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   第32回リトバス草SS大会 - 主催 - 2009/04/30(Thu) 21:32:37 [No.73]
しめきりし時 - 主催 - 2009/05/02(Sat) 00:26:33 [No.87]
hush, hush, sweet Kudryavka - ひみつ@17021 byte - 2009/05/02(Sat) 00:24:00 [No.86]
願いの行方 - ひみつ@3291 byte - 2009/05/01(Fri) 23:52:34 [No.85]
[削除] - - 2009/05/01(Fri) 23:38:47 [No.84]
聖なる空の下で - ひみつ 初 11008byte - 2009/05/01(Fri) 22:14:20 [No.83]
垂直落下式 - 隠密@9283 byte - 2009/05/01(Fri) 22:06:40 [No.82]
ぱんつ争奪戦・春の陣 - これもひみつになってないな@19147 byte - 2009/05/01(Fri) 18:02:07 [No.81]
勇者と旅人 - ひみつ@9011 byte - 2009/05/01(Fri) 12:37:24 [No.80]
雨上がりの夕闇に明星を見つけて - ひみつになってるのだろうか@19071 byte - 2009/05/01(Fri) 10:13:44 [No.79]
星の向こう側 - 機密@5116byte - 2009/05/01(Fri) 07:52:17 [No.78]
覆水 - ひみつ@5615 byte - 2009/05/01(Fri) 00:02:21 [No.77]
空き缶、金木犀、一番星の帰り道 - ひみつ@8297 byte - 2009/04/30(Thu) 23:27:21 [No.76]
それは永遠に儚いものだから - ひみつ@12823 byte - 2009/04/30(Thu) 23:08:38 [No.75]



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第32回リトバス草SS大会 (親記事) - 主催

 詳細はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/rule.html
 この記事に返信する形で作品を投稿してください。

 お題は「星」です。

 締め切りは5月1日金曜24時。
 締め切り後の作品はMVP対象外となりますのでご注意を。

 感想会は5月2日土曜22時開始予定。
 会場はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/chat.html
 はじめにMVP投票(最大3作まで投票可能)を行いますので、是非是非みなさまご参加くださいませ。
 ご新規、読みオンリー、感想オンリー、投票オンリー、大歓迎でございます


[No.73] 2009/04/30(Thu) 21:32:37
それは永遠に儚いものだから (No.73への返信 / 1階層) - ひみつ@12823 byte

 人の気配がしつつ、けれどもその緊張感が逆に自分を安全だと伝えてくれる時間帯、授業中。沙耶は静かに校舎内を探索していた。
「2階、クリア」
 地形、武器を隠せる位置、ついでに敵対スパイの盗聴器や監視カメラの位置まで割り出していく。もちろんそれらに引っかかるような間抜けな真似はしないし、排除したりもしない。とにかく今は情報を集める時期だ。
「けど、参ったわね」
 一階に通じる階段を見て途方に暮れている沙耶。監視カメラの死角がないのだ。授業中でなければただ堂々としていれば怪しまれる事はないはずなのだが、この時間ともなれば話は別だ。生徒の通るはずのないこの時間に監視カメラに映ってしまえば、怪しまれるどころか自分からスパイだと公言するようなもの。
 そうして沙耶は早々と階段で降りる事を諦めて、視線を窓へと向かわせる。幸いにしてここは2階、実際は4階くらいまではなんとかなるだろうから2階ならば余裕だ。
「異常無し」
 一応、下の様子を伺う。普通ならば大丈夫だとは言え、授業中でも教師などが出歩いている可能性も零とは言えない。万が一こんな姿を目撃されたら言い訳のしようもない。
 そして窓枠に足をかけて、一気に跳躍。地面をしっかりと見て、音も立てずに着地する。
「ふむ、空からピンクのぱんつを穿いた美少女が降ってくるとは。いやいや、眼福眼福」
「!」
 沙耶は頭で理解するよりも早く銃を抜き、声がした方向に標準を合わせた。
「おやおや。最近の学生はそんな物騒な物まで持ち込んでいるのか」
 だと言うのに銃を向けられた相手は全く動じない。長い黒髪を流しながら豊満な肢体を横たえてくつろいでいる人物ーー来ヶ谷は木陰で横になりながら楽しそうに沙耶の事を見ていた。
(迂闊だったわ)
 臍をかむのは沙耶。上からでは見えない位置に来ヶ谷がいたせいで、とんでもない所を見られてしまった。言い訳が出来ない訳ではないが、それでもどこかにしこりが残る。自分のミスで他人に危害を加えてしまうのは心苦しいのだが。
「見られた以上、仕方ないわね」
 躊躇なく指に力を入れる。パンという発射音。キンという金属音。
「は?」
「何もぱんつを見られたくらいでそんなに怒る事はないじゃないか、事故だぞ事故。なんなら私のも見せようか? むしろ一緒に風呂にでも入って洗いっこするか? 君くらい可愛い子ならばおねーさん、大歓迎だぞ」
 沙耶の目が点になった。人間としてダメダメな事を言う来ヶ谷の手にはいつの間にか日本刀が握られていて、それは弾道を遮るようにかざされていて。
「って、えええええええっ!?」
「何をそんなに驚いているんだ?」
 とても不思議そうな顔をする来ヶ谷。眉をひそめる彼女に、もう何て声をかけたらいいのやら。
「くっ。まさかあなた、秘密裏に製造されたというサイボーグ8型!? まさか実用化に耐えられる程、形になっていたなんて!!」
「すまない。話に全くついていけないのだが」
 勝手に戦慄する沙耶はおいておき、来ヶ谷は呆れた顔から一転、またくつろぎ体勢に入る。
「ああ、いい天気だ。こんな日はやはり教室で数学の勉強などしないで日光浴を楽しむべきだな。君もそう思わないか?」
 銃を向けられても何ともない風情の来ヶ谷に、沙耶も平常ではいられない。彼女は確かに特殊訓練を受けているとは言え、闇の執行部の感知器官移植にだいぶ労力を割いている。戦闘専門のサイボーグと戦うには分が悪いと言わざるを得ない。
「それでも勝つのはあたしよっ!」
 来ヶ谷に銃口を向けて、再び引き金をひく。

 カチッ!

「あああああー! 弾丸を補充するの忘れてたー!!」
 手応えの感じられない感触に悲鳴をあげてへたりこむ沙耶。
「ふふふ。そうよ、そうなのよ。いつもこんなミスをするのよあたしは。必死になって敵組織を壊滅させても証拠品を忘れてお手柄が認められなかったようなスパイなのよ。滑稽でしょ、滑稽なんでしょ。笑いなさいよ、笑えばいいじゃないのよ。あーはっはっはっは!」
「あーはっはっはっは!」
「笑うなぁー!!」
「笑えと言ったのは君だろうに」
 落ち込んだかと思えば笑い、笑ったかと思えば怒る沙耶に来ヶ谷も微妙にペースを乱されている。
「まあいい、とにかく私も暇をしていてね。どうだ、袖振り合うも他生の縁。サボリ仲間同士、仲良くお茶をしていかないか?」
 まだあけていないコーヒーの缶を軽く振りながら話しかける来ヶ谷。
「残念だけど、毒の抵抗性をあげる訓練は受けているわよ」
「どんな人生を送れば日本の学校で毒の抵抗性をあげる訓練を受ける羽目になるんだ」
「まあいいわ、話し合いがしたいなら受けてやろうじゃないのよ。ただし注意する事ね、こっちはそっちの情報を聞き出す気満々だから」
「うむ。おねーさんとしても可愛い子に自分の話を聞いて貰うのはやぶさかではないし、君の事についても色々と知りたいぞ」
「なるほど、そっちもそういう腹だった訳ね。確かにうちの感知器官の情報は喉から手が出るほど欲しがる組織も多いでしょう」
 絶妙に話がかみあわないまま沙耶は来ヶ谷の隣に腰掛けて、コーヒーを受け取る。
「それで、あなたはここで何をしている訳?」
「見て分からないか? 授業をサボってお茶をしている」
「ふーん。そう」
 素っ気なく言いながらコーヒー缶を傾ける沙耶に眉をひそめる来ヶ谷。
「なんだ、まるで信じていないような口振りだな」
「信じろって方が無理でしょ。あたし達がそんな下らない言い訳で納得する訳がないじゃない」
「では、そういう君は何をしているのか?」
 不思議そうな来ヶ谷に胸を張って答える沙耶。
「諜報活動よ!」

 チュンチュンと、どこかで小鳥が平和にさえずっていた。

「すまん、もう一度言って貰えるか?」
「だから諜報活動よ。この学園の地下に眠る秘宝を見つける為に派遣されたね。あなただってその目的で授業をサボって下調べをしているんでしょう?」
「いや、初耳だが」
「へっ?」
「この学校の地下に秘宝とやらが眠っているなんて妄想もした事はないぞ、私は」
「じゃあ、あなたは授業をサボっているだけの一般人?」
「だから最初っからそう言っているだろうが」
 苦笑いしつつ冷や汗を流し、見つめ合う二人。今、彼女たちのやっちゃった感は一つに。
「うがぁー! あたしは一般人に何をペラペラと!」
「あー、まあ、頑張れ」
 若干引きながら言葉を添える来ヶ谷。
「どうせあたしはドジよ間抜けよ大ボケよ。ごく普通の一般人に発見された上に銃は簡単に防がれるは弾の補充は忘れるは。あげく機密情報を口走ったあげく信じて貰えないでひかれるような大間抜けよ!こんなのが敏腕スパイなんておかしいでしょ滑稽でしょ笑いなさいよ笑えばいいじゃないあーはっはっはっははっはっはっはっはっはっはっは!!」
「あ、あーはっはっはっは…」
 とりあえず一緒になって無理に笑う来ヶ谷。
「笑うなぁー!」
「もう、おねーさんはどうしていいのかさっぱりだよ」
 疲れきって空を見上げる少女が二人。
「コーヒーのお代わりはいるか?」
「…いる」
 とりあえず、仲はいいようだった。



「あなたっていつも授業をサボっている訳? 不良?」
「授業をサボる訳だから不良ではないとは言えないな。だがしかしこれは担当教師も合意の行為だ。問題はない」
「教師の合意があるならサボりですらないじゃない」
「なるほど、そういう見方もあるな。いやいや、なかなか面白い目のつけどころではないか」
 木陰に腰を下ろしながら談笑する二人。どうやら沙耶は何かを諦めることに成功したらしい。
「でも、授業とか出ないとなんの為に学校に来てるのか疑問に思わない? それとも部活動にせいを出しているクチなのかしら?」
「部活動というか、野球とかをしている騒がしい集団にいるんだ。あそこは本当に興味のつきない集団だよ」
 ニコニコと笑う来ヶ谷に沙耶は少しだけ微笑ましい顔をする。
「なんかそういうのって羨ましいわ」
「少年はからかいがいがあるし、それに可愛い女の子ばかりでな。いつまでも初々しい反応がもうなんのって」
 ニヤニヤと笑う来ヶ谷に沙耶の顔がかなり引きつる。
「ちなみに、私がサボるのは数学だけだ」
「いきなり話題を元に戻されても」
 瞬間的に素に戻った来ヶ谷。そんな彼女に一応のツッコミを入れてから、世間話を続ける。
「でも良いわね。あたしは優等生として振る舞わなくちゃいけないから授業をサボるだけでも一苦労だっていうのに」
「なんだ? 普通にサボったんじゃないのか?」
「違うわよ。女の子の日で体調が悪いって嘘をついたの」
「ほぉう」
 怪しく光る来ヶ谷の目に、ちょっと軽率な事を言ったのではと、沙耶の背中に変なおぞけがはしる。女同士だから構わないと思って言った事だが、そこら辺の男子に言うよりも嫌な気配がしたというか。
「ま、まあそれはともかく。何で教師公認でサボる事が出来る訳? そんな方法があるなら後学の為に是非聞きたいんだけど」
「ん? そもそも私が言い出した事じゃないのだがな。数学教師が問題を出して全問正解したら定期考査以外は出席しなくていいと言った訳だ」
「へぇ」
 そんな事を言うなんて変わった教師がいるんだと思ったのもつかの間。
「いきなり専門分野の高等数学の問題を出すのもどうかと思ったがな。まあ私は今まで通りのサボリが公認されたのだから文句はない」
 その言葉の意味はつまり、今までも来ヶ谷は数学の授業をサボっていて、しかも数学教師が意地悪く出したありえない難易度の問題を全問正解した訳で。
「もうすごくコメントのし辛い話を聞いた気がするわ」
「そんな事なら私もそうだ。いきなり空からぱんつが降ってきて、熱くて硬いものをつきいれられそうになったあげく、スパイだと言われた方の身にもなってみろ」
「うがぁー! もうそのことは無かった事にさせてぇー!!」
 そこでいったん話が止まる。二人してコーヒーをあおり、そしてそれの中身が空になる。
「お代わりはいるかな?」
「いいえ。いい加減にあたしも仕事をしなくちゃならないし。って言うかあなた、いくつコーヒーを持っている訳? そしてどこに持っていた訳?」
「はっはっは。女の子からそんなエロい質問をされるとは思わなかった」
「エロくないでしょ!」
 下らない話をしながら立ち上がる沙耶と、変わらずに木陰に腰を下ろしている来ヶ谷。
「それじゃあね。コーヒー、ごちそうさま。後、私がスパイだっていう事は他言無用でお願いするわね」
「いやいや、こちらこそ。君のような可愛い子とのお茶ならいつでも大歓迎さ」
「私がスパイだっていう事は、他言無用でお願いするわね」
「分かった分かった」
 笑顔で銃を突きつけながら繰り返される言葉。来ヶ谷はそれにも面倒くさそうに手を振るだけで動じた様子もない。
「全く、あなたって本当に変わっているわね」
「君もな。あ、そうそう。出来れば次、黒いぱんつを見せてくれないかな?」
 返事は銃声。来ヶ谷の横の地面が弾ける。
「何変態な事を言ってるのよ、あんたはぁぁぁぁぁ!」
「はっはっはっはっはっはっは」
 肩をいからせて去る沙耶をそのままに、来ヶ谷は楽しそうに笑い続けた。

 プシュっとプルタブをあける音がする。どこからともなく取り出した缶に音をたてさせた来ヶ谷は、それを傾けて苦い液体を喉の奥に流し込む。願いが叶うこの世界は、こういう時は本当に便利だ。
「ふん」
 だが、それと同時に下らない。ここは自分たちだけの世界で、変化なんてありえないから。意識的にせよ無意識的にせよ、今まで感じた事のある事象の繰り返し。変化するとすればそれは、この世界にいる一握りの『人間』しかいない。
「と、なると今の差し金は恭介氏かな。確かに彼の好きそうな設定ではあったが」
 ネタが分かればどうという事はない。今までに感じた楽しいという感情も裏返っていく。
「つまらんな」
 言ってから気がついた。つまらないと、そう感じた自分がいる事に。
「、何を、ばかなことを」
 自分は人形だから、人間の真似をしてい人形だから。そんな感情が芽生えるはずがない。でも、それでももしもそんな感情が自分の中にあったとしたら、この世界を捨ててでも探しにいく価値はあるかも知れない。
「恭介氏の作戦勝ちかな、これは」
 苦笑いが浮かんでくる。あの二人を現実に戻すにはこの世界を壊さなければならず、この世界を壊すには未練を捨てて希望を見させるのが手っ取り早い。だから、そんな思考回路が出てきてしまった時点で策にはまってしまったといっていい。
「だがな、聞いているのだろう恭介氏。このおねーさんはそう簡単には納得してやらないぞ」
 もしも自分を動かす事が出来るのならば、この世界の人間の中の誰かしかありえない。それでもその誰かを想像するだけで、どこか心か踊るのも否めない。
 そんな事を思わせてくれたあのボケボケスパイの顔を思う。自分がどんな表情をしているのか、気がつかないまま来ヶ谷はあの女の子の事をおもう。
「って、いかん。あの子の名前も聞いてなかったではないか」
 そして基本的な事にふと気がついた。これではあの子の事をボケボケと笑えない。でも確か自分の名前を名乗った記憶もないから、彼女もこっちの名前を知らないはずで。
 そんな思いながら立ち上がり、空を見上げれば一面の星空が。数学の授業が最後だったおかげで教室に戻る必要もなく、夜になった事にさえ気がつかなかったらしい。
 月の無い空を見る。太陽一つで容易に隠されてしまう程儚いものであるというのに、それは永遠に煌めき続ける。
「うむ。詩的な思考にふけるのもたまには悪くないな」
 きっともう、あの少女に出会う事はないだろう。来ヶ谷がほんの少しだけ心を動かした時点であの少女の役割は終わってしまったのだから。
「さて。明日辺りからまたリトルバスターズに参加しなくてはな」
 リトルバスターズに参加する事ではなく、あの少女の名前も知れなかった事に憂鬱な気分を覚えながら来ヶ谷は部屋へと戻る。ふと見上げた、雲一つない満天の星空。それはやはりどこまでも自分には似合わないなと、来ヶ谷はそんな事を漠然と感じてしまった。










 世界が流れた。理樹はまた一人、この世界での未練を断ち切って世界の形を崩していく。
「で、私はここで何をしているのだろう…?」
 自問自答。当然の如く答えは出ない。来ヶ谷がリトルバスターズに参加する前日の数学の時間。前回、たまたま気が向いた木陰で今回も横になっている自分に呆れてしまう。
「まさか、ここまで未練を持つとは思わなかった」
 嘆息。ここまで来ると恭介の作戦は大成功だと思ってしまう。自分はこんな扱いやすい人間だったのかと思うと、ちょっとどころではなく気が落ち込んでしまう。
「はぁぁぁ」
 黒が見えた。ため息をついた瞬間、目の前にいきなりスカートを全開のぱんつ丸出しにした少女が現れた。そのぱんつの色は、黒。
「ふむ、空から黒いぱんつを穿いた美少女が降ってくるとは。いやいや、眼福眼福」
「!」
 考えるより先に出た言葉を聞きつけて、その少女は銃を抜き放って来ヶ谷の方に向けてくる。ピンクではなく、黒のぱんつを穿いた少女。彼女に向かって笑いながら言葉を続ける。
「まあ、そう慌てなくてもいいだろう。人に会ったらまず自己紹介をするべきだとおねーさんは思うのだが、君はどう思うかな?」
 自分でも悪戯っぽい笑みを抑える事が出来ない。その少女も、心なしか嬉しそうな顔をしている気がする。
「それもそうね。あたしの名前は――――」
 名前を聞く。そして次に自分の名前を言う。

 名前を交換する事が、こんな楽しいものだとは今まで気が付きもしなかった。


[No.75] 2009/04/30(Thu) 23:08:38
空き缶、金木犀、一番星の帰り道 (No.73への返信 / 1階層) - ひみつ@8297 byte

 夕闇が色濃く町を覆い始める。僕は、その中を歩いていた。
 喧しいぐらいの音と共に前方にあった遮断機が下りてくる。すぐに鉄と鉄が軋みを上げる音が響き、電車が通り過ぎていく。中に乗っている人の顔を判別しようとしたけれど無理だった。ただ車窓から漏れる明かりだけが、残像を残して押し流されていた。やがて遮断機が上がり、僕は歩き出す。
 周りにある家々から夕餉の匂いが漂ってくる。コンクリートと革靴のソールが擦れ合うコツコツという音に意識を向けながら歩き続ける。築5年のバカみたいに真新しいアパートへと。僕は歩き続ける。前へ。
 理樹。十字路に差し掛かったとき、ふいに名前を呼ばれた気がした。首を横に向けてみると長い栗色の髪をした女性がいた。少しして鈴であることに気づく。髪を下ろしているので一瞬、わからなかった。久しぶり。元気だった? うん、そっちは? まぁ、なんとか。短いやり取りの後、歩き出す。踏み出した足は揃って左足。ふいに甘い匂いが漂ってきた。この匂いはたしか金木犀。夕餉の匂いに混じって漂ってくるそれを見つけようと首をめぐらせる。鈴が不思議そうに首を傾げていた。それに合わせて鈴の持っているスーパーの袋が揺れる。
 夕闇。晩御飯の匂い。靴が擦れ合う音。甘い金木犀の香り。隣にいる鈴の笑顔。少しだけ息苦しくて僕は、ネクタイを緩めた。





 
 子供特有の甲高い声が聞こえてきた。見てみると公園の中で手を振り合っている少年たちがいた。また明日な。遅刻すんなよ。わかってらい。少年達は、口々に言い合いながら駆け出していく。その内の一人が僕と鈴の前を通り過ぎていった。
「懐かしいな」
 ぽつりと鈴が呟いた。僕は首をかしげながら、前方に転がっている空き缶を軽く蹴り上げた。少しだけ浮遊した缶は、すぐに地面に辺りコーンという音を響かせた。
「こうやって理樹と二人で歩くのが、懐かしい」
「ああ」
「大学に行っていた時は、大体理樹と一緒に歩いていた気がする」
「そりゃ一緒のとこに住んでたからね」
「うん……」鈴は頷きながら転がっている缶を僕と同じように蹴る。「そうだったな」
「でも、たしかに懐かしいかもね。大学卒業して結構経ったし」
「そうだな。もう結構経ったな。理樹もスーツ似合うようになったし」
「ええ? てことは今まで似合ってなかったの?」
「うむ、七五三くさかった」
 鈴はニヤリと笑う。そんな表情をする時の鈴は、恭介にそっくりだった。嘆息しながら自分の体を見下ろした。
 見飽きた自分のスーツ姿。そう感じるぐらい月日は過ぎていた。
「しかし、あれだな」
「え、なに?」
「んーむ、今になって思うが、あたし理樹と一緒に歩くの好きだった」
「え?」
 照れたのか鈴の頬は仄かに赤い。燻っていた何かがもぞりと僕の中で動いた気がした。僕は搾り出すように「けど……」と呟いた。
「けど少し申し訳ないかな」
「なにがだ?」
「うん……」
 短く答えながら、もう一度転がっている空き缶を蹴った。缶は少しだけ前方で地面に落ちるとコロコロと転がっていく。
「鈴の旦那さんに申し訳ないかな」
「ん? どういう意味だ?」
「奥さんが他の男の人と歩いてるのって、やっぱり面白くないと思うよ」
 その相手が、昔同棲をしていた相手だというなら尚更だろう。
「もしかしたら今の状況も勘違いされるかもしれないよ」
「あいつは、そんなみみっちい奴じゃない」
「信用してるんだ」
「それなりに、な」
「その袋の中に入ってるの、今日の晩御飯の材料?」
「ん? そうだぞ」
「今から作るって遅くない?」
「あいつは残業ばかりだからな。これぐらいでちょうどいいんだ」
 そういって鈴ははにかむ。それなりに、といったがその表情はとても満たされている。旦那さんが帰宅する時間を考えて、材料を買いにいくだなんてしっかり思いやっている証拠だ。僕と一緒にいた頃の鈴は、そんな細やかな気配りが出来る娘じゃなかった。もぞりとまた僕の中で動くものがある。それが押し込められている扉には、準備中の掛札が埃を被ってかけられている。きっとその札は、僕の意志で簡単に取り去ることが出来る。
「レパートリーは増えた?」
「……増えたぞ?」
「同じものだかり食べさせてたら旦那さん、飽きちゃうよ?」
「う、うるさい! あいつはあたしの作るものならおいしいって言ってるからいいんだ!」
「うわぁ……」
「な、なんだ、そのうわぁ、は?」
「いや、まさか鈴の惚気を聞く日が来るだなんて思わなかったから」
「の、惚気てない!」
 叫ぶと何を思ったのか鈴は駆け出した。そして前方に転がっていた缶を蹴り上げると、振り向いて赤らんだ頬を残したまま澄ました表情をして僕のことを見た。自分のほうが遠くへ飛ばしたぞということなのだろう。なんとはなしに蹴っていた空き缶は、鈴の中では遊びになっているらしかった。多分、照れ隠しなんだろうけど。そんな鈴は僕の知ってる鈴そのものだった。
 缶ケリ遊び。昔、下校する時にそんな遊びをしたかもしれない。恭介と謙吾と真人、それから鈴。5人で夕暮れの中、一人一人同じ缶を順番に蹴っていく。ルールなんてなくて、ただ蹴るだけ。謙吾が思いっきり遠くへ飛ばして、それに対抗して真人が力一杯蹴り上げる。けど、力みすぎて明後日の方向へ飛ばしてしまって缶を見失ってしまう。見かねた恭介が新しい缶を用意して、それを鈴が嬉々として蹴る。
 そんなことがあったのかもしれない。僕の記憶は、色々なものと混ざり合ってひどく曖昧だった。人の記憶とは曖昧なものです。そんなことを言った少女がいた。僕はなんとはなしに足下を見る。そこには歪に間延びした影法師。赤いカチューシャをして、いつもケヤキの木の下で本を読んでいた少女。今ではその少女の顔すら明確に思い描けない。ふと鼻腔を甘い香りが通り過ぎていった。金木犀。どこに生えてるのか探そうとキョロキョロと首を動かす。けれど見つからなかった。
「? 理樹どうした?」
「いや、この香り」
「香り? ああ、なんか匂うな。どうかしたのか?」
 鈴は首を傾げる。僕は曖昧な笑みしか返すことが出来なかった。どうかしたかと問われても、どうもしていない。ただ、それでも甘すぎる金木犀の香りが、僕の胸を詰らせる。電車のように忙しなく通り過ぎていく日々の中で、大切だった人たちとの記憶は薄れていく。リトルバスターズというメンバー。皆の顔が霞んでいく。月日が経つ毎に、皆を思い出すことが少なくなっている。いつからか、悲しかったという形骸だけが残っていた。まるで電車の通り過ぎた後に残る、車窓から漏れる明かりの残像のように。
 奥歯をかみ締める。僕は空き缶の下まで行くと、前よりも力を込めて蹴り上げた。カィィンという軽い音を立てながら缶が大きく弧を描きながら飛んでいく。隣で鈴が「おおっ」という驚きの声を上げていた。けど、力を入れすぎたらしくぐんぐんと上昇していた缶は思い描いた軌道を大きく逸れ始めた。くるくると奇妙に廻りながら放物線を描いて飛んでいく。やがて近くの雑木林の中に吸い込まれていった。僕は、ただその缶が落ちた場所を見詰めていた。
 

 




「あたし、こっちだ」
 十字路に差し掛かったとき、鈴がそう呟いた。
「そう」僕は指をまっすぐ伸ばす「僕はこっち」
「ん。理樹」
「なに?」
「久しぶりに理樹に会えて楽しかった」
 そういって華やかに鈴が笑う。曖昧に微笑みながら「うん、僕も」と短く呟いた。僕の声を聞くと鈴はコクリと頷く。それからくるりと振り返ると歩き出した。家族の待つ、家路へと。冷たい風が一陣、通り過ぎていく。それに心を撫でられたのか、ざわりと心が騒いだ。「待って!」僕は鈴の背中へと声を上げていた。心の中にある準備中の札に、そこにいる僕が手をかける。札を引っぺがそうと力を込める。それに習うように僕の体温が上気し始める。僕は乾いた喉を、唾で潤した。
 鈴がゆっくりと振り返った。ドキリと一度、胸が高鳴った。鈴は穏やかに微笑んでいた。それは僕の知らない鈴の顔だった。どうした、理樹? 鈴のその言葉に僕は頭を掻く。
「いや……なんでもない」
「なんだ? 何か言うことがあったんじゃないのか?」
「ううん、そういうわけじゃないから。ごめんね」
「そうか? 変な奴だな」
 そういって鈴はくすりと笑うと、小さく手を振ってきた。それからくるりと踵を返して歩き出した。その背中を見送る。どうして僕は鈴の背中を見ているのだろう。ふとそんなことを思った。けどきっとそれはどうしようもないこと。大学に入学した時、僕と鈴はずっと一緒にいるんだろうと思っていた。その幼稚な思い込みは崩れ去った。別に二人で暮らしている時に何かがあったわけではない。強くなると誓ったあの時から、一心不乱に生きてきただけだ。そうして僕らは一人立ちした。多分、そういうことなのだろう。だから心の中にある準備中のまま扉は、そのままにしておこうと思った。
 僕は歩き出す。築5年のバカみたいに真新しいアパートへと。僕は歩き続ける。前へ。いや、後ろだろうか。よくわからない。会社とアパートを往復する毎日は、どちらが前でどちらが後ろなのか、ひどく曖昧にさせる。それでも僕は歩いている。視界の隅に赤黄色した小さな花が見えた。それは甘い香りを辺りに放っていた。その花の前に屈んで、そっと撫でる。充満した甘すぎる芳香が胸を詰らせた。
 立ち上がると今度は空を見上げた。オレンジ色だった空は、今紫色をしていた。それは藍へと変質する一瞬だけ見せる色彩。その中に小さく光を放っている星があった。一番星。小さく呟いてみる。紫色の中にある小さな光点。その輝きは鈍くて、判り辛い。しばらくその星を見詰めた後、僕は歩き始めた。

 バスターズの記憶はおぼろげで、悲しかったということしかわからない。
 心の中にある準備中の札も、いつしか何を入れていたのか忘れる日がくるだろう。
 僕の毎日は、前か後ろ、どちらに進んでいるのかわからない。


 強くなると誓った僕の導き出した現状の答えは、ひどく曖昧。
 それがとても寂しい。
 それでも僕は生きている。
 それでも僕は歩き続ける。


[No.76] 2009/04/30(Thu) 23:27:21
覆水 (No.73への返信 / 1階層) - ひみつ@5615 byte

 夜、ふとしたことで目が覚めたので、ペットボトルの水を飲み、また床に就いた。しかし、寝過ぎたためだろうか、一向に眠気は訪れない。今日は夕食を摂ってからすぐに眠ってしまったことを思い出す。起きてしまうのも当然のように思う。だが、ここしばらくはそんな風に、暇さえあれば眠ってしまうことが多かった。おそらく病気のせいではないだろう。僕は、起きて何かをするということが酷く億劫になってしまった。毎日、その日の課題や受験勉強が一通り終わってしまうと、他に何もやることが無く、消灯時間前であっても床についてしまう。暇さえあれば、日中であってもずっと寝てしまうことも多かった。
 ベッドの中でじっとしていることにも飽きた僕は、眠気が訪れるまでの時間つぶしに散歩に出ることにした。
 草木も眠る深夜、僕以外に動いているものはなく、虫の声以外に聞こえる音も無かった。もうすぐ秋が迫っているためか、外は少し涼しかった。僕は寮を出ると、薄暗い電灯の光を頼りに校舎へと向かった。
 校舎に到着すると、以前誰かから教わった通り、セキュリティのない第二美術室から校舎に侵入した。昼の校舎の持つ騒がしさとは裏腹に、夜のそれは全くの無音で、そのギャップが、この世のものではない世界に居るような、そんな空恐ろしい思いにさせる。しかし、いつのことか、ここで皆と肝試しをやったことを思い出し、この夜の校舎を懐かしくも感じてしまう。そのまま、階段を最上階まで上り、使われなくなった机や椅子が積み上げられた屋上への扉の前までやって来た。大きめの上着のポケットからドライバーを取り出すと、扉の横にある窓の木ねじを外した。積み上げてあった椅子を使って、窓から屋上へと降り立つと、満天の星空が僕を出迎えてくれた。
 僕は給水タンクの上に登り、腰を落ち着けると、そのまま寝転んでしまう。僕の目の前に星空はあった。小さな光の欠片が、夜空一面にばら撒かれたように、星々が輝いていた。日中の日差しに暖められたためか、空気の涼しさと異なり、背中はじんわりと暖かい。上着を着ていることだし、今夜はここで寝てしまうというのもいいかもしれない。
 何故、僕は屋上に来てしまったのだろう。それにあのドライバーは何だったのだろう。気がつけば持ち出していた。いつのことだったかと記憶を探っているうちに、ここでふたりで流れ星を眺めたことがあったというようなことを思い出す。小毬さんだ。ショートカットで笑顔が眩しい女の子。一緒に流れ星にお願い事をしたりしていたっけ。そのとき僕は、どんなお願い事をしたのだろう?恐らく、「ずっと皆と一緒に、幸せでいられますように」とかそんなものだろう。


 と、そこで流れ星は人が死ぬときの象徴でもあったことを思い出す。その途端に、星空が何かぎらぎらとした薄気味悪いものに見え始める。皮肉なものだ。人が死ぬ象徴に対して「ずっと皆と一緒に、幸せでいられますように」なんて願うとは。だからだろうか。この願いが叶えられなかったのは。
 一年前のあの日、リトルバスターズの皆は、僕と鈴を残して、大きな炎の中に消えてしまった。修学旅行中の事故。あの時僕らは、転落したバスの中で夢を見ていた。長い、永い夢を。夢の中で恭介は言った。取り残された僕らが絶望しないように、過酷な現実を生きていけるようにするためにあの夢を作った、と。
 僕は強く生きていけているだろうか?自問するまでも無く、僕の日常は安定したものだった。だが、それはあの夢のおかげなのであろうか?
 残念ながら、そうじゃないだろう。僕が今、生きていけているのは、恭介たちのおかげではなく、迅速に日常を取り戻そうとする世界の自然治癒力のおかげだ。世界という生き物は、構成する組織が欠損した場合には、周辺組織或いは新たに生まれた組織が欠損箇所を修復する。僕はこの過程を目の当たりにした。犠牲者の葬儀、残された僕らの寮の部屋割りやクラスの変更、その他様々なことが怒涛のように押し寄せた事故直後。一週間が一ヶ月、一年のように感じられ、学園全体が日常生活を取り戻し始めたころには、事故のことなど遠い過去のように思われ、傍目にはあんな凄惨な事故など無かったようにさえ思われた。僕たちも、そんな日常に取り残されまいとしがみついているうちに、胸のうちにあった苦くて縺れ合った思いに目を向けること自体を忘れ、そのうちにそんな思いが片付かないままに薄らいでいった。
 生きている世界の持つ逞しさの前では、彼らの死などかすり傷に過ぎなかったし、彼らがあの夢の中で何をしようと無駄だったのだ。そう、彼らが消えてなくなっても、明日も明後日も世界は、僕の日常は、続いていく。


 しかし、だからこそ、僕は彼らに生きていて欲しかった。
 彼らが自分の魂を捧げようとも、そんなものなど欲しくは無かった。
 ただ、僕の傍に居てくれるだけで良かった。


 だが、彼らは死んでしまい、僕らは生き残ってしまった。僕は彼らを見殺しにしたのだ。あのとき、どうして僕と鈴の二人だけを目覚めさせただろう?僕も目覚めないままだったなら、或いは僕だけが目覚めていたのなら、彼らと一緒になれたのに。
 死後の世界なんてところがあるのか、僕にはわからない。あんな夢の世界があったのだから、あるのかもしれない。死後の世界があったとして、皆そこで一緒になれたのだろうか。出来ることなら、彼らには、あの幸せだった時のままで皆一緒に居て欲しかった。それが、彼らと一緒になるチャンスとその資格を永遠に失ってしまった、僕の唯一の願いだ。
 眠ってしまえば、夢の中で皆に会うことができる。夢の中では全てが優しかった。朝、目を覚ませば筋トレをする真人が居た。食堂に行くと、鈴とともに恭介や謙吾が居た。登校すると、教室に葉留佳さんがやって来て。先生が来るぎりぎりまで居たっけ。休み時間にジュースを買いに行く時、よく来ヶ谷さんに捕まり、裏庭のテラスに引っ張り込まれてた。休み時間や昼休み、ストレルカたちと遊ぶクドをよく見かけた。また昼休みには、中庭のケヤキの下で読書をする西園さんに出会い、屋上でお菓子に囲まれて幸せそうな小毬さんに出会った。そして、放課後。グラウンドには皆が居た。皆が僕の傍に居てくれることは、本当に嬉しかった。しかし、醒めてしまえば、皆居なくなる。それが悲しくて悲しくて仕方がなかった。
 僕は、いつまでこんな気持ちのままで生きていくのだろうか。時が経てば、この縺れ合った思いが解けるのだろうか?それともこのまま、彼らの顔が僕の中でどんどん曖昧になっていくように、この思いも曖昧になってしまうだけだろうか?


 僕は自分の叫び声に驚いて飛び起きた。空は白み始め、カラスの鳴き声がかあかあと騒がしかった。
 僕は何を叫んだのだろう?誰に対して叫んだのだろう?
 頬が濡れて、冷たかった。


[No.77] 2009/05/01(Fri) 00:02:21
星の向こう側 (No.73への返信 / 1階層) - 機密@5116byte

 どこからか蝉の声が聞こえる。自分の存在を精いっぱいアピールするために、強く、弱く、夏の空に響かせていた。そんな蝉の鳴き声に混じって、時限終了のチャイムが鳴る。その音とともに直枝少年は生徒玄関を飛び出していた。友人たちと遊んでいるうちに鍛えられたその脚で、強く、強く大地を蹴った。照りつける太陽にたちまち全身に汗が噴き出す。手のひらで汗のぬぐいながら、直枝少年は走り続けた。
 目指すは、郵便局。校門をくぐり、商店街を一息に走り抜ける。ここには知り合いが多い。全力疾走している自分をあまり見られたくなかった。しかし、
「あら、直枝君。そんなに急いでどうしたの?」
 喫茶店屋のおばさんが声をかけてきた。まずい。いつもなら立ち止まって、息子さんの愚痴を聞くところだが、今はそうはいかない。ここでスピードを落とすわけにはいかない。
「ごめん、おばさん!今急いでいるから!」
「あ、ちょっと…」
 おばさんの返事も聞かずに、走り抜ける。時間がない。一刻も早く、目的地に着かなければならない。腕を今までよりも強く振り上げ、腿に力を入れる。肺に酸素を送り込むため、鼻から空気を思いっきり吸い込む。さっきよりもクリアになった世界を、直枝少年は走る。
 商店街を通ると、まだ建設中の家が立ち並ぶ住宅街だ。ここは、トラックが頻繁に通過する。ここで急いて事故を起こすなんては真似したくない。少しスピードを落とし、それでも、十分なスピードを維持しながら、直枝少年は駆けてゆく。自宅を過ぎるとき、鞄を置いてゆこうか、と直枝少年は思った。そろそろ鞄が重くなってきている。元来生真面目な彼はいつものように教科書はすべて鞄に入れてきてしまった。さすがに辞典などは学校に置いてきているが、ただでさえ夏の日光が彼の体力を奪う。鞄を置くついでに家で少し休憩を…、と考え出したところで直枝少年ははっと我に返る。そんな事をしている場合ではなかった。友が、かけがいのない友が待っているのだ。甘い誘惑に負けるわけにはいかない。直枝少年は首を振って今の考えを打ち消す。そしてそのまま曲がり角を、

ドンッ!

 胸のところへ大きな衝撃。誰かの小さな悲鳴。やけにゆっくりに動く世界。訳も分からずに、直枝少年は倒れる少女の手をつかみ、引き上げる。否応無しに触れ合う体は、細く柔らかかった。
「あ、ありがとうございます…」
 胸の中で少女がお礼を言う。いまだに自分が少女の可憐な体を抱きしめていると気づいた直枝少年は慌てて自分から少女を引きはがす。
「怪我はありませんか?」
「はい…」
 少女は頬を染めてもじもじしている。その時、直枝少年は感じた。今自分たちを確かに包んでいる桃色ほわほわ〜な空気を。今まで男同士で遊んでばかりだった直枝少年は、こんなときどうしていいのかわからない。同級生からラヴレターをもらった時も、どうすればいいかわからずに、友人に助けを請うた。結局、返事は友人がしてくれたのだが、それからしばらく直枝少年は男色家、という噂が尾を引いて現われ、彼はしばらく陰惨な気持ちで毎日を過ごすことになった。
「あの、お名前は…」
 少女が目を輝かせている。直枝少年は焦った。さっきまでの汗は引き、代わりに背中に冷たい汗が流れたのを感じる。それと同時に彼は思い出した。自分には重大な用件があるのだ。こんなところで立ち止まっているわけにはいかない。
「あの…」
「すいません、今とても急いでいるので。えっと、ぶつかってすいませんでした」
 そのまま横を猛スピードで走り抜ける直枝少年に、少女は叫ぶ。
「お名前はー!?」
「直枝です。直枝――」
そして彼は再び走り始めた。



「直枝、さん…か…」
 少女は道を歩きながら、少年の名を口にする。
 残念ながら名前までは聞き取れなかったし、自分も名乗る前に彼は走り去っていった。
「また、会えるかな」
 少女は太陽を見上げる。この火照りは、太陽のせいじゃなさそうだ。



 燃え盛る太陽の熱で、地面に陽炎ができる。その幻影の中を、直枝少年は駆けた。さっきのやり取りで、だいぶ時間を食った。皆はもう集まっているだろうか。皆の期待を裏切るわけにはいかない。直枝少年は一層足に力を込める。曲がり角を、極力注意しながら抜けると、目の前には郵便局。赤い建物の中へ、直枝少年は飛び込んだ。
「おや、直枝君。」
 近所に住むなじみの職員が顔を出す。
「おじさん、僕宛に、に、荷物…届いてないかな…」
 息も絶え絶えに問いかける。
「おお、届いとるよ。…えーっと、これだ。ほら」
 職員は奥から小さな小包を持ってくる。
「ありがとう」
「そんなに急いでどうした。そんなに大切なもんなんか?」
「う、うん。友達と約束してるんだ。それじゃ」
 職員の他意なき質問にどもりながらも応え、直枝少年は郵便局を後に大地を蹴る。荷物には振動がいかないように、壊れないように細心の注意を払いながら。
 もと来た道を再び戻る。可憐な女の子と出会った曲がり角、まだまだ完成しない住宅街、活気づいた商店街。走り、走り、走る。
 そして終着点。学校の真向かいの、その古い木造の家の玄関を開けた。そこには、今自分が履いている学校指定の通学靴が何足も乱雑に置いてある。自分の靴もその中の一つに加え、勝手知ったる我が家のように、直枝少年は二階の階段を駆け上がった。その先にある部屋の前で、彼は息を整えるために大きく深呼吸し、そして、そのノブに触れる。

ガチャリ。

 そこには、彼の親友たちがいた。男三人大の字になって寝ころんでいた彼らは逆さに直枝少年の姿を確認すると、一斉に立ち上がり、苦労をねぎらい、部屋へと迎えた。しかし、彼らの視線は直枝少年の持つ小包にあった。そして、この部屋の主が、押し入れの中から段ボールを一つそっと取り出す。ねぎらいの言葉をかけ終わると、部屋が急に静かになる。誰もが無言で、最新型のクーラーだけがゴウゴウとやかましくその存在を示す。その重たい空気を破って、部屋の主が直枝少年に話しかけた。
「…直枝、ついに届いたんだな」
 直枝少年は汗を滴らせながら、笑顔で。





「ついに届いたんだ!エロ本の、乳首の星を消す道具が!!」
 男たちの目指すものは、いつでも星の向こう側にある。


[No.78] 2009/05/01(Fri) 07:52:17
雨上がりの夕闇に明星を見つけて (No.73への返信 / 1階層) - ひみつになってるのだろうか@19071 byte

『……理樹くんさ。つらくない?』
 いきなりだった。
 トイレで用を足して戻ってきたところ、入口近くで待っていた沙耶はそう言った。何のこと、と問い返す。誤魔化しとかじゃなく、真剣に何の話なのか掴めない。彼女は見るからに言いにくそうに、
『あー……それはほら、アレよ、アレ。いろいろあるでしょ? あるのよね?』
 とかなんとか、要領を得ないことを言う。
「そう言われてもなぁ。いったいなんなのさ」
 一応、思い当ることがないか考えてみる。そういえば、ちょっと周囲の視線が気になる、ということはよくある。というか、今もだ。でも、さすがにとっくに慣れたことだし、別に辛いというわけでもないけれど。そう、辛いというわけではないが、早く教室に戻ったほうがいいだろう。教室近くのトイレが混雑していたから遠出したものの、それで授業に遅れるのも馬鹿らしい話だ。
『だから、その……ああ! ちょっと、引っ張らないでよっ』
「引っ張るなと言われても」
 沙耶は僕からあまり離れることができない。そっちが勝手にくっついてくるだけで、僕には引っ張っているつもりなんてないんだが。言ったところで納得する子じゃないのはわかっているのだけど、つい溜息が出てしまう。せめて自主的についてこさせようと思って、立ち止まって振り返る。
 色素の薄い彼女の身体越しに、雲間に覗く青空が見える。その奥から射し込む太陽の光。どこか神秘的な匂いの漂う光景だった。
『――ああ、もうッ! 理樹くんだって年頃の男のコなんだから、オナニーとかいろいろしたいんじゃないの!? あたしがいたんじゃできないでしょ!? そこんとこどうなのって話よ! わかった!?』
 台無しだった。いろいろと。



 何を怒っているのか、授業中、沙耶はずっとそっぽを向いていた。さすがに授業中は話しかけられても応えられないのだから、どちらかといえば楽だけど。そんな、いかにも怒っていますって態度を取られたら、気になるじゃないか。
「――じゃあ、テキストの43ページ、問の3。10分で」
 数学教師が告げると、教室中からページをめくる音が聞こえてくる。僕もそれに倣った。該当ページを確認する。解こうと思えば解けないこともないけれど、いかにも面倒そうな問題である。どうせ今日の日付なら僕が当てられることもないし、放置して沙耶の様子を窺うことにした。彼女はどこを見ているのだろう。
 窓の外。どんよりと広がる灰色の雲に、そういえばもう6月に入っていて、梅雨が近いのだということを思い出す。その代わり映えしない景色を眺めている沙耶。透き通るように美しい髪は、目を凝らして見れば本当に透けていて。その向こうに映る曇り空のせいで、少し濁っているようにも見える。
『あ』
 沙耶が唐突に振り向いた。ドキリとして、僕は慌てて黒板に視線を戻す。しかし沙耶は、目敏くも僕のキョドっぷりに気付いたらしい。
『ん? どうかした?』
 いやなんでも。沙耶の後姿に見惚れてたとかそういうのは全然ないから。とかなんとか必死こいて弁解したい心持ちではあるんだけど、さすがに授業中にそれをやるわけにもいかず。誤魔化すつもりで例の練習問題に着手する。意外とすらすら解けた。
『……ま、いっか』
 ふう。
『ねぇ理樹くん』
 沙耶だって今は応えられないことはわかっているはずなんだから、そんな風に声をかけないでもらいたい。無視してるみたいになって気分が悪いじゃないか。そういえば今気付いたが、いつの間にか怒りのオーラは鳴りを潜めている。
『雨降ってきた』



 その日の授業が終わる頃には、雨脚はだいぶ酷いことになっていた。寮まではそんなに距離がないとはいえ、傘なしで行くには少しばかり辛い感じである。まあ僕はちゃんと持ってきているけども。
「うーむ」
 昇降口で立ち往生しているのは鈴だった。腕組みして仁王立ちして唸っている様子は、意味もなく偉そうに見える。明らかに傘を持ってくるのを忘れた風だったけど、声をかけたほうがいいだろうか。いやしかし。
 迷っているうちに、鈴のほうが背後に立つ僕に気付いたらしく、
「うにゃあっ!? な、なんだおまえ! あたしの後ろに立つな!」
 警戒心ビンビンの猫よろしく、ずしゃあっと距離を取られる。いつも通りの2メートル。
『わーお。なんか今のってスパイっぽい台詞じゃない? いいなぁ、言ってみたいなぁ』
「いやいやスナイパーだから」
 ついツッコミを入れてしまったけど、それはしっかり鈴にも聞かれていたらしく、じりじりと後ずさっていた。これも慣れたこととはいえ、ちょっと傷つく。
「……い、いるのか?」
「うん、まあ」
 これでも出会ったばかりの頃よりはだいぶマシになったんだよなぁ、とちょっとした感慨に耽る。当時はちょっと目が合っただけで、電車内で遭遇した痴漢を見るような怯えと警戒心に満ちた表情をされていたものだ。距離も常に3メートルは空いていた。それを思えば、たいした進歩であるような気がしてくる。
「……理樹、なんだかジジ臭い顔してるぞ」
「あれっ、そう?」
 少しショックだった。それはともかく、なるべく鈴に近寄らないようにしつつ傘立てへ。自分のものはわりとあっさり見つかった。
「傘、貸そうか?」
「…………」
「いやそんな、別に一緒の傘に入ろうとか言ってるわけじゃないから」
『嫌われたもんねぇ、理樹くんも』
 ええい、うるさいな。いったい誰のせいだと思ってるんだ。
『威嚇されないだけまだマシよね』
 だからうるさいって。もうツッコみたくてしょうがないけれど、耐える。この状況でちょっと怒り気味のツッコミなんか入れたら、それこそ鈴は逃げ出しかねない。
 そんな感じで悶々としていると、砂糖菓子みたいに甘い声がかかった。
「あれ、理樹くんとりんちゃん?」
 小毬さんだった。いつものほんわか笑顔でこっちに歩いてくる。
「こんなところでどうしたの?」
「ああ、それが……」
 掻い摘んで説明する、というかそれほど込み入った事情があるわけでもなく、単に鈴が傘忘れて帰れないというだけなんだけども。とにかくそれを伝えると、
「じゃありんちゃん、私の傘に一緒に入って帰る?」
 さすがの小毬さん。鈴の表情もぱっと明るくなる。傘を貸す貸さないというだけの話だったはずなのだが、どうしてここまでこじれてしまったのか。なんにせよ、これで問題は解決だ。
「じゃあ小毬さん、悪いんだけど鈴のこと、よろしくね」
「いえいえ、おっけーいですよ〜」
 ニコニコと可愛らしい笑顔で快諾してくれる。鈴に彼女みたいな友達ができたことを、改めて良かったと思う。
 引き継ぎが終わってもう長居する理由もないし、そうしていては鈴に迷惑だろうからさっさと立ち去ることにする。
「り、理樹!」
 その僕を当の鈴が呼び止めたものだから、少なからず驚いた。
 振り返ると、鈴は小毬さんの背中に隠れてチラチラと窺うように僕を見ている。何か言いたげな様子だ。僕を避けているはずの鈴が、わざわざ呼び止めてまで言いたいこと。期待してもいいようなことなのか、それともその真逆なのか。
 やがて鈴の小さな口から紡がれた言葉は、
「……ごめん」
 そのたった一言で。僕はなんと言うべきか迷い、結局何も言えないでいる内に、鈴は小毬さんを引っ張って行ってしまった。
 なんだったんだろう、と誰にともなく呟く。
『……へぇ。ふーん』
 沙耶はなにやら訳知り顔で、何かに納得したように呟いた。



「傘、入ったら?」
『別にいいわよ、濡れるわけでもないし』
 寮に向かう道の途中。僕の提案を、沙耶はあっさりと流してしまった。確かに間違いではない。降り注ぐ大量の雨粒は、ぷかぷかと浮かぶ彼女の身体を濡らすことなく、通り抜けて地面に落ちていく。間違いではないし、わかってもいるのだが、こんな大雨の中に女の子を晒しておくのはどうにも気分が悪くて仕方がない。これで『あ、あああ、相合傘なんてできるわけないじゃない!』みたいな反応だったらまだ可愛げがあったんだけどなぁ、なんて馬鹿なことを考えていると、
『……理樹くんさ。つらくない?』
 沙耶が突然そんなことを言い出した。さっきも聞いたような台詞である。
 一応女の子なんだし、しかも美少女なんだから、あんまりオナニーとか言ってほしくないんだけど。それとも僕がずっと気付いていなかっただけで、この娘、実はかなりの変態さんだったりするのだろうか。だとすれば、長い間ずっと一緒にいたというのにそんなことにも気付けなかった自分が不甲斐なく思えてくる。
『……何よ、その目は?』
「いや……大丈夫だよ。沙耶が変態だとしても、僕は軽蔑したりしないから」
『なんの話をしてんのよッ!?』
 一頻りぎゃあぎゃあと喚いた後、ハァハァと息を荒くしながら沙耶が補足説明してくれた。
『だから、さっきも話したけど! あたしがいると、理樹くんはいろんなことが出来ないでしょ? それがつらくないのかってこと!』
 だったら最初からそう言ってくれればよかったのに、とは言わないでおく。
「そうだなぁ」
 沙耶とは小さい頃からずっと一緒で、今となってはそれこそ一緒にいるのが当然みたいな、そんな感じの間柄であると、僕は勝手にそう思っている。沙耶の言動にいろいろ困らされた経験も多いし、喧嘩だって何度もしたけれど、それを辛いとか苦しいとか、あまり考えたことはない。
『例えばさ、あたしがいなかったら鈴ちゃんに避けられることもなかったんじゃない?』
「あー」
 それは確かに、と僕は頷く。
 僕が恭介たちと初めて会った時のことだ。どういうわけか蜂の巣退治に巻き込まれた僕は、よくわからないまま地元の新聞にまで載る事態となってしまったのだが、その写真に偶然、沙耶が写ってしまったのが問題だった。悪いことに、撮影当時の沙耶は何を考えていたのか、見えないのをいいことに鈴へのイタズラを敢行していたのである。小学生が蜂の巣を退治したというお騒がせ記事は、まるで別方向の騒ぎを巻き起こすことになった。
「まあ結果はアレだけど、沙耶にだって悪気があったわけじゃないんでしょ?」
 だいたい、最悪な出会いのわりに、僕らの関係は今に至るまで続いているのだ。細かいことを気にしない恭介、真人、謙吾が僕と鈴の間にいてくれたから、というのが大きい理由だろうけど。なんにしても、鈴だって今はもう沙耶が人畜無害な存在であることはわかっていると思う。鈴が僕、というか沙耶を避けているのは、彼女が来々谷さんを警戒して近づこうとしないのと同レベルなんじゃないだろうか。
 そうやって、自分でもなんでこんなに熱心なのかわからないぐらい沙耶を擁護するような理屈を頭の中で並べ立てていると、
『あったかも、悪気』
 僕の努力をブチ壊しにするようなことを言ってくれた。悪気あったのかよ!
『あー、別に鈴ちゃんにはなかったけど。そもそもアレ、恭介さんにやったヤツだし』
「え、そうなの?」
 そういえばあの時、恭介は写真を嫌がる鈴を逃がさないように捕まえていた。恭介へのイタズラが鈴に対してのものに見えてもおかしくはない。というか、初耳である。鈴もあれで単純だから、ちゃんと説明すればあそこまで気にしなかったかもしれないのに。失われた10年ってこういうことか。いや、まだ10年も経ってないけれど。
 しかしここでひとつ、新たな疑問が生じる。
「なんで恭介?」
『ないしょ』
 悪戯っぽく笑う沙耶に、これは聞き出せそうにないな、と小さく溜息をつく。
『話戻すけど』
 目の前に寮の入口がある。僕はもう少し沙耶と二人で話をしていたくなって、来た道を引き返すことにした。
『あたしがいたら理樹くん、彼女とか作れないでしょ? お年頃なのにかわいそう』
 可哀想とか言うわりに、声音はむしろ面白がっているように聞こえる。しかし彼女か。言われてみて気付いたけど、実はあんまり考えたことがない。お年頃なのに、だ。別に僕は同性愛者でもなければ二次元に嫁がいるわけでもないというのに、これは問題じゃないだろうか。
『鈴ちゃん、たぶん理樹くんのこと好きなんだと思うよ』
「はぁ?」
 沙耶がいきなり変なことを言うもんだから、思わずそれ相応の変な声が出た。もしかして、さっきの『……へぇ。ふーん』はそれなのか。あの流れからどうしてそういう結論に達するのか理解できない。根拠はなんだ根拠は。
『女のカン』
 まるで当てにならない根拠だった。というか、こと恋愛に関して沙耶に大きな顔をされるのは納得いかない。沙耶にだって恋愛の経験などあるはずがないのだから、それで女のカンだなんて言われても。その旨を伝えてやると、沙耶はむくれて、お姉さんぶった口調で言った。
『童貞の理樹くんと違って、あたしにはちゃんと恋愛の経験あるんだからっ』
「はぁ?」
 また変な声が。って、いやいやいや、ちょっと待て。沙耶にいつ、どこで、どうやって恋愛をする機会があったというのだ。まさか一丁前にクラスメートの男子Aに片想いでもしていたというのか? そもそも文脈からしてここで言う恋愛に片想いは含まれないのではないだろうか。え? 片想いしてたの? え? マジで? 誰に? 誰にだよ!? 誰―!?
『言っとくけど、ちゃんと両想いだったわよ』
 ああ、なんだ片想いじゃなかったのか、よかった、って全然よくないじゃないか! それこそいったいいつどこで両想いになれるっていうんだよ! そして相手は誰だよ!
『懐かしいなぁ……甘くて、切なくて、ちょっぴりお馬鹿な恋……もう、懐かしいって思うぐらい時間が経っちゃったのね』
 なんだか感慨深げに言っているが、甘い切ないというのはいいとして、お馬鹿なのはどうなんだ。ちょっぴりなんて可愛らしく形容しているせいで余計浮いている。
 しかし沙耶の言い草からするとけっこう昔のことみたいだけど、それって子供の頃ということだろうか。果たしてそれは本当に恋愛だったのかという疑念が湧いてくる。
「なんかこう、おままごととかと勘違いしてるっていうのは……?」
『失礼ねー、ちゃんとした、オトナの恋愛よ』
 オトナってカタカナで言うのやめて! やめてよちょっと!
 最初に沙耶が言ったことを思い出す。童貞の理樹くんと違って。単に比較対象として出すだけなら、「理樹くんと違って」と言えば事足りるはずである。そこにわざわざ、「童貞」だなんて屈辱的な単語を付け加えるということは、その、つまり。
 ――なんだろう、この得も言われぬ喪失感は。
『まあ全部冗談なんだけどね』
「…………」
 沙耶は、やーいひっかかったひっかかったー、と僕を笑った。
 開いた口が塞がらないとは、このことだろう。あまりの脱力感に、ツッコミを入れることさえ叶わない。そもそも口が開きっぱなしなので喋れない。もっとも、いろいろ矛盾だらけで明らかに破綻しているのに気付けず、まんまと騙されてしまった僕も僕なのだが。まあなんにせよ、安心した。
 ――安心? 今、安心したのか、僕は?
『理樹くん』
 沙耶はふわりと宙を舞うと、傘の下に入り込んでくる。そんなに大きい傘ではないから、二人で入るにはぴったりとくっつかないといけない。沙耶は僕に身を寄せると、恋人同士がするように腕を絡める真似をした。僕の身体と沙耶の身体はいろんなところが触れ合っているはずで、でも僕には沙耶を感じることができない。いつのまにか僕は、立ち止まっていた。
 いつも浮いているからその印象は薄いが、沙耶は小柄だ。その小柄な沙耶が、僕にぴったりと寄り添ったまま、見上げてくる。ひどく儚げな笑みを浮かべて。その儚さは、色素の薄い彼女の姿によるものなのか、それとも。
『これまで、ずっといっしょにいたけど』
 聞いたことのないような声だと思った。ずっと年上の……なんというか、そんな感じの声だ。
『あたしがいなくなったほうがいいなら、ちゃんと言ってね』
「…………」
 それは、本来の話題から決して外れてはいないはずの言葉だ。なのに、この違和感はなんだろう。いや、これまで気付いていなかっただけで、そもそもがおかしいのだ。どうして沙耶は、自分がいなかったら、なんて話を始めたのか。沙耶との付き合いは長いが、彼女がこんなことを言うのは初めてのことだ。
『言ってくれたら、そうするから』
僕はただ、混乱していた。混乱しているなりに、僕が望めば本当に沙耶は消えてしまうのだろうということだけは、なんとなく感じられた。根拠なんてないけれど、でも、さっきの恋の話みたいに冗談を言っているわけではないのだと。そう、感じ取ってしまった。
 何か言わなければならない。何と言えばいいのだろう。僕が望めば沙耶は消える。でもそれは、逆を言えば――
 ずっといっしょにいてほしい。
 そう言えば、望めば、沙耶はその通りにしてくれるということにならないだろうか。
 それは、素晴らしい考えであるように思えた。言うっきゃない、むしろ言わなきゃ男じゃないと、僕はなぜか確信した。しかしいざ口を開こうとすると、心臓がなんかもうすごくバクバク鳴っているのに気付く。なんだこれは。まずい。なんかクラクラしてきた。落ち着く必要があるが、こういう時の定番である深呼吸ができるような状況ではない。このみっともなく鳴りまくる心臓の音が沙耶に聞こえやしないだろうかと不安になり、挙句、そもそも今言う必要はないのではないだろうか、とヘタレ極まる考えが浮上してきた。僕は僕のヘタレっぷりを責めない。戦場で最後まで生き残るのは、臆病なやつなのだ。臆病もヘタレも似たようなものだ、きっと。そう、一度撤退すべきかもしれない。こういうのはもっとこう、ムードとか考えて、うん。ムード。ムードというなら、それこそ今この時が絶好の機会ではないのか。雨の中、傘の下に二人、身体を寄せ合って。儚げな笑顔で僕を見上げてくる沙耶が、『いなくなったほうがいいなら、言ってね』なんて悲しいことを言って。今言わないでいつ言うというのだ。これはやっぱり今言うべきだ。言ってやれ。どうせそんなにこっぱずかしいことになりはしないのだ。沙耶が『うんがー!』とか奇声をあげてギャグシーンに早変わりするに違いない。だから大丈夫、何も恐れることはない。言え、言うんだ、言ってしまえ、直枝理樹――!
『あっ』
「ひぃっ」
 テンパりまくっていた僕の思考は、そんな沙耶の小さく短い一声でまとめて吹っ飛ばされた。正直ビビった。急に声を出さないでほしい。しかも沙耶は、僕から身を離して傘の外に出て行ってしまった。まるで逃げるみたいに。
『雨、止んだみたい』
「ああ、うん……そうだね……」
 傘を閉じる。
 いつの間に降り止んでいたのだろう。あれだけ分厚かった雨雲は散り散りになっていて、実は雨が止んでからそれなりに時間が経っていたのかもしれない。遠く西のほうに広がる夕焼けと宵闇が、妙に美しかった。
『あっ、一番星見っけ』
 どこ、と僕が聞くまでもなく、沙耶は空を指差していた。その先をずっと辿っていくが――
『ああ、雲に隠れちゃった……』
 沙耶は見るからに落胆していた。一番星なんて流れ星と違って別に珍しくもないんだから、そんなにがっかりしなくてもいいと思うけど。しかし彼女はあっさり気を取り直したようで、
『うーん。あたしの星も、この広い空のどこかにあるのかしらね』
 またよくわからないことを言い出した。
「あたしの星、って……どういう意味?」
 何かの喩えだろうか、と僕はその程度に考えている。対する沙耶の回答は、実に簡潔だった。
『どういうって、そのまんまよ。ほら、ヒトって死んだらお星様になるって言うじゃない』
 昔理樹くんのお母様に教えてもらったの、うちのお父さんにはなんとなく聞きにくくって――軽く笑いながら、なんでもないことであるかのように言う沙耶。僕は軽い衝撃を受けていた。いや、軽くはない。じわりじわりと、少しずつ響いてくる。
 沙耶は死んでいる。
 僕は、なぜか、今になって初めてそれを実感した。重力を無視して宙に浮き、色素の薄い半透明の身体は、モノに触れることができない。僕以外の誰も沙耶の姿を見ることはできず、その声は届かない。そんな、あきらかにヒトではない存在――幽霊である沙耶とずっと一緒にいて、それなのに僕は、沙耶は生きているのだと思い続けていたのだ。
 あるいは、ずっと一緒にいたからこそ、かもしれない。沙耶は、明るくて、考えていることが顔に出やすくて、子供みたいに拗ねたりして、呪いとかポルターガイストとか、それっぽいことも全く出来ない。沙耶にはそもそも、そういう陰湿なイメージがまるで似合わないのだ。それは、沙耶とずっと一緒に過ごしてきた僕が、一番よく知っている。
 そうだ。僕は沙耶とずっと一緒にいた。ずっと一緒にいたのに、わからない。
 沙耶が、いつ、死んだのか。
 小さい頃、沙耶と一緒にサッカーをやっていたのを覚えている。あの時、彼女は確かにボールを、その足で蹴っていた。僕と沙耶が出会った時、彼女は生きていたはずなのだ。なのに、彼女は死んでいて、幽霊として僕の傍にいる。
 僕には、沙耶の死を悲しみ、涙を流した記憶がない。
 心がひどくざわついているのがわかる。沙耶は、ほとんど夜闇に変わりつつある夕焼け空を見上げていた。その表情は窺えない。色素の薄い彼女の身体が、そのまま空に溶けて消えてしまうのではないか。そんなことはありえないと思いながらも――僕が望もうが望むまいが、沙耶は遠からず僕の前からいなくなってしまう。そんな、強く恐ろしい予感があった。
「さ、沙耶」
 勝手に口が開いた。声は震えている。
『んー?』
 振り向いた沙耶はいつも通りの様子で、僕を見ていた。穏やかな笑みを浮かべている。少しだけ、落ち着くことができた。
 しかし、僕は言葉に詰まっている。そもそも、何を言おうと考えていたわけでもないのだ。沙耶は僕のすぐ前に降りてきて、僕の言葉を待つように覗きこんでくる。
「……う、うう……」
『理樹くん……?』
 何か、変な心配をさせてしまっているような気がする。あまりの情けなさに泣きたくなってきた。早く何か言わなければ。結局、どうせいくら考えたところで言葉は出てこないのだから、もう思うままに言ってしまえと、なかばヤケクソ的な結論に達して、
「こ、今月の修学旅行!」
 そんなことを言っていた。
『修学旅行?』
「その……デート、しよう」
 もっと気の利いたことを言えないのかと、僕は自分自身に軽く失望を覚えた。しかも微妙に前後が繋がっていなくて意味がわからないような気がしてくる。慌てて補足を入れる。
「いや、だから、その! 自由時間とか、二人でいろいろ見て回るとか、そういうことで!」
 頭を抱えたい気分だった。恐る恐る、沙耶の様子を窺う。もし断られたら――それは、考えないことにする。
 僕はやはり、これからも、沙耶とずっと一緒にいたいのだと思う。でも、それは叶わない願いなのではないか。信じたくないのに、僕はもう、心のどこかで信じてしまっている。だから、せめて、
『……いいよ』
 沙耶が約束してくれたなら。少なくとも、それまでは、沙耶は僕と一緒にいてくれる。我ながら、あまりに後ろ向きで、けれど切実な願いだった。
『デート、しよ』
 無邪気な沙耶の笑顔がどうしようもなく愛おしくて、僕は、この幼馴染みの幽霊に恋をしているのだということに気付いた。


[No.79] 2009/05/01(Fri) 10:13:44
勇者と旅人 (No.73への返信 / 1階層) - ひみつ@9011 byte

 帰ってきて疲れた体を布団に投げ込むと、あの日「蛍を見に行く」と言った声が蘇った。今日の鈴と同じように唐突に、それでいてより強引な計画だった。
 懐中電灯を一つだけ持って、先頭をずいずい歩いていく。二番手にいた僕は背中を決して見失わないように、ただそれだけで必死だった。
「何だか、ゲームの冒険者みたいだな」
 ちょっと肉弾戦好きなやつが多すぎる気もするが、と額に汗を粒にして浮かばせながら笑って言う。
「それなら、勇者は恭介だね」
 戦士に格闘家、仮に僕は魔法使いとするとして、このパーティならば勇者は決定事項だった。少なくとも、僕の中で他の考えなんて何も思い浮かばなかった。
「違うな」と言う声が、だから、記憶に色濃く焼き付いている。
「もし俺が勇者なら、もうとっくに死んでしまっているだろうさ」
「……でも、誰かが勇者じゃないと」
「ああ、わかってる。だから、今から俺が勇者だ。その代わり、理樹、お前は勇者にはならないでいいんだ」
 どんなつもりでそんな言葉を言ったのか、今の僕から想像することは酷く難しい。ただ、僕は勇者ではなかった。それだけは、確かなことだ。
 眠りに落ちるその時まで、夜の木々の中にぼんやりと浮かんだあの影を、何度も何度も思い出していた。



 ○



 虫よけスプレーくらいしてくるべきだった――と、そんなことばかりをぽつぽつと考えながら歩いていた。足下を導いてくれるのは、頼りにできそうもない小さな懐中電灯の明かりだけ。うっかりすると木の根に躓きかねないから気を抜くこともできないし、かといって慎重になりすぎると、今度は鈴のペースに遅れて文句をいわれてしまう。厄介なことこの上ない。
 夜の森というべきか山というべきかわからないが、ともかく木々の間を抜けて歩き続ける。夜ともなればもう少し静寂な空気に満たされていると思っていたけれど、よくわからない鳥の羽ばたく音や鳴き声、枝葉の擦れる音など、とてもではないが静かであるとはいえそうもない。昼間と違い視界の閉ざされた夜である分、かすかな音の破片が耳にこびりつく。
「なあ、理樹」
「何?」
「暑くてしょうがないから何とかしてくれ」
「……水でもぶっかければいいの?」
 暗闇の中、飛んできた鈴の左手を受け止める。つっこみに拳はよして欲しいと何度も言っているけれど、やはり改善される気配はない。足が飛んでこないだけましといえばましなのかもしれない。
 少し歩くペースを落としたかったので、手綱を取るのと同じ要領でそのまま鈴の手を繋いでしまおうとしたら「暑いって言ってるだろ、ぼけー」と握った手を振り払われた。ため息を一つだけついて、気にせずに歩き続けることにする。
「まあ、そのぶっかけるのに使えるような水もないんだけどね」
 来る途中にコンビニで買ったペットボトルのお茶は、七割を鈴が、残りの三割を僕が摂取して、すでに飲み干してしまっていた。
「やっぱり、理樹は役に立たないな」
「やっぱりってなにさ、やっぱりって」
「理樹なら行き道覚えてると思ったのに、全然覚えてなかったじゃないか」
「いや、そんなこといわれても」
 僕だって、子供の頃の記憶は曖昧だ。だいたい、言い出しっぺである鈴が勝手に僕に期待をしておきながら、そのあてが外れたからといって文句を言うのは筋違いにも程がある。
 そもそも「蛍を見に行く」と鈴が言い出したのだって今日の朝だ。行くこと自体には、僕だって文句はない。でも僕の方は幸い何も用事は入っていなかったけれど、鈴の方は何かの講義が入っていたはずだ。
「んなもんしるかー」
「レポートとかどうするのさ。僕だって手が空いてるわけじゃないんだから、たぶん手伝えないよ?」
「……んなことしるかー」
 これはきっと、レポートではなくて「僕の事情など知ったことかー」という意味なんだろうなと思いながら、なんだかんだで手伝っているだろう未来の自分の姿を想像してまたため息を一つ。
「鈴、ところで道はちゃんと合ってるの」
「たぶん、期待しない方が幸せになれるな」
 そんなことを自信満々な口調で言われても困るだけだ。ため息をつきたくなるのを我慢して、暗く閉ざされた周囲に視線を回してみる。
 果たして今歩いている場所は昔一度通った道なのか、違うのか。自分の記憶に尋ねてみてもまるで覚えていない。
 子供の頃、五人で、確かに僕はここに来たことがある。ここの何処であるとか、細かいことは欠片も記憶していないが、確かに来たことはある。それは覚えている。
 この森の入り口までの道筋には見覚えはあったけれど、中に入ればそんなものなんて微塵もない。鈴に言われて思い出した記憶だって、かろうじて見える背中を頼りに歩き続けていたということだけだ。あの時の僕にとってはあの背中が道だったのだし、今はその背中はないのだ。道筋なんてわかるはずがないし、覚えているはずもない。
 とどのつまり、僕らは正しい道と信じながら迷っていくしかない。ちらりと見上げても空なんて殆ど見えず、木の枝が知らぬ間にうごめいて、夜空にあるはずの月や星の微かな光さえ、僕らから奪っているように感じられた。
 視線を戻すと、何かフィルターのようなものが幾重にも重なったかのような、ぼんやりとした影が見えた。一瞬、目を疑った。とっさに「鈴?」と呼んだのも、上手く言葉にならなかった。
 ゆらゆらと、まるで旅人を導くように先を進んでゆく影。
 その一瞬、かつて、追いかけ続けていた背中がそこにあった気がした。――けれど、そんなはずはなかった。すぐにはっきりと鈴の背中が見えた。
 何度か目を擦っても、やはり見えるのは鈴の背中だ。
「今なんか呼んだか?」
「いや、なんでもないよ。ただ、もう後は鈴の勘に任せる」
「なんだ理樹。死にたいのか?」
「いや、死にたくはないけどさ」
 いったいどれだけ自信がないんだ。
「でも、たぶん、鈴なら大丈夫だよ」
「そんな期待してもしらないぞ」
 きっと、大丈夫。そう言いながら、僕はもう一度鈴の左手に手を伸ばした。一瞬不満そうな顔も見えたけれど、今度は振り払われることはなかった。
 ほんの少し力を入れてみると、汗でじんわりとした鈴の手はどうしてか心地がいい。鈴の言うように、確かに熱気は増したけれど。





 僕らの繋いだ手の中で汗が滅茶苦茶に混ざり合い、繋いでいるという感覚すら忘れそうになった頃、ようやく目的地に到着した。
 空を切れ間なく覆っていた木々の枝がなくなり、唐突に夜空が開けた。霧のような薄い光に包まれていた。光の源を視線で追いかけると、数える気すら起きないほどの星がやはりそこにはあった。
 やっと現れた見覚えのある景色からは、水の気配が薫っていた。薄闇を見渡しても草しか見えないのは、背の高い水草に覆われているせいだろう。ぼんやりと立っている内、いつの間にか靴が水で濡れている。
 僕らは近くにあった大きな石の上に腰を下ろした。二人で乗るには流石に窮屈だったけれど、文句はなかった。
「確か、昔はもっと楽々座れてたよね」
「理樹が太ったせいだな」
「僕だけじゃなくて、僕と鈴が普通に成長しただけだと思うよ」
 鈴の返答はなかった。覗ってみると、じっと前を見据え、何かを探しているようだった。僕はそんな鈴の真剣な横顔を見てようやく、ここに来た目的を思い出した。
 鈴をまねるように、僕も辺りを見回してその姿を探す。視界の端から端まで、神経を集中して視線を送る。けれど、しばらくそうしても、全く現れる様子はなかった。
 以前来た時はもう少し早い時期だったろうか――そんな考えが頭を過ぎた時、鈴の大きなため息が辺りに響いた。
「理樹」
「何? そんな大きいため息すると逃げるかもよ」
「もう、蛍も、いないんだな」
 三角座りをした鈴は、頭を抱えた膝の中に押し込んですっかり小さくなった。「こんちくしょー」というくぐもった声が聞こえた。目を離せばすぐにでも消えてしまいそうで、ただ僕自身が安心したい為に、僕は鈴の上にそっと手を乗せた。
 絶望だとか、そういうのとは違う。そんなものはずっと前に置いてきた。いや、置いてきたわけでもない。でも今更引っ張り出すほど、僕らは弱く生きてきたわけじゃない。
 ただ、ほんの少し、諦めがつかなかった。
 ゴトリと鈍い音がして、手元にあった懐中電灯の明かりが消えた。鈴の手元から滑り落ちたらしかった。
 電灯とか家の明かりとか、いつも明かりのあるところで生活しているせいだろう。本当に何の明かりもない暗闇には、思わず目を瞑りたくなるほどの圧倒的な圧力があった。かろうじて星の明かりが届いていなければ、僕は恐らく目を瞑ってしまっていただろう。
 そして、緑色の光に気がつくことも、もしかしたらなかったのかもしれない。
 ふわりと、それは僕の目の前を通り過ぎた。
 一瞬驚いたけれど、気がつくと辺りはその光で埋め尽くされていて、今度は今度で驚きの声を上げる暇すらなかった。
「蛍」
 何とか、僕はその光の名前を言うことができた。
「鈴。ほら、蛍」
 僕は笑って言った。跳ねるように鈴も埋めていた顔を持ち上げ、辺りの姿に目を丸くした。
「懐中電灯付けてたのが悪かったのかもね」
「お前、もうちょっと、ロマンチックなことでもいえないのか」
「ごめん。まさか鈴からそんなこと言われるとは思わなかった」
 こんにゃろー、というふやけたかけ声と共に飛んできた左手を、僕はまた受け止めた。同じように、そのまま握りしめる。
「ほんとはな」と鈴は掠れた声で言った。
「もう、蛍なんていないと思ってた」
「うん。実は僕もそう思ってた」
 ――ただ、ほんの少し、諦めがつかなかった。だからこうしているのだ。
「なあ、理樹」
 鈴は言いながら僕の方を見た。まるで間を合わせたかのように、緑の光が一つ、ふよふよと鈴の肩に羽をおろした。鈴はそれをそっと、合わせた手の中に覆った。
「何か知らんが泣きたくてしょうがないのに、よくわからんけど泣けない時は、どうすればいいんだ」
「ごめん、鈴」
 何故だか、さっきから謝ってばかりだ。そんなことを思いながら僕は言った。鈴の言ってることは滅茶苦茶だったけれど、僕も似たようなものなのだ。
「僕も、同じ事を鈴に聞きたかった」
「なんだ。やっぱり理樹は役に立たないな」
「面目ないよ」
「……うん。でも、まあ、いいだろ」
「いいの?」
「しるか。理樹の馬鹿」
「いや、もう、鈴の言ってること意味わかんないから」
「理樹の顔の方がよっぽど意味わからん」
「今は、それもお互い様だよ」
 二人揃って泣きそうな顔のまま、でも結局は泣きはしないで、僕らは意味のないことを言い合った。幾つもの光に包まれながら、酷く懐かしい心地を感じていた。
 蛍がいた。だからどうしたというわけでもない。いないものはいないし、蛍はまだいてくれた。ただ、それだけのことを、記憶の片隅に埋め込むための小さな確認だった。
 暗闇の中に浮かんだ鈴の手から零れるかすかな光が、鈴の手を離れる時まで、僕らはそこに座っていた。


[No.80] 2009/05/01(Fri) 12:37:24
ぱんつ争奪戦・春の陣 (No.73への返信 / 1階層) - これもひみつになってないな@19147 byte

 うららか過ぎる春。もう卒業式が近くに迫ったこの日、今までを思って理樹は窓の外を眺めていた。
「……卒業」
 口にすればたった一言の行事、それはもう目の前に迫っていた。去年、恭介が卒業していった時と同じ侘びしさが心をなでる。
「どうしたんだよ、理樹。今日も筋肉鬼をやろうぜ」
「そうだぞ、どうした理樹。筋肉鬼をやらないのか?」
「いや、そんな得体の知れない遊びはした事がないから」
 小さい時から相変わらずな真人と、事故の後からある意味おかしくなった謙吾を、理樹は手慣れた調子であしらう。と言っても脳に異常がある訳でもないらしいので、あの事故でちょっと意識改革が起きただけっぽい。どこまでもツッコミにくい意識改革だけど。
「じゃあどうした? どうにも黄昏ているように見えるが、やはり卒業に寂しさでも感じているのか?」
 こういった鋭さは相変わらずだし。
「うん、まあね」
 窓の外を見て、理樹は言う。気配はもう春のそれだった。それはカレンダーで卒業までの日数を確認するよりも確実に現実を教えてくれる。
「理樹」
「理樹」
「うおおおおおー!? まさかこの俺が理樹を心配する言葉を真人の後に言うとはぁー!?」
「へっ、謙吾。お前もなかなかだが、俺の筋肉にかなうと思っちゃぁいけねぇなぁ」
「筋肉かぁ! 筋肉が足りないせいかぁ!!」
 その場で猛烈な勢いでスクワットを始める謙吾。
「こと筋肉に関してこの俺が負けるかぁー!」
 ついでに真人もいつもの3倍速で腕立て伏せを始める。
「うん、もうなんか全般的に台無しだよ」
 疲れた声で言う理樹。リトルバスターズの中にいると真面目に浸る事すら出来ないらしい。
「まあ、この方が俺ららしくていいじゃないか」
「それはそうなんだけど」
 確かに恭介の言うとおりなんだけど、いまいち釈然としない理樹。
 …………恭介?
「って、恭介!? どうしてここに!?」
「どうしてってご挨拶だな。俺がここにいちゃいけないのか?」
「いけないでしょ!? って言うか仕事はどうしたの!?」
「心配するな。今日は楽しげな事が起こりそうな予感がしたから有給をとった。1週間前からこの日の為に残業をしまくったからな」
 相変わらずな未来予知じみた先見の明の、無駄遣いのしまくりだった。
「いい加減暑苦しいわぁー!」
「ぐふっ」
 ドガンと豪快な音がした。見ればいつの間にか教室に戻っていた鈴が、スクワットを続ける謙吾に飛び膝蹴りをしている姿が目に映る。ちなみにスカートからこぼれた鈴のぱんつの色は白と青のストライプだった。
 そして鈴は猫のように空中で身を翻すと着地までの勢いを利用して腕立て伏せを続ける真人の頭にかかと落としをたたき込む。
「ぐぉぉ!」
 そして蹴り足が真人の頭につくと同時、反対側の足で恭介にハイキックを叩きみまった。
「ぐああああ!」
 一瞬で沈黙する男3人。後に残るのは呆然とその光景を見る理樹と、ふーふーと肩で息をする鈴。
「ふっ。しばらく見ない間に鈴の蹴り技をだいぶ進化したらしいな。
 って言うかなんで俺まで蹴られなきゃならないんだよっ!」
「やかましいっ! 似合わん制服まで着てどうした。お前今年で20だろーが、成人だろーが。今の自分の姿に疑問はないのか」
「全くないなっ」
 胸をはって言いきる恭介。一応補足しておくと、これが1年ぶりの兄妹の再会だったりする。
「そもそも仕事はどーしたんだ。最初の1年が大事だからって遊びに来なかった奴がなぜ今更ここに来ているんだ」
 理樹が持った疑問を鈴も聞き、やはりそれに淀みなく答える恭介。
「有給をとった。休日出勤や残業をかなりこなしたからな、快く有給をくれたぞ。やっぱり日頃からの行いは大切だよな」
「お前が言うなぼけー!
 っていうかそれは卒業生が学校に入っていい理由にはならんわっ!」
 鈴のツッコミに冷や汗を浮かべる恭介。その反応を見る限り、許可を取らずに進入したらしい。
「まさか鈴がここまで的確なツッコミを入れられるようになったとは。俺がいない1年に何があったんだ?」
「ふかーっ!」
「って言うか鈴さ、どうして恭介に対してそこまで敵対心をもってるの?」
 普通に考えれば――この兄妹に普通を当てはめるのも何だけど――多少は喜びの感情があってもいい気がする。でも鈴にあるのは怒りの感情だけだ。
「はっはっは。これは照れ隠しというものだよ。理樹君もまだまだ乙女心の勉強が足りないな」
「うわぁ、来ヶ谷さん! いつの間に!?」
「はっはっは」
 笑うだけで返事をしない来ヶ谷。その間にドヤドヤと騒がしい一団が教室に入ってくる。
「あ〜、本当に恭介さんだ。お久しぶりです」
「制服着てるですっ!? でも全く違和感がありません!」
「…………そう言えば、恭介さんがどんな仕事をしているのか全く知りません。仕事によってはアリな展開とナシな展開とに分かれるので是非とも知りたいのですが」
「棗先輩、ご無沙汰していましたわ」
「部外者が勝手に校内に出入りするのは……」
「まま、お姉ちゃん。そう言わないでさ」
 入ってきた集団はもちろん残りのリトルバスターズを中心とした面々。小毬にクド、美魚、佐々美、佳奈多と葉留佳。
 彼女たちは制服を着て違和感なく教室にとけ込んでいる恭介を見つけると、あるものは嬉しそうにあるものは眉をしかめて、それでも恭介の側に駆け寄ってくる。
「これで久しぶりに全員集合だね〜」
 ほわほわした小毬の声に、不思議そうな顔をするのは恭介。
「なんだ。俺が来てるって知っていたのか?」
「はいっ。来ヶ谷さんからメールが届いたです」
 クドの元気がいい返事を聞いて、恭介の視線は来ヶ谷の方へ。視線の意味は当然、どうしてそれが分かったのかというもの。その視線を受けて来ヶ谷は、
「はっはっは」
 笑っているだけだった。

「で、今日は何をして遊ぶんだっ?」
 騒ぎが一段落すると、満面の笑みで謙吾が聞く。恭介と一緒に遊べる事がよほど嬉しいらしい。
「そうだな……」
 少しだけ考える仕草を見せる恭介。
「そう言えば今日、朝の占いで星形のものを身につけていると運気が上昇する百年に一回の日とか言ってましたネ」
「脈絡なっ!」
 一瞬の静寂の隙にいきなりそんな事を言い出した葉留佳に思わず理樹が突っ込んだ。
「やはは。それが私のアイデンティティですから」
「しかも百年に一回だと逆に希少過ぎて真偽を疑うな」
 そして的確に補足する謙吾。彼の頭のネジがどうなっているのか悩むのはこんな至極真っ当な事を言う時だ。
「星形ですか。今日は私、星形の物は持ってきてないです。残念です」
 言いつつポケットから月のキーホルダーを取り出すのはクド。確かに月は星だが、一般的に言う星形ではない。しかもなぜかクドが取り出したのはデフォルメされたものではなく、模型のように精密な一品だった。
「星形かぁ。オレも持ってねぇな」
 ガサゴソとポケットをあさりながら言うのは真人。そしてやがてふと理樹目を向けた。
「な、なに真人?」
「そう言えば理樹、今日は星形の物を持ってたよな。ちょっと貸してくれよ」
 真人の言葉を言葉を聞いて首を傾げながらポケットを探す理樹だが、やはり星形の物は見つからない。
「星形のものなんてないよ。真人の勘違いじゃない?」
「何言ってんだよ。確か今日の理樹のパンツは星形だったよな」
「うわぁぁぁぁぁ!」
 ものすごいカミングアウトに思わず大声が口から漏れる理樹だが、当然それで出た言葉が聞こえなくなるはずがない。何人かの女の子がピクリと反応したのがその証拠。
「なに大声を出してるんだよ、理樹」
「そりゃ大声も出すよ。って言うか、何でそんな事を知ってるのさ。って言うかパンツなんて貸せるはずないだろっ」
「今日のはたまたま覚えてただけだ。気にするなって」
「って言うかいい過ぎたな、お前は」
 何かをグダグダとやっているのを見ていたらと思ったら、急に目を輝かせる恭介。
「それだっ!」
「それですかっ!?」
「どれだ?」
「どれですか?」
 大声を出す恭介とのったクド、冷や汗をかく来ヶ谷に呆れた顔の佳奈多。表情が見事にバラけた。
「今日の遊びだよ。久しぶりだからな、相応しいのを考えていたんだがもう一捻り足りないなと思っていたんだがな。今の会話で完璧になった」
「下着の会話で完璧になる会話はどうでしょう?」
 至極最もな言葉を口にする佐々美。
「まあいいじゃないか、こんなバカらしいのも俺たちらしくてなっ!」
「! 全くその通りですわね!!」
 謙吾の言葉であっさりと陥落する。その間にどこからともなく、いそいそと横断幕を取り出す恭介。
「あ、理樹。そっちを持ってくれ」
「あ、うん」
 そしてダーと走って横断幕を開く恭介。そこに書かれていた文字は〜第二回バトル大会サバイバル戦・さすらえ強者共〜と書かれていた。
「第二回バトル大会サバイバル戦・さすらえ強者共、下着争奪戦!!」
「「「「「うおおおぉぉぉ!!」」」」」
 バカ二人と一部女子が物凄い歓声をあげた。ちなみに残った女子と理樹は完全に惚けている。
 その中で佳奈多だけがすぐに疲れた顔になり、ため息まじりに言葉を口にする。
「あ、あのですね。恭介先輩、いくらなんでもこんな風紀を真っ向から乱す事なんて認められるはずがないじゃないですか。元とはいえ私は風紀委員でしたし、これは認められません」
「理樹少年は星柄のパンツか。さて、葉留佳君はどんなぱんつなんだろうな?」
「風紀委員だったのは昔の話です。引継が終わった今、私はただのリトルバスターズの一員。やりましょう、さあやりましょう」
 一瞬で来ヶ谷に籠絡された来ヶ谷。
「はっはっは。こんなに愛されているとは葉留佳君も隅に置けないな」
「やはは。我が姉ながらこれはちょっと引く……」
 微妙な顔をして冷や汗を流す葉留佳。それでも彼女もこのゲームを止める気はないようだった。それを見て焦り始めるのは常識人である理樹。
「ちょ、こんなのおかしいって! 鈴はそれでいいのっ?」
 焦った声を出す理樹だが、話しかけられた鈴はきょとんとしたもの。
「負けなきゃいいんだろ?」
「勝っても困るでしょ……」
 とにかく鈴が話にならないと悟った理樹は、次に顔を真っ赤にしたクドを見る。
「クドからも何か言って!」
「勝てば、勝てば、勝てば、リキの――――」
 ブツブツと何か言っていたクドは唐突に指を口に突っ込むとピー!と鋭い口笛をならす。すぐに遠くからワンワンワンという声が聞こえてきた。ストレルカとヴェルカだ。
「よろしくお願いします、二人共。今日は絶っっっ対に負けられませんので!!」
 任せろと言わんばかりにオン!と返事をするストレルカ。そんな参加する気満々なクドから視線を外し、理樹は美魚を見る。
「ふふふふふふふふふふフフフフフフフ」
 表情は普通だが悪魔に魂を売り渡したような瞳をしている美魚に、理樹は声をかける事すら諦めた。他に頼りになる人はと周りを見渡して、日本刀の手入れをする来ヶ谷をスルーして、やがて理樹の視線は佐々美へと行き着く。
「佐々美さん」
「ええ、分かってますわよ。理樹さん」
 佐々美の言葉にホッと息を吐く理樹。
「正々堂々、尋常に勝負を致しましょう! そして願わくば理樹さんの星柄パンツと宮沢様のふんどしをこの手に!」
「って何も分かってないし!」
 佐々美に裏切られた理樹は最後の希望とばかりに恭介を見る。
「なんか血を見そうなんだけど、本当にやるの?」
「ここまでみんながやる気になるとは思わなかった……」
 冷や汗を流す恭介。大方、佳奈多辺りがストッパーになると多少過激な事を言ったのだろうが、完全に当てが外れてしまったらしい。そしてここまで暴走したみんなを止める事は言い出しっぺには出来ないらしく、ヤケクソ気味に大声をあげる。
「ええい、ルールを説明するぞ! 勝負の決め方や武器の決め方は前回と同じだが、武器は最初に選んだ物を最後まで使う事! 負けた方は勝った方に穿いている下着を渡し、そして下着を奪われた奴は失格。引き分けの場合は変化なし。一番下着を集めた奴が優勝。以上だ!」
 言うだけ言うと、携帯を各方面にかけまくる恭介。どうやら彼の不思議な情報網は卒業した後でも生きているらしい。
「あ、科学部部隊にもキチンと連絡して下さいね」
「もちろんだ。俺は一人だけ不利になるような真似はしない」
 コール中にかけられた美魚の言葉にも恭介はしっかりと受け答えをする。返事の内容といい、こういう所はどこまでも恭介らしい。理樹はそんな姿を見て、学生でなくなっても変わらない親友にほっとした。

 やがて人が下らない物を持って集まってくる。前にも思ったが、中には投網とか引きずって来る人とかがいるのでかなり異様な光景だ。と言うか、投網なんてどこから持ってきたんだろうか?
「何人かもう武器が決まっている奴もいるが、まあいいか。じゃあみんな、武器を投げ込んでくれ!」
 恭介の言葉を合図にして様々な物が理樹たちへと降り注ぐ。
「これだっ!」
「ふん!」
「よっと」
「わわわ!」
 他の三人はともかく、理樹にとっては空中で武器を掴むのは至難の技だ。昔は慣れたものだったが、その感覚もだいぶサビついてしまったらしい。必死になってやっと一つ掴んだそれは、
「………………………………」
 コーラだった。ペットボトルの。
 呆然とした理樹は思わず周りを見る。最初に目に入った真人の持っていた物は、メリケンサック。
「普通に凶器でしょ、それ!」
「あ、ああ。オレもこれでいいのかとか不安になってきたぜ、あらゆる意味で。つーかむしろオレと理樹の武器、取り間違えてねぇか?」
 真人自身もかなり動揺していた。
「こ、これは……!」
 呆けている理樹と真人の耳に謙吾の声が聞こえてくる。そっちを振り向いて見れば、そこには日本刀を持った謙吾が。
 思わず日本刀の持ち主であろう来ヶ谷を見る理樹。その視線の先で来ヶ谷はフフフと楽しんでいた。
「言いたい事は分かるが少年よ、この方が面白いだろう?」
 茶目っ気たっぷりに笑いながら、無茶苦茶洒落にならない事をする来ヶ谷に理樹は何も言えなくなってしまう。
「……ちなみに、来ヶ谷さんの武器は?」
「これだ」
 そう言って掲げられた来ヶ谷の手の中には、デジタルカメラが。正直、来ヶ谷が持つとかなり洒落にならない武器である。
 他に誰がどんな武器を持っているかと見てみれば、クドはストレルカ・ヴェルカと戯れているし、鈴の周りには猫が15匹も。
「ぬおー」
「…………」
「ぬきゅ?」
 含む、ドルジ。
「えー?」
 無茶苦茶凶悪で可愛らしい武器を従える猛獣マスターの姿がそこにあった。
 そして次の瞬間にはボンっと何かが壊れる音がしてくる。
「今度は何っ!?」
「す、すごい。まさかNYP測定器が壊れる程NYPが高まっているとは!」
「部長、まさか何だかよく分からない展開では何だかよく分からないパワーが何だかよく分からない理論でなんだかよく分からない感じに――」
「落ちつけ高橋君。君の言っている事の方がよく分からん」
 騒ぐ科学部部隊の中心で、変わらず悪魔に魂を売り渡した瞳をした美魚が電磁バリアを手に嗤っていた。笑っていない、嗤っていた。
「うん、見なかった事にしよう」
 全てを忘れ去って視線をズラす理樹。そこにあったのは佳奈多と佐々美の姿。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………なに、言いたい事があるならば言えば?」
「…………なんですの? 言いたい事があればおっしゃれば?」
「…………いや、うん。何でもない。二人共同じ武器なんだね」
 理樹としてはそう言うしかない。本音を口にすればその瞬間殺される確信があった。
 鞭、似合うね。そんな言葉を口にすれば。って言うか、だから誰だ。学校にSM用の調教鞭なんて持ってきているのは。そして何で二人ともそれを率先して選んでいるのだろうか? 疑問が残り過ぎる展開だ。
「さて、じゃあそろそろ始めてもいいかな。下着争奪戦、サバイバルバトル」
 ある程度時間が経ったからか、そう宣言する恭介。その言葉に少しだけ違和感を覚えた理樹。
「ところでさ恭介。要するに下着ってぱんつでしょ?」
 その質問に、至極真面目な顔をする恭介。
「理樹、これだけは言っておく。
 男はパンツ、女はぱんつだ、ここだけは譲れない。そしてだからこそ一纏めに言う時は下着と言わざるを得ない訳だ」
「うん、心底どうでもいい」
「待てよ? ぱンつというのもアリか?」
「アリかナシかで言えば、ナシでしょう」
「むしろパんつというのはどうだ?」
「だから心底どうでもいい」
 あげくに美魚と来ヶ谷まで話に参加してくる始末。
「ええー! って言う事は負けたらぱんつをその場で脱がなきゃいけないの!?」
 そしてようやく頭にルールが追い付いたらしい小毬。彼女の大声が響く。
「あ、それからルール追加な。今日は星の形が運気がいいらしいので、星が描かれたぱンつは3ポイントな」
「そんないきなり!?」
 突如追加されたルールに理樹の悲鳴があがるが。それよりも真面目な顔をする少女が一人。佐々美だ。
「ちょっと小毬さん」
「え? なーに? さーちゃん」
「今日のあなたのぱんつ、ヒトデぱんつじゃないでしたっけ?」
「さーちゃん、それ言っちゃダメぇ!!」
 いきなりなカミングアウトに小毬は真っ赤になりながら涙を流す。だが、周りにとってはそれは比較的どうでもいい。
「ヒトデといったら星形だな」
「よし。神北のぱんつも3ポイントな」
「ええぇー!」
 散々な目に遭った小毬の声を合図にバトルがスタートする。



「謙吾ぉ! まずはお前の白いふんどしから巻き上げてやるぜ!」
「甘いな真人、ふんどしパワーに守られていないお前には俺を倒す事は出来ん!」
「ふふふ。それは当てが外れたな、謙吾よ。昔、赤フンドシが筋肉にいいと聞いた事があってな。たまに赤フンドシをオレは穿いているんだよ」
「な、なに。まさか真人、貴様……!」
「そう、今日が月に一回の、赤フンドシの日だぁ!」
 開始早々、訳の分からない会話を挟みながら熾烈なバトルを繰り広げる真人と謙吾。しかし武器が武器なので、冗談ではすまない戦いになっている。
「いやいや、読み通りだな」
 そしてそれを見て愉快そうに言うのは来ヶ谷。
「来ヶ谷さん?」
「真人少年がメリケンサックを手にするのが見えたものでな。それではいくら謙吾少年とは言え、中途半端な武器では勝てまい。上手く相討ちにでもなってくれないかなと思っていたが、図に当たりそうでよかったよ」
 サラリと黒い事を吐いた来ヶ谷はクルリと別の方向を向く。
「さて、恭介氏」
「……来ヶ谷か」
「バカ二人が共倒れほぼ確定した今、恐ろしいのは恭介氏だけだ。倒させて貰うぞ」
「望むところだ!」
 そしてバトルが発生。向こうでは佳奈多と葉留佳の姉妹対決が勃発してるし、あっちでは電磁バリアでドルジが吹き飛ぶという天災並みの光景が。
「とりあえず逃げようかな」
 理樹は地獄絵図と化し始めたその世界から逃げ出す事に成功した。そして当てもなく学校をさすらっていると、その廊下の曲がり角で。
「ほわぁ!?」
「うわっ!?」
 小毬と遭遇した。なんとなしに見つめ合う二人だが、どこかで恭介のバトルスタートという声が聞こえた気がすると同時、動きだす二人。
「いくよ、理樹くん!」
「負けないよっ!」
 勢いよくコーラを振る理樹。勢いよく3Dかける小毬。
「ほぅわ!?」
「…………」
 思わず理樹の手も止まってしまう。ふらふらと何度か頭を動かしたらと思ったら、ばったりと倒れてしまう小毬。
「ぅぅぅ、負けちゃったよぉ〜」
「小毬さん、一応聞くけど、どうしてそんな武器を選んだの?」
「正気に戻って思わず掴んじゃった武器がこれだったんだよ」
 半泣きで3Dメガネを外し、顔を真っ赤にした小毬は。
「じゃ、じゃあ勝負に負けたから」
「ちょ、小毬さん。無理にやらなくても!」
「ううん。約束だから、私だけ恥ずかしくて出来ないなんて言えないよ」
 失敗した笑顔でスカートの中に両手を入れる小毬。するすると白い布きれが足を抜けていくのが理樹の脳に、永遠に焼きつけられた。そして完全に脱げたそれは、理樹の前に差し出される。
「は、は、はい。理樹くん、受け取って」
「う、うん」
 そうは言うものの、理樹の手は動いてくれない。
「は、早く。こうしてるの恥ずかしいんだから!」
 小毬に急かされるようにして白いそれを受け取ると、小毬はスカートを手で押さえながら走り去っていく。向かう方向から考えるとたぶん女子寮で、新しい下着を穿きに戻ったのだろう。
「…………」
 無言で手の中にある戦利品を見る理樹。デフォルメされたヒトデがプリチーだ。
「!!!!」
 それを確認すると同時、パニックになって近くの扉に駆け込む理樹。小毬のぱんつを握ったまま駆け込んだその先は放送室で、
「よう、理樹」
 そこで恭介が待ち構えていた。
「な、恭介? 来ヶ谷さんはっ!?」
 恭介はニヒルに笑うと、懐から戦利品の大人っぽい緑色のソレを取り出す。
「まさかそれはっ!?」
「そう、来ヶ谷のぱんつだ。しっかりと奪ってきた。次はお前のパンツを貰いに来たぜっ!」
 そう宣言してスーパーボールを両手に構える恭介。バトルを申し込まれた以上、理樹としても勝ち目がなくとも闘わなくてはならない。
「くっ!」
 コーラを構える理樹。そして恭介対理樹のバトルが、
「あー。ちょっと待った御両人」
 始まらなかった。バトルはつかつかと放送室に入ってきた来ヶ谷に止められる。
「なんだ、来ヶ谷。今からバトルだぞ? それに着替えてきたにしては随分早いな」
「いや、まだきがえていない。おねーさんはノーパンのままだぞ」
 物凄い事をカミングアウトする来ヶ谷。
「少年、見るか?」
「見ないよ!」
「はっはっは。顔を真っ赤にして言っても説得力がないぞ、理樹君」
 笑う来ヶ谷、怒る理樹。
 その時、一陣の風が吹く。ふさぁと持ちあがる来ヶ谷のスカート。そして晒される中身。
「…………」
「…………」
「…………」
 流石の恭介でさえ呆然としている。
「で、私がここに来た訳はな」
「少しは恥ずかしがってよ!!」
 平然と話を進めた来ヶ谷に思わず理樹がツッコミをいれた。それに取り合わず来ヶ谷は放送器具の前に行くと、その器具を指さす。
「「?」」
 訳が分からない理樹と恭介は来ヶ谷の指の先を見る。そこにはONの下のランプが光っているマイクが。
「…………」
「…………」
 さっきとは別の意味で静まり返る場。
「つまり?」
「つまり、さっきの恭介氏の発言は全校生徒に丸聞こえな訳だな。私からぱんつを奪ったという発言も、理樹君からパンツを奪おうとした発言も」
「…………」
「…………」
「はっはっは」
「…………」
「…………」
「はっはっは」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」
 恭介の絶叫は、マイク越しで比喩無しに学校中に響き渡った。

 後日、恭介はロリじゃなくて年上好きだと噂が流れたが、それを聞いた恭介はどこか嬉しそうだったとか。
 更に恭介の趣味はロリじゃなくてショタ、本命は年上の兄貴だという噂も流れていたという事も教えたら、真っ白な灰になったとか。
 ちなみにその適当な噂を何の考えも無く鈴が頷いたせいで変な信憑性が生まれたという事実は、既に灰になった恭介の耳には届かなかったとか。


[No.81] 2009/05/01(Fri) 18:02:07
垂直落下式 (No.73への返信 / 1階層) - 隠密@9283 byte

 耳を澄ますと、歓声が遠く聞こえる気がする。

 やべぇ、心臓がバクバク言ってやがる。デビューしてから18年。オレの鋼鉄の心筋でも試合前のこの緊張を抑えることはとうとうできなかった。
 しょうがねぇ、深呼吸でもするか。「すうぅーーーーーーっ、ぐ!?げはぁっ!!」く、クセぇっ!!控え室にしみこんだ血と汗とあと何だかよくわからねぇ色んなもんのニオイでオレの横隔膜がこむらがえってやがる!
 パイプ椅子を半ば破壊しながら転げ落ち、その場にうずくまって咳き込むこと0コンマ2秒。オレは奇跡の生還を果たした。やべぇやべぇ、危なく心臓が止まるところだったぜ。
「ま、オレにかかれば全然ちょろいけどな!」
「嘘つけ。泣きながら鼻水たれてるくせに」
「よだれも垂れてるよ?」
「ぬおおっ!?」
 いつの間に入ってきたのか、オレの子供たちが見上げていた。頼むから父ちゃんをそんな目で見ないでくれよ。
「全く、試合前に何をやってるんだ馬鹿親父」
 呆れた顔でオレを見上げるのは娘のりん。名前のせいか最近ますます母親よりも鈴のほうに似てきやがった。主に性格が。その横でりんの袖を引っ張るのは力(リキ)。
「父さんも緊張してるんだよ。そっとしておいてあげてよ」
 ううっ、優しさが鼻にしみるぜ。さすがオレの息子だ。
 涙とヨダレと鼻水で湿っぽくなった顔をタオルで乱暴にぬぐう。「うわ、汚っ!?」はいはいすいませんでしたー!
 まともになった顔で子供たちに向き直る。カミさんは一緒ではなく、どうもふたりだけで来たらしい。大したもんだと感心する反面、心配になる。
「お前らだけで来たのか?」
「お母さんと一緒だ。でももう帰ったぞ」
「最後の試合なんだからいっしょに観ようって言ったんだけど……」
「しょうがねぇさ。母ちゃんはオレがケガすんの嫌いだからな」
 すまなそうな顔をするリキの頭を乱暴に撫でてやると、強くやりすぎたのかしばらくふらついていた。そんでりんには蹴られた。蹴るなよ。
「てゆーか、お母さんがなんでアイソをつかさないのか不思議だ」
 的確にベンケイさんを削る攻撃に音を上げたオレを、ふんぞり返って見下ろしながらりんが言った。本気で不思議そうだなオイ。
 つか、小2のクセに難しい言葉知ってやがんなコイツ。そこら辺はリキともどもオレに似なくてよかったぜ。
「それは言いすぎだよ……」
「でも、しょっちゅういなくなるじゃないか。相手なんかいなそうだから浮気はないだろうがな」
「その言い方はなんか引っかかるんだが」
 地方興行や山ごもりで家を空けることが多いオレに、小言はあるものの文句を言わないカミさんには、いつも感謝してる。神さんとはよく言ったもんだぜ。
「そりゃもちろんオレと母ちゃんが愛し合ってるからさ。ま、お子ちゃまにはわかんねーだろうがな」
 “愛”なんて真顔じゃ恥ずかしくてなかなか言えやしねえが、たまにはいいだろ。オレもりんに対抗してふんぞり返ってやった。
「床にはいつくばってるくせに偉そうだな」
 ……重いだろうに一生懸命起こそうとしてくれてるリキは本当にいい息子だぜ。

 出番までの長く感じる短い時間を、オレは子供たちと過ごすことにした。情けねぇことに、こいつらが来たら緊張がおさまっちまったからな。
「悪ぃな、水しかなくてよ」
「仕方ないよ、控え室なんだから」
 水と氷ばかりがぎっしり詰まった冷蔵庫から、素っ気ないデザインのペットボトルを持ってくると、力は文句も言わずに笑って受け取ってくれた。すまねぇな、父ちゃん相手にそんなに気を使ってくれなくてもいいんだぜ?
「そうだ、父ちゃん特製のマッス――」
「いるかそんなもん」
 最後まで言わせてもくれずにバッサリと断りやがった。お前はもうちょっと気ぃ使ってくれよ、りん。
「つうか、なんか怒ってねぇか?父ちゃん何かしたか?」
「怒ってない!」
 むちゃくちゃ怒ってるじゃねぇか。全然意味がわからねぇぜ。助けを求めて力にアイコンタクトしたら、力のやつ妙な踊りを始めやがった。
「なんだそりゃ……膝の上でヒラヒラ?うふーん?わっかんねぇな、もうちっと分かりやすいヒント……なんだ、シ〜って」
「口から思考がだだもれじゃぼけーっ!!」
 強く踏み切って身体を浮き上がらせながら捻り、スカートをひるがえしながらしなやかに伸びた足でオレのこめかみを打ち抜いた。
 何だってんだ一体。

「せいぜい派手に負けてこい」
「おう、カッコよく勝ってやるぜ!」
 別れぎわまでそっぽを向いて生意気なりんと、りんの分までまとめて心配しているような情けない顔の力をまとめて抱え、オレはそう約束した。
 子供たちが客席に行くと、控え室が前にも増して静かになった気がする。メインまではあと少し。オレは目を閉じた。
 ……こんな時、もしかしたら家族のことや昔のことなんかが頭をよぎるのかも知れねぇが、今のオレには、ただ真っ暗な中にピリピリとシビれる皮膚の感覚だけが浮かんでいた。
 息苦しくなる一歩手前、男の足音がしてドアが開け放たれた。
「マサトさん、出番です!!」
「おっしゃぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
 マスクをかぶったオレは、腹の底から雄叫びを上げ、鋼の軍団<きんにくども>に号令をかける。
 オレの名はバスターマサト。人はオレを悪夢の筋肉列車と呼ぶ。



 うお、まぶしいぜ……。 
 開始からもう30分はたっただろうか。マットに寝そべったオレは、天井から突き刺してくる強烈なライトに顔をしかめた。
 フン!と気合と共に背中で跳ねる。カウント2.95のドラマ。
 寝返りを打ってぜえぜえと息をする。もう四つんばいになることすら全身の力を振りしぼる重労働だ。
 全身がギシギシきしむ。腕も、足も、腰も背中も首もなんもかんもが叩き潰されたみてぇに言うことをきかねぇ。
 中途半端に身体を起こしたオレを対戦相手が立たせる。もちろん手を貸したわけじゃない。オレの身体は足元もおぼつかないままにロープへとふっ飛ばされる。
 硬いロープに身体を叩きつけ、投げた相手のところに勢いをつけて帰っていく。リングの中央で待ち構えるヤツは腕を回して客にアピールしていた。

「今日は“約束”無しで行くぜ。ちゃんとついて来いよ?」
「へっ、オレはいつだって真剣<ガチ>だぜ。そっちこそ泣き入れんじゃねぇぞ?」
 ゴング直前、リングの真ん中で交わした言葉がふっと浮かぶ。

 ――――交差する。
 入れ替わる――――。
 突き出された腕をくぐり抜けたオレはその勢いを使って別のロープへとヤツを飛ばした。そして今度はオレの番だと腕を高く突き上げる。歓声と悲鳴が混じりあう。だが、それはすぐ歓声一色に塗りかえられるんだ。胸板に突き刺さるようなドロップキックでオレがマットに沈むから。
 ちくしょう、いつもオレの一枚上を行きやがる。背中から叩きつけられ、さすがのオレもクラクラだ。ヤツがコーナーへと駆け上がるのを見ても、とっさに立ち上がることができない。
 ヤツの背中がゆっくりとせまり、裏返っていくのをただ眺めていた。着地を見定めるヤツの目が一瞬オレと

「twooooooooooooooooooooooohhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhh……」
 何だこりゃ。やけに濁った音、つうか声なのか?やたらとウルセェのに妙に間延びして聞こえてやがる。
 まわりを見ようにも首が動かねぇ。そんなら目だけでもと思ったがこれもダメだ。いや、動きはするんだがとにかく鈍い。なるほど、これが首が回らないってヤツか?試合中でも勉強しちまうこの余裕。さすがオレだぜ。
「試合中じゃねえかっ!」
 つっこんだつもりが、口も動かねぇ。今になってようやく首が横を向いた。見てびっくりだぜ、みんなノロノロ動いてるじゃねぇか。こいつはアレか、オレの何かが目覚めて覚醒したってヤツだな。そうか、とうとうオレの筋肉が人類を超える時が来たって訳だな!やべぇ!
 だが上がるテンションとは裏腹に、オレの身体は全然言うことを聞いてくれない。くそ、不便だな超人って。
 オレが超人覚醒したことなんか周りは当然気付いていない。観客も、レフリーも、オレを押さえ込んでいるヤツでさえ。え、つかフォールされてんのかオレ?ちょ、待て、カウントいくつだよ!?動け、オレの身体!みなぎれ、オレの筋肉!!

 ……あれからどのくらい経っただろう。もうほとんど止まっちまった時間の中、オレの心はとても静かだった。オレの周りの何もかもが、見ただけじゃ分からないくらいゆっくりと動く。もう音さえ聞こえない。オレの気持ちだけが空回りする、静かな世界。
 目の前いっぱいに広がった観客席は満員御礼だ。最期を飾るのにこれ以上の舞台はない。いつか感じた寂しさを少しだけ思い出した。
(これで、いいよな?)
 その時。
 目をこらすことも出来ない、ただだらしなく広がった視界の隅っこに。
 見つけた。
 そいつらは立ち上がって、顔をくっしゃくしゃの真っ赤っかにして、でっかい口をあけてナンか叫んでた。
 心臓が動いたら血管が切れるくらいに気合を入れてそっちを見る。見ようとする。
 へへっ。りん、お前、負けろとか言ってなかったか?力、お前泣きそうじゃねぇか。
(いいわけねえさ。ああ、いいワケがねぇっ!)

 ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!
 耳が割れるような大音量がオレをぶん殴る。
 オレの横にはフォールをはね返されたヤツが息も荒く転がっていた。
 身体を起こしたのはほぼ同時、おっかねぇツラで睨みつけてくるヤツをオレも睨み返す。
 チラッと客席を見た。見てろよ、父ちゃん今からかるーく勝ってやっから。

 先に立ち上がるとどよどよっと客が揺れた。んだよ、そんなに意外かよ?けどまあ実際立つのがやっとで今にもぶっ倒れそうだ。
 ヤツだってもうすぐに立ち上がってくる。律儀に待ってちゃやられちまう。オレは中腰になったヤツの髪を鷲掴みにすると、そこへ自慢の石頭を叩きつけた。
 目の前に何度も星が散る。自分の足もふらつくほどに頭突きをかましてやったヤツの顔は、流血で真っ赤に染まっていた。右目に血が入って開けられないから、オレも多分似たようなもんなんだろう。どっちの頭が切れたのか判らねぇな。いや、どっちもか。
 膝を付きそうになるヤツの身体を抱え込む。最期の一花、咲かせてやらぁ。
「お、るあぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーっ!!」
 気合一発、ヤツの身体を高々と担ぎ上げる。上下逆さまになったヤツは足をバタつかせて逃げようとするが、もう逃げられねぇ。オレは、そのまんまリングの中央で雄叫びを上げた。
「筋肉筋肉うぅっ!!」
 筋肉筋肉!と客席も大合唱だ。もちろん、りんと力のも聞こえたぜ。
「筋肉筋肉うーーーーっ!!」
 後楽園ホールが揺れるほどの筋肉コールがオレの筋肉を目覚めさせる。
「喰ぅらえぁーーーーーーっ!!」
 後ろへと倒れこむオレの身体が、流れ星よりも真っ逆さまにヤツの頭をマットへと叩きつける。



 力は使い果たした。どこが痛いか判らないぐらいに身体が痛ぇ。もう指先一本動かねぇ。目も開かねぇ。けど、何かはやりとげられた気がする。
 耳を澄ますと、歓声が遠く聞こえる気がする。



―――――――――――――――――――――――――ちくしょう。


[No.82] 2009/05/01(Fri) 22:06:40
聖なる空の下で (No.73への返信 / 1階層) - ひみつ 初 11008byte

目が覚めた。時間は8時。まあ休みだしこんなものか。
妹のはるかは隣でまだ寝ている。幸せそうな寝顔で、見ているとこっちまで幸せな気分になる。
修学旅行が終わり、家の問題も1段落ついて以来、私とはるかは同じ部屋で寝ている。
理由はお互い1秒でも長く一緒にいたいからだ。
まあ、私からは恥ずかしいから言ったことないけど・・・


「ん・・・朝?」
「おはよう、はるか。いつもより早いわね」
「うん!だって今日はおねえちゃんと初めてのお出かけだもん!」

太陽のような笑顔でそう言う。これも口には出さないが正直かわいい。
明るい子ではあったが、今は確実に心から笑ってる。
この笑顔がずっと続きますように・・・

「はるか、髪の毛ボサボサよ?」
「ほんとに?・・・うわ、ほんとだ」
「後ろ向いて。梳いてあげるから」
「ありがとお姉ちゃん。あ、柑橘系のにおい大丈夫かな?」
「これくらい平気よ。はるかの香りだもん」
「えへへ、そういってくれるとうれしいなー」

ああ、2人でいるとどうしても気が緩む。普通の私じゃ絶対言わないことを・・・
まあ今がそれだけ幸せということなんだけど。

「終わったわよ」
「じゃあ今度は私がしてあげるね♪」
「お願いするわ」
「お姉ちゃんの髪の毛さらさらでいいなー」
「毎日手入れしてるからそりゃあね」
「そうだ、これから毎日一緒にお風呂入ろ!その時に手入れとかしてくれない?」
「ごめん、それだけは無理。もう少し待って・・・」

傷を自分以外の人間に見られることにはまだなれない。それが妹であったとしても・・・
はるかは察してくれたのか優しく髪を梳いてくれた。



「よし、それじゃあレッツゴー!」
「それで、どこに行くんだっけ?」
「忘れたの?今日はお互いの服を買いに行くの。忘れちゃダメですヨ!」



「・・・それで、ここはどこ?」
「見てわからないの?ぬいぐるみ屋さんだよ?」
「最初どこに行くって言ってたっけ?」
「服屋さん。あ、かわいいのはっけーん!おもちかえりしたい〜」
「はあ・・・ちゃんとお金は残しときなさいよー!」
まったく・・・ここらへんは変わってないわね。まあ変わられると困るんだけど。
「あ、これかわいいかも。・・・ん?」
一瞬視線を感じたけど・・・まあいっか。もう少し見て回ろう。



30分たった。そろそろいいわね。あの子はどこかしら?
「お姉ちゃんおまたせー」
「あら、2つも買ったの?残りのお金ある?」
「うん。ではでは、どうぞ!」
そういってその中の1つを私に手渡してくる。えっと、これは・・・
「やはは、プレゼントですヨ。いつもありがと、お姉ちゃん!」
「そんな・・・私、なにもしてないわよ・・・?」
「仲直りのしるしみたいなもの、かな?」
「ありがと、はるか。ほんとうに・・・」
「大げさだなあ、お姉ちゃんは」
まさかここまでしてくれるとは思わなかった。
昔のはるかからは考えられなかった。
どうしよ、なんか泣きそう・・・
とりあえず何かお礼がしたい。
「はるかは、何かほしいものある?」
「いいの?えっとねー・・・今はいいや。帰ってから」
「帰ってからって・・・どういうこと?」
「えっと、その、あの・・・今でなくてもいいじゃん!」
「別に今度でいいのならそれでいいけど・・・私としては今すぐお礼がしたいの」
「いや、だから・・・あーもう!家に帰ってから話すからこの話し終わり!」
はるかが何を言いたいのかよくわからないけど、とりあえず頷いておいた。






気がつくと昼になっていた。
「はるか、お昼どうする?」
「あの店でいいんじゃないかな?」
そういってはるかが指さしたのはハンバーガーショップ。私も直枝と何度か来たことがある。
「そうね。じゃあいきましょうか」
二人で店に入る。そこには・・・
「いらっしゃい!おう、二木と三枝か。ゆっくりしてけよ!」
「棗先輩!?なぜここに?」
「バイトだよ、バイト」
「就職活動はいいんですか?」
「俺の性格を忘れたのか?やりたいことをやるのが俺のポリシーだ」
「どうでもいいけどまけてくださいね」
「俺にそんな権限はない」
「えー、いいじゃんまけてくださいよー」
「ほら、同じ仲間もこう言ってるんだし、いいじゃない」
「二木おまえ、性格変わったな」
「あ、やっぱりそう思います?いやー、家ではもう・・・もがっ!」
「黙りなさい。はあ・・・定価でいいわよ」
「それが普通だ。で、注文は?」
「私はレギュラーバーガー。はるかは?」
「私もそれでいいよ」
「あ、それと・・・」
「はいはい、1つはピクルス抜き、トマト抜きケチャップ増量な」
「な!なんで知ってるのよ!」
「理樹が言ってたぜ」
「直枝め、覚えときなさいよ!」
「え、それなんのことですか?」
「それはだな三枝、あいつが二木とここに来た時・・・」
「棗先輩!いいかげんに・・・」
「するのはお前だ。他の客の邪魔だぞ」
「あ・・・」
言われてはじめて気づいた。私としたことが・・・
「じゃあ三枝、また練習の時にでも」
「わかりましたー!」
「棗先輩!」



はあ、まったく・・・気が休まらないわ。
「なんか疲れてるみたいだけど?」
「あなたが原因なんだけど。ってまたなのこれ」
「どうしたの?」
「毎回のことながらきっちりしてないわこのハンバーガー。ずれてるのよ。組みなおさなきゃ・・・」
「ほんとに私のお姉ちゃんなんですかネ?」
「・・・よし、組み終わり。いただきます」
もぐもぐ。もぐもぐ・・・
「あ、にケチャップついてるー。とってあげるね♪」
「っ!んー!」
必死に首を横に振って抵抗してみる。が、
「慌ててるお姉ちゃんも可愛いー。ほいっ、ぱくっ」
ってとったケチャップを食べた!?
私は今口にあるものを飲み込んでから、
「ちょっとはるか!なにしてるの!」
「いやー、だってこれお約束デスヨ?」
「そんなのいらないの!ていうかそれカップルがやることでしょ?」
「お姉ちゃんならいい反応してくれるかなーって。実際してくれたし♪」
「あのねえ・・・」
恥ずかしい・・・けど、悪くはない、かな?
なんか妹に甘くなってきてないかしら?




「さて、行きますか」
「今度はちゃんと服屋よ?」
「だいじょーぶ!ちゃんと私が選んであげるから!」
「そういう意味じゃなくて・・・あ、私もはるかの選んであげるから」
「ホント?じゃあ選びっこ、かな?」
「そうなるわね」
「よし、それじゃあ早速ゴー!」
「あ、ちょっと!」
よく食後であんなに走れるわね・・・
何でって聞いたらきっと楽しいからっていうんだろうな・・・
ま、私も楽しみなんだけど・・・




その後ははるかと2人で服屋に入った。
いいのがないか選んでいると、またそこに意外な人物が。
「おお、葉留佳君に二木女史か。こんなところで会うとは奇遇だな」
「あれ?姉御、どうしてここに?」
「バイトだ。恭介氏が最近始めたと聞いたので私もやってみた。まあもっぱら裏方だが」
確かにこの人に接客は難しいわね・・・
「服屋のバイトってあったんだ・・・てゆーか何の仕事?」
「主に在庫の品を並べていく程度のことだが、面白くないから自主的に試着の手伝いもやっている」
そろそろクビね。
「・・・まあ、頑張ってくださいネ」
「じゃあ行くわよ、はるか」
「相変わらず冷たいな。言ってくれれば即試着させてやるぞ?」
「結構です」



その後は2人でお互いに似合いそうな服を選んだ。
「ねーねー、これお姉ちゃんに似合うと思うんだけど、どうかな?」
「私はこれがはるかに似合うと思う・・・って色違い!?」
「おおー、見事に同じですネ」
どちらもファンシーなデザインだけど、私がはるかに選んだのは赤色で、はるかが私に選んだのは黄色だった。
「もうこのまま買いましょうか」
「そうだね。あ、でもサイズとか大丈夫かな?」
「なら試着室に行きましょう。来ヶ谷さんに見つからないように」
「そうですネ。姉御に見つからないように」
「誰に見つからないようにだって?」
「そりゃ姉御に決まって・・・って姉御ー!?」
「うむ。正直言って君も姉の恥ずかしい姿を見たいとは思わないのか?」
「見たいけど姉御の手にかかると危険な予感がするのでパスで」
「葉留佳君も変わってきたな・・・」
「そうかな?じゃあ姉御、また学校で」
「わかった。じゃあな」



二人とも試着が終わり、試着室から出てきた。
「おおー、お姉ちゃん似合ってる!
「ありがと、はるかも似合ってるわ」
「えへへ、ありがと♪」




服を買って店から出た。
そういえばはるかの願いはなんだったのか。気になるので聞いてみると、
「あー、あれね。夜、外に出ることって出来る?」
「・・・私が元風紀委員長だって知ってていってるの?」
「もう辞めたんだからいいじゃん。私はただ、お姉ちゃんと二人で星空を見たいだけ」
「いいけど、私がプレゼントもらったのに・・・なんか私の方が得してるみたい」
「お姉ちゃんの笑顔が見れれば私は満足なのです。やはは」
「え・・・?」
「じゃあ10時に校門でまってるね!」
すぐに姿が見えなくなった。言った本人も照れくさかったのだろう。
私は唯一の妹の愛を感じながら夜を待つのだった。


「いったのはあの子なのに、まだ来ないわね・・・」
「おまたせー!ゴメン、まった?」
「1分遅刻。まったく・・・」
「そんなに怒らなくても・・・どれだけまってたの?」
楽しみで30分前から待ってたなんて絶対言えない・・・
「もしかしてずっと前から待っててくれた?」
「別に。さっさといくわよ」
「誰かが9時30分に寮から出てきて中庭に行った気がするんだけどなー」
「っ!見てたの!?」
「へ?当たり?適当に言ってみただけなのにー」
「くっ・・・」


私ははるかのからかいの声をうけながら学校の屋上を目指した。
そして窓の前まで来た。どうやらここから上るらしい。
「お姉ちゃん、先に行って。早く見てほしいし」
「わかったわ。・・・って何してるの?」
はるかがライトでこっちを照らしていた。私は今ちょうど上っているところ。まさか・・・
「いやー、見えにくいかなって思ってー」
「見えるからさっさとスイッチ切りなさい!」
「まずは上ればいいと思うんだけど、もしかして見られたいの?」
「あーもう!違うっ!」
そう言ってから一気に上る。まったくはるかは・・・
「それにしてもきれいな水色ストライプだったなー」
「〜っ!」


上ってみるとそこにはきれいな星空が瞬いていた。
見ていると吸い込まれそうなくらいにきれいだ。
「えっとさ・・・さっきはゴメンね?」
「いいわよ別に。それくらいで謝ってくるなんて珍しいわね」
「あ、怒ってなかったんだ。よかった〜」
「どっちかというと、恥ずかしかったかな?」
「ふーん?」
「な、なによ?」
「お姉ちゃんってさ、私と二人っきりの時ってとても優しくてかわいいなーと思って」
「・・・はるかも」
「ん?」
「はるかも、私といる時はとっても輝いてるわ」
「え、そう?そう見えるの?だったら、嬉しいな!」


二人寄り添って星空を見上げる。いくつもの星が空で輝いてる。
「きれいだねー」
「きれいねー」
流れる時間とかけがえのない隣の存在を感じながら今を過ごす。
そうしていると頭上には
「お姉ちゃん、あれってオリオン座?」
「そうね。明るいから目立って見つけやすかったわ」
「あの真ん中の3つの星ってさ、すごく近くに見えるじゃん?
でもあれって実際ものすごく遠い距離なんだよねー」
「たしかにそうね。他の星座でもそうなんだけどオリオン座の場合特にそう感じるわね」
「まるで昔の私たちみたいだよね?」
その瞬間体がびくっとした。まさか今はるかがそんなこと考えてたなんて・・・
「もしかして、まだ怒ってる?」
「ううん、そんなんじゃない。ただそう思っただけ」
「そう・・・」
「でも、少し怖い。また仲が悪くなることなんて、ないよね?」
はるかは恐れていた。また奪われることを。でもそれはない。
「大丈夫。もしそうなりそうなら、私が全力ではるかを守るから」
「お姉ちゃん・・・ありがと。あのさ、今夜だけ、甘えていい?」
「・・・いいわよ」
いつも甘えてるじゃない、と言おうとしたが止める。
今だけは、いや、今からは心から安らげるように。


「じゃあ、膝枕して?」
そう言ってはるかは私のひざの上に頭を乗せてきた。
「ロマンティックー♪いちどしてもらいたかったんだよねー」
「ふふ、私もこうしてると心が落ち着いてきたかも」
はるかの頭をなでる。続いて髪を梳く。
「ん・・・♪」
とっても気持ちよさそうな声を上げる。表情も完全に緩みきっている。きっと私もだろう。素直な気持ちをぶつけるなら、今しかない。
「ねえ、私は今はるかといれて本当にうれしいの。ずっとこんな日が来るのを夢見てた」
「私もね、今がとても楽しいよ。それで、これからはもっと楽しくしたい!」
「そうね。これからは、今まで失った時間を取り戻しましょう」
「じゃあさ、朝までずっとここにいる?」
「なんでそうなるのよ・・・でも、それもいいかもね」
「ホント?・・・あ!流れ星!」
「え、どこ?」
「あー・・・もう見えないや・・・」
「願い事は言えた?」
「言えるわけないじゃん。見えたと思ったら見えないんだもん」
「ま、そんなもんよね」
「でもいいや。私の願いは自分でかなえる」
「私も同じよ。でもはるかの願い事ってなにかしら?」
「そこはお姉ちゃんからどうぞ」
「じゃあ同時に言ってみない?」
「いいよ。せーの!」
「「この幸せな時間がいつまでも続きますように!」」


[No.83] 2009/05/01(Fri) 22:14:20
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[No.84] 2009/05/01(Fri) 23:38:47
願いの行方 (No.73への返信 / 1階層) - ひみつ@3291 byte

 ――願い事、ひとつ。

 ――りんちゃんも、ちゃんと笑っていられますように。

 体中が痛い。ずきずきと、ずきずきと。下敷きにしている右腕がお腹を圧迫していて苦しい。動かそうとしたけど、苦しさ以上の痛みが走ったから、止めた。
 みんなはどこだろう? 声を上げる。だけどそれは、私の耳にも届かないほどに小さかった。これじゃわかんないや。
 声が聞こえる。大切な友達と、大事な人の、大好きな声。お互いにはげましあって、無事をよろこんでいた。
 もっと声を聞いていたかった。でも、それは私のわがままだから。
「行こう、鈴」
 うん、それが正解です。ふたりには生きていてほしいから。
「いやだ!」
 りんちゃん、ダメだよ。私たちは助けられない。私たちを助けようとして、爆発に巻き込まれちゃったんだよ? だから、ダメなのです。
「みんなと一緒じゃなきゃいやだ!」
 ……ほんとに、りんちゃんは困ったさんですね。
 どうしよう。このままだとまた、りんちゃんたちが死んじゃう。



「そんなの、嫌だな」
 ぽそり、とつぶやく。
 …………。
「あれ?」
 おかしいな。声が出せる? さっきまではどんなに頑張ってもこんなに出せなかったのに。
 体を動かす。痛くない。
 目をめぐらせる。フェンス、夕日色の町、茜色の雲、給水搭。
「学校の屋上?」
 どうして私こんなところに、と考えて思い出した。終わらない一学期の世界を。ここはそこと似た場所なんだ。
 がたがた、がたがた。
 屋上の出入り口のところで、何かを動かす音が聞こえる。誰かが屋上に来ようとしている。
 私はその誰かに心当たりがあった。同時に、この世界を作り出したのが誰なのかも。
 私がしなければならないこと。私がしたいと思うこと。それはりんちゃんとの。
「お別れか……ようしっ」



 そして私はまた、痛くて赤くて暗い箱の中。
 ……大丈夫かな? ちゃんとわたせたかな?
 笑顔の大切さ。願い星。

 ――願い事、ひとつ。

 ――りんちゃんも、ちゃんと笑っていられますように。

 ――私のように、ならないために。

 鼻につんと来るにおい。終わりの予感。
 いや、だな。こうなることはわかっていたのに。頭に残るのは未練ばっかり。もっとお菓子食べたかったな。もっとりんちゃんとお話したかったな。もっと草野球がうまくなりたかったな。もっと、もっともっともっと。
 もっと、みんなと、いたかったなぁ……。
 りんちゃんと同じお願い。叶うことのないお願い。願い星は、叶えてくれない。
 けど、もしも、もしも願い事ひとつだけ叶えてくれるなら。
「願い事、ひとつ。       、      、      」
 瞬間。赤が世界を塗りつぶした。夕焼けよりも強く、無慈悲な赤。私たちをのみこんでしまう、『終わり』。
 けれど、私はそんなものは気にならなかった。
 なぜなら、なぜなら――。

「小毬さん!」

 遠くに。
 無慈悲な赤の遥か彼方、やわらかな光の中に、大好きな人がいたから。
「小毬君」
 ゆいちゃん。
「こまりん!」
 はるちゃん。
「小毬さんっ」
 くーちゃん。
「神北さん」
 みおちゃん。
「小毬」「神北」「小毬!」
 きょーすけさん、謙吾くん、真人くん。
 みんな、みんながそこにいた。
「……こ、こまりちゃん」
 そして、私の大切な、お友達。
「りん、ちゃん」
 その手には、星の髪飾り。
 よかった。ちゃんとわたせてたんだね。
 あれ? どうしてわたしてたんだっけ? ……うーん?
「小毬さん早く! 試合が始まっちゃうよ!」
「ほわぁ!?」
 そそそそうだった! 今日はリトルバスターズの試合の日だった! うわーん、きんちょうしすぎて眠れなかったから寝坊しちゃったんだ。
「すぐ行くよー!!」
 私は駆け出した。みんなのもとへ。最高に幸せな時間を過ごすために。










          ――夢の中だけでも、理樹くんたちと、生きていたい――

 幸せな光の中の願い星、髪からほどけて、かつんと落ちた。


[No.85] 2009/05/01(Fri) 23:52:34
hush, hush, sweet Kudryavka (No.73への返信 / 1階層) - ひみつ@17021 byte

 淀んだ雲が空を覆っていたが、雨は降っていなかった。能美クドリャフカは助手席に座り、薄っぺらいソフトカバーの本へ目を落としていた。日本語で書かれたものだったが、元はといえばロシア語だった。低い声で文字を読み上げた。
「その町ではどの家も内側から鍵かけられていた。その町ではなにもかも悪賢かった。町はかくさなかった、自己の痛ましい挫折を。挫折せぬものすべてに対する憎しみを。」
 濃紺のロガンは民家の前に停車していた。運転席に座った男はルームミラーの角度を変え、民家の様子を伺った。しんと静まり返っていた。男は煙草とライターをジャケットの内ポケットから取り出したが、ルームミラーを元に戻したときにクドリャフカが目に入った。苦笑いを浮かべて、煙草をしまった。
 民家の扉が開いた。背広の男が二人出てきた。二人はそれぞれ、意識を失った男の両手、両足を持っていた。そのまま男を車まで運び、一旦地面に寝かせた。トランクを開け、人ひとりが入るくらい大きな麻袋を引っ張り出した。埃が舞って、二人は咳き込んだ。手で周囲を軽くあおいでから、気絶した男を麻袋に入れた。男をトランクへ押し込み、二人は後部座席へ乗り込んだ。
「月曜日、これ強過ぎだ。」
 そう言いながら、スタンガンを運転席の男へ手渡した。月曜日と呼ばれた男はうっすらと笑みを浮かべて、それを受け取った。火曜日は笑い返して、座席のクッションに背中を埋めた。一方の金曜日は窓の外をぼやっと見ていた。そこはただの住宅地だった。しかし、見慣れたパリやアムステルダムの街並みとは異なっていた。
「あたかも焼き払われた町の星のない夜。静寂が偽りを喪失するよう――。」
 エンジン音がクドリャフカの声をかき消した。車は町の郊外へ向かって走り出した。途中で紙袋を抱えた小太りの女とすれ違った。
女は立ち止まり、訝しげに車を見送った。車影はすぐに見えなくなった。女は再び歩き出し、勤め先の家の前に立った。そのとき、ドアが開けっ放しであることに気づいた。
 恐る恐る玄関へ向かった。居間からテレビの音が漏れていた。彼女は忍び足でリビングへ向かった。頭を撃ち抜かれた子供の死体が転がっていた。確認するまでもなく、この家の子だった。
 彼女は台所へ向かい、紙袋を置いた。野菜や果実がぎっしり詰め込まれていた。ポケットから無造作に金を出し、紙袋の脇に添えた。それから二階へ上った。階段はいつもよりも冷たく感じた。
 二階には書斎を兼ねた大きな部屋があり、そこがこの家の主人のものだった。しかし室内は無人だった。本棚に乱れはなかったが、木の椅子が倒れていた。彼女は椅子を起こし、ふと窓を見た。赤い色で星印が逆さに描かれていた。おそらくはスプレーペンキだった。
 身体が震え始めた。彼女は椅子に座り、前屈みになって床の絨毯をじっと見つめた。数刻の後、首をくくるためのロープを探すことを決めた。たしか納屋にあったはずだとぼんやりと思った。


 その女は汚れた布で目隠しをされていたが、母であることはすぐにわかった。灰色のコンクリートの壁の前に立たされていた。カメラが小刻みに揺れていた。それが周囲を取り囲む人々の足踏みによるものだとわかるまでにしばらくかかった。
 クドリャフカはバーカウンターに座っていた。町の郊外にあるダンスホールだった。携帯電話の液晶画面から顔を上げて、店内を見渡した。それなりに広い店だったが、今は営業をしていなかった。経営者はリンチで殺された。物資の略奪に数人の男が訪れて以来、ただ朽ちるのを待つばかりになっていた。
店の中央にはステージがあり、そこでダンスが踊れるようになっていた。椅子はバーカウンターに沿って並べられていた。バンドが曲を演奏するスペースももちろんあった。そこは他の床よりも一段ほど高くなっていた。
 ワンセグ動画の一分四十九秒の箇所で乾いた銃声が鳴った。弾道はわからなかった。直後に母の身体から力が抜け、その場に崩れ落ちるのを見て、ようやく発射された弾丸がどこへ向かったのかがわかった。もう何十回も再生を繰り返していたが、母に死が訪れる瞬間だけは彼女の瞳にいつも新鮮に映し出された。
 カウンターの向こうのドアが開き、月曜日が姿を現した。カウンターの向こうは厨房になっていて、地下室への階段があった。拉致した男はその地下にいる。ワインセラー用の地下室だった。今ではワインは一本もなく、設備も取っ払われていて、ただ空っぽの空間が広がっていた。
 月曜日はクドリャフカが見ている携帯電話を覗き込み、「四人ですね。」と言った。彼が口にしたのは、クドリャフカの母を射殺した男の数だった。ぶれていてわかり辛かったが、確かに銃を構えた男は四人だった。
 事務所へ一旦姿を消した月曜日はマグカップを持って戻ってきた。ホットミルクが注がれていた。それをクドリャフカの前に置き、自分は上着のポケットから薬莢を出し、カウンターに置いた。この店へ着いたその日に壁にめり込んでいるのを発見し、ナイフでほじくり出したものだった。彼は暇を見つけてはそれをヤスリで削っていた。「手先はね、器用なんですよ。」といつか恥ずかしそうに言った。
クドリャフカがホットミルクを一口啜ったとき、火曜日がやって来た。背広の乱れを見せない月曜日とは対照的に、火曜日は上半身裸だった。汗で肌が湿っていた。左胸に彫られた逆さまの星印が脈打っているようにクドリャフカには見えた。彼は軽々とカウンターを乗り越えて、床へ大の字に寝転がった。目は開いたままだった。おもむろに口を開いた。
「歯一本で気ぃ失いやがった。」
 月曜日はマグカップを置き、クドリャフカの様子を伺った。彼女は携帯電話から目を離し、火曜日の次の言葉を待っていた。
「全然無事だよ。ああ、そうだ、金曜日が呼んでたよ。」
「わかった。」
 ヤスリをカウンターに置き、月曜日は厨房へと姿を消した。軽やかな動きで火曜日がそれに続き、「あ。」と声を上げてから、クドリャフカも二人の後を追った。
 階段を降り、廊下を歩いた。地下は暗く、他の三人のようにしょっちゅうは出入りしていないクドリャフカは手探りで足を進めなければならなかった。ストレルカやヴェルカが一緒だったなら、きっとわたしを導いてくれただろうと思った。途中、月曜日が手を添えてくれたおかげで、少しは楽になった。
 床で炎が揺れていた。金曜日が灰皿で何かを燃やしていた。三人に気づいた金曜日はカードの束を月曜日に投げてよこした。クドリャフカは金曜日の元へ辿り着き、彼の手元を見た。金曜日はあぐらをかいて、紙幣を火にくべていた。空っぽになった札入れが灰皿の脇に無造作に投げ出されていた。
暗闇の中で揺れる炎は美しかった。彼は剥き出しの上半身にジャケットをつっかけていた。炎がたまに大きくなると、胸元がはっきりと照らされた。そこには火曜日と同じ星型の刺青があった。それは月曜日の左胸にも刻まれている。
 火曜日がライトをつけた。それは古臭い型のスタンドライトだったが、蛍光灯の電球は新しく、白く強い光を発した。金曜日の真向かいに男は横たわっていた。口には血だらけのガーゼが突っ込まれていた。二人の間で炎が揺れていたが、紙幣を焼き終えた金曜日は皮靴を使って火を叩き消した。焼きかすが宙に舞った。
 クドリャフカは携帯電話を出し、ワンセグ動画を再生した。三十七秒のあたりで銃を構えた四人の男の様子が捉えられていた。顔を確認した。間違いなく同一人物だった。しかし嬉しくも何ともなかった。
 男がうっすらと目を開け、うめき声を上げた。金曜日が「サヴァ。」と声をかけ、口のガーゼを取ってやった。男はきょとんとしていたが、やがて痛みを思い出したのか、顔を大きく歪めた。肩で息をしながら、「お前ら、何なんだ。」と途切れ途切れに言った。首元のネックレスが揺れた。月曜日が男の真横にしゃがみ込んだ。
「あんた、チェルヌシカを処刑しただろ。憶えてないか?」
「それがどうした。」
「この子、ルーシャの娘なんだ。」
 男の顔色が薄くなっていった。月曜日からクドリャフカへと視線が移動した。呆けたようにクドリャフカを見つめた。クドリャフカは何も言わなかった。しばらく見つめあった後、一切の言葉のないままにクドリャフカはそっと視線を外した。
「だからってお前ら。」
 そこで声は途切れた。それ以上の言葉は吐けないようだった。火曜日はつまらなそうにふんと鼻を鳴らして、厨房へ戻っていった。金曜日は男を見据えたまま、「クワ?」と促した。
 男はじろりとクドリャフカたちをねめ回してから、ようやく続けた。
「……こんなことしていいと思ってんのか?」
 月曜日は答えなかった。それを好機と判断したのか、男は早口でまくし立てた。
「それに、いまさらなんだよ。いつの話だと思ってんだ、あれ。だいたい俺一人どうこうするのに何日かかってんだよ、あんたら。」
「何言ってんだ、あんた。」
 月曜日の声はひどく冷たかった。
「あ?」
「あんたで四人目だよ。」
 月曜日は火曜日が持っていたスタンドライトへ手を伸ばし、地下室の中をゆっくりと照らしていった。部屋の隅で死体が三つ、静かに折り重なっていた。男が息を飲んだ。
 足音が聞こえ、徐々に近くなってきていた。月曜日はライトをそちらに向けた。火曜日が盆に包丁やキッチンハサミ、肉たたきなどを載せて、戻ってきていた。
 クドリャフカは立ち上がって、男に背を向けた。瞳はもう暗闇にだいぶ慣れていて、一階のフロアへ戻るくらいは簡単そうだった。火曜日とすれ違った。火曜日は「クーニャ、また後で」と言った。
「いや、ちょ、ま。」
 月曜日は金曜日に目で合図をし、クドリャフカの後を追った。小さな背中はちょっと目を離した隙に見えなくなってしまいそうだった。


 ボルシチを盛りつけた椀を運び終えたクドリャフカは額の汗を拭った。また火曜日がこの暑いのにボルシチかと言うだろう。どうせなら彼らに日本食を作ってやりたかったが、食材がなかった。彼らがロシアから持ってきていた材料ではボルシチしか作れなかった。それでもクドリャフカのボルシチは懐かしい味がするらしかった。「ルーシャ・イワノヴナもこんな味のボルシチをふるまってくれたことがあったんだ。」と月曜日は目を細めて言った。
 日本を出国してから、食は細くなる一方だった。この日も二口、三口食べただけで胸がいっぱいになった。疲労やストレスがあるのかもしれなかった。しかし日本に残ることを決めた日々に比べれば、今ははるかにマシというものだった。
 火曜日と金曜日は濡れたタオルで身体を拭きながら、厨房から出てきた。両腕や胸部、腹部に血がこびりついていた。といっても彼らの身体に傷があるわけではなかった。
 二人は自分の席について、スプーンを握った。火曜日は「うまいけど、飽きるよな。」と軽口を叩いた。クドリャフカはハードカバーの古びた詩集を開いていた。出国のときにルームメイトから貰ったものだった。火曜日がその様子に気づき、「クーニャ、また何か読んでくれよ。」と言った。火曜日は字があまり読めなかった。日本語でもいいから何か読んでくれと、子どものようにクドリャフカへせがむことがたまにあった。
「半分だけ ほしいのは そらあのクッション、その上では たよりなげな星 落ちていく星みたいに そーっとほっぺたにおしつけられた 指輪が きみの手にまたたいているのだから……。」
 適当に開いたページに書かれた文字を淀みなく読み上げた。火曜日はボルシチをがつがつと食べながら、それを聴いていた。日本語だから意味はわからなかったが、どこか優しげな眼差しを感じ取っていた。
 クドリャフカが詩集をカウンターに置いたとき、ホールの入口の扉が開いた。月曜日だった。彼はいつものように少し早足で三人の元へ歩いてきた。しかしその表情はいつもとは異なっていて、若干強張っていた。
「クワ?」
 ボルシチをとうに食べ終えていた金曜日が月曜日を見上げていた。その眼光は鋭かった。クドリャフカは厨房で汲んできた水を月曜日に渡した。月曜日は喉を鳴らして飲み干し、口を開いた。
「空港の封鎖が決まった。三日後だそうだ。この国はもう――。」
 月曜日は一旦そこで言葉を切ったが、すぐに続けた。
「俺たちはイワンと一緒に帰るんだ。」
「戻るのか?」
「そうだ。」
 火曜日は「あ、そう。」と笑みを浮かべた。
「クーニャ、君は日本に帰るんだろう。」
「え?」
「ここにはもういられない。旅券とかは心配しなくていい。イワンがどうにかするよ。それとも……俺たちと一緒に行くか?」
 クドリャフカはとっさに背後を振り返った。無人の厨房と地下室への階段があった。火曜日が笑い声を上げた。
「そうそう、忘れちゃいけないよな。」
「いずれにせよ、明後日には空の上だ。」
 三人は何事か話し合っていたが、クドリャフカの耳には届いていなかった。クドリャフカはじっと厨房の奥を見つめていた。あの男のうめき声が聞こえてきているように感じられていた。


 丸一日が過ぎていた。火曜日と金曜日は一足早くテヴアを後にした。結局祖父とは会えなかったが、「お元気で。」という伝言を二人に託した。
 月曜日は相変わらずカウンター席に座って、ヤスリで薬莢を削っていた。彼女に何かを指示したり、促したりすることはなかった。ただ一言、「後は自分で考えるんだ。」と言った。その言葉を受けて、クドリャフカは残されたわずかな時間を地下で過ごすことを決めた。
地下は以前よりも明るく感じられた。暗さに目が慣れたためだろうと彼女は思った。床には彼のために持ち込まれた器具や簡単な食べ物、飲み物、あるいはろうそくなどが無造作に転がっていた。ナイフや拳銃まであった。
男は力なく壁にもたれかかっていた。彼女が近づいても、ほとんど反応すらしなかった。両手と両足は鎖で繋がれていた。それは壁に繋いでおけるように、月曜日がわざわざこの場所に作ったものだった。
 クドリャフカは男の目の前にしゃがみ込んだ。母を射殺した男の一人が目の前で死にかかっている。他の三人はすでに死んだ。臭いがひどくなってきたので、すでに地下室からは運び出されていた。クドリャフカはマグカップに注いだ水を一口飲んだ。喉が鳴った。男がぴくりと反応したように見えた。床に転がっていたろうそくに火を灯し、男に近付けた。男は焦点の合わない瞳でクドリャフカを見据えていた。
 スカートのポケットから鍵を出した。月曜日から渡されたものだった。「後はクーニャ、君が決めなさい。」と彼は言った。こういうのをきっとおとしまえというのだろうとまるで他人事のようにクドリャフカは思った。
 手足の鎖を外しても、男は力なく項垂れたままだった。もう長くはないことは容易に窺い知れた。しかしクドリャフカは自分の手で結末を作ろうとは思わなかった。逃げているだけなのかもしれなかったが、自然の流れに任せるのも悪くはない。そう考えていた。
「さようなら。」
 クドリャフカはそう言った。男はわずかに顔を上げようとしたように見えたが、実際は音に反応をしただけなのかもしれなかった。クドリャフカは立ち上がり、踵を返して歩き始めた。わざと足音を立てるように強く床を踏んでいた。その音は遠ざかっていった。
 その場に残された男はほとんど身体を動かせなかった。しかし自分が自由になったことはぼんやりと理解できていた。しかしその自由の中でできることは何一つないようだった。身体を動かそうとして、うつ伏せに倒れた。金属片が床に落ちて、こん、と音を立てた。
 足音がまた大きくなってきていた。男は眼球だけを動かした。クドリャフカがすぐ近くに立っていた。彼女は男を抱きかかえて、胸元のネックレスをまさぐった。それは個人認識票だった。「どうして……。」と呟いていた。
 ふと床に無造作に置かれたままの拳銃が目に入った。特別仕様のチーフスペシャル、レディスミスだった。クドリャフカはずっしりとした重みのあるそれを拾い上げ、銃口を男の口へ突っ込んだ。それからまた「どうして……。」と繰り返した。


 月曜日は車の運転席で口笛を吹きながら、薬莢を削っていた。ダンスホールからクドリャフカが姿を現したとき、全てが終わったのだと実感できた。
 クドリャフカは助手席へ乗り込み、静かに座った。彼女は発車を待ったが、月曜日は一向に車を出そうとしなかった。
「あの……。」
「ここ、忘れちゃいけないよ。」
「忘れるわけ……ないじゃないですか。」
「そうじゃないよ。ここ、君のお父さんとお母さんが初めて出会った場所で、別れた場所なんだ。」
「え……?」
 クドリャフカはゆっくりと視線を動かした。それから車を降り、ふらふらとダンスホールの扉へと近づいた。音楽が中から漏れてきていた。驚いたように扉を押し開いた。
 ゆるやかなジャズの音色にあわせて、多くの着飾った男女が中央のステージで踊っていた。アナトーリィはカウンターで酒を飲みながら、彼らをぼんやりと眺めていた。ふと柱に寄りかかるようにしている女が目に入った。色の薄い、どこか頼りなげな女は憂鬱そうにグラスのアルコールをあおっていたが、やがて自分を見ている目線に気づいた。二人はほぼ同時に歩き始め、ステージの隅っこで視線をからめ合った。
「踊っていただけますか?」
「……喜んで。ちょうど退屈だったの。」
 アナトーリィもチェルヌシカもダンスのたしなみはなく、へたくそだった。しかしへたくそなりに楽しく踊った。チェルヌシカの額に汗が目立ち始めた頃、柔らかい声で彼女は言った。
「私、もうすぐ宇宙へ行くの。信じられる?」
「君、宇宙飛行士なのか?」
 ワルツにあわせてステップを踏みながら、アナトーリィは驚きを隠せずにいた。こんな可憐な女性が宇宙飛行士だとは思えなかったからだった。しかし抱き寄せた瞬間に感じた筋肉質の身体は、ただの女性だとも思えないものだった。
「そう。私ね、誰よりも星に近くなるのよ。」
「素敵だね。ねえ、名前を聞いてもいいかい?」
「ルーシャ。あなたは?」
「トーリャ。」
 二人は身体をぴったりと寄せ合い、穏やかなメロディーに身を任せた。一つの曲が終わり、バンドが次の曲へ移ろうとする。軽快なピアノの演奏が始まったときに入口のドアが開いて、銃を構えた男が数人、大股でホールへと入ってきた。
 バンドは構わず演奏を始め、ステージにいた人々は踊りを続けようとした。しかし一番前にいた男は天井に向かって発砲し、沈黙を呼び込んだ。今度は目の前に銃を構え、柱時計を撃ち落とした。人々は悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出して行った。アナトーリィとチェルヌシカは呆然とその場に立ち尽くしていた。しかし男の顔を見て、何が起ころうとしているのかを了解した。
 男は拳銃の銃口を手前に小刻みに動かし、チェルヌシカへこちらに来るように促した。チェルヌシカは頷いて、すぐにアナトーリィの顔を見た。そこには穏やかな笑みがあった。アナトーリィはチェルヌシカの頬を撫でた。彼の薬指にはめられた指輪の感触がひどく愛おしかった。同じ指輪がチェルヌシカの薬指にもあった。チェルヌシカはやがて男の元へ向かった。男は彼女を背後の男たちに任せ、その場を去ろうとした。が、すぐに振り返って、アナトーリィの眉間を撃ち抜いた。貫通した銃弾は彼の背後の壁にめり込んだ。
 入口のところに立ったままでいたクドリャフカは連行されていく母の姿をただ見ていた。チェルヌシカは一瞬だけ、クドリャフカと視線を交わした。彼女は首を振って、月曜日が待っている車を指差した。クドリャフカは頷き、車へ戻った。そこまでの道はひどく長く感じられた。助手席に乗り込み、月曜日へ発車を促した。月曜日は笑ってアクセルを踏み、人っ子ひとりいない空港への道を急いだ。


 寮の部屋はそのまま残されていた。すれ違う知人たちに軽く挨拶をしながら自分の部屋へ向かい、入った途端ベッドへ倒れ込んだのだった。すぐに眠気に包まれた。テヴアでは深い眠りに落ちたことはなかった。久方ぶりの熟睡のようだった。
 クドリャフカが寝息を立て始めた頃、西園美魚が紙袋を持って部屋へ戻ってきた。紙袋には古本がぎっしりつまっていた。彼女はその一冊一冊を丁寧に出しながら、ふとベッドで眠っているクドリャフカに気づいた。
「能美さん、帰ってきてる。帰った……?」
 美魚が首を傾げていると、携帯電話の着信音が鳴った。飾り気のないただの呼び出し音だった。美魚は鞄から携帯電話を取り出し、「あ、もしもし?」と言いながら部屋を出た。
 ドアが閉じられたとき、クドリャフカが寝返りをうった。首元にはネックレスがあった。銀色のチェーンに繋げられているのは薬莢だった。そこには星型が紋章のように刻み込まれていた。

(了)


[No.86] 2009/05/02(Sat) 00:24:00
しめきりし時 (No.73への返信 / 1階層) - 主催

ダブルアーツを切ったジャンプを見切ったという海老さんの意見に賛同せざるを得ないもののダブルアーツの作者が漫画描くとしたらまずジャンプであるわけで毎週立ち読みせざるを得ないこの切なさ。しかし古味直志先生の名未だ無く。切ない。ついでに内水融先生の短編を月一とかでいいから読みたい。FORESTはガチ名作だったのだ。切ない切な連鎖。

[No.87] 2009/05/02(Sat) 00:26:33
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