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   第30回リトバス草SS大会 - 主催 - 2009/04/02(Thu) 22:17:21 [No.43]
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三千世界のからすを殺し - ひみつ@3906byte - 2009/04/03(Fri) 21:57:02 [No.47]
きみのためなら踏める - ひみつ@12526 byte 誰得 - 2009/04/03(Fri) 21:41:51 [No.46]
- ひみつ@10066 byte - 2009/04/03(Fri) 01:44:16 [No.45]



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第30回リトバス草SS大会 (親記事) - 主催

 詳細はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/rule.html
 この記事に返信する形で作品を投稿してください。

 お題は「心」です。

 締め切りは4月3日金曜24時。
 締め切り後の作品はMVP対象外となりますのでご注意を。

 感想会は4月4日土曜22時開始予定。
 会場はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/chat.html
 はじめにMVP投票(最大3作まで投票可能)を行いますので、是非是非みなさまご参加くださいませ。
 ご新規、読みオンリー、感想オンリー、投票オンリー、大歓迎でございます


[No.43] 2009/04/02(Thu) 22:17:21
(No.43への返信 / 1階層) - ひみつ@10066 byte





私は青い空をただよふ白鳥です。
私はあをいうみをただよふ白鳥です。





「おはよー」
「あっ、おはよー」
「そうそう、ねえ、聞いてよー。こないださー・・・・・・

ホームルームが始まるまでの弛緩した時間。
次々と生徒たちがわたしの前を通り、友人たちと挨拶を交わしていく。
徐々に騒がしくなっていく教室を、わたしは廊下側の一番隅にある席からぼんやりと眺めていた。

「おはよー、西園さん」
「はよー」
「西園さーん。昨日、あの雑誌出てたよー。もう買った?」
「ええ!?買ってない買ってない。忘れてたよ。放課後買いにいかなきゃ」
「あっ、じゃああたしも駅前行こうかな?一緒に行こーよ」
「うん、いいよ」

そんな騒がしい教室の中心に彼女、西園美鳥がいた。
まだ、クラス替えから1月も経っていないと言うのに、既に彼女はクラスの女子の中心になっていた。
いや、女子だけではない。そのとっつきやすい性格のおかげでクラスの男子たちとも仲が良い。
あの子のまわりには、いつも人がたくさんいて、笑い声が絶えることは無い。
・・・・・・それにしても、毎日顔を合わせているに何をそんなに話すことがあるのだろう。
聞いてみれば、今日の授業のことや、TVや雑誌の話、恋愛のはなし。
そのどれをとってもさほど意味があるわけでもなく、会話をするために会話をするといった感じ。
そんなことをするくらいなら、ひとりで本を読んでいたほうが何倍も有意義だし気楽だ。
そんな面倒なことを毎日毎日やっている美鳥や他の女の子たちに対して、呆れを通り越して尊敬すら覚える。
やがて、予鈴が鳴り、担任が入ってきた。
「皆おはよう。では、出席をとる」
わたしは視線を教壇へと移し、担任の出欠確認をぼんやりと耳にしていた。
「棗」「ハイ」「西園」「はーい」「西谷」「はい」
また今日も、退屈な一日が始まる。





お昼休み。
わたしは、美鳥を連れて中庭にいた。
ケヤキの下では、生い茂った新緑が、5月の日差しを遮っている。
そこでわたしはケヤキの下、美鳥は太い枝の上にそれぞれ陣取り、昼食をとっていた。
「お姉ちゃんがお昼に誘うなんて珍しいね。どうかした?」
「美鳥は・・・・・・あなたは、毎日皆と他愛の無いおしゃべりをしていて楽しいんですか?」
「あー・・・・・・また、そのハナシかあ。そんな『楽しいか』って訊かれたら返答に困るんだけどな」
風が吹き、ケヤキの葉がさらさらと音を立てる。
足元の鳩たちの鳴き声、羽ばたく音が聞こえる。
中庭の芝生に陣取る他の生徒たちの話し声が大きくなる。
沈黙を破ったのは美鳥の方だった。
「うーん、クラスの皆はさ、あたしに話しかけてくれるしさ。何ていうのかな、クラスの人気者?あたしはそんな人だからさ。やっぱり、楽しいんじゃないかな?」
これまでも何度も行ってきたやり取り。
何度やっても美鳥の言っていることが理解できない。
それは、子供のころに雲の形が何に見えるかで口論になったときと同じだ。
美鳥には、雲が動物や食べ物に見えるわたしがわからない。
わたしには、グループの中で楽しそうに談笑できる美鳥がわからない。
そして、その『わからない』はきっと、これからもわからないのだろう。
わたしはそんな不満を視線に込めて、美鳥を見つめ続けると、突然美鳥が目を逸らした。
「あ、理樹君だ」

「やっほー、理樹くーん」
美鳥は中庭をきょろきょろと見回していたわたし達のクラスメイト、直枝さんに声を掛ける。
「上うえー。どこ見てんのー」
「あっ、居た居た。西園さん」
美鳥に気付いた直枝さんがケヤキに向かってくる。
そして、ケヤキの下から、枝の上の美鳥に話しかける。
「って、ちょっとどこ上ってんのさ!?危ないから降りてきなよ!」
「うーん、降りてもいいんだけど。それだとむしろすけべな理樹君の方が危険かなー?」
その意味を察した直枝さんの頬が朱に染まる。
「あはは、かわいいねー理樹君は。で、どうしたの?」
「ああ、そうそう。恭介が今日の放課後、部室に集合だってさ。何かあたらしいことを思いついたみたい。」
「へえ、恭介さんも暇人だねえ。就職活動中の身の何処にそんな暇あるのやら」
「確かにね。じゃあ、僕は教室に戻るから。危ないから早く降りなよ」
「はいはい。理樹君が行った後に降りますよー」

直枝さんが去った後、下に降りてくる美鳥を眺めながら。
最近美鳥は、彼や棗先輩をはじめとするリトルバスターズなるグループと付き合い始めたようだ。
それも、かなりのお気に入りのようで、今ではリトルバスターズの面々と話をする時間が一番多くなっていた。
そんなに他人と関わって、何が楽しいのか。
やはりわたしには、美鳥の考えがわからない。





夕方。
鬱々とした梅雨の合間、久々の晴れだったのでリトルバスターズの面々は野球の練習を行っていた。
今は、その練習後。
他の皆が落ちているボールを探している間、美鳥はグローブなどの練習道具の片づけを行っていた。
わたしは一緒に帰るために自分と美鳥の鞄を持ち、彼女の傍、部室の前で待っていた。

美鳥を待つだけなら、別に図書室でも渡り廊下の前でもどこでもいいのに、何故わたしは部室前という場所で待っているのだろう?
・・・・・・それは多分、美鳥が羨ましいと感じ始めているからなのだろう。
リトルバスターズの人たちと一緒にいるとき、あの子は一番楽しそうにしている、そんな気がしている。
わたしもその輪に入りたいと思っているのであろうか?
これまで、あれだけ他人を拒絶していたわたしが?
最早わたしには、自分の考えすらわからない。

そんな中、リトルバスターズのメンバーのひとり、来ヶ谷さんがボールの入ったバケツを持って美鳥の隣にやってきた。
「ちょっといいか」
「あ、来ヶ谷さん。おつかれー。どうしたの?怪我でもした?」
「いや。ひとつ、キミに訊きたいことがあってな。」
「美魚君。キミは、そんなに重たい仮面を被り続けて、苦しくはないのかい?」

一瞬、聞き間違いかと思った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・彼女は何を言っているのだろう?
『仮面』という普段聞かない単語も謎だが、重要なのはそこではない。
今、彼女は、美鳥に対して『美魚』と呼びかけた。
何故、彼女は美鳥の名前を間違ったのだろうか?
もう6月なのだから、クラスの子達が美鳥の名前を間違えるはずがない。
皆、美鳥のことを『美鳥』と・・・・・・・・・
いや。
呼んでいない。
わたしの記憶が確かなら、皆『西園』と呼んでいる。
しかし、それではおかしいではないか。
クラスには、わたしと美鳥、ふたりの『西園』がいる。
それに対して『西園』と呼べば混乱するはずだ。
混乱しないとするのであれば、「『西園』といえば美鳥を示す」という暗黙の了解があることになる。
確かにわたしは彼らと殆ど接点を持っていないから、それなら納得できる。
しかし、現に誰かが『美鳥』と呼んでいる記憶は無い。
教師でさえも。

わたしは頭の毛穴という毛穴からぶわっと冷たい汗が吹き出てくるのを感じた。
もうすぐ夏だというのに、なんという寒さだろう。
指先などは真っ白になってしまっている。
わたしは震える指で、すぐさま二人の鞄に手をかける。
二人の鞄から、それぞれの名前が入ったノートなり教科書なりが出てくれば、わたしの記憶違いで済む。
しかし、ノートも教科書も出すことは出来なかった。
わたしが手にしていたのは誰の鞄でもなく、グローブだった。
先程まで美鳥が座っていた場所に、わたしがいた。

そのことがますますわたしを混乱させる。
ほんの一瞬でわたしが美鳥の位置に移動した。
しかし、美鳥と入れ替わったというわけではなく、美鳥の姿は見当たらない。
あの子は何処へ行ったのだろうと考え、次に自分について考えたとき、背筋を悪寒が走った。
心臓の音が鳴り響く。
わたしは、今まで、何処に居たのだろうか?
そもそも来ヶ谷さんは部室前に立っていたわたしに全く気付いたそぶりは見せていなかった。
そういえば、似たようなことはいくつもあったのだ。
教室の中で。
中庭の中で。
何処に、美鳥の席はあったのだろう?
何故、彼はわたしに気付かなかったのだろう?
目の前がぐわんぐわんと揺れているような錯覚に襲われる。
わたしは恐ろしさに叫び声を上げようとするが、金縛りにあったように声を上げることすらままならない。
自分が立っているのか座っているのかさえわからなくなる。
美鳥は何者なんだろうか?
わたしは何者だろうか?
名前を区別されないわたし達、同一地点に同時刻に存在するわたし達。
それらが示す結論は――――――――――



「美魚君、どうした?具合でも悪いのか?」
心配そうな来ヶ谷さんに、美鳥、いや、『わたし達』は答える。
「大丈夫。だけど、仮面ってどういうこと?」
自分でもぞっとするような冷たい声が出た。
「あ、ああ。すまない。私が言いたかったのは、キミの社交的な部分がキミ自身に負担となっていないかということだよ。」
そこで、仮面の意味に気付く。
なるほど、読書家な来ヶ谷さんらしい発言だと思う。
確かに美鳥にはぴったりの表現なのかもしれない。
わたしとは違って、他人と話をするのが好きな美鳥。
確かにクラスの人気者という社会的役割を果たしていたと思う。
では、わたしは何なのだろうか?
「ふーん。じゃあ、何で来ヶ谷さんはそう感じたわけなの?」
「それは・・・・・・私自身がキミのような表情をしていたからだよ。いや、今もまだそうなのかも知れないな」
意外な言葉だ。
いつも自分の気の向くままに行動する傍若無人の権化のような彼女から出るとは到底思えなかった。
しかし、言われて見れば思い当たる節もある。
彼女の笑い声はいつも判で押したように同じで、つくりものめいていた。
「キミに比べるとまったく児戯に等しい程度のものだったが、それでも私はすぐに自己嫌悪に陥って止めてしまった。最近のキミを見ていると時折つらそうな顔をしていたんでな。もしかしたら私のそれと同じじゃないかと思っただけだ」
『わたし達』は立ち上がると背伸びをした。
「んーーっと。ありがとっ、来ヶ谷さん。気を遣ってくれて。でもあたしは大丈夫。こーいうのには慣れてるんだから」
「騙し続けるのは、つらくはないのか」
「ん。つらくはないっていうと嘘になるけど。だからって今更止められないじゃない。あたしは来ヶ谷さんとは違って気が弱いからさ。それに嘘からでた真ってことわざもあるし、ずっとずっと続けていけば、そのうち何も感じなくなるよ。きっと」
それを聞いて、来ヶ谷さんは不安そうな表情を一層深めたが、一転、いつもの不敵な笑みを見せると。
「・・・・・・ふむ。なら私から無理強いする気はない。しかしな、何かあったら私に相談してくれ。おねーさんはいつだってかわいいものの味方だからな。」
「ありがとう。でも今日話せただけでも十分感謝してるんだから。久々に真面目に話をしようと思えたし。」
「おーい、来ヶ谷、西園ー。そっちは終わったのかー」
他のメンバーたちも部室に戻ってくる。
結局その日は来ヶ谷さんとはこれっきりだったけど。
わたしは自分が何者であるか、そして何をすべきかわかりかけてきた気がする。










そして今、わたしは暗闇の中に居る。
修学旅行の最中、わたし達の乗っていた観光バスが崖から転落したのだ。
どうやら、わたしを含んだクラスの皆は、直枝さんと棗さんを残して、もうじき全員死んでしまうようだ。
しかしそれまでの間、『わたし達』を含むリトルバスターズは1学期を繰り返す夢を見続けるらしい。
そこは走馬灯のようでもあり、自分の願いがかなう天国のような場所でもあり。
わたしは暗闇の中、美鳥と会話をした。
「お姉ちゃん。本当にいいの?」
「ええ、これが最期の我侭になるでしょうから」
「じゃあ、一旦お別れだね」
「そうですね」
「でも、いつかあたしはお姉ちゃんの前に現れるよ。あたし達は二人で一人なんだから」
「そのときが来たら、あなたに全て返しますから」
わたしにはもう、自分が何者であるかわかっていた。
影。わたしこそが影だ。
わたしの願いはただひとつ。
最期に、わたしを見てほしい。
直枝さんや来ヶ谷さん、そしてリトルバスターズの皆に。





夢の中。
再び見える新緑の午後。
わたしはケヤキの下で待っている。
青い空に響くバットの音を。白鳥のように空を飛ぶボールの白を。そして、彼のすがたを。


[No.45] 2009/04/03(Fri) 01:44:16
きみのためなら踏める (No.43への返信 / 1階層) - ひみつ@12526 byte 誰得

 深夜、人気のない校舎の廊下に、荒い息遣いが響いていた。
 薄暗い床には、もぞりと動く少女の人影があった。後ろ手と両足、そして胸周りと下腹部に至るラインを衣服の上から荒縄で縛られ、腹を下にした状態でもうひとつの人影を見上げている。窓から射し込む月明かりだけが頼りの視界では、はっきりとした表情がわからない。ただ、自分を見下ろす瞳がとても静かな色をしていることを、彼女は知っていた。
 小さく身を捩ると、服越しに肌を締めつける縄が擦れる。直接触れている手首には擦過の痛みが、靴下や制服、下着に包まれている箇所には仄かな熱と炙るような快感が走り、床に伏せた彼女の顔がさらに赤みを深めた。こぼれる吐息が艶やかさを増す。
 与えられる苦しさも、この屈辱的な状況も、彼女にとっては決して不快なものではなかった。
 ただ。
「……ねえ、理樹くん」
 ずっと、何かがおかしいと思っていた。付き纏う違和感の正体を考え続け、ようやく今日、答えに辿り着いたのだ。
 故に彼女は決断した。心地良い現状を捨ててでも、やらなければならないことに気付いた。
 顔を上げる。どうしたの、と問いかけてくる彼に、縛られることで強調された両の胸を張りながら、
「あたし、明日からSになろうと思うの!」
「……え?」
 高らかに。
 朱鷺戸沙耶は、自らの恋人に宣言した。





     きみのためなら踏める





 今更言うまでもないが、彼女は真性のドMである。
 つまり踏まれたり縛られたり罵倒されたり放置されたりすることで性的快感を得るという、人間的にどうしようもないどころかもう完全に手遅れな性癖を持つ変態なわけだが、彼女は自分が変態であることに誇りを抱いていた。
 マゾヒストとは、ある意味相手の全てを受け入れる存在だ。ガッチガチに荒縄で拘束され、さらに宙吊りにされた挙句そのまま二時間放置プレイに移行したって、投げ出された素足をふやけるまで舐めさせられたって、もう少しで達しそうだという状態であまりの寸止めっぷりにビクンビクンしているところを言葉攻めされながら携帯のカメラで撮影されたって、沙耶は理樹を愛していた。もう何されたって構わないと本気で思っていた。というかそれらの行為は全部理樹に(場合によっては土下座してまで)頼み込んでやってもらった。
 これで理樹がぶっちゃけ不能だったら二人の関係はアブノーマルな方向へ全力疾走することもなく、それどころか恭介辺りとキャッキャウフフしていた可能性も無きにしも非ずだが、見た目が如何に可愛かろうと彼も立派な男の子なので、十八歳未満お断りの行為に関しては興味があった。それに、沙耶は正直エロい。リトルバスターズ随一のスタイルを持つ来ヶ谷と比べれば僅かに劣るものの、豊満で形の良いおっぱい。びっくりするほど白いうなじ。細く滑らかな腰のライン。同じ人間とは思えない、柔らかくてぷにぷにした肌。適度に肉の付いたしなやかな手足。くらっとするような曲線の尻。理樹の中で美化している面は多分にあるが、それを差し引いても彼女からは充分過ぎる魅力を見出せた。
 ……ここまでだと互いの愛称はぴったりのように聞こえる。しかし、唯一残念なことに、理樹もまたどちらかと言えば受けだった。サディストのふりをすることで仮初めの充足を得ていても、何かが違う、という意識が心のどこかでくすぶっていた。
 沙耶は、彼をいつも目で追っている。だからこそ、その微妙な違和を悟れないはずはなかったのだ。
「ということで理樹くん、準備はいい?」
「いや、ちょっと待ってよ沙耶。何でこんなことになってるのか、未だに僕はわかってないんだけど」
「もう……昨日ちゃんと説明したでしょ。それとも聞いてなかったの?」
「聞いてたけど理解できなかったというか、したくなかったというか……」
「……わかったわ。じゃあ、今度はしっかり話を聞いてよね」
 基本的に、二人の逢瀬の時間は深夜に限られる。理樹の部屋は真人がいるので当然使えるはずもなく、沙耶は部屋が云々以前に寮住まいですらなかった。かといって野外プレイはリスクが高過ぎるので週一程度しか実行できない。
 結果、安全に、かつすぐ証拠隠滅ができる場所を探したところ、見回りが済んだ後の校舎内がベストだ、という判断を沙耶が下した。その結論自体には、理樹も異論はない。ただでさえやっているのは見つかったら通報されてもおかしくない犯罪スレスレの行為なので、絶対人目に付かないことが最低条件だからだ。
「理樹くんを見ててね、もしかしてあたしは、ずっと無理をさせてきたんじゃないかって思ったのよ。あたしのしたいことを優先して、理樹くんには意に沿わないことをさせちゃってたのかな、って」
「……別に、そんな風には思ってないよ」
「でも、SかMかで言うなら理樹くんってMでしょ? それなのにあたしばっかり理樹くんにいじめる役を押しつけちゃってたんだもの。こんなの、カンッペキにひとりよがりじゃない」
「じゃあ、僕が縛られてるのは……」
「とりあえず今度はあたしが攻める立場になれば、お互い新しい何かに目覚めるかもしれないと思ったから」
 何かがおかしい。けれどおかしいところがあまりに多くて具体的にどこがおかしいのかを指摘できずにいた理樹は、昨日の沙耶と同じようにきっちりばっちり縛られた状態で仰向けになっていた。逆さに映る沙耶の顔は、気のせいでなければほんのり上気していて艶かしい。
 すっとしゃがんで目線を下げた彼女は、右の踵に指を差し込む。脱がれた靴が床に残り、膝下まである白い靴下に包まれた足が宙に浮く。今度は腰を下ろし、靴下に手が添えられた。互いの息遣いしか聞こえない夜の廊下に、しゅるしゅると微かな衣擦れの音を響かせて、沙耶は自分の右足を露わにした。普段は見えない五本の指と、骨張った感じのない可愛らしい足首が視界に入る。
 思わず、理樹はごくりと喉を鳴らした。その足指に蹂躙される光景を想像したから……というのも勿論あるが、丁度彼女の真下にいると、片足を軽く上げているのでもろにぱんつが見えるからである。黒のレース。珍しくアダルティだった。
 下着を凝視されていることに気付かないまま、ゆっくりと沙耶の足が近付いてくる。徐々に隠れていくぱんつ。複雑な気持ちを抱きながら、もういいやと諦め気味に現状を受け入れた理樹の頬に、ひんやりとした足裏が触れた。顔が地面に押しつけられ、乗った足がぐりぐりと動く。床に頬骨が当たるのは少し痛かったが、不思議と彼女の踏み方からは優しさが感じられて、嫌だとは思わない。あとぱんつ。
 こんなにも屈辱的な状況なのに――確かに、理樹は興奮していた。
「ふぅん……。やっぱり、理樹くんも変態なのね。あたしに踏まれて感じちゃってるんだもの」
「あ、ぅ、こ、これは不可抗力というか何というかむぎゅ」
「喋っていいなんてひとことも言ってないわよ」
 蒸れた汗の匂いが鼻につく。そこに淡く混ざる、沙耶自身が放つ脳を蕩かすような女の子の香り。そしてぱんつ。
 鋭く細められた彼女の瞳が、嗜虐の色を宿して揺らめいた。踏みつける足が乱暴に理樹の身体を転がし、うつ伏せにさせる。胸元で幾重にも交差した縄が肌に食い込み、小さな呻き声が漏れた。
「顔を上げて。ほら」
 それに構わず、頭を浮かせた理樹の前に、無造作に素足が投げ出される。ぱんつ。
「いつもあたしがやってるみたいに、できるでしょ? じっくり、舌で綺麗にして」
 さすがに僅かな抵抗感を覚える。が、これまでは逆の立場で、理樹が沙耶にやらせてきたことだった。自分が逃げれば、それは沙耶を否定することに繋がってしまう。例えどんなに酷い性癖を持っていようと、人間としてかなり終わっていても、嫌いになんてなれるはずがない。どうしようもなく好きで、ぱんつも好きで、だから、彼女のために何でもしてあげたいと思うのだ。
 閉じた唇を、そっと開く。興奮で乾いた口内に唾液を行き渡らせ、濡れた舌をちろりと伸ばし、白い足に這わせる。仄かな塩辛さと心地良い冷たさを感じ、心の中にあった抵抗感がすっと薄まった。
 遠慮なく湿った音を立てながら、足の甲を丹念に舐め上げる。指と指の間には舌先を差し込むように。ねっとりとした唾を塗りたくり、塩の味を少しずつさらっていく。慣れない感覚に沙耶がくすぐったそうな声を上げた。
「ん……っ、ふ、理樹くんってば、犬みたいね。そんな情けないことして恥ずか……恥ずかし……」
「れる、ちゅ……沙耶?」
 煽る言葉を聞く度に、背筋がぞくりと震える。なるほど、自分がMだというのもあながち間違いじゃないのかもしれない、と沙耶の慧眼とぱんつに感心していたところで、理樹は彼女の様子がどうもおかしいことに気付いた。俯き、熱に浮かされた表情でぼんやりとこちらを見つめて、
「だ、だめ……やっぱりあたし、我慢できないっ! 理樹くん代わって今すぐ代わってっ!」
「ちょっと、え、沙耶待って……!」
 ――その日はいつもより、エクスタシー(文字通り絶頂的な意味で)が長かった。



     ○



「……もう死にたい」
「いやいや、そんなこと言わないでよ……」
 翌日。生徒達が寝静まった時間に理樹と落ち合い、夜の散歩をしていた沙耶は、手と膝を地に着けたまま暗い声色で呟いた。落ち込む彼女の頭をそっと撫でるものの、普段のテンションは戻らない。あからさまにしょげた表情を前に、理樹のこころがじんと痛んだ。
「だって、力いっぱい宣言したのにこの様よ? 自信満々に理樹くんのことを踏みつけてこれでいい感じだなんて息巻いてたのが馬鹿みたいじゃない、というか馬鹿そのものよね、ああもうどんだけ惨めで情けないのよあたし、ほら笑いなさいよ笑えばいいじゃないむしろ笑ってさあ思う存分馬鹿にして理樹くんカモン!」
 最近自虐を通り越して能動的に言葉攻めを要求してくるようになった沙耶に、どう反応していいものかと迷う。少し考え、控えめに罵倒の言葉を並べると、彼女はふっと力ない笑みを浮かべた。
「ごめんね。あたしが不甲斐なくて、理樹くんに無理させちゃって」
「ううん。僕も上手くやれてないのが悪いんだと思う。ごめん、沙耶」
 例えば今だって、他の人ならもっと徹底的に沙耶を打ちのめすことができたはずだ。特に美魚辺りを見ていると、理樹はつくづくそう思う。本気で嫌そうな顔を向けられてビクンビクンするようになった葉留佳は順応し過ぎな気もするが、あの恐ろしく冷たい、あなたなど路傍の石よりも価値のない存在ですと語りかけてくるジト目には、憧れさえ覚えてしまう。
 もし美魚の下へ行けば、沙耶の欲求は容易く満たされるだろう。この頃サディスティックな嗜好に目覚めた彼女は、獲物(葉留佳限定)をありとあらゆる手段で鳴かせることにご執心らしい。きゅうりは折れやすいので次はにんじんにしておきましょう、と言っていたのを思い出し、理樹は改めて戦慄した。その時の葉留佳の叫びというか喘ぎ声が脳裏でリフレインする。「や、待って待ってみおちんそれ無理ですヨ! きゅうりは食べるものであってそんなところに入れるものじゃ」「大丈夫です、最初から最後まで痛いでしょうがすぐにそれが気持ちよくなりますから」「何も大丈夫じゃないってストップおねがい絶対無理だかららめえええええええええ!!」みたいな感じで濡れたり濡らしたりの十八歳未満お断りなガチ百合シーンが一方的に白昼堂々と繰り広げられ、本来そういった騒ぎを止める立場にあるはずの風紀委員長も何故か自然な流れできゅうり祭りに参戦していた。突っ込む方で。
 ……どう足掻いても、あんな風にはなれない。
 なったら人間として終わりかもしれないが、沙耶が満足してくれるなら理樹はそれでもよかった。彼女の悦ぶ顔が見られるのなら、後ろ指を差されるようになっても構わなかった。なのに、大事にしたい、という気持ちが僅かな躊躇を生んでしまう。求められていると理解しているにもかかわらず、最後の一線が越えられない。
 それが理樹には悔しかった。ただ、中途半端な自分が情けなかった。
「……理樹くんまでそんな顔しないでよ。余計に悲しくなるじゃない」
 おもむろに沙耶が理樹の手の甲をぺろりと舐める。口でリードをくわえ、軽く引っ張った。散歩を続けましょ、という無言の意思表示。それに理樹は頷いて、手元のリードをぎゅっと握り直した。返ってくる微笑み。四つ足の姿勢で再び歩き始めた沙耶の、左右に小さく揺れる尻を眺める。腰が揺れる度に標準的な長さのスカートが捲り上がり、淡いピンクのぱんつが目に入る。ぱんつはいい。ぱんつは和む。ぐっどぱんつ。一定の距離を保ちながら、先行する沙耶の後ろを歩いて寮をぐるりと一周する。
 この散歩自体には、何の意味もない。誰かが起きているかもしれない、見つかるかもしれない、そんな僅かばかりのスリルを求めてのものだ。背徳感と緊張感が混じり合った、適度な刺激が得られる。ついでにそのまま野外プレイにも走れる。直接恥ずかしい思いをするのは沙耶だけで、理樹は彼女に痛いことをする必要もなく、ただリードを持って隣を歩いていればいいというのも有り難かった。
 けれど。
 冗談で可愛らしく犬の鳴き真似をする沙耶が、終着点である校門前で足を止めた。お座りの姿勢で理樹が首輪を外してくれるのを待つ。両手が開いた膝の間にあるので、ぱんつが丸見えだった。ほんのりフルーティな香り。どこか甘酸っぱくて淫靡な、獣を誘う蜜の匂い。ポケットの中に入っていた鍵で優しく錠を開けると、細く滑らかな首筋が露わになる。闇に映える白さに目が眩む。寄せた耳に弱く流れ込む、生温く柔らかな吐息。
 彼女の全てが、もっと一緒にいたい、と囁いていた。
「沙耶」
 首輪を地面に落とし、その名前を呟く。視線を同じ高さに合わせ、背に腕を回して掻き抱いた。強く。息が詰まるほどに。それでも彼女は苦しいと言わない。されるがまま、理樹を受け入れてくれる。
 やっと、わかったのだ。
 いつでもそこには全幅の信頼があった。沙耶は絶対他の人間に今の顔を見せない。理樹だから。何もかもを丸ごと預けていいと思える相手だからこそ、こんなことを許している。だが、理樹は彼女を信じ切れていなかった。本当に好きでどうしようもないくらいなら、一片の迷いもなくその想いに応えられたはずなのに。
 心を決める。例えそれで変態の烙印を押されることになろうとも、もう、胸の内に恐れはない。
「伏せ」
 腰を抱く腕を解き、立ち上がって告げた命令を、沙耶は従順に聞き入れた。砂と土で制服が汚れるのにも構わず、細身が静かに伏せられる。その様子を見届けてから、片足の靴を脱いだ。続いて靴下。沙耶とは違う、少し骨張った足指が大気に晒される。彼女が理樹の意図を正確に読み取り、恍惚の声を漏らした。
 今まで。
 何度乞われても、沙耶を踏みにじったことはなかった。
 けれど彼女は、ずっと待っていたのだ。いつか必ず、理樹が自分を満たしてくれると信じて。
 最早言葉さえ要らない。
 躊躇なく下ろされる足裏を、蕩けきった笑みで沙耶は迎えた。



 ――大丈夫。
 これからどんなことが待っていたとしても、僕は、きみのために踏み続けるから。




















 …いいよね…これで?





   いい
ニア むしろ沙耶に踏まれたい


[No.46] 2009/04/03(Fri) 21:41:51
三千世界のからすを殺し (No.43への返信 / 1階層) - ひみつ@3906byte


 ――あ、来る――
 身に馴染んだその感覚に、僕は相変わらず無駄な抵抗を試みる。落ちかかるまぶたの速度を少しでも遅く、あわよくば押し戻そうと。
 けれど、その努力が報われたことは一度もない。まぶたよりも先に、暗闇が降りてくる。



 まぶたにうっすらと光を感じた。身体を起こそうとして、右脚が動かせないことに気付く。身体が重く、胸も苦しい。腕も痺れたように力が入らない。というか痺れて――
「重いよっ!?」
 ――僕の身体は猫のベッドになっていた。

 猫が逃げるように降りた後も、まだあちこちに痺れが残っていた(胸にはドルジが乗っていた。我ながらよく潰れなかったものだ)。ちくちくと首筋を刺す芝生の感触がこそばゆくて身体を起こす。
 太陽はまだ高い。昼休みに“落ちて”から1時間くらいだろうか。「くしっ」と小さなくしゃみが聞こえて視線を下ろすと、傍らにもう1匹、大きな猫が丸まっていた。
 鈴はむずかってくしくしと鼻を擦っていたけれど、目覚めはまだ遠いようで、すぐに寝息が聞こえてきた。起こすのは忍びなかったので、スカートは僕が直した。しましま。
 上着を脱いで鈴にかけた。肌寒い。芝生は陽射しでまだ暖かいけれど、長くいると風邪を引くかもしれない。
 気付くと猫たちが戻ってきていて、遠巻きに僕らを眺めていた。
「おいで」
 呼んでも近づいては来なかった。暖かそうでいいな、なんて考えていたのが顔に出たのかもしれない。

 静かだ。授業はまだ終わらないんだろうか。腕を枕に寝転んだ。遠く聞こえる先生の声が、囁くように眠りを誘う。
 もう少しだけならいいか。鈴の寝顔を眺めながら、まどろみに身を任せた。



 目を開くと、薄闇に浮かぶ見慣れた天井。重苦しいディーゼルエンジンの音が微かに聞こえる。身体の右側が温かい。布団から左腕を出し、仰向けのままベッドサイドを探る。頭の上にあるのにどうしてサイドなんだろう。指先にフレームの冷たい感触。レンズを触らないよう慎重に摘み、顔の前に持ってくる。
 眼鏡をかけて、改めて首を傾ける。隣に潜り込んだ鈴が、僕の右側を占領して寝息を立てている。カーテンを透かす街灯の明かりに、綺麗なつむじがぼんやりと浮かび上がっている。悪戯したくなる眺めだ。
「ひっひっひ、馬鹿め。おれさまがこのつむじを……どうすればいいんだっけ?」
 悪役をするには修行が足りないようだ。とりあえずそっと撫でてみる。「ん……うぅ……」顔は見えないけれど、逃れるように首を振っているから嫌ではあるらしい。

 暗さに目が慣れて、部屋の輪郭が浮かび上がる。壁には昼間着ていたスーツの上下。薄いカーテン。布団の柄は猫のシルエット。イラストじゃ子供っぽいから、鈴には妥協してもらった。
 肩が冷えてきて、布団を少しずり上げる。身じろぎに眠りを邪魔されて、とろりとした目で鈴が朝かと僕を見上げる。
「ごめん。まだ大丈夫だよ」
 聞こえる車の音もまばら。夜明けはきっとまだ遠い。鈴は曖昧に頷いて僕の胸に額をこすりつけるようにして潜り込む。僕も細いからだを抱き寄せて、静かな闇に身を任せる。
 まぶたを閉じる前、まだ仕事が残っていることを思い出す。明日は晴れるといいな。



 燃えている。そう気付いて僕は慌ててまぶたをこじ開けた。一面真っ赤に染まった河川敷、それが夕焼けだと気付くのに時間がかかった。むわりと粘つく残暑を押し流すように、川風が吹き抜けていく。仲間がはしゃぐ声が聞こえる。
 どれくらい眠っていたんだろう。途切れた記憶の端っこを手繰り寄せる。ああ、そうだ。僕が鬼だったんじゃないか。このばつの悪さにはまだ慣れない。
 所在無さに寝返りを打つと、かけられていた制服がずり落ちた。詰襟にとまっていたトンボが慌てて飛び去っていく。
 すぐ傍に鈴の寝顔があった。
 気付かれないよう、起こさないようにゆっくりと仰向けに戻った。僕の肘が鈴の手に触れる。鈴が制服を着るようになってから、戸惑うことが増えた。本人は気にしていないから、余計に。

 地面に汗を吸わせながら鈴の寝息を聞いていると、不意に大きな水音が上がった。
「うにゃっ?」
 猫のように小さく叫んだ鈴がむくりと身体を起こした。ほとんど閉じたままの目を更に細め、じっと河原のほうを見ている。制服のスカーフが風にひらひらと泳ぐ。
「……なんだ、馬鹿か」
 ぱたり、と勢いよく倒れこんですぐに寝息を立て始めた。おでこに出来たにきびが気になるのか、その周りをかりかりとかきながら。
 僕は、めくれてしまったスカートをどうするか決めかねて、目を閉じた。



 目覚めたとき、傍には誰もいなかった。外は明るい。朝まで眠ってしまったみたいだ。さて、今日は何をしようか。
 どこからか猫の声が聞こえる。


[No.47] 2009/04/03(Fri) 21:57:02
心にもない言葉は空から投げる。 (No.43への返信 / 1階層) - ひみつ@9759 byte


 心にもない言葉は空から投げる。





 ○

 愛だとか恋だとかは並べると何となくロマンティックの香ってくる言葉なのだけれど(もちろん単体で使っても匂いがきつすぎるくらい)、心と心の繋がりだとか、発展したその先の肉体関係にもロマンティックを満遍なく吹きかけられるのは、この日本という国の吃驚するほど安全な環境のおかげであるからして、私にはそんな言葉が関連してくる人生はここまで問答無用になかったのだから――そう、質問されたところで答えようがないのである。




 ●

 女の子という生き物故なのか、好きだの嫌いだのと一年中休まず大騒ぎしているけれど、一体何がそこまで面白おかしいというのか。私がここまでの人生を白球ばかり見つめ続けてきたそのせいで、そういったものが見えなくなってしまっているのならまだ納得がいく。敬意を持って殿方を見つめたことはあれど、恋、愛、などといったもので目色を塗り替えたことなど一度もない。知識として知っていようと、経験のないものは知らないも同じだ。バットを振ること、ボールを投げることを知っていても、四番で投手を務めることはできない。恋なんてものを単語で知っていようと、恋愛のその実なんて知らない。
 だから愛だの恋だの、私にきかれたところで知ったことではないのだ。




 ○

 そもそもがおかしいのだ。
 今まで海外にいた――ただそれだけで、期待に満ち満ちた目をこれでもかと輝かせて色恋沙汰をきいてくるのは。恋愛上手が毎日毎日と変わり映えなく同じ漫画ばかり読んでいるわけないでしょう。当然、わざわざ読書用と保存用で全巻を揃えるわけがない。そんなお金は洋服代とか美容のために飛んでいって然るべきなのだ。
 そう、繰り返すが恋慕であるとか愛情であるとかに向かって然るべきもの全てが、それらからかけ離れた方向に全力疾走している時点で、本当、私には何の縁もない類の話だ。




 ●

 そもそもが間違っているのか。
 私にきいてくることというより、そんなことを尋ねること自体に意味がないのだから。当たり前の理論だけれど、彼女たち、そしてあいつの頭の中にはまるでないに違いない。首尾よく回答を得られたとしてどうするのか。恋は崩壊、愛は絶望とか言い切られたらどうするのか。
 そんな突拍子のない回答が返ってくるのもフィクションの中だけだから、実際のところは答えなんてない。やはり、それで当たり前だ。
 恋も愛も追いかけず、白球を追いかける。説明するまでもないが、この三つの中で私のグラブに飛び込んできたことがあるのは、白球だけだ。時間を費やしたことがあるのも、お金を費やしたことがあるのも、白球。
 やはり、だ。私には愛だの恋だの知ったことではない。




 ○

 何で私が唐突に、こんな犬も食わないようなことに考え耽っているかといえば、そんなことを真っ正面からずどんと包み隠さずぶつけてきた大阿呆がいるからだ。
 その阿呆の名前は、直枝理樹という。




 ●

 素振りの一つでもして少しでも己を磨くべきであるというのに、何故こんな猫もじゃれないようなものを振り回しているかと言えば、そんなものを何ら自分の頭の中では考えた様子もなく、率直すぎるほど率直に私にきいてきたお馬鹿がいるからだ。
 そのお馬鹿の名前は、棗鈴という。




 ○

「愛って、なんだと思う?」
 視線を落としていた漫画に影が落ち、見上げた先にいた直枝理樹はいきなりそんな台詞を言った。
「……理樹君、保健室に行きましょう」
 きっと、あのリトルバスターズとかいう集団にいる中でどこかネジが緩んだか取れたかしたんだろう。あるいは抜き取られたのかもしれない。私の知っている限りでは、彼はまだ常識人だったはずだ。
「いや、大丈夫、頭の方は本当に大丈夫だから」
「大丈夫じゃない感じだったけど?」
「いや、大丈夫」
 間を取るためか、深呼吸を一つ。
「ところで、愛ってさ、あやさんは何だと思う?」
 私が再び立ち上がって手を引っ張り、無理矢理でも保健室に連れて行こうとすると「冗談じゃなくて本気できいてるんだ」と必死の説明が飛んできた。訴える目はどうにも嘘のようではなく、逆に私の方が困ってしまう。
 もう一度席に着いてから、今度は私が一呼吸。
「……愛?」
「うん」と首肯しながら、「愛って、何だろう」
「知るかそんなもん!!」
 一瞬で耐えられなくなって叫んでしまった。
「お、落ち着いて。そこを考えてみてよ」
 促されるままに深呼吸まで行って、一応の落ち着きを取り戻した私。取り戻したはいいけど、内容は相変わらず混沌としすぎだ。いや、単純なんだけど。
「恭介さんなら簡単に答えそうじゃない」
「リトルバスターズのメンバーにはちょっと聞き難くてさ」
 私なら聞き易いというのは喜んでいいことなのだろうか。正直、今は面倒でしょうがないからあんまり嬉しくはない。
「でも、何でまた愛なの?」
 何か言うに恥ずかしいところがあるのか、頭をぽりぽりとしたりして心を決める為らしい準備動作をしてから、彼は言葉を続けた。
「そのさ、この間鈴に『愛が足りんわ、ぼけーっ』っていきなりキレられちゃって。聞き返しても『愛は愛じゃぼけーっ』としか答えてくれなくて」
「……何で私に聞くの?」
 この上ない疑問だった。
「何でだろう。何となく、あやさんなら答えてくれそうな気がしたからかな」
 何だか勝手にえらい期待を乗せてきてくれているけれど、残念ながら私にも愛なんてものはわかりません。愛なんてものは。
 ただ、こんな聞くからにのろけ話を終わらせる方法を知らないほど賢くないわけでも勿論ない。
「理樹君。私たちの年で『愛』なんてものを悟っているやつがいたらただの変態。そんなもん誰もわかるわけないでしょう? わかる?」
「まあ、それはそうだね」
 理解できるなら私に聞く必要ないだろうに。
「ただ、『わからない』のだったら経験してしまえばいいのよ。取り敢えず思い切った行動してみればいいじゃない。あなたが愛だと思った行動でいいんじゃないの?」




 ●

「恋とはいったい何だろうな、ザザムシ」
「……その背筋に怖気のする呼び名は私のことなのかしら?」
「気にするな。で、恋って何だ」
 気にするなという方が無理だ。何だ、ザザムシって。生憎と虫には知識がないからザザムシがどんなものかなんてわからないけど、語感がかなり嫌だ。生理的に無理な感じのある響きとでも言えばいいだろうか。
 とはいえ、慣れてしまうのも酷く癪だけれど、この掛け合いは毎度のことだ。一々つっかかっていたのでは文字通りに埒があかない。
「まあいいですわ。それより、先ほどあなたから聞こえるはずもない単語が聞こえた気がしたけれど、気のせいではないのよね?」
「ムシ、回りくどい」
「ムシなわけないでしょう!」
「すまん、鼻が詰まった」
 鼻が詰まっただけで発する言葉がそこまで変わってたまるものか。
「で、恋って何なんだ?」
 まるで何事もなかったかのように会話がスルーされてループ。ただいつもと違うのは、からかいだとかではなく本気で聞いているらしく、耳につけた無線機から声が聞こえたりするようなことはない。というか、そもそも今日は無線機を付けていないようだった。第一、本気でなければ棗鈴は私にこんなこと聞かないだろう。
「何故、リトルバスターズとかいうあの集団の人ではなく、私に聞くのかしら?」
「それを語るには事の発端から話さなければならないわけだが、めんどいな」
「さっさと話しなさい」
 やれやれ、とこっちの台詞であるはずの文句をつぶやいてから、ゆっくりと口を開く。
「あの馬鹿兄貴がだ、『恋する乙女は綺麗になる。兄ちゃん複雑!』とか意味わからんことをいつものように突然言い出したんだ。説明させようとしても全然言わんし、『リトルバスターズのメンバーに聞いても意味はないぞっ』とかやたらに気色の悪い顔で言ってたからみんなには聞けないわけだ。どーだ。わかるか」
 取り敢えず、自分が酷い被害を被っていることだけは理解できる。十二分に。
 でも残念なことに私も恋なんてものが何なのかは知らない。恋する乙女自身が理解できていないのだ。恋する乙女になったことすらない私が理解できるわけもない。
 でも、こののろけは付き合うのが面倒くさいからさっさと終わらせる必要もある。
「棗鈴、残念ながら私にも恋が何であるかなんてことはわかりませんわ」
「何だ、役に立たないな」
「いいから聞きなさいっ」
 一呼吸入れて間を取り直す。
「ただ、『わからない』のだったら経験してしまえばいいでしょう? 取り敢えず直枝理樹相手に、思いついたことを思い切ってやってみなさい。それだけで解決しますわ」
「何で理樹限定なんだ?」
「……あー、もう!」




 ○

 きしきしと鳴き声みたいに風に煽られる屋上のフェンス越しに、グラウンドを走り回るリトルバスターズの面々が見える。茜色の西日はそろそろボールを映し出すには心許なくなるだろう。
 直枝理樹はいつも通りにキャッチャーをしていた。相方のピッチャーもいつも通り。たぶん、投げ込まれる玉が見えなくなってきたのだろう。キャッチャーマスクを外し、マウンドへと近づいていって、何事かを話している。
「――はい?」
 思わず変な声を出してしまった。漫画の影響でポケットに常備している双眼鏡で確かめたから間違いではない。間違いではないのだけど、なんだそれは。
 嗚呼、そうか。『思い切った行動をしろ』といったのは私だ。
 私の感覚が正しければ、今あのグラウンドの空気は完全に停止している。マウンド上で阿呆みたいに熱い接吻をかましている二人に釘付けになっているはずだ。




 ●

「練習はここまで! 落ちているボールを見えるうちに探し出しなさい!」
 日がだいぶ傾き、影がずいぶんと長くなっていた。切り上げ時としてはぎりぎり、故にベストのタイミングだろう。
 広いグラウンドを見渡すと、ソフトボール部員ではない立っている何人かの姿が見えた。日が落ちてきたせいで練習になっていないのか、ボールを追いかけているような素振りはない。何だか空間が固まっているような、妙な雰囲気だった。
「――はい?」
 自慢の視力を限界まで凝らしてマウンドをみたら、思わず出てしまった。何だ、あれは。見間違えでなければ、神聖なマウンド上でこの上なく阿呆な所行が進行中のようだった。
 キス?
 嗚呼、そういえば『直枝理樹相手に、思いついたことを思い切ってやってみなさい』と言ったのは私自身だった――と気がついたときには、すでに私はグラウンドの土の上にノックアウトされていた。
 私の異変に気がつき駆け寄ってくる声が聞こえ、青空だというのに降り出したらしい雨が目尻に当たって冷たかった。




 ○

「なんじゃそりゃああああああああああ!」
 叫んでもまるで聞こえている様子はなかった。動き出したらしい時間が急速に勢いを取り戻して、今度はマウンド上で二人の胴上げが行われている。私の声なんて、まるで、届いちゃない。
「それが――愛?」
 私にとってはあまりにも愛がない。いや、愛とか恋とかしらないけれど。でも、うん、何でかな、愛がない気がする。
「いや、そりゃさ、思い切った行動をしろっていったのは私だけどさ! 私がこの結果を導いたのかもしれないけどさ! あんまりすぎるわよね、これ!」
 快晴だった空だというのに雨が降り出して、とてもじゃないけどグラウンドの詳細が見えなくなった。
 恋はどうせ崩壊、愛もどうせ絶望って誰か言って。誰か言ってよ。あーもう、馬鹿みたい。
 フェンスにしがみつき、曇り硝子の向こうに向けて、力の限り叫び付ける。
「滑稽よね! 滑稽でしょーっ! 好き勝手に笑えばいいじゃない! 笑いなさいよ! 笑えこの馬鹿! あー馬鹿は私か! こんちくしょう! あーっはっはっは! あーっはっはっは! あーっはっはっはっひっぐ、うぇーん」


[No.48] 2009/04/03(Fri) 22:48:25
あなたの支配者 (No.43への返信 / 1階層) - ひみつ@11695 byte

「もしかして三枝さんは旧支配者なのではないかと」
 美魚がそんな事を口にしたのには意味がなかった。
 なんとなく、ふと思い至っただけで、意味が伝わらなくても良いと思っていた。
 もとより、期待すべきでも無いだろう、などと。
 だが向かいに座る葉留佳は、ある意味で案の定なのかもしれないが、まるで分からないまま乗ってきたのだった。
 先ほどからテーブルにぶちまけられた甘いお菓子を片っ端から口にしていた彼女は、少しだけ考える素振りをしてから大げさに頷く。
「フッフッフ、よく気付いたなみおちんめ! そう、何を隠そうはるちんは支配者様だったのですよ! さぁさ、跪くが良い!」
 満足げな表情は輝いている、キラキラだ。
 それが酷く不愉快で、美魚はやはりと確信した。
「悪意に満ちた巨大な瞳は深海を思わせる深き蒼に染まり、毒々しい発色を見せる体毛からは二本の触手が獲物を求める蛇のように垂れている。邪悪な臭気漂う魔窟にも似た口腔からは常に怖気が走る甲高い音が反響し聞く者の精神を引き裂かんとしている。人智を超えた動きを繰り返す四本の手足は冒涜の限りを尽くさんと彷徨っているのである。……大変です。具体的にはわたしのSAN値が大惨事」
「あっ、みおちん、そのお菓子食べて良い?」
「……どうぞ」
 渾身のギャグをあっさりと流されてしまい、美魚は少しだけ唇を噛んだ。
 この落ち着きのなさは紛れもなく宇宙的恐怖に類するものだろう。
 しかし、そんな風に反応してしまう自分こそ問題なのだと首を振った。
「決めました。わたし、ミスカトニック大学に進学する事にします」
「おお、何処にあるの? 都内?」
「アーカムです」
「アバカム? なんだ、ゲームの話か〜」
 イラッとする返答だった。
 ポッキーのチョコだけを懸命に舐め取ろうとしているその仕草にもイラッとする。
 美魚はどう否定したら良いものかと深く思考してみる。突っ込みの言葉も方法も無数に浮かび上がってきたが、考えてみれば強ち間違っていない事に気付き口内を循環させるに留めた。
 全ては自分のミスである。
 回りくどい表現が相手に通用しない事は分かっていたはずだ。
 そもそも自分はストレートに物を言う人間ではなかったか。
 不確かな確信に頼る形で、美魚ははっきりと宣言した。 
「三枝さんは不浄で冒涜的なバケモノのようです」
「パリィィィン!」
「何の効果音です?」
「ウィークなガラスのハートがブレイキング」
「現在進行形ですか。では、このまま行ける所まで行きましょう」
「酷いよ〜、みおちんがいじめるよ〜」
「毟れるだけ毟れ、と師匠に教えられました」
「みおちんの師匠とな! 誰、誰なのですか〜」
「……又吉イエス、でしょうか?」
「えー」
 適当に言ってみただけだった。
 自分に道を指し示してくれた人なら居るが、彼女は師匠ではない。
 美魚にとってその人は対称であり本人なのだから。
 そういえば、人にとって最大の敵は自身であり故に人はその支配者でなければならない、という事を言ったのは誰だったか。すっかり忘れてしまっていた。記憶は無尽蔵ではない。そうだったとしても覚え続ける事は困難だ。
「でも、みおちんが政治家になったらちょっと面白いかも」
「お断りです。ああいうドロドロした世界は好きではありません」
「あぁ、それは分かるかな。なんていうか、ああいうのって嫌になっちゃうかんね。もう、うんざりっすよ」
 表情は真面目なのだがパイの実のパイ部分だけ削り取っているその姿から真剣さや切実さは僅かにも感じ取れなかった。
 国会議事堂に立つ自分の姿はどうやっても想像できなかったが、代わりに葉留佳を立たせてみると、まっさらなスーツに纏った姿だけでも十分過ぎるほど滑稽だった。
「なんか酷い事考えてマセン?」
「いいえ、特には」
 まったくこれっぽっちも酷いと思っていない。
 それに想像の中で何をしようと当人の自由だ。
 頭の中に、心の中に描く世界は不可侵であるべきである。
「それで何の話だったっけ?」
「三枝さんが不浄で冒涜的で悪夢のように邪悪で名状し難きバケモノである、という話です」
「ズッパァァァァァン!」
 ウィークなガラスのハートが更にブレイキングしたらしい。
 確かな手ごたえに美魚は拳を握り締める。
「みおちん、ちょっと酷すぎですよ〜」
「いえ、ここまで来たらもっと先を狙いたいです」
「先ってなに!? はるちんどうなっちゃうの! いやぁ、だめぇ、そこは堪忍しておくんなせえ……なんちゃってー」
 相変わらず無駄にノリが良い。
 喧嘩になってもおかしくないほどの暴言であるにも関わらず、葉留佳の笑顔は揺るがない。
 見透かされているのだろうか。
 そうなのだろう。
「だいたい、何でバケモノなのさぁ」
「クトゥルフです」
「クックドゥー?」
「斜め四十五度で叩けば直るでしょうか?」
「おぉ! みおちんの手にどこからともなくバールのようなものが!!」
 速やかにスーパー土下座形態へと変形した葉留佳に免じて、美魚はバールのようなものから手を離した。尤もその時には既に葉留佳はあぐらをかき、オレオのクッキーを外す作業へと戻っていたが。
「クトゥルフとは小説に登場する架空の神話です。神話といってもホラーですからそこに登場するのは人を救うものではなく、恐怖や狂気、無力への絶望といったものが描かれています。そこでは人は運命に翻弄される弱く小さな存在でしかないのです」
「ほうほう、それでそれで?」
「……ですから三枝さんはそんな邪悪な存在なのではないかと」
「なにが、ですからなのか分かんないデス!」
「人を狂わせる存在という意味です。姿形も奇怪ですし。人の領域に入ってきてやりたい放題。姿形も醜悪ですし。今日も突然現れてはお菓子パーティですか。姿形も冒涜的ですし。クトゥルフでは無知は幸福と言いますがまさにその通りかもしれません。姿形も名状し難きものですし。穏やかなる静寂を破壊する者ですね」
「言葉の合間に鋭いナイフが……ちょっとは隠そうよ、みおちぃん」
「失礼しました。姿形が余りにもインスマス面だったもので」
「なんの事か分からないけど、とりあえずゴバァグォォォォォォォォン!」
 不可解な擬音と共に葉留佳のハートが粉砕された。
 勝った。満足感に酔いしれる。
「こ、これで勝ったと思うなよぉ、みおすけ!」
「しぶといですね。しかも無駄に復活が早いですし。迷惑です」
「酷い! 私としてはみおちんのためなんだけどなぁ」
「わたしのため?」
 現状の何処に自分のためになるものがあるのかさっぱり見当がつかない。
 いっそ高度12000フィートから風呂敷一枚でダイブしてくれた方が、と流石にそれは声には出さなかった。
「だってさ、みおちん寂しそうだったから」
「寂しそう?」
 予想外の言葉に美魚は目を白黒させた。
 だが、直ぐに葉留佳はそれを否定する。
「嘘っす。寂しいのは私っすね」
「ワケが分かりません」
「なんていうかさ〜。みおちんが一番心地よかったからじゃないかと。人は皆、気持ちの良い場所に自然に流れて行っちゃうものなんすよ」
「わたしは不快です。ですがその理屈で言うのなら、わたしが今すぐ貴女のテンプルに良いのを入れガムテープでがんじがらめにした上で路上に放置しようとしないのは、ここが心地良いからなのかもしれません」
「……うん、きっとそうだよ」
 ちょっと笑顔が引き攣っていた。
 そう言われても、美魚には理解し難かった。
 不快と口にしたのは確かに嘘だったが、歓迎しているわけではなかったからだ。
 何度か思索してみても、この感覚を表す言葉は見つからない。
 困った事に、別に言うほど嫌じゃない、と表現するのが最適なように感じられ、美魚は話題を変える事を選んだ。
「ところでさっきから何をしているのですか?」
「ん? 見てわかんない? きのこの山とたけのこの里が戦ってるの」
 美魚としては先ほどから繰り返されている遊んでいるかのようなお菓子の食べ方を聞いたのだが、葉留佳は今やっている事だと思ったらしい。両手に持ったチョコスナックを激しくぶつけ合いながらそう答えた。
「今宵、美濃国は関ヶ原。ドリルを髣髴とさせる風貌の男らしいたけのこの里と、なんとな〜く卑猥な感じで男らしいきのこの山が激突する! ここを退いては後はなく落ちぶれ武者と成り果てる。しかし勝てば官軍なんとやら。夢にまで見た覇権は直ぐそこだ! いざ立ていざ討てはっけよい! 全速前進だー、見敵必殺だー、ガンホー!」
「……それで、どっちが東軍なのでしょう?」
「うおおおおおおおおおっ、きのこ壱号がチョコだけ舐め取られたぞ、なんのまだまだやれるさこの程度でくたばるほど柔じゃない、でもお前スナックの部分だけだと骨っぽくてなんか犬のお菓子みたいだよね、……げふっ、きのこ壱号おおおおおおおおおっ!」
「良く分かりました。三枝さんは一人上手ですね」
「慣れてるからね〜」
 そう言うと葉留佳は二つの菓子を口に放り込んで咀嚼してしまった。
「はるちん大勝利」
 両手でピースする葉留佳の笑顔は額縁に収めたい程だった。
 眩暈がするほどハッピーで泣き出したいほど不安定なそれは桜に良く似ているような気がして、なんたる気の迷いかと美魚は激しく首を振る。美しい桜を邪神と同等に考えるとは。
「いよいよ正気が失われてきたようです。わたしはもう長くはないのでしょう」
 そう言いつつも描いた幻想は直ぐには消えない。
 直ぐに消えてしまった笑顔を対称として現実がそこに見えるからこそ、比較され浮かび上がるのだ。それはまさに桜並木の空虚に似ているのではないか。華やぐは一時、後は他の樹木に紛れ日常のものとなってしまう。
「みおちんは寂しいって言葉じゃ分かんないかもだから言い換えるけど、困ったのですよ」
「わたしはもっと困ってます」
「前までは色んなものを憎むだけで良かった。なんでこんな悲しいのかとか、なんでこんな痛い目に合わなきゃいけないのかとか。怖いのとか腹が立つのとか、でもちょっとの夢とか、そういう感情が真っ暗な道を照らしてくれてた気がする。けどなんだかんだで許されちゃったりしてさ〜、そんでもって許しちゃったわけじゃないですか。そしたらどうにもこうにも、困ってしまったわけですよ」
「無数の道が見えてしまったため、目標を見失ったというわけですか。贅沢ですね」
「いや〜、はるちんもびっくりですヨ」
 美魚はおどけてみせる表情の中に本心を見た。
 彼女にしてみれば下らない、葉留佳にしても許せない。
 以前なら、そう感じるべきものだったはずだ。
「心の中がぐちゃぐちゃしちゃってて、もうしばらく何を求めたら良いのか分かんないままなんだよね〜」
「心と呼ばれるのは脳の働きであり、生理的な無意識の結果です。人間という存在の多くはそれによって生かされていて、自己が持つ意識という細い針の穴を通して外界を覗いているのだそうですよ。ですからそれがいきなり大きくなったり無断に動き回ったりするとパニックに陥ってしまうのだとか。特殊な環境下におかれ続けた人間に突然自由を与えると精神が不安定になるそうです。一般的にも思春期に起こりがちですね。その頃に自我が極端に肥大化しますから、無尽蔵の情報に意識が混乱してしまうんですよ」
「zzz……なんちって。みおちんは私を眠らせてどうするつもりだー」
「ですがそれは一過性のものです。結局どこかで落ち着いてしまうんですよ。心はやはり無意識ですから操作出来ないそれに支配されるしかないんですよ。なるようにしかならない。運命と呼ばれるものを肯定するつもりはありませんが、あるいはそこに超常の存在を感じる事は可能かもしれません。ちっぽけな人間はそれらに動かされているだけ。曖昧で不確かな彼らに動かされるのがわたし達が夢想する自分自身というものなんです。そういう意味で、三枝さんが言った通り心地良い場所に辿り着くものなのなのかもしれません。それが自然なのかも……でもだからと言って……」
「はい、みおちん。あ〜ん」
 差し出されたハッピーターンを噛む。
 塩化ナトリウムの塊が味らいを激しく攻撃した。
「だからと言って?」
「……もう、良いです」
 葉留佳は小判型のそれを舐めていた。
「しょっぱい」
「散々甘いものばかり食べてましたから、それはそうでしょう」
「でも美味しいから良いや。美味しいお菓子があれば万々歳!」
「まるで小毬さんみたいですね」
「私も思った。そして今から呼ぼうと思った」
「ダイエットの本を大量に抱えながらコソコソと書店から出て行く姿が目撃されたばかりなのに?」
「だってはるちんは邪神っすから。誘惑が本業なのですよ」
 姉御とクド公も呼ぼう、と葉留佳はすっかり自己完結していた。
 クトゥルフの異形共はそういうタイプではないのだが、と美魚は思ったが撤回させる理由も、止める理由さえも思い当たらなかった。
 言おうとしていた言葉はもう遠く霞みの中に消えてしまっている。
 形を失い常に変化を続ける心に合わさるピースはない。
 それでも、不確かなそれが二つ合わさるのならば揺らぐ琴線の奇跡として瞬間的な風景を描き出す事もあるだろう。
 具体的にはうら若き少女が二人、お菓子を片手に意味の無い会話を楽しんでいる。
 これから更に増え、もっと騒がしくなる。
 それは無駄だが不要ではない。悪い気はしない。
 これも無意識の成す業なのだろうか。
 意識して考えてみたが影しか見えず、それもまた僅かな間に揺らぎながら答えを示さない。
 悪くは無い、良くも無い。
 悪いわけじゃない、良いわけじゃない。
 善悪二元論では表現できないそれらと同じように、人の心はかくも異様だ。
「ああ……原形質」
 美魚は呟いた。
「どったの?」
「邪神は様々な姿で描かれますが、その本質は不定形だと言います。まぁ、悪魔的な存在は往々にしてそうなのですが、人の前に様々な姿形で現れるんです」
「なるほど、どんなものにでも変化できるって事だね」
 便利だな〜。姉御みたくアダルティでボインボインでセクシャルハラスメントちっくなボディが欲しいのですよ。などと半ば本気で呟いている葉留佳に目を細める。
 美魚は首を振った。
 それから柔らかく微笑んだ。
「誰がどんな風に描いても問題ないって事ですよ」


[No.49] 2009/04/03(Fri) 23:19:27
枯れ木に花を咲かせましょう (No.43への返信 / 1階層) - みかん星人

 それが私の目に留まったのは、ただの偶然だった。
 空のパレットにぶちまけられた紅に藍が混ざっていく頃、遠目には二本の木に見えたそれの一方は、よく見てみれば見知った人間だった。
「葉留佳君」
 普段の喧しさはどこへやら、こちらに背を向けてぽつんと佇む彼女に声をかけるが、聞こえていないのかぼんやりと木を見上げている。
 歩み寄り、背後に立っても尚反応が無い。私を無視するとはいい度胸だ。その頭をこつんと小突く。
「こら」
「……ほぇ? 姉御?」
 間の抜けた声を上げ、こちらを振り返る。
「こんな所で何をやっているのだキミは」
「ん、この木……」
 それだけ言ってまたそちらに視線を戻す。私も葉留佳君の隣に並び、それを見やる。
 校内の敷地を区切るフェンス、ぼろぼろになった緑色の塗装が剥げて錆の浮いたそれの向こう側はすぐそこまで藪が迫っている。
 そしてその手前、ひっそりと佇む一本の枯れ木。根元が雑草で覆われその上数十センチばかりがまともな木の幹の色をし、あとはくすんだ灰色となった、二メートルばかりのやせ細った枯れ木。
「この木がどうした?」
「この木がここにあるってこと、枯れかけてるってこと、どれだけの人が知ってると思う?」
「恐らく、ほとんど誰も知らないだろう」
「だよね……」
 校庭の片隅にただ在るだけの、朽ちかけた木。そんなものに誰も気を止めはしない。
「豊かな葉を茂らせる木なら、その木陰で休むことが出来る。美しい花を咲かせば、それを愛でることが出来る。食べられる実がなるなら、味わうことが出来る。だが、いずれも出来ず、ただ朽ちていくだけの存在など、誰の目にも留まりはしないさ」
「じゃあさ、もしこの木が葉を生やせば、花を咲かせば、実をならせば。誰かは気にするようになるのかな」
「かもな」
「そっか……」
 そう呟いたきり口を噤む葉留佳君。
 ひゅう、と風が吹いた。ぶるりと身を震わせる。いつしか空は暗い藍色に塗りつぶされ、校庭を横切る風は随分と冷えてきていた。
「ほら、そろそろ帰るぞ。最近また風紀委員に目をつけられているのだろう?」
「……うん」
 促す私にこくりと小さく頷いて、その場を後にする。
 先にたって歩く私の後ろで、遅れがちな足音に混じって、よし、と小さな声がした。





 翌日。
「キミはどこの危険人物だ」
「へ? 何がっスかー?」
 校庭の片隅には赤い夕焼けを背景に佇む、抜き身の鋸とナイフを両手に持った少女というある意味恐ろしい光景が広がっていた。しかも本人は自覚してないらしくヘラヘラと笑っているもんだから余計に不気味だ。
「で、キミは何がしたいんだ。誰かを殺しに行くのか? 筋肉馬鹿あたりなら手伝ってやらんこともないが」
「やだなあ、そんなことしませんって。私がするのは接木ですヨ、つ・ぎ・き!」
「接木?」
「園芸部の子に教えてもらったんだ。枯れてる部分を切り落として接木すればなんとかなるかもってさ。そんで道具も借りてきたんですヨ」
 言いながらナイフを地面に置き、鋸を手に木の根元へ歩み寄る――途中でこちらに振り向く。
「姉御ー、良かったら手伝ってくれませんかー?」
「いやだめんどくさい」
 ばっさりと切り捨てる。
 やはは、そう言うと思ったーと笑いながら木に向き直る葉留佳君。だったら最初から言うな。

「ふんふんふーん♪」
 ぎこぎこぎこ。ぎこぎこぎこぎこぎっこぎこ。
 葉留佳君が妙なリズムで鼻歌を歌いながら鋸を引き、枯れた部分を切除している。
「ところで葉留佳君」
「なんスかー?」
「その位置だと枝が落ちてあぶな」
 すこんっ。
「あいたぁーっ!?」
「ほれ言わんこっちゃない」
 もっと早く言ってー、と頭を押さえながら睨んでくる顔が間抜けで、ふははと指差して笑ってやった。それがお気に召さなかったのか葉留佳君は頬をぷくりと膨らませ、ぷいと木に向き直り作業を再開する。まるっきり拗ねた子供だ。
「ところで葉留佳君」
「今度はなんスかー?」
 不機嫌そうな声。
「接木をすると言っていたが、何の枝を接木するのだ?」
「よくぞ聞いてくれましたっ!」
 一気にテンションを回復しヒャッホゥと叫ぶ。お手軽な奴。
「今回接木する枝はズバリ! みかんの枝ですヨっ!」
「参考までに聞いておくが、何故みかんを選んだ?」
「どうせなら実がなる木の枝がいいかなーって思って。それにはるちんみかんとか好きだしっ!」
 どうでもいい理由だった。
 私が呆れている間に葉留佳君は枯れた枝の切除を終え、ポケットから取り出したそれをほどく。新聞紙に包まれた十数本ばかりの小枝。
「で、そのみかんの枝はどこから調達してきたのだ?」
「近くの農家のおじさんに譲ってもらったよー」
「人のいいことだ」
 やははーそっスねーなどと笑いながらも作業を続ける。変わった形の(接木用のものらしい)ナイフで木の切断面にさらに切れ目をいれ、そこに小枝を差し込む。その上から白いテープをくるくると巻き、固定する。
 ややあって、すべての枝にその作業を終える。葉留佳君は清々しげに顔を上げて。
「よっしこれで完璧万事解決っ!」
「なんでやねん」
 思わず関西弁で突っ込んだ。しかしボケた側は意味が分からないというようにクエスチョンマークを浮かべ首を傾げる。本当に分かってないのか。
「いいか、そもそも枯れかけているということは木自体が弱っているということだ。接木だけしてもどうにもならん」
「そんじゃどうすればいいの?」
「それはその根元付近の雑草を抜くなり土に肥料を混ぜるなり水を撒くなり」
 言いながら葉留佳君の足元を指差す。いつもの白黒ボーダーニーソックスの白い部分には黒ずんだ緑色の斑点がいくつもできていた。
「うーん、そうだったんだー…… めんどそーう」
 不満そうな顔を浮かべる。園芸部の子とやらは教えてくれなかったのだろうか。単に葉留佳君が話を聞いてなかっただけという気がしないでもない。
「まあ、今日のところはここまでにすればいいだろう。続きはまた今度にすればいい」
 そろそろ日も暮れかけている。これから草を抜くにしても、校舎や寮の明かりも届かないここでは暗くて効率が悪いだけだろう。
「んー、じゃあそうしよっかな。これも返さないといけないし」
 言って鋸とナイフを拾い立ち上がる。あたりが薄暗くなり始めた今、不気味さは随分と増していた。
「あっ、そうだ姉御、明日はてつ」
「私は手伝わんからな」
「……ちぇー」





 木の根元にしゃがみ込んで、んしょんしょと草抜きに励む葉留佳君。私は数メートルばかり離れた場所に設置したテーブル(中庭から運んできた)につき、優雅に紅茶を楽しむ。きっと夏に働くアリを眺めるキリギリスはこんな気持ちだったのだろう。もっとも私がこのアリに泣きつくことなど生涯あり得ないが。
 穏やかなひと時。芳しい紅茶の香り。しゃがみこんだ葉留佳君の短いスカートの裾から時折覗く魅惑の三角形。どうやら今日はライトグリーンの水玉らしい。私はその光景を心に深く刻み込んだ。
「精が出ることだな」
「何でだろ、姉御が精が出るって言うとすごくえっちく聞こえる」
「失敬な」
 私も少しばかり考えたのは秘密だ。
「まあそれはさておき、はるちんこれでも結構マメなんですヨ」
「そうかね」
 私はずず、と紅茶を一口すすった。

 五分後。
「飽きたっ! めどーい」
「おい」
 唐突に顔を上げ、抜いていた雑草をぽーいと投げ出す。マメなんじゃなかったのか。
「だってこんなに草ぼーぼーなんだもん! ぼーぼー! ぼーぼー燃やしちゃうぞコンチクショー!」
「間違いなく面倒ごとになるからやめろ」
「ちぇー」
 まあそれでもぶつぶつ文句を言いながらも作業を再開するあたり実際マメだとは思う。が、そんなことを口にすれば調子に乗るのが目に見えているので言わない。私は退屈しのぎに持参した文庫を開いた。

 風に肌寒さを感じ、読んでいた官能小説に栞をはさみ、ぱたんと閉じた。美魚君のお勧めだけあってなかなかハードかつ素晴らしい内容で、随分と読み入ってしまったようだ。太陽は西に傾き山にかかりつつある。
 葉留佳君の方を見やる。フェンスを境に木の周辺の雑草はほとんど抜かれていたが、木の根が張っている範囲を考えると、フェンスの向こうの草も抜く必要がある。葉留佳君にそのことを伝えると嫌そうに顔をしかめた。だがなんだかんだでやる気らしい。とりあえず今日はフェンスよりこちら側、向こう側はまた今度だそうだ。
「私は手伝わんからな」
「分かってますよぅ」





 葉留佳君はフェンスの向こうで今日も草抜きに勤しんでいる。ここからではしゃがみ込む葉留佳君のスカートの中は生い茂る雑草に遮られて見えないが、葉留佳君がフェンスを乗り越える際にばっちり見ておいた。今日はピンクのしましまだった。私はその光景を心に深く刻み込んだ。
 脳裏にその光景を再生しつつ紅茶を味わうそのひと時は、葉留佳君の叫びで遮られた。
「うひゃーなんだこの黒いのー! てかキモ! ほんとキモっ!」
 見れば何やら地面に向かってぎゃーぎゃー騒いでいる。とは言え彼女が騒がしいのはいつものことなので放置して官能小説に目を落とす。姉御、姉御ーと呼びかけられるが無視しているとそのうちガシャガシャとフェンスを揺らす音。ちらりと見てみればフェンスを乗り越えてこちらに来ようとしている葉留佳君とピンクのしましま。葉留佳君はそんなに私にぱんつを見せたいのだろうか、淫乱娘め。
「姉御っ、これ見てこれっ!」
 そう言って差し出されたのはぱんつではなかった。つまらん……って言うかキモい。差し出されたそれは、金属のスコップの上でぐにょぐにょと身を捩る黒い芋虫。
「根切り虫というやつだな。本来これほど大きい木の根にはつかないはずだが、木がこれだけ弱っていればお構いなしと言うところか」
「姉御姉御っ、解説してくれるのは嬉しいんですがなんで私は胸倉を掴みあげられているのでしょう?」
「キモいものを見せるからだ」
 どうせならぱんつでも見せろ、とばかりに私の右手に力が篭もる。ぐえ、と蛙がつぶれた様な声をあげて葉留佳君がもがく拍子にシャツのボタンがぷちんと外れ、その胸元が覗いた。
「……ふむ」
 ぱっと葉留佳君の胸倉から手を離す。ぱんつとお揃いなのか、これまたピンクのしましまのぶらじゃーに免じてのことだ。うむ、なんと寛大な私。
 地面に座り込みけほけほと咳き込む葉留佳君を放置してフェンスの元へ。フェンス越しに向こうを見れば、目に入るは掘り返された地面、そこから覗く木の根、そしてそれにたかり蠢く無数の黒くてうにょうにょしたもの。キモい。
「姉御ー、これ、どうすればいいの?」
 後ろから葉留佳君が情けない声を投げかけてくる。
「それは駆除するしかないだろう。放っておけば確実にこの木は枯れるな」
「えー、あんなにいっぱい? 殺虫剤とか使おうかな」
「やめておいた方がいいだろうな」
「なんで?」
「殺虫剤の類は木にとっても多少は有害だ。枯れかけるほどに弱った木に使えばそれが原因で枯れかねん」
「じゃあ、一匹一匹掘り返せと?」
「うむ、そうなる」
 うえー、とうんざりしたような表情をする葉留佳君。
「……なら、止めたらどうだ?」
「え?」
「別にこの木が枯れようが、誰も文句は言わない。逆にこの木が息を吹き返しても、誰もキミに感謝しない。誰もこの木のことなど見ていないのだからな。だったら放っておいてもいいだろう」
「んー……それはそうだけど……」
 どこか遠い目で考え込んだのも一瞬のこと、すぐいつもの能天気な笑顔に戻り、口を開く。
「でもほら私、マメな整備委員だし! それにこのゴッドハンドはるちんにかかれば木の一本ぐらいラクショーで生き返らせて見せますヨ!」
 ぴょんと立ち上がり、大きいスコップ借りてくるーと言い残してあっという間に校舎の方へと駆けていった。
 ……まあ、私の口出しすることでもないしな。
 官能小説の続きでも読むかとテーブルに向かったところで、地面に放置されたスコップと、その横でのたくる生き物が目に入った。
「……ふん」
 鼻を鳴らし、スコップの先で掬い上げたうぞうぞと蠢くそれをぽいと藪の中へと投げ捨てた。

 結局この日、葉留佳君はどうやらフェンスの向こう側の根切り虫は粗方駆除したらしい。だがその頃には日はほとんど沈んでおり、フェンスのこちら側にもいるであろう虫の駆除は後日ということになった。
「ちなみに私は手伝わんからな」
「分かってますって、姉御のお手は煩わせませんヨ」





 今日も葉留佳君は黒くてグロい物体Xと格闘している。地面を掘り返してその中を覗き込んでいるものだからいつも以上に絶景が私の目に届いた。今日は薄いブルーの無地のようだ。私はその光景を心に深く刻み込んだ。
「あーもー、なんか腹立ってきたぞこんにゃろー、潰してやろうかこんちくしょー」
 地道な作業に飽きてきたらしい葉留佳君が物体Xをスコップの先でつんつんしている。
「潰してもいいが私の前ではするなよ」
「なんで?」
「そいつを潰すと中から緑色とか紫色をしたどろどろがでろでろと」
「……出るの?」
「うむ、出る」
 怪しげな粘液まみれになる少女というフレーズには心惹かれるものがあるのも確かだが、さすがにこの状況はいただけない。こちらにも被害が及ぶ恐れがある。
 葉留佳君はうぇー、と顔をしかめながら腕で額に浮いた汗を拭う。
「にしてもこの木、枯れかけてる割には根っこはしっかり張ってるんですねー。おかげで掘るのが大変大変。あ、大変大変って何回も言ってるとそのうち変態って聞こえない?」
「誰が変態だ」
「誰も姉御が変態だなんて言ってませんよぅ」
「そうか、ならいい」
 葉留佳君の言葉通りこの木、地面より上の部分は枯れかけた貧相な様だというのに、意外と太い根は広く深くまで張られている。ええいこの隠れ巨根めなどと言ってみるも当然の如く返事は無い。
「……やっぱり姉御ってへんた」
「ええいうるさい黙れさもなくばおっぱい揉むぞこのファッキンガール」
 わひゃあと私から距離を取る葉留佳君。そんな怯えた瞳をしないで欲しい、ぞくぞくする。相変わらず被虐心の強い娘だ。
「ほれ、さっさと作業に戻れ。今ならおっぱい五揉みで許してやるから」
「って揉まれるのは決定事項っ!?」
「もちろん私は手伝わんがな」
「しかも無視っ!?」
「まったく文句の多い奴だ仕方ない、お尻五揉みで勘弁してやろう」
「嬉しくなーい!」
 ちなみにこの後、嫌がる葉留佳君の柔らかくも張りのあるお尻をたっぷり十二揉み堪能した。私はその感触を心に深く刻み込んだ。





 ――臭い。
 あたりは異臭に包まれていた。原因は葉留佳君がどこからか調達してきた肥料(別名:牛糞)だ。あまりの臭さに鼻がひん曲がりそうになる。さすがは牛のうんこ。
「みーかんーのはーながー、さーいてーいるー♪」
 本日のうんこガール三枝葉留佳は強烈なうんこ臭の中心だというのに楽しそうに歌なんぞ歌っていやがる。私でさえスカト〇は受け付けないというのに、こやつなかなかやりおる。
「キミは何歳なんだ葉留佳君」
「分かる姉御も相当なもんだと思うんですけどー」
「いや、選曲のセンスだけではなくてだな」
 タオルを顔に巻きつけて匂いを防いでいる、まるっきり田舎のおばちゃんスタイルの葉留佳君。たとえ中身はただのアホ娘だろうと外見はそこそこ整っているから目の保養になっているというのに、そんな格好ではちっとも萌えやしない。
 そんな私の心中も知らずに葉留佳君は土を掘り返し、牛のうんこと混ぜ、埋め戻していく。そのたびにかぐわしきかほりが立ち上り、とても紅茶の香りを楽しめるような状況ではない。ここが校庭の片隅で良かった、もし校舎の近くだったらまた面倒なことになっていただろう。
 風上に避難し、たっぷり五十メートルは距離を取っている私でさえも顔をしかめそうになるというのに、その臭気の爆心地で元凶のアホ娘はみかんみかんみかーん、などとまた別の歌を楽しそうに歌っている。
「楽しそうだな、葉留佳君」
「そう見えますー?」
「ああ。とうとう嗅覚だけでなく脳までやられたか?」
「んなわけないじゃん! 歌でも歌わなきゃやってられないってーの! 臭い臭いクサイくさいくーさーいーーっ!」
 どうやら地雷だったようだ。私の判断力も臭さにやられて低下していたらしい。葉留佳君は歌で気を紛らわしていたらしく、堰を切ったように臭い臭いと喚きだす。ウザい。
「ああもうさっさと作業を終わらせろ、でないとまたお尻揉むぞ」
「ひえぇっ!」
 あっさり喚くのをやめて作業に戻る。まあ今の全身にうんこ臭を纏う葉留佳君のお尻を揉むなどこちらから願い下げだったのだが、当の葉留佳君は気付いていないので問題ない。所詮は葉留佳君、ちょろいもんだ。

「接木をして、周囲の雑草と根に付いた虫を除去して、土に肥料も入れて。これだけすれば十分だろう」
「ねえねえ姉御ー」
「あとはたまに様子を見て雑草が生えていれば抜く、それぐらいで良かろう。運がよければ接木が定着するだろうさ」
「姉御っ、姉御ー!」
「なんだうるさいぞ葉留佳君」
「なんでそんな離れて歩いてるんですかー?」
 作業を終えて寮へと戻る葉留佳君と私。その間の距離は普段の五倍(当社比)。理由はもちろん。
「貴様が臭いからだ」
「めっちゃ直接的に言われたっ!?」
 うわーんと芝居がかった調子で嘆く葉留佳君を余所にルームメイトも大変だな、などと思ったところで今の葉留佳君のルームメイトがクドリャフカ君であることを思い出した。
「とりあえず戻ったらすぐに風呂に入ること、その匂いをあまり撒き散らすな」
「そりゃまあ私だって早くお風呂入りたいですよー」
 葉留佳君ならまだいいがあのロリ犬少女をうんこ臭まみれにするのはしのびない。ところでクドリャフカ君をロリーヌと呼ぶのはどうだろう、とふと思った。本人外国っぽいのに憧れているらしいし、その本質を極めて的確に表しているいい名だと思う。
「あ、こら。そっちを通るんじゃない。そっちは風上だろうが。風下通れ風下」
「うわーん、私だってなりたくて臭くなってるんじゃないのにー!」
 そうしていたにも関わらず、その強烈な臭さが私の服に深く刻み込まれていたことに気付いたのは寮の自室に戻ってからだった。私は葉留佳君に復讐のおっぱい百八揉みを課することを心に深く刻み込んだ。





 台風の進路は逸れてはいたが、それは十分な風と雨をもたらした。風はびゅうびゅうと音を立て、雨は景気よく窓ガラスを叩いている。
 ブブブ、とマナーモードに設定した携帯が震え、着信を知らせる。読んでいた園芸の本から顔を上げ、携帯を見る。発信者の名前は――。
『ロリーヌ』
 そうだった、ロリーヌと呼んでいいかとクドリャフカ君に聞いたら泣きそうな顔をされたのでやむなく携帯に登録した名前をこう変更するに留まったのだった。
 通話ボタンを押し、電話に出る。
「私だ。どうしたロ……いやクドリャフカ君」
「……来ヶ谷さん、今失礼なことを言おうとしませんでしたか?」
「そんなことはまったくない。で、用件は何だね」
 何とかなだめつつロリーヌから聞き出したところによると、もうすぐ門限だというのに葉留佳君がいないらしい。今日は実家に帰るとも聞いておらず、携帯にも繋がらないので親しい人間を当たっているところらしい。葉留佳君の居所に心当たりはないかとの問いに、私はNOと答えた。
「……やれやれ」
 ため息をつきつつ携帯をしまう。本当は心当たりが無いではない。だが。
 窓の外を見る。外はごうごうと風がうなり、大粒の雨が降り続いている。
「こんな天気の中、外に出るのは余程のアホか自殺志願者だけだ」
 言いながら、私は傘を手に取った。

「この馬鹿者がっ」
 本物のアホがいた。校庭の片隅、風で折れそうにしなる貧相な木の前で何やら不可解な行動を取る見慣れた人間の姿。
「おいっ」
 すぐそばまで歩き寄り、風に負けないように声を張り上げる。掴んだ腕はびしょ濡れで、ぞくりとするほど冷え切っていた。
「あれ、姉御? 何やってんの?」
「それはこっちの台詞だ! こんな天気の中何をやっている!」
 きょとんとした間抜け面で紡がれる言葉に、思わず語気が荒くなる。だというのに目の前の馬鹿者は悪びれもしない。
「いやー接木した枝が飛んじゃわないように、こうやって覆いを被せてたんですヨ」
 見れば、接木した枝のほとんどには白いビニール袋がかけられ、その上からビニール紐できつく縛られていた。
「――貸せっ」
 冷え切った手からビニール袋と紐を奪い取る。こんなもの、さっさと終わらせて――。
「ダメっ!」
 強い声と共に袋と紐が奪い返される。
「姉御は“手は出さない”、そうでしょ?」
 葉留佳君が、まっすぐにこちらを見上げてくる。その手は冷え切っていて握る力も弱々しいくせに、その瞳だけはやけに力が漲っていた。
 その瞳を前に、私は。
「……さっさと終わらせろ」
「りょーかいですヨっ!」
 ……屈するしか、なかった。

「ここは傘二本用意してくるところじゃないんスかー?」
「まさか本当に居るとは思わなかったんだ」
 いつしか風は止み、雨も幾分小降りになっていた。
「まーいいですけど。ここまで濡れてたら今更傘さしても仕方ないし、濡れて帰ろーっと」
「風邪をひかんようにな」
「無敵のはるちんは風邪なんかひかないのだーっ!」
「なるほど、馬鹿だから風邪はひかんと」
「ちーがーうっ」
 傘をさす私の隣、傘をささずにそれどころか雨を浴びるかのように両手を広げ、踊るようにくるくると回りながら寮への帰途を歩む。
「水も滴るいい女ー、なんちて」
 全身ずぶ濡れだというのに一切曇らぬ笑顔で笑いながら、透明な水の雫とともにくるくると舞う彼女の姿は――悔しいが、確かに普段より“いい女”に見えた。
「楽しそうだな」
「んー、さっきまではそんなに楽しくもなかったんですけどねー」
「何かいいことでもあったか?」
「そりゃあもー、すんごくいいこと、ありましたヨっ!」
 そう言って彼女はまた笑う。
 寮までの短い帰り道、ずっと彼女はそうやって雫と戯れていた。その光景は私の心に深く刻み込まれた。





「姉御あねごあーねーごーっ! 見て見てー!」
 私が校庭の片隅に足を運ぶと、いつも以上にハイテンションな葉留佳君の声が私を迎えた。
「芽が! 芽が出たんですヨっ!」
 えらく興奮した様子でぴょんぴょん飛び跳ね、やかましく喚きながら指差すその先、接木したいくつかの枝のうち三つからは本当に小さな若緑の芽が、それでも確かに芽吹いていた。
「良かったではないか」
 私がそう言うと、葉留佳君はやははと笑い、頭を掻きながら照れくさそうに言う。
「姉御のおかげですヨ」
「私は何も手伝っていない」
 ただ見ていただけだ。なのに葉留佳君はううん、と首を横に振る。
「枯れ木でも姉御は見てくれた。手は出さなくても、ちゃんと見ていて、それからいろんなことを教えてくれた。だから、ありがとうですヨ」
 私とて、結構……いやかなりぞんざいに葉留佳君を扱っているという自覚はある。だと言うのにこんないい笑顔で礼を言われて――何というか、居心地が悪い。思わず目を逸らした。
「およ? 姉御もしかして照れてる?」
「照れてないっ」
 何故だか妙に悔しい。話題を逸らす。
「しかしキミも酔狂だな葉留佳君」
「ほえ? なんでッスか?」
「今接木に成功したとして、まともに食べられるような果実がなるのは早くて二、三年後だ。その頃には私たちは卒業している」
「まーそりゃ私みかん好きだし、できれば食べたいけど」
 葉留佳君はそこまで言って、にいっと笑って見せる。
「来年でも花ぐらいは咲くっしょ。それで我慢しますヨ」
 その言葉に、何か妙に納得してしまう。ずっと抱いていた疑問が氷解したような、そんな感覚。
「……つまり、枯れ木をこそ愛でて花を咲かせたがる、そういう酔狂な人間も中にはいる。そういうことだな」
「ほえ? どゆこと?」
 間抜け面を浮かべて聞いてくるのをなんでもないと軽くあしらう。
「葉留佳君、キミは」
「ん? 何なにー?」
「……いや」
 はて、私は今何を言おうとしていたのだろうか。しばし考えてみるが答えは出ない。隣に並ぶ葉留佳君を見やる。
 みかん色の夕日を浴びながら、頭に花が咲いた娘がこちらを見上げ、泥に汚れた顔をへにゃりと緩ませて、花が咲くような笑みを浮かべる。
「あー……まあ」

 ――とりあえず。

「触るな汚い」
「姉御ひどぉーっ!?」

 罵倒してみた。


[No.50] 2009/04/03(Fri) 23:32:29
[削除] (No.43への返信 / 1階層) -

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[No.51] 2009/04/03(Fri) 23:48:59
名探偵クドリャフカ (No.43への返信 / 1階層) - ひみつ@14093byte

 名探偵のもとに事件が転がり込んでくるのは必然だ。事件がなければ探偵は存在できない。そういうわけで、名探偵《犬犬わんわん》こと能美クドリャフカと彼氏である僕が一緒に渡り廊下を歩いていたとき、女子寮内から悲鳴が聞こえてきたのはやはり必然なのだと思う。
 さらに言えば、名探偵は難事件を解いてこそ名探偵なのだ。小学生でも解ける馬鹿みたいな謎を解いても名探偵とは呼ばれない。そういうわけで、今の悲鳴の先に待ち受けているのは想像を絶する難事件のはずだ。だが、名探偵は難事件を解き明かすからこそ名探偵なのだ。分かりませんと匙を投げるようでは名探偵と言えないし呼ばれない。そういうわけで、名探偵《犬犬わんわん》の前にはいかなる謎も無力だ。僕は安心してクドの推理を聞いていられる。
 女子寮に入るとクドの部屋の前で、小毬さんが泣き喚いていた。僕とクドは悲劇に慣れているので、慌てず落ち着いて室内に踏み込む。
 部屋の中央に二人の人間が折り重なって倒れていた。四肢が根本から切り離されて、胴体の近くに放置されている。二人分の血が放射状に広がって床を汚していた。死体の顔を見て僕は驚く。彼らの顔は直枝理樹と能美クドリャフカのものだ。僕とクド自身がそこで死んでいる。
「リキ、部屋に誰も入ってこないよう見張りをお願いします」
 僕が頷くと、クドは部屋中をくまなく見て回る。
「窓には鍵がかかっていますね。細工をした形跡もありません。誰かが潜むことのできる場所もなさそうです。まぁ、ドアの方は普通に開いていたわけですが」と言いつつ、今度は死体の傍に屈み込む。「確かに死んでますね。それにこの顔、やっぱり変装の類ではなく本物で間違いありません。それから切り離された手足ですけど切断面が荒れてます。刃物で切ったというよりは力任せに引き千切ったように見えますね」
 クドが淡々と喋るのは彼女が《犬犬わんわん》だからだ。
 名探偵はこれぐらいのことで動じない。
 続いてクドは、廊下に座って体を震わせる小毬さんのもとに向かう。腰を落として視線の高さを合わせ「小毬さん、話を聞かせてもらえますか?」と言った途端に彼女は小毬さんに抱きつかれていた。小毬さんはわーわー泣いて涙で顔をくしゃくしゃにしていて、とても質問に答えられる状況じゃなさそうだ。辛抱強く泣き止むのを待ったクドが、その後に小毬さんから引き出した証言は、難事件に対して一般人に毛が生えた程度の耐性しかない僕をさらに混乱させた。
「ついさっき、理樹くんとクーちゃんから頼み事されたんだよ。今から部屋に入るけど、絶対に誰も中に入れないで欲しいって。二人とも真剣な顔してたから、事情とか聞かずに分かったって言ってその通りにした。そしたら一分後ぐらいに中から苦しそうな声が聞こえてきて。思わずドアを開けてみたら」と言って小毬さんは目元を手の甲で拭う。「あれってクーちゃんと理樹くんだよね。私ちゃんと顔見たもん。でもじゃあ、どうして二人ともここにいるの?」
 クドは黙考するだけで何も答えず、代わりに「絶対に部屋には誰も入ってませんか?」と問う。
「絶対だよ。だって私、ドアに背中を預けるみたいにして二人が出てくるのを待ってたんだから。誰か入ろうとしたらすぐ分かるよ」
「では、部屋の中から誰かが出て行ったということは?」
「私ずっとここにいたんだから、見落とすはずがないよ」
 小毬さんの言うことが確かなら、これは密室で起きた殺人事件だ。被害者は僕とクドで、犯人は一分以内に二人の両手両足を刃物もなしに切り離したということになる。意味が分からない。凄まじい難事件だ。僕の貧困な想像力では、密室という部分だけに着目してみても、小毬さんが嘘をついていたという推理ぐらいしか出てこない。助けを求めてクドに視線を向けると、彼女は腕組みをして目を閉じている。頭の中で情報を整理しているように見える。《犬犬わんわん》は名探偵なので事件解決の糸口を既につかんでいるかもしれない。
「ねぇ、何か分かった?」
 クドはゆっくりと目を開けて「ええ。私をみくびってもらうと困ります」と言う。
「何が分かったの?」
「すべて分かりました。犯人も犯行方法も」
 自信満々に宣言するクドを前に、僕は目を丸くする。事件を取り巻く要素はどれも難解なのに、彼女がこの短時間で答えを出せたことが信じられなかった。だが名探偵は意識的にそうしない限り、ふつう推理を間違えない。ただの探偵なら地道な事情聴取やらアリバイ確認やらの紆余曲折を経てようやく答えに辿り着くところだが、《犬犬わんわん》は名探偵なのでその過程をすっ飛ばして答えに至ってもおかしくはないのだろう。
 いやしかし、ここには小毬さんと僕たちしかいない。せめて三人ぐらいそれらしい容疑者を用意してから推理を始めるべきじゃないだろうか。僕や名探偵《犬犬わんわん》が犯人というのは正直勘弁して欲しいし、かといって小毬さんが犯人というのも芸がない。それとも今回は殺害方法やトリックという面に主眼が置かれているとかで、犯人については割とどうでもいいのだろうか。
「順に説明していきましょう。まずは密室についてです。と言ってもこれは別に重要じゃないのです。亡くなったあの二人が密室を作りたいと思い、そのために小毬さんにドアの見張りを頼んだから密室になったというだけのことです」
 小毬さんが首を傾げる。「どういうこと?」
「つまり、二人は自分の身を守るために密室を作ったのです。もちろん自分たちの意思でです。ですが密室は何の役にも立たず、彼らは命を奪われてしまいました」
「誰がそんなひどいことしたの?」と小毬さんは素早く問いかける。
 多くの探偵は段取りにこだわるから、他人が勝手に話を促すのは御法度な気がするがまぁいいかと思い直す。名探偵の助手的な役割の僕がこういうことを言うとあれなのだけれど、実のところ僕は長々とした解説はいいからさっさと結論を言え的な考えを持つせっかち人間なので「そうだよ。誰がそんなことを?」と言って、さりげなく小毬さんに同調しておいた。
「誰が、というとちょっと難しいのです」と《犬犬わんわん》は言葉を濁す。
「というのも、二人の死は事故のようや不可抗力のような、そんな感じだからです」
 事故や不可抗力で人がばらばらになるはずがないと思いつつも口には出さない。名探偵の推理は絶対だから、僕みたいな凡夫が底の浅い指摘をしても恥をかくだけだ。
「直枝理樹と能美クドリャフカは自分たちが死ぬことを知っていました。だから小毬さんにお願いして密室を作り、どうにかして死から逃れようとしました。しかしそれは叶わず、二人はばらばらになって死んでしまいます。それを見た小毬さんが悲鳴を上げ、そこに私たちが駆けつけた。これが事件の流れです」と言ってクドは一旦言葉を切る。「ではどうして、二人は死んでしまったのか? それは名探偵である私《犬犬わんわん》とリキの存在に責任があります」
 小さく悲鳴を上げて後ずさりする小毬さんに向けて、クドは「勘違いしないで下さい。私とリキが共謀して彼らを殺したというわけではありません」と言う。
「私とリキは能美クドリャフカと直枝理樹なのですが《オリジナル》の存在ではありません。だって《オリジナル》の能美クドリャフカは《犬犬わんわん》なんて名乗りませんよね。そういう意味で言えば私は偽者なのです。でも同時に能美クドリャフカと呼ばれる存在でもあるのです」
 小毬さんは頭を抱える。「あなたは誰なの?」
「ですから、名探偵《犬犬わんわん》です。またの名を能美クドリャフカ」
「じゃあ、あっちにいるのは?」
「《オリジナル》の能美クドリャフカと直枝理樹です。この世界に私とリキが登場したことで、存在の整合性が取れなくなって彼らはばらばらになったんです。そして《犬犬わんわん》は《名探偵》だからこの事件を解決することになりました」と《能美クドリャフカ/犬犬わんわん/名探偵》は淀みなく答える。
「でも《事件が起きた》から《名探偵が現れた》のか、《名探偵が現れた》から《事件が起きた》のか、どっちが正しいのかは分かりません。『ニワトリが先か、卵が先か』という議論と似たようなものですね。ともあれ、これで事件は解決なのです」


 密室バラバラ事件を見事に解決した《犬犬わんわん》と話を聞いていただけの僕が女子寮を出ると、狙いすましたように今度は男子寮から悲鳴が聞こえてきた。名探偵はどんなに気が進まなくとも疲れていても面倒でも難事件を解決せずにはいられないから、僕たちは揃って男子寮に向かう。
 僕と真人の部屋の前に人だかりができている。ひとまず現場を確認しなければならないので、僕とクドは人の輪を潜り抜けて室内に入ろうとする。だがドアの手前で誰かに道を阻まれる。誰かと思ったら来ヶ谷さんだ。彼女は僕たちを見て「……どういうことだ」と戸惑いの言葉を漏らす。
 その真意を図りかねながらも、僕は「来ヶ谷さん、悪いけどどいてくれないかな」と言う。
「いや……実は中に誰も入れないよう、名探偵に頼まれていてな」と来ヶ谷さんは歯切れ悪く答える。
「名探偵?」
 どういうことだろう。名探偵なら僕の隣にいる。
 考えていても仕方がないので、強引に突破して僕たちは室内に踏み入る。
 部屋に置かれた二段ベッドに、恭介が磔となっていた。胴体と両足はハシゴに結びつけられていて、左右に広げられた両手はベッドの板の隙間に挟まって固定されている。脇腹には包丁が突き刺さったままだ。流石の僕にもこれが何を意味しているのかぐらいは分かる。これはいわゆる《見立て殺人》というやつだ。見立ての内容はもちろんキリストの死だ。だけど僕が本当に唖然としたのは、この《見立て殺人》を目にしたときでなく、恭介の死体を傍で観察する二人の男女を見たときだ。彼らは僕たちと同じ顔をしていた。僕たちはまたしても自分たち自身と対面することになったのだ。
 能美クドリャフカの方が、僕たちの存在に気づく。
 彼女は余裕の微笑みを浮かべてこちらにそっと手を伸ばす。
「どうも初めまして。名探偵《クドリャフ21》です」
「こちらこそ初めまして。名探偵《犬犬わんわん》です」
 僕と向こうの直枝理樹をそっちのけで彼女たちはお互いに自己紹介を終える。
 僕たちと彼らがこの世界に同居できるのは、四人ともオリジナルの存在ではないからだ。オリジナルの能美クドリャフカと直枝理樹は、自分以外の自分を許容できない存在だからこそああして引き裂かれたのだ。僕たちは何人増えても特に問題ないだろう。
 だがどうして名探偵が二人もいるのだろうか。協力すれば確かに能率が上がるのかもしれないが、名探偵はそもそも単体で事件をきっちり解決する能力を持っている。それに能率が上がるとなると事件がとっとと終わってしまって、名探偵的には見せ場がなく消化不良に陥るだろう。推理勝負をするにしたって、名探偵は推理を間違わないのだから勝負にならない。あるいは真実に辿り着く速度を競うのだろうか。だとしたら少なくとも僕には不毛なことのように思える。
 例えば凄まじい速度で謎を解く名探偵が連続殺人事件に挑んだ場合、予定ではそして誰もいなくなるところが最初の一人目で犯人をつかまえて普通の殺人事件に格下げすることができるかもしれない。あるいは事件発生前につかまえて殺人未遂に格下げすることもできるかもしれない。できるかもしれないが実に盛り上がらない。実に盛り上がらないので実際にはとろくさい名探偵の方が需要があるように思える。なので解決までの速度というのは探偵の格づけをする上であまり意味がない気がする。
 しかしこんな考えは全然これっぽっちも当たってなくて、単に可愛らしい名探偵を二人も出せば盛り上がるじゃないか的な考えが作用して二人も出てきたのかもしれない。だとしたら最悪なのでそうでないと祈ることにする。
「《クドリャフ21》さんは本当に名探偵さんなのですか?」
「私は本当の本当に名探偵なのです。どうして《犬犬わんわん》さんが現れたのか理解に苦しみます。私は他の名探偵さんに助けてもらわなくてもあっさり難事件を解決しちゃうのですよ!」と言ってぷりぷり怒る《クドリャフ21》を向こうの直枝理樹がなだめている。僕と同様に彼もまたクドの彼女なのだろう。
 僕は三人を放っておいて来ヶ谷さんに話を聞くことにする。そこで初めて気づいたのだが、室内側の扉のあちこちに板がぶら下がっていて、周辺の床には釘が散らばっている。金槌も落ちている。どういうことか彼女に訊いてみると、最初はどうやら内側から板と釘によって扉が開かないように細工されていたという返事が来た。何人かと協力して壁に体当たりを食らわせてようやく破れたという話だから、相当厳重に封印されていたらしい。一応窓も調べてみたがやはり施錠されている。鍵のタイプ的に糸での細工も無理だ。というわけでまたしても密室での事件ということになる。
 僕は今調べた内容を、恭介の死体を調べている最中の《犬犬わんわん》に伝える。クドは「ありがとうなのです、リキ」と言って何度か頷く。それから「謎はすべて解けました!」と高々に言い放った。
 別に意地になっているわけじゃないだろうから、クドは本当に謎を解いたのだ。それも最初からいた《クドリャフ21》よりも早く。名探偵は推理を絶対に間違えないから、つまり《犬犬わんわん》は《クドリャフ21》を出し抜いたということになる。解決までの速度にあまり意味はないと言ったが、何となく僕は誇らしい気分になる。
「お手並み拝見なのですよ、名探偵さん」と《クドリャフ21》は言う。「ちなみに私はとっくの昔に真相を暴いているのです。《犬犬わんわん》さんの推理を聞きたくて黙っていましたけど」
「ふん、望むところなのです。この事件は実に単純明快なのです。まず恭介さんは板と釘と包丁と紐と金槌を持ち込んでこの部屋に入りました。次に板と釘を使って扉を開かないようにしたのです。それからベッドのハシゴに背中を預けて両足と胴体を紐でハシゴに固定します。最後に包丁で自分の脇腹を刺して、広げた両手をベッドの板の隙間に挟めば見立て死体の完成なのです」
 僕は言葉を失う。
 いくら《犬犬わんわん》の推理でもこれは無茶苦茶だ。
「何なのですかそれ? 自殺ってことですか?」と《クドリャフ21》は問いかける。
「違います。恭介さんは《見立てられて》殺されたんじゃないのですよ。《見立てられるために》殺されたのです。つまり恭介さんに自由な意思なんてなかったんです。だって考えてもみてください。名探偵は《事件を解決するため》に存在しているんです。だから難事件に合わせて名探偵が登場するわけです。この世界には《神》がいます。この世界を創って難事件なんてものを発生させている《神》がいるんです。その《神》の意思の前に、私たちは無力なのです。《神》が見立て殺人を起こしたいと思ったら見立て殺人が起こるし、恭介さんは見立てのためだけに死にます。そういうものなのですよ」
 僕は胸を締めつけられる気がした。つまり《能美クドリャフカ/犬犬わんわん/名探偵》は、僕たちが揃って単なる《世界の駒/キャラクター》でしかないと言っているのだ。僕たちはただ、この世界とこの物語を創る《神》に弄ばれているだけなのだと。だとしたら僕のクドに対する想いも嘘だし、クドの僕に対する想いも嘘なのだ。そういうものがあるように見せかけられているだけなのだ。
 そして《名探偵/犬犬わんわん》は推理を間違えない。だからクドの言うことは正しい。絶望的だった。僕は床に膝から崩れ落ちそうになる。だがそのとき、「何を言っているのですか。馬鹿げた推理もほどほどにするのです」と言って《クドリャフ21》が笑う。
「私の推理を聞くといいのです。恭介さんは自分で自分の脇腹を刺したわけでは断じてありません。この世界とは別の流れにいる直枝理樹の手で殺されたのです。何故ならこの世界にいる恭介さんはオリジナルで、世界の《神》だからです。恭介さんの創る世界を気に入らない、無数の世界にいるリキのうちの一人が恭介さんという絶対の《神》を殺したのです。だから神の子とされるキリストの死に見立てられて恭介さんは殺されたのです」
「無茶苦茶なのです! どこに証拠があるのですか!」と《犬犬わんわん》が叫ぶ。
「証拠? ないです。でも名探偵は推理を間違えません。だからこれは真実なのです」
「そんなことを言うなら私だって名探偵なのです! 私の推理は正しいのです!」
 さらに叫び返した《犬犬わんわん》が何かに気づいたように顔を上げる。
 その様子を見て《クドリャフ21》は頷く。
「そうです。私たちの推理はどちらも正しいのです。世界が二通りの真実を持っているのは、この世界の内部に別の法則を持つ新たな世界が生成されていて、真実も二通りあるからに他なりません。《犬犬わんわん》さんと別種の真実をつかみ上げた、私《クドリャフ21》の存在こそがその証拠なのです。《犬犬わんわん》さん、あなたは物語の駒として《創作者》という《神》に操られることはないのです。そんな悲しい真実に支配された世界に生きることはないのです。人が自由な意思と心を持つ世界に、私と一緒に行きましょう」
 この世界で名探偵の言葉は何より強い。僕とクドは、《クドリャフ21》の差し伸べた手をそっとつかむ。《クドリャフ21》が能美クドリャフカである以上、《犬犬わんわん》にだってその世界に至る資格があるはずなのだ。《創作者》という《神》のいないその世界で、《犬犬わんわん》は名探偵になんてなれないだろう。たぶん推理を間違うし、そもそも難事件になんて遭遇しないかもしれない。それでいい。だってふつうはそうなのだ。
 僕はもう自分以外の誰かの意思によって、クドを好きになることはない。《好きになるべき》だから《好きになる》のではなく、《好きになりたい》から《好きになる》のだ。そんな当たり前のことが許される世界に僕たちはきっと行ける。行ってみせる。


[No.52] 2009/04/04(Sat) 00:07:19
僕らの七日間戦争 (No.43への返信 / 1階層) - ひみつ@13675 byte

 いつものようにメールをやりとりしていて、なんの気なしに、そういえば鈴の名前の由来ってなんなの? と訊いてみたのだった。
 鈴をつけてないとどこ行くか分かんない子だったからだ、という鈴の答えに一瞬納得しかけて、でもすぐに変だと気づく。
 いやありえないでしょ。そーいう口から出任せよく思いつくね、と目一杯冗談っぽく、事実冗談で言ったのにも拘らず、鈴が変に突っかかってきた。意地の張りどころがわからない。ちょっと疲れる。僕と鈴との仲だから、正直に告げた。
 その後のやりとりは思い出したくない。
 『兄貴の完全下位互換の癖に』というメッセージが今も目に焼きついている。
 ともかく僕らは気が合うようで、お互い顔も見たくないと意見が一致した。


 僕らの七日間戦争


 晩御飯なんて冷めたフライにしょっぱいだけの味噌汁と米が出てくるだけだから食べなくたっていいんだけれど、みんなに僕が鈴を避けてるだなんて思われたくなかったんで出て行ったら鈴がいた。相変わらず気が回らない子だった。
 僕はそんなに怒ってるとかなかったんだけど、鈴はあからさまに不機嫌でみんなに気を遣わせていてイライラした。あげくこれみよがしに僕を無視する。鈴の狭量にもあきれたもんだ。
 それで僕は夕飯のあと、クドに誘われて学食に勉強しに行った。そしたらまた鈴がいた。でも僕は鈴みたいに無視したりせず、ウィンクしてから鈴の正面に座ってクドに英語を教えた。どこからか子供っぽい猫型の消しゴムが飛んできて、おでこにピシャンと当たった。消しゴムが切れかけてたんでちょうどよかった。形が変すぎて使いにくいことこの上ないけど、まあ我慢して使ってあげよう。
 それでしばらくすると、鈴がやかましく席を立って食堂から出て行ってしまった。落ち着きがない。今後が心配だ。僕には関係ないけれど。
 そんなこんなで一週間。
 僕はクドと勉強したり小毬さんとおやつを食べたり来ヶ谷さんとお茶したり西園さんと日向ぼっこしたり佳奈多さんと恭介を追い回したり笹々々瀬川さんとキャッチボールしたり葉留佳さんと……ええっと? したりするのに忙しくて鈴にかまけてる暇が見つからなくて悪いことしたなと思った。でもまあ鈴は鈴で恭介に構ってもらったりどこの馬の骨とも知らん男子とお話してたりでよろしくやってるようなので気にしない。
 その晩またクドと勉強した。英語をときどき教えつつ、僕は僕で自分の勉強を進める。鈴は大丈夫だろうか。まあ無理ゲーだよね、あの調子だと。僕には関係ないけれど。
 鈴が食堂に来て猫にゼリーなど食べさせ始めたものだから、「猫に人間の食べ物あげるとか可哀想だよ」と気の利く助言を贈る。
 鈴が何の脈絡もなく癇癪を起こし、僕のシャーペンを踏み砕いて食堂から走り去ったあと。
「……ほんとーに良かったんですか?」
 正面に座ったクドが、弱々しく呟く。僕は自分の教科書を見るふりをして、クドの参考書を覗いた。花嫁衣裳のメアリーに、スミスさんがなにか語りかけている。
「単語が分かんないなら文脈から想像しようよ。……花嫁さんにそんなこと言うテキストとかやでしょ?」
 『実践英語』の名に恥じない実践的な例題なのかもしれないと一瞬考えたけど、まあ間違いは間違いだった。
「そうじゃなくってですね!」
 バン! とクドがテーブルを叩く。湯飲みの緑茶が揺れた。僕らのほかにもいくつかのグループが勉強していて、それが一斉に振り向いたものだからちょっとたじろぐ。
 クドは一度大きく息を吐き、それから目を伏せた。
「鈴さん、悲しそうでした」
「ああそうそう、リン酸だ。ありがとね」
 ノートに答えを書き込む。
 そしたらクドが、オーマイガッ! って感じに頭を抱えてサラサラの髪を振り乱した。そこはかとなく甘い匂いがした。
「リキ、鈴さんの気持ち、わからないのですか?」
 信じらんねー、みたいな目をしてる。
「うーん、無機物の気持ちはちょっと」
 有機物だってそうそう分かるもんじゃないけれどね、と言おうかと思って、やめた。例えばこんな話題を振ってくるクドの気持ちとかさ。
 クドはため息をついて、やれやれと首を振ってノートとかを仕舞い始めた。
「どうしたの?」
 見りゃ分かるけど、一応訊ねる。
「今日はこのくらいにしましょう」
 クドはそう言って席を立った。去り際、僕を振り返る。
「……相談、乗りますよ?」
 僕は答えないで、あとには一人残された。
 まあ僕に言わせて貰うなら、クドが言わんとする鈴の気持ちとやらが正しいのであれば、クドは僕なんかと勉強してちゃダメだと思うんだよね。死んでも言わないけどさ。その辺が鈴と僕の差だと思う。ていうかクドはひょっとして分かっててやってるの? 嫌がらせ?
 ノートに目を落とす。空白の隅の方に、H3PO4とだけ書かれている。
「理樹。暇か?」
 顔を上げると、恭介たちがぎこちない笑みを湛えて立っていた。
「久々に男だけで遊ぼうぜ」
 思わずため息。


 当然の帰結だと思うよ、と僕は言った。
 ダンボールの上にはダイヤモンド・ゲーム。真人はあぶれて腕立てしている。世間話もそこそこに、恭介がすごいさりげなく鈴の話を振ってきたので、正直に答えた。真人が腕立て伏せをやめてこっちを見る。
 誰も何も言わないようだから、僕は続けた。
「今思うとなんで付き合い始めたのかわかんないくらいなんだよね」
 僕の言葉に、真人や謙吾や恭介がビクッと肩を震わせる。なんなんだ。
「そりゃ長い付き合いだし、ちょっとくらいなら可愛いなでよかったんだけど、なんていうかさ。ああ、こんなのにあと何十年も付き合い続けるのかって思うと、ねえ? 気の合う友達でよかったよかったのになんでこんな風になってるのかわかんないよ」
 そこまで言って、三人の反応を待った。恭介が怒るならそれはそれでいいと思った。
「……想像しかできないんだが、それはつまり」
 でも口を開いたのは謙吾だった。僕の目を見たかと思うとすぐにフイとそっぽを向く。
「あばたも笑くぼの逆、みたいなものか?」
「ああ、うん。なんていうのかな。おっぱいも贅肉みたいな?」
「お、うまいこと言うな」
 やけっぱちで言ったらみんな笑った。調子に乗ってさらに続ける。
「でもまあ贅肉になるほど無かったけどね!」
「ははは、ちげぇねえ」
 あっはははー! と四人で爆笑。
「でさー、生物学的に考えて恋愛感情がずっと続くとか不合理もいいとこなんだよね」
 またみんな黙り込む。
 でも気にしない。
「僕の場合は十何年続いたんだから褒められていいくらいじゃない? ていうか種付けも済ませたし? クドも気のあるそぶりで誘ってくるし? 人類として大局的に見れば僕のほうが正義なのは間違いないから、みんなもそんな気にしないでよ」
 謙吾は俯いてジャンパーのほつれを指で弄っていた。真人はインドの仏僧がやるように両手を胸の前で合わせていた。なにをしてるのかと思えば、大胸筋のトレーニングだった。恭介は立ち上がって、僕の横に移動してきた。
 ポンポンとあやすように僕の背中を叩く。
「ああ、わかる。わかるぞ、理樹」
 なにが分かるんだよ!
 逆ギレしそうになった。恭介は僕が左足の小指から洗うことを知らないし、最初に右肩にキスすることも知らない。それなのになにが分かるというのか。
 けど、恭介の広い胸に顔をうずめたら、そんな気持ちもどこかに行ってしまった。
 温かい。心地いい。泣きそうになる。というか泣いた。
 恭介の胸はおっきい。鈴の貧乳とは比べ物にならなかった。
 秋口の寒い夜だった。冷え切った耳に、恭介の熱い息がかかった。
「お前がそんなになるなんて、どうしちまったんだよ。話してみてくれないか?」
「……うん」
 僕はことの顛末を、全部話した。鈴に投げかけられた辛らつな言葉も、僕が言った酷い言葉も、全部話した。
 恭介の僕を抱く力が一層強くなった。恭介の制服からは、洗濯洗剤の匂いがした。
「悔しかったんだよな」
「うん」
「分かって欲しかったんだよな」
「うん」
「好きだったんだよな」
「……うん」
 優しい恭介の声と、反するように力強い腕。
「また、一緒にいたいんだよな」
「ごめん、それはない」
 しばし沈黙。
 恭介のぬくもりが離れてゆく。
「意外と頑固なのな」
 仏層のポーズのままの真人が言う。額に汗が滲んで輝いていた。
「いやほんと。素でない」
 答えると、ワラワラと三人が立ち上がり、出て行こうとする。
「どうしたのさ?」
 問いかけると、恭介は思い出したようにダイヤモンドゲームのコマをポケットにつっこむ。
「いや……少し頭を冷やせ」
 謙吾はそう言って真人の腕を掴んだ。
「真人。久々に十時間耐久腕相撲だ」
「は? 昨日やったばかりじゃねーか」
「いいから来い。今日は泊まっていけ」
「お、じゃあ俺審判な」
 パタン。
 ドアが閉まって、声が遠くなっていく。
 ベッドに腰掛ける。綿がもう潰れてしまっていて、心地はよくない。恭介が持ってきたのだろうか、足元に見覚えのない漫画が転がっていたので、拾って読んでみる。パラパラ流して見た限り、胸糞悪いラブコメのようで、さっさと閉じてその辺に捨て置いた。ベッドに座りなおしてカレンダーを眺めた。
 ケンカして仲直りするってのがどれだけありえないことなのか、作者は分かってないんじゃないかと思う。世間知らずもいいとこだ。
 じじじじじ、と机の置き時計が音を立てている。うるさい。カチカチ刻むんじゃなくて、怠け癖でもついてるように秒針がダラダラぐるりと進んでいくのだ。憎たらしい。色も、なんだか気に食わない。文字盤は気色悪い緑色に塗られていて、じゃあ蛍光塗料になっているかと言えばそうじゃない。夜はこの忌々しい音だけを発して存在アピールをする。しかも数字が刻まれてなくてパッと見では時間が分からない。ふざけるのもいい加減にしてほしい。
 よし、ぶっ壊そう。
 立ち上がって時計を掴む。でもそれから、壁や床にぶつけるのは傷が残るだろうし、机の角だと変に散らばって片づけが面倒だろうなと思い、苛立ちが胃と食道のつなぎ目あたりをぐるぐるし出して、ため息と一緒に漏れてきた。
 はあ。
 そういえば、ここしばらく一人っきりの夜ばかりだったなと思う。
 真人はいない。もちろん謙吾も恭介も、それから――。
 積まれた真人のジャージめがけて、時計を放った。コントロールが狂って奥の壁にぶつかる。がしゃんと音がして裏ブタが外れた。単二電池が床に転げた。確か鈴が選んだものだった。
 部屋は無音になった。布団を握り締めると爪が剥がれそうになって痛かった。ともかく僕は一人だった。
 意識するとたまらなく寂しくなった。イライラが収まらないで、それが嗚咽になって漏れそうになってくる。
 クドでも呼べば、来てくれるだろうか。
 投げやりにそんなことを考えた。思わずにやけてしまった。いたずら心が沸き上がってくる。さっき、勉強したときの仕返しだ。
 ケータイを開いて、新規メール作成。クドのアドレスを呼び出す。
 メールを見たら、きっと真っ赤になるだろう。西園さんに気取られて慌てるだろう。マントの裾でもふんづけて転んだりするかもしれない。耳まで紅潮させたまま、僕のメールを何度も見返す。それから震える指で返事を打つのだ。

   『いったい、どんな?』

 想像して、急に恐ろしくなった。ケータイの電源を即座に落とし、机に向けて投げつけた。教科書の背表紙に当たって、ドサッと言う鈍い音がした。僕はベッドに寝転んで、枕に顔をうずめた。
 クドは、僕の誘いを断らないんじゃないかと思えた。
 自惚れかも知れない。というか、間違いなく気持ち悪い自惚れだった。
 でも、なんでだろう。
 クドの、腕に収まる小さな身体が、指で梳く、洗いたての髪の冷たさが、首筋の匂いが、見つめ返す目の輝きが、耳をくすぐる睦言が、僕にはとても、空想とは思えないほど、克明に想像できたのだ。思い出された、という方が正確かもしれないほどに。
 僕は小さな子供が怖い話を聞いたみたいに、別のことを考えようとした。そしたら鈴のことばかりが浮かんできた。本屋で会計するときに、ポイントカードがあるのないのとやかましかったり、映画のネタバレしたり、イルカショーのダメ出ししたり。『なんだか信用ならない』という文面だったり。
 腹立たしいやら、なぜだか泣きたくなるやら、クドのことやら、頭の中がごちゃごちゃになる。枕カバーで涙を拭う。拭えど溢れて、鼻も垂れる。情けなくて死にたくなる。不安に大声を上げたくなる。
 起き上がって、意味無く部屋の中をうろうろし出す。とりあえずで飛び出したくなるのをグッと堪える。そんなの、変な人と思われかねない。見られたら顔を合わせられなくなる。
 もう泣きべそをかいてるのにも慣れてしまって、ただウロウロウロウロ行ったり来たりしている。
 僕は鈴のことが好きだった。鈴ではない別の女の子を抱き締める自分なんて想像したくなかった。鈴がそばにいないなんて考えたくはなかった。それなのに、僕は。
 思い余った。不安に駆られた。気が触れた。多分そんなとこだろう。意に反して部屋を飛び出ていた。第一歩目をクラスメイトに見られた。やっぱりびっくりしてる。そんな酷い顔をしてるのだろうか。でも走る。鈴に気味悪がられやしないかという不安はあるが、蹴り飛ばされたらどうしようとか、それでも。
 寮の玄関。たむろしてる連中の間を割って外に飛び出す。勢い余って誰かにぶつかる。肩口が相手のあごを捉える。ゴツンと骨と骨がぶつかる感触。
「痛いわクソボケ!」
 酷い恫喝。思わず止まる。
 相手は言葉に反して身軽な受身。背中をぱさぱさと払っている。
 見紛う筈もなかった。
「……なにしてるの?」
 訊ねてもこっちを見ようとしない。いや、一瞬チラ見して目を逸らす。
 僕から距離をとって、携帯を弄ったかと思うと、ポケットに押し込んで寮を見上げた。随分と冷え込む夜だった。
 どれくらいそうしていたか。玄関の連中ももういない。
 鈴がため息を吐いた。外灯に照らされて、息が一瞬白く浮かび上がった。
「兄貴が出てこない。呼んでこい。お前はもう来なくていい」
 もう一度こっちを見たかと思うと、あごでしゃくる。
「鈴のこと、やっぱり好きだ」
 すごいびっくりした目で僕を見た。
 気が触れた変質者でも見てるような目だった。
「鈴のこと、好きだよ」
 大事だからもう一回言う。
 鈴の表情に困惑の色が浮かぶ。
 一歩だけ、距離を詰める。
 すると鈴は、一歩だけ身を引いた。
「……無理」
 そしてぽつりと。
 すごくシンプルで、言われた瞬間受け取れた。
 ショックだった。
 しばらく立ち尽くしてると、また涙が出てきた。
 鈴にした酷いことが浮かんでは消え、後悔が募った。
「理樹のこと、なんだか、信用できない」
 搾り出すような鈴の声。意外なほど柔らかいのに、胸が痛んだ。
「理樹が、あたしだけを好きって言っても、信用できないんだ」
 全力で否定したかった。僕は鈴以外の女の子を好きになったりはしない。絶対に。なのになぜだか、耳を塞ぎたくなる。反論は、出来なかった。
「なんでお前のこと好きになったかも、思い出せないし」
 だからせめて、全部ちゃんと聞こうと顔を上げた。
 見れば、なぜだか鈴も泣いていた。
「なんで泣いてるのさ?」
 いやいやと首を振って、鈴は続ける。涙が散って灯りに映る。
「あたしも理樹のこと、好きなのに……」
 その先が聞き取れなかった。
 たしかにあったはずの、鈴の僕への信頼を根こそぎ奪い去ったものはいったいなんだったのだろう。僕らはなんで、こんな歪なことになってしまっているのだろう。
 もうなんだかよく分からなくて、でも僕は好きな子が泣いているのを見たくなくて、一歩ずつ近づく。どれだけ歩いても鈴は逃げなかった。
「もう一度、最初からじゃ、だめ?」
 祈るような気持ちで、そう訊ねた。
 頬に手を触れても、鈴は逃げない。
 もし鈴が応えてくれたら、と考える。そうしたなら、絶対、一から、正しく、鈴と過ごそう。何十年かかかっても、ゆっくりと、鈴に信頼してもらえるように。
 しゃくりあげて泣き出す鈴。どうしていいか分からなかった。ごちゃごちゃの頭で、精一杯考えて、鈴の手を握った。温めてあげようと思ったんだけど、鈴の小さな手は僕の手よりも温かだった。
「ほんとーにダメだな、お前」
 言われたけれど、鈴のくしゃくしゃの顔を見ると、腹も立たなかった。


[No.53] 2009/04/04(Sat) 00:12:50
締切 (No.43への返信 / 1階層) - 主催

今回もボケると思ったら大間違いだぜ!

[No.54] 2009/04/04(Sat) 00:23:32
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