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> > 公共の福祉とは個人と他の個人の権利や利益のせめぎ合いですので、数多くの判例や学問的な定説は存在します。 > > 風さんのこの書き込みでハッとさせられました。 > ゛公共の福祉とは個人と他の個人の権利や利益のせめぎ合い゛であるとするなら、そこに公権力が介入をする事は許されるのでしょうか? > 勿論、公共工事の際の用地買収に関連して公共の福祉の概念が用いられる事があることは承知していますが、公共工事の際の用地買収は突き詰めれば公共工事の受益者である個人と被用地買収者の権利の衝突だとも考えられませんか? もちろん国家には国民を幸福にする義務があり、そのために社会政策や公共事業も必要となります。 道路や灌漑設備・治水工事のために用地収容という場面も出てくるでしょう。 ただしこの場合も公共の福祉は貫徹され、必要最小限の収容・世間相場の買収費用が保証されるべきです。 あくまでも個人の権利が追求されるのです。 根本的には当該公共事業がそもそも国民・住民の人権に資するものであるかどうかの検証から出発されなければなりませんよね。 > > そういった意味で、公共の福祉という制限が個人の尊重に資する日常的な概念であると改めて確認したいのです。 > > 公共の公の字が政府やアベを指し示すのだと勘違いしている輩が多いのではないですか? > この部分私が一番心配な部分です。 [No.27388] 2019/08/10(Sat) 10:48:34 |
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