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いってらっしゃい - ひみつ@6837byte - 2010/03/17(Wed) 23:03:28 [No.693]
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あなたがあたしにさようならを言った夜 - 特に無し@7610 byte - 2010/03/17(Wed) 16:12:19 [No.691]
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第52回リトバス草SS大会 (親記事) - 大谷(主催代理)

 リトバス草SS大会最終回です。
 この記事に返信する形で作品を投稿してください。
 なお、今回は変則的な開催になるため、普段参加されている方も以下に目を通してからご参加ください。


・日程
 3月17日(水)24時締め切り (←金曜ではなく水曜です。注意してください)
 3月20日(土)22時感想会開始
 締め切り後に投稿された作品はMVP対象外となります。


・ルール
 詳細は普段どおりこちらです。
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/rule.html
 が、今回に限り、以下の三点を変更します。

1、お題をなしにする。
2、従来はSSの上限容量が20キロバイトだったのを、今回は無制限にする(※)。
3、従来は一人二作までしか投稿できなかったのを、今回は無制限にする。

 要するに自由に書いてくださいということです。
 ただし上記以外の規制は有効です。具体的には、クロスオーバー、露骨な性描写、続き物などは禁止となります。

※上限容量は撤廃されますが、SSの容量はこれまでどおり、容量チェック用のCGIで計測した上で名前欄に明記してください。CGIの上限は65KB前後(正確な数値は不明)のようですので、それを超える容量の時は面倒ですが分割して計ってから足してください。また長編を投稿する場合、掲示板の規制に引っかかって一度に投稿できない可能性があります。その際には、自分の最初の書き込みへ更に返信するかたちで幾つかに分割して投稿し、容量は、全体の容量の総計を最初の書き込みの名前欄に記載してください。


・感想会会場
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/chat.html
 普段どおり、はじめにMVP投票(最大3作まで投票可能)をおこないます。
 ご新規、読みオンリー、感想オンリー、投票オンリーでも構いません。最後ですし是非ご参加ください。


[No.682] 2010/02/28(Sun) 03:51:38
胸に夢見て (No.682への返信 / 1階層) - 秘密 4,626 バイト


「鈴の胸が大きくなった」
「えっ」
「えっ」
「なにそれこわい」

 唐突な理樹の言葉に珍妙な反応を返したのは、無論真人謙吾恭介だ。
 しかしよくよく考えれば無理もない反応でもあった。
 下には下が居るもので、鈴より小さい者はリトルバスターズ内だけでも2人居るのだ。
 ご拝読中の諸兄には、その2人に比べ、鈴はまだ将来性があるように思えるだろう。

 だが、恭介は実に冷静に、理樹に向かって言う。

「マッド鈴木も言っていただろう、理樹。『――彼女は、いい研究対象になりえる』と」

 それ即ち、将来性がない故にそう言った研究対象として興味深いと言う事である。クドはあれでもクオーターだし、突然変異の可能性もある。美魚? 知らん。
 絶望的なまでの絶壁を如何様にして育てるか…………そこにエロや性欲はない。ただただ研究者としての好奇心があるだけだった。それはそれで問題ありそうだが。
 鈴が絶壁なら鈴より下の2人はって? 抉れてんじゃねえの?
 ともあれ、信用の置ける変態研究者に言わせれば鈴に将来性はないのである。
 それに比べて。一般的な高校生男子もとい男の娘の理樹の言葉が信用出来るはずもない。
 故に、真人と謙吾の2人も、すぐに恭介に便乗した。

「そうだぜ、理樹。鈴の胸が育ったなんて、鍛えて大胸筋が立派になったとしか思えねえ」
「真人の言うとおりだ。まだ、理樹の胸が成長して巫女服がきついと言われた方が説得力がある」
「ないよ全くこれっぽちもありはしないよと言うか謙吾は巫女服なら何でもいいんでしょ!」
「ふ、ふざけた事を言うな! 古式以外は理樹の巫女服姿にしか興味はない!」

 是非ともその古式さんに伝えてあげたい言葉だったが、残念ながら今はそんな余裕はないし本題でもない。
 それは、話が一通り終わった後で、本棚に置いてあるアマ○ンの空箱の中のボイスレコーダーからPCに取り込み都合よく編集して行うべき仕事だ。

「つまり、今俺と話をしたければ巫女服を着るんだ理樹!」
「まあいい、理樹。詳しく話せ」
「ああ、いいトレーニング法があるならオレも知っておきたい」
「わ、わかった。詳しく話すね……」

 巫女服野郎はどうやら理樹が巫女服を着ないと話す気がないらしいので、全員で無視した。

「昨晩、鈴とチョメチョメしてたんだけど……」
「チョメチョメってなんだ? 筋トレか?」
「甥の名前は月(ムーン)でいいかな……」
「巫女服プレイだとっ!?」

 困ったことにこの中では真人が一番まともな反応である。

「で、時雨沢的表記なら××××になる行為をしようとしたわけだけど、そしたら鈴の胸が大きかったんだ……」
「可能性としては……ひとつしかないな」
「え、なにか心当たりがあるの? 恭介」
「マッド鈴木だ。ヤツが研究を完成させたとしか思えん。……理樹、ひとつ確認しておきたい事がある」

 きっ、と目を細め、恭介は真剣な表情を作る。
 部屋の空気が若干固くなり、静寂が訪れた。
 蛍光灯が、寿命が近いのか明滅し、深刻な雰囲気を作り出し加速させて行く。

「大きい鈴は、どうだった。正直想像が出来ん。だが、知っておく必要がある」

 最低の兄だった。

「何て言うか……幸せだった。いつもが一丁拳銃だとすると、二丁拳銃くらいの勢いで頑張っちゃったよ僕。薬品の臭いとかはしなかったし、アレはやっぱり……」
「そうか……しばらく(風呂に入っている姿を)見ないうちに……鈴はそんなに成長してやがったのか……」
「ところで恭介」
「なんだ、理樹」

 穏やかな笑みを向ける。よく育てたな、と言わんばかりだった。
 お前になら鈴を任せられる、と。恭介はそんな事を思う。


「ここまで全部僕の見た夢なんだけど」


「って夢オチかよ!? 無理矢理感満載だな!!」
「なにぃ!? じゃあ鈴の大胸筋は鍛えられてなかったってのかよ!?」
「ふっ……俺もよく、巫女服な古式と理樹に足蹴にされる夢を……」

 三者三様の反応。恭介以外は我が道を行っていたが。
 その反応を見てから、理樹は小さく笑う。

「夢と言っても、見た夢じゃないよ。ナルコレプシーは完治したけど、まだ夢を思い通りにコントロールは出来なくてね」

 そんなもん患ってない人でも出来るわけがないのだが、純真な理樹は出来ると思っているのだ。
 そっとしておいてあげよう。少年の夢を壊しちゃいけない。

「夢……なんだ、そう。将来の夢」

 照れくさそうに、頬をかきながら理樹は言った。

「鈴の事は好きだけど……出来れば大きい方がいいから」

 ぐっ、と握り拳を作りながら、前を見据えた瞳で。
 男の娘でもなければ男でもない。ひとりの立派な漢が、ここに居た。
 まあ理樹だから漢の娘でもいいけど。

「だからちょっと今、育てがてらシミュレーションをしててね。ほら、鈴のおっぱいマウスパッドも作ってみたよ」
「なんだと!? 自作か!? だとしたら理樹、俺の分も作ってくれ!!」

 自慢げにブレザーの内側から取り出した理樹に対してそうお願いしたのは、勿論恭介である。
 愛が溢れすぎて病院に来てもらいたいくらいのどうしようもない兄貴(と書いてへんたいと読む)だった。

「やだなぁ、恭介。僕にそんな技術はないから、来ヶ谷さん作だよ」
「よし、今からちょっと女子寮に行って来る」
「オレは……おっぱいマウスパッドよりも大胸筋マウスパッドを……」
「もう巫女服ならなんでもいい!」



 こうしてグダグダのまま、男の夢を語り合う場となったのは言うまでもない。


[No.685] 2010/03/04(Thu) 15:57:26
眇の涙 (No.682への返信 / 1階層) - 謎 13654 byte

 古式は可憐でいて、それでいて背筋が凍るような微笑で、俺を拒絶した。
「許しませんよ。あなたのこと」


 目の前が光に包まれていく。きらきらと、ぎらぎらと。光が俺の視界を塞ぐ。理樹の手の温もりが消えていく。いや、消えているのは俺の方。
 悪くはなかった。俺に出来ることは全てやった。あいつらなら、きっと大丈夫だ。
 ……古式、そっちに行ったらまずは、お前に会いに行くとしよう。あのとき、お前に言えなかったこと、やっと本当のお前に言える気がするよ。
 どこまでが自分の体か、どこからがこの光なのか。俺にはもう判別することが出来ない。手を動かそうとしても、もう手がどこにあるのかも分からないし、動いている感覚もまるで無い。俺の命が尽き果てていく、消えていく。俺のこんな想いも、今まで過ごしたあの素晴らしい時間も、全てが塵に還っていく。
 頭の中がぼんやりしてくる。せめて今のこの幸せな気持ちだけでも、ずっと抱いていたかったのに。ああ、駄目だ。だんだん何も考えられなくなっていく――。もう、なにも……。


 ――気が付くと、俺は裏庭に立っていた。ここは、何処だ? 周りを見回す。今まで通りの校舎、今まで通りの空。全てがこれまでと同じだった。
 戻って、きたのか? そんな馬鹿な。俺は確かにあそこから退場したはずなのに。辺りには理樹たちの姿も、恭介の姿も見えない。誰も居ない。
 俺は大声を上げる。誰か居ないのか。居たら返事をしてくれ。
 しかし、自分の声が耳に残るだけで、何処からも声は返ってこなかった。
 本当に、ここは何処なのだろうか? もしかしたら、こここそが彼岸の世界なのだろうか? だとしたら滑稽だ。俺達が作り上げた世界が、あの学園の写し身であるならば、彼岸の世界もまた、世界の写し身であろうとは。しかし、滑稽と思うと同時に恐ろしく思う。本当にそうだとしたら、他の連中だってここに居るはず。それなのに誰も居ない。
 もしもこれが死後の世界なら。どんなに寂しい世界なのだろう。死んだ人間は皆一人で、今まで生きていた世界に棲まねばならない。恐ろしい、地獄だと思った。世界は生前と同じなのに、永遠に死ぬことも無く、一人孤独で。そんな世界でのこれからを思うと、血の気が引いていき、吐き気を覚えた。
「違いますよ」
 声が聞こえた。この無音の世界で、鈴のように鳴り響く、美しい声が。聞き覚えのある、あの声が。
 俺は声がする方に振り向く。するとそこに、あいつが居た。後ろで括られた長い艶やかな黒髪。その黒髪と対照的に雪のように白い肌。そして、痛々しい右目の眼帯。古式みゆき。俺が最初に会いたかった人間が、目の前に居た。
 あいつの薄い唇が開き、言葉を紡ぐ。
「ここは、今まであなた方がいたのと同じ場所。あなたとお話したかったので、勝手なことをさせていただきました」
 その言葉を聞いたとき、安心半分落胆半分、そんな心持がした。俺は眉をひそめる。
「ということは、お前は恭介の差し金か。今更何があるんだ?」
 言葉の最後は目の前に居る古式の贋物にでは無く、恭介に向けたものだった。俺は空を睨む。あいつがどこかから見ているのかもしれないから。
「それも、違います。私は、はじめから私です。あなたが知っている古式みゆき、本人です」
「は?」
 我ながら、間抜けな声が出た。
「私はあなた達が作ったこの世界で、ずっとあなた達と共に過ごしていたのですよ」
 古式は薄く笑う。
 その言葉に、背中の毛穴という毛穴から嫌な汗が吹き出るのを感じた。
「では、俺はお前に何度も同じことを言い続けていたのか?」
「ええ」
 古式は平然とした表情で肯定してしまう。そんな平然とした顔で言うんじゃない。こっちは毎回、大真面目で言っているのだから。
 俺は頭を抱えて唸ってしまう。仕方ないだろう。ぐお……。それにしても何てことだ、恥ずかしすぎる。恥ずかしすぎて死にたくなる。いや、もう死んではいるのだが。
「ああ、そ、そうだな。俺があの時言いたかったことは、まあ、そういうことだ」
 こういうときは、開き直るしかないだろう。
「そう、ですか」
 古式は目を伏せる。その瞳が、その長い睫毛の陰に隠れる。
 沈黙が続く。それに耐えられなくなって俺が口を開こうとした瞬間、古式の方が先に、伏せていた瞳を俺の方へと向け直し、口を開いた。
「それで、満足しました?」
「は?」
 冷や水をぶっかけられたような心持がした俺は、まじまじと古式を見つめる。古式は先程と同じように、穏やかに笑っていた。だから俺は、先刻古式が放った冷たい声が、聞き間違えかと思ってしまった。
「何も出来ない無力な自分を許すことが出来ましたか、と訊いているんです」
 しかし古式の声はやはり氷水のようで、先程とは違う意味で冷や汗が出た。古式の表情は笑ったまま。しかし、俺の目に映る左の瞳は真っ暗で、何も映してはいなかった。
「何を言ってるんだ、古式……」
「気付いていない? なら何故、あなたがあんなにも私を助けようとしたのか。それを教えてあげますよ」
「それはあのとき、俺がお前を救えなかったから……」
「そうですね。その通りです。あなたはその罪滅ぼしのために私を助け続けた」
 古式の口が今にも裂けそうだ。古式の笑顔を見つめながら、俺はそうぼんやりと思った。
「自己満足なんですよ。あなたが罪の意識から逃れるための。ここで何回何十回私を救っても、私が死んだ事実は変わらない。言い訳にも、ならないんですよ」
 俺はこいつの言葉をただ聞くことしか出来なかった。俺は唇を噛む。古式の口から、刃のような言葉を浴びせられる。そんなこと、わかってる。わかってるんだ。
「そもそも、あなたはあの時、私を助ける事が出来たのですか?」
「?……どういうことだ? お前が言ってたじゃないか。俺はお前を助ける事が出来なかった、と。」
 その言葉に、古式は溜息をつく。古式の瞳にありありと失望の色が見られた。
「……あなたに問います。私はどうやって死んだのですか?」
「それは、お前が学校の屋上から飛び降りて……」
 違和感を覚えた。それは、いつの話だ? あいつの葬式のこと。それは覚えている。クラス委員のヤツと一緒に行ったはずだ。そこで、俺は古式の両親と話をしたはずだ。何を? 思い出せない。全部ぼんやりとした記憶。……どういうことだ?
「思い出せない? そうでしょうね。でしたら」
 そう言うと、古式は俺の眼前まで近づく。その右手が眼帯を掴む。
 駄目だ。見てはいけない。俺の中の何かがそう警告する。けれど、俺の体は一向に動かない。動けない。そんなことをしているうちに古式の右目が顕わになる。
 そして。
「さあ、あなたの、その目を開いて――」




 右目に眼帯を巻いた、寝巻き姿の古式。
 色とりどりの花。
 的に掠りもしない、数多の矢。
 古式の後姿。
 空の紙コップ。
 教室に横たわる古式。
 あいつの寝床に据えられた、大量の注射器。
 そして、両目とも晴眼だった頃の、あいつの遺影。


 それは空気が痛いほどに冷たい、冬の朝。
 俺はひとり自主トレを終えて、剣道場を出る。
 そこに弓を射るいつもの音。こんな冬の朝に練習するようなヤツなんて一人しか居なかった。
 俺は緑のネット越しに的を見る。的には一本の矢。
 しかし、中心を大きく外れ、斜めに突き刺さっていた。そしてその周辺。文字通り的外れな場所に突き刺さっている夥しい数の矢。


 古式を初めて見たのはいつだっただろうか? 確か中学二年の夏の始め、梅雨が明け本格的に暑くなり始めるころだったように思う。俺と同様、一年の頃からレギュラーとして大会にも参加し、次期主将として期待されていた。
 俺が剣道場に向かっているとき、あいつも隣の弓道場に向かっていた。凛とした芯の強そうな瞳。背筋をピンと伸ばし、歩く所作も美しく。けれど、あいつはどこか抜けたところがあるのか、考え事をする癖でもあるのか、何度か木にぶつかりそうになっていた。
 面白いヤツだ。そう、思った。


 俺は弓道場の中に飛び込む。そこには、古式が一人きりでうずくまっていた。
「どうした! 古式!」
「……あ、宮沢さん」
 古式の唇が小刻みに震えていた。古式の手が俺の方に向けられる。それはまるで俺の姿を探すように。
「わからないんです。的が何処にあるのか。全部がおぼろげにしか見えないんです。あなたの顔も、……ぼやけるんです」


 あれは学祭の打ち合わせの後だっただろうか。あのころから、兆候があったのかもしれない。他の女子たちとお菓子を食べながら談笑を交わす古式に少し違和感があった。
「みゆきさーん。お茶飲みすぎ。殆どみゆきさん専用になってるよ」
「あ……ごめんなさい」
「いや、別にいいんだけどさ。もしかしてお菓子とかあんま食べない人?」
「何ナニ? もしかしてダイエット?」
「いえ、そういうわけではないんですが。最近、喉が渇いて……」
「ふうん。何だろ?」
「あー、でもさ。水を沢山飲むとシンチンタイシャが良くなるとかって聞いた事ある」
「まじ? じゃあ、あたしも水飲むわ」
「そういや、水って最近色々売ってるよね。アレ、ナニが違うの?」
「知らねぇ。宇宙の果てを知らないのと同じくらいそんなこと知らねぇ」
 今思えば、あの頃に気付いていれば、結果は違っていたのかもしれなかった。


 襖をノックする。中からあいつの声がした。
 部屋に這入ると、寝巻き姿のあいつが布団から上体を起こしていた。優しく、儚い笑顔だった。
「よう、調子はどうだ」
「あ、宮沢さん。いいんですか? 部活の方は」
「別にいいさ。それよりコレ。見舞いだ」
 そう言って俺は小さめのフラワーアレンジメントを手渡した。
「病人に下手に食べ物を持っていくのは良くないと聞いたからな。ずっと家の中だと滅入ってくるだろう? これで少しはマシになるんじゃないか?」
「ふふ」
「なにが可笑しい?」
「だって宮沢さん、いかにも侍みたいな風貌で、こんな可愛らしいもの持ってくるんですもの」
「なっ……」
「でも、嬉しいです。ありがとうございます」
 古式が頬を緩めると、俺もどこか胸のつかえが取れたような、そんな気持ちにさせられた。


 冬のある日、古式は教室で突然倒れ、昏睡状態で病院に運ばれた。
 あいつは、机に片肘をつき、額を押さえていた。その目は黒板には向けられず、机に向けられていた。だが、あいつには机の上のノートが見えていたのだろうか。その目は大きく見開かれたままで、じっと動く事は無かった。
 暫くして、あいつの上体がぐらりと左に傾いた。
 そのまま椅子から崩れ落ちる。
 周りの生徒、教師が、あいつの周りに集まった。
 あいつは荒い息をつきながら、額に玉のような汗をかいていた。
 騒然となる教室。救急車のサイレン。
 1型糖尿病(いわゆる小児糖尿病というモノだそうだ)だと、後であいつの両親から聞かされた。


「そういえば、もうすぐ春季大会が始まりますね。本当に練習しなくても大丈夫なんですか?」
 頭を枕に預けた古式は目を瞑ったまま、俺に話し掛ける。
「まあ、根を詰め過ぎる方が寧ろ結果が悪くなるからな。たまには息抜きも必要だ」
 それを聞いた古式が左目を開き、非難めいた瞳で俺を見る。
「人のお見舞いを息抜きなんて、とんだ言い草ですね」
「あ、……ああ、すまない。そんなつもりじゃ……」
「冗談です。でも、大会は頑張ってくださいね。団体戦もあるんですから。あなたは主将なんですよ」
「ああ、わかってる」
「宮沢さんは頑張って下さい。私はもう、弓道部の皆に何もしてあげられないですから」
「そんな事言うな。部の皆が悲しむぞ」
「そうですね、すみません。確かにもう選手としては何も出来ないけど、皆の応援に行くくらいは出来ますものね」
 古式は眼帯の上から、その失った右目を撫でる。それを見ると、俺は胸が苦しくなる。
「今だって、単なる風邪なんだからきっと間に合うさ」
「……ええ」
 それが俺たちが交わした、最後の会話。


 思えばあの時、俺は油断していたのかもしれない。古式やその母親から、古式の病気について聞いていたから。片目を失ってしまったのは相当なハンディではあるけれど、常に制限が付きまとうけれど、今まで通りの生活が出来ないわけではない。ずっと大丈夫だと、そう思っていた。
 けれど、このとき会った古式が、俺の知る最後の姿になってしまった。
 次の日あいつは、再び重篤な昏睡状態に陥り、そのまま帰らぬ人となってしまった。




「――どうですか? あなたの目に、真実は見えました?」
「ああ、見えたよ……」
 俺はすとんと膝から崩れ落ちる。そうだ、古式は、あいつは病死したんだ。何故、そんなことを忘れていたんだ。どうして。
 古式は眼帯を元に戻すと、俺に近づき、隣に座り込んだ。古式の目が冷たくて、恐ろしかった。さっき見たあいつの目と同じとは、どうしても思えなかった。
「もう一度問います。あなたは、本当に私を助けたかったのですか?」
 助ける? どうやって?
「そう、あなたに私を助ける事なんて出来なかった。助ける必要も無かった。では、何故あなたは、私をこんな世界に閉じ込めたんです? 何度も私を自殺に追い込んだんです?」
「違う……俺は、そんなつもりじゃ……」
「違わないですよ。全てはあなたの自作自演。あなたが助けたかったのは、いえ、許せなかったのは、私を失った、無力な自分なんですよ」
 俺はもう、古式の目を見る事も出来ず、ただただ地面を見つめるばかりだった。
「……ねえ、宮沢さん。あなたは人の人生をどうこう出来るほど強くないと満足できないんですか? 弱いということが、そんなに怖いんですか?」
 あぁ、そうか。俺は何かをやり遂げた。そう思いたかっただけなんだ。無駄死にするのが、嫌なだけだったんだ。俺はそのためにこいつを、古式を利用したのに過ぎなかったんだ。
 それだけじゃない。俺は、いや俺達は、ただ残された理樹と鈴に「強くなれ」と重荷だけを負わせたんだ。そうして自分達はやり遂げた、自分の人生には意味があったとそう言いたかっただけじゃないのか?
 俺達は一体、何をやっていたんだ?
 俺は体を折り曲げて、地面に伏せる。言いようの無い無力感が俺の中を満たした。
「ああ、そうだ。お前の言う通りだ。なぁ、古式。俺はどうしたらいい? どうしたら、お前に許して貰えるんだ? あいつらに許して貰えるんだ?」
 その言葉は既に懇願だった。俺は起き上がると、古式の肩を掴んでいた。
 そんな俺に、古式は可憐でいて、それでいて背筋が凍るような微笑で、拒絶した。
「許しませんよ。あなたのこと」
 古式は俺の手をやんわりと退かせると、更に冷たく言い放つ。
「……だから、あなたを連れては行きません」
 俺をここに置いていくと言うのか。何も出来なかった俺を、何も無い、この世界に。
 しかし、古式はその瞳に若干の哀れみを込めて、続けた。
「あなたは、これからもずっと私のいない世界で、自分の無力さを呪い続けてください。それが私の復讐です。もしもあなたが未だに、自分の人生の意味が、誰かを救うことだというのなら――」
 古式が後ろを向く。俺から一歩離れると、俺を振り返らずにこう言った。
「あなたはこれから、長い長い余生を無為に送ればいいわ」
 彼女が歩き出す。その姿が段々と、霧に包まれるように、ぼんやりと曖昧なものになっていく。俺は走って追いかけようとするが、どんなに走っても古式の影さえ見えなかった。やがて、俺は途方に暮れ、走るのを止める。目の前は真っ白でもう何も見えない。自分の足元すら真っ白で、一歩足を踏み出せば、そのまま落下してしまうのではないか、そう思われた。そんな霧の中、遠くから鈴のように鳴り響く、彼女の声が聞こえた。
「さようなら」


 ――気が付いたとき、俺は病室のベッドにいた。エアコンをつけず、部屋の窓を開けるだけにしておいたからなのだろう。額に汗をかいていた。
 俺は、横向きになって再び目を閉じる。もう一度あいつに会いたかった。会って、今度は謝りたかった。


 夕方になって、目が醒めた。古式に会えるはずも無かった。俺は枕の上で腕を組み、その上に自分の頭を乗せた。そして、ぼんやりと外を眺めながら、物思いに耽った。
 いつか、俺が俺自身を受け入れることが出来るようになったら、あいつの家に行こうと思う。今まで人目を避けるように、あいつの墓にしか行ったことが無かったから。そこに、いつか持っていった花を供えて、線香を上げよう。
 そして、今度こそあいつに報告しよう。
 どうしようもなく弱くて無様だけれど、それでも毎日を賑やかに、穏やかに生きている、俺達の姿を。


[No.686] 2010/03/11(Thu) 00:05:11
\わぁい/ (No.682への返信 / 1階層) - ひみつ@7875 byte

 今、あたしは重大な問題を前にしている。
 そう――目の前にいる理樹君のズボンを下ろすか否か、という。





 ほとんど日課になってる迷宮探索を終え、男子寮と女子寮を繋ぐ渡り廊下の辺りまで戻ってきたあたし達はそこで別れた。さすがにこの時間だと寮の入口は鍵が掛かってるので、理樹君は予め開けておいた窓から部屋に入る手筈になっている。おおよそ十分。万が一にも誰かに見つからないよう、物陰でひっそりと息を殺しながら時が経つのを待ち、静かに移動を開始する。
 目指すは男子寮の玄関。周囲の状況に気を配りつつ、固く閉まった扉に辿り着いたあたしは懐から細い針金を取り出した。予算をケチってるのか、女子寮と比べてこっちはセキュリティが甘い。ロックは電子式じゃないし、前にスコープで確かめてみたところ、赤外線が張り巡らされてるわけでもなかった。一度鍵を開けて突破してしまえば、侵入し放題だ。こんな単純な道具でも、五秒ほどでロックは外せる。かちゃり、と軽い音がして、引いた扉は簡単に動いた。
 真っ暗な廊下を慎重に歩く。響く足音を最低限に抑え、要所要所に設置されてる非常灯の明かりとハンドライトを頼りに、左右に並ぶドアの中から理樹君(+1)の部屋を探す。一応何度か来たこともあるし、ぬかりはない。ないったらない。
 男子寮のドアノブは捻って開けるタイプで、備え付けの錠はなく、必要なら各自でということになっている。女子と違ってその辺は本当に緩い。盗まれて困るものがないからなのかもしれないけど、この場合は好都合だった。
 呼吸を整え、まずはノブに手を掛ける。鍵が付いてないのは事前に調査済みだ。左に捻り、肩を当ててゆっくり前に押し出していく。老朽化した古い蝶番が、きぃ、と微かに耳障りな音を立てた。大丈夫。奥に動く気配は感じない。ある程度の隙間ができたところで、半身をすっと滑らせるようにして中に入る。そのまま後ろ手で内側のノブを握り、今度は背中を触れ合わせて閉める。考え得る限り最小限の物音だけで、部屋への侵入は果たせた。
 一息。額にじわりと滲んだ汗を袖で拭う。
 既に数度来たこともある室内。ぴっちり閉められたカーテンの継ぎ目から薄く外の光が入り込んでいて、そのおかげで暗闇に慣れた目には割とよく物が見えた。二つの机と間に挟まった本棚、テーブル代わりのみかん箱と座布団。そして、梯子が立て掛けられた二段ベッド。
 視界の右手、ベッドの方に近付いて、あたしは下側で横になってる人影を覗き見る。掛け布団に包まり、枕に頭を乗せてこっち向きで眠る理樹君がそこにはいる。
 あどけない寝顔だった。連日あたしに付き合ってくれてるせいで、疲れが溜まってきてるんだと思う。すごく無防備な感じで、何というか、可愛い。時折睫毛を震わせて、んん、と妙に色気のある声を出したりするものだから、こうして眺めてるだけでも楽しくて仕方なかった。
 とはいえ、ずっと見つめてるわけにもいかない。平常心平常心。
 本来の目的を思い出す。うん。今のあたしにはやるべきことがある。そのためにわざわざ不法侵入までしたのだ。

「えっと、最初は……」

 頭の中で組み立てた手順を自分に言い聞かせるようにして、理樹君の足元の掛け布団を掴む。そろそろとお腹の方に引っ張り、腰から下を大気に晒す。穿いてるのは部屋着のロングパンツだった。前面に留め具やチャックはなし。ちょっと脱がせにくそう。ついでに少し服の裾をめくって、おへそを確かめる。つるんとしたお腹の真ん中にある小さなくぼみ。そこに指を入れてぐりぐりしてみたい衝動に駆られたけど、さすがにそんなことやったら一発で起きちゃうので自制した。
 裾を戻した後、掛け布団の顔側も肩口が露出するまで剥がしておく。ここからはさらに慎重さを要求される作業だ。理樹君が起きないように様子を窺いながら、じわりじわり、姿勢を仰向けに移行させる。一番難しいのは胸の前に投げ出された右手で、こればかりはあたしが直接取って奥の方に持ってくしかない。きゅっと握った手の甲はほんのりあったかくて、正直放しちゃうのが勿体無かった。
 仰向けの恰好にできたら、とりあえず肩まで布団を掛け直す。腰から下はそのまま。すーすーするからか、心許なさそうに足がもぞっと動いたりするけれど、それでも起きる気配はないので、まだいける、と判断する。
 左肩から身を入れ、あたしはベッドの上に乗り出す。両膝を付くと、底のマットが軋んだ。天井まであんまり高くないので、頭を上げるとぶつけそう。だから自然、理樹君を見下ろす形になっていた。
 今のあたしの恰好は、理樹君の太腿辺りを跨いでる感じ。なるべく自分の重みが掛からないようにはしてるけど、下着越しのお尻に布の感触があって、何とも言えない気分になる。
 馬乗りのまま、ごく、と唾を飲み込む。
 早鐘を打つ心臓を深呼吸で落ち着けて、穏やかな理樹君の寝姿を目に焼き付ける。
 ……いつしかあたしの胸中には、一つの疑惑が生まれていた。
 初めて出会った時、確かに理樹君は“男の子”だった。若干気弱なところもあるけど、ここぞという場面では格好良くて、一生懸命で、何より一緒にいるのが楽しくて、すぐに惹かれた。
 でも、そうして理樹君をよく見るようになってから、気付いてしまったのだ。
 理樹君は可愛い。何かもうあたしが自信をなくしそうになるほど可愛い。
 男らしく感じるのと同じくらい、ふとした仕草に胸がきゅんとすることがあった。面立ちも中性的というか童顔というかぶっちゃけ下手な女の子よりよっぽど可愛らしいし、身長だって女子の平均よりちょっと高い程度。ウエストは細く、肌も結構綺麗で、ついでに言えば足の毛とかも全然生えてない。たぶん軽く化粧して女の子の恰好させたら、大半の人があっさり騙されるんじゃないかと思う。胸がぺったんこ……というかないのだって、AAAなんだと言われれば納得しちゃう気がする。
 つまり、外見から理樹君が男の子であることを証明できるものは、何もない。
 勿論女の子であることを証明できるものもないんだけど、どちらなのかがわからない以上、他の手立てを探す必要が出てくる。でなければ、あたしの気持ちの行き場がなくなってしまう。それは傍から見れば馬鹿みたいなことかもしれないけれど、あたしにとっては物凄く大事なことだった。
 本当に理樹君は限りなく女の子みたいな男の子なのか、あるいは男の子の恰好をした女の子なのか。
 他人との接点が皆無なあたしには、こうする以外の手は考えられなかった。

 ――即ち、実際に“証拠”を見て確かめる。

 意を決し、あたしはロングパンツの縁に手を掛けた。左右を押さえ、内側に指を差し込む。
 そのまま下にゆっくりと。ずる、ずる、とシーツを巻き込みつつ、焦らずに下ろしていく。
 指の関節に腰骨が触れた。ごりっとした箇所を通り過ぎると、足の付け根が露わになる。よし、これであともう少し下げれば理樹君の性別は白日の元に晒され――いや待って! ストップあたし!
 ここで両手を引っ込めるわけにもいかず、中途半端な姿勢のままで固まった。微妙に前のめりなものだから丁度理樹君の胸の辺りに顔が行って、実はさっきから仄かに甘酸っぱいような匂いを感じていたりする。たぶん、理樹君の匂い。
 どうしよう。ちょっと、くらくらしてきた。
 これだけやっても理樹君は起きない。だからまだ大丈夫。時間はある。落ち着こう。
 うん。
 ひとまず大きく息を吸い、吐く。それを三回繰り返し、手指に力を入れ直す。
 足の隙間から僅かに見えるシーツが、皺を深くした。構わず、肌色の面積を広げる。
 蒸れた汗らしき匂いがふわりと漂って、鼻をくすぐった。胸の高鳴りが早まり、口の中が乾く。粘ついた唾を舌で解き、飲み干し、あたしは気が遠くなるような遅さで、それでも確実に、理樹君のパンツを脱がしていく。
 始めてからもう、何分経ったのかもわからない。
 やがて境界線が小さな起伏を捉えた。両手に感じるささやかな抵抗。
 リスクを冒してでも一気に引きずり下ろすべきか、あるいは最後まで慎重に行くべきか、一瞬迷う。
 長考するほどの余裕はない。ここでの判断ミスはそのまま計画の失敗に繋がる。

「こういう時は――」

 ――勢いで!
 柔らかそうなお尻の肉を引っ張りながら、ロングパンツの縁がポイントを越えた。
 思わず目を瞑ってしまってたあたしは、真実を見定めるためにそろそろと瞼を持ち上げて、




















                  おちん○んランドはっじまるよ〜!

                                                \わぁい/

    \わぁい/

                     \わぁい/




















「……ねえ、沙耶さん」
「え、な、なに?」
「なに、じゃないよ。何か今日はずっと下向いてばっかりだし……もしかして、体調悪いの?」
「違う違うそんなことない。いつも通りあたしは普通よ、普通」
「じゃあどうして目を合わせてくれないの? 顔も赤いし、やっぱり風邪でもひいたんじゃ」
「大丈夫よ、ただその、おち……」
「おち?」
「そ、そう! 昨日本を読んだんだけど、オチが付いてなくていまいちだったなーって!」
「もしかして、それで?」
「変に期待しちゃってたからかな、あ、あはは……ごめん。あんまり気にしないでくれると助かるかも……」
「……辛かったら、ちゃんと言ってね?」
「うん……」

 付いてたから理樹君の顔が見られなくなったなんて、言えるはずなかった。





参考資料 http://www.nicovideo.jp/watch/sm2305230


[No.687] 2010/03/11(Thu) 21:17:41
焼け野が原 (No.682への返信 / 1階層) - 匿名希望 19838 byte

 粉雪が、霏々として降り注ぐ。辺りは風もなくひっそりと、森閑と。雪が音を消し去るのか、どうなのか。目を瞑れば、雪の降る事にすら気付かない。
 空気は、肌を切り裂く程に冷たく、澄んでいた。鼻で呼吸するのも苦痛を伴う。それでも、この冷え冷えとした空気が、どうしようもなく愛おしいと思ってしまう。
 見上げれば、雪が空を白く或いは灰色に染めている。ともすれば、時間の感覚すら失いそうな、そんな空恐ろしい光景。けれども、時間は確実に流れてゆき、この地面を真っ白に覆ってしまうことだろう。永年に渡る、浅ましく不毛な争いの終着点となった、この黒い、焼け野が原を――。


 私は石段を登り切る前にある、横手の杉林に一人佇む。そこから、三枝の祠が良く見えた。しかし、祠の姿は既に無く、そこには焼け焦げた木片が山積みになっているだけ。事情を知る人間だけが、それが祠の残骸である事を認識できた。
 辺りには、その祠の残骸を何十倍にもしたような、広大な焼け跡があった。これが我々を永年苦しめてきた一家の最期の姿。酷く呆気ない、そんな心持がした。
 そんな中、二人の若い男女が、祠の前に立っていた。彼らの吐息が、丁度煙のように空に踊る。
 暫くして、女の子の方が膝を突き、地面にうずくまる。震える彼女。彼女の嗚咽が此方まで聞こえてくることは無い。けれどもその様は、私の胸を引き裂くには充分なものであった。
 それは彼女の傍で控えていた男の子にとっても同じ事だったのだろう。彼は彼女の傍に座り込むと、小さく震える彼女を優しく抱き留める。
 その後、彼女の喉から小さく漏れる微かな泣き声。その声はすぐに大きくなる。彼女は、小さい子供のように泣き始める。けれども、その悲鳴は子供のそれの様に、邪気が無いものではない。幾星霜にも渡って彼女の中に押し込められていた、怒りや悲しみ、呪詛や後悔。そんな感情が、どろどろに混じり合った、悲痛な哭声。
 私はその声が、雪の空に消え去ってしまうまでの間、その目を閉じてずっと聞いていた。眉根を寄せながら、胸の内に重苦しい何かを抱えながら。


 二人がここを離れる前に、私は音も立てず、石段に戻る。そして、一段一段噛み締めるように慎重に降りて行く。
 石段を降り切ろうとした時、声がした。
「やはー」
 長い髪を左に二つ括った女の子が、私の前に居た。それは嘗てのルームメイト。そして祠の前で泣いた、あの女の子の片割れ、三枝葉留佳だった。
 彼女は緊張を押し隠すような、作り物めいた明るさで私に話し掛ける。
「あれ? 寮に居たときと雰囲気が違いますネ」
 彼女が私の頭を指差す。
 今の私は、長い髪を纏めてシニヨンにしている。確かにあの学校に居た頃は、そんな髪型なんてしたこと無かった。いつも野暮ったく、肩の高さで二つに括っていただけだった。
 私はあの頃、出来るだけ地味にするように努めていた。それは自分の持つ役割故か、それとも彼女達に自らの胸の内を知られまいとした為か。
 だけど今や、その必要も無かった。自分本来の、自分の好きな姿で、彼女の前に居た。
「あぁ、貴女こそ。空気が読めないから、お二人に付いて来るのかと心配していたのですが。察することが出来る程度には頭が良くなっていたのですね」
「やはは、酷い言われ様ですネ」
 彼女は明るく笑うと、すぐにその表情を変えた。上目遣いに私を睥睨する。それは以前、自分の姉に向けていた視線。
「で、私に何か用? 私にだけ別に連絡をくれるなんて」
「この寒空の下でお話しても構いませんが、ここでお二人とお会いするのは好ましくないのでは? どこか落ち着けるところにでも行きましょうか?」
 葉留佳さんは、歯を剥き出しにし、馬鹿にしたような口調で同意する。
「……おっけー」


 温かで弛緩した空気。程好い喧騒。そして紅茶の香り。
 葉留佳さんと私は、街まで降りて行き、そこで目に付いた喫茶店に這入った。そこでコートを脱ぎ、一息つく私達。
 カップに注がれる濃い澄んだ赤色。壁のベージュ色。温かさと優しさを想起させる色の組み合わせ。
 しかし、喫茶店の隅に陣取った私達の席からは、寒々とした空気が流れていた。葉留佳さんは紅茶を一口口にしただけで、その後は無言で私を睨み続けている。
 元よりそういう間柄だ。今更気にすることも無い。
「今回、貴女方をあそこにお呼びしたのは、私達の行った一連の出来事の結果をご報告するためです。因みに、貴女は石段の上をご覧になりましたか?」
「見たよ。お姉ちゃん達が来るよりも前にね」
「そうでしたか。如何でした?」
「私は佳奈多とは違うから、ざまあみろってぐらいにしか思わない。そんな私でも、ああ、やっと終わったんだって、そう感じたよ」
 葉留佳さんは、そこで少し優しい目をした。口角が、僅かに持ち上がる。
「それにしても、あいつ等から奪い取った屋敷を丸ごと焼いちゃうなんて。よっぽど、あんたらはあいつ等の事、嫌ってたみたいだね」
 私はそこで、手持ちのバッグから一枚の新聞のコピーを手渡した。
「そんな事したら、警察に捕まってしまいますよ。あの屋敷と祠を焼いたのは彼ら、二木家自身です」
 その記事は、地方欄の隅にひっそりと載っていた。きっと、殆どの人間が読み飛ばしてしまうことだろう。仮にどこかの物好きが読んでいたとしても、次の日には忘れてしまうような、そんな内容だった。見出しにはこう書いてある。


 元会社社長、自宅に放火 心中目的か
 一家全員焼死


「流石、三枝の当主。立場も資産も失うのであれば死を選ぶとは、天晴れなものです。とはいえ、あそこは既に彼らの会社同様、私達の持ち物。勝手に火を点けられても困ります。まあ、家の調度品は全て回収していましたし、屋敷自身にそれほど資産価値が無かったので、大した痛手では無かったのですが」
「……あいつ等、死んじゃったの?」
「ええ、全員。黒焦げになってはいましたが、歯型で本人達であると確認が取れています。……ご覧になります?」
 私はそう言うと、カップに口を付ける。葉留佳さんが顔を青くしているのが目の端に映った。
「嬉しくないんですか? それとも、二木家には興味が無い? 貴女には、こちらのほうが気に入るかもしれませんね」
 そう言うと、私は写真の束を葉留佳さんに手渡す。
 その一枚の写真を見た瞬間、彼女の顔が曇った。
 私は口角を上げ、三日月を形作る。
「三枝本家の人達の成れの果てです。まぁ、三枝本家だった、といった方がいいのかも知れません」
 それは駅で寝泊りするホームレスの姿だった。元来仕立てが良かったであろう着衣。しかし、写真の中では垢と埃に塗れ、見るだけで異臭が感じられるような、そんな有様だった。ホームレスの顔をアップで撮った写真もある。服と同じく垢で真っ黒になっており、髭は伸びるに任せたままになっていた。
 そんな彼の姿を何枚も何枚も執拗なまでに捉えていた。駅の床にダンボールを敷き、汚らしいダウンのコートを布団代わりに眠る彼。何処で手に入れたのかも分からない弁当を貪る彼。街を行く、サラリーマンや主婦など普通の人々の中に混じって大きなボストンバッグを背負い、何処へとも無く歩く彼。
 それらが、三枝本家全員分。まさしく写真の束と言える量があった。
「別に彼らに何をしたわけでも無いんですよ。ただ、彼らの会社や個人の借金には連帯保証人として二木家の人間の名前が記載されていた。それだけのことです」
 つまりはこうだ。元来、三枝本家は債務者区分としては破綻懸念先となっており、二木家の(正確には二木家の経営していた会社の)信用力によって辛うじて保たれていた。それが今回の一連の騒動により、二木家は会社から放逐され、個人名義にしていた資産さえも身ぐるみ剥された。これにより、二木家の信用力がゼロとなり、三枝本家の債務は信用不足となる。そうなると、債権者は追加の担保或いは保証人を三枝本家に対して要求するわけであるが、今の彼らにそんなものは存在しない。そこで、債権者によって債権の全額返済を要求、つまり貸し剥しが行われる。
 そんな風にして、三枝本家は二木家の破産に連鎖する形で、全てを失うこととなった。
「彼らは二木家とは違い、生き恥を晒す事を選んだようですね。如何でしょう? 彼らの没落しきった姿を目の当たりにして、気分は晴れましたか?」
 私は馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
 葉留佳さんは不機嫌そうな顔をし、まるで汚らわしいもののように写真の束を私に押し付ける。
「いいよ、別に。こんなもの見たかったわけじゃない」
 その言葉に、私は目を細める。
「あら、ではもっと酷い目に遭っている写真が欲しかったのですか? でしたら、そこいらにたむろっているガラの悪い人達にお金でも掴ませて、彼らに暴行でも加えさせましょうか? それとも、彼らの頭部をお盆の上に載せて恭しく貴女の前に差し出しましょうか? 早く教えてくださいよ、どうすれば貴女の気が済むのかをねぇ!」
 早口で捲くし立てる私。
「だから、もういいったら!」
 葉留佳さんが大声を上げる。刹那、静まり返る店内。
「あ……ごめん」
 口ごもる葉留佳さん。私はそれを驚くことも無く見つめる。
「私は、もうあいつ等を恨んでなんかいないよ。今の、佳奈多が傍に居て、両親達が居て、皆が居る。それだけで充分なんだ」
 私は一つ溜息を突くと、眉根を寄せ、自分でも不気味なくらいな優しい猫撫で声を出す。
「そうですよね、被害者で居た方が貴女にとっては都合がいいですものね。悪いのは全部自分以外の誰かで、自分は何も悪くない。――でも、もう貴女は加害者の一人なんですよ」
 ほら、その証拠に。
 私は、もう一枚の写真を渡す。次の瞬間、葉留佳さんが鬼女の形相で私を睨んだ。
「お医者様はどう言われたんでしたっけね。確か、傷が出来てから時間が経ち過ぎているから、完全に傷跡を無くすのは難しい、でしたっけ?」
「…おまえっ……」
 写真に写るのは佳奈多さんの背中と腕。白い膚の上を這い回る、無数の赤黒い百足。虐待の証拠。正直、私ですら正視するのが躊躇われる代物だ。渡す時も極力視界に入れないようにした。
 けれども私は、そんなことを葉留佳さんに悟らせるつもりは無い。テーブルに乗り出している葉留佳さんを前に、私は不敵な笑顔を絶やさない。
「ありがとうございました。これのお陰で親権を取り戻すのもやり易かったです。……そういえば、撮るの大変だったようですね。看護師の方と貴女と、貴女のお母様の三人がかりで暴れる佳奈多さんを押さえつけて……ねぇ?」
 乾いた音が店内に鳴り響き、私の顔が右を向く。頬が熱くなる。
 流し目で左を見ると、葉留佳さんが峻烈な怒りを宿した目で私を睨んでいた。右手は先程私を殴った平手のまま。彼女は私の胸倉を掴むと、自分の方へと引き上げる。腰が浮き上がり、立ち上がってしまう。
「なんで、アンタにそんなこと言われなきゃなんないのよっ……!」
 彼女の押し殺した声にも私は臆することなく、冷たく笑いながら答えてあげる。
「確かに、裁判で使うから証拠写真を撮ってくれとお願いしたのは私です。では、私が悪いんですか? そもそも傷跡が無ければ私もこんなこと言わなかったんですよ。じゃあ、誰が悪いんでしょう? 二木家の人間? それだけじゃあないんじゃないですか?」
 そして一拍置いた後、私は地の底から聞こえてくるような低い声を絞り出す。
「あんたらだよ。あんたと頭の悪い両親達が、佳奈多さんの一生を台無しにしたんだよ」
 私は、胸倉を掴む葉留佳さんの腕を取ると、逆に自分の方へと彼女を引き寄せる。額と額がぶつかる。
「知ってました? あんたらが生きてるってだけで、佳奈多さんがどれだけ苦しんできたのか。彼女がぐしゃぐしゃにされている間中、あんたらは自分を省みずのほほんと被害者面してるだけ。それなのに、今更になって彼女を助けたいですって?」
 私は甲高い笑い声で笑う。そして、押し殺した、唸るような声で。
「笑わせんなよ」
 葉留佳さんを突き飛ばす。彼女はシートに深々と座り込むと、顔を真っ青にして呆然としていた。
 私は店内をゆっくりと見渡す。一部の客が驚いた表情で私達の方に顔を向けている。ウェイトレスが一人こちらに向かってくるのが見えた。
 私はゆっくりと息を吐くといつも通りの笑顔を作り、ウェイトレスに向かっていつもの口調で話し掛ける。
「すみません。お会計、お願いします」


 温かい喫茶店から出た所為か、外が一段と冷たく感じられた。二人分の白い息がもうもうと、空に上がっては消えていく。
 私達は無言のまま、駅への道を歩いていく。
 冷たい風が、私の頬を冷たくする、頭を冷やしてくれる。自分が熱くなっていた事に驚きを感じた。柄にも無い。
「……出過ぎた事を言ってしまいました。申し訳ありません」
「私こそ、ゴメン」
 私達は互いを見る事も無く、駅へと辿り着く。
「次の電車まで時間がありますね」
 目の前の時刻表ではあと十五分程度待たないといけないようだ。
「あそこで待ちましょうか」
 私の指差した方向には電車待ちに使う待合室。こんな地方都市の駅だから、電車を利用する人も少ない。待合室に人は居なかった。
 引き戸を引き、私達はそれほど広くない待合室に這入る。それぞれ離れた席に座る。座って、体が室内の温度に慣れてきた頃、私は口を開いた。
「……念の為断っておきますけど、これで終わりじゃあないんですよ。貴女達も、私達も。寧ろこれからが大変なんです」
 そう。私達は戦いに勝った。そしてそれぞれが欲しいものを手に入れた。けれども、その為に失ったものもある。私達はそういったものを今後どうするか、そんなことに腐心しなくてはならない。それは、軍資金のために膨れ上がった債務であったり、奪い取った会社の再建であったり。
「ご両親達の仕事、見つかるといいですね」
「うん。あと私達、春になったら転校するんだ。学費の掛からない公立に」
「……でしょうね」
 私は溜息をつく。こんなとき、私は酷く虚しい気持ちにさせられる。負けて苦し、勝てども苦し。
 私がそんな物思いに耽っている中、ぽつりと葉留佳さんが呟いた。
「今だから言っちゃうけど、私アンタのこと嫌いなんだよネ」
「あぁ、それは良かった。別に私は、貴女に好かれる為に生まれてきたわけではないので」
「……嫌いだけど、今回のことについてはありがたいと思ってる。佳奈多を、お姉ちゃんを助けてくれて、ありがとう」
 葉留佳さんは立ち上がると私に向かって深々と頭を下げる。暫くそうした後、彼女は顔を上げ、私を見つめる。
「でもさ、ずっと気になってたんだ。どうしてアンタは佳奈多を助けるのに協力してくれたの? 二木家と三枝家を潰すために利用したって聞いてたけど、何か違う気がする。何か隠してる気がする」
 葉留佳さんは困惑した表情を浮かべ、言葉を選んでいるようだった。おずおずと私に訊いてくる。
「違ってたら、笑ってもいいよ。佳奈多のこと、……好きだったの?」
 私は目を瞑る。私の中で何とも言い難いもやもやとした、そんな思いが去来する。今、彼女に言ってしまおうか。私の胸の内を、佳奈多さんに抱いた感情を。全てを曝け出してしまえばどれだけ楽だろう。
 しかし、私はこれまでずっと騙し続けた。彼女達だけではない、二木家の人間も三枝本家の人間に対しても。私が本当のことを言ったことなど殆ど無いし、これからだって無い。
 暫くして目を開けると、私はそっと立ち上がる。ゆらゆらと葉留佳さんの方へと足を進めると、葉留佳さんの頬に手を添えた。彼女の耳元に唇を近づける。吐息が彼女に聞こえる程の距離で、私は囁いた。
「佳奈多さんには直枝さんが居ますしねぇ。代わりに貴女、私と付き合いません?」
 一歩、後ろへと下がる。さらりと彼女の髪を触りながら、彼女の頬から手を離す。葉留佳さんは目を見開いて唖然とした表情で私の方を見ていた。その間抜けな顔に笑いが込み上げる。私はわざと甲高い笑い声を上げると、嫌らしい笑みを浮かべる。
「あははっ、冗談ですよ。貴女では佳奈多さんの代わりなど到底出来はしないのですから。それに、私にとっては自分だけが可愛いんですよ」
 葉留佳さんが顔を紅潮させているのを横目に、私は待合室の外を見た。
「さてと、出ましょうか」と、何事も無かったかのような顔で言う私。
 電車が、ホームに這入ってくる。


「それでは、直枝さんに例のお話、お伝えくださいね」
「いいよ。まず、佳奈多にアンタのことは伝えないこと。そして、佳奈多を幸せにしないと殴り込みにいくよってこと、でしょ?」
「ああ、ちょっと違いますね。祠の主と同じ目に遭わせますよ、ですね」
 私はホームで、葉留佳さんは電車の入り口で。互いに向かい合って話をする。
 私が冗談交じりに、ウチは何十年も同じ相手を恨み続けた家系なんで執拗さには定評がありますよと笑いながら言うと、葉留佳さんが顔を引きつらせていた。
「本当に、佳奈多に会わないでいいの?」
 葉留佳さんの言葉に、私はつい優しい表情を浮かべてしまう。
「ええ。貴女達とももうお会いすることは無いでしょう」
 電車の発車を知らせる合図がホームに鳴り響く。
 それでは、と言い残すと同時に、電車のドアが閉じられた。ゆっくりと、電車が動き始める。
 私は、電車が見えなくなるまでホームで立っていた。そして見えなくなったところで、私は歩き始めた。彼女達とは違う方角、異なる道へと。


 気付けば、私は祠の許に戻っていた。そこには私一人。佳奈多さん達が帰ってしまって久しいのだろう、彼女達の足跡も、降り続ける雪に覆い隠されていた。
 私は、雪の下に埋もれた瓦礫を蹴り上げる。焼け焦げた黒と雪の白が宙を舞い、雪のキャンバスの上に黒い点を描く。
 見上げると、灰色の空から降りしきる白い雪の粒。そんな中、私は一人呟いた。
「佳奈多のこと好きだったの? ……か」
 私は笑う。葉留佳さんの滑稽な想像に。彼女の短慮さに。
「違うんですよ。そんなのとは」
 二木佳奈多。もう親権が戻っているから三枝佳奈多か。
 彼女は、私自身だ。


 私の生まれ育った環境も、佳奈多さん達姉妹と大して違いは無かった。
 両親は朝から夜中まで働き詰めで私を省みず、私は祖父の許で育てられていた。
 その祖父の世代こそ、三枝本家や二木家から特に酷い扱いを受けていた頃であり、その時の怨恨ためか、彼は心を病んでいた。
 祖父は幼い私に、私達の家の苦渋の歴史を偏執的なまでに繰り返した。そして力と勝利だけが全てであり、それ以外は唾棄すべきものだと教えた。祖父が床の中で狂死するまでの長い揺籃期、それは情操教育とは程遠い、洗脳紛いの躾を施され続けた、惨めで愚かしい、そんな時期だった。毎日何時間も竹刀を握らされ、失神するまで祖父の竹刀を全身に浴びた。勉強も周りの子達よりも何ヶ月分も前倒しで予習させられた。学校で教えないような高度な内容も無理矢理勉強させられた。あの時期のことは、余程思い出したくなかったのだろう、殆ど記憶が無い。
 そうやって、一日一日を生き長らえるように過ごしてきた。祖父を、私の事を見てくれない両親を、そして自分の境遇を恨みながら。
 やがて、体も大きくなった所為か、それとも祖父が衰えた所為か、私は剣道で祖父を打ち負かす事が出来るようになった。それでも、祖父は私に竹刀を振る事を止めさせなかった。彼は自分の体を竹刀で打たせながら、苦しそうにこう言った。負けた人間に手を差し伸べるな、差し伸べたら自分が引きずり落とされる。生きていたければ、負けた人間を踏み付けろ。痩せこけた顔で歯を剥き出しに笑うその姿は、不吉な骸骨の人形を思わせた。私は、その顔を見るのが厭で何度も何度も祖父の頭を竹刀で殴り続けた。祖父が逝く、一年程前のことだった。
 幼少の頃は毎日、何も考える事ができないほど打ちのめされて一日が終わるとただ眠るだけだった。しかし、その頃になるとそんな生活に慣れてしまい物事を考える時間が生まれた。
 けれども、私には何も考える事が無かった。生まれた時から、自分の人生も決まっていた。両親の仕事を手伝いながら生きてゆき、いつかはそれを継ぐことになるのだろう。三枝本家や二木家を凋落させるその日を、虎視眈々と窺いながら。
 気付けば私には何も無かった。ただただ、あの祖父が浮かべたような骸骨の笑顔を浮かべ、自身が本当に骨になるまで他人と争い続ける。その笑いは誰に向けられるものか、争う相手か。争うしか能の無い私自身か。それだけが私の人生なのだと、そう思った。
 だからなのだろう、私はクラスの他の子達を見るのが厭だった。彼女達の屈託の無さが私を苛々させた。彼女達が持っている色々なものが羨ましかった。如才なく彼女達と付き合いながら、腹の底では彼女達を馬鹿にし、妬んだ。踏み付けてやりたかった。


 環境は同じだった、寧ろ佳奈多さん達の方が酷かった。それなのに、佳奈多さんは私よりも遥かに人間らしかった。
 佳奈多さんは優しかった。二年の途中からルームメイトになった小柄な女の子に対して、本当の妹のように、いや、まるで自分の子供のように接していた。それに、最後まで葉留佳さんを見捨てなかった。そのために自分がどれだけの重荷を抱える事になっても、葉留佳さんから礼など言われず、寧ろ罵詈雑言を浴びせられる結果となっても。
 それに佳奈多さんの周りには、いつも彼女を守ってくれる優しい人たちが居た。女子寮長や来ヶ谷さん。最近では直枝さん達。人によってその形は異なっていた。ある人は冗談交じりに彼女をからかいながら、そっと彼女の肩の重荷を取り去った。ある人は蹲る佳奈多さんに手を差し伸べた。別にそうすることで自分が得になるわけでもない。それでも、まるでそれが当然のことのように自然に彼女を支えていた。
 私は困惑した。どうして、彼女は私なんかよりも遥かに多くのものを持っているのだろう。自分よりも酷い境遇に居たはずなのに、これでは辻褄が合わないではないか。
 しかし不思議な事に、彼女に対して嫉妬することはあっても、彼女を傷付けようとは思わなかった。初めのうちはその理由が分からず、ただ心乱されるだけだったのだが、彼女と同じ部屋で暮らし始めて数ヶ月程経った頃には薄々と気付き始めていた。
 私は、佳奈多さんの中に自分を重ねていたのだ。彼女は、今まで生きてきた中で、私が失くしてしまった私自身。いつの間にか自分で手放してしまった、私が望んだはずの、優しい少女時代の私の姿。
「ああ、そうか……」
 私は焼け焦げた木片を、ブーツで踏みにじり、周りに積もった雪を真っ黒にしながら、ぽつりと一人呟いた。
 気付いてしまった。今まで佳奈多さんに触れようとしなかった理由。もう二度と、彼女と会おうしない理由。
 私は恐ろしかったんだ。佳奈多さんが私のようになってしまうことが。私が大切にしていた綺麗な私の半身を、醜悪な私自身で塗り潰してしまうことが。
 私は顔を上げ、未だ雪降る空を見つめた。真っ白な雪が、深々と私の視界を白く灰色に包んでいく。空気が寒々しく、鼻の奥が熱くなる。雪の粒が私の頬に当たって、雫となり、頬を伝って落ちて行く。
 私は、佳奈多さんになりたかった。
 けれど、私は知っている。私は最早後ろには戻れないことを、立ち止まる事も許されないことを。私は髑髏(カラベラ)人形のように笑いながら、前へ前へと行進していくしか術がない。
 だから私は、私自身を諦めた。
 顔を下ろし、真っ直ぐに焼け跡を見据える。雪が黒い焼け野全体を、うっすらと白く覆っている。私は、誰も足を踏み入れていない雪肌の上を歩く。さくさくと小気味のいい音を立てて、雪が私の足元で潰れていく。溶けてゆく。
 森閑とした雪景色。綺麗なものも醜いものも、雪は全てをその美しい白で覆い隠す。しかし、この景色も今だけのもの。やがて雪が止み太陽が照らせば、また以前の戦場跡に戻るのだろう。


 けれど、佳奈多さんが今のまま、優しい人々に囲まれて、幸せに過ごせるのなら。
 それだけで、私は救われる。それを糧に、私は安心して歩き続けられる。この荒涼とした焼け野が原を、下らない人生を。
 私の人形の糸が切れる、その瞬間まで。


[No.688] 2010/03/13(Sat) 18:37:59
窓の中 (No.682への返信 / 1階層) - 初物 ひみつなんです5175 byte

きしょいモノが窓辺にいる。思わず目をそらす。また見る。またそらす。見る。そらす。何とかの顔よりあたしの顔はすごいんだと思いながら、見る。やはりいる。もう見るものかと決意してみる。
「そんなに顔動かしたりしてどうしたのさ、鈴。」
「アレだ。」
「何?」
顎でそれを指し示す。もう見たくないから目をつぶったままだ。反応がないなと思っていたら、不意に唇に違和感を感じた。
「ん、んー・・・・・・。ばっ、馬鹿違うわ、ぼけー………あ、あれだ!」
誘惑に耐えながらも、さっきの物体を見ないように注意しながら窓の方を指さしてみる。
「何もいないよ。そんなことよりさ、次はどこにキスしてほしい?」
「見えないのかっ!?」
「だから何が?壁以外に何もないじゃない。」
そういって髪をなでる。これはなんだ?あたしは幻でも見たのか?いやあんな顔なんて見たくなんてないから違うな。あたしはおかしくなんかない。おかしいのは理樹のほうだ。そうに決まっている。
「そんなことより理樹には見えないのか?」
「そんなことってなにさ。僕の顔に移るのは鈴、君だけで十分だよ。」
やけにくさい台詞を言いながらそうしてまた顔を近づけてくる。
「いっいいかげんに、ん・・・。いいからうしろ見ろ!」
力づくで後ろを向かせる。反応がない。力を抜く。目を閉じていた。ああ、そういうことかと納得してやる。
「そうだな理樹。おまえの目に映るのはあたしだけでいい。」
そう思ってやることにした。


「結局昼になっても出てこなかったな。」
「ああ。」
「午後はどうするんだ?」
「愛する兄の顔を見ても出てこないんじゃ、どうしようもないじゃないか。」
「お前の顔なんか見たくは…。いや、何でもない。で…他に何か案はないのか?」
「これ以上の手なんて俺にはないさ。」
「くそっ…。なら筋肉はどうだ。今なら安くしとくぜ。」
「ふむ、ならいた仕方ないな。俺に任せておけ。」
「手は考えてあるのか?謙吾」
「無論だ。では準備があるのでな。」
「聞けよ!」


それに気がついたのは夕方だ。朝とは違って目に入れるべきでないものはない。その代わりに木が立っていた。それもお遊戯会でよく見るような人の顔がでてるやつ。夜でも目立つようにしっかりとライトアップされてまでいる。あたしはカーテンを閉めた。ふと、樹だから気にしないことにしようという言葉が浮かんだ。我ながら完璧だと思う。そうだ、来年が来たら理樹と2人で桜でも見に行こう。もちろんあいつらも連れて行こう。またたびでもあるといいかもしれない。気が若干早い気もしないでもないが気にしないことにする。まさに完璧だ。あとで日記に書きのこそうと考えてみたりする。
「ねえ、鈴。夕飯はどうする?何か作ろうか?」
「そうだな。何かあるのか?」
「缶詰ぐらいならね。」
そういって戸棚をあさり始める理樹を横目にあたしは思う、ささみに任せてよかったのだろうか。かなたや寮長、もしくはこまりちゃんやクド、みお、くるがやといったリトルバスターズの面々に任すべきだったかもしれない。そう思うとあたしはなんでささせがささささみなんかに頼んだろうか。
「うー謎だ。」
「なにが」
思わず声に出ていたようだ。曖昧に笑ってごまかしておく。危ない危ない。理樹に痛い子扱いされるところだった。これもささみのせいだな。まったくあいつはしょうがないなと心の中でけなしておく。ばーか、ばーか。
「あちゃ…桃缶しかないよ。」
「それ以外になければそれでいい。」
「ちょっとまってよ、もう少し探してみるから。」
「ならたのむ。」


「なぜこの時期に桜だったんだ?」
「桜といえば当然花見を連想するだろう。花見といえば楽しいものだ。」
「ああそうかもしれないな。」
「ならば己が桜となることで鈴も楽しくなるさ。」
「そうか?」
「それに桜はあいつらにとって」「でもよ謙吾。鈴は出てきてないぜ。」
「…む…そうだな。たしかに桜は不謹慎だったかもしれないな。」
「なんだ…あっけないな。なら今度は俺の番だな!!今日中にこの筋肉で連れ出してきてやるぜ。せっかく遊びに来たんだ。遊ばずに帰れるかよ。じゃあな待ってろよ。」
「………さて、真人もいなくなったし聞いておこう。どこまで見た。」
「ほとんど見てないさ。…でも大体は理解できたつもりだ。なぜそんなにいつも通りなんだ、お前は。」
「おまえにだけは言われたくないな。…今更じゃないからさ。毎年この数日だけな、ああなっちまうんだよ。」


それに気づいたのは次の日だった。カーテンを開けたら、大量の袋を抱えた真人がいた。ここにおいとくからはやく食べろなと口を動かした。鍵なんかかけてないから入ってくればいいのに何なんだ、あいつは?わからない。去っていくあいつを見ながら、まあいいもらってやろうと思った。食料も尽きたからな。…って理樹が言ってたからな。
「あれ、どうしたのそれ?」
「あたしの人徳だ」
「意味がわからないよ…まあ朝ごはんにしようか。」
「ああ。でも、いくら理樹でもこの卵サンドはあげないからな。」
「大丈夫だよ。僕はね、鈴、君が一番だからね。鈴の悲しむことなんてしないからね。」
理樹はそういって優しそうに笑っていた。くさいことを聞くのにはもうなれた気がする気にしたら負けだと最近は思うようにしているあたしはえらいんじゃないだろうか。気づかれないようにいつも通りに返してみるとしよう。
「ほ、本当か?本当にあたしが一番なのか」
「うん。本当だよ、僕はずっと鈴の味方だからね。…決して離さないよ。」


「ふ…食いもんもっていってやったぜ。」
「な…」「む…」
「どうしたよ、唖然としやがって。いいか、食べる物食べなきゃ筋肉は維持できないんだぜ。」
「あぁ…そのとおりだ、真人。で鈴はどうした。一晩あったんだ。それだけじゃないだろ?」
「朝まで気づいてくれなかったんだよ。それにあんな空気出してるやつを無理矢理連れてなんかこれねえしよ。だから置いてきた。」
「お前はそれでいいのか?」
「仕方がねえだろ。また来ることにするさ。あばよ。」
「なら、俺も行くとするか。ではな。」
「2人ともわざわざありがとな。元気になったらまた連絡する、絶対にだ。」
「ああ。…頑張れよ、恭介。」





「さあ、明日も頑張ろうな、理樹。」
「うん。明日も頑張ろうね、鈴。おやすみなさい。」


[No.690] 2010/03/16(Tue) 05:49:35
あなたがあたしにさようならを言った夜 (No.682への返信 / 1階層) - 特に無し@7610 byte

 手紙が届いた。封筒に書かれていた名前は怪人X。こんなバカな事をする人間に心当たりがあり過ぎる鈴は嫌々ながらも封を切って中を確認する。

『鈴へ。

 久しぶりだな、俺の事をまだ覚えているだろうか。
 思い返してみれば高校を卒業して2年、ロクに親交がなかったな。それなのにこんな手紙を今更出しているなんて不思議な気分だ。

 連絡をとったのは他でもない。無理を承知で明日の夜、時間を作って貰えないだろうか。
 積もる話もあるだろうし、俺としてもお前と話したい事がある。と言う訳で、明日の夜にはお前の部屋にお邪魔する事にする。

 恭介より』

「こいつバカだっ!」
 確認するまでもなく恭介という人間はバカである。それを改めて教えられたような、つっこみどころの多すぎる手紙だった。





 あなたがあたしにさよならを言った夜





「本当にバカがいる」
「よう、鈴。お邪魔してるぞ」
「カギはどーしたんだ、お前?」
「麗しき兄妹愛の前ではそんなもの、無に等しいのさ」
「存在しないものをたてにして物理的障害を無にすんなぼけー!!」
 手紙が届いた次の日の夜、予定を途中で切り上げて自宅に戻ってきた鈴は、自分の借りた部屋ですっかりくつろいでいる恭介を見て完全に脱力した。
 ここ数年一回も顔をあわせていないはずなのに、どうしてこの人間は懐かしさとか情緒とかその他諸々のものを一切感じさせない演出が出来るのか、理解に苦しむ。
 きっと理解しようとしてはいけない世界の物語なのだろう。そう自己完結して、鈴はとりあえず恭介を無視して上着を脱ぎ、手袋とかばんをそこらに放り投げて洗面所へ。
 がらがらがらとうがいをして、手を洗う。うがいにはもちろん少量の塩を入れて殺菌作用を持たせて、手を洗う時にはセッケンをたくさん泡立てて爪の間まで洗う。しょっぱい。ヌルヌルして気持ち悪い。どうして毎日こんなめんどい事をしなくちゃいけないのか。やっぱり理樹とは変な約束をしない方がいいなと鈴は思う。
 そうして居間に戻ってきて、ソファーで手足を伸ばしてリラックスしているバカにハイキック。
「帰れ」
「お、今日のぱんつは薄い黄色か」
「いや帰るな。あの世へ逝け」
 すごくむかついたからタンスからスパッツを取り出して穿き、そのままハイキック三連コンボ。ちなみに空中にいる間に蹴りを出す回数がコンボの定義だと勝手に決めている。鈴の密かなこだわりだ。
 それで鈴のハイキックを喰らいまくった恭介はソファーから吹っ飛ばされ、開いていた窓から吹っ飛ばされた。
「あ」
「あ」
 ほんの少しだけ、時間が経ってから。どんがらがっしゃんと物凄い音が下から響いてきた。流石にちょっと冷や汗が流れる鈴。
 どうしようかと悩んだあげく、鈴は誰もいない窓を指さして、言う。
「やられなかった事にしろ」
 次にその指は自分を指す。
「やらなかった事にした」
 うんよしと頷いた鈴。そのまま窓をガラガラピシャンと締めて、しゃーとカーテンも閉じる。ついでに玄関のカギも閉めようと玄関に行き、カギに手を伸ばす。
 が、その直前でがちゃんと扉が開いた。
「ほぅわぁ!?」
「いや、それは小毬の口癖だ。その前のも小毬だ。なにか? お前は小毬にでもなったのか?」
「ち、死んでなかったのか」
「ひどいな、お前」
 冷や汗をかきながらも勝手知ったる他人の家といった風情で鈴の家の中に入りこむ恭介。鈴は仕方がないなと言わんばかりにため息をつき、恭介が部屋に入った後にカギを閉めた。
「で、きょーすけ。本当になんのようだ?」
「いやなに、久しぶりに可愛い妹の顔が見たくなっただけ。あえていうなら、ついでに二十歳になったし、一緒に酒でも飲もうかと思ってな」
「残念ながらあたしに兄はいない」
「俺の存在全否定かよっ!?」
 言いながらも恭介はテキパキとどこからともなくワインとグラスを取り出し、勝手に栓を開けるて香りをかぐ。
「これは20年物のワインだ。お前が生まれた年のワインだぞ。探すのに苦労した」
「聞いてない」
「ちなみに値段は俺の月給の三分の一だ」
「もっと聞いてない」
 そんな鈴の言葉こそを全く聞いていない恭介。嬉々としてワインを二つのグラスに注いでいく。
「さあ鈴、何に乾杯する!?」
「春と同じ温度のバカ兄貴の頭に」
「よっしゃ、春に芽吹くような素晴らしい発想の俺に乾杯っ!!」
 都合よく変換された言葉で恭介のグラスが掲げられる。その存在を含めて完全に諦めた鈴はグラスを持つと、恭介のそれに合わせた。
「……乾杯」
 完全に鈴のテンションは恭介に吸いとられていた。
 ちんと高いグラスの音を鳴らせてから口元に運び、その液体を喉に流し込む。
「って苦いわあほー!」
「え? ワインってこんなもんだろ?」
「あたしはちゅーはい位しか飲んだことないんだ。こんな苦いもの、ミルクで割らなきゃ飲めるはずないだろーが」
「ワインをミルクで割るって発想がすげぇな」
 冷や汗をかきながら恭介は鈴のグラスを持つと、台所まで歩いていく。そして蛇口を捻り、水をグラスの中へ。
「ほら、水で薄めてみたぞ。ミルクで割るよりはマシだろ」
「ふつーワインを水で薄めんだろ」
「ミルクを入れようとしてたやつに言われたくねーよ」
「あれはほら、あれだ。あめりかんじょーくとかいうやつだ。
 あれ? いたりあんじょーくだったか?」
「ベジタリアンジョークの事か?」
「それだっ!!」
「どれだっ!?」
 下らない会話をしつつも水で薄められたワインを口へと運ぶ鈴。そしてこくんと飲み下ろす。
「薄いな」
「そりゃ水で薄めたからな」
「まずいな」
「そりゃ水で薄めたからな」
「関係あるか?」
「そりゃあるだろ」
「……そうか」
 言いながら、恭介もグラスを傾ける。無骨な蛍光灯を受けて、無機質にワインの赤が光る。
「まるでネコの舌みたいな色だな、このワインの色は」
「今、さらっと食欲をなくすような事を言ったな?」
「そうか?」
「どこの誰かネコの舌を飲みたいと思うんだよ?」
「ほんとバカだなきょーすけは。こんな苦いものは飲むものじゃない、見て楽しむものに決まってるだろ」
「え? これって俺が間違ってるのか?」
 当然だと言わんばかりに鼻を鳴らす鈴。手の中のグラスを光にかざし、うっとりとその淡くなった赤を楽しむ鈴。
 そしてゆっくりと目で楽しんでから、くいっと飲む。
「って結局飲むのかよっ!?」
「ワインは飲むものだろーが!」
「いや、そうだけどな……?」
「という訳できょーすけ。あたしはこのワインをネコの舌だと思った。お前はどう思う?」
「大喜利か? まあ、そうだな。血のような赤、か?」
 意趣返しと言わんばかりに意地悪く笑う恭介の顔に鈴のハイキックが飛んできた。
「恐キモい事を言うなっ」
「理不尽にも程があるだろうがっ!? お前酔って……」
 言いかけて恭介はまじまじと鈴の顔を見る。ほのかに赤い。それにちょっと首はすわってないし、息は浅い。
「本当に酔っているのか? っていうかこの位で酔うなよ」
「このくらいの訳あるかっ。今日はこまりちゃんとささみと後いくにんかと飲む約束があったんだ。お前が来るっていうから抜けてきてやったんだぞ。ありがたく思え」
 それを聞いて恭介の顔が申し訳なさそうに歪む。ただ、恭介の一方的な都合を聞いてくれた鈴に対して嬉しさも心のどこかにあったけれど。
「そうか、そいつは済まなかったな。
 ちなみにどの位飲んだんだ?」
「ちゅーはいを4本だ」
「結構飲んだな。350か? 500か?」
「ピッチャーだ」
「飲みすぎだっ!」
「そして理樹はキャッチャーだ」
「んっ!?」
「だけど夜の理樹は粘り強い」
「いや、そういう情報はいらない。マジで」



 ぐだぐだになった鈴を恭介が必死になって止める恭介というかなり珍しい連携プレーの末、鈴は酔いつぶれてしまっていた。その戦利品として恭介は鈴と理樹の赤裸々な秘密を手に入れてしまっていたが、鈴が起きたら記憶をなくされるまで蹴られる事は必至である。是非とも酒で記憶がとんでいて欲しいものだ。いや、顔を真っ赤にした鈴に蹴られ続けるというのも案外捨てがたいかも知れない。

『このぼけぼけぼけぼけっ!』
『がはっ、ぐはっ、ぐえぇ!』
『はぁ……はぁ…………。どうだきょーすけ、忘れたか?』
『あ、ああ。鈴から理樹を誘う時は語尾ににゃん付けをして甘えるなんて情報は記憶の彼方に飛んでいったぜ』
『ふかーっ!!』
『はぅ、うぐ、げげごぼうぉえ!!』

「り〜き。今日はお姫様抱っこでベッドまで連れていって欲しいにゃん♪」
「…………」
 恭介の心の奥底から言語化出来ない何かの感情がわいてきた。だが恭介がそれを知るには幼すぎた、もしくは年を取りすぎたのかも知れない。何故ならば今、彼はガチで(21)なのだから。
「次に鈴に会うのは産婦人科の病室かな?」
 赤く幸せそうな顔で眠る鈴にタオルをかけて、恭介は歩き出す。酔えるほどに飲んでいないせいか、その足取りはしっかりとしていた。ただその瞳が少しだけ濡れていたのはきっと酒のせい。
「さよならだ、棗鈴」

 ――そしてこれからもよろしくな、直枝鈴――


[No.691] 2010/03/17(Wed) 16:12:19
柔らかな午前 (No.682への返信 / 1階層) - リトバス草SS大会は永久に秘密です @5844byte

 その日は携帯の着信音で目が覚めた。休みくらいゆっくり寝かして欲しいのに。やかましく鳴り続けるそれを掴むと、目と閉じたまま通話ボタンを押した。手短に済まして二度寝するために電源ボタンに指をかける。
「ふぁい」
「理樹、助けてくれ」
 相手は鈴の声でそう言うと、すぐに電話が切れた。切断音が耳に響く。落ちかかっていた意識が引き戻される。慌てて携帯の画面を確認すると、今の電話は確かに鈴の携帯からかかってきていた。何故かエビ反りをしながらいびきをかいている真人を起こさないように、部屋を抜け出て鈴の部屋へと走った。
 鈴は僕の名を呼んで助けてくれ、と言った。助けてくれ?鈴の身に何かあったのだろうか。時刻は早朝。学園内は静まりかえっていて、事件が起きた様子でもない。恐らく鈴は目覚めた瞬間に体の異変を感じて僕に緊急の電話をかけてきたはずだ。けれど、すでに鈴には頼れる同性の友達がたくさんいる。もしも風邪だったなら小毬さんや、クド、笹瀬川さんあたりに連絡すれば飛んでくるだろう。わざわざ異性の僕にかけてくる理由。
 異性である僕、体の異変。……まさか、妊娠?いやいやいや。ちゃんと安全日に励んでいるはずだ。しかし、あり得ないということはない。息急き切って扉を開けると、バージンロードの奥にはウエディングドレスに身を包んだ鈴が待ち、鈴の周りでは認知しろ認知しろとにゃーにゃーと猫の合唱が。いつの間にか背後にはドルジがそびえ立ち、僕の退路を塞いでいる。厳かに鳴る鐘の音に追われ途方にくれる僕の耳元で、大きく膨らんだお腹を撫でながら、鈴はゆっくりと囁くのだ。あ・な・た、と。…………しまった、何でこんな大事な時に僕は寝間着のままなんだ!
 事態は思っていたよりも深刻そうだ。身支度を整えに一度戻るべきだろうか。色々考えているうちにも僕の足は動き続けていたらしく、鈴の部屋の前へ着いてしまった。
 ノックすると、はい、と返事が返ってきた。良かった。鈴は部屋にいるみたいだ。
 冷たいドアノブを手に取り、深呼吸。腹をくくるしかない。みんなに誇れるような自慢の婿になろう。そう誓い、ゆっくりとノブを回す。扉の先には、
「理樹もななめだ」
 寝間着を着た、元気そうな鈴が猫のクッションを抱いていた。ただ、
「鈴、首をかしげてどうしたの?」
 首を曲げ、頭の上に疑問符がつきそうな姿勢。そんな格好のせいか、なんだかいつもより幼く見える。
「理樹、ちょっと肩揉んでくれ」
 眉間にしわを寄せ、不機嫌そうな顔でそう催促してきた。
「肩?」
「朝起きてからずっと痛い。早く揉んでくれ」
 状況がつかめない僕を尻目に、鈴は髪を結い上着の裾を調整して、僕に魅力的なうなじをさらけ出す。
「はやく」
「…………。分かったよ、鈴」
 おめでたでないことに一抹の寂しさを覚えながら、鈴の背後から肩を掴んで親指で押す。吸い付くような肌とは逆に、押した感触は恐ろしく硬かった。
「……すごく硬いね。鈴、痛くない?」
「ん、大丈夫だ」
 幾度も繰り返すうちに首元に筋張った手応え。ほぐしているうちに、だんだんと柔らかくなっていく。
「きもちい」
「そう?」
「理樹は上手い。揉み上手だな!」
「人のいるところではいわない方がいい造語だね」
「よし、これからは理樹の事をマッサージ樹って呼ぶことにしよう」
「やめて」
 他愛のない会話をしているうちに肩の力が抜けたのか、少しずつだがほぐれてきた。親指の位置をずらす。目の前で揺れる束ねた髪の毛からは、整髪料と汗の匂いが混ざり合って僕の鼻をくすぐる。無心で揉み続けていると、鈴が心地よさそうな吐息を漏らした。
「本当に理樹は上手だな」
「真人のストレッチに付き合ってるからかな。色んなツボを教えてくれるんだ」
 最近真人は運動後のケアは明日の筋肉を生み出す、と力説して僕に色々なストレッチやマッサージの方法を教えてくる。なんとなしに覚えていた知識がこんなところで役に立つとは思ってもいなかった。
「例えば……鈴、ちょっと腕を真横にあげてくれる?」
 僕の言うとおりに腕を伸ばした鈴の肩辺りに触れると、服越しにくぼんだ部分があるのが分かる。
「このへっこんだ部分。ここはけんりょうって言って結構分かりやすい場所にあるんだ。肩こりによく効くツボらしいよ。鈴、首も痛い?」
「ん」
「じゃあゆっくりでいいから腕を後ろで組んで。肩甲骨の一番上のここ。きょくえんって言って首のこりに効くところ。他には……」
 鈴の痛みに合わせて真人から聞きかじった知識で懸命に揉みほぐす。あらかた説明し終えたところで、ふにゃあ、と鈴の口からあくびがこぼれた。今日の鈴はどこか子どもっぽい。
「もしかして、眠い?」
 試しに聞くと、んん、と生返事が返ってきた。
「それなら鈴、寝転がってもらえる?」
 鈴にそう促して、鈴のお腹辺りへできるだけ体重をかけずに跨る。
「このほうが楽でしょ」
「なんかえろいな」
「いやいやいや」
「それに、こうしてるとねむい。えろいし、ねむい。略して、えむい」
「Mい、って書くと別の意味に聞こえるからそれも言わない方がいいね」
 指先に感じるブラのホックは今だけ意識の外に追い出し、掌底で背中をグイグイ押す。時折、背骨が鳴る音が聞こえた。
「今ポキポキいった」
「猫背だと鳴るみたいだよ」
「そうなのか。なんかいいな。背が伸びる気がする。理樹、もっと鳴らしてくれ」
「いやいやいや。自分の背骨に言ってよ。はい鈴、腕曲げて」
 寝転んだ状態で肘を曲げると、肩甲骨が大きく浮き出る。
「じゅゆ、てんそう、ここは……えっと、けんがいゆ、だったかな。」
「……魔法の呪文みたいだ。ますます眠くなる」
「眠いんだったら、寝ててもいいよ」
「ならそうする。んにゅ……」
 言うが早いが鈴はあっという間に眠ってしまった。半開きの口から溢れる涎に欲情しないというのは嘘になるけれど、僕を信用している鈴を裏切ることは出来ない。話し相手がいなくなった僕は、ただただ大切な人のコリをほぐし続けた。




「鈴、そろそろ起きて」
お昼時を過ぎた頃、少し強めに鈴の肩を揺らす。僕が差し出したティッシュで涎を拭き取り、半目をこすりながらフラフラと起き上がった。
「……いま、なんじだ?」
「お昼過ぎ。そろそろ起きないと夜眠れなくなるよ」
んにゅー、と鈴が腕を上げ大きく伸びをする。左右に首を曲げて動きを確認すると、満足そうに言った。
「くちゃくちゃきぶんそーかいだ。理樹、ありがとう」
 素直に感謝を告げる鈴に何となく僕は気恥ずかしくなり、そっぽを向いた。
「本当に助かった。今度はあたしが理樹の肩を揉んでやる」
「うん、また今度お願いするね。それよりもお腹すかない?食堂に行こう」
 胸を張ってそう宣言する鈴と手をつなぐ。その手を握り締めもう片方の手でドアを開けると鈴が嬉しそうに叫んだ。
「理樹に揉んでもらってあんなに気持ちいいなんて、理樹の手は魔法の手だな!」
 休日の昼間に二人して部屋から出てきたパジャマ姿の僕たちに反論する余地などなく。
 後日、僕の右手には『幻想猫手』(カップアッパー)という大層なあだ名が付くことになった。


[No.692] 2010/03/17(Wed) 23:01:58
いってらっしゃい (No.682への返信 / 1階層) - ひみつ@6837byte


 てくてく、と廊下を歩く。次の授業は生物。実験をやるから移動教室。そう黒板に書いてあって、トイレに行ってた私は大慌て。教科書に筆箱。ノートに、ポケットにチョコを入れて教室を飛び出した。真人君が寝てたけど、ごめんなさい。もうすぐチャイムがなっちゃいそう。
 けれど廊下は走っちゃいけません。
 だから歩いているのです。
 次の授業が実験室で助かったかも。こんなに良い天気、教室だとうたた寝しちゃいそう。ポケットからチョコを取り出して、一口。もぐもぐ。
「おーい、校内で食べ歩きはするなよー」
「ふぇ? あ、ごめんなさい」もぐもぐ。ごっくん。
 何処から話しかけられてるのかわからなくて、一瞬びっくりした。端っこからなんてわからないよ。チョコを急いで食べ終えて、かわりばんこに携帯を取り出す。横のボタンを押して、今何時かな。ぴっ。授業が始まる時間だった。あれ?って思って思わず上を見る。
 
 鐘がなっちゃって、遅刻決定。
「ほわあああああっ!?」
 どうしようどうしよう。私不良になっちゃった。頭の中が真っ白になっちゃって、広くない廊下を右に行ったり、左に行ったり。頭のどっかの、落ち着いてる私が「今からでも行けばいいじゃない」って言ってくれるけど、やっぱりいつもの私が大慌て。足が生物室の方に動いてくれない。どうしよう、どうしよう。そう思いながらポケットを探っていたら。
「ん、小毬か? どうしたんだ右往左往して」
「きょーすけさん?」
 角からきょーすけさんがこっちを見ていて。
「ちょ、チョコ食べますか?」
 チョコを思わず差し出した。

 

 
 もぐもぐ。
 ごくん。
 寒そうに身体を小さくして、体育をしている人達を見ながら一緒にチョコを食べる。きょーすけさんがくれたココアを飲む。うん、幸せ。けど、ちょっと怖い。
「チョコにココアって甘すぎないか?」
「それが良いのです。おいしいですよ?」
「俺には少し辛いな」
 甘すぎて溶けそうだ、と笑う。子供っぽいなあって思いながら私も少し笑う。風が吹いて体が震える。もう一口飲んで暖まる。きょーすけさんも同じ事をしていて、ちょっとおかしかった。
「なあ、小毬」
 きょーすけさんが消えちゃいそうな声で、私に言う。「なんでしょー?」
「授業、サボっても良かったのか?」
「うーん…。良くはないよね…」
「だよなぁ」
「そうですよ」
 リボンが風で隣に流されちゃうから、慌てて押さえる。ちょっと長かったかな。
「ねえ、きょーすけさん」
「なんだ?」
 さっきの言葉を出来るだけ口調を真似て、繰り返してみる。隣で笑い声が聞こえた。
「俺は良いんだよ」
「そうなのですか」
「そうですよ」
 同時に一口飲んで、一緒に笑う。くすぐったくて、風が冷たくて、体を動かした。
 生物の授業、今頃何やってるんだろう。って呟いた。風に乗って飛ばされるかと思ったら、捕まえられた。
「確か、犬の餌の解剖じゃなかったか?」
「ほえ? わんちゃんのご飯?」
 頬をかきながら、そっぽを向いて教えてくれる。
「具体的には、鶏の頭の水煮だな」
 突然、手に持ってるチョコが美味しくなくなった気がした。ココアが苦くなった気がした。
 きょーすけさんが頭を撫でてくれるけど、それでもまだおいしくなかった。にわとりさん、ごめんなさい。ありがとうって小さく言った。隣かも聞こえた。恥ずかしそうな声。一口食べた。甘くて、美味しい。


 
 飲み終わったココアの缶を、きょーすけさんが横から持っていった。自分で捨てるって言ったけど、笑って頭を叩かれた。一瞬叩かれたのがわからなくて、あたふたした。それを見て、さらに笑われた。
 何か言おうとして、口を開いたらチャイムがなった。思わず上を見て、太陽を見た。
「お、時間だな」
 前を向くと、もう誰も居なくて、私だけ。
 慌てて窓から出て、階段を下りて、踊り場を回る。途中で転んで、膝を打った。
 痛くて座ってたら涙が出てきた。寂しくて、痛くて、やっぱり寂しくて。
「きょーすけさん」
 居ないってわかってるのに、呼んじゃう。
 聞こえないってわかってるのに、呼んじゃう。
 何処かに行かないで。まだそばに居て。とか、ちょっと大げさかなって思ったけど。少しぐらい大げさな方が、気がついてくれるかなって。
「小毬」
「きょーすけさん」
「どうした?」
「行かないで」
「ああ」
「撫でて」
「ああ」
「あと、えっと。おめでとう、ございます」
「ありがとう、小毬」


 テレビを点けたら、桜の開花予想をやってて、なんとなく見てみた。いつもより早いって、めがねのまじめそうな人が言ってた。それが嬉しかったり悲しかったり。
 自分の部屋に向かって、てくてく歩く。
 今日は桜餅にしようかな。いっぱいあるからみんなで食べよう。
 ふろしきにいっぱい詰めて、両手で持つ。ゆさゆさ。廊下の窓からあったかいお日様が入ってきて、なんだか楽しくなる。一個だけ、味見してみようかな。
 もぐもぐ、ごくん。
「校内での食べ歩きは禁止ー!」
「ほわあああああっ!?」
 
 甘くて、しょっぱくて、なんだか春らしい味。
 うん、幸せ。
 
 


[No.693] 2010/03/17(Wed) 23:03:28
魅惑の顎 (No.682への返信 / 1階層) - 秘密 9,843 バイト



「み、みんな! 大変だー!」

 朝。
 始業前の雑談に包まれる教室に飛び込んできた鈴が、叫びにも近い声を出した。
 その声にクラスメイトが何事かと反応し、しかしリトルバスターズの面々に近付くなり、雑談を再開する。
 別クラスの葉留佳以外の全員が揃っていた。

「どうしたのりんちゃん? そんなにあわてて」
「た、大変なんだこまりちゃん! 理樹が、理樹が! ……ぅ」
「落ち着いて下さい、鈴さん。まずは呼吸を整えて」
「う、うん……」

 美魚の落ち着いた声に冷静になったのか、鈴が何度か大きく呼吸する。
 最後に一際大きく息を吐くと意を決したかのような表情を作り、両の手とも握り拳に。
 そして、

「今日、珍しく理樹が遅かったから起こしに行ったんだ」
「あれ、真人くんは起きなかったのかな?」
「……彼が理樹君より先に起きると思うかね、小毬君」
「あー……」

 来ヶ谷の一言に納得して、小毬が苦笑する。
 理樹を起こす、それさえ出来れば後は理樹が真人を起こす。そういう構図が成り立つのだ。

「しかし幼馴染に起こされるとは羨ましい……と、それで。その様子だと並ならぬ出来事があったようだが。……脱がされたのか?」
「んなわけあるかっ! でも、でも、大変なんだ……」
「鈴さん、兎に角続きを」

 クドリャフカが促し、鈴はその目を見た後で、頷く。

「あ、ああ……。起こしに行ったら、まずドアの前で寝こけてる真人が居たから縛って逆さに吊るして……」

 朝一番からなかなか頭の冴えた行動だった。

「その後で理樹のベッドを見たら、理樹がいなかったんだ」
「ほえ? どこか出かけちゃったのかな?」
「行方不明……ミステリでしょうか」
「いや、部屋にはいた。いたんだけど……」
「どうしたんですか?」
「洗面所にいて……」

 うんうん、と4人が頷く。
 鈴が少し視線を逸らし、逡巡するかのように沈黙した。
 言っていいものかどうか迷っているらしい。
 4人は急かさず、ただ静かに鈴の言葉を待つ。

「そしたら理樹が、理樹が……」
「お菓子のお風呂に……!」
「恭介さんとコトに及んで……」
「裸体で倒れていた?」
「犬耳を……」
「そ、そんななまぬるいものじゃない……理樹が」

 すぅ、と息を吸い。



「理樹が、髭を剃っていたんだ!」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」

 鈴の悲壮な告白に、小毬は笑顔のまま、美魚は深刻そうな顔をして、来ヶ谷は目を見開き、クドリャフカは呆然としてそれぞれ硬直した。
 漏れ聞いていたクラスメイトはおいおいそれがどうしたと言わんばかりの空気を纏っていた。
 が、そんなクラスメイトたちをよそに小毬美魚来ヶ谷クドリャフカは、

「「「「な、」」」」

 同時に、口を開き。

「「「「なんだってぇー!?」」」」

 世界の終わりだとでも言わんばかりの叫び声を室内に轟かせたのであった。


  *


「いやまあ、何て言うか」

 そんなこんな、昼休みに入るなり拉致られた理樹である。
 体育館裏、壁に背中をつけ、ずいずいと5人(朝のメンバー+葉留佳)に追い詰められる。
 端から見れば、と言うかもう端から見なくてもカツアゲ真っ最中ってな光景だ。

「嘘ですよね、直枝さん。きっと、鈴さんの見間違いか何かだったんです。そうに決まっています」
「です! リキに……リキに髭だなんて……!」
「こんなにかわいいのに〜」
「理樹、その、あたしもちょっと寝ぼけてたから見間違えたのかも知れない……だから今はっきりと言ってくれ」

 理樹は浅く溜め息。
 その後で俯き誰とも目を合わせないようにして、小さな声でしかしはきはきと話し始める。

「僕だって男なんだからさ……髭くらい生えるし剃るよ」
「そういう問題じゃないんDEATHよ!」
「葉留佳さん怖い」

 デスじゃなくてDEATHになってるんだもの。
 しかも太陽の陽射しも遮られる陰気とも言える空間。
 影が恐怖を煽る……が、それよりも先に悩みが来る。
 ――僕って一体どう思われて……
 と。

「認めん、我々は断固戦うぞ、少年」
「戦うって、何とさ!?」
「決まっている! 無論、理樹君の髭とだ!! 待っていろ、必ずヤツの魔の手から救い出してみせる!!」
「どうなるの僕!? ね、ねぇ、鈴!!」
「ん……」

 思わず助けを求めた相手は、幼馴染だった。
 この状況、鈴は向こう側の人間であったが、理樹が縋れるのはもう彼女しかいなかった。
 その鈴は考え込むように、腕を組み俯いていて。

「そうだな、みんな。まずは落ち着こう」
「鈴君……」
「りんちゃん……」

 鈴からぬ台詞だったが、来ヶ谷と小毬が鈴の名を呟き、その顔を見る。その後の表情は、冷静さを取り戻したようだった。
 その威風堂々とした姿に他の面々も言葉を噤み、理樹ははっと安堵の息を吐く。
 その理樹に笑いかけた後で鈴は一歩踏み出し、天に轟かさんばかりの、大きな声で宣言する。

「あたしの考えでは、いるはずだ。この学校のどこかに、理樹をこんなにした犯人が! だいあくとうが!!」
「鈴なんかに期待した僕が馬鹿だったよ!」
「ん? あたしなんか間違ったか?」
「間違いだらけだよ!? 世界ふし○発見の野○村真並には間違いだらけだよ!!」
「そのうち何回かはパーフェクトとれるから問題ないな」

 理樹としてはこき下ろしたつもりだったのだが、実にポジティブ思考だった。
 クイズミ○オネアで番組の時間合わせのためにあっさり1問目でスタジオから去る挑戦者の方がよかったか――と後悔するがもう遅い。

「で、結論は出たわけだが」

 出たらしい。鈴の言葉に、全員が頷き、闘志を露わにしていた。
 どうにも、当事者であるはずの理樹が置いていかれそうな雰囲気になってきた。
 だが、理樹には状況を見守るしか出来るはずもなく。
 そうして動けずにいると、来ヶ谷が鈴の前に歩み出てきた。

「指揮は私に任せろ、鈴君」
「んー、そうだな。あたしはそう言うの苦手だ。まかせたぞ、くるがや」
「うむ、任されよう。まず、理樹君の監きn……げふんげふんっ! もとい保護警護は小毬君と葉留佳君。君たちに任せる」
「りょうかいだよー」
「あいさー!」
「ちょっと待って、今監禁って言ったよね、誤魔化そうとしてたけどほとんど言ってたよね?」

 声を荒げず、理樹は至極落ち着いた調子で突っ込む。
 冷静なのではなく、ただ単に諦めが先行しているだけである。

「言いましたか?」
「覚えがないな」
「ですよね」

 美魚の質問に、来ヶ谷はしれっとそう返した。美魚もあっさり肯定し、他も無言で頷いている。
 酷い連中である。

「さて、本題に戻るぞ。私と鈴君とクドリャフカ君は玩具を集m……もとい、実働部隊だ。ヴェルカとストレルカも動員しろ。美魚君はバックアップを頼む」
「玩具!? なんの!?」
「わかった」
「わからないでよ鈴!」
「わふー!」
「今までにないほど楽しそうなわふーだねクド!」
「では、わたしは科学部部隊を率い放送室の占拠に移ります。皆さん、ご武運を」

 手を揃えて額の前へ。敬礼。
 って言うか占拠って。
 彼女らが、何と戦おうとしているのか本気で分からなくなってきた理樹である。


「では皆、成果を期待する! ……私たちの戦いはこれからだ!」


 ENDォ!


 ――酷いオチだ……。
 そう思い溜息をつき、理樹は項垂れた。


  *


 体育館倉庫。理樹簀巻き。

「ってあれ!? 終わってないの!? ENDとまで書いたのに!?」
「……私には理樹君が何を言いたいのかわからないが、しかし安心したまえ。もうすぐ終わる。犯人がわかったからな」
「犯人いたの!? 僕の髭は誰かによって生やされていたの!?」
「生やされていたんです! そうでなくては、こんなに可愛い直枝さんに髭が生える理由の説明がつきません!」

 美魚の取り乱しようはもはやヒステリックに近くすらあった。鈴はずっと神妙な表情をして腕を組んでいるし、クドは動揺しているのかわふわふしか言っていない。小毬は呆然としながらドライヤーのターボでチョコを溶かし、葉留佳はL座りしながら、髪の毛を振り回している(頭は全く動いていない)。『I can fly!!』とか言ってるから空を飛びたいのだろう。来ヶ谷はいつもの余裕のありそうな笑顔で居るが、それも皆をこれ以上取り乱せさせないため、せめて自身は平静を保とうとしているようにも見えなくはない。
 もしかすると、と理樹は思う。彼女たちの言うことが正しいのかもしれない、と。この状況を見ているとそうなるのも無理はなかった。
 加えて理樹はもう、身体も心も疲れ切っていたのだ。正直、眠たい。
 目を半分閉じ、くらん、と頭を垂れる。

「寝てはいけません直枝さん。寝たらその間に女装させますよ」
「すいません寝ませんごめんなさい」
「それで、犯人だが……美魚君」

 ちらっ、と来ヶ谷が美魚を見遣った。
 理樹にはまるで意図がわからなかったが、後は任せた、とでも言いたいのだろうか。
 美魚がゆっくりと前に出てくる。理樹は簀巻き状態のまま、微妙に後ろに下がった。床に擦れた指が熱い。

「はい。犯人は……直枝さんです」
「………………はい?」

 まさかの犯人扱いに、理樹は疑問を隠す余裕もなく、取り繕う事も出来ない。
 しばしの沈黙の間に思考して反論をしようとするも、不可能だった。
 意味がわからなさすぎる。相手が完全に間違っていると思っていても、そもそも何が言いたいのか全く理解出来ないのであれば、それを行うことも出来る筈がない。
 出るのは疑問と、いいところ否定の言葉までだ。

「え、なに、どこからどう辿ればそんな風に……」
「正確には、理樹君の分泌する男性ホルモンだよ」
「いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや」

 突っ込みつつ、しかし理樹は自身が犯人扱いされた理由に納得した。
 確かに、それならば理樹が犯人と言う事になってしまうだろう。
 だが、理樹はこれでも一応多分恐らくきっと或いはもしくは男なのだ。そうだと思う。
 なら、それは当たり前の事である。犯人扱いというのも困る。
 けれども今の理樹には、抵抗する手段もなく、この頭がどうにかしたとしか思えない少女たちに投げかける言葉も浮かばない。

「ですが女性ホルモンを打ち込むとかは流石に犯罪臭がしますし、無茶があるのでわたしたちもやりません…………なので、直枝さんには女装をしていただきます」
「ま、待ってよ! 寝てないよ僕!?」
「直枝さん」
「な、なにさ」
「確かにわたしは、寝たらその間に女装させると言いました」

 美魚の落ち着き払った表情に、しかしただならぬ気迫を感じて、理樹は唾を飲み込んだ。
 その理樹を気にも留めず、あくまで自分のペースで、美魚は続く言葉を紡ぐ。

「……ですが、『起きていたら女装させない』とは言っていませんよ?」
「さいあくだー!」
「直枝さんの美しい顎に雄々しいものが生える事に比べれば、あまりにもちっぽけです」
「って言うか、女装したって髭は生えなくなったりしないよ!?」
「ええいうるさいぞ黙って永久脱毛しろ小僧もといお嬢ちゃん」
「結局女装関係ないよねそれ!?」

 いきなり出てきた来ヶ谷に突っ込むが、そのまま迫られる。縄を解かれ、しかし抵抗など出来るはずもなく、夕刻近い体育館に、バリバリバリィ!! と布を引き裂く音が轟く(※1)。
 その轟音を掻き消す、理樹の甲高い悲鳴(※2)が上がるまで、5秒とかからなかった。




 ※1 あくまで衣服を仕舞っていた布袋が掻っ捌かれただけで理樹の制服は丁寧に脱がせた後、スタッフが美味しくくんかくんかしました。
 ※2 鈴にそっくりですので、脳内再生が可能でしょう。


[No.694] 2010/03/17(Wed) 23:15:26
17歳♀だけど何か質問ある? (No.682への返信 / 1階層) - 最初で最後の秘密 @9478byte

 不慣れな手付きでキーボードを叩く。覚えたてのタイピングはお世辞にも早いとは言えず、自分の不甲斐無さに嫌気が差す。
 ようやく目当てのページに辿り着き、今度は少し考えてからタイプし始めた。



*     *     *



 『17歳♀だけど何か質問ある?』というスレッドタイトルは、若干一分ほどで考えられた、何とも安易なものだった。



*     *     *



 週末は暇だ。やることがない。だから普段は趣味に没頭していることが多いが、同じことを毎週繰り返しているのも少しばかり焦燥感に似た飽きがやってくる。貰いもののノートPCを手に取ったのも、全くのきまぐれと言ってもいいだろう。
 まずは情報を集めた。欲しいものの発売日だとか、近隣の穴場だとか。しかしそれも一時間ほど続けていると得るものも少なくなっていき、途方に暮れた。そこで私は噂でしか聞いたことのない――それも悪評が多くを占める、ある掲示板サイトへと足を向けた。
 最初に抱いた感情は侮蔑。なんと低次元な話をしているのだろう、と呆れ果てた。そのまま閲覧をやめてしまってもよかったが、私はよっぽど退屈していたのだろう。少しばかり巡回をしてみた。
 次に抱いた感情は感動。私の浅知恵なんて遠く及ばないほどの重厚で肉厚な評のぶつけ合いは心躍り、私は時間を忘れてそのスレッドを読み続けてしまった。
 最後に抱いた感情は疑問。この掲示板は多くの人が利用し、簡単な年齢層だけで言えば、私より年上の方が多いことだろう。それなのに何故、こんなにも低俗なスレッドが立ち並び、そして意味のない会話を行っているのだろうか。私はそれに興味が沸いた。
 だから私が『17歳♀だけど何か質問ある?』という名のスレッドを立てたのは知的好奇心からであり、私は決して低俗な会話なんてしたかったわけではない、と先に口にしておく。



*     *     *



『スペックうp』
 最初に書き込まれたレスポンスは、いくつか見たスレッドの中でも、特に変哲のない、はっきり言ってしまえばつまらない質問だった。しかし少しでも長くスレッドを続けるには、こうした質問に丁寧に答えていくのが大切だ、と私は考える。
『17歳♀/高校生/寮生/スレンダー/趣味は読書』
 身長や体重も書くべきかどうか悩んだが、匿名とはいえなるべくそれは避けたい。だから私は『スレンダー』と書くことで一応の納得を得ようと考えた。
『一番重要なとこが抜けてるぜ』
『スリーサイズうp』
『ひんぬーうp』
『( ゚∀゚)o彡゜ おっぱい!おっぱい!』
「……………………」
 なんと統率の取れた社会不適合者たちだろうか。このような人間が何食わぬ顔で社会に溶け込んでいるとしたら、私は何を信じて生きていけばいいのかわからない。
 どうやら落ちる心配はなくなったようだが、これではどう話を続けていけばわからない。とりあえず更新しつつレスポンスを見ていくと、一つちゃんとした質問が書き込まれていたことに気が付いた。
『文学少女いいじゃん。最近のお気に入りは?』
 自分の好きな分野だ。質問されて嬉しくないわけがない。
 しかし問題は『最近』という部分。私は気になったら買うタイプで、『私の中で最近』として捉えるべきか『最近出た小説の中で』と捉えるべきかで少々悩んだ。後者だと思いきり積んでいる可能性がある。よって都合のいい前者を採用することにした。
『愛読書はトイレみたいな名前の探偵が主人公の推理小説』
 別に言葉を濁したかったわけではないが、何となく計りたくなったのだ。私と会話している人たちの、知識の深さを。
『島田乙』
『御手洗シリーズか。渋いな』
 何人がこのスレッドを見ているのかはわからない。それでも目に付く限り、何人かは私と同等程度か……もしくはそれ以上の読書家がいるようだ。なるほど、少しこの手のスレッドの面白さがわかってきた。
『共学? 覗きとかあるんじゃね?』
『百合は日常茶飯事ですか(*´Д`)ハァハァ 』
 これら書き込みを見た時、よくありがちな先入観だな、と思った。
 この手の会話は実家住まいの子と寮住まいの子でよく交わされるもので、私も訊ねられることがある。しかし幸いにも私は一人部屋なため、大きな誤解を招いた経験はない。
『私は一人部屋だし、百合自体もあんまり聞いたことがない。覗きは論外』
 素直にそう書き込むと、反応は冷ややかなものだった――というか、手の平を返したようにレスポンスが減った。あったとしても、『ツマラネ』や『酷い釣りだ』というものばかりで、少しショックを受ける。こうしたさじ加減もなかなか難しい。
 めぼしい質問もない。ならこちらから火を入れるしかないだろう。
『むしろ私は薔薇の有無が気になる』
 ……私は書き込んでから後悔した。
『アッー!』
『801行け』
『腐女子乙』
『17歳♀/高校生/寮生/スレンダー/趣味は読書/腐女子 ←NEW!!』
 ――etc。火を入れるどころの騒ぎじゃない。火に油を注いだような、蜂の巣を突いたような騒ぎになってしまった。更新が追い付かない。誰だ違う板にスレ立てたの。
 少し落ち着くまで、次の書き込みは控えよう……そう思いながら、"F5キー"を叩く。
『寮住まいの読書家腐女子。友達いなそう』
 その言葉に、思わず指を止めた。



*     *     *



 私は初夏の香りが漂い始めていた、あの晩春の日々を思い出す。
 『カゲナシ』だった頃の私は、人と関わることができず……いや、関わることを嫌っていたに違いない。私は集団生活の中に身を置きながら混じり合うことはできず、ただの変わり者として過ごしていた。
 でも――そんな私にも、手を差し伸べてくれる人がいた。『カゲナシ』だった私は太陽を得、いつしか影を生み出した。足元に転がる白球を、拾い上げることができた。
(ああ……なんだ)
 ――あの頃の私じゃない今の私には、こんな言葉、簡単に否定できるじゃないか。



*     *     *



 不慣れな手付きでキーボードを叩く。覚えたてのタイピングはお世辞にも早いとは言えず、自分の不甲斐無さに嫌気が差す。
 でも心は穏やかだった。



*     *     *



 いくら匿名とはいえ、ここまで書き込んでいいものかと多少は躊躇いがあった。それでも私は否定したかったのだろう……私の友人たちを、否定する言葉を。
『青臭いな。青春だ』
『楽しそう』
『ちょっと痛い。だがそれがいい』
『そうやって馬鹿やれんのも今だけだから、精一杯楽しんどけ』
 だからそうした書き込みをみた時、私は安堵した。皆笑わない――皆目を細めて見てくれている――私の居場所を、羨ましそうに。
(……………………)
 椅子に深く座り直し、ふと考える。ここまで来るまでの数百というレスポンスは、低俗でもあり、崇高でもあり、冷たくもあり、温かくもあった。つまり一貫性がない。なのに何故、人はここに集まってくるのだろうか。
「……匿名だから?」
 人間は臆病な生物で、目立ちたいと思う反面、本音を語りたがらない。特に親しくない相手と面と向かってはだ。
 ゆえに匿名。批判でも、褒め言葉でも、それが何であろうと、全てを本音で語る場所。だから一貫性がなくていいのだろう。人間というのは、移ろっていく生物だから。
 といっても、これは自己満足であると同時に自己完結であり、満点の答えには成り得ない。だから心なしか微笑ましく感じるのも、根本からの勘違いなのかもしれない。しかしそれでいいと思う。結局ここで得られるものは全て、自己満足でしかないのだから。
 私はディスプレイと向き合い直す。
『今北産業』
『スレ主 17歳腐女子 今からおっぱいうp』
 ……全然微笑ましくなかった。
『おっぱいキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!』
『これはいいおっぱいスレ』
『( ゚∀゚)o彡゜ おっぱい!おっぱい!』
「……………………」
 ……これだから男という生物は。



*     *     *



 ベッドの上の携帯電話が鳴っていた。私は席を立ち、今度はベッドに腰掛けそれを拾い上げる。
「神北さん……?」
 ディスプレイには『神北小毬』と表示され、メールが一通届いていることを知らせていた。慣れたとは言い難いが、キーボードのタイプよりは幾分かはマシな手付きで受信ボックスを開く。
『急な連絡でごめんなさい>< 今日は学食でりんちゃんたちにお料理を教えていたのですが、まだご飯を食べていなければ皆さんいかがでしょうか? 是非学食に来て下さい^w^』
 壁時計を見上げる。時刻は既に夕刻を過ぎ、夜と呼んでも差し支えがない時間になっていた。私はそれほど夢中になってレスポンスを追っていたのだろうか。ついさっきまで昼前だと思っていたのに。
「……お腹、減りましたね」
 今日は朝食以来、何も口にしていない。空腹を覚えるのは当然のことだった。そう考えれば神北さんの申し出は、願ってもないことだ。
『いやっほーぅ! 最高だぜぇーっ!!』
「……………………」
 窓の向こうから、聞き慣れた男子生徒の声がする。おそらく私が受け取ったのと同じメールを見て、学食へと走り始めたのだろう。その後ろを一人の男子生徒が慌てて追う姿が目に浮かぶ。
「……行きますか」
 性犯罪者予備軍の巣窟に一言だけ書き込み、部屋を出た。向かうは私の居場所だ。



*     *     *



『あ、もしもし来ヶ谷さん?』
 受話器越しに聞こえてくるのは理樹君の声。見た目もさることながら、こうして声だけ聞いていてもまるで女の子のように思える。理樹君可愛いよ理樹君。カチカチ。
『……来ヶ谷さん?』
 ――いけない、トリップしてしまっていたようだ。可愛過ぎるのも罪とはよく言ったものだ、と私は思う。カチカチ。
「すまない、少し考え事をしていた……小毬君のメールの件だろう?」
『うん。もう皆集まってるけど、来ないの?』
 集まっているということは、理樹君は学食のホールから電話を掛けてきているのだろう。皆の輪から離れ、一人壁にもたれかかり電話を掛け、首をかしげる理樹君。カチカチ。
「ああ……イイ……」
『……来ヶ谷さん?』
 ――天丼。話が一向に進まない。カチカチ。
「申し訳ないが、私は少々忙しい……先に始めていてくれないか?」
『それは別に構わないけど……さっきからカチカチ聴こえるのは何の音?』
 む、理樹君の耳にも届いてしまっていたか……らしくもなく興奮し、ムキになってしまっていたのかもしれない。少し自重しよう。カチカチ。
「ああ、少しテキストを起こしていてね。それが忙しいんだ」
『そっか、早くしないとなくなっちゃうから頑張ってね』
「ああ、ありがとう」
 そこで電話は途切れる。
 理樹君との電話、小毬君やクドリャフカ君との食事――それらは全て魅力的で、また刹那的な快楽を私にもたらしてくれる、なんと甘美な響きだろうか。カチカチ
 しかしそれでも私は席を離れることはできない。キーボードを叩き続けていなくてはならない。タイミング良く出会ったスレッドの主である、彼女が戻ってくる瞬間まで――私は"F5キー"を連打しなくてはならない。カチカチ。
「――ええいっ、私のひんぬーはまだうpかっ!? まだなのかっ!?」
 ……カチカチ。



*     *     *



 ――数十分後、『第一回リトルバスターズお料理勉強会』はある飢えた男の暴食により、メンバーが欠けたまま大盛況で幕を閉じた。



*     *     *



 ――数時間後、『17歳♀だけど何か質問ある?』スレは熱心な保守の甲斐もなく、スレ主不在のまま静かに落ちていった。


[No.695] 2010/03/17(Wed) 23:34:30
あ〜! なるほど! (No.682への返信 / 1階層) - ひみ2@13297 byte

 最近、鈴が新しい口癖に嵌っている。
 いや、別に口癖それ自体を否定するわけじゃないんだけど……物によっては可愛らしいと思うんだけど……なんというかその――

「あ〜なるほどな! そうかそうか、あ〜なるほどな!」

――ア○ルって連呼するのは正直やめて欲しい。



 あ〜! なるほど!



 発端はとあるテレビ番組だった。
 それは何の変哲もない、よくあるバラエテイー番組で、お茶の間にも比較的ウケのよろしい類のものだ。どう考えても害悪になんてなりそうもない、むしろ時には教育上非常に有用なものでさえある――知識番組"あ〜! なるほど!"
 今更人には聞けないような日常の疑問を見事に暴き出し、"あ〜! なるほど! そういうことだったのか!"と解答を与えてくれる企画物で、まあ毒にも薬にもならないような物、といえばそうなんだけれど……その……ネーミングセンスが非常にまずかった。っていうか、"あ〜!"って要らないだろっ! 嫌がらせかっ!
 ネーミングセンスがまずいだけならばまだお茶の間が気まずくなる程度で済むかもしれない。けれどもし、もしテレビの影響を受けてしまう人が出てきたとしたら……?
 初めてその番組を目撃したときに、僕の中である種の危惧が生まれた。僕はその番組を食堂のテレビで目撃した翌日、真っ先に教室に向かい、授業の予習をしていたクドの元へ駆け寄ると、

「クド! 昨日どうしてもわからないから教えて欲しいって言ってた事、答えがわかったよ!」
「本当ですかーっ!? ってリキ、どうしてそんなに汗をかいて……」
「いいから、よく聞くんだクド! 確か君はこう言っていたね。『どうして"インテリ"は英語では"いんてりじぇんと"ではなく"いんてれくちゅある"と言うのでしょうか……』と」
「は、はいー。えと、辞書を引くと、知識階級やインテリは"an intellectual"になってて……それだとインテリではなくインテレになるのではないかと思ったのですが」
「それはね……インテリの語源が英語ではなくロシア語だからなんだ……интеллигенция(インテリゲンツィア)が原語だったんだよ……!」
「あ〜!」

 クドの口が大きく開いて固まる。
 僕の胸が、爆発しそうなほどに激しく鼓動する。
 まさか……まさか……っ!

「そういうことだったんですかー! 確かにロシア語にинтеллигенцияって言葉がありました……わふ、大盲点だったのですー……これぞ"灯台下暗し"というやつですねっ」

 よかった……っ! 本当によかった……っ!
 そうだよね、いくら69だからといってさすがにそこまでお子様じゃないよね、クドは! 疑ってごめんよクド! お詫びに撫で撫でしてあげよう!

「わ、わふっ! り、リキ、そんな人前で……恥ずかしいですー……」

 ははは、こやつめ!
 僕は三日ぶりのお通じが来たかのようなさっぱりとした顔で席へと戻り――

「こまりちゃん、この問題はどうやって解くんだ?」
「うん、それはね、りんちゃん、ココ、この公式を応用すれば……はい、このとおり、解けましたよ〜」
「あ〜!」

 微笑ましい日常会話をBGMに安心して鞄を開け、準備を済ませようと教科書を取り出し――

「なるほどな! あ〜なるほど! そういうことだったのか! あ〜なるほどな! ありがとうこまりちゃん!」

――机の上からヘッドスライディングをかましてしまった。

「おい直枝、危ねえって」
「ご、ごめんごめん。ちょっとショッキングなことが」

 前の席に座っていたクラスメイトに詫びると、声が聞こえてきた方角へと目を向け、犯人を見定める。

 鈴。
 僕は悲しいよ。
 今僕はとても悲しい。

「あのさ、鈴……」
「理樹か、聞いてくれ。こまりちゃんが天才なんだ」

――言えない……っ! 僕には言えない……っ! この純真無垢な瞳を前にして"ケツの穴"なんて下品な言葉を差し込むことなんて……僕にはできない……っ!

 今思えば、これが最初の過ちだったと思う。このとき僕がきちんと理由を説明し、止めることができていれば……だけどそれも、今となっては後の祭りだ。



 それからというもの、鈴はことあるごとに"それ"を頻繁に使うようになった。初めのうちこそは周囲の認識も"ああ、あのテレビ番組か"程度のものだったけれど、そこは年頃の青少年の性か、やがて一人、二人、と真実に目覚め始める。
 鈴が"あ〜!なるほど!"と頷くたびに、そこかしこから押し殺した笑い声が上がるようになった。冬が終わり、春の訪れと共に僕らが進級して最上級生になるころには、クラスで気づいていない者は一人もおらず、それどころか学年の垣根を越えてわざわざ見物にやってくる人まで出てくる始末だった。
 僕は何とかしてこの流れを食い止めようと奔走し、根回しをしていった。リトルバスターズの皆にも協力を仰ぎ、そこそこ仲の良い別クラスの友人を駆け巡って回ってもらった。けれど人の口に戸は立てられないし、現状鈴の口癖は治らないままだったので、僕らの行動は無意味とは言えないまでも、一部の心無い生徒たちの噂の根絶にまでは力及ばなかった。

「理樹。これは誰もがいつか越えていく坂道なんだ……妹を頼んだぜ」

 僕が最も頼りにしていた恭介も、その一言だけを残し、あっさりと卒業していってしまった。その去り際のあっけなさに、カッとなった僕は思わず肩を掴んで引きとめ、自分の妹が好奇の目に晒されて悔しくないのか、と当り散らした。

「本音を言えば"ア○ル姫"とか呼んでる奴ら片っ端から殴りつけてやりたいけどよ、やっぱもう俺の出る幕じゃねえよ。いつまでも幼いままじゃいられねーってことだ。それに俺、あんま心配はしてねーんだ……理樹、あいつの傍にはお前がいてくれるからな」

 そういって親指を立ててニカっと笑う仕草は、昔から、少しも変わってはいなかった。



 救いがあるとすれば、表立って騒がれることがなかったことと、信頼できる仲間たちに恵まれたことだった。おかげで僕らは、表面上は何事もなく学園生活を満喫することができた。学園の姉妹校が新設され、交換留学生として鈴が選ばれそうになったときには"肛姦留学生"などと揶揄されそうになったりもしたけど(ちなみにこの話は鈴が丁重にお断りしている)、楽しい毎日だったって、胸を張って言える。
 その間鈴は少しも変わることなく、相変わらず"あ〜!なるほどな!"とことあるごとに叫んでいた。はた迷惑なことに、今回の彼女のマイブームはどうやら長生きらしい。でもそれも鈴らしいな、と微笑ましくもあった。
 
 一度だけ、鈴をア○ル姫から解放するべく、それとなく誘導しようとしたことがある。

「ねえ、鈴。その口癖なんだけどさ」
「口癖ってなんのことだ」
「いやほら、よく"あ〜!なるほどな!"って言うじゃない」
「あ〜!なるほどな! あれか! あ〜!なるほどな!」
「そうそう、それそれ。それなんだけど……語頭を"お〜"にしたほうが、なんかかっこよくないかな」
「お〜……なるほど……お〜!なるほどな! そうかそうか! お〜!なるほどな!」

 よし、うまく誘導できた、と思ったのも束の間、次の瞬間、僕はとんでもない事実に気づかされる。

――あれ、ちょっと待って……お〜、なるほど……オナる……ほど……?

 しまった……っ! 悪化してる……っ!

「ま、待った待った! やっぱ"あ〜"のほうがいいかも!」
「なんなんだお前はさっきから。まあいい、用が済んだならもう行くぞ」

 知らなかった。
 僕は知らなかったんだ。
 日本語がこれほどまでに残酷なものだということを、僕は知らなかったんだ……。



 何はともあれ、表面上害がないならば気にしていても仕方がない。そう割り切って、日々を過ごしてきた。その間に様々な出来事があって、楽しいこと、悲しいこと、いくつもの貴重な体験をした。
 そして僕の隣には、いつだって一番近くに鈴がいた。
 いつしか僕の中で、鈴がとても大きな存在になっていたらしい。彼女の姿が見えないと、僕はなんだか落ち着かない気持ちになって、きょろきょろと周囲を探してしまうほどだった。その間もあの気まぐれな猫さんは、僕のそんな気持ちに気づいているのかいないのか、マイペースに僕の周囲をうろうろしたり、しなかったりと変わらずにいてくれた。

 そして楽しい学園生活の終焉を告げる最後の春がやってきた。このころになると最上級生も自由登校となり、進路の決まった生徒たちは、もっぱら友達との思い出作りに励むようになった。僕らもその例に漏れることなく、毎日が遊び倒しの日々だった。
 一度、社会人となった恭介が遊びに来たことがあった。愛車を乗り回してやってきたその姿は、たった一年でこれほど見違えるものなのかと思えてしまうほど大人びたもので、僕らは嬉しいような寂しいような、複雑な心境で恭介を迎えた。
 けれどそんな遠慮しがちな僕らを見て、気にした風もなく恭介は親指を立ててニカっと笑って告げる。

「おいおいお前ら、なんて顔してんだよ。親友が会いに来たんだぜ。もっと嬉しそうな顔しろよな!」

 その一言がきっかけとなって、僕らの間に微かに漂っていたわだかまりが解けていく。まるで恭介がいたころの学園時代に戻ったかのように、活気が生まれた。卒業旅行をしよう、という提案は全会一致で可決し、何日もかけて計画も練った。
 そんな僕らの少し早めの卒業旅行もあっという間に終わり、ついに学園とお別れする日がやってきた。
 卒業式。
 このまま何事もなく終わると思っていた。
 相変わらず鈴はことあるごとに"あ〜!なるほどな!"を口癖としていたけれど、もう周囲も既に飽きていたのか、以前ほどには騒がれなくなっていたし、皆もそう信じていたと思う。

 ――だからこそあまりにも唐突な破局の訪れに、誰も順応することができなかった。

 卒業証書授与式も無事終わり、在校生が作るアーチを潜り抜け、それぞれの教室で行われる最後のホームルームに備え、生徒たちが戻っていく。
 その最中、突然鈴が行方不明になった。
 最後に目撃した生徒――小毬さんだ――の話によると、鈴と小毬さんは二人で一緒に教室へと戻ったらしい。

――最後だし、花瓶のお花にお水をあげようとしてたんだ
――でももう先生たちが既に片付けちゃってたの。だから二人でお話でもしてようかって、りんちゃんの席まで行って……
――そこでりんちゃんは机の中の手紙に気がついたみたい。訝しげに読んでたと思ったら、突然顔色を変えて教室を飛び出して行っちゃったの
――私はてっきりラブレターかな〜と思って笑顔で見送っちゃったんだけど……違ったのかなぁ……

 僕はなんとなくその手紙に書いてあった内容が推測できてしまった。今まで目立った行動はしなかったというだけで、結局のところ最後の最後まで心無い人たちは心無い行動をやめなかったということだろう。
 そして最後だから、思い切った行動をとっても、後腐れはない。
 "立つ鳥跡を濁さず"なんて所詮はただの幻想だったんだ。
 僕は担任の呼び止める声を振り切って廊下へ飛び出すと、当てもなく駆け出した。

 校舎の隅々まで探し終えるころには、陽も傾き、人の姿もまばらになっていた。一般教室はいうまでもなく、美術室や音楽室、視聴覚室など特別教室にも向かい、そこに人がいれば鈴の行方を尋ねた。部室、中庭、裏庭、校庭――女子にも声をかけ、女子寮の中も探してもらったけど、結局そのどこにも鈴の姿は見当たらなかった。

 一つだけ探していない場所があるとすれば――今、僕はそこへと向かっている。

 誰もいなくなった校舎の、誰も訪れることのない階段を一段ずつゆっくりと足を運ぶ。
 不要になった机や椅子などの備品が積もりに積もった階段の踊り場。そこを潜り抜け、用意していたドライバーを取り出すと、窓枠のネジをゆっくりと回していく。
 カタン、と何かが外れる音がした。
 隙間に身体を滑らせ、外へと抜け出す。

 この学園で、最も空に近い場所。本来は立ち入り禁止のこの場所に、今僕は立っていた。
 吹きすさぶ風が頬に心地よく、身体に熱が篭っていたことを実感する。

「やっぱりここにいたね、鈴」

 そして赤光が目を焼く景色の果て、フェンスに凭れ、目を閉じ静かに佇む鈴の姿を捉えた。

「近寄るな」

 踏み出した一歩と共に突きつけられた拒絶の言葉が、物悲しい響きを帯びて空へと舞い上がっていく。
 拒絶されたことよりも、拒絶せざるを得なかった鈴の心境に、そして追い込んでしまった自分の、支えきれなかった自分の不甲斐なさに、僕は一筋の涙を零した。

「あたしはもう穢れてるんだ。お前の傍にいる資格はない」
「ごめん」
「どうしてあやまる」

 鈴がくしゃくしゃに丸めた紙を僕へと放り投げる。軽く目を通すと、やはり予想したとおりの揶揄する言葉が無遠慮に書き連ねられていた。

「あたしはな、この一年間、いや……もっとだな。一年半もの間、公衆の面前で"ケツの穴"って叫び続けた女だぞ。そしてそれは誰のせいでもない、あたし自身が、あたし自身の意思で、叫び続けていたんだ。"ケツの穴"ってな……」
「でも、知らなかったんだよね? だったら……」
「かんけーあるかっ!」

 悲痛な叫びは、上空を吹きすさぶ突風よりもなお強く、僕を打ちのめす。

「知らなかったなんて、関係ないだろっ! あたしはア○ル姫なんだ! あたしはもう穢れているんだ! わかったらさっさときえろっ!」
「大丈夫、鈴、大丈夫だから」
「何が大丈夫だ! 無責任なこというなっ! どこが大丈夫なんだ! いってみろ! これから先ずっと皆の記憶にア○ル姫って残るあたしの、どこが大丈夫なんだ!」

 その言葉を聞いて、一つ頷いてみせる。小型の拡声器を取り出し、息を大きく吸い込んで、叫ぶ。

「あ〜! なるほどね! あ〜そっかそっか! あ〜なるほどね! そういうことだったのか! あ〜なる! あ〜なる! あ〜なるほどねー!」

 僕の叫びは学園内を超え、外へと飛び出していったことだろう。敷地の外にいた買い物帰りの主婦らしき人が、ぎょっとこちらを振り返ったのが見えた。
 唖然とする鈴を尻目に、拡声器を外して彼女の元へと歩み寄る。

「鈴がア○ル姫なら、僕はシリアナード王子になる。だから、大丈夫だよ」
「あほかーっ!」

 瞬間、ものすごい衝撃と共に僕の身体が宙に浮いた。
 放たれた鈴のつま先が僕の顎を的確に捉えたのだ。
 浮遊感は一瞬、すぐさま地面へと落下し、背中が強く叩きつけられた。肺から空気が漏れるように、こふっとうめき声が上がる。

――相変わらず、鋭い蹴り上げだね……でもあいにくと、ここで気絶するわけにはいかないんだ

 脳が揺さぶられ、意識が朦朧となるところをぐっとこらえ、僕は立ち上がった。
 怒っているような、泣いているような、どちらともつかない顔で僕を見据えた鈴が、怒鳴り足りないとばかりに僕に掴みかかる。

「このばかっ! ばかっばかっばかっばかっばかっ! お前まで穢れてどうすんだっ! あたしは、あたしはお前にだけは綺麗なままでいて欲しかったんだぞ!」
「ねえ、鈴。これは例えばの話なんだけど」

 僕は泣き喚く彼女を遮り、続けた。

「10kgの荷物をそれぞれが背負うのと、20kgの荷物を二人で支えあうのって、どっちのほうが楽だと思う?」
「それは……えと……二人……か?」
「一人の痛みを分かち合うことはできないよ。僕と鈴は別の生き物だからね。でも、それでも、二人の痛みを合わせて支えあうことは出来ると思う」

 呆然と僕を見つめる鈴、それをしっかりと見つめ返す。
 大丈夫、この世に恐れるものなんてない。
 言い聞かせるように一つ頷くと、静かに息を吸い込み、声高らかに言い放つ。

「結婚しよう」

 1秒――
 2秒――
 3秒――
 
 変化のなかった彼女の表情がみるみるうちにくしゃくしゃとなって、眦からは涙が溢れ出す。
 ゆっくりと傍に寄り、しゃくりをあげる鈴の頭を宥める様に一つ撫でると、頤に手をあて上を向かせ、そっと口付けを交わす。
 初めてのキスは、涙味の雫となって黄昏に染まる夕空へと溶けてゆき、後はただ、春風の訪れと共に舞い上がった桜の花びらが、僕らを祝福するように、ゆっくりと宙へ舞い上がっていくだけだった。


[No.696] 2010/03/17(Wed) 23:35:45
この世界の正しい使い方 (No.682への返信 / 1階層) - 秘密@4175 byte

「恭介“お兄さん”。お願いがあります」
ノックされたドアを開けると西園が真剣な目で見上げていた。ちょっと可愛いなと思ったけどそれは嵐の始まりである事はひしひしと感じられた。


「んで、なんだ?お願いってのは」
お茶を上品に飲む西園。ちょっとしたしぐさにも、なんというか…行き届いている。

「ずっと我慢していました…」

語り出す西園。頬が赤く染まっている。

「こんなことを言ってしまっては嫌われたりするのではないかと心配でたまりませんでした」

いつになく熱い、情熱的な口調。

「でも、もう…!」

少し潤んだ、熱っぽい目で見詰めてくる。
やばい、無茶苦茶可愛い。いや、もともとか。そんな西園が―

「お願いです!是非恭介さん×直枝さんを…!いえ、恭介さんが受けなのなら直枝さん×恭介さんでも!恭介さんの力で叶えて下さい!」
「まてええぇぇえぇいっ!!」


「えっ、ちょっ、おま、はい!?」
「あ、してくださるんですか!?」
「しねーよ!!」
…はぁ、期待して損した。
「恭介さんの力ならできるはずです」
…まぁ、出来るけどさぁ…。
「出来るが、嫌だ」
「何故ですか?」
「何故ってお前なぁ…。俺にそんな趣味はない」
「今からでも遅くはありません」
「いやいやいや…」
理樹の口癖が出てきた。口癖っつっても誰でも言うけど。

「想像してください」
「何をだ?」
「女装した直枝さんが恭介さんに少し潤んだ、熱っぽい目で、頬を赤く染めて『好きで好きで堪らないんだ…恭介ぇ…』と告白してきたらどうしますか?」
「張り倒して8時間程説教してやるわ!」
「押し倒す!?」
「張り倒す!!」
「調教!?8時間も!?」
「説教!!直るまでずっと!!つーかお前に説教してやりたいわ!!」
「それでは、『僕、本当は女の子だったんだ!』はどうですか?」
「台詞変えようが一緒だっ!!」「…どうしても…だめですか…?」
泣きそうな目で、泣きそうな声で訴えてくる。まずい、可愛くてクラクラしてきた…。耐えろ、頑張れ俺。
「どうしてもだめ」
「…仕方ありません」
お、諦めてくれたか?立ち上がりドアへ向かう。

しかし、その期待を見事に裏切られた、もちろん悪い方に。

「あ、恭介さん!そ、そんな…ぁん!」
「まてまてまてまてまてぇ!!」
外に向かって叫ぶ西園の口を押さえる。
「おま…周りに誤解されんだろうが!」
「恭介さんが素直にならないからです」
「…だから俺にそんな気はないんだっつの…」
「因みにイエスと言うまでやめません」
「駄々っ子かお前は…」

「ふえ〜、恭介さんそんなとこ触っちゃや「だーーーーーっ!!」
「どうでしたか?神北さんバージョン」
「似すぎてて怖いわ!!」
「そうですか。では次は能美さんにしましょうか、それとも来ヶ谷さんに攻められている風にしますか?それとも鈴さんとで周りに変態扱いされますか?あ、今の時点で大分危ない人ですけどね」


堪忍袋の緒が切れた
もういいや
我慢しないで

「…んじゃ、見せてやるよ。お前の希望をな」
「…見せるとは?」
ニヤリ
「こういうことさ」
指をパチンと鳴らす。



美魚は柔らかなベッドの上で横たわっていた。
産まれたままの姿の恭介と理樹に挟まれて。
「え…、ええっ!?」
珍しく大きな声をあげる。
「あ、ほら起きちゃったよ。恭介が髪撫でるから」
「おっと、すまん。あんまりにも綺麗だったもんでな」
「でも、本当に綺麗だよね。良い匂いだし」
「…あ、あの…」
事態を呑み込めない美魚。
「言ったろ。見せてやるよ。お前の希望をな、って」
はっ、となる。
「そ、それでは…」

「理樹」
「ん?」
恭介が
理樹に
キス
美魚の
目の前で

「〜〜〜〜〜〜っ!!」
いくら妄想しようが、どれだけ想い描こうが、届かない本物。望んでいたはずの美魚は言葉を発する事も出来ない。

「…ん、ぷは…。もう、恭介は強引なんだから」
「ははは、悪いな」
「………」
「なあ、西園」「ねぇ、西園さん」
「……は、はい?」
「理樹は好きか?」
「…は、はい」
「それじゃ、恭介の事は?」
「は、い…」
「んじゃ俺達の事は?」
「…ま、まぁ」
「「なら、良いじゃないか」」

二人が
美魚の
頬に
キス



「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!」
ちょっと刺激が強すぎたかな。まぁいいか、これで少しは懲りるだろう。
俺の持っているイメージをそのまま西園に見せた。しかしイメージするだけでも大分恥ずかしいなこれ。やっぱり俺は普通に女子が好きなんだ。
例えば目の前の奴とか。
「どうだ?望みが叶った気持ちは」
壁際まで下がりまだ息を荒げている西園に問う。
「ど、どうって…」
「ところでな、西園」
「は、はい?」
「俺と理樹にドキドキしたのか?それとも」
西園に近づいて耳元で囁く。
「俺にドキドキしたのか?」
「っ!?」
「わざわざ俺の部屋まで来たのは、果たして俺に頼めば何とかなると思ったからか?」
「…あ、あの…」
「俺が目当てだったんじゃないか?」
「〜〜〜!!」
脱兎の如く俺から逃げる西園。今の焦っている姿もなかなかに可愛いかった。

何時までも続く世界で、ちょっとだけ我が侭な事をやってみよう。
「さてと、どう落とすかな?」


[No.697] 2010/03/17(Wed) 23:48:16
夢は… (No.682への返信 / 1階層) - 秘密@10578 byte

ふわり
風がそよぐ
柔らかな光に照らされ
何処までも続く草原が輝いていた

「…西園さん?」
「はい。なんでしょう」
隣の西園さんがいつものように答えてくれる。
けど、今居るここはいつもの場所ではない。
見たこともない、まるで夢のような場所。
「ここは何処?」
疑問を口にする。
「ここは始まりです」
「…え?」
始まり?始まりって何の?
「根本は本流から外れた支流です」
「…良くわからないんだけど…」
「…直枝さんは『果てしない物語』という本をご存知ですか?」
逆に質問された。
「えっと…ごめん、題名しか解らないや…」
西園さんは軽く息を吐き、話し始めた。
「『果てしない物語』の主人公は本の中のお姫様とその国を救いました」
「本の中の?」
「はい。そして願うことでその国を一から創る力を貰い、望みのままに国を創ったのです」
「…本の中の国を創る…?」
解るような解らないような。
「それと同じように直枝さんにはここを創る事ができます」
「要するに…願いが何でも叶うの?」
「大抵の事は、はい」
何でも望みが叶う…。それは…
「何か…こう…副作用みたいなものは無いよね?」
世界を創るんだ。そんな大きな事が出来るだろうか?
「ありません。安心してください」
…そうか。でも幾つか疑問がある。
「なんでそんなにここの事を知っているの?」
「私が恭介さんに創って貰ったからです」
「恭介に?」
「先程も言った通りここは本流から外れた場所で回避することも出来たのですが、恭介さんに無理を言って私と直枝さんだけの世界に作り替えて貰ったのです」
「なんで恭介はそんな事が出来るの?」
ため息をつく西園さん
「それはお答え出来ません。それにどうせ忘れてしまいます」
「忘れないよ!こんな事…」
「と言うか無理矢理にでも忘れてさせてしまうと思います。直枝さんの為に」
「…」
釈然としない。解らない事だらけだ。
「解らなくても納得して下さい。そんなもんなんだと」
「…う…ん」
そう言われても…。
「それとも…私の事は信用できませんか?」
拗ねたように言う西園さん。思わず可愛いなと思ってしまう。
「ううん。そんなことないよ」
「…そうですか」
元の口調に戻る。

「改めて、直江さんは何をお望みですか?」
僕の望み―

「西園さんと色んな所に行きたいな。西園さんとずっといたい」
「それが望みですか?」
「うん」
顔を赤らめる西園さん。

でも…
どこか悲しげなのは何故だろう?

「少し嬉しかったです」
「え?」
「私を…私だけを選んでくれた事を」
「うん。一緒に居たかったから」
また顔を赤らめる。
「正直、皆さんと一緒にと言うと思っていました」
「それも良いなとは思ったけどね」
「でも恭介さんと一緒に、が一番嬉しかったかも知れません」
…こういう人だ。

西園さんは立ち上がる。
「行きましょうか。何処かへ」
手を差しのべられる。掴んだその手は少し冷たかった。

二人で手を繋いで草原を歩いて行く。
風が奏でる草の音
何処までも続く緑色
凄く気持ち良いが、少し飽きてきた。
「何処まで続くの?」
「直江さんが望む所までです」
望む所まで―
「…あ」
気がつかなかったが緩かな丘を登っていたようだ。登りきり下りの方を見ると―

「…うわぁ…」
思わず感嘆の声が上がる程に美しい花畑。
「…綺麗ですね」
「行ってみよう」
近づくと多種多様で様々な色合いと、甘い香りが迎えてくれた。
「こんな場所をお望みだったんですか?」
「まぁね。ここまで綺麗だとは思わなかったけど」
花畑の中心で辺りを見回す。360°、赤、黄色、オレンジ、ピンク、白、紫に囲まれる。
「…えい」
西園さんが花畑に寝転んだ。花びらが舞い上がり、ふわふわと西園さんの身体に舞い降りた。
花と、花に囲まれた西園さんの対比が幻想的に綺麗だった。

…あれ、何故だろう。
悲しみが込み上げてくる。
いつかどこかでこんなことが―

「直江さんは」
西園さんの声に意識がもどる。
「結構少女的な感性をお持ちのようですね」
「そ、そうかな?」
「お花畑なんて小学生の女の子の夢みたいです」
「まぁ…確かに」
「やはり直江さんは見た目は女の子、頭脳も女の子です」
「…いやいやいや」
僕も隣に寝転ぶ。澄んだ空に吸い込まれそうだった。
隣を見る。西園さんもこっちを向いた。
数輪の花越しに見える西園さん。
「…綺麗だなぁ…」
それしか出てこない。もっと色んな言葉が存在するんだろうけど、解らないし、綺麗が一番相応しいと思う。
「…何故そう殺し文句がほいほい出てくるんですか?」
「…さぁ…?」
そのまま暫く流れる時間を楽しんだ。

「さてと、そろそろ別の場所へ行こうか」
「そうですね」
立ち上がり、来た方向とは反対の方向へ歩く。
花畑が終わり、暫く歩くと
「あ、川だ」
緩かに流れる小川を見つけた。
魚でもいるのだろうか、時折水がパシャッと跳ねる。
「水浴びでもしよっか」
「…脱げというのですか?」
「あ、いやいやいや…」
素足になり足を水に入れる。ひんやりしているが心地良い。西園さんも足を入れる。
「癒されますね」
さっきも充分癒しだったけど今の方が良い。
西園さんが足を上げる。水が跳ね、細く白い足を水滴が伝う。思わず目が釘付けになる。
不意に水をかけられた。
「わぷっ、…冷たいよ、西園さん…」
「直江さんが変態だからです」
…変態扱いされた。
「…えい」
仕返しに水をかける。
「ひゃっ!」
驚く西園さん。けどすぐにかけ返されだ。
気がついたらびしょびしょになるまでお互いに水をかけあっていた。
服が細い身体に張り付いていて、えっと…魅力的だった。だいぶ目のやり場に困るけど。
「…やはり脱がす気だったのですね」
「いやいやいや…」

服が乾くのを待ってまた歩き出す。
「次は何ですか?」
「何って言うか…西園さんとずっと一緒に、としか考えてないんだ」
「…そう…ですか…」
目を伏せる西園さん。照れてるんじゃない。一体…

さぁっ
目の前に花びらが舞った。
顔を上げると花吹雪に襲われる。
花吹雪が収まったその先に、桃色の壁。―いや、桜の森が広がっていた。
気が付くと周りが先程よりも暖かい。鳥の鳴き声が聞こえる。
「ここは…春?」
「…そのようですね」
桜の森の中へ入っていく。一本の道が向こうへ続いている。桜の雨を浴びながらそこを歩いて行く。瞬く間に僕らは桜色に染まっていく。
西園さんの髪の蒼色と桜の桃色の色合いに引き付けられた。
「…じろじろ見ないでください」
そうは言うものの頬も桜色に染まっている。ただの照れ隠しだ。
段々と桜の雨が止んで来た。地面に桜のカーペットが敷かれる。木は徐々に葉桜になり、そして

むわっ
「暑っ」
森の緑が濃くなり終えた時、夏の暑さに迎えられた。
「さっきまで桜に囲まれた春だったのに…」
「直枝さん、後ろ」
振り返るとさっきの桜の森はなく、青々とした夏の木々に囲まれていた。
「…夏ですね」
「…夏だね」
暑いけどそこまでムシムシはしていない。まだ歩けそうだった。辺りでは蝉の命を枯らした大合唱が鳴り響いていた。
「暑いです…」
上着を脱ぐ西園さん。
「平気?」
「なんとか…。直枝さんは平気ですか?」
「大丈夫だよ。って言うか男が音を上げちゃ駄目だし」
「…え?」
「いやいやいや、そこ疑問持たないでよ」
「ふぅ…先程の小川が恋しいです…」
「あ〜、海行きたいね」
「…そうですね」
…あれ、素っ気なく返される。
…海…
「直枝さんはそんなに私の水着を見たいのですか?」
「…え?あ、や、そういうつもりじゃ…」
「ではスク水を着たいと」
「いやいやいや…」
…そんなに女の子っぽいかな…僕。

考え事をしていると
スイッ
目の前を赤トンボが横切った。
顔を上げると木々の色が少しずつ暖色に染まっていった。振り返ると、さっきのように色づいた木々に変わっていた。
「過ごしやすくなったね」
「汗が引いて少し寒いです」
上着を羽織直す。
歩みを進めると、暖色が色濃くなっていった。
さっきの桜に似ている。ずっと見ていたくなる程綺麗で、ひらひらと落ちて来て、積もっていく。
決定的に違うのはこれから隆盛の道を辿るか、衰退の道を辿るか。
「栄えたものは衰えるのが世の理です」
「えーっと…徒然草?」
「平家物語です。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。どんなに楽しくてもいつかは… 終わってしまうんです」

なんで、なんでそんなに切ない事を、淋しい目をするんだろう。
一体何があったんだろう
一体何が起こるんだろう
今、僕に出来ることは

「…焼き芋」
「…はい?」
「焼き芋食べたいなって、だって秋だし」
「…よくもまあ…この空気を壊せるものです」
「シリアス過ぎて嫌だったんだ」
「確かにそうですね。でも焼き芋って…」
「おいしいよ」
「そうですけど…」
顔を見合わせて吹き出す。うん。西園さんには笑顔が似合う。
落ち行く紅葉の色と相まって、淋しくも華やかに映った。

その紅葉も終わりを迎える。木々は枯れ、シンとした静けさに包まれる。
ふと、西園さんが身体を寄せてきた。周りには枯れ木しかなく、気温以上に寒く感じた。
「…あ…」
真綿のように、白く、軽い、雪が降ってきた。
道も進む程に雪が積もっている。
「もっと厚着をすれば良かったね」
「まさか冬になるなんて思いませんでした」
二人して凍えながら道を行く。
「走る?暖まるよ?」
「…マネージャーには厳しいです」
「ならおんぶして走ってあげよっか?」
「…何の罰ゲームですか?それなら走ります」
「罰ゲームって…」
「乗っかったら折れてしまいそうです」
「軽いから大丈夫だと思うよ」
「…」
西園さん走り始める。走るって言ってもジョギング程度だけど。多分赤らんだ顔を見られたくないんだろう。
それをすぐに追い越す。西園さんも頑張って着いてくるけど。
「…」
3分もしない間に歩き出す。
「私は走るべき人間ではありません」
「いやいやいや、悟るには早いと思うよ?」
「…直枝さんは犬みたいに駆け回っていてください」
「ここに炬燵はないよ」
「…走ったら暖まりました」
「え?たった3分しか…」
いや、本当に寒さが緩んできた。まだ名残雪が多いけど、次の場所が始まって来たんだ。
雪の中の西園さんは一層美しく、儚げに映った。


雪は溶けきった。森ももうすぐ終りだ。
「木が…」
「え?」
「松の木が増えています」
「あ、気づかなかった」
「海が近いのでしょう」
…海…


森が開けた。
西園さんの言う通り、海が広がっていた。
日の光を受けて輝く砂浜
潮の香
穏やかな海

「叫ばないんですか?ばかやろーって」
「それは真人とか謙吾の役だよ」
柔らかい砂浜に踏み入り波打ち際で止まる。
「何かして遊ぼっか。お城作ったりとか」
「…子供ですか」
「…そうだね…。んじゃ大人はどうするんだろ」
「…さあ…?やりたい事をやるのでは?」
「人を砂に埋めたりとか」
「だから貴方は子供ですか。子供でないなら犯罪者に聞こえますよ」

とりあえず思い付く事をした。遊んだり、砂浜を歩いたり、昼寝したり、水遊びをしたり(またびしょびしょになったけど)

疲れて、海を見ながら座る。とりとめのない話をしていたら、夕方になっていた。
海に沈み行く夕陽。
夕陽に照らされ、オレンジに染まる西園さん。潤んだ瞳。長いまつ毛。整った唇。柔らかく、細い身体。
「…綺麗だなぁ…」
「また呟いていますよ。だから恥ずかしい事は言わないで下さい」
「…ごめん」
そうは言ってもやっぱり赤く染まる。夕陽のせいだけではない。


「…そろそろ…ですね…」
立ち上がる西園さん。
「…そろそろって?」
苦笑いする西園さん。
「もう気付いていますよね?」
「…うっすらとね…」

ここは本流から外れた支流。
時折見せる西園さんの悲しげな表情
無理矢理にでも忘れさせられるここの記憶
そして、始まりはいつか終わってしまうと言う事

「夢の、終わりです」
「やっぱりいなくなっちゃうの?」
「…はい」
「どうして…」
「直枝さんは本流で私の魂を解放しました。本来なら消えてしまっているはずです」

僅かな記憶
海…

「ずっと西園さんと一緒にいたいっていう望みは叶わないの?」
「永遠はありません。…ほら」
西園さんの視線の先には不思議な光景が広がっていた。

海の向こうの草原
花畑が海に面している
海へ水を注ぐ小川
海に舞い行く桜
深緑と海
落ち葉に染められる海
海を凍てつかせる雪

今まで通ってきた道だ。さっきまではなかったのに。
「この夕陽が沈む頃、この世界は終わりです」
「…」
「泣かないで下さい」
「泣いてないよ」
「…楽しかったです。本当に…本当に…。ずっと居たかった…」
殆ど沈んでしまった夕陽。辺りが暗くなっていく。
西園さんが手を伸ばす。両手で握り返す。
言いたい事、したい事、沢山あるのにそれしかできない。

「…ありがとう。西園さん」

闇に包まれ行く世界に西園さんの笑顔が浮かぶ。
一番綺麗だと思った。



最後は何を写そう
もうすぐ消える灯りに


[No.698] 2010/03/17(Wed) 23:50:28
願いが叶った未来 (No.682への返信 / 1階層) - 秘密なのです@8095 byte

 ある日の朝。窓から射す光が重たい瞼を開ける手助けをしてくれる。
 しかし隣で寝ているこの子はそうでもないみたいで、幸せそうにすやすやと眠っている。
 どんな夢を見ているのかは知りようがないが、それにしても可愛い寝顔だと思う。
 ずっと眺めていたくなる感情を脳内から数分掛けて追い出し、そっと囁く。
「葉留佳、朝よ、起きて」
「ん……おはようお姉ちゃん」
 ゆっくりと身体を起こす葉留佳を見てしみじみと思う。私は今とても幸せなんだと。
 こうして2人同じ時間を共有出来ることがとても嬉しい。
「こっちへ来なさい、髪梳いてあげるから」
 ゆっくりとした動作でこちらへ向かって来る葉留佳を椅子に座らせるように促す。
 木製のそれに葉留佳は腰かけるのを見計らって背後に回る。
 一呼吸置き、長い髪を櫛を使って梳かし、その後手でさらさらと撫でるように触れる。
「それにしても綺麗な髪ね」
「お姉ちゃんが毎日こうして手入れしてくれるからだよ」
「ありがとう、そう言ってくれると嬉しいわ……ってお礼を言うのはどっちかといえば葉留佳でしょう?」
「いや、やっぱりそういうのって照れくさいじゃん? ていうかお姉ちゃん、随分と素直になったよね?」
「それは……」
 葉留佳には今まで素直に出来なかった分できる限りの愛情をあげたいと思った結果こうなったんだと思う。
 でもそれこそ恥ずかしくて、面と向かっていえるわけがない。
 しかし今のこの位置なら真後ろを向かれない限り大丈夫。心を落ち着かせ、言う機会を待つ。
「……はる」
「どうしたの? 手止まってるよ?」
 声をかけようとした瞬間後ろを向かれ、完全に機会を逃してしまった。
 やるせない気持ちを胸に葉留佳の髪をいつもの形にセットする。
「……はい、出来たわよ」
「ありがとお姉ちゃん、じゃあ今度は私がしてあげるね」
「そう? じゃあお願いね」
 さっきのこともありつい素っ気無い返事の仕方になってしまったことを後悔しつつ、位置を交代する。
 葉留佳は優しい手つきで私の髪を梳いてくれる。その行為が私の気を楽にしてくれた。
「……さっきの質問の答えだけど、私は葉留佳の為だけに全ての愛情を注いであげたいって思ってるから」
「え? 質問って何のこと?」
 そうよね、葉留佳だもんね。周りを困らせるトラブルメーカーで、私の頭を悩ませる能天気な子。
「でもありがとうお姉ちゃん、私すっごく嬉しい!」
 私の髪をいつの間にかセットし終えた葉留佳は、わざとらしい位の満面の笑みで答える。
「……覚えてるでしょ」
「さあねー」
 

 


 部屋から出た私たちの髪は朝日に照らされてきらきらと輝いている。
 朝日のおかげか、手入れのおかげか。それとも錯覚でそう見えるだけなのか。いずれにせよ朝から気分が良い。
 私の右手が葉留佳の左手に触れ、指を絡ませ手をつなぐ。
 そしてそのまま食堂へと向かう。
 見渡すと、バスターズほぼ全員がそろっていた。
「おはよう、葉留佳さん、佳奈多さん。今日も仲が良いね」
 直枝の一言で気がついたが、私たちの手はつながれたままだった。
「おはよー理樹くん」
「おはよう直枝……って違うでしょ! 葉留佳、早く手を離しなさいよ!」
「いや、そんなに強く握られると離せないんだけど……」
「あ……分かってるわよ、もうっ!」
 照れくさくて手を離すが、その瞬間がやけに寂しく感じた。
 






 その後私達は2人で朝食をとり、教室へと向かった。
 ホームルームも終わり、1時間目が始まって半分が過ぎた頃、後ろの席の葉留佳は私の予想通りうとうとし始めていた。
 そのまま放っておくわけにもいけないので、肩をちょんと軽くつついて意識を戻させる。
「んっ……うー、寝てない、寝てないですヨ?」
 いや、その解読不能のノートを見ると説得力ゼロなんだけど。


 その後の授業でも葉留佳が寝そうになるたびに起こすのを2、3度繰り返して午前中の授業を終えた。
 2人で作った(8割以上は私が担当した)お弁当を持って中庭へと足を運ぶ。
「授業中は寝ちゃダメって言ってるでしょう。苦労するのは私なんだから」
「別に起こしてくれなくても良いのに」
「あっそう。じゃあもう勉強分からなくなっても教えてあげないから」
 授業以外の定期テストの勉強は復学して以来ずっと私が教えているようなものだ。
 葉留佳の成績も以前より上がっているし、このままだと教師になれるんじゃないかと最近では思う。
「ゴメン……でもなんでお姉ちゃんは平気なの? いつも同じ時間まで起きてるのに」
「気合よ、気合」
 
 
 そんな話をしているうちに中庭についた。
 中央の木のそばに腰をかけ、お弁当箱を芝生の上に置き、それを開ける。
「いただきまーす!」
 嬉しそうにおにぎりを頬張る葉留佳。その姿を見てると私まで嬉しくなってくる。
 ……と思ったら急に口をすぼめて目を閉じた。梅干入りを食べたのね。
 それを見かねて葉留佳の側に水筒を置く。ってあれは私の水筒ではないだろうか。
 そう思ってみると、葉留佳はすでにコップに口を付けていた。
 いわゆる間接キス……それだけなのに意識してしまう。
「ん? どしたのお姉ちゃん。 あ、食べさせてほしいんだね? はい、あーん」
 お弁当箱を右手に、卵焼きをつまんだ箸を左手に持ち、前かがみになって私の顔を見上げる姿勢で
私の口へと入れようとする。食べ物と葉留佳のいい香りが鼻をくすぐり、嗅覚が支配される感覚に陥る。
 拒否するという選択肢はあるはずもなく、口を開けじっと待つ。
「あ、あーん……」
 だが、口に何かが運ばれるといった様子もない。
 反射的に閉じた目を開けようとしたその瞬間、唇に甘くて柔らかいものが触れた。
 でも食べ物とは何か違う。不思議に思って目を開けると、顔をお弁当の中にあるイチゴのように赤くして恥ずかしそうに笑う葉留佳の顔があった。
 え、これってまさか……
「お姉ちゃんのお茶飲んだんだって気付いたら、なんだか身体が勝手に動いたというかなんというか……ゴメン!」
「べ、別にいいけど。でもその……いきなりは卑怯よ。するならするってちゃんと言って……」
 最後の方は恥ずかしさで尻すぼみな言い方になってしまった。私の顔も葉留佳に負けず真っ赤になっていることだろう。
「う……だって不意打ち受けたときのお姉ちゃん、すっごい可愛いんだもん」
「葉留佳、それは『お弁当じゃなくて私を食べて』って言いたいわけ?」
「え、ここで!?」
 私が半分冗談で言った一言に反応し、両手で顔を覆い隠し縮こまって照れる葉留佳こそすごく可愛い。
 そう言ったらどんな反応をするだろう。そう考えると苛めたくなって堪らない。
「あのね、冗談をまじめに返さないでよね……本気にするわよ?」
「お姉ちゃんの冗談は分かり難いよ、もう」
 本気にされたら困る、と言いたげに葉留佳はそっぽを向き、これ以上は話してくれなかった。
 葉留佳の赤く染まった首筋を眺めながら、残りのお弁当を片付けた。



 
 


 放課後はいつも通り葉留佳達に交ざって野球の練習をした。
 以前は見ているだけだったのだが、傍で見ている方が安心だし、1秒でも多く葉留佳と一緒にいたかったからというのが理由である。
 
 その後も昨日までと同じく、部屋でくつろいでから食堂へ行き、暫くしてお風呂の時間になった。
 が、今日に限って妙に葉留佳がお風呂に入っている姿を想像してしまう。夜が更ければ実像を見られるというのに。
 耳に布の擦れる音が聞こえる。しかしいつの間にか心臓の鼓動がその音量をかき消していく。
 ドアが動かされ、水が流れ始めたところで正座していたいたはずの足が風呂場へと向かいかけていたので、すぐにその場を離れた。

「ふぃーさっぱりしたー。お姉ちゃん入って良いよー」
 湯上りで上気している葉留佳の身体を見て一瞬理性が飛びそうになるが、ぐっと堪える。
「ええ、今行くわ」
 お湯を浴びてから湯船に浸かる。が、温度が高いのか身体が火照りすぐに出る羽目になった。
 風呂を出たすぐの部屋で、パジャマ姿で牛乳を飲んでいる葉留佳と目が合った瞬間、その原因が分かった。
 




 直後私達は同じベッドに寝転がり、手を握り合う。
「ねえ葉留佳、お昼のことだけど……」
 葉留佳を見つめ、話を切り出す。
 だが、葉留佳はこの話題が来ることを予想していたかのように、真剣な面持ちでこちらを見た。
「うん……お姉ちゃん、最近普通に恥ずかしい台詞言ってくるから私、気持ち抑えるの大変なんだよ?」
「ふふ、やっぱり我慢してたのね。いつもは直情的なのに、こういうことは奥手なのね」
「あの後人気の少ないところへ連れてってくれると思ったのに……」
「それにしても私にリードされるのを待つなんて、葉留佳は子供ね」
「むー、そんなことないもん!」
 そう言うと同時にマウントポジションを取りつつ両手を握り、顔を超至近距離まで詰めて来る。
 視界いっぱいに広がる葉留佳の顔に、抑えていた感情が溢れ出す。
「んっ……」
 触れ合うような軽いキス。そのやわらかさに身も心もとろけそうになり、自然と声が漏れた。
「お姉ちゃんの方こそずっと我慢してたでしょ。今日一回もキスしてないもんね」
「ばれてたのね……でももう抑えないわよ」
「うん……好きにして」
 それ以上の言葉は不要で、何を求めているのかは私を見つめる瞳が物語っていた。
 想いを確かめるように、ついばむような口づけを何度も重ねる。
 その行為を繰り返すうちに、私の脳内は葉留佳一色へと染まっていく。
「葉留佳、好きよ、大好き。生まれてきてくれて、本当にありがとう」
「私もそう思ってるよ、ありがとうお姉ちゃん。世界で一番愛してる」
 愛しさを胸に体中で抱きしめる。
 心から染み出た熱が全身に伝わり、触れ合う皮膚に温もりを灯す。
 私達は幸せな一夜を、お互いの存在を感じながら過ごしあった。


[No.699] 2010/03/18(Thu) 00:01:18
終焉を綴る者 前編 (No.682への返信 / 1階層) - ひみつ 60629 byte


1.

 すべてを終わらせねばならないと決意した日のことを、理樹は覚えている。その日も傘を忘れて酷い雨に遭い、鈴と一緒に慌てて喫茶店に駆け込んだものだ。借りたタオルで髪を拭き、窓際の席に座って、冷たくなった手と身体とを熱い紅茶で温めた。鈴は猫舌だから冷めるまで口を付けもしなかったが、代わりにずっと、白に赤の縁取りの入ったカップを両手で包み込んでいた。
 それからどれだけの時間が流れたのか、鈴にも理樹にも実はもうよくはわからないのだが、硝子越しに微かな雨音を聴いているとあの日からずっと、この世界には冷ややかな雨が一度も途切れることなく降り続いているのだと錯覚しそうになる。今日も窓硝子は一面の露に覆われて殆ど真っ白だった。表の道を歩く人びとの鮮やかな傘の色だけが垣間見えた。理樹は硝子の表面に人差し指で触れた。ゆっくりと動かして文字を刻み始めた。曲線を描くたびに爪がかちかちと音を立ててぶつかり、水滴が指先と硝子との接触面に溜まって、やがて肌を伝い落ちた。その指の動きを不思議そうに見詰めていた鈴が、あ、と小さな呟きを漏らした。
「どうしたの?」
「そう言えば、モンペチがもうない」
「そう言えばっていうか、なんの脈絡もないね」
「脈絡なんか知るか」と鈴は一蹴した。「非常事態だぞ。あいつらの食べるものがなくなったら大変だ」
「じゃあ帰りに寄っていこうか」
 理樹がそう言うとしかし、鈴はちょっと不機嫌そうな顔つきになり、白く曇った硝子を見て溜息をついた。本当は、雨の粛々と垂れる灰色の空を見上げようとしたのだろう。雨だから余計な寄り道をしたくない、と表情が露骨に言っていた。量が多すぎるので半分こで食べているパフェに手を伸ばし、鈴はぽつりと呟いた。
「よし、あいつらには一日くらい食べずに我慢してもらおう」
「いやいやいや」
「ん? なんか問題でもあるか?」
「可哀想でしょ」
 すると鈴は銀のスプーンをくわえたまま、ふふん、という顔をする。
「あたしの猫じゃらしによる特訓をくぐり抜けてきた精鋭たちだ。一日の絶食くらいなんの問題もない」
 わけがわからなかった。



 空はまだ青いが、陽は既に傾きかけていた。先ほどまで辺りに雨を降らせていた雲が、物凄い速度で北風に流されながら、紫色に輝いているのを理樹は見上げた。さして幅もない縁石に器用に乗った鈴はその隙に、猫の駆けるような速足で、さっさと先に行ってしまう。濡れて滑りやすくなっているのに器用なことだ。急いで理樹が追いかけるとひらりと飛び降りて、「急ぐぞ」と言った。
「なんでそんなに急いでるのさ」
「おなかすかせて待ってるだろ、あいつらが」
「さっきは絶食でいいとか言ってたよね」
 そんなことは知らん、と眼で言って鈴はまた歩道を駆け出した。商店街の中ほどのペットショップに到着すると、目的の棚にまっすぐに向かって床にしゃがみ込み、鈍い銀色の下地に鮮やかな緑や青や赤の印刷の入ったモンペチの缶を、次から次へと手に取った。店の入り口で籠を手に取って理樹はその後を追ったが、追い付いた途端、軽くはない缶を後ろ手にぽんぽんと放り込まれてたたらを踏みそうになった――どうしてこっちを見てもいないのに、そんなに簡単に籠に入るのか。
「実はあたしは超能力者なんだ」と鈴が背を向けたまま言った。「魔眼の持ち主なんだ」
「いやいやいや」
 くるりと振り返り、鈴は理樹の背を両手で押す。レジに行け、と言いたいらしい。狭苦しい店内を縫ってレジに向かい、籠を置くと、顔見知りの店員さんがモンペチを一つずつバーコードリーダーで読み取っていく。幾らになるか頭の中で既に計算の済んでいる鈴は、何処から捻出されているのか理樹どころか鈴本人にもいまいちわかっていないお金をレジの上の皿に置いた。千円札が三枚と小銭を少々。かと思いきや、むー、という顔をして小銭入れの中を睨んでいる。
「幾ら?」
「一円玉があと三枚。一万円札ならあるんだが」
 理樹は財布を取り出して、一円玉を三枚レジに置いた。お、ありがとう、と鈴が言う。
「ところで鈴」
「ん?」
「余ってるから、三枚と言わず三十枚くらいあげるよ」と理樹は、鈴の財布の中に大量の一円玉を流し込んだ。鈴は瞬く間に膨れ上がった自分の財布を呆然と見遣った後、我に返って、「いらんわぼけー!」と財布を投げつける勢いだ。店員さんがたまらずに吹き出した。「笑うなー!」とそちらにも猫のするみたいな威嚇をして、なんだかとても忙しそうだった。店を後にすると外はもうだいぶ薄暗かった。それでも冬に比べれば陽は長くなった方だ、と思おうとして理樹は、冬の夕方の景色など、最早曖昧にしか思い出せないことに気が付いた。そりゃそうだ、と鈴は理樹を見た。濡れた地面から水の香りが昇っていた。
 校門の影には猫がいた。
 ところどころ錆び付いた鋳鉄製の門扉は、雨水を薄っすらと纏わらせ、薄暗い闇の底で淡く光っている。道路の向かい側の歩道に立つ街灯の光を受け、門柱の背後から長々と伸びる濃藍の影の最中に座っているのはレノンだ。今にも影に溶け込んでしまいそうな静かさだったが、鈴と理樹を見ると一声、にゃあと鳴いた。「なんでこんなところにいるんだ、レノン」と声をかけ、モンペチの袋を手にしていない空いた片手で、鈴はその小さく白い身体を抱き上げた。ん、と首を傾げた。
「どうしたの?」
「またこれだ」とレノンの尻尾を視線で示す。細く折り畳んだ紙片が尻尾に、いつものように丁寧に結び付けられている。
 理樹が結び目をそっとほどいて広げてみると指令ではなく、SIHC OXAROC、とアルファベットが記してあった。しばらくの間、理樹はそれをじっと見詰めていた。首を傾げた鈴がレノンの身体越しに紙切れを覗き込もうとした。その時、遠くからわははははははーと声がした。驚いたレノンが鈴の腕から飛び下りて、そのまま暗がりへ逃げ込んだ。
「理樹、あたしらも逃げるぞ」
「そうだね」
「ふはははははははははははーこのはるちんからそう簡単に逃げられると思うなー!」
 とうっ、と謎の掛け声と共に二人の間に突然現れた葉留佳が、鈴の手からモンペチの袋をひったくって走り出した。何処に隠れていたのかもわからなければ咄嗟の反応も許さない神業だった。校庭の向こうの方で「ふふふふふ、二人で仲よさそうに出かけて何買ってきたのかなー」などと呟いている――何って、モンペチだけど。空っぽになった手のひらを見詰め、闇に紛れる葉留佳の後姿を見詰めた鈴は、理樹の手から紙切れを奪い取って見もせずにポケットに突っ込むと、足を踏み締め腕を組み、髪を風にそよがせて決然と仁王立ちした。
「今日という今日は許さん」
 低いのによく通る声だった。
 その声に気付いて葉留佳が鈴の方を振り返るよりも先に、鈴は物凄い勢いで助走を開始していた。驚異的な脚力で跳躍して飛び蹴りを決めたかに見えたが、きわどく身を翻した葉留佳が「わ、わ、鈴ちゃんが本当に怖いー!」と喧しく逃走する。鈴が「黙れー! モンペチ返せー!」と追跡する。その有様を理樹が呆然と眺めていると、「二人とも楽しそう」と後ろから声をかけられた。酷くのんびりとした声だった。
「理樹くん、おかえりなさいー」
「ただいま、小毬さん」
「何かと思って出てきてみたら」とちょっと呆れたような表情を浮かべる。「りんちゃんとはるちゃんは、いつでも元気だねー」
「もう少し大人しいと周りは楽なんだけどね。特に葉留佳さんは」
 理樹が冗談めかして告げると小毬はふわりと笑って、「でも、あれがはるちゃんらしいのです」と子供に言い聞かせるように呟いた。それは確かにそうだけど、と思った。砂を散らし、風を巻き上げて逆方向に走り去ったかと思われた葉留佳が、器用に小毬の背後に回り込んだのはその時だった。素早い動作で首にぐるりと腕を回し、もう片方の手を小毬の肩越しに伸ばして鈴をまっすぐに指差し、「こまりんがどうなってもいいのか!」と高らかに叫んだ。どうやら人質に取ったらしい。小毬は小毬らしい鈍感さを存分に発揮して「え? え?」と、何が起こったのかわからないとでも言うようにただ眼を瞬かせていた。
「くっ、卑劣な!」と鈴が何故か本気で悔しがる。「どうする、理樹」
 そんなことを訊ねられても知らない。理樹は黙って首を横に振った。それを横目で見た葉留佳が「ふっふっふ。どうやらわたしの勝ちのようですネ」と不適に笑うと、鈴は何かを決心した表情になって、「こまりちゃんすまん!」と謝った。
「モンペチのために、尊い犠牲になってくれ!」
 見捨てていた。
「ふえええええー助けてー」
 泣いていた。
 理樹は騒ぎの現場を離れ、葉留佳の手によってとうの昔に校庭の片隅に放り出されているモンペチの袋のところに向かった。拾い上げて砂を払うと、いつの間に騒動を収めたのか、鈴が葉留佳と小毬に挟まれて、嬉しさ半分迷惑さ半分、と言った面持ちでやって来る。理樹の手に獲物のあるのを発見して葉留佳がまた眼を輝かせた。
「理樹くん、鈴ちゃんを帰してほしければそいつを寄越せー!」
「いや、葉留佳さん、もういいよそれ」
「ははは、そうですネ」
「それで、二人でデートして何買ってきたのー?」と小毬がビニール袋を覗き込んだ。「あ、猫さんのご飯」
「何ー! なんでそんないつもどおりなんだー!」と葉留佳が再び袋をひったくって中身を漁り始めた。その隣で小毬が苦笑し、鈴が「何を期待してたんだ?」と首を傾げ、理樹が「さあ」と呆れたように返す、そんな無邪気な後姿を、恭介と謙吾は窓越しに眺めていた。男子寮の三階の廊下でだ。非常階段の脇の、殆ど誰も通らぬ一角だった。切れかかった蛍光灯が交換されもせずにばちばちと音を立てており、時折、闇を呼び覚ますように明滅した。先に窓辺に立っていたのは恭介だ。その様子を見とめた謙吾が近付いて、「何をしている?」と声をかけたのだが、返事はなかった。ただ、恭介の視線を追ってみると、葉留佳や小毬と別れて中庭の方角へ歩き出す鈴と理樹の姿が見えたから、どうして恭介がこんな場所に立ち尽くしているのかはわかった。一緒にその場に佇んで、宵闇に消えゆく鈴と理樹の背を見送った。不意に恭介が口を開いた。
「もうどれくらいになる」
「どう答えればいい」と謙吾は問い返した。「時間がまっすぐには流れていないこの場所で」
「ならこう訊こう――何巡目だ」
「さあな。お前が一番よく知っているだろう」
「ああ」と少しの沈黙の後、恭介は頷いた。「そうだな。そのとおりだ」
 もう随分と長いはずだった。何度目なのか、咄嗟に数え上げることのできない程度には繰り返してきたはずだった。思わず恭介が問うてしまう理由が謙吾にはわかる――それだけ長い時間が経ったにもかかわらず、恭介の目論んだ計画にはただの一歩の前進も見られないのだ。鈴も理樹も未だに、安穏な選択肢を選んではこれまでと変わらぬ日常を過ごし、最後にまた元の時間と場所とに押し戻されることをだけ繰り返している。謙吾が我知らず溜息を吐くと、恭介に肩を軽く叩かれた。
「まあ、気長に行くさ」
 そう告げた恭介は、既に足音を立てずに歩き出し、謙吾の脇をすり抜けて廊下の薄闇の向こうに去りかけていた。
「何を悠長なことを言っている」と謙吾は振り返ってその背に言った。
「あいつらに過保護に接していたのは他ならぬ俺たちだ」と立ちどまった。「そんなに性急に事を運ぼうとしたところで、たぶん無理しか生じないぞ」
 謙吾が再び言葉を発する前に、恭介は曲がり角に姿を消した。



 鍋がぐつぐつと煮えている。ガスコンロの青い炎が土鍋の底を炙るのを、理樹たち四人は、狭い部屋にわざわざ持ち込んだテーブルを囲んで沈黙と共に見下ろしていた。「なあ恭介」と最初に口を開いたのは真人だ。
「よくわかんないんだけどよ、一つ訊いていいか――なんで鍋なんだ?」
「そもそもこの鍋はなんだ。その辺にある材料を適当に放り込んだだけだろう」
「ていうかもうご飯食べたし。それに、なんで僕たちの部屋でやるのさ」
「馬鹿は馬鹿なんだから何訊いたって無駄だ。諦めて食うぞ」
「お前ら、相変わらず俺の扱い酷いな……」と部屋の隅っこで恭介が早くも泣きそうになっている。鈴が言葉どおりの諦めた表情で鍋をつつき出すと、「まあいいか、食おう」と真人が真っ先に考えることを放棄し、「しょうがないなあ」と言って理樹も箸を取った。未だに釈然とせぬといった面持ちの謙吾の隣に腰を下ろし、「いいじゃないか。晩飯からもうだいぶ時間経ったし。ほら食え」と恭介が箸を押し付けた。謙吾は渋々受け取った。これでようやく全員で鍋を囲んだかたちになる。うどんやキャベツや白菜や人参や鶏肉や豚肉や肉団子や海老やホタテが無造作に投げ入れられており、寄せ鍋と言えば聞えはいいが、ひたすらに謎めくばかりの鍋である。
「で、どうして鍋なの?」と理樹はうどんを取りながら改めて訊いた。
「今日いきなり寒かったじゃないか。だから、鍋かおでんが食べたいなあと思ったわけだ」
「思ったことを何も考えずにそのまま実行する。さすがの馬鹿兄貴だな」
「ちなみに明日はおでんだぜ!」
「本当に馬鹿だ!」
「確かに今日は雨だったし寒かったけど、明日はあったかいって天気予報で言ってたよ?」
 理樹はぶつ切りの鶏肉から箸先で脂身を切り離す。謙吾が物凄い勢いでうどんを啜った。「しまった、俺としたことが……」と絶望する恭介に鈴は一瞥すらもくれなかったが、隣の真人が肉ばかり皿から転げ落ちそうな量を確保しているのを眼にすると、「野菜も食え! 野菜も!」と詰め寄った。理樹はその隙にこっそりと海産物を集め始めた。
「そうは行かん!」
「ああ! 僕の海老!」
 神速の早業で三匹同時にさらっていくと、「理樹には剥いた殻をやろう」と得意げに言ってばらばらと、海老の殻やら足の切れ端やらを理樹の皿に投げ込んでくる。要らないにも程がある。どう考えても昼間の一円玉のお返しだった。テーブルの向こうでは「鈴の言うとおりだ。ほら、野菜」と謙吾が真人に白菜の塊を押し付けていた。「えー、だってよー。野菜じゃ筋肉にならねーじゃん」と真人ががっかりしたように呟いた。呆れた謙吾が「まるで肉なら直接筋肉になるとでも言いたげだな」と返すと、真人は箸をくるりと回し、満面の笑みで宣言した。
「こと筋肉に関してはオレもそこまで馬鹿じゃないぜ」
「ああ、それは事実だな」と鈴が頷く。「他は普通に馬鹿だがな」
「ふっ、否定できないな」
「真人、そこはちょっとくらい否定しようよ……」
「諸君!」と沈黙を守っていた恭介がおもむろに立ち上がり、大声で言った。「今回の季節外れの鍋、口ではああ言っていたものの、その実諸君が心の底から喜んでくれていることがわかって、俺は非常に嬉しい! さあ、遠慮など微塵も必要はない、どんどん食ってくれ給え!」
「こら馬鹿、入れすぎだ。肉が硬くなるだろう」
「速攻で食べればいいだろ」
「うどん入れられないだろぼけー」
 鈴も真人も謙吾も、恭介の言葉など勿論聞いていなかった。かわいそうに思った理樹だけはこくこくと頷いてあげていた。しばらく演説を続けていた恭介はその有様に気付くと一転して黙り込み、このまま泣きながら屋上まで駆け上がって飛び降りるんじゃないかと、見ている理樹が心配になるほどの絶望の色を顔にじわりと滲ませたが、やがて正面に座る理樹を発見して表情を明るくした。
「やはり、俺の気持ちを理解してくれるのは理樹だけだな」
「え? そう?」
「ああ、そうだ」と頷くと、優しく表情を緩めて凛と立ち、優美に一揖するかの如く理樹に手のひらを差し出した。「今、俺は確信した。理樹は――理樹こそが、俺の運命のひとであると。だから理樹、俺とけっこ」
 んしよう、と言い切ることは叶わなかった。人智を超えた速度を誇る鈴の回し蹴りが、「黙って死ねーっ!」という声と共に理樹の頭上を掠めたかと思うや、鍋上空に鮮やかな弧を描いて恭介の側頭部を直撃したからだ。恭介の身体は冗談のように吹っ飛んだ。真人の筋肉グッズを蹴散らし、本棚にぶつかって本を撒き散らし、壁に激突してもとまらずに跳ね返り、真人と謙吾の死守するテーブルの上の鍋以外のありとあらゆるものをなぎ倒して転がり、最後にベッドのへりに直撃して、ぐげえ、とひとの口からは漏れてはならぬうめきを漏らしてようやく停止した。兄の暗殺を完遂した鈴は無言で食事に戻っていた。「あはははは……」ととりあえず笑っておく以外に理樹にできることはなかった。
 鶏肉と豚肉が共に尽きたのはそれから十分後のことだ。食べ足りないらしい真人と謙吾は肉を狩りに行く算段を立てている。意味が不明である。「何処で獲ってくるのさ」と白菜を齧りながら訊いてみると、学校でだと言った。真人曰く「知らないのかよ理樹。近頃の学校には鳥とか鹿とか熊が出るんだぜ」とのことだ。
「そんなん知らん。理樹は知ってるか?」
「うーん。なんか噂には聞いたことあるけど。でも、それって本当なの?」
「さあな」と謙吾が言った。「だが行ってみる価値はある」
「いや、お前ら遊びに行きたいだけだろ」
「なんだ、鈴も一緒に筋肉したいか?」
「するか」と鈴は即座に拒絶した。「おなかいっぱいになったから、あたしは寝る」
 箸を置き、髪を束ねるヘアゴムを眠そうに抜き取ってポケットに仕舞うと鈴は、二段ベッドの柵を乗り越えて理樹の布団に潜り込んだ。「行ってらっしゃい。帰ってくんな」と布団の中からくぐもった声が聞こえ、静まった。
「まあ、夜の学校には他にも変な噂が多いからな」と謙吾が気を取り直して呟いた。「某国のスパイが地下迷宮を探索しているとか、深夜になると二階の東の階段が三十段伸びるとか、図書室の窓や扉から謎の青い光が漏れ出すとか、校長室に触手状の幽霊が現れるとか――この際だから、確かめてくるのもいい」
「全部初耳なんだけど」
「そうか?」と謙吾は首を傾げる。
「一段増えるのなら聞いたことある気がするけど、三十段は増えすぎじゃない?」
「そうだな」と謙吾は頷く。
「青い光って何?」
「わからん」と謙吾は首を横に振る。
「図書室と校長室は鍵かかってて入れないと思うよ」
「そうか」と謙吾は悲しそうな顔をする。
 真人は横で準備運動を始めている。やがて二人が出発すると、これまでの喧騒が嘘のように、部屋はしんと静まり返った。恭介もいつの間にか何処かに消えた。理樹は鍋の火を落とし、五人分の食器を片付け始めた。小さな流しに皿を積み上げ、水に浸けると、黄色いスポンジに洗剤を染み込ませて泡立てた。手早く洗い終えて水切り台に並べ、部屋に引き返した。鈴の眠るベッドに歩み寄り、寝返りを打ったせいか布団が胸元まで落ちているのに気が付いて、そっとかけなおした。携帯電話を開いて時計を確認するともう十一時を回っている。朝までそのまま熟睡しかねない時刻である。
「鈴、ほら、起きて」
「んー」
「りーんー」
「んあー」
 身体をぐらぐらと揺さぶられても、枕に頬を埋めて眼さえ少しも開かずに、返事をするというよりはただ唸っていた。
 おんぶして女子寮まで連れて行こうかと考えたが、幾ら鈴が小柄だとは言えさすがにそれは無理だろう。根気強く揺すり続けると、寝惚け眼を擦ってなんとか起き上がってくれた。立ったまま眠り始めるのを肩を貸して支え、「自分の部屋に帰るよ」と言い聞かせる。「りきーねむいー」などと呟きながら今にもひっくり返りそうな足取りで、とことこと部屋を出て歩き出した。廊下ですれ違うひとが訝しげにこちらを見た。寮を出た。
 吹き寄せる風が冷たかった。
 なるほど確かに鍋でも食べたくなる寒さだ。中庭の街灯の下を通りかかった時、肩にかかる体重が不意に軽くなったように思われて、隣をちらりと盗み見た。赤みがかった瞳を暗闇の中で微かに輝かせ、髪を下ろした鈴は眼をぱちりと開いていた。「起きた?」と訊ねると「んー。いや、あんまり」と呟いて、理樹の背後へ身を翻した。どすん、と背中に体重がかかったのは次の瞬間のことだ。いやいやそれは無理だよ、と咄嗟に思ったけれど、こうして背に負ってみると鈴は意想外に軽い。女子寮くらいまでならなんとかなりそうだ。足を膝裏から支え、その細い身体をひょいと持ち上げて歩き出した。理樹の左肩の辺りを枕にして鈴は眼を瞑った。寝ないでよ、重いから。ああ、言われなくてもわかってる。本当? なんだ、そんなにあたしが信用できないのか? うーん、ちょっとなあ。うっさいぼけ、こういう時は頷いておけ。
 鈴の髪が風に揺れ、ちりんちりんと鈴の音が理樹の耳元で鳴った。
 星もなく月もなく、暗く冷たい夜である。



2.

 毎朝目覚めて最初に眼に映るのは、制服に着替える佳奈多の後姿だ。クドリャフカはその日も電灯の光を眩しく感じながら眼を開き、ブラウスのボタンを上からとめている最中の佳奈多を布団の中から見て、おはようございます、と眠たげに言った。佳奈多は物珍しげな顔をこちらに向けた。
「あら、今日は早いじゃない」
「そうですか?」
「ええ、三分くらいね」
「三分なのですか?」
「そうよ」
 本気で言っているのか冗談なのか、真顔だからわからない。怖ろしく眠いのでクドリャフカは再び布団を引っかぶろうとしたが、ベッドの縁に手を突いてぐっと顔を近付けてくる佳奈多に、「いいじゃない、早く起きなさいよ」と素早く布団を取り上げられてしまった。途端に冷たい空気が、四方から流れ込んでくる感触がしたものだ。速やかに運び去られる布団を掴もうとして虚空に手を伸ばし、「あうあうあー。寒いのですー」と眠気にまみれた声で言った。
「何言ってるの。もう春よ」
 佳奈多に背中を押され、眼を擦って起き上がる。ふらふらと隣のベッドに潜り込もうとしたところで首根っこを押さえられた。首筋に呼気の吹きかかる距離で「別に寝たいって言うならとめないけど」と佳奈多が囁いた。
「あなた、今日、一時間目に英単語の小テストがあるって言ってなかったかしら?」
 小テスト、小テスト、小テスト、と三度、回らない舌でクドリャフカは繰り返した。それから「そうなのです!」と天井に頭をぶつける勢いで飛び上がり、その勢いのまま机に向かおうとして自分のベッドに激突して床に転げ落ち、起き上がろうとしたところで今度は逆側の佳奈多のベッドに頭をぶつけ、「わふー……」と力尽きた。佳奈多が合掌した。
「クドリャフカ。あなたのことは一生忘れないわ」
「生きてるのですっ!」
「ああ、聞こえる、クドリャフカの声が聞こえるわ」と天を仰いだ。「天国から私を励ましてくれるのね。なんて優しい子なの、クドリャフカ」
「ふん、佳奈多さんなんて知らないのです!」
 ブラウスだけを羽織り、スカートには足も通していない中途半端な格好のままわけのわからないことを言いつのる佳奈多に背を向け、クドリャフカは机の脇にかかっている鞄から英単語帳を引っ張り出した。着替えるのも後回しにして単語の羅列に眼を通し始める。確か百頁から百五頁までが出題範囲だったはずだ。dear――高価な、大事な、親愛な。calculate――計算する、推定する。friction――摩擦、軋轢。circumstance――状況、事情。SNALB DO PMROC。クドリャフカは首を傾げた。まったく見覚えのない単語だったからだ。はて、これは一体どんな意味だっただろうか、と英単語帳をまじまじと覗き込んだ。
 クドリャフカがそうして悪あがきを始める頃にはもう、仲間内で誰よりも早起きの美魚は、制服に着替えて食堂に向かっているところだった。廊下にひと影は殆どなく食堂も閑散としていたが、部屋の奥の柱の影に見覚えのあるひとの姿を発見した。艶めく黒髪を背に流し、足を優雅に組んで椅子に座っている。来ヶ谷だ。背中を向けているので美魚のことは視界に入っていない。美魚は壁際をそっと移動し、見付からないようにカウンターで定食を受け取り、また足音を忍ばせて壁際を進み、来ヶ谷の座っている席からは柱を挟んで遥かに離れた席に着こうとすると、何故だか来ヶ谷が目の前に座っており、お盆をひっくり返しそうになった。なんとか死守したお盆をテーブルに置き、椅子に座って口を開いた。
「来ヶ谷さん」
「何かね美魚君」
「心臓に非常に悪いので、そういうことはやめていただければと」
「はっはっは。美魚君がつれないことをするから、つい、な」
 朝っぱらから高らかに笑う来ヶ谷を無視して美魚は味噌汁を啜った。豆腐とわかめと油揚げの味噌汁である。お椀を置くと今度は鮭の身を箸先で器用にほぐし、掴み取って口に運ぶ。来ヶ谷も真向かいで同じメニューを食べている。海苔をぱりぱりと噛み千切る軽やかな音、小鉢の中でかき混ぜられる卵の鮮やかな黄色、四角い皿の縁に綺麗に並べられた鮭の小骨――そんなものたちが閃いては消えゆく、静かな朝食のひと時だ。
 食べるのが遅い美魚を置き去りにして来ヶ谷は早々と食事を終えた。
「ふむ、これで美魚君の食事する姿をじっくりと眺めることができるな」
「さっさと死んでください」
「なんだ、今日の美魚君は辛辣だな」
「三枝さんの相手をしていて、ツッコミは可能な限り厳しくしなければならないと決意を新たにしました」
「ふむ、葉留佳君へのツッコミが大変なのは同感だ」と言うと来ヶ谷は、制服の上着のポケットから文庫本を取り出した。「ところで、今日早めにここに来たのはこれを返すためだったんだが」
「それを早く言ってください」
 机の上に置かれたグリムウッドの『リプレイ』をひったくるように受け取り、自分の制服のポケットに仕舞った。いつのことだったか夜にリトルバスターズの女子の面々で部屋に集まり、夜が深け脱落者も続出して持久戦の様相を呈し始めた頃、酔っ払いの如くテンションの上がった美魚が「サドもフローベールもプルーストもフォークナーも読んだことのない人間に、小説について薀蓄を垂れる資格なぞ毛頭ありません」と豪語し、「そうか、では何か本を貸してくれ」と言って来ヶ谷が大量に借りていった、そんな海外文学の文庫の分厚い束に紛れ込んでいた一冊だ。一冊読み終わるごとに返しに来てはこちらをからかって帰っていくのが実に迷惑で、美魚は毎回そうするように来ヶ谷を睨み付けたのだったが、来ヶ谷はそんな視線など何処吹く風で、「それではまた教室で会おう」と爽やかに席を立って去ってしまった。
 食堂には段々とひとが集まりつつあった。気を取り直して、周りがうるさくなる前に手早く食事を終えると、美魚は返された本の頁をなんとなく捲ってみた。果たしてその冒頭、栞紐の丁寧に挟み込まれた一頁目に、日本語の文字列に紛れて不自然に浮かび上がる謎のアルファベット――BEAP ROZAIZA LACUIL――を見付けたのだ。



「そういうことです」
「そうなのです」
 うんうんと木陰で頷き合うクドリャフカと美魚を前にして、恭介は困惑の表情を隠さなかった。助けを求めるように理樹の方に視線を向けてきたので、理樹は鈴に助けを求める視線を向けた。強い陽射しが斑に落とす枝葉の影の最中に立って、鈴は眼を眩しげに細めていたが、理樹の視線に気付くと一言言った。
「で、野球はいつ再開するんだ?」
「ええー」
 実に真っ当な指摘ではあった。何故なら今は放課後の野球の練習の真っ最中だからだ。休憩に入ってからもうだいぶ時間が経っている。でも、クドや西園さんの話もちょっとは聞いてあげようよ、と理樹は思った。すると鈴は首を横に振り、「正直言って興味ない」と言い放った。
「本当に正直だね!」
「今のは我が妹ながら凄かった」
「鈴さん、酷いのですー……」
 理樹と恭介が呆れ、クドリャフカが「うう、単語テストも全然駄目だったし、もう散々なのです……」とがっくりうなだれ、その原因となった鈴が「そう落ち込むな、クド」と慰めるとクドリャフカは「ありがとうございます。元気が出ました。鈴さんは優しいですね」などと世迷い言を言い始め、それらのすべてを無視して美魚が、「しかしこれは少々興味深いことではありませんか」と主張した。「どういうことだ」と恭介が真面目な声色で問い返した。
「その文字は、能美さんの英単語帳にもわたしの本にも、あたかも元からそこに印刷されていたかのように書き込まれていたのです。フォントも明らかに手書きではありません。これは、単なる落書きとは違うと思います」
「まあ、さっき現物を見せてもらった限りでは、確かにそんな感じだったが」
「それに第一、誰かが落書きする隙など、振り返ってみても何処にもありません。更に言えば、特に英語にも何にも見えない単語で統一されているという点も、些か不気味ではありませんか」
 美魚の声に耳を傾けながら恭介は俯いて何かを考え込んでいたが、突然くるりと鈴と理樹の方を向いた。いいことを思いついた、という表情だ。嫌な予感がした――と言おうか、嫌な予感しかしなかった。背後で砂を踏み拉く音がした。鈴が一歩後ろに後ずさった音だ。恭介は厳かに告げた。
「この件の調査を二人に任せようと思う」
「嫌だ」
「僕も忙しいからちょっと……」
「そんなに遠慮しなくていいぞ、二人とも。確かにちょっと面白そうではあるが、俺は敵のスパイと戦うのに忙しいからな。それよりも俺は、この調査を通じてお前たちが一段と強くなってくれることを期待している」
 背後ではクドリャフカと美魚が、「スパイってなんのことでしょーか?」「きっと恭介さんなりに脳内に事情があるのでしょう」などと言葉を交わしていた。鈴と理樹の嫌そうな顔も、クドリャフカと美魚の酷い結論の出つつある会話も平然と無視して恭介は、「よし、練習再開だ!」と宣言し、颯爽と駆け出した。グラウンドの隅に置いてあったグローブを手にして左手にはめ、ボールを拾い上げると、お、と意外そうな表情をした。
「理樹」
「何?」
「早速見付けたぞ」
 そう言って球を投げてくる。キャッチして見てみると、恭介が何を言いたいのかははっきりとわかった。ボールの白い表面に、縫い目に沿うようにして小さく、PALOM-RON FAAと刻まれているのだ。「こんなところにまであるんだな」と理樹の手元を覗き込んで鈴が呟いた。今度こそ練習を始めるらしく恭介はグラウンドの中央に向かった。クドリャフカが腰を上げ、思い思いの場所に散っていた他のメンバーたちも戻ってきた。美魚ばかりが普段どおり、木陰でそのまま本を読み始めた。
 鈴がマウンドに立ち、バットを握った理樹がバッターボックスに入ると、練習は即座に再開された。
 理樹の視線の先で、鈴が陽射しを背負いながら投球の構えを取った。その向こう、一塁側では恭介と来ヶ谷が、三塁側では葉留佳が、飛んでくるボールを虎視眈々と狙っている。小毬が何もないところで突然転び、クドリャフカがそれに巻き込まれて盛大に躓いた。謙吾が素振りをする「マーン! マーン!」という声と、真人が筋トレをする「ふんっ! ふんっ!」という声が、視界の外から喧しく響いてきた。鈴が獲物を狙うように眼を細めるのを理樹は見た。バットを強く握った。鈴が振りかぶった。投げた。
 振り切った。が、手ごたえはなかった。鈴のライジングニャットボールには掠りもせず、理樹のバットは空しく空振りしていた。バットを保持しなおして前を見ると、風に髪を泳がせて鈴は得意げな顔をしている。
「まだまだだな、理樹」
「次こそ打ち取ってみせるよ」
 二人の間をにゃあにゃあと猫の集団が行進していった。猫の姿が視野から消えた瞬間、鈴が足を踏み締めた。二球目が飛んできた。今度は完全に先読みし、狙い澄ましてバットを振るった。ボールの真ん中を捉えた確かな感触が手のひらに伝わった。高い音を響かせて理樹はボールを打ち返していた。鈴が口惜しげな表情でふり仰ぐ青空を、真っ白な球がぐんぐんと進んだ。「よし、俺に任せろ!」と恭介が駆け出し、来ヶ谷は「いや、今回ばかりは恭介氏の出番などない!」と殆ど瞬間移動じみた速度で恭介の先を行った。
「わははははー! 漁夫の利をはるちんがいただきだー!」
 葉留佳が真横から突っ込んできて恭介と来ヶ谷に激突した。三人がひと塊になって転がっていく光景を、鈴と理樹は唖然として眺めた。足が絡んでまだ起き上がれずにじたばたと地面でもがいていたクドリャフカと小毬を「わふーっ!」「ほわぁっ!」と巻き込み、何匹かの猫も加えて塊は更に巨大になってごろごろと回転を続け、やがてドルジの巨体にぼよんとぶつかって跳ね返ると、ばらばらに地面に投げ出された。ドルジは我関せず超然たる威風にてその場に凛と佇立している。偉大である。
 小毬が涙目になり、クドリャフカは眼を回し、恭介は起き上がる気配もなくひっくり返っていた。「大丈夫かこまりちゃん!」と鈴が小毬に駆け寄って肩を揺さぶった。葉留佳は既に立ち上がり、全力で走って逃げている。何処から取り出したのか模造刀を担ぎ上段に構え、「また余計なことをしてくれたな、葉留佳君」と低く言って粛清を加えんとする来ヶ谷からだ。「ちょっと待って! マジ怖いっすよ姉御ー!」という葉留佳の本気の叫び声はしかし、「マーン! マーン!」と「筋肉! 筋肉!」にかき消された。理樹は肩を叩かれて振り返った。日傘を差した美魚だった。
「図書館で借りた本の返却期限が今日だったことを思い出しましたので、これで失礼します」
「ああ、うん」
「それではまた」
 騒ぎの一切を受け流して、美魚は悠然とグラウンドを後にした。その背を見送っていると、「理樹! 続きをやるぞ!」と鈴の声がした。クドリャフカの足元が少しふらふらとし、葉留佳が遠くで行き倒れめいて倒れている以外は、何事も起こらなかったかのように全員が守備位置に付きなおしていた。理樹はバットを構えた。鈴が投げた。
 バットを振り抜いた時には確かな手ごたえがあった。しかし、今度はファウルボールだった。理樹の意図に反してまったく明後日の方向に飛んでいくボールを全員で眺め、グラウンド脇の小川に落ちる軌道であることを確信し、回収を諦めた。そして実際にボールは水に落ちたわけだが、その水音を聞いた者は何人かいても、ボールが水に衝突し、透明な飛沫が辺りに散らばり、水面が同心円状に波立つ光景を直接眼にした者はいなかった。僅かに土手のように盛り上がっている河原に阻まれて、川面はグラウンドからは殆ど見えないのだ。だから、ボールのぶつかった衝撃でざわめき泡立つその波間に、青く輝くアルファベットの文字列がびっしりと浮かび上がって消えたのを見た者もまた、一人も存在しなかった。



 椅子に座ったまま、眠気の中をゆらゆらと漂っていた小毬は、「神北さん?」というルームメイトの声ではっと飛び起きた。
「あら、眠っていらしたんですの?」
「寝てないっ。ぜんっぜん、寝てませんよー」
「どうしてそんな必死に否定なさるのかわかりませんわ」
 呆れた表情で溜息をつく佐々美の片手には、水玉模様の大きなマグカップがある。小毬が眠たい眼でそれをじっと見詰めていると、佐々美は「飲みます?」と訊ねた。傾くマグカップから甘い香りが漂った。中身はココアのようだ。小毬は頷いた。佐々美が台所に消えると、小毬はまた少しうつらとした。こと、と机にカップの置かれる音で眼が覚めた。ごしごしと両手で眼を擦った。
「ううー。ありがとう、さーちゃん」
「まったく。まだ八時ですのよ。早寝にも程があります。これを飲んで眼を覚ましてください」
「うん、大丈夫だよー」
 そう言ってカップに手を伸ばしたところで小毬は、絵本のアイデアを書き留めるためのノートが机に広げて置いてあるのに気が付いた。眠り込む前の自分はこれを書いていたのだとその時ようやく思い出した。カップに口を付け、ココアの温かい甘たるさを舌先で感じながらノートを眺めた。解読不能ののたくった字は明らかに半分眠って書いたものだ。
 ノートにはさまざまな種族や動物やお菓子が入り乱れていた。深く暗い森や打ち捨てられた寺院のある草原や枯れることのない花畑が広がり、天体と硝子と熾火と宝石が燦き、巨大な折鶴が天空を駆けた。そんな夢の世界にしかし、若干の不自然さを感じた。今日の夕方、野球の練習が終わった後に、恭介がチームの全員を集めて告げた言葉を思い出した――曰く、「このところ変なアルファベットの落書きがいろんな場所で発見されているらしい。この件に関しては鈴と理樹が調査するから、もし見付けたら教えてやってくれ」。その時小毬は、何を言われているのかよくわからないままにこくこくと頷いたのだったが、今ならどういうことかわかる気がした。
 SIHC NONOLIL ABOS。
 それが、ひとの言葉を喋り、大空を飛び、永遠の時間を生きる砂鯨の物語の、断片的に書き綴られた情景の最中に紛れ込んだ文字列だった。綺麗に印字されているとしか思えぬ謎のアルファベットを、小毬はしばらくじっと見詰めていた。小毬の背後の、小さなテーブルの前に座る佐々美が、ルームメイトの様子がまたおかしいことに気付いて「何をしてるんですの?」と訊いた。「うーん、変な落書きみたいなのがねー」と小毬は苦笑いで返した。
「寝惚けて自分でも知らない間に書いたんじゃありませんこと?」
「うわあ。さーちゃん酷いなあ」
 小毬はココアを飲み干すと椅子から立ち上がり、ノートを片手に、「ちょっと出かけてくるよー」と言った。
「えーっと、鈴ちゃんのところに行ってくるんだけど、さーちゃんも一緒に行く?」
「行きません。どうしてわたくしが――」
「だってさーちゃん、鈴ちゃんと仲良しさんでしょう?」
「違います! 絶対に違います!」と主張する佐々美に部屋を追い出されるように、小毬は寮の廊下に出た。少しだけ肌寒い。鈴の部屋は同じ新館の二階にある。鼻歌を歌いながら階段を昇り、すれ違うひとの視線も気にせず廊下を歩いた。鈴の部屋の前を足取りも軽やかに通り過ぎた。曲がり角まで来たところでようやく気が付き、「ほわあ!」と声をあげて引き返した。こんこんとノックした。「誰か来たから切るぞー」と内側から声が聞こえた。
「おお、こまりちゃんか」と戸を開いて現れた鈴は言った。
「えっと、お電話中でしたかー?」
「いや、理樹の奴だから気にしないでいいぞ」
「理樹くん?」
「ああ、おでんが暑苦しいらしい。逃げて正解だった」
「なんだかよくわからないけど、そっかあ、やっぱり二人は仲良しさんなんだねー」
「まあな」
「そう言えば、これ」とノートを差し出した。「例のアルファベットのなんだけど、恭介さんが協力しろって言ってたから」
「あー、あれな」と鈴は明らかにやる気なさげに受け取った。鈴の手のひらの上のノートを小毬はぱらぱらと捲って、例の文字のあるページを開いて指差し、「ここのところに変な文字があるから、渡しておきます。後で返してねー」と告げた。
「ん。わかった」
「それじゃあ、おやすみー」
 手を振って別れ、小毬は鈴の部屋を後にした。


[No.701] 2010/03/18(Thu) 01:19:49
終焉を綴る者 後編 (No.701への返信 / 2階層) - ひみつ

3.

 鈴に服を引っ張られた。ラーメン屋の前でだ。
「昼飯食ってくぞ」
「えー。学校に戻って食堂で食べればいいんじゃない?」
「おなかすいた。もう一歩も動けん」
 そう言うと鈴はラーメン屋の引き戸を開け、暖簾をくぐって、理樹の返答を待たずに一人でさっさと狭い店内へ消えた。一歩も動けないのではなかったのか。まあたまには学食以外で食べるのもいいだろう、と思い、鈴の後を追って理樹も店に入った。
 店内の照明は暗めだった。皮膚に感じていた陽射しの圧力が途切れ、冷房に冷やされた空気の心地よさが足元から立ち昇ってくるのを感じた。結構混んでいる。二人分の席が空くまでには少し待たなければならなそうだ。鈴は入ってすぐのところにある券売機の前に立っており、お金は既に投入されているのだが、何にするか迷っているらしく指先を彷徨わせていた。早くしてよ。うっさい、わかってる。迷った末に鈴はチャーシューメンのボタンを押した。それから餃子のボタンを二回押し、その隣の半ライスも押して、とどめとばかりに単品のチャーシューを追加した。
「いやいやいや、どれだけおなかすいてるのさ」
「餃子は食べたかったら自分で頼め。あたしのはやらんぞ」
 じゃらじゃらと落ちてくるお釣りを券売機から回収すると、鈴はカウンター越しに食券を渡した。理樹も急いで五百円玉を入れて醤油ラーメンの券を買い、一度に五枚の券を渡されて眼を白黒させている店員の手に、そのもう一枚を滑り込ませた。やがて席が二人分空き、丸い椅子に腰かけた。カウンターの向こうでは店員が、銀色に光る巨大な鍋から麺の入った振り笊を引き抜き、身体全体を使ってぶん回すように湯を切っていた。
「学校の外でご飯食べるなんて久々かもね」
「ん? そーか?」
「いや、実を言うとあんまり覚えてないけど」
「奇遇だな。あたしも覚えてない」
 切り株のように分厚く丸い俎板の上に置かれたチャーシューの塊を、大きな包丁で勢いよく断ち切る音が響いた。天井の隅に据えられたスピーカーから、聞いたことのない音楽が流れ始めた。何曲目かが過ぎ去った頃、二人分のラーメンがやってきた。続けて餃子と半ライスとチャーシューの皿がカウンターに置かれるのを見て眼を輝かせた鈴は、理樹の方に視線をやると、ラーメン丼一つしかないのを確かめて、「お前、それで足りるのか?」と心配そうに言った。
「え? 大丈夫だけど」
 そんな大食いでもあるまいし、ラーメン一杯あれば十分だ。
「ああなるほど。理樹はちっちゃくて華奢な女の子だから少食なんだな」
「ええー」
「違う」
「何が」
「そこは涙目になって、ふえぇぇひどいよぅボク男の子なのに、だろ」
「うわあ、鈴がやっても似合わないなあ」
「だから理樹がやればいいんだ」
「ふえぇぇぇん、ひどい、ひどいよぅ鈴、ボク、ボク男の子なのにぃ……」
「やめんかぼけー!」
「いや、やれって言ったのは鈴だから!」
「ここまで似合うとはさすがに予想外だった。やばいな」
「それより鈴こそ、そんなに食べられるの?」
「任せておけ」と鈴は自信たっぷりに頷いた後、割り箸を割ってラーメンを啜り始めた。
 鈴はラーメンと餃子に交互に箸をつけて瞬く間にそれらを片付け、ちょっとおなかいっぱいになってきたかな、と思いながら理樹がラーメンを半分まで食べる頃には既に、ラーメン丼と餃子の皿一つを空にして、二皿目の餃子と半ライスに取りかかっていた。鈴の携帯電話が鳴ったのは、理樹がなんとか全部食べ終え、鈴は残ったスープにチャーシューを放り込んで嬉しそうに食べ始めた時のことだ。メールだ、ちょっと見てくれ。別にいいけど。理樹は鈴のポケットから携帯電話を引っ張り出した。開いてみると小毬からのメールだった。小毬さんからだよ。ふーん、そうか。メールは謎の装飾によって武装されており、何が書いてあるのか理樹にはいまいちわからない。
 写真が添付されていた。
 ファイルを開いて表示してみると、何故小毬がメールを送ってきたのかはわかった。この分だと学校は今、大変な騒ぎになっているのだろう。
「で、こまりちゃん、なんだって?」
 理樹は無言で鈴に写真を見せた。チャーシューをもぐもぐとやりながら鈴は自分の携帯電話の画面をじっと見詰め、これはすごいな、と呟いた。



 PALOM-RON FAA LE-TSER GNOSILEBO NARMAZ DO RACAZ LAAQ PI-A-O-OD ALIPA DO I SD DAM ERIZ ELGAB AGSOAC F DO IHASAUQ-RON UZROT ALC O-L TA SIHC NIHSOL SO NOAMIPAC SIHC ILAMIPAC T SD GEGV DO SIHC IZ-DO-ORC GMRASAC L PRC OPMROC GA MABOS MPAM ILAO IMRASAC VL-IV-IV FNOS SD D P PMROC OGAVAVA EG-SIHC-G LOHOG AHPROD DO EGABAB IDSUL LIHTO――
 窓硝子も含めた校舎の壁一面に、明るい青のペンキで隙間なくびっしりと描き込まれた大量のアルファベット――なんの前触れもなく忽然と現れたその文字列をひと目見ようと、中庭には生徒たちが続々と集まっていた。赤い腕章をつけた佳奈多ら風紀委員の面々も駆けつけたが、特に何ができるわけでもなかった。校舎の外壁を見るとひとは一様に感嘆の声を漏らし、誰の仕業なのかと友人たちと噂し合い、携帯電話で写真を撮ってはこの場にいない仲間に送信した。斯様に大規模ではないが似たような文字の並びを、別の場所で見たような気がすると言い出す者も中にはおり、廊下の壁、教室のカーテンの隅、職員室の机、などと目撃証言が飛び交った。ラーメン屋を出てのんびりと帰り道を歩いて学校まで戻ってきた鈴と理樹は、渡り廊下に差しかかったところでその騒ぎに直面し、驚いて立ちどまった。
「おお、写真で見るよりすごい」
 鈴が無邪気に感嘆の声をあげる横で、手のひらの大きさほどの青い文字に埋め尽くされた壁を、理樹は黙って見上げていた。元々の白を圧して壁全体が青く染まったかのようだった。窓硝子に描かれたアルファベットが空の光を反射し、輪郭を微かに燦かせた。「りんちゃん! 理樹くん!」と木立の向こうから手を振って二人を呼んだのは、携帯電話で写真を送って異変を知らせてくれた小毬だった。群集を掻き分けて近付いた。
「大変なことになってるね」
「うん、みんな大変そうだねー」
「やっぱりこれって、こまりちゃんのノートとかに書いてあったのと関係あるのか?」と鈴が壁を見上げて呟いた。「さすがにこれなら、誰がやったか見た奴いるだろ」
「今探しているところよ」
 背後から声がし、鈴がびっくりして振り返った。クリムゾンレッドの腕章を陽射しに光らせ、佳奈多は腰に手を当てて無表情で立っていた。鈴、小毬、理樹と順に視線を向けると、「あなたたち、何か知らない?」と訊ねた。理樹は不安になって問い返した。
「ひょっとして、僕たちが疑われてる?」
「まさか」と溜息をついた。「突拍子もなさすぎて、誰も疑えないというのが本当のところよ。幾らあなたたちでも、あんな高いところの壁に簡単に落書きできるとは思えないし」
「いや、馬鹿真人と馬鹿謙吾と馬鹿兄貴を縦に積み上げればいけそうだぞ」
「ええーっ。じゃあまさか、きょーすけさんが……」
「わけがわからないことを言わないで」と佳奈多は取り合いもせずに遮り、「何か思い出したら教えて頂戴」と告げて背を見せると歩き去った。建物の中にその後姿が消えたのを確認してから、「相変わらず愛想のない奴だな」と鈴が言った。
「りんちゃん、そんなこと言わないの。かなちゃん、お仕事頑張ってるんだからー」
「ふむ、そうか」と偉そうに腕を組んだ。「それは偉いな。実に偉い。評価してやってもいい」
「そうだな」と来ヶ谷が頷いた。「佳奈多君は多大な評価に値する、実に優秀な人材だよ。ただしまあ、些か堅物すぎる感は否めないがね」
「ああそうだ、堅物だ」と鈴も頷いた。「ところでくるがや」
「何かな? 我が愛しの鈴君」
「どっから沸いて出てきた」
「はっはっは。それは企業秘密とせねばなるまいが、どうして沸いて出てきたのかなら言うに吝かでない」と言うと来ヶ谷は、青いアルファベットの文字列に覆われた壁を見上げ、続いて理樹のことを見た。「これに関して少々心当たりがある。ついては少年にいろいろと借り受けたいものがあってな――部屋までついていってもかまわないだろうか?」
「いいけど、何?」
「文字の書かれているノートやら何やらを貸してほしいのだよ」
「それじゃあ、あたしらは帰るぞ」と鈴が小毬の腕に自分の腕を絡めた。来ヶ谷はひらひらと手を振り、「邪魔しないから、安心してコマリマックスとしっぽりむふふとやり給え」と言った。
「やるかぼけ」
 来ヶ谷の言葉に顔を赤くする小毬をずるずると引きずって、鈴は女子寮の方へと消えた。理樹は来ヶ谷と一緒に、中庭へ行こうとする人びとでごった返す渡り廊下を歩き、男子寮に向かった。玄関を抜け、階段の脇にある戸を開いた。すぐ脇の小さな洗面所でマッスル・エクササイザー改良版を作っている真人に「ただいま」と声をかけた。
「おう、おかえり理樹」と言ってから、理樹の背後のひと影に眼をとめた。「おっと鈴もいるのか。二人で何処行ってたんだ?」
「なるほど、真人少年にはこの私が鈴君に見えるのか」
「ん? なんだ、来ヶ谷じゃねーか。すり替わってるのなら先にそう言えよ」
「ふむ、すまなかった。次からは事前に連絡しよう」
「ああ、そうしてくれよな」
 怖ろしいくらいに会話が成立していなかった。
 成立していない会話が交わされている間に、理樹は二段ベッドの脇に押し込まれた小さな段ボール箱を抱え、部屋の入り口まで戻ってきた。新型マッスル・エクササイザーの試飲の犠牲になったと思しい謙吾が、泡を吹いて窓際に倒れていたが無視した。箱の中にはクドリャフカの英単語帳や美魚の文庫本や小毬のノートや野球のボール、他にも、葉留佳の机の中で長年眠っていた正体不明のプリント、真人の筋肉グッズの説明書、教室から無断で持ってきたカーテン、化学室から無断で持ってきた試験管数本、美術室から勝手に持ってきた小さなカンバス、音楽室から勝手に持ってきた楽譜の束などが犇いている。「佳奈多君たちに見付かったら捕まるのは間違いないな」と呟いて来ヶ谷は箱を受け取った。
「何を調べるの?」
「あの謎の文字の正体がわかるかもしれない」
「え? あれって無意味な羅列じゃないの?」
「無意味な羅列にしては、妙に言語めいているとは思わないかね――まあ、判明してからのお楽しみ、と言ったところだよ」
 謎めく言葉を残して、来ヶ谷は理樹たちの部屋の前を後にした。



 男子寮を出て図書室へ向かう途中、来ヶ谷は葉留佳と顔を合わせた。
「ちょうどいいところで会った。葉留佳君、君にこの荷物を持たせてやろう。これは実に名誉なことなのだぞ」
「まじっすか姉御! 持ちます! 是非持たせてください!」
 学校中のいたるところから拝借してきた盗掘品で溢れ返る段ボール箱を抱え、葉留佳が「あれ? もしかしてはるちん騙されてる?」と疑問を口にする頃には、二人は図書室に到着していた。来ヶ谷は図書室の戸を開けながら「さて、騙されたついでに手伝っていき給え」と言った。
「やっぱり騙されてたのかー!」
「はっはっは、よいではないか」
「ま、別にいいですけどネ。手伝いますヨ」
「うむ、助かる。このご時勢に未だにPCによる検索が不可能なロートル図書室で本を探すのは実に大変なのだ」
 ひとのいない図書室に歩み入ると、葉留佳はどんと机の上に段ボール箱を置き、来ヶ谷は手近な書架を早速見て回り始めた。「とりあえず、宗教、魔術、神秘主義関連の一次史料を探し給え」というのが来ヶ谷の指示だった。葉留佳は首をひねった。
「魔術? 姉御、魔法でも使うんですか?」
「つべこべ言わずに探せ。ぶち殺されたいのか」
「なんでいきなりそんな怖いんすか!」
「冗談だ」
「それにしても、魔法の本なんてあるんですかネ?」
「怪しげなオカルト本が高校の図書室に入っているとはまさか思えないが、本格的なものなら世界史の史料として存在している可能性は十分にある。私たちの目からは単なる迷信にしか映らないものが当時の最先端の科学だったなどという事例は枚挙に暇がないし、実際に今日の科学の源流が占星術や錬金術にあったりもするからな。ほら、探すんだ。探して片っ端から積み上げろ」
「えっと、題名とかは」
「知るか」と切り捨てて、来ヶ谷は本棚と本棚の間に入り込んだ。何を探しているのかは自分でもわからないから、書架の端から端まで隈なく眼を通す以外にない。幸いにして図書館ではなく高校の図書室なので、蔵書数はさほどでもない――ある程度時間をかければ絞り込むのは可能だろう。黴臭さと埃っぽさを堪えながら世界史の棚を見終え、空振りだったことに落胆しつつ、キリスト教の棚に移ろうとした。「うひゃあ!」と葉留佳の叫び声が聞こえたのはその時のことだった。
「姉御! 姉御ぉ!」
「何かね葉留佳君。そんなに艶かしい声を出して」
 部屋の反対側に並ぶ書架の隙間から這い出してきた葉留佳にそう声をかけると、最早はかばかしい返事はなく、葉留佳は机の脚を掴んでがっくりと突っ伏した。本棚と本棚の間を覗き込むと、先ほどまで葉留佳がいたのであろう辺りに、深い緑色の表紙の分厚い本が転げ落ちている。拾い上げて開いた。
 途端に図書室の窓硝子が小刻みに振動し始めた。本の頁が見えない風に導かれて次々と捲れ出した。「これは――」と呟いて、先が続かず絶句した。書物をじっと見詰めると、蟀谷に嫌な圧力を感じる。細かく印刷された文字はすべて、澄みとおるような青い光を帯びて照り輝いていた。来ヶ谷は青さの一際強烈な頁を開いた。すると案の定、見覚えのある文字の羅列が姿を現した――OTHIL LUSDI BABAGE OD DORPHA GOHOL G-CHIS-GE AVAVAGO CORMP P D DS SONF VI-VI-LV CASARMI OALI MAPM SOBAM AG CORMPO CRP L CASARMG CRO-OD-ZI CHIS OD VGEG DS T CAPIMALI CHIS CAPIMAON OS LONSHIN CHIS TA L-O CLA TORZU NOR-QUASAHI OD F CAOSGA BAGLE ZIRE MAD DS I OD APILA DO-O-A-IP QAAL ZACAR OD ZAMRAN OBELISONG REST-EL AAF NOR-MOLAP.
 葉留佳のところに戻り、椅子を荒々しく引いて座った。単語帳や文庫本を一つずつ取り出してはアルファベットの綴りを確認し、書物の記述と合致することを確かめて、息を吐いた。葉留佳も隣に座り、机の上に置かれた書物を恐る恐る見やった。
「えっと、姉御、これは――」
「道理で世界史の棚に見当たらなかったわけだ。存外に新しかった」とボールを投げ出し、独り言のように来ヶ谷は言った。「十九世紀末に英国に実在した有名な魔術結社、黄金の夜明け団。その教本の邦訳がこれだ。そう言えば、図書室の戸や窓から夜な夜な青い光が漏れ出しているという噂があったな。その正体もたぶんこの本だろう。ヒントは存外に近くにあったというわけだ。迂闊だった」
 来ヶ谷は更に質問を重ねようとした葉留佳を手で制すると、携帯電話を取り出して恭介に電話をかけた。これで出なければ何もかもが詰むかもしれないと思ったが、幸いワンコールで出た。
「来ヶ谷から電話とは珍しいな」
「緊急だ。要点だけ掻い摘んで言おう」
「わかった」
「各所で発見されている件のアルファベットは、エノク魔術の天使語だ」
「天使語?」
「正確には、天使語を末尾から冒頭へ向けて、反転させて記述したものだ。ABCをCBAと言うようにな。これには単純だが騙されたよ――そのまま記述されていれば、ひと目見て気付けたかもしれないものを」
「ちょっと待て。あれがその天使語とやらであるってのはどうしてわかったんだ」
「実際に用いられている言語では明らかにない。しかし単なる落書きにしては、明らかに構文を持っているように見えた。とすれば思い当たる可能性は、なんらかのマイナーな人工言語しかあるまい。天使語の記載されている書籍自体は図書室で発見した。この世界に現れた異変である以上、たとえどんなに突拍子がなくともその由来は世界の内側にあるはずだ。そして、この世界は酷く狭い」
「いいだろう。続きを」
「天使語は過去に実在した魔術結社が儀式魔術のために用いた言語だが、これ自体はさしたるものではないんだ。ちょっと工夫された人工言語と言ったところで、別に魔術的な効果なぞありはしないし、だから発見された文字は単なる落書き以上のものではない――はずだった。この世界でなければ。何処かの誰かさんの強力な思いによって作り上げられ、それ故、強い精神的な働きかけさえおこなえれば操作の可能なこの世界でなければだ」
 恭介は沈黙していた。
「いいか、恭介氏。誰かが明確な意志に基づいて魔術を仕掛けた。それもあれほど大掛かりに、周到にだ。魔術自体にはなんの効果もないが、意志の方には効果がある。そしてその時あの膨大な量のアルファベットは、意志を膨れ上がらせる強力な触媒になる」
 そこまで説明したところで来ヶ谷は、葉留佳がずっと黙り込んでいることに気が付いた。おかしい、と咄嗟に思って隣を見た。誰もいなかった。肩に手のひらの置かれるのを感じた。何かがほどける音を聞いた。その音を最後に来ヶ谷の意識は途絶えた。来ヶ谷の身体そのものが、ほつれて無数の糸のように流れ落ちるのを見届けた理樹は、まだ恭介に通じている携帯電話を切った後、「ごめんね、葉留佳さん。来ヶ谷さん」と呟いた。
 理樹は机の上に置かれている書物を取り上げた。かつてすべてを終わらせねばならないと決意した時に紐解いた、その魔術書をだ。小口から漏れる青い光が急速に明るさを増し、水のように溢れて流れ出すと、本は一瞬でそのかたちを失った。夥しい数の細かな文字と化して雪崩れ落ちた。床に触れた瞬間、白熱して膨れ上がる圧力を感じた。暴風と共に押し開かれ、それでいて波紋一つ広がらなかった。
 何度も繰り返される時間の中で、レノンの尻尾に結わえ付けられた指令にも、ここに住まう誰もが心に抱える闇にも気付かない振りをしながら――それどころか、一度世界がリセットされるたびに記憶を失っている芝居をすらしながら、いたるところに単語単位で仕掛け続けてきた天使語が遂に臨界点に達し、現在のこの世界へと急浮上しつつある。たとえばあの外壁を埋め尽くした文字列のようにだ。そして今、箱庭のように閉ざされ、永遠のように時間を繰り返すこの世界を幾層にも貫いて、理樹の手により破滅の文字群が起動した。
 第四の鍵から第十の鍵へ。水のタブレット、空気の小角OBLGOT-CAの天使を召喚。
 がちり、と、歯車の噛み合う音を聞いたように思った。その瞬間、目の前の机が唐突に爆発し、木材の破片が宙に舞った。無音だった。衝撃もなかった。理樹は周囲を見回した。図書室の壁という壁、書架という書架に一瞬、天使語の羅列が幻めいて浮かび上がり、消えた。こちらから力を加えるのではなく、元々そこに潜んでいる力を軽く立ち上げてやるようなものだ。壁が見る間に罅入り、雲母のような断片に姿を変えて四散した。床板が水蒸気を上げて蒸発し、書架に稠密に並べられた書物は頁の端から次々と糸となってほつれた。何もかもが崩壊しつつあった。壁の吹き散った箇所に代わりに現れたのは外の風景ではなかった。空白だった。そこには最早、何物も存在してはいなかった。
 ものの数秒で図書室は消滅した。空洞と化したその場から理樹は立ち去った。



4.

 一歩を歩み出すごとに、踏み締めた地面が粉微塵に割れ、吹き飛んだ。輝く文字の群を足元に纏わらせ、床にまるで水面のようにアルファベットの波紋を立てながら理樹は階段を下りた。掴んだ手すりが歪み、その表面を力線が伝って踊り場の硝子を貫いた。轟音と共に極微の破片となって滝のように流れ落ちた。指の先から、髪の中から、照りわたる文字列が次々と吹き出しては、世界の組成に天使語によるノイズを走らせて切り裂いた。廊下を抜け、下駄箱の脇を通って外に出ると、それらのすべてが理樹の背後で虚空に消えた。青い空が眼に映った。一面に、燃えるように輝いた。
 空がゆっくりと落ち始めた。
 傾く空の下、木立の影にひそむように恭介は立っていた。険しい目付きで、黙ってこちらを見詰めていた。
 理樹はグラウンドに下りた。渦巻く天使語の中心点と化した体が、無数の残響を伴って揺らいだ。脳髄の底に酷い疼痛を感じた。溢れ出す何かに五感が飲み込まれそうだったが、統御しようとさえ理樹は思わなかった。揺り起こされていくままに任せた。恭介の方へと一歩一歩近付いていく、その足裏で踏み締めた砂がざわめき、蠕動した。砂そのものの運動によって文字が連鎖的に綴られた。OL SONF VORSAG GOHO IAD BALT LONSH CALZ VONPHO SOBRA-Z-OL ROR I TA NAZPS OD GRAA TA MALPRG――われは怒りの蒼穹の上にあげられたる力のうちに汝を統べん、と正義の神は語りき、その両手にあって、太陽は剣なり、月は貫徹する炎なり。再び爆発が起きた。地が揺れた。校舎の一階の窓硝子が南側から順に次々と砕け、飛散した。枠だけになった窓から噴出する黒煙は微細な呪文の欠片だった。風に流され大気に溶けて、ゆっくりと浸透しながら世界への介入をおこなう破壊言語の群だ。
「考えてみればおかしかったんだな。疑うべきだった」と恭介は言った。「お前に例の文字の調査を任せた後、俺や謙吾は文字の入った物を幾つも発見してはお前に預けた。だが肝心の調査は進んでいるようには見えなかった。何処かに遊びに行ったりしてな。当たり前だ――お前が、犯人だったんだから」
「そうだね」と頷くと理樹は、恭介から少しの距離を置いて立ちどまった。「後悔しても遅いよ」
「何が目的だ」
「この世界を破壊すること」
 沈黙が降りた。恭介の表情は変わらなかった。こうして静寂に包まれてみると、大気全体が耳鳴りめいた甲高い音をたてているのがわかった。悲鳴のようにもそれは聞こえた。恭介が「いいか、理樹。この世界は――」と口を開いた。
「説明は不要だよ、恭介」と理樹は遮った。「バス事故のことから、繰り返される時間のことまで、全部知っている」
「ありえない」
「そう?」
「お前の記憶は、リセットされたまっさらな状態を保つようにしておいたはずだ」
「それは不可能だよ。必ず無理は生じる。体験してないはずのことが記憶にあったり、記憶にあるはずのことを体験していなかったりね。そして一度異変を意識してさえしまえば、記憶を継承するのは難しくない。むしろ自然なことだ。だって現に、恭介たちはそうしてるんでしょ?」
「そこまでわかっていながら、お前は何故――」
 歯噛みして告げた恭介のその言葉を、嘲笑うように理樹は言った。
「娼館でも作る気だったのかい? 恭介」
 背に風を感じた。渦巻く文字の只中から吹き上がる風だ。吹きつのって幾重にも重なり合う眩い空気の幕をなし、水面に映り込むようにその上に、青く澄みわたる無数の文字を呼び寄せた。「何が言いたい」と恭介は押し殺した声で問うた。
「幾ら優しさや思いやりや善意で覆い隠そうとも、それがこの世界の本質だ。そうだろう、恭介。むしろ覆い隠しているが故におぞましい。尤もらしい免罪符を掲げているが故に愚かだ。僕はただ一つの記憶を持ったただ一人の人間だ。他の誰のものでもありえない僕自身の人生を、可哀相な他人を救ってあげるために差し出してやる気なんか微塵もない。ましてや都合よく記憶を失い、都合よく別の人生をやり直し、都合よく他人の過去を穿り返し、都合よく他人のトラウマを癒し、都合よく別々のひとと恋愛し、都合よく別々の誰かに精液を注ぎ込み、そしてそれを自分の成長だの強さだのと言い張るおぞましい行為に加担する気なぞ、欠片もありはしない」
「それが理由か」
「恭介は一度やると決めたことは何があっても捩じ曲げないだろう。僕が言ったことだって本当は全部わかっていて、それでもなお自分の目的のためにやり遂げようとするんだろう。僕の言葉にも、たぶん耳を貸さないんだろう。だから僕は――僕も、決めたんだ。こんな世界、何がなんでも叩き潰すと」
 ごめんね、恭介、と理樹は最後に呟いた。殆ど誰にも聞き取れないくらいに小さな声だった。かまわないさ、と恭介は、なんでもないことのように言った。
「そう、かまわない。何故ならお前の言うとおり、俺は何がなんでも自分の計画を遂行してみせるからだ」
 その言葉を合図に理樹は一歩、足を前に踏み出した。地面の感触は足裏には少しも伝わらなかった。触覚が既に振り切れているのだ。理樹の頭上で風に舞うアルファベットたちが、眼に見えない幾つもの網目の層を組み上げては解体した。蜘蛛の巣状に広がり、真円をなして畳み込まれ、幾何学模様に分裂し、野火のような光を放った。一際強い風に煽られて、背後の木立から葉が舞い上がり、落ちた。一枚一枚の葉の薄緑の表面に光り輝く筆跡で書き付けられた第二の鍵が、月色の砂によって地面に綴られた第一の鍵と甲高く唸りながら共振し、風の描き出す第六の鍵を呼び覚ました。眼に映るものが鮮やかさと色濃さを増し、視覚そのものが押し流されるかのようだった。
 統一のタブレットから、BITOM節の天使を召喚。
 全身が発火するような熱を帯びた。骨が軋んだ。衝撃が走った。視界の全体が一瞬で炎上した。炎が四方から吹き上がって空に渦巻き、地を怖ろしい速度で這って焼き尽くし、轟音を上げて理樹の周囲の何もかもを飲み込んだ。恭介の姿も消えた。傾いだ空さえ覆い隠す炎の中に、螺旋をなす天使語の羅列の影がよぎり、別の呪文を蔦状に組み上げ始めた。
 しかし次の瞬間、折り重なる炎は唐突に掻き消えた。熱も風も残さずに、そのすべてがだ。唯一恐れていたものがやってきたのを理樹は知った。
「やっぱり、恭介には勝てないな――」
 視野が上から急速に暗く狭まり、理樹は地面に倒れた。炎に曝された様子の少しもない元通りのグラウンドに、恭介がこちらを見下ろして悠然と立っている――それが、眠りに落ちる前の理樹が見た最後の光景だった。



 炎が消えると恭介は深く息を吐き、明らかに安堵した様子を見せた。恐らく管理者権限によって恭介が操作したものなのだろうナルコレプシーに襲われ、理樹は支えを失って倒れ、眠り込んでいた。理樹に歩み寄り、しゃがみ込んでその柔らかそうな髪の毛を撫ぜながら、「お前は、本当に純粋だな」と恭介が呟いた。殆ど聞こえないくらいの小ささで、語りかけるようにだ。
「だが、それがお前の弱さだって言ってるんだ。なあ、この世界を壊してどうする。全員事故で死ぬのか。お前も死ぬんだぞ。いや、お前はいいのかもしれない。そう決意したんだろうからな。しかし、鈴は――」
 そこで恭介が言い淀んだ。呼吸と共に上下する背の動きも、髪を撫でる手のひらの動きもとまったように見えた。何かを見落としていることに気付いたのだろう。ゆっくりと立ち上がり、身体の震えを隠しもせずに空を振り仰ぎ、凄まじい形相を校舎の屋上へ――こちらへ向けた。恭介の視線を真っ向から受けとめて、鈴は屋上の縁に立ち、グラウンドを見下ろしていた。
 ポケットに手を突っ込むと鈴は紙切れを一枚取り出した。レノンの尻尾に巻き付けられる指令に紛れ込ませた一枚、SIHC OXAROCの文字の記された紙片だ。顔の高さに掲げて離すと、ふわり、と風に乗って足元に落ちた。事前に二人で立てた計画どおり理樹が恭介を惹き付けて時間を稼いでいる間に、鈴の足元に練り上げられていた天使語の魔法陣の、欠落した最後の一角に、何かに導かれるように収まった。
「ごめんな、兄貴」
 鈴が呟いた瞬間、完成した魔法陣が発動し、光が爆発するように溢れ出した。眼下のグラウンドや校舎から真っ白な粉塵が爆風を伴って吹き上がり、理樹と恭介の姿を掻き消した。
 輝く文字列が鈴を中心に放射状に浮かび、枝分かれしつつ先へ先へと地面を這って伸び続けた。全部で十二層に及ぶ積層魔法陣が自己増殖的に展開しているのだ。屋上の床面を埋め尽くし、校舎の外壁を隙間なく覆い、屋内に浸透して壁という壁、天井という天井を塗り潰し、グラウンドや中庭に入り込んで地面は元より立ち木の枝の一本一本、葉の一枚一枚にいたるまでを眩い天使の言語で一杯にした。積層魔法陣を綴り上げる数億のアルファベットが左右のみならずジグザグに、上下に、垂直に――或いは曲線、或いは螺旋、渦巻や二重円や逆三角形、車輪や葉脈や虹彩や系統樹、あらゆる形状に意味を連結させて無数の経路を開いては無数のタブレットを経由し、全種類の天使召喚を高速で同時進行させた。
 身体の内側に、暴発する寸前までせり上がる力を鈴は感じた。召喚を一つ成立させるたびにじりじりと高まった。飛び火するようにあちこちで新たな小魔法陣が構築され、それらを接続する論理回路が全天に輻輳した。鈴の視野のすべては鮮やかに輝いていた。暗転する寸前の明るさだ。触れれば切れそうなほどの鮮明さで音を聞いた。殆ど地上のものではありえない軽やかさを全身に纏い、風もないのに舞い上がる長い髪の只中から青い燐光が燃えるように湧き上がった。足元の積層魔法陣の外周を螺旋状に縁取る三十のアェティール召喚文が回転し、伸縮し、明滅した。
 眼に映らぬ光が辺りを焼き尽くした。遠雷のような音を立てて白く虚ろに燃え上った。遂に最後の召喚が発動したのだ。始まりは、空と大地とを襲う振動だ――太陽や雲が次々と溶けて落ち、焼き切れた地面に底なしの淵が開いた。まだ灯されていない街灯の並ぶ道や灰色の家並みを、そこにいるひとごと飲み込んで広がり続けた。魔法陣に収まり切らぬ文字が雨となって降りしきり、残された校舎をずたずたに引き裂いた。遠い地平の向こうで球体状の世界の内壁が粉微塵に剥落すると、いたるところに穿たれた大穴から、世界の構成素が滝となって流出した。既に目で見も、耳で聞きもせずに外界を知覚している鈴には、それらの様子が始まりから終わりまで、手に取るように理解できた。世界そのものに致命的な罅が入り、硝子が割れるように割れるのが――微細な断片と化して砕け散り、器を失った水のように零れ落ちるのがわかった。輝きながら闇へ溶け落ちていく、そのひと滴のかたちまでがわかった。
 最後に鈴の手のひらに残ったのは、硬い殻を握り潰す感触だ。
 それで何もかも終わりだった。世界を殲滅し尽くした魔法陣が翼を折り畳むように音もなく収束した。鈴は深く息を吐いた。身体の内に膨れ上がっていた力が霧消し、五感の回復と共に視野が平生の色合いに戻った。焼けた世界の残滓から吹き上がる夥しい水蒸気のせいで、辺りは夜のように暗かった。何も見えなかった。何も聞こえなかった。四肢を酷く重たく感じた。
「もう、おしまいなの?」と水蒸気の狭間から声がした。驚きはしなかった。そこにいるのはわかっていたからだ。「ああ」と頷いて、後ろを見やった。
 水煙に沈む給水タンクの上に小毬は座っていた。鈴がその手で世界を破壊していくのをずっと見ていたのだ。漂い這う霧に覆われた地面を踏み締め、鈴は一歩ずつ小毬に近付いた。小毬の姿だけは霧の中でもはっきりと見えた。梯子で給水タンクによじ登った。笑顔に涙を浮かべた小毬がそこにいた。立ちどまった。
「凄いね、りんちゃん」と小毬は言った。「こんなことできるなんて」
「あたしは超能力者で魔眼の持ち主だからな」
「そっかあー」
 小毬が深々と息を吐いた。鈴は梯子のすぐ傍に立ちどまったまま、ブラウスの上に白いセーターを着込んだその姿をじっと見詰めていた。こまりちゃん、と名前を呼ぼうとしたが、「私たちは――」と小毬の方が先に口を開いたから、鈴は押し黙った。
「私たちは、間違ってたのかな。間違ったことを、りんちゃんや理樹くんに押し付けてたのかな」
「自分で考えればいいと思う」
「うん」
「自分で考えて、間違ってないって思えたら、今度は自分の手でなせばいいと思う」
 小毬は困ったように微笑むと、「そうだね、本当に、そのとおり」と一言ずつ区切って頷いた。
「だけど、ごめんね。私にはもう、そんな時間はなさそうかな。この場所を失って、あの現実に投げ出されて……」
「大丈夫だ」
「え?」
「あたしたちが助ける」
 そう断言する鈴の顔を、小毬はびっくりした風にまじまじと見たが、「そっか、そうだったんだ」とやがて柔らかな表情を浮かべた。「なら、安心だね」と本当に安心したように呟いて、ふわりと笑った。その姿が爪先から、指先から薄っすらと滲み、ほどけ始めた。強い風が吹き寄せると、空気の中に溶け込むように小毬の姿は薄れ、消えた。
 また、向こうで会おうね、りんちゃん、と声が響いた。鈴はこくりと頷いた。



 波の音が聞こえた。理樹は重たい目蓋を開き、辺りを見回して、自分がまだこの世界に存在していることを知った。理樹と背中合わせに凭れあう鈴が、おはよう、と言った。おはよう、と返して理樹が上を見上げようとすると、ごつんと鈴の頭に後頭部がぶつかった。痛いだろぼけー。ごめんごめん。
「ええっと、待たせた?」
「いや。あたしもちょっと寝てた」
 疲れてたからな、と言って鈴は立ち上がった。靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、地面に置くと、澄んだ水にゆっくりと足を浸した。
 世界の欠片と、世界を破壊し尽くした文字たちとが混ざり合い、液状化し、見渡す限りをまるで一面の海のように青々と浸していた。屋上の床面の一部と傾いた給水タンクとだけがかろうじてかたちを残し、その真ん中に浮かんでいるのだった。歩き出すと、粒子のように細かな文字が指の隙間に入り込み、皮膚をくすぐり撫ぜるのが快かった。鈴は頭上に視線をやった。足下に広がるのと同じ青の輝きに満ちていた。空と海との区別はなかった。透きとおる青さの中を、真珠母色の雲が光を放ちながら眩しく棚引いた。殆ど見通せぬ遥か上空を通る時もあれば、足裏を掠めるほどのすぐ真下を通過することもあった。
 何処までも歩いていけそうだと思った。
 立ちどまると鈴は振り返った。理樹はちょうど靴下を脱いだところだった。ズボンの裾を捲り上げ、物珍しげに周囲を見回しながら水の中を歩き始めた。ひたひたと波紋を広げ、水のような感触の何かを足裏に感じながらだ。理樹は鈴に追い付き、なんにもなくなっちゃったね、と言った。ああ、びっくりだ、と鈴は頷いた。
「それじゃあ、早速始めようか」
「そうだな。きょーすけたちも待ってるしな」
 二人は並んで水の只中に立ち、手をつないで眼を瞑る。暗闇の中で、夢見るように現実の世界を覗き込む。崩落した山道の遥か下、血と鉄と燃料の臭いが立ち込める緑の谷底だ。ねじ切れた金属や砕けた硝子が散乱し、血に汚れた制服姿のひとが倒れている。バスの残骸の下敷きになっているひともたぶんいるだろう。要点は三つある――第一に適切な救助の実施、第二に燃料タンクからの燃料漏れの防止、第三に理樹のナルコレプシーの克服。
 どうだ? なんとかなるんじゃない? そんなに簡単に言っていいのか? わかんないけど、怪我が酷くないひとの助けを借りれば。まあ最悪でもタンクはあたしが塞げばいいしな。後は僕のナルコレプシーだ。大丈夫。うん、大丈夫。
 頷き合って二人は眼を見開いた。果てしなく広がる青の空間が目の前にあった。ここにこれからもう一度、今度は二人だけで世界を作る。みんなの命を救う、ただそのためにだ。二人は再び眼を閉じた。風が凪いだ。波の音が遠ざかった。互いの手のひらを、ぎゅっと握った。


[No.702] 2010/03/18(Thu) 01:21:16
それはとても晴れすぎた空 (No.682への返信 / 1階層) - 16592 byte

私たちのベッドには きっと ほのかな匂いがこもり、
長椅子はお墓のように深々として、
見たこともない花が棚に飾ってあるでしょう、
もっと美しい空の下で私たちのために咲いた花が。
(ボードレール 安藤元雄・訳 『悪の華』)




 足音が聞こえる。冷たい廊下に高らかに響く。
 私は息を潜めて、ベッドの中で耳を澄ませる。足音が私の部屋で止まってしまわないように願いながら。処刑の決行を怖れながら。
 足音が私の前を通る。そして、過ぎていく。
 まだ私は生きていてもいいんだ。今日は、まだ――。


 カーテンの隙間から漏れる光を受けて、私はのっそりと起き出した。
 部屋はむせ返るような匂いが立ち込めていた。ミントと、柑橘類の香り。私たちが混じり合った匂い。隣には妹の姿。
 こんなに幸せな朝なのに、どうして私はあんな夢を見たのだろうか? どうしてこんなに不安なのだろうか?
 ベッドの上でそんな物思いに耽っていると、枕元で声がした。
「……ん、お姉ちゃん、今何時?」
 葉留佳が半ば夢心地で、歌うような声で話し掛ける。そんな妹を見て、私の頬はだらしなく緩んでしまう。
「十時半よ」
「ありゃ、またぶっちぎりの遅刻じゃないデスか。私はともかく、お姉ちゃんは出なくていいンですか?」
「別に構わないわ。どうせ誰も咎める人なんて居ないのだし」
「おおぅ。鬼の風紀委員長とは思えない発言ですネ」
「鬼とは何よ、鬼とは」
 私が握り拳を振り上げて威嚇すると、葉留佳は「ひいぃ」とか情けない声を出す。そんな様子についつい笑い声を出してしまう。葉留佳もそれにつられて笑う。
「さて、少し遅いけど朝食にしましょうか」
「ねぇ」
 私が立ち上がり、服を着ていると、葉留佳がベッドから暗い声を出す。
「なぁに?」
 私が振り返ると、葉留佳は伏目がちにこう言った。
「今日も、行かないの? あの日から私達、ずっと学校に行ってないよ」


 味噌汁の良い匂いが鼻腔をくすぐる。
 私達は二人で使うには大きすぎるテーブルで朝食を摂る。ご飯に味噌汁、卵焼きに鯵の開き。これで海苔と納豆でも付けば、さながら旅館の朝食だ。
 正直に言うと、私は食が細い方で目の前の食事に対してさして食欲を感じていない(自分で作っておきながら)。だけど、葉留佳がそれを美味しそうに食べているのを見ると、作った甲斐があったと感じる。この子がまともに食事を取ることが出来るようになったのは、寮に入ってきてからの事。だから、この子にはせめて美味しいものを食べて欲しかった。それが例え、夢の中の仮初のものであっても。
「佳奈多」
「え? 何?」
「イヤ、すんごいぼんやりしてたから」
「あ、ええ。いえ、葉留佳の箸使いがあまりに下手だから、よくそれで食事が出来るなあと感心してたの」
「ひどっ! 何か良い事でもあったみたいな顔してたから、はるちん訊いてあげたのに。その言い草は無いっすよ」 
 私は、そんな妹の仕草に笑い声を上げる。こんな日々が来るとは、思っても見なかった。ただただ平凡な食事風景。それでも、私にとっては酷く幸せなものだった。
 食事を終え、食器を流しに運ぼうと腰を浮かせた時。葉留佳が私に話しかけた。
「でさ、さっきの話」
 見ると、葉留佳が真面目な表情で私を見つめていた。目と目が合う。その視線に、思わず目を逸らしてしまう。
「やっぱりおかしいよ。お姉ちゃんからあんな事言い出すなんて。学校なんて行かず、家でゆっくりしようなんて」
「おかしいかしら? 私は合理的だと思うけど。何度も同じ授業受ける必要なんて無いわ」
「それはそうだけど……」
 私は再び椅子に座ると、両腕をテーブルに預ける。
「直枝に、会いたい?」
「え……?」
「分かるわよ。双子なんだし」
 嘘だ。双子だから分かる、なんて陳腐な言葉が自分の口から出た事に驚いた。何も言わずに分かり合えていたら、そもそもあの時の私達も無かったはず。
「……うん、そうだよ。佳奈多の言う通り」
「でも、会ってどうするの? 今の直枝の傍には、他の子が居るのに」
 その言葉に、葉留佳は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「うん、わかってる。わかってるんだけど……それでも、会いたいの」
「それで? あなたは他の子の邪魔をするの?」
 葉留佳が目を大きく見開いた。テーブルに両手を突いて、立ち上がる。
「そんなことしないっ」
「何もしなくとも、あなたが好意を持って直枝に近づけば、他の子はどう思うかしらね。……つまりはそういうこと。居るだけで邪魔なのよ。もう、私達に出番は無いのよ」
 それを聞いて、葉留佳は黙り込んでしまう。
「ねぇ、葉留佳。あなた、今の生活が不満?」
「え?」
 葉留佳は私の言葉の意味を理解しかねているようだ。辺りを彷徨う瞳がそれを物語っていた。
「私は満足しているのよ。あなたとこうして生活をする。それだけだったら一年のときでも寮でやっていたけど、あのときは『一緒』じゃなかったもの」
「佳奈多……」
「私では、駄目なの?」
 私はゆっくりと葉留佳の腕に手を伸ばした。きめの細かい肌を、私の指が滑る。少しひんやりとした葉留佳の腕。私はこの手を、放したくない。


 何もしないで一日を過ごす、なんてことを体験した事が無かったから、時間を持て余すに違いないと思っていた。
 けれど、意外にも時間というものは素早く過ぎ去ってしまうものだ。私は開け放った窓から差し込む夕日を見ながら一人、そう思った。
 葉留佳はちょっと気分転換に、と言って外に出てしまった。もしかしたら学校に向かったのかもしれない。そう一瞬思ったが、あの子は何も持たずに出て行ったから、そうではは無いだろう。暗くなっても戻らなかったら、電話すればいい。
 それに、あの子の身も心もこの家に縛り付けるなんて無理な話だ。そんなことをすれば、逆効果になってしまう。
 私は読んでいた文庫をベッドに置くと、窓際に向かう。そして、窓を閉めたとき、窓に映る自分の姿が見えた。
 何故か、無性に笑いが込み上げてくる。
 縛り付ける、か。
 今の私は、あの時の来ヶ谷さんだ。


 あの、繰り返される六月二十日に、私は一人来ヶ谷さんに会った。
 それは放送室で。あの時私は窓越しに、止まない雨を見ていた。
「……どうした。佳奈多君。こんなところまでやってくるとは珍しい」
 来ヶ谷さんはパイプ椅子に腰掛け、気だるげに話していた。
「あなたに訊きたい事があって」
「ほう、何だ? 私が答えられる内容であれば答えてもいいが」
「来ヶ谷さん。あなたはここで、何がしたいんですか?」
 その言葉に、来ヶ谷さんの眉がぴくりと動いた。
「どんなに終わらせないように同じ一日を繰り返しても、いつか必ず、終わりはやってくる。それに、いくら終わりを先延ばしにしても、肝心のあなたが彼を好きだったことを忘れ続ける。そんなの、不毛だと思わないんですか?」
「不毛ね……」
 彼女は立ち上がると、窓際に立ち、窓越しに外を眺めた。
「やけに突っかかるな。どうした? 何か自分にも心当たりでもあるのかな?」
「話を逸らさないで下さいっ」
 振り向くと彼女は窓にもたれ掛かる。彼女の瞳には、いつもの芯の強さ、優しさなどは見られず、ただただ触ると折れてしまいそうな、そんな儚さだけが漂っていた。
「そうだな。君には話してもいいかもしれないな。知り合いの中では、君との付き合いが一番長いしな」
 来ヶ谷さんは暫く考え事をするように目を瞑る。そして、うっすらと目を開くと唇を開いた。
「何がしたいのか、か。ふふ、そうだな。このまま行けば、近いうちに理樹君は全てを終わらせてしまう。本当は誰もそんなこと望んでいないのに。けれど誰もそれを止めようとしないから、仕方なしに私がやっているだけのことだ」
「来ヶ谷さん。自分で言ったはずです。私とあなた、付き合いが一番長いと」
「ふむ」
 そう言うと、来ヶ谷さんは笑う。その笑い声が痛々しい。
「私は、出来るだけ長く、理樹君に私のことを好きでいて欲しいだけなんだよ。例え、私自身がそのことを忘れてしまってもね」
 そう答える彼女はとても辛そうだった。それと同時に酷く幸せそうだった。
 まともじゃない、そう感じたが不思議と違和感は感じない。それはきっと、そもそも此処がまともな世界でないからなのだろう。
「私のシナリオが終わってしまえば、理樹君は私の方など見てくれなくなる。それが怖いんだ。まあ、結局私は、自分の我儘で理樹君の心をずっと縛り付けているだけなんだよ」
 いつかは返さないといけないのだがな。そう呟きながら、雨を背に、笑顔を浮かべる来ヶ谷さん。彼女のこれまで見せた事の無い、その笑顔が美しかった。


 お風呂から出て、パジャマに着替えた私は、その足で葉留佳の部屋へと向かう。
「葉留佳。入るわよ」
 部屋からあの子の声がした。扉を開けると、葉留佳はベッドに腰を下ろして雑誌を読んでいた。
 ――日も暮れて、私がそろそろ連絡を入れたほうが良いかと思った丁度その時、葉留佳が戻ってきた。あの時、どれだけ私は葉留佳を殴りたかっただろう。抱きしめたかっただろう。その気持ちを押し殺し、平静を装うのは想像以上に辛かった。
 私は出来るだけ優しい声を出す。
「ねえ、葉留佳。明日、どうする? 何処かに行く?」
「佳奈多、やっぱり学校行こう?」
 葉留佳は箪笥の方を指差す。その人差し指の先には制服が、掛かっていた。
「また、その話?」
「――いいの」
「え?」
「理樹くんに会わなくてもいいの。何処か遠くから理樹くんのこと見るだけでも……。ねえ、佳奈多。お願い」
 縋る目で私を見る葉留佳。
 私はその姿に逡巡する。暫く黙り込む私。開く唇が重かった。
「それで、いいの?」
「うん。理樹くんが幸せそうにしてる姿を見る事が出来るのなら、……その隣が、私でなくたって構わないんだ。それに、見ていたいの。私達リトルバスターズが居なくなっても大丈夫なくらい、強くなっている理樹くんを」
 私はスッと背筋が冷たくなるのを感じた。
「その言葉、忘れないでね」
「え?」
 私は身を翻すと、葉留佳の部屋を後にする。
 暫くして、私は自分の制服を持って、再び葉留佳の部屋に入った。ハンガー掛けに制服を掛けながら、独り言つ。
「どうせ、今日もここで寝るんだし、ここに置いておいた方が手っ取り早いでしょう?」
 葉留佳は私の言葉に当惑し、目をぱちくりとさせていたが、やがて小さく「ありがとう」と呟くと、優しい笑顔を浮かべた。


 真夜中。ふと目が醒める。隣からは葉留佳の穏やかな寝息。私はこの子の体温を肌で感じながら、窓の外、中空にかかる月を眺める。月の光はどこか青褪めていて、まるで私の頭上高く、泣いているように感じられた。


「ここよ」
 放課後。校舎の屋上。雲ひとつ無く、作り物のように不気味で綺麗な青空だった。
 私と葉留佳は人目を避けるようにひっそりと一日を過ごした。それは間違って直枝と接触しないようにと、私が念を押したから。
「これ、使いなさい」
「双眼鏡……?」
「ここから、家庭科部室を見てみなさい。そこに彼が居るわ」
「よく知ってるね」
 葉留佳は苦笑いをする。
 私は葉留佳に背を向けて、屋上から立ち去ろうとする。ドアノブを捻り、ドアを開いたところで、あの子の声がした。
「お姉ちゃん。何処行くの?」
「階段のところに戻っておくわ。あなたは好きなだけ見ていなさい」
「うん。ありがと」
 大きな音を立てて、屋上の扉が閉ざされる。


 葉留佳が戻ってくるまでの間、私はドアに背中を預け、煤けた窓からぼんやりと外を眺めていた。ガラス越しからでも、空は抜けるような青空で、飲み込まれるような恐ろしさがあった。外から聞こえる雀の囀りが辺りの静寂さを強調する。
 あの子がどんな顔をして戻ってくるのか、予想はついていた。私は、卑怯者だ。
 どうすればあの子が傷つくのか、なんてあまりにも簡単な事だった。私が傷つく事と同じ事をする、たったそれだけの事だから。
 やがて、ドアがノックされる。
「開けて、佳奈多」
 ドアを開けると、予想通りの顔をした葉留佳。私は屋上に上がり、再びドアを閉めた。
「どう? 直枝を見る事が出来た?」
「うん。居たよ。クド公と一緒だった……」
 無理やり笑おうとする葉留佳の顔が痛々しい。私はじくじくと湧き出てくるような胸の痛みに眉を寄せる。
 けれど私は、そんな葉留佳を更に傷付ける。
「それで、気は済んだ?」
「え?」
 葉留佳も私がこんな事を言い出すなんて思いも寄らなかっただろう。困惑した表情を浮かべる。
「あんたが何をしようと無駄なのよ。直枝はもう二度と、あなたを見る事はない。直枝は、残念だけどそういう存在なのよ」
 この言葉は、葉留佳に対する刃であると同時に、私に対する刃でもある。
 彼は葉留佳の、そして私のものではない。今、直枝の傍に居るクドリャフカのものでもない。所詮私達は直枝と棗さん、二人にとっての糧でしかないのだ。
 そう思うと、無性にクドリャフカの事が不憫に思われる。あの子もまた、知る事になるのだろう。その時、あの子はどんな顔をするのだろうか? 強がって笑顔を浮かべる姿が目に浮かぶ。
 そして、葉留佳。この子が何を考えてるのか、手に取る様に分かる。
 私はこの結果を見越して、わざと残酷な方法を選んだ。私は、最低だ。
「ねえ、葉留佳。どうして直枝なの?」
 葉留佳は苦しそうに、血を吐くように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……理樹くんは、あの時の、嫌なヤツだった私に優しくしてくれた。私が辛いとき苦しいとき、ずっと傍に居てくれた。お姉ちゃんだってそうでしょう? あの時、理樹くんが居なかったら、確実に佳奈多はおかしくなっていた」
 私は葉留佳の言葉に驚いた。此処に来て私に話の矛先を向けるとは。深く考えた訳でも無さそうなのに。
 そこまで考えて、私は自分の間違いに気付く。そうか。私には葉留佳の考えが手に取るように分かるのと同時に、この子にも私の気持ちが分かってしまうのか。
 滑稽すぎて、腹の底から笑いが込み上げる。私も直枝のことが好きだと知っていて、私の前で直枝に対する好意を表す、そんな葉留佳の無邪気な残酷さに。そして、未だに私が直枝が好きだと思い込んでいる短慮さに。
 私がこのことに気付いたとき、感じたのは安堵だった。
 それまで、ずっと私は考え続けていた。直枝に惹かれている自分と、葉留佳と共に居たい自分。どちらが本物なのか。これまでの人生の中で葉留佳以外の人間など必要なかったのに、どちらも選べない自分が不甲斐無かった。悔しかった。
 だからあの時、自分の何処か大切な部分がごっそり抜け落ちた、そんな喪失感と共に酷く落ち着いた気持ちに囚われた。これで選ばなくて済む。それは消極的な選択ではあったけれど、葉留佳に対する感情を確固たるものにするのに充分なものだった。
「葉留佳……。莫迦ね。本当に、莫迦ね」
 私は葉留佳に背を向け、数歩離れる。
「直枝の傍に居るべき人間が誰なのか。そんなこと分かっているでしょう? それは、これから死んでゆくあなたではない」
 そして、他の子達でも、勿論私でもなく。
「これまでずっと同じものを分かち合い、そしてこれから同じ悲しみを分かち合う、彼女しか居ないのよ。あの子しか、直枝を癒してあげられないの」
 振り返ると、葉留佳は自分の腕を抱くようにして立っていた。細かく震えるその腕が、痛ましかった。
「あなたじゃないの」
 その言葉に、葉留佳はびくっと身を震わせた。その瞳が一杯に開かれる。唇が震えるのを押し殺そうとする。
 私はそんな葉留佳に一歩一歩近づいてゆく。
「けれど、私は最後まであなたの傍に居るわ。昨日の質問。もう一度言うわ。葉留佳、私では駄目?」
 私の手が、葉留佳の頬を撫でる。葉留佳の震えが伝わっていく。
「あなたの事を分かってあげられるのは、同じ苦しみを味わった私だけよ。あなたが寂しいとき、これから死んでゆく恐怖に耐えられないとき、ずっと傍に居られるのは私」
 違う。震えているのは、私だ。
 私は自分の手が放されるのが恐ろしくて、ただ無茶苦茶に言葉を発しているだけ。
「私を直枝の代わりにすればいい。だからお願い」
 葉留佳の肩を抱く。私の言葉は、最早懇願に成り果てて。私は、自分を止める事が出来なかった。
「私の傍に居て。葉留佳……」


 その日から、私達が学校に行く事は無くなった。
 私は、幸せだった。
 終わりに近づく事も、葉留佳を喪った後の事も、何もかもどうでもよかった。ただただ葉留佳と一緒に居られる。それだけで、私は十分だったのだ。
 けれど、時計の針は確実に進んでいて。
 やがて、その時がやってきた。
 それは涯てが無いと思えるほどに深くて、気味が悪いくらいに青い、あまりにも晴れすぎた、そんな朝だった。


 私達はその空を、家の庭から眺めていた。
 二人、手を繋いで。お互いが消えてしまわないように。
「とうとう、終わりだね」
「ええ」
 知らず知らずのうちに、葉留佳の手を握る力が強くなる。
「ねえ。葉留佳?」
「何? 佳奈多」
「どう、だった? 私との生活は」
「……うん、楽しかった」
 その言葉に、私の肩から力が抜ける。
 気が付けば、周りにあった物が全て無くなっていた。家も、電柱も、何もかも。
 下を向いたとき、果たして地面は存在するのだろうか? それを知るのが恐ろしくて、私は下を見る事が出来なかった。
「ねえ。こんなときにこんな事言うのは、反則なんだろうけど」
 空を見ていた葉留佳が視線を下ろし、私の顔を見る。
 それにつられるように、私も顔を下げる。
 私達は向かい合い、互いの双眸を見つめ合った。
「お姉ちゃん、理樹くん達のこと、お願いね」
 その言葉に私は口を閉ざした。奥歯を軽く噛み締める。この子は……。
「ゴメン。お姉ちゃんも辛いと思うんだけど、他に頼める人がいないからさ」
 葉留佳はばつの悪そうな顔をして謝る。
「直枝達は私が居ないと駄目になるくらい弱いままなの?」
「それは違うっ! 違うけど、それでも心配なの。だから……」
 私は口を真一文字に結んで黙り込む。そんな私を、心配そうな瞳で見る葉留佳。やがて私は重い口を開く。
「わかったわ」
「……ありがとう」
 その時の葉留佳の表情は、きっと忘れられないものになるだろう。それは慈愛に満ちた、ぞっとするほどに綺麗で優しい笑顔だった。
 気が付けば、葉留佳の体が所々、泡になって消えていた。その泡は、まるで海底から湧き出した気泡が水面に向かって上昇していくように、ゆっくりとゆっくりと、この青い空へと舞い上がっていた。
 私は焦って、葉留佳の肩を掴もうとする。けれども、目の前の葉留佳に私の手は届かなかった。すぐ其処に、鮮明に映っているのに、まるで蜃気楼のように、何処まで手を伸ばしても掴む事が出来なかった。
 そんな私を、葉留佳は何処か達観した目で見つめていた。
「じゃあ、もう本当に、お別れ」
 その様子を見て、自分も冷静さを取り戻す。そう、これはわかっていたことだ。
「ええ」
「じゃあ、さようなら」
「さようなら。またいつか、会える日まで」
「そうだね。会えると、いいね……」
 葉留佳はそう言って、私の前から、文字通り泡となって、消えていった。


 もう、足元に地面も無く。私は深海に浮かぶクラゲの様に、中空を漂っていた。
 葉留佳。ごめんなさい。
 私は、あなたに嘘をついた。今まで嘘をつき続けた私の、最後の嘘。
 私は自分の喉を撫でる。もう何もかも無くなってしまったけれど、滑らかな肌の感触は未だ残されていた。
 この喉が、幾度と無く血に染まったことを、私は忘れたことは無い。
 あの子が苦しみながら逝く度に、私は自分の喉を切り裂いた。あの子のため、そして私自身のために、真っ赤な花を捧げ続けた。
 そう、あの時から。葉留佳が逝った時にどうするのか、なんてことは決まっていたのだ。
 だから、あなたを喪う事も怖くはなかった。あなたを愛する事、ただそれだけに私の心を砕く事ができたのだ。
 私は葉留佳と一緒に居るためだけに存在していた。そんな私にとって、あなたが居ない世界に意味が無いの。だから。
 私は口角を吊り上げて、笑みを浮かべる。
 私は、幸せだ。とても、とても幸せだ。
 ――だから、葉留佳。私も行くわ。


[No.703] 2010/03/18(Thu) 01:44:47
壁の向こう側 (No.682への返信 / 1階層) - ひみちゅっちゅ@29335 byte

 そもそもなぜ天井裏なのか。
 我が母の呆れ果てるサーチスキルに業を煮やした僕がコレクションの隠し場所として天井裏を選んだのはさほど不自然でもなかろう。いやほんとヤバいんだって。例えば以前、積み重ねまくったガンプラの箱の一番下、試作3号機の冗談としか思えないバカデカいやつにブツをまとめて入れておいたことがある。重さでバレないように、上に積んである箱にも適当なものを入れておいたのだ。散らかりっぱなしの部屋も片付いて一石二鳥極まりない感じであった。まあとにかく、そんなもんを全部どかして最下層に配されたパンドラの箱を開けようなど、面倒でやってられないだろう。正直僕にとっても面倒だったはずである。毎晩のように使うものの隠し場所としては最悪の部類だっただろう。ところで「面倒だったはずである」やら「最悪の部類だっただろう」やら、一見すると奇妙な言い回しだが、これは結局僕がHGやらMGやらの箱をどかし、件のオーキスに格納したミサイル群をこの手で取り出すことが終ぞ無かったからである。問題の隠蔽工作を行った翌日、学校の帰りにファミマで肉まん買ってほくほくしていた僕の目に入ってきたのは、ベッドの上にうず高く積まれていたのであろう我がコレクションだった。「積まれていたのであろう」というのは、ベッドは無論弾力があるためにバランスを崩し、愛すべき塔は倒壊していたからである。せめて机の上にしてはくれなかったのか。まるで使った後片付けもせずに散らかしたままの子供のようではないか。さらに酷いことに、それら塔の残骸全てに付箋が貼られまくっており、「この子可愛い」「おっぱい大きくて羨ましい。ムキー!」「この子ふとましすぎ(笑)」「なんかこの子あやちゃんに似てるね(爆笑)」などといった書評が書き連ねられているのだ。なんたる、なんたる屈辱か! むしろこれは精神的凌辱と言っても過言ではなかろう! 実の母から凌辱されたのだ、僕は! 精神的に! 深く傷つき、悲哀に暮れた僕が、愛すべきコレクションを天井裏などという暗く狭く汚い場所に追いやらねばならなくなったこと、それ自体はまことに遺憾である。遺憾の意を表明したい! しかし、それで守れるものもある。僕には所有者として、彼らを我が母の魔手から護る義務があるのだ。
「…………ん…………っ……………あ…………」
 そして天井裏から漏れ聞こえてくるこの妙にエロ艶めかしい声である。あとなんか物音。
 一度部屋から出て階下へ向かう。リビングから明かりが見えた。声もする。母が録画していたらしいさんま御殿を見ていた。トークのテーマは「親子で気まずくなった時」だった。定番のベッド下のエロ本ネタで盛り上がっている。
「ん? どしたの? 一緒に見る?」
「や、喉乾いただけだから」
「ふーん」
 そのまま2階に戻る。
「…………あ…………は…………ぁ…………」
 母ではない。母ではなかったのだ……。
 安堵の息を吐いてベッドの上に倒れ込んだ僕は、そのまま眠ってしまったらしかった。





 カーテンを閉じるのを忘れていたことに気付いたのは、窓から差し込む朝陽で目が覚めてからだった。ベッドから下りてぐっと伸びをする。窓を開けるとひんやりとした空気が入ってきた。今年は残暑が長引いていたが、ようやく秋らしくなってきたものだなぁ。などと直訳した平安時代とかの短歌みたいなことを考えていると、背後でドアが開いたらしい音がした。
「え……起きてる……」
 呆然とした声に振り返ると、声通りの呆然とした表情を浮かべる沙耶が立っていた。呆然とした顔、以外にうまい描写が見つからないぐらいに呆然とした顔だった。まあ間抜け顔ではあるが、それでも沙耶の可愛らしさは損なわれず、むしろ僕としては彼女の新たな魅力を発見した思いである。まさに小さいは正義。ニヤけそうになる顔をなんとかかっこよく整える。
「僕も驚いているさ。この僕が……こんな時間に起きられた、なんてね」
「……理樹くん、朝からそんなニヤニヤして……キモいよ……」
 整ってくれていたのは台詞だけだった。いや、その、なんというか、真面目にショックなんですけど。なんで朝っぱらからこんな仕打ち受けないといけないの? この世界に神なんていない。いや、神はいる。そこで今さっき僕に酷いこと言った……神というか、ほら、あれだよあれ。女神。女神がいらっしゃる。ただ僕はその女神にキモいと言われただけだ。よかったこの世界に神はいる。いるんだ。その神が言っている。おまえキモいから死ねよ。ベッド下に常備しているわっか付きの注連縄を取り出す。
「死のう」
「えっ、えっ? あ、ち、違うよ、理樹くんキモくないよ! あ、そうじゃなくて、えーと、キモくても理樹くんは理樹くんだよ! だから死ぬなんて言わないでよ、ね、ね?」
 焦って僕のほうに寄ってきて説得を始める沙耶が可愛すぎたので縄なぞ放り出して沙耶をぎゅっぎゅーってした。またキモいー!とか言われたけどもはや気にする僕ではない。沙耶は気になる人のことをキモいキモい言ってしまうキモデレ少女なのだ。違う。キモデレ美少女なのだ。ならば許さざるをえまい! ツンのないツンデレに意味がないように、キモいと言わないキモデレにも意味がないのだ!
「もっとキモいって言って!」
「理樹くんマジキモい!」
 毎日のように聴くが、やはり沙耶の声は耳に心地良い。沙耶にキモいと言われると落ち着く。はぁ……ん。小柄な沙耶の身体は、ふにふにと気持ちのいい感触がした。おわかりいただけるだろうか。やあらかい。やあらかいぞぉ……。ぎゅっぎゅー。ああ、あとなんかいいにおいもする。すんすん。はぁ。すんすん。はぁ……。すんすん。くすんくすん。
「沙耶?」
「…………」
「い、痛かった? ごめんよ」
 無論名残り惜しくはあるが、泣かれてしまってはもうどうしようもないので、などと僕が苦渋の決断を下そうとしていると、
「……なにやってるのよ、理樹くん」
 と、僕を呼ぶ新たな声がする。面倒なタイミングで面倒なやつがきたものだなぁ、僕と沙耶がイチャついてるといつも間が悪く現れやがってこの野郎、なんか僕に恨みでもあんのか、けっこう心当たりがあるぞ、どうしよう、そして沙耶がすすり泣いているのに気付かれる。ひぃ。慌てて沙耶の身体を離す。ああっ、やあらかいのが……なんかすごく情けない形になってしまったのですけど。ごめんよ沙耶。次の機会にはもっとゆっくりしっかりぎゅっぎゅーってしてあげるから。
「沙耶……? 泣いてるの? どうしたの、理樹くんに何かされたの?」
「……理樹くんがね……キモいの……」
「ひぃん、沙耶ぁ、そんなこと言わないでよぅ。ふえええええん」
「気持ち悪い」
「地獄に堕ちろ」
「ひでぇ」
 あやと沙耶はどちらかといえば仲が悪いのに、あ、原因は僕の取り合いね、まあとにかく普段は仲が悪いほうなのにどうしてこういう時だけ息がぴったり合うのだろうか。実は仲が良いのか。僕に隠れて2人でよろしくやってるのか。混ぜてほしかった。
「まあ理樹くんが気持ち悪いのはいつものことだからいいけど。ん? あれ? いいの?」
「よくないよ! 理樹くんは気持ち悪いんじゃなくてキモいの! 何度言ったらわかるのよ、バカ!」
「さっき『気持ち悪い』って言ったのあんたよねぇ!?」
「あたしは『地獄に堕ちろ』って言ったの! 理樹くんに向かって『気持ち悪い』なんて酷いこと言ってー! サイテー、このバカ!」
「『地獄に堕ちろ』って言ったのはあたしでしょうが! 『気持ち悪い』って言ったのがあんた! なによ、普段キモいキモい言ってるくせにやっぱり気持ち悪いって思ってたんじゃない! そっちこそサイテーね!」
「違うわよ、あたし確かに『地獄に堕ちろ』って言ったわよ! なに、もうボケが始まったの!? 普段からボケボケなくせに大変ね!」
「そのボケとあたしの天然ボケを一緒にするんじゃない!」
「自分で自分のこと天然ボケって言っちゃうとかもうお笑いよね! いやもうほんと、笑っちゃいたい! あーっはっはっは!」
「ぐっ、ぬぬぬ……! そういうあんただって天然ボケでしょーが!」
「あたしは天然ボケって自覚ないからいいんだもん! あーっはっはっは!」
「その物言いは思いっきり自覚あるわよねぇ!? それこそお笑いよ、あーっはっはっは!」
「真似すんなっ! あーっはっはっは!」
「こっちの台詞よ! あーっはっはっは!」
「あーっはっはっは!」
「あーっはっはっは!」
 2人は僕の目の前で言い争っているはずなのに、もはやどっちがどっちで誰が何を言っているのかわからない。さすがに見た目は簡単に見分けがつくけど声ばかりはどうしようもにゃー。まあ当然っちゃ当然だが、普段は沙耶のほうが声が幼い感じなのだ。しかし怒鳴り合いになると聴き分けがつかぬ。そしてこの2人は頻繁に怒鳴り合うのだ。アニメだったら声の使い分けができていないとか言われて中の人が叩かれるレベル。無名だった人が急に人気出たりするとよくあるパターンだね。しかし僕はね、「あえて使い分けていない」という道を信じたいと思うよ。
 ところでそろそろ仲裁に入らねばなるまい。不毛な争いは終わらせるべきなのだ。
「沙耶、あや! 2人とも、もう僕のために争うなんてやめてよ!」
「「気持ち悪い、地獄に堕ちろ」」
 戦いは終わった。女の子を泣かせるという大罪を犯した件についてはなんかいつの間にやらどっか行ったのでよしとしたい。うん。僕がそのことを忘れず反省を怠らなければ問題ないはずだ。うん。
「……ふぅ。あれ、あたし何しに来たんだっけ」
 沙耶が「なに、ホントにボケちゃったの」と言おうとしたのを察知した僕は、ささっと彼女の口を塞いだ。手で。こんな断りをわざわざ入れなければならないのが悲しい。生き辛い世の中になったものだなぁ。
「あ、そうそう。朝ご飯の準備できたってさ」
 ずいぶん短い用事だった。なんでこんな大事になったのか。誰が悪かったのか。いや、犯人探しなんて無粋なことはよすべきだろう。もう世界には平和が訪れたのだから。
「むーむー!」
「あ、ごめん」
 手を離す。
「っふはぁ。ねぇ、パンとごはん、どっち?」
「刺身と味噌汁で食べれるならパンでもいいんじゃない?」
 いつも通りの昨晩の残り物であった。まあ僕は食べられればそれでいいのだけれども。しかし朝から刺身というのはどうなのだ。沙耶も同じことを思ったらしい。そして沙耶はどちらかといえば洋食派である。弁当持参の時もおにぎりではなくサンドイッチを所望するオシャレガールなのだ。ちなみにどうでもいいがあやは和食派であり、なんか地味に嬉しそうな雰囲気を感じる。スーパーの安物な上に一晩置いたもので喜べるとは、まったく片腹痛い。考えようによっては安上がりで済むので養う側からしてみたら良く出来た娘なのかもしれぬ。まあ僕や沙耶からしてみれば何の関係もない話だった。
「ほら沙耶、突っ立ってないで早く行くわよ。理樹くんもちゃっちゃか着替える。せっかくの味噌汁が冷めちゃうわよ」
 沙耶がしぶしぶ「はぁい」と返事する横で、僕は気付いた。はっとした、という言い回しはこういう時に使うのだろう、きっと。僕は、はっとした。違った……違ったのだ。あやは……一晩置いた安物の刺身に浮かれていたのではない。あやが喜んでいたのは、何よりも――

 味噌汁……ッ!

 恥ずかしながら、我が母の作る味噌汁は美味である。まあ余所のご家庭と食べ比べたことなどないのでようわからんが、少なくとも学校給食の味噌汁よりかは美味い。比較対象が微妙すぎて本当に美味なのかわからなくなってきたが、まあ僕らの味覚が死んでない限りは美味なはずである。僕も好きだし、洋食派の沙耶も母が作るミソ・スープについては「べ、別においしくなんかないんだからねっ」と安っぽいツンデレを全開にする。あやに至っては愛している。さすがにそれは妄信すぎるだろうと思わんでもないが、まああやのことなのでどうでもよい。
 しかしそれでも、僕は恥じねばなるまい。確かにあやは愚かな女だが、そう安直ではない。刺身などというお残りの安い幻想になど釣られず、味噌汁という現実をしっかりと見つめている。「せっかくの味噌汁が冷めちゃうわよ」と言った彼女の横顔が、それを物語っている。
「……あや、その」
 気付けば僕は沙耶を連れて部屋を出ようとしているあやを呼び止めている。なに? とあやの声。
「朝食のこと、なんだけど」
「ああ」
 僕の意思を汲み取ってくれたのか、あやは穏やかに笑って見せた。
「残り物とはいえ朝からお刺身ってなんか豪華でいいわよねー」
「ちょっとは恥じらいを持てよ! バカ!」
「バーカ!」
 沙耶だけが僕の味方だった。あやにはキレられた。僕は間違っていないはずである。この時はそう思っていた。





 僕とあやはそれぞれに自転車を押しながら歩く。僕とあやの間を沙耶が歩く。それが僕らの登校風景であった。
 緩やかな上り坂を3人並んで歩く。本当に緩やかで、傾斜などあって無いようなものだった。そもそも本当に坂なのか疑わしい。「坂を上っている」と意識しなければ上っていることにすら気付けないだろう。悪くすれば坂を下りていると錯覚する。ところで僕たちは今、本当に坂を上っているのだろうか。もしかして、実は下りてやしないか? この道を歩くとたまにそんなことを考え、結局どっちなのかわからなくなって、なんかもう意味わからん状態になる。ので、この坂は「幻惑坂/イリュージョン・ヒル」と呼ばれている。僕から。変に捻って厨二病みたいなことになるより、シンプルで良いネーミングだろうと自負している。
 まあそんなふうにいつも通りわけわからん状態になっていると、沙耶がわかりやすく溜息をついてみせた。
「どうかしたかい、沙耶」
「もうすぐ運動会だなぁって」
 物憂げな様子の沙耶である。僕は沙耶を挟んでその隣を歩くあやと顔を見合わせる。沙耶は体を動かすのが好きな子のはずであった。しかし確かに昨年までも、この時期の沙耶は学校に向かう足取りが重めのような印象があった気がする。
「沙耶って体動かすの好きじゃなかったっけ?」
 ストレートに訊くと、そりゃ好きだけど、と返ってくる。
「でも別に、体育とか運動会は好きじゃないよ。あたしもっと、自由に動き回りたいの。大人の決めたルールに従うとか、そーゆーのってイヤ」
 なんか反抗期を迎えた中学生みたいなことを言い出した。またの名をルール無用の残虐ファイター沙耶。そういうのには僕も覚えがある。しかし沙耶にはまだ5、6年ほど早いのではないかな。おませさんだねぇ。そういうところも可愛いけどねちゅっちゅ。
「子供ねぇ」
 あやが言った。ちょっとは空気を読む努力をしたらどうなのか。また争いが始まって最後には僕が傷つくことになるのか。というかこれもう僕をいじめるために示し合わせてるんじゃないのってぐらいにテンプレと化してるんですけど。沙耶とあやは仲が悪いふりをしているだけで実はとっても仲良しなのだ。しかし2人は僕という存在がいるために表だって仲良くできない。それでかのようなテンプレートを構築、実践しているのではないか。僕の悪の権化っぷりが天元突破していてヤバい。一瞬のうちにくだらない思考を組み立てている僕をよそに、沙耶が反撃の一手を投じていた。
「うるさい、この駄乳」
「だ……だにゅう……!?」
 あやがわなわなと震えている。わなわなわなわなわなわなわなわな。
「無駄にお胸が大きくていらっしゃるあやお姉さまはさぞかし大人なんだろうなー、いいなー、すごいなー」
 沙耶の視線はあやの胸に向いている。僕の視線も向いている。気付いたあやとしては当然腕とか使って胸を庇いたいのだろうけれど、あやの両手はチャリのハンドルを握っている。あやは腕力全然無いので、片手でも離そうものならチャリが倒れるってスンポーである。スタンド立ててから離せばいいのにね。身動きできずになんかオロオロしているあやが微妙に可愛く思えて不覚である。よって僕はいっそうあやの胸部に注目した。
「理樹くんキモい!」
「痛い!」
 なぜか拗ねた沙耶から脛蹴られた。上手いこと言ってやった。痛い。
「じゃああたしもう行くから!」
 気付いたらもういつもの別れ道で、沙耶は長い髪を揺らしつつすたこらさっさと駆けていった。途中の曲がり角で曲がって濃い目の赤いランドセルが見えなくなってから、僕は蹴っ飛ばされた脛を擦りつつ、サドルに跨った。あやが蔑みの視線をこちらに向けている。
「沙耶にも困ったものだね」
 あやは答えず、スカートを整えつつサドルに跨る。ゆるゆるとペダルを漕ぎ始めると、あやも続いてすぐに並んだ。幻惑坂/イリュージョン・ヒルをあっという間に越え、僕らは一路学び舎を目指す。
「あやのおっぱいは確かにけしからんけど、駄乳だなんてそこを強調するほどのサイズでもなかろうに」
「学校着いたらぶん殴ってあげる」
 あやが何か言ったようだが聞き取れなかった。自転車漕ぎながらの会話というのはなかなか難易度が高いものである。自転車で並んで走ってると周りに超迷惑なのであやを先に行かせる。僕からしてみれば相変わらずトロいが、あやを置いて先に学校に行ってしまうのも可哀想だろう。風で髪と髪飾りとスカートがひらひら揺れていた。
「ねぇ、あやー」
「なぁにー」
「沙耶ともうちょっと仲良くしたらー」
 あやが急ブレーキをかけた。ビビったが僕の反射神経を以てして、ちょこんとタイヤがぶつかる程度で済んだ。振り返ったあやからギロリと睨まれる。見ると、普通に赤信号で、僕がそれに気付いていないだけらしかった。あやと僕との間で僕に非があるというのも珍しい話である。
「沙耶と仲良くしろって。別にそんな仲悪いわけでもないでしょ。ま、向こうが一方的にあたしのこと嫌いってのはあるかもね」
 ぶつかったことにキレているわけではないようだった。
 沙耶があやのことを「お姉ちゃん」と呼んだことは、僕が覚えている限り一度もない。赤ん坊の頃なんかは、「ほぉら、おねえちゃんだよ〜」とか言って母が子に言葉を覚えさせるものだが、その当時でさえも、いや、沙耶はそもそも「お姉ちゃん」という言葉を知らないかのようでさえある。
「でもさ、あやもほら、基本的には良い子だし。理由も無しに嫌われたりしないでしょ」
「理由ねぇ」
 ちょっとデレを混ぜてみたら見事にスルーされた。スルーされるデレほど悲しく虚しいものもなかろうなのだ。でも大丈夫。僕、めげない。
「あれじゃないの、あたしが理樹くん独り占めしてるのが嫌なんじゃないの」
「それはありえないよ。沙耶が生まれてから僕は沙耶にべったりだもの」
 むしろそれはあやが沙耶を嫌う理由であって、しかしあやは今、別に不機嫌そうというわけでもなかった。すぐ顔に出るタイプなのに出てないので隠しているというわけでもなく、僕が沙耶にべったりだということ自体は本当にどうでもいいらしかった。悲しむべきところかもしれない。
「……むしろそれはあやが沙耶を嫌う理由じゃないの」
 何やら拗ねてしまったらしい僕の口が勝手にそんなことを口走っていた。この早漏め、恥ずかしいじゃないか……。
「それこそありえないわよ。あっ、青」
 あっけらかんと答えて、再び前に進み始める。相変わらずトロい。それを追う。
「ありえないって、なんでー」
「だって沙耶、半分だけど理樹くんと血繋がってるじゃん。あたしと理樹くんは義理だけどさー。ってことは、最終的に勝つとしたらあたしだし。それ以前に家族なんだからいちいち嫉妬なんてしないわよ別にー」
 最後に勝てればそれでいい、と。あやにしては妙にアダルティな考え方だった。なるほど、とは思ったが納得はしかねる。
「え、っていうか本当に僕の取り合いしてる感じなの?」
「だからあたしはしてないって言ってるでしょーが」
 そうこう言い合っているうちに学校に着いた。幻惑坂/イリュージョン・ヒルを超えたあたりからの風景はまるで記憶に残っていない。よく事故らなかったものである。校門前で自転車から下りて、そこからはまた手で押して駐輪場に向かう。校舎からは少し離れている。だいぶ落ち葉が増えてきているように思えた。
「てかたぶんね、別に本気で仲悪いってわけじゃないのよ。たぶん。ケンカするほど仲が良いってのを地で行ってるの。たぶん」
「たぶんばっかじゃん。根拠は?」
「沙耶が理樹くん、って呼ぶのはあたしの真似だから」
 うちの家族で僕を「理樹くん」と呼ぶのは、沙耶を除けばあやと父である。父は仕事が海外なので滅多に帰って来ない。確かに沙耶が真似するなら父ではなくあやだろう。そして本当に仲が悪いのなら、呼び方を真似たりもしない。なるほど。つまり、
「え、じゃあつまり、あやが僕をおにいちゃんって呼んだら沙耶からもおにいちゃんって呼んでもらえるってこと?」
「知らないわよ、そんなの。ていうか絶対呼ばないし。むしろ理樹くんがあたしのことおねえちゃんって呼びなさいよ、あたしのがイッコ上なんだからそっちが自然でしょ」
「沙耶からおねえちゃんって呼ばれたいの?」
「……っ、そりゃ、まあ。妹なんだし」
 適当な空きスペースを見つけて自転車をとめる。空いている場所を探すのに手間取っているあやを待つ。というか咄嗟に口から出てしまったが、別に僕があやをどう呼ぼうと沙耶がそれを真似するとは限らんよなぁ。僕はあやのことをバカだとは思っているが、普段からバカと呼んでいるわけではない。いやでも「お、おにいちゃんの真似しただけなんだからねっ」とツンデレを発動させるトリガーにはなり得るのか。ん? まずい、今願望が混じってなかったか。これはいけない。現実と妄想を混同するなどあってはならないことだろう。あれ? 今のは妄想だけじゃなかった? じゃあいいや。
「あ、そうだ理樹くん」
「ん?」
 自転車をとめてきたらしいあやが、妙に楽しそうな笑顔でやってくる。
「うおらァッ!」
「そげぶっ!?」
 思いっきりグーで強烈なボディーブローをもらった。いきなりすぎてガードする暇もなかった。いやこれはガードしてもその上から突き刺さったね。片手で自転車支えるだけの腕力もないのに何なのこのパンチ力。ていうかなんで殴られたの僕。痛い。僕涙目。いやマジで涙目になってるよこれ。痛みに涙を零してるんじゃない。世の不条理に涙しているんだ。
「ほら、早いとこ教室行ったら? せっかく早起きしたのに遅刻扱いになっちゃうわよー」
 空いた左手をひらひら振りながら、あやは遠くへ歩いて行った。僕は動けなかった。





 その日の帰りである。
 受験生というものは、放課後は図書室とかに残ってせっせと勉強するものなのだと思っていたが、少なくともあやについてはその気配はまったくない。普通に帰宅部の僕と一緒に帰っている。ただでさえバカなのに大丈夫なのか、とは僕ならずとも心配になるところだろう。まあでも大丈夫なんだろうね、きっと。不思議なことに成績は良いし。バカなのになぁ。不思議だ。
「今日一日考えてたんだけどねー」
「ん?」
 朝と同じように風に揺れるスカートを追いながらペダルを踏みしめていると、あやから声がかかった。ちょうど赤信号で止まったので横に並ぶ。
「沙耶って名前がダメなんだと思うわ」
「うわ、ひでぇ」
 朝方の話の続きだった。
「いや、まあ、別に沙耶は悪くないんだけど。あの子の名付け親があたしだってのは知ってた?」
「え、そうなの? あー、いや、確か僕も聞かれた気がする。男の子だった時用の名前」
 実際は女の子だったので没になったわけである。すっかり忘れていたが、確かにそんな話があったなぁ。いやはや、懐かしい。今の家に越してきたのも確かそのぐらいの頃だったか。
「でさ……スクレボってあるじゃない」
「あやが昔好きだった漫画?」
「うん」
 あまり詳しくないが、何度か休載挟んだりしながら未だに連載が続いているとかいう話である。あやも以前は単行本全巻揃えるぐらいには好きだった。「以前は」というのは、その揃えた単行本を全巻売り払って卒業してしまったからだ。ちょうど沙耶が生まれてからしばらく経った頃だっただろうか。ん?
「あんま覚えてないけどさ。あれ、ヒロインの名前……沙耶だったっけ?」
「……まあ、そうね。朱鷺戸沙耶、っていう……うん」
「…………」
「そんな目で見ないでよ!」
「見たくもなるよ!」
 つまりこういうことか。沙耶という名は、若き日の過ちを思い起こしてしまうから、それで嫌い……というか、苦手と。なんだろう。酷い話なのではないか、これは。え、じゃあそれが原因でスクレボ卒業したの? 当時の僕はあやがどれだけスクレボ好きか知っていたから、だいぶ心配したはずである。というかこの話をしているうちに段々と思い出してきたが、心配していた。いたく心配した。あの頃の僕はあやちゃんのことが好きで好きで大好きでたまらなかったから、それはもう心配したのだ。それがなんだ。事実は、好きな漫画キャラの名前を自分の妹の名前として使ってしまった痛々しい自分を否定したかったというだけの話だったというのか。こりゃあ……こりゃあ酷過ぎるんじゃないの。当時の僕の純情はどうなるのか。それ以前にそんな名前を付けられてしまった沙耶の運命は。一人で背負うにはあまりに重すぎる宿命じゃないか。そろそろ学校で「おうちの人に、自分の名前はどんな願いを込めてつけられたのかきいてみましょう」みたいな授業がある頃ではないのか。真実を知った沙耶はどう思うのだろう。家出とかしちゃったらどうしよう。
「……沙耶には内緒ね」
「言えるわけないだろこんなの!」
 隠し通せるかは別として。いやまあ訊かれても誤魔化せないということはないだろうけれど。
「でもさ、ほら。沙耶って別にそんなイタい名前ってわけでもないしね。大丈夫よ、きっと。うん」
「まあ、それはそうだけど。あや沙耶って並んでるとなんか姉妹っぽいしね、語感的に」
「姉妹っぽいんじゃなくて姉妹なのよ」
「ん、そうそう。そうだね」
 信号はとっくに青に変わっていた。ていうか多分2度目の青だと思う。その2度目の青もすでに点滅を始めていたので、2人並んで3度目を待つことにする。
「っていうかホント、すっかり忘れててそっちのほうがびっくりしたわ。今日の授業中ずーっと考えてて、それでようやく思い出したからね」
「真面目に授業受けなよ受験生」
「授業って言っても今はほとんど過去問だからいいのよ別に」
「へぇ」
「にしても、ちょっとショックよね。あんなに好きだったのに、それで沙耶なんて名前もつけたのに、全部忘れてるんだもの」
「まあいわゆる黒歴史ってやつだから仕方ないよ。にしても、昔のあやのスクレボ好きはそりゃ酷かったよね。スクレボごっことかさ。沙耶役のあやに毎度毎度、えーと、なんとか役の僕がコテンパンにされるっていうね」
 当時の僕はそれでなんであやを妄信的なまでに好きだったのだろう。Mっ気でもあったのだろうか。今は無い。むしろSだと思います。
「時風ね、時風瞬」
 そうそう、そんな名前だった――僕が提案した男の子用の名前は「瞬」ではなかったか。いやいやまさかそんな――とか思い出していると、信号が3度目の青へと変じた。2人してペダルを漕ぎ始める。あやを先に行かせる。
「あれ。ねぇ理樹くん、主人公の名前って覚えてる?」
「あや以上に全然覚えてないのに覚えてるわけないじゃないか」
「それもそっか」
 遠くに沈んでいく夕陽と、緩やかに吹きつける風に、妙な懐かしさを感じた。その原因が、我らが愛すべき妹の名前から端を発した昔話であることは疑いようもないが、しかしこれは、かつての瞬が見た風景なのかもしれなかった。日が暮れるまで、沙耶を追いかけて走り回る。髪が揺れる、リボンが揺れる、スカートが揺れる。何らかの神の力が働き、スカートが決してめくれないのも、今昔変わりないことだった。右のハンドルから手を離して、そのまま伸ばす。スカートに触れようと思ったら、もう少し近付かないといけない。近付きすぎたら2人して派手に転ぶだろう。というか接触事故。恐いので伸ばした手を引っ込めた。時風は終ぞ朱鷺戸を捕えることは叶わなかった。
「あ、ねぇねぇ、こんなの覚えてる?」
 あやが軽く振り返りながら声をかけてきた。僕の諦めは神懸かり的なタイミングであったことが判明する。
「どんなの?」
「今の家に越してきてすぐにさ、地下迷宮を探すぞーとか言いながら家の中探検したじゃない」
「あったねぇ、そんなの」
 その時あやは確か小5に差しかかるくらいだったはずである。探検とかとっくに卒業していて然るべきだろう。というか女の子が探検ってどうなのだろう。アリなのか? あや以外の女の子にはまるで興味がなかったのでよくわからない。
「で、地下迷宮見つけるはずが、納戸に屋根裏部屋があるの見つけちゃってさ」
 別に隠し部屋というわけでもなく、普通に屋根裏収納だということが判明してガッカリ、というオチが後からついてきたことまで覚えている。ただまあ、秘密基地にはなったが。小5で秘密基地とか言ってるのってどうなんだ。
「そういえば天井裏って今どうなってるの?」
「えっ」
 タイミングが良いのか悪いのか、また信号で止まった。
「なんだって?」
「だから、天井裏って今どうなってるのかって。屋根裏から入れるのを見つけたでしょ。忘れちゃった?」
 忘れるはずもない。つい先日コレクションを隠すのに使ったばかりである。屋根裏部屋の壁の一部がちょっと弄ると外れるようになっていて、それで納戸の向かいにある僕の部屋の天井裏に入れるようになっているのだ。僕とあやだけの秘密だった。欠陥住宅かもしれんので父さんあたりに言っておいたほうがよかったのかもしれない、と今になって思うけれど。
 天井裏で思い出したことがあった。
「あや。昨日の夜、天井裏に入った?」
「入ってたら天井裏が今どうなってるのかなんて聞かないわよ」
「そりゃそうか」
「どうかしたの?」
 信号が青に変わった。次の青を待つことにしようと思った。
「昨日の夜、なんか天井裏から声が聞こえてきてさ。なんだろうなーって」
「えっ、ほんとに? なんかちょっと……こわい」
 あやはすぐに顔に出るタイプである。今顔に出ているのは「なにそれこわい」なので、まあたぶん何も知らないのだろう。昨夜はコレクションのことばかりに注意が言っていたので恐るべき母者に疑いを向けてしまったが、場所を考えれば怪しいのはあやであった。怪しいのはあや。うふふ。
「まあ、たぶん座敷童子か何かだよ。最近の座敷童子は進んでるなぁ」
「理樹くん。座敷童子が出没するのは岩手とか、主に東北よ」
 トーリービアー。ここ関東。ひゅう。もっと受験に役立つ知識を収集しろよ受験生。
 じゃあなんか他の妖怪っぽい類の何かだろう、きっと。言ったら隣の部屋のあやがビビりまくってウザいことになるのでやめておいた。懸命な判断だったと思う。
「で、結局なんなのよそれって。ねぇ」
「さあ……」
「さあじゃないわよ! 今夜寝れなくなるじゃない!」
 どっちにせよビビっていて、別に懸命でもなんでもないことが即座に判明してやるせない気持ちになった。早いところ沙耶を迎えに行って帰ろう。信号が青に変わった。
「あ、沙耶をぎゅっぎゅーってして寝たらいいんじゃない?」
「えっ……嫌がるでしょ、あの子」
 じゃあ僕をぎゅっぎゅーしちゃいなよ、ゆー。そんなこと口走ってみたらぶん殴られると思うので言わないでおいた。後から思えばこれは失敗だった。大失敗である。





 風呂から上がって2階に戻る。
 昨夜はたしか、このぐらいの時間に例のエロ艶めかしい声が聞こえたのだった。今日はどうだろうか。ドアノブを握る。ドアを開ける。手探りでスイッチを探して明かりをつけると、相変わらずの本の森だった。父の医学書である。広さとしては僕らの部屋とたいしてかわらないはずだが、立ち並ぶ天井まで届くほどの本棚と、そこに押し込まれている分厚い本の群れが、そこはかとなく圧迫感を醸し出している。身体を横にして棚の間隙を縫うように進むと、隅っこにたてかけてある木製の梯子を上って屋根裏に入る。一応天窓がついているが、この時間では暗過ぎて何も見えない。月もちょうど雲に隠れていた。持ってきた懐中電灯のスイッチを入れる。電池が切れていた。そんな馬鹿な。電池を入れ替えに戻るとかさらに馬鹿らしいので、そのまま手探りで進むことにする。納戸の明かりがわずかだが漏れててきているし、この前入ったばかりなので、なんとなく覚えてもいる。たぶん大丈夫。
 天井裏への入り口と思われる場所に辿り着く。道中、いろいろぶつかって痛かった。ここの壁が外れるようになっているのだが……はて、外した壁を中から元に戻す方法があっただろうか。それとも今日は、中に誰もいませんよなのか。手探りで壁を外すことに成功した。その向こうには、さらなる闇が広がっている。とか言うとかっこいい感じがしないでもない。実態はただ埃っぽいだけの場所だ。さすがに狭いので四つん這いにならざるをえない。進む。
「っ!」
 いきなり柱らしきものに頭をぶつけた。声を出しそうになるのを必死にこらえる。たぶん僕は涙目になっているだろう。しかし、今朝あやから受けた理不尽な一撃のほうがよほど痛かった。これくらい我慢してみせよう。男の子だもの。進む。進む。進め。かさり。手が何かに触れた。紙っぽい何かだ。それが僕の秘蔵コレクションであることはすぐにわかった。なにせ長く共に戦ってきた戦友だ。わからぬはずがなかろう。手探りで確認すると、それらはどうやら僕がここにコレクションを安置した時のまま積まれて置かれているらしかった。いよいよ昨夜の声はなんだったのかわからなくなる。エロ本使わずに自前でオナってただけか。こんな場所で? なにか特殊な性癖をお持ちなのかもしれない。なんか嫌になってきたのでもう部屋に戻ろうかな、とか思い始めると、
「…………んっ…………や、っ……………あ…………」
「え?」
 あの声が聞こえた。近くからではない。昨夜と同じようにエロ艶めかしい声は、僕の聴覚が確かならば、
「…………あっ…………んぁ…………はぁ…………」
 この下、つまり、僕の部屋から聞こえている。え。なにそれ。ちょおこわいんですけど。
「…………り…………ん…………あ、ぃ…………ぃ」
 急に眠くなったので、僕はそのまま天井裏で夜を明かすことにした。
 翌朝、理樹が姿を消していることが発覚する。家族による懸命の捜索が行われるが見つからず、やがては警察に届を出すような騒ぎに発展するが、それでも発見されることはなかった。数年後、東海大地震発生。欠陥住宅であった当家住居は完全に倒壊(幸いにも一家は失踪した理樹を除いて全員無事であった)し、その撤去中、理樹の自室の天井裏と思しき場所から白骨化した死体が発見された――
 もちろんそんなことにはならないだろうと確信している。そもそも屋根裏から天井裏に侵入するための壁は外したままなので普通に誰かが見つけてくれるだろう。振り返った。真っ暗だ。ここで真っ暗なのはおかしなことじゃない。でも僕はわからなくなる。僕は本当に入り口を開けたままにしておいただろうか? もちろん閉じた覚えはない。開けたままにしておいた覚えもなくなっていた。不思議だなぁ。でもまあ、案外あやがなんとかしてくれるんじゃないだろうか。
「おやすみ」
「おやすみー」
 僕は安心して寝入った。


[No.704] 2010/03/18(Thu) 21:50:58
Re: 第52回リトバス草SS大会 (No.682への返信 / 1階層) - ありがとう草SS@ 9651 byte

 さくらが、まっていた。ふわりふわりと。
「うわぁ……」
 うすももいろのはなびらは、とてもきれいで。
「……」
 てんきははれ。うすいあおに、ももいろのしぶき。
「……よし、行こう」
 そうして、ぼくは、……僕は、目覚めた。



 スタートライン



 暖かくなってきたかなと、どうでもいいことを思う。
「た――まより―」
 あの事故から、もうどれぐらい過ぎただろう。数えるのは簡単だけれども、そういうことを言いたいのではなくて。
「―業―――」
 事故の後、バスに乗っていたクラスメイトは全員救助された。怪我に軽重はあるけれど、今日までに一人を除き全員が退院し、事故以前と同じ学校生活を続けている。
「―――送―」
 来ヶ谷さんは悠然と。西園さんはおとなしく。クドは少し緊張した感じで座っている。葉留佳さんに目を移すと、いつもとは打って変わって真面目な顔をしていた。……と思ったらこっちを向いてウィンクしてきた辺り、別に真面目ではないっぽい。
「――生――」
 小毬さんは……いつも通り、ほんわかしている。謙吾は仏頂面、真人は前の席で寝てる。こんな時ぐらい起きていてほしいものだけど。
「校――――起――く―」
 そして鈴は僕の隣。視線に気づいてこっちを覗き込んでくる瞳。
「これ―て――――卒業式を、終わります」
 そう、今日は卒業式。僕たちの一つ上、あーちゃん先輩たちがこの学校から出て行く日。だけど、恭介はこの式に参加していない。出来ていない。
 事故時の一番の重傷を負った恭介は、病院での治療を受け、肉体面ではほぼ完治していた。後遺症もないと診断された彼は、しかし未だ目覚めてはいない。脳にダメージを受けたと思われる、と彼の主治医は話していた。外部からのダメージなのか、それとも、あの奇跡の代償なのか――






 教室に戻り、このクラスでは最後のホームルームを終える。いつの間にかこっちの教室にいた葉留佳さんも含めてバスターズのメンバーとひとしきり話した後、寮に帰ろうとした僕の机には、一枚の紙が置いてあった。
「ミッション発令。今回は基本に戻って鬼ごっこだ。メンバー全員が鬼、俺を探して捕まえてみろ」
 ありえない。どうして、何だって、いきなりこんな―――
「……鈴、真人、謙吾。小毬さん、葉留佳さん、クド、西園さん、来ヶ谷さん」
 メンバーに呼びかける。突飛すぎる、昨日まで入院していた、いやもしかしたら今日病院を抜け出したかもしれない人間が何を考えてるんだろう。書いてあることを説明する。そしてやることが鬼ごっこ。皆が口々に、なんて馬鹿らしい、なんてばかばかしい、馬鹿だな、馬鹿デスネ、馬鹿としかいいようがありません、それなのに――顔は、皆が、笑っていた。




「わふっ、校庭とグラウンドにはいませんです!」
 ケータイに次々と届く電話。
「北校舎にもいないですヨ!?」「南校舎、同じくですね。それと裏庭、中庭にも」「あぁっ美魚ちん私が言おうとしたことをっ!」「男子寮にはいないようだ」「体育館にもいねえぜ」「少年、一応探してみたが女子寮にもいない」「屋上にもいませんよぉ」
 僕が探しているのは広場。ここにもいない。
「皆、もう一度探してみて!」
 言いながら走る。走る必要はないかもしれないけど、それでも走らずにはいられないから走って、広場から駐車場の横を通って、男子寮の前に出ると、見慣れた、みなれた、せなかが。
「恭介!」
 間違いない、顔はまだ見えてないけど――その瞬間、背中が遠ざかる。
「え!?」
 なんだあの速さ、意識不明で寝たきりだった人間の速さじゃない、というか僕とほとんど変わらない。電話をかけながら追いかける。
「鈴、聞こえる!? 皆に男子寮の前に恭介がいた、女子寮前の方へ逃げたって言っておいて!」
 電話をしまう労力も惜しい。握り締めたまま全速で走る。女子寮を抜けて右折、体育館の裏を走る。真人が立ちふさがる。
 二人が何か話したようだけど聞こえない。そのままタックルし、押しつぶさんとする真人の脇をするりと抜けてまた走り出す背中。追いかけてグラウンドの方へ。クドが横から走ってくる。
「ストレルカー! ヴェルカー! 行くのですーっ!」
 反則気味な脚力で距離を詰める犬コンビ、いやその後ろからマントを翻して走るのも含めて犬トリオか。二匹と一人、いやむしろ三匹に対し、走る背中は冷静に丸いものを取り出し投げた――って
「フリスビー!? なんでそんなもの持ってるですか!?」
 哀しいかな条件反射でおいかけにいっちゃう犬二匹、それでも諦めずに走るもう一人のわんこ、もといクドはやはり哀しいかなストライドが絶望的に足りない。あっという間に距離を離され、ついでに僕も追い抜いていく。
「わふーっ!? もしかして私役立たずでしたかーっ!?」
 そのまま裏庭へと突っ切っていく。少しづつ距離を縮めてはいるけど、まだ追いつかない。
「うぉぉぉぉ! こまりん、みおちん、奴にジェットスト○ームアタックをかけますヨ!」
「了解だよぅ!」「……それだと貴女が踏み台にされ、私は串刺しですが」
 いいながらも前から葉留佳さんがタックルを仕掛け、かわされる。体勢が崩れたところに来た右から小毬さんのボディアタック、左から西園さんの控えめな体当たり……を更に加速して遠ざかる背中。
「嘘、アレが避けられた!?」
「……入院してた人とは思えません。というか前より進化してる気すらしてきます」
 三人を横目に見ながら更に走る。呼吸が苦しくなるけど無視して走る。背中を追っていく。中庭を出たところで来ヶ谷さんが立ちふさがる……って、
「なんで摸造刀!?」
「はっはっは、折角だからに決まっているだろう!」
 日本語になってない。
「とりあえず止めればいいのだろう。行くぞ」
 言うがいなや疾走、距離を詰めていく。低い体勢からの中段切り……を、あろうことか背中を踏んで走っていく。流石に手を着いて着地して、だけどそのまますぐに走り出した背中をまた追いかけて。
 最後にたどり着いたのは校門前の広場。
「鈴!」
「分かった!」
 先に来ていた鈴が前から走ってくる。何を見たのか鈴は一瞬、泣きそうな顔して、それから怒った顔をして、
「こんのぉ……!」
 全速力、助走15mからの走り幅跳び、その勢いのままに
「心配かけさせるな、馬鹿兄貴がぁぁぁっ!」
 鈴の全力での飛び蹴りは肩口に命中し、走っていた背中は大きく体勢を崩した。
 逃さずに一気に距離を詰めていく。
 背中はまた走り出したけど、すぐに追い着く。横に並ぶ。
 でも追い着いただけじゃ駄目だ。横には遠かった背中がある。追いかけ続けた、背中は、今、肩を並べて走っている。そのまま走り続ける。桜吹雪を駆け抜けて、もっと、もっと、もっと―――― 一緒に。でも、





 校門で、僕らは同時にたちどまった。
 さくらが、まっていた。ふわりふわりと。
「……」
 うすももいろのはなびらは、とてもきれいで。
「……」
 てんきははれ。うすいあおに、ももいろのしぶき。
「……」
 そうして、ぼくは、……僕は、



「恭介――卒業、おめでとう」


 言いたいことはいっぱいあった。
 言わなきゃならないこともいっぱいあった。
 それでも、口を出たのはこの言葉だった。

「おう、ありがとう」


 恭介にだって、言いたいことはいっぱいあったと思う。
 言わなきゃいけないこともいっぱいあったと思う。
 それでも、それだけを言った。






「そんなことはない。俺は、あの時、あの世界で、言いたいことは全て言ったつもりだった」

 あの世界。
 恭介が死を確信していた世界で言った言葉は、あの時、彼の言いたいことの、間違いなく全てだっただろう。

「お前は、ずっと俺と一緒にいた」
「そうだね。僕は、ずっと恭介と一緒にいた」
「頼られてうれしかったし、もっと頼られる人間になりたくて、俺なりに頑張ってきた」
 それは、偽らざる彼の本心だろう。
「だけど、別れなきゃいけないと思った時」
「僕は、僕と鈴は、あまりに弱すぎたから」
「圧し掛かる現実に耐えられないんじゃないかと。どこかで潰れてしまうんじゃないかと」
 そして、その危惧は、恐らく事実になっただろう。それ程に、弱かった。
「でも」
「ああ、あの世界で、お前たちは強くなった」
 作られた世界。作られた試練。その中で、恐らく僕たちは恭介の想像以上に強くなっていた。
「だからこそ、僕たちは助かった。そして、助けることが出来た」
「そうだ。俺の想像を超えて、生き残るだけじゃなく、助けてくれた。背中を見て後をついて来るだけじゃなく、自分の意思で歩き始めた」
 恭介の作った世界。僕たちの作った世界。
「強く生きろと。俺は最後に、そう言った」
「何があっても、どんな現実を目の当たりにしても」
「強く、強く生きろ。それは、今だって変わらない」
「うん。僕は、僕と鈴は、強く生きてみせる」
「ああ、だけど忘れるな。今のお前には、仲間がいる。お前が助けた、仲間がいるんだ。真人が、謙吾が、小毬が来ヶ谷が西園がクドが。お前のそばには、いるんだ」
「うん、今の僕には仲間がいる。仲間がいるから」
「お前はもっと、強くなれる」
「恭介も、そうだよ」
「え?」
「恭介も、もう一人じゃない。リトルバスターズの皆が、僕が。ここにいる。もう一人じゃないんだ。ここに、いるから。全部背負い込まなくていいんだ。恭介だって、頼っていいんだ」
「……ああ、そうだな。俺には、頼れる弟分が、仲間がいるんだ」
「うん」








「さて、と。そろそろ行くかな」
 唐突に恭介は切り出した。
「もう? 皆と話したり、卒業祝いとか、退院祝いとか」
「そういうのは性に合わないからいい」
 嘘だった。そういうお祭りごとは、大好きなはずだった。
 でも、それを問いただそうとは思わない。
「分かった。でも、今度また、みんなと一緒に遊ぼうよ」
「ああ、分かってるさ」
 恭介は校舎を仰ぎ見る。三年間、正確には二年と三ヶ月、彼が過ごした校舎。どんな風景なのか、まだ僕には分からない。
「この学校で、お前たちは強くなったんだ。つくりもののせかいでも。ここはお前が俺に並んでくれた場所なんだ。別れるのは辛いさ。だけども、な。理樹」
 恭介は。
「いくらお前に並ばれたって、先を行かれたって、俺はお前の兄貴分なんだ。わがままだけど、それでも兄貴でいたいんだよ。だから行く。俺は、お前に俺を追い越してほしい。でも同じくらい、お前に追い越されたくない。お前の先を行きたい」
 恭介は、校舎の方から、校門の外へと体の向きを変える。だから僕も、校門の方へと体を向けた。
 向きは違うけど、肩を並べて。
「なら、僕は」
 そう。恭介が先を行き続けたいというのなら。
「なら僕は、恭介を超えたい。君を超えて。僕は、もっと強くなりたい」
「ああ。今の俺たちは」
「今の僕たちはちょうど同じところだ」
「だけど、俺は先に行く」
 学校を出て。社会へ。外へと。
「うん。僕は、まだ、ここに残る。だけど、僕は君の先に行きたい」
「俺は、お前より早く、外に出る。だから、俺はお前の先に立ちたい」
 ここから、競走だ。向きは違うけど、ここがスタートライン。僕は一年、ここでもっと強くなる。恭介は外に出ていく。
 さくらが、まっていた。ふわりふわりと。
 3。この景色を、目に焼き付ける。
 うすももいろのはなびらは、とてもきれいで。
 2。今生の別れじゃない。もしかしたら明日にも再開するかもしれない。そんなとても小さな別れ。だけど、
 てんきははれ。うすいあおに、ももいろのしぶき。
 1。だけど僕らは、この瞬間を、いつまでも覚えているだろう。
 そうして、ぼくは、……ぼくらは、
 進みはじめる。僕は学校へ。恭介は外の世界へ。振り返らずに、進んでいく。
 0。走り出した。


[No.705] 2010/03/18(Thu) 23:07:45
スタートライン (No.705への返信 / 2階層) - ↑の題名書くの忘れてたorz

なんというドジ。しにたい

[No.706] 2010/03/18(Thu) 23:12:00
青春の駆け脚 (No.682への返信 / 1階層) - ひみつったらひみつ@4182byte

 姉御の脚にとてつもないエロスを感じるようになったのはいつからだっただろう。はるちんはどっちかっていうと、マゾというかMだし。だから姉御の太ももとかふくらはぎとか特に足首とかが、おっぱいと同じぐらいエロく見えるようになったのは当然と言えば当然だと思う。
 姉御って、スカートなのに凄いスピードで動いたりしてるから、けっこーギリギリな所までスカートが捲くれちゃったりする事があるんだけど。ぱんつは見えません。何で。まあぱんつはいいのですヨ。本当は良くないけど。
 
 スカートがあそこまで捲れ上がっちゃうと、当然艶かしい太ももがちらちら見えちゃう。エロい。あれだけでご飯二杯はいけますネ。夏でも姉御ってば汗をあんまりかかないから、濡れたふとももが見られない事に気がついたのは、このはるちん不覚が深く。まあ一緒にお風呂入ったら見られたけど。エロすぎてのぼせた。
 そういえば、姉御のふとももって結構ぷにぷにしてるんだよね。あれだけ速く動いたりしてるから、筋肉がついてそうだなーって思ってたから、あの感触はビッグバンが起きるかと思いましたヨ。その後お風呂の壁に叩きつけられたけど、後悔はしてない。むしろ下から視姦出来たのでラッキー。付け根がエロい事もその時発見。
 
 そうそう、膝とかもエロいよね。膝小僧とかもう、はるちん大洪水デス。膝っていうと、ごつごつしてて何だか格闘技なイメージだけど、ちっちっちっ。甘い、甘すぎですヨ。昨日買った砂糖牛乳苺っていう飲み物ぐらい甘い。男の人の膝は毛がボーボーかもだけど、女の人の膝はお手入れ行き届きまくりですべすべでヤバいッスよ奥さん。姉御の膝も凄くて、もう一日中触ってても飽きなさそうな、そんな桃源郷。
 お肉が程よく付いてて、骨のごつごつ感がささやかに伝わってきそう。ちょっとくぼんでるあの部分を型に取ってストラップにしたい。
 忘れがちな膝の後ろのあの感じ。上手く言葉に出来ないあのエロちっくな形。膝の裏側ってあんまり知られてないけど、エロさで言うと表に負けてないですヨ!

 太もも、膝、と来て。お次はとうとうふくらはぎですヨ!来たぞ!ふくらはぎだ!ふくらはぎのあのなんとも言えない感触。そしてすね。すねぱねぇっす。すねも良いけど、今はふくらはぎに集中してみよう。あの引き締まってる見た目に反してのぷにぷに感。ふとももと同じぐらいのビッグバンが二回起きましたヨ。ふとももが「枕にしたい部位」として一位なら、ふくらはぎは「手で弄びたい部位」の一位ですヨ。たぷたぷさせて、ひっぱって、揉む。このループを姉御のふくらはぎで出来るとしたら、もれなくはるちんをプレゼントします。応募者全員サービスも真っ青。
 すねは骨デス。だけど、そこにはアスファルトに咲いたタンポポみたいな魅力がある事を、はるちんの全高校生活をかけても悔いは残りません。姉御のすねは、アスファルトにヒマワリが咲いているぐらいの素晴らしさを秘めています。まだ未知の部位だから、感触はわからないけど、絶対気持ち良いはず。ガイアがはるちんにすねを愛でろと言っている!

 足首。柔軟運動とかで回される足首。靴下で隠される足首。靴から少し上にある足首。捻挫とかで痛くなる足首。素朴で無骨な足首。いいよね足首。何であんなにエロいんだろうね足首。足首から足の甲に繋がるあのライン。姉御はニーソ穿いてるから足首の形が黒く浮かぶんだよね。エロいよね。その時に浮き出てくる名前のわからない骨。ヤバイ。やばいって想像するだけでもう体が疼く。はるちんから離れろ!脚の魅力に囚われるぞ!みたいな。

 忘れちゃいけないのが足首から先っぽにかけての部分だよね。足の甲は言わずもがな。つま先もそう。しかし!はるちんはつま先を押す!つま先いいよね舐めたいよね。何かエロい本とかにもありそうだけど。お風呂の時にちらりと見たけど、姉御のつま先陶器みたいだった。びっくりした。
「姉御のつま先触りたい。というか触らせて欲しい」
 って思わず言っちゃったぐらいデス。洗面器で殴られた。

 

 ふう。とノートをぱたりと閉じる。これで脚についてのノートは終了。一冊分書いたら気持ちに整理がつきましたヨ。
 やっぱり脚最高!
 途中から暴走しちゃって、よくわからなくなってきた。それにしても、姉御の脚って綺麗だよね。そこで自分の脚をちらり。変じゃないとは思うけど、何か違うんだよね。やっぱり姉御ですヨ。姉御の脚の型を取って出来たマネキンにはるちんのニーソとか穿かせてみたい。あ、そんな事するより今度本人にお願いしてみよう。ジュース片手にこっそり頷く。
 さて、と。椅子から立ち上がって、マイカメラを首から提げる。ピンク色で可愛い。それを一回、窓の外に向けてパシャリ。デジカメだから音はしないけど。
 画面に映った綺麗な青空を見てそれを削除した。データ取られたくないし。
 携帯で姉御の番号を呼び出して今どこにいますか。今会いに行きますコール。自分の部屋だって帰ってきた。通話を切って、ドアノブ掴んで回してニーソ片手にさあ出発。
 今日も良い脚でありますように。


[No.707] 2010/03/18(Thu) 23:26:06
ラブリー・ラブリー・マイシスター (No.682への返信 / 1階層) - ひみつ@29894 byte

 初出勤を終えて、家に帰ってホッと一息ついて、ご飯を食べるか、それとも先にお風呂に入るか、それともテレビでバラエティ番組でも見て心の平穏を取り戻すか。何をしようか迷っていると、ピコンピコンピコンと変な音が家の中で響いた。何の音か最初は分からなかったけど、どうやらチャイムの音らしい。変な音に設定するなよ、と思いながら覗き穴を見ると、双子の姉の顔が見えた。初出勤ご苦労様ということでケーキでも買ってきてくれたのかもしれない。大概なシスコンだからなぁ。ほいほーい、と鍵を開け、扉を開け、お姉ちゃんの姿を確認して扉を閉めた。鍵も閉めた。
 何かの見間違いだと思うんだけど、もっそい荷物持ってた気がする。どでかい風呂敷とか非現代的なものを背中に負ぶさっていた気がする。そもそも引っ越したばかりのこの家に誰かが来たこと自体気のせいだったんだ。お風呂に入ろう。きっと疲れてるんだ。ピコンピコンピコン。この音もきっとウルトラマンのカラータイマーがもうタイムリミットだよ、って告げてる音に違いない。頑張れウルトラマン。怪獣を倒して地球を守って。私はその間に風呂に入るから。
 とか思ってたら鍵が回って扉が開きやがった。
「葉留佳」
「なんでございましょう」
「泊めて」
「えー」
「いやなの?」
「どちらかといえば」
「じゃあ、住ませて」
 頭を抱えた。いつのまに合鍵作ってるんだとか、なんで急にとか、色々思うところがあったけど。
「ケーキ、買ってきたし」
 その一言で、話ぐらい聞いてあげよう、と思った私は結構安い女かもしれない。



 クソババアが死んでクソ人生がほんのちょっぴり爽やかになった。腐臭だらけの毎日からの絶対的開放。自分のトラウマの元が消え失せた。晴れ晴れした気分だ。ああ、人生最高。屋上へ出てみると、空は超青くて超壮快。超最高。超いい感じ。大爆笑しながら屋上をぐるりと三周ぐらい走った。乳酸めちゃくちゃたまったけど、心地よい疲れってきっとこういう事いうんだろうね。そんでもって疲れた結果、足絡ませてずっこけた。そのままゴロゴロと転がって、仰向け、大の字になって深呼吸をした。汗が目に入った。沁みるなぁ。



 自分の気持ちが分からないのに、他人の気持ちなんてそれこそさっぱり分からない。
 お姉ちゃんを居間に放置して、とりあえず風呂掃除をしている。「ご飯ぐらい作ってあげようか?」とおっしゃるのでコクリと首を縦に振って、じゃあ私はお風呂掃除してくるね、みたいなやりとりの結果。まあ、掃除と言ってもやることは洗剤をシュッシュッってかけて、泡が下に落ちるまで待って、落ちたらシャワーでさっと流すだけなんだけど。
 泡がゆっくりと落ちてゆく。台所からは油の焼ける音と、香ばしい匂いがする。野菜でも炒めてるんだろうか。何を作るか聞いてなかったけど、大した食材も無いし、そんなに期待はしていない。夕食の献立よりも考えることがあった。
 さて、何故、双子の姉、二木佳奈多が我が家にやってきたのか。
 高校卒業時、お姉ちゃんは見事に桜散り、浪人することになった。お祖母様の死により、まあ、あの気の狂ってた家もバタバタしてたみたいで、お姉ちゃんも大学には行きたいと思ってたようで。二つの結論が行き着いた先は保留。ということで、モラトリアム頂いてハッピーキャンパスライフが待っていたはずなのに、あのバカ姉は受験に失敗した。浪人生という名のニートでは、あの家にいるのも苦痛だろう。だって、落ちこぼれの人間以下の犬畜生以下のミジンコさんレベルの扱いを受けていた私は、しっかりと公務員試験に受かって、公務員という肩書きを手にいれていたりして。優秀扱いされて、しっかりとそれに応えてきた二木佳奈多の初めての敗北? 挫折? そんな感じ? そりゃあ、面白いね。蛇口を捻って、シャワーをかけて、泡を流した。
 居間に戻ると、ちゃぶ台の上に焼きそばが二皿置いてあった。食べずに待っていてくれたようだ。こういうところ律儀だよね、本当。冷蔵庫からマヨネーズを引っ張り出してぐるんぐるんかける。ソースとマヨが七三ぐらいになるの比率が黄金比なのだ。散々焼きそば食べてきた私にしか分からないだろう。お姉ちゃんの焼きそばにも、唯一黄金比を知る私がマヨネーズをかけてあげようとしたら、いえ結構です、と御丁寧にお断りされた。冷蔵庫にマヨネーズを仕舞い、今度は作り置いておいたお茶を取り出す。それを見て何故かホッと胸を撫で下ろしたお姉ちゃんは、コップは持ってくわ、と働きを買ってでた。ついでに箸もお願いした。
 何にしても腹が減った。腹が減っては戦が出来ないらしい。話を聞くのも、考えるのも全部食ってからだ。
「いただきます!」
 一口食って吹きだしかけた。不思議だ。めちゃくちゃ不味かった。この世界にはこれほどまずい焼きそばがあったのか。あの万能調味料マヨネーズを持ってしても勝てない味付けってなんだそりゃ。天才か。逆に言って天才か。アホか。
「おいしい?」
「まずいわー!」
 思わずちゃぶ台をひっくり返しそうになった。
「そんなわけ」そう言って一口食べる。「まずっ!」作った本人公認のまずい頂きましたー。味見しろやボケ。
「おかしいなぁ」
「ああ、もういいよ。私が作るよ」
 立ち上がり、台所に向かう。おかしい。こういうのは、普通キャラの立場上逆のはずなんだけど。料理なんてする暇なんてなかったのかもしれない。台所に立つことが出来なかったのかもしれない。しかし、不味かったなぁ。逆に不味すぎてもう一度食べてみたくなる味だ。
「まずっ!」
 居間からそんな声が聞こえた。お姉ちゃんも同じ気持だったのね……。



 例えば、あの日一緒に食べた本マグロ。あれは人生で食べたものの中で一番美味しかったかもしれない。
 お姉ちゃんが一匹丸ごとを掻っ捌いてうまいこと三枚におろして、目玉はDHAが豊富だから馬鹿なあんたはしっかり食べなさいと言っていた。
 公務員試験を受けると私が言って、皆がウケルーと笑ったあの日。ババアが死んで真の人間になろうと誓ったあの日。お姉ちゃんは皆と違って笑わなかった。とても一所懸命に、考え直せと説得してきた。うっせーハゲと言うと殴られた。「本気なの?」「本気だよ」私の決心に満ちた半笑いの顔を見て、二木佳奈多はお似合いの呆れたーって感じの溜息をついて、私に、「勉強は厳しいから、まずは形から入ろう」と言ってどこから出してきたのか知らないが、マグロをご馳走してくれた。
 だから、勝手に料理はうまいと思っていた。包丁は扱えるけど、料理となるとど下手くそなのかもしれない。なんだそれ。



 私が作った焼きそばは、それはもう無個性な味だったが、姉のあれよりかはよっぽどマシなものだった。二人で焼きそばを食べて、お片付けをして、二人で一緒に風呂にも入ったりして、双子のはずなのにおっぱいの大きさが違うのに気づいたり揉んだりした。ちなみに私の方が大きかった。何も聞かずに、何も言わずに、平穏を装って、二人で一緒のベッドに入った。明日も仕事がある。目覚ましは変わらない設定のままにしておいた。
 真っ暗闇、布団の中、お姉ちゃんが私に抱きついてくる。きつく身体を締め上げる。苦しい。眠い。そっと、顔を胸に押し当てる。お姉ちゃんの鼓動が聞こえる。ドクンドクンと聞こえる。私もお姉ちゃんの身体を抱きしめた。たった二人の姉妹。そんな実感だけが私の脳みそを満たす。状況を把握する気にもならない。ただ、この温もりが心地よくて、苦しさが気持ちよくて、明日も明後日も一週間後も一ヶ月後もこのまま一生こんな風に眠れたらいいなぁ、なんて思った。



 朝、いってきます、と家を出た。
「いってらっしゃい」
 夜、ただいま、と家に帰った。
「おかえり」
 少しだけ、ほんのちょっぴり、幸せを感じた。



 お姉ちゃんが家に住み始めて三日経った。
 なんとなく二人の生活も慣れだして、初めての休日。思えば、この人、浪人生のはずなのに一切勉強しているところを見たことが無い。まあ、まだ年度が始まって間もないってこともあるかもしれないけども、持ってきた荷物のどこにも勉強道具は無かった。どうも勉強する気が無いように見える。ていうか、無いね。本気でこれっぽっちも勉強する気無いよマジで。
 家に居る間は自前のパソコンでずっと何かを見ている。喜んだり、悲しんだりしていた。なーにやってんのー、と覗いてみると、さっぱり分からない画面だった。グラフとか、数字が一杯並んでいた。結局、何かは分からなかったけど、良からぬことであることは分かった。
「葉留佳って株とか外為とか興味ある?」
 いえいえ、全然興味御座いませんが?
「ふーん。じゃあ、いいや」
「あのさ、勉強しないの?」
「なんで?」
 なんで?と来ましたか。こっちが聞きたいよ。
「ああ、そうか。そういえば、浪人してたね」
 えへへー、と笑って、頭をポリポリする。その仕草は、子供っぽくて普段の姿から想像つかなくてギャップ萌えというものを感じることが出来たが。だから、どうなんよ、って話だ。
「予備校行けバカ」
「バカって、あんたに言われたくないわよ」
「こっちは社会人。あんたは浪人生。さあ、どっちが社会的に見てバカでしょうか」
「葉留佳」
「いや、あんたの主観じゃなくて」
「あんたはどう思うの?」
「まあ、頭はお姉ちゃんのがいいとは思うけど」
「じゃあ、葉留佳がバカってことで」
「おい、ニート」
「ニートじゃない。浪人生」
「浪人生なら勉強しようよー」
「めんどくさい」
 プンプンと頬を膨らませる。あれ、なんか幼児退行みたいなのしてない、この人? 開放感から得たハイテンションってか。知ったことか。ていうか、私の一人暮らしっていう平穏返せコラ。
「勉強しないなら出てけ」
「冷たくない?」
「こんなもんだよ」
 私は、昔から。特に、あんたに対しては。
「お腹すいた。なんか作って」
「話聞いてた? まず勉強しようよ」 
「勉強勉強ってあんたは私のおかんか」
「おかんとかよく分かんないし」
「……じゃあ、お母さんに会いに行く?」
「んえ?」
 初めての休日。やることは決まった。
 母親に、会いに行く。



 生まれた瞬間に劣勢と判断された。生まれなければ良かった。生まなければ良かった。生んだ奴が憎かった。一緒に生まれた奴も憎かった。生まれた場所が憎かった。だけど、全部怖かった。
 母親が生まなければ、きっとこんなに憎むことも無かったし、怖がることも無かった。そりゃあ、この歳まで生きれば、楽しかったこともあるし、嬉しかったこともあるし、おいしいもの食べたりもしたし。だからってそれで全部チャラになる訳がない。マイナスが大きすぎてプラスに転じることなんて多分一生無い。不幸の徳政令とか、自己破産とか出来ればいいのに。
 母親なんて死ねばいいのに。
 そんなこと考えてた時期が私にもありましたとさ。
 そんな私も死ねばいいのにね。



 家に帰ってきて、ちゃぶ台に貰ったケーキの箱を置いた。
「葉留佳、花瓶……なんてある訳ないか」
「そこらへんのコップ使っていいよ」
「風情が無いわね」
「うっせえ」
 コップに一輪、真っ赤な花がささっている。確かに、風情も何もあったもんじゃないし、これで本当に育つのかという疑問もあるけど、枯れたら捨てればいいだけだ。
 お姉ちゃんが台所からお皿とフォークを二つずつ持ってきてくれた。箱の中にはチョコレートケーキとミルフィーユ。私はどちらが食べたいかと聞かれたらミルフィーユと即答出来る自信がある。参考までにお姉ちゃんはどっちが食べたいか聞いてみた。
「ミルフィーユ」
 即答だった。
「お母さん、元気そうだったね」
「そうね。そんなことより、あんたはチョコレートケーキでいいわよね」
 そんなこと扱いでっせお母様。
「もうチョコレートケーキでいいよ」
「何よその言い方。自分は譲歩しましたよみたいな感じやめてくれない?」
「じゃあ、お姉ちゃんチョコレートケーキでいいの?」
「ミルフィーユ」
 即答かよ。
 ケーキを皿に取り分けて、帰り道に買った缶コーヒーのプルタブを引っ張る。朝専用缶コーヒーと書いてあるけど、そんなことは気にしない。チョコレートケーキを口に運ぶ。少しビターで甘さ控えめ。基本的には甘いほうが好きだけど、これはこれでおいしいと思えた。きっと高い店で買ったんだろう。あのブルジョワめ。小奇麗な服装もしてたしなぁ。きっと高いブランド品だわ。あのセレブめ。



 母親に会った。ついでに父親にも会った。ここから三駅分離れた住宅街の普通の家。厳格な雰囲気も、陰湿な空気もまるで無い、真っ白で綺麗な家だった。花壇には真っ赤なガーベラの花が咲いていた。なんで花の名前が分かったかというと花壇に「ガーベラ」と書かれた札がささっていたからで。うちの母親はちょっと頭がゆるいみたいだ。
 適当に私が今どうやって暮らしてるかとか、世間話とか、天気の話とか、あとはお姉ちゃんの堕落っぷりとか、そんなことを笑いながら話した。帰り際、いつでも来ていいよって言われた。一生行かねーよバーカって思った。じゃあねお母さんって笑った。あなた達は私の自慢の娘よって言われた。虫酸が走った。これ持って行きなさい、とケーキと花壇に咲いていたガーベラを渡された。もう一回くらい顔を出してもいいかなって思った。



 私達はいつも寄り添い抱き合って眠る。
 世界には二人だけしか残っていないみたいに、存在をしっかりと確かめるように、離れたら一生離れたままになってしまうような気がして、キツイくらいに抱きしめる。こいつは嫌いだ。こいつは憎い。だけど、こいつだけがきっと私を理解してる。私の頭の中身も、身体の中身も、心の中身も、全部こいつは分かってる。悔しいけど、だから、こいつを離す訳にはいかない。こいつが居なくなったら、私は本当に世界で一人ぼっちになってしまう。お姉ちゃん。憎いよ。




 ピコンピコンという音で目覚めた。不快なチャイムの音だ。ニート姉はこんなにも五月蝿い音が鳴っているというのに起きる気配が全く無いようで。かわいらしく寝息を立てている。そっと、起こさないようにベッドから降りる。カーディガンをパジャマの上から羽織り、はいはいお待たせー、と扉を開くと、外にはスーツを着たハゲた中肉中背のおっさんが立っていた。こんな人は彼氏にはしたくないランキングのトップに君臨していそうな可哀想な容姿のおっさんだった。見たことの無い人だったけど、何故だか親近感が沸いた。
 見つめ合うこと三秒ほど。私の美貌に目を奪われたのだろうか。それとも、十代の乙女のパジャマ姿に欲情してしまったのか。何も喋ってこないので、こっちもどうしていいか分からない。扉、閉めるべき?
「えーと?」
「ああ、失礼」
 そう言って、上着のポケットを真探る。凶器か! と警戒しバトル物の漫画で見た『荒ぶる鷹の構え』をとってみたけど、メモ帳のようなものだったので構えを解く。おっさんは取り出したメモ帳の表紙をこちらに見せつけてきた。どこかで見たことのあるようなマークが表紙に描かれている。なんか見たことあるんだけどなぁ。なんだっけこれ?
「申し遅れました。警察です」
 ああ、そういえばこんなマークだったなぁ、と思った。



 話をしたいから、ちょっくら署までご同行願えますか?
 テレビで聞いたような台詞だった。警察官だと思って見ると警察官らしい顔つきにも見えてくる不思議。きっと疲れが顔とか腹とかに出てるんだろうね。
 ちなみに、こちとら男に安々とついて行くような軽い女じゃないんだよ。一生来んなボケと追い返した。
 話は、ババアの件について。お祖母さんのことでちょっと聞きたいことがある。君と、君のお姉さんにね。お姉さんは今どこに居るか分からないから、まずは三枝葉留佳さん、あなたの所に来た。要約するとこんな感じ。
 クソババアの話なんてしたくない。私はあの家とは関係無い。縁を切った。両親も縁を切っている。姉の事は知らない。どっかで野垂れ死んでるんじゃないかな。分かったら帰れ。二度と来んな。要約するとこんな感じ。
 息を吐くように嘘を吐く。いつから自分はこんな人間になったんだろうか。生まれた時からかもね。しらねーよ。
 警察が居なくなった玄関に食塩を撒いた。折角の休日だというのに、朝っぱらから気分が悪い。ああ、もう、最悪。プリンでも買いに行くか。



 非日常を繰り返し、いつしかそれが日常になっていく。普通じゃないことが普通になる。
 そんな毎日から抜け出して得た日常っていうのは、果たして日常と言えるだろうか。それこそが非日常であって、普通じゃないことなんじゃないの?
 どん底にいたら、普通になるだけで、それこそ幸せなことなんじゃないの? それって本当に幸せ? 不幸って何? あれは普通のことだよ。
 だって私は、ヤクタタズのロクデナシだから。しょうがないことなんだよ。もう放って置いて欲しい。



 家に帰ると誰も居なかった。いや、まあ、これが本来の姿なんだけどさ。
 プリンは売り切れていた。代わりに杏仁豆腐を買った。しょうがないのでお姉ちゃんの分も買った。こうやって気を利かせた時に限っていないんだから。人の事は言えないけど言わせてもらいたい。空気読めよと。んで、あいつはどこに行ったんだろう。まあ、子供じゃないんだからどうでもいいか。これで予備校探しに行ってましたとかなら評価する。高校時代はあれほどキッチリしていた人間だったのに、今の堕落した姿はなんなんだ。ぶっちゃけ憎い憎いと思いながらも尊敬はしていた。羨ましいとも思った。同じ子宮から生まれとは思えなかった。
 久しぶりの一人きりの家。束の間、平穏が戻ってきた。お姉ちゃんの分の杏仁豆腐を冷蔵庫に入れる。いいや、二つとも入れよう。二人で一緒に食べよう。ずっと出来なかったことだ。こういうことがしたかったのかもしれない。家族らしいこと。
 カーテンを閉めて、ベッドに入る。あいつが来てから初めて一人で。少しだけ、いつもより寒い気がした。あいつがいない。あいつに居て欲しいと思ってる自分が居る。あいつが憎くて仕方が無いのに。そっと、目を閉じる。警察はあいつのことも探していた。行方不明みたいに言っていた。そういえば、ババアってどうやって死んだんだろう。あいつは警察が来た時、起きてたんじゃないのか。荷物も最低限の衣服類しか持ってきていない。
 逃げてきたってこと?
 じゃあ、なにか? もしかして、あいつがババアを殺した?
 いやでも、あれはまだ私達が高校生の時だ。ていうか、殺されたって話は聞いていないし。そもそもなんで殺す必要がある。あの家に居たらそうなる気持ちも分からんでもないけどさー。ああ、もう。難しいことは考えたくない。頭が痛くて痒くなる。直接聞けばいいじゃないか。寝ちゃおう。



 目が覚めたら外は真っ暗になっていた。昼寝のつもりが夜まで爆睡してしまった。あいつはまだ帰ってきていない。なんだよこれ。帰ってこいよ。ちゃぶ台の上の携帯電話を手にとる。着信は無い。何してる、もう夕飯の時間だよ。一緒に食べないとダメだよ。ダメになっちゃうよ。私をこんな風にしたのはあんたなんだから責任とれよ。携帯を操作して電話帳を開く。あいつの番号を探す。入ってないよ……。聞いてないよ。あいつに聞く訳無いじゃん。死ねよ。私、死ねよ。
 自分の両肩を力いっぱい掴む。爪が身体に食い込む。痛みを感じないとどうかなりそうだ。警察から逃げてきたってことじゃないかもしれないけど、何かから逃げてきたってのは明白だ。現実からの逃避とかじゃなくて、実際に何かから追われて、それできっと誰も訪ねてこないであろう私の家に来たんだ。そうに違いない。やっぱりあいつが殺したの? なんでそんなことするの? ババアは普通の私を殺した。普通の私の仇。復讐するのは私の役目。お姉ちゃんは綺麗なまま、私の憧れのまま、私に罪悪感を抱えたまま、プレッシャーに押し潰されながら生きてくれるだけでいいのに。誰かを殺したり、殺そうとしたら、それは私じゃないか。やめてよ。だめだよ。戻ってきてよ。
 部屋の明かりを点ける。荷物はまだある。あいつはキッチリした性格だから、自分が私の家にいたっていう証拠を残して消えるはずが無い。だから絶対帰ってくる。帰ってきたらおかえりって言ってぶん殴る。
「ただいま」
 とか考えてたら、至極あっさりと帰ってきましたよこのお姉さん。
「はい、お土産」
 そう言って渡されたのはペンギンのぬいぐるみ。
「それ取るのに時間が掛かったわ。あとお金も。まあ、お金は腐るほどあるからどうでもいいけど」
「ゲーセン行ってただけ?」
「ん? まあね。あ、連絡入れておいた方がよかった? 別にいらないでしょう。子供じゃないんだから」
 そういえば、そんなことを家に帰ってきた最初に考えったっけ。
「それよりもお腹すいたわ。ご飯まだ?」
「何にも作ってないよ」
「えー」
「いや、だって帰ってこないし。帰ってくるかも分かんなかったし」
「帰ってくるわよ。ついでに、当分の間いるわよ」
「あー、じゃあ、焼きそば、作るね」
「また焼きそば?」
「楽だし、すぐ出来るから。あ、あと杏仁豆腐買ってきたから」
「なによ。随分優しいわね。何か企んでる?」
「いやいや、そんなことはありませんよ?」
「……もしかして、寂しかった?」
「んなことねーし。死ねだし。ていうか、帰って来んなって思ってたし。そんな矢先だし」
「あらあら、そう。ふーん。へえ」
 うぜえ。やっぱこいつ帰ってくるなよ。どっか行けよ。なんで笑ってるの? 気持ち悪っ。



 焼きそばはすぐに出来上がった。もう得意料理の欄に書いていいレベルかもしれない。味は平々凡々だけども。
 マヨネーズをぶっかけ、ぐちゃぐちゃと混ぜて、テカテカと光るシャイニング焼きそばが完成した。ズルズルと吸い込む。うん、普通。お姉ちゃんもズルズルと吸い込んでいる。このあたり、食べ方がそっくりなのは双子故か。でも、精子違うらしいしなぁ。子宮一緒だからいいのかなぁ。
「あ、そうだ」
「早く食べましょう。お腹すいた」
 卑しん坊め。でも、知っておきたいから、聞かないと。
「何から逃げてるの?」
「逃げてる? 誰が?」
「お姉ちゃん」
「私?」
「えーと、敢えて言うなら、現実から? ちょっと変なこと言わせないでよ」
「誰かから追われてるんじゃないの?」
「何の話? 追われてないわよ。敢えて言うなら、受験に?」
 だから、変なこと言わせるなって、と怒られた。
 ありゃ? 勝手な私の思い込みだったのかな。姉御にも何度も言われたな。思い込みが激しいって。なんだ。そうか。別に追われてる訳じゃないのか。家公認の浪人なんだから、ある程度好き勝手やっていいのかもしれない。そこら辺の事情は知らない。
 お姉ちゃんは既に「いただきます」と焼きそばに手を付けていた。相当お腹すいてたようで、かなりがっついている。行儀の良い女だと思ってたけど、この家での食事の作法を見る限り、結構汚い。頬を膨らませて満足そうにモグモグしている姿は、小動物的にかわいい。
 そんな、おいしそうに私の料理を食べてくれているお姉ちゃんには悪いんだけど、もうひとつだけ聞きたいことがあった。
「あのさ。もう一個聞いていい?」
「もぐん?」
 モグモグしながら首を傾げたのを勝手に肯定と取り、話を切り出す。
「ババアってなんで死んだの?」
 やっぱ聞くのが一番手っ取り早いよね。私の発言を聞いて、口に入れた麺をモグモグ丁寧に噛んで、飲み込んで、コップのお茶を一気に飲んで、プハーっとオヤジ臭い仕草をした後に「私が殺した」と言った。
「え」
「凶器は冷凍マグロ。あれで頭をぶん殴った」
「なんでマグロ?」
「証拠が残りにくいと思ったから。食べちゃえば、凶器は無くなるでしょ?」
「まさか?」
「うん。あんたと食べたマグロでお祖母様を殴り殺した」
「うえ」
 途端に気分が悪くなった。胃の中にあいつの血液が入って、今も現在進行形で私の身体を駆け巡ってることが気持ち悪い。
「いや、冗談よ?」
「……分かりにくいから。あんたの冗談は本当に分かりにくいから。真顔で言うのやめて」
「警察、なんて言ってた?」
 やっぱり起きてたんだ。狸寝入りとかお姉ちゃんらしいわ。
「知らない。何も聞いてない。二度と来んなって言っておいた」
「そう」
「で、お祖母様はなんで死んだの?」
「殺された、みたいな?」
「マジで?」
「うん、まあ」
 色んな方面から恨みを買ってそうな感じだし。遺産争いとかもあるだろうし。いつ誰に殺されてもおかしくない人物ではあったけどねぇ。一応肉親なわけじゃん。殺されたって聞くと気分は良くないよ。
「お姉ちゃんは誰が殺したと思う? 私はねー」
「うーん。ていうか、やめない? せめて、これ、食べ終わってからにしましょう。食事しながら殺されたとか死んだとか、そんな話したくない。食欲無くなる」
「やー、めんごめんごー」
 それから、私達は食べ終わるまで無言だった。食べ終わっても、その話を切り出す気持ちになれなかった。
 今日も私はお風呂の掃除をする。台所の洗い物はお姉ちゃんに任せた。
 さて、誰が、あのババアを殺したか。理由は何か。泡が下に落ちるまでが思考時間。理由は、きっと簡単だ。憎かったんだよ。恨みを買うのには天才的な家系のトップなんだから。内部犯だとしたら目障りだったとか。いや、こっちのほうがしっくりくるな。流石に外からムカツクからと言ってわざわざ老い先短いお婆さんを殺しに来るようなバカはそうはいないように思える。死んでから言ってやればいいんだよ、私みたいに。ざまあみろって。じゃあ、やっぱり家の中の人物だろうけど、ぶっちゃけ、私、あの家の人の名前と顔、全然憶えてないんだよなぁ。トラウマな訳だし。脳みその自己防衛機能がどうたらで、詳しい記憶はどっかにいってしまったとかいう話。所謂、普通だった私の死亡。そして、今の私になった。だから、恨みとか辛みとか、あるにはあるけど、分かりやすい憎しみのシンボルとして、あの婆さんとお姉ちゃんのことは憶えていただけであって、私の肉体に直接調教を施した実行犯のほうはてんで憶えていなかったりする。
 うーん、じゃあ、考えるだけ無駄か。やーめーたー。
 シャワーで泡をさっと洗い流した。



 その夜も当たり前みたいに、二人で一緒にお風呂に入って、二人で一緒のベッドに潜り込む。
「もうそろそろ、布団買ってこれば?」
 心にも無いことを言う。溶けるみたいに、混ざるみたいに、元々は一つだったみたいに。こんなに気持ち良く眠りにつけることを知った今、これをやめるなんて出来ないし、きっとお姉ちゃんも同じ感覚を味わってる筈で。
「こうやって一緒に寝ればいいじゃない」
 だから、絶対にこう答えると思っていた。
「ずっと?」
「うん、ずっと」
 ずっとこうやって眠りたい。だから、私の安眠を妨げようとするものは全て排除する。絶対に邪魔させない。



 朝陽が昇る前の時間。朝と夜の境目に私は布団から這い出た。佳奈多はまだ眠っている。
 簡単に着替えを済ませて家を出た。春だっていうのに、吐く息は白くてまだ肌寒い。とりあえず、缶コーヒーと肉まんを買おうと思って、近くの喫茶スペースのあるコンビニに立ち寄った。いらっしゃいませも聞こえない。この時間のコンビニ店員のやる気の無さはすごいと思う。欠伸をひとつ。店内には私以外客はいない。ホットの朝専用缶コーヒーを手に取りレジに行くと、バックヤードから、監視カメラを見てたであろう店員が眠そうな緩慢な動きで対応してくれた。肉まんも頼んだ。あ、袋はいらないです。ありがとうございました、と小さな声で呟かれた。感じが悪い。喫茶スペースを使うのが嫌になって、店を出た。
 店の駐車場の縁石に座り、缶コーヒーのプルタブを開ける。一口飲んで、身体の熱を取り戻す。それから、ポケットから携帯を取り出して、電話帳を開く。ディスプレイには『姉御☆』の表示。そのまま通話ボタンを押して、無機質な機械音がスピーカーから漏れてくる。こんな時間に電話をかけるなんて非常識すぎるけど、昔の行いを考えればそれも許容範囲だよね、イエイ。それにあの人、時間なんて超越したような存在だから許してくれるでしょう。
『朝早くから電話をかけてくる馬鹿者は死んでくれ。三枝葉留佳とかいう人間はこの世から存在ごと消え去ってくれ。一生かけてくるな馬鹿』
 プツン。ツーツー。
 全然許してくれなかった。
 肉まんを食べて、今度は腹を満たす。仕切りなおしてもう一度電話をかける。今度は失敗しない。私の安眠が懸かっているのだから。
『これは警告だ。次かけてきたら着信拒否だ。あと、貴様の戸籍はもう無いと思え』
「わー待って姉御! 切らないで! お願い! 話を聞いて!」
『いやだ』
「一生のお願い。なんでもするから。私を好きにしていいから!」
『魅力的な提案だが眠いから無理』
「えー」
『えー、とか言うな馬鹿たれ』
「なんかノリ悪くなーい? そんなん姉御じゃなくなーい?」
『鬱陶しい……。が、なんだか懐かしい気分だよ。言っても卒業してそんなには経ってい無いけどな。いいさ。もう目も覚めてしまった。要件を言え』
「流石姉御! 愛してる!」
『あ、あと、この会話は録音しているから、そんなこと言ってない、なんて逃げ道はないからよろしく』
「げ」
『好きにしてもいいんだよな?』
「いいよ。但し、私の頼みが聞けたら、って条件だけどね」
『私に出来ないことなんてあると思うか?』
「思わないよ。だから、姉御に電話した」
『はっはっはー。楽しいな葉留佳くん。なんだか楽しくなってきたよ。言ってみろ』
「私のお祖母ちゃんを殺した人、教えて」



 電車に乗る前に、電話しなければならないところがあった。改札を通る前にピポパとコール。
 勿論、勤め先なんだけど。言い訳……、なんて考えるまでも無いか。
「もしもし、あ、どうもー。新人の三枝ですー。あ、おはようございますー。あのですねー、ちょっとですねー、あの、親戚に不幸があったんですけど、あ、そうです、祖母です。え? あ、はい。ありがとうございます。また、ちょっと様子を見てから連絡しますんで。ありがとうございます。失礼します」
 はい、オッケー。嘘はついていない。確かに親戚に不幸はあったんだよ。ちょっと前だけどねー。
 切符を買って、改札を抜ける。人混みが嫌いだから、よっぽどのことが無い限り電車は使わない。ちょうど時間は通勤ラッシュのピークでどうしようもない混雑具合で、一度喫茶で時間を潰す事にした。
 半分も人の入っていない店。週刊誌を手に取り、店の一番端っこの席に座る。店員が注文を聞きに来たので、アイスココアを頼んだ。おしぼりで手を拭く。ブルッと尿意。お手洗いに行こうかなと思ったが、場所が分からないので、店員に聞くと「向こうですよー」と丁寧に教えてくれた。深夜のコンビニ店員とは大違いだ。化粧なんてせずに来た。スッピンそのままだったので、用を足した後、手洗い場で顔を水洗いした。プハァとスッキリシャッキリ。ああ、髪ボサボサだ。目の下のクマも酷い。かわいい顔が台無しだよ。さっき貰ったおしぼりで顔を拭く。顔を両手でパンッと叩く。ほっぺたがピンク色に染まる。チーク代わりだ。かわいい顔してるぞ葉留佳。
 テーブルに戻ると生クリームがたっぷりと乗ったアイスココアが届いていた。右手に持ったスプーンで生クリームを全部掬って口に入れる。左手でコップを持って、一気に喉にアイスココアを流し込む。ゴクゴクと喉が鳴る。ガンッとテーブルにコップとスプーンを叩きつける。マナー悪いな私。つーか、いてー、後頭部マジいてー、かき氷一気食いした時レベルにいてー。でも、うめー。癖になるわ、これ。
「ご馳走様!」
 叫んだ。



 チャイムを鳴らすとインターホンからすぐに「どちら様ですか?」と声がした。「葉留佳です」と一言。
 家の中からドタバタした音が聞こえる。玄関の扉が開いて、何故かハアハア言っている母親が出てきた。
「いらっしゃい!」
「どもども」
「とりあえず、中に入って。ああ、でも、どうしよう。急に来るからお菓子も何も用意できてないわ。あ、お茶も切らしてる。ああ、死のう」
「いや、死ぬなよ」
 やっぱり頭のゆるい母親だった。
「何にもいらないよ。ちょっとお母さんとお話がしたかっただけ」
「葉留佳……。愛してるわ……」
 とか言って外だっていうのに土下座してるみたいな体勢になって号泣しだした。普通に困るんですけど。「うわーん!」と泣きじゃくる母親を無理矢理立たせて家の中に押し込む。こんな姿見られたら、ご近所に勘違いされそうだ……。
 居間まで母親を引きずって連れて行く。以前お姉ちゃんと一緒に来た時に談笑した大きめのソファに座らせて、わたしも横に座る。まだ嗚咽を漏らす母親にティッシュを三枚渡す。チーン、と鼻をかんで、使用済みのティッシュを私に渡してきた。
「いらないよ! ばっちぃ!」
「あ、ごめんね。汚い母親で本当にごめんねうわーん!」
 うわぁ、扱いずれぇ。とりあえず、母親が落ち着くまで隣で背中をさする。なんだか本当に親子みたい。
「ありがとう葉留佳。もう大丈夫」
「うん。それは良かった」
 なんか拍子抜けしてしまったな。
 それから、また前みたいに雑談をした。焼きそばが得意料理なんだってこととか、マヨネーズの黄金比とか、お姉ちゃんの堕落っぷりとか。お母さんも料理の話とか、独自開発に成功したスーパーマヨネーズとか、お父さんの無職っぷりとか。そんなことを二人で笑いながら喋った。夢中で喋る。本題に入ることを拒否するように、どんどん横道に逸れて行く。何も考えずに、馬鹿みたいな話で馬鹿みたいに笑っていればそれでいいんじゃないのかな。ダメなのかな。いいよね。それでいいんだよ、きっと。無理に壊すことはない。隠していることを掘り返して、それでどうなる。
 私はゆっくりとぐっすりと眠りたいだけなんだ。真実なんてどうでもいい。
 窓から西日が差し込んできた。「夕陽が綺麗だね」なんて呟いてみる。お向かいのマンションでそんなもの見えないのに。「そうね綺麗ね」と隣から囁かれる。「そうだよね」「そうだね」「じゃあ、帰るよ」「また、いらっしゃい」「うん」「佳奈多によろしくね」「うん」「ねえ」「なに?」「葉留佳はどう思ってる?」「何を?」「今の生活」「悪くないね」「それはいいことだね」「いいことだよね」「今度来る時は、連絡ちょうだい。何か用意しておくから」「ありがとう。バイバイ」「うん。バイバイ」



 家に帰ると、香ばしい匂いがした。
 台所まで行ってみると、お姉ちゃんが一所懸命にフライパンを使って料理を作っていた。
「おかえり」
「どもども」
「もうすぐ出来るから」
「うん」
 言われるがままに待機の姿勢。ちゃぶ台の上の少し萎れたガーベラと、姉のプリップリしたお尻を眺めながらご飯を待つのも乙なものだなぁ。
「葉留佳。ラー油どこ?」
「ラー油は無いけど、何に使う気?」
「焼きラーメン」
「何その謎の料理」
「今流行ってるのよ。知らないの?」
「知らんわ」
「葉留佳。ソースどこ?」
「あるけど、それに使う気?」
「文句ある?」
「ある」
「じゃあ、醤油」
「私が作る。もうお姉ちゃんは台所入らないで。食材が勿体無い」
「えー。やっと調子出てきたのに」
 なんの調子だ。頼むから余計なことしないでよ。めんくさいんだから。
 私が台所まで行ってもお姉ちゃんは、どこうとはしなかった。結局、二人で並んで立つ。ダンボールからインスタント焼きそばの袋を二個、取り出す。
「あんた、どれだけ焼きそば好きなの? ダンボールごと買うなんて異常よ。異常」
「なんでもぶち込めばいいと思ってるあんたよりかはマシですよ」
「じゃあ、あんた焼きそば作りなさい。私は焼きラーメンを」
「だから、やめろっつーの!」
 無理矢理台所から追い出す。フライパンの上では佳奈多特製焼きラーメンが禍々しいオーラを放っていた。気になって一口味見してみるとめちゃくちゃ不味かったので、即行で三角コーナーに捨てた。「何すんのよ!」うるさい黙れ大人しく私の焼きそばを待ってろ。あんたはずっとそうやってのんびり怠惰に過ごしてればいいんだ。一生浪人生やってればいいんだ。私に養われてればいいんだ。
 私の抱き枕として、ずっと側に居れくれればいいんだ。
「今度はリベンジ焼きラーメンを」
「作るなアホ」
 ガーベラの花びらがヒラリと落ちた。


[No.708] 2010/03/18(Thu) 23:35:46
二次元 (No.682への返信 / 1階層) - 秘/2272byte


 俺はいつも通り一仕事を終えて家に戻ってきた。だが、でかける時に玄関の鍵を閉めていたはずだけど帰ってきたときには閉まってなかった。
 何か嫌な予感が走り、玄関へ入ると知らない靴が一つ。そして部屋に入るとそこには理樹が座っていた。部屋がなんだか綺麗になっている。
「おかえり、恭介。久しぶりだね」
 靴の人物が理樹だったことに安心はしたが、その理樹からは変なオーラが漂ってるのを感じる。
 しかし、理樹が俺の携帯に連絡しないで来るのは意外だったし、どうやって入ったのかも不明だ。
「おう、そうだな……ところでなんで理樹がここにいるんだ?」
「うん、言いたいことがあってね」
 そこで理樹は咳払いをしてから話始めた。
「恭介、これをみてどう思う?」
 そう言って理樹が取り出したのは……
「すごく……大きいです……」
「そういうのはいいから」
 なんかすごく不機嫌そうだな。
「とにかく。このゲーム、DVD、漫画、本、全部恭介の物?」
 そう言って理樹が俺に見せてきたものは俺が買ったエロゲー、ギャルゲー、アニメDVD、漫画にラノベ。どれを見ても可愛い少女たちが俺に微笑んでくれている。ああ、やっぱり彼女たちは変わらない。
「ああ」
「わかってる? これは全て絵だよ?」
 理樹は俺に見せて来た彼女たちを更に強調させながら言った。
「そうだな。それがどうした?」
「絵をずっと見てて悲しくならないの?」
「あのさあ、これは全て絵と言っているが当たり前だよ。それは絵だよ。誰にでもわかる」
「じゃあなんで絵にうつつを抜かしているの?」
 理樹のこうした問い詰めにも少しだけ慣れたもんだと思っていたが、こうしつこく彼女たちのことを口出しされてちゃかなわない。そして、さっきから俺の中でぐるぐると渦巻いた何かが爆発した。
「それじゃあさ例えば、どこかの雑誌のアイドル写真があったとしても、これはただのインクの集合体なんだ、と言ってるのと同じなんだよ。また人間を指差して肉の塊だと言ってるのと同じなんだよ。アニメも漫画も全て絵だ。でもただの絵だからって好き、という感情を抱くのはだめなのか? 好きになるのは人格としての彼女なんだ。絵だとか現実だとか、そんな構造はどうでもいいんだよ」
 俺はそう言い切った。だが理樹の様子をうかがってみると、俺を見る目が更に冷たくなっているように見えた。
「うん、そっか。分かったよ。もう、僕の知ってる恭介はいないんだね………」
 理樹はそう言い残して彼女たちをテーブルの上に解放し、静かに玄関から外に出て行った。

「ふぅ……」
 それを見送った俺は静かにため息をついた。
 テーブルの上に座った彼女たちを眺めて、そういえば理樹はなぜ俺の家に来たのだろうか、と今更疑問に思った。


[No.709] 2010/03/18(Thu) 23:44:37
苦手な食べ物の克服の仕方 (No.682への返信 / 1階層) - ヒミッ:3532byte

 今、僕は大ピンチだった。
 それが何かと言うと、今日の食卓の中に納豆が並んでいるからだ。そして僕はその納豆が苦手だった。



 苦手な食べ物の克服の仕方



 ……どうしよう。僕は納豆が大の苦手。でも鈴にはそのことを言っていないし、知ってるはずもない。今になってここで言うのも恥ずかしい。
 他に並んでいる物を見てみよう。
 ご飯、味噌汁、魚などの和食が並んでいる。でも目を配らせるとそこには納豆。ねばねばと僕のことを睨んでいる。
 嫌だ。食べたくない。でも鈴に言いたくない。恥ずかしい。納豆が食卓に並ぶことはこれが始めてだ。もうどうしようもない。食べないという選択肢は出来ない。残したら鈴にその事をねちっこく怒られて蹴られて無視されたりして、僕の娯楽も一ヶ月間禁止になる。
 辛い事も乗り越えることができた僕だけど、納豆だけは嫌だった。今、この世から消えていいと思えるのはゴキブリと納豆だ。
「おい、理樹。表情が暗いぞ」
「あ、ああ。うん。大丈夫だから大丈夫だから……」
 汗が少し滲み出てきたかもしれない。ネチャネチャクチョクチョ、とさっき聞こえていたのはこいつをかき混ぜていた音が正体だった。嫌な臭いを醸し出している茶色い粒がねばねばと糸をひいて椀の中でひしめいている姿は僕にとっては強烈で食欲も少し失ってしまう。
 テレビの音声ではタレントたちが呑気に大声で笑っている。
「理樹はなんでそんな納豆をみつめてるんだ?」
「あ、ああ。うん……め…珍しいな、と思って」
「そうか。結構安かったからな」
 やっぱ普段から買い物をすると安いのには弱くなるのかな。と、どうでもいいことを思っていた。けど、問題は僕の目の先。こいつをどうしようか迷っていた。
「そうなんだ……」
 弱った小動物みたいに声が小さくなって行ってるのが自分でも感じ取れる。今、怒鳴られたらすぐにでもごめんなさいを連呼して謝ってしまいそうだ。
「ねえ…ちょっと具合が悪いからあまり多くは食べれないなぁ……なんて」
「アホかっ! 具合が悪いときこそちゃんと食べなきゃ更に悪くなって行くぞ!」
 少し、大声で言われてびくんっ、と体が揺れてしまった。
「そっか…そうだよね」
 ごくりと、僕が息を呑んだ音も鮮明に聞こえる。そして、心臓の音もドキドキと鳴り続ける。
 そして、食卓に夕食が並び終わった。
「よし、それじゃあいただきます」
 その鈴の声が少し遠くに聞こえた。そして、これは避けられない運命だと僕は悟った。
「い、いただきます」
 嫌だ……と叫びたかった。
 だけど、そんな声が無意識に小さく漏れてしまって鈴の耳に届いてしまった。
「理樹? 何が嫌なんだ?」
 もう、正直に言おうと思った。ここで変に誤魔化しても駄目だというのは分かっていた。
「納豆が、嫌いなんだ」
「ちゃんと食え」
 鈴は残酷にもそう言いのけた。
 その言葉を聞いて僕は少しずつ呼吸が乱れて行く。大嫌いな納豆を食べない結果が、蹴られたり怒られたり無視されたりして趣味にも没頭出来なくなり、食べた結果がそれらがない生活だ。そんな葛藤があった。
 次第に目眩もプラスされることになって視界がぼやける。そして、手に持っていた箸の先も見えなくなる。
「ほんとに大丈夫か?」
 鈴はそんな僕を心配してくれたけれど、もう覚悟を決めなければならなかった。
 だけど、返事をする力がなく、頷くだけしか出来なかった。
「わかった」
 鈴はそう言った。でも、頭が回らなくなった僕は鈴がなにを分かってくれたのか、理解出来なかった。
 僕はそれを考え込んでいたとこで残しても許してくれることになったのかな、とそんな淡い希望の答えを導き出した。
「理樹、こっち向け」
 声がした方向に顔を向けてみると、鈴は僕の横にいつの間にか移動してきているのに気づいた。
「口あけろ」
 言葉通り口を少し開いてみた瞬間。
 僕の顔は鈴の両手で挟まれて、その後すぐに口づけをされた。なにが起きているのか、理解をするのが遅れた。
 そして、鼻腔をくすぐっている鈴の匂いと共に、口づけをしている柔らかい鈴の口から何かが僕の口に移された。それがなんなのか分からないまま飲み込んでしまったけど、なにかの食べ物だったのは分かった。
 鈴はしばらく、手も口も僕から離してくれなかった。



 ――鈴が口移ししてくれた物が納豆だと知ったのはそのすぐ後のことだった。
 


[No.710] 2010/03/18(Thu) 23:50:32
友へ贈るの詩 (No.682への返信 / 1階層) - ひみつ@13266byte

 ともだちってなんだろう

 一緒に笑ってくれる人

 一緒に泣いてくれる人


 仲間ってなんだろう

 並んで叱られてくれる人

 私を叱ってくれる人


 親友ってなんだろう

 絶対ケンカをしない人

 お互い許し合える人


 ともだちってなんだろう

 一緒に遊んでいたい人

 ずっと一緒にいたい人

 「がんばれ」って言いたくなる人

 応援していて欲しい人


 ともだちってなんだろう。



 ――『ともだちってなんだろう。』 著 作者 数学ノート 5p 2007








 三枝は目を見開いて、俺を見つめ返してきた。
 夕暮れに染まる顔。静まり返った教室で、彼女の息遣いだけが聞こえた。
「もう一回、言って」
「え?」
「もう一回!」
 感極まったように目に涙を浮かべ、俺にすがり寄ってくる。
 あまり、何度も口にしたくない。
「お願い……」
 ぎゅっと制服の裾を掴まれる。
 仕方なしに息を吸い込んで、気づいた。心臓の鼓動が聞こえる。俺の心臓だった。こんなにも俺の胸は高鳴っていたのか。
「――三枝」
 唾を飲み込んでみても、喉のつかえは収まらない。乾いた口から、それでも声を出す。
「お前のルート、カットで」





 友へ贈るの詩





 涙腺崩壊な三枝をなだめてすかして無駄だったから、とりあえずミカンを与えた。
「皮にリラクゼーション効果があるらしいぞ」
 捩じ込んでやる。
「にがっ!」
「それがいいんじゃないか?」
 柑橘汁を口から溢す三枝に、優しく噛んで含んで教えてやった。
「だってお前、全然理樹とくっつかねえんだもん。ぜってー脈ねーよ諦めろ」
「そんな殺生な!」
 もう食べ終わって涙目で抗議してくる。
「だってこれ何回目だよ。脱いでも無理だったじゃん」
「私だって心の傷を癒して貰いたいんだい! あわよくばネンゴロになってリア充気分を満喫したい!」
「それが無理だってんだよ」
「無理じゃない!」
「無理だ!」
「約束したじゃん!」
「何年前だよ! 覚えてねーよ時効だよ!」
 不毛な争いだった。
「なんでそんなに終わらせたいんデスカ?」
 再び涙目なのでミカンを再準備する。
「じゃあお前、鈴困らすネタ、代わりに考えてくれよ」
「そんなん無理、あの子不惑の貫禄だもん、ドラフト特集で山本昌二世って言われてたし」
「不惑ってか米寿も近いが。お前のせいだろ」
「転校とかさせればいいじゃん。転校させたんだっけ?」
「終わったよ。予定繰り上げたよ。カウンセラーの先生もびっくりだよ」
「もっとシッカリしてよ!」
「だからお前のせいだろ!」
 言い切るが早いか、教室の引き戸が開く。
「……あら? うふふ、お邪魔しちゃったかしら?」
 ついつい二人で固まってしまう。鈴が隙間から顔を出してにっこり微笑んでいた。
「鈴ちゃん……」
 ぐびりと三枝が唾を飲んだ。
「何の用だよ!」
 声を荒らげてみるが鈴は無視して、
「ごめんなさいね、気がつかなくって。お茶請けでもあれば良かったんだけれど」
「あ、いえ、お構い無く」
「うふふ、いつもきょーすけのカスと仲良くしてくれてありがとね」
「いいからもう出てってくれよ!」
「はいはい。それじゃ、あたしはこれで」
 三枝に会釈して、廊下に引っ込む。
「……エントリーシートは書いたの?」

 ピシャッ。

「無理だろ」
「いっそバス事故ばらしちゃったらどうですかね?」
「理樹とおんなじ墓に入れたら幸せって言ってたぜ、ってかそれお前やっぱ要らないじゃん」
「最近野球の勧誘以外じゃ全然話さないからよく分かんないんですが、理樹くんはどうなんですか?」
「鉄道模型に凝ってるよ」
「この歳でそれはドン引きですネ」
「だからもういいだろ、諦めろ」
「それとこれとは話が違う、理樹くんとネンゴロになりたい」
「だったらなんか考えろって。あいつらに一杯食わせてやれ」
「なんか私怨っポイですけどそうですね。あんまり酷いこと思い付かないんですが、例えばみんなしてやれば出来るよガンバレガンバレってのはどうでしょう」
「精神攻撃考えてどうすんだよ」
「じゃあ恭介さんが考えてよ!」
「俺は終わらせりゃいいんだよ」
「ゴメンナサイ、ミカン出さないで!」
 ふう。
「じゃ、じゃあ理樹クンを苦境に叩き込めば鈴ちゃんも困るんじゃないですかネ?」
「苦境?」
「イメージして下さい。イマジン。自分の愛する人が自傷、被害妄想、希死念慮」
「お前じゃん。ご両親に謝れ」
「そんな設定ないよ! 誰が謝るかバーカバーカ! ……あっ、あっ、ミカンらめえ!」
「いやあ似たような話ばっかで混同しちゃうんだよなあ」
 ぐりぐりぐり。
「だが理樹の苦境を鈴の苦境に置き換えるという発想はアリだ」
「でひょでひょ」
「なんか考えろ」
「そうですネ、では……」



  ◆



 休日の朝6時のことである。
「はろーリキー」
 庭木の手入れに精を出す理樹のもとにクドが歩み寄って行った。
「おはようクド。今日もいい朝だね」
 剪定バサミの手を止めて、首にかけた手ぬぐいで額の汗を拭う。
「ちょっとお時間よろしいですかー?」
 そう言ってクドがにぱッと笑う。


 草葉の陰的なポジションから二人を見守る。
「おお、自然自然。上手くやるじゃん」
「クド公使わせたらはるちんの右に出るものはいないですヨ」
 言いながら顔の前で忍術の印を結ぶ仕草をする。
「で、ここからどうすんだ?」
「まあ見てて下さい」


「理樹はなんで野球やってるんですか?」
「え? ははは、いきなり難しいことを訊くなあ」
 花壇の縁に腰掛けて、理樹は青空を見上げる。
「やっぱりさ、人っていうのは、鉄道みたいなものなんだよね」
「ほーほー。らいく・あ・あいあんろーど! ですね!」
「よく『他人の敷いたレールみたいな人生』って言うだろ? だけどね。僕はそんな人生が羨ましいと思うんだ。レールっていうのは鉄だから、温かかったら伸びるし、寒かったら縮む。でも、絶対に歪まない。それはね、沢山の人が技術や知識や、もちろん労力や、たくさんの実験、たくさんの時間をかけて、安全に電車が運転できるよう工夫しているからなんだよ」


「なげーからカットしろ」
「私に言わないで下さいヨ……」


「つまり駅から駅へ、ずっと繋がっていくものなんだな。鉄道っていうのは。人も同じさ。誰しもが駅だし、誰もが駅と駅とを繋いだレールなんだよ。僕は野球を通じてさ、みんなとのレールの繋がりを強くしたいと思ってるんだ」
 理樹は話し終え、照れたように笑った。
「つまらない話をしてしまったね」


「いいですかー。ここからこうやって……」


「でも私たちって卒業したらお別れですよね」
「え?」
「野球なんて糞長ったらしい球遊びじゃなくって、もっと建設的な交流法もあると思うのですが」
「あはは、確かにそうかもね」
「さっきの鉄道のお話も、駅じゃなくて新幹線とかの方が立派じゃないですか? 誰も褒めない何も産まない人生じゃないですか。不毛ですよ。大体今は航空機の時代です」
「……」
「みんなと仲良くするのが人生で一番大事って、何も作れないつまんない人生をコジつけて誤魔化してるだけなんじゃないですか?」


「てめえ!」
「ぶわっ! いきなりなにすんですか!」
「さっきから黙って訊いてりゃいい気になりやがって!」
「痛い! 痛い! 女の子殴ってなにが楽しい!」
「ちょ、恭介なにしてんのさ!?」
「理樹、お前も殴れ!」



  ◆



「さて、失敗したから次の作戦を考えよう」
「誰が失敗させたんだか」
「今日はザボンの一種を用意しました」
「でかっ!」
「果汁たっぷりで嬉しいだろ?」
「食べません!」
「なんならウナコーワクールでもいいんだぞ」
「すみません、考えます」
「大体あんなん成功するわけないだろ」
「誰が失敗させたんだが」
「おっ、これ皮ブ厚いぞ」
「すみません、考えます」
「それでいい」
「そうですネ……では非常手段なのですが、アレを使ってみましょう」
「あれ?」
「はい、こちらに悪名高いハンガリー政治警察が使っておりました自白剤があります。アモバルビタールナトリウムと呼ばれている薬剤なのですが、こちらとレセルピンを繰り返し投与致しますと」
「却下」
「なぜ!」
「自分の胸に聞いてみろ」
「むう」
「……ちなみにどうなるんだ?」
「精神障害が誘発します」
「追試してみようか?」
「ヤですヨ!」



  ◆



「そんなこんなで今回も終わってしまいました」
「ました」
「お前言っとくけどな、終わるたび俺は這いずり回ってるんだぜ」
「そうなの?」
「最近ガソリンタンクの修理を諦めた」
「わお、救急車呼べ!」
「これホントに燃えるか試していいか?」
「さっきから危険な遊び大好きですネ」
「そろそろ飽きたよ。早く終われよ。つーか理樹もいい加減気づけよ」
「ここではるちんの出番かっ!」
「もういいから押し倒すなりなんなりして終わってくれ」
「私のトラウマは!?」
「お前ネンゴロになれたら身も心も満足とか言ってたろ」
「一ヶ月前の話なんて覚えてませんヨ」
「じゃあお前のトラウマってなんだよ?」
「そりゃあれですよ、ホラ……それじゃ次はアレ行きましょう」
「おーおー、早くしろ」
「人は誰でも、もうひとつの人生を歩んでみたいと思うものです」
「残念な人生だったな」
「憐れむな!」
「まあそれで?」
「CIAの裏技に、新しい身分を保障するから遺書を書けというものが」
「殺してどうすんだよ」
「ですよね」
「そんなにスパイ好きか」
「恭介さんのレベルに合わせてあげてるんですよ」
「そんなにミカン好きか」
「もう恭介さんが鈴ちゃん襲えばトラウマになるんじゃないですかね?」
「だからなんで俺がやんなきゃいけないんだよ。お前がやれ」
「だって、怖いし……」
「ウザい上にメンドクサイ」
「酷い!」
「きょーすけさん、そんなこと言っちゃめっ、ですよ。はるちゃんに謝って下さい」
「小毬はいいよな、日がな一日菓子食うだけだし」
「そーだそーだ! ちっとは節制しろー!」
「もういいからポッキー食って寝ろ」
「このゴクツブシ! 減らないけど!」
「ふ、ふえええっ!?」



  ◆



「なんだってお前そんなトラウマ克服したいの? 十中八九死ぬんだが」
「理樹くんとネンゴロになりたい!」
「お前の精神が失調してるように見える」
「なんでそんな酷いこと言うんですか」
「いい加減疲れた……」
「二人でも幸せに暮らせるように。初心を忘れちゃダメですよ」
「ここからまた60年とか生きるのも憐れじゃないか」
「他人の幸せは測れません」
「お前が不幸なのは分かる」
「憐れむな!」
「で、なんか考えろよ」
「恭介さんの就職がなかなか決まらない」
「俺を苦しめてどうすんだよ」
「いやあ、鈴ちゃんの心労も相当だと思いますよ」
「そんなことないぞ」
「氷河期・高卒・危機感ナシ」
「黙れ!」
「とにかくやろうよ。ほら、さん、はい!」



  ◆



 6月頭の雨の降る日曜日だった。
「恭介くんを応援することはできません」
 進路指導の社会科教師はそう言って窓際に立ち、降り続く雨を眺めていた。ポケットの上から煙草の箱を二、三度なぞり、こちらへ向き直ると忌々しげにため息を吐いた。
「先生。なんとかなりませんか?」
 鈴の呟きが、静けさを縫って部屋に響いた。
「なんとか、と言われましてもねえ」
 教師はパイプ椅子に深く腰掛け、俺に胡乱な目を向ける。
「こう、本人に危機感がなくっちゃ」
「まあなんとかなりますよ」
 俺は答える。教師がまたヤニ臭いため息を吐く。
「こら恭介、真面目になさい!」
 鈴が俺の肩を小突く。
「なあ棗。現実問題として、お前このままじゃどうにもならんぞ。妹さんに心配かけて、恥ずかしくないのか」
「まあなんとかなりますよ」
 鈴が息を飲む音が聞こえた。分かっていても背筋が冷えた。
「この通り、私の方から言う事はありません」
 言い残して、教師は指導室を出て行く。
 鈴はしばらく立ち上がれないでいた。
 それから鈴は二日二晩泣き明かし、理樹は鈴の肩を支えながら、含みありげに俺を眺めるだけだった。

 お前らのためを思ってやってるのに!

 声に出せないフラストレーション。
 俺は漫画に没頭した。幸い漫画はタダで読めた。
 ある日のことであった。俺が部屋へ帰ると、どういう訳か鍵が開いていた。不穏なものを感じて、ドアを開く。入ってすぐ目に入る本棚が、全て空になっていた。目を真っ赤にした鈴が、部屋の中央に立っていた。
「お前のためを思ってやってるんだ」
 鈴は言った。
 気がつけば俺は、下駄箱の脇に立てかけられた靴べらを手に取り、鈴に振りかざしていた。
 それだけはダメだと思っていたのに。
 一度手を出してしまえば、あとは転がるようだった。鈴はニーソックスを履いて肌を露出しないようになった。
「あれあれ鈴ちゃん、ニーソックス派に転向ですか? やっぱニーソだよね! でもはるちんの先発明主義的既得権益は渡さんぞー!」
 三枝の言葉に、鈴は力無く笑うだけだった。
 鈴は一転大人しくなった。
「あたしが養ってやるから、恭介は遊んでていいぞ」
 その夜、俺は初めて鈴の顔を殴った。
 たまたま遊びに来ていて、止めに入った理樹も殴った。殴って殴って殴り続けた。こんなにも愛おしい二人を殴る、俺の心も痛んだ。フライパンのグリップを握る手のひらも痛かった。今まで俺の心も痛かった。だから二人も痛みを知るべきだと思った。殴って殴って殴り続けた。
 殴り疲れて、俺は言った。
「これがテメエらの人生だ! ざまあみろ!」
 翌日二人は俺の前に姿を見せなかった。
 二人は過酷に耐えかねて、ついに逃げ出してしまったのだった。



  ◆



「目論見通りでした」
「マジで殴ってましたよね」
「俺が二人を本気で殴ったりするわけないじゃん」
「信用できません、猫とか殺すの余裕ですし、てかこれダメじゃん! もうおしまいじゃん!」
「今気づくなよ。俺は今気づいたが」
「ダメじゃん!」
「まあいい、早いとこ終わろう、あとお金の問題突きつけて予定終わりだから」
「私のトラウマ!」
「もういいじゃん、真人とか謙吾とか最近見ないし、小毬とか太らないのをいいことに食っては惰眠をむさぼる人生だし」
「ふええっ、貪ってないよ〜」
「ウザいですネ」
「な、なんかふたりとも酷い〜」
「まあいいや、おまえのトラウマってなによ?」
「……親のこと」
「家庭の事情は家庭内で片付けろよ」
「そんな奴ばっかだから無理心中が!」
「ああ、はいはい。生き残れたらなんとかしてやるよ」
「そんな殺生な! はるちんのトラウマ! 解消! 小人さん!!」
「ああそうだ小毬、絵本書き直した方がいいんじゃないか?」
「ほえ?」
「小人の人数減らしとけ」
「んー?」
 小毬は唇に指を当てて考える。
「これでいいんじゃないでしょーか?」
「こまりんまで!」
「はるちゃん、もうずーっと楽しかったでしょ?」
「……うん。ずっと楽しかった。トラウマなんて忘れてましたヨ」
「真似すんな! 忘れてないよ! 忘れられるトラウマってなんだよ!」
「じゃあもう分かったよ……万一、生きて帰れたら俺が全部なんとかしてやんよ」
「さっきも言った!」
「不満か? だがもうどうにもならんぞ」
「……わかりましたよ! もういいですヨ! 実際私もどうせ覚えてませんよ! 半世紀前だぞ! 覚えてないよ!」
「うし、じゃあそういうことで」
「化けて出てやる!」
「世の中には化けて出たくても出られない連中がいっぱいいるんだぞ。あー、そう考えれば相当ラッキーだったな」
「私は不幸だ!」
「俺はラッキーだ。就活も仕事もしないで遊び放題だぜ」
「……まあ、この楽チン覚えちゃったら困りますよね」
「うんうん、私も食べて太るのやだ〜」
「いやあ、ラッキーだった。はっはっは」
「あっはっはっはっは」


[No.711] 2010/03/19(Fri) 00:01:22
しめきり (No.682への返信 / 1階層) - 大谷(主催代理)

しめきり

[No.712] 2010/03/19(Fri) 00:28:09
ハルカナデシコ七変化 (No.682への返信 / 1階層) - ひみつ@5439 byte

 葉留佳さんが包帯を巻いて学校に来た。
「直枝くん」
「なんでしょうか」
「これ、司令に頼まれたから」
「あ、僕の生徒手帳。司令って誰?」
「棗司令」
「あ、うん。そうか。恭介と一緒にアニメ見たんだ」
「私が死んでも代わりはいるもの」
「ごめん。意味わかんないから。死ぬの?」
「直枝くんの匂いがする」
「え、なに? 臭いって批判?」
「私とひとつになりたい?」
「いえ、別に。めんどくさ。あ、恭介、丁度いいところに来た。この葉留佳さんなんとかしてよ」
「問題無い」
「めんどくさ」



 葉留佳さんが眼帯をして学校に来た。
「ヤッホー。おはよう理樹くん」
「おはよう。目、どうかしたの?」
「う、ウガーっ!」
「え、なに? 意味わかんない。何叫んでるの」
「ハアハア。早く逃げて。駄目だ、この眼帯じゃ抑えきれないよ。はは、恭介さんも詰めが甘いよね。こんな簡易的な封印じゃあいつはすぐに出てくるんだって」
「今度はどうしたの?」
「ダメ! 近づかないで。このままでは私はあなたを傷つけてしまう。私の中のもう一人の私。かつて魔界に君臨した女王。その眼球を授かりし私みたいな、それ暴走寸前みたいな状況」
「説明ありがとう」
「どういたしましてーっ! 逃げてーっ! あふぅ」
「真人、僕の数学のノート返して」
「いけねーぜ、理樹。今すぐおれから離れろ。くっ、抑えることが出来ねぇ。まさか、筋肉が反乱を起こすなんてな。はは、恭介も詰めが甘いぜ。俺の鍛え上げた筋肉がこんな眼帯一つで抑えられるなんて思っていやがったのかよ」
「めんどくさ」



 葉留佳さんが普通の格好で学校に来た。
「ククク。おはよう愚民諸君」
「おお、一番たちが悪い感じに仕上がっていて厄介だ」
「我が名ルシファー。漆黒の翼を持つ堕天使。今はこの人間の中を宿にさせてもらっている」
「自己紹介ありがとう。直枝理樹です」
「そなたが直枝理樹か。話は宿主から聞いておる。ふん、こんなちんけな小僧がな」
「初対面で失礼な発言を向けられたので、ぶん殴ってもよろしいでしょうか?」
「ふん、人間風情が私に触れられるとでも思っているのか?」
「えい」
「キャッ! ちょっ、どこを触っておるか!」
「いや、肩掴んだだけですが?」
「こ、こんな公衆の面前で破廉恥な! そ、そこは天使にとっての性器みたいなものなのだぞ!」
「公衆の面前で大きな声で破廉恥なことを叫ばれても困るよ」
「きゃ、恥ずかしい」
「めんどくさ」



 葉留佳さんがスカートを履かずに学校に来た。
「いや、あかんでしょ」
「これはズボンだよ! パンツじゃないから恥ずかしくないよ!」
「水着なのは分かるけど恥ずかしいから。こっちがだいぶ恥ずかしいから」
「私、ウィッチーズになるね」
「何のことか知らないけど、それはご自由に。ただ、ちょっとジャージなりスカートなり履いてもらわないと困るんで」
「パンツじゃないから恥ずかしくないもん!」
「俺もパンツじゃないから恥ずかしくないぜ」
「謙吾くん!」
「謙吾は気持ち悪いから。頼むから。なんでブーメランパンツ一丁なのさ」
「これで登校してきた。何故なら、パンツじゃないから恥ずかしくないからだ!」
「仮に下のブーメランパンツがズボンだったとしても、何故上半身裸?」
「このズボンはオーバーオールだ」
「仮にオーバーオールだとしても、それはそれでとんでもなく気持ち悪いからやめて。乳首丸見えだから」
「キャッ」
「めんどくさ」



 葉留佳さんがツインテールで学校に来た。
「比較的マシな格好で安心したよ、おはよう」
「別にあんたに挨拶しにきたんじゃないんだからね!」
「うわぁ」
「別にあんたのことなんてどうとも思ってないけど、このクッキー、余ったからあげる」
「ありがとう。その手の絆創膏の演出とかとても古臭くていい感じだよ。でも、クッキー焼くだけでそんな手全体に貼るほどの怪我をどうすればできるのか知りたい」
「こ、これは違うわよ! その、あの、クド公に噛まれたのよ! 勘違いしないでよね!」
「わふー」
「クド噛んだの?」
「わふー。今の私は捨てクドリャフカだったところを、偶然通りすがった心優しき天邪鬼少女に助けられて、でも、怖くて手を引っ掻いたり噛んだりしてたら怖くないよって抱きしめられて安心して寝てしまって今に至る感じの飼いクドリャフカなのです。そんな感じの設定らしいです。わふー。」
「こんなに心の篭っていない棒読みのわふーも珍しいね」
「ちょ、いや、その、別にこの捨てクドリャフカがかわいそうに思えたとか、そんなの全然思ってないんだからね!」
「ツンデレに関しては色々間違ってるから勉強しなおしてきて」
「ふん、別にあんたに言われたから、あれ、ちょっとこれ違うんじゃないかなぁ、って思ったんじゃないんだからね!」
「はいはい」



 葉留佳さんが普通に学校に来た。
「おはよう。今日は何? どんな設定?」
「おはよう理樹くん。あのね、好き!」
「超展開だね」
「気を引きたかったんですよ」
「気を引くっていうことなら成功してたと思うけど」
「本当? オッケーってこと? じゃあ、今から私以外の女の子のこと見た瞬間その目潰すね!」
「あ、これヤンデレだ。何かと厄介って噂のヤンデレだ」
「別に病んでないよ?」
「葉留佳さん、目のハイライト消えてるよ。レイプされた後みたいな目になってるよ」
「あ、今鈴ちゃんのこと見た。えい」
「うわ。あぶない。今避けなかったら完全に目に指が刺さってたよ」
「だって、本当に潰すつもりだったからね。やははー」
「あれ? これもしかして素?」
「うん、これが素の私だよー。今すぐ私を抱きしめて。でないとその口から手を突っ込んで心臓を掴んで引きずりだしちゃうぞ」
「真顔で言わないで」
「じゃあ、抱きしめて」
「おい」
「わお、葉留佳さんが二人いる」
「何やってんのお姉ちゃん」
「あ、うん、なんかやれって言われて……」
「誰に?」
「えっと、来ヶ谷さんに言われて。だって、こうしたら葉留佳が喜ぶって言うから! 私が愛してるのはこんなナヨナヨしたトラウマ系男子じゃなくて葉留佳一人よ!」
「うっさい、帰れ」
「うわーん!」
「ありがとう葉留佳さん。危うく口から手を突っ込まれて心臓を掴まれて引きずりだされちゃうところだったよ」
「いえいえ、じゃあ、私は教室帰るよ」
「あ、うん。また後で」
「うん。ああ、そうだ」
「何?」
「好きだよ!」
「超展開だな」
「じゃあねぇ」
「あ、はい」
 告白されて、じゃあ付き合うかってことなら付き合ってもいいかななんて。
 あんなの野放しにしておけないからさ。
 みんなのためだよ。
 別に好きじゃないんだからね!


[No.713] 2010/03/19(Fri) 02:09:23
うれしはずかしはじめての (No.682への返信 / 1階層) - マル秘@11322b また遅刻

 ねこー、ねこー、ねこねっこー。
 鼻歌にのせて身体が揺れる。軽快に。リズムに合わせて小さな頭が動くたび、少し伸ばした髪を束ねた飾りがちりん、ちりんとずれたリズムを刻む。
 だがそんなことはお構い無しに、冷蔵庫の扉を開けっ放しにして楽しそうに目を輝かせる横顔を、俺は息を殺して見守っていた。
 座り込んだ廊下の床がひんやりと冷たい。外じゃそろそろセミが鳴こうかって暑さだが、ここは日が差し込まないので涼しい。普段なら気持ちいい冷たさも、今は、尻からゆっくりと身体を上ってきて、むずむずと落ち着かない気分にさせるものになっていた。
 気分をまぎらわせようと、対象から視線を外し、台所の窓やテーブルの下を見た。そこには仲間たちが同じように潜んでいるはずだ。俺は持っていたチョコボールの空き箱を口もとに寄せ、ボタンを押した。
「こちら恭介。目標は現在冷蔵庫内を物色中。扉のかげになって手もとが見えない。謙吾、そっちから確認してくれ、オーバー」
 台所の窓ごしに、理樹がそっと顔を出した。ボタンから手を離すと、少し遅れて空き箱がジジッ、とノイズを発した。
『――ちら理樹。今は――プゼリーをみつけて、取ったりもどしたりしてるよ。オーバー』
 雑音が多くて少し聞き取りにくいが、自作トランシーバーの調子はいいみたいだ。
「了解だ。引き続き監視を続けてくれ。オーバー」
『こ――真人。オレはどうし――いい? オーバー』
 テーブルの下に潜んだ真人からだ。身体を縮めて本人はばっちり隠れているつもりのようだが、テーブルクロスはその身体を申しわけ程度にしか隠してくれない。
「お前は緊急事態のためのヒミツ兵器だ。それまでは絶対に見つからないように気をつけろ。オーバー」
『ヒミツヘーキか、それスゲェかっこいいな……。わかったぜ、まかせときな! オーバー』
 真人はそう言って、笑いながら親指を立てた。頼りになるヤツだった。
 頼りになるもう一人、謙吾はこの場にはいなかった。まだ剣道の稽古が終わっていないからだ。
 だがいないことを嘆いても始まらない。ミッションはすでに始まっているのだから。
 鈴の始めての料理。
 それを影ながら助けるのが俺たちのミッションだ。

 ――うれしはずかしはじめての――

 ミッションにいたった経緯を説明しよう。事の発端は昨日鈴が観たアニメだった。
 土曜夜7時、鈴は必ずテレビを占領する。お目当ての『おしおき戦隊ブレザーねこ』は、その名のとおりブレザーを着た猫たちが、毎回街の平和を乱す悪におしおきをするアニメだ。鈴はもちろんかわいいねこが目当てだが、子供向けの絵柄とは裏腹に、熱いバトルや友情話があって、俺も結構楽しみにしている。
 まあそれはさておき、昨日はバトルの合間の日常を描いた回で、俺としてはあまり面白くはなかったのだが、鈴はいつもどおりにご機嫌でテレビにかじりついていた。いつもなら、エンディングの曲を歌いだすまではぽかーんと口を開けて見入っているはずの鈴なのだが、その口から
「おー……」
 とため息のような声がもれた。テレビではブレザーを脱いだ素顔の猫たちが、街を見下ろす高台でピクニックをしていた。バスケットいっぱいにつめられた弁当をパクつきながら、猫たちは日々の戦いを忘れ、いつもはケンカばかりしているあまのじゃくな猫でさえ楽しそうに笑っていた。隣をもう一度見ると、わが妹は小鼻をふくらませてその様子を見つめていた。
「鈴。明日は天気もいいし、みんなでピクニックでも行くか?」
 だが、鈴の反応は俺の期待とは違っていた。「……いかない」俺の顔をむっつりとにらんでそれだけ言うと、ぷいとそっぽを向いてしまったのだ。誘いが露骨すぎたかな、と反省し、まあ素直に頷けなかっただけだろう、明日なし崩しに行くことにしてしまえばいいか、とそのときは考えていた。それが思い違いだと分かったのは翌朝、つまり今日の朝のことだった。

 鈴が外出を拒んだ。お袋が仕事に行った後、鈴は一人で留守番をすると言い出したのだ。人一倍怖がりで人見知りの鈴がだ。留守番なら俺も一緒に、と言ってもうざい出ていけとにべもない。仕方なく出かけたふりをしてこっそりと鈴の様子を見ていたのだが――
「弁当のほうだったとはな……」
 一人になるなりまっすぐ台所に向かい、鍋やらまな板やらを並べだしたのを見て、ようやく自分の思い違いに気がついた。確かにあの弁当はうまそうではあったが……。
「無理だろ」
 集合場所に現れない俺たちを迎えに来た真人が真顔で言う。まだ鈴を良く知らない理樹でさえも不安な表情で頷いていた。
「俺もそうは思うんだけどな。マンガなんかだと、ここで本人も知らなかった才能が目覚めたりするだろ? ちょっとやらせてみようと思うんだ」
「ええっ、危ないんじゃ……」
 驚きの声に視線が集まると、理樹の言葉は尻すぼみになっていった。俺は自信たっぷりに見えるよう笑みを浮かべ、二人に言った。
「なあに、大丈夫さ。鈴ひとりなら危険かもしれないが、ここには俺たちがいる。このリトルバスターズがな!」

 ……とは言ったものの、鈴がたった一人でやるつもりである以上、俺たちが直接手助けすることはできない。だから鈴の作業を見守り、危険から遠ざけるように誘導する作戦をとった。
 ねこねこねっこー、きのねっこー。
 鈴の鼻歌はまだ続いている。俺はトランシーバーのボタンを押し、窓の外の理樹に呼びかけた。
「こちら恭介。冷蔵庫の中、見える範囲でどんな食材があるか教えてくれ。オーバー」
 俺の指示に、理樹がおっかなびっくり身を乗り出して、冷蔵庫の中をうかがった。鈴が振り向けば目が合ってしまいそうだが、幸いなことにカップゼリーの誘惑と戦うのに精一杯で気付いていないようだった。
『えーと、なんかやきそばっぽいのとかサラダとか、パックに入って綺麗に並べてあるよ。オーバー』
 仕事で夜遅くなるお袋が作り置いていったものだ。そうか、やきそばか。そっちは昼飯にするかな。
『やべぇ、ハラへってきた……。カツあるか、カツ。オーバー』
『えぇ? えーと、カツはみあたらない、かな。オーバー』
「ひとん家の冷蔵庫に期待するな。理樹、料理になっているのは外していい。素材になりそうなものを言ってくれ。オーバー」
 すでにできているものを盛り付けるだけではおそらく満足しないだろう。なるべく当たりさわりのない食材があればいいんだが……。
『うーん……卵と牛乳と、あとスライスチーズがある。あとはケチャップとかマヨネーズとかだね。オーバー』
 無難なところだ。目玉焼きでも作って、あとは生野菜あたりでお茶をにごせればいいんだが、鈴は野菜室を開けるそぶりも見せなかった。
『こちら理樹。鈴ちゃんが奥から何か取り出したよ。お肉っぽい。オーバー』
 こちらからもちらりと見えた。あれは確かブタバラのブロックだ。ずっしりと重そうなそれを両手で持ち、じっと考え込んでいるようだった。
「これは見たことあるな。たしか、おさしみ……」
 そうじゃない! 鈴の呟きに思わず叫びそうになり、慌ててこらえる。トロでもそんなに脂は乗っていない。待機する二人に急いで連絡する。
「緊急事態だ。鈴が危険な食材を手にしている。アレの調理を阻止するぞ。オーバー」
 手みじかに作戦を指示し、互いに視線を交わす。二人が頷くのを確認して、俺は作戦開始を告げた。
「ミッション・スタートだ」

 ピン、ポーン「うにゃぁっ!?」
 間延びした呼び鈴が鳴る。ただそれだけのことで鈴は飛び上がりそうなほど驚いた。
「だっ、だれだっ?」
 落ち着きなくあたりを見回しながら強気にたずねるが、声は震えていて虚勢を張っているのが丸分かりだった。そもそもたずねるべき相手は玄関の外だ。
 容赦なく呼び鈴が鳴り続ける。おびえる鈴にはかわいそうだが、許せ、これもお前とブタバラのためだ。
 何度も鳴らされる呼び鈴に、仕方なく鈴はインターホンへ向かう。その場にブタバラを置いて。
「……もしもし」
 かぼそい声でインターホンに話しかける鈴の背後で真人が動く。
『もしもし鈴? 僕だよ僕』
「……し、しらん」
 置き去りにされたブタバラブロックを拾い上げ、台所の入り口に向かって投げる。
『しらんって、昨日も会ったよ。その前も、その前の前も』
「ひとちがいだ」
 飛んできたブタバラブロックを入り口で待ち構えた俺がキャッチ。すかさずマジックを取り出し、パックにでかでかと「ぶたにく」と書いて投げ返す。
 そしてトランシーバーで理樹に陽動終了の指示を出す。
『理樹だよ、直枝理樹』
「なんだ理樹か。ならはじめからそー言え。なんの用だ」
『え? あ、えっと……なんだっけ、忘れちゃった』
「でなおしてこい」
 怖がってしまったのが恥ずかしかったんだろう、ぷりぷりと怒ってそれをごまかすところが可愛い。
「……なにをしようとしたか忘れた」
 困り顔で戻ってくる鈴。既に真人は「ぶたにく」を元の場所にセッティングし終えて再びテーブルの下に隠れている。陽動を終えた理樹も戻ってきた。
「そうだ、これだった。この『ぶたにく』を……まあ、『ぶたにく』はひつようないな」
 パックを拾い上げてしげしげと眺め、首をかしげながらも冷蔵庫に戻した。
「ミッション・コンプリートだ」
 三人で顔を見合わせ、達成感を噛みしめた。

 だが、それはまだ序章に過ぎなかった。いくつもの困難が俺たちを待ちうけ、次から次へと襲い掛かってきた。
「にゃっ? たまごのカラが……だがカラダにはいいかもしれない」
「理樹、また陽動を頼む。その隙に俺がカラを――くそ、ダメだ取りきれない。仕方ない、作り直すか。こっちは頼む真人!」
「まかせろ、オレがきれいに食って――うおぉっ、ジャリジャリするっ!?」
 ――だが、俺たちは諦めない。
「あじつけがわからない……とりあえずいろいろまぜてみよう」
「くそ、適当に入れすぎだ! なんとか食える味に――くそ、ダメだ真人こっちは頼む!」
「まかせろ、オレがしょっぱスッパあまニガかれぇっ!?」
 ――俺たちは屈しない。
「具がないのはさびしいな。ツナとかどうだろう。……ないな、モンペチでいいか」
「真人!」
「マジかよっ!? ……いや、しょう油かけたらけっこういけるな」
 ――俺たちは泣かない。
「……何をやってるんだお前たち」
「謙吾くん!」
「いいところに来たな。卵買ってきてくれ!」
「はぁっ!?」
 ――そしてついに。
「できた。……できた!」
 鍋にいきなり卵だけ入れて焼いてしまったり、火加減が強すぎたり弱すぎたりのハプニングを経て、ついに初めての料理が完成した。らしい。鈴は鍋を覗き込んで「むふー」と顔をほころばせていた。
「……なあ、鈴が何を作ったのかわかるか?」
「んなもんオレにわかるかよ……」
「何だろう。いり卵のスープみたいになってるけど……」
「まあいいじゃないか。俺たちはやりとげたんだ。胸を張ろうぜ!」
「オレはムネやけしそうだ……」
 互いの健闘をたたえ合い、俺たちは解散した。アブラゼミが騒がしい夕焼け空が、戦士たちを優しく見下ろしていた。

「ただいま。鈴、ちゃんと留守番してたか?」
「おそいわぼけーっ!!」
 しばらく時間をつぶしてから帰宅すると、妹の怒声が出迎えてくれた。
「悪い悪い、ちょっと時間を忘れちまってたぜ」
 人生初の料理をゆっくり味わわせてやろうって兄心だ。なんて優しいんだろうな。
「腹減ったろ。飯にしようか」
 まあ、今は腹いっぱいだろうから、鈴の分は少なめにしてやろう。そんなことを考えながら台所に向かおうとした俺の裾を、鈴がむんずとつかんで引きとめた。
「まて、ばんごはんは作らなくていい」
 なんだ、そんなに大量に作ってたか? いぶかしむ俺をよそに、鈴はそのまま俺を引っ張って食卓へと連れて行った。そこには――
「あたしが作った。たまご丼だ」
 丼に山盛りのご飯。そしてたっぷりとかけられた炒り卵汁――そうか、たまご丼だったのか。鈴を見ると「どうだまいったか」と言わんばかりに胸を張っていた。俺が何も言わないでいると、その顔を少しだけ曇らせて、
「たまご丼、は、あれだ。その……」
 たどたどしくたずねてくる。ああ、皆まで言わなくても分かっているさ。
「おう、俺の大好物だ。……ありがとな」
 泣きそうだ。
「おまえがおそいからちょっと冷めちゃったんだ。いいからさっさと食え!」
 そっぽを向いて箸を突き出した鈴の頬が赤くなっているのを俺は見逃さなかった。だが、それを突っ込むような野暮はしない。それにこれ以上冷めてしまうのももったいないしな。俺はどんぶりを持ち上げて箸を構えた。
「いただきます」
 ざくりと箸をご飯に突き入れる。お袋が炊いたご飯は少し柔らかめで、それが汁を吸ってさらに柔らかくふやけている。上を覆う卵は大小ばらばらな塊になっていて、ところどころ黒や茶色のまだら模様になっている。口元に持っていくと、焦げた卵のにおいが鼻をくすぐる。俺はくしゃみしないよう一度深呼吸してから、意を決して一口目を放り込んだ。
 柔らかい。ご飯と卵が奇跡的に同じ硬さになっている。それを噛み砕いていくと、まず塩味。そして後から追いかけてくるように苦味が舌を刺し、最後に卵とご飯の優しい甘さが口の中を癒してくれた。
 俺がゆっくりと一口目を味わうのを、じっと固唾をのんで見守っていた鈴に、一言だけ「うまいな」と伝え、後は態度で証明するようにたまご丼を勢いよくかきこんだ。胸がいっぱいでそれ以上何と言っていいかわからなかった。ミッションコンプリート。苦労は報われた。今の俺は何杯でも食えそうだった。食べきってしまうのがもったいないような――
「そうか、そんなにうまいか。まだまだたくさんあるからな、いっぱい食え!」
 口に広がる苦味が濃くなった気がした。俺のミッションはまだ終わらないようだ。


[No.714] 2010/03/20(Sat) 01:24:58
極彩色の夢 (No.682への返信 / 1階層) - 最後の秘密@15600 byte

 皆を焼いた、巨大な焔。
 うねる焔の奥底に、僕は見た――


 昼頃、バイクを駐輪場に停め、キャンパス内を歩く。
 三限の教室に向かおうとしていると、知っている顔を見かけた。
「お、直枝。久しぶり」
「あ、お久しぶりです」
 サークルの先輩だ。でも、この人が(僕もだが)サークル活動らしきことをやっているのを見たことが無い。そもそも、サークル自体がそんなに熱心に活動するようなところじゃなかったから、問題にはならないのだが。
 僕たちは並んで歩きながら、話を続ける。
「ああ、こないだのアレ、ありがとな。おかげで助かった」
「急に話振るの止めてくださいよ。こっちにもこっちの事情があるんですから」
「わーってるよ。で、これはお前の取り分」
 先輩が、僕のジャケットのポケットにくしゃくしゃの札束を突っ込む。僕はポケットの諭吉たちを引っ張り出すと、人数を確認した。
「二人足りません。売り上げに関わらず、受け渡し時に約束した金額を貰わないと。売掛買掛って授業で習ってないんですか?」
「俺、文学部だからそんなこと知らねーよ。お前って、ホント細かいよな。ほれ、諭吉ゆきち」
 先輩が、札束を持つ僕の両手に、これまたくしゃくしゃの諭吉を二枚置いた。この人、財布を持っていないのだろうか? 結婚式みたいに新札を用意しろ、とまでは言わないがせめて変な折り目が無いものを渡して欲しいものだ。
「でさ、次はこれくらい欲しいんだけど」
 というと、先輩は指を五本立てた。五〇〇錠。僕は呆れ果てて溜息をついた。
 僕達は立ち止まり、向かい合う。
「あのですね。何回も言ってますけど、処方される量にだって限界があるんですよ。その中には、僕が実際に必要としている量も含まれてる」
「だーかーらぁ、他の医者から処方してもらえよ。お前なら詐病にはならないんだからさ。今だってそうしてんだろ?」
 詐病にならない、というのは本当だ。僕は高校の途中から、ナルコレプシーの治療のために、この薬を処方されていた。
 そして、他の医者から処方してもらっているというのも、本当のことだった。依存しているうちに服用量が増えてしまい、医者からこれ以上出せないと宣告された。だから僕は、違う医者にかかり、二重三重に処方してもらっていたのだ。
 僕は溜息をつく。
「まあ、いいですけど。ですけど今回は二割増でお願いします」
「あぁ? 何だよ。いいじゃねぇか」
「こっちにだってリスクはあるんですよ」
「めんどくせぇな」
 僕は再び溜息をつくと、先輩の胸ポケットから煙草のソフトケースを見た。
「じゃあ、煙草下さい。それで二割増は結構です」
「おお、じゃあこれ」
 先輩が胸ポケットから煙草を一本引き抜く。それを手で制する僕。
「違うでしょ? 鞄に入れてある、もうひとつの方ですよ」
「あ、ああ。だよな」
 先輩が舌打ちしながら、鞄を漁る。僕はその中に手を突っ込み、ボックスに入った煙草を掴み出す。中を開ける。そこにはいかにも手で巻いたといった風情の不細工な煙草が半分ほど入っていた。
「じゃあ、これで」
「しゃーねえなあ」
 先輩が頭をぼりぼりと掻く。
「あぁ、そういえば」
「何です?」
「また女とトラブった?」
 その言葉に僕は笑みを浮かべる。
「へぇ。耳早いですね」
「多分サークルのツテじゃねぇかな。いきなりその女本人から連絡があってさ。お前の居場所聞かれたぞ。まあ知らねえって言っといたけど」
「あぁ、ありがとうございます」
「つーか、携帯の番号教えてなかったの?」
「いや、ここんとこ変な電話が多いんで電源入れてないんです。そろそろ替え時かなぁ」
「変な電話って。完璧お前が原因じゃねぇか」
 そう言って笑う先輩。
「なぁお前、いい加減にしねぇとそのうち刺されんぞ」
 僕は嫌らしく口角を吊り上げる。
「はは、まぁいつでも来いって感じですよ。それよりも僕としてはあんたが殺される方が早いと思いますよ。ロシアかチャイナか知りませんけど」
「言いやがる。まぁ、こっちは一応払うもの払ってるしな」
「お互い死なないように、ですかね。モノは来週渡しますんで」
 そう言って二人別れる。
 三限くらい出ようと思っていたのだが、その気が失せた。教室まで行って代返だけお願いしよう。


 鍵を開け、自宅に入る。
 ベッドとテーブル、TVにソファに本棚。必要最低限の物しか置いていない殺風景なワンルーム。 僕は部屋の隅に置かれた、一人用のソファに腰を下ろす。
 テーブルには、キセルにマッチ、灰皿、乳鉢、カッターの刃、ストロー。そして、先程の煙草に僕の常備薬。
 乳鉢に一錠の錠剤を置き、細かく磨り潰す。だいぶ細かく砕けたら、粉状になったそれを紙の上に取っておく。今度はカッターの刃を使って更に細かい粉にしていく。十分細かくなったら、カッターの刃でその粉を線状に整える。普段はあまりに面倒なので、フリスクのようにガリガリ食べてしまうのだが、今日は頑張ってみた。
「あぁ、めんどくさいなあ」
 ぶつぶつ言いながら次の作業に移る。
 煙草を手に取ると、紙を千切って中の葉を取り出す。そして取り出した葉をキセルに詰める。巻き煙草のままでもいいけど、灰になっても有効成分が残っていると聞いたことがある。これなら灰になってぼろぼろ落ちるといった、もったいないことをせずに済むのだ。
 あとは、気分を高揚させるためのBGM。古いCDプレイヤーの電源を入れ、再生してみると、心地よいテクノサウンド。Underworldのアルバムだった。そのままじゃないか、と苦笑する。
 僕は再びソファに座り、ストローを片方の鼻孔に差し込むと、紙の上で綺麗に一列になった粉末を一気に吸い込んだ。鼻の奥が痛い。念入りに鼻をティッシュで拭う。
 そして、キセルに詰めた葉っぱに火をつけて煙を吸い込む。肺の中に煙が充満する。息をとめている間、煙が肺に吸収され、血液に有効成分が溶けていく様子を想像する。しばらくして息を止めるのが限界になったので、一気に煙を吐き出す。それを何度も何度も繰り返す。
 曲が三曲目になったところだろうか?これまで透明な膜を張ったようなぼんやりとした視界だったのが、だんだん輝きを増してくるのを感じた。まるでハイビジョンで超スローモーション映像を視ているかのような感覚。体も自分の自重を全く感じないほどで、ヘリウムを充填した風船のように軽い。音に色彩が感じられる。いろんな色の音符が部屋の中を踊っている。
 しばらくすると、ベッドの布団がむくむくと蠢き、中からクドがひょこっと出てきた。わふーわふーと言いながら、子犬のように布団とじゃれている。今度は、勝手に冷蔵庫が開き、中からお菓子を両腕いっぱいに抱えた小毬さんが出てきた。口にはドーナツを咥えてて、それが妙に可笑しかった。
 どったんばったん。騒がしい音がする。見ると、葉留佳さんが部屋中を踊っている音符を捕まえようと飛んだり跳ねたり。本棚の本を全部取り出して、ぱらぱらと流し読みしているのは西園さんだ。彼女は僕の蔵書の少なさ、内容に落胆しているようだ。だからって薄い本を詰め込むのはやめて欲しい。
 僕はソファに再び座る。だが、布張りのソファには出せない弾力が。というか温かい。振り返ると来ヶ谷さんだった。どうやらソファに座った彼女の上に座ってしまったようだ。どこうとすると、両手で抱きとめられた。すっごくシュールな光景だ。
 僕はくすくすと笑い声を上げる。満ち足りた幸福感。優しい時間。こんな時間は久々だ。
 まるで悪い冗談のような、悪夢だ。
 と、その時。美しい音に囲まれたこの部屋に似つかわしくない、びちゃびちゃと不快な音がした。
 びちゃびちゃ、どぼどぼ。びちゃびちゃ、どぼどぼ。
 まるで詰まった水道管のような音が部屋を支配する。それと共に鼻につんとくる、酸っぱい異臭が立ち込める。
 音のする方に目を向けると、葉留佳さんは口を大きく開けて、嗚咽を上げながら夥しい量のビー玉を嘔吐していた。赤や青、きらきらと光を含む、綺麗な、色とりどりのビー玉が、深緑色の粘液に塗れて床に零れ落ちる。いつまで経ってもその勢いは衰えず、既に吐き出したビー玉の量は葉留佳さん自身の体積を大きく上回っていた。
 葉留佳さんが吐き散らかした粘液がどろどろと床一面を流れてくる。その緑色が僕の靴下を汚す。人肌と同じ温度、温かい粘液。足をどけると、ねとりと糸を引いて纏わり着いた。
 床は既に、ビー玉と緑色の吐瀉物で足の踏み場も無い。
 僕は来ヶ谷さんの上から立ち上がると、クドの居るベッドに跳び移る。クドは着地した僕を見るや否や、布団ごと来ヶ谷さんに向かって跳びついた。
「おお、私が恋しかったか?」
 来ヶ谷さんがそんなことを言いながらクドの顔を舐め回す。それがクドも嬉しいらしく、来ヶ谷さんの首や頬を舐めたり甘噛みしたりしていた。
 そんな中、布団から突き出したクドの足の位置がおかしい事に気づく。クドの身長ではあんなところから足が出たりはしない。それに手の位置もおかしい。というよりもあんな位置から手は生えたりはしない。
 意を決して僕は、クドの布団に手を伸ばして、引き剥がそうとした。
 けれどそれは失敗する。布団はクドにぴったりとくっ付いた様に離れようとしない。それもそのはずだ。布団の下に、クドの胴体が無かったのだ。クドは首と両手足だけしかなくて、それぞれがスニーカーの紐のようなもので乱雑に布団に縫い付けられていただけだった。そんな状態でもクドは口の周りを涎と血でどろどろに汚しながら、来ヶ谷さんにじゃれ付くのを止めない。
 じゃれ付かれた来ヶ谷さん。頬肉は噛み切られて、その下にある奥歯が露出していた。クドに千切られたためか、下顎も無くなっていた。けれど、そんな状態でも来ヶ谷さんは笑うのを止めなかった。下顎も失い、頬も半分無くし、ただの空洞になった来ヶ谷さんの喉奥から、いつも通りの笑い声が聞こえてくる。
 テーブル前に陣取り、それを見ながらドーナツを食べ続ける小毬さん。
 けれど、テーブルの上にも彼女の手の中にも、ドーナツの姿は無かった。何も無いのに咀嚼を続ける小毬さん。見ると、彼女の左手は人差し指と中指が欠損し、露出した肉から骨が丁度フライドチキンのそれのように突き出していた。
 僕はベッドにへたり込む。
「どうしたんですか? 直枝さん」
 本棚の方から声がした。振り向くと、西園さんが両手に本を抱えて立っていた。良かった、彼女はいつも通りだ。
 しかし僕は、彼女の顔を見て戦慄した。西園さんの顔、その左半面の皮膚が破れていた。それでけではない。破れた皮膚の間から、西園さんの顔の肉を掻き分けて、別の人間の鼻が飛び出していたのだ。西園さんはその異変に気付いてはいない。そうしている間にも西園さんの顔の裂け目は大きくなっていく。そして、鼻だけでなく、口も目も露出していく。
 新たに現れた、粘膜に包まれた顔もまた、西園さんだった。
 西園さんの、左右に並んだ二つの口からひゅうひゅうと呼吸している姿。全てがおかしかった。右の口から、僕を心配する言葉を掛け続けていた。
 僕はベッドの端、壁に背中を押し付けて力なく笑う。
 こんなので僕を怖がらせたいのか? お前達にはそれくらいしか出来ないのに。幽霊にもなれない、哀れなお前達が。
 これは僕の幻覚。本当のことではない。
 彼らは決して化けて僕の側に現れる事なんてないし、僕を呪ったりする事などできない。
 僕は立ち上がると、近くに居た小毬さんを蹴りつける。テーブルの上のものが盛大にぶち撒かれる。もう、小毬さんの姿はどこにも無かった。ほうらね。
 僕は近くにあった掃除機のパイプ部分を手に取ると、他の人を殴りつけた。音楽の音と、部屋のものが床に落ち、壊れる音。そんな音に陶酔しながら僕は、辺りのものを手当り次第壊し続けた。
 気が付くと、辺りには彼らの姿は無く。僕は一人、床に寝転んでいた。フローリングの床が冷たい。それに背中に色々当たってちくちくと痛い。でもこんなの痛いうちにも入らなかった。
 僕は自分の胸元からちらりと見える、トライバル柄の刺青をシャツ越しに触ってみる。
 僕は胸や背中、肩など半袖の服を着ても見えない箇所全てに刺青を入れていた。――そういえば一緒に寝た女の子が朝、僕の体を見て驚く事がよくあった。僕のような優男(人によっては女顔、女子そのものと揶揄する事もあるが)が体中びっしり刺青を入れている姿はかなり異様なんだそうだ――薬の売り上げなどで纏まったお金が入ると、僕はその度にタトゥースタジオに走った。
 それは一種の自傷行為なのかもしれない。肉が薄い部分に針が入るたび、呻き声を上げた。その瞬間だけは、僕は生きている実感を得る事ができるのだ。
 だから薬を止められないのかもしれない。体の中を得体の知れない節足動物が這い回る、あのおぞましい感覚が好きだった。すぐにでも屋上から飛び降りたくなるくらい、頭の血管が膨らんで暴発しそうになる感覚が好きだった。


「――りき。りき」
 僕を呼ぶ声がする。目を開くと、心配そうに覗き込む鈴の姿。一瞬幻覚かとも思われた。
 むくりと上体を持ち上げる。見回すと、僕が散乱させた様々なものは片付けられ、入り口近くには膨らんだゴミ袋が置かれていた。
「今、何時?」
「何時もクソもあるか。もう夜だ」
 ぶっきらぼうに答える鈴。
「で、何でココにいるの?」
「クラスのヤツに聞いた。お前、あの人に会った後、すぐに帰ったんだろ?」
 未だにクラスには、僕と鈴が付き合っていると思っている阿呆が居るようだ。情報が古い。
 僕は起き上がると、鈴に背を向け、流しに向かう。蛇口を捻り、コップに水道水を溜める。
「鈴、答えになってないよ」
「お前が心配になったから来た。それじゃあ理由にならないか?」
 僕はポケットから薬のビンを取り出すと、何錠か取り出す。それをコップの水と共に飲み下した。
「ふぅ。ならないね。あのさ、鈴。鈴は僕の何なわけ?」
 鈴が反論する暇も与えず、僕は玄関に向かい、ジェットヘルを手に取る。
「何処へ行く気だ!」
「ちょっと夜風に当たってくる。鈴も帰ったら?」
 鈴が黙り込む。僕はブーツを履きながら、鈴の方を見ないままに追い討ちを掛けた。
「そうだ、鈴。また別の女の子と寝たよ」
 じりっと、鈴が一歩足を進めるのが聞こえた。僕は気にせずドアを開ける。
「鈴も男作ったら?」
 ばたんと。大きな音を立てて、玄関のドアを閉めた。
 直後、ドアに何かがぶつかった音。ヒステリーめ。


 目の前にあるのは、ヘッドライトの光を受けた反射板(ガードレールについているあれだ)の列。他に車も無く、街灯も無い山の中。暗闇に浮かぶ反射板の光は、まるで漁火のようにも見えた。
 カーブに差し掛かる。アクセルを緩め、軽くフットブレーキを。そしてギアを落とす。曲がりきる前に再びアクセルを捻り回転数を上げる。そこでギアを戻し、一気に加速。
 視界に移るのは反射板の光だけ。耳に聞こえるのは、自分のバイクのエンジン音。肌に感じるのは強烈な空気抵抗だけ。
 感覚が殆ど遮断された状態での峠越え。これが僕の破滅願望を満足させた。走っているうちに自分が生きているのか死んでいるのか、走っているのか止まっているのか。そういったものが何もわからなくこの感覚。
 更に、ヘッドライトを切ったらどうなるだろう? 僕はライトのスイッチに手を掛ける(僕のバイクは古い型なので、スイッチが付いているのだ)。思わず笑みが零れる。
 と、その時。ヘッドライトが地面を照らす僅かな空間に、茶色い何かが転がってきた。これは、ガラス瓶だ。
 僕は咄嗟にハンドルを切る。しかし、アクセルをかなり開いた状態からのハンドル操作は不味かった。バイクは一瞬にしてコントロールを失う。
 そして、僕の体が宙に浮いた。人間って飛べるんだ。そんな馬鹿なことを、ふと思ってしまった。


 気が付くと、木々の隙間から満天の星空が見えた。
 全身が痛い。鈍痛というヤツなのだろうか。けれど痛みの度合いは「鈍い」なんて言葉を付けてはいけない、そんな位痛かった。僕はその痛みに耐えかねて叫び声を上げる。正確には叫ぶ事で痛みを紛らわそうとした。
「ちっくしょう! 痛え! 痛え!」
 しばらく叫び続けると、段々と痛みに慣れてくる。いや、痛みの酷さに脳内麻薬が分泌されたのかもしれない。
 すると、不思議な事に笑いが込み上げてきた。僕は山の中、独り大声で笑う。
 痛いんです。
 全身叩きつけられて、痛いんです。
 全身を道路に擦り付けられて、それが痛いんです。
 きっと骨折も何箇所もしていることでしょう。それが肉に食い込んで酷く痛いんです。
 もしかしたら、内臓も幾つかは駄目になっているのかもしれません。それがじくじくと痛むのです。
 痛くて痛くて痛くて痛くて、気が狂いそうなんです。
 だけど、だけどそれが、「生きる」ってことだろう?
 あのとき、僕は全くの無傷だった。あれから、僕は生きている心地がしなかった。
 この、痛みだけが僕に生きているという認識を与えてくれた。生きていていいよと、認めてくれた。その瞬間だけ、生まれてきて良かったと思えるんだ。


「ふう」
 笑い疲れた僕は、大きく息を付いた。さあ、これからどうしよう? とりあえず携帯で119番に連絡するか? JAFとかJRSに連絡はどうしよう。その前に何処か道路の端に移動しなければマズイな。そう思い、体を動かそうとするが指一本動かせなかった。
 頚椎か脊椎。そのどちらかをやってしまったのか。
 全身不随で生きていきたくは無いなあ、まずそう思った。それなら、このまま死んでしまったほうが幾分マシかも知れない。
 そんな呑気な物思いに耽っていると、何処からか車の音。この音は多分トラックだろう。
 とりあえず、運転手に助けてもらうか。仕方ない。
 ヘッドライトの光が見えてきた。やはりトラックのようだ。
 僕は精一杯声を出す。流石にこれに気付くわけは無い。
 ライトが僕の体を照らす。これなら気付くだろう。
 しかし、トラックはスピードを緩めない。トラック運転手の居眠り運転。そんな記事が頭にふと浮かんだ。
 ヘルメットは付けているだろうか。
 無常にも、あのときヘルメットは吹っ飛んでしまったようで、僕の頭は直に道路に接していた。
 ライトの光が僕の体から離れる。上を向くと、目の前に前輪が僕目掛けて突進しているのが見えた。
 ええ? ちょっと。そんな最後は想像してなかったなあ。
 時間がゆっくりと進む。走るタイヤの溝が見えるほどに。
 このタイミングで、そんなの起こるんですか?
 顔は止めて欲しいんだけどなあ。
 一瞬。体内時間がここまで圧縮された今、一瞬と感じたのだからそれは刹那にも満たない時間なのだろう。
 リトルバスターズの皆と過ごしたときの映像が現れた。
 本当に走馬灯って見えるんだ、と感心した。
 結局最期に見るのは、彼らなんだ。あのときから、僕が望んでいたのはそこでしかなかったんだ。
 タイヤが、僕の額に触れた気がした。






「クソ」


[No.716] 2010/03/20(Sat) 18:54:13
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