送る。僕が着ても体操着の胸元がぴったりだった少女に。

   1:バトルランキング暫定王者 棗鈴
   2:真人よりは強いただそれだけ 宮沢謙吾
   3:怒涛のニンジャファイター犬 能美クドリャフカ
   4:今が旬のビジュアル系ボーカリスト 棗恭介
   5:真人コーポレーション女工作員A 神北小毬
   6:セクシー☆ゆいちゃん 来ヶ谷唯湖
   7:せくしー!! 井ノ原真人
   8:セクハラ大将 三枝葉留佳
   9:真人の唯一の友達 直枝理樹
   10:柔らかい昆虫 西園美魚
   11:がっかりおっぱい 笹瀬川佐々美




















「理樹。言いにくいが……手にした武器意外を使ったから、お前の負けだ」
「え?」


[No.165] 2009/06/13(Sat) 00:06:48
修正しといたよ! (No.159への返信 / 3階層) - すさい

たよ!

[No.166] 2009/06/13(Sat) 00:17:30
しめきりー (No.154への返信 / 1階層) - しゅさい(笑)

国士あがった局で国士に振り込んだ僕はもうダメな気がします。

[No.167] 2009/06/13(Sat) 00:23:57
そりゃ、煙じゃ腹は膨れねぇが。 (No.154への返信 / 1階層) - ひみつ@10211byteここからがほんとうの遅刻だ!

「…いらっしゃいませ!こちらでお召し上がりですか?」
 人が恥ずかしさを我慢して笑顔で訊いてやってるのに、向こうはこっちを見ようともしねえ。殺すぞ。
「んもっ、持ち帰りっ、…ンバーガ…と…プルパイ、たたっ、んぴんで…」
 あ?今何つった。シャキシャキ喋れよこのガキャ。聞こえねっつうの。殺すぞ。
「ご注文を繰り返します。お持ち帰りでトリプルメガチーズバーガーのLLセットとラッキーセット、ドリンクはコーラで」
 訊きなおすのも面倒だ、一番高いやつにしたからいいだろう。あ゛ぁん?何だそのツラは。殺すぞ。
「…よろしいですね?」
「ひぃっ」
 おまけにせっかくゼロ円でスマイルをくれてやったのにひきつけ起こしやがった。殺すぞ。
 支払いが万札とかどこのブルジョアだ。殺すぞ。いやそうかチップか、チップだな。ならいい。
 だが客が泣いて喜んだのにクビになった。何でだ。バブルか。殺すぞ。

「暑っちぃな。いや熱い、だなこりゃ」
 薄っぺらい帽子で蒸れた髪をバサバサ掻きむしって空気を送り込む。べっとり貼りつくような熱気だがないよりましだ。三日も続けりゃハゲてたとこだ。殺すぞ。
 歩道の柵に腰掛け、尻のポケットからくしゃくしゃのパッケージを取り出して一本咥える。残りも一本。ライターは事務所のヤツを拾ってきた。拾っただけだ。殺すぞ。
 紙筒の先がジジッと赤くなる。一気に五ミリくらい灰にして空を見上げる。薄く雲が覆った灰色の空に、たっぷりと脂の乗った白い雲が昇って行く。あぁ、マズいな。マズい。
 目の前を通り過ぎた若いヤツがすれ違いざまにわざとらしく咳き込みやがった。文句あるなら言ってこいやコラ。殺すぞ。
 残りわずかになったパッケージを空に掲げた。曇った空にはまるで似合わない青だ。デカデカと貼り付けられた白い文字が胸クソ悪いぜ。殺すぞ。
「…よし、今日も百殺達成だ」
 呟いた拍子に腹の虫が鳴いた。店長から分捕ってきた封筒を見ると中には野口ひとりと小銭少々。殺すぞ。
 フィルターが焦げるまで喫って、丸々と太った携帯灰皿に押し込む。あ?その辺に捨てるわけねぇだろ。殺すぞ。
 今日の稼ぎをポケットに押し込んで腰を上げる。まずは煙草だ。高ぇんだよクソ。



「あーっ、また喫ってる!」
 …食後の一服ぐらいいいじゃねぇか。口に出せばその五倍は言い返されるので、あからさまに嫌な顔を作って振り向いた。
「もー、目を離すとすぐコレなんだから。ダメダメ中年ですネ」
 リビングの窓を開けて庭に降りてきた。サンダルで芝を踏みながら大げさに肩を竦めて見せる。アメリカ人かお前は。
 それに自覚してんだから中年とか言うんじゃねぇ。ムッとしたもんでつい言い訳じみた反論が口をついて出ちまった。
「放っとけ。家の中じゃ喫ってねぇぞ」
「そういう問題じゃないわよ。父さん一日に二箱は喫ってるじゃない。お金だってかかるし、何より身体に悪いわ」
 ほら増えやがった。声の方を見ると洗い物を終えた佳奈多もリビングから顔を出していた。
「せめて本数を減らしたらどう?…もちろん出来ればやめて欲しいけれど」
「無理だな。これでも減らしてる」
 主に経済的な理由でな。
「…理解に苦しむわね」
「ほーんとですヨ。あんなマッズイものすぱすぱ喫う人の気が知れませんネ」
 眉間を押さえた佳奈多のため息に口を尖らせた葉留佳が乗っかった。…ちょっと待て。
「…葉留佳。あなたどうしてまずいなんて分かるの?」
「へっ?」
 おいおい、顔にデッカデカと『やばい』って書いてあるじゃねぇか。
「いやー、そのー…どっかで誰かが『マズイ!もういっぽん!』とか言ってたのを聞いたような聞いてないようなー」
 ごまかし下手にも程があるだろ。つかお前歳いくつだよ。
 佳奈多の身体がゆらぁっと近づいたかと思うと、その鋼鉄の右手ががっちりと葉留佳の顔に食い込んだ。
「ひぎゃっ!?ちょ、お姉ちゃん?お姉サマ?なんか頭がみしみし言ってていだだだだーっ!?」
「正直に答えたら離してあげてもいいわよ?」
 やべぇ、見ている俺も恐怖でちびりそうだ。俯き加減の前髪の間から覗く眼光が尋常じゃねえ。なのに口許が笑ってるからなお怖ぇ。
「ちょ、ちょっとだけ!冒険したいお年ゴロだから一本ちょっぱってひとくち!でもすぐ消したよ捨てたよもーやりませんーっ!!」
 いつだったか足んねぇと思ったらお前だったのかよ。しかもなんてもったいない喫い方しやがる。
「あなたって子はほんとにもう…。まあ、分かったわ。二度としちゃ駄目よ?」
 口調は穏やかになったが、指はいまだにがっちりと葉留佳の頭をホールドしたまま。
 娘の悲鳴はしばらくトラウマになりそうだった。



「あの…」
「チッ」
 舌打ちに特に意味はない。ただの癖だ。だがテーブルの向こうにいるヤツにとってはそうじゃないらしい。殺すぞ。
「な、何か条件にご不満トカ、あ、ありむ、ますでしょうカッ!?」
 声が裏返った上に噛みやがった。こんなのが店長なのか。よく務まるもんだ。
「…別に」
 確かに不満はあるがそのくらいでいちいち文句を言うつもりはねぇ。仕事があるだけマシってもんじゃねぇか。殺すぞ。
 昨日、帰りに募集のポスターが貼ってあったから飛び込みで来てみりゃ、どうにも店長の落ち着きがねぇ。殺すぞ。
「あのっ!し、失礼かとは存じられまするが、私どもの店を選ばれた理由、などをお聞きしたく…」
 なんだ、志望動機ってヤツか?面倒くせぇな、ポスター見てきた、だけじゃ駄目なのかよ。殺すぞ。
「…パンが好きだからだ」
 パンが好きだからパン屋。これ以上の動機はねぇだろう。会心の出来だぜ。
 …帰りには山ほどパンを渡された。そうじゃねぇだろう。殺すぞ。
「結果についてはご、後日お電話させていただきますので…採用のときだけ」
「…わかった。よろしく頼む」

「辛すぎんだろ。クソ、暑ぃ…」
 揚げたてらしいカレーパンをかじりながら辛気臭い商店街を歩く。どうやら次の職は確保出来なかったらしい。何でだ。風水か。殺すぞ。
 おまけに日差しがモロに背中を焼いて、パンツの中までべっとり汗にまみれてやがる。殺すぞ。
 食後の一服と尻ポケットから取り出したが、空だった。しかも小銭を数えたら二十円足りねぇ。嫌がらせか。殺すぞ。
 今日はとっくに百殺超えて、そろそろ二百に届きそうだ。新記録達成か?アホらしい。
 俺が馴染んだ白い箱はもう無い。ムカつくほど青い空と同じ色したパッケージ。その口に指をつっこんでぶらぶらさせたまま立ち尽くした。



「それでこんなにパンを?」
「くれるっつってんだからいいだろうが。つうかテメェも食ってるじゃねえか」
 妙に涼しい顔でチョコなんとか――渦巻きの中にチョコが入ってるヤツだ――をお上品にちぎって食ってる野郎にピロシキを食いながら言ってやる。ムカムカすんのは揚げパンばかりで胃がもたれたせいだけじゃねぇ。
「晶さんが食えって言ったんじゃないですか。理不尽だなあ」
「五月蝿ぇ。それよりお前の方は就活どうなんだよ」
 人のことを笑える身分じゃねぇだろうが。突っ込んでやったら案の定奴はパンをちぎる手を止めてほろ苦く笑った。
「ああ…まああまり芳しくないですね、相変わらず」
 俺もついかじりかけたピロシキを口から離しちまった。おいおい、去年から数えてもう四ヶ月だぞ。俺より長くやってんだからしっかりしろよ大黒柱。だがふと、ある疑惑が湧いてきたんで、それをピロシキの代わりに口にする。
「…もしかして連中の圧力か?」
 口にするだけで胸クソ悪い。あんなクソと血の繋がりがあると考えただけで衝動的に血を抜きたくなる。最近はもったいないから献血してるけどな。血には罪が無えし。
 だが、俺の心配を奴は笑って否定した。
「いやいや、あの人たちにそんな力はありませんよ。単純に職歴の問題です」
 …ああ、そうだったな。三枝の力なんざ、山から出たらクソほども無ぇんだった。そんなもんよりもでっけぇ壁はいくつでもあるんだったな。
 くたびれた中年男が情けない顔でへらっと笑う。俺も似たような顔をしてるんだろう。ただでさえ二人とも四十間近。加えてかたや脛傷持ち、かたや十年以上住所不定。
「…やべぇな。俺たちこのままじゃただのヒモだ」
 深刻な顔で頷きあう。こんな風に自分のダメさで連帯を感じちまう辺りが中年なんだろうな。
 だがそんな空気を気にもしないやつがこの家には三人いる。娘二人ともう一人。
「あなた。晶兄。お茶が入ったわよ」
 台所からエプロン姿で現れた彼女。娘二人の母親で、俺たち無職中年をパートで養っているこの家の大黒柱だ。
「「冬霞」」
 ハモった。気持ち悪ぃなオイ。それはどうやらお互い様だったらしく、次の言葉を牽制しあって黙っちまった。
「どうしたの二人とも。そんなに見詰め合っちゃって」
「「み」」
 だからハモるなっての。お前言えよ。いや晶さんが言ってくださいよ。目で押し問答している間に、冬霞に先を越されちまった。
「もうすぐご飯だから、ほどほどにしてね?二人とも張り切ってるんだから」
「「う゛っ」」
 その言葉で今台所で繰り広げられている惨状を思い出した。ああ、これはハモっても仕方ねぇよな。
 二人とも聞こえない振りをしてたんだが、今も台所からは「ぎゃー!」とか「待ちなさい!」とか色々と不安を煽るサウンドが聞こえて来てるんだよ。
「いや、笑ってないで助けてあげたらどうかな?」
 おお、いいこと言った!その通りだ!
 だが、冬霞はそれに取り合う気は無ぇのか、笑って首を振るばかりだ。
「つうか、何であんな張り切ってんだよあいつら」
「あら、本当に分からない?」
 じっと俺の顔を覗き込んでくる。見るんじゃねぇよ。つうか笑うな。
 心当たりは無いでもない。んだが、だからってそこまですることか?とも思うわけでな。おい、手前ぇは笑うな。
 なんて考えてる間に台所が静かになった。俺は少しだけ背筋を伸ばしてあいつらを待つ。チラッと見ると奴も少しばかり顔を引き締めてやがった。
「おっ待たせーっ!」
 先に飛び出してきたのは葉留佳だ。両手で抱えたトレイの上には料理が満載されていた。おい、そんなに走るな、危ねぇ。
「ちょ、葉留佳!危ないからゆっくり!」
 続いて佳奈多も両手でトレイを抱えていたが、慌てているのは口だけで、さすがに足取りは慎重だ。
 幸いなことに料理は無事に食卓へと届けられた。テーブルを埋め尽くす料理の数々。オムレツ、茶碗蒸し、カルボナーラ、止めに親子丼。…卵ばっかりじゃねえか。
「はは、ボリュームたっぷりだね…」
 ああ、たぶん俺たちが頑張って平らげなきゃいけねぇんだよな。
 自分たちの使命を確認して少し青ざめた俺たち中年戦士の元に、娘たちがそれぞれ包みを持ってやってきた。
「はいっ、いつもおとーさんアリガトウっ!」
 微妙にどっかの谷村新司が入った調子で細長い紙包みを、奴はそつない笑顔で受け取った。
「やあ、ありがとう、葉留佳。嬉しいな、一体なんだろう。開けていいかな?」
 がさがさと包みを開けていた奴の手が途中でぴたりと止まった。
「新しいネクタイだよっ。しゅーかつ頑張ってねっ」
「あ、ああ…ありがとう」
 今だけは同情するぜ…。
 そして、俺の前には何だか微妙に落ち着きの無い佳奈多が、小さな紙包みを手にいまだもじもじしていた。
「あの、ね…」
「お、おう…」
 こういう空気は微妙に甘酸っぱくて苦手なんだよ。頼む、スパッとやってくれ。俺の願いがようやく届いたのか、顔を背けたまま紙包みだけ突き出してきた。
「ぁりがとぅ…」
「ぉう…」
 だっ、ダメだ!耐えられねぇ。とにかくこの場を終わりにしてしまおうと包みをむしり取った。
「…禁煙パイプ?」
 小さな箱に収まった、吸い口とカートリッジのセット。何つうか、何だ?俺はこんなときでも説教されたりすんのか?
「な、何度言っても全然減らそうとしないからよっ!」
 おい、それは今キレるところなのか。しまもまだ何も言ってねぇぞ。
「えー、翻訳すると、晶兄にはもっと長生きして欲しい、って言ってるみたいよ?」
 くそ、ずいぶん楽しそうじゃねぇか、冬霞。見れば奴も葉留佳も一緒になって笑ってやがった。
「あー、ま、何だ。ありがとな」
 手を伸ばして、髪に触れる直前で一瞬だけためらったが、そのままくしゃくしゃと頭を撫でた。まるで父親みたいに。
 あー、しょうがねぇ。明日から頑張ってみるか。尻ポケットに入れるには、その箱はちょっと硬そうだったけれど。


[No.171] 2009/06/13(Sat) 18:28:57
彼岸花 (No.156への返信 / 2階層) - 橘

 私は満面の笑みを浮かべると、彼にこう告げた。
 手にはナイフを、刃を彼に向けたまま。
「ばいばい。理樹くん」





 私は土砂降りの雨の中、傘も差さずに歩いていた。
 寮に戻ると、部屋には誰も居なかった。それもそのはずだ。この時間帯は未だ授業中なのだから。
 私は、ずぶ濡れになった服を脱ぎ捨てると、シャワーを浴びた。冷え切った体に熱が戻っていくのが分かる。
 シャワーから出て、脱ぎ捨てた服を見る。シャツやスカートに血や泥で汚れた跡があった。こんな状態の服なんて、いっそ捨ててしまってもいいのではないか。もう、どうせ着る機会も無いのだし。
 そこで気が付いた。そもそも洗濯する機会も無いのだ。ならば、このまま放っておいても同じことだろう。それより今は時間が惜しい。
 私は下着を着け、予備の制服に袖を通した。白黒ボーダー柄のニーソックスを穿く。軽く化粧をし、髪をセットする。いつもの、ビー玉を思わせる子供っぽい髪飾りを二つ使って、ツインテールに。さらにヘアピンを前髪に付ける。
 姿見に、自分の姿を映してみた。

 そこには、あの子の、葉留佳の姿があった。
 違うのは瞳の色くらい。それさえもカラーコンタクトを着けてしまえば、誰にも見分けが付かなくなってしまう。そう、誰にも。
 今の私の姿は、葉留佳そのものだ。私は葉留佳の頬に手を添える。鏡の中の葉留佳もそれに合わせて手を頬に添えていた。
 私は葉留佳の唇に指を這わせる。葉留佳の唇であると同時に、私の唇。

 違う。
 私は静かに目蓋を閉じる。
 私は葉留佳ではない。あの子はもう、居なくなってしまった。車のブレーキ痕。路上の血の華。それをさっき、確認してきたばかりではないか。
 私が葉留佳に似せようとすればするほど、あの子との違いが大きくなる。あの子が、私の手の届かないところにいる事実を突きつけられる。こんな形でさえ、私はあの子と一緒にはなれないのだ。
 私は床に座り込む。上を向き、天井の色を見つめ続ける。目蓋から、涙が零れ落ちないように。
 やがて校舎から、チャイムが聞こえてきた。出番が近い。私は準備が整え、部屋を出る。玄関で傘を掴むと、寮を後にした。

 外は未だ土砂降りの雨だった。雨で景色が滲んで見える。
 私は、校門で彼を待っていた。何にも連絡はしてないけれど、彼なら、直枝理樹ならきっと「葉留佳」を見つけてここに来る。そんな確信があった。

 果たして彼はやって来た。一輪咲いたビニール傘が、私の傍に走ってくる。
 私はいつものように、葉留佳の口調で挨拶する。
「やは、こんにちわ、理樹くん」
「こんにちわ、じゃないよ!」
 彼は大声を出した後、早口でまくし立てた。
「今までどうしてたのさ!?みんな、葉留佳さんが辞めたって噂してる!一体、どういうことなのさ!?」
 ああ、結局彼は、葉留佳を認識できないでいる。あの子が居なくなった後でも。
「やはは、そんなに一度に質問されても困るよ。怖いナァ、今日の理樹くんは」
「・・・あ、ご、ごめん」
 直枝理樹が口ごもる。彼は私から目を逸らし、俯いた。
「・・・でね、みんなが噂してることは本当のこと。もう、ここには居られないよ」
「そんな・・・」
 直枝理樹は眉を寄せ、哀しそうな表情をした。
 今更そんな顔をするのは止めて。私の決心が鈍るから。
「で、本当は誰にも話さず、ひっそりと居なくなろうと思ったんだけどネ。やっぱり、理樹くんにだけは、最後に会っておこうと思って」
 そう言うと、私は傘を手から離し、制服のポケットから小さなキッチンナイフを取り出した。その刃を彼に向ける。
「はるか・・・さん?」
 自分に向けられたナイフを見て、彼の声が震えた。恐怖で動けないのか、あるいは何かの覚悟でも出来たのか、彼の足が動く気配は無い。
 土砂降りの校門前。二人の間には雨の音だけがあった。ナイフの刃に雨粒が落ちる。こんなに曇っているのに、刃にはぎらぎらと、鈍く不吉な光が浮かび上がっていた。
 ふと、ナイフを持つ手が細かく震えていることに気付く。自分の息も荒かった。
 これからすることを何度も何度も想像し、やっと決心できたのに、ここにきて・・・。彼に気付かれてはいないだろうか?
 落ち着け、落ち着け。もう、後には引けないのだ。そして、立ち止まっている余裕も無い。
 私は、そっと目を閉じた。そして、思い浮かべる。葉留佳の最期の姿を。血で全身を真っ赤に染め上げ、ボロ布のようになっていたあの子。でも、その表情はとても、穏やかなものだった。それから、あの子の色々な笑顔を思い浮かべた。私が遠くから眺めた、あの子の笑顔。
 気付かれないように静かに深呼吸する。少しずつ、息が整っていく。目を開けると、震えも止まっていた。直枝理樹もそのままの位置で硬直したままだ。
 うん。もう大丈夫。
 私は満面の笑みを浮かべると、彼にこう告げた。
「ばいばい。理樹くん」
 そして、ナイフを自分に向け直し、左手で柄尻を支えると、そのまま喉元へ――――


 取り返しのつかない音がした。刃が熱くて、切り口が焼けたような、そんな感触。痛みよりも熱さの方が強かった。
 呻き声を上げようとするが、喉の筋肉が動くと、それだけで失神しそうなほどの痛みが走った。声を上げて泣き叫べたら、まだ楽だっただろうに、それすら出来ないなんて。
 怖くて、ナイフを握った指一本動かせなかった。ナイフから血が滴って、私の指を汚す。そしてその血はやがて、私の腕へと流れ出す。
 私は、ナイフを支えていた左手の指で、右手ごとナイフを握りこむ。力が全然入らないけど、両手の力を出来る限り使って刃を引き抜く。血で滑って、中々抜けないけど少しずつ少しずつ引っ張り出していく。
 どろりとした血をかき回すような、そんな嫌な音を立てて、ようやく私の中から、刃を引き抜くことができた。
 途端に、盛大に流れ出す血。いくら指で押さえても、脈打つごとに指の間から血が湧き出してくる。止まらない。血が私の服に吸い込まれる。体を伝って、地面に吸い込まれる。肺の中にまで血が入り込んで、私は溺れそうになる。
 膝が笑う。まずい。足に力が入らない。
 でも、私はまだ、倒れるわけにはいかない。葉留佳だって苦しんだ。だから私も、最期の瞬間まで苦しまなければならない。
 直枝理樹がようやく我に返ったのか、私の傍に駆け寄ってきた。
 私は彼の体に寄りかかり、倒れ込むのを何とか堪える。血でべっとりの右手で彼の頬を撫でた。
 苦しまなければならないのは、あなたも同じよ。直枝理樹。
 あの子の最期を、私が教えてあげる。これが、あなたを傷付けることが出来ない私に許された、あなたへの復讐。

 あなたが葉留佳を殺した。私が葉留佳を殺した。
 これは、私たち二人が背負うべき罪。
 私が一緒に堕ちてあげる。だからあなたも、地獄に堕ちなさい。

 私の体は、直枝理樹に支えられていた。首を動かし、彼の顔に向き合う。あまり急に動くと、痛みと失血でそのまま意識を失いそうになるから、ゆっくりと、慎重に。
 彼は、何かを叫んでいた。しかし、私と目が合うと、彼は声を上げるのを止め、私を見つめた。私の震える唇を見て、何か言おうとしていると思ったようだった。
 私たちは、互いの顔が触れ合ってしまいそうな、そんな距離で見つめ合っていた。
 彼の顔は、私の血で半分赤く染まっていた。私の、いや葉留佳の、最期の言葉を聞いてあげようと、とても穏やかな優しい表情をしていた。目に涙を溜め、悲しみを必死で堪えながら、私の言葉を待っていた。
 そんな彼に、私は追い討ちをかけた。
「理樹くんの、せいじゃ、ないよ・・・・・・」

 声になっていただろうか?私の声は、彼に届いただろうか?あまり自信が無い。でも、もう彼に届いていようといまいと関係無かった。既に充分、メッセージは届いているだろうから。
 葉留佳の最期の苦しみを忘れないで。あの子の血の温かさを忘れないで。
 あなたの罪を忘れないで。
 そしてもう、私たちには近づかないで。

 もう、立っているのも限界だった。既に膝は、がくがくと震えるばかりで、私を支える役目を果たしていなかった。
 膝から上を重力に任せる形で、私は崩れ落ちた。直枝理樹の手をすり抜けるように。
 そのまま、私の上体は横に倒れ込む。地面は思っていたよりも硬くはなかったが、雨に打たれたためか、冷たかった。
 目の前に、直枝理樹の顔があった。私の横にしゃがみ込み、私を覗き込んでいるのだろう。何か言っている気がするが、もう聞き取れない。視界が霞んで、彼がどんな表情をしているのかもわからない。

 直枝。
 あなたとは、もっと別の出会い方をしたかった。
 もしも、私たち姉妹が、普通の家庭に生まれた普通の双子であったなら。こんな結末にはならなかったのだろう。
 そこでは、葉留佳はあなたの傍にずっと居られたのかもしれない。
 私も、あの子の、そしてあなたの傍に、居られたのかもしれない。

 葉留佳。
 いつか、私を殺そうとしたね。私にハサミを向けて、あなたは私を刺そうとした。あの時は結局、そうしなかったけれど、私はあなたになら刺されても良かった。殺されても良かった。あなたにしてきたことを思うと仕方の無いことだし、それに私には、あなたしかいなかったから。あなたがそう望むなら、私は喜んでこの命を差し出しただろう。
 でも、私は置いてけぼりにされた。一人ぼっちで立たされて、私にはどうしたらいいのかわからない。
 もし許されるのなら、私はあの時、あなたの傍で、あなたと一緒に死にたかった。
 私は、葉留佳が居たから今まで生きてこられた。あなたが居たから、こんな下らない、苦痛しかない人生を耐えてこられた。
 私は、葉留佳が居ないと駄目なのだ。
 だから葉留佳。私も行くわ。

 私は目を瞑る。もうこれ以上、見るべきものも無かったから。
 静かだ。雨の音も何も聞こえない。痛みも、傷の熱さも、恐怖さえも感じない。
 暗闇の中、あるのは、自分の血が地面へと流れ出る感じと、流れ出た血に自分の意識が溶けていく感覚だけだ。

 雨の日に咲く、彼岸花。これはあなたに捧ぐ花。
 その花びらは、血の紅。雨に散りゆく、儚い花。





 おねえちゃん――――

 はるかの声が聞こえた気がする。それは遠い昔、あの子が私を呼ぶときに使っていた言葉だ。もう一度だけ、そう呼ばれたかったな。
 私からも伝えたい言葉がある。ずっとずっと言いたかったのに、結局言えなかった言葉。

 ごめんね、葉留佳。
 ずっとずっと、愛していたわ。


[No.207] 2009/06/28(Sun) 15:37:45
『彼岸花』修正しました (No.207への返信 / 3階層) - 橘

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変更箇所は、以下の通りです。
・自分の喉を突き刺すことを明示。
・自分の喉を突き刺す前後の描写を追加

お手数ですが、保管庫へはこちらの改訂版を保管してください。


[No.208] 2009/06/28(Sun) 15:42:27
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