どもるから自分のやりたいことを我慢してしまうとか、どもるから就職、進学は***の方向に決めようとか、どもることを理由にして自分の行動を変えることはよくあると思います。 そのことの善し悪しは、本当のところはよくわからない。例えば視力が1.5以上必要な仕事というのも世の中にはあると思いますが、わたしはその仕事には就けないわけですが、別にそのことで変な劣等感は持っていないつもりです。こういう(客観的にみた)自分の能力によって、自分の行動を変えるのはぜんぜん問題ないと思うんですよね。
一方、先に述べた「どもること」による自らの行動の制限は、それとはだいぶ違うと感じています。それらは、自分の言語能力の限界を測って行動を制限しているのではなくて、「どもるのが恥ずかしい」という自分の内面の理由によって行動を制限しているのではないでしょうか。あてはまらない事もあるかもしれませんが、そのような場合が多いのではないでしょうか。
わたしは「吃音をぶっ飛ばせ」という言葉に象徴されるようなオンリーワンの精神が気に入っているので、その方向の生き方を示唆する発言なのですが、「恥ずかしい」という気持ちがもしも無かったら自分はどうするかを想像してみるとどうでしょうか? もしも、どもることが恥ずかしくなければ、本当に話し言葉の能力を必要とする職業以外であればどこでも大丈夫なのではないでしょうか。 それでもやっぱり、恥ずかしいものは恥ずかしいですし、劣等感、自己嫌悪のようなものは簡単には消えないと思いますが、一旦は「ドモリが恥ずかしくなければ自分はこうするだろう」ということを想像してみるのもいいかと思います。ぜひお勧めしたいイメージトレーニングだと思います。
[No.777] 2008/07/27(Sun) 12:25:54 |