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   第45回リトバス草SS大会 - 大谷(主催代理) - 2009/11/20(Fri) 00:00:56 [No.515]
それぞれの行方 - ひみつ@26023byte - 2009/11/21(Sat) 17:28:50 [No.531]
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風に溶けるその日まで - ひみつ@5725 byte - 2009/11/20(Fri) 23:27:21 [No.521]
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冬の幻 - ひみつっすよ!@9629byte - 2009/11/20(Fri) 21:38:24 [No.519]
彼女たちの絆 - ひみつ4326 byte - 2009/11/20(Fri) 21:20:39 [No.518]



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第45回リトバス草SS大会 (親記事) - 大谷(主催代理)

 詳細はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/rule.html
 この記事に返信する形で作品を投稿してください。

 お題は「絆」です。

 締め切りは11月20日金曜24時。
 締め切り後の作品はMVP対象外となりますのでご注意を。

 感想会は11月21日土曜22時開始予定。
 会場はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/chat.html
 はじめにMVP投票(最大3作まで投票可能)を行いますので、是非是非みなさまご参加くださいませ。
 ご新規、読みオンリー、感想オンリー、投票オンリー、大歓迎でございます。


[No.515] 2009/11/20(Fri) 00:00:56
彼女たちの絆 (No.515への返信 / 1階層) - ひみつ4326 byte

 アパートへ帰ってきたらもうすっかり日が落ちたというのに、電気もつけず葉留佳さんがぼーっと座っていた。最近葉留佳さんの様子が少しおかしかったりする。いや、葉留佳さんだけじゃない、佳奈多さんも。三人の暮らしを始めてすぐのころはいつでも三人一緒にいたのに、今は二人とも出来るだけ分かれて行動しようとしているように思う。以前のような激しく争うようなそんな雰囲気はない。ただどこか一緒にいるのがつらくて避けているようなそんな雰囲気がある。男一人女二人の生活はやっぱりおかしいのだろうか。三人で行動することが多かったころ何度も僕らをいやらしいものでも見るかのような視線を感じたことある。正直僕だって他人がこんな生活をしていると聞けばあまりいいようには思わないだろう。それでもこれが僕らの選んだ暮らしだから絶対幸せでいたいと思う。
「ただいま」
「えっああっ!? お、おかえり理樹くん」
 僕の言葉に驚いたかのように葉留佳さんはラッピングされた小箱を後ろに隠した。プレゼントなんだろうか。佳奈多さんへのプレゼントだったらちゃんと言ってくれるだろうから多分僕に対するプレゼント。やっぱりどこか佳奈多さんに対して遠慮があったのだろうか。
「葉留佳さんその箱は」
「やだなあ、理樹くん箱なんてどこにもないじゃないですか」
 箱を後ろ手に隠したまま立ち上がり眼をきょろきょろさせながら一歩づつ後ろに下がっている。ひょっとしたらこのまま気づかないふりをしている方がいいのかもしれない。でも多分もうすでにほころびは始まっている。このまま放っておけばますますひどくなるだろう。だから覚悟をもって前へ進まないといけない。たとえそれが誰かにとってつらい結果を招くことになったとしても。
「ごめん」
 そう言って僕は葉留佳さんの腕をつかんだ。葉留佳さんは抵抗はしたけれど、男女の体力差があるのだからすぐに箱を手放してしまった。ポトリと落ちた箱を見てとうとう葉留佳さんは観念したかのような顔になった。
「……理樹くん私の話を聞いてくれますか」
 いつでもおちゃらけているようでそのくせ周りをうかがうような臆病な目をすることが多い葉留佳さんが、今はまっすぐに僕の方を向いている。僕は決してその眼からは逃げてはいけないんだ。
「悩んでた。お姉ちゃんと理樹くんは恋人になったのに私はそれを邪魔しているんじゃないかって。今の関係は不自然じゃないかって」
 落ちた箱を葉留佳さんが拾いそれを僕に差し出す。訴えかけるような眼に促されるように僕は包装紙をはがし箱を開ける。
「男の子とその人が好きな姉妹が一緒に暮らしているってやっぱりおかしいと思う。だから……」
「これは!?」
 水色と白の縞パンだった
「理樹くん、それをはいて女の子になって」
「いやいやいやいやいやいやいやいや」
 新記録になりそうなくらいいやいや言ってしまったじゃないか。なんでそこでそういう発想になるの。
「理樹くんが女の子になったらお姉ちゃんと恋人じゃなくなってしまう。そうしたらお姉ちゃんを傷つけることになってしまう。それでも私理樹くんたちと一緒にいたいの」
「ごめん突っ込みどころが多すぎてどこから突っ込めばいいのかわからないよ」
 僕の胸に頭を預け葉留佳さんは泣き出してしまった。そんな場面じゃないでしょこれ。
「ただい……ま!?」
 この最悪の状況下で佳奈多さんが帰ってきてしまった。女の子を泣かせそして僕の手は縞パンをつかんでいる。うん、どんな凄腕弁護士でも弁護不可能だな。
「一体これはどういうこと!」

 今までのことを佳奈多さんに話すと最初は鬼のような形相だった顔が徐々に緩んでくる。さすがにこんなあほな理由だと分かれば佳奈多さんもすぐに許してくれるだろう。
「あなたもだったの」
「も?」
 そう言って佳奈多さんは自分のタンスの中からさっき見たのと同じような包みを取り出した。開けたくない。絶対開けたら後悔する。けれどそんな無言の抵抗は佳奈多さん、そしてやや元気を取り戻した葉留佳さんには何の意味ももたないらしい。二人の強い瞳に促されて開けると、そこには水色と白の縞ブラがあった。
「ごめんなさい。直枝私はあなたのことが好き。その気持ちは嘘じゃない。でも私の一番は今でも葉留佳なの。ごめんなさい……ごめんなさい」
「それはいいんだけどそこで縞パンとか縞ブラが出る発想は無視できない」
「お姉ちゃん」
 泣きそうになった佳奈多さんを葉留佳さんが抱きしめる。
「お姉ちゃん、女の子の一番大事なところを守れないんじゃ理樹くんがかわいそうじゃない」
「……葉留佳こそ一番女性らしい部分のことを忘れていたじゃない」
「ははは、二人ともダメですネ」
「そうね、私たちは二人一緒で初めて一人前なのね」
「お姉ちゃん……」
「葉留佳……」
「いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや」
 あっさり記録更新しちゃったよ。これそんな感動的な場面じゃないでしょ。なんか無駄にきれいなBGMが流れているよ。誰だよBGM流しているの。
「というわけで理樹くん着替えましょう」
「安心して直枝。ちゃんとこれは男性用ブラでなく女性用ブラだから」
「何を安心するの!」
「「それじゃあ」」
「ああーっ!?」









 その夜の二人はかなりSでした。


[No.518] 2009/11/20(Fri) 21:20:39
冬の幻 (No.515への返信 / 1階層) - ひみつっすよ!@9629byte

「りき、これがゆきだるまだぞ」
 この街に雪が降ることはそう無い。気候や位置条件によってこの街は比較的温暖で、登下校にマフラーする生徒もあまり見ないぐらいだ。だから、雪が降るのは年に一度か二度、降らない年さえあった。だから僕と鈴はテレビなどで大雪が降っているのを見てははしゃいでいた。ただこの年は違った。地面には雪が降り積もり、ところどころに足跡が散布していた。大小様々な足跡があり、皆この稀に見る雪に心を躍らせているようだった。木に白のグラデーションが加わり、冬の到来を示しているかのようだった。
「りき、手がはえたぞ」
 枯れ木を雪だるまに刺して鈴は笑っている。幼いその手が必死で作った雪だるまだ。しかし鈴が雪だるまを作ることに慣れているはずもなく、真正面から見たらそれは横を向いているのか前を向いているのか分からないような顔をしている。福笑いの劣化版と言った方が正しいだろう。それでも鈴は笑みを絶えず浮かべながらはしゃぎ回っていた。手にはめた手袋にほんの少し雪がしがみ付いている。
「これってなにか真人みたいだよね」
「そうか?」
「ほら、こことか」
 雪だるまの腹の部分がくっきりと割れていた。顔に関してはまったくもって類似しないが。
「じゃあ、おまえは今日からゆきだるまさとだ」
 絶妙なネーミングセンスでゆきだるまさとが誕生した。そう名付けただけでなぜか誇らしげにこちらを見ているようで不思議な気分になった。鈴がその頭を優しく撫でる。せめて真人に似るようにと顔の配置を変えてみる。顔が丸かったからだろうか、スマイルくんに早変わりした。笑いながらこちらを見ているゆきだるまさと。気味が悪いので頭の部分に筋肉と書いてみた。うんゆきだるまさとだ。
「じゃあみんなのぶんも作ろうよ。まさとだけだとかわいそうだよ」
「なんだ? じゃあゆきだるきょうすけとゆきだるけんごとゆきだるりきをも作るのか?」
「ゆきだるりんもね」
「じゃあリトルバスターズけっせいだな。いや、ゆきだるバスターズだな!」
 近くにしゃがみ込んで雪玉を作り始める。喜々として雪を集めているその光景を眺める。頭上からはぽつりぽつりと雪粒が舞い落ちてきている。僕たちの頭にも当然降りかかってくるが、鈴は夢中になっていて気付かない。白い塊が大きさを増していく。
 行き交う人たちがこちらを黙視する。子供二人で何をやっているのか、と。実際雪を見て舞い上がってたのは僕たちだけだったのかもしれない。降雪している最中なりふり構わず外へ出てきてしまったので近くに保護者はいない。いるのは僕と鈴とゆきだるまさとだけだ。もうすぐゆきだるきょうすけも加わる。
「ほら、ゆきだるきょうすけだ。ここら辺にきょうすけぽさをだしてみた」
 誇らしげに胸を張る鈴。しかし悲しいことに、頭の上に枯葉が敷き詰めてあるだけだった。俗に言う河童だろう。
 突風が吹く。それは僕たちの暖かさを奪うと共にゆきだるきょうすけの髪の毛まで奪っていった。枯葉が空を舞う。巻き上げられた枯葉は近くの車道の上に落ちていった。車がくしゃりと踏む音がした。二人顔を見合せる。
「きょうすけのかみのけがなくなったね」
「ああ、そうだな」
 顔も何もな不格好な雪の塊。人はそれを雪だるまと呼ぶのだろうか。形すらままならないそれはどちらを向いているのか分からない。鈴がそれを指して言った。
「よし、いまからおまえはゆきだるけんごだ!」
 近くにあった棒きれをお腹に刺し込む。刺されている方が正面なのだろうか。鈴が顔を書き始める。やはりというかだった。せめてもの手向けに、髪の毛をつけようとする。しかしあの有頂天を突いているような髪型をどうすればいいか分からず、諦めた。
 公園の中心に座している桜の木から葉が落ちてくる。桜ならばとても味のある光景だっただろうが、何せ枯葉だった。悲しさが胸を通り抜けていく。
「こんどはゆきだる鈴を作ろう。ものすごく大きいやつ」
「でもあたしのことなんてあたしには分からないぞ」
「じゃあ鈴はぼくを作ってよ。ぼくならわかるでしょ?」
 頭を抱えて鈴が悩み始める。当の本人がいる前でそれは酷だと思った。しかしこういうぶっきらぼうな性格が鈴らしい。
「まぁわからないこともないこともない、こともない」
 結果的に否定された。けど本人は僕を作り始める準備をしていた。雪をかき集める。
 雪が積もったとはいえ、元来量はそう多くない。五人分の雪だるまを作るとなると、些か雪が足りなかった。仕方なく公園の端へ移動する。
「何してんだ、こんな寒いのに」
 公園の入り口から声がした。恭介だ。マフラーと手袋をつけている。その姿がこちらへと近づいてくる。
「見てわからないのか」
 鈴がゆきだるまさととゆきだるけんごを指して言った。
「これが何かさえわからない」
 恭介がゆきだるまさととゆきだるけんごを指して言った。
「まさととけんごだよ」
「なにっ、どこかの怪物にやられたのか!? こんなくずれた顔じゃかわいそうだぜ」
「かわいそう言うな、ぼけーー!」
 がしがしと恭介が蹴られる。この頃から鈴のキック力は群を抜いていた。鈴のかかと落としを恭介は紙一重で交わす。流石兄弟と言うべきか、息のあった漫才だった。僕は気にも留めずにゆきだる鈴を作る。そうして恭介と鈴が戯れていると、まるで片栗粉を手で握り潰したような音が聞こえてきた。振り返って見てみると、ゆきだるまさとが頭から粉砕されていた。筋肉の文字が跡形もなく消えて
いた。
「ま、まさと。大丈夫かっ。今助けてやるからなっ」
「あほか」
 淡々して恭介が真人を組み立て始める。鈴も率先して手伝いに入る。僕はその輪から外れて様子を一部始終観察していた。
 途中経過を見る限り、完璧だった。恭介の設計に寸分の狂いもなかった。下手をすればそのまま真人像が建てられるのではという領域まで達していた。ただ一つの誤算といえば、鈴だった。
「まさとはもっとお腹がわれてる」
 そう言って無理やりに真人の腹を引き裂こうとした結果、中心線を境に真人が真っ二つに割れた。マッスルポーズをとっていた真人は、虚しくも地面に這い蹲る結果となった。恭介が膝をつく。
「ま、まさと……お前はいいやつだった。お前のことは三年はわすれないぜ」
「かってにころすな」
 真人がぬっと現れた。謙吾を連れて。相変わらず謙吾は竹刀を片手に、仏頂面を決め込んでいる。真人と一緒に壊れた真人の残骸を目にする。若干苦い顔をしながらも応じる。
「なんだよこれはよう」
「残念だったなにせもの、今ここに真人は砕け散った。でも安心しろ真人。お前の敵は俺が果たしてやるからな。いくぞにせもの!」
 そう言い放ち、超至近距離で真人に雪玉を喰らわす。顔面に直撃した真人は眼を押さえながら転げまわっている。りふじんだぁぁぁぁあああ!と叫びながら。
「なんだ、こういう遊びなのか?」
 謙吾が握力を込めて作った雪玉を転げまわる真人に幾度となく浴びせる。泣きっ面に蜂、筋肉に弛緩剤と言ったところだった。以前の蜂騒動を思い出す。
 恭介は笑っていた。謙吾も、真人も、鈴も。
 その内に雪合戦をしようということになった。グーパーした結果、僕、恭介チームと謙吾、真人、鈴チームになった。向こうでは早速真人が鈴の足蹴にされていた。お前はあたしとけんごの台になれという会話が聞こえた気がする。気のせいか。こちらでも作戦を立てる。
「どうする恭介?」
「鈴と真人はともかくとして強敵は謙吾だな。とりあえず謙吾が出てきた時だけ隠れよう。鈴と真人を先にダウンさせるぞ」
「うん分かった」
 壁を隔たった戦場、木の葉が息をひそめたように張りつめ、乾いたラップ音が響散する。既に用意された雪玉を片手に僕たちは息を潜め唾を鳴らす。
「ミッションスタート!」
 恭介の掛け声とともに火蓋が切って落とされる。向こうは予想通り真人が台となって斜角によるアドバンテージを利用した戦法をとった。雪玉が切れることなく降り注ぐのは、真人が下で地道に雪玉を作っているからだろう。
「うりゃうりゃうりゃー」
 考えなしに鈴が投げる。予想以上に激しい攻防戦が繰り広げられるかと思ったが、そうでもなかった。理由は、球切れだ。いくらかき集めたとしてもそこまでの雪量がない。謙吾は真人を竹刀で叩いていた。
「よし今だ!」
 壁を飛び出して恭介が言う。向こうもそれなりに応戦してくが、何しろ薄かった。するすると戦場を切り抜け、壁の向こう側へ行く。そうして三人に雪玉をぶち当ててこう言う。
「俺の勝ちだな」
 悔しがる真人、それを見て竹刀で叩く謙吾、踵落としを決め込む鈴。本当にみんな仲が良かった。笑えるくらいに。
「…もう雪が降ることはないかもな」
 恭介がぼそっと呟いた。恭介の両親が言っていたがこんな雪は生まれて初めてだったという。そこまでこの街は温暖なのだ。
「またゆきがふったらこうやって遊びたいね」
「まさとをチームに入れるのだけはいやだ」
「りんに同じだ」
「なんだ、お前のあたまのなかはこのゆきみたいにまっしろで楽しそうですね、わたしもそんな気楽にいきたかったですとでもいいたげだなぁ、あぁ!?」
 雪が降り止む。そしてそれはこの街の冬の終わりを表していた。

 雪が降ってきた。僕にとって三度目の雪。今年は特に冷え込むらしく、はらはらと粉雪が舞っていた。地面に降り積もり、白の世界を醸し出している。僕はその光景をただ眺めていた。鈴と一緒に炬燵に入りながら。
 そうしていると、フラッシュバックしたかのように頭の中に光景が浮かんだ。僕にとっての初雪。懐かしむ暇すら惜しく、僕は声に出していた。
「雪だるまでも作りに行かない? せっかく降ってるんだし」
「寒い。炬燵の中にいた方があったかい」
 もぞもぞと動いてやがて動かなくなる。寝ぼけているせいもあるのか、薄目を開けている。やがて静かに寝入ってしまった。すーすーと寝息を立てている。
「しょうがないなぁ」
 炬燵の電力を小さくしてから、防寒着に着替える。マフラーと手袋をつけ、普段着の上にコートを羽織る。何も持たずにすぐさま公園に駆けていった。
 足跡があちこちに残っている。大小様々な靴跡。皆が皆浮かれているのだろうか。はたまた浮かれているのは僕だけなのだろうか。思いが逡巡する。僕の足跡はいつの間にか大きくなっていた。
 公園に一人佇む。今もその中心に座している木は、すでに枯れていて枯葉すらつけていなかった。隅では子供が雪で遊んでいる。意気揚々と駆け出してきたはいいものの、一人で雪だるまをいざ作るとなるとそれはそれで恥ずかしい。しばらく子供が出終わるのを待っていた。
「できた!」
 そう声がした。見るとそこにはまだ未完成の雪だるまが建てられていた。だが本人にとってはもう満足なのだろう。誰に見せるともなく胸を張っていた。遠くでお母さんの呼ぶ声がし、子供はそちらへ駆けていった。
 不格好なその雪だるまに近づく。手と足すら出ていない雪だるまは、例えるなら巨大なアイスクリームだろうか。しゃがみ込んでそれを弄る。
「理樹、何してるんだ?」
 そう声をかけてきたのは鈴だった。スカート姿に着替えている。ちりん、と音を立てて僕の隣に座る。
「見て分からない?」
「わからんな、さっぱりもっさり分からん」
 頭を捻り出す始末だった。腕を組んでうーんと唸っている。
「これはゆきだるきょうすけだよ」
 枯葉が手元に見つからず、仕方なく枯れ枝で補修する。いくつか真っ直ぐに垂らしてみると、気持ち悪くなった。
「なんだ、馬鹿兄貴だったのか。なら謙吾と真人も作ってやらないとな。可哀想だ」
「うん、そう、だね」
 言葉を交わさなくても、通じるものがある。僕たちの雪だるまは、過去と未来、そして現在を繋ぐ「絆」。


[No.519] 2009/11/20(Fri) 21:38:24
成層圏を突き抜けて。 (No.515への返信 / 1階層) - ひみっつ@2043 byte



 給水塔に腰掛けて、良く晴れた空を見上げる。丸くなりきれない月に白くくり抜かれた空の青。
 西園美魚は、屋上にいた。

 がたついた金具を軋ませてドアが開く。美魚は空を見上げている。

 少しして、ひと筋の煙が空に白をにじませた。美魚は煙を辿って見下ろした。
 屋上を取り囲むフェンス。錆びてペンキの剥げた柵。ごんごんと音を立てて回る旧い室外機にもたれて煙草をふかしている女と目が合った。
「……あら」
 美魚からはそれだけ。会釈をして、また空を見上げる。

「いや、いやいやいや」
 美魚が空を見ていると、下の方で女の声がした。
「え、何、リアクションそんだけ?」
 国道から離れているせいか、車の音は気にならない。隣の屋上に植えられた木が風に揺れた。

「や、あのぅ……同じ制服だし、うちの社員だよね?」
「ええ、フロアは違いますが」
「……聞こえてたんなら返事くらいしろって」
 声のほうを見下ろすと、煙草をふかしていた女はもう煙草をふかしていない女になっていた。

 美魚は肩にかけていたフリースの前をかき寄せる。いくら晴れていても、いや晴れているからこそ空気が冷たい。
「……ああ、なるほど。リアクションをしろと」
「いや、うん、なんかごめん」
 煙草をふかしていない女は新しい煙草をくわえた。美魚は空を見上げる。

 風が少し強く吹いた。目の前で踊る髪はそのままに、暴れそうになる柄を握りなおす。
「ねえ、何で差してんの、傘。晴れてんのにさ」
 女の声がした。建物にぶつかって本来の向きを見失った風が、屋上で迷う。
「アンテナです」
 西園美魚は日傘を差している。

 空を見上げ、美魚は呼びかける。
「べんとらー、べんとらー」
「あー、何だっけ。どっかで聞いたことあるわ」
 空き缶が跳ねる音がした。下を見ると、煙草をくわえた女が美魚を見上げていた。
「UFOを呼ぶ呪文だそうですよ」
「うそ、マジ?」
「嘘です」
「あ、そう……」
 空を見上げる。小さな雲が千切れていた。
「いい天気ですから、電波が遠くまでよく届くんじゃないかと」
「そりゃ嫌な話だね……」

「戻るわ。寒いし」
 重い音を立ててドアが閉まった。美魚は空を見ている。
「びびびびびび……」
 アンテナをくるくると回しながら、青の向こうへ電波を送っている。

 美魚は新聞を取っていない。だから朝のニュースは欠かさず観ていた。
 見上げた空へ呟く。
「きこえますか? 能美さん――」
 今朝のニュースも見ていた。


[No.520] 2009/11/20(Fri) 21:39:22
風に溶けるその日まで (No.515への返信 / 1階層) - ひみつ@5725 byte

 今日は朝から野球日和。
 そんなわけで、一日中野球としゃれこんでみた。
「も、もう一歩も動けねぇ……」
「ふっ。情けない男だ……一歩など造作もないこと……」
「なにぃ? ならオレは……二歩だ!」
「俺なら三歩は……余裕だ」
「実は五歩いけるぜっ」
「……なら俺はその二倍動ける」
『そぉい、ぐはぁっ!?』
 ふたりで張り合ったあげく、ふたりそろって仲良く倒れた。
「ほんとにばかだな」
「ふたりの友情をひとことで否定しないでよ……」
「ばかだから、ばかっていっただけだ……つかれてるなら、おとなしくしてればいい」
「まああのふたりはなんだかんだいって体力あるからね。鈴は疲れてないの?」
「……よゆー、だ」
「はいはい。とりあえず汗ふこうね?」
 僕はポケットからハンカチを取りだして、鈴の顔に押しあてた。
 「うにゅー」とかいいながらいやいやしていたが、やがてあきらめたのかされるがままになる。
 あるていどふき取って、「終わったよ」と声をかける。鈴は一度だけぷるりと顔を振って、「ありがと」と消え入りそうな声で言った。
 麻痺したように動かしづらい手足を総動員して、グラウンドの大木へと向かう。
 幹に背中をあてると、自然に腰が下りていった。そのままへたりこむように座った。
 木陰に吹く風が、体にこもった熱をやさしく運んでいく。
 ぼーっと木漏れ日を眺めていると、隣に鈴が来た。僕と同じように幹に背中を預けて、地べたに座る。
 なにを話すわけでもなく、ときおり吹く風に身を任せる。
 隣から「くぁ……」という声が聞こえる。首を横に向けると、目をこすっている鈴。
「ねむいの?」
「うみゅぅ……」
「じゃあ部屋まで送って……鈴?」
 とん、と肩にやわらかな感触。そのままずるずると僕の体を滑り落ちていって、ぽすん、と膝におさまった。
「鈴?」
「…………すー」
「いやいやいや起きてよ! こんなところで寝たら風邪引くから!」
「まくらがしゃべるな」
「いつから僕は鈴のまくらになったのさ……」
 力なくツッコミをいれるけど、安心しきった寝顔を見て、もうなにも言えなくなった。
「理ぃ樹ぃ……」
「真人ってうわぁ!? ここまで這ってきたの!? 泥だらけだよ!」
「大丈夫だ……オレには鋼の筋肉があるからな」
「その筋肉の影響がない制服がドロドロだよっ。そもそもその筋肉にも泥がついてるじゃないかっ」
「まあ気にすんなって。どうせ制服洗うのは理樹なんだからよぅ」
「いやいやいや、さも当然のように自分の仕事を押しつけないでよ……」
 真人は泥だらけになるのもかまわず、這って木陰までたどり着くと、あお向けに寝そべった。
 汗まみれだった顔は泥まみれになっていた。
「……悪ぃな。つき合わせちまって」
「ううん。疲れたけど、野球は楽しいから。……野球だけじゃなくて、みんなと遊ぶのは好きだよ」
「そっか」
「そうだよ」
「……ありがとよ」
 真人はごろりと横を向いて、「疲れた。寝る」と言って、腕をまくらにしておとなしくなった。
「……くっ」
 いつのまにか木陰の中に謙吾がいた。両膝と右手をつき、うつむいていた。
「謙吾? どうしたの、大丈夫?」
「この俺が……二着とは……」
「あ、どっちが先に着くか勝負してたんだ」
「ああ。やつは姑息にも『あれ、おまえの筋肉どこに行ったんだ?』と言ってきてな……」
「真人じゃないんだから、そんなのに引っかからないでよ……」
 謙吾は小刻みに震えている。あごから滴り落ちたしずくが、地面を水玉に染めた。
「そこまで必死にならなくていいのに……」
「必死になるさ、お前たちと遊ぶのは楽しいからな。……ずっと、剣に生きてきた。もしも今日まで剣道を続けていたら、こんなにも楽しくなかったはずだ」
「剣道は嫌い?」
「好きだ……だが、リトルバスターズはもっともっと好きだ。愛しているといっても過言ではない」
「愛って……」
「リトルバスターズは、俺にとって愛だ。愛そのものだ……! だから、もっと、ずっと」
 遊んでいたい、と。こぼれた言葉はグラウンドに吸いこまれていった。
 真人に続いて、謙吾も寝てしまった。
 風が吹く。遠い雲は微動だにしない。音はない。
 まるで、世界に僕ひとりだけ取り残されてしまったみたいだ。もちろん錯覚だけど。だって僕には、リトルバスターズのみんながいるから。
「理樹……」
 グラウンドの中央、遠く離れたそこには僕らのリーダーが立ちつくしていた。
 目をつぶって、目を開く。手を伸ばせば届く距離に、恭介はいた。僕は木陰に、恭介はグラウンドの真ん中に、変わらずいる。だけど、距離は近かった。
「……すまない……」
「いやいやいや。たしかに一日中っていうのは無茶だなーとは言ったけど、楽しかったよ」
「違う! そのことじゃない、そのことじゃないんだ……! 俺は、すまない……すまない……俺は、おまえを、おまえたちを……」
「恭介?」
「おまえたちを、強くすることができなかった!!」
 ――風が止む。雲は動かない。太陽は動かない。校舎には誰もいない。猫もいない。みんないない。
 空は張りぼてのような青。
 恭介は両手で顔を覆って、まるで舌を噛み切るかのような口調で続ける。
「俺は、おまえたちを、強くすることが、できなかった。……おまえたちを、まもることが、できなかった。……おまえたちを、幸せに、できなかった……」
「…………」
「どんな手段も使ってきた……真人の、謙吾の、鈴のトラウマすら利用して……なのに、その結果がこれだ!! こんな結末、誰も望んでいなかった! 誰ひとりもだ!」
「恭介、僕は……」
 恭介の膝から力が抜ける。重力にひかれるように、倒れこむ。「すまない……すまない……」とうわ言のように繰り返していたが、やがてなにも聞こえなくなった。
 起きているのは僕ひとりになった。
 空が剥がれた。校舎が、校庭が、木が、さらさらと砂のように崩れていく。そうして白に染まっていく。
 空が消えた。校舎が消えた。校庭が消えた。木が消えた。最後まで残っていた校門が、消えた。
 瞬きひとつのあと、白い世界は黒く染まった。体に圧迫感。
 上を見る。真人が、僕を守るように覆い被さっていた。
 横を見る。鈴が、僕と同じように謙吾に守られていた。
 周りを見る。車内には人形のように放り出された、クラスメイトたち。
 遠くを見る。恭介が倒れていた。ひとりだけぽつんと、投げ出されていた。
 僕は真人の体から這い出して、恭介のところに向かう。立ち上がる。がくんと膝が曲がる。めまいがする。頭の奥が重くなる。持病の兆候。ナルコレプシー。
 ダメだ。僕は這う。行かなきゃ。足をたわめて、伸ばす。恭介のところに。落ちそうな意識。ひとりにしない。唇を噛み切る。抗う。
 届く。届かせる。届いた。
 つかんだ。手。恭介の。大丈夫。離さない。
 僕たちは。リトルバスターズ。
 ずっと一緒。
 この体が。
 朽ち果てて。



   風に溶けるその日まで



 轟音。熱。暗転。


[No.521] 2009/11/20(Fri) 23:27:21
双子姉妹、増し増しで 〜エロシチュー編〜 (No.515への返信 / 1階層) - ひみつ@7093 byte

「うわーん! そんなこと言うなんて……理樹くんのバカー! 家出してやるー!!」
 夏の名残の暖かさが、一瞬で寒さに代わった。そんな晩秋。
 1Kユニットバスつきの玄関がすぱーんと開き、がたーんと落ちた。ゆっくり開け閉めしないと蝶番が取れるのである。
 それを気にも止めず泣きダッシュで去る葉留佳。
 それを気にも止めずあぐらで憤慨する理樹。
 それが、昼まで寝ていた佳奈多が見た光景だった。
 とりあえず理樹をぶった。



   双子姉妹、増し増しで 〜エロシチュー編〜



「で、どうしてこうなったの?」
「葉留佳さんに聞いてよっ」
 とりあえず理樹をぶった。
「どうしてこうなったの?」
「……ケンカしたんだ」
「そんなの見ればわかるわよ。どうしてケンカになったの?」
「葉留佳さんが僕に……」
 理樹は口を開きかけたところで、その時のことを思い出したのかくやしそうに唇を噛みしめた。
 理樹がここまで怒りをあらわにするのはめずらしい。これはよっぽどのイタズラでも受けたらしい。
 佳奈多はため息をついた。妹の悪癖に。
「僕に、『直エロ理樹』って言ったんだ!!」
 佳奈多はため息をついた。理樹の小ささに。
 佳奈多はすでにこのあとのバイトのことに頭を切り替えていた。
 そんなことに気づかずに、理樹はだんだんとヒートアップしていく。
「なんだよ『直エロ』って! なんで名字でエロを宣言しなきゃいけないのさ! それに加えて『ロ理樹』だよ!? 僕がロリ好きに見えるのか、それとも僕自身がロリに見えるのかっ。どちらにしても腹立つ! まったく、たまたま着替えの場面に出くわしちゃっただけなのに……」
 佳奈多は理樹の真っ正面に座ると、理樹の頬を包みこむように両手を添えた。
「また着替えを覗いたの?」
「あ」
 さっ、と顔をそらす理樹。しかしぐりん、と引き戻される。やさしく添えられていたはずの佳奈多の手は、いつのまにか頬をわしづかんでいた。
「ねえ、これで着替えを覗いたのは何回目? トイレに入ってるときに無断でドアを開けたのは何回目? 水をぶちまけて濡れ濡れの透け透けにしたのは何回目? 急にナルコレプシって胸やお尻やふとももにつっこんできたのは何回目? ほら、答えてごらんなさいよ。ほら、答えてごらんなさいよ。ほら、答えてごらんなさいよ直エロ」
「すいませんでした」
 拘束から逃れた理樹はすぐさまジャンピング土下座を決めた。それでも許されなかったので開脚前転土下座から反復横跳び土下座のコンボを決めた。
「下の人の迷惑になるからやめなさい」
 ずっとびたーんびたーんびたーんしていた理樹は正座にフェイズシフト。
「それで、あの子にはなんて言ったの?」
「『ごくつぶし』」
「死ねばいいのに。直枝とか死ねばいいのに。氏ねじゃなくて死ね。二回死んで二回生き返るといいわ」
「あ、最終的には生きてていいんだ」
「ええ。最終的には生爪生皮はいで塩漬けにしてあげるわ」
「いっそ殺して!?」
「嫌なら葉留佳を探して誠心誠意謝ってさっさと連れて帰ってきなさい。タイムリミットは私がバイトから帰ってくるまで。いいわね?」
「了解! 直枝理樹、行きまーす」
 そんなわけで理樹は、寒空のした葉留佳を探して三千里なのであった。
 ………………。
 …………。
 ……。
「お帰りなさいませ、ご主人さま……って直枝?」
 理樹はみなぎった。
「どうしたのよ。汗だくでハァハァしないでよ気持ちが悪い」
「僕、走った、町中、葉留佳さん、見つからない」
「それでどうして私のところに来るのよ? ……そうね、海の方は探した?」
「え? 寒いじゃん」
「いいから行きなさい」
「イエス、サー!」
「私は女よ」
「イエス、マム!」
「いってらっしゃいませ、ご主人さま」
 理樹は超みなぎった。
 コートのなかはみなぎった熱が充満していた。
 海まで走った。
 せっかくのみなぎりを冷ますかのように風がびゅうびゅうと吹いている。海風だ。寒い。氏ぬ。
 はたしてそこには葉留佳がいた。縦横無尽にジッパーがついている水色パーカーを羽織り、デニム生地のハーフパンツから伸びた足は白黒のボーダーニーソックスに包まれている。
 部屋着のまま飛びだしたせいか、震えながら海にむかって三角座りしている。
「葉留佳さーん! 僕だ! 結婚し、じゃない許してくださーい!」
 前方倒立回転跳び土下座→ロンダート土下座→キャッと空中三回転土下座。
 コレを見て許さない人はいないだろうと言わんばかりのコンビネーションだった。
「ん? 理樹くんどったの? そんなところにうずくまって??」
 見ていれば、だが。
 理樹は葉留佳の背中にむかって土下座していた。超意味無い。
「あ、ちょうどいいところに! ねーねー理樹くん見て見てー」
「ヒトデ?」
「ヒトデー」
「ヒトでっていう」
「こーやって木の棒でつっつくと……ほら、ぐにゅりってなりましたヨ?」
 波が届かない浜辺の一角。海から取り残された水溜まりにヒトデがいた。
 葉留佳は延々これで遊んでいたらしい。
「っていうか、こんな時期にヒトデっているんだ」
「んー、わかんないデスよ? もしかしたらヒトデっぽいなにかかも……はっ!? ということはまさかはるちんは歴史の目撃者になってしまったのかー!?」
「ヒトデで歴史は動かないと思うよ……」
「そんなのやってみなきゃわからなっくしょーい!!」
 盛大なくしゃみがヒトデを直撃。
 理樹は着ていたトレンチコートを脱いで、葉留佳の肩にかけた。
「あったかい……」
「僕の(みなぎった)熱が残ってるからね。ほら、帰ろう?」
「ほーい」
 ヒトデにばいばい、と手を振って、葉留佳は立ち上がった。
 そしてふたりそろって家路をたどった。
「……あれ? はるちんなにか忘れてる気がしますヨ?」
「今日の晩ご飯のメニューじゃない?」
「あっ!! 今日私の当番だった! 理樹くん、なにか希望ある? 簡単に作れるやつで」
 ………………。
 …………。
 ……。
「葉留佳さんなら今僕の横でシチュー作ってるよ……うん。じゃあね」
 ぴっ。
「誰? かなた?」
「あと五分くらいで着くって」
「じゃあ最後の仕上げといきましょうかネ」
 理樹は深目のお皿を三枚だすと、そこにご飯をよそった。
 なんと二木・三枝家ではシチューにご飯派だったのだ! パン派の理樹はビビッた!
 しかし、半年ほどの共同生活を経て、理樹はふたりの色に染まってしまったのだった。
「アイエボラ〜アイエボリ〜」
「なにそれ」
「料理がおいしくなるおまじないですヨ? アイエボル〜アイエボレ〜」
「葉留佳さんって色んなおまじない持ってるよね」
「――ずぎげぼぶぶぶばぁ」
「いまなにか出たよ。ぜったいなにか出たよー?」
「ほいっと完成! あ、かなた帰ってきたっぽい! よそってよそって!」
 閉じた(佳奈多が直した)ドアの向こうから、階段を上る音が聞こえてくる。そして。
「ただいま。はい、おみやげ」
「お帰りかなたおみやげなにー? ……塩?」
「直枝漬け用の……いえ、なんでもないわ」
「二木さん本気だった!?」
 佳奈多は赤いマフラーと紺のダッフルコートを脱いで、コートかけにふたつまとめてつるす。
 白いタートルネックの上からベージュのジャケットを着て、下は同色の膝丈スカート。そこから黒のストッキングが伸びている。
「かなた早く、はるちん特製シチューがチンザマシマシておられるのだぞばばーん!」
「外から帰ったら手洗いうがい。常識よ」
 佳奈多はキッチンの蛇口をひねると、冷たさに身をすくめながら手洗いうがい。良い子だ。
「あれれー? うーん……」
「どうかしたの葉留佳さん」
「理樹くん、『チンザマシマシ』って、なにが増し増しになるんですかネ?」
「……さあ」
「チン……チン……チンギスハーン? 違うなぁ……ちん、珍、チン、チーン?」
「そんなにチンを連発しないでよ」
「え? ……あ゛っ!? うわぁぁぁ! うわぁぁぁ!!」
 恥ずかしさをごまかすように、葉留佳はフードをすっぽりかぶる。そしてフード脇のひもをぎゅっと引っ張って閉じこもった。てるてる坊主の口から、しっぽのようにでろりと髪が生えていた。
「なにしてるの葉留佳?」
「理樹くんに辱められた! 乙女になに言わせるのさ直エロ理樹くん!」
「ちょっと表に出ようか、ごくつぶし」
「うわぁぁぁぁお゛ね゛え゛ち゛ゃ゛ん゛ー!!」
「死ねばいいのに。直枝とか死ねばいいのに。なんで生きてるのかしら。なんで息してるのかしら。酸素がもったいないわ死ねばいいのに」
 姉妹の絆を前に、理樹はずたぼろになった。
 このシチューやけにしょっぱいなぁ、と滲む夕日を見て思った


[No.522] 2009/11/20(Fri) 23:31:29
Exit (No.515への返信 / 1階層) - 9266 byteの秘密

 人生に何を望む?
 いい大学、いい会社、高収入。
 可愛い彼女、多くの友人。敵は作らない。
 楽しく遊び、仕事に支障はきたさず。
 いい靴、いい時計、ブランド物のスーツ。
 週三日のジム通い。
 都心のマンション、高級家具。
 だけど、マイホームは都心から離れて広いものを。
 子供にはピアノやゴルフを習わせて。
 定年後は、妻と二人でゆっくり生きて。
 最期はベッドの中で、家族に見守られて。
 豚のように死んでゆけ。

 放課後の教室。僕はいつものように友達と談笑を交わしながら、帰る支度を整える。部活に出かける彼らを見送った後、一人で帰ろうとしたところ、見知った顔に出くわした。
「今から部活? 笹瀬川さん」
「直枝理樹……」
「ん? どうしたの?」
 笹瀬川さんは呆れたようにため息をつく。
「あなたは、まるで初めからこのクラスに居たかのようですわね」
「そう、かな?」
「ええ、本当に屈託が無くて。まるであの事が無かったかのように見えますわ。あんなこと……みなさん亡くなってしまったのに」
「だから?」
 笹瀬川さんが一瞬たじろぐ。だけどすぐに挑発的な視線を僕に向ける。
「普通は、もっと悲しむものではなくて?」
 僕はつい鼻で笑ってしまう。
「悲しめば、みんな生き返るとでもいうの?」
「そんなわけないでしょう! だけど、みなさんあなたの大切なお友達だったでしょう? だったら……」
 悲しむべきだ、か。何度目だろうか、同じ台詞を言われたのは。
 僕は笹瀬川さんの横をすり抜けると、そのままその場を立ち去ろうとする。
「お待ちなさい! まだ話が――」
「部活、始まってるよ」
 僕は窓の下を指差す。グラウンドでは女子ソフト部が何人か準備を行っていた。
 笹瀬川さんは悔しそうに舌打ちすると、早足で僕を追い抜いていく。
 一人取り残された僕は、口の端を嫌らしく上に寄せる。勝手にやってて下さい。
 もう秋も終わり。ホームルームが終わったばかりだというのに、すでに日は落ちかけて、辺りを赤のようなオレンジ色のようなそんな不可思議な色に染め上げる。
 僕は再びグラウンドに視線を移す。そういえば、もう何ヶ月グラウンドに出ていないのだろう。もちろん体育のときにはグラウンドに出るけれど、あんな風に夕方のグラウンドに立つことは無くなった。これからも、ずっと。
 みんなと過ごした、あの永い時間を思い出す。オレンジに染まったグラウンドが目に眩しい。真っ暗になるまで走り回ったっけ。みんなの笑い声が耳に残る。帰り際にみんなでおしゃべりした野球部部室の光景がありありと浮かんでくる。その穏やかな空気が心を揺さぶる。あの部屋にはまだみんなの居た痕跡が、あの空気が、きっと残っているのだろう。 幸せだった。本当に幸せだった。甘くて優しくて。
 そしてみんな、弱かった。
 僕と同じ境遇だったから、僕にはそのことがとても嬉しかったのに。結局は僕を失望させるだけだった人がいた。
 例えばクド。TVでクドの母親が死んだことを知ったとき、僕の口元は綻んでいた。僕は、僕の気持ちを理解できる人が欲しかったのだ。それにぴったりだったのが彼女だったわけだ。
 彼女の場合、もとより母親とは離れて暮らしていて、自分の身元引受人としておじいさんがいる。最早この世に血縁者など存在しない僕に比べれば、恵まれた境遇。はっきり言って、クドの母親の死はクドの生活に何も影響しないのだ。僕よりも、「僕」になれる可能性があったのだ。
 なのに、彼女が抱いた感情は後悔と自責。彼女に咎が無いことなんて本人だって気付いているはずなのに。彼女は母親の死を悲しんでなどいない。母親を亡くした自分が可哀そうで泣いているのだ。悲劇のヒロインという立場に酔っているだけ。何て傲慢な人間なのだろう。
 強い人もいた。
 謙吾や真人。恭介が度を越えたことをしようとすれば謙吾がたしなめ、真人は自分が被害を被ることを選んでいた。やり方は違えど、僕や鈴に対する思いやりであることに違いは無かった。
 彼らは強い人間だった。
 でも、優しすぎた。その優しさが結局自分の首を絞めてしまった。僕達なんて見捨てるべきだったんだ。あんなに酷い事故なんだ、そうしたって誰も責めたりなんてしないのに。他人を護ろうとした、それで命を落とすことになった。本当に馬鹿だ、本当に。
 ふと、僕はつぶやいた。
「恭介、か」
 僕の人生の中で、最も色濃くその存在を残していた人間。そして、僕の人生に存在してはいけなかった人間。
 廊下を染め上げたオレンジ色が、あのときの記憶を思い出させる。

 ――僕の目の前には恭介が横たわっていた。横転したバスのガソリンタンクに寄り添うように恭介が居た。胸には深々とガラス片が突き刺さって。息も絶え絶えに、みんなを守っていた。
 ざまあないね。恭介。
 僕は恭介の顔を踏みつける。靴の泥を恭介の肌で拭い取るように、執拗に靴底を押し付け、踏みにじる。
 昔むかし、十年くらい前からかな、いつも僕の傍に居てくれた恭介。ずっと、僕は恭介にこうしてやりたかった。
「りきー! どこにいるんだー!」
 遠くで鈴の声が聞こえる。僕は自分の顔が笑っていないことを手で確認すると、大声で鈴に返事する。
「鈴! ちょっと来てよ!」
「りき! そっちか!」
 鈴は恭介を見ると声を失った。我を失ったように恭介の下へと駆け寄る。
「こいつ、何でここに!」
 鈴は恭介の手当てをしようとする。鈴、頑張って。もう少し、もう少しだから。
 鈴に気付かれないように、僕は足音と気配を消して二人の下から離れる。じりじりと。静かに。鈴は恭介に夢中で僕にはまだ気付いていない。ゆっくりとゆっくりと歩く。しかし急がなくてはならない。僕はまだ、死にたくはないからさ。鈴たちからは結構離れた。それを確認した僕は、後ずさりするのを止め、後ろを向いた。だんだんと僕の歩幅は大きくなる。足音も気にせず走り出す。走れ。走れ。走れ。
 と、バスがあった場所から轟音。その音は衝撃波となって僕の全身を揺さぶる。続いてやってきた爆風に押されて宙に浮く。まるで帆船になったように。吹き飛ばされながら、首筋が熱でじりじりと焼かれるのを感じる。
 地面に叩きつけられた僕はしばらく呼吸することも出来ず、周りの景色も音も何も感じることが出来なかった。真っ黒な世界が僕を支配する。
 やがて、周りの音が聞こえ始め、梅雨の空気とは異なった熱気をその肌に感じられるようになった。ゆっくりと立ち上がり後ろを振り返る。もうもうと黒い煙が空へと舞い上がる。バスだったものは真っ赤な真っ赤な炎に包まれていた。
 僕は、服についた土ぼこりを手で払うと、もう一度巨大な炎を見つめる。さっきの爆発だ、きっとみんな即死に違いない。僕は深呼吸をした。匂いといえばガソリンのむっとする臭いだけ。人の焼ける臭いはしなかった。肺の中いっぱいに空気を溜めると一気に吐き出す。笑い声と共に。
「あは、あはは、あはははは、アッハッハハハハハハ!」
 燃え盛る炎の音に紛れて、僕の笑い声が森に響き渡る。ここは山深い崖の下。僕の声を聞くのは生い茂る木々だけ。胸のつかえが取れたような爽快感。僕は炎の熱に浮かされて、一人で笑い続けた。
 笑いながら、僕は思う。
 ねえ、恭介。僕たちは強くなれたかな?
 あの時、恭介が言った言葉。僕たちは弱い。僕たちが強く生きていけるようにみんなであの世界を造った。
 ああ、何て傲慢なのか。鈴を弱くしたのは、他でもない恭介自身なのに。
 恭介は気付いていなかった。自分の正しさや優しさが、僕たちにとっての正しさや優しさとは限らないことを。僕たちにとって手枷足枷になっていたことを。
 恭介はいつも僕たちを引っ張ってくれた。守ってくれた。閉じ込めてくれた。
 ねえ、恭介。その手で守りたかったのは、本当に僕たちなのかな?
 やがて、心臓の鼓動が落ち着いてくる。僕の背筋に冷や水が注がれたように、急速に熱が冷めていくのがわかる。
「ふうっ」
 喉が渇いた。近くに自販機でもと思ったが、どうやって崖を上がっていくというのだ。荷物は全部燃えてしまったし。そういえば、鈴が携帯で警察に連絡していたことを思い出す。しばらく待っていれば、救助隊か何かがやってくるだろう。それまでの我慢だ。
 僕は近くにあった手ごろな大きさの石に腰を下ろす。バスが燃えていた。さっきの爆発で骨組みだけになったバス。それが炎を纏って未だに燃え続けていた。この炎が彼らを白く小さな骨にしていくのか。視界にノイズが走る。骨壷の映像が幻灯機に映されたかのように浮かんでは消えた。

 僕はずっと以前、父さんと母さんを喪った時に悟ったんだ。ずっとずっと、楽しい日々が続いていたから忘れていた。そう、忘れていただけなんだ。
 僕は知っているんだ。父さんと母さんがどうして死んだのかを。
 それはとても簡単なことだった。ただ、父さんが事業に失敗して、借りていたお金を返すことができなっただけ。父さんは、知り合いやら友人やら頼れそうなヒト全員に土下座をしてまわって、お金の無心をしていた。けれども、誰も既に火の車になった父さんを助けてくれるヒトは現れなかった。
 そして、どうしようも無くなって、首を括るかホームレスになるかという状況になった挙句、僕だけでも助けるため、父さんと母さんは事故に見せかけて自殺したんだ。
 どこか事務的で冷たい後見人からその話を聞かされたとき、妙に納得した自分がいた。あの日の前日、二人だけで出かけると言った母さんに、僕は泣いて縋り付いた。ただただ、夫婦二人だけで遊びに行くといった母さんが許せなくて、無邪気に泣いたんだ。すると、母さんは僕をしっかりと抱きしめた。痛いと思えるくらいの強い力で。あのとき、母さんは震えていた。声を殺して泣いていたんだ。
 後見人はこうも言った。僕が生きていられるのは、父さん達が死んだからだと。僕の生は、二人の死で出来ているんだと。
 僕は二人分の骨壷を前に、気付いてしまったんだ。
 世の中には、強者と弱者しかいない。強者は世の中の幸福を享受することができ、弱者は地べたを這いずり回る。そして、弱者は誰にも救われず、ひっそりと、呆気なく死んでいく。父さんや母さん、そしてこいつらみたいな負け犬になりたいか。あんな負け犬、死んで当然なんだよ。

 ――燃え盛る炎のような、残酷な夕日を浴びながら、僕は前へと歩を進める。
 みんな、ありがとう。たとえ一時だけでも、下らない世界を忘れさせてくれて。
 そして、死んでくれてありがとう。これで僕はやっと、甘い夢を捨てられる。
 僕は全てを失った。全てを奪われた。全てを捨ててしまった。だから、今度は僕の番。
 恭介、僕は強くなったよ。恭介が思ってるよりもずっとずっと強くなったんだ。独りでだって生きていける。だから、鈴は恭介に返しておくよ。あっちで恭介が寂しくないようにさ。嬉しいだろ?
 僕は口角を上げて、笑顔を作った。今ならスキップで歩いたって構わない、そう思える心境だった。楽しみだ。これからの人生が、とても楽しみだ。
 奪われた者が全てを奪う。
 弱者が弱者を食い荒らす。
 弱者が強者を引きずり落とす。
 奪われた者が食物連鎖の頂点に立つ。
 ヒトを足蹴にする。
 ヒトを嘲笑ってやる。
 そしてヒトを食ってやる。


[No.523] 2009/11/20(Fri) 23:55:59
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 世界は僕を置き去りにしたまま、加速度的な変貌を遂げていた。
 共和国が二つ消滅し、新しく国境線が生まれた。日本の国土面積が減ってから増えた。月面旅行より先に個人ヒトゲノム解析サービスが普及した。温暖化に関してはみんな諦めてしまったようだった。宮崎でバナナの実験栽培が始まったそうだった。
 世界の時計は僕の物より早く進んでいるように思えた。
 僕の時計、世界の時計。
 どちらかが狂っているのは明白だった。僕の立つ地面がどれだけの速度で回り続けようと、僕は僕の速さでしか歩けないのだった。
 まじかる☆アンティークは今や社会現象となり文科省推薦ゲームとなったし、スクレボはポプリクラブに連載誌を移した。
 葉留佳さんに出会ったのはそんな折だった。
「やほ、理樹くん」
 薄化粧にえくぼを浮かべて笑った。



 分割手数料10%OFF!!



 夕暮れの喫茶店。
 いろんなことをしたよね、と彼女は言った。
 葉留佳さんのくすんだ瞳は僕ではなく、どこか遠いところ。僕の奥深くにそっと眠った記憶を見つめているように思えた。そこには微かな、長い時間を経て動かされない書棚のような、悲哀の匂いが感じられた。
「って、思い出話始めようとしただけでナニ深刻な顔してんですか!?」
 葉留佳さんは立ち上がって、すべしゅ! とツッコミを入れてくる。
「だが往年のキレは望むべくもなかった。」
「口に出てますヨ!」
 さらにツッコミ被せてくる。
「お約束お約束」
 僕は笑って、まあコーヒーでも、と僕の前に置かれたソーサーを葉留佳さんの前に押し出した。
「あぁ、こりゃどうも」
 イスを軋ませながら再び座り、クイッ、とコーヒーカップを傾ける。口に含んで、しばらく舌で転がしている様子だった。ごっくん。
「……苦味走ったオトナのお味って感じ。私は、こっちの方が好きだな」
 そう言って手元のオレンジソーダを指差す。
「うん、実は僕も」
 と同意して、オレンジソーダに手を伸ばして一息に飲み干す。
「やっぱり炭酸はやめられないよね」
「なんで全部飲んでるんですか!」
 なーんかキャラ変わったよね、と呟きながら葉留佳さんは額の汗を拭う。
「お約束お約束」
 言ってから、ああ。と思った。
 世はこともなく、お約束で済んでしまうのだ。それはとても悲しいことのように思えた。旧友との突然の再会すらもテンプレートで済まされてしまう。まるで古い映画のワンシーンのようであった。ヤクザの親分は撃ち殺されるんだろうし、善玉の一部と悪玉の大半は死ぬ運命にあるのだ。
 そして僕と葉留佳さんは、この後一夜限りの情事に燃えてしまったりするんだろうか。
「帰るわ」
「なぜ!」
 葉留佳さんが再び立ち上がる。
「いや冗談だけど」
「そういう冗談ははるちんには通じないと知れ!」
 言い縋る葉留佳さんは少々涙目。なるほど確かに通じない。
 ひょっとして今日までの経験に根ざしてるんだろうか。
「哀れむな!」
「冗談だってば」
 まったくもう。
「ため息吐きたいのはこっちですヨ!」
 葉留佳さんは腕を組んで頬を膨らませる。
「で、今日はなに? 結婚詐欺?」
「やはは、理樹くん鈴ちゃん相手にやる人がいたらなんかおマヌケですね」
 言って、淡いブルーのグラスの水に口を付ける。口調は全然変わっていない(と、記憶している。実はあんまり覚えてない)けれど、その表情、白い喉元なんかは、昔の葉留佳さんとは似つかない。
「ところで鈴ちゃんはお元気ですか?」
「帰るね。勘定よろしく」
「地雷踏んだ!?」
 葉留佳さんが泣きながら僕の服の裾を掴んだ。じょしこーせーならいざ知らず、この歳でやられると色々と辛いものがありますネ。
「だから冗談だって何回言えば分かるのさ!」
「もっと優しくしてくれないと泣くよ!?」
 二人声を荒げる。店内は静まり返って、まじかる☆アンティークのOPが聞こえてきた。
 まあ事実冗談である。鈴とは仲良くやらせてもらってます。あったかくて柔らかくて、割りに肉付きは悪くて、手放す予定は今のところない。
 葉留佳さんには言わないけどね、なんとなく。
 さて。
「葉留佳さんも元気そうで何より」
「相当ダメージ受けてますけど……」
 ゲンナリした目で僕を見る。蛇腹になったストローの包みを水に漬ける遊びを始めたけれど、全然上手く行ってないのがなんだかおかしい。ともかく、葉留佳さんは喋るのをやめてしまった。
 申し訳ない気がしてきたので、こっちから話を振ってあげることにする。
 今なにしてるの?
 は地雷フラグだし。
 佳奈多さんの話題とかダメすぎるし。
 みんなと連絡取ってる?
 とかもはや冗談にもならないし。
「帰る」
「面白がってるでしょ?」
 大きな黒目で睨まれる。
 そりゃまあ。
「年取ってから、葉留佳さんとはこうやって接すると楽しかったんだなって分かったよ」
「楽しくなかったと!?」
 反応が面白くて、クスクス忍び笑いが漏れてしまう。
 やー、楽しい。まったくもって。バカをいじるのは楽しいな! とかそういうんじゃなくて、割と腹の知れた人とこうして騒ぐっていう、それが楽しい。なかなか得られる関係性ではないんだなと最近分かった。
「昔は楽しかったよね」
 うっかり、口が滑る。
 葉留佳さんはまた黙り込んでしまった。
 本当困ってしまうんだけど、やっぱり地雷らしい。
「……そうだよね」
 不意に呟く。
「ホント、あのころは楽しかったよね」
 葉留佳さんは言った。
「戻れたらいいんですけどネ」
 ニコリ、と僕を見た。
 その声色を聞いて。
 本当の意味で僕は、地雷という言葉の意味を知った。
 彼女の前で、そんなこと口に出すべきではなかったのだ。
 「冗談冗談」と言い流してきた、その言葉に隠れた意味に、僕は気付いてしまいたくないと思った。
 彼女がどんな暮らしを送ってきたのか――。
「楽しかったなあ」
 葉留佳さんは今日初めて、本当に初めて、あの頃のように晴れやかに笑って見せた。
「クド公がいて、姉御がいて、お姉ちゃんがいて」
 はらり、と。
 一条の涙が零れて落ちた。
「一番、幸せだったな」
 それを目にしたとき、僕は言い知れない、やりきれない不条理の存在を思った。
 葉留佳さんは望まれずに生まれた子だったのだと、風の噂で聞いたことがある。
「私ね、今日まで、みんなにすごく迷惑かけてきたと思うんだ」
 葉留佳さんは涙を袖で拭いながら、そんなことを言った。
「バカだし、空気読めないし、可愛くないし……」
 そんなことないよ、と。
 僕は葉留佳さんを慰めてあげたいと思った。
 このか弱い「女の子」を支えてあげたいと思った。
 葉留佳さんは空気の読める良い子だよ、とか。葉留佳さんは可愛いよ、とか。
 でも、僕がどう言い繕おうと、それが嘘にしかならない事は、僕が一番よく知っていたのだった。
 僕はただ葉留佳さんの涙がテーブルを濡らすのを眺めることしかできなかった。
「なにか僕に――」
 そんな言葉が口を突いていた。
 彼女になにかをしてあげたいと、本心からそう思うのだった。
「……ううん。いいの」
 葉留佳さんは言った。
「理樹くん、こうして私の話、聞いてくれてるから」
 葉留佳さんの言葉。
 ひょっとしたら、こうして葉留佳さんの弱音を聞いてくれる人も、この広い世界にはいなかったのではないか。無礼を承知で、そんな想像をしてしまう。
 それはきっと、やっぱり、見過ごせないくらいには、悲しいことだった。
 呪ってもなんにもならないんだけど。
 僕は呪ってしまわないではいられなかった。
 道を違えてしまっても、またいつか出会える。そんなのはガキの気休めでしかないのだ。だって今の僕は、葉留佳さんのためになにか行動を起こすためには、余りにも多くのものに囚われてしまっているではないか。
 もう、重なり合うことはない。少しずつ僕らは居場所を違えて、今日まで来てしまっているのだ。
「でも、そんなあたしにも、いいことがあったんだ」
 彼女はそう言って、テーブルの下から鞄を出した。
「とっても大事なものに出会えたの」



 家に帰る。
 飛び出してきた鈴がおかえりのキスをくれる。今日は猫がこんなことをした、と楽しそうに話してくれる。おいしい手料理を振舞ってくれる。僕のために小毬さんに付いていっぱい練習してくれたんだそうだ。最近は創作料理にヤル気を出していて、休日を空けろと口うるさくせがんでくる。
 本当に僕は幸せだった。手放せと言われても、絶対に無理だった。
「? どうした?」
「ちょっと、生姜が……」
 鼻の奥がツンとした。
 僕らのかつての友達は、どこかで幸せになっているんだろうか?
 そう願わないではいられなかった。

 風呂から上がると、鈴は早々に眠ってしまっていた。僕が眠っててくれと言った。鈴は明日、ママさんバレーの助っ人があるとか。寝不足で運動なんかしたら、いくら鈴でも危ない。鈴が怪我なんてしたら、僕はきっと耐えられない。
 寝室に入ると鈴の静かな寝息が聞こえてきた。
 僕は胸に抱いた百科事典をそっと置き、枕を乗せた。
 えも言えない満足感があった。
 いい夢が見れたらいい。
 44,800円。月々3,980円×12回払い。
 僕が僕にできる、葉留佳さんにしてあげられた唯一のこと。
 僕と葉留佳さんとを繋ぐ、細いけれど確かな絆――。


[No.525] 2009/11/21(Sat) 00:03:59
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[No.526] 2009/11/21(Sat) 00:09:59
能美クドリャフカのキッスで殺せ! (No.515への返信 / 1階層) - ひみつ@17181byte

 椅子で窓ガラスを叩き割り、窓枠に残ったガラスの破片を残らず落としてから、真人は地面を見下ろした。建物から少し離れたところに生えている木に寄りかかるようにして、クドリャフカは髪の毛を弄んでいた。窓を見上げ、真人と目を合わせる。
「おい」
 自分を呼ぶ声に振り返ると、謙吾が男の両脇を掴んで引きずっているところだった。真人は回り込んで、男の両足を持った。男は声を上げようとするが、口に突っ込まれたタオルはそれを許さなかった。二人は一、二の三と声を合わせ、男を窓の向こうへ放り投げた。鈍い音がした。男は土ばかりの枯れた地面に横たわり、身体をぴくぴくと震わせていた。それを見て、クドリャフカが歩き始める。
 二人は廊下に出た。突き当たりに置かれた花瓶が床に落ちて、割れていた。陶器の破片の間から流れ出した水が廊下に広がり、床に敷かれたカーペットに染みを作っていた。二人はその上をつかつかと歩き、階段を下りようとした。階段を下りた先には玄関があった。ちょうどその扉が開き、強い光があふれた。二人は構わずに階段を下りる。玄関から入ってきたのはクドリャフカだった。階段の下で一瞬立ち止まったが、すぐに上り始めた。
 階段の途中ですれ違う。目を合わせただけで、言葉はなかった。クドリャフカは急ぐこともなく階段を上り、今しがたまで真人と謙吾がいた部屋へ迷わずに入った。本棚が部屋の中央に置かれたソファーに重なるようにして倒れ、無数の書籍が床に散乱していた。ほとんどは黒く塗り潰されたような表紙の分厚い書物だった。割れた窓から時折風が吹き込み、カーテンが揺れていた。クドリャフカは倒れた本棚に足を乗せ、バランスを確認してから、そこに腰を下ろした。それから身を屈めて、床に落ちた本を手に取った。
 それは詩集だった。英語とフランス語の対訳で構成されている。英語もフランス語も読めなかった。しかしクドリャフカはその詩を知っていた。いつか日本語で読んだことがあった。
 詩集を片手に室内を物色していると、庭から銃声が聞こえてきた。クドリャフカは窓へ目をやった。雲一つない青空が広がっている。鳥の群れがどこかへ飛んでいくのが見えた。
 クドリャフカは部屋を出て、階段を下りた。しかし途中で二階へ引き返し、廊下の壁に飾ってあった絵画を眺めた。マティスの『金魚』の複製画だった。クドリャフカはそれを外しに、床に投げ捨てた。それから階段を下りた。玄関の戸がわずかに開いていて、白い光が線のようになって差し込んでいた。庭へ出ると、強い陽射しに目を開いていられないくらいだった。クドリャフカは目を細め、手をかざした。倒れた男のそばに真人と謙吾の姿があった。真人はクドリャフカへ声をかける。
「こいつ吐いたぜ、クー公」
 クドリャフカはゆっくりと彼に歩み寄る。
「やっぱり鍵はお前のお袋さんがどっかに隠したらしい。だから箱はまだ開けられていない。将軍の手元でくすぶってるとさ」
 クドリャフカは真人へ頷き、ただ男を見下ろした。まだ息があるようだった。何も言わずに、死にかけの男をただ見つめている。
 そのとき太陽が雲に隠れ、眩しさが緩んだ。謙吾が拳銃のハンマーを起こし、倒れた男の後頭部を撃ち抜いた。
「非情の河また河と下りゆくに、船曳が綱を引く手の覚えいつか失せたり――アルチュール・ランボー」
 クドリャフカはしゃがみ込んでからそう囁き、手に持っていた詩集を男の傍らに置いた。雑草が風になびいた。それ以上の言葉はなかった。
 太陽が再び顔をのぞかせ、陽射しの強さが戻ってきた。クドリャフカは髪の毛を手で押さえながらつかつかと歩き出し、二人は慌ててその小さな背を追った。


 レコードプレーヤーの針を落とすと、かすれたような音楽が雑音混じりに響き始めた。クドリャフカは穴の開いたソファーに座り、手に持った箱を開けた。小銭とクーポン券ばかりが入っている。つまらなそうに鼻を鳴らし、床に放った。
 男が頭部を暖炉に突っ込んで死んでいる。炉と床の間にはわずかな段差があり、したたり落ちた血液が丸く広がっていた。この家の主人で、政府の役人だった。名前は覚えていない。男の死体を眺めながら、クドリャフカが歌うように呟く。
「霧たち籠むる河水に樹木の影は烟の如くに消ゆ――ポール・ヴェルレーヌ」
 母の死の原因がどんな願いも叶える箱にあると知ってから、かなりの時間が経過していた。確実な情報は、箱はテヴアの政権を握った軍部が所持していること、彼らが箱を開ける鍵を探しているということ、そして鍵を隠したのが母であるという三点だった。
 しかしクドリャフカの母は処刑された。ある男は、母の処刑が鍵の隠し場所を吐いたが故に行われたと言った。しかしその隠し場所は嘘だった。確かめもせずに刑を執行してしまうなんて。軍部の阿呆さ加減には呆れたが、そのおかげで対抗の手段はまだどちらとも言えないところにあるはずだった。
「でもよー、なんで箱をぶっ壊さないんだ。その方が楽だろ」
 部屋中のタンスや机の引き出しを調べた真人がクドリャフカの向かいに座った。クローゼットの中身をぶちまけ、ポケットの中まで探っていた謙吾もその隣に座る。
「箱にはきっと錠前がついているんです」
「だから錠前を壊せばいいじゃねえか」
「錠前は鍵を使って外すものです。それはとても正しいことです」
 穏やかにそう答えるクドリャフカに、真人は「そういうもんかね」と後頭部をぽりぽりと掻きながら呟いた。黙り込んでいた謙吾が立ち上がり、窓に近寄った。緑色のカーテンを指先に引っかけ、外の様子を探った。目線を外へ向けたまま、空いた手で二人に合図を送る。二台の車がちょうど屋敷の前に到着するところだった。
 謙吾は「裏口だ」と声を殺して言う。真人は頷いて、クドリャフカを伴って部屋を出て行った。謙吾も続いて部屋を出る。足音を消すために、履いていた靴を脱いだ。冷たい床の感触が足の裏から伝わってきた。
 蓄音器から、数十年前の流行歌が流れ続けていた。謙吾が戻ってきて、電気のスイッチを落とした。そしてまた忍び足でその部屋を出ようとしたが、窓沿いの柱に緑がかった蛍光色の染みを見つけた。時間はなかった。それでも気になってしまい、謙吾は柱に歩み寄り、その染みに触れた。指先で押してみると柱の一部がくるりと回転した。くり抜かれた空間に封筒が突っ込んである。謙吾はそれを引っ掴んで、中身も確認せずに急いで部屋を出た。


 桟橋から小型の船に飛び移った。ぐらぐらと揺れるが、謙吾と真人は構わずにトランプを続けていた。ぱたぱたと札が床に放られる音がやけにリズミカルだった。クドリャフカは紙袋をデッキに置き、取り出したリンゴを服の裾でこすり、かぶりついた。
 その船はもう使われていないものだった。所有者は不明、エンジンはすでにいかれていた。クドリャフカは船首に置かれた木箱に座り、謙吾が持ち出した封筒の中身に目を通した。母の名がそこにはあった。調査報告書だった。鍵の探索がどこまで進んでいるかが書かれている。上質の紙の束をめくりながら、これからのことを考えた。
「私たちはどこを探せばいいんでしょう」
 誰に言うわけでもなく、そう口にした。一瞬トランプの音が止まったが、またすぐに繰り返されるようになる。
 報告書によると、クドリャフカの母にゆかりの場所は全て調査を終えているようだった。にもかかわらず、彼らは鍵を手にしていない。どこかに隠されたままになっている。しかし彼らが見つけられないようなものを自分たちが探し出せるのかは甚だ疑問だった。何よりクドリャフカは、いかなる願いも叶える箱なぞというものは信じていなかった。眉唾にも程があった。
 甲板に寝そべって、空を見上げた。見事な夜空だった。
「やつらが探してないところを探せばいいんじゃないか。探したところにはなかったんだから」
 真人がそう口にした。
「それはどこだ」
「さあな。へへっ、わかるわけねえよ」
 トランプを切りながらそう笑い、謙吾と自分の前に配り始める。謙吾は手持ちの札を見ながら、二枚を交換する。そして再び札に目をやるが、すぐに顔を上げる。
「能美、お前のお袋さんの遺体ってどうなったんだ」
「え? あ、すぐにウチまで運ばれてきたって聞いてます。すぐ火葬したって」
「お袋さんに最後に会った人は?」
「祖父です。執行の直前に差し入れを……」
 そこまでを口にして、はっとした表情を浮かべた。
「調べてみる価値はあるんじゃないか」
「でも遺灰はロシアに――」
「空港は封鎖されてる。FEDEXもUPSも今この国では稼働してない」
 そこまで言って、謙吾は口元を少しだけ緩めた。慣れた者でないとわからないくらいの笑みだった。
 クドリャフカはフランスパンの固まりとナイフを謙吾に投げて渡した。手頃なサイズに切り取り、残りを真人に手渡す。真人は「じゃ、行くか」と声をかける。フランスパンをかじりながら桟橋に移り、ナイフを足元に投げつけ、腐りかけた木材に突き立てた。


 家じゅうをひっくり返すまでもなく、骨壷はあっさりと見つかった。かつて母が使用していた部屋に仏式の祭壇が組まれていて、そこに置かれたままになっていた。クドリャフカの祖父は拷問を受け、一度は釈放されたもののそのときの傷がもとで病死した。二人が拘束されている間、屋敷は荒され放題になっていた。帰宅した祖父は母の遺体を迎える準備で手一杯で、屋敷の修復には手を回せなかった。そしてこの世を去った。
 祖父と母、二人の死に居合わせられなかったクドリャフカにとって、祖父の屋敷は居辛い場所でもあった。母の部屋に座布団を敷き、お茶を入れた。謙吾と真人は広げた新聞紙の上で骨壷をひっくり返し、割り箸を使って遺灰を探っていた。さすがに素手で行うのは憚られるようだった。
 三人分のお茶の用意が終わる頃、謙吾が鍵を探り当てる。どのような錠前かはわからない。しかしその鍵が探し求めているものであると思って間違いないようだった。最期の面会のとき、祖父は母に鍵を渡した。母は鍵を飲み込み、永遠に葬ろうとした。そのようなシナリオを容易に思い浮かべることができた。
 お茶は母の遺影に捧げた。三人は早々に屋敷を立ち去ることにした。彼らと鉢合わせしないとも限らない。階段を下り、玄関で靴を履いた。祖父の屋敷は日本式だったから、土足厳禁だった。玄関の扉を開けたとき、一発の銃声が響き、先頭を歩こうとしていた謙吾の額に穴が開いた。そのまま仰向けに倒れる、真人は慌てて謙吾の体を引っ張って、玄関ドアを閉めた。周囲はまた静かになった。
「ダメだ」
 謙吾の首筋に手をあてた真人が首を振りながら言った。
「ちくしょうめ」
 唾を吐き捨て、真人は玄関ドアに張りついてドアスコープに片目をつけた。しかし狙撃者がどこにいるのかはわからなかった。視認できる範囲の問題ではなく、どこから狙撃されたのかもわからなかった。
 背後のクドリャフカを振り返り、今度は唾を飲み込んだ。そして微かな笑みを浮かべる。
「マサト……?」
「周りを見ててくれ。それから、これ」
 そう言って、クドリャフカに拳銃を手渡した。銃身が長く、クラシカルなデザインの回転式の拳銃。スミス・アンド・ウエッソン。スコーフィールド。
 そのままぶらりと、まるでコンビニにでも行くような仕草で真人はドアを開け、屋敷を出ていった。クドリャフカは半開きの扉に身体をぴったりと寄せた。
 銃声が聞こえた。胸部を撃たれた真人が倒れる。クドリャフカは植え込みの陰に赤い光を確かに目にした。一瞬だけ見えた炎のような光へ向かって発砲し、息を止めた。間もなく男の姿が現れ、そのままうつ伏せに倒れた。クドリャフカは息を吐き出し、外へと出た。玄関ドアは開けっ放しになっている。
 真人の元へ駆け寄った。すでにこと切れていた。開いたままの目を閉じてやり、玄関で同じように倒れている謙吾を見やった。
「これがあなたたちの強さだったんですね」
 ぽつりとそう呟いた。それから茂みに潜んでいた男へと目をやる。ぴくりとも動かない。念のため確認したが、彼もすでに死んでいた。
「お前は二度と帰ってこないね。お前がドアに入っていくのを見送って、おれはさよならと言うよ――カール・サンドバーグ」
 拳銃と鍵。手にあるのはそれだけだった。肩掛けのキャンバスバッグにそれらを放り込み、クドリャフカは祖父の屋敷を後にした。


 蛍光灯の電球が切れかかっているようだった。打ちっぱなしのコンクリートの灰色がどこまでも続いているような長い廊下はちかちかと点滅を繰り返す電灯のせいでひどく空虚に見え、靴音の響きがことさらそれを強めているようにも思えた。
 将軍は扉の脇に取り付けられたセンサーへ手をかざした。鍵の外れる音がしてから、ドアノブを回した。電気の消された室内は真っ暗で一歩先も判別できないくらいだったが、家具や物の配置は身体が憶えていた。真っ直ぐに机へ向かった。置かれた通話機のボタンを押し、マイクに向かって蛍光灯の交換を指示した。
 引き出しから煙草を取り出した。くわえた煙草にマッチで火をつける。煙を吐き出しながら、暗闇の中で映える赤い炎を見つめた。風もないのにゆらゆらと揺れていた。炎が指先に触れる前に机に押しつけて消し、電気スタンドのスイッチを入れた。
 帽子を脱ぎ、机の上に置いた。それからネクタイを緩めながら、寝室へ向かった。クローゼットを開け、上着とネクタイをハンガーに掛ける。ワイシャツを脱ぎながら、床に落ちていたリモコンを拾った。室内灯をつけるためのものだった。将軍はクローゼットの鏡にぼんやりと映る自分を見ながら、手に持ったリモコンの先端を電灯へと向けた。明かりが灯る。
 将軍はくわえた煙草を落とした。クドリャフカがベッドに腰をおろし、拳銃を構えているのを鏡越しに見た。慌てたように振り返った瞬間、クドリャフカは将軍の右膝を撃ち抜いた。苦痛に顔を歪め、その場に崩れ落ちる。
 膝を押さえながら、将軍は助けを呼んだ。しかし周囲は静まり返ったままで、怒号にも似た叫び声に反応する者はいなかった。
「お前、何をした」
 憎しみのこもった声色で将軍がそう訊ねた。クドリャフカはわずかに微笑むばかりで答えない。
「どうやってここまで来た?」
 クドリャフカは銃口を将軍へ向けたまま、ゆっくりと口を開いた。
「たくさんの人の助けを借りました」
 将軍はクドリャフカの傍らに置かれた木箱に気づく。錠前は外されていた。その様子を見ていたクドリャフカは小さな銀色の鍵を将軍へと投げつける。
「……開けたのか」
「どんな願いも叶えてくれる箱」
 クドリャフカは箱の中へと目をやる。Kindleが一台入っている。
「こんなもので願いが叶うんですか」
「叶うよ」
 吐き捨てるようにそう言った。
「確実に、少なくとも宇宙開発よりは」
 将軍は脱いだワイシャツを破り、太股に強く巻きつけた。それから呼吸を整えるかのように大きく息を吐いた。
「あんたのお母さんは偉かったね」
 挑発するように笑う。
「母国の機密を渡すまいとして死んだんだから」
 クドリャフカは静かに立ち上がり、将軍へ歩み寄った。そして銃口を額に押し当てる。将軍はクドリャフカを見上げ、観念したように瞳を閉じた。クドリャフカは指先に力を込めた。シリンダーが回転し、ばちんという音が静寂を割った。
 将軍の全身から力が抜けた。肩で大きく息をしている。クドリャフカはグリップで後頭部を殴りつけ、耳元で囁いた。
「それで平和な国を作ってください」
 クドリャフカは箱を睨みつけてから、寝室を出た。頭の中にこびりついているのはKindleの中にあったデータだった。元素記号や化学式、あるいは図面がほとんどだった。それから報告書や調査書、そして何かの記録。ロシア語ばかりでほとんど読めなかったが、辛うじて読み取れた文字もあった。セヴェロドヴィンスク、チェルノブイリ、ROSATOM……。
 それらのデータは全て消去した。将軍が目を覚まし、Kindleを目にしたときのリアクションを想像すると自然と頬が緩んだ。今、あのKindleにはたった三行の詩が入っているだけになっている。
「覆された宝石のやうな朝、何人か戸口にて誰かとささやく、それは神の生誕の日」
 クドリャフカは廊下を歩いていく。人の気配はない。自分の足音だけが聞こえている。


 水平線が見えていた。彫師の工房を出たとき、真新しい朝がテヴアに訪れていた。クドリャフカは海を見ながら、車道を歩いた。左右の二の腕には十字架が彫られている。
 歩道に電話ボックスを見つけた。近くに車が止まっている。ボックス内は無人だった。クドリャフカは中に入り、持っていた硬貨を電話機の上にばらまいた。そして数枚を投入口へ放り込む。
 直枝理樹の電話番号は暗記していた。国番号に続き、その番号を押していく。数度のコール音の後、聞き慣れたはずの、しかし懐かしい声が彼女の耳に飛び込んだ。
「もしもし?」
「もしもし、あの、リキですか?」
「え? あ、クド?」
「はい。元気でしたが」
「うん。僕は元気だけど」
 驚いているのか、口数が少なかった。クドリャフカはガラスにもたれかかり、車道へと目をやった。
「あの、もうすぐ帰ります?」
「え? ほんと?」
「はい。ケンゴとマサトも一緒です」
 そう言いながら、空いている手で二の腕の刺青を撫でる。
「そうなんだ。よかった。」
 心底ほっとしたような声だった。クドリャフカにもその安堵が映ったが、車から二人の男が降りてくるのが目に入り、彼女の口は急速に乾いていった。と同時に話そうとしていた言葉も失われる。
「……クド?」
「……」
「ねえ」
「……」
「……どうしたの?」
「ごめんなさいなのです、リキ」
「え?」
「予定が変わりました」
「クド?」
「私はもう日本へは帰れないと思います」
「どういうこと?」
 クドリャフカはしばし黙った後、その問いには答えずに続けた。
「リキ、一つだけお願い聞いてくれますか」
「え? あ、うん。いいよ」
 クドリャフカは唾を飲み込んだ。電話ボックスの入り口を見つめながら、バッグの中の拳銃へ手を伸ばした。


 その通話は終了したのではなく、強制的に切断されたように感じられた。理樹は手の中にある携帯電話の液晶画面を見つめた。わずかな通話時間が記録されている。
 彼は公園にいた。ベンチに座って、携帯電話の画面を見ている。少し離れたところに鈴がいて、彼が来るのを待っている。
「おい、何やってんだ」
「あ、うん。クドから電話だったんだけど」
 理樹は立ち上がって、鈴の元へと駆け寄っていく。穏やかな午後だった。二人は肩を並べて歩き始める。しかし鈴はどこか不機嫌そうに理樹を睨んでいる。
 やがて口を開いた。
「……浮気者」
「違うよ。謙吾と真人も一緒だって言ってたけど、途中で切れちゃった」
「で?」
「だから違うって。浮気なんてしてないよ。だいたいクドは海外にいるんだし」
「詳しいな」
 そう言って、つまらなそうに唇を尖らせる鈴に理樹は肩をすくめた。会話が途切れる。
 公園の出口にさしかかったころ、隣を歩く幼馴染を見ながら、ふと気付いたことを口にした。
「そういえば、鈴、今日髪型違うよね」
「え?」
「いや、なんか違うから」
「ちょ、おま、何言って」
「髪型変えたの?」
「き、気付くなよ、ばか!」
 鈴はうろたえたような顔をして、そそくさと早歩きで公園を出て行った。「あ、ちょっと待ってよ」とその後ろ姿に声をかけながら、理樹も公園を出て行く。
 クドリャフカの最後の言葉を思い返す。「りめんばー・みー」。彼女は確かにそう言った。声と言葉が理樹の耳元に焼き付いている。


 "Kiss Me Deadly" , performed by Kudryavka Noumi


 電話ボックスの四面の曇りガラスは全て粉々に割れていた。クドリャフカと男が一人、それぞれボックスの中と外に倒れている。男は額を正確に撃ち抜かれて、仰向けになっている。一方のクドリャフカは全身に銃弾を浴び、もうぴくりとも動かない。
 長身の男はクドリャフカに撃たれた脇腹のあたりを押さえながら、車へと戻った。クドリャフカは一人を即死させたが、もう一人に致命傷を与えるには至らなかった。男は運転席に乗り込み、上着のポケットから煙草を取り出す。しかしそれは空き箱だった。
 男は車を降り、倒れたもう一人の男へと歩み寄った。ジャケットのポケットを探り、見つけた煙草の箱から一本を抜き、口にくわえた。残りは男の死体の胸元へ置き、再び車へと戻った。
 ライターで火を付け、煙を吐き出した。腹部に激痛が走る。右手で脇腹を押さえ、左手をハンドルに置いた。エンジンは入れたままだった。大きく煙草を吸い、路上へ投げ捨てた
 男はアクセルを踏んだ。車が走り始める。加速とともにサイドミラーに映り込んだ電話ボックスはどんどん小さくなっていき、クドリャフカの姿もやがて見えなくなった。


(了)


<参考資料>
『キッスで殺せ』(ロバート・アルドリッチ、1955)
『空ろの箱と零のマリア』(御影瑛路、2009)


[No.527] 2009/11/21(Sat) 00:37:09
しめきり (No.515への返信 / 1階層) - 大谷(主催代理)

しめきり

[No.528] 2009/11/21(Sat) 00:42:32
物足りませんの (No.515への返信 / 1階層) - ひみつ@19980 byte 超遅刻&ちょっとエロい

「最近、物足りませんの」
 放課後、僕らはいつも二人きりの時間を持つ。
 大概は他愛ない話で、話をする場所もその日の気分で変えるが、今日はちょっとだけ違った。
 真人に少しばかり出て行ってもらって僕らの部屋で軽く触れ合いながら会話をしていると、不意に佐々美さんは真剣な表情でそんな爆弾発言をかましてくれた。
「え、ええ?あの、その……ごめんなさい」
 デートのセッティングが悪い?
 それとも夜のテクニックが足りないとか?
 どっちにしろ自己嫌悪だ。
「ああ、違いますの。そう言うわけではありませんわ」
 僕が落ち込んでしまったのを見て、佐々美さんは慌ててフォローに入る。
 いいよ、そんな慰めなくても。
「ごめんね。大丈夫、もっと頑張るから」
「ですからっ、そんなことありませんわ。わたくしは充分満足しておりますの。何より一緒にいられるだけで幸せですもの」
「……本当、佐々美さん」
 そう言ってくれると嬉しいけど。
 けれど彼女は僕の発言に少しだけ頬を膨らませる。
「……名前」
「え?」
「呼び捨てでいいと言っておりますのに」
「いや、でも……」
 どうにも女の子の名前を呼び捨てにするのは慣れてない。
 鈴みたいに付き合いがある程度長くないと、気恥ずかしさが先に立ってしまう。
「ダメ、ですの?」
「うっ……」
 上目遣いは反則です。
 そんなことされたら応えたくなるのが男ってやつだよね。
 でもいいのかな。もう一つ問題があるのに。
「分かったよ、それじゃあ……さ、さみ」
「はぅ」
 僕の言葉にビクンと身体を震わせる。
「佐々美」
「はぅぅ」
「さ・さ・み」
「はぅはぅ」
 なんか面白くなってきた。
「佐々美、佐々美、佐々美」
「はぅ、ひゃう……ひぅ〜」
 耳まで真っ赤にして佐々美さんは悶え始めてしまった。
 あまりにその様子が可愛くて調子に乗った僕は。
「佐々美、佐々美、佐々美、佐々美、佐々美、佐々美、佐々美、佐々美……」
 耳元で思いっきり囁いてしまったのだった。
 結果として。
「うう……トリップのしすぎで魂が吹っ飛ぶかと思いましたわ」
 荒い息をあげ、全身ぐったりとして僕に身体を預けていた佐々美さんが正気を取り戻したので十分近く経ってからだった。
「ごめんごめん」
 髪を撫でながら僕は必死に謝る。
 いやもう、反省しきりだ。
「いえ、こちらも油断しすぎましたわ。名前で呼ばれるのがあんなにも強力だったとは。そう言えば前に呼び捨てを諦めた理由もそれが原因でしたわね」
 どうやらうっかり忘れていたらしい。
「そうだね。これからはゆっくりと慣れていこう。僕も調子に乗らないよう気をつけるよ」
 二人で頑張ればきっと乗り越えられるはずだ。頑張ろう
「はい、そうですわね。いつかきっとこの困難に打ち勝ちましょう」
「うん」
 僕らは決心を固め微笑み合うのだった。

「それで、あれってなんだったの?」
 しばらく体を擦り合わせたりキスを交わしたり抱きしめ合ったりした後、ふと思い出し尋ねてみた。
「あれって、なんですの?」
「や、だから『最近物足りない』って」
 たいしたことじゃなかったのかな。
「ああ、すっかり忘れていましたわっ」
 どうやらそんなことはなかったらしい。
 単純に忘れていたらしく、抱き合っていた体を離し彼女は僕に向き直った。
「実は棗さんのことですの」
「鈴の?」
 なんだろう。何かあったのかな。
 最近は前みたいに言い争いもなくなったのでホッとしていたんだけど。
「その……最近前までのように突っかかってくることがなくなってきましたの」
「うん」
「それがその……物足りないと言いますか、ぶっちゃけて言えば刺激が足りませんの」
「えー」
 それ?それなの?
 よりによってそれがないことに物足りなさを感じてるの?
「バトルが発生することもなければ名前を呼び間違えられることも少なくなってしまって……」
「えーっと……」
 それはいいことなんじゃと思うが、佐々美さん的にはよくないらしい。
 深く溜息まで吐かれてしまった。
「そこでできればお願いがあるのですけれど」
「え、えっと……なんとなく予想できるけど……何?」
 出来れば外れて欲しいなあと思いながら尋ねてみる。
 彼女はと言うと僕の言葉にホッとしたような表情を見せ答えを口にした。
「その……前までのように関係に棗さんとなりたいのですが」
「……そうなれるよう僕にしてくれと」
「はい」
 頷かれたよ。頷かれちゃったよ。
 僕は頭を掻き毟りながら佐々美さんを見つめ返す。
「えっと、分かってると思うけど、鈴が突っかかってくることが少なくなったのは僕らの関係を認めてくれたところが大きいのであって」
「ええ。前は兄をとられる妹のような関係でしたものね」
「うん、所有権を主張してたね」
 あれは今思い出しても激しい攻防だった。
 僕は僕だけのものなんだと言う当たり前の主張は双方に却下され長い戦いが勃発。
 周りのみんなは微笑ましいものを見るように一歩引いており僕だけがオロオロ。
 二人の戦いは言い争いやバトル、野球の成績で争ったりとかなり多岐に亘った。
 けど僕自身は一貫して佐々美さんを好きだったので、最近やっと鈴も僕らの関係を認め僕らが一緒にいても何も言わなくなったんだけど。
「言い争いをさせるとなるとどうしても落ち着いたこの関係を掻き乱す必要があるんだけど」
「まっ、仕方ないですわね」
「いいんだっ」
 せっかく穏やかな関係になれて胸を撫で下ろしてたのに。
「大丈夫ですわよ。ちょっと突っつくだけできっとまた突っかかってくるようになりますわ」
「うーん、そうかなぁ……」
 鈴もだいぶ成長したし、ちょっとやそっとじゃ前みたいに言い争いに発展することはないと思うけどな。
 それになにより。
「今の関係が不満なの?」
 僕は凄く満足しているんだけど。
「そ、そんなことは。ですがやっぱり日常に刺激が欲しいですわ」
「やー、うーん」
 それを他に求めないで欲しいなと思うのは僕の我が儘なんだろうか。
 できれば僕自身でそれを満たしてあげたいんだけど。
「……お願い、出来ませんの」
「うっ……いや、その……」
「聞いて頂けましたら今日はいつも以上にサービスして差し上げますわよ」
 言いながら彼女はベッドから下り、僕の足の間に腰を下ろした。
「駄目ですかしら」
「ぐっ……」
 そんな状態で上目遣いにお願いしないで欲しい。
 しかもこんな可愛い彼女がこれからしてしてくれることを想像するともういっぱいいっぱいなわけで。
「はい……」
 僕はガクリと肩を落とし了承したのだった。
 とりあえず真人に今日は謙吾のところに泊まってもらうようメールを打つとしよう。
「クスッ……だからあなたのことは大好きですわ」
 佐々美さんは柔らかく微笑むと、慣れた手つきでズボンのチャックに触れたのだった。


「はぁー」
 思いっきり溜息を吐く。
 昨日のことを思い出すだけで憂鬱だ。
「なんでまたあんなこと引き受けちゃったんだろう……」
 答えは明白なんだけどね。
 色香に負けは自分が悪い。
 まあその分思いっきり欲望は満たさせてもらったが。
「どうすべきかなあ」
 対価はもう貰っちゃったんだから動かないわけにはいかない。
 けどこんなことを彼女にお願いされる彼氏なんで世界中探してもいないんじゃなかろうか。
「はぁー」
 もう一度溜息を吐き、とりあえず鈴のところへ行こうと裏庭へと足を伸ばしたのだった。

「あ、いたいた」
 予想通り鈴は猫たちと遊んでいた。
 周りには他に誰もいないし、これはチャンスか。
「鈴」
「……ん、なんだ理樹か。どうかしたのか?」
「んー、まあどうかしたっていう言うか、鈴は何してるのかなって思って探しに来たんだけど」
「なんだ、なんかあるのか?」
 珍しそうに僕の顔を見上げる。
 そういえばここ最近鈴と全然遊んでないなぁ。
 唯一あるとすればリトルバスターズ全体でなにかイベントをする時くらいで、それ以外はとんと鈴と一緒にいなくなった。
 うーん、幼馴染なのにこれは拙いかもしれない。
「うん?なんだ、ボーとして。何か相談事でもあるのか。任せろ、今のあたしに解けない謎などない」
「いやいや、別にそう言う訳じゃなくてね」
 妙に偉そうだなぁ。
 まあ自分に自信が持てるようになった証なんだろうけど。
 最近は人見知りも少なくなってよくクラスの女子とも交流持てるようになったみたいだし、感慨深いや。
「……なんだその慈しむような目線は。なんかむかつくぞ」
「いやいや」
 ああ拙い。なんか兄か父親目線になってた。
「えーとね、相談とかじゃなくてただ鈴と喋りたいと思ってね」
「なあにぃ!?」
 鈴は思いっきり驚いたように後ろに飛び退く。
 ……そんなに驚くような発言だったかな。
「お前の彼女はさ行だろ」
「え?ああ、佐々美さんね。うんそうだけど、それとこれとは関係ないと思うよ」
「うー、だがいいのか?」
 不安そうに鈴は尋ねてくる。
 うーん、ほっぽりすぎたかなぁ。
「当然だよ。だって鈴は僕にとって大事な存在だもの」
「なぁっ!?」
 何故か鈴は顔を真っ赤に染めてしまった。
 変なの。まさか僕相手に緊張するわけないし。
「だ、大事って言ったか、今お前」
「え?言ったよ。何言ってるの、当然じゃない」
 いくら彼女が出来ようとも鈴が大事な幼馴染なのに代わりはないんだし。
 うーん、そう思われていなかったのはちょっと悲しい。
 これからはもう少し頻繁にコミュニケーションを取るべきかな。
「ほら、たまには買い物とか付き合うよ。もんぺちとか買いに行こうか」
 鈴の右手をぎゅっと握る。
「うわっ。むちゃくちゃ……いや、くちゃくちゃびっくりした」
 けれど鈴はその手を慌てて振り解く。
「鈴?」
「ち、ちが、別に理樹に手を握られたのが嫌なんじゃなくてな。その……うみゅ〜」
 そのまま俯き、おずおずと手を差し出してくる。
「か、覚悟は出来た」
「?変な鈴」
 首を傾げながらその手を取る。
 すると鈴はおずおずと口を開いた。
「そのだな……買い物はいいんだが、今日はもんぺちはいい」
「そうなの?」
「ああ。代わりに……その、こ、小毬ちゃんが前に教えてくれたお店があるからそこに行きたい」
「うん、いいよ。店の場所は分からないから案内頼める?」
「任せろ」
 僕が聞くと鈴は満面の笑みで頷いたのだった。


「あんなんでよかったのかなぁ」
 昨日のことを思い出しながら物思いに耽る。
 結局あの後夜遅くまで鈴と遊び歩き、疲れ果ててしまったので佐々美さんに報告も出来ていない。
「でもあれで突っついたことになるのかな」
 どうやればいいのか分からず、一昨日佐々美さんに尋ねておいたけど、ちょっと一緒に遊べばいいというアドバイスしか貰えなかった。
 けれどそんなんで前みたいに僕たちの間に入ってくるとは思えなかったので、昨日は可能な限り鈴の希望を聞くように動いた。
「でも頭を撫でるだとかクレープの食べさせ合いとかでよかったのかな」
 昔からやっていたことの繰り返ししかやっていないけど大丈夫だろうか。
 少し不安だったので口元に付いたクリームをティッシュじゃなく指で取ったりとか、肉体的接触をやや多めに取ってみたけどよく分からない。
「鈴と仲良くなる方法なんて考えたことなかったからなぁ」
 今日ももう少し頑張るべきかもしれない。
 鈴の様子を見て考えてみよう。
 などと思いながら教室の扉に手を掛ける。
「理樹」
 開口一番鈴が話しかけてくる。
 今日は何故か早めに出て行ってしまったので、今日鈴と会うのは初めてだ。
「ああ、鈴、おはよう」
 片手を上げて軽く挨拶をしたところ。
「理樹ー」
「ぐふぅ!!???」
 弾丸となって鈴が飛び込んできた。
 み、鳩尾が……息が出来ない。
 僕はしばらく死にかけた虫のようにビクンビクンと体を震わす。
 けれど鈴はそんな僕を気遣いもせずボディプレスを仕掛ける。
「ぐぇ!」
 蛙の潰れたような鳴き声ってきっとこんなのだろうな。
 などとどこか他人事のように感想を述べながら意識を手放そうとして。
「な、ななななな棗さんっ。いったい何をしていらっしゃいますのっ」
 馴染みのある声が聞こえたかと思うと、腕が抜けるんじゃないかと思うくらい強く引っ張られ、そのまま抱きしめられた。
「うぐ……」
 これは……胸?いや、たぶんそうだよね。
 いまいち感触が薄いけど慣れ親しんだものだしきっとそうだろう。
 ぎゅっと押しつけられるけど充分息が出来る。
 これが来ヶ谷さん……いや小毬さんくらいあれば窒息していたかもしれないけど、その辺は彼女の胸のがっかりさに感謝だ。
「い、嫌な予感がして駆けつけてみれば、何をなさろうとしましたの?」
「なんださせ子、邪魔するな。理樹はあたしんだ」
「何を言ってますの。この方は私の彼氏ですわ」
「うっさい。あたしにとっても理樹は大事なんだ」
 そのままぐいっと右腕を取られるとそのまま鈴の胸へ押しつけられる。
 小さいけれどふにふにと柔らかい感触が少し理性にヤバイ。
 目の前にも似たようなものが押しつけられているわけで、程よくシェイクされて血の気が引いていた頭に徐々に血液が戻ってくる。
「……何を棗さんになさいましたの?」
 佐々美さんはそっと僕に耳打ちする。
 その声が心なしか少し冷たい。
「い、いやー、一昨日のミッションをこなしただけなんですが……」
「わたくしはちょっとした刺激が欲しいだけでしたのに」
「えーと、失敗したかな」
 こんなに鈴が積極的に僕にくっついてくるとは思わなかった。
「ま、まるで恋人を取られたかのような態度ですわよ。……はっ、まさかあなた汚らわしいハーレム願望でも叶えようと」
「ないからっ。僕は佐々美さん一筋だから」
 酷い誤解だ。
 慌てて僕は首を振る。
 けれどそのやり取りは腕を思いっきり引かれることで中断させられてしまう。
「何をごちゃごちゃ喋ってるんだ。あたしの理樹から離れろ」
「だから誰があなたのですか。直枝さんは私のもので、わたくしは直枝さんのものなんですの。勝手に主張しないでくださる」
 それはもう数ヶ月前に見た激しいやり取りが児戯に見えるほど凄まじい口論。
 いい加減完全に切れたのか、佐々美さんは鈴から強引に僕を引き離すとそこから離れようとした。
「ちょ、佐々美さ……」
「黙って。詳しい昨日の状況を後で教えてくださりますわね」
 それは有無を言わさぬ口調。
 僕は黙って頷こうとして。
「きゃーっ!!??」
 その前に豪快に佐々美さんは吹っ飛ばされたのだった。
 無様に転がった僕は慌てて何が起こったか確認すると倒れた佐々美さんの側に鈴が舞い降りた。
 どうやら飛び蹴りを食らわしたらしい。
 その事実に慌てて佐々美さんの安否を確かめようとするが、その前にがばっと元気よく佐々美さんが立ち上がりそのまま拳を繰り出す。
 それはいい感じに鈴に額に突き刺さり、そのまま二人はバトルとは言えない凄惨な戦いを繰り広げたのだった。

「で、どういうことかしら」
 目の前には佳奈多さん。
 僕は床に正座してお説教を聞いていた。
 風紀委員はもう辞めたとはいえ、相変わらずのプレッシャーだ。
「い、いや、どうと言われてもよくあるバトルの延長って事で」
「いつものバトルであんな状況になるわけないでしょうがっ。二人とも保健室直行なのよ」
「は、はい……」
 来ヶ谷さんとかが止めてくれなければもっと酷い状況になっていたかもしれない。
 そう思うと身震いがする。
「まあなんかあなたがしたんでしょう。あとのフォローは私がしておくからどうにかしなさい。あの二人の管轄はあなたでしょう、直枝」
「はい」
 僕は床に額を擦りつけるように頭を下げたのだった。


「はぁ〜〜〜」
 さてどうしよう。
 どういった行動を取ればいいか全く分からない。
 最終的にはどうすればいいんだ?佐々美さんと鈴を仲良くすればいいのか?
 いや、でもそもそも昔のようなライバル関係を佐々美さんは望んでいたのだから、それに沿うように動くべきかもしれない。
 いやでもそれに失敗したからこういった事態になったわけで。
「どうしよ」
 僕はもう一度深く溜息を吐いて屋上へと出てきた。
 するとそこには。
「あ、理樹くん」
 小春のような笑顔の小毬さんがお菓子を食べていた。
「小毬さん。えっと、こんにちわ」
「うん、こんにちわ。さーちゃんたちは目、覚めた?」
「いや、まだだよ」
「そっかぁ。理樹くんも大変だね。……あ、お一つどうぞ」
 ドーナッツを一個差し出してくる。
「ありがとう小毬さん」
「いえいえ、どういたしまして」
 受け取り、彼女の隣に座る。
「……そう言えばなにか悩み事ですか」
「え?」
「なんか眉間に皺寄ってるよ」
「あー、いやうん……」
 どうしよっかな。
 あーでも二人とも小毬さんの親友なんだし、相談に乗ってもらうのもいいかもしれない。
「えっと実は……」
 そう思って、一昨日から今日までの事のあらすじを伝えたのだった。


「うーん、さーちゃんが何も言わなければ平穏だったんだよね」
「いやまあそうだけど」
「でも理樹くんも駄目だよ。鈴ちゃんにそんなことしちゃ恋心が暴走しちゃうに決まってるよ」
「い、いやでも鈴がそんな風に思うなんて……」
「理樹くんってニブチンだよね」
 普段の笑顔もまま扱き下ろされて盛大にダメージを受ける。
 そんなに鈍いのかな。
「鈴ちゃんがどんな風に二人のこと見てたかなんて、周りからすればバレバレですよ」
「い、いやでも佐々美さんは兄妹みたいなものって……」
「さーちゃんも鈍いから」
 ばっさりだ。
 親友なのに容赦がない。
「理樹くんって女の子泣かせだよね」
「ぐっ」
 言い返せない。
 うーん、冷静に考えれば鈴と付き合う気ないのに鈴をその気にさせちゃったってことになるのか。
 そう考えれば確かに最低だ。
「どうすればいいかな。方法がとんと思いつかなくて」
 上手い具合に二人の関係をライバル関係に戻せればいいけど、それは凄い無理な気がする。
 だからといって僕は佐々美さん以外と付き合う気はないから、このまま鈴と仲良くという気もない。
 けれど鈴も大切な幼馴染だから振るみたいな方法も……。
「大丈夫ですよ。要は原因を取り除けばいいだけだから」
「原因?」
「そうですよ。さーちゃんはね、鈴ちゃんと仲良くしたいだけなの」
「え、そうなの?でも佐々美さんは鈴と軽い言い争いがしたいって……」
「さーちゃんは素直じゃないからその辺話半分がいいよ」
 凄い。今日の小毬さんは絶好調だ。
 いい具合に言葉に刃物が乗ってる。
「でね、二人を仲良くさせる方法なんて簡単ですよ」
「え、そうなの?」
「うん」
 言いながら、小毬さんは携帯をポケットにしまう。
 あれ?いつの間に携帯を出していたんだろう。
「えっとね、耳貸して……」
「うん」
 小毬さんは僕に近づこうと身を乗り出し。
「きゃん」
「え、うわっ!」
 思いきりのし掛かられてしまった。
「いたーい」
「わわ、小毬さん……」
 小毬さんの豊満な胸がむぎゅっと顔に押しつけられ、慌てて僕はそれを押しのけようとする。
「うああぁぁあん、そんなに強く握っちゃ駄目〜」
「うわっ、ご、ごめん」
 焦って少々力を入れすぎたようだ。
「もっと優しく……」
「うん、そうだね。もっと優しく……って、そうじゃないでしょっ」
 胸を押しつけられたまま激しく突っ込み。
「やぁん、そんなに息吹きかけないで〜」
「ご、ごめん。でも少しずれて」
「うん、おっけーですよ」
 小毬さんの頷いた気配がすると、彼女はずりずりと下へと動き出す。
 けれど小毬さんの顔が目の前の来たところで動きが止まってしまう。
「うえーん、お膝が痛くてこれ以上動けない〜」
「ええー」
 この体勢で?
 完全に密着しているので色々とやばいんだけど。
 特に下半身はピッタリくっついてて意識すると様々な意味で終わりを迎える。
「起き上がれない?」
「うん、むりー。理樹くん動ける?」
「え?いやー、上に動くスペースないしちょっと……」
「じゃあ痛くなくなるまで待つねー」
 言いながら小毬さんは全身から力を抜いた。
「ちょ、小毬さん、息がっ。息がかかってる」
 あろう事か小毬さんは首元に顔を埋めてしまった。
「えー、でもこれ落ち着くよ」
「いやいやいや、僕が落ち着かないから」
「さーちゃんって彼女がいるのに?」
「関係ないよ」
 素数を、素数を数えるんだ。
 反応しちゃいけない。
 むやみに小毬さんが腰を振って擦りつけているような気がするけど、きっとそれは気のせいだ。
「そう言えば理樹くんってお胸好きなんだ」
「え?」
「さっきからずっと触ってるよ」
「ええ?」
 そう言えばさっきから触ったままだった。
 思わず指を動かす。
「ひゃうっ……揉んじゃ駄目だよー」
「ご、ごめんなさーい」
 顔が熱くなるのが分かる。
 慌てて小毬さんから視線を逸らすが、完全に意識しちゃった。
「んんぅ……はぁ……理樹くん、なんか当たってる……」
「言わないでぇー」
 悩ましい声を上げ、荒い息を吐く小毬さんに必死に僕は懇願した。
 うわーん、これで小毬さんの中で僕は変態さん確定だ。
 ショックだ、自己嫌悪だ、死にたい。
「けど……はぁ……理樹くんって胸大きいの好きなんだ」
「いや、そんなこと……」
「だって、だから……でしょ」
「いやいやいや……」
 そんなわけないから。
 というかそうじゃなきゃ佐々美さんと付き合ってないし。
「でも……」
 ついっと視線が下に動く。
「いやだから触れないで〜」
 あまりの恥ずかしさに身悶えする。
 うう、本気で死にたくなってきた。
「認めちゃいなよ、ゆー……んんっ」
 僅かに下半身が擦れ、甘い吐息が唇にかかる。
「胸、大っきい方が好きなんだよね」
「いや、その……」
 頭の中が沸騰してどう答えていいか分からず、答えに窮していると。
 ガターン
 などといやーな音が聞こえて、慌ててそちらに振り向くとそこには呆然と立ち竦む鈴の姿が。
「がーん、ですの」
 そしてその後ろには今にも崩れ落ちそうな佐々美さんの姿が。
「り、理樹……本当、なのか」
「い、いやその……」
 答える前にむぎゅっと胸板に小毬さんの胸が押しつけられる。
「む、胸か、胸なのか?ちっちゃいと駄目なのか?」
「いやいやいや、そんなこと……」
「その体勢で言われてもちっとも信用できん」
「ぐっ」
 仰るとおりで。
「な、直枝さん、信じていましたのに」
 わなわなと震えながら佐々美さんが呟く。
「い、いや佐々美さん、これはその違って」
 うん、言ってて全然説得力ないのがよく分かる。
 逆の立場ならショックでナルコレプシー再発しているかも。
「棗さんだけじゃ飽きたらず神北さんまで……」
「いや、だからちが……」
 必死に言い訳をしようとするが。
「うわーん、ですわ」
 泣きながら屋上から出て行ってしまった。
「理樹なんか嫌いだー」
 ついで後を追うように鈴が罵倒しながら出て行ってしまった。
「うわぁあ、ちょっと待って……」
 慌てて小毬さんの下から抜け出そうとするが。
「やん、理樹くん動いちゃ駄目〜」
 小毬さんの甘い声に一瞬止まってしまう。
 いや、でもここで追いかけないわけにはいかない。
「小毬さんごめん」
 僕は一言謝ると、動ける下に向かって這いずりそこから抜け出す。
 途中聞こえた甘い声や身悶えする身体、そして捲り上がったスカートから見えた黒いど派手なものを意識外へと追いやり、僕は慌てて佐々美さんたちを追いかけた。


 その後必死に探しまくったあげく、やっと食堂で自棄酒ならぬ自棄牛乳と自棄食いを敢行している二人を見つけ出した。
 二人は探してる間に意気投合したらしく、前より仲良くなったようだ。
 その辺、初期の目標は達成されたみたいだけど僕の望んだ状況じゃ全然ないので光速で土下座し、誤解を解くために多大な労力を払うのだった。


「やっぱり胸の大きさは武器になるんだ」
 自分の胸を軽く揉みながらぽつりと小毬は呟く。
 さきほど理樹に触れられた感覚を思い出し軽く身悶える。
 それに下着も気に入ってくれたようだと、抜け出した際の理樹の真っ赤な顔を思い出しほくそ笑む。
「これならまだまだチャンスはあるかもしれないね」
 言いながら僅かに考えを巡らせ、素敵な笑顔を浮かべた。
「ようしっ、とりあえずもっと喜んでもらえる下着を買ってこよ」
 そして屋上にはクスクスと小毬の楽しそうな笑い声が響き渡るのだった。


[No.530] 2009/11/21(Sat) 13:15:42
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   1


 待ち合わせ場所の喫茶店にはクドリャフカが先に着いた。店員に案内された席に着き、彼女はメニューも見ずに珈琲を注文する。壁一面に嵌め込まれたガラス窓から射し込む、匂い立つような淡い光のまぶしさに、思わず目を細めた。
 肩の前を滑って胸の前に垂れ落ちる髪の、痛んでまとまりなく跳ねた毛先を、クドリャフカは指先でつまんでもてあそぶ。あれから幾分肉が落ち、さらに華奢になった体にこびりつく重い疲労感が、彼女のまぶたを静かに落とす。
 閉じられたまぶたを焼くあたたかな陽射しが、闇に満たされた狭苦しい視界を仄かに赤く黒く輝かせていた。指先に薄く硬い紙が触れていた。誰かの髪が頬を撫でた。浮き沈みする色彩の数々が、今ここにない懐かしい感触や音や声を誘い込んでいるとクドリャフカは感じた。ちりん。鈴の音が湧き出る。彼女の手にしたトランプの一枚が、向かい側の席から伸びてくる無骨で大きな手に抜き取られる。顔を上げた彼女の視線の先に、窮屈そうな座席から身を乗り出して笑う真人がいた。俺はあがりだ。手持ちの二枚を補助席に投げ出して彼は言う。
「待たせてごめん」
 真人の笑顔が光に溶けて、クドリャフカは、喫茶店の窓を背負う席に理樹が腰かけるのを見る。変な姿勢で束の間の眠りに落ちていたため、彼女の右手は痺れていた。そのすぐ隣に珈琲が置かれている。
 クドリャフカは痺れる右手を左手で包み、理樹の顔を見つめる。彼の目の下に浮き出た濃いくまは、今朝彼女が病院の鏡で自らの顔に見たそれと同じだ。心が凍てつく感覚を覚えて珈琲に手を伸ばす。舌先に触れた苦味と熱とが、今なお彼女の肉体を覆う眠気を追い払う。
 いくらか量の減った珈琲を見下ろしながら、クドリャフカはカップを持つ手をわずかに揺らして、暗く凪いだ表面を揺らした。ゆるく立ちのぼる湯気を浴びながら、濃淡が移り変わっていく様をただ見ていた。顔に当たる熱が心地よく、逃げ出したばかりの睡魔が再び忍び寄ってきていると感じた。
「真人は、まだ目を覚ましてない」
 理樹は、うつむいて両手の指を組んでいた。
「でも、手術は成功して、命に別状はないって」
 どこかで聞いたような台詞だ、とクドリャフカは思う。ここは確かに現実なのに、理樹の発する言葉の一つ一つが現実味を奪っていた。
 そうですか、と淡白に返したクドリャフカは、視界の端で、理樹の指の爪が、彼自身の手の甲に食い込んでいるのを見た。うっすらと滲み出る赤い血が、自らの瞳の中にも同じ色のしずくを落としたとクドリャフカは感じた。鮮血に濡れて、彼女の見る世界はあらゆるものの輪郭がぼやけていく。薄く塗り延ばされた赤色は、たちまち濃度を低くして本来の色を失う。残されたのは白く濁る曖昧な景色だ。深い霧の只中に放り出された彼女は、直後に訪れた振動によって足場を崩される。天地の区別すらつかなくなった彼女は、強烈な浮遊感に晒されるさなか、どこからか伸びてきた腕に体を引き寄せられた。
 息苦しさにあえぎながら、クドリャフカはきつく目を閉じた。彼女が再びまぶたを上げたのは、幾度もの振動が収まった後、顔に何かの液体が垂れていると感じたときだ。目を開けた彼女は、自分が真人に抱きしめられていることを知った。
 双眸を見開いたクドリャフカには、意識を失った真人の顔が滲んで見えた。体と体の間に挟まれた腕を強引に引っ張り出して、目元をこする。手の甲にかすれた血がついている。腕もあちこちが血みどろだった。自分が流したものではない血の、あまりにも鮮やかなその色に、彼女の意識は激しく揺さぶられる。彼の名を呼ぼうとしたが、喉から漏れるのは声にならない吐息だけだった。
 まばたきを繰り返すたびに、赤々とした大小の点が視界を乱暴に穿った。クドリャフカは、震え始める手を自らの胸元に押しつける。染まりゆく視界の赤が中央に凝集し、一つのまるい点になる。まばたきをした彼女の瞳からその色が剥がれ、透明なしずくに変じてこぼれ落ち、喫茶店でクドリャフカが頼んだ珈琲の黒い表面に、穏やかな波紋を一度だけ渡らせた。
 クドリャフカの涙が、二粒、三粒とテーブルを濡らした。泣くことが他者から同情を引くための卑怯な行為であるように思えて、彼女は服の袖で必死に目元をぬぐった。
「リキ」
 乾いてかすれた声が出た。いずれどちらかが言い出さなければならないのなら、その役目は自分が負うべきだとクドリャフカは考える。傷の深さを天秤にかけることはできないが、彼女には理樹の苦悩が少なからず理解できた。
「私たち、もう、会うべきではないです」
 言いながら、クドリャフカは顔を上げる。理樹はうつむいたままだった。今このとき、互いの視線が結ばれないことを知った彼女は、表情を歪めてから同じようにうつむいた。何を恨めばいいのかも分からなくて、ぬるくなった珈琲をひといきに飲み干す。ひとかけらの砂糖も混じっていないそれの苦味が、彼女の濡れた瞳をいっそう潤ませた。
「真人とは、どうするのさ」
「意識が戻るのを待って、話をします。その先のことまでは分かりません」
 それでも、真人に何を言えばいいのか、言いたいのか、今のクドリャフカには分からなかった。
「僕は、会わない」
 痛々しく傷ついた手の甲を見ながら、理樹は言い切る。クドリャフカは思い立ってハンカチを差し出すが、彼に受け取る意思がないことを知ってポケットに収めなおした。話はもう続かない。かつてなら決して訪れなかった沈黙が、この現実に取り残された二人の距離だった。鈴を失った彼の心に、クドリャフカが届けられるものは何もない。
 クドリャフカは財布から取り出した硬貨を席に置いて立ち上がる。理樹に背を向け歩き出し、不意に足を止めて身震いする。莫大な時間と思いの上に築かれた仲間たちとの関係が、あのたった一枚の硬貨と等価なのだと告げられたように思えたからだ。それが錯覚だと思いたくて、彼女は足早に喫茶店を後にした。


   2


 クドリャフカは、退院の翌日から学校に通うことを選んだ。元々、体に傷はほとんど負っていない。望めば何日でも休めたはずだが、甘えを知れば二度と復帰できないだろうと彼女は思う。
 歯を食い縛って登校したクドリャフカは、職員室から校長室にたらい回しされた挙句、まだ療養を続けた方がいいと告げられた。数少ない生存者の一人である彼女は、自分が、事故の動揺が収まらない在校生の心をかき乱す存在であることにそのとき気づいた。新たに配属させるクラスや寮室も決まっていないという校長の言葉の裏に、大人しくしていて欲しいという思惑が見え隠れしていた。
 クドリャフカは拳を握り締める。皮膚が裂けるほど強く唇を噛んだ。別に褒められたいわけではなかった。それでも、自らの覚悟が単なるわがままとしか見られない不条理に、彼女は憤りを覚えずにはいられなかった。校長から視線を逸らして床を睨んだ。激情はたちまち悔しさに成り代わり、瞳の奥が湿り気と熱とを帯び始めた。
 慌てて校長室を飛び出して、授業中だから誰もいないであろうトイレに駆け込んだ。流した涙の意味を勘違いされるのが嫌だった。泣き腫らした目を後で見られて、勝手な物語を組み上げられることを思うと、激しい羞恥と怒りで身もだえした。
 存分に泣いているとチャイムが鳴った。クドリャフカは反射的に鍵を閉め、両足を抱えて便座の上で身を縮めた。膝の間に顔を埋めて息を殺していると、扉一枚を隔てた向こう側から女生徒たちの声が聞こえてくる。何事もなくやがて遠ざかる声を、安堵の息を吐くことで見送った彼女は、自らの行動のみじめさを悟って愕然とする。片手を伸ばして、個室の厚く冷たい壁に指先を触れさせた。もう前とは違うんだ、とごく当然のことを思う。
 教室に行くことを諦めて、クドリャフカは女子寮の自室に向かう。別の誰かが居場所を押しのけている可能性もあったため、そこに自分の荷物が残されているのを見て彼女は救われた心地になった。
 ルームメイトである佳奈多の机にフォトフレームが載っていて、いつかに二人で撮った写真が内側に収められていた。胸が詰まり、そして、また別種の理解が胃の腑に落ちてきて、クドリャフカは目を伏せた。机に近寄って、写真を隠す形でフォトフレームを倒す。私はもう死んだ人間なんですね、と彼女は自らに言い聞かせるようにつぶやいた。卑屈な考えだとは分かっていた。けれども、事実として佳奈多の妹である葉留佳は死んだ。クドリャフカは生き残った。どんな顔をして佳奈多と顔を合わせればいいのか、彼女には分からなかった。
 自らのベッドに背中から倒れ込み、クドリャフカは両手を大きく広げて投げ出した。柔らかな布団に身を沈ませ、深呼吸をしてみる。ここから見上げる天井が、たまらなく懐かしかった。遅くまで試験勉強をする佳奈多にホットミルクを差し出した日のことが思い出された。彼女のことが好きだった。今もそうだ。だからもう、終わりにしようと思った。
 学校が落ち着くまで校舎に近寄らないことを条件に、クドリャフカは寮内の一人部屋を勝ち取った。その日のうちに佳奈多の部屋から自らの荷物を引き払い、彼女と出くわす前に自室へ引っ込んだ。身勝手な選択だという自覚はあった。
 クドリャフカが何気なく自室の窓を開けると、夕陽が射し込んできて彼女自身の影を床に伸ばした。茜色に染まる胸に当てた手のひらに、心臓の鼓動が伝わってきた。あたたかだった。彼女は生きていた。


   3


 独りきりの部屋で眠るクドリャフカは、夢と現実の狭間をさまようとき、決まって真人の腕のあたたかさを思い出す。大きな体を抱き返そうとするそのたびに、クドリャフカは彼の背後に累々と横たわる仲間の死体を見せられた。彼女たちの流した血が真人の腕を汚していて、彼の流した血がクドリャフカの全身を汚していた。波打つ赤黒い血だまりの只中で、それでも彼女は溺れずに生きていられた。
 クドリャフカの見る夢は、現れるたびに形を変える。判で押したように変わらないのは、真人の一番近くに鈴がいることだけだ。何もかもが虚無に呑み込まれかけたそのときに、彼は伸ばす腕の矛先を自らの意思で選ぶことができた。選び取られたクドリャフカはだから、選ばれなかった彼女たちの顔を、夢の中でさえも見ることができない。誰もが等しく死んでいれば。自分と誰かの立場が逆であれば。自分だけが生き残っていれば。無意味な仮定は弾けて消える泡沫で、弾けた後には今ここにある現実しか残らない。
 授業中だけを狙って、クドリャフカは人気のない学校を歩き回った。見慣れたはずの景色がひどく新鮮だった。彼女は世界が変わらずに存在することを確かめるように、空気を吸い、手で触れ、匂いを嗅いだ。人目を忍ぶ彼女は喧騒と無縁だった。校舎から溢れ出る沢山の人の気配を浴びて、彼女の肌は孤独に焼かれた。わふーと小さく口ずさみ、立ち止まりたがる足を無理やり前に進ませた。
 数日後の昼休み、自室に戻るのが遅れて途方に暮れていたクドリャフカは、二つの鳴き声を聞きつけて、人目も構わずに中庭へと足を向けた。佐々美がケヤキの下に腰を下ろして弁当を広げ、その両側にヴェルカとストレルカが行儀よく座っていた。彼女は二匹の頭を順に撫で、食事を与えている。
 二匹が唐突に顔を上げた。佐々美の制止を振り切って駆け出すと、木の陰に隠れたクドリャフカをたやすく見つけ出し、観念して立ち尽くす彼女の体に容赦なくすがりつく。謝罪の言葉を口にしつつ遅れて走り寄ってきた佐々美が、クドリャフカの顔を見て驚きに目を見開いた。彼女の瞳に怯えの色が混じるのがクドリャフカには分かった。それが自然な反応だと思った。
「その、ありがとうでした」
 クドリャフカは深々と頭を下げる。いえ、と返した佐々美は、片膝をついて二匹と目線の高さを合わせる。喉をくすぐり、彼女は微笑む。
「笹瀬川さん。勝手なお願いだと分かっているのです。あの、ヴェルカとストレルカの世話をこれからもお願いできないでしょうか」
 断ることができない性格だと知りながら、知っていたから、クドリャフカは佐々美に二匹を再び託すことを選んだ。打算的な考え方が板についてきたように思えて、彼女は顔に出さずに自嘲した。
「この子たち、能美さんの帰りをずっと待っていましたわ」
 結果的に二匹の世話を押しつけられたことや、理由すら告げられず、今またその継続を求められていることに対し、佐々美は一切の不満を言わなかった。クドリャフカを責める風でもなかった。佐々美はただ、辛そうに目を細めた。
「能美さんも、ここを去られるのですか」
「いえ、私はここに残るのです。それより、もしかして」
 佐々美は沈痛な表情で頷く。先日、理樹が退学届けを出したということだった。生徒たちの間で随分噂になっているようだった。届けが受理されるまではしばらくかかる。だが、その間に彼がここを訪れることはないだろうとクドリャフカは思う。
 理樹の決断が自分のせいだと思えるほど、クドリャフカは傲慢になれなかった。表情を変えずに頷いて、彼は逃げたのだろうかと考える。たぶん、そんなことはない。学校生活にしがみつくことと、過去に背を向けること。どちらがより強く、より価値のある選択であるかなんて、他の誰にも決められない。その道を選んで行く者だけが、自らの選択の意味を知っている。クドリャフカは目をつむり、今も病室で眠っているであろう真人の行く先に思いを馳せた。抱き締められたときのことを思い出した。彼に会いたい、話がしたいと強く思った。
 佐々美と別れたクドリャフカは、学校を出て病院に向かった。駅前で花束を買い、受付で見舞いを申し出た彼女は、真人が病室から抜け出したことを知る。誰にも目覚めを知らせないまま、夜中のうちに姿を消したということだった。クドリャフカは太陽が沈むまでロビーで花束を抱えて待ち続けたが、彼が戻ってくることはなかった。


   4


 真人が消息を絶ってから週が一回りし、誰も知り合いのいないクラスにクドリャフカは編入することになる。生徒たちから向けられる視線は、好奇と恐怖がおおよそ半々だった。ただ、クドリャフカは露骨に避けられていた。休み時間になっても彼女に声をかける者はおらず、彼女が歩けば自然と道ができた。そうなるだろうと予想していたが、そんな理解とは無関係に心が軋んだ。
 翌日、登校したクドリャフカは、自分の机の上に一枚のルーズリーフが置いてあることに気づいた。赤マジックで太く『死神』と書き殴ってあった。頭に血がのぼった彼女は、乱暴に紙を引き裂いて、教室中に視線を巡らせる。誰も彼女と目線を合わせようとしてくれなかった。
 クドリャフカは、屈強な肉体を持つわけでも、狡猾さを持っているわけでも、折れない心を持っているわけでもなかった。彼女をよく知らない人間にとって、彼女は貧弱で気弱な少女でしかなかった。耐え忍ぶ以外にいじめの受け流し方を知らなかったことも、彼女の立場を際限なく悪くした。
 直接の因果関係はなくとも、事故から生還したクドリャフカの背後には、無残に死んだ多くの人々がいる。もし何も起きなければ死体の群れに加わっていたはずの彼女はだから、顔の見えない他人から吐きつけられる『死ね』という罵倒を持て余した。
 初日から数えて三日目の早朝、椅子の上に折り重なって置かれた引き裂かれた数冊の教科書と、マジックで机に直接書き連ねられた暴言の数々を目にしたとき、クドリャフカは脇目も振らずに教室を飛び出した。行き先など彼女も知らなかった。闇雲に走って校舎を抜け、渡り廊下で派手に転倒した。膝をすりむいて血が滲み、誰かの笑い声を聞いた気がしてまた走り出す。嘲笑を振り払いたくて耳を塞ぎ、気づけば中庭に辿り着いていた。
 貧血に襲われたように、クドリャフカの視界は揺れて落ち着かなかった。立ち尽くす彼女の足元にヴェルカとストレルカがいた。比喩でなく腰が抜けてその場に崩れ落ちた彼女を、あの日のように駆け寄ってきた佐々美が優しく助け起こした。
 この後の授業には出ないとクドリャフカは言った。佐々美は「仕方ありませんわね」と肩をすくめて、頼みもしないのに、一時限目の授業をサボると宣言してくれた。それならということで、クドリャフカは、まだ他人が入ったことのない寮内の自室に佐々美を招くことに決める。
 おっかなびっくり部屋に入った佐々美が、いい部屋ですわね、と当たり障りのないお世辞を口にする。何だかおかしくて、クドリャフカは独り小さく笑う。まだこうして笑えたことが意外だった。
 佐々美は殺風景な部屋をしきりに見渡している。何を言っても重苦しくなりそうな空気の中、必死に楽しい話題をひねり出そうと苦闘してくれているのだと気づいて、クドリャフカの胸は多くのあたたかな感情で詰まった。
「二木さんの、ことなんですけれども」
「はい」
 それでも、思案の末に佐々美が導き出した言葉はクドリャフカをどうしようもなく怯ませる。もはや自分たちの間には日常のひとかけらすらも残っていないように思えて、寒くもないのに彼女は身を縮ませた。
「ちょっとした話を小耳に挟みまして。ついこの前、二木さんが職員室で先生と話をしていたらしいんですの。その内容が、なんと言いますか、空いている寮の部屋を一つ貸して欲しいというものだったそうで」
 佐々美が何を言おうとしているのか、すぐに分かった。ベッドに腰かけたクドリャフカは、両手で布団をきつく握り締める。体のあちこちが火照り始めるのが分かった。
 佳奈多が寮内にクドリャフカの新たな居場所をつくろうとしてくれたことが嬉しくて、でもそれが彼女の隣でないことだけが悲しかった。自分の意思で部屋から出たくせに、傍にいることを許されなかったのだと、捨てられたのだと、クドリャフカはそのとき確かに思った。
 自らを醜く貶めることだと知りながら、クドリャフカは、佳奈多が厄介者のルームメイトを追い出すために手切れ金を用意してくれたように思った。思うことは確かな罪で、クドリャフカはもう自分に佳奈多と関わる資格がないことを知る。面と向かって言えなかった別れの言葉も、今の自分が発せば卑しいものに成り下がると思った。
「どうかされまして?」
 こみ上げる吐き気を抑えるように、クドリャフカは口元を軽く覆う。彼女を苦しめるのは醜悪な自分自身だった。佳奈多の思いを踏みにじるたびに、彼女は自らの心をも踏み潰していた。
「笹瀬川さん」
「はい?」
「これからはもう、私に優しくしないで欲しいです。無視して下さい。私もそうします。それがたぶん、一番いいです」
 苛烈さを増す最近のいじめで、心がすり減っているからこそ出てきた勢い任せの言葉だとクドリャフカは分かっていた。ここで佐々美を突き放したことを後悔すると知っていた。だが同時に、自身の磨耗した心がいずれ猜疑心の根を佐々美にまで伸ばすことをも、クドリャフカは知っていた。これ以上、優しい彼女の顔が辛く歪むのを見たくなかった。
「ありがとうでした。そしてごめんなさいです。それから、ヴェルカとストレルカのこと、どうかよろしくお願いします」
 佐々美が何か言うのを待たずに、クドリャフカは彼女を部屋から強引に閉め出した。鍵をかけると静寂が部屋に満ちた。佐々美や佳奈多、ヴェルカやストレルカにまで悪意や暴力が伝染することを思うと血の気が引いた。クドリャフカは自分が死神と罵られたことを思い出した。扉に背中を押しつけて座り込んだ。これで本当に独りぼっちだ、と彼女は思った。


   5


 教室に向かうのが憂鬱だった。それなのに早朝から足を運んでいるのは、早ければ早いほど、いじめに対処できる時間が増えるからだ。昨日の有様を思えば、落書きどころか、机や椅子が丸ごと撤去されていてもおかしくはない。空き教室に向かう算段を立てながら、クドリャフカは廊下を歩いた。余計な思考で頭を満たしていないと落ち着かなかった。
 幸いにも、教室には誰もいなかった。身構えつつ自分の席に向かったクドリャフカは唖然とする。悪戯の痕跡すらない机と椅子が、揃ってそこにあったからだ。慎重に机の中を探ると、新品の教科書までもが出てきた。浮つきかけた心を彼女はすぐに鎮めた。どうせ、教師の誰かが気を回しただけだろうと思う。クラスメイトが急に改心してこんなことをするとは考えられなかった。
 時計の針が進んで人が増えても、案の定、クドリャフカに近寄ろうとする者はいない。何も変わらない朝だった。三時限目の終わりにクドリャフカは我慢できなくなってトイレに向かう。席から離れれば何をされるか分からないため、手早く済ませて戻るつもりだった。
 洗面台の前で佳奈多が手を洗っていて、振り向いた彼女とクドリャフカの視線が一瞬だけ結ばれる。構わずに個室へ駆け込んだクドリャフカは、十数秒の間を置いて、上から多量の水を浴びせかけられた。髪と体から滴り落ちた水が、しばらく床を叩き続けた。下卑た笑い声が聞こえてきた。ずぶ濡れになった彼女の肌に制服が張りついていた。下着の線がくっきりと透けていて、これでは外に出られないと彼女は思う。絶望的な思いで天井を見上げた。電球の白い光が、潤んだ瞳の中にべったりと滲んでいた。
 クドリャフカはトイレットペーパーで服の水気を吸い取り始めた。どれだけ紙を使っても一向に乾く気はしない。水の冷たさが身にしみて、彼女はときおりくしゃみをした。悔しさとみじめさがこみ上げてきて仕方がなかった。
「クドリャフカ」
 抑揚のない佳奈多の声が、扉の向こう側から聞こえた。懐かしさに息を呑んだ。だが、彼女に対して抱いた汚らしい感情のことを思い出して、クドリャフカは何も答えられなかった。そうしていると「ここを開けて」と無感情な声が続く。
「嫌、なのです」
 舌を滑って出たのが拒絶の言葉だったことが、自らの姿以上に恥ずかしかった。佳奈多はどんな顔をしているのだろうと思った。冷え切った彼女の瞳を思う。いじめの現場に立ち会いながら、どうして何もしてくれなかったのかという疑問がクドリャフカの喉元までせり上がっていた。答えを聞くのが怖かった。佳奈多と過ごした日々の幻影が、彼女の心に灼熱の焼きごてを押し当てていた。
「そう」
 頭上に影ができたと思った直後、クドリャフカの髪や肩に数枚のバスタオルがぶつかった。それが佳奈多から届けられたものであることにしばらく気づけなかった。礼を言おうと口を開いたとき、彼女の気配はもうどこかに消えていた。
 翌日、クドリャフカのクラスの女生徒が数人、学校を休んだ。体調不良ということだった。その日を境として、数人ずつ生徒が休み始めた。一週間も経つとクラスは櫛の歯が欠けたような有様になった。
 クドリャフカが独りで食堂で昼食をとっていると、急に隣の席に誰かが寄ってきて面食らう。後から来た数人の女子グループに、あなたがいると仲がいい友人同士で並んで席に座れないという理由で追い出されたことがあったため、彼女はそれから窓際の個人席を選んで座るようにしていた。また難癖をつけられるのかと思うと顔がこわばった。
「いいかしら。隣」
 佳奈多が昼食の載った盆を持って立っていた。クドリャフカは目をまるくする。戸惑いのあまり、声が出なかった。彼女の沈黙を肯定と受け取ったらしい佳奈多は、盆を置いて遠慮なく椅子に腰かけた。クドリャフカは食事を再開せず、上品に食事をする彼女の横顔を見つめている。
「何?」
「私といると、ろくでもないことに巻き込まれます」
「知ってるわ」
 にべもなく言う佳奈多が何をどう考えているのか、クドリャフカには見当もつかない。敢えて空気を読まない受け答えをしている佳奈多を前に、彼女は自分が喜ぶべきか悲しむべきか分からずにここでの態度を決めかねた。そのうち、クドリャフカは、自分の顔や髪、露出した肌などを佳奈多に注意深く観察されているということに気がついた。
「クドリャフカ」
「はい」
「病気はしてない?」
「はい、平気なのです」
「怪我は?」
「それも、平気です」
 佳奈多の質問には事務的な響きがあった。クドリャフカは嘘をついていない。だが、まばたきもしない彼女に見つめられているとわずかな感情の揺らぎさえも見透かされているようで怖くなった。適切な距離の取り方が分からない相手と共にいることは息苦しかった。
「そう」
 手早く食事を終えた佳奈多は、クドリャフカよりも早く席を立つ。盆を持ったまま、足を止めて振り返る。あのねクドリャフカ、と淡々とした口調で呼びかける。
「悪いことした人間には罰が当たるわ。絶対にね」
「そう、でしょうか」
 この世界にそのような仕組みや法則が存在しないことをクドリャフカは知っていた。佳奈多だってそうだろうから、何故そんな戯言を彼女が口にしたのか理解できなかった。それでも、佳奈多との繋がりに対する無意識の甘えが、曖昧な返答をクドリャフカにさせた。ただ、もしそんなものがあったとしたら、自分はどうなるだろうかと彼女は思った。あの事故と、鼻をつく血の臭いを思い出した。
「そうよ。そうなるの」
 佳奈多はクドリャフカに背を向けた。


   6


 少し前から兆候はあったが、クドリャフカに対するいじめは嫌がらせめいたものが大半となり、彼女を表立って晒し者にするようなことは滅多に起こらなくなっていた。多少の不愉快さを許容すれば、彼女はそれなりに普通の高校生活を送ることができるようになった。
 無視されることだけは変わらずに、クドリャフカは独りでぼんやりと毎日を過ごした。いじめでかき乱されていた心が落ち着くと、彼女は自分の前に長すぎる空間の時間が横たわっていることに気づいた。食事をして、勉強をして、眠りに落ちて、それでも埋まらない圧倒的な空白だ。
 クドリャフカは、佐々美がヴェルカとストレルカと一緒に遊んでいる姿を物陰から見ているのが好きだった。筋書きのない、彼女たちの動きの一つ一つを眺めているだけで、良質の映画を見ている気分になれた。胸が締めつけられた。
 クドリャフカの誕生日は朝から小雨が降っていた。別に、だからどうしたということはない。雨だから、中庭で二匹と遊ぶ佐々美を見られないことだけが少し寂しいと思った。一方的に別れを告げてから、クドリャフカは佐々美と一度も話していなかった。いじめが収まったのだから仲直りすればいい、と彼女の一部がささやいていた。意地を通したいとか、謝るのが恥ずかしいとか、そういうことではなかった。
 真摯に頭を下げれば、佐々美は笑って許してくれるだろうと確信できた。だから再び友達になった後、自らの都合でいつかまた彼女を突き放す日が来ることが怖かった。そしてまた彼女の優しさにすがることが嫌だった。そうしないとは言い切れない。今ここに、その道をなぞろうと考えているクドリャフカ自身がいるからだ。
 普段通りに登校したクドリャフカは、普段通りに授業を受けた。今日が彼女の誕生日だと知る者が教室にいるとは思えなかったし、そもそも知られたいとも思わなかった。長く教室にとどまったり、学校をあてもなくさまようのが未練がましくて嫌で、だから彼女は一直線に自室へ戻った。
 扉を開けると、机の上に大小の小箱が一つずつと薄いピンク色の液体が満ちたガラス瓶が置かれていた。天井に近い四方の壁をぐるりと取り囲むようにして、折り紙を輪にして繋げた鎖の装飾品が吊り下げられていた。震える手で箱を開ける。片方には甘そうなケーキが入っていて、もう片方には銀色に輝くネックレスが収められていた。すぐ傍に、クドリャフカの誕生日を祝う名前入りのプレートが添えられていた。シャンメリーの瓶はまだ冷たかった。彼女は部屋を飛び出した。
 クドリャフカが向かった先は生徒会室だ。中を覗き込むと佳奈多が他の役員を前に話をしている。偶然なのか感覚が鋭いのか、彼女は視界の端にクドリャフカを捉えたらしく、口をつぐんでいた。一言断りを入れる仕草をして、教室から出てきた。
「何? 悪いけど、忙しいの」
「あ、その、ありがとうなのですっ」
 鍵を閉めて自室を出たクドリャフカには、自分がいない間に部屋へ入ることができたのは、寮の合鍵を手に入れた人間だけだと分かっていた。そんな芸当ができて、自分のことを気づかってくれそうな人間は佳奈多以外に思い当たらなかった。
「悪いけどそれは私じゃない。放課後すぐここに来たから、そんな細工をしている時間はなかったもの。何なら、クラスの人たちに確かめてもらってもいいけど。でも、誕生日おめでとう、クドリャフカ。それじゃ、まだ話の途中だから」
 寮長室に引っ込む佳奈多を見送りながら、クドリャフカは彼女が嘘をついていると思った。いくら急いでるとはいえ、風紀委員の彼女が、寮室の合鍵が不当に使われたという話を無視するのはおかしいからだ。
 クドリャフカは自室に引き返し、ケーキを食べてシャンメリーを飲んだ。自分自身でさえもそれほど特別視していなかった誕生日が、このとき確かな意味を持ったようで、彼女は思わず涙ぐんだ。これらを誰が与えてくれたかなんて、どうでもいいことのように思えた。誰かに見守られているという感覚は、独りきりを選んだクドリャフカの、痛めつけらてささくれた心を優しくとろかした。
 姿の見えない誰かのために何ができるかと考えて、クドリャフカは手紙を書くことを選んだ。受け取る相手が佳奈多だとしても、佐々美だとしても、もっと違う誰かだとしても、構わないと思った。彼女は自分の気持ちを自分の言葉で書き記し、鍵をかけた自らの部屋に残した。それから、手紙は、おおよそ一週間に一度の割合でクドリャフカの部屋から持ち去られた。彼女は余計な詮索をせずに、手紙を書き続けた。返事の代わりに部屋から手紙が消えた。それだけだった。それだけで構わなかった。時が流れた。


   7


 卒業式を終えて渡り廊下を歩いていると、中庭の方でクラスメイトたちと一緒に泣いている佐々美の姿が見えた。佐々美の気も知らず、ヴェルカとストレルカは彼女に構って欲しくて吠え声を上げながら体にすがっている。
 誰もが外に出払ってしまっていて、寮内には人気がなかった。クドリャフカにはこの静けさが心地よくも悲しくもあった。高校生活が終わってしまったと思うと道が突如として途絶えてしまったように感じられた。彼女はこれから自分がどう生きていくのか、この期に及んでも結論を先延ばしにしたくて、自室で後ろ向きな眠りにつこうと決めていた。
 クドリャフカの部屋の扉に背を預け、両腕を組む格好で佳奈多が立っていた。クドリャフカが近づいたことに気づくと目を開けて「卒業おめでとう」といつも通りの声で言った。おめでとうなのですと彼女が返し、それで会話は不自然に止まる。
 何かありましたかとクドリャフカが問うと「さぁ」と芝居めいた動きで佳奈多は両手を左右に広げて見せた。ふと思い立って、クドリャフカは制服のポケットから、今朝出し損ねた手紙を取り出した。出そうか出さないか迷って、結局持ち出してきてしまったものだった。無言で手紙を差し出すと、彼女はまじまじとそれを見つめ、わざとらしくため息を漏らしてから「駐車場」とつぶやいた。
 ありがとうなのですと頭を下げて、クドリャフカは駆け出した。喧騒を縫い、風を切って足を前に進めた。柔らかな空気が肌に気持ちよかった。広々とした駐車場の奥、車止めの一つに、彼女に背を向ける格好で真人が座っていた。クドリャフカは息を殺して歩み寄り、真横から彼の大柄な体に小柄な体をぶつけてみた。体重差のせいでびくともせずに、けれどクドリャフカを見上げた真人は、無言で少しだけ体を寄せて、車止めの端の方を彼女に譲った。それで十分だった。彼女はそこに腰かけた。肩に触れる体があたたかだった。クドリャフカは生きていた。独りではなかった。


[No.531] 2009/11/21(Sat) 17:28:50
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