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No.303に関するツリー

   第39回リトバス草SS大会 - 代理代理 - 2009/08/06(Thu) 21:14:33 [No.303]
締め切り - しゅさい - 2009/08/08(Sat) 00:38:33 [No.324]
俺のいもうとがこんなにかわいいわけがないなんてこと... - ひみつ@6094バイト - 2009/08/08(Sat) 00:33:29 [No.323]
[削除] - - 2009/08/08(Sat) 00:41:35 [No.325]
泡沫の - ひみつ@17926 byte - 2009/08/08(Sat) 00:30:33 [No.322]
立ち向かえ、現実に。 - HIMITSU☆6774byte - 2009/08/08(Sat) 00:15:48 [No.321]
大いなる幻影 - ひみつ@20030 byte - 2009/08/08(Sat) 00:11:05 [No.320]
幻日逃避行 - ひみつ@20432byte 逃げ出したいのは現実か虚構か? - 2009/08/08(Sat) 00:01:44 [No.319]
ホラーでうわーで冷やー - ひみつ@11893byte - 2009/08/08(Sat) 00:00:34 [No.318]
DB! Z - 光る雲を突き抜けたひみつ@12021 byte - 2009/08/08(Sat) 00:00:19 [No.317]
マッスルKYOUSUKE〜壮絶な修行はあえて巻きで〜 - ひみつ@1743byte - 2009/08/07(Fri) 23:39:58 [No.316]
[削除] - - 2009/08/07(Fri) 23:27:00 [No.315]
おやすみなさい - 秘密 14565 byte - 2009/08/07(Fri) 23:25:46 [No.314]
「おやすみなさい」補遺  - 秘密(おまけ3129 byte) - 2009/08/08(Sat) 21:09:47 [No.327]
幻性少女@微修正 - 比巳津@20198byte - 2009/08/07(Fri) 23:01:10 [No.313]
井の中の争い - ひみつ@3934byte - 2009/08/07(Fri) 22:42:11 [No.312]
原始の幻視 - ひみつ@3644 byte - 2009/08/07(Fri) 22:18:53 [No.311]
儚き夢を追い続け  - ひみつ@5,093 byte - 2009/08/07(Fri) 21:49:49 [No.310]
ねむりのおと - 秘匿 3,911byte - 2009/08/07(Fri) 20:13:00 [No.309]



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第39回リトバス草SS大会 (親記事) - 代理代理

 詳細はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/rule.html
 この記事に返信する形で作品を投稿してください。

 お題は「幻」です。

 締め切りは8月7日金曜24時。
 締め切り後の作品はMVP対象外となりますのでご注意を。

 感想会は8月8日土曜22時開始予定。
 会場はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/chat.html
 はじめにMVP投票(最大3作まで投票可能)を行いますので、是非是非みなさまご参加くださいませ。
 ご新規、読みオンリー、感想オンリー、投票オンリー、大歓迎でございます


[No.303] 2009/08/06(Thu) 21:14:33
ねむりのおと (No.303への返信 / 1階層) - 秘匿 3,911byte



 ……ああ、やっぱ僕はだめだな。
 そう思ったのは何度目だろう。仕事による過労、そして風邪でまた、今日も僕は床に倒れた。飼っている猫の世話なども、まともに見ることも出来てない。僕がこんなんじゃ、懐いてくれないのも頷ける話だった。
 ボーッ…とする頭を振りながら、目を開けて体を少しだけ起こし部屋の様子を見る。周りには明るい部屋があるが、それでもまだまだ暗い部屋がそこにはある。
 茶っぽい毛を持つ、今僕が飼ってる猫――ベルの居場所はなんとなくわかる。棚の上だ。棚の上から僕のことを見ていることは、若干朦朧としている意識でもわかった。ベル、と呼びかけてみるも、相変わらずにゃあとも鳴かず、無反応。つけてる鈴も鳴らさずにただ座っているだけだ。やはり、ベルには慕われてないことを改めて思い知らされる。
 視界が徐々に定まらなくなってきたから、少し眠ろう。そう思いながら再度体を横にして目を閉じることにした。






「また眠ってしまったのか…?」
「ああ、そうみたいだ」
「やっぱ病院に連れて行った方がいいんじゃねぇか?」
「アホか、俺たちが病院へ連れて行ったとしても何も出来ない。ゆっくりと寝かせよう。騒がしくするなよ」
「おう、わかったぜ」
「鈴、こいつのこと看ててくれ。よろしくな」
 



 チリン…




 鈴の音。その音が時計のアラームの様に僕の意識を覚醒させる。
「理樹…」
 目を開く。そこにはぼやけた視界。
「起こしてしまったか……?すまん」
「あ……」
 暗い黒の中から、部屋の様子は変わってはいない。だけど、その薄い視界の中には僕がよく見知った姿が映し出されていた。でも、表情は良く見えなかった。
「なんだかうなされてたから熱があるんじゃないか?まだ寝てた方がいい」
「そう、だね」
 なぜ――と思った。なぜここに、鈴がいるのかと思った。そして、本当に鈴なのかとも。
「どうしたんだ?」
「え……?」
「まだボーッ、としてるな」
「わっ…」
 目の前の女の子から、僕の額へと手が伸びる。その感触はとても柔らかくて、ほっと暖かいような。それか、ひんやりと冷たいような。そんな不思議な感覚に襲われる。そして、同時に鈴の匂いを見つけることが出来た。
「やっぱ熱あるな」
「ねえ…」
「なんだ?ばかたちも呼んだ方がいいか?」
「いや、その、なんという……か」
 はっきりとしない僕の目に映っている女の子は本当に鈴なのかも知りたかった。
「きみは鈴、だよね?」
 だから、そう訊いて。
「ばーか」
 そして、そう言われて。
「あたしはあたしだ」
 ああ、紛れも無く僕の知ってる鈴なんだな、と思った。鈴は鈴で当たり前なのに、僕はなにを言ってしまってるのだろうと思った。
 でも、もしかしたら鈴が鈴ではなく、否定をしてしまったら、と考えたがすぐに首を振る。
「そう……だよね……」
「ほら、もう喋るな」
 鈴はそう言うとまた手を伸ばして、柔らかい人差し指を突きつけて僕の唇を塞いでくれた。その瞬間もまた、鈴の匂いが脳裏に蘇る。
「風邪とか疲労で倒れたのならゆっくりしろ。はしゃいだらしゃれにならんからな」
 僕は無言の頷きで鈴に返事をする。でも、後ひとつ。最後に聞きたいことがあった。
「あ、あとみんなはいないの?」
 注意を無視して僕が喋った事に少し鈴はムッとしたような顔をしたけど、ちゃんと答えてくれた。
「あの馬鹿たちは、ちょっと遠くへ遊びに行った。もう少ししたら帰ってくるらしい」
「そっか、ありがと」

 さっき目を覚ましたばかりなのに、僕はまた眠ってしまいたくなってきていた。
 鈴がまた、熱くなってる額へと手を伸ばす。言葉も無く額にそっと乗せられたその手は優しく僕を包み込んでくれて。暖かく僕を安心させてくれて。ほんのちょっと冷たい手が熱を取り除いてくれる。
 程なくして僕はゆっくりと目を閉じ、優しさに包まれながら眠りに落ちた――




 チリンっ




 目を開けると部屋は、目を閉じてる時と大差のない色に染められている。部屋の電気もついてなかったので、部屋に点在する小さな光だけが部屋を微かに照らしてくれている。
 今、体がなんだかとても不思議な感覚に包まれている。夢を見ていたのか見ていなかったのか。本当に僕の身に起きたことなのか。眠っていたのかさえも疑問に思えた。それに、もう体の気だるさもないし、熱もひいてるようだった。
 ふと気がつくと僕の額にはなにか、物が乗っていることに気付く。手を伸ばしてその感触を確かめると、そこにはサラサラと流れるような毛と猫の肉球。僕はそれを持ち上げずらして起き上がり、横を見るとベルが眠っていた。
 しばらくその様子を見ていたらベルは、にゃぁと一回だけ鳴いた。その後、ベルにつけてる鈴も、ちりんと一回だけ鳴った。


[No.309] 2009/08/07(Fri) 20:13:00
儚き夢を追い続け  (No.303への返信 / 1階層) - ひみつ@5,093 byte

初めは戯れだった
ただ、なんとなく理樹を女の子にしたらどうなるのかなぁと考え、実行してみただけだったのだ
だが……それが俺の狂気の始まりだった

長く美しい髪、
兎耳のような黄色いリボン、
気弱げにこちらを見つめる瞳、
細く美しいスラリとした体、

何もかもが完璧だった
これこそが、俺の理想
俺の理想の女性であり、妹なんだと俺は悟った
そう、この時に棗恭介という男は知ってしまったんだ
“恋”というものを
その瞬間、俺の取るべき道は決まった
例え、それが全ての友情を裏切る、最低な行為だと知っていても

「俺は理樹を立派な女の子にする」と誓ったのだ

俺は、全力を尽くした
初めに、真人と健吾を仲間に引き込んだ
一時的ほんの数時間ならまだしも、何日も何日も、永遠に理樹を女の子に改変するのは
俺一人では荷が重かった
必ず俺と同じ夢を抱ける同士が必要であったのだ
初めは渋っていた真人と健吾だったが、
俺の数時間に及ぶ説得に心打たれたのか遂には協力を申し出てくれた
そこからはトントン拍子であった

まず、理樹が男であるという証拠を全て抹消した
制服と私服は全て焼き払った
なおかつ、俺達3人で相談し、理樹が着てくれそうなのかつ俺達が着せたい服を買い集め
タンスに詰め込んだ

部屋も変更した
泣きながら「嫌だ!」と叫ぶ真人を足蹴りにし、健吾と同部屋に設定。
次に、理樹を鈴と同じ部屋にした
“直枝理樹”を良く知る鈴と同じ部屋にするにはリスクはあった。
だが、なるべく自然な状態にするためにはこれが一番適切であった

そして、最も困難かつ重要な事がリトルバスターズメンバーの記憶の改変であった
もともと、記憶の封印・偽証は行っていた
だが、改変となると中々に難しかった
なにせ、直枝理樹への恋心という、
今までは重要な役割を持っていたキーワードを消去するのだから
だが、俺はやり遂げた
彼女達の想いは手強かった
しかし、所詮は一年足らずの甘い恋だ
真の男(馬鹿)が全てを投げ打って望んだ野望の敵ではなかったということだ
一夜の猛攻防のすえ、彼女達の恋心を押しのけて、理樹を“女性”に設定してやれば、
彼女達の“恋慕”は瞬く間に“友情”に変化していった
まぁ……誤算と言えば来ヶ谷の暴走に更なる磨きがかかったということか……

ここまでして、ようやく俺達は“狂った日常”に戻れた
こんな歪んだ事をして楽しかったのか?
そう聞かれれば間違いなく、俺は頷けるだろう

「これこそが俺の理想。棗恭介が夢見た理想の世界なのだと」

素晴らしい日々が続いた

「理樹!あの馬鹿兄貴をどうにかしてくれ!」

「駄目だよ、鈴。お兄さんは大事にしなきゃ」

例え、鈴(実の妹)に罵られようとも理樹(理想の妹)が慰めてくれる

「きょーすけさん。ハイ、どうぞ。理樹ちゃんと一緒に焼いてみたんだよ」

「きょ、恭介。その…クッキーは初めてなんだけど…小毬さんのお陰で上手く出来たと思うから
 た、食べてくれるかな?」

妹の手作りクッキー。
夢だ!幻だ!いや……これこそが現実
これが妹がいる兄の至福なのか!
俺は幸せを噛み締めていた

だが、所詮は偽りの日々
創り上げた儚き虚像だったのだ
崩壊はあっけなく訪れた

「あれ?理樹?そっちは男子トイレなのですよ。女の子はこっちなのです」

俺は目撃してしまったのだ
理樹が能美達と連れ添ってトイレに行く時に、理樹一人が男子トイレに行く場面を
女性になってからというもの、トイレは間違いなく女子トイレを使っていたというのに

そう・・・・ついに理樹が男としての自分を取り戻してしまったのだ
そして、それに連鎖して巻き起こる、疑念に騒動

「なぁ、恭介氏。“理樹くん”は前からあんな感じだったか?」

限界だ。
リトルバスターズは疑惑の目を理樹に向け、理樹自身も戸惑いを隠せなくなっていた
更には俺の力の一片を知るものは、俺に厳しい目を向け始めていた
そして……理樹が女の子となって実に4回目の繰り返しの時、

「なぁ……もう良いんじゃねえか?」
「恭介お前は良くやった。……だが、お前の為にも…もう諦めよう」

真人と健吾は、
頭を抱え打開策を必死になって考えていた俺にそう告げた

(裏切られた!)

その時の、俺はそう思った
例え、全ての友情を裏切っても理樹を立派な女の子にしようと誓ったじゃないか!!
俺は真人と健吾の制止を振り切り、走った

「恭介氏!待ちたまえ!」 「「「「恭介さん!」」」」 「馬鹿兄貴!!」

部屋から飛び出した俺を呼びとめる声
それら全てから逃げる為に、俺はひたすらに走る、
気がつけば……俺は屋上に逃げ込んでいた

ひどい雨だった
まるで、世界が泣いているかのような豪雨が、屋上には降り注いでいた
俺自身もまた、自らの理想が潰えた哀しみにより、人知れず涙を流していた
本当は破綻することなど分かっていた
此処は、皆の想いが創り上げる世界
真人と健吾が協力してくれたとはいえ、それは憎まれ役を買って出ていた俺を哀れに思い
一時的に付き合ってくれていたのすぎない
所詮は、俺一人の野望だったのだ
だが、それでも!!
それでも、俺は叫ばずにはいられなかった
己の我儘、独り善がりな行動なのは自覚していたが、
それでも“世界”に対し叫ばずにはいられなかった

「返せよ!・・・・・妹なんだよ!!
今なら足だろうが!両腕だろうが!心臓だろうがくれてやる!!
 だから!!返せよ!!たった一人の俺の理想の妹なんだよ!!」

天に向かい魂を込めて叫んだ
喉が潰れるんじゃないかと思うぐらいの声で叫んだ
そうして、俺が精も根も尽き果てて膝を屈した時、
俺の天使は現れた

「恭介……」

その声は小さかったが、俺の耳にしかと届いた
俺の願いは叶ったのだ!!
俺は狂喜して振り返った
だが、そこにいた理樹を見た俺は“絶望した”

理樹は、理樹は・・・あろうことか“男子用の制服”を着ていたのだ
こうして、俺の夢は潰えた

………その後のことは語る必要もないだろう
俺は一時の理想、幻に全てを掛けた為に
最高の仲間達を裏切り、最愛の友を辱めたのだ
そんな男の結末など、今更語る必要もないだろう

ただ……今日も一人、世界の崩壊の時まで虚ろな瞳でひたすらに漫画を読み続ける男が
三年の教室にいる……ということだけを述べておこう

END


[No.310] 2009/08/07(Fri) 21:49:49
原始の幻視 (No.303への返信 / 1階層) - ひみつ@3644 byte

風が心地よい昼下がり、わたしは草原に向かって歩く。
 そこではるかが待っているから。
 さらに歩くと、はるかが出迎えてくれた。
「あ、おねーちゃん! こっちこっち!」
「おまたせ、はるか。でもごめんね、寂しくなかった?」
「仕方ないよ、こうするしかなかったんだから」
 2人同時の外出は禁止されているので、前の日に相談して時間差で出るよう決めたのだ。
 はるかが後だといろいろ心配だから、私が後ということになった。
 それでもいくつか問い詰められたが、そこは上手く切り抜けてきた。
「よし、遊ぼうか!」
「うん! ……あ、その前に待ってるとき見つけたプレゼントがあるんだった」
「くれるの?」
「うん、はんぶんこ」
 黄色と白のグラデーションが映える、小さくて可憐な花。たしかカモミールだったと思う。
 はるかはとても嬉しそうな表情をしてくれる。
 わたしはそれに答えるかのように微笑み返す。
「おねえちゃん」
「うん? どうしたの?」
「また、ここに来たいな」
「もちろんよ、はるか」
 花と笑顔を目に焼きつけ、わたしははるかと約束を交わした。


















 目が覚めた。ということは寝ていたことになる。しかも場所はなぜか中庭。
 幼い頃の幻、か。ついつい感傷的になってしまう。
 そうだ、確か放課後中庭の花の手入れをしようとして、そしたらついウトウトと……。
「おはよ、お姉ちゃん」
「おはよう、葉留佳……ってええ!?」
「寝起きから元気ですネ。いい夢でも見た?」
 いい夢だったとは思うけど、しばらくはしんみりしたかった。まさかさっきの夢って葉留佳のせい?
「葉留佳がそうさせてるんでしょう! ていうかどうしてここにいるのよ!」
「花の世話でもしようかなー、と思って来てみたらお姉ちゃんが寝てたから観察対象を花からお姉ちゃんに変更したわけですヨ」
「勝手に人の寝顔見ないの。どうせ世話なんて気まぐれ程度で始めたんでしょう」
「違う! 1ヶ月前に種蒔いて、水も毎日撒いてるもん! ……あっ」
 葉留佳は言ってから『しまった!』という表情そのものをしている。
 そういえば一ヶ月前から私以外の誰かが育ててる気配のある花もあった気がする。
 心当たりのある場所に行ってみると、なんとカモミールが元気に咲いていた。いつの間にか育っていったので当初は驚いたものだった。
 

「これは……あの時と同じ……」
「どしたの?」
 さっきの夢と場所。とても偶然とは思えなかった。
「夢を、見てたの。小さい頃葉留佳と遊んだ時、この花をくれたよね?」
「……うん。私も1ヶ月前、花の図鑑見てたら思い出した」
「夢の中でも思ったんだけど……どうしてこの花を選んだの?」
 ただ単に興味本位で聞いた質問。しかし葉留佳は真剣な表情で話し始める。

「私さ、小さいときは花にあこがれてたんだ。ただの種が成長して、綺麗な花を咲かせる。私もそんな風になりたくて。
 だから道端の花なんかも注目するようになったんだ。それで目に留まったのが、カモミール。ちいさくてかわいい、儚げな花。
 早速図鑑で調べてみると、逆境に耐える、逆境の中の活力、親交、仲直り、って意味があるんだって」
 
 今聞いた事が事実ならば、葉留佳はその頃から劣等感を抱えていて、自らの願望を花と重ねたことになる。
 そして、花言葉。もしそのままの意味なら、何を思って花を摘んでいたのだろうか。
 それらを考えると、気付けなかった自分が本当に情けない。私の眼から、感情が水滴となってあふれ出す。
「ゴメンね、葉留佳……頑張ってたのに、気付いてあげられなくて……」
「ううん、お姉ちゃんは何も悪くないよ。だから、顔を上げて。泣いた後は笑わないと!」
 ……葉留佳、あなたが気がついてるかはわからないけど、もう立派な花を咲かせたわ。それも今までで1番綺麗な。
 そしてこれからも成長を続けて、枯れることなく、誰よりも素敵な花になるんでしょうね……。
 心の底から、そう思わずにはいられなかった。









 落ち着いてきたころ、葉留佳は私の手にそっと手を重ね、そっと呟いた。
「ねえお姉ちゃん、また……あの場所に行きたいな。もう一度、手を繋いで」
「じゃあ今週末にでも2人で行きましょうか」
「わーい、お姉ちゃんと週末デートだー」
「ち、違うわよ!」
 ただ、そんな風に楽しく出来ればいいとは思う。
 まあ……そんなの関係なく葉留佳といるだけで毎日楽しいんだけどね。


[No.311] 2009/08/07(Fri) 22:18:53
井の中の争い (No.303への返信 / 1階層) - ひみつ@3934byte

「萌えって良いものだよね!萌え一つで人類ハッピー!」

 葉留佳君が壊れた。























 夏休みでの事だった。私達はバス事故に巻き込まれて入院し暇な夏休みを送っていた。この暑さの中に身を投げ出し、海だ山だ補習だ覗きだ引き篭もりだなんだと休暇を謳歌する気満々だった高二には辛すぎる状況だった。そんな時、地獄の休みをせめて少しでも楽しく過ごして欲しいと理樹君や鈴君が漫画やゲームを持ってきてくれたのだ。楽しい事が大好きな葉留佳君はそれらを物凄い勢いで消化していった。理樹君や鈴君がもって来てくれた漫画やゲームのほとんどが恭介氏の部屋から持ち出された物だったと言う事に気がつかないまま。
 私はそれを見て少しは静かになるかと安心した。けれどそれが間違いだったち気がつくのが少し遅かったのを、今では微妙な心境で楽しんでいる。


「このキャラはさー…ツンデレって感じなんだけど、実は純情な良い子って言うのが良いと思うんですヨ」
「いえ、この子は過去に妹を主人公に殺害されており、それから主人公を憎んでいるのです。だからヤンデレという分類になるでしょう」
「ふむふむ。ヤンデレって純情とも取れる所が奥が深いですネ」
「葉留佳さんは筋が良いのですぐに嫁が出来ますよ」

 壊れた葉留佳君から自分に似た匂いを感じ取ったのかどうかは知らないし知りたくも無いが、美魚君が彼女に薄い本や漫画を大量に渡していた。葉留佳君は薄い本をまだ理解できる境地に居なかったのか、漫画だけ受け取っていたのを見て心から安心した。
 私もそういう物に興味が無いとは言わない。だがやはり漫画ではなくリアルで体験してみたいと思っている。それを私にしつこく漫画やゲームを勧めてくる葉留佳君に伝えると、鬼の様な顔をして噛み付いてきた。比喩的な意味ではなく、文字通りの意味で。
「三次元なんて無意味だよ!姉御がそんな事言うなんて思わなかった!」
 退院後、彼女は私達の事を避け美魚君とずっと過ごす様になってしまった。




「葉留佳がクラスでも漫画を読んでいて…みんな葉留佳の事を避けるようになっちゃって…」
 佳奈多君から相談を受けたのは退院後の登校日だった。夏休みに登校日があるなんて色々とおかしくないか気が緩まないためにあるらしいが結局登校日でもぐだぐだな奴はぐだぐだなんだぞ、とか心の中で鬱憤をぶちまけている所に佳奈多君から話しかけられたのだ。相談の内容はまあ察する通り葉留佳君のことだった。私は正直葉留佳君がどうなろうとどうでも良かったし、対応の仕方も変えるつもりはなかったので相談相手になるのは面倒なだけだった。けれど彼女の必死な顔を見ると抗う気力がどこかに行ってしまった。全く、いざと言う時に使えない奴だと思う。
 まず、葉留佳君をどうにかしなければいけないのだが。それについては打つ手等無い。断言しよう、無い。少なくとも私も佳奈多君も思いつかないし、恭介氏はまだ入院しているし。リアルの世界から逃げてしまった葉留佳君をこちらに戻す事ばかりを考えている佳奈多君には悪いが、私はこのままでも良いと思う。どんなに趣味が変わっても葉留佳君は葉留佳君だろう。けれど佳奈多君は私の意見を生意気にも一蹴してこう言い放った。
「オタクなんて…葉留佳がオタクなんて駄目ですっ!棗先輩はどうでも良いけど、葉留佳は駄目っ!」
 まあ嫌がるのもわからなくも無いのだが。
 その後、佳奈多君は葉留佳君に泣きついた。頼むから元に戻ってくれと。その為なら私は何でもすると。何でもするって事は少しけしからん事をしても良いのだろうかそうだそうに違いないと桃色の想像をしてたら、葉留佳君も涙ながらにこう言い返した。
「三次元なんて…三次元なんて良い事無いじゃん!殴られたりするだけじゃん!もう放っておいてよ!」
 何の話なのだろうか。漫画の話かも知れないな。漫画に感情移入する人も少なくないと聞くし、葉留佳君もその類なのだろう。佳奈多君も馬鹿を見る目をしているのだろうとちらりと顔を覗き込むと、なんとさっきよりも泣いていた。何故だ。しかも小声で
「ごめんね…葉留佳ごめんね…私の所為で…」
 と言っているのがとても怖かった。とりあえず逃げ出した。




 葉留佳君が漫画にはまってからもう一週間が経とうとしている。相変わらず漫画やゲーム、パソコンに熱を上げているが私たちへの反応は変わらない。つまり平和なのだ。平和が一番だと最近やっと気がついた私は、今日もゆったりとお茶を楽しみつつ姉妹の泣きながらのケンカを眺める。なにやら家族の話まで飛び出ており、親戚を丸ごと飲み込んでの戦争になっているらしく彼女たちの語尾も荒い。意味不明な単語が飛び出てくるのも面白い。最近では理樹君も加わったりして大きな戦争になってきた。
 

 今日も、意外と平和だった。


[No.312] 2009/08/07(Fri) 22:42:11
幻性少女@微修正 (No.303への返信 / 1階層) - 比巳津@20198byte

 キィンと甲高い音をあげて白球が高く空を舞う。
「んにゃ!?」
「おーっほっほっほ。ソフトボール部次期エースにかかれば趣味で野球をやっている人なんてこんなものですわ!」
「思いっきりファールだけどね」
 ――そう、川の方向へ。
「しかも打率2割程度でそこまで威張られても」
「うるさいですわよ、直枝さん」
「それにボールも数が少ないんだけどね。あれじゃあ川に入っちゃうよ」
「うるさいって言ってるじゃないですの! そもそもあっちの方に飛ばしたのはわたくしの本意じゃありません事よ!」
「こらっ、ささみ! 人のボールを景気よく飛ばして文句を言ってるんじゃない!」
 バッターボックスの佐々美とマウンドの鈴、そしてキャッチャーマスクをかぶっている理樹がグタグタと言い合いをしている間にもボールはどんどん川の方向へ伸びていく。それを見送るのは途中で追うのを諦めた恭介。
「こりゃロストボールだな」
 ボールの行く先に何の障害物もない事を確認してやれやれ目をつぶって空を仰ぐ恭介。またボールの数が減ってしまうとなると、そろそろリトルバスターズのメンバーから部費という形でお金を徴収しなくてはいけない頃なのかも知れない。なんせ勝手に遊んでいるだけなので、使っているボールなども野球部の物を勝手に拝借していたり、恭介の伝手で手に入れたものばかりなのだから。
 そうして万が一の可能性があるかも知れないと目を開いて改めてボールの行く先を確かめてみる、と。
「あーはっはっはっは! そうよね、そりゃあそうよね。願った通りの世界になるんだもの、タイムマシンくらいあったってぎゃぁ!」
 いつの間に現れたのか、髪を二房に分けて白いリボンで高笑いをしていた少女の後頭部に当たって、カィンと恭介の方に跳ね返ってくるボール。
 恭介の気のせいである可能性が低いであろうとても軽いボールのぶつかった音がしたのはさておいて、頭にいきなり後頭部に衝撃をくらった少女は、そのまま川に豪快な音と水しぶきをあげて飛び込んでいった。いや、飛び込んだという表現はおかしい可能性が無きにしもあらずだけど。
 そしてそのままプカーと川の流れに乗っかってどこまでも流れて行く少女。うつぶせになって流れていっているので少女の呼吸がとても心配だ。
「えーと」
 少女が唐突に現れるという神秘的な現象を目の当たりにして、更に変な笑い声をあげたと思ったら頭にボールが命中したあげく、桃太郎よろしくドンブラコッコドンブラコッコと今なお流されていく少女に上手くリアクションがとれない恭介。
「――彼女は川の流れに乗って、どこまで行くのだろうか……?」
「そんな事言ってる場合じゃないから恭介。早くあの子を助けないと」
 遠くから理樹の、結構冷静そうな大声が飛んでくる。ちなみに川の流れでめくれたスカートから見えたそれは、銃だった。女の子でそれはどうなんだろうと思わなくもない。





 幻性少女





「わふー。つ、冷たかったです」
 犬よろしくプルプルと体を震わせて体についた水滴を払い落しているのはクド。機敏に川に飛び込んで女の子を救出した功労者は冬の寒空に凍えていた。
「クド、大丈夫?」
 それを気遣った理樹は上着を脱いで、クドの濡れた服の上から羽織らせてあげる。一瞬だけ現状を理解できなかったクドだったが、理解すると同時に顔が真っ赤に。
「リリリ、リキ!? ダダダダダダメですよ、リキの上着がわふーです!」
「あ、うん。肝心の所がわふーでよく分からなかったけど、言いたいことはなんとなく分かったつもりだよ。けどそのままだとクドが風邪ひいちゃうから。上着は洗えばすぐ元通りになるけど、クドが風邪をひいたら大変だからね」
 理樹の幼子を諭すような言葉にわーだのふーだとボソボソと言っていたクドだったが、やがて顔を真っ赤にしてコクンと頷いた。クドの小さな体には大きい理樹の上着で体をすっぽりと包み、ひくひくと鼻を動かして理樹の匂いを嗅ぐクドに一部から羨ましそうな視線が注がれるが、当然彼女はそんな事に気が付ける精神状態にあるわけじゃない。
「まあそれはいいとしてだ、この子をどうするかだな」
 来ヶ谷はクドの様子にガン見しながらデレ顔で真面目な口調で言葉を切り出す。少女は野球の練習に巻き込まれただけの被害者なのだからしっかりと考えなければいけないのは当然の話である。ちなみに少女は美魚が救急用に何故か用意していた毛布にくるまれて気持ちよさそうに御就寝。濡れたままでは風邪をひくと、服を来ヶ谷に脱がされた後なので実は毛布の中は全裸だったりするのだが、まあそこはどうでもいい。
「こっちの過失ですからね、キチンと誠実な対応を取るべきかと思います」
「誠実な対応といってもな、目を覚ましたら平謝りっていう選択肢しかないんじゃないか?」
「もちろん謝るなきゃ〜。けど、その間ずっと野球をやっているっていうのは不誠実だと思うな」
 美魚、謙吾、小毬が口を開く。それを皮切りに話はどんどんと続いていく。
「ん〜。じゃあどうしたらいいんだ? 目が覚めるまでコイツの側に正座して待っているのか?」
「鈴はそれをやりたい?」
「やりたくないな」
「ってかグダグダ言う前に保健室とかに連れて行った方がいいんじゃないですかネ」
「そうですわね。いくらなんでもこの寒空の下で毛布一枚というのは問題かと思いますわよ」
 そこでクシュンと可愛らしいくしゃみがあがる。みんながそっちの方を見れば恥ずかしそうに顔を赤く染めたクドの姿が。そりゃ全身ずぶ濡れなのに上着を一枚羽織った程度で冬の寒さがしのげる筈もない。
「決まりですね。この子も気を失っているみたいだし、保健室に行きましょうか?」
「よっしゃ、運ぶ役はこのオレの筋肉に任せておけ!」
「毛布一枚の女の子をお前が運ぶなぼけー!」
 ばきぃと鈴のハイキックが真人の首に決まる。
「はい、すいませんでした」
「はっはっは。真人少年はエロエロだなぁ。あいにくとおねーさんは君のような可愛らしさの欠片もないような人にエロいサービスをする気はないが、脳内でならば自由にエロエロな事をすればいい」
「うおおおおお! エロ筋肉って言うなぁー! エロと筋肉を合わせるとそれは筋肉じゃねぇんだよぉーーー!」
「ちなみに、エロでもないと思います」
「って言うか誰もエロ筋肉なんて言ってないですよネ?」
 ひょいと少女をお姫様抱っこした来ヶ谷の言葉に頭を抱えて暴走する真人。そして一応つっこみを入れてあげる心やさしい美魚と葉留佳。
 そんな騒がしい所から少しだけ離れた所に立っている、いつもは騒ぎの中心にいるはずの人物に気がついた理樹が彼に近寄っていく。見れば恭介は真剣な顔をして何か手帳のようなものを凝視していた。
「恭介、どうしたの? その紙は何?」
「これか? あの女の子の生徒手帳だ。ちょっと気になる所があってな」
「……恭介、女の子の脱いだ制服を漁ったの?」
「い、一応言っておくが上着の胸ポケットに入っていたからな。スカートとかには手を触れてない」
「…………ふぅん」
 ジト目の理樹から逃れるように生徒手帳を理樹の眼前にかざす。
「とにかくだな、ちょっと名前を見てくれ」
「名前?」
 恭介の言う通りに名前を覗き込んでみれば、そこには朱鷺戸沙耶という文字が。
「朱鷺戸、沙耶?」
 どこか聞き覚えのある名前に首を傾げる理樹。思い返してみれば少女の顔もどこかで見た気がしてならない。もしかしたらどこかで会ったのかもと必死になって頭を動かす。同じ学校の生徒なのだから、もしかしたら掃除当番とか運動会とかで知り合った人なのかもしれないと。
「ああ、学園革命スクレボの主人公の名前だ。しかも顔までそっくりなんだ!」
「……………………ああ、スクレボ」
 一瞬で理樹の顔から興味の色が失せた。そんな理樹に気がつかず、いや気が付いているのかもしれないけど、理樹とは対照的に恭介はテンションを一人でどんどんとあげていく。
「そうなんだ、スクレボなんだよ! もしかして彼女は漫画の世界から飛び出してきたとかそういう話か!? くぅ、楽しみだぜ!!」
「僕はそういう発想をする高校3年生の将来がすごく楽しみだけどね」
「何を言う理樹、ロマンを亡くしたら人間終わりだぜ?」
 ニヒルに笑う恭介だがしかし、この場でそういうセリフが出てくるのもどうかと思う。
「ま、とにかく話は保健室に行ってからだな。もうみんな先に行っちまってる」
 その言葉に理樹は振り返るが、すでにリトリバスターズのメンバーの姿は見えない。もうとっくに校舎の中に入ってしまったのだろう。寂しい木枯らしが抜ける中でぽつりと恭介が呟いた。
「しかし薄情な奴らだな。一声かけてくれたり待っていてくれてもいいのにな」

「女の子の制服を漁って荷物を勝手に見る奴にかける言葉なんてないわぼけー!」
 鈴のハイキック。恭介に74のダメージ。
「それに冷えた体を早く火照らしたいという少女が2人もいるのに、待つなんて選択肢がある訳もないだろうに」
「確かにね」
 保健室の前でようやく追いついた恭介と理樹だったが、かけられた言葉はそんなものだった。正論過ぎる言葉に理樹は苦笑いしか出来ない。
 その他に濡れているクドをからかう葉留佳にそれを止めようとしている小毬、黙ってみている美魚。更に何故かケンカしている謙吾と真人、鈴と佐々美にと話が全然進まない状況になっているので、代表して理樹が保健室のドアを開ける。っていうかもしかしたらこの調子だと、しばらくここでたむろっていた可能性も無きにしも非ず。引き戸を引くだけなのに、何故後続が来るまで時間を潰さなくてはならないのだろうかと疑問に思わないこともないのだが、きっとそこは触れてはいけない部分なのだろう。
 ガラガラガラと引き戸を開けてみれば、眼前には不機嫌そうな顔がデンとアップで。
「って、佳奈多さん!」
「あ、お姉ちゃんだ」
「直枝、それに葉留佳じゃない。まあ予想は出来てたけど。
 ここは保健室の前です。安眠妨害ですから、騒がしくするなら別の場所でやりなさい」
 不機嫌そうなのは眠っている所を騒がしさで起こされてしまったかららしい。注意しようと扉を開けようとしたら先に理樹に開けられてしまったという訳だ。
 そして不機嫌そうな顔のままでピシャンと扉を閉める佳奈多。ガチャンという重い音が直後になったのを考えると、どうやらついでに鍵まで閉められてしまったらしい。
「って、ちょっと待って!」
 いきなり閉まった扉に思わず理樹が大声をあげた。すぐにガチャン、ガラガラガラという音を立てながら不機嫌さ4割増しの佳奈多の顔が現れる。
「なによ?」
「病人がいるんだって。保健室で寝かしたいから、ちょっと中に入れて」
「それなら保健室の前で騒いでいないでさっさと中に入りなさい!」
 佳奈多は不機嫌そうにそう言うと理樹を中へ入れようと促す。
「じゃあ入るよ」
「佳奈多さん、失礼いたします」
「やはは。お姉ちゃん、お休みところすいませんネ」
「佳奈多さん、おっじゃましま〜す」
「失礼します」
「まあこの暑苦しい筋肉が入れば保健室も一気に温かくなるってものさ!」
「なんだとぅ、暑苦しさでこの俺が負けるものか!」
「なんで保健室に入るのにかなたに挨拶するんだ、ばかかお前ら」
「先客がいればその人にキチンと挨拶をするのは当然の事でしょうに」
「そういう物なのか?」
「その通りだ鈴くん。ついでに正しいマナーはきものを脱いで入るからな。では実践してみよう」
「字面に騙されそうだけど、実際口にして騙されるバカはいないからな、来ヶ谷」
「うむ、残念だ」
「うっるさーい! 保健室では静かにしなさーーーい!!」
 わらわらがやがやと保健室に入り込んでくる総勢12名に、当然のごとく佳奈多の雷が落ちた。

「なるほど。つまり野球の練習をしていたらその女の子の頭にボールが当たって、女の子が川に落ちてしまった。それを助ける為にクドリャフカが川に飛び込んだから、2人分の服と女の子が目覚めるまでベッドを貸して欲しいと、そういう訳ね」
「まとめるとそうなるね」
「その説明をするのに十何分もかけないでよね、本当」
 勝手知ったるなんとやら。事情を聞いた佳奈多は保健室を走り回って必要な物を用意していく。ちなみに沙耶はベッドの上で気持ちよさそうな顔をして眠っていたり。
「で、クドリャフカ。その男物の上着は何?」
「これですか? 川からあがって震えていた私にリキが貸してくれたのですっ!」
「ふぅん。直枝が、ねぇ?」
「ちょ、佳奈多さん、何か怖くない!?」
「気のせいよ」
「ところでお姉ちゃん、寝てたんじゃないの? もう眠らなくていいの?」
「このままあなたたちに任せていたらあと何分かかるか分かったものじゃないでしょう。それにあれだけ騒がれたら眠気なんてなくなるわよ」
 テキパキと体操服を取り出して休む準備をしていく佳奈多。そして体操服を取り出す段になってはたと手が止まる。
「ねえ、その女の子、サイズはなに?」
「さあ?」
 首を傾げる理樹。まあ普通知っているはずもない。
「「M」」
 の、だが。何故かこの場に知っている人間が2人いた。2人が2人とも普通ではないので不思議なことでは全然ないのだが。
「えっと、棗先輩に来ヶ谷さん。一応聞いておきますが、その情報源はどこから?」
 佳奈多がすごく嫌そうながらも代表して問いかける。その言葉に顔を輝かせて答える恭介。
「ああ、さっき名前を確認した時に生徒手帳を見せて貰ったんだが、そこに書いてあった。
 それより何より沙耶と言えば体操着はMだろ!」
「……えっと、直枝。通訳を」
「この子の名前は朱鷺戸沙耶って言うんだけど、それを調べる為に恭介はプライパシーの侵害をして勝手に生徒手帳を覗いたんだよね。
 そしてスクレボって漫画の主人公にそっくりだからってこんなにテンションがあがっているんだ」
「きっしょきっしょきっしょ!
 お前漫画のキャラクターのそういう個人情報まで覚えているのか!」
「ちなみにMなのは沙耶がMだからという説が有力だ」
「きっっっしょ!!」
 妹に地球外廃棄物質を見る目で見られる恭介だが、それはさておいて次に視線が向けられるのは即答したもう一人の人物、来ヶ谷。
「それで来ヶ谷さんはなんで分かったんですか?」
「なんで、だと? 愚問だな、佳奈多くん。私が一目見れば、その女の子の全ての個人情報を知れるは常識じゃないか」
 得意満面と言った様子で言いきる来ヶ谷に、流石の佳奈多も疲れた表情を隠せない。
「そんなうすら寒い常識を作らないでください、そんな訳ないじゃないですか」
「……佳奈多くんが何歳から一人で布団の中、はぁはぁしていたかというと。7月19日。年は――――」
「やめてぇ! 信じます、信じますから!!」
「はっはっは。おねーさんに勝とうなんて100年早い」
 真っ赤な顔で物凄い大声で言葉を遮る佳奈多に、高笑いをする来ヶ谷。佳奈多がちらと理樹を見たかも知れないのは、偶然なのか偶然ではないのか。特にその現場を見てしまった妹としては激しく気になる今日この頃。
「と、とにかくMですね。クドリャフカはSSでしょ。早く着替えなさい」
「あ、はい佳奈多さん。ありがとうございます」
 はぁはぁと荒い息のままクドリャフカに近づいて、体操服を手渡す佳奈多。丁寧にお辞儀をしてそれを受け取り、奥の人目のつかない方へ行くクド。
「じゃあ今度は朱鷺戸の服を着替えさせな、きゃ……」
「あ」
 それは誰の声だったのか。クドに体操服を渡した足で沙耶の所まで行った佳奈多は誰が止める間もなく沙耶の体を包んでいた毛布を取り外してしまった。まさかその下が全裸だと思っていなかった佳奈多は思わず固まってしまう。つまり必然、沙耶の裸体は全員の視線にさらされる事になり――――
「ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
 ――――硬直する一同の中、不気味な笑いが保健室に木霊した。
「胸ですか胸なんですか胸なんですね? 鈴さんより小さいバストで身長を考慮すればクドリャフカさん以下、つまり最貧乳である私への挑戦なのですね、その露わにされた胸は」
「あー。とりあえず落ち着こうか、美魚女史」
 かちゃりとライトセイバーを装備しながら壊れた笑いを続ける美魚に、引きつった笑いをした来ヶ谷が一応止めに入る。だがその手にレプリカマサムネが握られている時点で、彼女の中では未来予知が完了しているのかもしれない。
 案の定、ギギギと油が切れた人形のような動きで来ヶ谷の、特に一部分を見た美魚の瞳が怪しく光る。
「はっ! あなたに何か言う権利があると思っているんですか、この巨乳がぁ!! まずはその全生徒中最大乳から切り取ってやろぉわぁ!!」
「み、みおちゃんが壊れた!」
「ふむ、私は貧乳も萌えだと思うが、それはさておき挑まれた勝負は受けなくてはなるまい。私が買ったら今晩君は私のオモチャだぞ!」
「姉御が理不尽な交換条件を突き付けて勝負を受けたぁ!」
 バトルスタートだ。そんな恭介の口から出たり出なかったり。
 本格的な殺陣を中心にお祭り騒ぎの状況になっている保健室だが、毛布をはぎ取った下は全裸だった事から始まり、こんなハイテンションに慣れていない佳奈多だけはずっと固まっているまま。
「――ん。何よ、うるさいわね……ぇ?」
 沙耶に覆いかぶさり、布団を剥いだ恰好のままで。しかもその片手には体操服。下にいる沙耶は全裸。
「ええええええええええ!? 起きたらいきなり百合ワールド! 私はちゃんと時間移動が出来たんじゃないの!?」
「ちちちちち、違う違うのよ朱鷺戸! 色々なすれ違いがあっただけで私が好きなのはちゃんと男の子で、だけど女の子っぽいし実は女の子もありなのっ!?」
 新しい世界の扉を開けかけている2人だった。片方は別の世界の扉をしっかりと開けていたりはするのだけど。

「私は百合は賛成だな。佳奈多くん、バナナ貸そうか?」
「ゴメン。ちょっと来ヶ谷さん、黙って」
 騒ぎが一段落して。美魚に辛勝した来ヶ谷だったが、地面に這いつくばる少女がバナナでお願いしますと言ったらバナナもキュウリも常備していると即答した来ヶ谷。その2人はとてもいい顔でサムズアップ。そんな事はさておき。
「なあ、朱鷺戸。お前がスクレボの主人公とそっくりなのはどういう事だ?」
「いや、恭介。それもどうでもいいから」
 真顔の恭介にとにかく疲れている理樹。それでも沙耶の方をしっかりと見て、リトルバスターズのリーダーとして頭を下げる。
「あの、さ。まずは朱鷺戸さん、ゴメン。野球のボール頭に当てた上に川に落としちゃって」
「あははは、いいのよ。私と理樹くんの仲じゃない」
 ビキィィィという擬音付きで空気が固まった。その爆弾発言のおかげで、照れた顔をした沙耶のそれに気持ちよかったし発言には誰も気が付いていない。
「ちょ、少年! そんな面白そうな事を私に無断で!?」
「し、知らないからそんなに迫って来ないでよ来ヶ谷さん! 朱鷺戸さんもいい加減な事を言わないで!」
「朱鷺戸なんて他人行事的な言い方じゃなくていいって。いつもみたいに沙耶♪って呼んでいいわよ」
「♪、だと?」
 来ヶ谷の顔がなんとも形容しがたい表情を形作っていく。そしてその顔のままでギロリと理樹を睨みつける。
「今は私との仲とかそういった事はどうでもいい。とにかく一回沙耶♪と言ってみろ理樹少年!」
「たんをつけてもいいですよ。沙耶たん♪といった具合に」
「実践してくれてもやらないから!」
 美魚まで乗ってきた。段々分が悪くなってきた理樹は大声で拒否をする。チッとか2人同時に舌打ちした辺りに彼女たちの本気具合が表れていたが、理樹はそれにつっこみを入れて地雷を爆発させるような事は奇跡的にもしなかった。つっこみ的には退化したが人間的には成長した証だろう。
「で、朱鷺戸さん。いい加減話を進めるけど、どういう事?」
「どういう事って、理樹くんこそどういう事?」
 お互いにキョトンとした時間は一瞬。すぐに沙耶はポンと自分の頭を軽く叩いて、てへっと可愛らしく舌を出した。
「きしょ!」
「あ、そっかそっか。過去に来たの忘れてた」
 鈴のつっこみはスルー。スルーしざるを得ないような爆弾発言を沙耶がしたから。その言葉に一番反応したのは当然というか、恭介。目がこれまでになくキラキラァと輝いている。
「過去に来た!? って事は何か、スクレボはタイムスリップ要素があるのか!?」
「ええ。地下に眠っていた秘宝ってタイムマシンと細菌兵器だったのよ。私はそのタイムマシンに乗って過去に来たって訳」
 さらっとネタバレをしまくっていく沙耶だが、ふと首を傾げるのは真人。
「で、その漫画のキャラが理樹となんの関係があるんだ?」
 意外な程核心をついた言葉に思わず固まる沙耶。
「ま、前は私と理樹くんはパートナーで恋人同士だったのよ!」
「理樹に恋人が出来たっていう事は聞き捨てならねぇがそれはともかくとして、なんで理樹が漫画のキャラと付き合えてるんだ?」
 ごまかそうとするが、全く真人らしくないブレの無さで追及の手は緩まない。
「そ、それは……」
「それは?」
「…………」
「…………」
「私が知るかぁー!」
「逆ギレかよっ!」
「ああそうよ、理樹くんと付き合った事とか初めては中庭でとかそういった事はちゃんと分かるし、自分が漫画のキャラクターだって事も理解してるのに何で現実に居るのとか全然分かんないのよ。自分の事もロクに分からない、ターゲットである秘宝も勝手に使う。こんなスパイは滑稽でしょ、滑稽だと思ってるんでしょ。笑いなさいよ、笑えばいいじゃないのよ。あーっはっはっはっは」
 怒涛の自虐を言いまくる沙耶。なんて言えばいいのか分からない。
「おお、伝説の自虐パフォーマンスをまさか生で見られるとは!!」
「喜ぶなぁー!」
「ファンに喜ぶなって言う方が無理だ!」
 恭介だけはしっかりと対応出来ていたけれども。
 一回叫び合いが落ち着くと、直前までのハイテンションは何だったと言わんばかりの落ちつきっぷりで恭介が厳かな口調で言う。
「まあ今ここに朱鷺戸がちゃんといるんだからいいじゃないか。むしろ俺的には突然朱鷺戸が現れたのを見たわけだから、時間旅行とかしたとか言ってもむしろ納得だぞ」
「恭介がそういうなら深く考えないが……」
 腑に落ちないといった感じで言うのは謙吾。恭介に逆らわない方がいいという奴隷根性はこんなところまでしっかりと染みついていた。
「それはまあいいとして、本当に漫画の世界から飛び出してきたのならこれから彼女はどうするの? 戸籍とか無いんでしょ?」
「あ、それは大丈夫。あてがあるから」
「流石敏腕スパイだな」
 佳奈多の問いにさらりと答える沙耶。そんな彼女に恭介が嬉しそうに感心していた。彼女の頭の中で、どうせあやの戸籍があるしとか思っているのは彼の夢を壊さない為にも、知られない方がいいだろう。
「そういった細々とした事はおいといてね」
 こほんと小さく緊張をほぐすような咳払いをする沙耶。そうしてそこにいる全員、一人一人の顔をしっかりと見ながら、笑顔で口を開く。
「私も仲間に入れて!」
 葉留佳並みの脈絡のない言葉だった。どうしたら脈絡のある言葉になるのかは分からないけれども。
 いきなりすぎるその言葉にどう反応していいのか分からず、来ヶ谷や恭介まで固まってしまい、変な沈黙が保健室を支配する。その空気に段々と笑顔が曇っていく沙耶。視線は助けを求めるように理樹の方へ。他のみんなも沙耶につられて視線は理樹へ。
 なし崩しに全員の視線を集めてしまった理樹はと言えば、少し落ち着かないとはいえどもそれだけだった。直前まで一緒に騒いでいた事を思えば答えなんて決まっている。
 理樹は不安そうな沙耶にむかって片手を差し出した。かつて、恭介にその手を差し出されたように。いつか、誰かにその手を差し出したように。むかし、少女と繋いだ手をまた繋ぐ為に。
「よろしくね、沙耶」
「――うん、またよろしくね。理樹くん」
 差し出された手を沙耶な握り返す。不安そうな顔を花がほころぶ様な笑顔に変えて。
 結ばれた二つの手を見て。沙耶は思う、理樹も思う。その場にいる全員が思う。みんながきっと同じ思いを胸に抱いているだろうと思いながら、想う。






























 なぜ、これが幻なのだろうと。
 心のほとんどが温かいもので満たされていると感じながら、全員が絶望の欠片を幻のような儚さで、けれども確かにその想いを抱いていた。


[No.313] 2009/08/07(Fri) 23:01:10
おやすみなさい (No.303への返信 / 1階層) - 秘密 14565 byte

「やあ、諸君。おはよう」
 あたしたちが4人で朝食を摂っていると、恭介さんがやってきた。あたしたちはめいめいにあいさつを交わす。
「あ、おはよう。恭介」
「何でそんな仰々しいあいさつなんだよ・・・・・・」
「うむ。おはようさんだ」
「あー、恭介さん、おはよ」
 恭介さんが理樹くんの隣に座る。理樹くんに謙吾くん、真人くん、そして恭介さん。いつもどおりのメンツだ。
「ふー。相変わらず鈴は居ないのか」
「うん。鈴は女子寮の友達と食べてたよ」
「理樹。何でお前は朝、鈴の部屋まで呼びに行かないんだ?」
 恭介さんが酷く真面目な表情で、酷い妄言を吐いた。それに反応して、理樹くんが立ち上がる。
「ちょっ。何で僕なのさ!?てゆーか、女子寮にすら入れないよ!」
「大丈夫だ、理樹。お前なら難無く入れるさ」
「オレもそう思うぜ?」
「いやいやいやいや。真人まで乗らなくていいから。ねえ、謙吾。二人に何か言ってやってよ」
 理樹くんに話を振られた謙吾くんが、顎に手を当ててしばらく理樹くんの全身をまじまじと見た後、こう言った。
「そうだな・・・・・・やはり男子制服だと無理があるな。着替えていくといい」
 理樹くんが額に手を当て、ふらふらと席に着くと、天を仰ぐ仕草をした。
「まさか謙吾までかぶせるなんて・・・・・・僕はもう疲れたよ」
「あら、理樹くん。こないだ、女の子のカッコしたとき、結構似合ってたわよ?」
「沙耶、お前もか!って、沙耶が何気に一番の爆弾発言だから!!」
 理樹くんがツッコミまくりでのた打ち回っているのを、みんなが微笑ましく眺めてる。いつも通りの平和な朝。
「まあ、それはさておきだ。鈴のやつは兄に対して冷たすぎる。昔はお兄ちゃん、お兄ちゃんと言って俺の後ろを追っかけてばかりだったのに、今や兄と会おうともしない上に、会えば呼び捨てにするわ、変態呼ばわりするわ。沙耶を見習うべきだと思うぜ、全く。沙耶は今でも俺たちの後ろを追いかけて可愛いもんだ」
「誰もあんたなんて追いかけたことなんか無いわよ、この変態野郎。だいたい、あなたたちの方が、あたしと理樹くんに纏わり付いてきただけじゃないの。あのとき、二人でサッカーして遊んでたあたしたちに、何か訳わかんない事言って蜂の巣退治を手伝わせてさ。全く、腐れ縁もいいとこだわ」
「まあまあ、沙耶も落ち着いて。恭介も悪気があったわけじゃないんだしさ。ほら、『変態野郎』あたりでもう沙耶の声、聞こえてないみたいだよ」
 見ると、恭介さんが顔文字みたいな顔で硬直していた。へえ、こんな顔芸ができるんだ。
「てゆーか、恭介さん。いいかげん妹離れしないと。ただでさえ、奇行、ショタ、(21)の三本立てなんだから」
 あたしの声を聞き、放心状態から立ち戻る恭介さん。
「俺は(21)じゃねぇっての」
 どんだけ(21)にこだわるんだ、この人は。
「他の二つは認めるのね。まあ、その時点で既に人間失格だけどね」
「がぁぁ!何で俺がこんな仕打ちを受けなきゃならんのだぁぁ!」
「恭介がからかうからだ。まあ、お前が変態なのは俺も認めるがな」
 意外なところからダメ押しが入る。謙吾くん、あなたも大概Sなのね。
 とまあ、こんな賑やかな感じであたしたちの一日が始まる。

 渡り廊下。あたしたちは連れ立って登校する。先頭では恭介さんが「バンドをやろう」とか訳分からないことを言ってる。また深夜にアニメでも見たのだろうか?
 そうね、バンドなら、私がボーカルで、理樹くんがギター。他の3人はまあ別に何でもいいけど、強いて言うなら恭介さんがサイドギターで謙吾くんがベース、真人くんがドラムってとこかしら?
 バンド・リトルバスターズの姿を想像し、ほくそ笑んでいるのも束の間、あたしの妥当な役割分担をまるっきり無視したステキな分担が恭介さんから提示される。
「理樹がボーカル(女声)とギター担当、で俺がボーカル(男声)とベースな。あとは謙吾、ドラム。真人、パーカッション。沙耶、パーカッション」
「なんでじゃあぁァァ!何で理樹くんがボーカル(女声)なのよ!?どう考えたってあたしでしょ?てゆーか、ドラム、パーカッション、パーカッションって打楽器どんだけいんねん!!」
 脊髄反射で突っ込みを入れるどころか、変な関西弁まで出てしまった。
「大丈夫だ。お前と真人はライブ中バトルをしているだけでいい」
 よくねえよ。どんなパフォーマンスだ。
 全く、昔っからこの人の発言や行動は困ったものだと思う。理樹くんは喜んでいるみたいなんだけど、あたしは実はちょっと苦手。悪い人じゃないのは分かってるんだけど、何となく生理的に受け付けない。はて、何でだろう?
 って、そんなことはどうでもいい。今は理樹くんに話しかけないといけないのに。他の三人に気付かれないようにずっとタイミングを探っているのに、あいつら全然理樹くんから離れようとしない。このホモセクシャル共め。
 悶々としながら、校舎に入るとチャンスはやって来た。恭介さんとは階段で別れ、あたし以外の三人が自分たちのクラスに入ろうとしている。順番は理樹くんが最後。
 今だ。あたしは理樹くんの袖を掴むと、一気に階段の踊り場まで引き摺った。
「さ、沙耶。どうしたのさ、一体?」
「理樹くん。放課後、大事な用があるの。みんなと遊んだ後でいいから、夕方、屋上に一人で来て。あと、この話はみんなには内緒。いいわね?」
「え、と・・・うん。わかった」
 理樹くんは何かを察したのだろう。真面目な顔になって約束してくれた。
 夕方か。長い一日になりそうね。

 いつものように午前の授業を受け、クラスの友達と昼食を摂り、午後の授業を受けた。本当にいつもどおりの一日。でも私の心は、期待と不安でそれどころじゃなかった。おかげで授業中、先生に当てられて英文を読もうとしたら違う教科書を開いてしまっていたり、体育のバレーでも凡ミスを連発したりで散々だった。
 そんなこともあったけれど、今はもう夕方の屋上。あとは理樹くんを待つばかりだ。
 理樹くんは一人で来てくれるだろうか。彼を信用していないわけじゃない。あいつらがこんな話を嗅ぎつけると何をしでかすかわからない。それが心配だった。
 フェンスから外を見渡す。部活を終えた自宅生たちがぽつぽつと帰っていく。もう、彼らも遊び疲れて寮に戻っている頃合だろう。
 ―――ここ最近、いやもっと昔からだったかもしれない。ずっと、理樹くんに言いたいことがあった。でも、あたしは彼に拒絶されるのが怖くて、ずっと言えずじまいだった。いつかは言わなければならないことなのに。だけど、今日はもう、理樹くんに告げると決めたんだ。後戻りはできない。覚悟を決めろ、あたし。
 軋む音がしてドアが開く。そこには、あたしの待ち人、理樹くんが居た。
「あ、ごめん。恭介たちに気付かれないようにしてたからさ」
「遅ーい。もう待ちくたびれたわ」
 二人とも黙り込む。空は真っ赤に染まり、カラスの鳴き声が寂しく聞こえた。あたしはカラスが何羽いるのかと鳴き声をもとに数えていた。一羽、二羽、三羽。
「・・・・・・ねえ。あたしたち、いつから一緒だったっけ?」
「え、あ、そうだね。小学校に上がるよりも前だったんじゃないかな?だから十年以上前だね」
「十年か、・・・・・・そうだね。色々あったね。途中から恭介さんたちと一緒に遊ぶようになって、リトルバスターズなんて変な名前付けて。中学入ってから、それまで一緒だった鈴ちゃんがクラスの女の子と一緒に遊ぶようになって、あたしたちから離れていって。少しずつ色んなものが変わっていった。・・・・・・理樹くんは気付いてないかもしれないけど、あたしの中でも色々と変わっていったんだよ?」
「・・・・・・そっか・・・・・・」
「今日は、そのことを伝えに来たの」
「・・・うん」
 あたしは自然に理樹くんの目の前に歩み寄る。顔と顔が触れ合いそうな距離まで近づく。理樹くんの瞳にあたしが映ってる。緊張しているのが丸分かりの情けないあたしの表情。さらに近づき、理樹くんの耳元に囁く。
「・・・・・・理樹くん。あたしね、もうここから出ようと思うの」
「え?」
 理樹くんが変な声を上げる。それはそうだ。この場の流れとは全く関係のない言葉だったのだから。
「沙耶。どういうことなの?意味がわからないよ。ここって、この学校のこと?」
 わたしはかぶりを振った。
「ううん。違うの。ここっていうのは、この世界のこと」
「せ、世界って何?答えになってないよ、沙耶」
「あたし、知ってるのよ。あなたが、本当の『理樹くん』じゃないってこと」
 この言葉を聞いた途端、理樹くんがびくんと身を震わせた。段々と目の色が変わっていく。さっきまでの理樹くんとはまるで違う、ガラス球を思わせるような無感情が瞳に映っていた。
「―――いつ、気付いたの?」
「多分はじめっから知ってたのよ。ただ、子供の頃はそんなこと、すっかり忘れてた。でも、段々成長するにしたがって、思い出してきたのよ。この世界はあたしが望んだものなんだって。ここは、あたしが得られなかった子供時代を永遠にやり直せる、ネバーランドなのよ」
 夕日が眩しい。こんなことで言うためじゃなければ、ここはとても素晴らしい場所なんだろうけど。
「・・・ねえ、『理樹くん』。このまま時間が経つと、この世界はどうなるのかしら?あたしの予想が正しければ、またあなたに初めて出会うところまで戻ると思うんだけど。・・・・・・今のあたしはこれで何回目?」
 ずっと、沈黙を続けていた重い口が開かれた。
「さあ?知らない。僕にはそんなこと関係ないし」
 あたしたちの影が長く、長く伸びている。
「―――で、どうして?」
「え?」
「どうして、沙耶はここから出たがるの?出たらどうなるのか、って知ってるの?」
 あたしは目を瞑って、少し間を置く。自分の中で決めたことを再確認するために。
「ええ、もちろん。知らないのに出ていこうなんて言うほど、あたしはバカじゃないわよ」
「僕には、それがわかってて出ようとする沙耶が理解に苦しむよ。どうしてわざわざ死ににいくの?」
「・・・・・・あたしが、生きるためによ」
「全然分からないな」
「あたしは、生き方を誰にも決められたくないの。自分の意思で、決めたいのよ。それがたとえ、ほんの一瞬だったとしても」
「この世界は、沙耶を中心に回っているんだよ?だから、ここで生き続けることでも、沙耶の意思で生きてるって言えるんじゃないかな?」
 あたしは彼の言葉にかぶりを振った。
「そういうことじゃないの。確かにここは、本当に幸せな世界よ。誰も苦しまず、何も失わない。でも、ここにはきっと、あたししか存在していなくて、未来なんて存在しない。あたしにはもう、ここがただ綺麗な箱庭にしか見えないのよ。そんなところにかごの鳥みたいに閉じ込められて、それって生きているって言える?」
「――僕には分からないよ。僕たちは、生きていないから。沙耶が願った日常を作ることだけしかないから」
 あたしは彼の肩を両手で掴む。
「ねえ、だったらあたしのわがまま、聞いてくれないかしら?きっとこれが、最後のわがままになるから」
「――死ぬのは怖くないの?」
「怖いわよ。そんなの怖いに決まってるじゃない!」
 あたしの手が彼の肩を握りしめる。鼻の奥が痛い。何でこんなときに悲しくなったりするのだろう。彼の顔が歪んで見えた。
「でも、あたしは、ここで永遠に生き続ける事のほうが、怖いの・・・・・・」
 涙があたしの頬を伝う。それがあたしの体から離れ、地面に落ちていくのをしばらく眺めていた。
「―――いいよ」
 あたしは顔を上げ、彼の顔を見る。彼は無表情のままだった。
「部屋に、出口を用意しておくよ」
 あたしは彼の体を抱きしめる。
「ありがとう・・・・・・」
「沙耶が望んだことだから。当然のことをしてるだけだよ」
「違うの。今まで一緒にいてくれて、ありがとうってことよ」
「僕は、『直枝理樹』じゃないんだよ。ずっと、沙耶を騙してきたんだよ?」
「ううん。それでもよ・・・・・・」
 彼の体はあたたかかった。あたしは夕日が闇夜に変わるまで、彼の体温を感じていた。

 部屋に帰ると、机にショットガンが立てかけてあった。
 薄暗い部屋、電気も付けずに、あたしはショットガンを手に取る。レミントンM870。これがこの世界からの出口か。前も似たようなものだったけど、これじゃあ完全に往年の有名ギタリスト(もっとも、彼がどんなショットガンで頭を打ち抜いたのかは良く知らないけど)だ。理樹くん。やっぱりあなた、ちょっと頭おかしいわ。
 安っぽいラジカセの電源を入れる。ディスプレイが青白く光って、それが辺りを更に暗くする。スピーカーからロックの音が聞こえてくる。物悲しさと焦燥感で満ち満ちた、綺麗だけど病的なメロディ。
 あたしは弾丸を装填する。ベッドサイドに座ると靴下を脱いで、足の指でショットガンの引き金を挟み込む。銃口を口に咥える。
 目を瞑り、音楽に浸る。

 父さんは傲慢な人だった。
 自ら戦場に赴き、数々の人を救う。初めはあたしも、そんな父さんを尊敬していた。だが、何年も何年も父さんと共に戦場を渡り歩いているうちに、あたしの考えも変わっていった。
 戦場で負傷した兵士。限りがある麻酔をなるべく使わないようにと、麻酔なしで彼の体にメスを入れ、傷口を縫う父さん。数日間、高熱にうなされる兵士。兵士から「ありがとう」言われ、顔を綻ばせる父さん。数日後、再び戦場に赴き、今度は両足を失い、腸がはみ出した状態で担ぎ込まれる兵士。
 あたしの居た世界には、非人道があふれかえっていた。
 地雷避けとして使われる少年兵。兵士たちの慰み者として、犯され搾取される少女たち。戦闘に参加できないよう、両手を手首から切り落とされた村人。エスニック・クレンジングの名の下に焼き払われた集落。横行するドラッグ、HIV、リンチ、虐殺。あの世界では人の命はAK47よりも安く、場合によるとその弾丸なんかよりも安かった。
 今になって思うと、父さんもまた、間接的にそうした非人道行為に手を貸していたのかもしれない。兵士らの怪我を治し、何度も何度も人殺しに行かせていた父さん。あの兵士のことを思うのなら、父さんは彼に麻酔薬をたくさん注射して、安楽の中で終わらせてあげるべきだった気がする。
 何度か父さんに、どうしてわざわざ戦場までいって人の怪我を治すのかと尋ねたことがある。父さんは、少し考えたあと、こう答えていた。
 戦場では多くの人が怪我や病気で苦しんでいる、だからそういう場で少しでも人々の役に立ちたかった。
 父さんは日本の医療現場に居場所を見つけられなかったのだろう。派閥争いや医局内政治に否応無く巻き込まれる大学病院。人手不足で忙殺される公立病院。設備投資が嵩み経営難に陥る個人病院。根気良く探せば、きっと良い職場にも出会えたのかもしれない。しかし、父さんはそんな現実的な選択を否定したのだ。
 あるいは、人を助けることに疲れてしまったのかもしれない。医療技術が高度に発達したから、出来て当たり前のことがどんどん増えていく。出来て当たり前だから患者もありがたがったりしない。だから父さんは、注射一本、縫合一回でこちらが驚くほど喜んでくれる場所に逃げ込んだのかも知れない。
 父さんは傲慢で、弱い人だった。
 子供は親を選べない。あたしは、そんな子供のひとりだった。父さんのことは嫌いじゃない。むしろ好きな方だと思う。だけど、今はこう言って、中指を立ててやりたい。
 見たくも無い世界を見せてくれてありがとう。巻き込まれた人の気持ちになってみろ。マスターベーション漬けの豚。
 この世界のことを思った。
 あたしにもあったかもしれなかった、幸せな時間。
 でも、この世界にずっといれば、あたしも父さんと同じになってしまう。
 それに、どこかの誰かに与えられた幸福なんて、あたしはまっぴらゴメンだ。
 あたしのことは、あたしで決める。押し付けられてたまるか。この世界にも中指を立ててやる。

 スピーカーから流れる音楽は転調し、酷く歪んだギターリフに入る。
 それに合わせて、あたしは引き金を引いた。
 散弾が、あたしの、脳髄を、粉砕する―――





 ―――顔が冷たい。水が当たっている。
 ぽつぽつぱらぱら、ぽつぽつぱらぱら。
 雨が降っている。あたしの元に雨が降っている。高いところから。それはそれは高いところから。
 あたしは目を開ける。目を覚ますと白い天井が見えたって表現があるけど、それって幸せな表現だと思うの。だって、起きて目の前が冷たい土の上ってこともあるんだからさ。
 全身が痛くて冷たい。あたしは体を芋虫のように動かして這いずり出ようとする。だが、何かが引っかかって動かない。土に埋もれて動かないのかと思っていたら、事態はもっと絶望的なものだということに気付く。建設資材があたしの背中から突き刺さって、胴体を貫通し、地面に縫い付けられていた。あまりに重傷すぎて、逆にそこだけ痛みを感じていない。
 これが現実か。
 さて、何をしようか。もう、あの夢の中じゃないから、時間は限られている。砂時計の砂が落ちきるまで、あたしの血が流れつくすまで。
 ああ、そうだ。空でも見よう。思いつきで動く。こんな最後もいいんじゃないかな?
 上体をよじって、空を見上げる。幸福なことに雨は止んでおり、雨雲の隙間から、月の光が差し込んでいた。
 赤い、赤い月だ。
 たった、これだけ。それでもこれが、これこそがあたしが生きた証なんだ。あたしが初めて、自分で選んで、自分で手にしたものだ。
 いや、もうひとつあった。あのとき、理樹くんに出会えた。それがたとえ夢幻の話であろうと、その事実だけは、永遠にあたしのものだ。
 目蓋が重くなる。眠気が襲ってくる。砂時計の砂が終わりを告げる。きっとこれが最後だろう。
 ありがとう、理樹くん。

 おやすみなさい。
 


[No.314] 2009/08/07(Fri) 23:25:46
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[No.315] 2009/08/07(Fri) 23:27:00
マッスルKYOUSUKE〜壮絶な修行はあえて巻きで〜 (No.303への返信 / 1階層) - ひみつ@1743byte

「理樹好きだーーーーーっ結婚してくれーーーーーっ!!」
「却下」
「何故だ!?」
「察してよ」
 冷たい目で見られた。そのまま理樹はすたすたと去って行った。
「なんでだ、なんでなんだよ!」
 俺は一人中庭で体育座りをしながら反省会を開いていた。お題は、理樹が何故俺の愛を受け止めてくれないのか、だ。けど一向に思いつかない。俺の何がいけないんだろうか。謙吾とか真人とか鈴にも話したが白い目で見られた。
「恭介さん、それはですね」
 さっきから遠くで読書をしていた西園が声をかけてきた。
「ずばり筋肉だと思います」
 西園の目が『筋』という文字に変わっている。さっき真人が「筋肉いぇいいぇーい!」と言いながら走って行ったのと何か関係があるのだろうか。
「古来より筋肉は正義、と決められているほどに筋肉の影響は素晴らしいものです。筋肉の歴史について話しますと…」
「ありがとう西園、俺は立派な筋肉をつけて理樹告白してみるぜ!」

 数ヶ月後

「理樹、これが俺の本気だ」
「うわぁ…」
 そう言って理樹が後ずさりする。なんでだ。真人にも免許皆伝をもらったお墨付きなのに。いまなら秘孔だって突けるぞ。
「こんなこともできるぞ、ほら高いたかーい」
「え、っちょ、うわぁぁぁぁぁ…」
 あれ、理樹が落ちてこない。そのまま点になって空に消えた。
「お、俺は何てことを!もう死ぬしかない」
「まぁ焦んなって恭介」
 木の陰からぬおっと真人が出てくる。ほふく前進しながら。
「真人…じゃあ逆に問おう、俺はこれからどうやって生きていけばいい」
「そんなもん、筋肉に生きるしかないだろ、ほら、筋肉筋肉ー」
「真人…お前は最高の友達だな!よし、筋肉筋肉ー」
 と言っていると、上から隕石よろしく燃えながら落ちてきた理樹にヘッドバッドを喰らって俺の意識は途切れた。

「棗くーん?起きてるー?」
「ん…今何時間目だ…?」
「もう放課後よ、それよりどうしたのー?なんかうなされてたわよー?」
「楽しい夢だったような…そうじゃなかったような…」
「ふーん」
「ただしこれだけは言える」
「何?」
「筋肉最高!」


[No.316] 2009/08/07(Fri) 23:39:58
DB! Z (No.303への返信 / 1階層) - 光る雲を突き抜けたひみつ@12021 byte

 《前回までのあらすじ》

 オッス、オラ直枝理樹! 十八歳(エクスタシー的な意味で)!
 いま、恭介発案の『バトルランキング』中なんだ。
 今日の対戦相手はクド。
 武器に恵まれて、いい感じにフルボッコしてたそのとき、木の上から高笑いが!
 その正体は来ヶ谷さんだった。
 キムチをまき散らしながら跳び下りた彼女は、クドに高らかに告げた。
 「クドリャフカ君、こうなったらフュージョンだ!!」
 ……うん。オラ、なんだかアチャーって気分になってきたぞ!
 そんじゃ、いっちょ始めっか!










「で、ホントにフュージョンしちゃったんだ」
 僕は目の前の少女――来ヶ谷さんのようなクドのような――を指さしてそう言った。










   DRAGON BUSTERS! Z
           幻のフュージョン編










「いやいやいや、ありえないでしょ」
 沙耶さんがツッコんできた。うん、普通はそういう反応になるよね。ありえないもんね。でもね、悲しいけどこれ、本当なのよね。
 いま現在、リトルバスターズのみんなが僕の部屋に集まっている。
 話題と部屋の中心には、もちろん先ほどの少女。
「能美と来ヶ谷か……この場合、能ヶ谷になるのか」
「いや、来リャフカじゃね?」
 早くも適応した謙吾と真人が、名前をつけ始める。
『ふむ……どちらかと言うと来リャフカのほうが好ましいのです』
 来ヶ谷さんのようなクドのような少女――来リャフカ――はお茶を飲みながらのんきに答えている。
『少年、なにかお茶菓子はないのですか?』
「たしかようかんがあったはずだけど……」
 部屋の隅の冷蔵庫にいき、なかを確認する。あった。
 ちゃぶ台がわりのダンボールの前に正座している来リャフカに、ようかんをさしだす。
 それを見た小毬さんが、さらにお菓子をさしだす。
「ついでにチョコパイもどうぞ〜」
『小毬君、ありがとうなのです』
 両方とも一口ずつ食べ、お茶を飲んでほうと一息。
「って神北さんはなにを落ち着いていらっしゃいますの!?」
「そうよ。人がフュージョンしちゃってるのよ? ありえないでしょ? ありえないわよね? 私間違ってないわよね!?」
「……笹瀬川さんも二木さんも、少し静かにしてください」
「美魚は逆に落ち着きすぎだと思うけどなー」
 佐々美さんと佳奈多さんがヒートアップするのを、西園さんと美鳥がたしなめる。
 ……美鳥はどちらかというと状況を面白がっているだけの気がする。
「ひとつ確認したいんだが……本当に、来ヶ谷と能美なんだな?」
「うん。恭介も信じられない?」
「いや、理樹が言うんだから、この女子は来ヶ谷と能美なんだろ。おっと来リャフカだったか」
 そう言って恭介は来リャフカを見る。僕もあらためて来リャフカの姿を見る。身長は僕の肩より少し上ぐらいで、瞳は大きな猫目。胸囲は平均的。声は、来ヶ谷さんとクドが同時にしゃべっているように聞こえる。そして特筆すべきは、腰まである長い髪。生え際から肩口まではクドの亜麻色で、そこから線を引いたかのように毛先までカラスの濡れ羽色――来ヶ谷さんの髪の色になっている。
 要は、本当に来ヶ谷さんとクドの中間の容姿・体型をしているのだ。
 思わずつぶやく。
「なんと言うか成長したクドみたいだね」
「ああ、ちっちゃくなった来ヶ谷だな」
 同時に、恭介もつぶやいた。

 ……………………。

「おいいいぃぃぃぃ?!! なんでお前ら無言で離れるんだよおおおおぉぉぉぉ!!」
「いや、恭介は恭介だな、と思ったまでだ」
「どーいう意味だよっ!?」
「いや、だって……なぁ?」
「わざわざ『ちっちゃい』の方を強調なさるなんて……」
「狙ってるとしか思えませんネ」
「狙ってねえよ!!」
「クドリャフカ、じゃない来リャフカ、こっちへ来なさい」
『そうだな。ここは戦術的撤退といくのです』
「こまりちゃん、あたしのうしろからでるな。きょーすけはへんたいだ」
「ふえぇ!? きょーすけさんって変態さんだったの?」
「そーだよー。小毬みたいな可愛い女の子は、すぐ食べられちゃうんだから」
「変態じゃねえし食べねえし! つうかそんなこと言ったら男はみんな変態だ!!」
「やっぱり(21)だったんだね。僕も気をつけなくちゃ」
「あ、じゃああたしは関係ないわね。よかったー(21)体型じゃなくて」
「朱鷺戸さん、それは私に対する宣戦布告と受け取りました」
「誰か俺の話を聞けよ頼むから!!」
 とうとうその場に崩れ落ちる恭介。
 その肩にぽん、と手を置くドルジ。……ドルジ?
「こら。おまえがくるとせまいだろ。でてけ」
「ぬぅー」
 窓から半身だけ入っていたドルジが、鈴に押されて外にでる。ぴしゃん。閉まる窓。恭介、またひとり。
「……ねーねー理樹くん理樹くん。いまさらかもしれなくてちょっと恥ずかしいかなー、なんて思ってるんだけど……なんと言いますかですね」
「なに?」

「フュージョンって、なに?」
【え?】

 この場のみんなが、口を『え』の形に固定する。
 フュージョンを知らない……だと……?
「え、え、え? なにこれ? 私聞いちゃいけないことを聞いた?」
「葉留佳、本当にフュージョンを知らないの?」
「お姉ちゃんは知ってるの?!」
「はるかはフュージョンをしらないのか」
「さすがです、三枝さん」
「葉留佳って意外に無知無知ギャルなんだねー♪」
「鈴ちゃんもみおっちもみどちんも、はるちんを馬鹿にしてるのかー! むきーっ!!」
 ばしんばしんばしーん、とまくらに八つ当たりしだし、しまいにはまくらを抱きかかえてうなりだす。……それ、僕のなんですが。
「うーっ、うーっ、うーっ!!」
「まくらをかかえてうなる葉留佳……ハァハァ」
 妹に欲情しないでください佳奈多さん。
 見かねた沙耶さんが、フォローを行う。
「フュージョンって言うのはね、有名な少年マンガにでてくる合体技のことよ」
「……私、そんなにマンガ読んだこと、ないから」
 そうなんだ……以外。
 葉留佳さんは大量にマンガ読んでるイメージがあったんだけど。
「それなら、知らなくてもしかたありませんわね」
『ほら、元気をだしたまえ葉留佳くん。おねーさんは笑ってる葉留佳くんのほうが好きなのです』
「うん……ありがと」
 ふたり(三人?)に励まされても、葉留佳さんの顔は晴れなかった。きっと、自分だけ知らないということが寂しいんだろう。
 僕は謙吾と真人に目配せした。真人は筋肉を見せてきた。違うから。謙吾は力強くうなずいてくれた。頼もしい。
「三枝、フュージョンをするときどう動くかも知らないんだな?」
「……知らない」
「なら見せてやろうじゃないか。……真人、覚えているな?」
「もちろんだ。ガキのころに血豆ができるくらいさんざん練習したからな。オレが忘れてても筋肉が覚えてるぜ」
 ふたりは適度な距離をとり、構えた。そしてはじまる、謙吾によるフュージョンレクチャー!
「フュー……」
「手のひらは伸ばし、両腕で半円を描きながらお互いに近づく。このときのポイントは二つ、がに股であることと三歩で近づくことだ!」
「ジョン!」
「こぶしを握りながら水平に腕を振り、片足を上げる。ポイントは、相手とは反対側の足を上げること!」
「はっ!!」
「人さし指をだし、上げた足を外に伸ばして横に傾き、相手と指を合わせる。ポイントは三つ! 指を曲げない! 上の腕はきれいなアーチを描く! そして……羞恥心を忘れろ!!!!」
 完璧だった。まだ小さかったころ、無駄に暑いなか公園で延々と練習していた、あのころのフュージョンだった。
 つい拍手をしてしまう。つられるようにみんな――葉留佳さんも拍手をする。その顔は笑顔だった。
 やりとげた漢の顔で、ふたりはにやりと笑い。

 その体がまぶしい光を放った。

 とっさに目を閉じ、顔をかばう。
 光は数秒で収まった。まだ少し痛みの残る目をゆっくりと開いた。
 そこには、ひとつになった影が。
「まさか……本当にフュージョンしたと言うの!?」
「ああああありえませんわ! 宮沢様はどこに行かれたの!?」
 影がゆっくり立ち上がる。その存在感に、体が震える。
「もともと強い井ノ原くんと宮沢くんがフュージョン……」
 つぶやいた沙耶の言葉に、戦慄が走る。まず間違いなく、それは最強の……。
「オレが……真吾だ!」「俺が……謙人だ!」
【最強にキモイ!!!!】
 みんなの言葉がフュージョンした。
「ちょ、待てよ! なんでそうなるんだよ!?」「キモイとは聞き捨てならんな」
 僕は机の上から手鏡を取って、目の前の人物――謙人? にわたした。
 謙人は鏡をのぞきこみ、そして絶叫した。
「キメエエエ!?」「俺が半分になってるだとおおおおお!!?」
 そう。左半分が真人で、右半分が謙吾という、ひとことで言うならあしゅら男爵がそこには映っていた。
 しかも、左から真人右から謙吾の声がステレオで聞こえてくる。しかも別々の動きをして別々の言葉を話している。やっぱりキモイ。
「てんめえ、なにか動き間違えたんじゃねぇか?」「真人、筋肉が覚えているのではなかったか?」
「人のせいにすんのかよ!」「人のせいにするんじゃない!」
「なんだやんのかてめえ」「俺は完璧だった。つまり真人が間違っているしかないんだ」
「ふざけんなよ、オレは間違ってねえ!!」「上等だ、やってやる!!」
 右手が左の襟首をつかみ、左手が右の襟首をつかみ、お互いが威圧しようとその場でぐわんぐわんとあばれだす。
 外から見ていると、非常にシュール。これが本当のひとり相撲。
「きもいからそとでやれ!」
 鈴のドロップキックが炸裂し、謙人が窓に吹っ飛ぶ。タイミングよく来リャフカが窓を開け、閉める。
 今日は水玉。
『さて、これで本当にフュージョンできるということが照明できたのですが』
「信じられないけど、」
「信じるしかないようですわね……」
 半信半疑だった佳奈多さんと佐々美さんが、しぶしぶといった感じでうなずく。
 かと思いきや、急に佳奈多さんは鼻息荒く葉留佳さんの肩をつかんだ。
「葉留佳、私とフュージョンしましょう」
「ええ!? いいいいきなりどうしたの?」
「葉留佳、私とフュージョンしなさい」
「命令形!?」
「名前はそうね、葉留佳奈多になるのかしらね」
「長いよ、無駄に長いよ!? そこはせめて佳奈佳とか葉佳多とかじゃないの!?」
「いっそのこと二三木枝葉留佳佳奈多なんてどうかしら?」
「もっと長くなったー!? あれ、ちょっと、お姉ちゃん怖いよ理樹くん助けてーっ!!」
 あばれる葉留佳さんを佳奈多さんが押さえつける。ごめん、僕には見ていることしか出来ないよ……っ!
「……美ー魚っ♪」
「いやです」
「まだなにも言ってないじゃない」
「絶対にいやです。拒否です。ノーです」
「ぶー。少しぐらいいいじゃん」
 こっちはこっちで合体しようとする。名前は鳥魚になるのだろうか。ふたりなのにトリオとはこれいかに。
「なんだか大変なことになってきたわね……」
「馬鹿騒ぎしている点ではいつもどおりだけどね」
「はぁ……直枝さんの冷静さを、少し分けてもらいたいぐらいですわ」
 沙耶さんと佐々美さんと少し離れた場所で、騒ぎを眺める。あ、鈴が小毬さんをさそいだした。
 そうしていると、来リャフカが近づいてきた。
『ところで少年、前々から疑問に思っていたことがあるのです』
「どうしたの」
 そして、さらっと爆弾を投下する。

『男性と女性がフュージョンした場合、いったいどうなってしまうのでしょう?』

 凍った。空気が。エターナルフォースブリザード。
「フュージョンすると、お互いの特徴を足して二で割ったような容姿になる……まあ真人と謙吾は馬鹿だから例外な」
 いつのまにやら復活していた恭介。その目が怪しく光る。
「例えば理樹と誰かがフュージョンしたとする。すると…………女の子らしい理樹が出来上がるわけだな」
「理樹」「理樹くん」「理樹くん」「直枝さん」「理樹君」「直枝さん」「直枝」「理樹くん」
【私(あたし)(わたし)(わたくし)とフュージョンして!!!!】
「えええええええーーー!!??」
 恭介が発言したとたん。女子陣の目の色が変わり、詰め寄ってくる!!
 そんなに女の子っぽい僕が見たいの!?
 じりじりと包囲網が狭まる。怖い。特に恭介。目のハイライトが消えている。鼻息荒い。超怖い。じりじりと後ずさる。
 どうやって逃げだそう? ドアは僕の背中にある。振り向いて、ノブをひねって、ドアを押して……ダメだ。どんなに早くしてもその途中で……下手したら振り向いた瞬間につかまってしまう。
 唯一包囲網に加わっていない来リャフカを見る。
『はっはっはっ……です』
 助けてくれそうに無い。
 どんなに考えても、ここから脱出できる気がしない。もしつかまったら……? 無理矢理にでもフュージョンさせられてしまうのだろう。そうして女の子っぽくなった僕に、みんなは……。
 ん? どうするんだろう? 僕がちょっと恥ずかしい思いをするだけで、別に実害は無
「俺、理樹をフュージョンさせたら……ハァハァ……」
 よし逃げよう絶対逃げようとことん逃げよう。
 背筋に液体窒素を流しこまれたような悪寒が走ったよ。
 じりじりと狭まる包囲網。じりじりと後ずさる。じりじりと、じりじりと。じりじりと、じり、
 背中がドアにぶつかった。
 とっさにノブを探す。焦る。見つからない。
 終わった。終わる。もうすぐ。
 近づく手。無数の。
 少しでも離れようと、ドアに体を押しつける。
 手が、体に、
「ふぅ、汗をかくって気持ちいいぜ」「なかなかに有意義な時間だった」
 触れるまえにドアがひとりでに開いた。謙人。よかった、ひとまず仲直りしたみたいだ……じゃなくて!
 倒れそうになる体を無理矢理起こし、その場から走りだす!
「謙人! 好きだよ!!」
「え? おう、ありがとよ」「俺も大好きだぞ、理樹っ」
 ピンチから助けてくれた謙人に声をかけてから、廊下の角を曲がり、そのまま一気に外へ!
 隠れる場所、逃げ切れる場所を探して僕はひた走る。
 そして――僕は、逃げ切れる方法を、見つけた。

「――ドルジ!!!!」
「ぬおっ!!!!」

 先に別のものとフュージョンしてしまえばいい!
「フュー……」
「ぬきゅっ!」
【はっ(ぬおー)!!!!】
 これで恭介……じゃない、変態から逃げ切れる!!










 《次回予告》
 これが、ツンデレおしゃまな男の娘、スーパーねこみみメイド人、ドル枝の誕生の瞬間であった!
 逃げ切れてないぞドル枝! むしろパワーアップしてるぞドル枝! 実はメスだったぞドルジ!
 頑張れ、ドル枝ぇー!!




 まだもうちょっとだけ……続かないゾイ。


[No.317] 2009/08/08(Sat) 00:00:19
ホラーでうわーで冷やー (No.303への返信 / 1階層) - ひみつ@11893byte

「そういえばこんな話知ってますか?」
 葉留佳さんがずいと顔を近づけてくる。
「なんの話なのですか?」
 クドが興味津津と言わんばかりに聞く体勢をとる。僕もとりあえず興味があるので耳を傾けてみる。
「ここが廃墟になった話」
「わふー…私はそういう話は苦手なのです…」
 まぁまぁいいから、とクドの話も聞かずに自分の話をし始める。
「今は見る影もないけど、昔はかなり外見もよくて中もしっかりしてた病院だったんですヨ」
 それなりの雰囲気を纏って葉留佳さんが話し始める。クドは僕の服の袖を握って震えている。
「けど事故が起こりましてね、妊婦の中絶の手術に失敗してしまったらしいんですよ」
 葉留佳さんは「その患者が住んでいた病室がここだったらしいです」と言って個室のドアを指差した。
「その人たちはどうなったの?」 
「母子ともども死んでしまったらしいんですネ、今じゃ考えられない話ですけど」
 それで、と葉留佳さんは次の句を継ぎ始める。
「それから変な噂が起こったのですよ、死んだお母さんが霊安室から出てくるのを見た人がいるって、そのせいで転院する人は続出」
 聞いているこっちはもう真剣に怖い。僕だってもう、足ががくがくしても仕方ないぐらいのレベルまで来ている。クドも同じなのだろう、手が小刻みに震えている。
「そして不審に思った看護師さんがその噂を確かめに行ったらしいんですよ」
「そ、それでどうなったのですか?」
「見たんだって、こう、下をうつむきながら」
 と言って葉留佳さんはうらめしやーのポーズをとる。
「私の子供はどこ…?私の子供はどこ…?って霊安室から自分の部屋まで歩いていく人を」
「…ふわぁ」
 クドがきゅーという擬音語を立てて倒れる。背中に床に腕をまわして倒れないように抱えてあげる。
「ありゃ、やりすぎちゃいましたかね」
 そう言って葉留佳さんはクドのほっぺたをぐにぐにする。クドはほっぺがむにむにされても嫌そうな顔一つしないで気を失っている。
「起きないと理樹くんにパンツ見せちゃうぞそれでもいいのかー?」
「僕は見ないからね」
 とりあえず反論しておく。見たくないわけじゃない、見たくないわけじゃないけど、今後の僕のアイデンティテーに関わる。
「ちぇ、真面目だなぁ理樹くんは」
 葉留佳さんはクドのスカートをめくり始めていた。それを手で制止する。
「そんなんじゃ将来ハゲリータ星人に髪の毛焼かれてハゲにされちゃいますヨ」
「いないからそんな星人」
ちっ、っと舌打ちをして仕方なさそうに手を離した。…白かという声が聞こえた気がするが、あえてスルーした。
 クドは倒れたっきり目を覚まさない。かすかな吐息が口からこぼれている。
 …はぁ。
 
 今僕たちは病院の廃墟へキモ試しをしに来ている。それというのも、前回のキモ試しで来ヶ谷さんと恭介がすっかり意気投合してしまったせいだ。
「キモ試し最高!」
 恭介はこの日のために三日三晩徹夜で頑張ったらしい。さっきからランナーズハイになってて怖い。来ヶ谷さんはさすがにそこまでしなかったみたいだけど。 
 じゃんけんの結果、僕・クド・葉留佳さん、謙吾・小毬さん・西園さん、そして真人という三ペアになった。
 真人が単独なのは単にグーパーでチョキを出したからなのは割愛しといたほうがいい気もする。しきりに「仲間なんて…ブツブツ」と言って柱の後ろですねていた。
 左回りと右回りのコースに分かれていて、僕たちは左回りになった。謙吾が右回り、真人は先に左回りで行くらしい。
「まぁ俗なものしか置いてないから安心してハーレムしてこい少年」
「いやいやいや…」
 クドが葉留佳さんに脅かされて逃げ回る様子が目に浮かぶ。葉留佳さんってそういう話になるとやけにSになるからなぁ…。
「前回と同じで札をとって持って帰ってくることがルールだ」
 そう言って恭介は内ポケットから一枚の札を取り出した。
『(21)最高!』
 と書かれていた。間違えた、と言って幾何学的な模様が描かれた札を取り出した。さっきの札は何だったんだろう。
「これがこの地図の赤い印が付いてる部屋に置いておく。部屋のどっかにあるから勝手に探してくれ」
 みんなに地図が配られた。おどろおどろしいデザインの地図の中に丸印が書き込まれている。
「じゃ、ミッションスタート!」

 そういった経緯でここにいるわけなんだけど、最初から問題ありまくりなのだった。 
 トラップは怖いし葉留佳さんがちょいちょい脅かしてくるしそのせいでクドは倒れて目を覚まさないし僕はクドを背負っていく羽目になっていたり。
 この二階に着くまでにいろいろあったのだ。
 おいしくない。来ヶ谷さんから見たらおいしいかもしれないがマッスルエクササイザーセカンド並みにおいしくない。
 クドが軽いのが唯一の助けだった。背中に圧迫感がないのが悲しいけど。
「まぁ気楽にいきましょうヨ」
「葉留佳さんには一番言ってほしくなかったよ」
 そう言って歩き出す。葉留佳さんが言ういわくつきの病室の中へ。
「そう言えばさっき言ってた話って本当なの?」
 恐る恐る聞いてみる。
「ああ、あの話? 残念ながら本当だよ」
 足が止まる。そう、なんだと言って病室の中を見る。てっきり葉留佳さんがついた嘘だと思ってたからその、なんだ。
「もしかして怖いんですか?」
「い、いや、そういうわけじゃ」
「もうかわいいなー理樹くんは、大丈夫ですヨ、もし幽霊が襲ってきたら私が退治してあげるからさ」
 はるちん砲!と言ってかめはめ波のポーズをとる。正直な感想だが頼りない。ここはやっぱり男の子である僕がリードしなければ。
「じゃあ行くよ」
 僕は意を決して病室の中へ足を踏み入れた。
 病室の中は傍から見ても状態がひどかった。ベッドは足が破壊されているし、壁にはカビがびっしりと生えている。カーテンはぼろぼろに破かれていて意味を失っていた。
「この中に札があるはずなんだよね」
 葉留佳さんに言われて我に帰った。そういえば恭介がそんなことを言っていた。
「うん、そうだね、早く探してここから出よう」
「やっぱり理樹くんはかわいいなー」
 葉留佳さんにはやされながらも札を探しにかかる。こんな不気味なところから一刻も早く立ち去りたい。
「…」
 一番怪しそうなのはベッドなのでベッドから探してみる。ない。カーテンの上も探してみる。…ない。花瓶の中かなと思って花瓶の中を探る。…やっぱりない。
「…ないですね」
 葉留佳さんも懸命に探しているが見つからないようだった。僕もクドを入口に座らせて本気で探しにかかる。
 五分ぐらい探していると札はあっさりと見つかった。テレビの後ろに隠されていた。札はっけーんと言って葉留佳さんがテレビに近寄る。すると、
「ザ…ザザ…ザ……ザザ」
「ひゃあ!?」
 テレビが突然砂嵐になって雑音を出し始めた。葉留佳さんはその間僕にしがみつきながら目を閉じていた。数秒するとテレビはブツンと音をたてて静かになった。
「もう大丈夫だよ」
「ほ、ほんと?」
 と言って葉留佳さんの頭をなでる。少し涙目になっていたが僕から離れた。こういうのがおいしいのかもしれない。クドならその場で卒倒するだろう。
「もう目的も果たしたし早くこの部屋を出よう」
 葉留佳さんも首を大きく縦にふる。僕自身この部屋から一刻も出たかった。噂のこともあるし。
 と考えていると、また、ザザ…ザ、というノイズ音が聞こえてきた。テレビかと思って振り向いてみたけど、テレビは点いていなかった。
 ザザ…ザという音は テレビよりも少し手前の方から聞こえていた。
「理樹くん…」
 葉留佳さんは恐怖からか僕の手を握っている。でも考えてみればさっきのトラップもおそらく恭介が考えたものだ。だから今聞こえているノイズ音も恭介が仕掛けた罠に違いない。
「ちょっと調べてみるよ」
 僕は葉留佳さんの手をほどいてベッドの周辺を調べ始めた。
 足が壊れてるからベッドの下まで探す必要はない。ぐるっと見回してみると、その音がナースコールから出ていることに気づいた。
 ほら、これもトラップだよと葉留佳さんに言いかけた時だった。
「ワ……タシ…ノ」
 …ナースコールから声が流れてきた。
「ワタシノコドモヲカエセ」
 今度ははっきり聞こえた。「私の子供を返せ」。これじゃあまるで…。
 と考えたところで葉留佳さんに腕を引っ張られた。いきなり引っ張られたので肩が抜けそうになる。
「早くここから出よう!今すぐ!」
「い、いきなりどうしたのさ」
「つべもこべも言わずにとりあえずランナウェイ!」
 そう急かされたのでクドを背負って病室を後にする。ノイズ音もとい叫び声はまだ鳴り響いていた。
 とりあえず走る。葉留佳さんの顔は必至だ。
「なんで僕たち逃げてるのさ」
 走りながら状況を説明してもらう。息が上がってきたけどまだ走るみたいだ。
「あの噂には裏話があるんですヨ、中絶手術で死んだ母親のあとに入ってきた患者がいるんですけど、その人が四日後に死んでるんですヨ」
 僕は愕然とした。結構近場の病院だけど死亡事故があったなんて全然知らなかった。
「その死に方が腹を大きく切り裂かれて血まみれだったみたい、それ以来この病院は転院する人が増えて廃病院になったらしいの、その時にナースコールから今みたいなのが流れてたんだって」
 葉留佳さんは恐怖を顔一面に広げて話している。でも僕はその話を聞いて恐怖するよりもむしろ納得した。だって、
「その話、もし恭介が知ってたら今みたいなトラップ仕掛けるんじゃない?」
「……あ」
 葉留佳さんの足が止まる。 
「……」
「いや、別に怖かったわけじゃないですヨ、やはは」
「絶対完璧間違いなく本気でビビってたでしょ」
 そう言って笑い飛ばす。そうだよ、恭介ならこれくらいのことはやってのける。
 まだ後ろの方から「ワタシノコドモヲカエシテ」という音が聞こえるが、それはもう恐怖を煽るものにしか聞こえなかった。
「とりあえずこの地図どおりに回ろうか」
「そうだね、とっとと終わらせちゃおう!」
 後ろにクドを背負いながらそう言う。葉留佳さんもこうやって騙されたことで抗体がついたみたいだ。
「次は…霊安室だね」
「おっしゃーばっちこーい!」
 葉留佳さんがスキップしながら先頭を切って歩きだす。霊安室はこの階にあるのでさほど時間がかからなかった。
 霊安室の前にきた。
「ヘイもう幽霊でも妖怪でもかかってきやがれ!」
 そう言って勇ましく霊安室のドアを開ける。ギギ…という音をた重苦しい音を立てて扉が開いた。
「うわ、真っ暗で何も見えない…理樹くん懐中電灯貸して〜」
「あ、うん、はい」
 葉留佳さんに懐中電灯を渡す。葉留佳さんは札はどこかなーと言いながら懐中電灯で部屋の中を照らす。
「ん?」
 気になるものがあったのか、葉留佳さんが右手の方へ光を照らした。そこに、
 髪を腰よりも伸ばした女が台の上に横たわっていた。
「…」
 僕たちは顔を見合わせた。絶対あれだよね、うんうんアレアレと囁きながら。
「じゃ、じゃあ行ってくるよ」
「ファイト〜」
 クドを葉留佳さんに任せて、意を決してその女に近づいてみることにした。
 あと三歩、二歩、一歩…。
 目の前まで来た。よく見るとその女は患者が手術で着るような服装だった。顔は布をかぶせてあるため分からない。札はその布の上に置かれていた。
 絶対にコイツ動くだろ…でも札取らなきゃゴールできないし…あーーーーー!
 僕は恐怖心を振り払うのも兼ねてさっと布から札をとった。そして更なる試練に身構えた。
 ………。
 あれ?何も起こらない?
 と思ったのも束の間、
「きゃあああああああ!」
 葉留佳さんの方で悲鳴が上がっていた。もう一人入口付近に居たらしく、そいつが葉留佳さんを襲っていた。
 すぐに葉留佳さんのもとへと駆けつける。
「早く出るよ!」
 葉留佳さんの手を取りすぐさま出口へと向かう。これで札は全部のはずだったからもう帰れる。
 硬直している葉留佳さんと気絶しているクドを背負って一階への階段を駆け足で下る。
 もう少しだ、と思った瞬間、今度は階段の下から女が出てきた。
「ーーーっ!」
 ふらぁっと葉留佳さんが倒れる。クドを背負っていたので支えきれず、そのまま床に倒れた。
 徐々に女がふらふらした足取りで近づいてくる。
 仕方ない。こうなったらやけだ。
 僕は右手にクド、左手に葉留佳さんを抱いて今来た階段を逆走した。
お、重い…。クド一人までなら大丈夫だったけど葉留佳さんまで持つとなると限界だ。腕がぷるぷるしてきた。
 腕が死なないうちに反対側の階段を駆け下り、出口まで走る。
 ドアをバンッと荒々しく開けて出る。
「なんだ、遅かったな、他のグループはもう帰ってきてるぜ」
 そう言って恭介は迎えてくれた。他のメンバーはもう痴話話とかしながら僕らを待っていた。
「洒落にならないよ恭介…」
「まぁそう言うな、キモを冷やすには最高のお化け病院だっただろ?」
 クドと葉留佳さんを背負っている僕に言えるセリフなのだろうか。
「特に病室のトラップがね…」
「あれはつけるの苦労したんだぞ?配線からいっちまってたからそっからのスタートだしな」
「ナースコールのやつなんてどうやったのさ?」
 ぴく、と恭介の動きが止まる。
「ちょっとまて理樹、俺が仕掛けたのはテレビのやつだけなんだが」
 …背筋がぞっとした。葉留佳さんも同じ思いらしい。
「そういえば…俺札二つしか用意してなかった…」
 そう言って三つ、僕、謙吾、真人がとってきた札を順番に見る。
 幾何学模様の札、幾何学模様の札、悪霊退散と書かれてる札。裏には死ねシネ死ネしネ、とびっしり書かれている。
「ってどう考えても最後のおかしいでしょ!どっからこんな札取ってきたのさ!?」
「これか?ベッド持ち上げたら後ろにくっついてた」
「そんな自慢げに言われても…」
「ちなみに階段の下にいたのは私だ」
「霊安室のゾンビも?」
 来ヶ谷さんははて?というような顔でこっちを見ている。
 霊安室のことを思い出す。僕は霊安室から取ってきた札を見た。
 キエロ消えロ気消エロキエろ消えろ消え……。
 うん、見なかったことにしよう。
「真人…お前は呪われている!すぐにイタコのところへ行ってお祓いをしてもらえ!ミッションスタート!」
「わ、わふー!いったい何があったのですか!?
 …クドにはこのことは言わないでおこう。

 あれからずいぶん経つけどあの霊がどうしているか、僕は知らない。願わくば、誰もあそこをキモ試しとかで使わないことを。


[No.318] 2009/08/08(Sat) 00:00:34
幻日逃避行 (No.303への返信 / 1階層) - ひみつ@20432byte 逃げ出したいのは現実か虚構か?

 現実に良い事なんて一つもない。
 こんな世界なんて大嫌いだ。
 少なくとも俺はそう思っている。



 また目覚める。
 水面のようにぼやけた視界が次第に輪郭を得る。
 「知らない天井だ――」





 幻日逃避行





 とりあえず呟いてみたけれども結局そこにあるのは何度も見慣れた自室の天井に違いなかった。俺は今、自室のベッドに横になっていてベランダの窓から差し込む鬱陶しい太陽光線の影響で緩やかに目を覚ましたところだった。別に意味もなくわざわざ名台詞を真似た訳じゃない。そこには現状の変化を求める個人的な願望があったが、そんな事で変わってくれる世の中なら麗しの平面世界は必要とされなかっただろう。俺としてはそんな世界は心の底から願い下げだった。
 それより、早速砕かれて一カラット程度だけ残された願望の欠片に縋るように俺は命の次、――の次くらいに大切なノートパソコン&外付けハードディスクと共に置かれた携帯電話を手に取って一呼吸置いてから開いた。真っ先に俺を出迎えてくれる淡いピンクの待ち受け画面の中央で微笑むマリーちゃんは今日も可愛い――のだけれども今直面している問題は残念ながら違っていた。心の中でマリーちゃんゴメンね、と小さく謝りながら画面上部に視線を向けて俺は――力なく天井を仰ぐしかなかった。

 「……ですよねー」

 呟いたところで視界に映る薄汚れた天井が変わる筈もなく、思わず零れ出た言葉に残された小さな願望も打ち砕かれて研磨剤と化した。吹けば飛ぶ、とは正にこの事だろう――か?だらしなく垂れ下がった右手には五月十四日の文字とマリーちゃんの笑顔が逆さまに揺れていた。



 実を言うなら、目覚めた瞬間にデジャヴを感じた時点で半ば、というより殆ど諦めていた。いや、デジャヴという言い方も間違いだ。何故なら俺は既に『それ』を実際に体験している上に今回で『それ』が四回目ともなれば流石に気付いてしまう。四回目と言っても『それ』に気付いた時点でカウントしているから実際は五回目か十回目か、もしかするとそれ以上なのかもしれない。けれど、問題は回数じゃない。いや一応問題ではあるけど今直面している『それ』を一言で表すなら――そう、

 『無限ループって怖くね?』と、そういう事である。

 ……何を言っているのか分からないと思うが、気付いた時には俺も何をされたのかさっぱり分からなかった。普段どおりの、やや陰鬱とした生活を送り続けていたつもりが、いつの間にか五月十四日に戻ってきてしまった。月を間違えたとかドッキリとかそんなチャチなオチじゃ断じてない。もっと恐ろしいものの片鱗を味わいつつも、オチに関しては絶賛模索中である。



 どんなに悩んだところで現状が月曜日の朝だという事実から変わらないのでとりあえずは平日の朝らしく学園に登校することにした。同じことを四回も経験してしまえば、いい加減あれこれ考えるのも面倒臭くなってしまう。非日常的な状況下に置かれても普段どおりに過ごせてしまうあたり人の慣れとは恐ろしいものである。パニック起こして騒いだところで気味悪がられて終わるのも目に見えているのだが。
 どうしてこんな事になったのか?
 教室の隅にある自分の席に突っ伏しながらも頭の中はそればかりだった。こういう時、慌てた方が負けなのは言われずとも分かっている。問題は、俺が何と戦っているか、ということだ。

 ――現実?

 ふと思いついた言葉がよりにもよってそれですか、と思わず自分に突っ込みたくなった。
 俺に言わせれば、それは手に負えないほど厄介であり、出来れば一生相手にしたくないのだが、そいつの相手をさせられるのが一生の間だけという律儀に嫌味なヤツだ。諸手を挙げて逃げ出したいところだが、しかし回り込まれてしまった、というテキストが目に見えている。今だって顔を上げれば四方八方百八十度見渡す限りにヤツが潜んでいるのだから。
 ……いかん。なんか変な方向に考えを持っていってしまった。それに、こんな非現実的な事件――事象?に巻き込まれていながら、これが現実だなんてある筈もない。それこそ幻想と書いてファンタジーと読むようなものだ。こういう場合、素数を数えろ!などと考えているあたり、自分でも冷静を取り戻せたと考えていいだろう。
 時間が逆行したり移動したりする、いわゆるタイムリープと呼ばれるものは俺でも知っている。と言ってもそれが創作の範囲であるから、その知識が実際に役立つかどうかは分からない。俺が知っているタイムリープものだと過去や未来へ時間移動するものが殆どだが、中には同じ日を繰り返すという作品もあった。現状を考えるならやっぱり後者の方が近いと言える。
 …だからと言って何も解決に結び付く気配は無いのだが。
 物事には必ず原因がある筈なのだが、それっぽい体験もなければ兆候のようなものもない。変な薬物に触れたとか身体に異変があるわけでもない。何の原因も無しに考えられるものなんて夢オチくらいしか残されていなかった。

 トントン。

 肩を叩かれる感触に思考を中断させられた。
 無視するという選択肢は思い浮かばず、代わりにまたかと溜め息を吐きたくなった。顔を上げれば予想通り、数学教師が不器用な笑顔で俺の顔を覗き込んでいた。気持ち悪い視線と見つめ合うが、向こうはにっとりとした表情を崩さない。次に出る台詞も既に予想できている。

 「今のページの問二、前に出て解いてみろ」
 「……はい」

 俺の言葉に続いて教室のあちこちから笑い声が上がる。恥ずかしくはない。ただ鬱陶しいと感じた。言われるまま、教科書も持たずに黒板の前に立ってそのまま答えを書いた。チョークの走る音が進む度に教室が静かになっていく。チョークを置いて数学教師に向き直る。
 先程とは打って変わって苦々しい表情を見せたが、同じネタではそう何度も笑えそうにない。

 「どうですか」
 「…席に戻れ」

 はい、とだけ小さく返して席に戻る途中、ここで初めて教室内を見渡した。
 呆けたような表情、必死にノートに写す姿、机の中に向けている視線…
 俺の席の後方、並んで机に突っ伏している姿が目に入った。
 なんだ。俺以外にも寝ている奴がいるじゃないか。
 どうでもいい事に少しだけ不条理さを感じながらも、俺は再び机に突っ伏して思考の海に潜る事にした。



 結局、四度目の初日は何の進展も無く終わった。



 翌日、目を覚ますと同時に呟いた。
 「知らない天井だ――」
 おまじないみたいなものだ。漢字変換したいとは思わない。
 相変わらず見慣れた天井から変化しないので諦めてさっさと起き上がって、机の上の携帯電話に手を伸ばした。今日も俺に微笑みをくれるマリーちゃんはいつ見ても可愛い――のだけれども今日の問題もまた違った。謝ってばかりなのもアレなので、代わりにおはよう、と心の中で挨拶した。淡いピンクが彩る液晶画面に映し出された五月十五日の文字と、遅刻の警鐘を鳴らす非情な時刻。分かっていたとしても不条理を感じざるを得ない。なんかもう色々と面倒臭いので急いで制服に着替えることにした。



 男子寮を飛び出した途端、聞き慣れたくない雄叫びが聞こえた。それに続くように遠ざかっていく甲高い悲鳴に思わず足が止まりかける。これも既に経験している内の一つだが、誰だっていきなり大声で騒がれたら驚く。しかし、今の声を聞くに心配するだけ無駄だと思い直して校舎へ続く渡り廊下を走る。

 ドンッ!

 北校舎の渡り廊下を抜けた途端に誰かとぶつかった。突然受けた衝撃に驚きつつも、心の中では、やってしまった、と後悔した。これが食パン咥えた可愛い美少女転校生なら良かったものの、そんなベタな期待は当に、具体的には三回前から既に完全に姿を消していた。

 「痛てて……」

 ぶつかった相手は三年生の棗先輩だった。いつも休み時間になるとロープを操ってうちの教室の窓から侵入してくるため、その顔は既に学園中に知れ渡っている。個人的には関わり合い部類の人種の中でもやや高い位置にいる人物だが、毎回此処でぶつかってしまう運命にあるらしい。先輩にぶつかっておいて無視するわけにもいかないのでとりあえず手を貸す事にした。

 「すいません棗先輩。大丈夫ですか」

 声だけでも相手を案じるようにして手を差し伸べながらも、俺は左手の握手は決闘を意味すると何処かで聞いたことを思い出していた。尻餅をついて見上げるような形になった棗先輩は気恥ずかしげに差し出した右手を取って立ち上がった。

 「サンキュー」

それだけ言ってぶつかった際に辺りに散らばった荷物を拾い始めた。俺もそれに倣うように拾い始めた。教科書やノートの中に一冊だけ異彩を放つ漫画『学園革命スクレボ』を手に取った。表紙の力の入り様が余りにも富樫だが、残念ながら俺はこの手の少年漫画は中学に卒業していた。
 他の教科書も拾い上げ棗先輩に渡すとき、何気なく口にしてしまった。

 「何度も同じ漫画読んで、先輩も飽きませんね」

 その時の先輩の表情は今まで見たこと無いような、一言で言えば間抜けな表情だった。一瞬、何か考えるような顔をしたが、すぐに無邪気な笑顔に隠されてしまった。

 「いやこれ、一昨日買ったばかりなんだぜ?」

 今度は俺が間抜けな顔をしていただろう。隠す理由も無かったの だが、俺は咄嗟に誤魔化していた。

 「先輩なら二日もあれば何度も読んでるんじゃないですか」
 「もちろん!」

 流石は人気者なだけはある。人懐っこい笑顔に誰もが本来持つ警戒心を緩めてしまうだろう、と冷静に分析しているあたり、自分は捻くれているのかも知れない。

 「それより急がないと遅刻するぜ?と言っても多分もう間に合わないと思うが」

 棗先輩の言葉と同時にホームルームの終了を告げるチャイムが鳴った。俺は慌てて自分の鞄を拾い上げて振り返った。

 「それじゃ先輩――」

 一瞬だけ見えた棗先輩の目は冷たくて、急な出来事に思わずビビってしまった。
 しかし、それもほんの一瞬ですぐに元の笑顔の下に消え、棗先輩が背を向けると完全に見えなくなってしまった。すぐにその場を動けなかったが、もうすぐ一限目が始まることを思い出して教室へ駆け出――そうとしたのだが、





 振り返った先には、ただ真っ白な光景だけが残されていた。





 また目覚める。
 水面のような視界が空白の光景と重なって見えた。
 「知らない天井だ――」
 完全に覚醒すれば自室の天井と何一つ変わらないが、少しだけ知らないものが見えた気がした。





 ぎらつく太陽光線を避けるようにベッドから起き上がり机の上の携帯電話を手に取る。
 分かっている。開かずとも分かってはいる。
 これを開ければマリーちゃんの優しい笑顔と――

 「……ですよねー」

 開いた携帯電話を覗き込み、思わず口から零れた台詞に再びデジャヴを感じた。予想通り、待ち受け画面に表示されたのは微笑み爆弾のマリーちゃんと五月十四日の文字。右手は再びだらしなく垂れ下がったが、前とは違って途方に暮れるようなことは無かった。

 なんだか、やっと一歩前進した気がする。





 まず、間違いなくこのタイムリープ現象に棗先輩が絡んでいる。犯人かどうかまでは分からないが、棗先輩と話した後の、あの異質な光景から考えても関係者に間違いないだろう。だとすると、次は棗先輩からこの現象について聞かなければならない。目的や方法も気になるけれども、俺にとって最も重要なものは元に帰ることができるのか、この一点のみだ。
 あとはどうやって棗先輩に接触して話すか、恐らくこれが一番難しい問題だ。もしあの空白の光景とタイムリープ現象が棗先輩によって引き起こされたものだとすれば、棗先輩は俺が話を聞こうとしてもまた逆戻りさせられるのがオチではないのか?何の目的でこんな事をするのか分からないが、俺としては元に戻れさえすればそれでいい。だが、棗先輩が俺を陥れた張本人ならわざわざそんな真似はしない筈だ。
 だったらどうすればいいのだろうか?現状での手がかりはやはり棗先輩しかない。となれば、接触する他ないだろう。でも、どうやって――

 トントン。

 考えれば考えるほど思考さえも無限ループ入りしそうになった時、俺の肩を叩く感触に中断させられる。…すっかり忘れていた。顔を上げれば不器用な笑顔を浮かべる数学教師が俺の顔を覗き込んでいた。見つめ合う時間だけ無駄なので奴が口を開くより早く黒板の前に立ってチョークを取ると、そらで覚えた答えを書き込んでいった。

 「…どうですか」

 数学教師に向き直り、少しだけ威圧するように訊ねた。数学教師は今まで以上の苦い表情に顔を歪ませていた。どうやら、過去の一件もあってか彼の自尊心を刺激したらしい。うむ、と肯定の言葉か唸り声なのか判断しづらい声を肯定と取る事にした。席に戻る途中、今回で二度目の教室内の反応に視線を向けた。前回よりも呆けた表情が多い程度で大して変わりなく、ただ笑い声が俺の耳に届く事は無かった。





 結局、俺は棗先輩と接触する事無く、気が付けば五回目の初日の放課後を迎えていた。どうやらホームルームの途中で眠ってしまったらしい。がらんとした教室を見渡しては、自分の交友関係の無さを実感させられる。棗先輩に会いに行くべきか迷ったが、それは明日以降に回そうと結論付けて帰りの仕度に取り掛かった。





 照明を消して教室を出ると、グラウンドから金属バットの快音と覚えのある笑い声が耳に届いた。そういえば、野球部は休部状態という噂を耳にした事がある。少し躊躇したが、好奇心からか廊下の窓に歩み寄ってグラウンドをそっと覗いた。
 胸が鳴った。擬音にするならドキンというよりドキリという音の方が近い。胸キュンには程遠い、あまり好きになれない感覚だ。
 グラウンドの隅で棗先輩と直枝がノックをしていた。棗先輩が打って、直枝が取って返している。二人とも制服の上着を脱いで、全身泥まみれになりながらも笑い合っている。いかにも青春といった光景だが、二人とも何故泥まみれになりながら笑い合っているのかまでは理解できなかった。
 そのまま二人の姿を眺めていたら、不意に棗先輩がこちらを向いた。いつの間にか気付かれていた事に驚いたが、棗先輩は何の反応も見せず直枝に向かってボールを打ち続けた。
 俺はそれを呆然と見ていたが、暫くして何故だか居た堪れない気分になった。グラウンドの二人から一度視線を外すとそれは加速度的に膨らみ始め、俺は逃げるようにその場を後にした。





 翌日、考え事をしていたら例のおまじないが出る前に完全に意識が覚醒してしまった。
 そっとベッドから起き上がり机の上の携帯電話を開いた。桜の花びらのように可憐な微笑みをくれるマリーちゃん、五月十五日の文字、ホームルームまで五分を切った時間。急げば一限目に間に合わないこともない。だが、ここで急ぐという事は棗先輩に会うという事だ。そして走れば間違いなく先輩とぶつかるだろう。
 「どうしようマリーちゃん…」
 携帯の画面を眺めながら春の妖精のようなマリーちゃんに尋ねてしまう。そんな事聞かれても困るだけだというのに。それでもマリーちゃんは微笑んだまま俺に視線をくれる。

 「ん、分かった…」

 マリーちゃんから勇気を貰った。





 食パンでも咥えてやろうかと思ったが、生憎と食堂に寄る時間もない。超特急で着替えると鞄を引っ掴んで男子寮から跳び出した。ほぼ同時に中庭から響き渡る二つの雄叫びと一つの悲鳴。それを鬨の声と受け取って寮の角を曲がって渡り廊下を全速力で走った。

 ガスッ!
 「うぐっ!」

 全速力で走ったものだから今まで以上に派手にぶつかった。因みに今のタイヤキ声を上げたのは俺じゃない。俺の目の前で尻餅ついて鼻を押さえながら涙目になっている棗先輩だ。こんな可愛い子が女の子なわけないじゃないか系男子を除いて野郎に欲情する趣味のない俺は、今目の前にいるのが金髪ツンデレ美少女転校生ならば!と当に捨てた筈の期待に悔やみながらも今回は流石に心配になってきたので手を差し伸べることにした。

 「だ、大丈夫ですか…?」
 「うっ、すまん…」

 思いっきり鼻を打ったのか、それとも俺がヘッドバットしてしまったのか痛みを堪えるように目を瞑る棗先輩が差し出した左手を取るのを見て引っ張り上げた。立ち上がっても尚、鼻を押さえているあたり本気で痛かったのだろう。俺は上着のポケットからティッシュを取り出して痛みの涙を流す棗先輩に握らせ、盛大に散らばった棗先輩の荷物を拾い集めた。
 筆箱から散らばった匂い消しゴムの数には流石に引きかけたが、なんとか全て拾い集めて棗先輩の鞄に詰め込んだ。痛みも引いてきたのか、上を向きながらあーあー言う棗先輩の姿が妙に可笑しかった。

 「もう大丈夫ですか?」
 「ああ、悪かった。わざわざ拾ってもらって」
 「いえ、ぶつかったのは俺の所為ですから」

 自分でも珍しいと思うが、割と本心である。照れ臭そうにする棗先輩とは裏腹に俺は内心冷や汗モノだった。ぶつかるにしても全力疾走する必要は無かった。特攻を掛けるのはいいが、それで相手の機嫌を損ねていては話にならない。心の中のもう一人の俺が今はやめておこうよ、としきりに説得してくる。だが、無意識に俺は制服の上から携帯電話を握り締めていた。正に手に汗握る緊張感である。俺は逃げないぜ相棒!マリーちゃん俺に勇気を分けてくれ!
 俺は棗先輩に荷物を詰め込んだ鞄を手渡しながら意を決してその言葉を口にした。

 「な、何度も同じ漫画読んで先輩も飽きまひぇんね…」

 最悪だった。
 俺は今まで自分がヘタレだと認めなかったが、幾らなんでも今のどもりは酷かった。今この場でお前はヘタレだ!と指摘されようものなら返す言葉もなく羞恥に耐えるしかないだろう。自分にショックを受けている事に気付いていない棗先輩から返ってきた言葉は予想とは違ったものだった。

 「こうやって繰り返し読むのも悪くないぜ?」

 その言葉はどう受け取っていいものか判断に迷った。戸惑う俺に構わず棗先輩は大分薄くなったポケットティッシュを俺の手に押し返して校舎へ向かっていった。

 「それより急がないと遅刻するぜ?」

 その言葉に身体が硬直する。またしてもリセットさせられるのだろうか?次の言葉に恐怖しながらも視線は校舎へ向けて歩く棗先輩から外せない。
 しかし、次の言葉もまた前回とは違ったものだった。

 「まだ急げば一限目には間に合うと思うぞ?」

 じゃあな、と手を挙げる棗先輩の言葉と同時にホームルームの終了を告げるチャイムが鳴り響いた。



 振り返っても景色がホワイトアウトする事無く、俺は安堵すると共に教室へ向けて走り出した。



 教室で騒ぐ三枝の声がうるさく感じる中、俺は手にあるポケットティッシュに目を向けていた。中身が殆ど無くなった薄っぺらいそれに添えられた一枚の紙切れに俺は目が離せなかった。

 『昼休み、校舎裏で待つ』

 どう考えてもこの文だと果たし状である。今朝の事からしてそれも考えられる、というよりそれしかないだろう。だが、あの様子ならもしかするとこの現象について話してくれる気になったのではないかとも思えるのは都合が良すぎるだろうか。あれこれ悩んでも仕方ないのは分かっている。結局のところ、俺には会って話すしか選択肢は残されていないのである。たとえバッドエンドの袋小路であったとしても。





 四限目が終わってすぐに校舎裏で待つことにした。俺が着いた時には棗先輩の姿は何処にも見当たらなかった。校舎裏に捨てられたのか備え付けられているのか分からないボロボロのベンチに座りながら生徒の群がる購買から得た戦利品を口に運んだ。カツサンドうめぇ。



 「悪い。待たせたな」

 群がる猫たちにパンを分け与えていたら暫くして棗先輩が姿を現した。俺の隣に腰掛けると、ボロボロのベンチから軋むような嫌な音がした。座ってからすぐに口を開く様子は無かった。だけど、俺は先を促すような事はせずに猫たちにパンを千切っては投げ、千切っては投げて与え続けた。



 座ってから五分も経たない頃、棗先輩は俺に問いかけてきた。

 「お前、もしこの後死ぬって言ったらどうする?」

 やはりあの手紙は果たし状だったのか。俺は人気のない校舎裏で猫たちに見取られながら死んでしまうのか。やはり現実――ではないけれども世の中、そんなに甘くなかったみたいだ。だが、俺にも元の時間に戻りたい理由がある。その為には死ぬわけにも、無限ループに嵌っている暇も無かった。

 「死ねません」
 「絶対に死ねません」

 棗先輩は何も言わない。大事なことだから二回言ってやった。
 まだ何も言わない。なら、もう一度言ってやろう。

 「明美ちゃんに会うまでは、絶対に死ねません」
 「…それほど大事な人なのか?」

 漸く応えた棗先輩に俺は頷いてみせた。
 それは俺と明美ちゃんとの間の約束だった。
 だって明美ちゃんは俺の、俺の大事な――



 「俺の大事な、嫁ですから――」



 この時の棗先輩の驚きっぷりは恐らく幼馴染連中以外では俺が初めて見たと確信した。





 「俺は夏休みに明美ちゃんと会う約束をしているんです」
 棗先輩は唖然としている。
 「その為に俺は去年の冬からコツコツとお金を貯めました」
 棗先輩は呆然としている。
 「その甲斐あって初回特典版の予約も完了しました」
 棗先輩は我に返った!

 「なのに!何時まで経っても夏休みにならないんですよ!」
 「…あー、それは、その…お気の毒に?」
 「他人事みたいに言わないで下さいよ!」

 それからひと悶着あって、棗先輩は渋々といった感じで現状についての説明をしてくれた。





 「――だからお前が夏休みを迎えることは、無い」

 棗先輩の口から語られた内容はにわかに信じられないような内容だった。
 修学旅行の途中でバスが転落、俺のクラス他一名はそのまま爆発に巻き込まれてジ・エンド。その時に生まれたこの世界が所謂、走馬灯というヤツで死ぬまでの短い間、延々と一学期を繰り返している、と。
 訳が分からなかった。信じないという選択肢は常に表示されているが、他に手がかりもない以上信じるしかなかった。

 「だったら、これからどうすればいいんだ…」

 自分が死ぬという現実よりも明美ちゃんに会えないという現実の方がウェイトは重かった。今まで彼女の笑顔をもっと見たい、その想いで過ごしてきたというのに。それが叶わないのなら――
 そこまで考えた俺に棗先輩はそっと肩を叩いた。

 「そう落ち込むなよ」

 見上げた棗先輩の表情は苦し紛れに俺を励まそうとしているのが見て取れた。別に無理して慰めて欲しいわけでもない。同情するなら明美ちゃんに逢わせてくれ。幻想と書いてファンタジーな世界の癖にあるものと言えば三次元しかないなんて間違っている。

 「ほら、お前も少しはこの世界に目を向けてみたらどうだ?」

 現実から目を逸らしたままのダメオタクだって自分だって分かっている。でも俺には現実と書いてリアルに求めるものなんて何一つ無い。

 「もしお前がその気になれば、そうだ」

 何か閃いたような声に少しだけ顔を上げた。俺の顔を覗き込む棗先輩の輪郭が太陽を背に輝いている。顔は真っ暗で全然見えない。

 「ゲームみたいな恋愛が出来るかもしれないだろ?」

 そう言って棗先輩は俺の肩をもう一度叩くと立ち上がった。同時に携帯電話を取り出して呆然とする俺を他所に何やら通話を始めた。

 「待て、鈴と被る可能性がある。鈴の報告を待つ」

 ……。

 「オーケー、大丈夫だ、理樹三階いってくれ」

 携帯電話を仕舞い、俺に親指を立てながら頑張れよ!と言ってそのまま走り去っていった。
 何だったのだろう、と思いながら棗先輩の言葉を思い出す。

 『ゲームみたいな恋愛が出来るかもしれないだろ?』
 「でも…そうか、そういう考え方もあるのか…」

 口にした途端、心の中で熱く燃え出した気持ちが生まれて叫ばずには居られなかった。





 「そんなので納得すると思ったかバーカッ!!」





 それからというものの、繰り返していく日常の中で少しずつ、本当に少しずつ他人と交流していくように努め、時にはフラグを立てようと躍起になったこともあった。



 それから暫くしたある日。



 また目覚める。
 少しの違和感。
 目を開けばそこにあるのは――
 「知らない天井だ――」



 見覚えのない白い天井を見た途端、俺は助かったのだと確信した。
 結局予約していた『きっと来る、明日のために』略して『明日来る』の引き換え期間は入院中に過ぎ去ってしまい、明美ちゃんとは会えなかったけれども。
 どんなに頑張っても走馬灯の中でさえ彼女はおろか友達以上にもなれなかったけれども。
 やっぱり現実なんてもの、大嫌いで何時まで経っても好きになれそうにもないけれども。



 もう少しだけ向き合ってみようと思います。


[No.319] 2009/08/08(Sat) 00:01:44
大いなる幻影 (No.303への返信 / 1階層) - ひみつ@20030 byte

 風が吹いていた。曇り空の下にいた。無人の屋上で、神北小毬は手製の絵本を読み直していた。出来が良いとは言い難かったが、それはとても愛おしくかけがえのないものだった。
 ページをめくったとき、画用紙が一枚飛んだ。「おにいさん、いかないで」と小毬は口にした。風に飛ばされた画用紙はひらひらと宙をさまよい、やがてフェンスにぺたっとはりついた。小毬はぱたぱたと小走りでフェンスに駆け寄った。画用紙が浮き上がった。小毬はフェンスに片手と片足をかけ、身体を伸ばした。そのときフェンスが軋み、ボルトが大きな音を立てて外れた。「あっ」と声を出したときには、小毬の身体は空中に投げ出されていた。それっきり屋上は静かになった。
 重いドアが開いた。菓子パンの包みを二つ持った直枝理樹はドアの真ん前に立ったまま、目線だけを動かして小毬の姿を探した。息が軽く切れていた。
「小毬さん?」
 人影はなかった。ばらばらにほぐれた絵本の頁が風に吹かれて、彼の視界を遮った。無数の頁が病院の屋上で干されるシーツのように舞っていた。理樹はフェンスが一部外れていることに気づいた。そちらへ向かって一歩踏み出したときだった。ズボンのポケットの中で、携帯電話が震動を始めた。遠くから、車のクラクションが聞こえた。


大いなる幻影




 畳張りの床にビニール袋を置いた。駅前で買った牛丼が入っていた。理樹はあぐらをかいて、発砲スチロールの容器の蓋を開けた。だいぶ冷めてしまっていたが、気にせずに食べ始めた。
 その部屋には家具らしい家具はほとんどなかった。本棚が一つ、衣類が入っている三段重ねの収納ケースが一つ、それくらいだった。だから六畳一間でも、妙に広く見えた。理樹は床に置かれた絵本に手を伸ばした。神北小毬の遺品だった。
 手製の絵本は何度も何度も読み直された結果、手垢で汚れきっていた。理樹は思い返す。彼女はお菓子を携えていたせいか甘い匂いがしたが、ごくたまに絵の具の匂いがしていた。その絵本に顔を寄せる度に、理樹はその匂いを思い出す。
 流し台の下には二リットルのペットボトルが何本か置かれていた。牛丼を食べ終えた理樹はその内の一本を手に取り、喉を鳴らして飲み始めた。不意に建物が揺れた。地震だった。理樹は揺れをまったく気にせずに出発の準備をしながら、懐中電灯で室内を照らした。電気は通っているが、部屋には電球がなかった。懐中電灯とろうそくで代用していた。壁には彼が描いた何枚もの画用紙が画鋲で留めてあった。小毬の絵本を参考にして、水彩絵の具やクレヨンを使って描いたものだった。
 絵の具やペンキで汚れたつなぎを着た。筆やはけ、ローラー、あるいは絵の具、ペンキを詰め込んだ鞄を背負って、部屋を出た。左手には鉄挺を持っていた。学校までは歩いて十五分くらいだった。今では廃校になっているが、建物は残されていた。
 神北小毬が死んでから、十年が経っていた。理樹だけがこの地に住み続けている。
 正門を乗り越えて、校舎北側の昇降口へ向かった。そこはシャッターで閉まっているが、鉄梃でこじ開けることができた。廃校になってから数年が経過しているために、廊下にも階段にも埃が分厚く積もっていて、いたるところに蜘蛛の巣や吹き溜まりができていた。
 理樹は真っ直ぐに屋上へ向かった。階段を塞いでいるロードコーンとコーンバーは理樹が通学していた頃から変わっていなかった。それを跨ぎ、積み重ねられた机と椅子の間をすり抜けるようにして、階段を上った。扉に鍵はかかっていなかった。以前に理樹が鉄梃で壊してしまったからだった。
 すでに日は暮れていた。理樹はマッチを擦って、昨夜描いた部分を照らした。見直してみると、色合いが曖昧で全体がぼやけてしまっているようだった。指先に熱を感じ、理樹はマッチを足元に落とした。その場にしゃがみ込み、絵本を開いた。そしてまたマッチを擦り、その絵をじっと見つめた。路上に立つ少女の後ろ姿が描かれている。
 小毬の記憶をここに刻むことを決めたのがいつだったか、今となっては遠い昔のことのように思えた。あの絵本の体裁が崩れて、ただの紙の束になったとき、どこかに彼女の絵を残しておかなければならないと感じたのだった。だとすれば、場所は一つしかなかった。二人が多くの時間を過ごしたここだった。
 理樹はマスクをつけ、スプレーペンキで崩れかけたアスファルトの色を変えていった。一度は青みがかった灰色に染め上げたが、やはり気が変わったのだった。もっと写実的な色が必要だと思ったのだった。真っ白にしてから、どうにかして汚してみようと決めた。
 彼にとっては、屋上のすべてがキャンバスだった。まだ元のコンクリートがむき出しになっているところが多々あった。しかし小毬が遺した絵本もまた、無数に存在した。そして実際に絵と文字という形に起こされていなくても、彼女から言葉だけで聞いた物語もあった。先は長いと思う一方で、そのどれもが必要とされていないのではないかと考えることがあった。本当に描かれるべきものが何であるのか、はけで色を塗っていくたびに少しずつ鮮明になっていっているようではあったが、まだ明瞭ではなかった。それでももう少しだ、そう思えることが多くなっていた。根拠はなかったが、確信はあった。それだけあればじゅうぶんだった。
 理樹は汗を拭って、作業を続けた。屋上にシンナーの臭いが充満していた。





 駅前のレコード店の前で足を止めた。上着のポケットには給料袋が押し込まれている。すでにレコード店はその日の営業を終えていて、電気は落ちていた。理樹が見つめていたのはポスターだった。着流し姿の真人がポーズを決めている。そのかたわらには『筋肉一路』という文字があった。『筋肉波止場』、『筋肉慕情』に続く三枚目のシングルだった。
 みんな、それぞれの人生を歩んでいる。真人は演歌歌手になった。スカウトされたのだと、いつか聞いた。彼らとは徐々に疎遠になっていったが、たまに便りが来るので現況を把握できた。謙吾は日本刀の職人に弟子入りしたと葉書が来たし、葉留佳は日光江戸村でくのいちになり、たまにスタントウーマンの仕事もしている。唯湖はアダルトビデオのディレクターになり、斬新なスタイルの作品を数本撮って業界を席巻した。一番の驚きはクドリャフカだった。彼女はヨーロッパ旅行中にたまたま出会ったフランスの映画監督に見出され、女優となった。
 理樹は大きく息を吐き出し、自宅へ向かって歩き始めた。倦怠感がひどかった。身体を休める必要があった。彼らのことを思うと、いつもそうなった。途中、自動販売機で飲み物を買って、ほとんど一口で飲み干した。彼らが健やかにそれぞれの人生を送っている、それは素晴らしいことだった。しかし自分は――そう考えてしまうことがしばしばだった。そう考える自分に吐き気がした。
 アパートが目に入ったとき、理樹は足を止めた。部屋のドアの前に誰かがいた。理樹は目を凝らした。若い男女のようだった。よろめきながら階段を上り、自分の部屋へ向かった。そのときようやく誰なのかがわかった。
「恭介。鈴」
「理樹! 久しぶりだな!」
 恭介は口元に笑みを浮かべ、両手を広げた。理樹は一瞬立ち止まったが、すぐに恭介の元へすたすたと歩いていた。鈴は兄の後ろに隠れていたが、理樹と目が合うとはにかむように笑って、指先を小さく動かした。


 二人とも、室内の様子を目にしてぎょっとしたようだった。理樹は構わずにビニール袋を流し台に置きながら、「悪いけど、食べ物とか何もないよ」と言った。
「ああ、いいよいいよ。食べてきたから」
「それにしてもきしょい部屋だな」
 鈴は本棚の前に立っていた。半分も埋まっていないその棚から一冊の本を抜き出した。表紙には『執行猶予なんていらない!』とあった。それは度重なるゲリラ撮影による道路交通法違反や公然わいせつで実刑を受けた唯湖が獄中で書いた自伝だった。鈴はその本を片手に持ち、もう一冊抜いた。同じ本だった。
「くるがやの本が二冊あるぞ」
「貰ったんだよ。自分で買ったんだけど、来ヶ谷さんが送ってくれたんだ。サイン入りで」
 理樹は数本のろうそくに火をつけて、床に置いた。すぐそばにいるはずの恭介や鈴の顔が辛うじて見てとれた。
「ごめん。布団とかも自分の分しかないんだ」
「気にしないでいいって。床に寝るから」
「あたしはどうなるんだ馬鹿兄貴」
 恭介の後頭部をすこんと叩いた鈴は仁王立ちになってそう言った。理樹は苦笑して、「僕はいいから、鈴、布団使いなよ」と言った。鈴は一瞬理樹の顔を見てから、「あ、うん……ありがと」と言いながら目線をそらした。
 そんな二人の様子を眺めながら、恭介はしみじみと口にした。
「しかし、まあ、ほんとに何もない部屋だな。らしいといえばらしいけど」
「テレビもないしな」
「いらないものだから。ここにないものは、僕には必要ないんだ」
 そう言って、理樹は寝転がった。組んだ両手を枕にして、天井を見上げた。隙間風にろうそくの炎が揺れた。恭介も理樹のように床へ横になった。鈴は壁にもたれて、本棚へ目をやっていた。
「恭介、今何やってるの?」
「俺か? 俺は今学芸員やってるよ、怪しい少年少女博物館の」
「学芸員? すごいね。らしいといえばらしいけど」
 恭介の口ぶりを真似る理樹に恭介はにやりと口元を歪め、理樹の腰のあたりを軽く蹴っ飛ばした。「何すんのさ」と言って、理樹も笑った。
「学芸員は冗談で、ただの雑用だよ。公立じゃないし」
「ちなみにあたしは、ねこの博物館で働いてるぞ」
「近くにあるんだよ。いや近くでもないか。でもまあ、兄妹で博物館勤めなんだ。この年になっても一緒に暮らすなんて思わなかったけどな」
 そう言ってから、恭介は声を上げて笑った。鈴は興味なさそうにそっぽを向いていた。床に落ちていたDVDのトールケースが目に入り、手を伸ばした。クドリャフカが出演した映画のDVDだった。『ソシアリスム』。ジャン=リュック・ゴダール。しかしこの部屋に再生できるデッキはなかった。
「みんな、しっかり働いているんだね」
「理樹、お前はどうなんだよ」
「僕は、今日は工事現場で働いてた」
 恭介の視線が停止した。
「たぶん、しばらくはあの現場で働くと思う」
「……そうか」
 会話はそこで途切れた。屈託のない理樹の言葉に恭介は戸惑いを隠せなかった。しかしそれ以上何も言うことができなかった。理樹もまた、それ以上の言葉を欲してはいなかった。
 部屋の中央に布団が敷かれ、鈴がそこへ横になった。電気を消す必要はなかった。ろうそくを吹き消していくだけでよかった。暗くなった室内に鈴の寝息だけが響いていた。
「なあ、理樹。留守電くらいつけたらどうだ。今日もさ、来るまでに苦労したんだぜ」
「いらないよ。その電話だっていらないくらいなんだ。仕事のために仕方なく電話線引いてるだけで」
 理樹はそこで言葉を切った。それから意を決したように強い口調で、しかし小さな声で言った。
「憶えてるだろ? 僕が電話に出られなくなったのは恭介のせいなんだよ」
 恭介は理樹の方へ向けていた顔を回し、天井を視界に入れた。といっても暗くてほとんど何も見えていなかったのだが、それでも理樹を見ているのは辛いことだった。鈴が寝返りをうった。夜はすっかりふけていた。

 その音は身体に染み渡るように響いて、しばらく離れなかった。恭介は中庭に立ち尽くしていた。目の前に神北小毬がうつ伏せに倒れていた。地面には赤黒い血液が広がり始めていた。喉がひどく乾いていた。
 恭介は屋上を見上げた。フェンスが外れていた。小毬の近くにフェンスも落下していた。何が起こったのかはだいたい推測できた。そして一つ思い出したことがあった。理樹のことだった。彼はきっと屋上にいるはずだった。おそらくフェンスが外れていることに気づくだろう。
 反射的に恭介は理樹に電話をかけていた。数度の呼び出し音の後、聞き慣れた理樹の声が耳元をくすぐった。
「もしもし? どうしたの?」
「理樹か? いいか、お前今どこだ?」
「どこって……屋上だけど」
「お前、今から教室に戻れ。わけは後で話す」
「え? あ、うん。わかった。あ、そうそうフェンスが外れててさ」
 恭介はまた屋上を見上げた。理樹がそこにいた。表情まではわからなかったが、色をなくしているだろうことは想像できた。理樹の手から携帯電話が滑り落ちた。そのまま校舎脇の茂みへと落下し、その瞬間通話が途切れた。「おい馬鹿兄貴」と背後から妹の声が聞こえた。

 気配を感じた。恭介が目を開くと、ちょうど理樹が部屋を出るところだった。彼は大きなバッグを背負って、なるべく音を立てないように部屋を出て行った。恭介は鈴の様子を確認した。身体を丸めて、小さな寝息を立てていた。恭介は起き上がって、理樹の後を追うことにした。鈴には声をかけなかった。
 まだ真夜中だった。ひっそりと静まり返った街並みを歩いていた。動くものはといえば、理樹と恭介くらいのものだった。ちょっとしたミッション気分だった。懐かしいな。郷愁に目を細めた。
 理樹が辿りついたのは学校だった。恭介は声を上げそうになった。そこは彼らが通った学校だった。理樹の背中を追って、校舎の中へ入り、階段を上った。理樹は屋上へ出て行った。恭介は躊躇し、踊り場で足を止めた。そして割れた窓ガラス越しに理樹の様子を探った。理樹はバッグを置き、中から画材のようなものを次々と出していった。
 アイデアは皆無だった。しかし色を塗らなければならなかった。描けないなりに、思うような色が出せないのは敗北だった。貰った給料の大部分をはたいて買った絵の具やペンキを並べていった。マッチを擦り、ろうそくに火をともした。少量を指や腕につけて、色合いを確認していった。夜の暗さの中でこそ映える色もあるはずだった。
 それからはけや筆を使って、壁や地面に色を塗りたくっていった。何回目の書き直しかは憶えていなかったが、下書きはとうにできていた。今度こそという思いは強かったが、その一方で今回もだめだろうという確信があった。
 マスクをつけ、スプレーペンキで下地を強固な色へ変えていった。数缶が空になったところで、その場に座り込んだ。身体が重かった。あまり寝ていないからだろうと思った。
「理樹、これ、なんだよ。すごいな」
 理樹はその声に素早く振り返った。恭介がそこにたっていた。目を丸くして、一種のグラフィティアートを眺めていた。理樹は「恭介」と彼の名を呟いた。
「これ、お前が描いたのか? すごいよ」
「別にすごくないよ。こんなの、ただの不法侵入と器物破損だ」
 そう吐き捨てて、転がっているはけに手を伸ばした。恭介は「いやすごいって」と言いながら、理樹に近寄った。ペンキ缶を覗きこみ、そばに落ちていた筆を拾い上げた。そして何の気なしにその色を筆先につけ、壁を突っついた。朱色の点々が壁に残されていった。
 身体を起こした理樹は恭介の行動を見ていた。ぴょこんと立ち上がり、彼に近寄っていった。恭介は壁に立て掛けてあるスケッチを見て、色を塗っているようだった。理樹はその色を凝視してから、慌てて恭介の手を掴んだ。恭介は驚いた顔で「何だよ、いきなり」と言った。
「やめてよ。その色じゃないよ」
「え? そうか? こんな感じだと思うよ」
「違うよ。全然違う。それじゃ夜が混線しちゃう。そんな色じゃないんだよ。もういいから帰ってよ」
「でも……お前……」
「帰ってよ。帰れよ!」
 理樹に怒鳴り声に恭介はびくんと肩を震わせた。目が血走っていた。ゆっくりとした動作で地面に筆を置き、理樹の様子を伺った。理樹は何も言わずに、筆を拾い上げた。
「理樹、あのさ……」
 そう話しかける恭介に背を向けて、屋上のほぼ中央に置かれているバケツの元へ歩いていった。そしてしゃがみ込んで、筆先をゆすいだ。バケツにたまった水が淡い赤色に変色していった。
 恭介は踵を返して歩き出した。階段を駆け下り、踊り場で床の凹みに躓いて転んだ。乾いた音が静かな校舎に響いた。薄暗さの中に壁の白がやけに目立っていた。恭介は立ち上がってズボンについた汚れをはたき落とし、今度は転ばないように階段を下りた。
 中庭に出た。ときおり屋上に光が見えた。それはマッチの炎だったのかもしれなかった。しばらくそこから屋上を見上げていたが、夜が明ける前に理樹のアパートへ戻った。鈴は起きていた。泣きそうな顔で、「どこ行ってたんだ、うすのろとんまっ!」と罵りながら、上着の裾を掴んできた。





 深い眠りから目覚めた。真夜中だった。仕事も屋上での作業も、時間が不規則だった。日増しに今がいつなのかがわからなくなっていた。しかしそれはどうでもいいことでもあった。理樹はある日カレンダーを部屋の壁から外した。不要だと感じたからだった。
 むっくりと身体を起こした。気配を感じた。寝ぼけ眼をこすりながら、室内を見渡した。いつもと変わらない光景があった。本棚、ろうそく、衣装ケース。床に並べた絵のための道具や壁に貼り付けた絵も、変化はなかった。
 ふと台所を見た。寄りかかるようにして神北小毬が立っていた。夜の暗さの中でははっきりとは見えなかったが、台所の窓から差し込む光がかすかに彼女を照らしていた。表情まではわからなかった。ただぼんやりと浮かび上がっていた。
 理樹はとっさに、枕元に置いたマッチ箱を掴み、一本のマッチを擦った。彼女へ向けて、その小さな炎をかざした。小毬の姿は夜の暗がりへにじむように消えていった。理樹は二本、三本とマッチを擦ったが、彼女の姿はもうどこにもなかった。
 そのとき地震が起こった。かなり大きな揺れだった。本棚から数冊の本が落ちた。理樹は揺れが収まるのを待ってから、本を拾い上げた。元に戻そうとしたとき、本の表紙が目に入った。そこには『マッチ売りの少女』とあった。
 理樹はその場にしゃがみ込み、最初の頁から読み返し始めた。『舞台中央に古風なテーブル、三脚の椅子。やや上手に小さなサブテーブル、一脚の椅子がある』。そんな一文から、物語は始まっていた。そしてこう続いている。『これは古風な芝居である。従って古風に、いささかメランコリックに始まらなければならない。』。小さなフォントが、暗さの中では読み辛かった。
 理樹は落下した本の一冊一冊を丁寧に読み返した。いつか読んだ『マッチ売りの少女』はその中にあった。かつて思ったことを思い出し、理樹はその文庫本を壁に投げつけた。
「悲しいだけの話を、僕が救ってあげるんだ」
 その思いはいつしか失われていた。彼女との思い出を刻もうとするばかりで、自分は結局何もできていなかったのだと、そのときわかった。笑いがこみ上げてきた。滑稽だった。
 つい今しがた、小毬が立っていた台所へ目をやった。小さな窓から朝日が差し込んでいた。


 屋上の中央にあぐらをかき、必要な絵を画用紙に描いていった。それは下書きのようなものだった。一心不乱に描き続けて、日が暮れる頃には二十七枚の絵が出来上がった。それを屋上中に移すためにレイアウトを決めなければならなかった。二十七枚分の絵でちょうど屋上が埋まるくらいに、サイズを引き伸ばす必要があった。しかし最後の絵をどこに描くかが決まっていたから、そこから逆算していけば苦ではなかった。最後の絵には少女が描かれている。雪の朝、立っている少女だ。
 貯金をはたいて買ったスプレーペンキで下地を一から作っていった。理樹は今まで描いたものをすべて塗り潰していった。今となっては無用のものだから、もったいないとも何とも思わなかった。
 夜明け頃にはすべての作業が終わっていた。あとは絵を乗せていくだけだった。書き変えた『マッチ売りの少女』を最初の頁から一枚一枚書いていった。筆やはけだけではなく、爪や指や手を使って色をつけていった。汗や涙が絵の具に混ざることがあったが、色を作り直すことはしなかった。
 飲まず食わずで作業を続けた。爪が折れたり割れたりして使い物にならなくなってからは、校内にあるものを使って絵を描いていった。筆やはけだけではだめだった。特に曲線と直線のコントラストを出すためには、もっと硬いものが必要だった。幸い、後者には外れたタイルやコンクリートの塊が至るところにあったので、そういったものの調達に困ることはなかった。
 すべての絵を描き切ったのは一週間後だった。終わったと思ったとき、理樹は駈け出していた。校舎の流し場に行き、浴びるように水を飲んだ。
 屋上に戻り、改めてその様子を確認した。『マッチ売りの少女』が一面に広がっていた。しかし何かが足りないと思った。横になって空を眺めながら、何が足りないのかを考えた。太陽を薄い雲が覆ったとき、雪が足りないのだと思った。『マッチ売りの少女』の最初の一文はこう始まっていた。『それはそれ寒い日でした。』。ここには温もりばかりで、寒さがなかった。
 理樹はポケットから手を出し、手のひらを開いた。数枚の小銭が絵の上に散らばった。少女と同じく、金がなかった。白を買うだけの金はなかった。理樹はため息をつき、神北小毬が消えた場所へ立った。フェンスは取り外されたままになっている。そこから校庭を見下ろした。目に入ったのは掘立小屋のような体育倉庫だった。
 想像した通り、そこにはグラウンドマーカーやライン引きが残されていた。理樹はそれらを台車に押し込んで、校舎まで持って行った。屋上まで運ぶのは億劫だったが、やらなければならないことだった。
 理樹はグラウンドマーカーの袋を破り、屋上中に炭酸カルシウムの白い粉を巻いた。絵を埋めない程度のバランスが必要だった。むせ込みながら、その作業を続けた。それが雪に見えるように。
 結果的に絵画がじゃっかん立体的になった。最後にライン引きで文字を引いた。『END』という簡単なアルファベットだった。理樹はライン引きを校舎へのドアに立てかけた。そして中央に描いた少女の真ん前に座り込んだ。真っ昼間だった。汗が身体中にまとわりついていた。
 あぐらをかいて少女の姿と『END』の文字を見ていると、屋上が暗くなった。風に流れる雲に陽の光が遮られたのだった。理樹は視線を動かさず、じっと自分で描いた絵を見ていた。顔の汗を拭った。不意にどこからか伸びた足が炭酸カルシウムの文字を跨いだ。上履きを履いた、白く細い足だった。理樹の目の前に二本の足があった。それは見覚えのある足だった。
「僕はまだこんなところにいる。どこにもいけず、何にもなれないで。でもそれでもいいと思った。僕は君に対して無関心ではいられないんだ」
 理樹は顔を上げた。雲が太陽から離れ、逆光になった。目を細めた。はっきりとは見えなかったが、それが神北小毬であることははっきりとわかった。なぜなら、絵の具やペンキ、シンナーの匂いに紛れて、お菓子のような甘い匂いがわずかに彼の鼻をついたからだった。


 恭介は中庭に立っていた。何か大きな音がしたように思え駆け付けたのだったが、特に異変はなかった。片手は携帯電話を握っていたが、誰にかけようとしていたのか、それをさっぱり忘れていた。
 屋上を見上げた。フェンスの向こうに肩を並べて立って、何事か楽しげに話している理樹と小毬の姿が見えた。恭介は携帯電話をポケットに突っ込んだ。
「おい、馬鹿兄貴」
 恭介は振り返った。校舎へと続くドアのところに鈴が立っていた。彼女は肩で息をして、恭介を睨んでいた。恭介は鈴を見て、それから周囲を見渡した。屋上は、数日前に来たときとは描かれているものが大きく異なっていた。
 鈴の呼びかけを無視して、恭介は外れたフェンスへ向かって歩き出した。「ちょっと」と声をかける鈴に恭介は「来るな」と強い口調で言った。
「来ちゃだめだ、鈴」
 恭介は一歩一歩足を進め、屋上の縁へ立った。そして遠い地面を見下ろした。そこには直枝理樹と神北小毬が倒れていた。二人の周りにはべったりとした血液が広がっていた。二人との間に距離はあったが、二人がもう動かないことは見た瞬間に理解できた。だからその繋がれた手と手が離れないだろうことも容易に想像できた。恭介は縁に腰を下ろし、恋人たちのつかの間の永遠を見下ろしていた。


(了)


<参考、引用>
『マッチ売りの少女』/アンデルセン、翻訳・矢崎源九郎
『マッチ売りの少女』/別役実
『マッチ一本の話』/鈴木翁二
『ソラリスの陽のもとに』/スタニスワフ・レム、翻訳・飯田規和


[No.320] 2009/08/08(Sat) 00:11:05
立ち向かえ、現実に。 (No.303への返信 / 1階層) - HIMITSU☆6774byte

 まぶたを透かして射し込む光に鼻の奥をくすぐられ、ようやく自分が揺れていることに気付いた。
 ゆさゆさ。心地よい怠惰に埋もれた俺自身が掘り出されるのに合わせて、感覚が外へと繋がっていく。
 ――きて、おきてよきょうすけ――
 ああ、この声は。まぶたは縫い付けられたかのように開かないが、愛と勇気と根性があればうっすらと持ち上げることくらいは出来る。まあ実際に縫い付けられたわけじゃないしな。
 そして、からからに渇いた喉をなんとか湿らせて、微笑みとともに言葉をかけた。
「おはよう、理樹。あと5分寝かせてくれ」

 もちろん生真面目な理樹がそんな怠惰を許してくれるはずもなく、俺は布団と言う名の鎧を剥ぎ取られ、睡魔との闘いを始めることになった。
「ほら、馬鹿なこと言ってないで顔洗ってきなよ。途中で寝ちゃったらまずいんじゃないの?」
 ベッドの上で身体を起こしたままぼんやりと様子を見ている俺の横で、小言と言う名の攻撃呪文を繰り出して睡魔の体力を削りにかかる理樹。だが今回の睡魔は中ボスクラスらしく、あまり効果は出ていない。
「甘いな理樹。俺は小中高と入学式のたびに熟睡してきた男だ。もちろん会社の入社式でもパーフェクトを狙う」
 うつらうつらと舟をこぎながら親指を立てる。そこで半分閉じた視界に映る理樹の髪型がいつもと違うことにようやく気付いた。そのことを理樹に問うと、お下げに編んだ髪を弄びながらはにかんだように、
「鈴にやってもらったんだ。……似合うかな?」
 とうつむき加減に俺を見た。
「あ、ああ。似合ってるぜ」
 その視線に睡魔もろとも打ち抜かれ、気の利いたことも言えずに頷くしかできなかった。俺は義妹相手に何をうろたえているんだ。

 すっかり目が覚め、一張羅のスーツに着替えると一階へと降りた。まあ、着替えるときに朝のお約束的な一悶着はあったが、俺のディスカッターが云々とか思い出してもあまり楽しくはないのでもう忘れた。
 食卓には既に朝食が並べられていて、ベーコンとパンの焼けた香ばしい匂いが漂っていた。
「あ、おはようお兄ちゃん〜。朝ごはんできてひゃわっ!?」
 サラダが山盛りになった器を抱えた小毬が、キッチンから顔を出した瞬間に俺の視界から消えた。小毬が抱えていたボウルが斜め上向きの力を与えられて、回転しながらゆっくりと放物線を描く。いや、ゆっくりと見えるのは時間の流れが遅いからだ。気付いた瞬間に時間の流れは素の速さを取り戻し、宙を舞ったボウルはその先に座っていた人物の頭にすっぽりと被さった。
「あ……」
 ボウルを被った、いや被せられた少女はため息のような声をぽつりと漏らす。
「お早うございます、お兄さん」
「「ノーリアクションっ!?」」
 思わず理樹と同時につっこんでしまった。
「ほわぁ!み、美魚ちゃんだいじょうぶ〜?」
「どうした小毬ちゃん!ばか兄貴がなんかしたか!?」
 顔面から床にダイブしたのだろう、おでこを赤く腫らした小毬と、その悲鳴を聞きつけてキッチンの奥から飛び出してきた鈴、そして入り口で突っ立ったままの俺を順番に眺めた美魚はふむ、と呟いて。
「お兄さんのせいでこんなに濡れてしまいました。責任を取ってください」
「何その思わせぶり過ぎるセリフ!?」
 つっこみありがとう理樹。俺はうっかりドキッとしちまってつっこめなかったよ。

 誤解を解き、サラダを片付け、美魚が着替えを終えて皆で食卓についたころにはもう遅刻ギリギリの時間だった。
「いただきます……ごちそうさま!行ってくる」
「こら、ちゃんと噛んで食え!」
 鈴の声を背中で聞き流しながら家を飛び出す。「うひゃっ!?」誰かにぶつかりかけ、よろけた相手を慌てて抱きとめた。
「悪い、大丈夫か?」
「危ないじゃないかこんちくしょーっ、ておにーさん?」
 ああ、葉留佳だったのか。至近距離で顔をつき合わせて改めて挨拶を交わす。
「悪かったな。遅刻しそうで急いでたんだ」
「あ、そーいや今日が入社式でしたっけ。やー、おめでとーおめでとー」
「おう、サンキュ」
 お互いに微笑を交し合う。和むぜ。お隣さんどうしのコミュニケーションは大事だよな。だが、そんなあったか空間は長くは続かない。俺の背中に絶対零度の声が掛けられた。
「変態。3秒待つわ。葉留佳から離れなさい3210」
「「早!?」」
 お互い慌てて突き飛ばすように離れ、勢いあまって葉留佳は思い切り尻もちをついちまった。
「痛っ、たたたー」
「突き飛ばすなんて最低ね。最低」
「悪い。わざとじゃなかったんだが……」
 手を貸して葉留佳を立たせながら謝るものの、彼女のお姉さまは未だお怒りを解いていないと見え、小言で追い打ちをかけてくる。
「もう社会人なんですから、少しは落ち着いた振る舞いというものを見せてください……恭介兄さん」
 顔を背け、囁くような声で付け足したひとことに、俺と葉留佳は思わず顔を見合わせた。
「な、何よふたりとも」
「別に」「何でもないですヨ?」
 とぼけながらも顔がにやけてしまうのは抑えられず、それに伴って佳奈多の目もきりきりと釣りあがっていったので俺は早々に逃げることにした。

「お早う」
 佳奈多たちとのじゃれあいで思いがけず時間をロスしてしまい、駅までの道を全力疾走していた時だ。軽快なエンジン音が俺の背後に迫り、聞き覚えのある声がかけられた。
「は、はっ、よう、お、はよう」
 スーツでのダッシュにさすがに息が上がっていて、最小限の挨拶しか返せない俺に、原付にまたがった唯湖がスカートをはためかせながら併走する。
「先ほど家に寄ったのだがもう出かけたと聞いてな。追いつけてよかったよ」
「そっ。わっ、あ、なっ」
「『そうか。わざわざありがとうな』?いやいや、例には及ばんさ。鈴君たちの顔を見るついでに恭介氏へお祝いを述べようと思っただけだからな」
「なっ。おっ、よっ!?」
「『なんだ。俺はおまけかよ!?』?はっはっは、冗談さ。そう怒るな」
 唯湖は断片的な言葉から俺の意図を読み取って会話を成立させている。大したもんだ、まともに喋るのはさすがにきついから助かる。ただ、微妙に速度が合わず、先に行ってしまいそうな唯湖を追いかけなきゃいけないからそれはそれできつい。
「ちょ、すっ、おっ」
「どうしたんだ急に。『ちょー電磁スピニングバードおっぱい!』?強いんだか弱いんだかよく判らん技だな。というか朝からそんなことを考えているのか?」
 考えてねぇっ!?ちょっとスピード落としてくれって言っただけなのにそれじゃただの変な奴じゃないか。言い方が悪かったんだろうか。
「スピっ、おとっ!」
「違う?『HAHAHA!この間スピリチュアルカウンセラーに、俺の背後霊は池袋の乙女ロードで凝り固まった腐った思念だって言われちゃったんだ★』……すまん、何と言っていいか、かける言葉が見つからん」
「そりゃ俺のセリフだっ!!」
 どう考えても長すぎるだろうが。しかもHAHAHA!ってどこから出てきたんだ。つかそれ以前にワザとだろ意味わかんねぇ!?つっこみたいことは山ほどあるのに、今の一言でもう全力は使い果たしちまった。悔しさでヤケになりスパートをかけた俺は、唐突にスピードを落とした唯湖を簡単に追い越してしまった。
「どこに行く、もう着いたぞ?」
 予定より5分も早く駅に着いた俺は、かなり情けない顔になっていたと思う。

 駅で唯湖と別れ、ホームで電車を待つ列に並んだ俺は、時間を確かめようと携帯電話を開いた。全力疾走の間にメールが来ていた。
「お兄様はろーなのです!本日はお兄様の入社式だとお聞きしましたので、ひとことお祝いをしたいと思いメールしました。ほんとうはお電話で言いたかったのですが、朝のお忙しい時間ではお邪魔だと思いましたので。
 お兄さん、入社おめでとうございます。こんぐらっちゅれーしょんなのです!」
 にやけながら携帯の画面をじっと見ている俺はきっと怪しい男だろう。けれど遠く離れても兄と慕ってくれる女の子からのメールなんだ。にやけちまうのは仕方ないさ。
 ホームへと電車が滑り込んでくる。ドアが開く前から超満員だ。俺は携帯を閉じると静かに気合を入れた。
 今日から新しい戦場に乗り込むんだ、この程度で怖気ついてなんていられない。
 愛する妹たちのためにも。


[No.321] 2009/08/08(Sat) 00:15:48
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 夏の昼下がり。人影が一つ廊下の一角に立っていた。
「はぁー」
 陰鬱な表情で深く溜息を吐き、少女――古式みゆきは胡乱気に上を見上げた。

 ――何故こんなところに自分はいるのだろう。

 そこには屋上へと続く階段がある。
 ……いや、あったと言うべきだろう。
 階段の先は封鎖され、誰も表に出入りできない状況だった。
「っ」
 不意に右目が痛んだような錯覚を覚え、みゆきは思わず手を当てた。
 その手に最近体の一部として馴染んでしまっている眼帯の感触を感じ、抱いていた陰鬱な感情を更に増幅させた。
「どうしてなのだろう」
 今度は声にしてみゆきは疑問を口にする。
 考えたところで分からなかった。気づいたらここにいたと言うのが正しいのだ。
 無意識というのは怖いとみゆきは思う。この場所はずっと忌諱していた場所なのだから。
「……?」
 ふと何かの気配を感じみゆきは後ろを振り向いた。
 みゆきの暗い色を帯びた金色の左の瞳は一人の女生徒を捉える。
(誰だろう?)
 見覚えのない女の子だった。
 滲み出るほんわかとした雰囲気が幼いイメージを与えるが、たぶん同じ学年の生徒だろう。
 けれどみゆきとの面識は全くない。おそらくただ通りかかっただけなのだろう。
(ああ、でも先ほどの独り言、聞かれてしまったのかしら)
 みゆきは一瞬不安になるがすぐにその感情は冷める。
 何故ならそれはどうでもいいことなのだから。
 それに暗い表情で独り言を呟く人間に声をかけてくる酔狂な人間などいないだろう。
 そう思い彼女の存在をなかったものとしてみゆきは階段へと向き直ろうとした。
「……あの」
「え?」
 だから向こうから声を掛けられて酷くみゆきは驚いた。
「なん、でしょうか」
「え?あ、えっとねぇ、何してるのかなぁって思って」
「はぁ」
 とりあえず尋ね返してみた返答はこれと言って目新しいものではなかった。
 どうやら目の前の生徒は酔狂な部類の人間だったのだろうとみゆきは判断した。
 ならばもうこれ以上構わないで欲しいと考え、冷たく言い放った。
「いえ別に。ただ階段を見ていただけです」
「そ、そう」
「……あの、用がないならもういいでしょうか」
 拒絶。
 辛辣だとみゆき自身感じてはいたが改める気はなかった。
 元々それほど重きは置いていなかったが、あの日からみゆきにとって人との関わりは本当にどうでもいい事柄に成り下がっていた。
 だからこれで女生徒が不快な気持ちを感じようがみゆきは何の感想も浮かばないだろう。
「うっ、て、手強いよ〜。でもここで諦めちゃダメだよね……ようしっ」
 けれど女の子は僅かに怯むだけでなにか気合を入れ始めた。
 その様子にこっそりとみゆきは溜息を吐く。
「えっと、えっと、もしかして屋上に出たいのかな?」
「いえ、別にそういうわけではありませんが」
 理由があってここに来たわけではないのだ。
 なにより屋上に出ればあの一件を思い出さずにはいられないだろう。
 わざわざそんなことをするメリットはみゆきには全くなかった。
「うーん、でも前は行けたけど今は塞がれちゃってるんだよね。だからこのまま上っても屋上には出れないんだよ」
「はぁ……」
 みゆきが否定の言葉を口にしているのに全くそれを気にしていないようだ。
 というよりみゆきが原因でここが塞がれたと知って皮肉を言っているのだろうか。
 無邪気な顔でもしや黒い人?などと一瞬想像する。
「うーん、どうしよっかなぁ」
 本当に困ったような表情で悩み始める。
「いえ、別に構いませんから」
 というか放っておいて欲しい。それがみゆきの偽ざる気持ちだった。
 けれど当然というか、女の子は構わず言葉を続ける。
「ダメですよ。あんな深刻な顔で階段を見上げていたんだから説得力ないよ」
「いえそれは……」
 全くの誤解なのだがそれを説明するのは難しく、みゆきはすぐにそれを放棄した。
 はっきり言って面倒だというのが理由だ。
 もう流れに任せてもいいかもとすらみゆきは思い始めていた。
「うーん、なんとかしてあげたいけど見ず知らずの相手を誘うのもおかしいし」
「はぁ……」
「…………そうだっ!お友達になればいいんですよ」
 いいアイデアとばかりに女の子はポンと手を打つ。
「はい?」
 急な展開にみゆきは頭がついていかなかった。
 それも当然といえば当然か。女の子の言葉は全く脈略がないように見えたのだから。
「だから、お友達になりましょう。……ってことでお名前は?」
「え?えっと古式みゆきです」
 尋ねられて思わず正直にみゆきは答えてしまった。
 すぐ後悔するが後の祭り。
「みゆきちゃんか〜。私は神北小毬って言います。気軽に下の名前で呼んでくれると嬉しいな」
 みゆきが答えたのを聞いて女の子、いや小毬は嬉そうに名乗ってきた。
「小毬さん、ですか?」
「うんうん。小毬ちゃんとかでもおっけーですよ」
「い、いえ、それはいいです」
 さすがにそこまで気軽には話しかけられなかった。
 というよりみゆきのこれまでの人生の中で、下の名前で人の名前を呼ぶこと自体珍しい事柄だった。
「うーん、そっか残念。でもこれでお友達だね」
「……えっと、何故お友達なのでしょうか」
「え?お互い名前を知ったんだからお友達でしょ」
 不思議そうに小首を傾げ逆にみゆきは尋ねられてしまう。
「……えっと」
 そういうものなのだろうかとみゆきは頭を悩ませた。
 何か違うような気もするが小毬の態度に自分が間違っているような気持ちにみゆきはなってきた。
 とりあえず。
「……私ごときが友人を名乗るのはおこがましいと思うのですが」
「えー、そんなことないよ。みゆきちゃんはお友達だよ」
 反論をしてみるが軽くかわされる。
 いや、すでに数年来の友人のような態度を取られ大いにみゆきは戸惑ってしまった。
「けどこれで招待してもおっけーですね」
「招待?」
 なんのことだろうかとみゆきは首を傾げる。
 すると種明かしとばかりに小毬はポンと手を合わせ笑顔で答える。
「はい、そうですよ。実は今までお友達を何人か屋上にご招待してるんですよ」
「え?」
 『屋上』という言葉に思わずみゆきは尻込みする。
「だから、みゆきちゃんも屋上にご招待するね」
「え?いえ、えと……どうやってですか?屋上は塞がれているのでしょう」
 あまりの展開に焦るがとりあえずそれだけでも確認しようとみゆきは尋ねる。
 招待と言ってもその手段がないように思える。
 すると何故か小毬は胸を反らし自信に満ちた表情でポケットに手を突っ込んだ。
「ふふふっ、ですよ。実はこんなモノがあるんだよ」
「それは?」
「じゃーん、ドライバー」
 なるほど。確かにそれは小型のドライバーだ。
 でもこれで何をするのだろうとみゆきは首を傾げた。
「ふふ、付いてきてー」
「え?小毬さん」
 屋上に向かって階段を上り始めた小毬を追ってみゆきも続いた。

 そして――。
「ようしっ、到着」
 あまりにもアッサリと封鎖を解き、小毬とみゆきは屋上へと降り立った。
「……」
 しばしみゆきは呆然。
 先ほどの小毬の行動を思い出し、あんなにも簡単に屋上に出れてしまうのかと呆れていた。
「……小毬さん」
「ん?なあに?」
「私、少し貴女のことを誤解していたようです。……まさか不良だったとは」
「ふぇえ?違うよ〜」
 涙目になって反論してきたがどうにもみゆきは信じられなかった。
 まあ仕方ないだろう。先ほどの封鎖を解く手際はあまりにも手馴れすぎていたのだから。
「うー、違うのに〜。………コホン、とりあえずどうですかここに来た感想は」
 気を取り直して小毬はどう?と尋ねてきた。
「そう、ですね」
 抜けるような青空。さんさんと照りつける太陽。
「……暑いですね」
「や、そうじゃなくて〜」
 みゆきの答えに不満だったのか、泣きそうな顔で小毬はみゆきの顔を見つめる。
「はぁ」
 言いたいことはみゆきも分かっている。
 この景色はきっとひじょうに気持ちのいいものなのだろう。
 みゆきもあの件がなければ、いやそもそも右目を失っていなければ晴れ晴れとした表情で気持ちいいと言えただろう。
 けれど今のみゆきにはこの光景を楽しむ余裕は持ち合わせていなかった。
「いい景色だとは思いますよ」
 だから無難にそう告げるしかなかった。
「……そっか」
 小毬もそれ以上何か言うことはなく、隣でジッと青空を見上げていた。

「そうだ、みゆきちゃん」
「……はい、なんでしょうか」
 しばらくして小毬が話しかけてきた。
 帰ろうとでも言うつもりなのだろうかとみゆきは思った。
 けれど彼女の答えは180度違うものだった。
「お菓子を食べませんか?」
「え?」
「今日はワッフルとドーナッツを中心に持ってきましたー」
 驚くみゆきを尻目に小毬はどんどんと準備を始める。
 そして気づいた時には日陰にレジャーシートを敷き、魔法瓶とお菓子が広げられていた。
「いつの間に?というかどこにそれを持っていたのですか?」
 先ほどはそんな荷物を持っていたように思えなかったのだがと階段で会った時の小毬の姿をみゆきは思い浮かべた。
「ふぇ?えっと……乙女の秘密ですよ」
 けれどはぐらかされてしまった。
 おそらく事前に屋上に準備をしていたのだろう。
 ということはみゆきに出会わなくてもここに来る予定だったということだ。
「まあいいでしょう」
「うん、Never mindですよ。さっ、食べましょう」
「……はい」
 今更断るのも悪いと思い、素直にみゆきは頷きシートに腰を下ろした。
「ドーナッツをどーぞ」
「はい、頂きます」
 渡されたドーナッツはチョコが掛かった見るからに甘そうな代物だった。
 あまりそういったものを食べたことのないみゆきは一瞬躊躇したが。
「ん?」
 無邪気に見つめてくる小毬の視線に抗えずおずおずとそれを口にする。
「ん……美味しい」
 確かに甘いがそれ以上に美味しかった。
「でしょう。私のお気に入りなんだ」
 みゆきの反応に満足したのか、小毬は笑顔を向けてくる。
 なるほど。お菓子好きはお菓子好きでもお菓子の質に拘る筋金入りのお菓子好きなのかとみゆきは小毬の評価を決めた。
「ささ、ワッフルもどうぞ。これは私の手作りなんだよ」
「……頂きます」
 次に手渡されたワッフルも予想以上に美味しく、みゆきの舌を楽しませた。
「美味しい、ですね」
「うん、自信作なんだ」
「なるほど」
 そしてしばらく二人はお菓子を食べることに没頭する。
「……でも良かった」
 あらかた菓子を食べ終えたところで小毬は声をかけてきた。
「え?」
「みゆきちゃん、笑顔になったみたいで」
「っ!?」
 その言葉に思わずみゆきは自分の頬の手を当てた。
「さっきはまるで世界中の不幸を背負ってますって感じだったからね。うん、やっぱりお菓子を食べると幸せになるよね」
「……幸せ、ですか」
「うん。お菓子を食べて笑顔にならない女の子はいないんですよ。あっ、男の子も笑顔になるけどね」
 やっぱり女の子は甘いもの大好きだもん、と小毬は続けた。
 その言葉には少々反論したい気持ちがあるが、現実として笑顔を向けていたのだからみゆきは何も言えなかった。
 それよりも気になったことがあった。
「……どうして小毬さんは私にこのようなことをしてくれるのですか?見ず知らずの相手ですのに」
「ふえ?なに言ってるの?みゆきちゃんはお友達だよ」
「いえですから……」
 なぜ友人になろうとしたのかそれが気になったのだが答える気はないのだろうか。
 けれどしばらく小毬は考えた後苦笑を浮かべた。
「そうだね、理由としてはみゆきちゃんが辛そうだったから、かな」
「え?」
「さっき見たみゆきちゃんはなにか思いつめていたように見えたからね。だから力になりたいなって思って」
「っ、ですから何故です?そんなこと貴女に何のメリットもないじゃないですか」
 目の前の少女の行動原理が分からず、みゆきは無意識に後ずさっていた。
「んー、そうでもないよ。私のお菓子を食べてくれてみゆきちゃんが笑顔になる。そんな笑顔を見れて私も幸せ。そしたらみゆきちゃんもまた笑顔。ほら、幸せスパイラルですよ」
 にこにこと本当に幸せそうに小毬は笑顔を向ける。
 その笑顔は確かに言うとおり心をホッとさせるが、同時になんとも言えない恐怖をみゆきに与えていた。
 あの時から暗い感情に陥っているみゆきには小毬の笑顔は眩し過ぎるのだ。
(やっぱり屋上は鬼門です)
 思わずここから逃げ出したくなってみゆきは立ち上がろうとした。
「はい、どうぞー」
「え?」
 けれど不意に小毬からポッキーを差し出され、思わずそのままの姿勢で固まってしまった。
「あ、その……」
「どうぞどうぞ。美味しいよー」
「は、はぁ……」
 差し出されたポッキーをまじまじと見つめ、恐る恐る口に含む。
 そうしていると横で見つめていた小毬がゆっくりと立ち上がった。
「小毬さん?」
 突然の行動にみゆきは思わず声をかける。
「みゆきちゃん。私の趣味を一つ教えてあげるね」
「え?」
 すると小毬はそれだけ答え、ゆっくりと屋上のフェンスに向かって歩き出した。
 みゆきはというと突然の行動にただ呆然と小毬の行動を見つめるだけだった。
「えっとね、私を絵本を書くことが趣味なんだ」
「……絵本ですか?」
「うん。それもみんなが幸せになれるお話が大半かな」
 言われて思わずみゆきはなるほどと呟いた。
 確かに小毬のイメージからして絵本を書くならそう言ったジャンルを好むのは頷ける。
「あはは、まあ悲しいお話でもいい話はいっぱいあるのは知ってるけど、私は幸せだったり楽しいお話が好きだからね。自分が書く話はみんなそういう話なんだ」
「はぁ……」
 でも何故いきなりそんな話をするのだろうとみゆきは首を傾げる。
 すると小毬はフェンスに手をかけ振り返った。
「ねえみゆきちゃん。みんなが幸せになるお話ってどういうことだと思う?」
「え?」
 問われて思わず考え込む。けれどピンと来ない。
 とっさに聞かれたこともあるだろうが、それ以上にみゆきの中で幸せの定義というのが曖昧のままなのが原因だろう。
「それはね、主役の子が幸せになるのは当然だけど、登場人物が全員幸せになることなんですよ」
「……え?」
 その言葉に一瞬みゆきは虚を突かれる。
 あまりにも普通の答えのような気がして、すぐにそれが間違いであることに気づく。
「あの、それは単なる端役もということでしょうか?」
 その言葉に小毬はその通りと大きく頷いた。
「脇役も幸せにって作品は結構あるけど登場人物全員が笑顔になるお話ってなかなかないからね。実際難しいし私も登場人物を少なくしないとなかなか書けないけど、それでもみんなが幸せになる結末が望みなんだ」
 言い終えジッとみゆきの顔を小毬は見つめた。
 そんな小毬の姿を見ている内に何故かみゆきはあの事件の記憶を思い出した。
 それはちょうど小毬が立っているフェンスの先、そこで過去みゆきは立っていた。
 その記憶はこの場所を忌諱する原因となった出来事であり、思わずみゆきは顔を顰めそうになる。
「え?」
 けれどそこにありない姿を幻視する。
 記憶をどんなに辿ってもそこにいるはずのない剣道着姿の青年。
 それがそこにいた。
「なんで……」
 みゆきの理性はそれをありえない光景だと断じている。けれど心はそれを否定し切れていない。
 その奇妙さに思わずその人物の名を呼ぼうとして。
「じゃあそろそろ戻ろうか」
 小毬の言葉に現実に引き戻された。
「え?あ、その……」
「ん?何かを視たの?」
「え?」
「なんてね」
 その朗らかな笑みを見て、思わずみゆきはその手で自身の華奢な両肩を抱きしめる。
 小毬はというとそんなみゆきの姿を尻目にシートまで戻り片付けを始めた。
 そして気づいたみゆきも慌てて加わり奇妙なお茶会は終わりを告げたのだった。


「さてと、これでいいね」
 言いつつ、軽く小毬は手を払う。
 その先には屋上に行く前と変わらない封鎖された屋上へと続く扉があった。
「……物の見事に戻してしまうのですね」
「うん?慣れてるからねー」
 なんでもないように言う小毬の表情になんとも言えない表情を浮かべるみゆき。
「あっ、そうだ。これ渡しておくね」
 そう言いながら小毬が差し出してきたものは先ほどまで使っていたドライバーだった。
「これでいつでも屋上に出れますよ」
「え?その……」
 さすがに自分が貰ってもいいものかとみゆきは悩んだ。
 人から物を無償に貰うこともだが、それ以上にここを封鎖させてしまう原因を作った相手にそれを突破する術を与えてはダメだろうという思いの方が強かった。
「ノンノン、気にしちゃダメです。きっとこれはみゆきちゃんのためになるから」
「で、ですが……」
 ここは自分が忌諱している場所だから、そう告げようとしてみゆきは言葉に詰まる。
 何故かそれはもう正解じゃないような気がした。
「大丈夫ですよ。みゆきちゃんも分かってるでしょ、誰かが後ろばかり振り向く自分を前に向けようとしていたのを」
 小毬の言葉にみゆきは先ほどの人影のことを思い出していた。
「別に前を向いて歩けとか言わないよ。立ち止まったままでもいいと思うしね。けど気づいたならきっとみゆきちゃんは先に進むんじゃないかな。その時は私のお友達とも一緒に遊んでくれると嬉しいな」
「え?」
「幸せスパイラルですよ」
 そう言ってみゆきの手にドライバーを握らせると、小毬はそっとその場から離れた。
「小毬さん?」
「じゃあね。バイバイ、みゆきちゃん」
「あ、待ってっ」
 突如湧き上がった焦燥感に駆られ、みゆきは慌てて追いかけようと階段を駆け下り
「キャッ」
 誰かとぶつかった。
「す、すみません。人を追いかけていたもので」
「貴女ね。だからと言って前方不注意にもほどがありますわよ」
 そこにいたのは猫の耳のような形のリボンで両脇の髪を結わえた高飛車な印象を与える少女だった。
 小毬の姿はもうどこにも見えない。
「すみません。あのここから下りてきた子がどちらに向かったか知らないでしょうか」
 謝り、起き上がりつつも早く小毬に追いつきたくてついつい尋ねてしまう。
 タイミング的に目の前の少女は小毬とすれ違っているはずだから、どこに向かったかも知ってるかもしれない。
 けれど返ってきた返答は予想外のものだった。
「下りてきた子?申し訳ないですけど、わたくし誰ともすれ違っておりませんわよ」
「え?ですが……」
 どう考えても会わないはずがないのだ。
 その言い様ではまるで小毬は消えてしまったかのようだ。
「あの、その方はどのような容姿ですの?」
 みゆきが深刻そうな表情を浮かべたのに気づき、少女は気遣うように尋ねてきた。
 それが分かったのか、みゆきは僅かに表情を和らげた。
「そうですね、星型の髪飾りをされている方で、見ているだけで癒されるようなそんな雰囲気の方です」
「え?」
 だから小毬の容姿を告げた後、少女の表情が固まったのに驚いた。
「あの、えと……」
「………………冗談ではないのですね。それでその方のお名前は知ってらっしゃいますか?」
 しばらく呆然としていたが、少女はみゆきの表情から何かを感じ取り小毬の名前を聞いてきた。
「あ、はい。神北小毬さんという方ですが……ご存知ですか?」
 みゆきは彼女の名前を告げると、少女は口元に手をやり何事かを考え始める。
 そしてみゆきの顔を何度か見た後、更に質問をしてきた。
「重ね重ね申し訳ありませんが貴女のお名前を教えていただきませんでしょうか。もしかしたらと思うのですが……」
「え?……はい、古式みゆきと言います」
 頭を深々と下げて自分の名前を答えると、少女をやっぱりと小声て呟いた。
 なるほど自分のことを知っているということかと納得する。
 つまりあの事件も知っていると言うことだ。まあむしろ知らないほうが少ないだろう。
「それで、ここでなにを?」
 その問いは今まで以上に真剣なものだった。
 だからみゆきは嘘偽りなく答えようと思った。
「そうですね。ここで階段を見つめていると小毬さんに声を掛けていただきましてしばらくお菓子を食べながら談笑をしていました」
「……神北さんから、ですか?」
「ええ。なんでも私があまりに辛そうな表情をしていたからとのことですが」
 そう告げると少女はあの方らしいですわねと小さく笑った。
 そしてみゆきへと向き直る。
「あの方は貴女のことなんと?」
「え?その……」
 自らの口から言うのは気恥ずかしく、僅かにみゆきは逡巡した。
 だが少女からずっと見られていることに耐え切れず、顔を少し赤らめて答えた。
「……友達だと」
「そうですか」
 告げると少女は満足そうに頷いた。
「そういうことでしたら今から神北さんの友人のところへ行こうと思っていたましたので、良ければ一緒に参りませんか?」
「え?」
「ついでに道すがら色々と教えて差し上げますわ」
「は、はあ。ありがとうございます」
 いきなりの展開に戸惑いながらみゆきは頭を下げる。
「ですが、その……私はあの方を追いかけないと……」
「ですからそれも含めて、ですわ」
 申し訳なさそうに断ろうとしたみゆきの言葉を少女は遮るように言葉を重ねた。
 それになにか奇妙な感覚を覚え、みゆきは小さく頷いた。
「さて、では行きましょうか。……ああ、自己紹介がまだでしたわね。これは失礼なことを」
「い、いえ」
 自分自身もさっきは結構失礼だったなと思いながらみゆきは首を振る。
 そんなみゆきの姿を見てすっと姿勢を正し、優雅に頭を下げる
「わたくし、笹瀬川佐々美と申します。おそらくこれから長い付き合いになるのでしょうし、よろしくお願いいたしますわ」
「え?」
「ふふ……」
 名乗りの後に告げられた言葉にみゆきが戸惑いの表情を浮かべていると、佐々美は小さく笑みを浮かべた。
 その笑顔が何処かしら小毬に似ているようにみゆきは感じたのだった。


[No.322] 2009/08/08(Sat) 00:30:33
俺のいもうとがこんなにかわいいわけがないなんてことはない (No.303への返信 / 1階層) - ひみつ@6094バイト

 俺の気持ちをどうつたえたらいいのだろう。
 俺の貧弱な語彙で伝えるのは本当に難しい。『魂が、震えた』だの、『俺は今猛烈に感激している』だの、そんな言葉では俺の今の気持ちは1/100も表現できていない。
 そもそも言葉なんかでこの気持ちを伝えるというのがおこがましい。
 無意識のまま、手が目の方に動く。目頭を押さえると、そこには涙が浮かんでいた。人間は本当に感激すると涙が流れたことにも気づかない。
 そんなことを俺は始めて知った。
 ああ――本当にただただ、うれしい、だって、そうだろう?
「どうかしたのか、お兄ちゃん?」
 鈴が俺のことをお兄ちゃんって呼んでくれているんだから。


 俺のいもうとがこんなにかわいいわけがないなんてことはない



「お兄ちゃん、どうかしたのか?」
 人差し指を口元にたずさえて、不思議そうに、上目遣いで俺を見つながら、言葉を紡げる鈴。
 脳が――くらりと揺れた。反則にもほどがある。もう何年も鈴の兄をやってきたし、こんなことをいう鈴を毎日のように妄想してきたが、実際にやられると破壊力がまるで違う。鈴は今、まさに歩く生物兵器だった」
「なんでもないさ、鈴。しかしいったいどうしたんだ、俺のことを”お兄ちゃん”だなんて」
 心を勤めて冷静にして、鈴にいう。
「?お兄ちゃんって呼ばれるの、イヤ、なのか、お兄ちゃんって呼んでほしいっていったから呼んでいるんだが」
「いや、そんなことはない(0.1秒)」
「だったらいいはないか……お兄ちゃん」
「ああ、そうか、早く食べに行かないとな」
 時計をみるともういい時間になっていた。今から食堂にいくと授業にはぎりぎりとなるだろう。これじゃ、ゆっくり朝食を食べることもできない。
 そんなことを考えていると、鈴がいきなりモジモジし始めた。
「鈴、どうかしたのか?」
 トイレにでもいきたいのか、そんなことを考えたが、鈴の答えはまるで違うものだった。
「――お兄ちゃんのために朝食をつくったんだ、前いちどつくってくれっていっていたからなっ、な、なんだったらこれから毎日つくってもいいぞ」
 俺の目からまた、涙があふれていた。すまない、鈴、あんなことを思って。


 まっくろな卵焼き、半生なご飯、味が濃すぎる味噌汁といった、鈴のつくったおいしい朝食を食べ終え、俺らは学園を目指した。
 その途中で理樹と出会う。
「おはよう、理樹」
「おはよう、恭介、鈴も……おは、よう?」
 理樹が不思議そうな目で鈴をみるが、鈴は自然と「ああ、おはよう」と理樹に返した。理樹が不思議に思うのも無理はない。だって、俺と鈴は手をつなぎながら登校しているのだから。
「珍しいね、恭介と手をつないでくるなんて」
「お兄ちゃんと手をつなぎたかったからなっ」
 鳩が豆鉄砲をくらった顔を理樹はした。
「ごめん、鈴、もう一回いってくれるかな?」
「お兄ちゃんと手をつないで、学園にきたかったからなっ」
 もう一度大声で鈴はいう。その顔にはいっぺんの陰りもみられない。
 そんな鈴の様子をみた、理樹はまず頬をつねった。常々思うんだが、夢だと痛くないのか、と思う。次に、鈴の額に触れた。自分の額といっしょに触れて、熱がないのを確認したみたいだった。その後何度も何度も深呼吸をして――、頭を抱えながら理樹は言った。――というか理樹、お前はそんなにこんなふうになった鈴が信じられないのか。
「鈴、なんか変なものでも食べた?」
「どういう意味だ?」
 不思議そうな顔をする鈴。
「なんだ、理樹、俺に嫉妬しているのか?」
「いや、違うってば、ただ、鈴がすごく変だから、恭介をお兄ちゃんだなんて呼んでいるし」
「やっぱり、嫉妬していないか、理樹?俺がお兄ちゃんって呼ばれるのがうらやましいんだろう?」
「そういうんじゃないんだったら!ただ――」
 理樹は言葉をつながなかった。



 鈴がかわって、数日がすぎた。
「お兄ちゃん、おはよう」
 そんな言葉をかわし、起こされ、鈴のつくった朝食をたべ、手をつないで学園にいく。
 俺の望んでいた日々だった。
 鈴と理樹を育てるミッションにも大いに力が入る。ちょっとブラコンなところはあるけど、これくらいは十分許容範囲だ。
 きっと、うまくやれる。





 物語の主人公は言います。
 たとえば恋愛を謳った小説では「愛は永遠ではない」と。永遠の、愛なんてない、だから愛する二人は成長するのだと。ほかにも恋愛を謳った小説ではときに、「運命の出会い」なんてない、そんなことを登場人物はいったりします。後者は特にダークな作品に多いでしょうか。
 ほかにもたとえば夢に迷い込んだ小説では、「夢と現実は違う」「現実に帰ろう」と。夢に溺れていてはだめだから現実をいきなさい、と。
 こういう風な小説は本当に、たくさんあります。市販されている小説、同人の小説で、そういう話を何度も何度も見てきました。
 しかし、私は思うのです。 本当にそれでいいのですか、と。
 愛に永遠があってほしい、運命の出会いもあってほしい、夢と現実を一緒にしたい、現実に、帰りたくない。
 そんなことをまったく思わないのでしょうか。
「それをわかった上で、無理やりに立派なことをいうんじゃない?」
「はい、もちろん、そうだと思います、二木さん。彼らは――これらを望んでいてもかなわず、いろいろなトラブルを経て、望みをすてることになるわけですが――もし、トラブルがなければ、それがそのまま続いたんです」
 物語の主人公が望んだことがいろいろなトラブルでかなわなくなっていく。そんな風にストーリーは進んで、主人公は望みは悟る。たいていはそんな流れに話はなる。
 しかし、物語の中で起こるトラブルなんてほんの少しでしかない。たった、1、2度でしかない。その程度のことで望みを捨ててしまう。
 現実に、帰りたくない、夢から覚めないといけないといったテーマの場合、もっと話がひどくなることが多い。なぜならはじめからそういう結論で話がきまっているのだから。
「この話が現実の出来事ではない、となったら8割くらいは 「夢と現実は違う」なんて結論に達して、世界に戻るのです。ですが、本当にもどっていいのでしょうか、それがずっと続くと確定している世界だとしたら、現実とどのくらいの差異があるのでしょうか。あなたもそれを望んでいるでしょう?」
「ええ…」
 私は妹がずっとこの世界で幸せに暮らせばいい、そう、思っているのだから。
「恭介さんはたしかに鈴さんと直枝さんをそだてるために、この世界をつくりました、しかし、その願いはかなえられることはないです、だって、あの鈴さんを本物だと思っているのですから」
 あの鈴さんは、本物ではない。この世界がずっと続けばいい、そんな願いがあの偽者の鈴さんをつくったのだ。
「恭介さんは、そんなことにも気づきません、鈴さんがあんなにかわいいわけがない、そのことに気づけばきっとあの鈴さんは消えるのですが」
 彼はきっと最後にこの世界が偽者の世界だと鈴さんと直枝に告白するつもりだろう、そして現実に生きろ、なんていうつもりだろう。だけど――彼はあの鈴が偽者なことすら気づいていないのだ。気づきそうなものなのに。
「滑稽ね……ほんと」
 こんなことならもともと無理だっただろう。この世界を作った本人すら、現実をちゃんと認識しないのだから、二人の人間を成長させようということがおこがましい。
「この世界は、終わらないわね」
「そうですね、きっと」
 私たち二人は笑いあった。


[No.323] 2009/08/08(Sat) 00:33:29
締め切り (No.303への返信 / 1階層) - しゅさい

電車の中から締め切った!

[No.324] 2009/08/08(Sat) 00:38:33
[削除] (No.323への返信 / 2階層) -

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[No.325] 2009/08/08(Sat) 00:41:35
「おやすみなさい」補遺  (No.314への返信 / 2階層) - 秘密(おまけ3129 byte)

 僕の名前は、直枝理樹。
 僕の役割は、沙耶が望む通りに「直枝理樹」を演じること。
 ここでは彼女が全て。皆、彼女の願った世界の部品として、それぞれの役割を果たしている。彼女が望めば、僕たちは何でもする。
 ただし、「ここから出て行くこと」はその限りではない。

 辺りはもうすっかり暗くなっていた。僕は一人、中庭を歩いていた。
 僕は、禁忌を犯してしまった。
 自分の手のひらをじっと見つめる。沙耶の体温が微かに残っている、そんな錯覚に陥った。
 なぜ、僕は出口を与えてしまったのだろうか?彼女の涙を見たせいだろうか、と考えたが、それはすぐに却下された。「直枝理樹」であればそんな彼女に心動かされ、何かしてあげたいと思うのかもしれない。だが、僕にはもとより、動かされるような心が無い。
 ただ、ここに居てはいけないと判断した。この世界は沙耶の望みを叶えるためにある。だけど、ここにはそれ以外、何も存在しない。
 沙耶の言葉を思い出す。僕は彼女に、何故この世界から出るのかと問うた。彼女は、生きるためにここを出る、と答えた。どうせここを出ても、ほんの少ししか生きられない、それを知っているにもかかわらず。
 彼女にとって「生」はどんな意味を持っていたのか?僕には、最後までわからなかった。それほどにまで価値があるものとは思えなかったが、そこに答えがあるような気がする。
「あ―――」
 突然バランスを崩し、僕は倒れ込む。顔面が地面に叩きつけられる。足元に目を遣ると、僕の足首が崩れていた。痛みも何も無いから、異変に全く気付かなかった。崩れた足は白い羽になって、空に、舞い散っていた。
 僕は目を瞑り、沙耶の意識を探す。しかし、いや当然というべきだろうか。いくら経っても彼女を見つけることは出来なかった。
 ああ、沙耶は今まさに、この世界を去ってしまったのか―――
 そして、その結果がこれか。僕はうつ伏せになり、上体を起こして、崩壊が自分の太ももへと進んでいくのをぼんやりと眺めていた。
 周囲を見回してみる。木も草も校舎も、末端部や表面からボロボロと崩れ、崩れた部分が白い羽になって空中を踊っていた。おそらく、寮の中の生徒もみんな、同様に崩れ始めているのだろう。そして全てが白い、羽となって、この世界は白で塗りつぶされる。その白は、色の「白」であると同時に、空白の「白」なんだろう。
 もうすぐ、僕はこの世界ごと、居なくなってしまう。これは、「死」と同じことなのだろうか。
 何だ、僕たちも死ぬのか。だとしたら僕たちは、今まで生きていたということになる。人と同じように。
 でも、人のように死ぬのが怖いとは思わない。これからずっと動くことがなくなる、というのが僕の認識だ。同様に、生きていて楽しいと思ったことは無い。決められた動作を繰り返す、沙耶が願えばその対応を行う、それだけが僕の中の「生」だから。
 沙耶は、この世界から出て、どうなってしまったのだろうか。―――やはりすぐに死んでしまっただろう。しかし、そんな彼女を、僕は羨ましいと思ってしまった。自分の意思で生きる、僕にはよく分からないことだったが、それを何故か羨ましいと思ってしまったのだ。これは、果たして「直枝理樹」の感情なのだろうか?
 空を見上げる。月が出ている。赤い、赤い月だ。それが白い羽に包まれる。空はもう羽に包み込まれてしまった。音も何も聞こえない。そこにあるのは静寂だった。そこにあるのは深々と舞い散る羽だった。
 あぁ―――そこで僕は気付く。そうか、あのとき僕もまた、自分で選んだんだ。自分の意思で生きること。それにこそ意味があったのだ。

 そして全ては散り果てた。校舎も木々も空も、僕の体も無くなった。
 この世界には、羽の白と、そして果てしない虚空だけが存在していた。


[No.327] 2009/08/08(Sat) 21:09:47
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