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   第50回リトバス草SS大会 - 大谷(主催代理) - 2010/02/03(Wed) 17:40:00 [No.649]
しめきり - 大谷(主催代理) - 2010/02/06(Sat) 01:03:59 [No.657]
夏の約束 - ひみつ@13782 byte - 2010/02/06(Sat) 00:27:43 [No.656]
start, Restart. - 謎@13962 byte - 2010/02/05(Fri) 23:58:00 [No.655]
それさえあれば - ひみつ@15407byte - 2010/02/05(Fri) 23:54:21 [No.654]
外側の、ある日 - ひみつ@4655 byte - 2010/02/05(Fri) 23:29:06 [No.653]
僕たちの日々 - ひみつ@14883byte - 2010/02/05(Fri) 20:57:43 [No.652]



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第50回リトバス草SS大会 (親記事) - 大谷(主催代理)

 詳細はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/rule.html
 この記事に返信する形で作品を投稿してください。

 お題は「望郷」です。

 締め切りは2月5日金曜24時。
 締め切り後の作品はMVP対象外となりますのでご注意を。

 感想会は2月6日土曜22時開始予定。
 会場はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/chat.html
 はじめにMVP投票(最大3作まで投票可能)を行いますので、是非是非みなさまご参加くださいませ。
 ご新規、読みオンリー、感想オンリー、投票オンリー、大歓迎でございます。


[No.649] 2010/02/03(Wed) 17:40:00
僕たちの日々 (No.649への返信 / 1階層) - ひみつ@14883byte

「なあ、そろそろおっぱいについて本気出して考えてみないか?」
 
 恭介の声を無視して、理樹は開け放たれた窓の向こうに視線を泳がせた。外は部屋に閉じこもっていることが悔やまれるほどの快晴。そよぐ風が緑色のカーテンを揺らし、爽やかな空気を運んでくる。床に寝そべって「萌えよ剣」を読んでいた謙吾は、何も言わずに立ち上がり、窓を堅く閉ざしてカーテンを引いた。
「恭介」
「おう」
「おう、じゃないよ。言葉には気をつけてって口を酸っぱくしていつも言ってるじゃない。こんなご時世、誰がどこで聞き耳立ててるかわかんないんだから」
「す、すまん」
「で? 何の話だっけ」
「い、いやだから、暇だからおっぱいについて真剣に語り合わないか、と思ってな」
「おっぱい」
 瞳を閉じ、謙吾はぽつりと小さく呟いた。腰あたりに構えられた手は何かを揉みしだくように、わきわきと妖しく蠢いている。
「暇だから、などという軽薄極まりない理由で議題とするのは誠に遺憾だが、異存はない」
「そもそも」
 さぁ始めようすぐ語り合おうと鼻息もあらい謙吾のたぎりに待ったをかけたのは理樹だった。
「そもそも論で申し訳ないんだけどさ、どうして『おっぱい』なの?」
「どうして、って」
「別に尻や太股でもいいじゃない」
「理樹、お前実は乳よりもそっちの方が」
「僕はおっぱい星人だよ、恭介」
 口元をわずかに歪ませた。言葉は確かに自嘲の響きをはらんでいる。
「だからこそ、おっぱいについてのみ語ることの愚を、僕は十分に理解しているつもりさ。おっぱいは確かに美しい。だけど、仮にあの双峰それのみがそこに転がっていたとしたら、どう? もはやそれは単なる脂肪の塊に過ぎないでしょ?」
 異論を差し挟める者は誰一人としていなかった。一人孤高を保ち筋トレをやめなかった真人までが、姿勢を正して理樹の言葉に耳を傾けている。
「人はおっぱいのみに生くるにあらず。おっぱいを見ておっぱいを見ず。おっぱいについて語るということは、その人という存在そのものについて語る、ということと同義だと思うんだ」
「だが……、無論おっぱいが豊かであればいい、という者がいても構わんのだろう?」
 爆乳原理主義者・謙吾。
「勿論。人の立場や信条を左右しようとまでは思ってないよ。意見の相違は尊重されるべきさ」
「俺は別に筋肉があればなんでもいいんだけどよ」
 マッスルリベラリスト・真人。
「俺はむしろないほうが」
「そうだよね恭介はそうだよね」
「なんだよその棒読みは」
 ロリロリハンターズ・恭介(21)。
「――じゃあ、始めようか」
 神妙な面もちで、これから始まる大激論に心を躍らせながら。
 長い一日の始まりを告げた。


    (・)(・)


「まず、いきなりで申し訳ないんだが、来ヶ谷のおっぱいはナシだろ」
 口火を切ったのは恭介だった。これだけは言わずにはいられないといった様子で、言葉に迷いが感じられない。ぴくん、と謙吾の眉が上がる。
「なぜだ、恭介」
「だって、どう考えてもでかすぎるだろ。しかも、でかいことをいいことにおっぱいアピール強すぎるし」
「世間にはもっと豊かな胸部を持つ女性は山といるだろう。その中にはいわゆる、『崩れて』しまっている者も遺憾ながら存在している。そういう者のことを考えると、来ヶ谷のは十分《ビューティフル・おっぱい》の称号を与えるに足るものだと俺は思うが」
「うーん……理樹、お前はどう思う?」
 そうだね、と理樹は眉間に指を当てて黙考する。
「恭介は、なんていうか流石恭介だなあという感じだけど、謙吾の意見にも一理あると思うよ。確かに来ヶ谷さんのおっぱいは大きい。でも、大きすぎるというほどでもないのは、昨今のグラビアアイドルのおっぱいを見てもらえば明らかだと思うし。アピールが強いのは、来ヶ谷さんのキャラ的にしょうがない部分もあるんじゃない?」
「で、でも! あのでかさは将来絶対垂れるぜ!」
 ちゅんちゅん、と窓の外で雀が鳴いている。空はあくまで青くどこまでも澄み渡っている。
 沈黙が空間を支配していた。答えられず、謙吾は唇を噛み締めた。理樹は俯いたまま動かない。恭介の叫びに答えられる者はいないかと思われた。
 ゆらりと手を上げたのは真人だった。
「でもよ、あいつはかなり筋肉あるし、ある程度は大丈夫なんじゃねぇか?」
 がばっと謙吾が顔を上げた。起死回生。瞳に一筋の光明が宿る。理樹は震える声で「それは確かなの、真人」とだけ口にした。
「おう、筋肉のことなら俺に間違いはねぇ」
 謙吾は有らん限りの力で友を抱いた。「なんだよおい」と真人はどこ吹く風。
「しばらく……このままでいさせてくれ……」
 宮沢謙吾はいつだってガチだ。


「ま、まぁ来ヶ谷さんのおっぱいについての評価は保留ということにしといてさ、他の人についてはどう?」
 うーん、と考え込むおっぱいバスターズの面々。やはり、おっぱい魔神・来ヶ谷の次だ。誰もが軽々に名前を出せずにいた。
「くっくっく」
 突然不気味な声で笑い出したのは、この会議の発案者である恭介。どうしたの恭介ついに脳味噌までおっぱいになったの、と理樹は危うく口から出そうになったが、わずかに残った社会性がその暴挙を止めた。
「やはり最強に勝ち得るのは、最弱だろ」
 笑いは止まらない。謙吾の表情が見る間に険しくなっていく。
「持たざる者は、その持たざるが故に王を討つ。いつだって革命を起こすのは歴史の弱者なんだぜ?」
「クド……だね?」
 ご明察。
 グッド、と指でピストルの形を作り、見えない弾丸で理樹の眉間を打ち抜いた。
「さっき理樹も言ってたけど、おっぱいを評することは、その人に対する全人的評価になり得る。そういう意味で能美のおっぱいは神の御技と言うべき物であることは疑いないと俺は思う。日本人離れしたきめ細かい白桃の肌に薄桃色のチクービが二輪慎ましやかに咲いている――その様を脳裏に思い描いてみるがいい! 全く無駄のない薄い胸と、能美の持つイノセンスとが相俟って、一種異様な妖艶さを醸し出しているだろう? あれこそおっぱいの至高、ヒトという種が辿り着くべき極限――」
「異議あり」
 憤懣やる方ない、といった様子で謙吾が立ち上がる。どうどう、と理樹は猛る謙吾を必死で抑える。
「相変わらずお前の言葉は茶番でしかないな、恭介。お前の言葉には重大な瑕疵がある」
「聞いてやる。言ってみろ、ロマンチック改めおっぱい大統領」
 恭介の挑発を物ともせず、謙吾は勝ち誇って人差し指を恭介の鼻先に突き付ける。
「あれは、断じておっぱいなどと呼べる代物ではない。あれはな、世間一般では――洗濯板と言うんだ、恭介」
「なんだと?」
「能美の胸部には、おっぱいと呼ぶための重大な要素が欠けている。柔らかみだ。胸部にある脂肪分が織り成す女性特有の柔らかみ。二次性徴を迎え、身体が女性としての役割を自覚し出すその瞬間を抽出しロリと賞賛することは可能だろう。だが、男の胸板をおっぱいと呼べないように、チクービがあるだけではおっぱいとは呼べん。呼べんのだ、恭介!」
「――なるほど、ね」
 静観を決め込んでいた理樹の一言。
「確かに、クドの胸部はえぐれてる。どんなに言い繕おうとも、これは厳然たる事実だ。認めざるを得ない……でもね、謙吾。本当に、満たしていなければならない決定的な要素はそれじゃない。本当ならわざわざ言う必要もないことだけど、あえて言うよ……クドは――『女性』なんだよ」
 ハッとして謙吾は顔を上げた。みるみる表情から色が消えていく。
「おっぱいがおっぱいであるために、必要なのは柔らかみでも、大きさでも、ハリでもツヤでもない。『女性の胸部であること』ただそれだけなんだ。秘匿されし花園、アルカディア――それが例え十歳でも、八十歳でも。僕らが希求するのは、そんなありふれた幸せなんだ……そこがブレてしまったら、もう何が何やらわからない――」
 謙吾はがっくりと膝をつき、首を垂れた。かすかな嗚咽が部屋に小さく響く。
「俺は……間違っていたのか……」
 誰もすすり泣く謙吾を茶化すことはなかった。誰もが嵌る落とし穴。世の中の道理を知っている者は、落ちた愚か者をけして笑わない。その痛みを誰よりも深く知っているからだ。
「もう、いい……もういいんだ、謙吾」
 手を差し伸べたのは、恭介だった。
「恭介、お前――」
「間違えたら直せばいい、ただそれだけのことだ、謙吾。誰かが間違えたら誰かが教えてやり、あとはみんなで笑い飛ばせばいい……俺たちはそのためにいるんじゃないか。俺たち――リトルバスターズ、だろ?」
 頬に流れる涙を拭い、差し伸べられた手を掴んだ。確かなぬくもり。俺たちは確かにイマを生きている、そんな当たり前のことを木訥と教えてくれる温かさだ。また一つ友情が育まれた瞬間。よく見ると恭介の瞳も心なしか潤んでいる。
「……ところでよ、結局クド公のおっぱいはアリなのかナシなのかどっちなんだ?」
「俺はナシ」
「洋ロリの魅力は感じられるけど」
「お前ら何にもワカっちゃいねぇんだよ!!」
 リトルバスターズが誇る、ロリコン・シスコン・ショタコン三重殺《トリプルプレイ》棗恭介は吠える。


「じゃあさ、トップとボトムの確認が終わったところで、メンバーを大きさ順に並べてみようよ」
「メンバーって、リトルバスターズのか?」
「そう。僕がざっと考えてみたのはこんな感じだね」
 理樹は一枚の紙を皆の前に差し出した。
 いつの間に書いたのか、A4のチラシの裏に、表が作成されていた。書いた人間の几帳面さ、知能の高さが伺える流麗な文字であったが、慌てて書いたせいか少しバランスが崩れていた。


  巨乳      来ヶ谷唯湖

  美乳      朱鷺戸沙耶
          神北小毬

  並乳      笹瀬川佐々美
          三枝葉留佳
          棗鈴
          二木佳奈多

  貧乳      西園美魚
          西園美鳥

  板(えぐれ)乳  能美クドリャフカ

  謎乳      古式みゆき


「質問は受け付けるよ」
 理樹はぐるりと皆の顔を見回した。真人を除いた変態二人は、理樹のしたためた表を食い破らんばかりに凝視している。
「じゃあ理樹。一ついいか?」表から目を離さずに手を上げた謙吾。
「どうぞ」
「二、三、知らない名前があるのはとりあえず置いておくとして……それにしても、このカテゴライズは些か恣意的に過ぎるのではないか?」
「どういうところが?」
「まず、項目名だ。巨乳や貧乳なんかは服の上から判断できるからまあアリだとするとしてもだ、この『美乳』という区分けは、俺個人としては承服しかねる」
「ふっ、はっ、別にいいじゃねぇか、はっ、そんくらいよぉっ、はっ」
 飽きたのか、いつの間にか筋トレを始めていた真人が口を挟んだ。「ダメだ」と謙吾はにべもない。
「恭介ならわかるだろう。どうしてこれを受け入れることが出来ないのか」
 水を向けられた恭介は少しだけ視線を逸らして「まあな」と、ぽりぽり頭を掻いた。
「一言で言っちまえば『証明出来ない』ってことに尽きるな。断じて俺の趣味ではないが、二木や三枝は確かにいい乳してる。それは俺も認めざるを得ない。だが美乳って、そんなに甘いものじゃないだろ? 彼女らが身に着けた衣服を一枚一枚丁寧に脱がせて、残った最後の一枚を取り去って中身を拝んだ時に初めて、そのおっぱいが美乳かどうかがわかるんだ。勝負は下駄を履くまでわからない。つまり、おっぱいはブラを剥ぐまでわからないってことだ。例え服の上からはいい乳に見えても、昨今の高性能ブラによる上げ底だったり、カルデラみたいな陥没だったり、よく見たらチクービから一本長い毛が生えてたりするもんなんだよ」
「――そして、それを俺達には確認する術がない」
 恭介のあとを引き継いで謙吾が言う。
「確認できるよ?」
 なんだと?
 二人の眼が鋭く光る。
「理樹、お前まさか」
「どこだそこは! ええい何をぐずぐずしている! 早くそこに俺を案内するんだ!」
 立ち上がる馬鹿二人。
「違う違う、別に覗きスポット知ってるわけじゃないし」
「何? じゃあ何だと言うんだ」
「僕、美乳計測器《おっぱいスカウター》持ってるから」
 理樹は立ち上がり、机の中をごそごそと漁る。どうなんだ、と恭介は真人に視線を送るが、真人はその意図に気付かず上機嫌でマッスルポージングを取るばかりだった。
「はい、これ」
「ただの色眼鏡じゃないか」
 3D上映の映画館で配られるような、割とごっついがちゃちな色眼鏡。いやエロ眼鏡。
「と、思うでしょう」
「違うのか?」
「これをかけて女の子を見ると、アラ不思議! その女の子のおっぱいがあられもない姿であなたの目の前に! サイズ表示のオプション付きのお値打ち価格はなんとプライスレス!」
 深夜の通販チックに。
「いくらなんでもそれは」
「嘘だと思う?」
「信じる方がおかしいだろう」
「だよね」
 まぁいいじゃない、と理樹はエロ眼鏡もといおっぱいスカウターをベッドに放った。
「まぁ、美乳の件は保留としようよ。見た感じ形はナイスだし、多分みんなそれなりに綺麗だよ」
 うーむ、とまだ謙吾は唸っている。恭介はなぜか額に汗をかいていた。
「まぁそれに美乳以外に上手い表現が見当たらなかったというのもあるんだ。巨乳とするには何か違う気がするし」
「ちょっとまてこの謎乳ってなんだ」
 理樹に噛み付く謙吾。
「古式さん? ちょっと僕のおっぱいスカウターでは計測不能だったから」
「見た感じ二木くらいじゃないか?」
「なんとも言えないなぁ、着やせする人っているし」
「この馬鹿どもがあああぁぁぁぁ―――――っ!!」
 凄まじいSEと共に謙吾が爆発した。チラシを置いていたみかん箱があられもなく吹っ飛び、腕立て伏せをしていた真人の頭にすっぽり収まった。ナイスオン。
「古式の乳を! そんじょそこらの乳と一緒にするなぁ―――――っ!!」
「な、なんで!? どうしたのいきなり!?」
「古式の乳はなぁ、天下を取る乳なんだよおおおぉぉぉ――――っ!!」
「待て待て、落ち着け謙吾! どうしたんだいきなり。さっきお前が言ってたばかりじゃないか。自分の目で確認するまでそのおっぱいの価値は測れないんだぜ」
「だから……!」
 口ごもる謙吾。何も言い返せず「……すまなかった。忘れてくれ」と言って座った。
「しかし、貧乳が多いな」
「そうだね、一応今回は並乳としておいたけど、本当のことを言うと並乳と貧乳のクラスはほとんど差がないと言ってもいいくらいなんだ」
「ちなみに理樹はこの中で誰がイチオシなんだ?」
 気付くと三人の視線が理樹に集中している。「ど、どうしたの皆」と声に少し動揺の色が混じる。
「いるんだろ一人くらい。球筋に出まくってるぜ?」
「いや、野球してないから」
「俺も聞きてえなぁ、理樹の好きな大胸筋がよ!」
「大胸筋言うな!」
「そうだな、ここらで理樹の意見を聞いておくのも悪くない」
 逃げられない。
 逃がさないという圧力を一身に受け、理樹は偽ること、かわすことを諦めた。深呼吸を一つ入れる。新鮮な空気を吸い込んで、よし、と自分の中に気合を入れる。
「そうだね……一人だけ選ぶとしたら、やっぱり小毬さんかな」
「どうしてだ」
 理樹は遠い目をして窓の外を見た。
 四角い窓枠に切り取られた青空に、小さく縮れた白い雲がゆっくりと流れていく。青いキャンバスに流し込まれた絵の具のよう。その空の向こうに、理樹は思いを馳せている。
「小毬さんのおっぱいはね、故郷なんだ。僕にとっての――いや、皆にとってのかもしれないな。ふんわりとした雰囲気から滲み出る隠し切れない母性。大きすぎず、小さすぎず、乳首を口に含めばふんわりと甘く――ような気がする――その胸に抱かれた物はすべからく帰るべき場所を見出すことが出来る――僕らにとっていつか帰るべき故郷なんだよ、小毬さんのおっぱいは」
 瞳を閉じた。
 そして思い浮かべる。
 それぞれの帰るべき場所を。
 胸の奥から流れ出す懐かしいメロディ。
 日々を生き抜き、疲れ果てた心を癒す魂の歌。
 それは、いつでも俺達の近くにあるんだ――



    (・)(・)



「――とりあえず、ここまでです」
 白い手がPCのマウスを優雅に操ると、流れていた音が途切れた。
 誰も一言も発さなかった。誰もがショックを隠しきれずにいた。
「偶然直枝さんの部屋の前を通りかかったら何やら声がしていたので、これまた偶然持っていたICレコーダーにしっかりと納めさせてもらいました。そして、これまた偶然持っていた田○まさし愛用の鏡で直枝さんが書いたチラシの内容もばっちり」
 しれっと言うのは、西園美魚。
 絶対嘘だ。
 この場に集まったリトバスメンバー(女性陣)の誰もがそう思ったに違いない。偶然持っていたICレコーダーや鏡でこんなに鮮明に録音できるはずがない。こいつ、仕掛けてやがる。
「それで、これを聞いた上でどうしてやろうか、というのが今日集まってもらった本旨なのだが」
 薄い笑みを口元に浮かべて来ヶ谷唯湖は言った。よく見るとこめかみには小さく血管が浮き出ている。
 来ヶ谷の本気さを感じ取った面々はにわかにざわめきだす。怒り心頭といった顔から、困惑、小さな喜びを隠し切れない者までそれぞれ。
「り、鈴ちゃあん。ど、どどどどどうしよう」
 泣きそうな顔で鈴に助けを求めるのは癒し系ナンバーワンおっぱいを持つ神北小毬。
「そうだな、ここは鈴君に聞いてみるのもいいだろう――、どうだ鈴君? やつらをどうやって血祭りにあげてやろうか?」
「そうだな……」
 そう言って鈴はうーん、と考え込んだ。
 ごくり、と誰かが唾を飲み込む音がする。
 どのくらい時間が過ぎただろうか。
 こっちこっちと単調に時間を刻む壁掛け時計の短針がちょうど真上を指した時、そうだ、と鈴は膝を叩いた。
「何か思いついたのか」
「おう」
「よかったら言ってみてくれないか?」
 こくり、と頷く。
 にゃーと膝の上のテヅカが鳴く。
「あいつらに対抗して、こっちはあいつらのち○こについて語ってやるってのはどうだ?」

「「「「「「「「「「 そ れ だ 」」」」」」」」」」

 彼女らの夜はまだまだ更けそうもない。


[No.652] 2010/02/05(Fri) 20:57:43
外側の、ある日 (No.649への返信 / 1階層) - ひみつ@4655 byte

 あなたは定められた行為をなせ。
 (『バガヴァッド・ギーター』より)






 頭の芯が変にぼんやりしているな、と気付いたのは4限の講義が終わった時だった。
 続いて、ひどい寒気。
 イヤな予感がした。

 マントを抱き寄せながら、帰り際のスーパーでいつもより多めの食材を買い込む。
 卵、骨付き鶏肉、タマネギ、人参、じゃがいも、ブロッコリー。栄養補給。
 オレンジ、ミネラルウォーター、。水分補給。
 マスク。下着の替え。タオル。

 帰ってきてすぐに部屋を暖める。大急ぎで溜まっていた衣服を洗濯して乾燥して、その合間に簡単な作り置き料理を何食か作り終えた頃、さっきのイヤな感覚が本格的にやってきた。


「ごほ……」


 予習復習に書類整理、おじいさまへの手紙書き。今晩中にすることを全てほっぽり出してベッドに潜り込む。みすていく。ベッドの中を暖めるのを忘れていた。まだ冷たい。もぞもぞ動いて暖を取ろうとしても、寒気は一向に収まらなかった。熱を測ってみると、38度5分。


「わふ……風邪……ひいてしまいました……」




 外側の、ある日



 
 身体を震わせながら、風邪の旨を担当教官にメールする。
 
 留学してから初めてのことだった。これまで各国を回る中で、日本の寮生活で、風邪をひいたこともインフルエンザに罹ったこともあったけれど、1人で病気に向き合うことはこれが初めてだった。
 
 兆候に気付いてからの行動はそれなりに合格点だったと思う。買う物も買えたし、汗を沢山かくだろうから下着も量を揃えた。2日3日寝込んでも大丈夫なようにごはんも作り置いた。これだけやり終えるまで、私の体は保ってくれた。
 
 が、そもそも風邪をひいてしまうような普段の体調管理が問題なことを考えると、反省点は多々ある。風邪なんてのはひいた方が悪いのよ、なんて佳奈多さんがいたなら言いそうだ。

 
 佳奈多さん?


「佳奈多さん……?」


 ふと、虚空に向かって、か細くその名を囁いてみる。日本の寮生活で最も頼りにして、最も親しかったルームメイト。
 口に出してみて気付く。本当にたった今、佳奈多さんのことを、思い出したのだ。




☆ ☆ ☆ ☆ ☆
 


浮かない顔をしてるわね。もう、とうに腹は決まっているはずでしょう。



もちろん、決まっています。ちょっとだけ……心に身体がついてきてくれていないんです。



怯えているんでしょう。心に身体がついて行かず、身体に心がついて行かず、身体も心も。
無理もないと思うわ。それは仕方のないこと。



そうかもしれません。ですが佳奈多さん……



まぁ――これからしばらく会えなくなるから、メールや電話では決して言えないことを言うわ。
あなたは以前、この私に言ったわね。どんな世界の自分も、きっとコスモナーフトの方角へ進んでいると。



はい。



あなたはこうも言ったわね。もう御家族のことは関係がないのだと。あきらめてもあきらめても、最後には必ずコスモナーフトの方角の道に相対していたのだと。



はい。その通りです、佳奈多さん。



それならば。
いい? クドリャフカ、あなたはもう弓から放たれた矢なのよ。あなたが決めた以上、もうこの道から逃れることはできない。
あなたは、あなたに課せられた義務を果たすしかない。そうすることでしか、自らの運命を拓くことはかなわない。
「あなたは定められた行為をなせ」。それこそがクドリャフカ、貴方を解放するの。迷わず進みなさい。
私もこれから、そうして生きていくのだから。
――そうして、生きていけるのだから。

クドリャフカ。あなたも私も、なすべきことをなすしかない。そうすれば、会うべきときに、必ず相まみえるわ。

行ってらっしゃい。



ありがとうございます。

――行ってきます、佳奈多さん。




☆ ☆ ☆ ☆ ☆




 最後の、空港で交わした言葉。勇気をくれた言葉。
 
 気がつけば、あれからもう2年が経っていた。
 
 ベッド脇の机が断続的に振動する。
 携帯電話を開き、新着メールを確認する。先の返信が早くもやってきていた。
 
 いつからだろう。送信履歴にも受信履歴にも日本語が見あたらなくなったのは。
 電話帳の中は、アメリカで出来た友達、先輩、後輩、恩師の名で溢れていた。国籍は様々だが、メルアド交換する程の日本人にはまだ出会っていない。リトルバスターズの面々を加えてわずかな元クラスメートくらいしか、日本の名前はなかった。
 
 勿論、話そうと思えば、いつだって話せる。でも時間もお金もかけないと、おそらく目的もないと、ただ話すこともできなくなっている。
 かつて湯水のごとく時間を共有した親友たちは、いつのまにか遠くにいた。

 いつからだろう。日本と聞いても、リトルバスターズを想起しなくなったのは。
 いつから、リキたちを忘れていたのだろう?
 そっと、電話帳をスクロールする。

 直枝理樹
 棗鈴
 棗恭介
 井ノ原真人
 宮沢謙吾
 神北小毬
 西園美魚
 来ヶ谷唯湖
 三枝葉留佳
 笹瀬川佐々美

 そして……二木佳奈多。佳奈多さん。
 
 しばらく画面を眺めていたが、まぶしさに耐えられなくなって携帯を手放した。
 もう、すぐには多くを思い出せないでいる。
 
 次に佳奈多さんに、リキたちリトルバスターズに、会える日はいつになるのだろうか。
 随分と遠くに行ってしまった今の自分には、想像もつかなかった。
 それでもそのことが、不思議と怖くはなかった。
 自分は、なすべきことをなす。どこにいてもきっと、みんなもそうなのだ。

 段々と身体に温かみが灯る。
 やがて視界を、眠気が覆っていった。


「おやすみなさい……佳奈多さん」


[No.653] 2010/02/05(Fri) 23:29:06
それさえあれば (No.649への返信 / 1階層) - ひみつ@15407byte

「結婚しよう、理樹君」
 来ヶ谷さんの不意打ちに僕は面食らった。
「え…いきなりどうしたの? この前まで『結婚するといやに余所余所しくなっていけないな。理樹君とはまだまだラブラブしていたいものだ』って言ってたのに」
「いや…実を言うとだな…その、親がうるさいのだよ」
「親?」
「私の両親のことだよ。そろそろ結婚してもいいのではないかという電話がひっきりなしにかかってきてな」
「ああ…確かに」
 今年で僕と来ヶ谷さんは23になる。晩年化が進んでるとはいえ、高校から付き合っているならもう結婚してもいいというのが世間一般の見解だろう。
「さらに言うとな、孫がほしいらしい」
「ぶっ!」
 飲みかけのジャスミンティーを盛大に吐き散らした。
「いや、私もほしくないわけではないぞ。むしろ子供は多いほうが賑やかでいいだろう」
「でもいきなり結婚って早すぎるよ!」
「それがな、こればっかりは逆らえんのだよ」
「なんで?」
 来ヶ谷さんが顔を暗くしながら俯いた。
「爺様が危篤らしい。この前まで朝にパンツ一丁で乾布摩擦までしていた人が…な」
 いつもはこういうを軽くいなす来ヶ谷さんが、珍しく真剣な話をしている。僕もそれに合わせて手に膝を置いて話を聞く。
「床に臥しながらしきりに『一度でいいから孫の顔が見たかった』と呟いているらしい。あの方には小さいころからよくしてもらったからな…せめて孫は見せてやれなくても、結婚式には出席させてあげたいというのが私と私の親の考えなのだよ」
 近くで熱を吐き出しているヒーターの音がやけに大きく聞こえる。それと合わせて僕の心臓も早鐘を打っている。
 目尻に涙を溜めながら来ヶ谷さんは顔をあげた。いつも頼りげのある顔がくしゃくしゃに疲れたような、やつれたような顔をしていた。なぜかとても守ってあげたくなった。来ヶ谷さんの顔を胸元に抱き寄せた。
「結婚しよう、来ヶ谷さん」
「本当か?」
「本当の本当。何なら今から誓ってあげようか?」
「いや、それは神父の前で言おう。私はクリスチャンだからな」
 ふふ、と来ヶ谷さんが笑う。やっぱり、来ヶ谷さんに泣いた顔や疲れた顔は似合わない。
「というわけで」
 そう言って来ヶ谷さんはクローゼットの中からスーツケースを取り出した。
「明日、早速本家に向かおうと思う」
「ええええ!?」
「なんだ、まずかったのか?」
「いやいやいや、まず第一に連絡取れてないでしょ。っていうかまず僕が来ヶ谷さんのご両親に会ったことないし!」
「案ずるな」
 胸ポケットから携帯電話を取り出してピポパと番号を押している。家に電話をかけているらしい。スリーコールしないうちに電話に出た。
「母上か…そろそろ段取りが整いそうなのでそちらのほうにも連絡をお願いしたい。…ああ、そういうことだ。…大丈夫だ、そんなことはない。私が見染めた男だからな。…よろしく頼む。ではな」
 携帯の通信を切る。あまりの早業に僕はぼーっとしているだけで何もできなかった。携帯をしまってこちらを向いて来ヶ谷さんが言う。
「何を呆けた顔をしているんだ? 明日の朝にはこちらを出るから早く準備をしなければ間にあわないぞ?」
 恋はいつだって突然だ、という言葉はこの状況を表すのにとても的を射ていると思う。

 その夜、僕は荷造りやら親への挨拶の練習やらプロポーズの言葉やらを考えるのに興奮して全く眠れなかった。

 三駅乗り継いでタクシーに揺られること三十分。都市から田舎へと景色が移り変わり、やってきたのは100坪はあるかという豪邸だった。百数年はその場所にとどまっていたのか、風格が漏れ出している。門と塀が家を覆い、門の前には門番さえいる。
 こんな光景を目の前にして僕ができたことと言えば―ただ脚をがくがく震わせること―ぐらいだった。
「案ずるより産むが易しという言葉を知っているか理樹君」
 来ヶ谷さんが僕の肩に手を置いてくる。そういう来ヶ谷さんは着物姿で、僕はスーツ姿だった。来ヶ谷さんの着物姿がそれはそれでとてもきれいだったのだが、その時の僕にそんな余裕はなかった。
「こんな豪邸だなんて聞いてないよ!」
 来ヶ谷さんの昨日の話し方からそこらへんにある普通の家を予想していた僕にとって、これはかなりの衝撃だった。電車やタクシーの中でしていた『来ヶ谷さんをお嫁にください!』の練習がとてもちっぽけに見えてくる。
「ふむ、爺様はこのあたりで成功した地主の方の跡継ぎでな。したがってこうなってしまったわけだ」
「…しょうがなくってこと?」
「理解が早くて助かるよ。でもまぁ、……得てして外見と中身は違うということが多いのだよ。例えば、真人君はあの体型の割に少女漫画が大好きとか、鈴君は無邪気そうながら、実はクローゼットの奥にエロ本を隠していたりな」
「ぶっ! っごほ!」
「安心しろ、半分冗談だ」
「それってどっちが!?」
「人の秘密はあまり漏らしてはいけないものだよ。くわばらくわばら」
 そこで会話が切られてしまった。煮え切らないものの、仕方なく屋敷に目を移す。
 風格、気品、優雅な佇まい、それらを全てひっくるめたようなとても言葉にはできないような日本情緒あふれる屋敷なのに、今はそれが僕にとって獲物を待ち構えて舌なめずりしている蛇に見える。もちろん僕は兎だ。そう考えると来ヶ谷さんも蛇の仲間?
「ぼーっとするな理樹君。向こうではもうお待ちかねだぞ」
「はっ」
 考え込んでいると、来ヶ谷さんが門の中に入るように促してきた。強面の門番が僕たちを待っている。おっかなびっくりしながらも、門番に目を合わせる。
「唯湖様と理樹様ですね?」
「え、っは、ハイ!」
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
 門番の人が内側にいるもう一人の門番に合図してかんぬきを外す。ギギギッ…、と重苦しい音を立てて門が開いた。来ヶ谷さんと目を合わせて頷きあってから僕は門下をくぐった。
 目の前の景色は想像のはるか上を飛んでいた。緊張していたので見ていなかったが、入ると同時に竹林が周りを取り囲んでいた。その中に家の玄関らしき場所まで続いている道が一本、それとあと他に道が一本あった。
「なぜに家の中に竹林が…」
「爺様の父上の趣味らしい。ここに来た時はよくこの竹林でかくれんぼをしたものだよ」
「あとこっちの道は何?」
「そっちは別宅に通じている…らしい」
「らしい?」
「いや、実を言うと私もあまりここに来たことがなくてな。小さい頃はあっちに行くのは危ないからここで遊んでなさいと言われていたし」
「何もかもが超弩級だね…」
「私の場合は胸だな」
 胸を寄せあげる。
「そんなこと言ってないで行くよ」
 ふざけている来ヶ谷さんの手を取って玄関まで歩いていく。余所見する余裕はなかったが、来ヶ谷さんが言うにはこの奥に池があるそうなのだが、竹林が邪魔で見えなかった。
 心臓の鼓動を隠すようにずんずんと玄関まで進んでいると、いつのまにか玄関に着いてしまっていた。内心、このまま玄関まで辿り着かなければいいな、と思っていただけに少しがっかりする。はやる自分の気持ちを抑えるかのように手に胸を当てて鼓動を鎮めようとする。
「大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大夫丈丈夫大」
「事が大丈夫かどうかは置いといて、理樹君の頭の中は今まさに混沌だな」
「だってお父様とお母様がアレだよ!?」
「何があれなのかは分らないが、まず私の両親をお父様お母様と言っている時点で落第点だな」
 自分でも緊張してるのはわかっていた。心臓が早鐘を打って、呂律は全く回りそうにない。かといえば血液は沸騰しそうで、今この場で短距離走に出たら間違いなく新記録をマークするだろう。そのぐらいテンパっていた。
 来ヶ谷さんは呆れた顔で僕を見た後、何かを観念したような顔でこう言い放った。
「――私を後悔させないでくれよ」
「え?」
 返事をするかしないかというところで、来ヶ谷さんは玄関を開けた。いきなりのことに僕はどぎまぎしながら敷居をくぐり、挨拶の言葉を言う。
「ただいま」
「こ、こんにちわ! 来ヶ谷さんの婚約者の直枝理樹と申します!」
「ん? おお、よく来たね!」
 そうやって返事をしてくれたのは――パンツ一丁の――来ヶ谷さんのお父さんだった。

「いやぁ、久しぶりに檜造りの風呂に入ったらちょっと気がおおらかになっただけさ」
「だからってお召物が下着だけというのはいささか短絡的じゃないかしら?」
「ホントすまんすまん。だからその手に持ってる包丁をどうにかしてくれないか?」
「あら、私は料理をしてるだけよ?」
 来ヶ谷さんのお父さんが来ヶ谷さんのお母さんに怒られている。あの後、来ヶ谷さんのお父さんは来ヶ谷さんが説教をかまされ、それから来ヶ谷さんのお母さんに別の部屋へ連れてかれた。僕はそれを唖然としながら見ていた。一部始終が終わると、来ヶ谷さんが「馬鹿な父上で済まない」と言ってこの客間に連れてこられた。
「いやぁ本当にすまなかったね直枝君。私も君が来るって聞いたからドキドキしながら待ってたんだよ?」
「そうですよ。私も包丁片手に待ってましたよ」
「はぁ…」
 そういう来ヶ谷さんのお母さんの前の大きいちゃぶ台には、和洋折衷とでも言わんばかりの絢爛な食事が並んでいた。とても一晩で作ったようには思えないような手の込んだものもあった。その中からエビをつまもうとする来ヶ谷さんのお父さんを来ヶ谷さんが牽制しながら言う。
「今日は結婚の話をしに来たのだが」
「ええ、知ってますよ。まずはお茶をどうぞ」
 僕と来ヶ谷さんに湯呑を渡す。その雰囲気についついお茶を啜ってしまいそうになる。この空間が不思議なのか、ただ僕がおかしいだけなのか分からないが、はやる気持ちが抑えられそうにない。それをぐっとこらえて勇気を振り絞る。
「来ヶ谷さんを僕にくださいっ! なんとしても!」
 一歩後ろに下がり、地面に頭をつける。
「タイミングが早すぎる! というかテンパるな理樹君!」
 来ヶ谷さんが怒鳴って、一瞬茶の間がしーんとなる。自分でもやってしまったというのが分かり、冷や汗が体中から噴き出る。来ヶ谷さんは頭に怒りマークを浮かべながら腕組みをしてじっと待っている。
 獅子おどしの乾いた音が屋敷中に響く。静寂が場を支配すると思いきや、案外にも破ったのは来ヶ谷さんのお父さんだった。
「別にいいんじゃないか? なぁ母さん」
「ええ、私もお父さんの意見に賛成ですよ」
「……え? え?」
 あまりにも事が簡単に進んでいることに、僕だけがおいてけぼりにされている。対する来ヶ谷さんのお父さんとお母さんは本当に嬉しそうに笑っていた。
「大体リズベスが選んだんだから間違っているはずはない! なんたって私の娘だからな!」
「まぁお父さんったら。いつも以上に親バカだこと」
「親バカでない親なんぞいるもんか!」
 ははははは、とまるでアメリカのホームドラマばりの展開が巻き起こっている。来ヶ谷さんもほっとして笑っている。
「な? 外見と中身は得てして違うものだよ。父上の分りの良さにはいつも助けられているんだ」
「そういうわけだ。さぁ今日はめでたい日だ! 母さん、酒持ってこい、酒! 直枝君も一緒に飲もう!」
「実は飲みたかっただけなんじゃないんですか? 父さん?」
「そういうことは言わない約束だよ、母さん。さぁ直枝君、今夜は飲み明かそう!」
「は、はぁ…」
「よかったじゃないか理樹君」
 光陰矢の如しとはよく言ったものだ。

 暫く飲んでいると、酔いが回ってきたのか、来ヶ谷さんの、いや、お義父さんが目の前で千鳥足になりながらおちょうしを回している。
「とっとと…少し酔いすぎてしまったな…目の前が回って見えるぅ…」
「ちょっといくらなんでも飲みすぎだと思いますけどねぇ」
 お義母さんはお酒にめっぽう強いらしく、顔色一つ変えないでおちょうしに口をつけている。実を言うと、僕は緊張からか酒を飲んでも全く酔えていなかった。むしろ頭がさえてようやく事態を把握し始めていた。来ヶ谷さんと僕が婚約を結んだという実感を。
「あー…ちょっと酔いすぎたみたいだぁ……外出てくる。直枝君も一緒に行かないか?」
「え、あ、はい」
 千鳥足なお義父さんを肩に担いで、ゆっくりと外に歩きだす。来ヶ谷さんが「正念場だぞ、理樹君」と言って僕を送り出した。その言葉の意味を知ることとなるのは、その時になってからだったのだが。

 息が白い。冬の夜、今日は特に冷えている。客間との温度差に身を震わせながら、廊下の縁側にお義父さんと隣り合わせで座る。
「まだ目の前が回ってるな…気持ち悪い」
「大丈夫ですか?」
 お義父さんの背中をやさしく摩る。息が荒い。
「…リズベスだけどな」
「はい?」
「あいつは小さいころから『本当に』笑ったことが一度もなかったんだ」
「…」
 来ヶ谷さんの小さい頃の話。それをお義父さんが話してくれている。誰でもない、この僕に。
「私はリズベスを笑わせるために色々した。会社の同僚に試して、間違いなく笑いがとれると思ったことはいくらでもやった」
 さっきまでとうって変わっての話に、辺りが静寂さを増す。
「でもあいつは『間にあわせ』の笑顔しか作らなくてな。それが悲しくて何回も何回も笑わせようとしたよ。しかし、そうして試しているうちにいつの間にかあいつは高校生になっていた…」
 そう言っているお義父さんの顔は見えない。口調が荒くなる。
「ところが、ある日とても上機嫌で帰ってきてある男の子の話ばかりしかしなくなった。その男の子のことは言わなくても分かるね?」
 たぶん、十中八九僕だ。
「それを語ってるときのあの子の笑顔は紛れもない『本当』の笑顔だったよ。それは、今までそれを作ろうとしてた私にはとても眩しかったよ」
「それは…」
「分かってる。君を責めてるわけじゃないんだ。むしろ私は嬉しいんだよ。あの子が本当の笑顔を見せてくれることなんて、もしかしたらないんじゃないかと思ってたからね」
 笑顔を作ろうとしても作れなかった人と、作れた人にどんな違いがあっただろうか。結果的に笑顔が見れたからといって、その違いを埋めるのはなかなか容易いことではないだろうと思った。
「そこで、だ」
「はい」
 こちらを向くようにお義父さんが座りなおした。まじまじと対面すると、その眼には揺るぎない決意の炎が浮かんでいた。
「君はあの子の笑顔を一生守りきれると誓えるかい? どんな時でもあの子の笑顔を絶やさない、そう言い切れるかい?」
「…」
「君を信じていないわけではない。ただ、これ以上あの子の笑顔を絶やしてはいけない気がするんだ。僕にとっても、君にとっても」
 来ヶ谷さんが笑わない時期をこの人はただ一人で戦ってきたのだ。どんなに失敗してもめげずに何度も。この人はそれを背負って、なお来ヶ谷さんを笑顔でいさせ続けられるかといううことを聞いているのだ。
 暫く静寂が続いた。梟の鳴き声がやけにひどく響く。
 沈黙を破ったのは僕だった。自分でもびっくりするぐらい自然に声が出た。
「最初はいっしょにいるだけ楽しかった。でも、気が付いたら来ヶ谷さんは僕にとってかけがえのない物になっていました。もう空気と同じなんです。来ヶ谷さんの笑顔も同じです。僕は来ヶ谷さんの笑顔が見られるなら、それでいい。笑顔を燃やし続ける火種となって、彼女を守ります。これは、彼女を愛すると決めたときから変わらない気持ちです」
 本当に自然に、お義父さんもびっくりするぐらいに流れるように言えた。
「…それでこそリズベスの選んだ婿だ。おめでとう理樹君!」
 突如、背後でクラッカー特有の乾いた音がした。僕とお父さんの背中にクラッカーの屑が降りかかる。振り返ると、笑顔のお義母さんと、照れ笑いをしている来ヶ谷さんと、満面の笑みのおじいさんが立っていた。
「かっかっか。それでこそよ! 天晴れ天晴れ」
 なにやらおじいさんが高笑いしながら僕を褒めている。
「来ヶ谷さん…この人は?」
「爺様だ」
「危篤って言ってなかったっけ!?」
「ああ、あれか。嘘だ」
「ええ!?」
 あまりの衝撃の事実に、口が塞がらない。このあと数十年は生きそうな人が来ヶ谷さんのおじいさんで…?
「なに、このままだと結婚を逃しそうだったのでな。爺様をダシに理樹君を釣ったのだよ」
 それを聞くと、本当にしょんぼりしたような顔でおじいさんが答えた。
「まだまだワシは元気なのにのぅ…」
「そろそろ逝っちゃってくれてもかまいませんよ? 生命保険がかかってますからね」
「おお、ワシは邪魔者扱いかの? 悲しいことじゃ、かっかっか」
 さっきまでの神妙な雰囲気はどこへ行ったやら、いつのまにか宴会モードに戻っている。というか今更ながら来ヶ谷さんにはしてやられたと思った。そしてなぜか自然に笑顔がこぼれた。ホッとしていると、僕の頭にこつん、と拳が触れた。来ヶ谷さんだった。
「冷や冷やものだったぞ理樹君」
「ごめん来ヶ谷さん…じゃなくて唯湖さん?」
「うむ、正解だ」
 僕の呼び方に笑顔を作る唯湖さん。いつかの時の約束がこれで果たせたと思った。
「でも僕でもびっくりするぐらいするすると言葉が出たよ」
 ホッとしている僕に、唯湖さんは意外なことを言った。
「そうだな。あそこでちょっとでも間違えればこの話は無しだったからな」
「……え?」
「いや、実はさっきの問答が最終試練だったのだよ。そういう取り決めだったんだ」
 平気な顔でしらっと唯湖さんは言った。そして自信ありげに僕を見つめてこういった。
「言っただろう? 私を後悔させるなと」
「はは、全くその通りだよね…」
「そう、詰まるところ、案ずるより産んだほうが易かったな理樹君」
 こんな問答も唯湖さんの笑顔の火種になるのなら、僕はとても幸せな人なんだろう。本当にそう思う。
 ひとしきり笑った後、来ヶ谷さんがこう言った。
「あと、これからあんな恥ずかしい言葉は言わないことだ。恥ずかしかったぞ、馬鹿…」
 照れた唯湖さんの笑顔は、僕の心にとても映えた。
「よし、理樹君もう一回飲もう! 今度は爺様も一緒でな」
「ワシに酒を飲ませると恐いぞ? 誰が真っ先につぶれるかの勝負じゃ!」
 …どうやら今夜は長くなりそうだ。



「そういえばこのことみんなにも言わなきゃね」
「そうだな。集まるならどこがいい?」
 そんなの、もう決まってる。
「いつもの、あの場所で」
「うむ、了解した」
 これから、僕と来ヶ谷さんの未来が広がっていく。


[No.654] 2010/02/05(Fri) 23:54:21
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 子供の頃、将来はきっと動物に囲まれるような仕事をするんだろうな、と漫然と思っていた。例えば、ペットショップとか。猫に囲まれて、とまではいかなくとも動物に囲まれてと、良く分からない妥協をしていたのはご愛嬌だ。
 しかし、今あたしを囲んでいるのは、色とりどり、形状様々の医薬品の群れ。お客から受け取った処方箋に従って、あたしは薬の棚から目的の薬を探し出す。何処にどの薬があるか、それがどんな薬か、今手に持っている薬のジェネリック薬品はどれか、似た効果が期待できるOTC医薬品はあるのか。あたしの頭の中には、この棚にある薬の量の何倍もの情報が詰め込まれてる。それらの知識を磁石代わりに、今日もあたしは薬の山を掻き分ける。
「ふうっ」
 どの病院もきっと仕舞っているであろう、そんな時間。店内にもお客は居ない。あとは閉店作業をやるだけだ。あたしは席で一人背伸びをする。
 と、そのとき。ポケットの携帯電話が震えた。
 あたしは携帯のディスプレイを見る。そこには懐かしくも腹立たしい人間の名前が載っていた。
 理樹。何年振りだろう。こいつから連絡があったのは。
 メールの内容は、今度の土曜どこかで会わないか、というものだった。何を今更な話だ。あたしはそのメールに返信することなく、携帯を閉じる。あたしは再び薬の山に戻る。


 閉店作業も終わって、ウチに帰る道すがら。あたしは再びメールを見る。
 あいつからのメール。何となく高校、大学時代を思い出す。そういえば高校三年のとき、寮に居る時などあいつと一緒にいられないとき、ずっとメールをしていたと思う。お互い一人が寂しかったから。繋がりが無くなってしまうのが恐ろしかったから。
 大学に進学して一緒に住むようになってからは流石にメールの回数も減ったが、それでもバイトや授業なんかで離ればなれになるときはメールをしていたと思う。
 でもいつしか、ぱったりとメールは来なくなってしまった。こちらからも送ることは無くなった。そして、あたしの部屋はあたし一人のものになってしまった。
 行きつけのペットショップの前で足を止める。店のカーテンが下ろされてそこから光が漏れている。きっと中ではバイトの子が閉店作業をしているのだろう。
 自分がもしもあの子だったら。そう考えてぞっとした。そうしたらきっと動物が嫌いになる。大きくなるにつれてどんどん値下がりする動物達を、あたしは見ることなど出来はしない。
 それが今の自分がある理由。決して、あいつのためなんかじゃない。
 携帯を操作してメールを消そうとする。しかし、文面を眺めていると、だんだんと消すのが怖くなる。
 やがて、あたしの指が操作を始める。
 ――わかった、理樹。何時に何処で会う?


 駅の近くの噴水の傍。あたしはそこで待っていた。
 今日のあたしの格好は変じゃないだろうか? 最近では女友達と遊ぶ機会も減ってしまって、どんな服を着ればいいのか分からない。
 やがて、見覚えのあるヤツの姿が視界の隅に映った。そいつはゆっくりとあたしに近づいてくる。服のセンスこそあの時と一緒だけどきっと少しはいいものを着ているのだろう。顔つきは幼さが取れた所為か、いささか男性的になったものの見間違えるはずも無い。
「鈴、久しぶり」
「ああ、久しぶりだな」
「……変わらないね」
 あたしは、理樹のその言葉に少し落胆する。
「いや、変わったさ。あたしも、理樹もな」
「え? そうかな?」
「一応、一緒に暮らしたこともあるあたしからのお墨付きだ」
「そうだね……」
 理樹は少し物悲しい様子でその目を伏せる。だが、すぐにその目をあたしに向けると取り繕うようにこう言った。
「ここで立ち話もなんだから」
 理樹に連れられて近くのカフェに入る。
 ブレンド一つにカプチーノ一つ。理樹はいつも通りの注文をすると、テーブルに肘を置いて両手の指を組む。そこに自分の顎を乗せる。あの時と同じ、寛いだ時にするこいつの癖だ。
「で、何だ? あたしに何か用なのか?」
「手厳しいね、相変わらず。単に最近どうしてるのかなぁと思っただけだよ」
「ふん。そんな事か。何年も連絡一つ寄越さなかった奴がよく言うな」
 理樹が苦笑いを浮かべて、コーヒーを啜る。
「そういえば、鈴って薬学部だったよね。あの後結局、何処に就職したの?」
「あぁ、別にどうってことも無い。街の小さな薬局の薬剤師だ」
「ふぅん」
「お前の方こそ、どうした。理学部だったから、メーカーにでも入ったのか」
「まあ、研究室の推薦でね」
 意外と言うか何と言うか、話し始めてみれば何てことは無い。あたしが理樹に対して抱いていた反抗心は鳴りを潜めて、昔のように話すことが出来ていた。
 あたしは理樹と話しながら、一緒に過ごしてたときのことを思い出していた。そう、あの時あたし達は、こうやって優しくてほっとするようなそんな時間を共有できていた。それなのに、どうしてあたし達は別れなければならなかったのだろう。何がいけなかったのだろう。
 二人ともカップが空になった頃。理樹がゆっくりと立ち上がる。
「さて、そろそろ出ようか。一緒に来て欲しいところもあるし」
 まあ、そうだろう。久々に会ったのにコーヒー飲んで終わるわけなどある訳無いし。
「何処だ?」
「何処かは内緒。会わせたい人達が居るんだ」
「余計に訳分からんな。会わせたい人とくればお前の彼女なのかも知れんが、生憎あたしはお前の親じゃねぇ」
「んー、野球チームを作ったんだ」
 これにはさすがに驚いた。
「名前は――」
「リトルバスターズだ、とか言うんじゃないだろうな」
「最後まで言わせてよ、鈴」
 理樹は困った表情でくすくすと笑った。


 ちょっと車を取ってくるね、と言い残して理樹は一旦カフェを後にする。もちろん会計はあいつ持ちだ。
 一人になったあたしは、再びあの時のことを思い出していた。もしも、あの時あいつと別れなかったら、結婚して共稼ぎして、今頃あたし達の間に子供でも出来て、ひとつの家族が出来上がっていたのかもしれない。そうしたら、どんな日々を送っていたのだろう。あたしはそんな架空の家族ごっこに思いを馳せる。
 そんなうちに店の前に一台のセダンが停まる。運転席から理樹の姿が見えた。
 あたしは店を出ると無言で車に乗り込む。理樹も無言で発進させる。車は静かに走り始める。


 走る。信号で停まる。また走る。その繰り返し。
 車に乗ってから何故か会話が無い。あたしは沈黙に耐え切れず、適当に話を切り出す。
「で、会社の仲間で作ったのか?」
「ん? リトルバスターズのこと? 鈴も知ってる人達だよ」
 あたしと理樹の共通の知り合い? となると大学か高校の人間になるが、野球チームが出来るほど居ただろうか? あの時の記憶を辿るが、足りるのか足りないのか微妙な人数だ。それに彼らだって卒業して皆バラバラになってしまったんだ。
 ああ、クソっ。バラバラで嫌なことを思い出した。確かに昔は居た。居たけど皆死んでしまった。燃えてバラバラの塵々になってな。あんな連中がまた集まるとは到底信じがたい話だ。だが、まあどうでもいい。直接会えば分かることだ。
 あたしは、助手席のシートで思いっきり背中を預けると、窓から流れる景色を眺め、やがて訪れてきた眠気にそのまま自分の身を任せた。


「鈴。もうすぐ着くよ」
「……そうか。そのままあたしの家まで頼む」
「いやいやいや。それじゃ意味無いから」
 理樹の声に、あたしは目を開ける。窓から見た景色は、どうやら人里離れた森か山、そんなところだろうか。素朴な疑問を口に出す。
「ここでお前達は野球をするのか?」
「違うよ。ここは『部室』兼物置、かな? まあ、グラウンドなんて遠く離れてるんであまり意味無いけど、やっぱり色々道具があるとこういう場所が必要なんだ」
「ふうん」
 気の無い返事をするあたし。
 車はやがて、閑散とした広場に出る。目の前には粗末なコンクリート製平屋建ての建物。これが「部室」か。
「降りて」
 理樹の声に従って、あたしは車から降りる。
「中に入っていてよ。僕は車を停めてから向かうからさ」
 そう言い残すと、理樹はゆっくりと車を走らせる。
 あたしは「部室」のドアを開ける。少し埃っぽい匂いがした。電灯のスイッチを手探りで探す。程無くして明かりが付いた。
「確かに『部室』っぽいな……」
 辺りを見回した。長机にパイプ椅子、それに汚らしい木製の棚。色々記憶違いはあるだろうが大体こんなものだったと思う。よくもまあ、こんな本格的に……。理樹のやつ、どこまで馬鹿兄貴の真似をし続けるんだ?
 と、あたしが苛々し始めたころ、部屋の端に大きな布があるのが見えた。正確には、何かの上に布が掛けられているのを、だ。端といっても、部屋の四分の一程度占めている。あたしは何の気も無くその布を取った。
 するとその下に。あたしは目の前の光景が信じられなかった。
 あいつらが居た。皆もう居ないのに。あの時、確かに皆灰になってしまったのに。恭介に馬鹿二人、来ヶ谷に、美魚、葉留佳、クド、それに小毬ちゃんまで。皆あの時のままの姿で。めいめいにパイプ椅子に座っていたり、立っていたりとばらばらの格好ではあったけど、確かにここに居た。
 あたしは一番近くに居たクドの白い小さな手に触れる。適度な弾力があって、骨(手の筋?)の感触もある。でも、温かみは無くて、どことなく贋物っぽかった。あたしはクドの目を見つめる。クドの目はあたしを見ることは無く、瞳孔を開いたまま虚空を見つめるばかりだった。
「人形……」
 少し安心した後、悲しくなる。理樹が言っていた会わせたい人というのは、この精巧な人形達のことなのだろう。あいつはあたしと別れてから、ずっとこんなものを作り続けていたのか。高校や大学の友達は皆社会に出て、それぞれあたし達の知らない友達や恋人を作っていて。あたしだってそうだ。あのペットショップの女の子とはたまに一緒に遊びに行ったりしているし。それなのに、理樹だけが前に進むことが出来ない。
 そう、それがあたし達が最後まで分かり合えなかったこと。あの時言った、あいつの言葉が耳に響く。
 ――二人で強くなろうって言ったけど、もう僕は付いていけないよ。鈴は一人でも充分強いから。そんな鈴が、重荷なんだ――
 あたしが舌打ちをするのと、理樹が「部室」に入ってくるのが重なった。
「鈴、どうしたの?」
「別に」
 あたしは不機嫌そうに吐き捨てる。
 理樹はそんなあたしの様子に気付かないのか、そのまま視線を人形達のほうに向ける。
「あ、もう開けちゃったのか。本当は僕が開けるつもりだったんだけどね」
「あほか。こんなの誰だって開けてしまうわ」
「はは、確かにそうだ」
 あたしはぶっきらぼうに人形を指差す。
「お前はこれを見せたかったのか?」
「うん、まあ、そうだね。似てるでしょ?」
「まあな。きしょいくらい似てるな。一瞬あいつらのお化けかと思ってびびった」
 あたしの感想に、理樹は楽しそうに笑う。あたしの反応を予想でもしていて、それが当たった、とでも言わんばかりだ。
 確かにあたしはいつも通りぶっきらぼうに言い放った。しかし、本当は自分でもよくいつも通りに言えたものだと感心しているくらいの、そんな心境だった。あのまじまじとそれの手を見たとき、あたしはその異様な精巧さに驚きを通り越して怖気が走ったのを忘れられない。
 クドの人形の肌は人間の肌のようにきめがあり、その肌の下の血管が青く浮かび上がっていた。その血管が今にももくもくと蠢いて、その手の筋肉を動かす。そんな妄想を抱いてしまうほどにそっくり、いや人間そのものだったのだ。
 あの目を見るのも本当は怖かった。もっと人形の目はガラスっぽいのに、あの目はまるで人間の目玉のようで。今にも瞬きをし、あたしに視線を送ってきそうだった。どうやったらあんなに精巧な眼球のレプリカが作れるのだろうか。眼球の中の虹彩や瞳孔まで作る、そんな途方も無い繊細な技術がこの世に存在するのだろうか。
「ねえ。プラスティネーションって聞いたことある?」
「え?」
「ほら。僕たちが付き合ってた頃、テレビで紹介されてたじゃない、精巧な人体模型を展示するって悪趣味な展示会。アレ見て鈴ってば、キモイキモイって連呼してたんだけど、震えながら僕の手を掴んでたよね」
 唐突な話に頭が付いてこない。あたしは理樹の次の言葉を待つ。
「あれってさ、本物の人間の遺体から出来てるんだよ。知ってた?」
 理樹はとても楽しそうに、薄気味悪い話を始める。
 その話の意味をあたしは知っている。あたしはこの異常に精巧な人形の正体に薄々勘付いてはいた。しかし、その考えはあまりに荒唐無稽すぎたから、あたしは自分の頭からその恐ろしい考えを追い出したんだ。それなのに、それなのに。
「何が言いたいんだ、お前……」
 あたしは声が震えないようにするだけで精一杯だった。そんなあたしの声を無視して、理樹は続ける。
「あれの良い所はね、遺体をそのまま、腐らない樹脂製の標本に出来るってことなんだ。だから、標本にした後は保管も簡単だし、いろんな加工も出来るんだ。ほら、コレ見てよ」
 理樹は恭介の人形の袖を捲くってみせる。ちょうど肘の部分が球体関節になっていた。理樹はその関節を無造作に曲げ伸ばしする。それに合わせてきしきしと、関節の動く嫌な音がした。
「こうすれば恭介たちも、色んなポーズを取ることができるでしょ?」
 嬉々として喋り続ける理樹。その様子があまりに幸せそうで。あたしは吐き気を催す。
「ああ、そうそう」
 理樹は恭介の人形から離れると、隣で腕を組んで立っていた来ヶ谷の人形の首筋を優しく撫でた。
「来ヶ谷さんなんて苦労したよ。こんなスタイルしてる人なんて、なかなか居ないし。その上、顔まで同じなんて無理だよ。だからね、来ヶ谷さんには一番手間が掛かったんだ。だけど、その分気に入ってる」
 理樹の指先が、来ヶ谷の人形の首を這う。その首にうっすらと、繋ぎ目のようなものが見えた。繋ぎ目の前後で肌の色が若干異なる。
「ああ……理樹。まさか、まさか」
「アレ? 気が付いた? 鈴、凄いね」
 理樹が嬉しそうに目を丸くした。
「そう、違う人体から出来た部品同士を繋いだんだ。よく気付いたものだと思わない? コロンブスの卵? ちょっと違うかな。でもこれのおかげで、大分早く進める事が出来た。最初はどれくらいかかっちゃうのかなとか、不安に思ってたくらいだったけど」
 来ヶ谷の人形の頬に理樹の手が滑る。人間のように弾力があるけれど、まるで異なる不気味な感触。それがありありと思い浮かぶ。でも、きっと。理樹には違う感触が伝わっているのだろう。あの時一緒に過ごした仲間の肌。もう二度と会えない、あいつらの肌。
「長かったよ。本当に、長かった。もう何年経ったのか分からないくらいに」
 理樹が目を細める。皆の人形を慈しみを湛えた瞳で見つめている。
「やっと、ここまで来た。もうすぐ僕たちはあの頃に帰れるんだ。あの、優しかった時に」
 しばらく恍惚とした表情を浮かべていた理樹が我に返り、あたしの方に振り向く。
「あとは鈴と僕。二人だけだ。僕たちが揃えば、リトルバスターズはまた始められる。そうしたらこれからは、どんな事があっても、僕たちのリトルバスターズは壊れない。ずっとずっと永遠に、僕たちは一緒なんだ」
 あたしはその言葉の意味に、へたり込んでしまう。理樹のあの優しい声、優しい眼差しがどうしようもなく恐ろしかった。
 地面を無様に這いずり回りながら入り口に向かう。理樹はそんなあたしを追うわけでもなく、やはり優しい表情のまま見つめているだけだった。ドアノブに手が掛かる。ここから飛び出したら、とりあえず逃げよう。ここが何処か分からない。けれど、とりあえずこいつから離れられる。
 ――しかしその妄想は、ここから飛び出すことが出来てやっと始まるものだ。そう気付いたのは、ドアノブが動かないことを知ってしまってからのことだった。
 理樹は、あたしが動くのを止めるのを見計らって、ゆっくりとゆっくりと歩き始めた。本当にゆっくりだったのかは定かではない。本当は普通の速さで動いているのかもしれない。これは、そう。事故とかに遭う直前に見る、あの現象かもしれない。こんな状況でこんな変なことを考える自分が腹立たしかった。それならばこいつの手があたしに触れる前にいっそ時間が止まって欲しいのに。これではまるで蛇の生殺しだ。こいつは今どんな顔をしているのだろう。あたしは理樹の顔を見る。その瞬間、血の気が無くなったあたしの顔から更に血の気が失せるような、そんな気がした。ずしりと空気が重い。そう、こいつの表情に、あたしは見覚えがある。
 それは、あの夢の世界の最後の最後。うずくまっていた恭介にその手を差し出したときの、あの表情。優しくて、頼もしくて、儚くて。そんな表情が、今またあたしの目の前にあって。
 その瑞々しい唇がゆっくりと動き出すのを、あたしはただただ眺めるしかなかった。


「さあ。始めようか?」


[No.655] 2010/02/05(Fri) 23:58:00
夏の約束 (No.649への返信 / 1階層) - ひみつ@13782 byte

 一人ぼっちでいじけている棗鈴を見ていると、どうしようなくなじってやりたい気持ちになったのはどうしてだろうか。
 サドっ気でもあるのだろうか。よく分かんない。自分のことが実は一番分からないものなのだ。でしょ、葉留佳。
 その棗鈴に必死で話し掛けている笹瀬川佐々美がどうしようなく滑稽で、無視されてシュンってなっている姿を見ていると、これまたなじってやりたくなった。
 うずうずして、ムズムズして、モヤモヤして。結局、トイレに呼び出して二人を心ゆくまでなじり倒してやった。喧嘩になった。殴り合いの。
 それから顔を合わせれば罵り合い、殴り合い、と高校最後の一年間は、頭が痒くなる毎日だった。元風紀委員長にあるまじき行為だったんだろうけど、辞めたんだから知ったこっちゃない。つーか、もうマジで世界滅びろとかこの時期は思っていた。
 ただ、まあ、卒業して、色々あって、家出して、色々あって、それでもなんでか思い出しちゃうのは大馬鹿棗が卒業式に言った言葉。
「がんばれよ」
 お前もな。



『夏の約束』



 家に居ると吐き気がした。結婚しろと言われて吐いた。ゲロを拭って逃げ出した。
 キャリーバッグに必要最低限の衣類とか、お風呂セットとか、そんな感じの物と、まあ夢も詰め込んで、良く言えば旅に出た。
 目的地なんかは無いけど、目的はあった。逃げ切ること。家の奴らが警察に捜索願なんか出すわけも無いと踏んでいた。面子を何よりも大切にするのだから、跡継ぎが家出してどっか行きましたー、なんて世間様に顔向けできなくなりますがな。
 とか、計算もアリーノの家出。何気に月のお小遣いはしっかりと与えられていて、それにはほとんど手をつけていないので、どっかでバイトでもすれば生きていけるっしょ、と妙に軽い気持ちでもあって、自分でも不思議だった。葉留佳が死んで、まあ双子なわけで、自分の半身が失くなったのか、謎の喪失感を味わったせいか、うん、頑張って生きていく気なんて、これっぽっちも無かった。達者で暮らせと言ってくれた棗には悪いけど、いつでも死んでいい気分だった。それでも、まあ、死ぬ時には連絡はしようと思ってた。なんだかんだで楽しかったのかな。笹瀬川と棗とど突き合って過ごす毎日がさ。
 他のクラスメイトにも話し掛けられちゃった。キャラ変わったよね。二木さんって。なんか取っ付き易くなったよ。そうそう。そうでもないでしょ、てか、失礼よあんたらいい加減にしないとぶん殴るわよ風紀委員長パンチ喰らわすわよ。そういうところ面白いよねーあはは。風紀委員長パーンチ。そんなやり取りが出来たのは非常に良かったと思う。
 そんな私も今では立派なキャバ嬢になりましたとさ。家出して雇ってくれるところなんて水商売関係しか無いっつー話だった。都会のど真ん中の綺麗な街の裏側のドブ臭いスラム街じみた本当にここは日本なんですかと素で問いたくなるような場所に私はいる。派手な化粧をして、派手なドレスを着て、酒焼けした喉からしゃがれた声を出して、汚いおっさんにベタベタ触られても笑顔で答えて、売上に貢献している。こんな私を見て、棗はなんて思うだろう。ハードボイルドになったなと褒めてくれるだろうか。落ちぶれたなと嘲笑うだろうか。なにしてんだバカと罵るだろうか。無視されるかもね。それが一番可能性高いかも。
 上の空でも接客出来るようになった。そのせいで色々と余計なことを考えるようになった。慣れとは怖いものだ。本日の出勤終了。ということで、ジーンズとTシャツに着替えて、ダウンを羽織って店を出て帰路に就く。派手な化粧を隠すためのキャップを目深に被る。朝陽が目に沁みるから。少し歩くとコンクリートの壁が謎の植物の蔓に巻き巻きされているマンションに着いた。ここが私の今の住処である。古臭さ爆発だけど、安さも爆発だった。最上階の五階に住んでいるので、出勤後の帰宅が一番キツイ。エレベーターなんて洒落たものがあるはずもない。はあはあ、と息を切らせて上っていると酒にやられた胃と肝臓がダメージを受けて戻しそうになる。朝特有の冷たい空気が肺を通り過ぎて、胃にぶつかると変な化学反応でも起こるんだか、ものすごい気分が悪くなる。それを我慢して、なんとか部屋の前に着く。鍵をぶっ刺してグリンと半回転。ノブをグリンと一回転。錆びてギイギイ煩いドアを開けて部屋に入る。外が寒いとその倍寒くなり、外が熱いとその三倍熱くなる素晴らしい部屋だ。今は寒さ二倍の時期で、帰るなり石油ストーブの電源を入れた。テレビの電源も入れた。ベッドに腰掛けてノイズ混じりのおんぼろテレビを見ていると、今日の運勢を占ってくれていた。一位から順番にランキングを発表していき、遂に十一位まで私の星座が出てくることは無かった。うん、葉留佳、今日のあんたの運勢最悪だわ。残念ね。ああ可哀想。
 部屋が暖まるまで手持ち無沙汰でポケットからハイライトメンソールを取り出して一本口に咥える。残り三本なので大事に吸っていこう。店の名前の入ったライターで火をつける。客からZIPPOをプレゼントされたが速攻売ってやった。この安物のライターで吸うのが一番しっくりくる。煙が天井にふわふわ飛んでいく。キッチンに行って換気扇を回した。その下で吸う。部屋にタバコの臭いがつくのが嫌だった。だからいつも一緒にお香も焚く。
 半分ほど吸ったところで、ストーブから温風が出てきたようだ。ブフォンとか音が聞こえた。タバコを灰皿に押し付けて火を消す。頭をポリポリ掻いて、ブラ紐に圧迫された辺りをポリポリ掻いて、それから服を脱いだ。カラーボックスからボクサーパンツとロンTを取り出す。シャワー浴びよう。



 シャワーを浴びて、頭をタオルで拭きながら出てくると私の部屋の私のベッドの上でスパスパとタバコを吸っている女性がいた。
「アンジェラさん」
「おっす、カナちゃん。あとアンジェラって店以外で呼ぶなっつーの」
 チョーップってチョップされた。全然痛くない。アンジェラさんは私に店を紹介してくれた人で、お店のナンバーワンで、まあ、色々とズボラで鬱陶しいけど尊敬してる人。肩までの長さだけど綺麗なストレートの黒髪が印象的だ。
「どうしたんですか?」
「ん、まあ、ちょっとした情報をおしえたげようかと」
「嫌な予感しかしないんですけど」
「いやいや、相当サプライズですよ?」
「尚更聞きたくない」
 タオルを頭に被せたままベッドのアンジェラさんに背中を向けて座る。そのまま彼女にもたれ掛かる。彼女の香水なのかシャンプーなのか体臭なのか、なんの匂いか分からないけど、とてもいい匂いがする。懐かしい匂いがする。温かい匂い。
「カナちゃん疲れてる?」
「別に」
「んにゃ、疲れてる時だけだよ。私にもたれ掛かってくるなんて。知ってた? これカナちゃん豆知識ね」
「そうですか?」
「うん。普段絶対そんなことしないよ」
 ニヒヒと子供みたいな無邪気な笑い方をする。きっとこういう所が男にも人気なんだろう。私でもたまに抱きしめたくなるぐらいなのだから。そんなことを思ったら実行してみたくなって、小さい彼女の身体を抱きしめてベッドに倒れ込んだ。髪に顔を押し付けてモフモフする。くすぐったいよー、と笑う。今度はそのまま下に移動して胸のあたりで顔をグリグリした。ちょちょちょ、カナちゃん!とか言って慌てて楽しい。それにしてもデカい胸だな。気持ちいい。もう、とため息を吐かれた。サラサラと髪を撫でられる。眠くなってきた。
「じゃあね、来週の土日休み取りましょう」
 ちょっとした微睡みの中にいた。だから適当に「いいですよむにゃ」と答えた。そのまま夢への特急便に乗る。現実からの旅立ち。
 ここから逃げ出したい。だれか助けて欲しい。そんなことは許されない。疲れたよ。もう嫌だ。でも、死にたくない。連れてかないで。戻ってきて。私の周りで笑ってよ。そうしたらもう私はいつだって幸せになれるんだから。
「土曜日楽しんできてね」
 あーちゃん先輩の声に反応して、ギュッと彼女の身体を抱きしめて、あふん、とか変な声が聞こえて、それから本当に眠りに落ちた。



 土曜日、アンジェラさんに言われた場所に行くと、予想通りというか、嫌な予感的中というか、なんというか。
 見知った顔が居酒屋の入り口の前に屯していた。いつものキャップを被ってきていて本当に良かったと思う。気づいてすぐにキャップを目深に被り、すぐ近くのマクドナルドに入った。店の入口が見える席を確保して彼らの動向を見守ることにした。すぐ帰ればいいところなんだろうけど、気になるよね。同窓会なんだろうな、たぶん。案内なんてくるはずない。誰も私の住所も知らないし、携帯なんて邪魔くさくて持たずにいた高校時代。ホット珈琲を一つ頼み、タバコに火をつける。やはり気になるのはあの二人。まだ姿は見えない。来ないんだろうか。一目だけでも見たかった。何かが変わる気がした。何も変わる訳ないのに。変わるって可能性を信じたかった。期待したかった。
 二人が来る様子も無く、皆居酒屋に入っていった。なんだ。そうか。来ないのか。だよね。協調性なんて欠片もない奴らだったじゃん。そうだよ。なんだ。馬鹿らしい。ていうか馬鹿だ。帰ろう。でも、折角こんなところまで来たんだ。なんか買って帰ろう。懐かしい顔ぶれを見られて、それはそれで少しは元気が貰えた部分はある。アンジェラさんの好きな白いたい焼きでも買おう。そうだ。それがいい。
「おいどこ行くんだ佳奈多」
 ビクンとなる。特徴的な声。普通に喋ってるのに少し棒読みみたいな。
「タバコ吸うなんて不良になってしまわれたんですね。まあ、元風紀委員長の癖に素行の悪いところは多々見受けられましたけれど」
 なんだ。そうか。そりゃあ、来ないよね。同じ店の中で、私の行動をきっとニヤニヤしながら見ていたのだろう。たちが悪い。久しぶりに会って、いきなり喧嘩売られて、何よこいつら。ふざけんじゃないわよ。ああ、やばい。泣きそう。ていうか、ちょっと泣いてるわこれ。それに顔も超熱い。絶対赤くなってる。そんなのバレたらもっと馬鹿にされるからここは逃げよう。それが一番の選択だ。たぶん。
 二人の言葉を無視して出口へと早足で歩く。
「棗さん逃げてるわよあの人」
「ちょっと待て、まだポテトが残っている」
「Lサイズなんて頼むからでしょうが!」
「うっさいハゲ。そういう気分だったんだよ!」
「あ、やば、二木さんタイム! ターイム!」
「ポテトターイム!」
「棗さん!」
「佳奈多ー。ポテト食い切れないから手伝ってくれー」
 変わってねー。ああ、もう馬鹿みたいじゃん。なんで逃げようとしたんだろう。二人がいないから帰ろうとしたんじゃない。二人がいるなら帰らなくてもいいじゃない。涙を拭って、早足で二人の席に向かう。そんでもってドカンと座る。それからポテトの箱をトレイから掻払って口の中に全部流し込んでモグモグして飲み込んだ。
「全部食っていいなんて言ってないぞ!」
「あら? 手伝ってていうから手伝ったまでだけど?」
「太るぞ?」
「私食べても太らないのよねー」
「おい、ささみ。こいつ殴っていいか。殴ってもいいよな」
「まあまあ落ち着いて。久しぶりなんだから」
「あんた誰よ?」
「笹瀬川佐々美ですわ!」
「……ああ」
「ああそういえばそんなやついたなぁ……みたいな反応やめてくださるかしら!」
「冗談よ」
「キィー!」
 自然と笑みが溢れる。なんでこんなに変わってないのよこいつら。本当面白い。自分の席に置いてあったホット珈琲を取ってきて、空っぽだったのでついでにおかわりをして、二人のいる席へと戻る。
「久しぶりね」
「そうだな」
「本当に」
 しばしの無言タイム。噛み締めるっていうのかな。やっぱり楽しかったのよ。高校なんて本当に碌な思い出なんて無かったのに。この二人とだって、殴って罵ってなじってみたいな思い出しか無かったのに。妹は死ぬし、ちょっとこの人いいじゃないとか思った男も死ぬし。そう考えるとやっぱりいい思い出なんて一つもない。なんなんだろう。日常が戻ってきた気がした。ずっと日常の裏側で生きてた気分だった。朝に寝て、夜に起きる。それだけで普通の人とは逆の生活で、やってることも水商売で。今私は日常に引き戻されたんだ。そんな気がした。
「積もる話もあるでしょうし。行きましょうか」
「どこに?」
「同窓会に」
「無理。無理無理無理」
「なんで?」
「それよりも三人で飲まない?」
 こんな言葉自分から出てきたことに驚いた。そして、二人から賛同の言葉が出たことにも驚いた。



 三人で適当な居酒屋に入る。同窓会なんてブッチした。そもそも私は呼ばれていない立場だし、この二人は協調性もないし、ていうか、来てないのに居酒屋に入られた時点で諦められている訳で。そういうことで「生三つ!」頼んだ。
 出てきたお通しはあんまり美味しくなかった。生中ついでに枝豆とサラダと刺身の盛り合わせとコロッケを頼んだ。タバコに火をつける。こいつら相手に猫を被ってもしょうがないし、第一すでにタバコを吸っている場面は見られているのでどんとこい超常現象。すぐに生中は揃った。乾杯の音頭は誰が取るのか。「笹瀬川、音頭取って」とりあえず振ってみた。
「え? 私?」
「そう」
「ささっとしろ」
「えー、では、本日はお日柄も良く」「はい、かんぱーい!」「かんぱーい!」「ちょっ、えー……かんぱーい……」
 一気に流し込む。最初の一杯の生ビールのウマさはなんだろうね。ほぼ毎日お酒は飲んでるし、高いのだって注文してもらったら飲むのに、きっとこの一杯目のウマさには勝てない。とか思っていたら全部飲み干してしまった。
「お前酒つよいな」
「仕事柄ね」
「あら、どんなお仕事なさってるの?」
「ないしょ」
「かわいくないぞー」
「言いなさいよ」
「人に質問するなら先に自分から言いなさいよ」
「ささみはすごいぞ。実業団に入るの失敗してニートだ」
「ニートはあなたでしょ! 私はちゃんとOLしてるわよ」
「へぇ」
「なんですの?」
「いや、ちょっと笹瀬川のお嬢言葉が抜けてるなって思って」
「あんなの続けてたら社会で生き残れませんわ」
 まあ、こういう場では癖で出ちゃうみたいだけど。
「で、お前は?」
「ああ、キャバ嬢」
「おお、マジか」
「マジよ」
「似合ってますわよ。没落貴族って感じで」
「あたしは昔からかなたはキャバ嬢になるって信じてた」
 変なことを信じられてた。それから頼んだメニューがどんどこ来て、それをむしゃむしゃ食べながら、笹瀬川の仕事の愚痴とか棗への愚痴とか(一緒に住んでるというか無理矢理居候させれてるらしい。楽しそうだけど)、男が出来ない愚痴とか、主に笹瀬川の愚痴で時間が過ぎていった。棗は笑っていた。私も笑っていた。愛想笑いじゃなくて、本当に心の底からの笑顔なんていつぶりだろう。たぶん卒業以来無いな。唐揚げと焼酎ボトルを追加オーダーした。流石に私のペースには合わせられないようで、ラストオーダーを前に棗が潰れた。弱いくせにすぐ調子こいて飲むとは笹瀬川談。らしいといえばらしい。こいつら変わんねー。私はどうなんだろう。会計をして店を出た。棗は笹瀬川に負ぶさっている。
 店を出ると、街はキラキラなイルミネーションで輝いていた。ああ、いいわねこういうの。私の住む街の光とは違う、澄んだ光。眩しくて直視出来なかった。
「はあ」
「大丈夫?」
「いつものことですわ。まったく」
 そういう笹瀬川の顔はまるで世話のかかる子供を持つ母親のようだった。この歳で既に母親の貫禄を出して、どこに向かってるのだろうか。
「まあでも、顔を見れて安心しましたわ」
「そう?」
「ええ、相変わらず嫌味で憎たらしいけど、元気そうで良かった」
「相変わらず、かしら?」
「ええ、ちっとも変わってない」
 そう言って笑った。だから、私も笑った。声を出して笑った。嬉しくて笑った。許してもらえた気がした。何に何を許されたのか、自分でもちっとも分かんないけど。
「かなたーもうおまえどっかいくな。そばにいろよ」
「棗……」
「さいきんささみが冷たいんだ」
「冷たいの?」
「いや、別に」
「ちくしょー。もうだれもあたしからにげるなー」
 その言葉を聞いて、私は負ぶさっている棗を背中から抱きしめた。あーちゃん先輩と同じ匂いがした。懐かしくて暖かくて、アルコール臭い。
「ねえ、夏になったらまた会わない?」
「まあ、別に構いませんけど?」
「絶対だからね」
「なんで夏?」
「頻繁に会ってたら有難みが無くなるじゃない」
 約束があれば私は生きていける。
「だから、携帯番号教えてよ」
 繋がりがあればきっと。じゃあね。バイバイ。



 お疲れ様、と店を出た。
 季節は夏。
 携帯が揺れる。
 ポケットから出して開く。
 内容を見て、笑った。
 水着、買わなきゃ。


[No.656] 2010/02/06(Sat) 00:27:43
しめきり (No.649への返信 / 1階層) - 大谷(主催代理)

しめきり

[No.657] 2010/02/06(Sat) 01:03:59
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