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   第46回リトバス草SS大会 - 大谷(主催代理) - 2009/12/04(Fri) 00:02:16 [No.544]
魔窟 - MVPに敬意を@10628 byte(無論遅刻だ) - 2009/12/05(Sat) 23:55:40 [No.564]
コタツで寝ると風邪をひくから気をつけろ - ひみつ@12273 byte 寝るまでが締切。遅刻 - 2009/12/05(Sat) 14:29:16 [No.563]
しめきり - 大谷(主催代理) - 2009/12/05(Sat) 00:19:06 [No.562]
オープニング・エンド - ひみつ@20466byte - 2009/12/05(Sat) 00:10:48 [No.561]
形あるものを僕は信じる。 - ひみつ@15,411 byte - 2009/12/04(Fri) 23:59:28 [No.560]
朝帰り - ひみつ@2968byte - 2009/12/04(Fri) 23:56:28 [No.559]
制服を返せ! - ひみとぅ@15427byte - 2009/12/04(Fri) 23:11:57 [No.557]
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君がいるから - ひ蜜@3425 byte - 2009/12/04(Fri) 20:15:53 [No.554]
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夢から覚めても - ひみつ5253 byte - 2009/12/04(Fri) 14:10:01 [No.552]
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今回の投稿作について - 大谷(主催代理) - 2009/12/04(Fri) 13:50:30 [No.550]
図書館の君 - 秘密 8670 byte - 2009/12/04(Fri) 02:28:34 [No.547]
眠姫 - ひみつ 2432 byte - 2009/12/04(Fri) 00:08:42 [No.546]



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第46回リトバス草SS大会 (親記事) - 大谷(主催代理)

 詳細はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/rule.html
 この記事に返信する形で作品を投稿してください。

 お題は「眠り」です。

 締め切りは12月4日金曜24時。
 締め切り後の作品はMVP対象外となりますのでご注意を。

 感想会は12月5日土曜22時開始予定。
 会場はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/chat.html
 はじめにMVP投票(最大3作まで投票可能)を行いますので、是非是非みなさまご参加くださいませ。
 ご新規、読みオンリー、感想オンリー、投票オンリー、大歓迎でございます。


[No.544] 2009/12/04(Fri) 00:02:16
眠姫 (No.544への返信 / 1階層) - ひみつ 2432 byte




『眠姫』



 空は青く雲は白い、下は緑で遠くは灰色。ごろんと横になった芝生から遠くを眺める。病院に灰色って変にイメージを悪くするんじゃないかと、空っぽの頭に言葉が浮かぶ。本当に空っぽの頭なら何も考えられないのだろうけど。
 曇り続きの最近にしては珍しい快晴。久方ぶりの太陽の光を布団を干すみたいに全身に浴びる。久しぶりの光を浴びて、遠くの灰色も光を浴びて真っ白になってしまえばいいのに。それなら中まで光が届くかなとか、そんな考えが頭をよぎったり。
「ダメだ」
 気晴らしをしようかと思ったけど、どうにも気は晴れてくれないらしい。諦めて緑から起き上がり、灰色に向かって歩き出す。
 空は青くて雲は白い。下も近くも灰色だけど、遠くは緑。
 通り慣れた自動ドアをくぐると人工的な熱気と、不自然な薬品の臭いが鼻につく。身が引き締まるような寒さと自然の空気との違いは薄くて透明な板1つ。
 カウンターにいる女性たちに張り付けた笑みで会釈をするのもいつもの事。
「ねえねえ、あのいい感じの男の子、よく見るけど誰のお見舞いに来てるのか知ってる?」
「ほら、あのバス事故」
「あれ? じゃああの男の子ってもしかして――」
 エレベーターのドアが閉じて声が断ち切れる。ロビーの小さな喧噪とうってかわり、単調な機械音が響く狭い箱にいる事十数秒。薄汚れた廊下を歩いて病室へ。
「戻ったよ」
 言葉が返らないとは分かっているけれど、声だけはちゃんとかける。そうじゃないと誰より自分が認めてしまいそうだから。
 ベッドの上、変わらずに眠る。死とは寝息と胸の上下、そしてその体温以外に違いのないその体。けれどもそれは、とても薄くて大きな違い。
 部屋の色は灰、窓から見える空は青時々白。そしてベッドで眠る淡い君。
 そっと近づいて口づけを一つ。ほんのりとした温度が唇から伝わってくる、そして離れる。眠れる君は変わらない。眠姫は口づけでは目覚めない。いや、なにをしても変わらない。
 目覚めないからこそ、眠姫。笑うこともなく、ただただ眠り続ける姫が目覚める事は、永遠にない。

「で、名前が一切でてないけど、イメージは誰?」
「主人公、理樹さん。眠姫、恭介さんです」
「僕!? しかも男なのに姫って!!」
「こちらの世界ならこの位は当然です。同人の事を知りたいと言ったのは理樹さんなのですから、早く馴染んで下さい」
「ホモ小説なのは予想外過ぎたけどね」
「わざわざ理樹さんの為に短くてソフトな作品を作ってきたのに。
 いえ、それよりも! ホモとやおいとBLとで意味が違います。そこの辺りをしっかりと説明しなくてはいけないようですね」
 過去まれに見る情熱で理樹に語る美魚に、うんざりした顔の理樹。教室の中には彼ら以外誰もいなく、遠くからたまに運動部の声が届けられるだけの、湖のような静けさの中。
 窓の外、下は緑で上は青。近くに木々が遠くに雲が。小さな鳥が一羽だけ、のんびり世界を渡り飛ぶ。


[No.546] 2009/12/04(Fri) 00:08:42
図書館の君 (No.544への返信 / 1階層) - 秘密 8670 byte

 その扉はひっそりとそこに在った。薄暗い廊下の突き当たり、全ての人間から見捨てられたように。誰も掃除などしていないのだろう、消火栓の上や掲示板の隅、そこかしこに埃が溜まっていた。歩を進める度に舞い上がる埃。窓から差し込む光に照らされて、空気が動いていることをその目で見ることが出来た。
 扉の上には「図書室」と書かれたプレート。
 散策子は首を傾げる。こんなところに図書室などあっただろうか? この学校の図書室など何度も行ったことがある。だがこんな場所ではなかったはずだ。
 そもそも自分がどこをどう歩いたのか覚えが無かった。色んなことがぼんやりと霞んで見えた。ただ、気が付けば辿り着いていた。まるで何かに誘われるように。
 扉を開く。
 図書室にしては幾分狭い。入り口付近に長机が六つ。それ以外は天井まで届くスチール製の無骨な書棚。その書棚という書棚全てにぎっしりと本が詰め込まれ、床にまで本が積まれていた。その本の塔は、モノによっては天井に届かんばかりに堆く、部屋全体の圧迫感を増す。部屋の中は古い紙独特の匂いで満たされ、図書室というよりも昔ながらの古本屋といった風情。窓からは夕日が差し込み、電灯の灯っていないこの部屋を橙色に染める。
 部屋の隅に人が居た。女生徒だ。彼女は脚立に腰を下ろし、書棚に背中を預けて文庫本を読んでいた。目元を眼鏡で隠した、何処にでもいるような少女。しかしそのかんばせは、地味ながらも実に整ったかたちをしており、路傍に咲く名も無い花を思わせた。
 ふっと、顔を上げた女生徒と目が合う。彼女は、事も無げに散策子を見つめる。その視線に何故か焦りを覚える。
 散策子は、読書の邪魔をしたことを詫び、自分の名を名乗ろうとした。少女はそれを手で制する。
「あなたのことはよく存じています」
 感情の篭っていない平坦な声色。けれどもどこか澄んだその音色は、耳に快かった。
 少女は自分を「図書館の君」と、どこか自嘲的にそう名乗った。
「ここは普段関係者しか入れないのですが……。まあ、来られた客人を無下に追い返すような不躾な真似は致しません。どうぞ、お入りください」
 図書館の君は静かに脚立から下りると、こちらに歩み寄る。入り口近くにあった椅子を引き、散策子に勧めた。その後、彼女は窓際に置いてあるコーヒーメーカーに近寄る。サーバーを引き出して、恐らく自分のために淹れておいたであろうコーヒーを二つのカップに注ぐ。コーヒーの香りが部屋にふわりと立ち込める。
「お茶請けも無く、淹れたてでもありませんが」
 図書館の君は散策子にカップを置くと、自分は自分のカップ片手に、対面の席に腰を下ろした。
 散策子は礼を言うとコーヒーを一口啜る。それに合わせて彼女もカップを口元に運ぶ。散策子は視線を部屋のあちこちへと移す。
「変に思われましたか? こんなところに図書室があることに」
 図書館の君は人の心を見透かしたような、そんな口調で話し始めた。
「気になられるのであれば、ご覧になりますか?」
 図書館の君の提案に、散策子は遠慮したような視線を送る。
「私のことは気にしなくて結構ですよ。久方振りの、しかもあなたのようなお客様が来られたのですから」
 その言葉に、散策子はおずおずと席を立ち、書棚に向かう。どうやら扉を開けたときの感想は正しかったようだ。書棚の中は、ミステリやらSF、詩集、料理本、しまいには良く分からない大学ノートまでが、ジャンルも作者も全く気にせずに無造作に突っ込まれていた。
 大学ノートを手に取る。表紙には油性ペンでこう記されていた。

 リトルバスターズ 活動日誌 No82

 開いてみると、どうやら何かの部活(サークルの類かもしれない)のコミュニティノートのようだった。そこには、部員達がそれぞれその時あったことなどを書き連ねていた。

6/3
あれ、お昼なのに誰も居ないや。
知り合いのおじいさんたちからたくさんお菓子をもらったので、みんなにもお裾分け〜です!
机の上に置いておいたから、ちゃんと手を洗ってから食べてね。  こまり

6/3
はるちん参上!
こまりんの持ってきたお菓子は既に私の胃袋の中なのだ! 悔しかったら私の元に辿り着くがいい。
さて君にこの謎が解けるか。はっはっはっ。  H

6/3 14:20
最初に名前を書いて正体を晒しておきながら最後だけイニシャルにしても、謎でも何でも無いぞ。君の思考回路の方が遥かに謎だ。
とりあえず、今日は葉留佳君を半殺しにすればいいというわけか。 来ヶ谷

6/3 16:10
>来ヶ谷さん
ここに来た時間が完全に授業中です。
あと、三枝さんは全殺しでも構わないかと。 西園

 散策子にとっては、会った記憶も無い、恐らくは接点など無かったであろう人物の日常であった。しかし、何故か懐かしく思われた。読み進めるうちに、彼女達が過ごす優しい時間が目の前にありありと現れる。それは、彼女達にとってきっと温かくて幸福な時間だったのであろう。じんわりと、胸が熱くなる。
 やがて、ページが白紙になる。散策子は前のページに戻り、彼女達の生活の最後をもう一度眺めた。

6/19 8:20
恐らく本日で今回の活動日誌は終了です。
何か書き残したことがある方はお早めにお願いします。 西園

6/19 10:20
今回は長く続いたじゃないか。このまま無事に終わることを祈っておくよ。 来

6/19 12:25
みんな、お疲れさまー。
きっとクーちゃんは大丈夫だと思うよ。 >ゆいちゃん
それにしても、次はもうNo83なんだね。結構長いね。
また次もよろしくね、みんな。  こまり

6/19 たぶん12:30
ふー、まだ続いてるみたいですネ。朝寝坊したからヤバイと思ったんだけどナア。
(ていうか、こまりんも朝来てない組?)
じゃあ、みんなで最後にお疲れさま会でもやりますか!
最後の夜、みんなでいつまで起きてられるかタイムトライアル!
ひとりずつ、みんなを襲う謎の生物!
そして驚愕のトリックが!
あ、姉御の部屋に八時からね。 はるか

6/19 16:25
三枝さんが「驚愕」なんて言葉を使えることに驚愕しました。
活動日誌は六時に回収しますので、よろしくお願いします。  西園
(追記 18:05)
活動日誌への記入を終了します。皆さん、また春にお会いしましょう。
それでは。

「いかがですか?」
 散策子は図書館の君に、感じたままを話した。その言葉に彼女は少し憂いを帯びた微笑を浮かべる。
「そうですか。もしかしたらあなたも、このノートに出てくる人たちと同じような事をしてきたのかも知れませんね」
 散策子は何故このようなものがこの部屋に置いてあるのかを問うた。図書館の君は両手で三角を作ると、そこに自分の顎と鼻先をあてがい、真っ直ぐに散策子を見つめた。
「ここでは、部活の古いノートなどを蒐集しているのですよ。そしてそのノートを、見たいという方に対して開放しています。私は、彼ら彼女らに在りし日の記憶に浸って欲しい。それだけです」
 図書館の君は席を立つ。ふらふらと何かに誘われるように、彼女は窓際に立ち、外を見る。窓に映った散策子を眺めながら。
「忘れてしまった人も、忘れたくない人も。いつかはここに足を運んでこのノートを読む。そうすれば、たったひと時のことではありますが、幸せだったあの時を思い出す。そのときの皆さんの微笑む姿が美しくて。私にはそれが嬉しいのです」
 図書館の君が窓を開ける。一陣の風が部屋全体を駆け巡る。本の山にうっすら積もった埃を吹き飛ばす。
 彼女は髪をはためかせながら、詩を諳んじるように美しい声で、続けた。
「優しい時間、心地よい空間、いずれは朽ちて無くなってしまう。けれどそれらは確かに在った、その事実は永遠に変わりません。たとえ誰もが忘れようとも、誰もが居なくなってしまっても。私はここで、そんな事実を守っていきたいのです。私が居なくなり、この部屋が砂塵になって消えてしまう、その瞬間まで。それが、図書館の君たる、私の役目なのです」
 その声は強く、そして儚かった。
 彼女は待ち続ける。在りし日の思い出を望む人々を。この部屋で独り、溢れた文字に、残された思いに、その身を浸しながら。
「ですが、思い出が刃になる場合もあります」
 図書館の君は振り向き、散策子を見つめる。その瞳は眼鏡に隠されて、その色を窺うことは出来ない。
「時と場合によっては、優しい記憶が足枷になってしまうこともある。だから――」
 図書館の君は右手を高く上げると、人差し指と中指を突き出す。それはまるで空を指差しているかのようにも思われた。次の瞬間、彼女はその手を振り下ろす。
 途端に、散策子の体が机に叩きつけられる。全身に力が入らない。自分の上の空気が重さを持ったように、自分の体を押しつける。
「そんな方は全てを忘れてもいいのだと、私は思います。あなたは覚えておく必要なんて無い。私が代わりに、最期まで覚えていますから」
 図書館の君は眼鏡を外す。散策子は、その琥珀色の瞳に覚えがあった。散策子は自分が何者かを思い出す。何故、最初に気付かなかったのか。そうだ、彼女は、彼女は。
「さようなら。直枝さん」
 散策子の目蓋が落ちる。闇が降りてくる。飲み込まれていく。


 ある冬の日の昼下がり。理樹は一人、野球部部室の唯一の暖房器具である、石油ストーブの上で手を温めながら、皆が帰ってくるのを待っていた。
「直枝さん、お一人ですか? 他の方はどうされました?」
 美魚が部室に入ってくる。
「あれ、西園さんこそ一人なの?」
「ええ、ちょっと購買で買ってくるものがありましたので」
「もしかしてこれ?」
 理樹は一冊のノートを手にとった。
「ええ、それです。で、他のみなさんは?」
「何か折角の昼終わりだからって、皆でお昼を食べようって、何故か鍋をすることになったみたい。だから皆、買い出しに行ってるよ」
 理樹はノートの裏表紙を指差した。そこにはびっしりと書き込みがされていた。
「間に合いませんでしたか」
「うん、僕も寮会があったからね」
「ああ、違いますよ。そのノートです」
 美魚は両手にもった紙袋から大学ノートを取り出した。
 美魚は椅子に腰掛けると、油性ペンでノートの表紙にタイトルを書いた。
「西園さん。なにその数字?」
 理樹がノートを覗き込む。表紙にはこう書かれていた。

 リトルバスターズ 活動日誌 No134

 美魚は理樹の怪訝そうな視線に気が付くと、慈しむような微笑を浮かべた。
 そして、「134」を二重線で消し、そこに新しく、「2」という文字を書いた。


[No.547] 2009/12/04(Fri) 02:28:34
Re: 第46回リトバス草SS大会 (No.544への返信 / 1階層) - さいとう

あ、また来た・・・
 不意に目の前が真っ暗になる。
 そして僕は深い闇に落ちて行った。


影響力      さいとう


・・・・・・・・・


 「きんにく、きんにくぅ〜!!」
 「真人、もう少し静かに筋肉してよ・・・」
 「何言ってんだ理樹!今は筋肉の時間だぜ!!」
 「いやいやいや、そんな時間ないから」
 そのとき部屋の扉が開き恭介が入ってきた。
 「恭介、真人になんとか言ってあげてよ。筋肉がうるさくて宿題に集中できないよ」
 「何言ってんだよ!今は筋肉の時間だぜ。ほら、理樹も一緒に筋肉だ!!きんにくイェイイェ〜イ!!」
 「ちょっ!!恭介まで筋肉するの!?」
 「お、みんなそろってるな?きんにく、きんにくぅ〜!!」
 「謙吾まで!?」
 「「「きんにく、きんにくぅ〜!!」」」
 寮の生徒が全員筋肉をやっているようだった!!
 「ちょっとみんな!?どうしっちゃったのさぁぁぁぁぁぁぁ!!」


・・・・・・・・・


 「はっ!!」
 「おっ、目が覚めたか?」
 僕が目を開けると寮の自室で真人が筋トレをしているところだった。
 「どうした理樹?恐い夢でも見たか?」
 「うん・・・ちょっとね・・・」
 真人・・・筋肉はもう少し控えようね・・・


 三日後
 あ、まただ・・・
 そうしてまた、僕は深い闇に落ちて行った。


・・・・・・・・・


 「ふっ、ふっ、ふっ」
 「真人・・・筋トレならもう少し静かに・・・って!?えぇぇぇぇぇ!?」
 真人が竹刀で素振りをしていた!!
 「ちょっ!?真人っ!?素振りなんかしてどうしちゃったのさ!?」
 「何言ってんだ理樹!今は剣道の時間だぜ!」
 「いやいやいや!そんな時間ないから!!絶対ないから!!!」
 ガチャリ
 部屋の扉が開き恭介が入ってきた。
 その手に竹刀を持って。
 「恭介、まさか・・・恭介も剣道を?」
 「何言ってんだ、今は剣道の時間だろ?」
 「おう、恭介!どうした?一緒に剣道場に行くか?」
 「ああ、その誘いに来たんだ。理樹も行くだろ?」
 「いやいやいや!そもそも僕竹刀なんて持ってないから!!」
 「何言ってんだよ?もう手に竹刀持てるじゃねぇか」
 「え?」
 自分の手を見てみる。知らぬ間に竹刀を握っていた!!
 「よし!行くか!!」
 二人に腕を掴まれ剣道場に引きずられて行く。
 「・・・〜ん!!め〜ん!!」
 「め〜ん!!め〜ん!!」
 「め〜ん!!マーン!!!」
 剣道場に近づくにつれて威勢の良い声が聞こえてくる。

「マーーーーーーーーーーン!!!!!」


・・・・・・・・・


 「はっ!!」
 「ん?理樹、目が覚めたか?」
 目に前に謙吾が座っていた。
 「・・・」
 「どうした?俺の顔に何か付いてるのか?」
 「いや、なんでもないよ・・・」
 謙吾・・・せめて学校の日は制服を着ようね・・・


 一週間後
 あっ、まただ・・・
 そうして僕は闇に落ちていく・・・


 「・・・き、理樹!」
 「っ!ごめん、ボーっとしてた」
 「なんか悩み事か?俺が力になれることなら相談しろよ」
 「うん、ありがとう」
 ここは・・・恭介の部屋だ。何で恭介の部屋にいるんだろう。そんな疑問が浮かんだが気にしないことにした。
 「さて!何して遊ぶ?麻雀?トランプ?人生ゲーム?野球盤か?それとも斉藤祭りでもするか!?」
 「いやいやいや、明らかに最後のはおかしいから」
 そうか、僕は恭介の部屋に遊びにきていたのか。
 「それじゃ・・・一緒にマンガでも読むか!」
 「うん、恭介がそうしたいならそうしようか」
 「よし、来いよ」
 と、恭介はあぐらをかいている自分の膝の上を指す。
 「・・・・・・って!?はいぃぃぃぃぃぃ!?」
 「何そんなに驚いてんだよ?ほら小さいときよくこうやって一緒に読んだだろ?」
 「それはまだ小さい頃だったし・・・今は・・・ちょっと・・・」
 恭介の方を見てみる。
 「そうか・・・理樹は俺のことが嫌いになったのか・・・ぐすん・・・」
 落ち込んで泣いていた!!
 「いやいやいや!!そういうことじゃなくて!!」
 「けど俺の膝に乗ってくれないじゃないか・・・」
 落ち込んだ顔でこっちを見てくる。そんな目で見られたら断れないじゃないか・・・
 「・・・たよ・・・」
 「えっ?」
 返事の代わりにそのまま恭介の膝の上に座った。
 「これでいいんでしょ?」
 「理樹・・・」
 そう恭介はつぶやくと顔を近づけてきた。
 「ちょっ!!恭介!?」
 「理樹・・・実は、俺・・・ずっとお前のことが・・・」
 恭介の吐息がかかるほど顔が近づいてくる・・・
 「恭介・・・」
 いやいやいや!!だめだ、流されちゃだめだ!!あぁ・・・でも恭介の顔が・・・どんどん近付いて・・・。


・・・・・・・・・


がばっ!!
「はぁはぁはぁ・・・」
「お、理樹起きたか?大丈夫か?顔が真っ赤だぞ。熱でもあるんじゃ・・・」
恭介が手を伸ばしてくる。
「ないないない!!熱なんてないから!!!」
「そうか?ならいいけど・・・」
ここは・・・恭介の部屋?なんで?
「ねえ、恭介・・・なんで僕恭介の部屋に?」
「なんだ?覚えてないのか?練習中に倒れたんだよ」
あぁ・・・また僕倒れたのか。
「で、なんで恭介の部屋に?」
「あぁ、真人は謙吾と一緒にどっか行っちまったから俺の部屋に運んだんだよ」
「ごめんね、手間かけさせて」
「気にすんなよ、俺とお前の仲じゃないか」
「うん、ありがとう」
そうだ。
僕と恭介の関係はこうじゃなきゃ。
僕と恭介は・・・
「なあ、理樹・・・」
「うん?なに?」
「昔みたいに一緒にマンガ読まねえか?」
そう言い恭介は膝を指さす。
あぁ・・・これは夢だ・・・きっと・・・
 そしてまた僕は深い闇に意識を沈めていった・・・
 沈みゆく意識の中理樹はもう少し恭介を意識するのは控えようと思うのだった。


[No.548] 2009/12/04(Fri) 02:46:58
寝ろ! (No.544への返信 / 1階層) - ひみつ 13716byte

1月1日 4:37

「姉御、そろそろ牌すり変えるの止めてもらえませんでせうか」
「そうよ! 来ヶ谷さん良い加減にしなさい!」
 私は左端に揃えていた牌を弄りながら欠伸混じりに反論した。
「ずっとコンビ打ちしてる君達に言われてもなぁ」
「そうです、炬燵の下で牌の受け渡しをするのやめてください」
 下家に座る西園女史も眠そうにしている。
 麻雀を始めてそろそろ五時間にもなるだろうが、まだ一枚も脱いでいない。
「そ、そんな事してないって。ねー、お姉ちゃん」
「も、もちろんよ。そんな不正するわけないでしょう?」
 露骨に動揺する姉妹のうち、姉は二枚、妹は一枚だった。
「何でもありの勝負とはいえ、あからさまな少牌を見逃してきた優しさを理解してもらいたいものだよ、おねーさんとしては」
 そもそもこんな勝負を言い出したのは葉留佳君だったではないか。
 そう、間違いなく彼女だ。私の薄ぼんやりとした記憶を信じるのならば。
 では最初に麻雀で時間を潰そうと提案したのは誰だったか。況や、そもそも初日の出を見ようなどと誰が言い出したのかなど記憶の欠片も見当たらなかった。
「もう良い時間だな……」
「この半荘で終わりでしょうね」
「校舎の屋上でしょう? 急げば直ぐよね」
「理樹くん達はどうなのかな?」
「さっきメールしたが反応がないな。爆睡しているようだ」
「鈴ちゃん達はともかく恭介さん達もかー、意外に根気ないなぁ」
「葉留佳が元気すぎるのよ。私ももう眠いわ」
「炬燵の魔力は偉大です」
 全くだ。この温もりには魔力が篭っているとしか思えない。私も気を抜けば瞬く間に眠気が殺到しリンボーダンスを踊り始めるだろう。
 喋りながら、お菓子を摘みながら、のんびりと打っているため一戦に時間が掛かるのも眠気を誘う。
「でもここまで来たら、起きてなきゃ損ってもんですよ!」
「葉留佳君は元気だなぁ、無駄に」
「無駄って……」
 また欠伸が漏れた。いったいどうして初日の出など拝もうと思ったのか。
「初日の出を拝むと良い年になるのです」
「初詣じゃないのか?」
「初詣は初詣。別腹じゃないんですか?」
「三枝さんの願いはたぶん叶わないと思います」
「叶わない方が平和よ、きっと」
「皆して酷いなぁ」
 ぶつくさと不平を口にしているが、葉留佳君らしくて悪くない。
 さて、私は何を願おうか。酷くどうでも良い事のように思えるが、チャンスがあるのなら願ってみるのも悪くないだろう。
 私は千点棒を掴むと卓に放った。
「では、私は初日の出に恋を願おうリーチ」
「意味わかんないです」


1月1日 7:01

「……私が丹精篭めて育て上げた字一色を平和のみで流すとか、お姉ちゃんは脳みそ腐ってるの? それとも私のこと嫌いなの?」
「ええ、大っ嫌いよ。親リー相手に無意味なカンして裏ドラ乗っけちゃうような馬鹿妹なんて大嫌い」
 カーテンの隙間から差し込む陽光はキラキラ輝いていたが、空気は限りなくギスギス引き攣っていた。
「一発逆転を狙ったのに。嶺上開花は女の浪漫なのですよ」
「その所為で私が飛んじゃったんでしょ!」
「いいじゃん、可愛いブラなんだから」
「そういう問題じゃないわよ!」
「形も綺麗だよ?」
「そういう問題でもない!」
 ぎゃあぎゃあと喚く姉妹は眠気など忘れたかのように元気だ。葉留佳君はそのままにしても、佳奈多君まですっかり本気になっている。
 だが問題は、眠気以上に大事な目的も忘れていた事ではないだろうか。
「すっかり陽が登ってしまったな」
「皆さんが熱くなりすぎた所為です」
「そういう美魚君が冷静すぎなのだよ。一枚も脱いでいないなんてね。いったいどういう魔法を使っているのかおねーさんにこっそり教えてもらえないだろうか?」
「最下位にならなければ良いだけですから。勝たないで良いなら負けません」
 そういえば彼女は二位と三位ばかりだったか。
 理屈は分かったが何とも詰まらない話だと思った。
「今更だが、初日の出は良かったのかな?」
「別に良いんじゃないですか。どうせただの日の出です。見たければ何時だって見られますよ」
「人が勝手に作った暦だからな。特別なものではない、か」
「特別に思う気持ちがないなら」
「なるほど、特別というわけではないな」
 仲間全員集まってみるのならともかく、一部が眠ってしまったのでは意味がない。
 結局、私達は無為に徹夜してしまったという事だ。
「もう良いわよ!」
 ドンと卓を叩いて佳奈多君が立ち上がった。
「どこへ行くんだ?」
「花を毟ってくるわ!」
 摘むのではないのか。
 相当腹に据えかねているらしい……が、それはともかくとして。
「その格好で?」
 

1月1日 10:26

「なんだか、葉留佳に付き合わない方が勝てる気がしてきたわ」
「……すっかり上機嫌でよかったデスネ」
「あら葉留佳! どうしたの、そんな暗い顔をして!」
「佳奈多君テンション高いなぁ」
「完全にナチュラルハイテンションモードに入ってますね」
 対して葉留佳君は恨めしそうな上目遣いだ。
「そういうお姉ちゃんだって上も下も下着のみじゃないですか!」
「でも私は連勝中だもの。負けて素っ裸になるのはきっとあなたね。だって連敗中だもの」
「うう〜! どうして勝てないのかな〜!」
「三枝さん、麻雀はやる気の問題です」
「一番やる気なさそうなみおちんに言われても!」
「まぁ、ここまできたらやる気というか気力の問題ではあるわね」
「もう昼前だな。ご飯がてらテレビでも点けようか」
「やめましょう。騒がしいだけだもの」
 そういう佳奈多君も十分騒がしいのだが、往々にして本人は気付かないものだ。
 斯く言う私も同じなのかもしれない。姉妹が並んで下着姿という素敵過ぎるシチュエーションに興奮していないと言えば嘘になる。今すぐ抱きついて揉みしだきたい衝動を抑える事は非常に困難だった。
「男共なら感涙だろうになぁ」
「女四人で脱衣麻雀って良く考えたら凄く寂しいですよね〜」
「ちょっと、駄目よ。男が居たらそもそもこんな事しないわよ」
「えー、でも理樹くんなら良いと思うけど」
「…………いえ、駄目。そんなはしたない!」
「間があったな。これが所謂、『※ただしイケメンに限る』というやつだ」
「そ、そんな事は別に……」
「照れてる照れてるぅ」
「三枝さん。それ、ロンです」
「え、嘘! ぎゃんっ、倍満!?」
「おや、珍しく高い手だな。ずっと安全な打ち方だったのに」
「※ただしトイメンに限る」
「狙い撃ちされてるー!?」
「どうやら本当に葉留佳の裸が確定しそうね」
 そのようだ。だが、それではちょっと詰まらないだろう。
 対面の佳奈多君と眼が合った。それだけで意図は伝わった。


1月1日 15:54

「……………………」
「うーむ、眼福眼福。これは初日の出より良いものが見られたな」
「本当。あなたもそういう顔するのね」
「違うよお姉ちゃん。姉御が言ってるのはおっぱいの事なのです」
「いいや、両方だ」
 恥辱と怒りで涙目になっているトップレス美魚君。
 これは写真に撮って額縁に収めておきたい絵だね。
「……………………」
「何か言いたい事があるようだけど、どうしたのかな?」
「いいえもう言葉は必要ありません交渉の時間は終わりです私は確実に本気になりました殲滅です殲滅です殲滅し尽します」
「うわー、抑揚のない声だー」
「いい気になっていられるのも今のうちだぞムシケラ共」
「キャラ変わってるわね。よっぽどショックだったのかしら」
 眠気マックスのところにこの仕打ちでは流石の西園女史でも冷静ではいられないか。
 熱に浮かされるような高揚感は私にもある。この勝負、行くところまで行き着くだろう。
「あの、みおちん。はるちんは別に何もしてないのですよ? 全部お姉ちゃんと姉御の策なんだから」
「相乗りしたくせに」
「葉留佳君は普段致命的なまでに空気が読めないのに、こういう時だけは的確だからな。正直助かったよ」
「そうね。葉留佳にしては上出来だったわ。これからも今みたいに空気を読める子になるのよ?」
「酷い! みおちんみおちん、私ってそんな空気読めない子ですかね?」
「……それを今の私に聞く事が既に空気読めない証明です」
 いやいや、本当に葉留佳君は頑張ってくれた。
 一人負けない打牌に固執し堅牢だった美魚君という名の砦を攻略できたのは、三人で協力したからこそだった。点数調整の難しさから私も随分剥かれてしまったが、美魚君のさくらんぼのためならば惜しくはない。むしろ見せても良い。
「次負けたら、当然下も脱いでもらうからね。もちろん、ちゃんと脱いだか分かるように炬燵だから出て、だ」
「外道にも程がありますよ、来ヶ谷さん」
 外道だなんてとんでもない。ただ欲望に忠実なだけである。
「みおちんのえっちぃ所大公開スペシャル! 続きはWebで!」
 

1月1日 17:00

「…………………………………………」
「負けてんじゃないわよ」
「そこで負ける葉留佳君クオリティが、私は嫌いじゃない」
「私も嫌いではありません。その無様なところが」
 というわけで、素っ裸になったのは葉留佳君だった。
 美魚君が屈辱に咽び泣く姿を見られなかったのは大変な心残りではあったが、これはこれで悪くないだろう。後ろ向きながらも恥ずかしそうに脱いでいく仕草は普段の彼女からは想像もつかないほどセクシーだったし、素早く炬燵に逃げ込む瞬間、陰の毛も僅かに確認できた。
 素晴らしい新年になった事は疑いようもなかった。
「さて、敗者が決定した事だしお開きかしら」
「そうだな。結局お菓子だけでこの時間か。いい加減空腹が限界だ」
「では食堂に行きましょうか。つくっておいたお節がありますから」
「皆ももう起きているだろうしな。新年の挨拶だ」
「片付けは後回しにして、早く行きましょう」
「おや、佳奈多君がそんな事を言うとは」
「良いじゃない。眠いし疲れたし、それに元日だもの」
「確かに元日くらいはのんびりしたいものですね」
「と言っても、もう半分以上終わってしまっているわけだが」
「マダデス」
 それは地底から響いてくるような声だった。私は最初、それが心霊現象の一種である事を疑わなかった。それほどに狂気に満ちた声だったからだ。だが直ぐに違う事に気付いた。それはもっと恐ろしいものだったのである。
「毛って、服の一部だと思いませんか?」
「なん、だと……」
「毛は服の一部デス。今この瞬間、世界大統領が決定しました。テレビを点けてみればL字テロップでそのニュースが流れているんです。世界大統領の決定は絶対なんです」
「ま、まさか葉留佳、あなたは!」
「そう、だからまだこの勝負は終わってない!」
 どーんと指を天に伸ばし葉留佳君はのたもうた。
「葉留佳、正気なの!?」
「もちろんですとも! 自分だけ素っ裸にひん剥かれて、それでお仕舞いになんて出来ない! 私にだってプライドがあるんだから!」
「そんな無茶苦茶よ!」
「三枝さん、ついに脳が……」
「脳とか言うなー! ついにとか言うなー!」
 葉留佳君はおっぱいを揺らしながら喚き散らしていた。
 その狂気の姿は本能的な恐怖さえ呼び起こすほどだろう。
 こうなってしまっては、最早誰も手をつけられない。
「分かった。泣きのもう一戦だ」
「ちょっと! 来ヶ谷さん、勝手に決めないでよ!」
「そうです。相手にする必要はないかと」
「いや、葉留佳君の覚悟に敬意を表したい」
「でも毛って言われても。葉留佳の髪を切るつもり?」
「まさか。そんな残酷な事はしない。ただ、こうなるだけだ」
 胸の谷間から素早く取り出した牌を卓に叩きつけた。
「これは――――白!」
「ええ、白ですね。ところで来ヶ谷さんはずっとそんな所に牌を隠していたんですね。隠せちゃうんですね。軽くイラッとしました」
「これが意味する事を、葉留佳君は分かっているな?」
「もちろん。望むところですよ」
「狂ってる! 狂ってるわよ、あなた達!」
 狂気の沙汰ほど面白い、と誰かも言っていた。
 私達はそうして、最後の聖戦に挑んだのである。
 賭けるのは己の聖域、聖なる森だ。


1月1日 20:44

 激闘が終わった。一進一退の攻防は私達の身体から鎧を奪っていた。
 素っ裸の女四人の熾烈なる戦いがようやく決したのである。
「うあああああああああああああああああああっ! やったああああああああああああああああああああああああああああっ! うああああああああああああああああああああっ!」
 裸である事も忘れて葉留佳君が跳ね回っている。
「うわああああああああああああああああああんっ! 葉留佳、葉留佳、葉留佳ぁん!」
 裸である事も忘れて佳奈多君がそれの後を追って抱きついている。
「……はぅ」
 裸である事も忘れて美魚君が大の字に倒れている。
「まさか、こうなるとはね」
 そして私は、一人敗北を噛み締めていた。
 これが世界の選択なのか。完璧な打牌を心掛けたつもりが、あまりにも引きが悪かった。最初の親番でものの見事な親被り。その後イーシャンテン地獄に陥り、ようやくリーチをかけたと思ったら当たり牌を掴まされる。
 そんな運の枯れた私を見逃してくれる彼女達ではない。玄人と書いてばいにんと読む雀鬼の気迫を身に纏った乙女達は弱者を喰らう事に一切の躊躇いも持たなかった。
 東場が終わる頃には既に三者の同盟は完璧なものとなっていた。
「姉御がパイパン! 姉御がパイパン! イェイ!」
 目の前に白が三枚突き出される。充血し濁った三対の瞳が私という獲物を舌なめずりするかのように見つめていた。ああ、間違いない。ここは魔界だ。魔界村だ。悪鬼が肩で風を切り大手を振って練り歩く、そんな地獄に違いない。
「ふ……ふふふ」
 だが、甘い。
「私を誰だと思っている」
「あ、姉御?」
「私を舐めるなっ!」
 最後の白を強く握り締めると、私は立ち上がった。
 そして卓に片足を載せ、堂々と見せ付けた。
「さあ、好きにやりたまえ! この毛、くれてやる!」
「流石姉御! カッコイイ!」
「言われるまでもなく好きにさせてもらうわ! 葉留佳、剃刀取って!」
「待ってください。いきなりでは刀が負けてしまいます。まずは鋏で短くしないと!」
「なるほど。流石みおちん! じゃあ鋏、鋏〜っと」
「なんだか断髪式みたいね!」
「残り少ない命。別れを惜しんでは如何ですか?」
「気遣い、感謝するよ。だが彼らとは一時の別れ。いずれまた会えるのだから、今は笑顔で送ってやりたいんだ」
「じゃあバッサリ行っちゃいましょう! ほらほら、みおちんも持って」
「三人で一つの鋏。なんだかケーキ入刀みたいね」
「ちょっと持ちにくいような。ま、後は一人ずつやれば良いでしょうか」
「ではでは、カット・イン!」
 私は瞼を閉じ運命を受け入れる。
 さようなら、陰の毛。また会う日まで――――。
「皆〜、起きた〜? そろそろ起きてこないと、お節食べられないよ?」
 がちゃりとドアが開いた。
「あけましておめでとうござい……ま、ス?」
 空気が凍った。
 ドアが開いた事で外の冷たい空気が流れ込んできたからだと思いたい。だがどれだけ思ったとしても、現実は変わらないのだ。
 そこに立つ小毬君の表情が大きく崩れていく。
 今幼気な少女の瞳に映っている光景を客観的に表現するならば、女四人が素っ裸で雀卓を囲みながら陰の毛を引っ張り、そこに嬉々として鋏を入れようとしているという阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
「あ、あ」
 どうすれば良いのだろう。言葉が全く出てこない。
 静まり返った世界の中、耳の奥で血が引いていく音だけが響いていた。それは私だけではなく、他の三人にも共通していたらしい。先ほどまでのテンションは、タンブルウィードのようにさり気なくフレームアウトしてしまった。
 後に残ったのは蒼白の面を被った石像だった。断じて美術館に飾る事は出来ないが、争いの不毛さを後の世に遺す教訓としては適切かもしれない。陰の毛を切ろうとしている構図だけに。
「…………うん」
 そうこうしている間に、コマリマックスは自分の中で結論付けたらしい。
 一つ大きく頷くと、慈愛に満ちた表情で、泣いた。
「ばいばい」
 バタンと魔界の蓋が閉じて、全てが封印された。
 私達はそこで、しばらくの硬直の後、本気で泣いた
「――――――――――――――――――――――――――――――――――っ!!!?」
 声にならない慟哭は、新年の空に溶け、輝く星になった。


[No.549] 2009/12/04(Fri) 13:04:56
今回の投稿作について (No.548への返信 / 2階層) - 大谷(主催代理)

 どうも、主催不在につき代理を務めている大谷です。
 投稿作ですが、幾つかのルールに抵触しているように見えます。現状のままですと、感想会で取り上げることは可能ですが、MVP投票の対象からははずれることになるかと思います。親記事の方にも載せてありますが、http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/rule.htmlに詳細なルールが記載されているので、ご確認の上、適宜訂正をお願いいたします。
 なお、訂正はしたいけれど投稿時にパスを入力しておらず訂正が不可能だ、という場合は、新たに作品を投稿しなおした上で、その旨をこの記事への返信というかたちで申し出ていただければ、新しい方を残して古い方をこちらで削除します。


[No.550] 2009/12/04(Fri) 13:50:30
茨姫 (No.544への返信 / 1階層) - ひみつ@4641 byte

 もうすぐ文化祭。
 各クラス、部活はそれぞれの出し物の準備で大わらわだ。
 かくいう僕らリトルバスターズも遅まきながら文化祭に参加すべく準備を開始した。
 披露するのは演劇。演目は『眠りの森の美女』。
 以前幼稚園向けに準備したオリジナルの演劇が中途半端に終わった事に対するリベンジだそうだ。
 それ自体は一向に構わないのだが、何故か配役決めでリトルバスターズ内で大規模な内紛が勃発する事態となった。
 それはもう激しい戦いだ。
 最初はジャンケンで決着を付けようとしたのだが、一向に終わらず様々な方法を試し、最終的に大バトルにまで発展する始末だった。
 取り合っている配役?もちろんそれはお姫様…………ではなく王子様だ。
 肝心の主役であるお姫様はと言うと。
「はぁ〜〜〜〜〜〜〜」
 何故か全員一致で僕がやることとなった。
 いやなんで僕?女の子もたくさんいるのに何故か誰も反対せず、逆に推薦されてしまった。
 そのため僕以外のリトルバスターズメンバー全員で王子役を取り合っているのだ。
 ……そう、全員。その事実が僕の頭痛を更に酷くする。
「はぁ〜〜〜〜〜」
 再度溜息。
 みんな戦いに掛かりきりなので現状僕だけぼーっと事の推移を見つつ、黄昏れるしかすることがないのであった。
「暇そうねー、直枝くん」
「ああ、あーちゃん先輩。まあ暇と言えば暇ですね。僕の配役以外まだ決まってませんから。そういうそちらは?」
 遊びに来たのかと一瞬思ったが、この時期はなんだかんだで忙しいはずだ。
 何をしに来たのだろう。
「いやねー、貴方のお仲間が学園の施設全部を使って色々やってるでしょ。だから立場上注意をしに来たんだけど……」
 ちらっとあーちゃん先輩は廊下の端を見る。釣られて僕もそちらに首を向ける。
 そこには飛び交う武器と木霊する声、熱狂する群衆。
 戦いの凄惨を物語る音が学園の至る所で響き渡る。
「ちょーと入っていける雰囲気じゃなくてね。割って入ったら確実に巻き込まれそうだしね。風紀委員の子も躊躇してるみたいよ」
「確かに、そうですね」
 あの戦いの渦に入っていける猛者はそうはいない。
 僕が知る限り躊躇いなく入っていけそうな人物たちは揃って戦いの中心にいるし。
「まあそういうわけで私もここで傍観してるって訳」
「なるほど、そういうことですか」
 ホント、いつ終わるのやら。
 僕は呆れ半分で事の成り行きを眺めていた。
「そう言えば直枝くんは誰に王子様役をゲットして貰いたいの?」
 興味津々と言った顔つきであーちゃん先輩は尋ねてきた。
 いや、そんな目で見られても困るんだけど。とりあえず。
「女子なら誰でもいいですよ」
「あらー、直枝くんも案外男の子なのねー」
 いやらしそうな目を向けられてしまった。
「別にそう言うわけでは。と言うより男とキスしたくないですので」
「あら、そうなら振りでしょ」
「いえ、その場合きっと西園さんが監督と演出に就任すると思うので」
 むしろ女の子相手にするよりも過激なことさせられそうで怖い。
 恭介たちもなんだかんだで拒否しなさそうだもんなぁ。
「なんかげんなりしてる?」
「ええ。誰が勝っても憂鬱そうだなって」
 そう、例え鈴たち女子の誰かが王子役をゲットしたとしてもそれはそれで精神疲労が非道いことになりそうだ。
 僕の未来に光は全く見えなかった。
「が、頑張って。……えーとそう言えば見たわよ、お姫様姿」
「はぁ」
「似合ってるじゃない」
「いえ、全然嬉しくないですが」
 女装が似合うと言われて嬉しいはずがない。
 むしろ更にげんなりだ。
「そう、可愛かったわよ。うちの学年でもかなりの数の写真が出回ってるし」
「ちょ、なんですかそれっ」
 写真ってなにっ?
 いつの間に誰が撮ったの?
「さあ?とりあえず貴方がお姫様の格好をした次の日から出回ってるわよ」
「えええええー!!」
 あれっていつだったかな。
 結構前のような気がするんだけど。
「そういえば直枝くんの役が決まった日にすぐ衣装合わせが行われたって聞いたけど、いつ準備したの?」
「知りませんよ。お姫様役に推挙された後すぐに衣装渡されましたから。直しもほとんどありませんでしたし」
 サイズもいつ測ったのやら。
 現在、その衣装は手芸部により更なるパワーアップが進められているらしい。
 いや、あれ以上フリルとか追加されると軽く死ねるんだけど。
「今度直に見せてね」
「……考えておきます」
 そう答えるしかなかった。

 そしてしばらくあーちゃん先輩と雑談をしていると辺りが急に静かになった。
「あら、終わったみたいね」
「え?」
 あーちゃん先輩の言葉に慌てて周りを見ると、至る所にメンバーの倒れ伏した姿が見える。
 そしてそんな仲間たちの屍を越えて一つの影が僕たちに向かって近づいてきた。
 その姿は満身創痍。
 姿はボロボロで片足を引き摺り、地面を這うように荒い息を吐きながら徐々に近づいてくる。
 けれどその目に宿る眼光は鋭く、何かをやり遂げたかのような力強い光が宿っていた。
「勝者はあなたなのね」
 あーちゃん先輩の言葉に応えるだけの力がないのか、僅かに首肯だけして僕の前に立つ。
 その姿に僕は何も言えなかった。
 恥ずかしいって気持ちはあるし、どんなことをさせられるか不安は当然ある。
 けれど王子役を手に入れるためここまでみんなボロボロになって頑張ってくれたんだ。応えないわけにはいかないじゃないか。
 僕は勇気を出し、そっと手を差し出した。
「頑張ろう、ドルジ」
「ぬお〜〜!」
 僕らはギュッと熱い握手を交わした。




 ちなみに当然のように第二回王子役争奪杯が開催されたのだった。


[No.551] 2009/12/04(Fri) 14:08:40
夢から覚めても (No.544への返信 / 1階層) - ひみつ5253 byte

「美魚ちん、私と結婚しよう」
「今日のお昼は何にしましょうか……」
「無視されたー!?」
「あ、すみません。独り言かと思いました」
「最初に美魚ちん、って呼んだじゃん!?」
「大体、なんで私の家に居るのですか? 警察呼びますよ?」
「鍵開いてましたヨ? 不用心ですね」

 葉留佳が今居るのは美魚の部屋だった。
 さほど広くもない、アパートの一部屋。けれども、一人暮らしには丁度良いくらいだ。
 窓から差し込む陽の光が、室内を明るく照らしている。

「いや、まぁ、お昼をたかりに来たんですけどね」
「帰って下さい」

 葉留佳がこうして美魚の元を訪れるのは、初めてでは無かった。
 大学卒業後の社会人になっても今なお、交流がある。主に葉留佳が美魚の元へと無理矢理訪ねることがほとんどではあるが。
 美魚も美魚で、なんだかんだため息を吐きながらも相手をする。
 そう、決して仲が悪いわけじゃあないのだ。

「今からお昼?」
「あなたに食べさせるものはありません」
「ふっふっふ、ならば美魚ちんを食べちゃうぞー!」
「どうぞ」
「うぇっ!?」
「ほら、早くどうぞ。お好きなように」

 腕を広げて、無抵抗を表す美魚。
 まさかの返答に、葉留佳は少し顔を赤くして慌てる。忙しそうに、わたわたと腕を上下に振っている。

「や、えと、冗談でして……いや、美魚ちんは大好きだよ! ただ、こういうノリでえっちにゃことはいけないと思いますのですヨ」

 慌てすぎて、日本語が大変なことになっていた。
 そんな葉留佳を見て、美魚は小さく笑った。

「何本気にしてるんですか、痛いですよ。というか、赤くなるなんて三枝さんらしくないです。ぶっちゃけ、似合いません。美しくないです」
「なんかいろいろ毒舌吐かれたー!?」

 笑顔で毒を吐く美魚。
 葉留佳は、からかわれていたことが分かり、自分が間抜けな態度をとってしまったことに後悔した。
 ふぅ、とため息を吐いて、美魚は飲み物を入れに動く。

「三枝さん、コーヒーと紅茶とお茶、どれが良いですか?」
「オレンジジュースで」
「分かりました、青汁ですね」
「それだけは勘弁を! なんなら美魚ちんの汁を――」
「分かりました、あなたには洗剤で」
「殺されるっ!?」

 馬鹿みたいなやりとりをしつつも、ちゃんと希望したオレンジジュースを持ってくる。美魚自身は、麦茶のようだ。
 飲み物を卓袱台に置いて、座る。葉留佳も同じように座った。

「美魚ちんは優しいねぇ。ちゃんとオレンジジュースを入れてくれる辺りが」
「1杯200フランですよ?」
「有料!? ていうか、それ古いフランスの通貨!」
「騒がしいですよ、三枝さん。もう少し静かに出来ないのですか?」
「美魚ちんがボケるからでしょ!」
「まぁ、そんなにラリラリしないで下さい」
「カリカリしてるの! ラリラリじゃあ私、ヤバイ人みたいじゃん!」

 美魚の視線が、「あなたは充分ヤバイ人です。自信を持って下さい」と訴えているのが葉留佳には分かったが、あえて無視することにした。
 叫びすぎて疲れたのか、葉留佳は飲み物を一気に飲み干す。
 ぷはぁっと、まるで酒でも飲んだかのような声を上げた。

「で、本当の用事はなんですか?」
「いや、美魚ちんの顔が見たくなってね」
「私はあなたの顔見ると、吐き気を催しますけどね」
「私グロテスク!? いや、本当に美魚ちんに会いたかったんだってばぁ」
「寂しかったんですか?」
「うぐぅ……だって、リトルバスターズの仲間で一番気軽に会えるの、美魚ちんだけだもん」

 リトルバスターズの仲間だったみんなは、それぞれの道を歩んでいる。もちろん、一年に一度くらいは集まったりするけれど、普段は会えるものではない。住んでいる場所も、生活も違うのだから。
 そんな中、美魚と葉留佳の住んでいる場所はさほど遠くなかったのだ。会おうと思えば、いつでも会えてしまう距離だった。

「懐かしいですね。今でも思い出します……あの楽しかった日々を」

 美魚は思い出す。
 あの楽しかった日々を。



◇◇◇





(∵)





◇◇◇



「あぁ、本当に楽しかったですね」
「何今の!?」
「え? 回想ですけど。私と三枝さんが初めて出会った時の、三枝さんの表情です」
「私そんな顔してなかったよ!?」
「オレンジジュースおかわりします?」
「するー」

 葉留佳の必死のツッコミは、軽く誤魔化された。
 再びコップにオレンジジュースが注がれた。

「みなさん、元気ですかね」
「元気だと思うよ」
「あの頃がまるで夢のようです。長いようで短い。眠っていたかのよう。今は社会に向き合って、眠りから覚めたといった感じですかね」
「ならずっと眠っていたかった?」
「……いえ、それじゃあ駄目だと思います。こうやって、大人になってゆくのです。それに、今だって会おうと思えば誰にだって会えます。お金やら時間やらかかりますが、決して今生の別れでは無いのですから」
「ん、そだね」

 二人とも、目の前の飲み物を一口飲む。

「三枝さんは、眠っていたかったですか? ずっと、夢のような時間を過ごしていたかったですか?」
「んー……さっきまではそう思ってたけど」

 葉留佳は人指し指で頬を掻く。
 そして、少しして、にははと笑った。

「美魚ちんの話聴いたら、私も同じように思えた。そうだよね、別に一生の別れじゃないんだし。それに、美魚ちんにはこうして気軽に会えるわけだしね!」
「なるべく来ないで欲しいですが」
「酷い!」
「冗談ですよ」
「ですよねー」

 二人、なんとなく笑い合った。
 なんだか、笑いたい気分だったのだ。
 しばらくして、美魚が立ち上がる。

「さて、お昼にしますか。三枝さんも食べていきます?」
「もち! あ、それとさ……」
「はい?」
「いつまで三枝さんって呼ぶのさー。もう長い付き合いなんだし、名前で呼んでよ」
「嫌です」
「即断られた!? 私は美魚ちんって呼んでるのにー。あ、呼びにくいなら私も葉留佳ちんで良いよ!」
「では、葉ち留ん佳で」
「変なとこに入ったー!? 凄い呼びにくいし!」
「私にとって、いつまでも三枝さんは三枝さんですから。変える気はありません」

 小さく笑いながら、美魚はそう言った。
 そして、昼食を作りに台所へと向かう。
 後ろでぎゃあぎゃあと文句を言っている葉留佳を無視しながら、「さて、今日は何を作ろうか」などと考えていた。


[No.552] 2009/12/04(Fri) 14:10:01
微睡みから醒めて (No.544への返信 / 1階層) - ひみつ@14924 byte

「んんっ?」
 唇に何かが触れた感触に美魚は目を覚ました。
「あ、起きちゃいましたか」
「……三枝、さん?」
 ぼーっとした表情のまま美魚は葉留佳の顔を見つめる。
「やはは、おはよう」
 答える葉留佳は満面の笑顔だった。
 なんとなくその表情を見て、美魚は顔を赤らめてしまう。
「お、おはようございます。……それで何故三枝さんが目の前にいらっしゃるのですか?」
「え?ああ、散歩してたらみおちんが寝てるのを見かけてさ。ついつい寝顔が見たくなっちゃいまして」
「なっ……」
 葉留佳の言葉に更に美魚は顔を赤く染める。
 普段冷静な彼女にあるまじき動揺。
 そんな彼女が新鮮で、葉留佳は優しく笑う。
「みおちんって、ホント可愛いデスネ」
「五月蠅いですね。……そう言えば悪戯などしていませんか?」
 葉留佳と言えば人が無防備な時にそう言うことを平気でやる性格だ。
 手元に鏡がないことを残念に思い、牽制するように睨む。
「やはは、だいじょぶじょぶ。こまりん相手じゃないから顔にお絵かきはしてませんヨ」
「はぁー」
 少し小毬を哀れに思いつつ、ホッと一息吐く。
 葉留佳は悪戯者ではあるが嘘吐きではないので、やってないというならやっていないのだろう。
 安心して美魚はそっと葉留佳の顔を見上げる。
 けれど葉留佳は少しだけバツの悪そうな表情を浮かべていた。
「まあ悪戯はしてませんけど……ネ」
 言いながら葉留佳はすっと自分の唇を指でなぞった。
 その瞬間、起き抜けに感じた感触を思い出し、美魚は顔をこれでもかと真っ赤に染める。
 そして口元を抑えながら震える声で尋ねた。
「さ、三枝さん、あなたもしかして」
「やはは……うん、キスしちゃった」
「っ!?」
 あっけらかんと答えられ、美魚は絶句した。
 やはりという予感はあった。けれど何故葉留佳がそうしたか、その理由が理解できない。
「何故……そのようなことを……」
「したかったから。だからしたの」
 美魚の言葉に間髪入れずに葉留佳は答えた。
 それはおそらく葉留佳の本心。
 けれどそれが美魚には信じられない。
「したかったからって、そんな……そんなこと……なんでわたしなんかに……」
 美魚は視線を逸らしながら問いかけた。
「それはみおちんは分かってると思ってたけど」
 からかうでもなくただ事実を告げるような葉留佳の言葉。
「っ!?ば、馬鹿を言わないでくださいっ。あなたは、人が寝ていれば誰彼構わずキスをする、そういうことでしょうっ」
 吐き捨てるように断定する美魚の言葉。けれどその声それに反して震えていた。
 その事実に美魚は気付かない。気付けない。
 葉留佳はそんな美魚の様子が愛おしく、僅かに頬を緩める。
「まさか。相手がみおちんだからだよ。じゃなきゃしないよ」
 答えて、僅かに美魚の方へと身体を寄せる。
 美魚は葉留佳の言葉に目を見開き、慌てて目を逸らした。
「悪趣味な冗談は聞きたくありません」
 わざと素っ気なく答え、強引に話を打ち切ろうとした。
「冗談じゃ、ないよ」
 けれど葉留佳の寂しそうな声に美魚の動きが止まる。
「……でもごめんね。嫌がること考えてなかった。本当ごめんなさい」
「ち、ちが……」
「はるちん馬鹿だから、もうしないようにするね」
 葉留佳は力なく笑うと、ゆっくりと美魚から離れようとする。
「待ってください」
 今にも離れようとする葉留佳の腕を美魚は必死に掴んだ。
 そしてそのまま離さないようにギュッと自分の胸に抱きしめる。
「嫌じゃ、ないです。嫌なんて思うはずないです」
 心の奥から絞り出すように美魚は想いを吐き出す。
 そんな美魚の心からの叫びを聞いて葉留佳はゆっくりと振り返った。
「良かった、嫌われたのかと思っちゃいましたヨ」
 葉留佳の表情は笑顔だった。。
「そんな嫌うはず……嫌ならもっと遠ざけます」
「だよね。そういうとこもまた好きデスよ」
 さらりと告げられた言葉に美魚は思わず俯いてしまう。
 自分の顔がだらしなく綻んでいないか、美魚は気が気ではなかった。
「やはは、嬉しいな。そんな風に喜んで貰えて」
 葉留佳はと言うとそんな美魚の気も知らず、あっけらかんと喜びを表現する。
 あまりにも普通に好意を表現する葉留佳に美魚は少しだけ苛立ちを覚える。
「で、ですが好きだからと言って寝込みを襲うのは許される行為ではありませんよ」
 だからついつい皮肉を口にしてしまうが。
「あっ、じゃあ寝てなければオッケーなんだ」
「ぐっ、そ、それは……」
 いつもと違い、あっさりとそれは躱されてしまう。
 それだけでなく墓穴も掘り進めているようだ。
「あはは……そう言う素直なところも大好きですヨ」
「……さ、三枝さん!?」
 葉留佳の腕を掴んでいた手を逆に握り締められ、美魚は驚きの声を上げる。
 けれど葉留佳はそれを気にするでもなく更に近寄る。
「三枝さん、何を……」
「葉留佳」
「え?」
「葉留佳って呼んで」
 その言葉を聞いた瞬間、美魚は身体は葉留佳の胸の中へと引き寄せられた。
「あ、あの……」
 戸惑った表情で葉留佳の顔を見上げるが、彼女の表情は真剣そのものだった。
 それを見て、諦めたように嘆息すると美魚はすっと息を吸い覚悟を決めた。
「……は、はるか……」
「うん、上出来ですヨ。愛してます、美魚」
「んんっ……んっ……」
 何か言おうと開いた口を葉留佳の唇で塞がれ、僅かに身体をばたつかせる。
 けれどその抵抗をすぐに止み、それどころか口の中に侵入してきたぬめりとした舌先を美魚は喜んで受け入れた。
「ぴちゃ……くちゅ……んちゅ……んっ……はる……んあっ……」
 苦しそうに喘ぐ美魚の首に葉留佳の両腕が回され、力が込められた。
 そのままグッと唇同士が重なり合う。それはまるで唇同士で蓋をし合っているようだ。
 舌の動きも更に激しくなり、美魚もまた葉留佳の舌に自分の舌を絡めていく。ヌチュクチュと粘液質の音が辺りに響くが、どちらのそれを気にするでもなく、逆に嬉しそうに表情を向ける。
「ぴちゃっ……んんっ……んぅ……あっ……」
 美魚は何度も何度も小刻みに身を震えさせる。
 そしてそれに呼応するように葉留佳も身を震えさせ、髪を掻き乱す。
 やがて鼻で息をするだけでは息苦しくなってくる。
「ぷはっ……」
 どちらともなく唇を離し、二人は大きく息を吐いた。
「可愛いですね、みおちんは」
「……あなたもですよ」
「いやー、照れますネ。それじゃあ……んんっ」
「んぅ……あっ……」
 再び葉留佳は美魚の唇を奪うと、彼女の薄い胸をそっとまさぐった。
 美魚はそれに対し、僅かに目を見開いただけでされるがままに任せた。
「んあっ……」
 葉留佳はそのまま美魚の身体を地面に横たえると、空いているもう片方の手を美魚のスカートの中へと滑らせ、その中に秘められた布きれへと指を伸ばす。
「んなっ……ふぁああ……」
 初めてそこで美魚は身をよじるが、葉留佳の指が触れた瞬間、彼女は身体を大きく震わせ身を預けてしまうのだった。




「はい、ここまでー。ここからは有料ですよ、お客さ……あいたーっ」
 脳天にもの凄い衝撃を受け、少女はその場にのたうち回った。
「何が有料ですか。いきなり直枝さんに抱きついたかと思えば、妄想を延々と垂れ流して」
 地面をのたうち回る少女を美魚は汚物を見るように睨む。
「頭くらくらする〜」
 頭を抑え涙目で顔を上げる少女の顔形は美魚と目付きを除き全く同一だった。
 彼女の名前は西園美鳥。美魚の正真正銘の双子の妹。
 それがこの現実世界における彼女の役割である。
「ま、まあまあ美魚も落ち着いて。美鳥も大丈夫?」
 二人の間に理樹は慌てて割って入り、少女に向けて手を伸ばす。
 その顔が少し赤いのはご愛敬だろう。
「うう、ありがとう。理樹君は優しいね。それに比べてお姉ちゃんの鬼。実の妹の頭を本気で殴らないでよ〜」
 美魚のことをじっと睨み付け、うーっと唸る。
「わたしにこんな変態な妹はいません」
「ひどっ!男同士の絡みが好きな人に言われたくないよ」
「身内を勝手に女性と絡める方が問題です」
「えー、ホモより百合の方がマシじゃない」
「その喧嘩、買いますよ。……そもそもなぜわたしと三枝さんなのですか」
「え?んなの一番仲いいでしょ。だから……」
「仲が良かったらあなたの中では怪しい関係なのですか?三枝さんはただの友達で仲間、それ以上でもそれ以下でもありません」
「面白くない答えだねー。いいじゃん、どうせアブノーマルな趣味してるんだからそれを広げても」
「そんなつもり毛頭ありません。……そう言えば最近二木さんの視線に妙な殺気が混じっているような感じを受けるのですが、変な噂流していませんよね」
「さあ、どうだろうね」
 美鳥の受け答えに美魚は僅かに頬を引き攣らせる。
 いい加減どちらが上か叩き込む必要があるかもしれないと、美魚は知らず知らずに拳を握りしめていた。
「だいたいさー、恋人を男の人と絡める本作ってる時点でおかしいよ。理樹君もそう思うよねー」
 理樹に抱きつきながら美鳥は質問する。
「いや、それはその……」
 抱きつかれたことに対する戸惑いもあり、理樹は答えに窮してしまう。
 それを見て、美鳥は口元を歪める。
「ほーら、理樹君も嫌がってる。もうこの際こんなお姉ちゃんなんて捨ててあたしと付き合わない?」
 そう口にした瞬間、猛烈な勢いで何かが美鳥の頬を掠めた。
 その事実にしばし固まり壊れたブリキの玩具のように美鳥と理樹はゆっくり振り向くと、真っ白な日傘が木の幹に突き刺さっていた。
「外しましたか」
 ボソッと平坦な美魚の声が二人の耳に届く。
「おおおお、お姉ちゃん、殺す気っ!!?ちょっと頭動かしてたら確実に風穴空いてたよっ」
「ええ、惜しかったです」
 烈火の如く美鳥は怒鳴るが、対する美魚の声は氷のように冷ややかだった。
「ちょっとしたお茶目じゃない。そんなんで殺されちゃたまらないよ〜」
「……笑えない冗談は好きではありません」
 美鳥はなんとか茶化そうとするが、美魚の声は相変わらず絶対零度だ。
「…………あーえっと、もしかして本気で怒ってる?」
「さあ?」
「あ〜ん、理樹君助けて〜」
 とりつく島もないと分かったのか、美鳥は泣きそうな声で理樹に縋り付いた。
「あー、ほらほら。美鳥も反省してるみたいだし許してあげたら」
 縋り付く美鳥の頭を苦笑しながら撫でつつ、理樹は美魚に笑いかけた。
 そんな二人を見て美魚は小さく嘆息する。
「……別に本気ではないですよ」
「えー、嘘だー。あの攻撃完全に殺気が「なにか」……いえなんでもないです」
 思わず美鳥は反論しそうになるが、美魚の鋭い目線に晒され慌てて口を紡いだ。
 そんなやり取りにもう一度理樹は苦笑を浮かべる。
「まあそうやって反応して貰えるだけで僕は嬉しいかな」
 美鳥の頭を撫でるのを止め、理樹は柔らかく美魚に微笑みかけた。
「直枝さん……」
 そんな理樹に美魚は頬を紅潮させ、僅かに顔を俯かせるのだった。
 すると美魚の様子に気付いたのか、今度は理樹まで頬を赤らめて下を向いてしまった。
「……………あー、二人の世界に入るのもいいんだけどさ。放置は寂しいかな」
 一瞬にして周りが見えなくなった美魚たちに対し、美鳥は呆れたように呟いた。
「あ、いや、ごめん。ついうっかり」
「こほんっ」
 二人は慌てて互いから視線を逸らす。
 ……まあすぐさま互いを気にするように視線を彷徨わせるのだけれど。
「まあいいけどね。でもさー、これなら美魚の寝込み襲っちゃっても良かったんじゃない?」
「え?」
「ほらさっきあたしが話した感じでさ。美魚って理樹君の肩を枕にして寝こけてたじゃない。理樹君、何にもしなかったみたいだけどキスくらいしても罰当たんないって」
「あ、あれってちゃんと意味あったんだ」
 思いつきをただ喋ってるとばかり思っていたので、理樹は心底驚いた表情を向ける。
 なるほどだから美魚が目覚めてすぐ自分にタックルして話し始めたのかと一人頷く。
「そうだよ。はるちゃんを理樹君に置き換えてさ。ぶちゅーといった後なに崩し的にこの場でイタしてしまっても全然構わないんだし」
「構います」
 怜悧な視線を美鳥に向けたまま美魚が反論する。
「なにより了承も取らずに唇を奪われたくありません」
「えー、相手理樹君なのに?」
「関係ありません」
 キッパリとした言い様に美鳥は僅かに唇を尖らせた。
「理樹君もしたくないの?」
 僅かに期待を込めて美鳥は理樹を見上げる。
「いや、美魚が嫌ならしないよ。確かに卑怯だしね」
「えー」
 面白くないなあとばかりに頬を膨らます。
「……それとさ」
「ん、なに?」
 言いづらそうな理樹の言葉に美鳥は首を傾げながら尋ねる。
「さっきみたいなのは止めて欲しいかな、なんて」
「さっきって?」
 どれのことだろうと思考を巡らす。
「美魚と葉留佳さんがイチャイチャするって話。彼氏としては、さ」
「えー、女の子同士の創作なのに?」
「それでも、さ。美魚が僕以外とそう言うことするのって想像したくないし」
 独占欲かなと恥ずかしそうに理樹は頬を掻いた。
「はぁー、愛されてるねえ。それに比べてお姉ちゃんは理樹君を男の人と絡めて悦に入ってる変態さんだし」
「い、いえその……」
 ついっと視線を逸らし、美魚は顔を赤らめた。
「最近はそう言う想像をすることもなくなりまして。その……前はそうでもなかったのですが、直枝さんが男性の方と仲良くしているのを見るのは好きだったはずなのですが、最近はどうにも落ち着かなくなってしまいまして」
 それ以上美魚は口に出来ず、頬を更に紅潮させてしまった。
「あ、あはは……男としてちょっと複雑だけど美魚の気持ちは素直に嬉しいかな」
「直枝さん」
「美魚」
 そっと二人は手を握り合った。
 そして互いの手の感触を楽しむように擦り合わせ、二人は微笑み合った。
「なんだこのバカップル。背中がむず痒い」
 またも放置された美鳥は一人身体をくねらせ、その面倒くさい空気に耐える。
 けれど美魚たちは彼女を気にするでもなく延々と手を握り合い、目と目で会話まで始めてしまった。
「だーもう、面倒くさい。見つめ合うだけなんて中学生のカップルでも今日日ないよ。キスくらいそこでしちゃいなって」
 いい加減耐えきれなくなって叫ぶと、醒めた目線を美魚から向けられてしまう。その視線に思わず美鳥はひるんだ仕草を見せる。
「無粋ですね」
「いや、そう言われてもさ……」
「だいたいこうやって側にいられるだけでわたしたちは幸せなんですから、このままでいいんですよ」
「……理樹君も?」
 美鳥はゲンナリとした表情のまま理樹に問いかけた。
「うん、まあ僕も触れ合えるだけで幸せかも」
 予想通りの反応に美鳥は更に肩を落とした。
「そんな昨日今日付き合い始めたばかりのカップルじゃあるまいし。大人の関係にだってなってるでしょ?」
 知ってるんだからとばかりに目を細め、小悪魔じみた笑みを浮かべる。
「確かに昨日は舐めるように服の中を見られましたけど」
「ちょ、美魚ーっ!!」
「外も中も直枝さん色に染められ尽くしたと言いましょうか、ちょっと眠いです」
 腰や顎も怠いですしと、少しだけ美魚は頬を膨らます。
 そんな彼女を尻目に理樹と美鳥は顔を赤くして俯くしかなかった。
「あー、うん、仲がいいね」
「あははは……ごめんなさい」
 なんとなく申し訳なくなって理樹は二人に頭を下げた。
 そんな彼に美鳥は僅かに酷薄な笑みを浮かべる。
「エロ魔神」
「ぐっ」
「それとも美魚がエロいのかな」
「さあ?どちらにしろ直枝さんの所為ですけどね」
 美魚は動じず涼しい表情のままだ。
「ですがそれはそれですよ。身体同士の繋がりも嫌ではありませんが触れ合えるだけで幸せになれるのもまた事実ですから」
「ふーん、そんなもん?」
「ええ。ですからわたしたちはこのままでいいんですよ」
「あっそ」
 いい加減どうでも良くなったのか返事はおざなり気味だ。
「まあいいや、二人が仲いいのなら。あたしもう行くね。はるちゃんか誰かで遊んでくるよ」
「分かりました。あまり遅くなるんじゃないですよ」
「分かってるって。じゃあねー」
 片手でヒラヒラと挨拶し、美鳥は立ち去っていったのだった。


「相変わらず美鳥は元気だね」
「そうですね」
 言葉は途切れてしまうが、その沈黙もまた二人には心地いい。
 そのまま手を触れ合わせ木へと寄りかかり、手の感触を楽しむようにどちらともなく二人は手を握り締め合うのだった。
「そう言えば直枝さんも寝不足、ですよね」
「え?うん、まあ……」
 どう反応していいか分からず、理樹は曖昧に頷いた。
「それなら……どうぞ」
 美魚はソッと足を崩すと、スカートを直しポンポンと腿を叩く。
「えっと……何を……」
「膝枕です。どうぞ」
「……いいの?」
 おそるおそる理樹は聞き返した。
 あまりに魅力的だが、こう言ったことは普段外ではあまりしないので戸惑ってしまう。
「駄目なら誘ったりなどしません」
「……はは、だよね」
 美魚らしいキッパリとした口調。
 僅かに苦笑を漏らし、理樹は素直に横になることを決めた。
「じゃあお邪魔して」
「どうぞ」
 ゆっくりと頭を横たえる。
 頭に当たる絶妙な柔らかさが非常に気持ちいい。
 理樹は知らず知らずにほっと息を吐く。
「気に入っていただけたようで幸いです」
「まあ、美魚のだし、ね」
 恥ずかしくなって理樹は視線を合わせず応える。
 けれど美魚はそれで充分なのか、スッと理樹に髪に手櫛を入れながら微笑んだ。
 そうやってしばらく美魚は理樹の髪を撫で、彼もまたそれを気持ちよさげに受け入れる。
 そうこうしているうちに徐々に理樹の目蓋は下がってきた。
「構いませんよ、寝てしまって」
「……うん、ごめん。それじゃあ……」
 身体から力を抜き、微睡みに身を任せていく。
 そんな理樹に耳に柔らかい美魚の声が響く。
「ただ途中で口吻をしてしまうかもしれませんが」
「……え?」
 寝ぼけた頭のまま首を巡らし、美魚の顔を確認する。
「事前に了承を得れば問題ないですよね」
 そこには本当に幸せそうに微笑みを浮かべる美魚の姿があった。
「うん、そうだね」
 その笑顔を目に焼き付け、理樹はゆっくりと意識を手放したのだった。


[No.553] 2009/12/04(Fri) 14:15:44
君がいるから (No.544への返信 / 1階層) - ひ蜜@3425 byte

 “智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。”
 そう著したのは一体誰だったか。鴎外辺りだろうか。何となくだが人間関係に悩んでいそうだ。
(夏目漱石ですよ。『草枕』)
 そうだったか。ちょうど一区切りついたところだったので竹刀を振る手を止めた。しかし物知りだな、君は。
(あなたが知らな過ぎるんです。趣味は読書だ、なんて言っていたのに)
 まだそのネタを引っ張るのか。勘弁してくれ。腰に提げていた手拭で汗を拭いながらため息をついた。昔の浅はかな自分を思い出して顔が熱くなっているのが分かる。
(昔だけですか?)
 大して成長していないと言いたげだな。思い当たるふしがないわけでもないのが悔しい。

 知り合いのお嬢さんなんだけどね――酒屋の主人から持ちかけられたのはそんな話だった。唐突ではあったが、驚いて取り乱すようなことでもなかったので淡々と説明を受けた。
「真面目で気立てもいい娘なんだけれど晩生なところがあって。いや本当に今時珍しいいい娘なんだよ」
「はぁ…」
 今時そんな娘がいたらたちどころに悪い男の餌食だろうに。勿論そんなことを口に出すわけにもいかず、その分の沈黙をぬるくなった茶を啜ってごまかした。だがいい加減出涸らしていて色つきの湯でしかなかった。
(えー、私は違うんですか?)
 自分で言っているような奴は違うだろうな。視線を湯呑に落としたまま胸の内で呟く。今ではこうして他人と差し向かいで話していても気取られないようになった。
「まあ、謙吾君よりもちょっぴり歳上だけど、ほら、姐さん女房はキンの草鞋って言うじゃない」
 いや、それは金ですご主人、カネ。
(あと金の草鞋を履いてでも探せ、ですね。姐さん女房を草鞋代わりに履いちゃったら惨劇の幕開けですよ)
 それは大袈裟すぎないか? まあ喧嘩にはなるだろうが。具体的にどんな惨劇になるのか聞いてみたい気もするが、この場でする話ではなし、我慢することにした。
「それにほら、親父さんもそろそろ正式に道場を任せたいだろうし、跡継ぎとか――」
「いや、父は少なくともあと20年は現役でいるつもりのようですし、流石にそこまでは気が早すぎますよ」
 彼女の顔が曇る気配がしたので慌てて流れを遮った。主人も親父の気性からすぐに納得できたのだろう、先方の事情を打ち明けて興味を惹く作戦に切り替えた。俺はそれを聞き流しながら、水面でゆらゆらと揺れる自分の顔を眺めていた。そうか、そういう話が来るような歳なんだな。
(随分経っちゃいましたね…)
 それに何と答えていいのか分からず、手の中の湯呑をただ弄んでいた。それも彼女には筒抜けなのに。

 結局、主人は俺ののらりくらりした態度にも全く挫けることなく粘り、無碍に断りきれなかった俺は近いうちに件の女性と会うことを承諾した。
「参ったな…」
 主人が帰った応接間を片付けながら、疲労と倦怠感に愚痴がこぼれる。主人の顔を立てるためとはいえ、付き合う気もない女性に会うのは罪悪感に駆られる。
(いいじゃありませんか。会ってみたら凄く綺麗な方かもしれませんよ?)
 そういう問題じゃない。「仕方なく」などと、会う動機が不純だと言っているんだ。思ってしまってから、該当者が他にもいたことを思い出した。
(ふふ、気付いてくれたので良しとします)
 もう10年になるのか。俺達は結構長く続いているんだな。桜の下で出会い、若葉の頃に別れ、そして初雪とともに再会した。それからずっと傍にいる。
(姐さん女房は駄目ですか?)
「生憎俺は歳下が好みなんだ。ずっと歳下がな」
 声に出してはっきりと宣言する。俺の揺らがない気持ちを。息を飲む気配がして、ほう、とため息が聞こえた。忍び笑いと共に。
(この、ろりこん)
 一緒にするな。あくまでも女子高生限定だ。
(へんたい)
 ああ、望むところだ。
(…しく…ます)
 こちらこそ。俺は笑顔で振り返った。誰もいない空間に。

 一日を終え、今日も床につく。
「お休み」
(はい、おやすみなさい)
 毎晩、眠るのが待ち遠しい。君が見えるから。君に触れられるから。
 さあ、今日は何をして遊ぼうか?


[No.554] 2009/12/04(Fri) 20:15:53
unsleeping beauty (No.544への返信 / 1階層) - ひみつ@15820byte

 はい。それでは次のお便りです。メールで頂きました。えっと、ペンネームは……あ、本名オッケーですね。直枝理樹さん。ナオエ、リキさんです。リクエストはですね、ベートヴェンの月光をお願いします、とのことです。理樹さん、ありがとうございます。
ベートヴェンの月光。小学校の頃、音楽の時間で聞いた人が多いのかも。私はそうでした。今からかける曲を聞いて、どんな感想を持ったか書きなさい、なんて授業だったと思います。ん〜、感受性の豊かな子が多かったんでしょうか。この曲を聞くと、月の光が見えちゃったりね。他にも、ぶわーっと田園風景が広がったりとか、悲愴な気持ちになっちゃったりしてね。
 これはもう、有名なお話なので皆さんご存じかもしれませんが、この月光という題、後から付けられたんですね。ベートヴェン本人の手によるものではないんです。これは、この曲を聞いた詩人のルートヴィヒ・レルシュタープ。今ちょっと噛みましたね、ルートヴィヒ、レルシュタープさん。が、ルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のようだ、と言い表したことに由来するんだそうです。知ってましたか? 理樹さん。
 これを聞いている皆さんも、折角こういう機会なので先入観を排して、題名から受けるイメージを排してこの曲を聞いてみると、また違った印象を受けるんじゃないかな、と思います。それでは聞いて下さい。ピアノソナタ第14番嬰ハ短調作品27の2、月光ソナタより。第一楽章、アダージョ・ソステヌート。

 unsleeping beauty

 くつくつと笑いながら廊下を歩いていた。校内に響く彼女の声。休日の校舎に生徒の姿はない。教師が一人でもいたら大変なことになりそうだけど、今のところ、この放送は滞りなく進んでいる。それにしても。
「唯湖さん、猫かぶりすぎ」
 放送室の扉を開け放つと同時に言った。意地の悪い笑みが迎える。
「ふふ。少なくとも、ここに来るまで退屈はしなかっただろう?」
 椅子に深く背を預ける唯湖さん。制服を着ていた。机の機材からマイクが伸びている。手を伸ばして、長い髪を撫でた。顔を寄せ合い、触れるだけのキス。甘い匂いがする。月光に包まれている間の、幻のような出来事。
自室で本を読んでいたところに、唯湖さんからの呼び出しがあった。メールの文は、こう締め括られている。ところで、何か聞きたい曲はあるかい?
「なんだかキミは、ずいぶんとこういう行為に慣れてきたみたいだ」
 頬を赤らめ、唯湖さんが言う。
「唯湖さんには、ずうっとこういうことに不慣れでいて欲しいな」
 かわいいから。付け加えた言葉には、流石に照れが混じった。慣れていないのはお互い様だ。二人で笑う。
 折角だからもう一曲かけようと、CDを機材に入れた。もちろん、照れ隠しも込みの行動。唯湖さんがラジオDJの調子で曲を紹介する。あの映画、総制作費60億円らしいです。流れ出す耳慣れたギターリフ。70年代のグラムロック。

 授業中。なんとはなしに外を見ていた。校庭で走っているのはどこのクラスだろう。暦の上では秋だが、なかなかその足音が聞こえてこない。秋モノの服は売れないだろうな。どうでもいいことばかりを考えている。教師の声は、右から左。気もそぞろ。
穏やかな日々だった。穏やかすぎるくらいに。のんびり進む時計を見やる。早く唯湖さんに会いたい。
 放課後。放送室は、ひっそりとしていた。椅子に腰掛け、携帯を見る。唯湖さんからメールの返信はない。惚けていると眠気が襲ってきた。頭痛もする。いつもの症状だ。いつもの? いつものって何だろう。自らの言葉に首を傾げてしまう。ナルコレプシー。そうだ。僕は。あれ? でも。まさか。直った、はずじゃ。耐えきれずに目を閉じる。ふと肩を叩かれる。振り向く。誰もいない。違う。叩かれていない。振り向いてもいない。誰もいない。
 目を開けると、側に唯湖さんがいた。名前を呼ぼうとしたのに、上手く声が出ない。どのくらい眠っていただろう。そんなに長い時間じゃないはずだ。いきなり唯湖さんに抱きしめられる。苦しい。
 夢を見ていた。よく知っているような、とても懐かしいような人達が、浮かんでは消えていった。唯湖さんの胸の中で、自分が泣いていたことに気づいた。

 朝。自室のベットで飛び起きた。最悪の目覚め。思わず叫び声をあげたかもしれないが、自分でもよく判断がつかない。寝汗がひどい。呼吸を整えようと、ゆっくり息を吐く。吸う。
 できれば思い出したくもない夢だった。見知らぬ森。バスが横たわっている。黒い煙。ひどい匂いだ。荷物が散乱している。人も。ぴくりとも動かない人達。それはまさに、地獄の様相だった。
 思わず二段ベットの下を覗き込む。空の寝床。主のいないその場所を、僕は長いあいだ見つめ続ける。

 デートをしよう。唯湖さんへ、そうメールを打った。気まぐれだった、だけど真剣だった。追伸、グローブ持参でグラウンドに集合。
「どうしてデートにグローブなんだ?」
 挨拶よりも何よりも、まず唯湖さんがそう尋ねる。先に来て待っていた僕も、グローブをしてグルグル肩を回す。
「キャッチボール、しようと思って」
「キャッチボール」
「キャッチボールデート」
「キャッチボールデート」
 なんだか馬鹿みたいな会話をしてしまう。
「そんなの、初めて聞いたな」と唯湖さん。
「少なくとも、流行ってはいないね」僕。
 距離を取り、軽くボールを投げた。ナイスキャッチ。唯湖さんも投げ返してくる。捕る。
「僕らにはさあ」
「ああ」
「会話が必要だと思うんだ」
「うん」
 投げる。捕る。
「キャッチボールってさあ」
「うん」
「会話みたいだよねえ」
「ふむ」
 投げる、捕る、投げる、捕る、投げる。
「それは、つまり」唯湖さんがボールを止める。
「人生は、マラソンみたいだ?」
 僕は笑う。グローブを外し、唯湖さんの側へ行く。
「唯湖さん」
 リトルバスターズ、って通じる?

 僕らは、自動販売機のところまで場所を移した。風は少し冷たいけれど、ホットコーヒーが似合うような陽気でもない。二人とも、思い思いの飲み物を買い、ベンチに座り込む。
「どこから話そうか」
 僕は、そう口火を切って話し出す。あの忌まわしい事故のこと。唯湖さんもうっすら気づいていた、繰り返される日々のこと。僕がこれまで通ってきた、僕らを取り巻く物語のすべて。
 たどたどしい僕の話を、唯湖さんは黙って聞いていてくれた。信じてもらえるかどうか、正直、難しいとも思う。やはり、この話は突飛すぎた。でも、心のどこかで聡明な彼女を信じてもいた。当然だ。彼女は、僕の好きなひとなのだから。だからこそ、僕は正面切って話をしようと思ったのだ。
 その後で唯湖さんに質問をする。まず、リトルバスターズのみんなを覚えているのか。彼女は黙って頷く。ならば何故、ここは彼らがいないままなのか。
「分からない」
 唯湖さんは、首を振る。
「唯湖さんは、おかしいと思わないの?」
 みんなのいない、この世界を。
 唯湖さんが飲み物を口に運ぶ。こくんと、喉の鳴る音がする。
「理樹君。これを、覚えてる?」
 突然、唯湖さんが携帯電話の画面を見せる。
 きっとそこにいくから、まってて。
 差出人は僕だった。が、正直、記憶が判然としない。僕が送ったのだろう。僕が送ったのだと思う。そうとしか言えない。口籠もっていると、唯湖さんがベンチを立つ。
「自分にも何かできるんじゃないかと、必死に考えたんだ。思いつく限り、取れる行動は取ったんじゃないかと思う。でも」
 結局、待つことしか。ただキミを待つことしか、私にはできなかったよ。
 唯湖さんはそう言うと、背を向けて行ってしまった。僕は、しばらく空を仰ぎ、その場から動けずにいた。唯湖さんの表情が、いつまでも目に焼きついて離れない。悲しさや寂しさが入り交じった、彼女の笑顔。
 どうして、僕はここにいる?

 それからというもの、僕は今まで無自覚だった日常の違和感に苦しめられる。授業中、嫌でも目に入る知らない背中。閑散として広く見える屋上や、声のない校庭。そんな風景の中、さあっと吹き込んでくる孤独。静かすぎる夜。
 嫌な夢も相変わらず見たが、胸を締めつけられるような幸せな夢も見た。自分が気心の知れた仲間達と共にあるという、言葉にすればなんてことのない夢だった。
 そのうち、僕はこう考えるようになる。もしかすると、何かやり残していることがあるのか。僕はまだ、あの長い旅路の途中なのではないか。
 誰かが僕の名を呼んだ。それは、そうあって欲しい気持ちが産み出した幻聴なのか。そんな判断すらつかなかった。

 数日ぶりに放送室へ足を運んだ。あの日から唯湖さんとは疎遠になっていた。避けられているのか。そうしているのは自分か。
 扉を開けると、唯湖さんは電子ピアノの前に座っていた。おもむろに鍵盤を叩き出す。ストラヴィンスキーの、ペトルーシュカからの3楽章。超絶技巧だった。思わず聞き惚れてしまう。演奏は途中で止まった。本来、すべてを弾こうとすれば十五分ほどかかる。
「ピアノ、弾けるんだね」
 拍手と共に、僕はぽつりと呟く。
「少し」
 それよりも、もっと小さな声。あれで少しか。笑うところだろうか。違うだろうな。彼女を遠く感じる。
「唯湖さん」
 意を決して、彼女の名前を呼ぶ。それから、つらつらと話し始めた。僕が抱いている疑念。もしかすると、僕らはまだあの異常な状態から抜け出せていないかもしれないということ。そして、僕がまたここからいなくなるかもしれない、ということ。
「本当にそうだったとして、たぶん、私ではキミを止められないと思う」
 話を聞いた後で唯湖さんは言う。
「でも」一呼吸。
「すべてが正しく、美しくなった世界で、またキミが私を選んでくれるのか。自信が、ないんだ」
 唯湖さんが、にこりと微笑む。その大きな瞳が潤んでいた。彼女は、再びピアノへ指を置く。恐らく、誰もが知っているであろうメロディが流れる。
 ねこふんじゃった、ねこふんじゃった、ねこふんづけちゃったらひっかいた。
 ねこひっかいた、ねこひっかいた、ねこびっくりしてひっかいた。

 あの時、僕は何を言うつもりだったのか。ありがとうか、さよならか。最初からかける言葉なんて、何もなかったんじゃないのか。今になって、そんなことを考える。
 その後、唯湖さんと顔を合わせてはいない。とはいえ、この学校から離れられる訳でもないから、どこかですれ違ったりはしているかもしれない。
 あれから僕は、ただひたすらに待ち続けた。何か、何とも形容しがたい力が、この世界から僕を攫ってくれる時を。多分、それが一番正しいであろうと思ったからだ。この悲しみを越えた先に、僕らのあるべき本当の世界があると、なかば本気で信じていたからだ。
 だが、時は残酷に過ぎ去った。秋はとうに終わり、冬がやってきていた。僕は焦っていた。いつかの唯湖さんの言葉を思い出す。世界の歯車なんて、ほんの少しがずれただけで正常に動かなくなってしまう。仮に、それが真実だったとしよう。だが、それをどう動かす? 彼女はこうも言った。ここは、願いを叶えられる夢の場所だ。しかし、それは本当だろうか。人の願いが容易く叶うような世界で、どうして僕らはこれほど苦しむ?
 僕は、やはり違うと思う。ここはもう、夢の中ではないのだ。本物の現実なのだ。現実の歯車は、そう簡単に揺るぎはしない。それは、とても強固な力で守られている。人間の思惑や行動、願いや祈りを意にも介さず。六月に雪は降らない。同じ日は二度と繰り返さない。食べてしまったカップラーメンも、もう元には戻らない。
 ポケットから携帯を取り出す。メールの送信済みフォルダを開く。そこには、唯湖さんに宛てて送ったメールが確かにあった。
 きっとそこにいくから、まってて。
 僕はもう、既に大切な選択をした後なんじゃないのか。

 微睡みの中、いつもと違う夢を見た。周りを囲む仲間はいない。静かな夕景、静かな教室。机で眠りこける唯湖さんをそっと見つめている。来ヶ谷さん。呼びかけても返事はない。唯湖さん。思わずそう口にしていた。それは禁じられた行為のはずなのに。
 穏やかな日々が続いていたのだ。穏やかすぎるくらいの。いずれ彼女は感情を取り戻すだろう。僕以外の誰かと、恋をするだろう。それだけのことが、どうしてこんなに苦しい。目覚めない彼女に手を伸ばす。眠り姫の童話。指先で唇に触れる。

 校庭の真ん中に立って、雪の降り積もる音を聞いていた。誰もが寝静まる真夜中。張り詰めた空気に白い息が溶けていく。今日は夜から記録的な大雪になりそうだ、天気予報がそう伝えていた。地面を見ると、もう僕の足跡が消えかけている。怖いと思う。美しいと思う。無限にも思える宇宙を、小さな僕が眺めている。
「メリー」
 声をかけられた。振り向いて、口角を上げる。
「クリスマスには少し早いね、残念だけど」
 マフラーとショートダッフル、厚手のタイツにブーツ。唯湖さんの服装が、過ぎ去った時の流れを感じさせる。そういえば、記憶の奥にある彼女はまだ夏の制服を着ていた。
「あれはあれでよかったなあ」
 唯湖さんが、意味が分からんとばかりに僕を見る。すみません、こっちの話です。
「何をしてるんだ?」
 お迎えを待っているんだ。少し考え、茶化すように僕は言う。唯湖さんが笑みを浮かべる。
「私も、一人になってからいろいろ試したぞ。屋上から飛び降りればキミの元へ行けるんじゃないか、車に轢かれれば、電車に飛び込めば」
「まさか」思わず口に出す僕。
「もちろん、実行に移すような真似はしなかった。まともな考えじゃないだろう、そんなの」
 その言葉に安堵する僕。ふと、唯湖さんと自分の立場が頭の中で入れ替わった。彼女をこんな気持ちにさせてしまったことに、今の今まで気づかないなんて。
「ごめ」
 口を開いたところに雪玉が飛んできた。
「ぶっ」
 雪玉。
「ちょっ」
 雪玉。
「待っ」
 雪玉雪玉雪玉雪玉雪玉。
「このっ」
 我ながら頭に血が昇ったのか、考えなしに身体が動く。球状にしている暇はない。足下の雪をとにかくすくい上げる。雪っ。雪っ。
 雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪。倍の倍の倍返し。雪崩のような大量の雪が押し寄せる。その勢いに負け、僕は仰向けに倒れた。敵に回してはいけない人を、敵に回してはいけない人を敵にしてしまった……。いつぞや破壊された教室の扉を、僕は思い出していた。
「会話をキャッチボールに例えるなら、こういうのはなんだろう」唯湖さんが僕を覗き込んでいる。
 僕は苦笑う。たぶん、愛だと思う。間違っても、そうは言えないけど。
唯湖さんが無表情で僕に乗りかかってくる。仰向けでの馬乗り。マウントポジション。身を捩らせ抵抗を見せると、両手首を掴まれ完全に押さえ込まれた。
「男が女に力で勝てる訳ないだろう?」
 普通は勝てるんです。普通は。
 頬を緩ませたままの僕を見、彼女が平手を張った。返す手で反対側をもう一発。乾いた音が辺りに響く。衝撃で、何が何だか分からなくなった。
「知ってるんだ」耳元で声がする。震える声。
「知ってるんだ、キミが話していないこと」
 小毬君が好きなキミを。鈴君を愛するキミを。葉留佳君を、クド君を、美魚君を。それは、私を愛するのと同じように。私を愛するのと同じようにだ。
 次々と吐き捨てられる言葉達。
 僕は強くなった。人から見れば、何も変わっていないと思われるかもしれない。だが、結果的に世界はその姿を変えた。僕らは僕らの望む世界を、一度は手に入れたのだ。だけど恭介。どうして僕は、強くならねばならなかった。恭介。どうして君は、こんな方法で僕を強くした?
「理樹君。私のことは、心配しなくていい。キミを待っている間も、なんとか一人でやってこられたんだ。キミがいなくなったって大丈夫だと思う。そのうち何もなかったように、すっかり忘れてしまえると思う」
 でも。彼女が言葉を詰まらせる。
「私をこんな風にした責任を、取ってくれないか」
 僕らは、どこで過ちを犯したのだろう。過去は変えられると思っていた。あの理不尽な出来事を消し去れると思っていた。だが、今ではもう夢でしか見ることのできない、それこその夢のようなあの日々は、実は多くの犠牲の上に成り立っていたのではないか。僕があの場所で手にした記憶や経験は、いつまでも消えずに残り続けるだろう。分岐した幾つもの可能性も、それぞれ独自の物語を歩み続けるだろう。ただ自らの存在を守るため、ただ自らの存在を守るためにだ。それはまるで、かつての僕らと同じように。
 唯湖さんが僕の胸に顔を埋める。彼女の頭をそっと抱きしめた。降り注ぐ雪。瞬く星々が見える。それは、もう戻ることも許されない、無数に散らばった自分自身のように感じられた。
 試してみよう。僕らが思いつくやり方で。二人なら、きっと上手くやれると思う。だって、恋してるほうの好きなんだから。それは、とても特別なものなんだから。
 彼女に張られた頬が、今更になって熱を帯びてくる。まるで彼女に恋をした時みたいだと、そんなことを考えていた。

 目を開けると、見慣れない天井があった。寒い。裸だった。思わず身体を縮こまらせる。暖色の光を放つ、丸型のシーリングライト。机の上で平積みになっている本。唯湖さんの部屋だった。隣で眠る彼女を伺う。同じく裸だった。無駄に照れた。
 僕らは共にクリスマスを過ごした。プレゼントを交換したり、ちょっと身の丈に合わない食事を楽しんだりした。楽しい時間はあっという間に過ぎ去る。僕らは繰り返される六月二十日に必死で抗ったけれど、淀みなく流れる、何の変哲もない時の流れも、同じくらい残酷なものじゃないかと思った。
 明るくなる前に自分の部屋へ帰らないと。時計を確認し、ほっと胸を撫で下ろす。このくらいに目覚められて本当に良かった。誰かに見つかったら大変なことになるだろうし。
 しかし、それが分かっているのに止められないというのは人間の性だろうか。でも、気持ちが高鳴るのも理解できる。ミッションコンプリート。僕はまた、リトルバスターズのことを考えた。
 近頃、僕は夢を見ない。ナルコレプシーのような症状も出なくなった。寂しい気持ちもある。しかし、なくなってしまった訳ではないだろう。いつだってそれは僕の隣にいて、僕を苦しませたり、時として楽しませたりする。因果なものだと思う。人間は同じ事柄から、まったく別の感情を抱いたりするのだ。
 夢を見なくなった代わりではないが、僕はよく別の世界の自分を思い浮かべるようになった。それは夢を見るのと同じように。烏滸がましいと思うが、それこそ神様のように。
 別の世界の自分が、笑顔を失わなければいいと思う。強くあればいい、大事なひとを守り続けられればいい。僕はそう思う。祈る神も願う神も、今のところ僕にはいない。だから、ただ強く思うことにした。そのために、きっと恭介は僕を強くした。もちろん、僕にもやれることがあるだろうし、いつか本当に出会えることだってあるはずだ。
 くしっ。唯湖さんがくしゃみをする。僕は笑う。それから彼女を抱き締める。彼女を起こしてしまわないように。穏やかな眠りが、もう少しだけ彼女を包むように。
 僕も再び目をつむる。この暖かさの中で、もういちど眠ってしまいそうになる。


[No.555] 2009/12/04(Fri) 22:42:31
制服を返せ! (No.544への返信 / 1階層) - ひみとぅ@15427byte

「…………はっ」
 気がついた。どうやら僕は眠りこけていたようだ。授業中に。机に散らばっているよだれを拭う。まだどんよりとしたまどろみの中に浸っていたい気持ちはあったが、仕方なく体を起こす。そして気づいた。

 あれ、なんで僕はセーラー服を着てるんだ?

 膝上まで上げられた白いニーソックス。そしてその上に女子特有の男子を惑わすひらひらスカート。おあつらえ向きに見えるか見えないかのギリギリの線で止められている。胸にはピンクのかわいらしいリボンが掛けられている。胸の部分には何かが詰まっているのか膨らみがあった。…って本当にセーラー服!?
 思考回路はショート中。今すぐ誰か状況を説明してほしい。僕の意識が天国と地獄の間を彷徨っていたほんの数分間に何があったというのだろうか。世界崩壊か。いや違うか。
 隣で真人がいびきをかいて寝ている。真人がセーラー服になっていない時点で、これは僕にだけ起こっているということが理解できた。いや、というか真人のセーラー服姿なんて誰も見たくない。服をびりびりに破ってその轟々たる筋肉が露わになるところが目に浮かぶ。あべしっ、とか言いそうだ。
 席が一番後ろで本当に良かったと思う。もしこれで一番前だったら僕の人生は社会的にも男的にも終わっているだろう。いや、むしろ男だったということを忘れられてしまうかもしれない。「お前…実は女だったのか……付き合ってくれ……」とか言われる瞬間を想像して怖気が走った。僕の将来がお嫁さんに迎えてもらう、なんてことにはなりたくない。
 というか教師は気づかないのか。それとも僕はすでに女の子として受け入れられているのだろうか。ちょっと悲しくなった。自己嫌悪。
 これは誰かの陰謀なのか。ちらっと来ヶ谷さんと小毬さんとクドと西園さんを横目で確認する。鈴は人畜無害そうなのであえて外した。数学の時間だったので来ヶ谷さんはいなかった。小毬さんは問題が分からなくて頭を抱えているし、西園さんは真面目に勉強しているし、クドはと言うと机に海を広げていた。混ざりたい。
(じゃあこれはいったい誰が…?)
 とりあえず恭介に連絡を取ろうと携帯を確認する。するとそこには、新着メールが313件送られていた。来ヶ谷さんから。いやいやいや。いやいやいやいや。奇声を上げながら携帯を地面に叩きつけそうになった。寸前で手首をひねる。関節が外れたにしては乾いた音がした。
 びくびくしながらメールを開ける。迷惑メールとかならどれだけ楽なんだろう、と思いながら。祈った。
 メールを確認すると真っ先に目に飛び込んできたのはしかし「殺すぞ」という文字だった。
(ひっ)
 メールから放たれる殺気に思わずすくんでしまった。刃を首筋に当てられているような、鈴の倉庫からモンペチを奪ったのがばれた時のような、そんな感覚に背筋が凍った。携帯を閉じる。
(僕は来ヶ谷さんに何かしたのだろうか……)
 落ち込んで机に突っ伏していると、あることに気づいた。メールの性質上、新しく送られてきたメールが最初に表示される。つまり僕は一番新しく送られていたメールを見てたのか。携帯をまた開き、メールボックスの最初の方へ進める。
 メールが1分当たり50通送られてきている。単純に考えて1通1秒ちょっとで送っていることになる。きっと来ヶ谷さんの携帯は超高性能な機能を持っているに違いない。もしくは手が阿修羅みたいに八本生えているかだ。うん、十分あり得る。
 メールの一件目が見えた。題名は「もし私が女体盛りをしたらどう思う?」だった。考えるだけ無駄だった。嘘だ。この文字が目に飛び込んできた瞬間に脳裏に光景が焼きついた。愚息が反応した。スカートなのに。
 その後女体盛りについて三十行ぐらい詳細が描かれていた。「こう胸の谷間にミルクをだな…」とか「私で刺身を一杯やるのも、どうだ、悪くないだろう。そこに酒を…」とか。ごめん、来ヶ谷さん。これ以上は見れなかったよ。とりあえずこれだけ書いた来ヶ谷さんに謝っといた。
 延々と女体盛りについて書かれたあとに「追伸」と小文字で書かれていた。
『君はなぜそんなおいしい、いや、こんな事になってしまったのか反省するといい。そして歓喜するがいい。ふふふ。放課後屋上で待っているぞ。Y』
 はたしてYに意味はあったのだろうか。いやそんなことはどうでもいい。それよりも「こんな事になってしまったのか反省するといい」というのはどういうことだろう。僕は来ヶ谷さんに対してこんなおいしい、いや、むごい仕打ちを受けなければならないような事をしてしまったのだろうか。メールを開いた時とは別の怖気が走った。
 そして「放課後屋上で待つ」と書いてある。今は三時間目の数学の時間。つまりこれからの四時間目、昼食、五時間目、六時間目をこの服装で過ごさなければならないということだ。
 むごい。ひどい。あまつさえ誰も僕のことに気づいてくれない。胸が少し痛んだ。いや、パッドのせいで若干膨れているせいもあるのだが。
 一通目のメール以外は本当に簡素なものだった。しかし百通目を超えたあたりから「制服がどうなってもいいのか」「いい加減起きろ」「しばくぞ」「もぐぞ」「切り取るぞ」「殺す」という風に変化していった。だらだらと冷や汗が流れた。
 キンコンカンコーン……。三時間目の終わりを告げ、休み時間突入の合図をする鐘が鳴った。その声を受けて「起立」と誰かが言った。眠りこけていたクドや真人も体をむくっと起こし、挨拶をする。
「ありがとうございましたー」
 真人がこっちを見る。
「理樹、次の時間は体育…っ」
 真人が息を呑んで僕を見る。じろじろと。上から下まで。三回ぐらい往復した後真人は言った。
「お前本当は女なんじゃねぇか」
「裏切ったね!?真人だけは信じてたのにっ!僕の期待をことごとく裏切ったね!?」
 涙目になりながら必死に反抗する。この姿が本当に女子に見えることにこの時僕は気づいていなかった。哀れな僕。

 次の時間は体育だった。しかし用意周到なのか何だか知らないが、体操着がすり替えられていた。体操服の胸のあたりが少し膨らんでいる。こう机に広げて遠目から見てもいいおっぱいだ。小碗形の中ぐらいのおっぱいで、葉留佳さんよりも若干小さい程度だ。ラインが整っている。しかもなぜか胸の頂点に小豆大の突起が付いている。そんなにノーブラと痴女を強調したいですか、来ヶ谷さん。
 仕方ないから恥を忍んで着替える。「教室に女子がいるぞ!」「痴女だ!痴女が出たぞ」とか聞こえてきたけど、知らんぷりした。いや無理だった。火山が噴火するというかプロミネンスが噴き出るというかそれぐらい恥ずかしかった。上着を脱ぐときはもう修羅場だった。真人がなんとか防いでくれたからよかったけど。
「困ったことがあったら頼れよな。こんなんになってもダチはダチだしな」
 全くフォローになってなかった。

 体育の時間が終わる。この時間は終始視線がきつかった。男子に交じるのはやめて女子の方へ突撃しようかと思ったぐらいだ。しかも何の仕様なのか知らないが、走るたびに胸が揺れる。ボールを投げるたびに胸が揺れる。屈むたびに胸が揺れる。もうそんな視線で見るのはやめてください、先生。
 教室に戻って着替える。視線が痛い。いっそのこと女子の更衣室へ行ってやろうか。いや、やめておこう。僕の身が危ない。
「おっしメシだメシ。理樹も食堂行くか? ……ってそんな恰好じゃ無理か」
 しくしくと女々しく泣く僕に真人が気遣いの声をかける。視線の雨に僕はいい加減耐え切れなくなっているところだった。
「僕の分も買ってきてよ……」
「何がいい?」
「アンパン食パンカレーパン」
「飲み物は?」
「ジャムバターチーズ」
「よし任せとけ!」
 脱兎の如く真人が駆けだす。適当に頭に浮かんだ言葉を羅列してみたのだが、案外いけた。
 クラスの中で僕は完璧に孤立していた。小毬さんとクドは恥ずかしくて近寄れないようだ。顔を真っ赤にしている。西園さんは両手を頬に当てて「これは書(描)くしかありません」とぼやいている。僕のこの姿はそんなにマッチしているのだろうか。また泣けてきた。仕方なくため息を吐く。
 
 突然、本当に突然だが、尿意が襲ってきた。
(トイレ行こう…)
 そこで僕ははたと立ち止まった。
 はたして僕はどっちのトイレへ行けばいいのか。
 
 1、男子トイレ
 2、女子トイレ
 
****************

 1の場合
 
 すっ……。
「うわぁぁぁ!痴女が出た!」
「俺の童貞は30まで守り切りるんだ!か、勘弁してくれえっ!」
「みんな、自分の息子を隠せ!奪われるぞ!」
 ………。

 2の場合

 すっ……。
「あら、見かけない子ね。最近転校してきたのかしら」
「私も知らないわ……あっ、もしかして直枝君じゃない!?」
「えっウソ!? キャー変態!!」
 ………。

****************

 ………選択肢がない?
 いや、男子トイレに行った方が僕自身のリスクは最小限に抑えられる。もし女子トイレで僕が男だとばれたら殴られるどころじゃ済まされない。逆さづりくらいは覚悟するべきだろう。けど騒ぎになるのは抑えようがないと思う。教室であれだけ騒がれたわけだし。ああ、でも早くトイレに行きたい…。こんな時僕はどうすればいいんだ! 尿意は僕を飲みこもうと牙をむき出しながらすぐそこまで迫っている。
 教室の隅っこで一人葛藤する。冷や汗がだらりと頬を伝う。どうしようという感情が頭の中を巡るばかりで、一向に行動に表せない。いや、もう頭の中真っ白だ。
「どうしたんだ?」
 そんな葛藤をしているなか、鈴が話しかけてきた。それにも気づかないぐらい僕の膀胱は悲鳴を上げていた。若干前かがみでもじもじしているのを見ると、察したようだった。そして言った。
「なんだ、早く行ってくればいいじゃないか、『女子トイレ』」
 その瞬間、僕の頭の中で何かがプチンと切れたのを確認した。うん、システムオールグリーン。異常なし。理樹、行きまーす。
 
 
 結果僕は何事もなく用を足してきたのだった。女子トイレと男子トイレの違いを確認する暇さえあった。隣に誰が入っているのか妄想した。来ヶ谷さん、僕は孝行者だ。
 後日鈴は「あの時の理樹は普通じゃなかった。なんというか少し足が空中に浮いてた」と語る。


「理樹、待たせたな」
 そう言って真人は机にアンパン、食パン、カレーパンをどさっと置いた。
「いやーパンはすぐに買えたんだけどよ、これを探すのに苦労しちまってな」
 懐から取り出してきたのは、
「ほらよ、ジャムバターチーズ味のポカリだ」
 ジャムとバターとチーズが螺旋構造をしているパッケージの紙パック型ジュースだった。「脂質満点! 栄養満点!」と書いてある。確かにバターとチーズは直接脂質に繋がるだろう。きっと中庭の自動販売機から買ってきたに違いない。
「ありがとう真人。これで午後の授業を乗り切るよ」
 これは後にとっておこう。来ヶ谷さんに飲ませるために。そう思って懐に忍ばせておく。
「おう、じゃあオレはひと眠りするな。授業が始まったら起こしてくれな」
 そしてまた真人はいびきをかいて寝てしまった。この能天気さが今は泣けるほど恨めしい。いっそ真人と僕の服を交換してやろうかと思ったが、サイズからして無理だった。それに真人の制服は上着が極端に短い。はっきり言ってなんであんな加工にしたのかと思う。アップリケでズボンに縫い付けてやろうか。
 そう考えていると、視界に影がさした。太陽の光がさえぎられている。
「おっ、これはなかなか似合ってるじゃないか、理樹」
 目をぱちぱちすると、恭介が目の前に立っていた。三階からバンジーでもしてきたのか。
「冗談じゃないよ…」
 はぁとわざとらしくため息をついてみる。というか本音だった。あと二時間も授業を受けなければいけないと考えると鬱になる。
「これも似合うんじゃないか?」
「早速着せ替え人形化!?」
 見ると、恭介は腕に何着もの服を手にしていた。ゴスロリ、ドレス、スク水など、ほとんど一般受けしないようなものばかりだった。身の危険にレーダーが反応する。自分で自分の身を抱える。
「安心しろ。パッドは持ってきた。より取り見取りだ。水泳用もあるぞ」
 親指をこちらに立てて恭介が言う。でもね、僕が言いたいのはそう言うことじゃないんだよ……。もっとこう人間としてのモラルってものが……。
「なんてな。ほんの冗談だ」
「……」
 ちょっと関節を外しといた。三途の川を渡るか渡らないか、いやむしろ渡ればいいと思って容赦なく肩の骨から股間節まで色々な骨を外しといた。もしかしたら僕はこの姿の方が戦闘力は上がっているのかもしれない。床で恭介が痙攣している。マグロの解体ショーだ。服を交換しよう。そう思って恭介の制服を剥ごうとした。
「ま、待て。来ヶ谷から伝言だっ」
「ふーん」
「い、いやちょっと待て理樹ぐわぁぁぁあああ!!(バキン)」
 仕方ないので首を180度左へ曲げてみた。そうすると不思議なことに恭介が黙ったので、僕は安心して服を脱がしにかかった。
 脱がそうとして恭介の制服のボタンに触ろうとすると、ひゅん、と目の前を横切るものがあった。風を切って僕の机の上に突き刺さる。矢が机に高々と突き刺さっている。その矢の羽をまじまじと見ると手紙が添えられていた。それを外して読む。
『これからりっちゃんと呼ばれたいのなら恭介氏を譲ろう。しかし私の情報操作能力を甘く見るな』
 ……怖い。怖すぎる。女装が解けたあとでもそんな屈辱的な呼び方をされなきゃいけないのか。あだ名がないからってこれはひどいと思う。来ヶ谷さんにかかれば学校中に広まるのは時間の問題だろう。考えただけで寒気が走る。仕方なく恭介の服を脱がすのをやめた。というか今のを見ていたのか。どこから見てるんだろう一体。手紙には続きがあった。目で追う。
『そうそう、恭介氏はそこに放置しておいてくれてかまわない。どうせ自力で帰るだろうしな』
 その言葉のまま放置しておいた。すると本当に五時間目が始まるまでに消えていたから不思議だ。少しだけ、地球を百と例えると一ピコぐらいだけ見直した。

 五時間目と六時間目は何事もなく過ごせた。体育とか明らかに細工されるのが分かっている授業ならともかく、教室で座っている授業だ。そう簡単に事は起こせない。
 相変わらず席に来ヶ谷さんの姿はなかった。数学の時間にいないことはもう分かり切っていることだが、それ以外の授業を抜け出すことはそうそうない来ヶ谷さんにしては変だなと思った。トイレにでも籠っているのだろうか。それか保健室だろうか。女の子にはそういう日もあるんだなぁとしみじみ思いながら僕は眠りに落ちた。

 放課後。待ちに待ったこの時がやってきた。どれぐらい経っただろう。三時間目から考えて悠に一日ぐらいしたのではないか。すくなくとも僕の体内時計では一年たったという声が聞こえてくる。
 屋上への階段を駆け上る。スカートがひらひらして動きづらいから少し裾を短くしてみた。おお、案外動きやすい、と思いながら楽しんでいた。この時すでに来ヶ谷さんに何か大切なものを犯されていたことは僕自身否めない。
 窓は開いていた。桟に足を掛け僕の豊満な、じゃない、はだけた太ももを露わにしながら屋上へと飛び込む。
「来ヶ谷さん……」
 屋上の手すりに腕を掛けた姿勢で来ヶ谷さんは待っていた。遠いどこかを見つめながら。僕はその近くへと歩いていった。
「ああ、理樹くん。よく来たな」
「うん、ごめんね気づいてあげられなくて」
「っ!? 気づいていたのか!?」
「だって来ヶ谷さんは僕の大切な彼女じゃないか」
「理樹くん……」
「うん、だからほら…」
 僕は懐から
「アレの日だっていじけないでよ……これで仲直りしよう……」
 ロ○エを取り出して来ヶ谷さんの手にそっと渡してあげた。僕には分かっていた。必死で耐えようとしている来ヶ谷さんの姿が。だから僕は前もって鈴にロリ○をもらっていた(もとい奪ったとも言う)。「理樹はもともと男だからいらないだろぼけーーっ!」と言われて踵落としを喰らいそうになりながらもさっと身をかわし、鈴のスパッツを確認しつつ鞄の最深部から○リエをかすめ取り教室を出るまで僅か1.2秒。そのままの勢いでこの屋上まで駆けあがって来た。来る途中無性に虚しくなったのはなぜだろうか。
 ○リエを手渡されたあと数秒間それを見つめていた来ヶ谷さんは、にこやかに微笑みがらどこからか取り出してきた日本刀(真剣)を取り出して僕に突きつけてきた。
「理樹くんは女心というものが分かっていないようだな。そんな恰好をしておきながら……っ」
 じろじろと僕を舐め回すように見る。渾身の出来だと思ってた僕の演出にも涙を流さずに日本刀(真剣)を向けている来ヶ谷さんはどこか悲しそうだった。
「僕が何をしたって言うのさ……」
「さる偉い人はこう言った。『愛の反対は嫌いではなく無関心である』と。なあ理樹くん、誕生日を忘れるということは無関心とは言えないだろうか」
「え……」
 あ、そういえば昨日は来ヶ谷さんの誕生日昨日だったような……思いきり忘れてた……、と自己嫌悪している最中に、ゴキンと言う音が右の肩甲骨あたりから聞こえてきた。腕がだらんとぶら下がる。どうやら肩甲骨が外れたらしい。にこやかに来ヶ谷さんが僕の肩甲骨あたりを鷲掴みしている。爪が肉に食い込んで痛い。
 やられる。戦闘力を数倍上げたこの僕がここまでこてんぱんにされるとは思ってなかった。身の危機を察した僕は、動く左手で懐に忍ばせていたジャムバターチーズ味のポカリに手を伸ばし、目にもとまらぬスピードでストローを来ヶ谷さんの口の中へと入れる。パックの側面を押す。
「っつ!? ーーーーーっ!」
 どうやら相当不味かったみたいだ。僕の右肩から手を離し、口に手を当てて今にも吐きそうな体勢をとっている。そうして怯んでいる隙に、僕は口を押さえてる手を振り解いて来ヶ谷さんの唇を奪った。
「っん…」
 口の中に飲み込めずに残っていたジャムバターチーズ味のポカリをかき混ぜる。ドロッとしていて脂くさく、それでいて甘い絶妙な珍味だった。これがキスの味か……と思いながら貪っていた。
「ふ……んぅ」
 息がきつくなってきたので唇を離す。来ヶ谷さんと視線が合い、じっと見つめる。
「理樹くん……聞くが、この青春のどろどろな三角関係を描いたような飲み物は一体なんだ」
「きっと僕と来ヶ谷さんと誰かを描いたようなジュースだよ」
「ほほぅ、つまり理樹くんは二股をかけていると言いたいのだな。そうかそうか」
 来ヶ谷さんの後方から怒気と殺気と嫉妬が立ち上る。言い訳をする暇もなく、僕の左肩の肩甲骨は右肩の三倍激しい音を立てて崩れ去った。
 
 後日来ヶ谷さんがバイだという噂が広まったのは、また別の話。


[No.557] 2009/12/04(Fri) 23:11:57
朝帰り (No.544への返信 / 1階層) - ひみつ@2968byte

 朝起きると隣に鈴君と佐々美君が居た。どうやらお持ち帰りしてしまったようだ。
「裸族なのかこの二人は」
 二人とも上も下もすっぽんぽんで、抱き合って寝ていたのでとりあえず写真を撮ろうと昔買った一眼レフを探し出し十枚ほど撮っておく。個人的には足から撮ったアングルがベスト。眼福眼福。
「ん…暑いぞしゃしゃみぃ…」
「貴方の体温が暑いのではなくて…」
「なんだぁ…赤ちゃんだとでも言いたいのかぁ…」
 二人とも寝ているはずなのに寝言で会話しているあたり「ああやっぱり夫婦だな」と思わざるを得ない。私は寝ているはずなのにとうとう蹴りあいを始めた二人が起きだす前に、朝ごはんを作る事にして、服を着た。



 次の週末。起きると隣に葉留佳君と佳奈多君が居た。どうやら持って帰ってきてしまったようだ。記憶はないけど。
「また裸族か」
 また上半身と下半身が生まれたままの二人組が寝ていた。前回なんか故障してたのか電池切れとかそんな感じで撮れていなかった一眼レフを片手に、二十枚ほど撮りまくった。家宝にでもしよう、多分すぐ捨てられるだろうが。
「おねえちゃんのばかぁ…」
「はるかだいしゅきぃ…」
「だからってこんにゃことしちゃらめぇ…」
 録音機器を枕のそばに置こうと引き出しを引っ掻き回すがなかなか見つからない。ちくしょう百合百合しい会話なんてそうそう聴けるもんじゃないんだぞ!何やってるんだ録音班は!落胆しつつ、服を羽織りつつ、立ち上がりつつ。今日は洋風で攻めてみようと思った。


 

 次の次の週末。寝返りをしたら右手が何やら柔らかい物を掴んだので起きてみると、小毬君と沙耶君が居た。確実にテイクアウトしたようだった。
「裸族さいこー」
 もう寝るときに下着つけている私が常識外れなんじゃないかと思うほど清々しく美しい裸だった。今は裸族が流行りなんだな凄いな世間。
「よおっし…行くわよぉ…」
「おー…?」
「テンションひっくいわねぇ…」
「ふええええん…」
 会話が噛み合ってないのか噛み合ってるのか良くわからないコンビだった。これは噛み合ってないな、滑り込みアウトぐらいで。あと寝言で会話するのも流行のようでびっくりした。これぐらい出来ないと今の世の中渡っていけないらしい。
 とりあえず下だけ穿きカーテンを開けようと手をかけ、二人が起きたら何かまずいかなぁと思ったので止めて、行き先行方不明になった手を腰にあて伸びをしてみた。胸をさらに強調する感じで。でもこの二人が一緒だとあんまり目立たない気がする。悔しいので朝からジャンクフードを買ってこようと上を探した。朝メニューなんて選んでやらない。揚げたてにしてやろう。




 もう数えるのも面倒な何度目かの週末。起きると何かいい香りときちんと服を着た美魚君が目の前に立っていた。もしかしなくてもお持ち帰りされたようだった。ちなみに私は裸みたいだった。
「裸族が流行りと聞いていたので」
「だからってわざわざ剥かなくても良いと思うぞ」
「そうですか」
「あと胸の辺りが痛いんだが」
「絵踏み的な感じです」
 微妙にふらつく頭を支えつつ、服を探す。Yシャツしかないのは確実に作為を感じる。まあむしろ見せ付けてやるつもりだったので好都合。先ほどからいい香りがするので多分朝食が準備してあるんだろう、少し期待して美魚君を抱き締めに向かった。何故二日酔いみたいな症状になっているのかは全く理解できなかった。

 

 朝ごはんを遠慮なく頂いてからきちんと服を着て、美魚君と別れ自分の家に向かった。
 外はかなりいい天気であまり寒くなくて。なかなかいい朝で、最悪だった。


[No.559] 2009/12/04(Fri) 23:56:28
形あるものを僕は信じる。 (No.544への返信 / 1階層) - ひみつ@15,411 byte

「こんばんは。今日は随分遅かったじゃない」
 開口一番、沙耶はそんな台詞で僕を迎えた。すました顔を取り繕っているけれど、普段より遅れてきた僕に内心むくれているのが見え見えだ。少し楽しくなる。
「ごめんね。仕事が中々終わらなかったんだ」
「仕事ぐらい勤務時間中にちゃっちゃと終わらせなさいよ。ったくグズなんだから」
 似たような台詞をさっき鈴にも言われたな。
「しょうがないよ、元々手際がいい方じゃないんだしさ。それに、なんだかんだ言いながら今日もちゃんと会えたんだから、それで良しとしようよ。ね?」
 沙耶の頭に手を伸ばす。沙耶はいつも、いや、いや、と少し拒むようなポーズを取るが、最終的には僕のされるがままになる。本当はそうされるのが好きなくせに、すぐには素直になれない沙耶。
「よしよし」
「なっ、なによっ、私は子供じゃないんだからねっ。そんなので誤魔化されないんだからっ」
「はいはい」
 顔を真っ赤にしながらそんなことを言ったって、説得力は全くない。
「沙耶は、どうしたいの」
 声のトーンを変えて、思い切り耳元で囁いてやる。ひゃあっ、と飛び上がって、もがが、げぼごぼ、となんか色々ごちゃごちゃやったあと、消え入りそうな声で、
「理樹君と……キス、したい」
 僕の腕の中の沙耶は震えているように見える。
 あくまで見えるだけだ、あくまで。
 こんなことを思うと醒めるから、出来るだけ考えないようにしたいんだけど、どうも今日は日が悪いみたいだ。申し訳ないな、などと思う必要のないことを思いながら、沙耶にキスをした。
「ん……」
 音もなく光るPCから照射されたホログラムで作られている腕の中の沙耶が幸せそうに頬を緩ませているのを確認して、僕はようやく目を閉じる。


「うげえ」
 台所で食器を洗っていると、居間の方から奇妙な声が聞こえてきた。ちょっと前なら「鈴、どうしたの」とかなんとか言って、すぐさま駆け寄ってやる所だが、お生憎様、僕と鈴はそんなスウィートな期間はとっくの昔に通り越しているのだ。「りーん、うげえーとか言ったらはしたないよー」とかなんとか棒読みで言ってやるくらいだ。鈴はテレビの音に合わせて、キモい、キモい、とくり返している。
「何がキモいのー」
 身体を逸らせて居間を覗き込むと、鈴は布団を頭から被って、小さくなってがくがくぶるぶる震えている。テレビでやっているのはいつものニュース番組。巷で大流行中のプログラムについての特集みたいだ。
「あー、これか」
「理樹はこれ、知ってるのかっ!?」
「知ってるも何も、結構有名じゃない。多分知らない人の方が少ないと思うな」
「そ、そうなのか」
 布団の隙間からちょろっと首を出す。お前は亀か。
「そうか、有名なら、知らなきゃいけないような気がするな。世間に置いてけぼりは、い、嫌だからな」
「別に無理して知らなくてもいいと思うけど……」
「理樹、あたしはむちできょーよーのない女にだけはなりたくないんだ」
「はいはい」
「ところで理樹、これ、いったい何が楽しいんだ?」
「僕に聞かないでよ」
 画面に映し出されたにきび面の男は、「もう僕の生活は“さや”なしじゃ考えられないですね」と、嬉々として語っていた。
「だって、これ、プログラムなんだろ?」
 まぁ、そうだね。
「そうみたいだね」
 映像はスタジオに戻された。サブのキャスターがしかめっ面を崩さないメインキャスターと取り巻きに向かって一生懸命それについて説明をしている。
 ――えーと、これはですね、最新のホログラム技術と、AIをドッキングさせた画期的なプログラムなんですよ。現実の時間に対応して、自分が会いたい時に会って話が出来て、ほら、あれですよ、恋人同士のような感じでラブラブになれるという。このソフトの開発者はですね、あの有名なスクレボの大ファンだったらしく、恋人になれるキャラを朱鷺戸沙耶というキャラにしたんだとか ――いや、でもアンタね、こんなのがあるから少子化に歯止めがかかんないんじゃないの? キクちゃんはどう思う? ――そーですね、このキャラクターとっても可愛いのでこの男性の気持ちもわからなくはないんですけど、私もこれはちょっと ――いや、でもですね、これはある意味で男性の夢なんじゃないんですかぁ? だって男性って生身の、実体のある女性に対して心のどこかでは倦怠感のようなものを抱えてるじゃないですか。その点この『プログラム』の“さや”って子は
 プチン。
 リモコンを握った鈴の一撃でテレビはあっけなく沈黙した。時計を見ると、もう出なきゃいけない時間だった。
「もう出る?」
「ああ、理樹は今日も遅くなるのか?」
「うーん、月末だしなぁ……昨日も結局夕飯食べ損ねちゃったし、今日ぐらいは早く帰りたいなぁ」
 沙耶も待っていることだし。
「ところで理樹、明日は休みか?」
 そらきた。
「うん、休みだよ」
「じゃあ、久しぶりに」
「うん、二人でどこか行こうか」
 鈴の顔がぱあっと華やいだ。僕は、そういう鈴の顔が好きだ。これはもう間違いなく。だけどたまに、ほんのたまに、誰よりも綺麗なはずの鈴の顔が世界で類を見ないほど醜いもののように見えてしまうことがあって、そんな時、僕の気分は酷く落ち込んでしまう。だけど、そういう感情を絶対に鈴に悟らせてはいけない。僕の中にいる鈴は世界で一番美しく愛しいものでなければならない。それ以外の僕があってはならないのだ。僕がそういう気分になったことを鈴に悟らせたことはこれまで一度もなく、これからだってそうだ。きっと僕はそういった小賢しいことを、他の人よりもほんの少しだけ巧妙にやることが出来る。
「鈴」
「ん、どーした理樹」
「今日も良い天気だね」
「限りなくどうでもいい会話だな」
「一見どうでもいいことが一番大切なのさ」
「意味がわからない……」
「こんな日は」
「こんな日は?」
「鈴と果てしなくエロいことがしたい」
 僕が空を仰いでしみじみと語っているうちに鈴はさっさと走っていってしまった。わけがわからない奴はスルーだ、とでも思ったのだろうか。それは問答無用に正しい判断だ。知らずに肩が震えてしまうほど。
 プランの立案は一瞬だ。通勤途中にあるコンビニで菓子パンを買うついでに、何らかの情報誌で行楽地に関する情報を仕入れ、明日一日僕の大切な鈴と楽しく過ごすための計画を練る。溜息を漏らすのはきっとその時だ。


 予定通り定時プラス三十分くらいで退社した僕は、その足で家の近くの百円ショップへ行き夕飯の材料を調達する。時間があるのだし手の込んだものを作ってもいいのだけれど、なぜだかそんな気にもなれず、結局焼きそばにするつもりで少しの野菜と生麺を買う。家に着いて調理を始めたところで鈴が帰ってくる。二人でなんとなく夕飯の体裁を取り繕い、それなりに仲睦まじく夕食を終え、食欲を満たした僕らはまったく自然な流れで互いを引き寄せあう。どちらからともなく始まるキス、流れ続ける下らないバラエティ、消された蛍光灯、引き出しの手前に無造作に置いてあるコンドーム、少し乱れたシーツ、濡れた指、瞳、閉じる、たった0.05ミリの隔たりをその日君は、ああ、いやいや。
 ああ、なんて面白いんだろうね。

 シャワーも浴びず、裸のまま眠ってしまった鈴が冷えないように毛布を慎重に被せてやると、僕は忍び足でPCのある部屋に行く。服を着て行かなくちゃとは少し思ったけど、さっきまで僕が着ていた服は鈴と一緒に布団の中で、服が入っているたんすはさっきの部屋の中だ。面倒。そのまま行こう。僕を見た沙耶がどんな顔をするのか、それが楽しみでしょうがない。
 PCのスイッチに触れるとぶぅんとフィンが回り出す音がした。机に立て付けたスタンドが自動的に立ち上がり、ホログラムのデスクトップを作り上げる。Internet Explorer Advancedを立ち上げ、ブックマークを探っていく。
 僕の沙耶は、ネットに遍在する無数の“さや”のうちの一人に過ぎない。僕がこのプログラムの存在を知ったのは、年末に久しぶりに顔を合わせた恭介が教えてくれたからだ。僕は恭介ほどスクレボに心酔していたわけではなかったので、最初は興味なんて全くと言っていいほどなかった。恭介が、恭介の“さや”と話すのを見て、うわぁキモいなぁと思ったぐらいだった。
 それが、まぁ、どうしたものか。
 ログインパスワードを入力し、Enterキーを叩く。
「ふんっ、今日も遅かったじゃな……ってうぎゃあああああぁぁぁぁーーーっ!!」
「やぁ、沙耶。今日も息災だったかい?」
「なああああんでマッパなんじゃああああぁぁぁーーーーっ!!」
「うるさいよ、沙耶。ご近所に迷惑じゃないか」
「服を着ろおおおぉぉぉーーーっ!!」
 しょうがないので、隣の部屋から服を持ってきた。
「あーあ」
「なんで残念そうなのよ」
「実は僕は見られると燃えるタイプなんだ」
「火事でも起こして勝手に消防のお世話になってなさいよ」
 憎まれ口を叩く沙耶を見ていると自然と笑みが漏れてくる。どうしてだろうね。よくわからないけど、楽しいし、楽だ。いつもいつも僕をがんじがらめに縛り付けた鎖を、沙耶は簡単に消し去ってくれる。身体はまるで羽根が生えたみたいに軽くなる。
「で、明日は一日休みだったわよね。明日こそは私と一日遊んでくれるんでしょうね」
「いやー、それがさ、なんというか」
「用事でも出来たの?」
「うん……まぁ」
「ふーん」
 あさっての方を向いて、少しだけ頬を膨らませている。その少しだけ膨らんだ頬を人差し指でつついてみる。
 当たり前の話だが、僕の指は沙耶の頬に触れることなくすり抜けてしまう。
「ひゃあっ」
「あ、ごめん、つい」
 柔らかそうだな、と思って。
 つい、じゃないわよっ、と沙耶はまたへそを曲げてしまう。
「また今度、今度は間違いなくたっぷり付き合うよ」
「……本当?」
「うん、本当」
「なら、いいよ」
 ようやく笑ってくれた。沙耶が笑うのは、沙耶の心のどこかが嬉しいと感じているからだ。だから沙耶が笑ってくれれば、僕は嬉しい。だからなんだってわけじゃないけど、全てはそういうことなんだろう?
「一日かぁ。よーし、楽しみにしてよっと」
「でもさ、一日この部屋の中ってのもさ、ちょっと味気ない気がしない?」
「それもそうね。どこか連れて行ってくれるの?」
 沙耶の瞳がきらん、と輝いた。もちろんPCにはバッテリーがついているので、どこかへ持ち出すことは可能だ。昨今は“さや”とデートをする若者が増えている、という、僕が言うのもなんだが、世も末だなというニュースも流れているくらいだ。
「そうだなぁ」
「わくわく」
「沙耶はどこへ行きたい?」
「え、私?」
「うん」
「い、いいよっ、理樹君が行きたいとこで。私はどこでもいいから」
「でもさ、沙耶は僕んとこ来てから、ろくに外に出たこともないじゃない? だから、今回は沙耶の意見を全面的に尊重する。だからさ、」
 きょとん、と沙耶は急に止まってしまった。あれ、と思って咄嗟にPCを見るが問題なく動いている。昔のPCでいう処理落ちのような現象に見えた。PC全体ではなく、沙耶だけが止まってしまっていた。
 時間にしたら五分くらい止まっていただろうか。
 ぽつりと、夢を見るような口調で沙耶は言った。
「迷宮」
 その日、沙耶はそれ以上の言葉を喋らなかった。一時間くらい物を言わない沙耶の顔を眺め続けた後、ようやく僕は“さや”からログアウトした。


 次の日僕と鈴は昼過ぎくらいからイルミネーションが綺麗なことで有名な郊外の植物園に来ていた。イルミネーションが点灯していない時期は閑散としているこの植物園も、この時期だけはカップルや、親子連れで賑わっている。
「にわかだな」
 まったく。
 僕と鈴はイルミネーションが点灯していない植物園も結構好きなのだ。とはいうものの、こうしてイルミネーションに釣られているのだから、人のことは言えないのかもしれない。点灯してからでは混雑するので、その前に早い夕飯を取ることにした。園内のレストランはどこも高価なので、僕と鈴は外にある屋台の焼きそば屋さんで食べるのが好きだった。
「おっちゃん、焼きそば二つ!」
「あいよっ!」
 この時期でも半袖にねじり鉢巻のおっちゃんは、いつでも元気だ。僕と鈴はここに数回来ているが、毎回こんな風に元気な声で僕らに暖かい焼きそばを提供してくれる。初めてここに来たのは二年くらい前だろうか。おっちゃんはその頃から、何も変わっていないように見える。
「もうすぐじゃない?」
「そうだな」
 腕時計を見ると六時十五分前だった。
 ここのイルミネーションは、点灯する前の十分間は全てが消灯される。この時期にもなると、この時間で電灯がなければもう真っ暗だ。真っ暗闇の中、再び眩い光が灯る瞬間を観衆は固唾を飲んで待ち続ける。
「点いてる時もきれいだけど、この、消えるときも実は結構好きだ」
「知ってる」
「んなっ!?」
 そんなの鈴のわくわくした顔を見れば一発だ。あと一分。握り締められた右手がまたきゅっと締まる。うっすらと汗ばんだ鈴の左手。握り返すことも忘れてしまいそうな独特の緊張感に包まれている。
「あ」
 暗闇。
 ざわめく群衆の声が耳にうるさい。街灯の明るさに慣らされた目が暗闇に順応する頃、ようやく空の星が少しずつ見えるようになった。
「あんなに星があったんだね」
「ん、ああ」
 あと少しに迫った点灯の瞬間に、鈴は気もそぞろだ。この灰色の世界が塗り替えられる瞬間を観衆は今か今かと待ちわびている。
 でも、みんな気付いていないのかな。こんな電飾で飾りつけたって、僕らの世界は何も変わっちゃいないんだぜ。そこにあるべきものの美しさを覆い隠して、派手なだけの虚構で自分の中の自分を騙しているだけなんだ。しっかりと目を見開けば本当のことが見えるはずだ、電飾の向こう側に咲いたみすぼらしい赤い花が見えるはずなんだ。本当のことは残酷だけど、残酷なだけじゃない。だけど嘘をつくのは、きれいで、虚しい。
 不意に足下が青色に輝いた。
 黄色い歓声が夜空を貫いた。見渡せば、木も、草も、川も、空も、まるで違うものに変わった。本当に世界は塗り替えられてしまった。眩しさに負けそうになる。
 どこからともなく拍手が起こる。気付けば僕も、鈴も、魅入られたように拍手をしている。ただ手を勢いよく合わせているだけの行為を、拍手と呼びやがったのは誰だ。どこにも行けないのは、どこのどいつなんだ、こら。
「理樹!」
「うん?」
「ぼやぼやしている暇はない! 早く行くぞっ!」
 早く行かないと一番いい場所とられちゃうだろっ!
 呆けていた僕の手を引いて、動き出した群衆をかきわけて、鈴は駆ける。僕は足をもつれさせながらなんとかついていく。いつだって僕はこんなだ。鈴の手は温かく湿っていて、僕はなぜか声を上げて笑いだす。


「ただいま」
「おかえり」
 深夜零時、人波にあてられたせいか、家に辿り着くと鈴はすぐに眠ってしまった。僕は鈴をベッドに寝かせて、またPCの電源を入れて“さや”にログインした。
「遅くなってごめんね」
「理樹君、いつも遅いもん。もう慣れっこになっちゃった」
 出だしの毒舌はなりを潜めていた。その代わり、どこか疲れたような笑みが顔に張り付いていた。
「理樹君と会えるのは真夜中を過ぎてから。なんかその方が、らしい気がする」
「らしい?」
「うん。私たちっぽい」
「そうかな」
「そうだよ」
 沙耶はゆっくりとこちらに歩み寄り、僕の隣に腰掛けた。
「ねぇ理樹君。キスして、くれないの?」
 沙耶の顔が僕のすぐ近くにある。吐息がかかりそうな距離。沙耶は確かにそこにいる(でもいない)。
「ねぇ」
「ごめん」
「そっか。ざーんねん」
 僕が手を伸ばすのをするりとかわして、薄く笑った。
「沙耶、なんか今日は、変だな」
「そう? 私は別に普通だよ。変なのは理樹君の方なんじゃない?」
「僕は、変かな」
「そうだよ、理樹君は、変」
「僕は普通だよ」
「嘘ばっかり」
 あっはっはっは、と沙耶は笑った。沙耶がそんな風に笑うのを、僕はあまり聞いたことがなかった。いや、昔どこかで聞いたことがあるような、いや、でもそれはあまりに違うような。
「理樹君は今度どこに連れて行ってくれるんだろ。楽しみ」
「そうだね……」
「でもやっぱり理樹君と行くなら、あそこがいいな」
「どこ?」
 沙耶はくるっと反転してにっこり笑いながらこう行った。
「迷宮。地下の大迷宮よ。最下層にはすっごいお宝が隠されてるの」
「ああ」
 また出てきた迷宮という言葉に僕は納得した。要するに沙耶はスクレボの設定の話をしているのだ。斜め読みしただけだからなんとも言えないけど、確か学校の校舎に隠された秘密の入り口から潜入した地下の迷宮で宝探しをする、なんていう話があったような気がする。
 でも、今まで沙耶が漫画の中の登場人物としての台詞を口にしたことなど一度もなかったのに、今になってどうしてなんだろう。
「ね、だから行こうよ、迷宮に。私と理樹君ならきっと迷宮をクリアして宝物をゲット出来るんだから」
「ねぇ、沙耶」
「うん、どうしたの理樹君」
「迷宮なんてどこにあるの?」
 沙耶の笑顔が凍りついた、ように見えた。
「もう僕は高校生じゃないし、学校にも通ってない。校舎に秘密の入り口なんて隠されてないってこと、もう分かっちゃったんだ。だから、迷宮には行けない」
「で、でも、迷宮はあるよ。私と一緒に行けば理樹君にも見えるよ!」
「見えないよ。多分、ね」
そっか。
 そう言って沙耶は俯いた。泣いているのだろうか。肩が小刻みに震えている。
「沙耶?」

 うふふ。
 くくくっ。
 あはは。
 あはははっ。
 あっはっはっはっは!
 あーっはっはっはっはっはっは!

 天をつんざくような声で沙耶は笑った。涙の粒が後から後から零れて床に落ちた。それも全てホログラムで、雫のようなものが落ちたように見えるだけだった。
 沙耶はしばらく笑い続けた後、小さな声で、ごめん、と言った。
「理樹君、疲れてるよね。私も疲れちゃったから、もう寝るね」
 僕は何も言わず“さや”からログアウトした。
 ログアウトの瞬間、沙耶は少し微笑んで手を振っていた。
 それを見た僕は、何がなんだかわからないくらい悲しくなって、ぼろぼろと涙を零した。僕の涙はどうしようもなく本物で、床とソファが少し濡れた。沙耶の涙も本物だったら良かったのに、と思った。でも、本物だったらきっと僕は沙耶と出会うことはなかった。それだけはきっと確かなことなのだ。


 その後、沙耶は二度と迷宮のことを口に出すことはなかった。それどころか、沙耶は迷宮のことを聞いてもそんなの知らないよ、としか言わなかった。沙耶はどこからどう見てもネットに遍在する“さや”だった。
 沙耶は眠りに就いたのだと、僕は思った。


[No.560] 2009/12/04(Fri) 23:59:28
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 目を開けた。瞼の下がわずかに痙攣していた。朝とはいえ、電気の消えている室内は薄暗く、カーテンの隙間から差し込む光のおかげで、辛うじて様子が窺えた。
 クドリャフカはベッドを抜け出し、カーディガンを肩にかけた。耳を澄ました。美魚の寝息が聞こえる。物音を立てないように浴室へ向かった。電気をつける。鏡に見慣れた顔が映る。冷たい水で顔を洗った。鏡に映る自分の姿を見つめる。髪はぼさぼさで、目の下の隈が深くなっていた。ただ寝起きというだけではなかった。満足な睡眠を最後にとったのがいつだったのかもわからなかった。瞳を閉じることに恐怖を感じている。
 鏡が曇っていた。カーディガンの袖で曇りを拭った。見慣れた顔が映っている。少女の、表情のない虚ろな顔。不意にこみ上げてきた吐き気に、慌てて便器へ向かった。しかし浴室の湿った床に足を滑らせ、その場に転倒した。棚から物が落ちる。
 美魚はその音で目を覚ました。彼女が上半身を起こしたとき、すでに辺りは静かになっていた。彼女はもう一つのベッドへ目をやった。めくられた掛け布団が見えた。
「能美さん?」
 彼女のベッドに歩み寄り、すぐに室内を見渡した。浴室から光が漏れていた。早足で浴室へ向かい、曇りガラス越しに彼女の名前を呼んだ。しかし反応はなかった。美魚はドアを開けた。クドリャフカは床に倒れ、嗚咽していた。美魚は彼女を起こし、頭を抱え込むようにした。
「能美さん、落ち着いて」
 美魚はしばらくそのままでいた。肩の震えが収まってから、彼女の顔を自分の胸から離した。パジャマの袖で涙や鼻水、涎を拭いてやり、身体を抱きかかえたまま立ち上がった。そしてベッドへと戻る。
 クドリャフカは何も言わず、なすがままにベッドへと横になった。美魚は布団を掛け、彼女の髪の毛を軽く撫でた。
「眠ってください。まだ早いです」
 実際は、誰もが起きようとする時間だった。実際、二人の部屋の外からは話し声や物音が聞こえてきていた。クドリャフカは美魚の目を見たままこくんと頷き、布団を頭までかぶった。
 美魚は急いで制服に着替え、食堂へ行く準備をした。髪を手櫛で整えながら、クドリャフカの様子を伺った。布団に隠れていて表情まではわからなかったが、大人しくしているようだった。声をかけようとして、思いとどまった。美魚はそのまま部屋を出た。
 廊下にはすでに朝の光景になっていた。起床した生徒たちが挨拶をしたり待ち合わせをしたりしている。見知った顔に「おはよう」などと声をかけながら、美魚は食堂へ早足で向かった。
 理樹は細長いテーブルの端っこに座っていた。トレイには朝食が置かれていたが、箸で突っつくばかりで食べようとはしていないように見えた。美魚は静かに彼へ近づいた。
「あ、西園さん、おはよう」
「直枝さん、能美さんが――」
 言い終わる前に理樹は立ち上がった。椅子が倒れ、大きな音が食堂内に響く。視線が集中するが、全く気にせずに理樹は美魚の顔をじっと見た。それから無言で食堂を出て行った。ほとんど駆け足で女子寮へ向かう彼の後ろ姿を美魚は見送る。
 珍しい光景ではなくなっていた。理樹自身の信用もあったが、何よりもクドリャフカが理樹でないと落ち着かないということもあり、女子寮への出入りは例外的に許可されていた。もちろん入っていい部屋はクドリャフカと美魚の部屋だけだった。
 「なおえー、今日も朝から大変だなー」という声が聞こえたが、無視をした。最短距離で彼女たちの部屋に辿り着いた。躊躇なくドアを開ける。鍵はかかっていなかった。クドリャフカはベッドに座っていた。ドアが開く音に気づき、視線を理樹へと投げかけた。
「クド――」
 理樹はベッドに駆け寄り、彼女の手を取った。そして傍らに寄り添うにようにして、顔を覗き込んだ。深い隈のできた顔は痛々しく、日に日に頬がこけていっているように思えた。
「大丈夫?」
 クドリャフカは力なく頷く。理樹は床に腰を下ろした。片手をベッドへ伸ばし、指先を彼女の手のひらへ絡める。言葉はなかった。何があったの、クド。そう訊きたい気持ちはあった。しかし言えなかった。しばらくの間、そのままでいた。
「学校、行かないと」
 理樹は手を離し、立ち上がった。少しだけ屈んで目線を合わせ、「また夕方に来るね」と言い、部屋を出た。廊下の壁に寄りかかるようにして、美魚が立っていた。理樹は「ごめんね、西園さん」と小さな声で囁いて、返事を聞かずに歩いていってしまった。
 美魚は自室に戻り、学校へ行く準備をした。といっても、鞄を手にするくらいだった。ベッドに座ったままのクドリャフカに「寝てなきゃだめです」と言い残し、部屋を後にした。
 クドリャフカは視線を窓へとやった。窓はカーテンに覆われていて、外の様子を目にすることができなかった。光の気配から、外が晴れていることくらいは見当がついた。
 瞳を閉じると、聴覚や嗅覚が研ぎ澄まされていく。帰国してからずっとそうだった。それは周囲にあるものに限らなかった。聞こえてしまうのだった。テヴアの朝の路上で起こった出来事。記憶をすぐそこにあるものとして感じてしまうことに恐怖を憶えてから、クドリャフカは眠っていないし、瞳を閉じることすら恐れていた。
 外の景色が見たかった。クドリャフカはカーテンを開けようと、ベッドを降りた。その瞬間、床に崩れ落ちた。力が入らなかった。ベッドの脚と脚の間に目が行った。向こうには窓と壁があるだけのはずだったが、二本の足が見えた。か細く汚れた脚だった。ほつれたスカートの裾からぬっと伸びている。クドリャフカは息を飲み、そのまま失神した。


 手に持った紙パックのジュースを恭介に手渡し、ベンチに腰を下ろした。グラウンドではソフトボール部がキャッチボールをしていた。理樹はストローを刺し、口をつけた。しかしストローの先端を噛むばかりだった。
「どうなんだ、能美は」
 ぽつりとそう口にした恭介に理樹は「わからないよ」と疲れ果てたような口ぶりで返した。
「わからないんだ」
「そうか」
 恭介は前屈みになって、紙パックを弄んでいた。冷えていたパックの表面に汗が浮かんでいく。
「クドはね、何も言ってくれないんだ。テヴアのこと、何も言ってくれない」
 そう言う理樹の足元にボールが転がってくる。理樹はそれを足で受け、拾い上げた。顔を上げると、部員の一人が手を振っているのが見えた。理樹はボールを下手で放り、ベンチに腰を戻す。
「でも僕はそれでもいいと思ってる。クドがいつか自分から教えてくれるのを待ってるよ」
 正面を見据えたまま、そう口にした。その口調の確かさに恭介は頷き、「お前がそれでいいんなら、俺は何も言わないよ」と言った。ジュースは相変わらず手の中で遊んでいる。
 テヴアで何があったのか。変調の原因はそこにあるのだろうと理樹は考えていた。しかし彼女は何も語ろうとしなかった。そしてその怯えたような瞳を目にしてしまうと、理樹としても、強く問い質すことはできなかった。彼女の帰還まで散々待った。今度は、クドリャフカは目の前にいる。だから待てないことはない。理樹はそう思っていた。いつか全てが解消される、そう信じていた。
「あ、あれは」
 恭介の声に、俯けていた顔を上げた。鈴がいた。制服のまま、グラウンドを歩いている。
「入部したの」
「するわけないだろう」
 途中で落ちていたボールを拾い、ゆっくりと佐々美との距離を縮めていた。佐々美も部員たちも、彼女の行動に動けなくなっていた。立ち止まった鈴は佐々美へ向かってボールを思いきり投げつけた。きゃっという悲鳴が聞こえてきた。
「何やってんだ、あいつは」
 グラウンドは静寂に包まれた。倒れた佐々美の元へ集まる部員たちをしり目に、鈴は二人の座るベンチへ歩き始めた。歩調は徐々に強まり、やがて鈴は走り出していた。「捕まえなさい!」という叫び声がグラウンドに響いた。鈴はベンチの真横で止まり、「じゃ」と片手を上げて走り去って行った。
「じゃ、じゃないよ! 何やって――」
 追いかけようとした理樹の肩に手が置かれた。いつの間にか二人は部員たちに取り囲まれていた。理樹は鈴の名を大声で叫んだ。
 自分を呼ぶ声を無視し、走って学校の敷地を出た。他に用事もなかったので、鈴はそのまま寮へ戻ることにした。自室へ向かって廊下を歩いていると、茫然とした表情を浮かべている美魚が目に入り、そっと近づいた。しかし近づいたはいいが、どう声を掛けていいかがわからず、口をもごもごと動かすばかりだった。ようやく、恐る恐る肩に手を置いた。手のひらが若干汗ばんでいた。
 肩に触れられて、ようやく美魚は鈴に気づいたようだった。彼女は戸惑っていた。鈴は「どうした?」という言葉が言えず、代わりに首を傾げた。美魚は視線を室内へと戻した。鈴も続いて彼女の部屋を覗き込む。
 クド。その言葉よりも先に駆け寄っていた。床を這うようにしていたクドリャフカを抱き起こした。彼女は弱々しい笑みを浮かべていた。
「戻ってきたときにはこの様子で――」
 鈴は背後を振り返る。美魚の顔には濃い影が差していた。
「私どうしたらいいのか。能美さん、足が動かないみたいで」
 クドリャフカはしきりと足を気にしていた。鈴は捲れたパジャマの裾から覗いている肌に触れる。体温はあった。何事もないように思われた。
 鈴は彼女の左足を掴み、軽く持ち上げた。そして手を離す。細く白い足は、何の意思もないかのようにストンと床に落ちた。静まり返った部屋にトンという音だけが響いた。


 日が暮れかけていた。一人で教室に残っていた理樹はぼんやりと窓の外へと目をやっていた。太陽が沈んでいくところだった。鞄を手に教室を出ようとして、クドリャフカの机の前で足を止めた。机の表面を指でなぞる。人差し指の腹に埃が多く付着した。
 自然と足は街へ向いていた。寮に戻るのが嫌だったわけではなかった。ベッドの上から動かなくなったクドリャフカに喜んで貰えるような何かはないかと考えていたのだった。
 左足が動かない原因は不明だった。外傷はなく、神経に異常があるわけでもなかった。帰国してから、彼女は一人でいることが多くなっていて、口数が少なくなっていた。
 本屋やレコード屋、衣料品店などを通り過ぎた。それまで目に留まるものはなかったが、ふと彼はリサイクルショップの前で立ち止まった。何の変哲もない店だったが、ショーウィンドーの中に置かれた車椅子が目には行ったのだった。
「これ、使えるんですか?」
 店員にそう聞くと、「もちろん動きますよ。まあかなり古いものですがね」と答えた。確かにひどく古ぼけた車椅子だった。しかし理樹はその姿に魅せられたように、その場に突っ立って車椅子を見つめていた。


 エアスプレーで埃などを取り除き、車輪に油を差すだけではどうにもならなかった。理樹はリサイクル店で買った車椅子を整備しようとしたが、どうにもならなかった。一応動作に支障はないが、おんぼろな印象は拭えなかった。
「おやおや理樹くん、それ車椅子ですネ」
 気がつけば、葉留佳がしゃがみ込んで車輪に手をやっていた。理樹はうんざりしたような口ぶりで、「そうだよ」とぶっきらぼうに返した。葉留佳は全く気にせずに、ふむふむと何かに納得しながら、携帯電話を取り出した。
「三枝さん、何してるの?」
「わからないかなあ、改造してあげちゃおうって話ですヨ」
「え? 何それやめてよ」
「もしもしこまりん? 画材持って玄関前までカモンメーン!」
 話を聞かない葉留佳に舌打ちをして、「あのさ、お願いだから壊さないでね」と言い残し、女子寮へと向かった。クドリャフカを呼んでくるつもりだった。車椅子を飾ることに興味はなかったが、動きに問題がなければどうでもよかった。「へいへい合点承知之助!」という能天気な返答が聞こえてきたが、無視した。
 女子寮に入ってすぐのところで小毬とすれ違った。小毬は画用紙やマジック、スプレーなどを両手に抱えて、ぱたぱたと外へ出て行った。画材の類が視界を遮っていて、理樹には気づかなかった。
「はるちゃん、どこー?」
「こまりん、こっちこっち」
 ふらふらとよろめきながら、声のする方へ歩いていき、画材を落っことした。目の前に現れた車椅子に「おおっ!」と声を出してしまう。
「なんかオッサンくさいリアクションですネ」
 そう言う葉留佳は携帯電話で誰かと話している。美魚を呼んでいるようだった。話しながら、地面に落ちたマジックを拾い、フットサポートのところにイラストを描き始めた。それを見て、小毬もマジックを手に取った。
 キュルキュルと音を立ててイラストやメッセージを描いている二人を目にし、すぐに踵を返そうとした。しかしため息をついた後、転がっていたスプレー缶を手にとって、キャスターに色をつけ始めた。葉留佳は唯湖や佳奈多、佐々美を呼び出した。たまたま連れ立って戻ってきた恭介、真人、謙吾の三人にも加わり、車椅子は徐々にカラフルなものになっていった。 夕暮れ頃には古ぼけた姿は見る影もなくなっていた。
「直枝さん、戻ってこないですね」
 美魚がそう呟いた。見上げた先には自分の部屋があった。カーテンは閉ざされている。葉留佳が「じゃあミニ子を迎えに行こう」と言い出した。男子三人を残し、威勢よくクドリャフカの部屋へ向かった。
 廊下には人の姿がなく、静かだった。ぞろぞろと歩く彼女たちの足音がやけに大きく響いていた。ドアの前で止まり、「直枝さん、いますか?」と美魚が声を掛けながら、部屋に入った。電気は消されていた。カーテンの間から入り込んだ夕陽が室内の一部を赤く染めている。
「直枝さん?」
 理樹は床にしゃがみ込んでいた。クドリャフカはベッドに座っている。ちょうど彼女たちへ向かうような格好になっていた。理樹は美魚たちを見やるが、何も言わずに視線を床へと戻した。
「直枝さん、能美さん、どうしたんで――」
「その声、美魚さん……?」
 クドリャフカが美魚の声を遮るようにそう言った。
「見えない……何も見えない。リキ、誰がいるんですか?」
「西園さんと三枝さんとあと……」
 理樹の声はだんだん小さくなっていき、やがて嗚咽に変わった。クドリャフカが立ち上がり、両手を前に差し出した。そして歩き出そうとする。理樹は慌てて、ベッドから落ちそうになる彼女を支える。
 そのとき、言葉はなかった。誰の呼吸すらも聞こえないくらい静まり返っていた。クドリャフカの「見えない……見えない……」という呟きだけが、室内を満たしていた。


 紙袋を抱えて、土手の芝生を駆け上がった。クドリャフカが車椅子に座って待っている。理樹は紙袋の中の焼き芋を折り、彼女の小さな手のひらに握らせた。それから、その手をとって口元まで導く。
「熱いです」
「焼きたてだから。すぐそこで焼いてたんだ。聞こえるでしょ、あれ」
 焼き芋屋のトラックからは客寄せの声がカセットテープか何かで流されている。夕暮れが近かった。理樹は車椅子を押し、土手を歩き始める。道はコンクリートで綺麗に整地されていたが、車輪の回転が悪く、きゅるきゅると軋むような音が響いていた。雨が上がってからしばらく経っていたが、まだコンクリートは少し湿っていた。
 失明してからというもの、ただ黙ってベッドに座る日々を続けていた。何をするというわけでもなく、一日中ただ座っていた。朝と晩の食事は理樹が運んでいた。入院させるべきという意見があり、異を唱える者はいなかった。しかし今は書類上の関係で、手続きは停止してしまっていた。入院費用や後見人など、いくつかの問題が顔を覗かせ始めていた。
 そんな中、理樹は彼女を寮の外へ連れ出していた。彼女は自発的に動こうとしなかっただけで、部屋から出るのを嫌がっていたわけではなかった。彼女を背負い、玄関まで歩いた。二人を茶化す者はいない。
「クド、目の調子はどう?」
「……」
「思ったんだけど、学校卒業したら、一緒に暮らさない?」
 クドリャフカは何も言わず、視線を前方へ向けたままだった。少し先を橋と車道が横切っていた。脇に坂道があり、橋の下をくぐれるようになっている。
「今は寮だからあまり一緒にいられない。でも一緒に暮らせれば、そうじゃないでしょ」
「リキ……」
「目が見えなくても、僕がついていればどうにか――」
「私の目、何も見えないと思ってますか?」
「え?」
 クドリャフカの言葉の意味がわからず、理樹はそう問い返す以上のことは言えなかった。ただ車椅子を押していた。横道に逸れ、橋の下を通る坂道の上に立った。グリップを握る手に力を入れた。
 手のひらが汗ばんでいる。
「あの日から、だんだん見えるようになってきました」
「見えるの?」
「見えますよ。でもリキの顔は見えません。他の何もかも」
「……どういうこと?」
 理樹はブレーキを軽く入れてから、坂道を下り始めた。引っ張られそうになるところをどうにかこらえ、ゆっくりと坂を下りていく。
「目は見えていないのに、私にはあの朝がはっきりと見えるんです」
 橋板が太陽を遮っているせいで、橋の真下は日中とは思えないほど暗かった。理樹はそこで車椅子を止める。クドリャフカは片手を背後へ伸ばし、グリップを握る理樹の手に添わした。
「クド……」
「私はもう許されないんだと思います。あの朝の出来事がまぶたに焼きついている。彼女の瞳に私が焼きついた、あのときはそう思った。でも違っていたんです。彼女が私に焼きついたんです」
「ねえ、クド――」
「リキ、お願いを聞いてくれますか?」
「お願い? うん、できることなら」
「簡単なことです。もう私はこれ以上耐えられそうにない。だから最期はせめてあなたの手で」
 理樹はグリップから手を離し、後ろから両手を彼女の身体へ回した。か細い身体に確かな熱が感じられた。クドリャフカが振り返る。こけた頬、落ちくぼんだ目、光のない目。彼女の姿を見ているだけでも辛いくらいだった。理樹は顔を彼女の傍へ寄せる。
 食事は細くなる一方だった。運んだ食事を半分食べればいい方で、ご飯をほんの一口、あるいは牛乳をなめるだけのときもあった。精神的に参ってしまい、衰弱している。理樹にはそう思えた。
「だんだんとはっきりしてきました。最初は影みたいなものでした。もしかしたら治るのかもしれない。そう思いました。でも違っていました。色がつきました。徐々に明らかになってきて、今もそれは進んでいる。私のまぶたの裏で、あの朝が繰り返されている。私は、もうこれ以上耐えられそうにないんです」
 頬と頬をすり寄せた。理樹は彼女を抱き上げ、車椅子から下ろした。そしてアスファルトの路上に座らせて、自分もその傍らに寄りそう。ブレーキを緩め、車椅子を思いっきり押した。雑草が生い茂る水辺へ向かって、車椅子は真っ直ぐに進んでいった。
 理樹は指で彼女を長い髪を梳いた。クドリャフカは光を失った瞳をくすぐったそうに細めた。


 日本大使館の重い門扉までは数十メートルの距離だった。トラックの荷台でクドリャフカは震えている。隣には祖父がいた。牢から逃げ出し、大使館のすぐそばまでやってきていた。あの門扉を超えれば、お前は保護され、日本へも戻れる。祖父はそう言った。しかし検問が設置されていた。
「クーニャ、私たちが時間を稼ぐ。お前は隙を見て、あそこまで走れ。大した距離じゃない。大声を上げれば、助けてもらえるだろうよ」
 毛布を頭から被ったクドリャフカに祖父はそう言った。そして荷台を降り、検問に立つ二人の兵士の元へ歩いていった。続くように運転席と助手席からも男が一人ずつ降りていった。毛布をかぶって身を隠したまま、その様子を見つめる。
 祖父が軽く振りかえった。兵士はその動きに気づいていなかった。クドリャフカは身体を丸めてトラックを降り、走り始めた。その瞬間、祖父と二人の男は兵士に掴みかかった。一人は地面に倒したが、もう一人はするりと男の腕から抜け出し、笛を吹いた。早朝のテヴアを切り裂くような鋭い音色だった。
 クドリャフカは大使館の門扉に縋りつき、大声を上げながらよじ登ろうとした。しかし足がすべり、落ちてしまう。背後を振り返る。兵士が一人走ってきていた。喉が枯れんばかりの声を出した。彼女をテヴアへ連れてきた大使館員の名前を呼んだ。ようやく駆けてくる足音が聞こえ、もう一度門扉をよじ登ろうとした。
 左足を掴まれた。クドリャフカは悲鳴を上げて、左足を大きく動かした。「能美さん?」という声が聞こえた。顔を上げると、見覚えのある男が駆け寄ってきていた。クドリャフカはその男の名を呼びながら、門扉を乗り越え、地面に落ちた。全身に痛みが走ったが、それどころではなかった。とっさに門の向こう、直前まで自分がいたところを振り返る。
 そこにいたのは少女だった。バスケットを抱えた、盲目の物乞いだった。みすぼらしいなりをして、しかし顔には笑みを浮かべている。
「能美さん。この子に亡命の――」
 銃声がした。遠くに立っていた兵士が銃を構えていた。銃口からは煙が上がっている。少女はその場に仰向けに倒れ、ぴくりとも動かなくなった。兵士のものと思しき舌打ちが聞こえた。
 クドリャフカはその少女から目を離せずにいた。目を見開いたままの少女はいまだに自分を見つめているようだった。ごめんなさい。そう呟いた。しかしその言葉は、もはや届かなかった。


 車椅子が杭にひっかかっていた。川の流れに合わせて車輪が回転し、虚ろな音を立てていた。鈴は水草の茂みをかき分けるようにして、水辺へ向かった。土手の上を歩いているとき、見覚えのある車椅子が目に入ったのだった。
 その車椅子はやはり理樹のもののようだった。鈴は傍に落ちていた木の棒を拾い、車椅子を突っついた。川面は濁っていた。雨により若干増水しており、上流から流れてきたと思われる木材や植物の類が水面を漂っている。
 棒で突っついている内に、車椅子は杭から離れ、川の流れに合わせてぶくぶくと沈んでいった。鈴は棒を投げ捨て、車椅子が見えなくなるまで、その様子をじっと眺めていた。


 電話を掛けようとしたときだった。恭介の視界に理樹の姿が入ってきた。クドリャフカを背負っているようだった。恭介は理樹に駆け寄り、「車椅子はどうしたんだ?」と訊ねた。理樹は「別に」と答える。
「能美は? どうかしたのか」
 ぐったりと理樹の背中へもたれかかっているクドリャフカの様子にそう声を掛けると、理樹は小さいがはっきりとした口調で言った。
「眠ったんだ。寝させといてあげようね」
 そして女子寮の玄関へ向かって歩いて行った。恭介は何も言うことができずに、その姿を見送った。
 理樹は真っ直ぐに彼女の部屋へ向かった。ちょうど美魚が部屋から出てくるところだった。「直枝さん、能美さんは?」と訝るように訊ねてくる。理樹は「うん」と頷き、部屋へ入っていった。そしてクドリャフカをベッドに寝かせる。
 理樹が振り返ったとき、入口に立っていた美魚はびくんと身体を震わせた。理樹は穏やかな表情を浮かべている。
「今日一日、このまま寝かせておいてほしいんだ」
 美魚はこくんと頷いた。
 その様子を目にしてから、理樹はその場を立ち去った。


 真夜中の校舎は静かだった。理樹は家庭科部の部室にいた。窓際に立ち、校庭を見下ろした。動くものはいなかった。電気をつけようとして、すぐに思いとどまった。代わりに引き出しからろうそくを取り出し、マッチを擦って火をつけた。室内がわずかに明るくなる。
 思い出が色濃く残っている場所だった。最後はここにいようと思っていた。
 携帯電話を出し、警察に電話を掛ける。
「もしもし? あ、あの、人を殺しました。はい。いえ違います。僕は……彼女を愛していました」
 名前と現在地を告げ、電話を切った。そこを動くなと言われたが、動くつもりは毛頭なかった。
 ろうそくを手に、廊下へ出た。水道へ向かい、鏡の前にろうそくを置く。べたついた唾が不快だった。うがいをし、それから蛇口に口をつけるようにして水を飲んだ。
 きゅるきゅるという音が聞こえた。理樹は水を止め、耳を澄ました。廊下の先から聞こえてきているようだった。理樹はろうそくをかざすが、何も見えなかった。ろうそくを元に戻す。音は徐々に大きくなり、彼のすぐ真後ろからしているように聞こえた。
 理樹は振り返った。やはりそこには何もなかった。ため息をつきながら、鏡へ向き直った。鏡には車椅子に乗ったクドリャフカとそれを押す少女が映り込んでいた。理樹は息を飲んだ。
 少女とクドリャフカが理樹を見ることはなく、真正面を向いたまま廊下を進んでいった。ただ車輪の軋む音だけがしていたが、理樹の目には彼女の口元が焼きついて離れなかった。声はなかったが、確かに動いていた。単純な言葉を紡いでいた。助けて……まだ見える……助けて……まだ見える……助けて……。
 理樹はろうそくの炎を吹き消した。真っ暗な部室へと戻り、サイレンが近づいてくるのを、息を潜めて待った。


(了)


[No.561] 2009/12/05(Sat) 00:10:48
しめきり (No.544への返信 / 1階層) - 大谷(主催代理)

しめきるー

[No.562] 2009/12/05(Sat) 00:19:06
コタツで寝ると風邪をひくから気をつけろ (No.544への返信 / 1階層) - ひみつ@12273 byte 寝るまでが締切。遅刻

 年末の大掃除という恒例行事を終えて、途中に二人での共同作業の末に設置された炬燵に入り、理樹と鈴はのんびりと暖をとっていた。部屋も石油ストーブによってぽっかぽかのぬっくぬく。
 炬燵の温もりはいつの時代も変わらないものだなぁ、とそんなことを思いながら新聞のテレビ欄を眺めて、どの番組でカウントダウンしようかなぁ、と考える理樹。対面の鈴はもう完全に座椅子を倒して寝転がっている。きっと彼女の視線の先には、テレビで繰り広げられている紅白歌合戦が映っているのだろう、なんてことを思った。天板の上のみかんを手に取る。
「今何時だ?」
 皮を剥いているとそんな声が向こう側から聞こえた。薄皮についた白い部分も丁寧に取り除くことに余念の無い理樹は、「まだ紅白始まったばかりだから、そのぐらいの時間」と適当に答えた。鈴も鈴で「そうか」と適当に答えた。
 大掃除は滞り無く進んだ。元々小奇麗な男、直枝理樹の部屋は中々に整理整頓されていて、すぐに終わった。問題はその前。前日に行った鈴の部屋の大掃除だった。女とはなんぞや、という疑問が理樹の頭に浮かんだのは、決してジェンダーがどうとかではない。テレビで見るゴミ屋敷、というまではいかないものの、一目見てめちゃくちゃ汚いなこれ、という感想が出るくらい、めちゃくちゃ汚かったのだからしょうがない。男の子ならば誰しもが持つ、女性への純粋な妄想はこうして一つずつ瓦解していき、そうやって一歩ずつ大人になっていくのだ、ということを身を持って知った。理樹に関して言えば、主に鈴によって丁寧に一つずつぶっ壊されていっているので、今更どうこう言うことでもないかもしれない。
 テレビでは変わらず今年の歌謡曲が流れていた。ヒットしたかも怪しい聞いたことのない曲だったが、歌っている人はかわいいじゃないか。CDの売り上げと、日本の今後と、これからのマスメディアの存在意義を憂いながら、みかんを頬張った。
「みかんくれー」
 対面からニョキっと鈴の手が生えたので、そこに向かってみかんを転がす。ゆっくりとコロコロ転がるみかんは見事なカーブを描き、鈴の手の横をすり抜けて落ちた。「いたっ」とかわいい声がした。やばい、と理樹は思った。しかし、彼の予想に反してズズンと生えてきたのは鼻をおさえた涙目の鈴で、それはそれはとてもかわいらしい顔だった。理樹の胸がキュンと痛む。すぐに走って抱きしめて、赤くなってしまったお鼻をさすさすと撫でてあげたい衝動に駆られたが、炬燵の温もりがそれを邪魔して身動きがとれ無い状況であった。恐るべし炬燵。とか、理樹が思っていると、涙目の鈴はやっぱり怒っていて、座布団が彼の顔面目がけて発射される。甘んじてそれを受けることにした。ボフンという感じに顔に当たり、ぽとりと落ちた。それを尻の下に敷いた。
「おい、返せ」
「座椅子があるでしょ」
 という理樹の言葉に、それもそうだなと納得してみかんを手に取る。「今年も終わりか」と口から零れた。その言葉を聞いた理樹がキョトンとしていた。年の瀬にはいつも思う。今年も終わりか。これから何回思うのだろう。今年も終わりか、と何回呟くのだろう。紅白歌合戦は終わっていた。





 鈴が「そばが食いたい」と言った。理樹は「どん兵衛あるよ」と言った。
 年越しそばを食べるには、紅白も終わって中々いい時間帯である。台所にある電動ポットを取りに行こうと理樹は思ったが、またしても炬燵の魔力に屈して、身動きが取れない。しかし、僕もどん兵衛が食べたい、と強く願うことでなんとかした。石油ストーブで部屋の中も暖かかったのでどうということもなかっただけだが。一つ襖を挟んでいたことで、台所は寒かったが、それも彼の予想範囲内であり、高校時代の野球で培った俊敏な動きにより、どん兵衛二つと電気ポットを素早く手にして炬燵に戻る。箸を忘れたことに気づき、断腸の思いで再び炬燵を抜け出し、襖を開き、寒い寒い台所にて俊敏な動きを見せ、箸を二膳握り、炬燵に滑り込む。
 鈴は、忙しいやつだな、と呆れていた。呆れながらもどん兵衛の蓋をしっかりと開けていた。欲望には素直に従う女の子なのだ。ポットからお湯を出す。スイッチ一つでお湯が出るようなものではなくて、旧型の丸い部分をグッと押し込むことで圧力によりお湯を出す方式のポット。それに若干苦戦したがなんとか内側の線まで辿り着いた。時計を見て時間を確認。あとは五分待つだけで完成である。そこで、ふと疑問に思う。
「なんでどん兵衛は五分なんだ?」
「いきなりだなぁ」とお湯を出しながら理樹。「麺が太いんじゃない?」適当に答えていた。
「そうか。太いのか」
 言われて気になり、蓋の隙間から覗く。お湯の匂いしかしない。カップの隣に粉末スープが横たわっていた。ああ、入れ忘れた。ぽりぽりと頭を掻いた後、溜め息混じりに粉末スープの袋に手をつけた。「こちら側のどこからでも開けることが出来ます」と書いてあるが、ビニールが伸びて捩れるだけでさっぱり開く気配が無かったので、理樹に渡して開けてもらうことにした。
「ありがとう」
 素直な言葉に「どういたしましてー」と返す。今年も終わりか。さっきの鈴の言葉が思い出される。対面の鈴は蓋を開けて麺にふうふうと息をかけていた。そういえば、時間を計っていなかった。鈴がお湯を入れて大体一分後だろうと思って、理樹も蓋を開けた。昆布だしの匂いが部屋に充満する。今年も終わりか、と思わせるものが揃っていた。
 




 そばを食べ終わり、理樹の入れた麦茶を二人で啜る。ブラウン管の中は年明けを前に慌ただしくなっていた。チャンネルを変えてみると、ライブだったり、芸人が遊んでいたり、と喧しいことこの上なくて、結局「ゆく年くる年」で落ち着いた。鈴は携帯を弄っている。それを見て、理樹も携帯を弄ってみたが迷惑メールがきていた。削除した。あとは、幼馴染他からの「よいお年を」メール数件。ピッピッと一斉送信で返して閉じた。鈴もメールを打っているのだろうか。
「メール?」
 忙しなく指を動かして携帯を弄繰り回している鈴に対して問いかける。
「いや、オセロ」
 あのメールすらまともに打てなかった女の子が今ではアプリでゲームが出来るほどに成長した。それはとても嬉しいことなんだけども。
 もうすぐ年明けだというのに、二人きりだというのに、鈴は携帯アプリでオセロをやっていたのだ。なんてことだ。その時、理樹に電流走る。かなりのショックだった。ショック過ぎて目にうっすらと透明な膜が張っていた。でも、泣かない。男の子だもん。違うことを考えることにした。
「何かやり残したことってある?」
「ん?」
 携帯を弄る手を止めて、鈴が理樹を見る。
「んー」天井を見上げて考える鈴。首を動かしてテレビに顔を向ける鈴。俯いて唸る鈴。「理樹はなんかあるか?」結局答えが見つからなかった鈴。
 質問を質問で返された理樹は、自分の中ではやり残したことはあるにはあるのだが、それはここ数年のやり残しで、今この場で言うのもなんだかなぁ、と思って「さあねぇー」とお茶を濁してみた。理樹の態度を見て、興味を失くしたようで、鈴は再び視線を携帯へと戻した。
 いつまで幼馴染でいる気だ。そんな恭介の言葉が思い浮かんだ。今年も終わりか。そんな鈴の言葉が思い出された。





「うがー」
 鈴が突然声をあげて携帯を放り投げて、後ろに倒れ込んだ。そして、炬燵の中に潜り込んでいった。もうすぐカウントダウンが始まる。
「どうしたの?」
「うがー」
 うがーしか言えない身体になってしまった鈴を見て、どうせオセロで勝てなかったんだろうと決めつけて、テレビに視線を戻す。と、炬燵の中に入れた足に何かが触れる。何か、と言っても、この部屋には二人しかいない。つま先から始まったそれは、少しずつ上へと昇っていく。太ももまできたところで、期待感とかドキドキとかでビクっと足を伸ばしてしまう。「いてっ」と、鈴の足に当たった。「あ、ごめん」と謝る。「うがー」と鈴の呪いはまだ解けていなかった。太ももをさわさわされた。またビクッとなってしまった。
「も、もう鈴!」
「うみゅ?」
 呼ばれて起き上がり、小首を傾げて、「どうしたのん?」と表情で語り、かわいさアピール満載な鈴の返し方に、一度「ふぬおー」と悶絶した後に、深呼吸してみたが「へいへい!」とよく分からないテンションになってしまった理樹はもう既に限界だった。
「もうすぐカウントダウンが始まるね。つまり、これは僕の大人へのカウントダウンも始まったってことかい?」
「何を言ってるんだ、お前は」
「だけど、その前に言わなくちゃならないことがあるんだ」
「落ち着け。みかんでも食べて落ち着け」
「あふぅ」
 さわさわーっとした感覚は、太ももを越え、遂に股間部分に達していた。流石に、それは今年のやり残しを終わらせてからだと思い、胸の内にうずまく欲望をグッと抑え、股間を触る鈴の足を止めようと、炬燵の中に手を入れる。
 握ったそれは、なんだかもっさりしていた。毛深い。鈴の足は毛深かった。
「鈴は毛深いのか!」
「失礼なことを叫ぶな」
 そんな訳ないよね、と溜め息混じりに炬燵の中から引っこ抜く。黒くて柔らかい釣り目がちな女の子が「にゃー」と挨拶していた。
「おお、オバマじゃないか。いつのまに部屋に入ってきたんだ」
「わざとらしいな。鈴が入れたんでしょ」
「そいつは黒猫のオバマだ。今後ともよろしく」
「ここペット禁止だって言ったじゃんかー、もう」
「しょうがないだろ。新入りなんだから」
 何故か逆ギレ気味にプリプリする鈴。何がしょうがないのか分からないが、こいつに言ってもそれこそしょうがない、ということは分かったし、分かってた。
「そんなことよりカウントダウン始まるぞ」
「おお」
「にゃー」
 うまいことは話を逸らされた。まあいいや。
 テレビを見ると、あと一分もしないで年を越す。そんな状況になっていた。
 年を越すからといって何も変わりはしないし。目の前の鈴がその証拠だ。子供の頃からなんにも変わらない。僕たちの関係もなんにも変わらない。カウントダウンが始まった。ハッピーニューイヤー。
 とりあえず。
「あけおめ」





 年明けからちょっとして。理樹お手製の甘酒が炬燵の上に登場していた。やっぱり正月はこれに限るね、と言う理樹。甘過ぎると文句をぶーたれながらも飲む鈴。
「なあ」
 甘酒片手に再び携帯を弄っていた鈴が問いかける。
「ん?」
「メールの一斉送信ってどうやるんだ?」
「……ああ」
 そういうことかと気づく。オセロなんかしてなかったんだ。皆にメールを打っていたんだ。慣れないことをしていたんだ。だから、「うがー」しか言えなくなっていたんだ。自分が放っったらかしにされていた訳ではないと思い、少しあの時の電流のショックは和らいだ理樹だった。実際には放ったらかしにされてたんだけども。
 手を伸ばし、「貸して」と鈴から携帯を受け取る。メールの内容は「あけおめ」とシンプル且つ、とても気持ちのこもった文章だった。しかも一斉送信しようとか、どんだけ適当なんだか。苦笑する。
 みんな宛てでいい? それでいい。やり方教えようか? 頼む。あのね、ここをこうして。反対からだとよう分からんな。
 鈴が立ちあがる。理樹の方へととてとてと歩き、のけ、と理樹を蹴飛ばす。ほんのり空いたスペースに身体を滑り込ませる。よし、教えろ。ふわりと甘い匂いが理樹の鼻を通り過ぎていく。クラっとした。
 鈴はあまり人にくっつくのが好きではなかった。幼馴染である理樹に対しても、それは言えた。だが、今の状況はどうだ。身体は密着しているし、顔は理樹の手元にある携帯のディスプレイを覗きこむために頬までぴったり。鈴の吐息が耳元で聞こえる。柔らかくて暖かい鈴の身体が。
 普段では起こりえない状況に、理樹の心臓はメルトダウン寸前。生唾を飲み込む。若干パニくりながらも、ここをこう! と教えてあげた。
「ふみゅ。分からん」
 鈴はアホだった。
「だから、ここをこう!」
「分からんから送っといて」
「えー」
「頼んだ」
「いや、でも、これから先どうすんの?」
「これから先もずっと理樹がやってくれるだろ」
「え」
「だって……」
 だって、なんだ。なんで黙る。なんで俯く。こてり、と鈴のおでこが肩に乗る。はあ、と熱い吐息が耳をくすぐる。ブルリ、と理樹の体が揺れる。心も揺れる。理性が揺さぶらられる。なんだこれは。とりあえず、膝でゴロゴロ喉を鳴らすオバマを撫でて落ち着くことにした。ヘタレ精神ここに極めり。それでもおさまらない動悸、息切れ、目眩、吐き気。そうだ病院に行こう。
 現実逃避もほどほどに。黒猫オバマも欠伸混じりに「チェンジ!」と叫んでいるように見える。変わらなきゃ。それでも顔を向けれないでいた。すぐ横の鈴の顔を見れないでいた。見たらひっくり返る。今までの世界が反転してしまう。そんな気がした。変化を求める自分と変化を恐れる自分のせめぎ合い。
 沈黙が続く。テレビで垂れ流されているバラエティ番組のおかげで重苦しさは微塵も無いのだが。早く何かしらの行動を起こさないと大変なことに。
「あのさ」
「ん」
「去年のやり残し、なんだけど。聞いて」
 意を決する。これは鈴がくれたチャンスなんだ。鈴も同じ気持ちだったんだ。いい加減ハッキリしない僕への叱咤激励なんだ。
 鈴の行動をそう解釈した理樹。ずっと言えなかった言葉。人生のやり残しみたいなものを、吐き出す。
「鈴がす、すすす、すー」
「スピー」
「そう、スピー! うわーんちくしょー!」
 耳元で鈴の「くかー」という声が聞こえた。ジュルリという音がした。
「はあ……」
 理樹の口から溜息が漏れる。人生で一番勇気をだした場面で、当の鈴は涎を垂らしてアホ面で幸せそうに寝てるのだ。遣る瀬無い。結局、鈴の予想外の行動はそういうことだった。ただ甘酒如きで酔っ払ったんだ。
 脱力してもう一度顔を肩に乗る鈴の方に向けると、やっぱり涎を垂らしたアホ面だった。あまりのアホっぽさに先程まで迸ってた下劣な情動も雲散していった。
 ふと、外から階段を昇ってくる数人の足音が聞こえる。聞き覚えのある声がぎゃあぎゃあと騒いでいる。
 鈴のメールを見て遊びに来たんだろうなぁ。結局、いろんな事がうまく出来ない去年だったなぁと終わった年を振り返る。まあ、でも。
 鈴の体温を感じながら、鈴の吐息を感じながら、甘酒を飲みながら、ちょっとした幸せを噛み締める。こんな幸せそうな鈴の姿で始まる今年はきっといい年になるんじゃないか。そう思えた。


[No.563] 2009/12/05(Sat) 14:29:16
魔窟 (No.544への返信 / 1階層) - MVPに敬意を@10628 byte(無論遅刻だ)

「はい、それ! ポンポンポーン!」
 葉留佳の高い声が、来ヶ谷の部屋に響き渡る。
「ふっふっふー。お姉ちゃん、あンた、背中が煤けてますネ」
「またぁ? あんた、いい加減にしてよね」
「イヤイヤ、いい加減にして欲しいのはお姉ちゃんのほうですよ。折角クリスマスプレゼントに私とお揃いの服を買ってきたのに。何で着てくれないんですか?」
「あんな服、着れるわけ無いでしょう!」
「やはは」
 年越し麻雀を始めて、もうどれくらい経っただろうか。既にニ、三半荘が終わり、四半荘目の東二局。
 今日の葉留佳はいつにも増してハイテンションだった。機関銃のように喋り続けながら、鳴き、牌を捨て、そしてアガり続けた。彼女は「いやー、お姉ちゃんと二人でらぶらぶクリスマスを過ごしたから、調子いいんですカねー」と、周りの苛立ちを解さない発言を繰り返す。
 仲睦まじくクリスマスを過ごしたというのは本当だろう。場の皆がうんざりしているにもかかわらず、佳奈多は葉留佳のお喋りにいつも通り突っ込みを入れるのを忘れない。彼女も機嫌がいいのだろう。頬を紅潮させながら、葉留佳とのお喋りを続け、牌を切っていた。
 このニ、三半荘は全て、葉留佳の独壇場だった。そのことが葉留佳を増長させ、お喋りをさらに加速させる。
「あっ、それローン! 姉御、中、混一色、ドラドラの親満ですネ」
「いい加減、鬱陶しくなってきたな、君は」
 一万二千点を事も無げに渡す来ヶ谷。持ち点は既に一万点を切っていた。
 しかし、ここで終わる彼女ではない。そのことは葉留佳を含む三人とも織り込み済みだった。
 再び東二局。ここで早くも風が変わる。
 この局でも葉留佳の好調さは陰りを見せなかった。得意の鳴き麻雀を展開し、六巡目には三副露(フーロ)、聴牌(テンパイ)に持ち込んでいた。
 しかし、それからが手が進まず、十三巡目になっても誰からもロン牌が切られることは無かった。
 特に気になるのは、来ヶ谷だ。葉留佳の待ちは三、六筒。それに対して、来ヶ谷の捨て牌は九筒、四筒、五筒と、葉留佳の待ちを絶妙にかわし切っているのだ。しかし、葉留佳はそろそろ来ヶ谷から自分のロン牌が出るだろうと高を括っていた。まだ四牌とも山か、来ヶ谷、美魚の手牌の中にある。そう確信していた。
 来ヶ谷がツモる。葉留佳は来ヶ谷の手を見つめる。
 だが、来ヶ谷の手は一向に牌を捨てようとはしない。痺れを切らした葉留佳が来ヶ谷の顔を見上げると、不敵な笑顔がそこにあった。
「どうした、葉留佳君。これが欲しいのか? この、いやしんぼめ」
 来ヶ谷は両手を使って手牌から二つを皆に見えるようにひっくり返す。
 それは三筒。
 次の瞬間、来ヶ谷からの冷酷な宣言。
「カン」
 美しい所作で四つの牌が卓の隅に送られる。その様子に葉留佳が呆然とする。その間に、来ヶ谷は王牌(ワンパイ)に手を伸ばす。
 そして。
「ツモ。嶺上開花(リンシャンカイホウ)のみだ」
 来ヶ谷が手牌を倒す。
 その瞬間、彼女の手牌を食い入るように見つめたのは、意外にも佳奈多だった。佳奈多の顔色がすっと青褪める。
 そこにはまたしても四つの六筒。葉留佳のロン牌は全て押さえられていたのだ。
「いや、君達の芸にはなかなか楽しませてもらったよ」
 来ヶ谷が唇を開く。その言葉に葉留佳がびくりと身を竦ませる。
「すぐに通しだとは気付いたんだが、サインが掴めなくて苦労したよ。いや、一局ごとにサインのルールを変えてくるとは。恐れ入ったよ。考えたのは勿論、佳奈多君以外に居ないだろうが、こんな複雑多彩なサインを覚えた葉留佳君も尊敬に値するよ」
 佳奈多が舌打ちをする。
「放っておけば、そのうちニのニの天和でも見せてくれるかと思ったのだが。ここまでならば、もう興味は無いのだよ」
「あ、姉御。ちょ、ちょっと私達ジュース買ってくるね」
 葉留佳が、慌てて佳奈多の肩を掴んで立たせる。
「ああ、いくらでも打ち合わせしてくれ」
 逃げるように部屋を出て行く葉留佳と来ヶ谷を睨み続ける佳奈多。二人が居なくなった後には来ヶ谷と美魚だけが残った。
「いいんですか? また、サインを変えてくるのではないでしょうか?」
「構わんさ」

 暫くして姉妹が部屋に戻ったとき、何故か部屋の窓が十センチほど開けられ、網戸になっていた。
「あれ、姉御。なんで窓開けてるの? 寒いから閉めようよ」
「ちょっと空気を入れ替えようと思ってな」
 来ヶ谷の言葉に、渋々といった様子で葉留佳は炬燵に入る。
「さて、次は私が親だ」
 じゃらじゃらと牌が混ぜられ、山が作られる。来ヶ谷が賽を振り、配牌を行う。
 四人が黙々と理牌(リーパイ)をする中、佳奈多は葉留佳と目配せをする。新しくサインを変えれば暫くは凌げる。その間に圧倒的点差をつけてしまえば来ヶ谷はどうすることも出来ない。
 二人が意識を理牌に戻したとき、一陣の風が吹いた。
 場の三人が窓がある来ヶ谷の方を向いた。彼女は既に理牌を終えていたらしく、不敵な笑みを浮かべていた。
 だが、全員が理牌を終えても、来ヶ谷は一向に牌を切らない。その様子に、佳奈多は苛立つ。
「ちょっと、来ヶ谷さん! いつまで悩んでるんですか!」
「いや、君達が次にどんな手で来るのかと思ってね」
「はっ。そんなこと、悩んでても意味ないじゃないですか」
「まぁ、その通りだな」
 どこか寂しそうに笑う来ヶ谷。次の瞬間、左手の親指を、右端の手牌の表にあてがうとそのまま左手を左にスライドさせる。
 パタパタと顕わになる、来ヶ谷の手牌。佳奈多には彼女が何をしているのか理解できなかった。
「天和だ」
 途端に姉妹が、卓に身を乗り出す。来ヶ谷の言う通り、既に上がっていた。
「こんなのイカサマよ!」
「今まで散々やってきた君が言う台詞じゃあ無いな。それに証拠はあるのか? 私がイカサマをしていたという証拠がな」
「くっ……」
「親の役満だから一万六千オールだ、諸君」
 姉妹が卓上に崩れ落ちる。その様子を、来ヶ谷は哀れみを込めた微笑で見つめていた。
「夜に燕が見えるとは。珍しいこともあるものですね」
 美魚の言葉に、不敵な笑顔を浮かべる来ヶ谷。まさか気付かれていたとは。
 燕返し。
 来ヶ谷は全員が理牌をしている一瞬にそれを行った。両の手が十四枚の手牌を掴む。来ヶ谷の圧倒的な膂力(りょりょく)が牌の列を、嵐を思わせる速度で飛翔させる。そして自分の積んだ山を掠り、音も立てずに自分の山に積んだ十四牌とすりかえる。
 通常、相手の集中力がほとんど無い状態でしか成功しないこの離れ業を、難なく、それもこのような速度でやってみせたのは、来ヶ谷の誇る身体能力の賜物であろう。
 それゆえに来ヶ谷は戦慄する。絶対の自信を持つ、嵐の燕が見切られていたことに。

 この局以降、姉妹の勢いは無く、来ヶ谷の独壇場と化した。場には来ヶ谷の嵐が、文字通り吹き荒れていた。
 美魚の言葉が引っかかり、燕返しこそ一度しか行わなかったが、来ヶ谷は小規模な左手芸や握り込みを多用することで圧倒的優位に立っていた。彼女は常にツモの際にオーバーアクションを取る。そのため、誰も彼女のイカサマを追及することが出来なかったのだ。
 そのままの状態が数半荘続く。
 それでも来ヶ谷は内心焦っていた。美魚の存在に対して。
 ずっと気にはなっていたのだが、自分の独壇場になる前から、いや麻雀を開始してこのかた、美魚は直撃を受けたことが無い。それだけであれば、まだ納得がいく。ただ、守りに徹した打ち方をするのだと。美魚の場合、そうでは無い気がするのだ。時折、美魚が上がるとき。相手が牌の切り方を変えれば、それに合わせて自分の手も変えていく。彼女の捨て牌を見れば、そんな気がしてならないのだ。
 自分の麻雀は例えるなら、遥か上空から獲物を見定め、急降下して一瞬にして相手を死に至らしめる二羽の猛禽。それに対して美魚の麻雀は、山深い森にひっそりと佇み、運悪く足を踏み入れた人や牛馬を飲み込んでいく底無し沼。そんな印象を受ける。
 これは少し探りを入れる必要があるな。
 来ヶ谷はそう決意し、美魚に揺さぶりをかける。
 来ヶ谷のツモ番。彼女の右手は空を切る。普段よりもオーバーな動き。彼女の猛禽が、美魚の眼前ギリギリを掠る。美魚の前髪が風に踊る。更に猛禽は上空を旋回し急降下する。そして山から牌をその嘴に咥えると巣に戻る。その際に美魚の手牌を幾つか倒していく。
「おっと、済まない。手が滑った」
「……」
 美魚は怒りをその瞳に湛えて、来ヶ谷を見つめた。
 さて、美魚君はどう出るかな?
「来ヶ谷さん。悪戯をするのは構いませんが、度が過ぎてます。あまりやんちゃをするようでしたら、その指、切り落としますよ」
 おお、怖い怖い。
 そう思う一方で、来ヶ谷は杞憂であることを知る。
 ところが。
 美魚は来ヶ谷の山、その左端を指差した。
「全然関係ありませんが、そこの牌は一索ですね」
「? 何言ってるの、みおちん」
 その言葉を聞いた来ヶ谷は、突如として手牌の順番をバラバラにする。
 その様子を不思議そうに、そして不安そうに見つめる佳奈多。

 そこからの来ヶ谷は明らかにおかしかった。いつも通りを装うものの、それ以降はずっと平手でやっていたし、手牌をバラバラにしてしまったせいで自分の手が何処まで進んでいるのかさえ分からなくなっていた。
 そして誰もが自分の手を伸ばすことが出来ないままに、局の終盤。先程美魚が指差した牌を葉留佳がツモろうとする。
「そいえば、これ。みおちんが何か予言してたヤツですネ。さーて、何が出るかなっと」
 途端に葉留佳の顔が引きつる。そして、ツモった牌を佳奈多や来ヶ谷に見せる。
 その牌は、確かに一索だった。
 部屋の空気がニ、三度下がった気がした。
「何ィィぃぃぃ!」
 姉妹が騒ぎ出す。その様子を頭を抱えて眺める来ヶ谷。
 騒然とした空気の中、超然とした態度で美魚は口を開く。
「お察しの通りです。来ヶ谷さん」
 来ヶ谷にも、その牌が一索であることが分かっていた。なぜならその一索こそが、右手の猛禽が美魚を襲った際にすり替えた牌だったから。
 あの時、右手はあくまでも陽動。本隊は左だったのだ。右手の派手な動き、それに加えて美魚の視界を塞ぐことで、周りの人間、そして美魚から左の猛禽への注意を完全に逸らしたはずだった。
 それを、完全に見切られた。
 それだけではない。一索はもともと自分の手牌。
「美魚君。良く分かったな」
「何がですか?」
 美魚は底意地の悪い表情を、来ヶ谷に向ける。
 その言葉に来ヶ谷は、沈黙する他無かった。その質問に答えることだけは出来なかったから。来ヶ谷は唸りながら、美魚を睨み付けるだけだった。
 視線だけで丁々発止とやり合う美魚と来ヶ谷。その二人をただただ不安そうに見つめる葉留佳と佳奈多。
「うふふ」
 魔女のような笑みを浮かべる美魚。
「私にはね、生まれつき千里眼があるんですよ。遠い他人の見た風景を見たり、未来を見たり。そんなことができるんです。だから私には、皆さんの手牌が全部、透けて見えるんですよ」
「な、ななな何だってぇぇェェ!」
 葉留佳が大袈裟に驚く。美魚の言葉を真に受けたわけではないだろう、しかし佳奈多も美魚の薄気味悪さに背筋が凍る。
「冗談もそこまでにしたらどうだ? してくれてもいいだろう? 種明かしを」
「厭ですよ。貴女だけ秘密なんて」
 来ヶ谷は、とことん意地の悪い美魚の言葉に、自然に舌打ちが出てしまった。
「じゃあ、私が種明かしをしてやろう。美魚君はな、我々の手牌を捨て牌から把握してるんだよ」
「ご明察。流石は来ヶ谷さん。理牌なんかするからですよ。私に手牌の中身を晒しているようなものです」
 全員が沈黙する。部屋から不気味な地鳴りが聞こえてくる。
 やがて、来ヶ谷はくつくつと笑い声を上げる。
「どうしました? 来ヶ谷さん」
「ははっ。久々に本気で愉しくなってきたよ。初めは退屈なお遊び気分だったが。まさか皆がここまで面白い芸を持っていたとはね」
「貴女も相当なイカサマの腕をお持ちで」
「美魚君。私をイカサマだけの女だと思ってくれるなよ。イカサマ『程度』で終わると油断していただけだ」
「では平手でやるお覚悟があると?」
 美魚は見下した目で来ヶ谷を見る。
「見せてやるさ、私の覚悟をな。でも君も見せてもらうぞ。全員手牌を相手に見えない状態で麻雀をする覚悟をなぁ」
 来ヶ谷の挑発に、美魚は珍しく、怒りのような喜びのような、そんな感情を顕わにする。ぎらぎらとした目で来ヶ谷を見つめる。彼女の口が魔女の窯のように開かれる。
「私が、本当に皆さんの手牌を見ないと何も出来ないとお思いで?」
 地響きはどんどん大きくなり、今にも部屋が崩れ落ちそうになる。
 二人の声を殺した笑いが部屋を満たす。

 このあと何があったのか、全裸の四人を来ヶ谷の部屋で見つけてしまった小毬には永遠にわからないであろう。
 小毬は思う。世の中知らない方が幸せなことは結構身近にあるものだと。


[No.564] 2009/12/05(Sat) 23:55:40
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