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No.483に関するツリー

   第44回リトバス草SS大会 - 大谷(主催代理) - 2009/11/06(Fri) 00:01:38 [No.483]
赫月ノ夜ニ咲キ誇レ悪徳ノ華 - ひみつ@遅刻11087 byte - 2009/11/07(Sat) 16:44:04 [No.502]
主題歌 - ひみつ@遅刻11087 byte - 2009/11/08(Sun) 04:45:31 [No.511]
設定資料 - ひみつ@遅刻 悪ノリにも程がある - 2009/11/07(Sat) 16:45:38 [No.503]
花摘み - ひみつ@6331 byte 遅刻 - 2009/11/07(Sat) 02:39:47 [No.501]
供え - ひみつ@3,678byte - 2009/11/07(Sat) 01:56:52 [No.500]
しめきり - 大谷(主催代理) - 2009/11/07(Sat) 00:34:13 [No.499]
好きだからこそ - ひみつ@4761 byte - 2009/11/06(Fri) 23:54:25 [No.497]
アンソダイトの森のなか - ひみつ@9144 byte - 2009/11/06(Fri) 23:20:37 [No.496]
寄り添いながら - ひみつ@7295byte - 2009/11/06(Fri) 23:03:28 [No.495]
幸せの三つ葉のクローバー - ひみつ@7104byte - 2009/11/06(Fri) 21:21:35 [No.494]
名付けられた一輪 - ひみつ@13732byte - 2009/11/06(Fri) 20:29:56 [No.493]
おっぱい消失事件 -Momoto-Yuri - - 秘密@13621 byte - 2009/11/06(Fri) 20:21:03 [No.492]
不可思議な事もあるもんだ - ひみつ@12181 byte - 2009/11/06(Fri) 19:30:53 [No.491]
台風一過と幸せと - ひみつ@15953byte - 2009/11/06(Fri) 04:18:40 [No.488]
終わりのない友情 - 秘密になっていないのはわかっている@10057 byte - 2009/11/06(Fri) 00:43:25 [No.486]
狂花狂酔 - 秘密 16850 byte - 2009/11/06(Fri) 00:35:18 [No.485]



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第44回リトバス草SS大会 (親記事) - 大谷(主催代理)

 詳細はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/rule.html
 この記事に返信する形で作品を投稿してください。

 お題は「花」です。

 締め切りは11月6日金曜24時。
 締め切り後の作品はMVP対象外となりますのでご注意を。

 感想会は11月7日土曜22時開始予定。
 会場はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/chat.html
 はじめにMVP投票(最大3作まで投票可能)を行いますので、是非是非みなさまご参加くださいませ。
 ご新規、読みオンリー、感想オンリー、投票オンリー、大歓迎でございます。


[No.483] 2009/11/06(Fri) 00:01:38
狂花狂酔 (No.483への返信 / 1階層) - 秘密 16850 byte

 昏い想いに土潤い、花咲けり。
 花の様、美にして艶なること甚だしく、
 腐れた香を薫ずるものなり。
 其の香、人を誘いて狂わしめ、
 花弁の頤(おとがい)にて齧り殺さむこと、日に千頭(ちがしら)なり。


 そこは荒廃しきったテヴアとは思えない光景だった。
 部屋は日本の八畳間くらいだろうか。地下室であるはずにもかかわらず、昼間のような明るさ。闇市で手に入れることが出来る最高級の蛍光灯――日本製には及ばないが、それでも十分な明るさがあり、辺りを昼白色で照らしていた――が惜しげもなく使われていた。一面ベビーピンクのタイルで覆われたその部屋は清潔に保たれており、タイルは蛍光灯の光を柔らかく反射する。一見すると新生児室や授乳室といった平和で柔らかな印象を与える。
 その片隅にあるキャビネット。ぴかぴかに磨かれたステンレスのトレイの上に並べられた様々な道具。メスに注射器、ノコギリ、ペンチ、そして万力。全く用途の異なる道具がここではまるで正しい配置だといわんばかりに美しく規則正しく並べられていた。
 それだけではない。天井を見上げると丁度サンドバッグを吊るすような頑丈な鎖。その鎖は手枷のようなものに繋がっており、恐らく数時間前は人間の手であったであろうと思われる肉の塊がそれに括り付けられていた。
 部屋に耳を澄ませば、聞こえてくるのは男が泣き、叫ぶ苦悶の絶叫。そして恐らく少女のものであろう、涼やかで凛とした笑い声。

 そこは荒廃しきったテヴア、いや人の世とは思えぬ光景だった。
 室内にもかかわらず白い雨合羽を着込み、フードで頭をすっぽりと覆った小柄な少女が、嗤いながら、吊るし上げられた全裸の男を眺めている。
 少女はおもむろに手に持った奇妙な道具を男の剥き出しの太腿にあてがった。吊られた男が小さく悲鳴を上げ、懇願する。彼女は男の懇願に耳を傾けることなく、引き金を引いた。
 その途端、痛みに耐えられなくなった男が鎖をがちゃがちゃといわせながら暴れ始める。
 奇妙な道具の正体は、圧縮された空気で釘を射出する自動釘打機。見た目には皮膚に小さな穴が開き、少量の血液が滲んでいるだけに見えるが、打ち込まれた釘は体内奥深くまで到達し、時には骨を貫通するものもあった。
 そして、男の大腿や脚には、無数の小さな穴が、開いていた。
 その様子に気を良くした少女はブロークンなロシア語で誰にともなく話す。
「大の男がこれくらいで泣き喚いてはダメダメなのですよ」
 少女はその後も、男の太腿に釘を打ち込み続けた。何度も何度も、打ち込み続けた。
 優しいベビーピンクの部屋の中、くぐもった声と釘打機の音が支配していた。
 やがて、痛みで感覚が麻痺してきたのか、あるいは体力が消耗し果てたのか、釘を打ち込んだ際の反応があまり無くなってきた。
 面白みが無くなったためか、少女も釘打ちの作業を止めてしまう。――かに思われた。彼女は踏み台の上に立ち、男を見上げる。そして射出口を男の陰茎に向けると、ぞくりとするような冷たい真顔になって言い放つ。
「お母さんは、あの時乱暴されなかったんでしょうか? きっと、乱暴されたのでしょうね。お母さんは、私が言うのもなんですが綺麗な女性でしたし、それにあの状況、何があってもおかしくはないでしょう? 汚らわしい汚らわしい汚らわしい」
 男が焦点の合わない目をしたまま、つぶやいた。
「……俺は、関係、ない……その場にも、居なかったんだ」
「そうですか」
 彼女はふわりと笑みを見せた。尖った八重歯が彼女の可憐さを際立たせたが、彼女の目は全く笑っておらず、そのちぐはぐさが凄絶さを強調する。
 そして彼女は、再び、引き金を引いた。
 その激痛に、これまでとは段違いの絶叫が上がった。
 絶叫に興奮し頬を赤く染めた少女は、鈴が鳴るような美しい笑い声を上げた。蝶が踊るようにステップを踏みつつ、踏み台から飛び降りる。そして、部屋の隅でパイプ椅子に座って本を読んでいた自分の相方に日本語で声を掛けた。
「まーさーとー。次はマサトの出番なのです」
 真人は日本から持ってきた雑誌――言うまでもなく『ターザン』である――を床に放り出すと、細身の鉄パイプを持って少女、クドリャフカの傍へ歩み寄る。
「お願いしますのです」
 真人は無言で吊られた男に向き直り、つぶやいた。
「……わりいな」
 真人が鉄パイプを振りかぶる。
「あじーん!」
 嬉しそうにクドリャフカが掛け声を上げる。
 鉄パイプが男の脚にめり込む。その衝撃で脚に打ち込まれた釘が折れ曲がる。折れ曲がったり、折れて二つになってしまった釘が脚の肉を抉り、血管を裂き、骨を砕く。
 男は声を上げた。上げようとした。しかし、既に幾度となく叫び続けた彼の口からは、ひゅうひゅうと呼吸音がするだけだった。
「どう゛ぁ! とりー!」
 からからと笑いながら掛け声を上げるクドリャフカ。その声に合わせて、真人は鉄パイプを振り続けた。
 彼女が数え終えたころ。男の脚も大腿も、血と肉と骨片、そして金属片を捏ね回した赤黒い練り物になっていた。
 男の意識は既に混濁し、口からは無様に涎を垂らしているばかりで、呻き声しか上げなかった。それがクドリャフカの癇に障った。
 クドリャフカはキャビネットへ近づくと、注射器を手に取った。そして、男の頚動脈におもむろに注射針を刺すと、中に入った液体を血中に押し込んだ。
 男の瞳孔が急速に散大する。しかし、意識ははっきりしたようで、目の前のクドリャフカと目を合わせることが出来るようになった。
 そんな彼にクドリャフカは笑顔で話しかけた。
「おはようございます。まだ、おねむの時間には早いのです」
「……ころして……くれ」
「嫌ですよ。私の玩具なんだから、もっともっと楽しませてくださいよ。……うーん、そうですねえ。活きも悪くなってきたことですし、他に私のお母さんと同じクラスだったひとを教えてください。それで手討ちにしてあげますよ」
「……全部、はな……した」
「クラス以外でもいいのです。お母さんと話したことがある人、お母さんと面識がある人、なんでもいいのです」
 男は血が混じった唾を吐きかけた。
「いねえよ……サディストが」
 クドリャフカは表情を変えずにハンカチで吐きかけられた唾を拭うと、釘打機の射出口を男の唇に押し当てた。
「やっぱり悪い人なのです。聞き分けの無い悪い子には、お口は要らないですよね」
 クドリャフカが引き金を引こうとした時、その肩を真人が掴んだ。
「そのくらいにしておけ」
「……マサト」
 クドリャフカは真人の手を振り払う。
「私に口出しするのですか?」
 向き直ったクドリャフカは、釘打機を真人に向けた。先程までの笑みが無くなり、爛々とした猛禽類を思わせる目を真人に向ける。日本に居たときでは絶対に見ることが出来なかった、恐ろしい双眸。真人は息を呑んだ。
「……ああ、聞けねえな。やりたかったらやってみろよ」
 真人はクドリャフカの迫力に幾分たじろぎながらも、不敵な笑みを浮かべて拒絶の意を示した。
 しばらくの間、睨み合いが続く。部屋は明るいはずなのに、その一帯だけ墨で塗りつぶしたように光を失ってしまう。壁が迫ってくるように思われ、酷くねっとりとした空気が立ち込めていた。
 やがてクドリャフカは大きく舌打ちをしロシア語で悪態をつくと、踏み台から降りた。その足で傍にあったキャビネットに近づき、その上に釘打機を叩きつける。大型のフィレナイフを掴み、吊るされた男の傍に歩み寄る。
 一瞬の出来事だった。クドリャフカはナイフを逆手に持ち替えると、踏み台を踏んでゆらりと静かに跳んだ。振りぬかれる右手。男の頸が裂ける。傷口がぱくぱくと開いては閉じ、まるで空気を求める口のようだった。次の瞬間、男の頸からどっと鮮血が噴出す。そのまま男は声を上げることもできないまま、肉塊と化した脚をびくびくと痙攣させながら絶命した。
 頭から男の血を被ったクドリャフカは、白い雨合羽を真っ赤に染め上げて真人に向かって叫ぶ。
「マサト! 興が冷めましたのです。こいつを早く処分するのです! 早く!」
 クドリャフカは血濡れの雨合羽を脱ぎ捨てると、そのまま部屋を後にする。大きな音を立てて、扉が閉められた。

 クドリャフカが居なくなった後、真人は一旦部屋から離れ、二頭の犬を連れてきた。クドリャフカによってヴェルカ、ストレルカと名付けられた犬達。しかし、彼女が日本にいたときに飼っていたそれらとは全く異なる犬種。
 彼らはクドリャフカがこの街にやってきたとき、ただの野犬だった。それをクドリャフカが拾い、最低限の躾や予防接種を施して飼っていたのだ。とはいえ、散歩どころか、まともに餌も与えていない。真人は足元の二頭の醜悪な顔を見ると、クドリャフカの神経に眩暈を覚えた。
 死んだ犬と同じ名前をこんな犬に付け続けるなんて、正気の沙汰じゃねえ。
 真人は首輪に繋がったリードを手放す。犬達は久々の食餌に我先へと駆け寄っていく。そして、ヴェルカとストレルカは、地面に降ろされた男の死体を、貪り尽くした。
 その光景を遠巻きに見ながら、真人は思う。いつになっても、この光景は見慣れないものだ。胃液が食道まで逆流するのをインナーマッスルで抑える。さすがのクドリャフカも最初に一度見たきり、処分の時には顔を出さなくなった。しかし、その理由は自分のそれとは異なる気がしてぞっとしてしまう。あのときのクドリャフカの表情。全く無関心で、心此処に在らずといった表情。身震いがした。
 器具を洗おうと思い、キャビネットに近づく。そこで真人は違和感を感じる。クドリャフカが部屋を出たときに置いていった釘打機が無い。真人は扉へと駆け寄り、勢いよく開ける。上の階から、クドリャフカの悲鳴が小さく聞こえた。
 クソッタレ! またか!
 真人は扉を閉めると階上へと駆け上がった。

 地上階の、クドリャフカが寝室に使っている部屋の扉を開けたとき、真人は自分の迂闊さを呪った。
 雨合羽を着ていないクドリャフカは、キャミソールにショートパンツという軽装で、床にぺたんと座り込んでいた。目は涙で濡れ、赤く腫れ上がっている。唇を強く噛んでいたためか、血が滲んで鮮やかな紅が差していた。右手には地下室のキャビネットに置いていたはずの釘打機。そして、左手は手の甲から何本もの釘に刺し貫かれて、床に縫い付けられていた。
「クー公!」
 真人は両手でクドリャフカの右手を押さえつけると、安全装置をかけて、クドリャフカから釘打機をもぎ取ろうとする。クドリャフカは必死に抵抗するが、そもそもの体格が違い過ぎている上に、片手が使えないのだ。真人は赤子の手を捻るように、釘打機を奪い取り、部屋の隅に放り投げた。
「何するのですっ!」
 クドリャフカが釘打機に手を伸ばそうとするのを、真人が肩を掴んで押し留める。
「こっちの台詞だ!」
「放せっ。放せ放せ放せぇぇ!」
 クドリャフカが狂ったように右手と両足を動かして、真人から逃れようともがく。縫い付けられた左手も動かそうとするため、そのたびに床の染みが大きくなる。
「何故止めたァ!足りない、足りない足りない足りない!憎い憎い憎い憎い憎いィィ!」
 両手を押さえられたクドリャフカは無茶苦茶に頭を振り乱して叫ぶ。時折真人の顔や胸板に頭突きをする。
「落ち着け、クドリャフカ!」
 真人は、両腕でクドリャフカの華奢な体を抱き締めた。しっかりと、そして彼女が彼女自身を傷付けないよう優しく。
 錯乱状態のクドリャフカは真人の首に思い切り噛み付いた。異常なる顎の力をもってして、彼女の犬歯が真人の皮膚を食い破る。クドリャフカの口内に、自分の血とは異なる血の味がした。
 それでもなお、真人はクドリャフカを抱き締めるのを止めなかった。
「そうだ、落ち着け、落ち着け」
 真人は幼子をあやすように、ゆっくりとゆっくりと呟いた。
 やがて、肩で息をしていたクドリャフカの呼吸がゆっくりとしたものへと変わっていく。真人の首から口を離し、真人の胸板に額をつけた。
「……ごめんなさいなのです」
「気にすんな。それよりも、だ」
 真人はクドリャフカを離すと、彼女の左手に手を添える。幸い床が硬かったために、手の甲の上部に釘頭が飛び出していた。真人は、近くにあったタオルをクドリャフカに噛ませた。
「いくぜ」
 真人は、片手でクドリャフカの左手を固定すると、もう一方の手で彼女の左手から突き出した釘を一本ずつ引き抜いた。
 その痛みに、クドリャフカは背中をそらす。タオルを強く噛む。右手で真人の体を叩く。
 全ての釘を引き抜いたころ、クドリャフカは噛んでいたタオルを口から離し、涎を垂れ流していた。見開いた目の焦点は、何処にも合っておらず、ただ虚空を見つめるばかりだった。

 クドリャフカが気が付いたとき、彼女はベッドの中にいた。左手を見ると包帯が巻かれ、真人によって手当てを施された形跡が見られた。当の真人は右手を椅子に添え、一ガロンの水の容器を左手に持ち、カーフレイズと呼ばれるトレーニングを静かに行っていた。クドリャフカが起きたことに気が付くと、トレーニングを中断する。
「よう。どうだ、気分は」
 真人は椅子を持って、クドリャフカに歩み寄る。
「ごめんなさいなのです」
「またか。今日二度目だぜ?」
 真人はベッドサイドに椅子を置き、座り込んだ。
 クドリャフカは無言で開かれた窓の外を眺める。最近は国連軍の介入もあってか、ある程度の平穏を取り戻していた。だからこんな月明かりの日には戦闘行為も行われず、窓の鉄格子を外すことは出来ないまでも、窓を開けるくらいであれば可能だった。
 生ぬるい風が吹く。
「もう、此処に来て何年になるのでしょう……」
 この島には四季というものが無く、そのために今が何年の何月か、分からなくなってしまうことがある。
「ああ、オレたちカレンダーとか持ってないからよくわかんねぇけど、多分三年じゃねぇか?」
「そんなに経つのですね」
 真人は何も言わず、クドリャフカの次の言葉を静かに待った。
「みなさん、それぞれの道を歩んでおられるのでしょうね。進学した人、就職した人。それでも、彼らはどこかで繋がったまま、眩しくて綺麗な、光り輝く日々を過ごしているのでしょう」
 クドリャフカはどこか寂しそうな表情をして、ベッドの先、タオルケットに包まれた自分の足先に目を遣る。
「でも、もう私はリキに会うことさえ出来ない。私は暗闇に身を埋め、その手を血で染めてしまった。こんな私を、きっとリキは許してはくれないでしょう」
 真人は、頭を掻くとぶっきらぼうにこう言った。
「まあ、あいつはあんなナリでも根は頑固な奴だからなあ」
「でも、どうして?」
「あん?」
 クドリャフカは真人の顔を覗き込む。
「どうしてあの時、マサトは私から離れなかったんです? あんなことしてまで、私は皆さんから離れようとしたのに」
 真人は思い出す。今夜のこの風同様、嫌に生ぬるい空気をした晩秋の夕暮れを。
 ――そこにはバットを持ったクドリャフカが居た。血で赤く濡れたバット。クドリャフカの足元には彼女の妹でもある愛犬が二頭、折り重なるようにして倒れていた。ストレルカもヴェルカもだらしなく真っ赤な舌を垂らし、おびただしい量の血を吐いていた。
 誰もクドリャフカの凶行を止めることは出来なかった。一番近くに居た理樹は、顔を真っ青にして立ち尽くすだけだった。
 リトルバスターズの面々に振り返るクドリャフカ。泣きながら、ぎこちない笑みを浮かべて、理樹に言い放つ。決別の言葉を。全てを断ち切る言葉を。
「リキ。きっとあなたはいつも正しいのでしょうね。でも、例えそれが世界中のみんなにとって正しいことだったとしても。私にとって正しいこととは限らないのです。だから、リキ。私にだって自分の考えがあるのです。押し付けないでください――」
 真人はクドリャフカの左右の手首にはめられた、ヴェルカとストレルカの首輪をぼんやりと見つめる。
「マサト?」
「あぁ、実はな。理樹も最後の最後までお前の考え、認めようとしていたし、助けたいと思ってた。だから、あの後オレに相談してくれたんだ」
「リキが、ですか?」
「ああ。『僕は八方美人の偽善者だって思われてもいい。だからクドの傍にいてあげて』だとさ」
 その言葉に、クドリャフカは表情を曇らせた。
「……わからないのです」
「あ?」
「だからって、マサトがそんな貧乏くじ引く必要無いじゃないですか」
「オレ馬鹿だからよ。そんな損得ってぇの、わかんねぇけど。理樹が俺を頼った、それだけじゃ、理由になんねぇか?」
 真人は照れ隠しに、再び頭を掻く。
「……マサトは馬鹿なのです。本当に救いようの無い、馬鹿なのです」
「おめえ、人を馬鹿馬鹿って……」
 そっと、クドリャフカの両手が真人の左手に添えられる。白魚の指が、真人の手に絡む。その指は少し、震えていた。
「ちょっとの間だけ、このままで居させてください……」
 真人に目を向けずに、クドリャフカは俯いた。
 真人の手が、柔らかな白い指を包んだ。
 風が凪ぐ。外は森閑としており、銃声も虫の声さえも聞こえなかった。
 しばらくして、風が吹き始めた頃、思い出したように真人は言う。
「なあ、クー公。いつまで続ける気だ?」
「え?」
「この無意味な人狩りだよ。自分でもわかってんだろ? 初めから、お前が討つべき仇なんて居なかったんだ」
 およそ三年前。彼女らがテヴアの地に降り立ったころには、既にクドリャフカの母親を処刑した人間は全員死亡していた。
 もとよりテヴアは、国民の半数にも満たない欧露米系住民が国の富のおよそ九割近くを独占していた――これは、宇宙開発事業にテヴアが傾倒していたこと、そしてその関係者のほとんどが欧露米系住民で占められていたことと密接に関係しているのであるが――といわれるほど、民族間の格差が大きかった国である。テヴア共和国航空宇宙局によるロケット打ち上げ失敗に端を発する大規模な暴動は、直ちにテヴア全土に飛び火し、テヴアを無政府状態に陥れた。あの後、テヴア共和国政府はテヴア全土に対する実効的な支配力を失い、テヴア本島以外の島ではそれぞれの地方豪族による分割統治が行われるようになってしまった。さらにテヴア本島においても、オーストロネシア系の民族で構成された反政府組織が国外のイスラム過激派による支援を受け、政府軍を脅かしていた。
 クドリャフカの母親を処刑した人間はその反政府組織のメンバーであり、暴動の直後に行われた政府軍による掃討作戦によって彼らは死亡していた。クドリャフカたちが様々なルート、時には先程のような「卑劣な手段」を用いてこの呆気なく下らない事実を知ったのは、彼らの死後半年が経ってからのことだった。
「いえ、無意味なんかじゃないのです」
 クドリャフカの憎悪は行き場を失った。その呪詛はテヴアを彷徨い歩き、やがて一つの答えに辿り着く。
「みんな死んでしまえばいいのです。お母さんを殺した人、お母さんを助けなかった人、お母さんを生贄にした人、お母さんを英雄に仕立て上げた人。お母さんと一緒に居たことがある人、お母さんに関係ある人、そして関係がない人。テヴア人全員、惨たらしく死んで欲しいのです」
 そして彼女は実行した。手始めに母親を殺した人間を殺害した政府軍の兵士。そして、母親の処刑の瞬間を撮影したカメラマン。悪意の矛先は徐々に範囲を広げていった。
 クドリャフカは目を瞑る。
 いったい、いつ自分の旅は終わるのか。いや、終わることを許されるのか。
「いつまで続くのかは、私にもわかりません。ですが、最後のターゲットは決まっているのですよ」
 そこでクドリャフカは一拍置くと、目を開いて真人の瞳を覗き込んだ。クドリャフカは彼に向け、笑みを浮かべる。それはこれまでのどんな笑顔よりも儚く美しく、そして残酷な笑顔だった。それは見た者に、深々と雪が降り積もる平原を思い起こさせ、その涯ての無さに眩暈を覚えさせる。
「……そいつは、今まで殺したどんな奴よりも罪深くて悪い奴なのです。だからマサト、お願いです。そいつはマサトが殺してください。うんと惨たらしく苛め抜いて、殺してください」
 そして、クドリャフカはロシア語で小さく呟いた。
 それまで、こんな私と一緒にいてくれますか?
 そんなクドリャフカの呟きが聞き取れたのか聞き取れなかったのか。真人はクドリャフカの亜麻色の髪を、優しく、撫でた。
「……ああ、わかった。そんときはオレが、全部終わりにしてやるよ」

 月明かりの夜。孤独な犬の鳴く声が、木霊した。


[No.485] 2009/11/06(Fri) 00:35:18
終わりのない友情 (No.483への返信 / 1階層) - 秘密になっていないのはわかっている@10057 byte

「神北さん、今日もありがとうね」
「私も楽しかったですよ〜。お疲れ様でした〜」
 小毬の趣味はボランティア。ちなみに他人に強制されたり、報奨を目的としたそれは厳密にはボランティアではない。ボランティアは無償を前提とした善意の奉仕活動なのだから。
「じゃあこれはお礼のお菓子。いつも余り物で悪いんだけど……」
「わあ、ありがとうございます。そんな事ないですよ〜、お菓子をよく食べるので助かってます」
「太らないようにね〜」
「うえ〜ん。それ禁句〜。一ヶ月前から100gも太ったのに〜」
「いや、それ太ったって言わないから……」
 そんなほのぼのとした会話を繰り広げながら老人ホームのおばさんからお菓子の詰め合わせを受け取る小毬。だがこれは親睦会で余った分のものであるし、元来小毬もこのお菓子を目当てでここに来ている訳ではない。たとえお菓子が貰えなくったって小毬は笑顔を絶やさない。
 一方の老人ホームでも食べ物をただ捨ててしまうのも気が引ける。少ない予算を切り詰めて、みんなが楽しめるようにたくさんのお菓子を用意したのだ。食べら切れないから捨ててしまうのでは、いささか人情に欠けてしまうという話だろう。
 つまりこれは小毬流に言うのならば幸せスパイラル。あなたが幸せで私も幸せ。みんなが幸せ。
「それじゃあ神北さん。また暇になったら来てね。あなたが来るとみんな嬉しそうだから」
「はい。じゃあまた――」
 言いかけて止まる。小毬の視線は一つに釘つけ。そちらの方には色とりどりの花束が。今時はビニールハウスもあるので、季節感もバラバラである。それを見て微苦笑するおばさん。
「ああ、あれね。小学生がお金を出し合って花を贈ってくれたんだけど、あの量は困るわよねぇ。ホーム中がお花だらけになってしまうし。
 悪気はないだろうけど、中にはヘンテコなお花もあるし、やんちゃ坊主が面白半分で選んだのが目に浮かぶわ」
「――おばさん」
「ん? 神北さん、どうしたの?」
「あのお花、いくつか譲って貰えませんか?」
 小毬の言葉に目をしばたかせるおばさん。こんな風に自分から何かを欲しいという小毬は初めてだ。
 だが別にそれでどうという訳でもない。いつも来てくれる小毬に対してこんな小さな願いを聞けない訳がない。それよりなにより、正直この花山を少しでも減らしてくれると非常に助かる。
「ああ、もちろん。好きなものを好きなだけ持って行きなさい」
「ありがとう、おばさん。友達にあげてみたいなって思ったんだ」
 満面の笑みを浮かべて笑いあう2人だった。





 終わりのない友情





「と、いう訳で今日はみんなにお土産があります〜」
「なんだよぅ、花かよぅ。喰えねぇじゃねえかよぅ……」
「小毬ちゃんに向かって失礼な事を言うなぼけー!!」
 バキィ!
「ごばぁ!」
「今のは井ノ原さんがが悪いと思いますよー。ますよー。すよー」
「井ノ原さんにはデリカシーが無さ過ぎです」
「わわわ、ごめんね真人くん!」
「神北も謝る必要は全くないな」
「お菓子の詰め合わせなら貰って来たよ。食べる?」
「明らかに真人少年は食べられる状態にないが」
「じゃあみんなで食べようか〜? で、これは真人くんの分、と」
「小毬ちゃんは優しいな……」
「そんな事ないよ〜」

「と、いう訳で今日はみんなにお土産があります〜」
「始まりから物凄くグダグダだったね……」
 仕切り直してそう言った小毬の二回目のセリフは一回目を言ってからもう20分以上経っていて、思わず理樹がため息をつく。ここは小毬の部屋。彼女に呼び出されたリトルバスターズ+αがこの部屋に集まっていた。
 そして復活した真人は自分の分のクッキーをほおばっていた。
「土産のお菓子なら美味しかったぜ」
「だから小毬ちゃんの善意を無駄にするなぼけー!」
 今度は鋭いローが弁慶の泣き所に。
「は。そんな蹴りがオレの筋肉に効くかよ!」
「なぁに〜……! じゃああたしの必殺蹴りを受けてみろっ!」
「そこ、無駄にバトらなくていいから。やるならちゃんと武器を使って。っていうかまた話が脱線してるし。
 小毬さん、プレゼントってなに?」
 無理矢理話を戻す理樹、しかも花が見えていて、しかももう真人が無神経に話を振ったと云うにわざわざそこから聞き直す気遣い。それを感慨深くうんうんと頷いて見ている恭介。
「うん。ボランティアにいった老人ホームでお花があったから、無理を言って貰ってきたんだ〜。
 みんなに似合うかと思って」
「けどよう、オレたちの部屋に花瓶なんてないぞ?」
 どうするんだよといった風情で理樹を見る真人。その情けない顔に、萌える要素はもちろん皆無である。これでテンションがだだ下がりの来ヶ谷と美魚であるが、まあその辺りはどうでもいいから割愛。
「ペットボトルでも切って使えばいいんじゃない?」
「おお、そうか! 理樹はやっぱり頭がいいな!!」
「いや、真っ先に気がつく範囲だと思うけど」
 不安がなくなったとばかりに満面の笑みを浮かべる真人に、逆に不安がいっぱいになったといった風情の理樹。
 そんな2人の声を聞きながら、小毬が貰って来た花々を恐る恐る見やるのはクド。ちょっと変な花もたくさんあるのが不安を誘う。
「か、神北さん……。これは、その、大丈夫なのでしょうか? 色々と」
「大丈夫だよ、多分毒はないから」
「や、普通に鈴蘭とかあるんだが」
 冷や汗をかきながら言う来ヶ谷。
「え? 鈴蘭って毒があるんだ?」
「ああ。結構有名な話だと思っていたんだが」
 不思議そうな顔をする小毬にひきつった顔をする来ヶ谷。
 それを気にもしないで話にあがった鈴蘭を取って、渡す小毬。
「じゃあまずこれはかなちゃんだね」
「…………それはどういう意味かしら?」
 口元をひくつかせて言う佳奈多だが、話の流れからするとこれは仕方がない。けれども小毬は満面の笑みを浮かべながら言葉を続ける。
「えへへへへ。鈴蘭の花言葉はね、『意識しない美しさ』と『純粋』なんだよ」
 その純粋さを見てしまうと、まさか突っぱねる訳にもいかない。嘆息しつつ小毬から花を受け取る佳奈多。
「…………参ったわね。そう言われちゃうと受け取らざるを得ないじゃない」
「そして毒入り、と」
「葉留佳、一言余計過ぎ」
「やはは。性分ですよ、しょーぶん。それでそれで小毬ちゃん。私の分は?」
 ギロリと睨む佳奈多なんてどこ吹く風。きらきらと輝く笑顔で小毬ににじりよる葉留佳。
「はるちゃんにはね〜、これ。ヒアシンス」
「お、なかなか可愛らしい花じゃないですカ。これの花言葉は?」
「『しとやかな可愛らしさ』だよ、葉留佳くん」
「…………」
 来ヶ谷の言葉に、微妙な顔で沈黙する葉留佳。
「それともう一つ。『初恋のひたむきさ』っていうのもあるんだけどね」
 小毬の言葉で、別の意味で微妙な顔をする葉留佳。
「こ、これ以上追及すると、藪つついて蛇がでそなのでやめときます」
「賢明だな、葉留佳くん。時に神北女史。私の分はどれだ?」
 ランランと目を輝かせながら花々を見やる来ヶ谷。そして小毬は1つの花を抜きだして来ヶ谷に差しだす。その花の名前は白粉花。
 それを受け取って満足そうに頷く来ヶ谷。
「うむ、納得だ」
「ねね、姉御。その花言葉はなに?」
「『不思議』」
「『素敵』」
 来ヶ谷と小毬の声が重なる。
「…………なるほど」
 そうとしか言えない葉留佳。そして小毬は次に抜きだしたのはピンク色で少女チックな花。
「はい、真人くん」
「まさかのオレかよっ!? 一番この花とかオレに似合わなくね?」
「ちなみにこのお花の名前はストック。花言葉は『努力』だよ」
「オレの為にあるような花だな」
「いや、これが真人のためにあるとか、イヤ過ぎだから」
「出来れば『筋肉』っていう花言葉の花が欲しかったが、な。まあ仕方ないか」
「そんな花言葉を持つ花、イヤ過ぎだから」
「『エネルギー』っていう花言葉のサルビアっていうお花はあるんだけど、老人ホームにはなかったんだ。ゴメンね」
 そう言いながら小毬は的確に酷い事を言う理樹へ花を差し出す。それは理樹にも分かる花、カーネーション。
 それを受け取りながら、理樹の顔はやや赤くなっていく。
「これの花言葉、たしか『純粋な愛情』じゃなかったっけ?」
「ふえええ!? た、確かにそれもあるけど、これは違うよ。『あらゆる試練に耐えた誠実』だよ」
「ああ、そうなんだ」
 ほっとしたような残念そうな顔を浮かべる理樹に、ほっとしか表情しか浮かべない小毬。そしてそんな2人を面白くなさそうに見る何人か。
 次に小毬は恭介を見る。恭介はごく自然にその視線を受けて頷いた。
 そして小毬から差し出された花はカンガルーポー。花言葉は『あなたはみんなを楽しませる』。
「なるほど。俺の為にあるような花言葉だな」
「喜んで貰ってもらって嬉しいです、恭介さん。次は謙吾くん」
「俺か。俺にはなんだ?」
「ハイビスカス」
「……また、微妙な花を」
「ごめんね、今回は花言葉重視で選んじゃったから。花言葉は『勇ましさ 』なんだよ」
「確かにそれだと受け取るしかないな」
 花を見た時からうって変わって、満足そうにそれを受け取る謙吾。
 そして小毬の視線はまたも女の子たちへ。残った人物は鈴にクド、そして美魚。その中でクドの方を見る小毬。
「わ、私なんでしょーか?」
「うん、次はクーちゃん。クーちゃんにはこの花だよ」
 小毬が手渡した花は原色の、またも南国っぽい花。それを見ながら南国出身のクドは首を傾げながらその花の名前を自信がなさそうに言い当てる。
「これは……確かデネヴにもあったような。アンスリウムでしょーか?」
「惜しい! これはね、姫アンスリウム。花言葉は『粋でかわいい』なんだよ」
「わふっ! そんな花言葉があるのですかっ!?」
 八重歯を出しながら驚きを露わにするクド。そんなクドの頭を撫でると、新しい花を手に取る。
 その花を見て無表情のままで頷き、一歩前に出ながら口を開くのは美魚。
「なるほど。オオトリは鈴さんですか」
「あれ美魚ちん。その花の名前と花言葉って分かるの?」
「まあ、このくらい有名な花ならば。その花は桔梗で、花言葉は『清楚・気品』ですね」
「自分でその花言葉が出た瞬間に立ちあがるのはどうなんだ?」
 不用意な言葉を口にした真人の頭にガスッと薄い本が突き刺さる。
「うぎゃぁぁぁぁーー!! いてぇぇぇぇぇ!!!!」
「御心配なく。それは間違って2冊買ってしまった奴ですから」
「この期に及んで本の心配なんか誰がするかつーの!」
「いやいやいや。本の心配はしないけど、真人の心配もしないよ?」
「なんでっ!?」
「真人が悪いから」
「ああ、お前が悪い」
「フォローの余地は全くないわね」
「あのぅ、井ノ原さん。さすがにその言葉はどうかと……」
 クドにまで言われて、がっくりと腰を落としてしまう真人。だが事が事だけにもちろん誰も彼を慰められない。
 それをどうしていいのか分からない様子でみていた小毬だが、周りのほっとけサインとうずうずとしている鈴を見て彼女に花を差し出した。
「名前はベコニア。『幸福な日々』だよ」
「うん、嬉しい小毬ちゃん。ありがとう」
 口下手な鈴だけれども、しっかりとお礼を言ってから、ぎこちない笑顔で可愛らしいその赤い花を受け取った。そして無邪気な笑みでその贈り物を抱きしめる。
 そしてそこでふと、理樹が気がついて小毬に話しかけた。
「小毬さん。一つだけ花が余っているみたいだけど」
「ふぇ? ああ、これね。これはね、この部屋に飾ろうと思ってたんだ」
 そう言って小毬は最後に1つだけ残った花を、彼女自身が用意した花瓶に生ける。そしてそれを彼女と空いている机の間に置いた。
 不思議な机、誰もいないはずなのに、キチンともう一人分の生活用品がしまいこんだその机。もちろん机だけじゃなくて、タンスやクローゼットにも覚えのない服がおさめられていた。
 まるでもう一人同居人が居たようなその2人部屋に、小毬は一輪の花を添える。その花の名前は千日紅。そしてその花言葉は――――

「それじゃあみんな、今日はありがとー!」
 柔らかに言い切る小毬。その言葉を聞いて、口々に挨拶をしながら貰った花を大事に抱いて、自分たちの部屋に帰っていくメンバーたち。
 みんなを見ながら、千日紅は静かに咲いている。


[No.486] 2009/11/06(Fri) 00:43:25
台風一過と幸せと (No.483への返信 / 1階層) - ひみつ@15953byte

 大型台風が猛威を振るう中、果敢にも家を飛び出したクドリャフカは、またたく間に強風で傘を粉砕され、涙目の瞳を豪雨に洗われ、店員が暇そうにしているスーパーでかごに品物を投げ込み、幽鬼めいた顔のままレジで清算を済ませ、体を丸めて築四十年のボロアパートに帰り着き、階段をのぼった先の廊下で派手にすっ転び、ほとんど這うようにして家の中に入った。
「意味が分からんのですっ!」
 うつろな目で叫んだクドリャフカは、ふすまの向こうから雨音とは違う奇妙な音が漏れ聞こえてくることに気づく。まさか幽霊、と考えた彼女の顔から血の気が引く。慌てて方向転換しかけた直後に背後で雷鳴が轟いて、いよいよ逃げ場を失った彼女は、べそをかきながらも前に進むことを選んだ。
 ふすまに片耳を押し当てたクドリャフカは、その音が人間の声であることを知る。まさかお経、と考えた彼女はいよいよ泣き出しそうになるが、真っ白な頭の中に楽しげな笑い声が飛び込んできて、ああこれはテレビのバラエティ番組なんだと理解する。そうなるとただ単にテレビを消し忘れただけで、幽霊だ超常現象だ強盗だなんてものは最初から存在しなかったのですねいえっふーと一転陽気なクドリャフカがふすまを威勢よく開け放つと、こたつ机にあごを乗せて超リラックスした葉留佳がそこにいた。
「やっほークド公。おかえりー」
「え? あ、と、えええええっ?」
「お邪魔してますヨ。不法侵入なんのその!」
 クドリャフカが手に提げた袋を目ざとく見つけた葉留佳は「はるちんレーダーがいい具合に反応してますネ」と言い残してこたつの中に潜り込み、反対側から芋虫みたいに這い出してきた。クドリャフカが思わず尻餅をつき、弾みでカーペットの上に落ちた袋を葉留佳が無遠慮に漁り始める。
「みかん見っけ! やっぱこたつではみかんに限りますなぁ。クド公は風情というものを分かってらっしゃる。結構結構」
 葉留佳は困惑気味のクドリャフカの「はいえっと、ありがとうです。ただですね、その、何で三枝さんがここに」という問いかけを聞くやいなや、広げた両手で全てのみかんを抱え込み「三十六計逃げるに如かず!」と口にして再びこたつの中に姿を消した。
「ところで能美さん。買ってきた卵の半分以上が割れています。これは大問題では」
 振り向いたクドリャフカの眼前に、ひしゃげた卵パックが差し出される。大半の殻が割れて白身と黄身が派手に流出していた。
「わーっ! さっき転んだときに割れたに違いないですっ! 台風の馬鹿っ! 私の馬鹿っ!」
「そんなに自分を責めることはない。おねーさんが優しく慰めてあげよう」
「うう、ありがとうござ……って、来ヶ谷さん? それにそれに西園さん? えっとえっと、あの」
「お気づかいなく。それにしても今日は冷え込みますね。ちょっとこたつをお借りします」
 卵パックを机の上に置き、腰を下ろしかけた美魚の足首に、こたつの中から唐突に伸びてきた二本の腕が絡みつく。抗う術なく引き倒された彼女の向こう、こたつ内の闇にぎらつく二つの瞳があった。
「ここに近づいたが運の尽き! おぅおぅ、良い眺めよのう。大人しく引っ張り込まれてしまえばよいではないか、よいではないか。グヘヘヘヘー!」
「……一度、お灸をすえておきましょうか」
 そして聞こえ始めるおよそ人間離れした絶叫を意識から追い出しつつ、クドリャフカは目の前に立つ唯湖を見上げて嘆息する。逆に彼女を見下ろす格好の唯湖は「ふむ。能美女史と会うのは久しぶりだな」と言って腕を組む。
「そうですね。久しぶり、なのです」
「驚いただろう? サプライズイベントというやつだ。これからまだまだ騒がしくなる。それよりも」
 クドリャフカと目線の高さを合わせた唯湖は、妖艶に目を細めて彼女の両肩に触れる。
「このままだと風邪を引く。今すぐ風呂に入った方がいい。それに目の毒でもある。いや、保養になると言った方が正しいかな」
 唯湖は自らの指先をクドリャフカの両肩から動かして、胸の辺りをなぞっていく。雨に濡れて白い下着が透けていた。
 頬を真っ赤にしたクドリャフカは両肩を抱き、和室を飛び出して風呂場に通じる廊下に出た。玄関ではちょうど今来たばかりの恭介と真人と謙吾が目を白黒させていて、彼らと鉢合わせしたクドリャフカは「わぁぁぁぁっ!」と可愛らしく叫んだ。
 立ち尽くす三人の背後、開いた扉の向こうから雷音と共に小毬が現れる。にこやかな表情を浮かべてクドリャフカを見つめる彼女は、悠然と歩いて男たちの脇を抜ける。真人と謙吾が白目を剥いて倒れる。泡をふく。恭介が両手をぶんぶん振って「待てこれは誤解だ!」とむなしい弁明をする。
「クーちゃん。この人の記憶は消しておくから安心して入ってきて。ね?」
 シャワーを浴びるクドリャフカの耳に「え、なにそれ聞こえない」や「私は別にどっちでもいいんだけど」という小毬の声が水音に混じって届けられていた。
 温かな湯を吐き出すノズルの前でおわんを作り、クドリャフカは何度も顔を洗う。最後に頬をぱちんと叩いて風呂を出た。
 ラフな格好に着替え、洗面所と廊下とを区切るカーテンを開けたクドリャフカは、えりぐりを支点として恭介が和室に引きずり込まれる瞬間を目撃してしまう。小毬が廊下側に顔だけをひょこっと出して「クーちゃんもおいでよ。みんな中で待ってる」と言う。はい今すぐ、と返すクドリャフカは自分でも気がつかないうちに微笑みを浮かべていて、仲いいんだ、と思いながら二人の後を追った。
 ふすまを開ける寸前に、クドリャフカはキッチンで動く人影を見つける。鈴が食器棚から湯飲みを引っ張り出して盆の上に置いている。あの、と声をかけると彼女は全身を震わせてから振り向いて「クドか」と安堵したように言う。
「理樹とはうまくやってるのか」
「ええと」とクドリャフカは言いよどむ。鈴の気持ちを知っているだけに複雑だった。彼女はいったん目を伏せてから「はい」とだけ答える。
「あ、私も手伝います」
 気まずさを振り払うように、クドリャフカは鈴の隣に身を寄せた。食器の触れ合う音だけがしばらく続く。凍りついた空気を「ところで理樹はどこに行ったんだ」という鈴の疑問が溶かす。クドリャフカは湯飲みを両手で握り込んだまま「バイトです。台風なのに呼び出されたみたいで」と返す。机の上に放り出した携帯電話に視線を転じ、彼女は「電話しましょうか」と思いつきを口にする。
「いーや、いらん。お前らが乳繰り合ってるところを見たら理樹を窓から投げ落としそうだ」
 盆で両手が塞がっている鈴の先導をして、クドリャフカは和室に繋がるふすまを開ける。女子勢四人がこたつの四方に陣取って談笑していて、残りの三人が部屋の片隅で寒さに身を縮ませている。
 暖房を作動させるクドリャフカの脇を通り、鈴が両腕を小刻みに揺らしながらすり足で移動する。唯湖が露骨に戦略的撤退を始め、恭介が自ら小毬の盾になって何か恥ずかしいことを叫び、こたつに潜ろうとする葉留佳を美魚が引きずり出して盾にする。
 爆弾の解体作業現場めいた雰囲気の中、たっぷり五分ほどかけて無事に盆が下ろされる。感動に打ち震える恭介が「甲斐甲斐しくなったな我が妹よ!」と鈴に抱きついた直後にあごをかち上げられ、小毬の胸の中に押し返された。まぶたを下ろして穏やかな笑みを浮かべていた。
「おい、何で俺は茶碗なんだ」
「オレは味噌汁入れるやつじゃねぇか!」
 理樹とクドリャフカの愛の巣であるアパートに九人分の湯飲みが用意されているはずもなく、全員の力関係と立ち位置を考慮した正当な配膳だった。湯飲みで優雅に茶を飲む唯湖や美魚を見てぶつくさ言っていた真人と謙吾は、枯れた目をして丼を抱え持つ恭介を目にした途端、黙り込んで大人しく茶をすすり始めた。
「葉留佳君、私にも一つみかんをくれ」
 一人でもりもりみかんを食べていた葉留佳が、はいよー姉御とみかんを投げ渡す。行儀が悪いですよと美魚にたしめなめられた彼女は、はいはーいと素直に返事をしつつも、美魚の視線が逸れた瞬間を狙ってべろべろばーをやっていた。勘のいい美魚に即刻気づかれてぼこぼこにされる。その間隙を縫っていくつもの手が伸びてきて、葉留佳が守銭奴よろしく溜め込んだみかんは残らず奪い取られた。
 成敗されて無一文になった葉留佳がぎゃーすかわめき、クドリャフカが「あの、果物でしたら他にもありますよ」となだめる。瞳に輝きを取り戻し蘇った葉留佳が再び芋虫化してスーパーの袋をがさごそやり「りんご見っけ! バナナも見っけ!」と歓喜する。
「葉留佳君、子どもじゃあるまいしだな。もう少し落ち着きというものを」
「キムチもありましたヨ。それからもずくも」
「なに、それは黙っていられないな」
 身を寄せ合っていつの間にからぶらぶ空間を形成していた恭介と小毬を一瞥した美魚が「おや、お菓子もたくさんありますね」とつぶやく。間もなく小毬に見捨てられて灰燼に帰した恭介を尻目に、美魚があくどい笑みを見せる。
 りんご切ってくる、と殊勝にも宣言した鈴が和室から出て行く。失礼かなと思いつつも、クドリャフカは小声で「何かあったんでしょうか」と誰に対してでもなく問いかける。小毬が小首を傾げて「色々と思うところがあるんじゃないかな」と曖昧に言う。
「それより私はクド公の話が聞きたいですヨ!」
 視線がクドリャフカに集中する。たじろぐ彼女は正座をして膝の上に手を置いて、その場にいる七人を見渡す。唯湖がこたつから身を乗り出して「手始めにだな、クドリャフカ君たちの夜のぐふぉ」
 手刀で首筋を打ち込まれた唯湖が崩れ落ちる。小毬が「セクハラ禁止」とにこにこ笑顔で言う。空気が二割ほど重くなる。当事者でもない恭介が顔を青くする。美魚が控えめな挙手をする。
「直枝さんと住むようになってから、何か変わったことはありますか」
「家事全般が得意になったと思います。料理や洗濯はすごく好きなんですけど、食器洗いだけは、前にゴキブリを見てからトラウマになりました」
「ゴキブリの一匹や二匹、しゅばっとやってばしゅっと仕留めてやればよかったのですヨ」
 おおげさな動きで腕を振り回す葉留佳の隣で、美魚が実に邪魔そうに目を細める。机に片肘をついた葉留佳は「クド公はまだまだ頼りないなぁ」と言いつつ、もう片方の手の人差し指でクドリャフカの鼻先にそっと触れる。うりうり、と擬音をつけて柔らかな頬をも弄ぶ。
「ゴキブリが苦手な人は多いですよ。そんなこととは関係なく、能美さんは今の三枝さんよりも遥かにしっかりしていると思いますが」
「へーんだ、ゴキブリ程度の敵も倒せないようじゃ、まだまだ免許皆伝には遠い遠い! 今後あの黒い悪魔を見るたびに、私はやっぱり葉留佳様がいないとだめだめなひんぬーわんこなのですぅぅ、ってな具合になるに違いないのですヨ!」
「防虫スプレーで十分に代用可能ですよ。それにそもそも」と言う美魚がため息を一つ吐いて「フグは自分の毒で死にませんもんね」と言葉を継ぐ。
「え? え? それどういう意味?」
「ふむ。美魚君は葉留佳君がゴキブリだと言いたいらしい」
「な、ななな、どこがじゃー!」
 憤慨する葉留佳の背後に回った真人が、彼女の頭の後ろで指を立てて触覚を作る。爆笑する謙吾の顔面にみかんの皮が投げつけられ、みかんの皮とすじを周囲に爆散させる。それは学園革命スクレボの最新刊を寝そべって仲よく読んでいた恭介と小毬の間にも降り注ぎ、全く同じタイミングで振り返った彼らが謙吾を鋭く睨みつけた。
「いったい何をやってるんだ。馬鹿かお前ら」
 盆を携えて戻ってきた鈴が、和室の惨状を見て呆れた声を出す。彼女が机の上に置いた皿のりんごは誰がどう見ても切り方が不細工だったが、茶化す者はいなかった。突き刺さった九本のつまようじを各々が手に取った。
「おー甘い。いけますネ」
「蜜がたっぷりでよかったですね」
「だから私は昆虫じゃないって!」
 しかしだ、と唯湖が冗談めかして言う。
「鈴君がこれほどしおらしくなっていたとはな。我が子が巣立つのを見るようで、嬉しくもあり悲しくもありだ。おねーさんはちょっと泣きそうだぞ」
「余計なお世話……ん。何でもない」
 腰を上げて髪を逆立てかけた鈴は、クドリャフカの顔を見てすぐ、乱暴な言葉を押し殺して座り直す。恭介が驚きに目を見開き、口笛を鳴らすときの仕草をする。唯湖が両手を左右に小さく広げ、どこか寂しそうに笑う。
「ふん、あたしはもう昔のあたしとは違うんだ。食器洗いはそれなりにできるし、洗濯もまぁできるし、料理だってできないことはない」
「不安要素しかないな」
 一刀両断された鈴は謙吾に牙を剥きかける。
「だが、頑張った。能美もそうは思わないか?」
「え? ええ、はい。そう思います」
 謙吾が満足そうに頷いて、鈴の頭をぽんと叩く。彼女は首を振ってわずかな抵抗を見せる。
 急に立ち上がった真人が、壁や窓の辺りを眺める。
「それにしてもよぉ、この家はだいぶ古く見えるな。さっきからみしみし言ってるし、隙間風もすげぇ。大丈夫なのかこれ」
「できるだけ安くて、でも二人で暮らせる家を選んだんです。だから確かにぼろっちょですが、私は満足しています。たぶん、リキもそうです」
「出た出たおのろけ! はるちんにもその幸せを半分ぐらい分けてくださいヨ!」
「それではただの貧乏神ですよ。それより今は真面目な話の途中です。少し黙りましょうか」
 本気でしょんぼりしている葉留佳を尻目に、恭介が「能美。今後どうするか、考えはあるのか」と問いかける。クドリャフカはまばたきを繰り返し、どういうことですかと問い返す。
「これからの生活のことだ」
「リキと暮らしていこうと思ってるのです」
「ずっとか?」
「できることなら、そうしたいです」
「あぁもうまどろっこしい。恭介氏、そんな誘導尋問みたいな真似はもういいだろう。クドリャフカ君、要するに彼はこう尋ねているのだよ。君たちはいずれ夫婦になるつもりでいるのか、とね」
 クドリャフカは面食らい、自らの膝の辺りに目線を落とした。きつく目を閉じてからゆっくりと顔を上げると、そこには彼女を見つめる八人の優しげな瞳があった。
 温かな視線を浴びながら、クドリャフカは静かに頷いた。去来する様々な思いに、彼女の胸は締めつけられて痛んだ。両の拳を握り締めた彼女の元へ、鈴が最初に駆け寄ってその小さな体を抱いた。
 クドでよかった。鈴は言う。あたしより、料理も洗濯も食器洗いもうまくやれる。そのぶんだけ、あたしよりも理樹を幸せにしてやれる。そんなこと関係ないです。ああそうだ、関係ない。でも、関係ないけど、仕方ない。だってもう、どうしようもない。
 既にぼやけ始めていたクドリャフカの視界は、鈴の言う「おめでとう」を皮切りにして涙に沈んだ。そこにいる鈴の表情さえもまともに見えていなかった。
「クド公は泣き虫だなぁ。どうして泣くんですかネ。よしよし」
 まだ乾ききっていないクドリャフカの髪をなでながら、葉留佳が美魚の方を向いて苦笑する。毎度のごとく無視しようとした美魚は、不意に目を細め、自らの体をそちらに寄せる。戸惑う彼女の顔に手を伸ばし、指先で目尻に触れる。すくい取られたのは透明なしずくだ。葉留佳が「え、え」と混乱気味に服の袖で目元をごしごしとやる。目が充血している。濡れている。
「葉留佳君……」
 唯湖が沈痛な声で呼びかける。葉留佳は必死に何か言おうとしていたが、できるのは自らの膝を抱いて震えることだけだった。唯湖は細く長い指をその肩に伸ばし、彼女を背中側から包み込む。
「泣かないんじゃ、なかったんですか」
 美魚が淡々と問いかける。誰からの返事も得られないと悟った彼女は、やれやれ、というように大きなため息を吐いて、人一人ぶんだけ二人に体を近づける。本棚から適当に抜き出した文庫本を開いて読み始める。
「こいつも未完のままか」
 残念そうに言い、恭介がスクレボを本棚に戻す。ちょっとでも読めてよかったんじゃないかな、と小毬が言う。ああ、そうだな。うん、そうだよ。二人はどちらからそうするでもなく手を繋ぎ、歩き出す。恭介は美魚の傍らに放り出された紙製の栞を拾い上げて、差し出す。彼女が首を横に振る。必要ありませんから。恭介が微笑む。
「能美。今日はありがとな。お茶やお菓子、うまかったぜ。それにスクレボもな」
 クドリャフカは胸が詰まって何も言えなかった。何を言うべきかも分かっていなかった。涙でぐしゃぐしゃになった彼女の顔を見て、恭介が笑う。心を見透かすような笑みだった。
「鈴はどうする」
 問いかけてきた恭介でなく、その隣に立つ小毬を鈴は見つめた。鈴ちゃん、と彼女が言う。鈴は「あたしはここにいる」と力強く告げた。恭介が「それなら、それでいい」と言って笑った。
「真人と謙吾はどうだ」
「外は雨も風もひでぇからな。オレはここでいいぜ」
「俺もそうさせてもらおう」
 二人が壁に背を預けて座り込む。
 小毬が体を反転させ、恭介と向き合った。
「やっぱり、私もここにいたい」
「そうか」
「うん」
 それでも繋いだ手は離れずに、恭介は「なら、俺も最後までつき合おう」と言ってその場に腰を下ろす。彼は小毬の肩にそっと手を回した。
 もう誰も互いに言葉を交わそうとしなかった。あまりにも穏やかに流れすぎる時間の只中で、クドリャフカは何度も目をこすった。彼女の瞳に映る世界が次第に滲んでいくのは、際限なく流れ落ちる涙のせいか、また別の何かのせいか、もう彼女には分からなかった。
「結局、こうなるわけか」
 雨音だけが遠く聞こえる室内で、恭介が独りごちる。
「どいつもこいつも、未練たっぷりじゃねぇか」
 でもたぶん、それで正しい。
 家事が得意になっても、理樹と婚約しても、強くなっても、戻らない断絶がある。埋まらない空洞がある。割り切れない思いがある。それが自然だ。いつか過ぎ去る一ページに成り果てるほど、あの日に失った世界と人と時間は軽くない。
 全身から力が抜けていくのをクドリャフカは自覚していた。立ち上がるどころか、声も出せない。気を抜けばまぶたさえも落ちてしまう。それだけは嫌だと彼女は思うが、やがてあらゆるものの輪郭が朧になっていき、闇が四方から視界を食いちぎる。黒く塗り潰されていく世界に再び光が射し入れられたとき、窓越しに見える空はどこまでも明るく青かった。
 身を起こしたクドリャフカの体には毛布がかけられていた。室内にゴミの類は見当たらない。肩を落とした彼女が濡れた瞳を指先でぬぐうと、ふすまが開いて心配そうな顔をした理樹が顔を出す。彼は言いにくそうに、果物や食材、汚れた湯飲みや茶碗が部屋の中に散乱していたのだと彼女に告げた。そうですか、とだけクドリャフカは言う。説明するつもりはなかった。信じてもらえるとか、もらえないとか、そういうのとは関係がなかった。
「お供え物、なくなっちゃったね」
「もう十分なのですよ。後は花があればそれでいいです」
「そう? じゃあ、駅前に花屋があるからそこで買おっか」
 わふーと片手を突き上げる。
 強くなろう、とクドリャフカは思う。料理もうまくなろう。洗濯も手際よくやれるようになろう。食器洗いも、いつかゴキブリを撃退できるぐらいの度胸をつけて、てきぱきこなしてやろう。頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、どれだけ頑張っても欠けてしまった一人ぶんの空白さえ埋められなくて、それでもいいから頑張って、幸せになろう。そう思う。


[No.488] 2009/11/06(Fri) 04:18:40
不可思議な事もあるもんだ (No.483への返信 / 1階層) - ひみつ@12181 byte

「理樹ぃ! 大変だ大変なんだ大変なんだよ!!」
 真人が寝ている理樹の体を大声を出しながら揺さぶる。実はこういった行為は、真人にしては実に珍しかったりする。彼はそれが一般常識かはおいておいて、他人を思いやる事ができる優しい人間だ。朝方早く起きての筋トレにしても眠っている理樹に迷惑がかからないようにしているし、寝ている理樹の枕元で「筋肉さんが1人、筋肉さんが2人……」と言うのも理樹にいい夢を見て貰いたいからだ。もちろん、筋肉は1人2人でいいのかという疑問は残るが。
「…………。どうしたの、真人」
 だから理樹は叩き起こされた不快感を感じながらも、それを表には出さずに真人を見る。確かに真人はこれでもかと憔悴しきっている。
「だから大変なんだよぅ!」
「だから何が?」
「オレの……オレの! 大切な筋肉進化促進セットがどこにもねぇんだ!」
 真人の言葉に理樹は半身を起こすと、部屋の中を見渡す。確かにそこはこざっぱりとしていて、暑苦しく掃除の時は特に邪魔くさい筋トレグッズはどこにもなかった。
「寝る」
「理ぃぃぃ樹ぃぃぃぃぃ!!」
 世界の中心で愛を叫んだような絶叫が響いた。





 不可思議な事もあるもんだ





 とはいえ。もう一度布団に入り直したけれども、寝起きのいい理樹は二度寝する事が出来ずに、結局はのそのそと起き出す。
 そして部屋の隅で小さくなっている真人へ近づいていく。
「どうして、どうしてだよ理樹ぃ。オレたちは夕日の向かって筋肉神に向かって永遠の筋肉を誓った仲じゃねえかよぅ」
「なにそのやっちゃった感の漂う新しい新興宗教。それはともかく起きたよ、真人」
「……、…………。ぉぉぉ。ま、まさかこれは筋肉さまの見せた幻か? 理樹が、理樹が目の前にいるなんて…………」
「いや、そういうネタはいいから」
「理樹よ、いや筋肉教の教祖よ! 今一度この哀れな筋肉に慈悲をぉ!!」
「寝るよ?」
「ごめんなさいでした」
 とりあえず謝った真人は現状を理樹に説明する。と、言っても何が分かっている訳でもなく、朝のランニングから帰ってきた真人が部屋の中に筋肉グッズがない事に仰天して、慌てて理樹を起こしたという訳だ。
 その間に理樹は部屋の中を探索して他になくなった物がないかを探していく。
「なるほど、話は分かったよ。それにしても不思議な話だよね。あんなにたくさんの筋トレグッズだけを持っていくなんて。大変な割にはお金になったりもしないのに」
「くそぅ。きっとこれはオレの筋肉に憧れた少年が持っていったに違いないぜ。
 オレはどうしたらいいんだよぅ!」
「…………普通に腕立て伏せとか腹筋の量を増やしたら?」
「それじゃあ筋肉に偏りが出来るじゃねえか。偏筋になっちまうじゃねぇかぁぁぁ」
 絶叫する真人はとりあえずおいておき、現状に思いを馳せる理樹。だがここで考え込んでいても進展なんてないと思い直し、真人に向き直る。
「とにかく、ここにいても仕方がないよ。外で情報を集めよう」
「おう。理樹がそうしろっていうならそうするぜ」
 とたんに立ち直り、理樹と共に部屋を出る2人。
「それでよ、どこに行くんだ?」
「訳が分からないからね。とにかく情報を集めるか人手を集めよう」
 彼らの部屋から一番近い友人は謙吾。彼の部屋に向かって歩いていく。そして謙吾の部屋についた彼らはその前でどちらがドアをノックするか軽く揉めた後、真人・理樹・真人の順番でノックをする事になった。
「…………」
「…………」
「…………」
 で。出てきた謙吾の暗い顔。その姿を見た3人に沈黙がおりる。
「…………謙吾よ、お前もなのか?」
「という事は真人よ、まさかお前も?」
「ああ。オレ自慢の筋肉進化促進セットが影も形も。昨日作ったばかりのマッスルエクザザイザーまでっ……!!」
「なにそのパチモンくさい名前」
 いちおう自分の役割は果たしておく理樹。
「俺も、俺もなんだ。朝起きたらリトルバスターズジャンパーはもちろん、胴着のジャージも、着ていたパジャマさえもっ……!!」
「せめてパジャマは気付こうよ、謙吾」
 むせび泣く2人を醒めきった目で見る理樹。
「で、もういい?」
「ん? ああ、うん」
「待たせたな、理樹」
「それで謙吾、この泥棒に心当たりはない?」
「いや、ないな。そもそも普通に考えてパジャマを脱がされたと云うのに俺が起きないのも変だ」
「よかった。その位は分かっていてくれたんだね」
「もちろんだ。それと俺と真人の共通点だが、大切な物がなくなっている。もしかしたら理樹も大切なものが無くなっているんじゃないか?
 さっき着た恭介も血相が変わってたぞ」
「恭介も来たのっ!?」
「ああ。何を盗まれたかは聞かなかったが。鈴が心配だからって女子寮の方に行ったぞ」
 男子寮に特に親しいという人物はいない。
「じゃあ僕たちは女子寮の方に行くよ。謙吾は……どうする?」
「…………部屋にいる。余り人のいる所に行きたくないし、それにこの格好だと特に女子の目が怖いんだ」
「ああ、うん。お大事ね、謙吾」
 その言葉を聞いた制服姿の謙吾は、バタンと扉を閉める。
 そして走り出す2人。謙吾の様な運動部の連中は朝練があった事もあり、寮の中はちょっとした騒ぎになっていた。どうやら話は理樹たちだけにとどまらないらしいと、とにかく急いで女子寮に向かう。
 途中、女子寮に向かう渡り廊下から空の餌入れに向かった悲しそうにぬ〜お〜と世界の中心で愛を叫んだような絶叫が響いていたが、そんなドルジはもちろんスルー。
 やがて女子寮につき、鈴の部屋に急ぐ2人。
「ちょ、ちょ、ちょっと理樹くんに真人くん。大変なんですヨ!」
 だが、その前にあわあわと騒がしい葉留佳に捕まってしまう。まさか無視する訳にもいかず、また声の調子から困りきった葉留佳を無視する訳にもいかず、止まって振り向く。
「葉留佳さん、その髪どうしたの?」
「朝起きたら髪止めがなかったんですよ〜。理樹くん一緒に探して〜」
「葉留佳?」
 涙目で訴える葉留佳。そしてそんな葉留佳の後ろから底冷えした声がかかる。何事かとそちらを見てみれば、葉留佳と同じく髪をおろした佳奈多の姿が。ここまでくると外見のみでは余り区別がつかない。
「あのね、葉留佳。多少のイタズラは我慢するわ。けど髪止めを持っていくのはさすがに……お姉ちゃん許せないなぁ?」
 それで佳奈多はキレていた。これ以上なくキレていた。どのくらいかというと、葉留佳も髪止めをしていないのに気がついていないくらい。冷や汗だらだらと流して佳奈多を見る3人に向かって、こんな場面でみたくなかった佳奈多の満面の笑みが迫ってくる。
「落ち着きなさい、二木さん」
 恐ろしき佳奈多を止めたのは横から入ってきた佐々美。そんな英雄と呼ぶに相応しい偉業を為した彼女はというと、いつものツインテールではなくて普通に髪をおろしている。揃って新鮮な雰囲気を漂わせている美少女三人。
「佐々美さん。なんとなく答えは分かっている気がするんだけど、リボンはどうしたの?」
「無くなっていたのですわ。全く、あんな安物を盗んでいくなんて何を考えていくのやら」
 ただリボンをなくしただけとは思えない反応に、理樹はそのリボンが大切なものだったんだろうなぁと勝手に思ういるが、実は単に髪を纏められなかったおかげで朝練に参加出来ず、苛立っているだけだったりする。
「ちなみに小毬さんも何か無くなってたって騒いでなかった?」
「神北さんならお菓子がなくなったって騒いでましてよ。どうせ食べたのを忘れただけにでしょうに」
 やれやれとため息をつく佐々美。
「そっかー。小毬さんはお菓子かー」
「そんな事はどうでもいいのです。問題なのはここにいる3人は全て髪留めを奪われた、という事。きっと髪フェチの変質者がこの近くにいるという事ですのよ!
 二木さん、三枝さん。一刻も早く犯人を見つけ出してしかるべき制裁を与えましょう!」
 ハイテンションな佐々美に、けれどもキョトンとする似た者姉妹。
「お姉ちゃん、フェチってなに?」
「さあ。なにかしらね?」
 純朴過ぎる姉妹に、一気に顔が赤くなる佐々美。そんな彼女を生温かい目で見守る男2人。
 羞恥をごまかす為にがっしと佳奈多と葉留佳の腕を引っ掴んで歩き出す佐々美。顔が赤いのは変わらないけど。
「そ、そんな事はどうでもよろしんですの! 行く、早く行きますわよ!!」
「あ、理樹くん。まったね〜。出来れば一緒に髪留め探して欲しかったけど、なんか佐々美ちゃんが被害者同盟で探すみたいな雰囲気になってるし、ごめんね〜」
 ズルズルと引きずられながら、それでも余裕そうに葉留佳。きっと彼女は引きずられる事に慣れているのだろう。主に一緒に引きずられている隣の姉とかに。
 台風一過のようにぽかんとする理樹に真人。結局、彼らがほとんど話をしないままに事態が発生し、進行し、収束してしまったのだからこれも仕方のない事なのかも知れないが。
 しばらくそのまま固まり、通りかかった女生徒の胡散臭そうな視線を受けて、やっと再起動を果たす。
「……じゃ、行こうか」
「……ああ、そうだな」
 そして歩き出す。寸前に、目の前にゆらりと幽鬼のような人影が現れた。
「……来、ヶ谷、さん?」
「ああ、そうだ」
 その余りの異様さと、妙に似合った雰囲気に、思わず理樹の声がどもってしまう。っていうか、黒髪美女が醸し出すその雰囲気は恐ろしい。さっきの佳奈多とは違った、けれども同じニュアンスの恐ろしさで。
「ど、どうしたんだよ。来ヶ谷」
「真人少年も一緒か。なに、私の大事なアルバルが盗まれていたんだ。アレがないと私は生きていけない…………。
 アルバムを探しだて、しかるべき報いを犯人に与えてやらねば気が済まないのだよ」
 そしてそのまま去っていく来ヶ谷。どんなアルバムかは聞いてはいけなかった気がした。最も、それを一目見れば来ヶ谷のものだと納得出来るだろうという、妙な確信があったりしたのだけれども。
 出鼻をくじかれた理樹たちは静かにかぶりをふる。
「……もう、いいと思うんだ。僕たちは十分頑張ったよ」
「いや、諦めるな理樹! 筋肉進化促進グッズを諦めちゃならねぇ!!」
「…………それを聞いてますますやる気がなくなったよ」
 それでも真人の必死に呼びかけに応えて、奇跡的に立ち上がる理樹。そして向かうのは鈴の部屋。
 そしてようやく鈴の部屋に辿り着き、中に入る。部屋には恭介と鈴だけじゃなく、何故かクドまでいた。
 お互いがお互いを見やり、不思議そうな顔をしていた。
「あれ? リキに井ノ原さん。どーしたのですか?」
「クド公じゃねぇか。お前こそどうしたんだよ?」
「……あ、いや、私は部屋から大切なものが無くなったので、ちょっと、あの、探していて」
 顔を真っ赤にしながらごにょごにょ歯切れ悪く言うクド。
 気にならないではないが、こうも言い淀むのはきっと話しにくい物だと思い、それ以上の追及をやめる理樹。
「そんなんじゃ分からねえよぅ。結局何がなくなったんだ?」
「下着らしい。しかもしょーぶ下着だそうだ」
「り、りぃん、さぁん…………」
 なのに空気読めない真人。そして鈴。
 真っ赤な顔を更に赤くして、泣きそうな顔で鈴を見るクド。そしてそんなクドを見返し、何故か得意げな顔で胸を張る鈴。
「で、勝負下着ってどういうのだ? どんな勝をするんだ」
「んにゃ。実はあたしにもよく分からん。なんかこう、レスリングとか相撲とか、っぽいのらしいんだが」
「相撲ぅ〜? 相撲なら回しだろうが。しかも女は出来ないし」
「あたしが知るかぼけ! よく分からないって言ってるだろーが!!」
 そんなバカ話を聞いてがっくりと肩を落とすクドを誰を責められるだろうか。
「ぅぅぅぅぅ。せめてリキにだけは知られたくなかったですのに……」
「あー。そろそろいいか?」
 なんとなくいたたまれなくなった恭介が口をはさむ。顔が微妙に赤いのは彼の名誉のためにも気のせいだという事にしておく。
「まあ、理樹と真人がここに来た理由はなんとなく分かる。大方、お前らも『大切なもの』がなくなった口だろ?」
「そーなんだよ! 俺の大切な筋肉進化促進グッズがぁ!!」
「あたしの買い置きしておいたモンペチが全部なくなってたんだ。
 あいつら、お腹すいてるんだろーな…………」
 思いだして激昂する真人にしょんぼりと落ち込む鈴。ちなみにクドはさっきのショックからまだ立ち直れていない。
「ちなみに恭介は何がなくなってたの?」
「金」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「能美まで復活してそんな目で見るなよな! 就活用の金だったんだよ! 今度のは最終選考までいって自信があったんだよ!」
「毎回そんな事を言ってるからきょーすけの言葉には信頼性がない」
「んな事言ったって基本的に金は大事だろっ!?
 っていうか理樹、お前は何が無くなってたんだ?」
「話をそらしたな」
「まあまあ。でも僕はまだ何が無くなってるのか分かってないんだよ」
 場を収めるようにそう言う理樹。
「じゃあ理樹も俺と同じように金が無くなってるんじゃないのか? 確かめてみたか?」
「いや。サイフは身につけて寝てるから確認してなかったけど……そういえば謙吾もパジャマをなくしてたしね」
 そこだけ聞いた鈴は、あいつはなにを大切にしてるんだと呆れた顔をする。謙吾、本人の預かり知らない場所で好感度ダウン。
 それはともかく自分のサイフの中身を確かめる理樹。
「お金はなくなってないみたいだけど…………って、やられた」
 中身を確認していた理樹だが、気がついた途端に顔が歪む。
「どうした理樹? 何が無くなってたんだ?」
「写真。みんなで撮ったやつをサイフに入れといたはずなんだけど、それがなくなってる」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 突き刺さる視線に冷や汗を流す恭介。
「そ、そう言えば他のやつは大丈夫だったのかなっ?」
「え〜と。僕に真人、謙吾、葉留佳さん…………。
 美魚さんがまだかな」
「じゃあ西園の所に行ってみようぜ!」
 さあさあさあとみんなを部屋から連れ出そうとする恭介。
 ごまかしやがってこの野郎という視線が彼に突き刺さるが、やがてはそれもなくなってしまう。
 その代わりに恭介に注がれる生温かい視線。居心地が悪い事には違いない。
 そして美魚の部屋に辿り着く5人。だがもう、なんとなく美魚の無くなったものの目星はついている者が大半。
「みお。入るぞ」
 代表して部屋を開けた鈴。そして全員の目に飛び込んできた美魚は、ずーんと部屋の中で煤けていた。
「わ、私の、薔薇本が……」
「やっぱり」
 誰ともない言葉。
「今日から薔薇のガーデニングをやろうと思ったのに…………」
「そっち!?」

 ちなみに。
 結局犯人は分からず、翌日の朝にはなくなった時と同じようにいつの間にかなくなった物は返ってきていたとか。


[No.491] 2009/11/06(Fri) 19:30:53
おっぱい消失事件 -Momoto-Yuri - (No.483への返信 / 1階層) - 秘密@13621 byte

朝、真人と一緒に学食に向かう。途中で謙吾とも合流する。いつもの朝だった。
異変に気づいたのは食堂だった。

―女子が一人も居ない―

真人と謙吾も不思議そうな顔。とりあえず席に座る。恭介と鈴も居ない。
不思議に思っていると、

「あ、クド」
少しフラフラしながら歩いているクドに声を掛ける。
「おはようございますなのです皆さん。…うふふふふ…」
「お、おい大丈夫かクー公、フラフラしてっし…」
「ふふふ…平気ですよ。うふふ…」
「…大丈夫そうには見えんが…風邪か?」
「うふふ…ずっと★俺の★ターンなのです…ふふふ」
「…え?」
「うふふふふふ…」
そのままフラフラと何処かに消えて行くクド。呆然と見つめる僕達。
「…何なんだろう」
「やっぱり風邪か?女が居ないのも…」
「いや、昨日まで皆元気そうだった。女子がこれ程に居ないのなら男子もかかる筈だろう」
見た感じ、良く学食に居る男子は殆ど居る。
「女子だけ…?」

「おはようございます」
西園さんが何処からともなく現れ席に座る。
「おはよう、西園さん。あのさ、今日殆ど女子が居ないんだけど西園さん知らない?」

じー
「…?」
僕を見つめる西園さん。
「あ、あの?」
じーーーっ
ぷいっ
そっぽを向かれた。今度は真人を見つめる。

じーーーっ
「何だよ、俺の表情筋に何か着いてっか?」
ぷいっ

じーーーっ
今度は謙吾。
「…何かあったのか?西園」
ぷいっ

「皆さん、最低です」
「え?」
「いつもとそんなに変わらないから良いだろうというお考えなのですか?」
「? 訳解んねえぞ?」
「それとも気づかないふりで私に恥ずかしい事を言わせようとしているのですか?」
「お、落ち着け西園。何がなんだか―
「気づいてねェならアホ確定。気づいてて攻めてねェならスゲエアホ確定だぜ!」
「西園さん!?」
「どうやら皆さんは私を敵に回したいようですね」
「て、敵?」
「これだから男の人は…。男の人はぁぁっ!」
逃げ去る西園さん。俳優もビックリ。僕らもビックリ。
「い、一体…?」

ズガシャーン!
「うおぉい!?」
鈴がお盆をテーブルに叩き置く。
「鈴!?そんな乱暴に―
鈴のお盆を見て唖然とした。男子でも食べきれない程のご飯が山盛りだった。其をガツガツと食べ始める鈴。
「一体何があったの?鈴」
ごっくん
「これが食わずにいれるかー!」
「だから何があったのさ!」
「わからないのか!」
「解んないよ!」
「お前達最低だ!」
西園さんと同じ事を言った。

「うぇぇ〜〜〜〜〜ん!」
謙吾に後ろから抱きつく、もとい飛びかかる葉留花さん。結果謙吾はテーブルにガコーン!とキスする羽目になった。
「今度はどうしたの!?葉留花さん!?」
…あれ?何だろうこの違和感…
この違和感も一瞬で吹っ飛ぶ事になる。

「おっぱいが無くなっちゃったんですヨーーー!!」
「はあぁぁぁあ!?」

確かにいつも制服を膨らましている葉留花さんのおっぱいは無い。良く見ると鈴の慎ましやかなおっぱいもまっ平らだ。
「女子は皆なの?」
頷く葉留花さん。
「朝起きたらペッタンこで、驚いて皆の部屋を回ったらみーんなペッタンこで…」
「こまりちゃんは挙動不審で…」
「姉御はショックで閉じ籠ってるし、他の皆も…。あ、クド公は、『私の時代』とか『ずっと★私…いや、俺の★ターン!』とか叫んでました。みおちんは行方不明で…」
「さっき俺達の敵だって宣言してきたぞ」
「…酷いことしました?」
「いや、恐らくその…変化に気づかなくて…」

「それは酷いですヨ!」
「やっぱりお前達最低だ!」
「だから何でそうなるのさ!」
「おっぱいは女子の宝物ですヨ!」
「傷つくにきまってるだろうが!」
「男子にとっても宝物じゃないですか!」
「そうだ!おっぱい育てるのは大変なんだぞ!」
「どうやって育ててるのか教えて欲しいよ…鈴は間違ってるだろうから。それよりあんまり大きな声で言わないでよ」
「中の人がおっぱい担当だからしょうがないだろ!」
「ちょっ、それナ○ブラ!」
「因に理樹の中の人もおっぱい担当だ」
「あ!そうだった!」

「「おっぱいイェイ、イェーイ!」」
「ふ、二人が壊れた…」
「理樹まで壊れやがった…」
「ん?何の事?」
「戻った…のか?」

「ということで助けて!理樹君!」
「助けろ!理樹!」
「…助けて欲しい人には聞こえないよ鈴…」
と言ったら潤目&上目使い&甘えんぼボイスで
「助けて…理樹ぃ…」
「うぐっ…」
その道の人で無くても凄まじいダメージ…。

「…うん。解ったよ。皆で何とかしよう!」
「おぉー!理樹君ありがとー!」
葉留花さんのタックルにより今度は僕がテーブルにキス。
「お前達にもやってやろうか?」
「「いえ結構です」」
「つーかそのスキル何処で手に入れた?」
「あれ?恭介は?」
「鼻血を出しすぎて病院行きです」
「……………」


取りあえず味方になり得そうな人を部室に集める事にした。
部室に入ると既に来ヶ谷さんが小さく体育座りをしていた。重症のようだ。
「…来ヶ谷さん大丈夫?」
「…うぅ…」
この人本当に来ヶ谷さん?

モゾモゾモゾ!
今まで気づかなかったけど布団が動き出す。中から顔を出したのは―
「…沙耶さん」
「…ふえ〜〜〜〜〜ん…ぐすっ」
この人も自信あったのか。

「宮沢さん」
「おう、古式も来てくれたか」
「はい、宮沢さんの行く所へなら何処へでも…」
顔を赤くする古式さん。

「―と言うことで」
集まった、真人、謙吾、鈴、葉留花さん、来ヶ谷さん、沙耶さん、古式さんを見渡す。
「そんなとこに居ないで入ってきたら?小毬さん」
「ふえぇぇ!?」
部室の窓からこっそり見ていた小毬さんが驚く。

「―と言う事で」
仕切り直して、改めて女子を見る。
…何と言うか悲惨だった。皆しょんぼりしている。生気などあったものではない。
何とかしなきゃ。
「僕はこの現象をどうにかしたいと思う」
「俺も手伝うぜ。理樹」
「余りにも可哀想だからな。俺も手伝おう。」
男子の力強い発言に女子も安心してくれたようだ。
「良かった〜」
「宮沢さんがそう仰るなら私も手伝います」
「皆で何とかしましょ!」
「…真人少年と謙吾少年が今だけは愛しいよ…」
「照れるぜ来ヶ谷」
「うむ、元気が出てきたようだ」
「そこでなんだけど、誰かこの現象の原因を知ってる人居ない?」
「無論調べてある」
すらりと立ち上がる来ヶ谷さん。復活したようだ。
ふつくしい…。おっぱいが無くたって、この凛々しさは変わらない。
「原因は科学部の(21)コンどもが作った装置だ」
「科学部…」
「科学部にも(21)コンが居たのか…」
「その装置が電波を発信しているらしい。因みに色違いのアイツは出ないらしい」
「いや、当たり前でしょう」
「その装置の場所は解らないか?」
「北校舎4階の教室のどれかだ」
「敵は何人?」
「50人以上居る」
「50人!?」
「そんなに馬鹿きょーすけの仲間がいるのか…」
「50人と更に3トップがいるらしい」
「3トップ?」
「何故か怒っている美魚君、何故か喜んでいるクドリャフカ君、何故か病院を抜け出した恭介氏だ」
…敵の情報は解った。あんまり解りたく無かったけど。
「情報はそんなものか。後は装置を破壊すればいい」

「大変ですわ!」
部室の窓から声。
「そこは入口じゃないよ。笹瀬川さん」
「そんなこと言ってる場合ではありません!変態共が此方に押し寄せていますわ!」
「変態って(21)共か?」
「『あの集団さえ抑えてしまえばこっちの勝ちだ』という指令が出たそうですわ」
「…恭介か…」
「今10人程が向かって来ています。宮沢様早くお逃げに!」
「ってやっぱ謙吾目当てかよ」
「うむ、皆、逃げるぞ」
「うん、そうしよう。ありがとう笹瀬川さん」
「いえ、宮沢様の為なら…」
「ほんねはお前のなけなしのおっぱいを元に戻して欲しいから「うるさい!棗鈴!」
「って古式さん!弓を構えないで!」
「大丈夫です。この距離なら目を瞑ってでも当てられます。部室を傷付ける事はありません」
「あーもーほら皆行くよ!」

部室の窓から脱出すると確かに此方に向かって来ている。見つからないように校舎に入る。

覗き見ると廊下に20人程が居る。全員が何らかの武器を持っているから(21)共に違いない。

作戦は立てた。
ミッションスタート!

古式さんと沙耶さんが廊下にでる。
「居たぞ!」「奴等だ!」「やっちまえ!」

パンパンパンパンパン!
沙耶さんの銃が火を吹く。
しゅっ!しゅっ!しゅっ!
古式さんが矢を放つ。
バタバタと倒れる(21)共。一応殺傷能力は低い物を使っているらしいが…。

あっという間に最初廊下に居た(21)共は倒した。
休む間もなく第二軍が押し寄せて来る。

一陣の風が吹き抜ける。

十数人の第二軍が一瞬で倒れる。
屍の上に立ち、刀を鞘に収める来ヶ谷さん。
「ちょっ、今の何!?読んでる人はおろか僕らも何が何だか解んないよ!?」
「断罪したまでだ」
「言うと思った…」
「女の子を泣かせた罰だ。…いや、まだ軽いか」
「もう止めたげて…」

「うっ…」
片目を抑えうずくまる古式さん。
「古式!?大丈夫か!?」
「…はい…少し無理をしてしまったようです…」
やはり目に負担をかけてしまったのだろう。
「私、古式さんと一緒に居るわ。弾も切れちゃったし」
「うん。お願い沙耶さん」
「古式、良く頑張った。ありがとう」
「宮沢さん…お気をつけて…」
「あぁ、お前達を元に戻す為にも頑張ってくる」
「えっそんな…胸が無い古式も可愛いけど胸があるいつもの古式の方が可愛いなんて…恥ずかしいです宮沢さん…」
「ちょっ、古式さ「はいなんでしょう」
「あの、大じょ「はい大丈夫ですいつもどうりです」
…もう突っ込まないでいよう…。
「皆、行こう。古式さん沙耶さん気をつけて」

「…鈴、もう離してあげたら?」
「もがーー!」
「こいつ離すと何やらかすかわかんないぞ」
「鈴、離してやってくれ」
「うーみゅ、仕方ない。離すか」
「ぶはぁっ!」
「大丈夫か?」
「はぁはぁ…ありがとうございます。宮沢様…」
「気にするな。さぁ早く行こう」
「はいっ!」
「上手いな謙吾…」

「居たぞ!」「追え!」
「…部室に来た奴等か」
「逃げよう!」
急いで階段を駆け上る。
「ふわぁ!速いぃ!」
「運動部連中も居るのか…」
もう少しで3階―

「こうなったら!くらえー!ビー玉まきびしー!」
がらがらがらがら!
勢い良く転がって行く葉留花さんのビー玉。
「うわぁ!」「いてっ!」
ビー玉まきびしの効果は抜群だった。
「ほわぁ!」「ひゃあ!?」
…味方にも効果は抜群だった。小毬さんと笹瀬川さんも犠牲になる。
「あー!ごめん!」「ふえ〜ん…」
「大丈夫か!?えっと…ささっさん!」「だから!私の名前は(略)!」

「…仕方がない。行こう皆」
「…それしかないか」

3階に着くと、
「お姉ちゃん!」
「葉留花!大丈夫だったの!?」
「うん。でも私のせいで…」
しゅん、となる葉留花さん。…あれ?佳奈多さんの様子が…。
「あなた達は装置を止めに行きなさい。4階の教室です。棗先輩のね」
「…やはり恭介がらみか」
「あと、少し葉留花は残って」
多分慰めてくれるんだろう。
「解った。お願いね、佳奈多さん」
僕達は任せて先に進んだ。

「…お姉ちゃん…?」
葉留花は気づく、佳奈多がいつもと違うことに。
怒る雰囲気でも慰めてくれる雰囲気でもない。
「お姉…ひあっ!」
葉留花にいきなり抱きつく。
「ちょっ、ちょっと!?」
「あぁ…可愛いわ、葉留花…」
「!?」
「その小さな胸、落ち込んだ顔…小さい頃みたい」
「ち、小さい頃…」
「あの時からずっと恋していたわ…。さぁ、行きましょう。桃源郷へ…」
「やっ、止めておねっ…んっ…んちゅ…」
桃源郷つーか百合の花園じゃね?まぁいっか。

遂に4階に辿り着く。すると―
「…クド…」
3トップの一角、クドが現れた。

「来ヶ谷さん!」
ビシッ、と来ヶ谷さんを指差す。
「私としょーぶするのですっ!」
ワン!ワン!ストレルカとヴェルカも現れた。

一瞬の風が吹く。
いつの間にかクドの後ろに回り込む来ヶ谷さん。首筋には刃。
「君が勝負と言った瞬間、もう勝負は始まっているのだよ」

くるり、と来ヶ谷さんに向き合うクド。

飛び付いてキス。
「ん!?」
ストレルカとヴェルカの体当たり。来ヶ谷さんも体制を崩し、倒れてしまう。刀が廊下を滑る。
来ヶ谷さんの胸元をはだけさせ、小さくなってしまった胸を揉む。
「んっ!んんっ、んぅ…」
ぷはっ、クドの唇が離れる。
「気持ち良いですか?小さい胸は感度が良いらしいのです。いっぱい気持ち良くなって下さいなのです」
「あっ、止めて…んっ…」
「あれ?もうこんなに固くなってるのです。そんなに気持ち良かったですか?来ヶ谷さんはやらしい娘なのですっ」
「あっ、そ、そんな事っ…」
「良いんですよ、そんなに強がらなくて…。もっといじめたげるのです。今までされてきた何倍も…」
「だ、だめぇ…、はぁ、んっ…」
「ク、クド!来ヶ谷さんを離し―」

「カイリュー はかいこうせん!」
ゴォッ!ズドォッ!
「「ぐわあぁっ!」」
「真人!謙吾!」
「うっ…」「ぐっ…」

「西園さん!」
西園さんは抱えた大きなビーム砲を撫でる。
「凄い威力でしょう?科学部部隊の最新作『カイリュー』は」
「…くそっ」「つっ…」
「あら、まだ元気なのですか?『れいとうビーム』!」
間一髪で避ける二人。壁に当たったビームは壁を凍りつかせた。
「逃がしません。『でんじは』!」
稲妻が走り、真人と謙吾を貫く。
「か、体が…!」「…動かねえ!」
「こんな事も出来るんです。因みに『滅びの炸裂疾風弾』も出来ます」
「いやいやいや!それ違うし!だからわざわざ『カイリュー(怪龍)』なの?」
「とどめです。『はかいこうせん』!」
「『滅びのバーストストリート』使わないの!?」
ゴゥッ!ドカン!
「あ…あぁ…」

「さぁ、次は直枝さんです。此でやっと復讐が…!?」
煙の中、二つの影が立ち上がる。
「そ、そんな!?か、『カイリュー』!はかいこうせん!」
しかし『カイリュー』は反応しない。

一閃
謙吾の竹刀が『カイリュー』を真っ二つにする。
「あれだけの大技だ。反動があるのは当たり前だろう」
「オレ達の耐久力を舐めすぎたな」
「そ…そんな…」
後ずさる西園さん。
「少しお痛が過ぎたな。西園」
「うむ、灸を据えねばなるまい」
「や、やぁ…」
屈曲な男二人に追い詰められる清楚な美少女。危ない図に見えて仕方がない。

「行こう!鈴」
「いいのか?くるがやとみおを助けなくて」
「…装置を早く壊そう」
なんかもうこの現実に頭がクラクラしてきた…。

恭介の教室に辿り着く。
バン!扉を開け僕は中に入る。
「恭介!」
「…遂に来たか」
椅子から立ち上がる恭介。後ろにはあらかさまに怪しい巨大な装置。
「俺を止めに来たのかい?無駄だ。俺はもう…迷わない」
無駄にかっこいい台詞を吐く恭介。
「うん。解ってるよ。それでも僕の…いや、僕達の勝ちだ!」
指をパチン!と鳴らす。すると、

鈴が恭介に歩み寄り抱きついた。
「…り…ん…?」


「おにいちゃんが居ないと…さみしいよぉ…」


「ごばぁっ!」
「きょ、恭介!?」
突然喀血し、倒れる恭介。慌てて駆け寄る。
「恭介!しっかりして!」
「お…俺は…もう…死んでいい…」
恭介は意識を失った。…動揺させるのが目的だったけどどうやら効果は抜群のようだ。気絶しているのに笑顔なのが不気味すぎる。もうやだこんな世界。
装置を見ると ボタンがある。あぁ、やっと悪夢が終わる―

バキィッ!!
「うわぁ!?」
鈴の踵落としが ボタンに叩きつけられた。
「ちょっ、ちょっと鈴!?」
「こうすればもうなおらないだろ」
「確かにそうだけど…」

ぷすっ

バチバチバチバチ!
「うわあ!」
突然火花を散らす装置。直ぐに収まったが―

「お?」
鈴が変な声をだす。
見るとぺったんこの胸が膨らんでいく。
いや、膨らみ過ぎている。鈴の胸は膨らみ、競りだし、ワイシャツを押し広げている。

「どうだ、ないすばでぃだろ」
ようやく収まった胸は来ヶ谷並に大きかった。
「これだけおっぱい大きかったら、ぱふぱふも、もふもふも、ずりずりも何でもできるぞ」
「…ねぇ、聞きたくないけどずりずりって何?」
「しらないのか?よし、あたしが教えてやろう」
鈴は僕を押し倒す。

「…うっ…」
「きょ、恭介!?」
最悪のタイミングで恭介が目覚めた。すぐに僕達に気づく。

「うわあぁぁっ!俺の鈴があぁぁぁぁぁっ!」
そう叫ぶとまた恭介は気を失った。
あれ?なんか頭がクラクラしてきた…。


気づくと僕の胸も大きくなっていた。
「えええええっ!?」
「なんだ、やっぱり理樹も女の子だったのか」
「いやいやいや!そんな訳無いから!」
「安心しろ。あたしは理樹が男の子でも女の子でも…すきだ」
鈴がキスしてきた。あ、世界が遠退いて行く…。


[No.492] 2009/11/06(Fri) 20:21:03
名付けられた一輪 (No.483への返信 / 1階層) - ひみつ@13732byte

 『マドリード五輪 ロマンチック/シチュエーションの部 日本代表』こと謙吾が、珍しく僕らを自室に呼んだ。

A.面白い冗談を思いついた
B.予想を裏切る深刻な話題を切り出す

 といった予測を立てつつ、訪ねた先でゴロゴロした。
 『好きな言葉は円満退職』恭介は言った。
「予想を裏切るってどんな話題だと思う?」
 残る三人、いっせいに挙手。
「鈴と婚約」
「無いわ筋肉ボケダルマ。明日から三枝謙吾」
「それも無いんじゃ。実はこの世界は虚構、俺が神」
「ふふっ、今お前らが挙げたものは全て予想されている。だからありえん!」
「あっ! ずるいぞお前!」
「え? どういう意味だ?」
 またもや珍しいことに、謙吾は始終緊張した面持ちを見せていた。雑談に混じることもせず、一日一回ロマンティックの誓いも未達成なままだった。
 そして雑談が途切れたそのとき、おもむろにB4くらいの紙の束を差し出してきた。
「なんだなんだぁ? ロマンティックの匂いがするぜ! さすが日本代表!」
 妙なテンションのまま恭介は紙束を受け取り、固まった。僕は幅広な恭介の肩ごしに覗き込んでみた。
 そこには一目で遠近の狂いが窺える、日本家屋が描かれていた。

「読んでみてくれないか」

 まず謙吾の顔を見た。
 緊張しているというより、不安におびえているようにも見えた。
 それから僕らは顔を見合わせた。
「なるほど予想外だな」
 限りなくAに近いBであることを予感したのであった。




名付けられた一輪




 真紀という少女が主人公だった。
 彼女は伝統ある華道家元の息女。才覚もあり、将来を嘱望されていた。というより、もはや家を継ぐのは決まっているようなものだった。
 しかし真紀はある日、町の花屋の少年に恋をする。ロマンティックというよりも、あまりにベタな出会いであった。
 彼の趣味はフラワーアレンジメント。我流というのもおこがましい、ささやかな花の飾り立てだった。真紀は最初彼を見下したものの、少しずつ彼の作品に惹かれていった。彼の生き方と、そして彼自身にも。
 あとはお決まりの流れ。
 嘆く両親を他所に、真紀は家を出る。そして彼女は思うのだ。



『私の見つけた花は、とても小さいけれど――』

 少年の微笑みと、真紀の険しい、決意の表情が映された。

『それがどんなに美しいか、いつかみんなに教えてあげたい』


 ―― fin(筆記体)




 鈴は猫じゃらしの手入れを始めたし、真人はセルフ腕相撲をしていた。恭介はワナワナと震えるだけだった。
 さて僕はどうしようか。まったく頭は回らなかった。肩は回ったので、ぐるぐる回してみた。
「俺は、漫画家になる」
 口調とは裏腹、変な汗を顔に浮かべて謙吾は言った。そりゃそうだ。この流れで北極観測船に乗るなんてことにはならないだろう。
 そりゃ、この漫画は例の、彼女のことなのだろう、と誰もが理解した。謙吾の気持ちに同情するなんてそれこそ不可能だし、尊重して然るべきなのだろう。
 でも現実問題として、謙吾は僕の親友で、彼の失敗は我が身の失敗と同じか、それ以上に辛いことだろうと思えるのであった。
「親御さんは今おいくつだったか」
 唐突に、顔も上げず恭介は言った。
「父は今年で還暦になる」
 その答えを聞いた恭介は、そっか、と呟き、腕を組んで天井を見上げた。それきり黙りこんでしまった。
 また居づらい沈黙。
 それに痺れを切らしたのだろう。謙吾が口を開く。
「俺の人生が二度あれば、俺は両親の望む……いや、それ以上の男になってみせよう。
 ――だが、俺の人生は、一度きりなんだ」
 きっぱりと言い切ったけれど。
 それを聞いて、一つ疑問を持った。そんなに決意が固いのであれば、僕らに何を訊ねようというのだろう。漫画の講評なら、西園さんとか、……西園さんとかに頼めばいい。
 つまるところ、謙吾はまだ迷っているのだろうと思った。
 だからここで僕らが、背中を押すのか、後頭部のツンツンの髪を毟らんばかりに引っ張るかで、謙吾の人生は変わるのかも知れない。
 軽々しくなにか口にするのは憚られた。少なくとも、無責任なことは言いたくないと思った。

「いーんじゃないか? お前ならできるぞ。ガンバレ」

 鈴は言った。猫じゃらしのしなり具合を入念に確かめながら。片目を瞑って、ヒュンヒュンと跳ねるもこもこの軌道を見定めている。
「ちょっと鈴、あんまり無責任なこと言っちゃダメだよ……」
 クリッ、と鈴は瞳だけを僕に向けた。
「あたしに責任ないだろ。面白そうだし」
 なにこの娘。
「なあ鈴……本当にそう思うか?」
「あぁ、お前バカだからな」
 馬鹿はお前だ!
 とどれだけ言いたかったことか。
 それでも謙吾は額に手を当て、大げさに笑って見せた。
「そうか! そうだ、俺は馬鹿だったな! ハッハッハ!」
 晴れやかな表情が、どれだけ不安に思えたことか。
 謙吾はウキウキと擬音を発しながら、教科書類の一切が消えたテーブルに向かい始めた。
「おい理樹、大変だ! 左手がテーブルに着かねえ!」
 決着がついたらおいで、と言い残し、僕ら三人は部屋を後にしたのだった。僕は、謙吾が後悔しないで済むことを祈るしかできなかった。願わくば、地に足を着けた生活を送ってくれますように。


 恭介がプロ野球挑戦を言明する、その五年前の出来事だった。



 ◆



 コーヒーカップを口の高さまで持ち上げて、中を覗き込んでみた。わずかに残った褐色の底に花の模様が印刷されていた。僕はそれを一息で飲み干してしまう。苦いような、すっぱいような。
「ギャグ?」
 僕は恭介に訊ねてみた。恭介はゆっくりとかぶりを振った。
「俺は本気だ」
 そうだろうなとは思っていたので、僕は驚かなかった。
 ただ、残念だった。
「それはもう決まったことなんだ?」
「決意はした、ってだけだな」
 そっか。それもそうだね。
 スプーンの柄を手の中で転がす。特に意味はない。考える振りをしているだけだった。
「寂しいね、遠くに行っちゃうみたいで」
 口にしてから、それが酷くおざなりに聞こえて、打ち消すように言葉を継いだ。
「鈴にはもう言ったの?」
「いや。……アイツなら、多分気にしないんじゃないか、謙吾のときみたいに」
 そう言って笑って見せた。皮肉めいたもののない、無邪気な恭介の笑みだった。
 そんな薄情な娘じゃ……反論しようと思って、そうでもないなと思い直した。
「信じられるか? あれでいっつも俺にベッタリだったんだぜ?」
「なに言っても返さないよ?」
 ようやく僕も笑った。
 でも、伝票を摘んで立ち上がる恭介は、もう笑ってはいなかった。
「元々俺のもんじゃない……それに、こうなって欲しいなって、ずっと思ってたからな」
 それは本当に恭介の本心だったんだろうか。
 疑問に思ったけれど、恭介を疑おうとはしなかった。本心がどうであるにせよ、本心だと信じていなければ、僕らがつつがなく過ごす道はないのだから。
 会計を済ませる。自動ドアが開く。身構えていたよりずっと冷たい空気に、思わず身を震わせてしまう。
「ねえ恭介」
「なんだ」
 プロ野球って難しいんだろうね。
 言おうと思ったけれど、馬鹿らしいのでやめた。だから代わりにこう切り出した。
「鈴には僕からそれとなく伝えておくよ」
「ああ。頼む」
 それで僕らは別れた。恭介の背中は、がっちりと大きかったけれど、でもどこか弱々しさを感じさせた。コートの色が繁華街の華やかさに溶け込めなかったせいかもしれなかった。
 帰り際、書店に立ち寄る。ねこぱんちの最新刊が出ているはずだった。書店には僕と同じような背広の姿がチラホラと見て取れた。肩さげ鞄をしたまま、黙々と本棚に向かう人たち。資格関係の本のところや、写真週刊誌の棚に集まっているようだった。
 ふと、レジ前に宮沢千春の漫画が無数に積み上げられているのを見かけた。彼女、いやさ彼の名前を知らない人は、殆どいなくなっていた。頼めば貰えるんだろうけど、一冊買った。処女作品集ということで、あの漫画が載っているのではないかと期待したのだった。
 部屋に帰ると鈴は猫じゃらしの手入れをしていた。パッと顔を上げて、僕の元に歩み寄ってくる。
「おお、お帰り。ご飯できてるぞ」
「じゃあ鈴で」
「amazonで頼め」
 今日も釣れなかった。
「はいこれ、お土産」
 本屋の紙袋を差し出す。
「うむ。ご苦労だった」
 そう言って顔をほころばせた。
 今日のご飯は鮭の塩焼きとほうれん草のソテーとほうれん草と豆腐の味噌汁だった。
「安かったから」
「うん。おいしい」
「そか、よかった」
「猫たちは?」
「でかけた」
 ふーん。呟いて味噌汁に口を付ける。おいしい。豆腐が入ってる分まろやかな気がする。塩気の少なさにもそろそろ慣れた。
「今日はどうだった?」
「ん、仕事? ……んー、普通かな。何事も無く」
「おー、そりゃよかった。今日もお疲れ様」
 なにが良かったのか、鈴はずっとニコニコしてる。
「あ、そういえば」
 思い出したことを口にしてみた。
「恭介に会ったよ」
「元兄貴か。元気だったか?」
「いやいや、今でもお兄さんでしょ」
「冗談だ。それで、なに話したんだ?」
 あんまりそういう冗談言うものじゃないよ。
 釘を刺して言葉を継いだ。
「プロ野球選手になるんだって」
「アパラチア山脈?」
「プロ野球選手」
 ぷろやきゅーせんしゅ。鈴は口先で呟いて、鮭の皮をべろりと口に放り込んだ。
「あたしがか?」
「恭介が。今度、入団テストっていうのがあるんだって」
「そうなのか? そうなのか」
 納得したのかしないのか、うんうんと頷いて、でも多分自己解決してご飯を食べた。
「あいつも相当馬鹿だな」
 鈴はやっぱり興味がないみたいだった。
 僕にはそれがどうしても薄情に思えてしまうんだけど、でも鈴なりの考え方なんだろう、とほうれん草(バター風味)と一緒に飲み込む。
 鈴は、僕が例えば「南極観測船に乗るんだ!」なんて言い出しても、同じことを言うんだろうか。心配したり、逆に応援してくれたりはしないんだろうか。
 考えても詮無いことだった。だって僕は、元よりそんな気はないのだから。ずっと鈴とこうしていられたらいいと思っている。だから、関係はない。
 考えても、しかたないことだったけど。
「あいつ、練習とかしてたのか?」
「うん、そんなこと言ってたような。腕なんか真人みたいに太くなってた」
「きしょ! やっぱ元兄貴だろ、それ」
 僕たちは笑い合い、ささやかな夕餉を終えた。
 これでこの話は全部終わりだと思った。


 ところが後日、恭介の一次テスト合格の報を受けて事情が変わった。
 ある休日。耳にした鈴はまず猫じゃらしを手に取り、一時間ばかり猫と遊んだ。いつもより二時間も少なかった。ついで、テストテストと口走りながらキャットフードを摘んで食べた。
 そして鈴は言ったのだった。
「よし、家族会議だ」
 一時間後、僕らは恭介の住まいに居て、恭介は鈴の前に正座させられていた。僕はお茶を入れたり茶菓子を補充する仕事をこなした。
「なんで大事なこと話さないんだ」
 鈴は立腹しているようだった。
「だって」
 恭介は申し開いた。
「お前、俺のことなんて気にしないだろ?」
「それはあたしが決めることだ」
 さすが横暴だった。
「夢ばかり見るな」
「謙吾だって、実現したじゃないか。俺だって挑戦くらいしてもいいだろ」
「じゃあお前、ダメだったら諦めるのか?」
 恭介は息を大きく吸い込み、だが口ごもった。僕は二人の横に座って将棋の記録員みたいに成り行きを見守った。
「諦めることを考えたら、実現なんてできない」
「実現できない夢は諦めるしかない」
「誰が決めた? 事実一次は――体力テストだが、受かった」
「だからお前もう、諦められないだろ?」
「元よりそんな気はない。謙吾もきっとそうだった。なんであいつは良くて、俺はダメなんだ?」
「それは――」
 次口ごもったのは鈴の方だった。
 いや、口ごもったのではなかった。
 鈴は肩を上下させ、息を整え、胸に手を当て、それからようやく言葉を継いだ。
「お前が兄貴だからだろ、ボケ!」
 こらえ切れなかったように「ボケ!」の声が上ずった。釣られるように恭介の声も大きくなった。
「お前の兄貴がやりたいことやろうってんだぞ? 応援しようとか思わないのか?」
「思わん!」
 即答だった。
「俺はお前のためにずっとやってきたじゃねえか!」
 叫ぶその勢いで恭介は膝立ちになった。
「そんなお前も、理樹と一緒になった! じゃあもういいだろ! 俺はやり遂げた! もう俺も、自由にやらせてくれよ! 俺だって、他人に胸張れることがしたいんだよ!」
 その言葉に、背筋が粟立つのを感じた。
 あんなに強くて頼もしくて、僕らを笑って守ってくれた恭介が、こんなことを言い出すなんて、思いもしなかった。
 ずっと僕らは、恭介は何でもできて、何もしなくても特別な人だと思ってたのに。
 そうだ。恭介は鈴の……僕らのために、きっと色々なものを犠牲にしてきたのだ。
 そのことを思い知らされた気がした。


「あたしが知るか!!!」


 鈴は怒鳴った。負けじと立ち上がり。
 ここでそう切り返すのは、恭介も、もちろん僕も予想外だった。
「お前が野垂れ死んだら、理樹と遊びに行ったり、子供の面倒見てもらったり、お前の子供と遊んだり、正月に会ったり、できないじゃないか! 勝手なことすんな!!」
 むふー、と鼻から息を吐いた。
 ヤバイくらい自己中心的だった。
「そんな生活、俺には……」
「あたしの夢を馬鹿にするつもりか!?」
 しかし恭介は完全に勢いを殺がれてしまっていた。
「じゃあ謙吾は……」
「ああするのがあいつにとって一番だからだ!」
 迷いもなく、切り捨てる。
「お前はどうだ? なんで野球なんだ? 目立つからか? みんなが立派って言うからか?」
 恭介の動揺は酷かった。
「……じゃ、じゃあ、野球で決着を」
「こんな大事な話、野球なんかで決まってたまるか! ばーか! 真面目に考えろ!」
 言い切って、座布団にあぐらをかく。
 困り果てた恭介の目が泳いで、僕を見た。
 鈴の据わった目が僕を見据えた。
「理樹。お前はどう思う」
 急に訊ねられて。
 当然言いよどんだ。
 僕。僕はどう思っているんだろう。答えはすぐには見えてこなかった。
 急に水を向けられたから答えられなかったのではなかった。僕は、多分、他の人に胸を張って誇れるようなものを何も持っていなかったから、岐路で頼るべき言葉を持てないのだ。
 二組の眼が僕を見つめている。
 誇らしい友人に、数少ない家族に、どう言ってあげるべきなんだろう。
 何か成し遂げたことも、築いたものもない僕。
 そんな僕が生涯で得られた、唯一誇らしいもの。


 それは友達と、鈴だった。


「僕は」
 渇ききった口。
 上手く回らない舌で、なんとかして言葉をつむいだ。
「僕は、恭介がしたいように、すればいいと思う」
 二人はどんなリアクションも示さなかった。
「自慢できる、誇らしく思えることさえあったり、したりすれば、きっとどんなことしてても、楽しくなるから」
 頭の中で、ホントかよ、と自分でツッコミを入れてしまった。
 でも、僕はそういうもんだと、思う。少なくともそう信じていいと感じてる。鈴がいれば自分は大丈夫だと、そう思っている。確信している。
 だから恭介も、誰かじゃなくても、なにかそういうのがあれば。
 他の人がどう思うかじゃなくて、自分でそう思えるものがあれば。そう思ったのだった。
 そしてこれは、宮沢千春の漫画の影響だろうと頭のどこかで納得していた。
「そうか」
 鈴は寂しげに眼を伏せた。下唇を噛んでいた。何かを堪えているようにも見えた。
「馬鹿兄貴はもう知らん。勝手にがんばれ」
 そして、僕は慌てて鈴の後を追った。
 鈴は別に泣いてはおらず、猫の餌の時間だから、と言った。慌て損だった。



  ◆



 その年のドラフトに恭介の名前はもちろん無かった。
 ただ正月、いつものメンバーが集まる機会があって、そこに恭介も来た。葉留佳さんに根掘り葉掘り新婚生活の中身を聴かれて殆ど話せなかったのが悔やまれるけれど、恭介が腕相撲で真人をやっつけているのは見えた。
 入団テストには年齢制限があって、恭介の歳からすると、チャンスはあと一度のようだ。
 そして鈴は最近すっぱいものをやたら欲しがる。年明け、今度一緒に病院に行く。


[No.493] 2009/11/06(Fri) 20:29:56
幸せの三つ葉のクローバー (No.483への返信 / 1階層) - ひみつ@7104byte

「見つからないねぇ…」
「おっかしいなぁ…」
 尻餅をついて理樹くんがくたびれる。春の暖かい空気に少し汗ばみながら私も地面に座る。ぐーっと背伸びをすると、体から怠惰感が抜けていく。適度にリラックスしたところで、そばにあった袋からポテチを取り出しパーティー開けに開く。中から香ばしいの匂いが漂ってくる。茂みの中に柔らかく置く。
「はい理樹くん、ポテチでもどうぞっ」
「あ、ありがと」
 ひとつを理樹くんは取り出し、口の中へと運ぶ。乾いた音がくぐもって聞こえる。聞いていると和みが生まれる気がして、私は耳を澄ませていた。
「お菓子を食べてる時って幸せだよね〜」
 私もポテチを口へと運ぶ。ぽりぽり。幸せな気分でお菓子を食べる。少し経って手が止まらないことに気づいた自分自身に苦笑する。
「そういえばさ、四つ葉のクローバーって10万分の1の確立でしかないんだって」
「ほわ〜。じゃあ見つからないのも仕方ないことなのかもね〜」
 そう、私たちは今クローバーを探している。前理樹くんに四つ葉のクローバーを見つけられないという話して、一緒に探そうと誘ってくれたのだ。こうして学校の隅で細々と草を掻き分けているのもそのためだ。
 辺り一面を見渡す。見えるのはクローバー、クローバー、クローバー。別名シロツメクサ。私たちが座っている下にも膨大な量のクローバーが埋まっている。それに気づいて少し腰を上げる。案の定押しつぶれたクローバーが顔を出した。
「……」
 無言でそれを直す。元通りになったことに上機嫌になりながら、別の場所にすとんと腰を落とす。もう一か所クローバーが潰れた。
「はわぁ」
 自分に呆れつつ、またクローバーを元に戻す。しかしというか、クローバーは何ともないような顔をしてまたその場所に在る。可憐なその白い花は凛と佇み、私に元気をくれるのだった。
「疲れたー…」
 もう一回ぐいっと背伸びをする。今度は怠惰感は抜けず、ただ虚しく私の体に重りを縛り付けていった。体が重い。
「でもこんなに探して見つからないって言うのもおかしいよね。小毬さん何かに憑かれてるとか」
「いや、それはないんじゃないかな…」
 手を口に当てて真剣に悩み出す理樹くん。そんなこと真面目に考えてる理樹くんの方が危ないよと言おうと思ったが、ひっこめた。
 緑の色彩が眼前を覆っているが、一向に四つ葉のクローバーは見つからない。こういう小さいものをちまちまやるのは向いてないのかもという念に駆られる。流れ星はすぐに見つかったのに。
 とりあえず我武者羅に探す。恭介さんは一日に何個も見つけてきたらしいから、私も見つけられると気合を入れなおす。
「ふぁいと・おーですよ」
「うん、ふぁいと・おー」
 手を空に突き上げる。これは、元気の証。私も一緒に手を突き上げた。太陽が眩しい。
 
 少し経って、変なクローバーを見つけた。
「あ、これなんか変だよ」
 クローバーをかきわけてそれを晒す。そこに現れたのは、二つ葉のクローバー。
「二つ葉だよ理樹くんっ。えへへ〜」
「……」
 無言でそれを見つめる理樹くん。辺りに不穏な空気が漂っていた。理樹くんが静寂を破る。
「あのね小毬さん」
「はいっ」
「二つ葉のクローバーって言うのはさ、その、不幸の象徴なんだよ…」
 幸運なのかはたまた不幸なのか、私は意味を知らなかった。言われて初めてその意味を知った。愕然として肩を落とす。
「だ、大丈夫だよ小毬さん!きっと見つかるよ!」
 苦笑しながら答える理樹くんに、今一説得力はなかった。けど励ましてくれるその行為が嬉しかった。笑顔で返事する。
「うん、ふぁいと・おーですよ…」
 心なしか、私の声は小さかった。

 結局、四つ葉のクローバーは見つからなかった。二人して肩を落として河川敷を歩く。眼前に広がる景色は夕日。世界一面をそれが紅く塗りつぶしていた。川に映る煌きは心持ちくすんでいた。
「やっぱり見つからなかったねぇ…」
 落ちている肩がさらに落ちる。
「また明日も探してみない?今日はたまたま運が悪かっただけだよ……多分」
 という理樹くんも憔悴を隠しきれない様子だった。疲れもあって、下を向きながら歩く。私も小石を蹴りあげて悔しさを表現する。靴が引っ掛かる。すっ転んだ。
「はわぁ」
 頭から地面に突っ込む。鼻を地面に擦りつける。地面の匂いが鼻を刺す。理樹くんが大丈夫?と声をかけて私に手を差し伸べてくれている。
「おっちょこちょいだなぁ」
「ううぅ…」
 鼻を摩る。擦りつけた場所はほんのりと熱を持っていた。
 そこで初めて土手を見渡した。そこには実に春らしい景色が広がっていた。今は赤く染まっているが、普段ならば目を見開くような景色だった。下ばかり向いてたら分からないことはたくさんあると感慨深くなった。
「いい景色だね〜」
「そうだね」
 二人して河川敷を歩く。今日はクローバーこそ見つけられなかったが、これも自分へのご褒美だと思った。
「あ、ちょうちょ」
 花の匂いにつられたのか、蝶が私の近くを回り出した。ひらひらと飛んでいる蝶を見ると、楽そうでいいなと思った。毎日花と戯れるのはどんな楽しいことが待っているだろう。
「ちょうちょってバターの色に似てるからバタフライって名前になったんだよ」
「え、そうなの?知らなかった」
「だからこうやってぱくっと」
「食べれないよ!」
「半分にちぎって」
「死んじゃうよ!」
「理樹くん、半分こしましょう」
「話聞いてるよね!?」 
 真面目に答える理樹くんがおかしくて、しばらくそういう問答を繰り返していた。蝶は私たちか、はたまた花に興味を無くしたのか、ふらふらと漂いながらどこかへ去ってしまった。
「小毬さんが物騒な話するから逃げちゃったじゃないか」
 理樹くんは蝶が過ぎ去った方向を見つめている。膨れている理樹くんを見つめるのもまた楽しい。
 土手沿いに進む。日がさらに沈み始めてきた。空の雲が火を灯し、私たちを照らす。
「ちょっと疲れちゃったかもです。理樹くん、休憩しましょう」
「あ、うん、そうだね」
 近くの橋まで行き、橋の下にあるスペースに二人して座る。二人とも体育座りをして座り、膝をぎゅっと抱える。そうしていると、地面にクローバーが見えた。こんなじめじめした所でも健気に咲いている。誰に踏まれようが、無視されようが、ひっそりと。私はなぜか触れてみたくなった。今日いくら触ったかもわからないのに。
 無作為に一つを手に取る。やはりそれは何のことはないただのクローバーだった。
「私思ったんだけどね」
「何?」
「クローバーが四つ葉である必要なんかないと思うんだ。大事なのは心、だよ」
「もしかして見つけられなかったから拗ねてる?」
「そ、そんなことないよ〜。ただ、もしこうやって四つ葉のクローバーを見つけたとしても、それはただの思い出にしかならないと思うんだ」
 理樹くんが困った顔を浮かべる。それじゃさっきまでの苦労はなんだったのだろうか、と。それに私は言葉を紡ぐ。
「だから、理樹くんにプレゼントしてほしいんだ。クローバー」
 はいと言って手に持っているクローバーを渡す。
「こうやって理樹くんに渡されたっていう一生の思い出になるから、だから」
 突然の行動に面食らったようだ。けど理樹くんは困惑しながらも、意を決したようだった。深呼吸してから告げた。
「はい、小毬さん。今日は見つけられなかったけど、いつかこのクローバーよりも幸せなクローバーを見つけてあげるからね」
「ありがと〜理樹くんっ!」
 人差し指と親指に撮まれたクローバーを両手で受け取る。ただの三つ葉のクローバー。でも今は幸せの三つ葉の、クローバー。胸に近づけて幸せを噛みしめる。そして言う。
「あっ理樹くん、向こうにゆーふぉーが!」
「えっどこ!?」
 理樹くんが後ろを振り向く。もちろんそんなとこには何もないのだが。
「今度は私の方に〜!」
「えっ……!?」
 振り向きざまに理樹くんの唇を奪う。理樹くんは相変わらず驚いた顔のまま凍っていた。顔を離して、照れながら言う。
「私のお願い一つかなっちゃいました」

 絵本を閉じる。中に織り込まれていたのは、クローバー。いつか理樹くんが作ってくれた絵本の最後のページにそれはしまってある。二人が一番近いところで通じていられるように。
 絵本を本棚の中に戻す。本棚の中には今まで積み重ねてきた思い出が大切にしまってある。かけがえのない私たちの絆。それをぼーっと眺めていると、玄関の開く音がした。たたたと玄関へと駆けていくと、そこには私の愛しい人の姿があった。
「ただいま、小毬さん」
「おかえりなさい、あなたっ」
 幸せは確実に、今も、私たちへと降り注いでいる。


[No.494] 2009/11/06(Fri) 21:21:35
寄り添いながら (No.483への返信 / 1階層) - ひみつ@7295byte

 花壇にしつらえてあるのは、アサガオ。その横にはアジサイが煌びやかに花を開かせていた。アサガオは今は花を閉じている。まだ夜も開けていないのだから当然だ。私はアサガオとアジサイに水を上げる。葉が水彩を纏わせて、水音がなんとも心地良い。こうして花に水を上げることはもう日課のようなものだ。そのためにこうして早く起きるのは苦ではない。
 水を上げ終わった後に、持参してきた軍手を手にはめ、周りにある雑草を取り除く。長袖に土が跳ねるが、そんな些事は欠片も気にかけない。黙々と雑草を取り除いていく。
「今日も精が出るな」
 突然の不意打ちに背中を強張らせる。こんな早くに学校に来る人はまずいない。私の場合は特別だ。学校の方にも許可は取ってあるが、それは私が花の手入れがあるためだ。怖々後ろを振り返る。そこには制服姿の棗先輩が立っていた。
「…こんな時間から何してるんですか」
「それはこっちが聞きたいぜ」
 棗先輩が困った顔で私の近くに来て座る。夏が近いとはいえ朝方はまだ冷える。私と棗先輩も白い息を吐き出す。
「アサガオか。小学生のころ見て以来だな」
 蕾を閉じている朝顔に棗先輩が触れる。その蕾や葉についた雫がはらりと地面に滴る。
「不用意に触らないでください。花が痛みます」
「じゃあ眺めてることにするさ」
「そこに座られると作業の邪魔です。退いてください」
「俺は邪魔ものかよっ」
 すごすごと後ろに下がる棗先輩を尻目に、私はまた黙々と作業を始める。
 しかしよく考えれば変な話だ。こんな時間に棗先輩とこうして会うとは。若干緊張する。糸が切れそうだ。一息ついてはぁ、と嘆息した。
「なんか疲れてるみたいだな。仕事もほどほどにしとけよ?」
「誰がそうさせてるんですか、誰がっ」
「……俺かよっ!」
 あたりを十分見回してから言った。怒るのを通り越してあきれる。顔にそれを浮かべつつ、棗先輩に向き直る。
「もう一度聞きますけど、なんでこんな時間にこんなところに居るんですか」
「ん、ああ。理樹が来ヶ谷に愛の告白をしてきたところなんだ、学校で」
 突拍子もない発言に、思わず目を見開く。
「…それ本当ですか?」
 来ヶ谷さんと直枝が? 正直不釣り合いだと思う。いつも振り回されてばかりの直枝に来ヶ谷さんをリードできるのだろうか。頭の中では、来ヶ谷さんが直枝の手を引いてそのまま空の彼方へ投げ飛ばす光景が浮かんだ。
「ああ。本当だ」
 と言って制服の中からゴミのようなものを出した。暗くてよく見えない。
「お祝いに花火をドカンと打ち上げてきた。まぁ演出みたいなもんだな」
 それを私の方に差し出す。笑顔で。花火の大玉の破片が転がった。それにしてもドカンって…、思わず手を頭に置き、よろめく。心配事が+αされた。
「それは風紀委員長として私に捕まえてくださいって言ってるのかしら?」
「そうじゃない、お前なら言わないと思って言ったんだ」
「どんな理屈ですか…」
「理屈じゃない、勘だ」
「今日一番に先生に報告するわ」
 相手するのも疲れて、地面に座り込んだ。気づくと、手がかじかんでいて感覚がなくなっていた。
「って私もう少し前からいたけどそんな音聞かなかったわよ?」
「花火上げたら警備員が追いかけてきたからな。撒いてた」
 ということは、私がここにいる前からずっと逃げてたいわけだ。この暗闇の中を、ひとりで。この人だから念入りに罠を仕掛けただろう。警備員相手に翻弄する棗先輩を想像したらおかしくなって、笑いが堪え切れなかった。手を口に当てて笑っていると、怪訝な顔をされた。
「何がおかしい」
「棗先輩の奇行ぶりに」
「俺はいたって普通だ。むしろ模範的過ぎて表彰状をもらいたいくらいだ」
 真面目な顔でそう言われたので、大爆笑してしまった。腹が千切れる。
「ひでぇな俺の立場…」
棗先輩は空を見上げて一人哀愁に暮れる。私は柄にもなく笑い続けていた。私が笑い止んでから気づいたのか、棗先輩が指差した。
「長袖、汚れてるぞ」
 そう言われて長袖の先を見る。確かに土がついていて多少汚れていた。無論これは無視していたのだが。
「いいわよ、別に気にしてないし」
「そうはいくか。ほら、貸してみろ」
 そう言って棗先輩は強引に私の手から軍手を奪って、雑草を抜き始めた。この行動の強引さが棗先輩たる所以なのだろうと思う。自分の制服が汚れるのも気にしないで。見る間に制服は土気色に変わっていく。
「棗先輩は自分のことには無頓着なのね」
「お前よりは頓着なつもりだがな」
 黙々と雑草を抜いている。とは言っても、毎日来ているのでもともと花壇は綺麗に整頓されていた。それにいつも朝早く来るのには他の理由がある。
 まだ夜明けは来ない。時間が経つにつれて、風が吹いてきた。空気も温いでくる。淡々とした作業に流した汗に風が突き刺す。棗先輩は制服の端で額に浮かんでいる汗をぬぐった。
「そういや二木はなんでこんな早い時間にここに居たんだ?」
 最初質問されたことをそのままそっくり返された。棗先輩から返事されているので返さないわけにはいかない。端的に答えることにした。
「見ての通り、花の世話よ」
「そういう事を聞いたんじゃない。それなら別に放課後とかでもできるだろ。俺が聞きたいのはなんでこんな時間にわざわざ世話しに来てるかってことだ」
「……」
 深刻な顔で黙っていると、棗先輩はフォローを入れてきた。
「話したくないなら話さなくていい。人間言いたくないことなんていくらでもあるしな。聞いて悪かった」
 素直に謝ってくれたが、それが暗に話してくれることを待っていると言っているようで、答えられずにいられなかった。
「…アサガオとアジサイっていつ咲くか知ってる?」
「いや、けど今咲いてるんだからこの時期じゃないのか?」
「アジサイはそうなんだけど、アサガオは違うわ。アサガオは7月初期から10月初期。本当はもっと遅咲きなのよ」
 アサガオを慈しむように愛でる。花が若干開きかけている。空が白んで、そのシルエットが刻々と表れ始める。静かに棗先輩は耳を傾けてくれている。
「実際アジサイと会うことのできないけれど、こうしてアサガオは咲いてる。これって奇跡に近いと思うのよね」
 相容れない、花と花。こうして見える景色は実に私の心を潤してくれる。それがたとえ現実でないとしても。
「軸がずれてるのかしらね、やっぱり」
 独り言のように漏らし、自嘲気味に笑う。普段あまり笑わないこともあって、笑みがぎこちないものになる。
「…アジサイの花言葉ってね、正反対の意味があるのよ。『辛抱強い愛情』とか『あなたは冷たい』、とか」
 目に涙が溜まりそうになる。汚れた長袖でそれを拭いた。案の定顔が土に汚れた。土の匂いがする。
「それは本当に花のことだけなのか」
「えっ?」
「いや、下らないことを聞いたな。聞き流してくれ」 
 言われて狼狽している自分に気がつく。深部まで知られているような気がして、心臓の鼓動が高鳴りを増す。早鐘を打つというのがまさに意を得ているだろう。
 東の空が徐々に白んでくる。それはすでに私たちの顔を照らし出すまでになっている。
「真実はどちらなのかしらね。悪か、それとも善か」
 言っている自分が馬鹿馬鹿しくて腹が立つ。こんなことはいつだって受け入れてきたというのに、今日ばかりは違っていた。
 いくら拭っても止め処なく涙は溢れてくる。そこへ不意にぽん、という軽い衝撃が重なる。気がつくと棗先輩の手が頭に置かれていた。棗先輩は優しく私の頭を撫でている。
「これぐらいさせろ。じゃなきゃ理不尽だ」
 下を向きながら、黙って愛撫される。泣きそうになるなんていつ振りだろうと頭の中を回想する。そうすると嫌でもお山に居た頃を思い出させられて、吐き気がした。
 しかしそれより現実はなお残酷だ。落ちた雫は元には戻りはしない。ただ循環の中で終わりを迎えるだけだ。誰にも気づかれずに、ひっそりと。
「お前はもっと自分を気にしろ。無頓着なのはどっちだ」
 棗先輩がそう優しく諭してくれる。この人の前では全て吐き出してしまえそうだ。けど、今は堪える。弱気になっていてはあの子に申し訳が立たない。
「…ありがとうございます。少し落ち着きました」
 ハンカチを取り出して涙を拭く。長袖で拭くなど、一番冷静に欠けた行動だと自分でも思う。ハンカチを制服のポケットにしまう。
「…そういえば私がなんでこんな朝早くに来てるか言ってなかったでしたね」
「ああ」
「実は、これを見るためだったんです」
 顔を上げて、目の前のアサガオを指差す。初め閉ざしていた蕾は、朝を迎えるとその蕾から自分を解き放つようにその花を開花させていた。光明に差されその花弁を開いているアサガオは、隣のアジサイと並んでよく映えた。
「いつか、こんな日が来ますかね」
 苦笑しながら棗先輩を見上げる。その顔は今までよりも強い意志が感じられた。
「ああ、来るさきっと」


[No.495] 2009/11/06(Fri) 23:03:28
アンソダイトの森のなか (No.483への返信 / 1階層) - ひみつ@9144 byte

 狭苦しいアパートの一室。色あせささくれ立った畳、ガムテープで足を固定したちゃぶ台、その上に転がる、空きカン・空きカン・空きカン。
 隣を見れば、うすい布団にはさまれて眠る、鈴の寝姿。いつものポニーテールは解かれて、シーツの上に波を作っていた。
 僕は右手のビールを傾けて、ほとんどない中身を名残惜しそうにすすった。空きカンが増えた。
 もう一度鈴を見る。真っ赤な顔をして、ヨダレを垂らしながらぴーすか眠っていた。
「ったく、気持ちよさそうに寝てるな」
 差し向かいで座る彼も同じことを思っていたらしい。
 いつものイタズラ小僧のような笑顔で、鈴の目にかかっていた前髪をやさしくかき分けた。
 うみゅう、なんてつぶやいて、僕たちに背を向けるように横に転がる。せっかくかき分けた前髪が、向こうにこぼれ落ちていく。
「まあ、結構パカパカ飲んでたからね」
「そうだな。つうかどんだけ飲んでんだよ。ひのふのみの……大量」
 ちゃぶ台の上の空きカンを数えるも、途中でバカらしくなってしまったらしい。
 ひょい、と肩をすくめて見せる。
 僕はまだ残っているお酒がないか、ひとつひとつ持ち上げてみる。
「おいおいまだ飲むのかよ」
「飲まないの?」
「……ああ、俺はいいよ」
 たしかにこれ以上飲むと明日に響くかもしれない。
 僕は探すのをあきらめて、片づけをすることにした。とりあえず目についた空きカンを、片っ端からビニール袋に詰めこんでいく。すぐに袋は一杯になった。
 口をしばり、台所のゴミ箱のあたりに置く。
 立ち上がったついでに、水道水をコップについで、飲んだ。ぬるりとした感触が、少量のさび臭さと共に流しこまれた。
 部屋に戻ると、彼は鈴の枕元にあぐらをかいていた。心の底から慈しむような、透明な笑顔が見えた。
 なんとなく邪魔をする気になれず立ちつくしていた僕の耳に、つけっぱなしのニュースが聞こえる。
『――で発生していたバック走行のみで逃げる手口の連続車両強盗事件ですが、今日未明犯人と思われる女性が逮捕されました。女性は容疑を認めており――』
 なんだかよくわからない事件だなぁ、と思った。
 そして、ぼんやりとした目を鈴のほうに向ける、
「……はぁ?」
 途中で、視界の端になにかが引っかかった。
 お城だった。
「はぁ?」
 窓の向こう。電線。青空。白い雲。お城。はいダウト。
 この近くにお城なんてものはない。だというのに、江戸城もかくやというでっかいお城が建っていた。というか浮かんでいた。
 浮かんでいた? ……浮かんでる!? え、なに、ラ○ュタ!?
 窓辺に駆け寄って見る。お城。目をこすって見る。お城。何度見直してもお城、お城。
 城下町のようなレンガ造りの家々。え、そこだけヨーロッパ? ちょんまげを結った人、貫頭衣を着た人、ふんわりドレスの人。
 今日ハロウィンだっけ? カレンダーを見る。あれ、カレンダーがない。カレンダーカレンダー……ってそもそもこの部屋にカレンダーなんてなかったじゃないか!
「なんだありゃ」
「ぼぼ僕が聞きたいくらいだよっ」
「んー……ならちょっくら調べてくるか」
「調べるって……!?」
 聞き返す暇もなく。彼は窓枠に足をかけるとひょいっと地面に降り立った。
 窓の向こうには、横一直線に走る川。その岸に向かって歩く。川の向こうから、にょきにょきと木の橋がのびてくる。
 よくわからないけど、行かせてはいけない! ダメだ、ダメだ! お願い戻ってきて!!
「ちょっと行ってくる。俺が戻ってこなかったら……生き恥さらせ」
「待って……待ってよ!」
 僕の言葉は届かない。彼はくるりと背中を向けて、一瞬だけ左手を後ろ手に振った。少しずつ小さくなる背中に僕は、



「きょうす……!?」
 自分の言葉に驚いて、体が飛び跳ねる。薄暗い部屋。体を起こす。セミダブルのベッドが、キシ、と音を立てる。
 うみゅぅ、という声が聞こえる。左を見ると、鈴が寒そうに体を縮こまらせていた。身を起こした分、掛け布団がめくれ上がってしまっていた。隙間がなくなるようにかけ直した。んにゅー……と満足そうな寝息。
 それにしても……大学のころの部屋に、日本風のお城に、グラウンド横の川……極めつけに恭介、か。
「変な夢」
 やはり、今日だからこんな夢を見てしまったのだろうか。
 時計を見ると、そろそろ出かける支度をしなければいけない時間だった。
 ベッドから抜け出して、クリーム色のカーテンを一気に開け放った。暖かい光がさしこんでくる。まぶしさに細めた目で空を見ると、文句なしの快晴だった。
 僕はいまだにベッドで丸くなっている彼女を、優しく揺り動かす。
 うゅー……とうめいて、重そうなまぶたを持ち上げた。
「おはよう、いい天気だよ。そろそろ起きないとマズイよ」
「……さむいねむいいきたくない」
「はいはい起きるよー」
 ばっさー、とかけ布団を放り投げる。
 恨めしげな顔をしながら、しぶしぶといった風にベッドから這い出てくる。
 そんな彼女のために朝食を作り、ふたりで平らげる。昨日から用意していた服に着替えて、二回戸締りを確認した後、家を出た。
 バスと電車を乗り継いで、目的の場所へつく。時計を見ると時間ギリギリだった。
 少しだけ走って、集合場所へと走りこんだ。息を整えてから、なるべく静かに部屋に入る。
 部屋のなかにはすでに、参加者がそろっているようだった。
「おはようございます」
 ふわり、と隣で栗色の髪が踊った。会釈をしたらしい。
「おぉ、直枝ンところの坊主じゃねえか」
「お久しぶりです、井ノ原さん」
「かーっ、またしばらく見ないうちにでっかくなってンじゃねぇか。そっちの嬢ちゃんも女っぽくなってるしよ、そろそろ子供のひとりやふた……」
「おっほん。世間話はそれぐらいで。もう始まる」
「……おはようございます、来ヶ谷さん」
「おはよう。貴重品だけ持って、本堂のほうへ行くぞ」
 その言葉に従うように、参加者のみんながぞろぞろと席を立っていく。
 僕たちもバッグとコートを置くと、それにならうように歩き出した。
 階段を上がって二階。そこがもう目的地だった。用意されていたイスの、一番端っこに鈴と並んで座る。
 着席してすぐ、僕たちが入ってきた戸とは違う戸から、お坊さんが入ってきた。そして、並んで座る僕たちに向かって浅く長いおじぎをした。
「それではこれより、十三回忌を、合同にて、執り行いたいと思います」
 僕たちも、おじぎを返した。
 ――みんながいなくなったバス事故から、十三年が経った。
 言葉にするとただそれだけ。鈴とふたりきりで過ごした、たったそれだけの時間。でも、僕はずいぶんと長い時間が経ったと思う。
 少なくとも、乱立した墓石を見て、風景がぼやけることがないぐらいには。
「理樹……どうした?」
「なんでもないよ」
 物思いにふけっていた僕を、鈴が訝しげな目で見上げてくる。
 僕はごまかすように、水を張った桶を持ち替えた。
『棗家の墓』
 墓地の端っこのほうに、それはあった。
 一年に一度は来ているが、それでも放置されていた間の汚れが、墓石にこびりついていた。
 柄杓で水をすくってかける。一回、二回、三回。鈴がブラシで墓石を磨く。ごし、ごし、ごし。
 あらかたキレイにしたところで、もう一度水をかける。こんなものだろう。
 お線香に火をつけて、供える。両手を合わせて目をつむる。報告することは……思い浮かばなかった。ただ「元気だよ」とだけ言って、目を開けた。
 隣では鈴が、眉間にしわを寄せながら手を合わせていた。なにを思っているのだろう? なにも言わない鈴をいくら見ても、わからなかった。
 長いような短いような時間は終わりを告げた。鈴が横目でこちらをうかがう。すると「……かったな」とつぶやいて、目を開けた。なにか勝負していたらしい。
 そして、僕たちは順番に回る。
『井ノ原家の墓』
『来ヶ谷家の墓』
『西園家の墓』
『能美家の墓』
 ……クドのお墓は、本当なら祖国につくられるはずだった。
 しかし、クドのお祖父さんの計らいで、日本に作られ、日本式に供養されることになったのだった。
 そのお祖父さんは来ていない。体調がよくない……というよりは、失礼ながらもう年なのだろう。なので代わりに、クドのお墓に水をかけて、ブラシで磨く。
 あとは謙吾、小毬さん、葉留佳さんだけなのだが……この三人は、実家のほうですでに用意されていたらしく、ここにはない。明日お墓参りに行く予定だ。
 全部回り終わると、墓地にはもう僕たちしか残っていなかった。
「戻ろうか、鈴」
 返事はない。隣には、渋面の鈴。行きたくないようだ。
 この後はみんなで昼食をとるのだが……みんな子供じゃないわけで。もちろんお酒もでるわけで。
 お酒、というよりも酔っ払いが苦手な鈴が渋るのも無理はない。
 僕は苦笑して、鈴の手を引いて歩く。一緒にいるよ、と。
 きゅ、と握り返された。そばにいてくれ、と。



「うぷっ……」
 僕は一人で外に出ていた。
 おじさん・おばさんに代わる代わるお酌をされて、お腹はたぷたぷだった。
 途中で鈴が消えたから、その分まで回ってきてたっぷんたっぷんだった。
 いまならドルジといい勝負ができる自信がある。
 弱めに吹く風が、前髪をくしゃくしゃにして去っていく。一緒に奪われていく熱の感触が心地いい。
 ……どれくらいぼーっとしていただろう。
 ふと持ち上げた視線の先に、鈴が丸くなっているのを見つけた。
 ふわふわと揺れる地面を踏みながら、近づいていく。
「逃げるなんてひどいよ」
「なんだ、もうおわったのか?」
「いやいやいや、せめて悪びれようとするぐらいしてよ……。その子は?」
「ヘレンだ」
 三重苦? いや、ないな。
 いつのまにか消えていた鈴は、どこで捕獲したのか猫とたわむれていたのであった。
 お座りのまま目を閉じて、なで回されるままになっている。
「あたしはもどらないぞ。ずっとヘレンとあそぶんだ」
「そう言わずに戻ってきてよ……僕ひとりじゃちょっとつらいよ」
「あいさつしたし、おしゃくもした。もうじゅーぶんだろ」
 ……たしかに、昔ならあいさつすらせずに逃げていただろう。
 しょうがないなぁ、と苦笑して、僕もその場にしゃがみこんだ。
 手を伸ばして、猫に触れる。もこもこのふかふかだ。
 鈴は猫の手をつかんで、肉球をふにふにしていた。
 五分くらいふたりがかりで猫を堪能していたが、やがて目をパチりと開いて、一伸びすると、塀の向こうに姿を消してしまった。
「いっちゃった」
 鈴はばいばい、と見えない猫に手を振って、膝についた土を払いながら立ち上がる。
 つられるように立ち上がって、背筋を伸ばした。
 ばきばきという音が聞こえ、目には空の青さが映った。
「あ」
 そう言えば恭介に伝えることがあった。
 僕はのんびりと――いや、地面が揺れてるからゆっくりとしか動けないんだけど――恭介のお墓にむかう。
 新しい卒塔婆、少しくすんだ墓石、消えかかったお線香。
 僕は手を合わせると、目をそらさずに言った。
「来月、僕たち、結婚するよ」
 供えられたばかりの花が、吹き抜ける風とともにうなずいた。


[No.496] 2009/11/06(Fri) 23:20:37
好きだからこそ (No.483への返信 / 1階層) - ひみつ@4761 byte

 最近葉留佳さんの様子がおかしい。
 1週間ほど前からだろうか、いたずらをする様子が全く見られない。
 全体的におとなしくなったというか、そんな感じ。
 付き合い始めて約1ヶ月だけど、こんな葉留佳さんは見たことがない。
 別に元気がないわけじゃないし、これはこれでかわいいからいいかなーと思ってたけど……
 葉留佳さんらしくない。そこだけが引っかかる。
 そう思ってるとその本人が僕のいる教室に来た。
「あ、理樹くん、一緒に帰ろ?」
「うん、行こっか」


 2人で並んでの下校。ただ、やっぱり葉留佳さんの口数が少ない。
 でもその横顔は穏やかで、見ていて癒される。……癒される? やっぱり何か違う。
 普段はもっと積極的に話していたはずだ。
「ちょっと理樹くん、何ボーっとしてるの?」
「あ、ゴメン。ちょっと考え事を……」
「もう、浮気とかだったら許さないよ?」
 100%葉留佳さんのことなんだけどね。
「あ、もう着いちゃった。もっと一緒にいたかったな」
「僕もだよ。それじゃあまたね」
「うん、また明日」
 いつものように、手を振って寮の前でわかれた。






「……というわけなんだけどさ」
 一人では分からなかったので寮に帰り、真人と謙吾に相談してみた。しかし、
「彼氏に分からないことが俺に分かるかよ」
「五月蝿くなくて良いじゃないか」
 と、全く頼りにならない。ああ、どうして恭介はこんな時に就活なんだろう。




 気分を変えるために中庭の自販機にジュースを買いに行くことにした。
 辺りは少し暗くなりかけてるし、さくっと買って帰るかな。

 歩きながら僕は考える。今までは大したことないと思っていたけれど、やっぱり葉留佳さんらしくないのは嫌だ。
 口調もいつもの特徴的な方が耳に心地よい。行動も騒がしい方が明るくて好き。
 そんな少し恥ずかしい感じのことを考えつつ自販機の前へ行くと、先客がいた。

「やあ理樹君、奇遇だな」
 飲み物を取り出して、黒髪をなびかせつつ振り返ったのは来ヶ谷さんだ。
 そうだ、来ヶ谷さんなら何か知ってるかもしれない。
「来ヶ谷さん、最近葉留佳さんが変なんだけど何か知らない?」
「変なのはいつものことだろう。むしろ変でなかったことがない」
「そうじゃなくて、変じゃないことが変なんだよ」
「ふむ、確かにあのように静かに佇むのは見たことがないな」
「だよね。ってええ!?」
 来ヶ谷さんの目線を追ってみると、いた。葉留佳さんだ。
 ベンチに座り、花が咲いている一角を見つめ微笑を浮かべている。
 僕はその姿に見とれてしまった。オーバーかもしれないけど、女神のような雰囲気 に。
 だからいつの間にか来ヶ谷さんが居なくなっていたことに気がつかなかった。
 葉留佳さんの方にはいないし、帰ったかどこかで見ているかのどちらかだろう。後者はかなり迷惑だけど。



 やはりいつもと違う雰囲気に話しかけ難くなるが、意を決して近づき、声をかける。
「……葉留佳さん、どうしたの?」
「あ、理樹くん。花を見てたの。綺麗だよねー」
「それは分かるけどさ、最近おかしいよ? なんだか葉留佳さんらしくないっていうか……」
「え……ちょっと、どういうこと!?」
 態度を急変させた葉留佳さんは僕に詰め寄ってきた。
 葉留佳さんにとって予想外のことを言ってしまったようだ。別に変なことは言ってないつもりだけど。
「もしかして……覚えてない?」
「ええと、何を?」


「理樹くんがこの前言ったんじゃない、もう少し女の子らしくした方がかわいいって!
 だから口調とか仕草とか頑張って変えたのに! それをおかしいって……理樹くんのバカ!」


 そう言い終えると、僕に背を向けて泣き始めてしまった。
 ああ、そういえばそう言ったっけ。悪いことしたな……とりあえず謝ろう。
「葉留佳さん、その……ゴメン。でもかわいかったよ」
「……そりゃあ忘れてたんだから不意を付かれたんだろうね」
 うわあ、完全にご機嫌斜めだ。こんな態度とられたことなかったから心が罪悪感で一杯になる。
 今できる事といえば、誤解のないよう自分の気持ちを伝えることだけだ。

「葉留佳さん、あれはその……ちょっとそういう葉留佳さんも見てみたいって言う意味だったんだ。まさか毎日続けるとは思わなくてさ……ゴメン」
「私は何気ない一言でも聞いてるよ? ……もっと理樹くんに好かれたいから」 
 涙はおそらく止まっているように思える、けれども湿った声でそう告げる葉留佳さん。
 その一言が、どれだけ僕を思ってくれているかがよく分かる。
 葉留佳さんへの感謝と、自分の憤りを感じずにはいられない。
 ゆっくりと後ろから抱きしめ、勇気を出して、告げる。

「僕はどんな葉留佳さんでも大好きだよ。だからさ、無理しないでありのままでいてくれたらそれでいいよ。自分を作るなんてこと、もうしなくていいんだからさ」
「……じゃあ、今夜は甘えていい?」
「うん、もちろん」
 そう言い終わると同時に、ぎゅっと抱きつかれた。まるで今まで貯めていた思いをぶつけるかのように。
「理樹くん、ありがとね。こんな私を好いてくれて」
「……こんな、なんて言わないでよ。僕にとって葉留佳さんが特別なんだから」
「あぅ……そんな台詞反則だよ、ぐすっ……」
 また泣きそうになる葉留佳さんを抱く力を強める。それに応じるように強く抱きしめ返してきてくれた。





「……そうだ、今度は理樹くんが性格変えてよ。私だけじゃ不公平ですヨ。それか外見でもいいよ? 女装とか」
 すっかり元の調子に戻ってくれた葉留佳さん。嬉しいけど、きっと気苦労が絶えなくなるだろう。
 それでもこの最高の笑顔を見てると、そんな小さなことなどどうでもいいほどに心が満たされる。
 僕たちはまた一歩、お互いの理解と絆を深め合ったのだった。


[No.497] 2009/11/06(Fri) 23:54:25
しめきり (No.483への返信 / 1階層) - 大谷(主催代理)

スパム掃討作戦が実行されたのだから、かきさんが出現したということになるけれど、まさか締め切りの書き込みが被ったりはしないだろうな、などとちょっと心配しているのであった。万一被ったら言うまでもなく主催の方が優先です。

[No.499] 2009/11/07(Sat) 00:34:13
供え (No.483への返信 / 1階層) - ひみつ@3,678byte

曇り空、外は慌しいけれど今日は休校。ベッドに一人横たわって、ただただゆっくりと過ごす。何も思わず、何も考えず。
「酷い顔ですね、佳奈多さん」
「…っ。ノックぐらいしなさい」
「しましたよ、3回程」
大声を出されてはじめて、目の前に人がいる事に気付いた。
私は相当上の空だったらしい。
「…ふんっ。それで、監視役のあなたが何故ここに?」
「これを持ってきました。葉留佳さんの物です」
差し出されたのは少し小さな段ボール箱1つ。見た目よりかなり軽い。
「態々ありがとう。用件は他にもあるんでしょう?」
「…明日、あなたを連れ戻しに来るそうです。そして、用意した『相手』と会わせると」
「そう、またいきなりね」
「あの人達曰く、心配だからだそうです」
「ふふっ私の身体や体調が?何処かに行かないか、でしょうどうせ」
「でしょうね。葉留佳さんの事は既に二木家に連絡されていますから。それで、あなたはどうするのですか?黙って戻るつもりは無いのでしょう」
「ええ、叔父様達の言いなりになる必要もなくなったしね」
「そうですか、これでお役目おしまいですね。…それでは、短い間でしたがありがとうございました」
「私こそ、色々迷惑掛けたわね。今までありがとう」
そして、ごめんなさい。
少し呆気にとられた様な顔をした彼女は、何処か悲しい音を立てて茶色のドアを閉じた。

それから暫く経って、気付けば外は静寂で真っ暗だった。ふと、さっき受け取ったダンボールを思い出して開く。中には沢山のビー玉が入った袋と淡い紫色のアルバムが1つ。小さなダンボールの中から薄いアルバムを取り出し、少しミントの香る布団の上で開く。
黒色の見返しと白色のページ。その真中に1枚、オレンジ色の夕日の中、心の底から楽しそうに笑う10人の男女が写る写真。彼女達の顔はどれも本当に幸せそうで。見ているこちら側もつられて楽しい気持ちになれる様な程、写る顔はどれも笑顔で。
ページを捲る。今度は一つのページに3枚ずつ、これらも夕日の中での写真。クドリャフカと暴れている長髪の少女を抱きしめ、その上から来ヶ谷さんに抱きしめられ笑うあの子。日傘をさした少女と白いセーターを着た少女、驚いている二人に笑いながら抱きついているあの子。
アルバムのほとんどがそんな感じかと思ったら、軽く被写体がぶれて写った、端にちょっとだけ写った写真が数枚ある。ちょっと可笑しい、あの子らしいけど。
後半は殆ど直枝理樹が写った写真だった。宮沢と大きな男に抱きつかれている写真。棗先輩と肩を組んでいる写真。

そして、照れている直枝理樹に抱きついているあの子。夕日のオレンジで少し解りづらいけど、多分赤くなっている。なんというか、微笑ましい。
ページを捲る。最後のページは空白、真っ白のままだった。



今日も曇り空。タクシーの窓から眺める景色はあの旅行の日のままで。流れる景色は、あの日と何も変わらない。タクシーから降りて一人、看板に塞がれた道に近づく。通行止めの大きな看板と、数日後から始まる工事について書かれた看板が置いてある、事故現場へと続く山道の入り口。看板を越えて、その場所まで歩く。
…そういえば、昨日で休校が終わりだっけ。本当なら連れ戻される事になっているし、もう、どうでも良いか。
急なカーブ、灰色の空が広がる場所。途中からガードレールが無くなっている崖上に立って、その下に広がる森を見下ろす。大きく丸く、木々の無くなった所一面汚く黒ずんで生々しい。
翌日、私は事故について担任に問い質した。内容は、簡単に言えばバスが崖から転落して爆発。その爆発に巻き込まれて、あのバスに乗っていた生徒達の身体は殆ど見つからなかった。見つかった身体も、完全なカタチを保っていた者は無かったらしい。左腕だったり、左足だったり。骨が飛び出ていたり、焼かれていたり。殆どパーツで、殆ど変わり果てていたそうだ。
今頃、学校では生徒達へ黙祷を捧げているのかもしれない。私も何となく持って来た白菊を、そっと地面に置く。風に吹かれ、かさかさと小さな音を立てて揺れた。

「供花。死んでその先、花の咲き乱れる美しい浄土に向かって欲しい…か」

馬鹿らしい。
…けれど、本当にそんな空想通りの場所があるのなら。あの子が、葉留佳がそこに逝けますよう。そこでずっと笑顔でいられますよう。
そう、花に祈ってみる。そう、思いを籠めてみる。
そして―

フフっ
なんて
本当に、馬鹿らしい

濡れた白菊は小さく転がって、綺麗に咲いたままゆっくり落ちた


[No.500] 2009/11/07(Sat) 01:56:52
花摘み (No.483への返信 / 1階層) - ひみつ@6331 byte 遅刻

 尿意はいつだって唐突だ。
 そんな台詞が昔読んだ漫画にあったような気がするが、どう考えても気のせいだ。
 僕は今、これまで生きてきた中で一番トイレに行きたいと願っている。この史上稀に見る高速ピストン貧乏揺すりがその証拠だ。さっきの休み時間に眠いからといって利尿作用抜群のコーヒーを二杯も飲んだのが原因なのかもしれない。時計を見ると、まだ授業開始から十分も経っていなかった。
「ハアハア」
 荒い息遣いだ。ドクドクと、心臓が耳の横にあるみたいに、その鼓動がよく聞こえる。
 寄りにもよって、現在の授業は抜き打ちテストだった。点数の悪かった者は課題を出すから放課後に残れ。教師の悪人の様な笑みが瞼の裏に焼き付いて離れない。超ぶん殴りたい。テストに集中しようにも、僕の膀胱がクーデター起こしよってからに、それどころじゃない。横の真人は既に瞼を閉じていた。閉じた瞼にマッキーで目が書いてあって、まるで寝ているのに起きているかのようにカモフラージュしようとしていた。何故か黒眼部分をペパーミントグリーンで塗りつぶしていた。きっと黒色が無かったんだろう。なんでレアな色はあるのに黒とか一番使う色が無いんだよ! っていつもみたいにツッコミ入れてあげたいけどごめんね真人。僕それどころじゃないんだ。
 もう一度時計を見る。あれからまだ五分も進んでいなかった。ついでに問題も進んでいなかった。真人からいびきが聞こえる。真人の眠りの深さだけ進んでいたようだ。豪快に寝過ぎだろう! っていつもみたいにツッコミ入れてあげたかったけどごめんね真人。僕の斜め前に先生が立っていた。丁度、真人の席の前だ。先生は真人の体に縄を巻きつけ、きつく縛り、そのまま真人を引きずって教室を出ていった。顔を床でゴリゴリ削られながらも一切起きる気配の無い真人は流石だ。面の皮まで筋肉になってんじゃないのかね。流石だよ。さよなら真人。
 と、急に僕の膀胱内で行われていたテロ活動がパタリと停止する。なんだこれ。いや、これは保健体育の時間に習ったことがある。長距離走で長いこと走っていると急に体が軽くなり、寧ろ気持ち良ささえ感じてしまう瞬間があると。その名も、セカンドウィンド。この尿意との戦いも、長距離走と言っても過言では無い。僕の尋常では無い汗の掻き方がそれを物語っている。背中は全体濡れている。股もびっしょりだ。おっと、股もびっしょりと言っても、尿漏れでは無く、汗によるものだから安心してくれ。まだ僕は大丈夫だよ。いける。今の内にテストを解ける限り解くのだ。集中した僕は、次々と問題をクリアしていきそうだったけど、すぐにあいつが来た。そう、尿意だ。油断したせいで、さっきまでより臨界点に近い場所に来ている。押してダメなら引いてみろ戦法に見事に嵌ってしまった。僕はピエロだね、ふふ。
 再び始まった上に更に進化を遂げてしまい、超高速ピストン貧乏揺すりGTの領域まで踏み込んだ僕の下半身。どうにかならないだろうか。頭を回す。ぐるぐる回す。僕は左足の上履きを脱いだ。右足は、究極マッハピストニング広角打法貧乏揺すりMX状態である。尻を上げ、上履きを脱いだ左足をゆっくりと上げたそれと椅子の間に挟む。そして、再び腰を下ろす。僕の踵は、ピンポイントで尿管というホースを堰き止めていた。今まさに僕は頭脳で尿意を打ち負かしたのだ。これで尿意という脅威は無くなった。さあ、テストの続きをやろうか。
「んー」
 問題を数問解いたところで、僕の喉からそんな声が漏れだした。この尿管ストップ座法には少し欠点があるようだ。それは、気合いだけはいつもの五倍以上増えてしまうということ。息が荒い上に、んーんふー、という鼻からの吐息が出てきたら、それはもう完全に不審者ではないか。なんということだ。時計はやっと十分を回ったところだった。これでは確実に決壊してしまう。
 簡単な解決方法はあるのだ。先生に「お手洗いに行ってもよろしいですか?」と聞く。ただそれだけだ。しかし、それをしてしまうと今まで築き上げてきた僕のアイドルイメージが崩れかねない。アイドルはトイレになんて行かないから理樹も行かないんだ! と力強く言い放ってくれた真人との友情をも反故にしてしまう。それだけは絶対にしてはいけないことなのだ。
 苦戦しつつも、テストは半分は解けた。時間も三十分を回っていた。この調子でいけばなんとかなるかもしれない。淡い希望に縋りつき、僕は必死に我慢をする。だが、そうそう上手くいかないのが人生である。神は僕に更なる試練を与えたもうた。こんちくしょうめ。
「へっくし!」
 なんとくしゃみが出たのだ。僕の口からね。今ので、ギリギリだったものが表面張力で保っているレベルまで引き上げられてしまった。正にオウマイゴッド!
「ゴッドブレスユー」
 そう教師が言った。うるせいアホ死ね。いや、ダメだ。怒りに身を任せては奴の思う壺だ。奴って誰だ。こういう時は深呼吸をして落ち着こうじゃないか。いや、深呼吸をしたらダメだ。ビュッといく。ビュッといくよー。いっちゃうよー。駄目だ駄目だ。しかし、呼吸法という考えはいい。僕の知っている呼吸法を試す時が来たのだ。恭介に借りた漫画に載っていたぞ。呼吸法により、髪の毛が強化されてビール瓶に刺さると訳の分からんのがあった。もうダメ元でやるしかない。きっとそれで尿道が強化されてなんとかなるかもしれない。ヘソの下に意識を集中する。
「ヒッヒフー。ヒッヒフー」
 確かこんな感じだった気がするんだけど。でも、これ出産の時にもやるよね。あ、やっぱ違うよね。ごめん。やっぱ無し。生まれちゃうよー。
 慌てて呼吸法を変えるとゴリラの吐息みたいになる。なんだかもう自分でもよく分らない状態になってきたよ。時計を見る。あと五分でチャイムが鳴る。な、なんとかなりそうだ。テストは完全に死亡してしまったが、それは今の状況ならばしょうがないことだ。体調が悪かったのでとでも言い訳すればいいかな。ていうか、それで保健室にいけば良かったんじゃ……。いやいや、これがベストの方法だった。これを乗り越えることで僕は一皮剥けた男になれたのだ、きっと。しかし、この『授業が終わるまでの残り五分』という時間は何故長く感じるのだろう。体感的に言えば、授業中盤あたりの十五分に匹敵する長さではなかろうか。教師は固有結界で精神と時の部屋でも作りだすことが出来るのだろうか。なんという魔術師。後はもう頭の中で時間の代わりにクドでも数えればなんとかなるはず。クドが一匹、クドが二匹……。と、三匹目のクドが何故か裸体で御登場だ。これはヤバイ。今股間部分に異常が発生すれば、イコール死亡である。他のものを数えよう。鈴が一蹴り、鈴が二蹴り……。パ、パンツ丸見えじゃないか! これじゃ逆効果だよ! ね、猫だ! 猫を数えるんだ!
「はい、終了ー」
「あ」
 教師の声と共にチャイムが鳴り響く。一番後ろの席の子が僕のテスト用紙を回収していく。周りではあそこの答えはどうとか、そんな他愛無い会話が聞こえた。
「じゃ、号令」
「きりーつ」
 学級委員のやる気の無い号令が掛かる。僕はその声に反応して、ビッと背筋を伸ばしつつ立ち上がる。その瞬間に脱いでいた上履きを履きつま先立ち。「れい」ぺこりと三ミリほどお辞儀をして、僕はトイレへと向かうべくダッシュを決めた。いいスタートを切れたと思う。大地を蹴る足は軽い。これでこの地獄から解放されるのだ。あとは階段を降り、誰もこないトイレで垂れ流すだけだ。ガラッと勢い良く戸を開け、柱を握って飛び出す。
 そこには真人が転がっていた。
 完全に勢いのついた僕は止まれず真人に蹴躓く。
「に、にょおおおおおぉぉぉぉっ!」
 にょー。


[No.501] 2009/11/07(Sat) 02:39:47
赫月ノ夜ニ咲キ誇レ悪徳ノ華 (No.483への返信 / 1階層) - ひみつ@遅刻11087 byte

 東の空、山々、木立を乗り越えて赫い月が昇る。
 川のほとり、銀髪の少女は待ちかねたように月光を浴びる。
「ふふ、美味です……」
 そして彼女は昇りゆく月をうっとりと仰ぎながら、傍らに伏せた狼犬の背を撫でていた。
 僕はその姿に見蕩れ、いや、魅入られてしまったんだ。

 きっと時間を忘れて立ち尽くしていたんだと思う。僕が仰向けに倒れた、いや倒されたとき、月はもう高みから見下ろしていたのだから。
「ヴェルカ」
 彼女の声が聞こえてからようやく、僕が何かに押し倒されていることに気がついた。生温かい息が頬にかかる。
「いつ仕掛けてくるのかと待ち構えていたのですが……いったい何のつもりなのです?」
 草を踏むかすかな音が近づいてくる。呆れたような口調。
「お前は何者です? 鶏脚の婆さん《バーバ・ヤガー》の使いにしては随分とぼんくらな……おや、女の子でしたか?」
「ち、違う! 僕はれっきとした男だ!」
 彼女の言っている意味はほとんど分からなかったが、普段から気にしていることを言われてかっとなってしまった。目の前にいるのは危険なモノかもしれないのに。
 しかし僕の気分などお構い無しに、彼女は僕の上にのしかかった。そこでようやく僕を今まで押さえつけていたもの姿を目にすることが出来た。比較的小型の黒犬。そんな馬鹿な。いくら僕がひ弱でもこんな小さな犬に押し倒されるなんてことがあるはずは……。
 考えることが出来たのはそこまでだった。黒犬の代わりに圧し掛かった少女がすんすんと鼻を鳴らして僕の匂いを嗅ぎ始めたからだ。
「でも、お前から処女の匂いがします」
「そそそそんなわけあるかっ!」
 怒鳴りつけたい気持ちは山々なのに、声が裏返って情けなさばかりが際立った。ふわりと香る蜜の香りにふと胸元を見ると、さらさらと流れた銀髪が、目の前で月光を浴びて輝いた。
「ふふっ、ですよね。あなたのような可愛い子が女の子のわけないです」
「かっ……」
「か?」
 抗議の言葉はしかし、僕の舌を震わせることはなかった。間近に見た彼女の青い瞳はどこまでも深く澄んでいて、僕の背筋をざわつかせた。
 胸がドキドキするのは恥ずかしさのせいか、それとも憤りのせいなのか。怖さを忘れていたことに気付いたのは随分と後のことだった。

「さて、肝心なことを答えてもらってないのでもう一度聞きます。お前は何者です? まあ、そう言ったところで正直に答えるわけもありませんし、身体に直接訊いてみるのです」
 彼女の舌先がその艶やかな唇を湿らせる。端から八重歯がのぞいて、その艶かしい白さに思わず目を逸らした。
 するり。気付いたときには、ひんやりとした彼女の手が僕の身体を滑ってとんでもないところに潜り込もうとしていた。
「ちょ……っ待っ!」
 けれど、僕が心配した――そして本心を言えばほんの少し期待してしまった――場所へ手が届く寸前で、その行為は中断されていた。
「こそこそと盗み見とは感心しないのです」
 彼女の忌々しげな呟きは、橋の袂のその陰へと向けられていた。彼女が顔にかかる銀髪をかき上げながら身体を起こし、僕は彼女が蝙蝠の髪留めをつけているのに気がついた。何の宝石なのか、赫い眼が自ら光を放っているようにも見えた。
「羽ばたけ漆黒の翼。闇を蝕む貪欲な牙!」
 鋭く命じながら髪留めを投げ放つと、その目が紅く光り無数の蝙蝠へと変じた。群れを成した蝙蝠が踊りかかる刹那、橋脚の陰に潜んでいた何者かが、飛来する牙を躱して月明かりの下に躍り出た。標的を見失った群れは盛大な土煙を虚しく上げる。
「けほっ、けほ……ったく、乱暴ねー」
 飛び出してきた少女は形のいい唇を尖らせ、涙を滲ませた空色の瞳でこちらを睨み付けた。月明かりを跳ね返す金色の髪で白い翼のような飾りが揺れる。
「その羽飾り……告解の死天使? また古狸の使いですか、しつこいのです」
 生み出した蝙蝠を周囲に侍らせている彼女は、作りすぎてしまったカレーが三食続けて出された三日目のような口調。言葉の意味はまるで分からないものの、その少女の登場に心底うんざりしているようだった。
「あたしはロシア正教会第三教化師団所属の天使、朱鷺戸沙耶。クドリャフカ=アナトリエヴナ=ストルガツカヤ、総主教の命によりあなたの身柄を拘束します。
 さあお姫様、おままごとの時間はもう終わりよ!」
 朱鷺戸と名乗った少女は、そう言ってミニスカートを翻すと、太もものホルスターから拳銃を抜いた。
「ちょ、駄目だよこんな小さい子に銃を向けるなんて!」
「ち、小さい……?」
 理解不能なことの連続でただ成り行きを見守っているだけだった僕も、さすがにこれを見過ごすことは出来なかった。とは言え、拳銃に向かっていく度胸などない僕は立ち尽くし、震える声を搾り出すだけだ。
 朱鷺戸はそんな僕の怯えを見透かしたのか、心を動かされる気配もない。
「見かけに惑わされちゃ駄目よ。小っちゃくても彼女は既に400歳を越える吸血鬼なんだから」
「こんな小さい子が? 信じられないよ!」
「さっきから人のことを小っちゃい小っちゃいと……」
 ざわ、ざわ……っ! 低く震える声に総毛立つ。声の方へと振り向くのを身体が拒否した。
「“ちっちゃい”のーっ! あいむ、のっと、ふらっとなのですっ!!」
 その瞬間、黒い力の爆発に、僕の身体は弾き飛ばされた。転がった先で見たのは、先ほどに倍する数の蝙蝠。その群れが朱鷺戸めがけて殺到している光景だった。
「踊れ踊れなのです! 持たざるものの恨みを思い知るといいのですっ!」
 朱鷺戸も手にした拳銃で応戦するものの、素早く飛び回る蝙蝠には効果が薄いように見えた。弾切れになるまで撃ちつくしてもせいぜい数匹。おまけに撃ち落とされてもすぐに補充されてしまうのだろう、群れの密度が変わったようには見えなかった。
「蝙蝠の姿をとってはいてもそれは私の魔力の塊。そんな玩具では散らすことなど無理無理なのです」
 しかし、土埃に塗れた朱鷺戸は、クドリャフカの言葉を聞いても不敵な笑みを浮かべていた。
「あら、そう思う?」
 かしょっ! 新しい弾倉を勢いよく銃に叩き込むと、群れの中心に銃口を向けた。
 ぱんっ!
 銃声とともに、沙耶の前に小さな円が浮かび上がる。光の二重円。内部に図形と文字が刻まれたそれに蝙蝠の一羽が触れると、爆発的な速度で円が増殖・展開していく。そして飛び回る蝙蝠たちを次々と捉え、無力化してしまった。全ての蝙蝠が無力化した後、そこに残されたのは元の小さな髪飾りだけだった。
 クドリャフカがその威力に目を見張る。
「詠唱弾……!」
「そう。でもただの詠唱弾じゃないわよ。聖ゲオルギウスの十字架を鋳潰した神銀に、13の13乗回分の聖句を編みこんだ特別製なんだから」
 そして、朱鷺戸は銃口をクドリャフカへと向けた。何千何万と繰り返してきた動作なのだろう、その姿勢にはブレがない。そして、銃口を真っ直ぐ見つめるクドリャフカも。
「チェックメイトよ」

 しかし、必殺と思われた弾丸は、彼女の身体を傷つけることはなかった。
「詠唱弾が、起動しない……?」
 ぽとり。クドリャフカの額に貼りつき、ひしゃげた弾丸が地面へと落ちる。額は少し赤くなっただけで、傷一つない。
「ちょっと痛かったのです。確かに特別製みたいです。でも、私を捕らえるつもりなら13乗がもう一つ足りないのです」
「さらに13乗っ!? け、桁が違うわ、冗談でしょ」
 切り札がまるで役に立たないことを思い知らされ、朱鷺戸は呆然と目の前の少女を見詰めていた。その様子を見て気分を良くしたのか、クドリャフカはさらに勝ち誇る。
「ふっふっふっ、これが格の違いというものです。こんなもので私を倒せると思われるのは心外で『ぱんっ!』あうっ!」
 不意を突かれてクドリャフカの顔が少しだけのけぞった。やはり傷一つついていないが額の赤さがさらに増した。僕はおそるおそる朱鷺戸を振り返る。目が据わっていた。
「は、話の途中で撃つのはひきょ『「うんがーっ!」ぱんぱんぱんぱんっ!』あうあうあうあう!」
 銀玉を立て続けに喰らったおでこが真っ赤に腫れていく。
 かしっかしっかしっ。
「ち、弾切れか……」
 舌打ちしながら憮然とした顔で新しい弾倉を取り出そうとする朱鷺戸。プライドを踏みにじられた反動なのか、そのやさぐれ度合いが競艇場で酔っ払ったチンピラレベルだ。それ以上撃たせる前に、クドリャフカがとうとう切れた。
「もう怒ったのです! 街ごと叩き潰してぺったんこにしてやるのです!」
 おでこを押さえ、半泣きで自らのマントを剥ぎ取った。その下、うちの制服らしいミニスカートと白いニーソックス。そして上半身はソックスに負けないほどの白さのなだらかな――
「は、裸っ!?」
『お前は見るな!』
 二人に口をそろえて叱られ、慌てて両手で顔を覆った。目を閉じると焼きついた今の光景がまぶたに浮かんでしまい、とても平静ではいられないので指の隙間から覗くことにした。

【起動!】
 ぼうっ、とクドリャフカの身体に渦巻きのような模様が浮かび上がる。それと同時に彼女の前に巨大な円陣が現れた。何重にも描かれた円と図形、そしてその隙間を埋め尽くす文字。先ほど朱鷺戸が展開したものよりも何倍もの大きさ。鮮血を思わせる赫い魔法陣は、知識のない僕にすら禍々しい、という印象を抱かせた。
【次元接続>論理式『WA=FUU』使用。門《ゲート》開放手順第一から第七までを省略……開放>召還術式、詠唱開始】
 中に描かれたいくつもの円が回転を始める。金庫のダイヤル錠のように右へ左へと回転する円が、かちりかちりと所定の位置に収まっていく。
「光を喰らい、闇喰らい、無すら喰らいし神の末裔《すえ》――異界に封じられし貪欲な顎よ、軛《くびき》を解きて我に従え!」
GUUUUUUUUUUUUOOOOOOOOOOOOOORRRRRRRR
UUUUUUUUUAAAAAAAAAAAAAAAHHHHHHHHHHHHHHH!!
「ひっ!?」
 クドリャフカの喚起に応え、魔法陣がこの世ではないどこかへと繋がる『穴』に変貌する。その『穴』から溢れ出た咆哮に僕は腰を抜かしてへたり込んだ。
 ずるり。『穴』から名状し難い『何か』が這い出してくる。熊のような巨躯、頭には羚羊のような角を持ち、背中から鷲の翼を生やしている『何か』。
「な、何……これ?」
「ヴォロス……かつてこの世の全てを喰らい尽くさんとして異界に封じられた獣の王よ。まさか、こんなモノまで従えているなんて……」
 話が大きすぎて実感は湧かないけれど、少なくとも僕らを跡形もなく食ってしまうくらいは簡単なんだろう。見れば、朱鷺戸も構えた銃がカタカタと震えている。
 この脅威に平然と向き合っているのは召還した本人、クドリャフカだけだ。彼女は胸をそらせてヴォロスを見上げながら、にやりと勝者の笑みを浮かべ、その牙を光らせていた。そして、僕らの恐怖する様を満足するまで楽しんだのか、ついに獣へと命令を下した。
「ふっふっふっ。さあ! 我クドリャフカ=アナトリエヴナ=ストルガツカヤの名において命ず、盟約に従い眼前の敵を喰ら『ぽかっ☆』あいたっ!」

 とても軽い音がした。『ぽかっ☆』としか表現できないような、とても軽い音が。
 クドリャフカが召還した獣は、あろうことか目の前の彼女をぽかぽかとはたいていた。
『ぽかぽかぽかぽかっ☆』
「いたいたいたいたいのですっ!? こ、こらっ、やめ、やめるのですっ!」
 恐怖と死の化身だったはずの獣は、もう着ぐるみを被った大人気ないおとなにしか見えない。
 呆気に取られていた僕が朱鷺戸の存在を忘れていたことに気づき、慌ててそちらを見ると、彼女もまた口をあんぐりと開けて固まっていた。
「もーっ、お前はクビなのですっ!」
 ぷんすかと怒ったクドリャフカが手で払うと、巨大な魔物はかき消すようにいなくなり、魔方陣も消えてしまった。何ともいえない沈黙が夜の川原を吹きぬけた。
「……何だったのよ今のは」
 呟いた朱鷺戸への答えを僕は持っていなかった。唯一答えられる人物は、「ストレルカ!」と虚空に呼びかけ、灰色の狼犬を呼び寄せると、それに跨って背を向けた。
「ちょ、逃げるの? 待ちなさい!」
「きょ、今日はこのへんで勘弁してやるのですっ!」
 慌てた朱鷺戸の言葉に捨て台詞を残すと、狼犬を駆って走りだした。僕も朱鷺戸も追いかけたけれど、闇に紛れてすぐに見失ってしまった。朱鷺戸が悔しそうに舌打ちする。
「くそっ、逃げ足が速いわね」
 しかしキッと顔を上げると、クドリャフカの消えた闇に向かって、
「どこまで行っても逃げられないわよーっ! ぜーったいにあたしたちが捕まえてやるんだからーっ!!」
 宣戦布告した。その声は、深夜に近所迷惑を撒き散らしながら、闇の中に吸い込まれていった。
 そして、僕はそのことに大分遅れて気がついた。
「……たち?」
「そう、私とあなたであの小っちゃいのを捕まえるのよ! その名もリトル・バスターズ!」
「えぇーっ!?」
 金色の髪をなびかせて振り向いた彼女の笑顔は気合に満ち満ちていて、僕は選択肢などないことを思い知らされた。
「大丈夫、あたしについてきなさい!」

 こうして成り行き任せの奇妙なコンビは結成された。
 僕と朱鷺戸沙耶、そして彼女、クドリャフカ=アナトリエヴナ=ストルガツカヤとの、これが出会い《ファースト・コンタクト》だった。




♪ Little Busters! ―OP short ver.―

【歌詞省略】




  リトル バスターズ!
―――Little Busters!―――


[No.502] 2009/11/07(Sat) 16:44:04
設定資料 (No.502への返信 / 2階層) - ひみつ@遅刻 悪ノリにも程がある

直枝理樹:本作の主人公。ヘタレ。
クドリャフカ=アナトリエヴナ=ストルガツカヤ:本作のヒロイン。吸血鬼。えちぃけど結構ドジ。
朱鷺戸沙耶:本作のもう一人のヒロイン。クドリャフカの捕獲を命じられ、ロシア正教会から送り込まれた。直枝を巻き込んでリトルバスターズを結成する。
来ヶ谷唯湖:退魔師。街の異物であるクドリャフカを排除しようとする。
二木佳奈多:直枝理樹のクラスメイト。直枝にほのかな好意を抱いているが、素直になれない。
三枝葉留佳:佳奈多の身体を依代にしている死神。享楽的で直枝を惑わせる。
西園美魚:図書委員。病弱で、いつも日傘を手放せない。家は土地神を祀る神社で、その巫女でもある。
西園美鳥:美魚の妹。身体の弱い姉をいつも気遣っている。ややシスコン気味。
神北小毬:神出鬼没の女生徒。実は幽霊。
笹瀬川佐々美:理事長の孫で生徒会長。幼い頃直枝とある約束を交わしているが、直枝はそれを忘れている。
宮沢謙吾:剣道部部長で風紀委員長。自分にも他人にも厳しく、恐れられているが、実は猫が苦手。
井ノ原真人:他校に通う直枝の幼なじみ。ケンカっ早く乱暴者ではあるが親分肌。
棗恭介:謎多き転校生。クドリャフカのことを知っているようだが……?
棗鈴:恭介の妹。いつも恭介にくっついている謎の少女。物語の鍵を握る。


[No.503] 2009/11/07(Sat) 16:45:38
主題歌 (No.502への返信 / 2階層) - ひみつ@遅刻11087 byte


唯一《ヒトリ》が辛いから ふたつの手を繋いだ
両極《フタリ》じゃ寂しいから 輪になって手を繋いだ
きっとそれが幾千《イクセン》の 絆《チカラ》にもなり
どんな悪夢《ユメ》も断てる気がするんだ

高く飛べ 高く虚空《ソラ》へ 高く蹴れ 
高く喊声《コエ》を上げ
いつか挫けた その終焉《ヒ》の向こうまで
君の声忘れない 涙も忘れない
これから始まる 希望という名の未来を
その足は歩き出す やがて来る過酷も

僕ら皆同じ未来《ユメ》を見てた
過ぎ去る一ページの
ここからは一冊しか持っていけないよ
それでよかったのかい?


――胸ニハ強サヲ
       気高キ強サヲ――

――頬ニハ涙ヲ
       一滴ノ“ナミダ”ヲ――


高く飛べ 高く蒼空《ソラ》へ 高く蹴れ
高く歓声《コエ》を上げ
いつか挫けた その夢《ヒ》の向こうまで
君の声忘れない 涙も忘れない
これから始まる 希望という名の未来を

その足は歩き出す やがて来る過酷も
乗り越えてくれるよ 信じさせてくれるよ


註:最初は歌詞も完全オリジナルにしようかと思ったのですが、本家の歌詞を眺めていたら、ちょっと加工するだけで立派な厨二になるじゃん? と思い至りました。だーまえやるじゃん。


[No.511] 2009/11/08(Sun) 04:45:31
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