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   第31回リトバス草SS大会 - 主催 - 2009/04/16(Thu) 20:43:24 [No.57]
しめきりる - 主催 - 2009/04/18(Sat) 00:26:33 [No.67]
甘美なる世界、その断片 - ひみつ@6760 byte ごめんなさい - 2009/04/18(Sat) 00:10:00 [No.66]
[削除] - - 2009/04/18(Sat) 00:05:34 [No.65]
カウリスマキの友人 - ひみつ@19947 byte - 2009/04/18(Sat) 00:00:50 [No.64]
家族だんらん - ひみつ@6750byte - 2009/04/17(Fri) 23:59:45 [No.63]
Gently Weeps(静かに泣く) - ひみつ@13001 byte - 2009/04/17(Fri) 23:58:54 [No.62]
ごーすと・はっぴーえんど? - ひみつ@7616 byte - 2009/04/17(Fri) 22:52:27 [No.61]
空色グライダー - ひみつ@20470 byte - 2009/04/17(Fri) 22:04:03 [No.60]
「せーのっ!」 - ひみつ@9983 byte - 2009/04/16(Thu) 22:25:38 [No.59]



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第31回リトバス草SS大会 (親記事) - 主催

 詳細はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/rule.html
 この記事に返信する形で作品を投稿してください。

 お題は「共感」です。

 締め切りは4月17日金曜24時。
 締め切り後の作品はMVP対象外となりますのでご注意を。

 感想会は4月18日土曜22時開始予定。
 会場はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/chat.html
 はじめにMVP投票(最大3作まで投票可能)を行いますので、是非是非みなさまご参加くださいませ。
 ご新規、読みオンリー、感想オンリー、投票オンリー、大歓迎でございます


[No.57] 2009/04/16(Thu) 20:43:24
「せーのっ!」 (No.57への返信 / 1階層) - ひみつ@9983 byte

「理樹くんの馬鹿ー! 女顔ー! スケコマシー!」
「おうぇえええぇぇーーー!!?」

 おはよう、と言いかけた口が本人の意図しない声を発する。
 その声におどろいたスズメが数羽、空に逃げていく。その姿に狩猟本能を刺激された猫が数匹、駆けていく。
 登った太陽が寝ぼけた学校をあたためだしたころ。ゆるやかな時間の中ではたしてそこだけはおだやかさのカケラもなかった。

「急にどうしたのさ沙耶?」
「うるさいうるさいうるさい! この優柔不断! とーへんぼく!」
「いやいやいや、今のところ沙耶のほうがうるさいからね? とりあえず落ち着こうよ」
「理樹くんの……理樹くんは……理樹くんは恭介の嫁ーーーーー!!!!」
「さすがに最後のは聞き捨てならないよっ!?」

 嫁ーよめーめー……と一人ドップラー効果を残しながら走り去る沙耶。
 思わずツッコんでしまったことにより追いかけられなかった理樹。
 朝食でにぎわう学食でさけぶふたりに周りから好奇の目が集まる……ことはない。六割の生徒は「またか……」とあきらめているし、四割の生徒は関わりたくないのでガン無視だし、一割は「切なげな理樹くん萌エス……」とシャッターを切っている。
 ちなみに、全部あわせて十一割だが間違いではない。最後の一割は他校の生徒や先生だからだ。お前ら働け、勉強しろ。
 と、その一団の中から男子生徒が数人理樹に歩み寄った。恭介・真人・謙吾だ。

「何を憂いでいる? その年で生えてきたのかい?」
「いやまだだけど……それより聞いてよみんな。理由はわからないけど、沙耶を怒らせちゃったみたいなんだ」
「ああ、全部見てた。しかしなあ……『夫婦喧嘩は犬も食わない』と言うからな」
「なにぃ!? オレの知らない間に朱鷺戸 理樹になっちまったのかー!?」
「いやいやいや、それだと僕が婿入りしちゃってるから。て言うかまだ結婚してないから」

 理樹は幼なじみ三人に助けを求める。
 だが、恭介は応じなかった。恭介は理樹を強くしようと、あえて突き放す。

「……これはお前らふたりの問題だからな。俺たちがしてやれることはない」
「えぇっ!? 恭介は手伝ってくれないの?」

 両手を胸の前で組み、瞳をウルウルさせて、恭介を上目づかいでみつめる。
 こうかは ばつぐんだ!

「あ、いや、直接的な手伝いはできないがアドバイスていどならできるという意味であって、」

 棗 恭介、あっさり陥落。
 周りの二割の群衆も「涙目のりっきゅん萌えー!」とヒートアップ。
 ちなみに一割増えているが、OLとリーマンが加わったためである。お前らそんなに暇なのか、GWが十六連休あるクチなのか。

「ホントに?! ありがとう恭介!」

 嬉しさのあまりひょーん、と恭介に抱きつく理樹。
 真人はそれをうらやましそうに見つつも、口を開く。

「それで、今日はなにが原因なんだ? また筋肉関係か?」
「いや、朱鷺戸と理樹が筋肉でこじれたことなどないだろう」

 ここでロマンティック大統領の登場。

「そうだな……さしずめ、愛の言葉が足らなかったんじゃないか?」
「さすが、俺たちのロマンティック大統領だぜ!」
「理樹、昨日は朱鷺戸に何回愛をささやいた?」
「え? 一時間ごとに一回ぐらい?」
「ぅぐっ!?」
「すげぇな……休み時間になるたんびかよ」
「ちなみに、営みのほうなら朝晩一回ずつ。」
「うわぁぁぁぁぁ!!」

 とうとう耐えきれずに、謙吾はその場にくずれ落ちる。

「どうした、立て! 立ってくれロマンティック大統領!」
「恭介……俺のロマンティックは、もう必要ないのか……?」
「バカヤロウ! オレは必要だ!」
「真人……ふっ。ありがとう、お前たちと友達で本当によかった……」

 さらに友情を確かめあう男三人(彼女無し)。しかしその男三人(彼女無し)に無意識に追い打ちをかける理樹。

「まずはキスから入ったよ。そしたら沙耶ったらいきなり舌を入れてきて……」
「「「う、うわぁぁぁぁぁ!!!!」」」

 そして始まる官能小説も真っ青のエロトーク。《雪原をはい回る五匹の蛇》《そびえ立つ巨塔》《あたしだけを見て》《もう一回》などなど、全部書いたらどこぞの機関に検閲されること間違いなしの言葉の数々を、情感たっぷりに語られる。
 男三人(彼女無し)に大ダメージ。
 しかし三割のギャラリーは前かがみになりつつヘブン状態! ちなみにさらに一割増えているが、警察と医者が加わ(略)。お前ら街(略)。

「おまえらキショいんじゃーーー!!」

 そしてそのギャラリーを文字通り蹴って散らしているもう一人の幼なじみ。
 あらかた散らし終わると、理樹たちの近くに寄っていく。
 それを合図に、数名の女子生徒も集まってくる。リトルバスターズのメンバーが全集した。
 さすがに女性陣には聞かせたくないのか、いつの間にか理樹のエロトークは終わっていた

「わふっ!? 井ノ原さんたちが虫の息です!」
「なにやら面白いことになっていますが……どうしました?」
「い、いやーどうしちゃったんでしょーねー姉御?」
「はっはっは。本当は全部聞いていたくせに」
「なななななんのことやらさっぱりですヨ!」
「……はるか、かおがまっかだぞ」
「ホントだ。リンゴみたいだよ〜」

 一気ににぎやかになる。
 理樹は女性陣にも相談することにした。

「ちょうどよかった。実はみんなに相談したいことがあって……」
「なになに?」
「私たちでよかったら力になります!」
「うむ、少年に頼られるのはやぶさかではないな」

 なんとも頼もしい言葉が返ってきて、ほっとする。

「……とは言え、直枝さんが相談したいことはわかりきっていますけど」
「どーせ、さやのことだろ」
「うっ、そ、その通りだけど……」

 美魚だけでなく鈴にすらバレバレだったことに、理樹は言葉につまる。
 バレバレだったが、一応詳しく経緯を説明する。かくかくしかじか。

「というわけなんだけど」
「う〜ん……それだけだと、さやちゃんが怒っちゃった理由がわからないね」
「沙耶君のブルーデーは終わっているはずだしな」
「ぶるーでー? ……あー、あれな」
「鈴ちゃん、意味もわからずうなずくのはどーかと……」
「正直なんで怒ってるのか、どうしたらいいのかわからないんだ」

 理樹はため息をつく。

「ふむ。では本人に聞いてみようではないか」
「でも姉御ー、今から沙耶ちゃんを探すのは大変だと思いますヨ?」
「なに、心配いらんさ」

 唯湖は天井からぶら下がっていたヒモをくい、と引っ張った。

 バガン!!

 すると天井が割れて、ロープで縛られ吊られた沙耶が降ってきた。しかも亀甲縛り。ご丁寧にさるぐつわまでしている。

「すでに確保しておいた。」

 こともなげに言った。

「んむー! んがー!!」
「しかし……自分で縛っておいてなんだが……おっぱいとふとももがエロいな」
「んぬ? ……!! むあー! むなわー!!」

 ロープで締め付けられることによって、出てるところが強調され、さらにスカートがめくれあがってしまっている。

「はっ!?」

 言われて気づいた理樹が、がばっ、と後ろを振り向く。
 ダメージから復活していた恭介たちが、目を見開いて沙耶を見ていた。

   ♪あしーたまーた会ーう時ー♪

「み、見るナぁぁぁぁぁ!!!!」

   ♪笑いながーらサーミングー♪


 とすっ。×3


「目がっ!! 目がーーーッ!!」
「あっぎゃーーーーーー!!?」
「不可抗力だーーー!」

 せっかく精神的ダメージから復活したのに、今度は肉体的ダメージで再びマット(床)に沈む。

「沙耶! い、今下ろすから!」

 食堂のイスに飛び乗り――上履きのままだったので、いったん降りて靴下で再び上がる。
 沙耶の体を肩で支えるようにして、ロープの結び目をほどく。もちろん、感触を楽しむのも忘れない。
 やっとの思いで下ろした沙耶は、直後激しく落ち込んだ。

「……スパイを自称しているあたしが、一般人に捕らわれるなんてお笑い種よね。ええそうよ、急に目の前に現われた来ヶ谷さんに何の抵抗も出来ずに押さえつけられたわよ。なにあれ、分身なんて馬鹿じゃないの、馬鹿じゃないの、馬鹿じゃないの? しかも亀甲縛りよ? 笑えるわよね? 笑っちゃいなさいよ。あーっはっはっはって笑えばいいじゃない!
 あーはっはっは!」
「沙耶、落ち着いて沙耶! あれだから、来ヶ谷さんはナントカ超人とかにカテゴリされる存在だから! 大丈夫だから!」

 いつもの自虐モードに入った沙耶をなんとかなだめる。
 その一方で、「そうか、私は少年にそんな風に思われていたのか……」と地味にヘコんでいる人物が一名。小毬がその頭をよしよし、となでている。

「それに……縛られてる沙耶も……可愛かったよ」
「えっ……? (きゅんっ)」
「沙耶……」
「理樹くん……」
「……このふたりは本当にケンカしているのでしょうか?」
「はっ!?」

 瞳に星を入れてもじもじしていた沙耶は、美魚の言葉で我に返り、理樹から距離をとって立ち上がる。

「そうよ、あたし本気で怒ってるんだからね!」
「待ってよ沙耶、どうして怒ってるの?」
「そんなの自分の胸に聞きなさいよ!」
「ごめん、本当にわからないんだ……僕がなにか悪いことをしたならあやまるから、お願いだよ沙耶……。
 このまま沙耶に嫌われたままなんて、そんなの耐えられないよ……」
「う……」

 涙ながらの訴えに、さすがに沙耶もたじろぐ。

「だって……だって理樹くん……」
「うん」
「昨日……」
「昨日、僕がなにかした?」

 というか昨日はナニかしかしていない気がするのだが。
 そんなことを思っていたら、沙耶が真っ赤になって叫んだ。






「昨日、二回しかしてくれなかったじゃない!!!!」
「「「「「ぶっ!!??」」」」」






 沙耶のあまりにもあまりな爆弾発言に、鈴以外の女子が吹き出した。ちなみに唯湖は噴き出した。

「いつもは三回以上してくれるのに! あたしのこと飽きちゃったの!? 飽きたなら飽きたって言いなさいよ! もう、もう理樹くんなんか恭介さんのお嫁さんになっちゃえばいいんだー! うわーーーーん!!」
「違うよ沙耶、僕は恭介のお嫁さんにはならないよ。
 ――僕は、沙耶のお嫁さんだよ(キリッ)」
「えっ……? (きゅんきゅんっ)あ……でも、あたしも理樹くんのお嫁さんになりたい……」
「それも心配いらないよ。
 ――二人で、お嫁さんになればいいんだ(キリッ)」
「えっ……? (きゅんきゅんきゅんっ)」
「沙耶……」
「理樹……くん」
「沙耶」
「理樹くん」
「沙耶!」
「理樹くん!」

 熱い目で見つめあい、手と手を取り合うふたり。ふたりの時間が止まる。もう、周りなんか見えてない。

「わふー……なにやらいい雰囲気なのです……」
「クーちゃん見ちゃダメー!」

 小毬はクドのなけなしのおっぱいを両手で隠す。クドも小毬のおしりをつかむ。お互いにテンパっていた。

「はあ……わけがわかりませんが、ひとまず一件落着でしょうか?」
「うん? なんだおわったのか?」
「しかし……このままキスでもしちゃいそうなムードですネ」
「まあ葉留佳君が心配することはないだろう。いくらなんでも衆人環視の中でそんなことは、」


 むっちゅうううううううううううううううう。


「( д) ゜ ゜」
「うわ! くるがやの目がとんだぞ!? くちゃくちゃこわっ!」


 むっちゅうううううううううううううううう。

 一分たち二分過ぎ五分待っても離れなかったので、リトルバスターズは解散することにした。
 ぞろぞろと食堂を後にしながら、真人が声を上げた。

「あのよぉ……ふと思ったんだが、全員で今の気持ちを言葉にしたら、案外そろうんじゃね?」
「奇遇だな……俺もそう思っていたところだ」
「じゃあ、やってみるか?」

 先頭の恭介が足を止め、振り返る。体の前で握っていたこぶしを開きながら、前に突き出す。

「せーのっ!」
「「「「「「「「「あいつら、バカップルだ!!!!」」」」」」」」」

 本当にそろったことに全員が目を丸くし、しかし、間違っていないとうなずきあったのであった。



                    終


[No.59] 2009/04/16(Thu) 22:25:38
空色グライダー (No.57への返信 / 1階層) - ひみつ@20470 byte

 彼女はもぞりと、寝ていたベッドの上で身じろぎをした。時刻は正午を過ぎているが、カーテンが締め切られているため室内は薄暗かった。ただ部屋の隅に置かれたデスクトップパソコンだけが、低い唸り声じみた音を響かせながらボンヤリと周りを照らしていた。
 緩慢な動作で起き上がった彼女は、その光をボーっと見詰める。控えめにあけた口から欠伸が零れた。ベッドから降りると覚束ない足取りで台所に向かう。目を擦りながら、そこにあった冷蔵庫をあけると彼女は口をへの字に曲げた。中はからっぽだった。それはもう見事に。
 引き返すとベッドの脇に置かれた携帯電話を取った。履歴から目当ての人物を見つけ出し通話ボタンを押した。
『はいはーい、皆のアイドルはるちんですヨ!』
 すぐにボリューム調整のノブが壊れてしまったかのような、やかましい声が聞こえてきた。即座に後悔した。だが彼女には、それなりにのっぴきならない事情があった。ため息を一つ零し、心を落ち着ける。目覚ましとしては最適な声ではないか。心の理論武装を数秒で完了させる。
「おはようございます。三枝さん」
『今はもうお昼ですヨ!』
「そうですか? それよりも三枝さん」
『ん? なに?』
「喉が渇きました」
『は?』電話口の相手、三枝葉留佳の素っ頓狂な声が聞こえてくる。『それはもしかして、このはるちんに買って来いってことですか?』
「はい、そうなりますね」
 彼女は涼しげな声で、さも当然のことを告げるように言い放つ。それはもう聞いてる相手のほうが自分がおかしなことを言ってるんだと思わせる程に。
『私これから授業ですヨ?』
「そうですか。あ、出来れば柑橘系の飲み物をお願いします」
『それでも行けと!?』
 葉留佳の絶叫が聴こえてくる。けれどその声より一足先に彼女は携帯を耳から離していたりした。尚も小さく漏れ出る葉留佳の文句を通話終了ボタンを押して終わらせる。そのまま携帯を投げ捨てると、締め切っているカーテンを開けた。飛び込んできた初夏の清清しい日差しに目を細める。
 あの不可思議な体験をした学生生活から早数年。大学2年生になった彼女──西園美魚は、現在、絶賛引き篭もり中だった。





 結局、葉留佳が美魚の住むアパートに来たのは、太陽が傾き始めた頃だった。四角く切り取られた窓から茜色の光が漏れていた。
「はろー、美魚ちん。いい子でお留守番してましたかネ?」
 片手をズビシっと上げて陽気に話しかけてくる葉留佳を一瞥する。ついっとその視線を今度は、窓のほうへと移す。もう一度、葉留佳を見る。今更何しにきやがった。唇をきゅっと結んで葉留佳のことをねめつける彼女の瞳には、ありありとそんな言葉が浮かんでいた。「うひーっ」とか奇声を上げながら葉留佳は、手に持っていた紙製の箱を顔の前に掲げる。
「美魚ちんの絶対零度光線ですヨ! 冷たいとか通り越してもはや熱い! このドライアイスアイ娘ー!」
「帰ってください」
「美魚ちん、ひどっ! いや、だって仕方ないじゃないかー。ていうか自分でいけばいいじゃん! すぐそこに自販機あるし!」
「細かいことを気にしてはいけません。ハゲますよ?」
「うら若き乙女に向かってハゲるとかいうなー!」
「乙女?」
「なんだぁ。その三枝さんが乙女なら、マングースだって乙女と呼ばれる資格がありますね。みたいな顔はー!?」
「……もうそれなりに長い付き合いになりますが、三枝さん、エスパーだったんですね」
「肯定するなー!」
「三枝さん、隣室の方に迷惑ですよ」
「はぁ……なんか最近、美魚ちんが冷たいですヨ」
 葉留佳は、ため息を付く。この二人の関係はいつもこんな感じだった。いつもノリだけで突っ走る葉留佳。大人しくあまり目立たない美魚。相反する二人があのメンバーの中で、一番交流を続けていた。皆忙しいのか、ニート化した今の美魚の元に尋ねてくるのは葉留佳だけだった。そういう意味では三枝さんは貴重なのかもしれない。これはもしや親友と呼べるのではないだろうか。美魚は、その考えに苦笑する。ありえない。たしかにこの二人の関係を現す言葉としては親友よりも、腐れ縁というほうが近かった。それに美魚には、葉留佳が自分に構う理由に心当たりがあった。
 葉留佳は、近くにあったベッドの上に腰掛けると先ほどまで脇に抱えていた紙製の大きな箱を、乱暴に投げる。
「それ、なんですか?」
「これはですネ。サークルからちょっぱってきたのですヨ」
 葉留佳は、美魚のほうへと銃のような形を作った両手を向ける。そこはかとなく楽しそうだった。どうやら先ほど沈んだボルテージが、また上がってきたらしい。美魚は、しまったっと思うがもう遅かった。ブレーキの壊れた騒がし娘は急には止まれない。葉留佳は、箱の上蓋を取ると美魚のほうへと向ける。そこには青く塗装された歪な板が二枚と、まるでミニチュアの飛行機の胴体が入っていた。
「これ、なんだかわかる? ねぇ、わかる?」
「なにっといわれても……三枝さん、サークルって漫研じゃありませんでしたか? これ何かのプラモデルに見えるのですが?」
「ふっふーん、美魚ちんは情報が古いなぁ。漫研? あんなとこ、やめましたヨ」
「……また、ですか?」
 美魚は葉留佳の言葉を聴いて、ため息を零す。彼女の記憶の限り葉留佳がサークルを変えるのは、これで10度目だった。
「だってさー。面白くないんだもん。私が折角フレンドリィに接してるのにさぁ。あそこの人たちはさぁ」
 また美魚はため息を付いた。葉留佳は性格が災いしてか、人とソリが合わないことが多かった。それはサークル以外、教室などでも同じだった。まだ美魚が学校に通っていた頃、昼時に一人でご飯を食べる葉留佳の姿を何度も見ていた。
「今度入ったサークルは、模型関係か何かですか?」
「そうそう。RCグライダー愛好会っていうサークルなんですヨ」
「グライダー、というとハンググライダーですか? RC?」
「ラジコンのグライダーってことですヨ。お、美魚ちん、もしかして興味あり?」
「はぁ……」
 呟きながらいつかテレビでみたグライダーの映像を思い出す。青い空を滑空する大きな翼。どこまでも続く青の切れ間を風に乗り飛んでいく。まるで鳥のように。ドキリと胸が一度高鳴った。美魚の中に忘れかけていた情景が去来する。気が付けば「そうですね」と呟いていた。
「ホント? いやー、よかったよかった。これ美魚ちんと一緒に作ろうと思ってさ」
「わたしと、ですか? どうして?」
「ヒッキーな美魚ちんは、どうせ暇してるだろうと思ったからですヨ」
「大きなお世話です」
「まぁまぁ。んでさ、これで面白かったら同じサークルに入ろうよ」
「というより、わたしは興味があると言っただけです。勝手に作る方向に話を進めないで下さい」
「え、作らないの?」
 不思議そうに首を傾げる葉留佳を見て、美魚は口を噤む。先ほど思い出した情景が美魚の心の奥にこびり付いていた。まぁ、時間は一杯ありますしね。
「……作ります」





 数日後、ディスプレイに写る文字の群を見て美魚は途方に暮れていた。青や赤など派手な色をしたRCグライダーについて、という文字が画面にデカデカと映し出されている。彼女は、数回瞬きをすると、ふぅと短く息を吐く。手に持っていたA4サイズの紙を眺める。もう何度も見た文字の羅列が変わらずに並んでいた。その紙こそ今、目の前にあるRCグライダーの説明書だった。頭が痛くなってきてこめかみを軽く抑える。書かれている内容が美魚にはさっぱりわからない。説明書に書かれている文字は日本語どころか英語ですらなかった。先ほどとは違う、深いため息が美魚の口から漏れた。
「みーおーちーん。ため息ついてたら幸せが逃げちゃうぞぅ」
 ベッドに寝転がって小説を興味なさ気に捲っている葉留佳が、間延びした声を上げる。ピクリと美魚の片方の眉が僅かに釣りあがった。
「三枝さん。言い出したあなたがサボらないで下さい」
「えー、だって説明書が読めないんだもん」
「だから、こうしてインターネットで調べているんじゃないですか」
「おお、インターネットですか。美魚ちんサイバーですネ」
「三枝さん、あなたいつの時代の人間ですか?」
「えーと、美魚ちんと同じ時代ですヨ? そんなことより、何かわかった?」
「ええ、まぁ……」
「歯切れ悪いなぁ。なんか初心者でも作れるように解説しているところなかったの?」
「あるにはありましたが」
「なんだ。じゃぁ簡単じゃん。部品だってこんなに少ないんだからさ。ぱぱっと出来ちゃいますヨ」
 美魚自身、当初はそう考えていた。パーツ点数の少なさから、それほど高度な技術は必要ないだろうと。しかし、ネットで情報を集めていく内に、見通しが甘かったことを思い知らされた。バランス調整など経験者にしかわからないこともあり、初心者が簡単に作れる代物ではなかった。
「ネットによると、初心者用の簡単なものもあるそうなのですが」
「ああ、そういえばありましたネ」
「……どうしてそれではなく、こちらを持ってきたんですか?」
「だってこっちのがかっこよかったんだもん」
「……今すぐ取り替えてきてください」
「えー、これでいいじゃーん」
「いいもなにも、そもそも作れません」
「むぅ……じゃあさ。一緒に行こうよ」
「嫌です」
「なんでー。同じ大学なんだし、ちょっとぐらいいいじゃん」
「尚更、お断りします」
「そんなこと言わずにさー。久しぶりの学び舎は楽しいぞぉ」
 葉留佳は、ニマニマと口元を緩めて美魚の頬を突付く。それを鬱陶しそうに避けながら、冷たい視線を向けた。執拗に誘ってくる葉留佳に、少しだけ苛ついていた。
「どうして、そう一緒に行きたがるんですか?」
「だって美魚ちん、もう半年以上大学来てないしさ。ここらでサークルだけでも見てみれば、来る気になるかなぁって思ったのですヨ」
「なりません。行くなら一人で行ってください。大学で一人なのが寂しいからって、わたしを巻き込まないで下さい」
「……え、えーと、よ、よく聞こえなかったなぁ。おかしいなぁ。耳になにか詰りましたかネ」
 おどけて葉留佳は、耳に指を突っ込む。顔は笑っているが、引きつったようにぎこちなかった。美魚の心の中に、もぞりと悪戯心が沸き立つ。
「大学で友達がいなくて寂しいからって、わたしと大学生活を送りたいだなんて思わないで下さいと言ったんです」
 美魚はニヤリと小さくほくそ笑む。美魚ちん、ひどっ! そんな風に目を見開いて抗議してくる葉留佳の様子がありありと想像できて更に口元を緩めた。だが、意に反して葉留佳は何も言ってこない。ただ顔を伏せたままで、その場に佇んでいた。「……るさい」やがて小さく聞き取れないほどの声が室内に響いた。
「うるさい! 私は、私はただ美魚ちゃんのこと思って……」
「さ、三枝、さん?」
 突然、激高し始めた葉留佳を見て、美魚は目を丸くする。その様子さえ癪に障ったのか、葉留佳は肩を震わせながら怒鳴った。
「ああ、そうですネ。私は友達いないよ。でもさ、あんたに言われる筋合いないよ。ずっと引きこもって。こんなことなら、あの世界であの子と変わったままのほうがよかったんじゃない?」
 その言葉を聴いて、まるで激鉄を落としたような鈍い音が彼女の頭の中で鳴る。ザワザワと心が粟立つ。美魚は、ぎゅっと唇をかみ締めた。
「あの子のことを、そんな風にいわないで下さい」
「あ、何怒ったの? でもさー。一番浮かばれないのは、あの子だよね。態々現れて肩を押してハッピーエンドだったのに。それが今では引篭もりだなんてさ」
 葉留佳は、美魚のことを嘲る様に口元を吊り上げると、ケタケタと笑い出した。頭に血が上っていき、美魚から冷静な思考を奪っていく。今まで言わないでいた言葉を分別無く吐き出そうと唇が動く。心の中にいる美魚が「あなたらしくないですよ」と言ってくるが、もう止められなかった。
「言ってくれますね。でしたらお聞きしますが、わたしのことを思ってといいましたがホントにそうですか?」
「どういう意味?」
「自分が一人ぼっちなのが嫌だから手近なわたしを友達の代用品にしようとしただけなんじゃないんですか? 誰でも良かった。ただ近いところにいた知人のわたしに目をつけただけ、違いますか?」
「そんなこと……」
 ない。たしかに口はその発音を形作ったが、言葉として発せられることはなかった。葉留佳は、断言できなかった自分に対して悔しそうに唇を噛んだ。
「図星でしたか? それでわたしのため、ですか? よく言えましたね。三枝さん、あなたの考えはとても傲慢で利己的です」
 葉留佳のことを嘲るかのように口元を吊り上げる。葉留佳の手の平は血が滲みそうなぐらいきつく握られていた。美魚はマグマのように湧き上がる激しい感情を押し殺した声で葉留佳に投げつけた。それは驚くぐらい冷たいものだった。
「自分のことしか考えてない癖に、ただ大学前から知り合いというだけで友達面しないで下さい」
「……──っ!?」
 葉留佳は目を見開くと、弾かれたように手近にあったRCグライダーの箱を手に取った。それを美魚へと投げつけようと振りかざす。美魚は反射的にギュッと目を瞑った。けれど一向に何かがぶつけられる感触は襲ってこなかった。恐る恐る美魚は瞼を上げる。そこには瞳に涙を溜めた葉留佳がいた。葉留佳は唇を震わせながら美魚のことを一瞥した後、くるりと振り返り駆け出した。バタンっというドアの乱暴にしまる音が聞こえてくる。呆然と美魚は、葉留佳のいた場所を見詰める。そこにはRCグライダーのパーツが散らばっていた。美魚はなんとはなしにそれを拾い上げる。手が小刻みに震えていた。部屋には、ただパソコンのファンが廻る低い音だけが響いていた。静けさが堪らなくて美魚は、すがる様に辺りを見回した。見慣れすぎた部屋は色彩が抜けたように空ろだった。それが自分の閉じた唯一のスペースだということが更に美魚の胸を詰らせた。
 ふいに美魚の頭の中に映像が浮かぶ。自分のことを呆れたような目で見つめる複数の瞳。少しは空気読んだら? という嘲るような友人達の言葉。美魚は奥歯をかみ締める。西園美魚は、一般常識は人並み以上に持ち合わせているが、少し前まで人付き合いを避けてきたため人の心の機微に疎かった。端的に言えば空気が読めなかった。そんな美魚にとって不幸だったのはリトルバスターズのメンバーがあまりに優しすぎたことだった。
 学生時代、妹に後押しされて掴んだ答えが、今揺らいでいる。だから彼女は、また捨て去った。いや、逃げ出したのだ。今の美魚にとってリトルバスターズだけが拠り所だった。自分を自分と認め、受け入れてくれる人たち。
 唐突に先ほどの涙を目に一杯溜めた葉留佳の顔が過ぎった。目をそむけるように美魚はパソコンのディスプレイへと視線を向けた。変わらず写っている極彩色の文字をしばらく眺めた後、彼女は手に持っているパーツを見つめた。作れるかどうかはわからない。けど何かに没頭していたかった。美魚は、散らばったパーツを全て拾い上げるともう一度ディスプレイに浮かんだサイトを一から眺め始めた。 





 美魚は、グライダーを作ることに没頭していた。ネットで情報を収集してはたどたどしい手つきで組み立てていく。睡眠時間はおどろくほど減っていた。寝ようとすると頭の中に先日の葉留佳とのことがちらつき、巧く眠れなかった。美魚は、葉留佳の涙に濡れた瞳を思い出すたびに頭を振って手を動かし続けた。そのため、作業は初心者とは思えないペースで進んでいた。
 ある日の深夜、美魚は胴体部にモータを入れるスペースを削って作っている時、誤って手を切ってしまった。白い指の先からぷっくりと浮き出た赤い雫を口に含む。鉄の味が口内に充満して彼女は顔を歪めた。部屋の隅にある小物入れから絆創膏を取り出すと患部に巻いていく。ふと、誰かに見られているような視線を感じた。美魚はカーテンを開けると、周りを見渡した。外灯の弱い光に見える範囲には人影は見えなかった。美魚は頭を軽く振ると、カーテンを閉める。それと同時に電柱の影から女性が姿を現した。口元は何かを我慢しているかのようにきゅっと結ばれていた。女性は何も言わずただ明かりの点った部屋を見詰め続ける。手に持ったコンビニの袋と、特徴的なツーテールが夜風に揺れていた。
 




 どこからか小鳥のさえずりが聞こえてくる。空は白み初め、未だ残った深い藍色を半分だけ顔を覗かせた太陽がかき消し始めていた。町のほぼ中央部にある河川敷に美魚はいた。隣には数時間前に完成したばかりのグライダーがひっそりと置かれていた。これまでの苦闘を表すように美魚の両手にはいくつもの絆創膏が張られていた。グライダーはひどく不恰好だった。幾重にも傷が入った胴体部。塗装が所々剥げ落ちた両翼。美しくないです。彼女は朦朧とした頭で、そう思った。拙い手つきで最終チェックをすませるとグライダーを持ち上げようとする。その時、後ろのほうからがさりと雑草を踏みしめる音が聞こえてきた。そこには、憮然とした表情をした葉留佳がいた。喉元に固形物を突っ込まれたような苦しさを美魚は感じる。葉留佳は何か言いたげに美魚をしばらく見詰めていた。目元の周りに色濃く浮き出た黒いくまが出来ていた。
「それ」葉留佳はぶっきら棒に美魚の手の中にあるグライダーを指差す。「持ってきたの私だから」
「……え?」
「だからそれ私が持ってきたんですヨ! だったら私のじゃん!」
「でも作ったのはわたしですよ」
「そんなの関係ないですヨ!」
 二人とも言いたいことがあるのに口から出る言葉は、まったく別のものだった。言いたいことを素直にいえるほど彼女達は子供ではないし、折り合いをつけられる大人でもない。やがて無意味な所有権争いに飽きたのか葉留佳は「わかった」と短く呟いた。
「じゃぁ見てる」
「はぁ……そうですか。それはどうぞ、ご自由に」
「別に美魚ちゃんの承諾なんて求めてないですヨ!」
 葉留佳は口を尖らせて不平の声を上げながら、美魚から2mぐらい離れた場所まで歩いてきた。そちらを一瞥して美魚は一度、深呼吸をする。そしてグライダーを掲げあげた。両翼の長さが自分の腕を伸ばした状態ぐらいまであるグライダーを不恰好に抱えながら美魚は、助走をつける。適度にスピードが載った所でグライダーを投げ放つ。
 歪なグライダーは風に乗ってゆっくりと高度を上昇させ始めた。美魚はそれを確認して信じられないという風に目を見開いた。横から「おお!」という葉留佳の感嘆の声が聞こえてきた。グライダーはグングンと高度を上昇させていく。二人はその光景を心を奪われたように、見詰め続けていた。太陽はもう既に、その姿をほとんど出し空は藍から青へと変わろうとしていた。その只中を飛ぶ青色のグライダー。それはまるで空へと溶け込むような、同調するような感慨を抱かせた。
 だがその同調はふいに崩れた。唐突に安定していた両翼がガクンっと揺れた。すぐにグライダーは墜落するかのように高度をグングンと下げ始めた。それを見て美魚はあることを失念していたことに気づいた。彼女は脇に下げていた黒い箱型──RCグライダーの送信機を手に取るとレバーを動かす。
「あれ? えっと……これは?」
「ちょ! なにやってんの美魚ちん。落ちてる。落ちてますヨ!」
「わかってます。わかってますけど……」
 落下するグライダーと送信機を交互に見ながら、美魚は忙しなく手を動かす。けれどグライダーが機首を持ち上げることはなく、グングンと地面へと近づいていく。ふいに美魚の眼前ににゅっと手が現れた。
「あー、もう美魚ちん貸して。私がやりますヨ!」
「やりますも何も三枝さんは、どういう風にやるか知らないじゃないですか!」
「こういうのはフィーリングですよ。フィーリング!」
「フィーリングで、なんとかなるならとっくになんとかなってます!」
「美魚ちんじゃ無理! だって機械音痴じゃん!」
「インターネットをサイバーとか言った人に言われたくありません!」
 やいのやいのと体を密着させながら二人は騒ぐ。そんな二人の視界に落下を続けるグライダーが映った。美魚は体を強張らせる。元々、巧く飛行するとは思ってなかった。不恰好で、なんとか形を取り繕っただけの物が成功するなんて思ってなかった。けれど、それでも美魚は強く思った。飛んでほしいと。その想いが彼女の口から零れ出ようと唇を振るわせる。だがそれより一瞬早く、隣から「飛んでよ!」という切迫した声が聞こえてきた。そこには何故か泣き出しそうに顔を歪めた葉留佳がいた。
「あんたは飛ぶために出来たんでしょ。少しぐらい変な形だからってなんだ。あー、もうなんだっていいから飛べー!」
 落下していくグライダーが葉留佳にはどう見えたのか。あるいは大学で一人きりの自分に重なって見えたのかもしれない。彼女は叫んでいた。その声に紛れてカチャリと軽い音が手元でなるのを美魚は聞いた。送信機の中央部にあった赤いボタンを二人の親指が重なり合って押していた。「あ」美魚の口から短い声が漏れた。同時に落下を続けていたグライダーがグンっと唐突に機首を上げた。そのまま上昇を始める。
「……飛んだ。美魚ちん、飛んだ。飛びましたヨ!」
 葉留佳が青の中へと向かっていくグライダーを指しながら興奮した声を上げる。美魚はバツの悪そうな顔をして口をヘの字に曲げた。
「……忘れてました」
「え、何を?」
「このグライダーは一定高度に到達したらこのボタンを押して、ホバリングさせないといけませんでした」
「は?」
 言っていることが理解できなかったのか、葉留佳は首を傾げる。
「えーと、つまり墜落しそうになったのは、このボタンを押してなかったから?」
「はい」
「じゃぁ、えっとこう、わたしの青春まっしぐらな声を聞いて飛んだとか、そんなどらまちっくなことが起こったとかでは?」
「ありませんね」
 二人の間にいいようのない雰囲気が流れた。どこからか列車の走る音が聞こえてきた。ランニングをしていた中年の男性が見詰め合っている二人に訝し気な視線を投げかけていく。ふいに美魚は可笑しくなってクスリと噴出した。釣られるように葉留佳も口元を緩めた。そのままクスクスと二人で笑う。二人の笑い声が、朝日へと吸い込まれていく。空には上ったばかりの太陽の光の中を旋回するグライダー。美魚はそれを見上げた。空へと溶け込むように飛行するグライダー。けれどそれは光を受けてみれば全然、溶け込んでない。無数についた傷が、歪な胴体が、同じ青の中にあってその存在を浮き彫りにしていた。太陽の光線を受けて幾重にも入った傷が様々な角度から反射する。美魚は、それを美しいと思った。そんな彼女の耳に「あのさ」という歯切れの悪い葉留佳の声が届いた。葉留佳はグライダーを眺めたまま、言いづらそうに口をモゴモゴとさせる。そんな葉留佳の様子を隣で感じて美魚はクスリと笑った。
 あの日美魚が葉留佳に言った言葉はどうしようもないほど間違ってない。傲慢で利己的。そう言った美魚自身にもそれは当てはまる。きっと誰も彼もがそういう部分を持っている。友情と言う綺麗な言葉で装飾したものの実はそんなものでしかないのかもしれない。けれど、見方を変えてみればそれは綺麗に輝く瞬間がきっとある。

 例えば葉留佳のことを考えて睡眠不足になった美魚のように。
 例えば美魚の様子が気になっていつも部屋の電気が消えるまで、外で見ていた葉留佳のように。
 例えば美魚と葉留佳、二人が同じことを思った一瞬があったように。

 それは共感ともいえない小さな繋がり。おそらくは錯覚。けれど美魚はその錯覚を素敵だと思った。尚も言いづらそうに口ごもっている葉留佳のことを見る。所在なさ気に葉留佳は手を小さく振っていた。美魚はその手を掴もうと腕をピクリと動かした。だが、そんなことをするのは自分達らしくないように感じ、手を引っ込める。この騒がし娘が親友と言われれば、やっぱり否定する。それでも美魚は、今、葉留佳が隣にいることを、少しだけ嬉しいと思った。
「今日、一限の授業なんでしたっけ? ……葉留佳」
 その唐突すぎる言葉に葉留佳は、首が音を立てそうなほど勢いよく顔を向けた。気づいているのに美魚は尚もグライダーを見詰め続ける。その頬は仄かに赤いようにも見えた。
「え、えっと、たしか……なんだったっけ?」
「……使えない人ですね」
「まってまって。大丈夫。うん、教科書とか私の見ればいいし! ていうか美魚ちん、さっき私のことなんて呼んだ? ねぇ、なんて呼んだ?」
 美魚は嬉々とした声で尋ねてくる葉留佳に、「さぁ」とそっけなく応えた。葉留佳が不満そうに声を上げる。それを聞きながら美魚は、空の青に交わらない歪な青を見た。自分は自分だと言い切ることはまだ出来ない。引きこもりを脱出できるかもわからない。それでも、きっと。
 後ろでぎゃあぎゃあ騒いでいる葉留佳がいれば、退屈だけはしないだろう。
 そう思って、美魚は口元を綻ばせた。


[No.60] 2009/04/17(Fri) 22:04:03
ごーすと・はっぴーえんど? (No.57への返信 / 1階層) - ひみつ@7616 byte

 実のところ、その幽霊がいつ僕に取り憑いたのかはよく分からない。
 見えるようになったのは間違いなく修学旅行での事故の後だけど、あの事故が原因で幽霊に取り憑かれるというのもおかしな話だろう。なにせ、あの事故では奇跡的に死人が出なかったのだから。それならば、例の臨死体験――僕が思うに、あそこはこの世とあの世の狭間みたいなところだったのではないか――をきっかけに、そういうものが見えてしまうようになったと考えたほうが納得できる気がする。一歩か二歩かはわからないが、あっち側に踏み込んじゃったわけである。うわあ。
 とはいえ僕以外の誰も幽霊の類が見えるようになったわけでもなく、結局のところ僕は頭でも打ったに違いないのだ。それだけなのだ、きっと。うん。とはいえ、入院中に精神科の病棟へ移ることをさりげなく勧められた時には、丁重にお断りしたけれど。



 暦はすでに十月である。忌々しい思い出に成り果てた修学旅行から、もうすぐ四ヶ月が経つ。つまり、僕と謎の幽霊少女との付き合いも、それだけになるということだった。目を覚まして、僕の上をぷかぷかと浮かびながら眠っている女の子の姿に驚くことも、もうない。慣れとは恐ろしいものだった。
 いつもならさっさとベッドから出て着替えるところだが、今日は休日である。せっかくなので二度寝しようと思い立った。が、なんとなく、すうすうと無防備に寝息を立てる彼女の姿を観察してみようなどと考えた。
 もっとも、実際には寝息なんて聞こえないのだが。
 彼女にはそもそも、音というものがなかった。口をいっぱいに広げて何事か叫んでいようとも、僕には彼女の声は聞こえないのだ。わずかな息遣いや布擦れの音すらも同様である。たぶん、僕程度の霊感では彼女の姿を見るので精一杯なのだろう。あと何回か死にかければ声が聞こえるようになるかもしれないが、御免蒙りたいことこの上ない。というか、普通はまず声が聞こえるようになって、それから姿が見えるんじゃないのだろうか、こういうのって。
 まあそれは置いといて、観察する。幽霊の少女は、アレである。可愛い。美少女と形容して差し支えないだろう。とはいえ、これが幽霊じゃなかったらなぁ、と嘆くようなことはありえない。というのも、彼女は子供だった。背は低いし胸は薄い。いやまあクドみたいなのもいることだから、このナリで実は同い年だったりするのかもしれない。それ以前に幽霊に歳という概念を当てはめられるのかが謎だが、とにかくロリコンなんてのは恭介一人で十分であって、僕にはまったくその気はないのである。昨日だったか一昨日だったか、ものすごく勇気を振り絞ってくれたっぽいクドにごめんなさいしたのも、今ではいい思い出なのだった。
 結局少女は昼過ぎまで目を覚まさなかった。



 特に行くあてもなく街をブラブラしていた僕たちは、いつの間にかどこぞの大型書店に辿り着いていた。西園さんと来たことがあるような、ないような。別に僕は入るつもりはなかったのだが、彼女がスカートをひらめかせながら飛び込んでいったので、仕方なく後を追った。
 まっこと不思議な幽霊である。寝る時はパジャマだし、起きてる時は何種類かの私服を着こなしている。最近は学校の制服がお気に入りなのか、そればっかりだが。黒を基調とした制服のデザインはたぶん大人っぽいと言っていいのだろうけれど、見るからに子供っぽい彼女には実にミスマッチで、それがなんとなく魅力的に映る。ともかく、着替えをする幽霊ってのは実におかしいと思うのだがどうだろう。ちなみに着替えている瞬間を目撃したことはないので、どういうメカニズムなのかは不明だった。魔法少女の変身みたいなものかもしれない。
 店内を適当に彷徨っていると、幽霊少女が奥のほうから手招きしているのが見えた。なにやら興奮している様子だが僕は無視して週刊誌コーナーに向かう。今週、いや、もう先週か。まだジャンプ読んでないんだけど、残ってるだろうか。残ってなかったので、しょうがなくサンデーを手に取った。
 しばらく読んでいると、誌面からにゅっと腕が生えてきた。ビビる。次いで、膨れっ面のロリフェイスのお出ましである。彼女は幽霊なので、物体の透過なんてお茶の子さいさいなのだった。逆に言えば、彼女はこの世のものを触れない。つまり腕引っ掴まれて無理やり引っ張られていくこともないので見えないフリすればいいのだが、上目遣いでむーっと睨まれてしまっては嘆息せざるを得ない。
 僕が着いてきているか確認しているのか、しきりに振り返りながら奥の方へと進んでいく彼女の後を追う。やがて彼女は動きを止めて、一冊の本を指差した。『はじめての手話』。
「欲しいの?」
 こくこく、と頷く。
 なんと彼女は、僕とのコミュニケーションを図るために手話を習おうというのだ! なんだこの幽霊!
「でも読めないよね」
 彼女はこの世のものに触れることが出来ない。
 今になって気付いたらしいアホ丸出しの幽霊娘は、ひどくショックを受けたような表情を浮かべてずーんと影を背負って落ち込み、しばらくすると逆ギレしたのかぎゃーぎゃーと喚き始めた。聞こえないけど。聞こえないけれど、アテレコしてみたらいい感じにハマりそうな気がするのはなぜだろう。
 子供にやるみたいに、僕が読み聞かせてやれば彼女も読めるのだろうけどそれは面倒だったので、手話の本はスルーした。声は聞こえなくたって、何を言ってるのかはなんとなくわかるので、そもそも必要ないのである。わからないことなんて、それこそ名前ぐらいのものだ。



「お風呂入りたいんだけど」
 告げると、彼女は頬を薄らと染めた。幽霊というとどうにも陰鬱なイメージが付きまとうが、彼女は真逆でかなり感情表現豊かだったりする。お陰で特に問題なくコミュニケーションを取れるわけだが。
 彼女は僕に取り憑いているわけなので、僕からあまり離れることができない。できないはずなのだが、さっきの本屋ではめっちゃ離れてた気がする。よくわからないけど、とにかくトイレやら風呂やら自慰やら、年頃の男の子としては色々気になってしまうのである。トイレや風呂は向こうがそっぽ向いててくれるからいいけども、さすがにアレはちょっとどうかと思うので、僕は四ヶ月近くオナ禁を強いられているのだった。いくら幽霊とはいえ一応女の子なので、まあそういう気遣いは必要だろう。
 しかしこの日の僕は少しばかりイカレていたのかもしれない。
「一緒に入る?」
 数秒の沈黙の後、ぼんっ、と音がして、いや聞こえないんだけど、彼女は顔を真っ赤にしてぎゃあぎゃあと喚き始めた。いや聞こえないんだけどね、うん。
 正直言ってこんな幼児体型にはまったく興味ない上、四ヶ月ぶん溜まってるというのにまったく性欲は涌き上がらないので無論冗談だったのだけど、その、なんだ。そんな過剰に恥ずかしがられるとこっちまで恥ずかしくなってくる。
 生きてたら唾飛ばしまくってたであろう幽霊娘が、ピタリと黙った。まあ元々無音だったんだけど。どうしたのだろうと思って見ていると、やがて、小さくゆっくり、首を縦に揺らした。
 マジで?

 何やら僕が先に湯船に浸かることになったので、脱衣の瞬間を目撃することは叶わなかった。いやなんかこれだけだと実に変態っぽい文言だけども、単に興味があるだけだから。知的好奇心を刺激されてるだけだから。より変態ちっくになった気だするけどなんでだ。
 理不尽さを感じながら悶々していると、やがてバスタオルで前を隠してるだけの身なりで、幽霊少女が浴室のドアをすり抜けて入ってくる。きぃっと音を立ててゆっくり開いていくドアに合わせて心拍音がメチャクチャに上がりまくるとかいったシチュエーションは介在する余地もない。
 彼女の裸身は、たぶん綺麗だった。彼女は幽霊なので元々身体が透けてる上、けっこう湯気が上っているので、たぶん。確実なのは、色気が圧倒的に足りてないことぐらいか。
『――――』
 じ、じろじろ見ないでよっ。
 だろうか。たぶんそんな感じだろう。まああんなぺったんこには興味がないので、自然な感じで視線を逸らしてあげた。
 気のせいか、水面に波紋が広がった気がした。彼女が、お湯に爪先を浸けている。
 幽霊がお風呂に入るっていうのは、どういうことなんだろう。今までの例から考えれば、彼女は水やお湯に触れることもできない。ただお風呂に入るフリをしているだけで――。
 彼女の小さな身体は、すっぽりと湯船に収まった。狭い湯船の中で、僕と彼女の身体はきっと、色んなところが触れ合っている。なのに、彼女の肌の滑らかさも柔らかさも温かさも、感じることはできないのだ。そして、向こうにとってもそれは同じで。
 今になって僕は、それがひどく悲しいことであるように思えた。
 そんなことを考えていると、居心地悪そうにそわそわしていた彼女と目が合った。すぐさまそっぽを向かれてしまう。お湯の熱さを感じられない彼女の顔が真っ赤になっている理由は、一つしかない。
 彼女が何かを感じるのは、僕とのやり取りの中だけなのかもしれなかった。
『――――』
 彼女が何事か呟いた。それは何か、とても――。
 なんと答えようか迷っているうちに、僕の口は勝手に言葉を吐き出している。
「ボドドドゥドオー」


[No.61] 2009/04/17(Fri) 22:52:27
Gently Weeps(静かに泣く) (No.57への返信 / 1階層) - ひみつ@13001 byte

 私のもとに手紙が届いた。
 差出人は・・・・・・二木、佳奈多さん。
 私が以前通っていた学園でルームメイトだったひと。
 そして、私の監視対象だったひと。

「お前のような位が低く、貧しい分家筋が進学校に進めるのだ。ありがたい話だろう?」

 それが私の下らない仕事、三枝の跡取り娘の監視に就く際にうけた「ありがたい」お言葉。三枝の人間はやはり穢れた血のクズ野郎ばかりだ。
 私の役目は二木佳奈多の素行を監視すること。監視するポイントは三つ。
 ひとつ、二木佳奈多は成績優秀であること。
 ひとつ、二木佳奈多は品行方正であること。
 ひとつ。
 三枝の正当な跡取りたる二木佳奈多は、三枝の面汚しである三枝葉留佳を徹底的に踏みにじること。
 ・・・・・・三枝の人間の考えはいちいち歪んでいて嗤える。しかも、二木佳奈多と三枝葉留佳は双子の姉妹というオマケ付き。全くもってクソの上をクソで塗り固めたような連中だ、本当に。正直、この話には乗り気ではなかったのだが、折角私立の進学校に行く援助をして貰えるのだ。利用できるものは利用しなくては。毒を食らわば皿まで、ということだ。

 そして、私は監視役として二木佳奈多・三枝葉留佳と同じ学園に入学した。常に監視ができるようにという「ありがたい」配慮であろうか、寮の部屋も彼女たちと一緒になった。そこでの毎日は、まさに三枝の腐った世界の再現だった。

「いつもいつもあなたは楽な方へ逃げたがる。だからあなたは私に勝てないの。だからあなたはゴクツブシのロクデナシ、ヤクタタズなのよ」
「うるさいうるさいっ!何であんたなんかにそんなこと言われないといけないのよ!」
「私はあなたの成績と行動から純然たる事実を述べたまでよ。それを私が悪いみたいに言うなんて。被害者意識が強すぎるんじゃないかしら?」
「あなたは自分で何も努力をせずに、ただ怠惰に日々を過ごすだけ。それで自分に都合の悪いことがあったら、全部他人のせい。自分が他人にどんな迷惑をかけているのか顧みずもせずにね。最低ね」
「―――っ!!」

 バタンッ!
 三枝葉留佳が部屋を飛び出す。

「・・・・・・本当に最低」

 小さいころから姉妹で競い合い、一歩劣る妹を常に罵り続けたという二木佳奈多。三枝のお姫様は、穢れた土と穢れた水から生まれたから、はじめからクズだったというわけか。本当に下らない。そして、そんな下らない連中のために働いて、連中の金に群がっている私自身もまた下らない存在なのだ。

 数ヶ月が過ぎたころ。・・・・・・今日も寮の一室にて繰り返される。醜い三枝の毎日が。

「また、あなたはお友達の部屋に入り浸っているのね。消灯の時間が過ぎるまで。その人も迷惑してるんじゃないかしら。あなたみたいなゴクツブシの面汚しに気に入られちゃって」
「唯ねえはそんなこと思うような人じゃない!!私の友人関係にまであんたにいわれたくないねっ!」
「迷惑に思っているかもしれないし、思っていないかもしれない。でもね、三枝葉留佳。あなたが傍にいることで彼女に迷惑を掛けるというのは事実よ」
「どういうことさ!?」
「だって、考えてもみなさい。あなたは素行の問題で寮会や風紀委員に目を付けられている。そんなあなたと一緒にいる人だって、同じように目を付けられてしまうのは道理でしょう?私、前に言ったわよね。あなたが他人に何故迷惑をかけているのか」
「・・・・・・」
「それはあなたが三枝葉留佳だからよ。ゴクツブシのロクデナシだから。あなたの存在自体が他人に迷惑をかけるの。いい?あなたは友達を作る資格さえないのよ」
「・・・・・・・・・・・・私は他の子たちみたいに普通の生活を送ることも許されないってわけ!?」
「・・・・・・・・・その通りよ、三枝葉留佳。あなたは最低の・・・」

 バンッ!!
 いつも通りの展開。もう聞き飽きた。

「最低ね・・・・・・」
「本当に最低ですね。あなたが、ですけど」

 私は二木佳奈多のほうを向かずに言った。お姫様の横暴振りに愛想が尽きたのだ。もっとも、穢れた三枝の人間に愛想を振りまく必要なんて無いのだけど。
 さて、私はどうなるのだろうか?お姫様の逆鱗に触れたのだ。罵られるだけでは済まないかもしれない。殴打されたりするやもしれない。そして、この話がサル山に伝わってお役御免という寸法か。
 それでいい。もう、疲れてしまったのだ。

「・・・・・・そうね、あなたの言うとおりだわ・・・・・・」

 返ってきたのは意外なこたえ。愕いた私は二木佳奈多に目を向けた。
 ・・・・・・彼女は目をぎゅっと瞑り、両手で体を抱くようにして、じっと何かに耐えていた。そのあまりに儚げで、悲痛な表情が忘れられない。

 このとき、私は理解した。彼女もこの状況を望んでいないことを。彼女も疲れてしまったことを。私も三枝の人間だから分かる。彼女は私と同じなのだ。
 それなのに私は何も気付かず、ひどい勘違いをし続け。それがどんなに彼女を傷付けてしまっていたのか。

「佳奈多さん。あなたはこんなことをして楽しいですか?」
「・・・・・・そんなわけないじゃない・・・・・・」
「私は二木の家からは何も聞かされていません。だから、教えてください。真実を」

 それから、彼女はポツリポツリと話し始めた。
 彼女らの生い立ち。
 品評会。
 凄惨な虐待。
 心と体に刻まれた傷跡。
 そして。
 廃人にされかけた葉留佳さん。
 彼女のため、自分を諦めた佳奈多さん。

 そこで、私は知ることになる。佳奈多さんが葉留佳さんに対して、酷い言葉を投げ続ける理由を。葉留佳さんが憎いからでも、ましてや二木が怖いからでもない。すべては葉留佳さんのため。

 私は打ちのめされた。三枝の世界が私の想像をはるかに上回るほどに穢れていることに。佳奈多さんはそんな穢れた世界の中心にいても、それでも、なお美しいことに。・・・・・・そして、そんな彼女の愛情は葉留佳さんには決して届かないことに。

「・・・・・・あなたはこのことを報告する?」
「・・・・・・いえ。私が報告することは、あなたが葉留佳さんを踏みにじっているという事柄です。それが事実で無かろうと」

 こんなことで、あなたを三枝と同じと心の中で罵った罪滅ぼしにはならないけれど。

「それよりも。こんな時にまで我慢することはありません。泣きたいときに泣けないことは、とても悲しいことですから」

 パタン。
 私は廊下に出て、ドアにもたれかかる。しばらくして、彼女の嗚咽が聞こえる。
 三枝への反抗心だろうか。それとも単なる同情だろうか。あるいは、これまでの罪滅ぼし?理由はわからなかったが、ひとつだけわかったことがある。

 彼女の悲しみを分かってあげられるのは、私だけ。彼女を守ってあげられるのも、また私だけ。
 ならば、守ろう。彼女へ降りかかるあらゆる災厄から。この学園でなら。私の手が届く範囲でなら。
 私にはそれができる。

 それからというもの、私は彼女のためにできることは何でもやった。彼女は放って置くと、いくらでも無理をする。風紀委員に剣道部、そして寮会、さらには優秀な成績を収めるための長時間に及ぶ勉強。そんな彼女の負担を少しでも減らそうと、風紀委員や寮会の手伝いを行った。さらに寝ずに勉強しようとする彼女を無理やり寝かしたり、彼女が体調を崩せば彼女の傍に付き添ったりもした。
 あるとき、彼女が寝込んだとき看病していると、彼女からこんなことを言われた。

「何故あなたは、こんなことをしてくれるの?」
「ルームメイトとして当然のことをしているまでですが」
「あなたの場合はやりすぎよ。こちらが申し訳なく感じてしまうわ」
「あなたがそんなことを気にする必要はありませんよ。ゆっくり休んでください」
「・・・・・・あなたを私達の関係に巻き込ませたりしたくないのよ」
「それは無理な話ですよ。初めから巻き込まれてます。それに、今は私が望んでやっていることですから」
「どうして、なの?」

 どうしてか?
 はじめは理由も分からなかったが、今はなんとなく分かる。
 あのときまで、自分がこの学園にいる意味が堪らなく嫌だった。吐き気を催すほど醜悪な三枝のため、姉妹同士をいがみ合わせること。そんなことをしているうちに、自分も同様に穢れた人間になっていく気がしていた。
 しかし、あのときからここにいる意味が変わった。
 佳奈多さんが私の目を覚ましてくれた。自分も既に十分に悲惨な状況であるにもかかわらず、彼女は妹の幸せのため、その身を差し出した。彼女が救ったのは、葉留佳さんだけではない。このまま三枝の人間として堕ちていくだけの私の心をもまた、救ってくれたのだ。

 彼女は、呪われた私たちの世界にあった唯一の美しいもの。だから彼女をこれ以上穢したくなかった。だから彼女をこれ以上悲しませたくなかった。この学園にいる限り、私が彼女を穢れた世界から守る。





 最近、気付いたことがある。
 誰かを守りたいと思うことが、何とも言えない充実感をもたらすこと。友達にこんなことを訊かれた。
「好きな人でもできた?最近何か変わった」
 ・・・・・・・・・私は佳奈多さんのことを好きなのだろうか?そういった意味で。
 答えはきっとNO。そもそも私にそんな趣味は無い。それに、彼女を独占したいのかと考えても、違う気がする。
 私の方を向いてくれなくても良いのだ。ただただ、彼女の泣きたいのに泣けない、あんな悲痛な表情をもう見たくない。
 彼女が笑う姿を見たいだけ。ただ、それだけだ。





 入学して、季節が過ぎ去って。
 状況は改善しないものの、現状維持はされており。そんな中、ひとつの懸念事項が挙がっていた。葉留佳さんだ。
 最近、彼女の素行が寮会や風紀委員で問題となっている。私自身は彼女の素行が何であろうと一向に構わないが、このことが三枝の連中に知られれば、あの最低最糞の連中のことだ。確実に佳奈多さんに被害が及ぶ。
 もちろん、この学園内の話であれば私の方で握りつぶすことができる。しかし、葉留佳さんが大きなトラブルを起こしたりして学園の外に話が及んでしまえば、私にはどうすることもできない。
 ・・・・・・彼女と関わるのは気が進まないが、手は打っておこう。





「何の用ですかネ?」

 放課後の裏庭で、葉留佳さんと対峙する。部屋を避けたのは、万が一にも佳奈多さんに目撃されてしまう恐れがあるから。

「あなたの行動が問題となっています。それが原因で私たちにも迷惑が掛かる。ですので大人しくしていてください。」
「私が何をしてもカンケー無いじゃないですか。それとも私のことも報告してるんですかネ?全くお役目ご苦労さまだねー」

 恐らく、彼女は確信犯だ。彼女の素行が三枝に伝われば、佳奈多さんに害が及ぶことを知っている。

「あなたは何がしたいんです?折角最近は佳奈多さんと出会わなくなったのに。あなたのほうから絡んできているように見えますよ」
「・・・・・・・・・・・・」
「あなたは誰のおかげで平和な学園生活を送れているのかご存じないのですか?」
「知ってるよ。あいつでしょ。私のことが『可哀そう』だからここに連れてきたんでしょ。自分が何でも持っているってことを見せ付けるために!私から全部、ぜんぶ奪っておきながらさ!!あんたは今の私の生活が平和だと思うわけ!?毎日毎日あいつに馬鹿にされ、苛められてる生活がさあ!!」

 ・・・・・・ダメだ。
 私が何を言っても無駄だ。彼女の世界では、周りは皆間違っていて、彼女だけが正しくて、彼女だけが被害者で彼女だけが不幸なのだ。そんな状態では、例え私が本当のことをいくら言っても信じはしないだろう。
 ・・・・・・佳奈多さん、本当にこんな妹のためにあなたの身を捧げる必要はあったのでしょうか?
 いや、この妹に佳奈多さんの愛情を受ける資格など無い。

「・・・・・・あなたのような人間にいくら言って聞かせても無駄のようですね。」

 こんなことはしたくはなかったのだが。私は、唐突に彼女の胸倉を掴むと、そのままの勢いで校舎の壁に彼女を押し付けた。

「・・・・・・あなたは私をただの同級生と思っているのかも知れませんが、私も三枝の人間なのですよ。言葉でわからないのでしたら、体でわかってもらいましょうか。三枝流のやり方で」
「・・・・・・・・・・・・・・・ひっ」

 幼少期からの虐待のせいだろう。葉留佳さんは、顔を真っ青にして震え始めた。彼女の怯える姿を見ると、気分が悪くなる。だからこんなことしたくなかったのに。だが、これでしばらくは大人しくなるだろう。

「・・・・・・ふん。」

 私は葉留佳さんを突き飛ばすと、寮へと走る。部屋に戻ると、私はドアの鍵を閉め、隅にうずくまった。
 ・・・・・・暴力で、彼女のトラウマにつけこんで、自分の思い通りにする。それでは私も、心底嫌っている三枝と同じではないか。自分だけは、ああはなりたくないとずっと思って生きてきたのに。
 私は認めざるを得なかった。結局、私も三枝の人間であり、穢れた人間に違いないのだ。
 でも。それでもいい。私がどんなに穢れようが。それで佳奈多さんを守れるなら。





 この学園で、2度目の春を迎えて。
 今思うと、私の1年間は彼女のためにあったようなものだ。この学園の中でなら、佳奈多さんは普通の人間として生活できる。彼女にふつうの女の子として生きて欲しかった。だから私は、彼女が別の部屋に移りたいと言ったときも黙認した。三枝とは異なる、まともな人間と関わって欲しかったから。

 彼女が私に笑いかけてくれることは無かったけど。
 彼女が悲しまなければそれでいいから。
 そんな時間がずっと続けばいいのに。
 ・・・・・・だが、どんなものにも終わりがあって、この世にはえいえんなんて何処にも無くて。
 私の箱庭も唐突に終わりを迎えた。

 急にサル山に呼ばれた私は、一方的にクビにされたのだ。彼女の『相手』が決まったから。彼女の学園生活も終わるから。

 美しい時間が終わりを迎える。あとは、無惨な現実だけが待っている。
 彼女の人生が終わる。

 その日のうちに、私は彼女に伝えた。彼女はどんな反応をするのだろうか?・・・・・・私に彼女を慰めることができたらいいのに。

「佳奈多さん、『相手』が用意されているようです」
「・・・そう」

 そんな状況であっても、彼女はただ葉留佳さんのことを考えていた。

「あなたの転校先に葉留佳が行くかもしれないわ」
「そうしたら、友達になってあげて」
「なぜ、あなたはそんなに葉留佳さんの事ばかり考えているんです!ご自分の幸せも考えてください!」
「・・・・・・考えているわ。私の幸せは、葉留佳が幸せでいること。それ以外には何も無い」
「――――っ!」

 私は、悲しかったのだ。自分の中のうつくしいものが目の前で崩れていくのが。うつくしいものを守れなかったことが。
 とても、悲しかったのだ。それなのに彼女は、彼女は。

「・・・・・・あなたの意志は、私の意志。あなたがそれを願うのであれば、仰せのままにいたしましょう」
「ありがとう。・・・・・・ごめんなさい」
「気にしないでください。・・・・・・では、さようなら」

 もはや守ることができない。彼女へ降りかかるあらゆる災厄から。
 この学園でしか。私の手が届く範囲でしか。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私は、無力だ。





 私が学園を去った後、色々なことがあった。修学旅行中でのバス事故。佳奈多さんの結婚披露。全ては終わったかのように思われた。そんな中、私のもとに手紙が届いた。





 手紙には、写真が入っていた。
 佳奈多さんと・・・・・・葉留佳さんの写真が。二人が並んで笑いあっている。
 あそこまでして見たかった、佳奈多さんの笑顔が、そこにあった。

 そこで、私は自分が泣いていることに気付いた。
 さらに気付く。私が葉留佳さんを嫌っていた理由。私が彼女を独占しようと思わなかった理由。
 はじめからわかっていたんだ。私では勝負にもならないと。

 嬉しくて嬉しくて堪らないのに。
 悲しくて悲しくて堪らなくて。
 涙は私の頬を流れ続けた。
 ただとめどなく、流れ続けた。


[No.62] 2009/04/17(Fri) 23:58:54
家族だんらん (No.57への返信 / 1階層) - ひみつ@6750byte

 ふっと息を吐くと、目の前の湯気が少しだけ晴れて、向かいのタイルに描かれた小さな紫色の花が見えた。
 それにしても。実家お風呂とは、なんでこんなに気が休まるんでしょう。
 故郷は遠きにありて思うもの。
 そうは言っても、こればかりはどうしようもない。
 湯船で足を伸ばそうとしたら、膝が伸びきる前に給水口にぶつかった。仕方ないので映画の入浴シーンのように、浴槽のヘリに足を掛けようとしたら、太ももの裏が突っ張ってバランスを崩し、そのまま水没する。入浴剤は仄かにしょっぱかった。
 湯からあがって前屈してみると、手が膝を越えようかというそのときに絶望的な痛みが下肢を襲った。まっすぐ立ってもまだビリビリしている。
 運動不足。忌まわしい言葉が頭をよぎる。思い出されるバットの重み。それだけでもう野蛮なのに、さらにそれを振り回そうだなんて。
 頭を振って蛇口をひねった。一瞬冷たい水が背中に注ぎ、やがて温かな流れに変わる。頬を伝って甘い水が流れてくる。手探りでシャンプーを探すが、いつもあるべき場所にボトルがない。なんだかぬるついた感触がするだけである。
 こういうときは寮のお風呂が恋しくなって、勝手なものだななどと思った。
 そうして薄く目を開けたときだった。不意を打って、鏡が視界に飛び込んでくる。なんの心構えもしていなかったせいでかなり驚く。鏡の位置がいつもと違ったせいだ。白いプラスチックに縁取られた中で、表裏が逆のわたしもまた、酷く驚いた顔をしていた。
「美魚、もうご飯よ」
 脱衣場に人の気配がして、それから母の声がした。わたしは生返事を返すと、シャンプーで乱暴に髪を洗って浴場を出た。外の空気は想像外に冷たくて、顔をしかめてしまう。
 母が用意してくれたパジャマを着込み、髪を拭きつつ台所へ入ると、父が待ち構えていた。ランニング姿で。
「よし、じゃあお父さんも入ってきちゃおうかな」
 そう言って脱衣所のドアに手をかける。
「えー? もうご飯だって言ったじゃない」
 母が不満げな声を上げるが、父は気にした風もない。
「いいじゃないか。寒い中ずっと待ってたんだから」
「寒いのは動いてないからでしょ」
 聞き流したのか、聞こえない振りをしたのか。父はそのまま脱衣所に消えた。母はため息を吐いて、味噌汁をかき回していたお玉で鍋のヘリを二度叩いた。
「なにか手伝いことある?」
 フォローではないけれど、訊ねてみる。すると母は振り返り、嬉しそうな困ったような曖昧な笑みを浮かべた。
「美魚、料理とかちゃんとしてるの? 洗濯はできてるんでしょうね?」
 小言を言われるとは思ってもなく、ちょっとたじろぐ。
「お弁当はたまに作ったりするけど」
 サンドイッチやおにぎりだけれど。
 母は納得したのかしないのか、頷いてから、
「もう出来ちゃったわよ。お風呂が長いのはお父さん似ね」
 そう言って、またコンロに火をつけた。
「せっかく帰ってきたんだし、座ってなさい」
 これは戦力外通告と見ていいんだろうか。
 しかたなしに、自分の席に着く。四角いテーブルは、正面は母の席。右隣が父の席。三人分の小さなものだ。四人座ろうと思っても、ちょっと難しい。
「お父さんって、ちょっと太った?」
 思ったことを口にしてみた。
 振り返りはしなかったが、母は頬に手を当てるような動きをして見せてから、
「結婚式の写真よりは、ね」
 と言った。
「一番風呂派じゃなかったっけ?」
「年頃の娘に気を遣ってるんでしょ」
 なんでもなさそうに言う。なるほど。そういうものなんだろうか。
 父の席の向かいにあるテレビでは、シマウマの群れが水辺でおいしそうに喉を潤していた。なんとなくリモコンに手を伸ばす。クイズ番組や、ドキュメンタリーや、クイズ番組や、クイズ番組。
「勉強はちゃんとしてる?」
 黒いシャツに白いエプロンの紐の背中越しに、母が言った。
「うん、大丈夫」
「そう。よかった」
 お決まりの流れだ。
「美魚が一人暮らしっていうから、今でも心配」
「一人暮らしって言っても、寮だし、相部屋だから」
「自分のことは自分でやんなきゃいけないのは一緒じゃない」
「同じ部屋の子がしっかりしてるから、大丈夫だよ」
 そう。よかった。
 母が繰り返した。
 再びコンロの火が止められたとき、風呂場のドアが開く音がした。
「彼氏、連れてきてもよかったのに」
 突然だった。今話していた声より、一回り大きな声でそんなことを言い出す。
 わたしは困惑して言葉に詰まる。
 なぜ母はいきなりそんなことを言い出すのか?
 答えるより早く、父が下着のまま台所に入ってきた。身体を拭ききれてなかったのか、シャツがぺったりと、少し膨らみ始めた胴回りに張り付いている。
「さ、ご飯にしましょ」
 母が味噌汁をよそり出す。意図を理解して、わたしも席を立ち、しゃもじを手に取った。父はしばらく立ち尽くしていたが、一度首をひねるとそのまま席に着いた。
 いただきます、とやってから、三人で野菜炒めをつつき始めた。母の味付けは以前よりも薄味になったように思えた。
 暖房が効いているとはいえ、やっぱり寒くなったのか、父が寝巻きを持ち出してくる。そして立ったついで、と言わんばかりに、冷蔵庫から缶ビールを持ってくる。母はとがめるような目をしたが、口には出さなかった。
「お友達とは仲良くやってるのか?」
 ビールをあおりあおり、またお決まりの質問。親っていうのも大変だな、などと他人事のように考えてから、答えを考えた。お友達、と言われて、連想する人々がいるのはいいことだと思った。
「うん。この前みんなで、人形劇とかしたり。幼稚園で」
 はっはっは、と父が笑う。
 秋にみんなでやった人形劇。恭介さん主導で脚本がめちゃくちゃになったのを、結局小毬さんが直して。来ヶ谷さんが三枝さんをスパルタで演技指導して。直枝さん井ノ原さん宮沢さんの男性陣が雑用しながら仕事を増やして、鈴さんと能美さんとわたしは練習に打ち込んで。いざ本番になると、ヴェルカとストレルカ(そういえばなんで連れてきたんだっけ?)に群がって無茶する子供たちを追い払うのに能美さんが離脱して、結局恭介さんが代わりに入って、やっぱり脱線して。
 ゆっくり、噛み締めながら話した。
 父は二本目の缶ビールを開け、よかったな、と言った。
「美魚はうまくできたか?」
「うん。なんとか」
「そうかそうか」
 ビールが父の喉を落ちていく。
「美魚は昔からごっこ遊び、好きだったもんな。お姫様と魔女一緒に一人でやってたり。可愛かったなあ」
 しみじみ呟く父の隣。横目に、母が表情を強張らせているのが見えた。その母の顔には既視感があった。次いで夜毎朝毎の、ご飯のあとの苦味が喉の奥によみがえってきた。流し込むための水は、用意されていない。わたしはお椀を手にして、ひと息に飲み下す。
 まあ、母の反応は、もっともだろうと思った。
 自分なりに本で、症状を調べたことがあったから。恐らく母も、再発の心配については聞き及んでいるんだろうと思った。
 母の思いに父が気づいて、慌てて話題を変える。
「勉強はしてるのか?」
「お母さんもおんなじこと聞いたけど、大丈夫だよ」
 答える声が明るくなりすぎた。失敗したと思った。でも両親は気づかなかったようにして、父は目を伏せながら、
「無理、しなくていいからな。辛いと思ったらすぐ言えよ」
 と言った。わたしは頷き、箸を置いた。それから母と並んで食器を洗った。三枝さんから仕入れた知識で、芸能人の話題なんかを話した。どのタイミングだったかは思い出せないのだが、「あなたは大事な一人娘なんだから」という言葉が耳に残った。
 台所の電気が落ちて、暗い中に誘蛾灯の明かりだけが灯っていた。板張りのテーブルが薄く光を跳ね返していたが、輪郭はぼやけて暗闇と混じっていた。それでもやっぱり、テーブルは小さくて、三人しか席に着けないように思われた。
 おやすみ、と母が言った。
 おやすみ、と返して、階段を昇って部屋に入った。かつて鏡が置かれていた場所には、大きな本棚が置かれていて、そこにはいつのまにか日に焼けた絵本が並んでいた。


[No.63] 2009/04/17(Fri) 23:59:45
カウリスマキの友人 (No.57への返信 / 1階層) - ひみつ@19947 byte

カウリスマキの友人


 一八八一年七月十四日、ビリー・ザ・キッドは保安官パット・ギャレットに射殺された。


 トレイを片付ける理樹の後ろ姿を見ていた。返却口にはカップやグラスがたまってしまっていて、どう返したものか迷っているようだった。鈴は店を出てすぐのところに立っていた。
 濃いグレーの中折れ帽をかぶった長身の男が店に入っていった。男は煙草をくゆらせていた。その喫茶店は入口から入ってすぐのところにレジがあり、まず注文と支払いを済ませるシステムになっていた。男はレジの前に立ち、ピストルをカウンターに置いた。レジは二台あり、店員もそれぞれについていた。共に若い女だった。二人は顔を見合せて、苦笑した。
 理樹がそのやりとりを横目で眺めながら、鈴の元へ向かってきていた。「行こ」と声をかけた。二人は並んで歩き出したが、鈴がすぐに立ち止まった。振り返った。ちょうど男がカウンターに置いたピストルに手を伸ばしたところだった。
 男はピストルを手に取り、目の前の店員に向けた。彼女たちの笑顔がひきつった。向けられた銃口の深さが目に入ったとき、それが本物であると知った。女は黙ってレジの紙幣を男に手渡した。男はかすかに微笑んで、拳銃をもう一度カウンターへ置いてからくるりと身を翻した。店内の人間は凍りついていて、男だけが身体を動かせていた。
 店を出ようとした男と目が合った。男は立ち止まり、しばらく鈴と見つめ合った。それから上着の内ポケットへ手を入れ、ゆっくりと抜いた。右手でピストルを形作っていた。銃口を模した指先がゆっくりと鈴へ向けられた。「バン」と言って、指先を上へと動かした。
 鈴は何も言わずに、男をじっと見ていた。隣で理樹がおろおろとしていたが、ほとんど気にならなかった。男はくすりと笑って、そのまま悠々と歩き去った。鈴は小さくなっていく背中を見送った。見えなくなっても、しばらくその方角へ視線をやっていた。


 大変だったんだよ、と心底うんざりしたように理樹は言った。正面にでっぷりと座っている真人がコーヒーを啜りながら「そうかそうか」と返した。全く興味なさそうだった。コーラをたっぷり注いだグラスを持った恭介が戻ってきて、理樹の隣に座った。
「さて」
 と、恭介は店内を見渡しながら切り出した。ありふれたファミレスだったが、それは昨日までのことだった。鈴がアルバイトを始めたのだった。視線がぐるりと動いている間に真人がグラスを取って、コーラを一気に飲み干した。 
 数時間前、恭介は言った。ミッションだ、鈴の様子を生温く見守ってみる、と。恭介の視線が一周して目の前の真人に戻った。空っぽになったグラスとむせている真人を見て、無言で真人の向う脛を蹴っ飛ばした。「うおっ、痛え」と真人は嬉しそうに痛がった。
「くだらんことやってないで、ほら、見ろ」
 ウエイトレスの恰好をした鈴は窓際の四人がけの席へ水を運んでいるところだった。脇にメニューを挟んでいた。席にはおそらくは他校の男子生徒が四人いた。水の入ったコップを四人の前に置いてから、メニューを手渡した。鈴はそのまま厨房へ戻ろうとするが、すぐに呼び止められた。振り返って、前掛けのポケットからハンディターミナルを取り出した。
 三人は話をしているふりをしながら、その様子を見守っていた。恭介は改造携帯を用意していたが、苦渋の決断の末、鈴に仕掛けることはしなかった。そのためどのような会話が行われているのかはわからなかった。しかし、鈴のたどたどしい指先と小馬鹿にしたような少年たちの顔を見ていれば、だいたいのことは想像できた。
「恭介、いいのか、あれ」
「お前な、ここで助けたんじゃ、あいつのためにならんだろう」
「ま、そりゃそうだな」
 真人は机に頬杖についたまま、「しかし貧弱な筋肉共だな」と呟いた。誰も突っ込まなかった。鈴の指先が震え始めていた。メニューを読み上げる時間が明らかに長かった。彼らが鈴をからかっているのは確かだった。たぶん、料理を頼んではその場で取り消しているのだろうと理樹は考えた。いたずら半分で、きっと。
「我慢のしどころだ。客商売なんだから、これくらい普通のことだ」
 高校生たちの笑い声は大きくなる一方だった。鈴のリアクションがよほど気に入っているようだった。恭介はその様子をじっと眺めていた。妹が嘲笑の対象になっているのにもかかわらず、ひどく冷静だった。理樹はそんな恭介の態度に感心していた。
 男子生徒の一人が何気なく鈴の尻を触った。鈴は目を見開いて、その少年を睨みつけた。「おっ!」という声が三人のテーブルまで聞こえてきた。鈴はすぐに顔を伏せて、また注文の操作に戻った。
 恭介は言った。
「ミッション変更だ」
「切り替え早っ!」
「もう我慢ならん。何なんだあいつらは」
 ぬるくなった水を飲み干して、叩きつけるようにコップを置いた。それから「見ろ」と窓の外へ顎をしゃくった。
「あいつらの自転車だ」
「めちゃくちゃにしてやるんだな」
「いや、それだと時間がかかってばれる。とりあえず動かせないようにするだけだ」
「なるほど」
 さすがは恭介だと真人が感心する。
「で、どうするのさ」
「いいか、順番で行動する。まず俺が外に出て、あいつらの自転車に細工をする。その間、理樹は会計を済ませる。食い逃げをするわけにはいかないからな」
 「オーケー」と理樹が頷いた。
「それから真人があいつらにちょっかいを出す」
「ちょっかい?」
「幸いここにコショウとか七味とかマヨネーズがある。こういうのを使えばいい」
「……オレだけ、なんか大変じゃないか」
「お前にしかできないから頼んでるんだ」
 真人はフッと笑った。さわやかな笑顔だったが、それ故に薄気味悪かった。
「聞いたか、筋肉たち。オレが必要だとよ」
「ついでにそのハチマキ貸してくれ」
「いいけど、何に使うんだ?」
「細工に使うんだ」
「ジャスコで二十枚くらいしか売ってないハチマキだ。大事に使ってくれ」
「結構な数さばいてるよね、それって」
 三人は視線を男子生徒たちのテーブルへと戻した。鈴がふらふらになりながら、厨房へ戻っていくところだった。どうにか解放されたようだった。ちょうどいいタイミングだった。
 「よし、スタートだ」と言い、恭介が立ち上がった。手には真人の赤いハチマキがあった。恭介の後ろ姿を見送りながら、「あれ、マッスルワークハチマキっていうんだ」と真人が言ったが、理樹はまったく反応しなかった。とぼとぼと歩く鈴に気を取られて、完全に聞き流していた。
「マッスルワークハチマキっていうんだ」
 繰り返してみても同じことだった。


 恭介と真人は肩を並べて歩いていた。理樹がその後ろに続いている。夕暮れの住宅街だった。昼と夜の間の短い時間が広がっていた。人の姿はあまりなかった。夕陽の赤が強い景色の中にいるのは自分たちだけなのではないかと理樹は錯覚した。
「まさか一日しか持たないなんてな」
「三日坊主どころの話じゃなかったわけだ」
「お前らのせいじゃ、ぼけーっ!」
 鈴が空き缶を二人に向かって投げつけるが、バランスを崩して転びそうになってしまう。空き缶は路上に転がり、電信柱にぶつかって止まった。鈴はひとり、ブロック塀の上を歩いていた。つい二十分ほど前に「もう来ないでいいよ」と店長に言われたのだった。
 理樹が鈴を見上げたとき、彼女は片足立ちになっていた。けんけんをするみたいにぴょんぴょん跳ねていた。器用なものだと理樹は思った。
「お前らみんな、どうにかなれ!」
 そう言い残して、鈴はブロック塀の上を走り出した。今に落ちるのではないかと三人はひやひやしたが、その後ろ姿が見えなくなるまで身体の軸がぶれることは一度もなかった。
 三人は呆気にとられて鈴を見送ったが、その姿が見えなくなると真っ先に真人が口を開いた。
「なんなんだ、あれ」
「どうにかなるのか、俺たち」
 悩み始める二人を尻目に、理樹は数歩前に進んでいた。二人を追い越し、鈴がいなくなった先を見つめた。そして呟いた。
「ねえ、鈴さ、ちゃんと我慢してたよね」
 不思議なほど、よく通る声だった。理樹は呟いたつもりだったが、二人の耳へはっきりと届いていた。恭介が「そうだな」と頷いた。
「探してくるよ。謝らなきゃ」
 理樹は振り返ってそう言った。恭介と真人の返答を待たずに駆け出していた。


 左右のブロック塀に目をやりながら、さまようように歩いた。住宅街を抜け、バス通りに出ていた。息が切れていた。真っ直ぐ歩けば十五分くらいで駅前に出る。理樹はバス停に設置されたベンチに腰を下ろした。ふと顔を上げると、目の前のブロック塀に鈴が座っていた。
「理樹、どうしたんだ?」
「鈴、やっと見つけた」
 鈴は軽やかに飛び降りて、理樹の隣に座った。しかしすぐに立ち上がり、歩き出してしまった。理樹は慌てて彼女を追った。
 バス通り沿いには色々な店があったが、鈴はそのどれにも興味がないようだった。隣を歩くことは躊躇われたので、理樹は鈴の後ろを歩いていた。傍から見れば、不審者だったかもしれない。
 なかなか言い出せなかった。どう切り出したものかと迷っていたし、そもそも鈴はもう気にしていないようにも見えた。タイミングを計りかねていた。
 名画座の前を通りかかった。券売機の脇には立て看板があり、『本日迄』のポップが踊っていた。看板には上映作品のポスターが両面に貼り付けられていた。『サラーム・シネマ』。『ワンス・アポン・ア・タイム、シネマ』。鈴はそれを横目で見て、「つまんなそうな映画だ」とばっさり切り捨てた。立ち止まることすらしなかった。
 困ったような表情を浮かべた理樹が鈴の後を追って、映画館の前を通り過ぎた。人通りはもうほとんどなかった。煙草をくわえた男がポスターを脇に抱え、外に出てきた。彼は支配人だった。外壁に貼られたポスターを剥がし、『ヒカリ座次回上映』という手書きの紙を画鋲で止め、二枚のポスターと雑誌や新聞の切り抜きを貼り始めた。古めかしいポスターには『ウエスタン』、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』という題名が刻まれていた。
 ランドセルを背負った男児が二人、小走りで男の脇をすり抜けていった。わざとぎりぎりのところを駆け抜けて、しばらく走ったところで振り返って笑った。その手にはチョークが握られていた。職員室から勝手に持ち出してきたものだった。支配人は二人に向かって、「おーい、落書きなら別のとこでしろよ」と怒鳴った。


 青信号が点滅を始めていた。駅前の交差点だった。片側二車線の道路を渡った先に銀行があった。四人はだらけた様子で目の前を行き交う車を見ていた。夏日だった。
 「あぶくぜにだ」と鈴は言った。「だから昼飯おごってやる」と続けた。それは理樹だけに向けられた言葉だったが、その場にいた恭介と真人も加わることになった。鈴は「お前らには言ってない」と一度は首を振ったが、結局押し切られてしまった。しかし満更でもないような顔をしていた。
「思ってたのと違う」
 鈴は前を向いたまま、理樹に話しかけた。
「え?」
「給料って封筒で貰うのかと思ってた」
「鈴、発想が昭和だよ……」
 信号が変わり、四人は銀行へ向かって歩き始めた。中央分離帯にさしかかったとき、防犯ベルの音が聞こえてきた。四人は一様にぎょっとして、足を止めた。銀行の入口が開いて、ボストンバッグを手にした男が姿を現した。
 鈴が「あ!」と声を上げた。理樹もその姿には見覚えがあった。喫茶店ですれ違った中折れ帽の男だった。ボストンバッグの口は開いていた。紙幣が詰まっているのが、距離を置いていてもはっきりとわかった。男は銀行を出てすぐに周囲を伺い、やがて鈴に目を止めた。
 そのとき路肩に停められていた乗用車から数人の男たちが走り出て、帽子の男を取り囲んだ。彼らの手にはピストルが握られていた。男は空いている手を挙げ、ボストンバッグを地面に置こうとした。鈴たちは呆然とことの成り行きを見守っていた。逃げ出そうとしても、身体が動かなかった。
 男はボストンバッグを地面に置くと素早く紙幣を一掴みして、上空へと放り投げた。風が吹き、紙幣がひらひらと舞った。その瞬間、わずかな隙が生まれた。男は腰にさしていた拳銃を抜き、一番近くにいた警官へ発砲した。警官の身体は糸が切れた人形のようにその場に沈んだ。直後に数発の銃声がこだました。男は弾かれたように仰向けに倒れた。帽子が飛んだ。
 警官たちは銃口を男に向けたまま、すり足でゆっくりと距離を詰めていった。絶命したのかどうか、判断しかねているようだった。男の頭からは離れた帽子が背後の自動ドアに引っかかっていた。自動ドアは機械的な開閉を続けていた。不意に男がむっくりと上半身を起こした。白いワイシャツが赤く染まっていた。警官たちはぎょっとして後ずさった。銃を持つ手が震えていた。
 男の目は鈴に向けられていた。鈴もまた、男を凝視していた。男はジャケットの内ポケットに手をさしこんだ。弱々しく緩慢な動作だった。そして、おそらくはやっとの思いで手を抜いた。再び銃声がした。男のこめかみに穴が開いた。男の手には何もなく、指と手のひらが拳銃のふりをしているだけだった。その銃口は鈴に向けられていた。男の口がかすかに動いた。笑みを浮かべていた。男はそのまま後ろへ倒れた。


 警察署を出る頃にはすでに日が暮れてしまっていた。鈴は真っ先に周囲を見渡したが、恭介や真人はおろか、理樹の姿もなかった。薄情者めと鈴は思った。
 喫茶店での強盗事件にも遭遇していた鈴は聞かれることが恭介や真人よりもはるかに多かった。それは理樹も同じだったが、鈴と違い、質問と回答の流れが滞ることはなかった。鈴はいちいちしどろもどろになっていたから、聴取には長い時間がかかった。
 路上に転がっていた空き缶を蹴っ飛ばした。空き缶は電柱にぶつかり、くるくると回転した。田中には選挙のポスターが貼ってあったが、黒いマジックでメガネと鼻毛と髭が書き加えられていた。
 鈴は携帯電話を取り出し、「迎えに来い」という文面のメールを理樹へ送信した。送信完了の文字が液晶画面に表示されると何故だかほっとした。迎えに来いと言いながらも、鈴は寮への道を進んでいた。じっとしていられなかった。公園の前を通りかかった。
 道路を挟んで向かいに商店があった。すでに店は閉められているが、自動販売機がいくつか設置されていた。そこでジュースを買っていた男がプルタブを開けながら振り返った。
 鈴は構わずに先を急ごうとしたが、男は「あ!」と声を上げた。鈴は反射的に後ろを向いた。男が鈴の顔を覗きこんでいた。
「お前、こないだのファミレスの」
「……?」
 聞き覚えのある声ではなかった。鈴が「何言ってんだ、お前」と返すと、男は公園へ向かって声を張り上げた。鈴はその声に釣られて公園を見やった。入口のところに設置されている車両止めの柵に同年代くらいの男が二人座っていた。
 そのときやっと、彼らが先日ファミレスで恭介たちにからかわれた学生たちであることに気づいた。鈴は逃げ出そうとしたが、すぐに囲まれてしまった。
「ふざけやがって、あいつら。お前、知り合いだろ」
 彼らは鈴ではなく、恭介たちに用があるみたいだった。しかし鈴は首を振った。
「知らない」
「嘘つけ!」
 一人が大声を出した。身がすくみそうになったが、視線を逸らすことはなかった。
 いつの間にか一人増えていた。鈴は四人に取り囲まれていた。ちかちかと点滅している街灯の光は心許なく、彼らの顔はほとんどわからなかった。
 ふいに脳裏をよぎったのは銀行の前で射殺されたあの男だった。鈴はあの男の真似をして、ポケットに手を入れた。上着の内ポケットではなく、スカートのポケットだった。学生たちは鈴の行動を嘲笑うかのように眺めていた。
 立てた親指が撃鉄だった。か細い人差し指は前方に向けられていた。曲げられた中指と薬指と小指がグリップ代わりだった。右手を真っ直ぐに伸ばし、ひとりの少年へと銃口を向けた。鈴は「バン」と口にした。少しだけ伸ばした爪に電気が走ったような気がした。
「こいつ馬鹿かよ」
 と背後から声が掛かるのとほぼ同じタイミングで、鈴の前に立っていた少年がばたんとうつ伏せに倒れた。帽子の男に撃たれた警官が路上に倒れたときとよく似ていた。
「おい、どうした」
 残された三人は倒れたままぴくりともしない一人に声をかけた。しかし反応はまったくなかった。一人がしゃがみ込んだが、すぐに「うわっ」と叫んで尻餅をついた。そのまま数歩後ずさり、よろめきながら立ち上がって、すぐに逃げ出してしまった。
「おい、待てよ!」
 逃げて行く後ろ姿を怒鳴りつけながら、倒れている少年を見下ろしてぎょっとした。口元に血が見えた。鮮血だった。アスファルトと確かに赤く染めていた。深い色だった。残った二人は顔を見合わせ、鈴に向かって舌打ちをしてから、無言のまま駈け出していった。
 彼らの姿が見えなくなってから、鈴は倒れた少年に近寄った。少年を見下ろし、「何やってんだ、理樹」と声をかけた。少年はぱっと瞳を開けた。鈴と目を合わせ、にっと笑った。
「いや、迎えに来たんだよ。そしたら、なんかこう、流れで」
「その血……」
「唇と口の中切ったみたい。転んだ拍子に。痛くないけど、変な味」
 理樹はペッと唾を吐いた。真っ赤な血が白線に落ちた。鈴は理樹の手を引いて、公園の水飲み場へ連れていった。
「何してんだろって思ったんだけど、でもすぐわかったよ、鈴」
 口をゆすぎながら、理樹は撃たれた人間のふりをした。鈴は何も言わずに恥ずかしそうに顔を背けた。
 血はなかなか止まらなかった。いくらうがいをしても、赤いものが混ざってしまう。鈴はその場にしゃがみ込んでそっぽを向いていたが、理樹が「なんか、びりびりしてきた」と呟くと、そちらへ顔を向けた。
 立ち上がって、理樹に近寄った。口をもごもご動かしている理樹の肩を片手で押さえ、もう一方の手で口をこじ開けた。「何すんの、鈴」と言おうとするが、口が変に開いているからまともな発音ができなかった。
 鈴は理樹の口内を覗き込んだ。ちょうど右頬の裏側あたりに大きな傷があって、出血が続いていた。鈴は自分の唇を理樹に押し当て、舌を入れた。傷口へ舌を伸ばし、血液を舐めとった。それを何度か繰り返した。
 ようやく身体が離れたとき、理樹は目を見開いたまま訊ねた。
「鈴、いきなり何すんの?」
 鈴は理樹の顔をじっと見ていた。しばらく経ってから、一言「知るか」とだけ答えた。そのまま走って公園を出て行った。理樹は蛇口をひねり、出しっ放しになっていた水を止めた。それから人差し指で口の中の傷に触れた。指先には血と唾液が付着した。地面に唾を吐いた。相変わらず血が混ざっていた。


 休日の昼下がりだった。夏の暑さを避けるようにして、四人は冷房のきいた喫茶店へ逃げ込んでいた。空になったグラスの中で氷が溶けかかっていた。理樹はからんと音を立てて、グラスの底へ落下する氷を見つめていた。
「謙吾の野郎、このクソ暑いのに部活部活で、倒れちまえばいいのに」
「そんなこと言って、真っ先に心配するくせに」
「そんなことはねえよ。いや、そんなことはねえよ」
「今なんで二回言ったの?」
「暑苦しいから不毛なやりとり禁止」
 恭介が冷静に言い放ったときだった。カウンターの方から悲鳴が聞こえた。そのときちょうど鈴は席を外していた。手洗いに行っているところだった。三人にはそれが鈴の悲鳴のように聞こえた。しかし彼女の姿は店内にはなかった。
 カウンターの前には野球帽をかぶった中年の男が立っていた。手には刺身包丁があった。「おい」と真人が恭介を伺った。「ステイステイ。とりあえずステイな」と恭介は小声で答えた。
 男は包丁をカウンターに置いて、現金を促しているようだった。そこに用を足したばかりの鈴がトイレから出てきた。店内を見渡し、その重苦しい空気を察しながらも、まったく気にせずに席へ戻ろうとしていた。男は札束を奪うことに夢中で彼女の存在に気づいていなかった。
 鈴が男の背後を通り過ぎようとしたとき、男はようやく気がついたようだった。「ちょっと待てお前」と包丁を手に取って、刃先を鈴へ向けた。鈴は立ち止まって、男を見据えた。
「何やってんだお前」
「お前こそなんだ、馬鹿」
「あ?」
 冷たく言い放たれた言葉に男は一瞬躊躇した。その瞬間を鈴は見逃さなかった。男の手を蹴り上げて、包丁を落とした。「痛い!」と間抜けな声を上げた男の股間を続けざまに蹴り飛ばし、思い出したように恭介たちのいるテーブルを一瞥した。その顔には笑みが浮かんでいた。一方、男はその場にうずくまって重々しいうめき声を上げた。
鈴は彼らがいるテーブルではなく、店の出入り口へ向かった。背後から「待てお前」と声がかかった。立ち止まって振り返り、そばのテーブルに置かれていた誰かのホットラテをカップごと男に投げつけた。くるりと反転して店を出て行った。「熱い!」という叫び声が聞こえたが、今度は振り返らなかった。
「……鈴がグレた」
 一部始終を呆然と見ていた恭介が呟いた。


 店を出た鈴は歩道を歩いていた。サイレンが聞こえ始め、やがて前方からパトカーが二台近づいてくるのが見えた。あの喫茶店へ向かっているようだった。鈴は振り返りもせずに歩いていたが、すぐに早歩きになり、やがて小走りになった。二ブロックほど進む頃には走り始めていた。道行く人々の間をぬうようにして走り、ストライドはどんどん大きくなっていった。全力疾走になる前に時間はかからなかった。
 不思議と息は切れなかった。両手両足を大きく動かしていた。走行のリズムが心地良かった。しかしそれも長くは続かず、歩道の段差に躓いてしまい、転んでしまいそうになる。ガードレールに手を伸ばし、態勢を崩すまいと踏ん張った。ガードレール沿いに停めてあった自転車にしがみついたものの、結局転んでしまった。
 膝や手のひらをすりむいていたが、すぐに立ち上がった。捨てられていた自転車には名前も登録番号もなかった。鍵もかかっていなかった。鈴はそれに跨り、立ったままペダルを漕ぎ始めた。わずかにあった勾配のおかげですぐにスピードが出て、全身を風がすり抜けていった。
 駅前から住宅街へと風景は変わっていた。人通りも車通りもほとんどない路上を目的もなく走り抜けた。風に乗っているようだった。鈴は立ち漕ぎを続けていたが、息切れを感じたのをきっかけにサドルへ腰を下ろした。その瞬間、目の前を猫が横切った。見覚えのある黒猫だった。
 「カリギュラ!」と叫ぼうとしたが、声はまったく出なかった。鈴はハンドルを切り、バランスを崩して転倒した。彼女の身体は自転車を離れ、ひび割れの目立つコンクリートの上へ投げ出されるはずだった。しかし運良く、ゴミ捨て場のゴミ袋の山に突っ込むだけで助かった。打撲による痛みはあったが、大きな怪我はないようだった。ただ汚く、臭かった。
 カリギュラはのっそりと鈴の前に現れた。鈴はごみ袋の山に横たわったまま、「おいで」とカリギュラへ手を伸ばした。カリギュラは鈴の顔をしげしげと眺め、ぷいと横を向いて歩き始めた。鈴は手を伸ばしたままの姿勢で静止した。時間が止まったようだった。やがて不貞腐れたように「勝手にしろ!」と吐き捨てた。
 その声にカリギュラは一度振り返ったが、すぐに歩きだして曲がり角の向こうへ姿を消した。尻尾の先っぽが見えなくなるまで、鈴は彼を見送っていた。
 ずっと前方に目をやっていたが、やがて地面に線が引いてあるのがわかった。チョークによる白線のようだった。すっかり薄くなってしまっているが、辛うじて落書きを読むことができた。『こっきょう』と書かれていた。白線はその文字を貫くようにしてずいぶん先まで伸びていた。鈴は「国境」と呟いて、身体をごみ袋の山へ倒した。
 ふとカーブミラーが目に入り、自分のすぐ傍にも白線があることに気づいた。もう一本と同じように、どこまでも続いているように見えた。鈴は足を伸ばして、ごみ袋を蹴っ飛ばした。白いビニールの袋が路上を転がった。ごみ袋が元あった場所には似たような筆跡で文字が書かれていた。『さいぜんせん』。
 鈴はそれを見下ろして、静かに読み上げた。
「最前線」
 風が吹いた。髪の毛先がかすかに揺れた。


(了)


[No.64] 2009/04/18(Sat) 00:00:50
[削除] (No.57への返信 / 1階層) -

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[No.65] 2009/04/18(Sat) 00:05:34
甘美なる世界、その断片 (No.57への返信 / 1階層) - ひみつ@6760 byte ごめんなさい

 例のアレでアレした結果、私の妹の三枝葉留佳は死んだ。ついでにクラス丸ごと+αが死んだ。二人を除いて。
 お葬式は、合同の形で行われた。なんというか、あまりに唐突だったので防災訓練みたいな感覚で参列してしまった。反省。
 額縁に入れられた写真がずらーっと並んでいた。泣いてる人の中で、私はぼんやりと妹の遺影を眺めていた。そもそも三枝葉留佳は違うクラスの人間だったはずなのだが、なんでか事故に巻き込まれて見事に死んで見せてくれた。あまりの幸の薄さに脱帽。
 写真の三枝葉留佳は、私が遠くからしか見たことの無い笑顔をしていた。やたらと弾けた感じ。私の近くでは、苦笑い、とか、愛想笑い、とか、そんな感じ。ちょいブルー入ってしまう。
 葉留佳の写真の前には、私以外立っていない。友達の少なさに笑いそうになる。不謹慎なので耐える。耐え切れずこぼれ出る笑い声を無理矢理手とかでおさえる。プルプル震える。やべー、マジ葉留佳さんっパねぇっす。
 そんなギリギリ限界LOVERSの私の肩にそっと誰かが手を置いた。やばい、マジ怒られるっしょ。不謹慎だとか怒鳴られる。ちょ、逃げないとやばいよ。とか考えてたら、女の子の声で、「大丈夫?」と聞こえたので一先ず安心した。とりあえず、びっくりしたおかげで逆に落ち着いた私は、ゆっくり振り向いたら声掛けたの直枝理樹で、ちょ、素で女の子と間違えた! とか再びツボに嵌って笑いそうになるのを堪えた結果、物凄い不細工な顔になったくさいから、走って逃げた。
 それから、結婚するとかどうとか家の事情があんまりにめんどくさいことになったから家出することにした。何事にも金が必要なので家から結構な額をパクった。折角なのでウェディングドレスもパクって質に入れた。
 とりあえず、遠くに行かないと話にならないので、電車でたぶん五百キロ程離れた土地に行った。追手とかマジちょろい。ネカフェ難民しながら、今まで出来なかったことをしようと考えていた私は、手始めに買い物をしまくった。服とか、まあ色々。すごい楽しくて、すごい勢いで金使ってたら大分なくなっててウケた。身分証明も無いし、普通のバイトとか出来ないなぁ、と考えてたらパチンコ屋が目に入ったので、ここで稼いでみようと入ってみたら、金の減り方が凄まじいことになってウケた。
 昼パチンコ屋、夜ネカフェ、の生活を繰り返すこと数日。金尽きかける。ここで、私の運を試す! と勝負を賭けた結果、金尽きる。流石の私も若干凹む。しょうがないのでパチ屋の休憩室で物思いに耽ることにした。
 お家に帰ってみようと思ったけど、帰る金が無いし、お金借りるにも身分証明いるし。ヒッチハイクとかしてみようかしら。そんなことを考えていたら、気持ちの悪い顔したデブ男がハアハア言いながら近くに来た。キモっとか思ってると、キモデブが話しかけてきて臭っとか思った。話の内容は三万円でおっぱい揉ましてということだった。ビンタした。でも三万円は貰った。そして、すぐにパチンコで無くなった。また休憩所で物思いに耽ることにした。
 さっきのお金で家帰れば良かった。再びちょいブルー入っていると、さっきのキモデブがまた来た。先にビンタした。おっぱいは揉まれた。三万は貰った。よーし家に帰ろうと思った。
 そして、家に帰った。追い出された。何故だ。
 近所の公園でブランコを漕ぎながら物思いに耽ることにした。物思いに耽るとお金が貰えるの法則を信じて、人目に付きやすい公園のブランコを選んだ。結果、夜になってました。それでも漕ぎ続けること通算八時間。諦めた。
 もう一度家に行ってみた。色んなものを渡されて結局追い出された。何故だ。
 もう物思いに耽ってもどうしようもないことは分かったので、住み込みバイト出来るところを近所のファーストフード店で飯を食いながら探すこと二十分。結構あった。まず、給料のいいパチンコ屋でバイトすることにした。履歴書さらさら、証明写真パシャリでペタリ。電話で応募。軽く面接。その場で合格。屋根付き寝床確保。今日から住んでOKということで、早速部屋を見てみると、豚小屋と間違えたかと思うようなモッサリ感だったけど、家具やらなんやら付いていたのでそこは我慢。久しぶりに布団で寝た。グッスリング睡眠だった。
 次の日から早速バイトが始まった。結構なヘビーさだった。でも、バイトの人たちは優しく教えてくれたので、なんとかやっていけた。男共は完全に私に惚れてるなと感じていた。そんなこんなで、うまーいことやっていった。
 数か月経ちバイトにも慣れ、色々とまあ充実した生活を出来るようになってきたある日、なんと直枝理樹が来店した。ばれない様にコソコソと動いていたが、運悪く見事に彼の交換を私が受け持つことになっていしまった。Ohジーザス。下を向いて近づき、フガっとか言って箱を持った瞬間、「あれ、二木さんじゃん。超奇遇」とか声を掛けられてしまった。交換しながら喋ってみると意外に面白い男で、もうすぐバイトも上がる時間だったので、成り行きで飲みに行くことになった。
 飲み屋に入って、とりあえず生中二つ頼み乾杯。ぷはぁ、一気飲み。
 最近どうよ。ぼちぼち。そっちは? ぼちぼち。
 他愛ないことを喋り、飲み、食べ、飲み。
「二木さんさあ」
「なに?」
「葬式の時、すごい顔で泣いてたよね」
「いや、別に」
 寧ろ、笑ってましたが何か?
「強がりはよせよ!」
「え、何キャラ?」
「泣いちゃう気持ちとか、僕めっちゃ分かるから。マジすげーから」
「はあ」
「二木さんには、あの時から、なんだか僕と一緒だな、って感じる所あったんだよね」
「私は一つも無い」
「佳奈多を見てるとさ」
 なんで唐突に呼び捨てだよ。
「葉留佳のことを思い出しちゃうんだ」
 お前誰だよ。
「僕は葉留佳のことが好きだったんだ」
「そう」
「佳奈多には葉留佳の面影があるよね」
「まあ、お姉ちゃんだから」
「え、マジで?」
「イエスアイアム」
「じゃあ、葉留佳を失った悲しみは同じ感じだね!」
「いや、全然悲しみとか自分感じて無いんで」
「強がりはよせよ!」
 だから、お前誰だよ
「葉留佳って呼んでいい?」
「意味が分からない」
「葉留佳好きだ!」
「佳奈多なんで、超困る」
「葉留佳ぁ! 愛してるぅ!」
「あんた棗鈴と付き合ってるんじゃないの?」
「鈴なんか所詮オナホールみたいなもんさ!」
「鬼畜な男らしさにキュンときた!」
「葉留佳ぁ! 超愛してるぅ!」
「キュンときた!」
 そして、私は直枝理樹と寝た。






***







 ズバっ!
 いい音がした。ノートを引き裂くと、意外にも気持の良い音がでることが分かった。
 学校にて葉留佳が突然、「やばい超やばい超ノート忘れた!」とか叫びだしたので、妹思いの姉である私は、「お姉ちゃんが取って来てあげるね!」と素直には言えずに「まったくあんたは抜けてるわね。まあ、ちょうど寮に一度向かう予定があるからついでに取って来てあげてもいいわよ」と若干捻くれた感じではあるが、今まで虐めてきてしまった妹の為に出来ることを買って出てみた結果がこれよ!
 なにこのノート! 憎しみノートとか書いてあって、ちょいブルー入るじゃない! 二木佳奈多覚醒編とかあるじゃない! 覚醒剤編ってこと! 覚醒って漢字で書けるなんて葉留佳超頭いいじゃない!
「超やばい! お姉ちゃん、こっちの引き出しのノートは見ちゃダメ、って超見てる! 超やばい!」
「葉留佳」
 妹の名前を呼ぶ。顔はこれまでの人生で一番の笑顔になっていると思う。
「え、なに? 意外と上機嫌? チャンス? はるちんチャンス?」
「葉留佳にこんな才能があったなんてね」
「いやー、照れますねー、やははー。文豪三枝葉留佳、みたいな?」
「こんなに、こんなに人を怒らせることが出来るなんてね、そうはいないわ」
「へ?」
「人って、怒り過ぎると笑顔になるのね。知らなかった」
「は、はわわわ」
「覚悟、出来てる?」
「だって、この時はお姉ちゃんが酷いことばかりするから、ね? 入院中暇だったから、つい、ね? 溢れ出る憎しみをシャープペンシルに乗せて、ね? うん、お、怒っちゃやーよ」
「葉留佳!」
「ひえー!」
 その後、三枝葉留佳の姿を見たものはいないこともない。


[No.66] 2009/04/18(Sat) 00:10:00
しめきりる (No.57への返信 / 1階層) - 主催

アイシールド21の掲載順位がずっと最後の方で悲しかったけど今週真ん中ぐらいに戻ってきて嬉しかった

[No.67] 2009/04/18(Sat) 00:26:33
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