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No.1260に関するツリー

   初めまして! - 光 - 2006/02/22(Wed) 10:32:33 [No.1260]
『プロローグ』 - 光 - 2006/02/22(Wed) 11:15:48 [No.1261]
第1章『その理由は・・・』 - 光 - 2006/02/27(Mon) 13:25:46 [No.1263]
第2章『ハイウェイパニック』 - 光 - 2006/03/06(Mon) 19:17:04 [No.1272]
第3章『惚気100%』 - 光 - 2006/03/10(Fri) 19:08:53 [No.1275]
第4章『再会二重奏』 - 光 - 2006/03/15(Wed) 23:47:50 [No.1280]
第5章『羅針盤MANAKA』 - 光 - 2006/03/30(Thu) 01:30:48 [No.1286]
第6章『桜 時々 いちご』 - 光 - 2006/04/22(Sat) 00:02:50 [No.1290]
第7章『Mad Compass』 - 光 - 2006/05/09(Tue) 17:44:37 [No.1295]
第8章『あいたがひ 覚束無しや 桜人』 - 光 - 2006/08/16(Wed) 17:51:10 [No.1309]
最終章『西に沈む陽』 - SSスレからの転載・たゆ代行書き込み - 2007/03/27(Tue) 12:12:37 [No.1342]



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初めまして! (親記事) - 光

初めまして。
こういうのを書くのは初めてなのですが、書かせていただきます。
よろしくお願いします(^^)


[No.1260] 2006/02/22(Wed) 10:32:33
23.net059086147.t-com.ne.jp
『プロローグ』 (No.1260への返信 / 1階層) - 光

 別れの悲しみ、目的地への期待と希望、出掛け先での思い出。空港にはそんな思いとそれを持つ人々が、今日も集まりすれ違い、忙しなく動いている。
 たった今ゲートをくぐった彼女も、そんな大勢の一人。キャスターのついた旅行用のかばんを引き、こころなしか他人よりも早足で出てきた。ロビーに着くや否や、彼女はキョロキョロと辺りを見回し、次いで自分の小さな腕時計に目をやった。
 不安が焦りへと変わり、彼女は何度も周囲に目を走らせた。急に、彼女の首が動きを止める。見つめる先には、壁に寄りかかっている一人の男。男性も彼女の視線に気が付いたらしく、何の気なしに見つめていた爪先から、彼女の方へと視線を移す。
 視線がぶつかり合う。永遠ともとれる一瞬、互いに何の反応も示さない。我に返った男性は、見開きがちになっていた目を細め、口の端を少し持ち上げた。彼女も嬉しそうに表情をほころばせる。
 気が付けば、走り出していた。走るのには決して向いているとは言えない靴で、彼女なりに精一杯、渾身の力で彼の元へ向かった。
焦る気持ちが肉体を追い抜き、先に彼の胸に飛び込み体がそれに従った。もう久しく感じていない彼の温もりを、彼女は全身で受け止め、彼の方も彼女を優しく抱きしめ、そっと髪を撫でてやってた。 再会の喜びを充分に噛み締めながら、どちらからともなく、囁くように言葉を交わした。

「ただいま、淳平君」
「おかえり、西野」 


[No.1261] 2006/02/22(Wed) 11:15:48
23.net059086147.t-com.ne.jp
第1章『その理由は・・・』 (No.1261への返信 / 2階層) - 光

 真昼のやわらかい春風が、地面を、頬を撫でるように流れていく。空気は春独特のやさしい匂いで満ち、空には天候の崩れを思わせるような雲もなく、陽射しはぽかぽかと暖かい。ともすれば夢の中に引き込まれてしまうような、穏やかで心地よい陽気であるにもかかわらず、空港の駐車場を足早に歩いている彼女――西野つかさは、少々ご立腹気味だった。
「ねぇ〜、そんなに怒んないでよ〜。」
 原因は、先程から彼女の2,3歩後ろをついて歩きながら、情けない声を出しているこの男――真中淳平である。
 つかさは別に、淳平の出迎えの態度に不満があったわけではない。久々の再開とは言え、感情を抑えきれずに公衆の面前で思い切り飛びついてしまった自分を、嫌な顔ひとつせず、むしろ心底嬉しそうに受け止めてくれた事を、つかさは喜んでいた。問題はその直後である。
「淳平君・・・。」
 急に足を止め、くるりと振り返ったつかさは、まだ拗ねたように頬を膨らませていた。
「アタシ、この前の手紙でなんて言ったっけ?」
―――遡ること数日―――
 二連休の初日、夜更けまでお気に入りの映画を堪能した人間にとって、翌朝の寝坊など最早必然。街がとっくにフル稼働をしている時間、淳平は昨夜観た映画の内の1本を、中でも特に御贔屓のシーンを、夢の中で繰り返し再生していた。だと言うのに・・・。
「ホラ、淳平!休みだからっていつまで寝てるの!」
 ノックも無しにドアを開け部屋に入ってきた母親に安眠をぶち壊される。
「んるさいなぁ・・・俺昨日は遅かったんだよぉ。」
 布団の中でもぞもぞと身じろぎながら、不機嫌さを隠そうともせずに反論する。もぞもぞが止まると、しっかりと閉じた瞼を開けようと努力する気配すら見せず「そもそも今日は、ずっとこうしてるつもりだったんだよ。」と、付け足した。
 普通ならここで困るなり、怒るなりしそうなものだが、丸まった布団から発せられるくぐもった声を聞いた淳平の母は、なんとも意地悪そうにニヤニヤして「いいのかなぁ〜、そんなこと言って♪」と、何やら妙に楽しそうである。
「すっごく良い物があるんだけどなぁ〜。」
 母親の言葉に、淳平は「今の俺に、安眠よりも良い物ってどれだけのもんだよ」と、突っ込みを入れようとしたが、その気力すら眠気の中に埋もれ、やがてフェードアウトする。
「アンタ宛に、エアメールが来てるわよ。」
 アホらしい、とばかりに淳平は寝返りを打ち、母親に背を向けた。
 淳平の記憶にある限り、ビデオカメラ片手に世界を回った時に出会ったホンの数人を除けば、知り合いは全員日本国籍であるし、その数人を含めたって、わざわざ通常よりも高い料金を支払ってまで海外から手紙を送ってくる人物など、淳平の記憶には・・・。
 脳が一気に覚醒した。いるではないか、たった一人。さらさらのショートヘアーと、つやつやで美麗と言っても過言ではない唇を持った彼女が。
 糊付けされていた上下の瞼の接合部が無理矢理引きちぎられ、掛け布団が天井に叩きつけられんばかりの勢いで跳ね上げられると、2秒後には、扉を半ば体当たりするように開けた淳平が、居間に転がり込んできていた。
 卓上のそれと思しき封筒をつかみ、ビリビリと乱暴に封を開け、すぐに中身を読み始めた。

  お久しぶりです、淳平君。

 立派な映画監督さんにはなれたかな?アタシはなんと、もうすぐ修行が終わりそうです。これでアタシも立派なパティシエだぞっ!すごいだろ〜♪
 そこで本題なんだけど、実はアタシが修行してるお店の人たちが卒業のお祝いをしてくれるって言うんだけど、どうせならってことでそこにアタシのお父さんとお母さんも呼ばれたんだ。そのことをこの前二人に話したら、その後フランス旅行もしたいって言うんだ。けど、アタシにとっては、こっちはもう今更って感じで、ホント言うと、早く日本に帰って淳平君に会いたいんだ。
 だからお願いなんだけど、アタシが日本に着く日に淳平君に迎えに来てほしいんだ。それで、いっそそのまま二人でどこか旅行にでも行っちゃわない?もちろん、淳平君に迷惑じゃなければの話なんだけど・・・。
 この返事は手紙だと時間かかっちゃうから、同封したメモに書いてある番号に電話して下さい。最初はたぶんお店の人が出ると思うからフランス語だと思うけど、英語でかまわないからとりあえず淳平君の名前を言ってみて。淳平君の名前が出れば、たぶんアタシに代わってくれると思うから。
 ではでは!また会える日を楽しみにしてます!

  追伸
 アタシが日本に着いたら、ちゃんと下の名前で呼ぶんだぞっ!

 その後の電話で淳平は、つかさとの帰国後の旅行のことを簡単に打ち合わせをして、その電話の最後にも「今日は許すけど、日本に着いたら手紙の追伸で書いたこと、忘れないでよ。」と釘を刺されていたのだ。
 しかし、つかさを抱き締めながら淳平が放った第一声は「おかえり、”西野”」。
 つかさだって、別に本気で怒っているわけではない。ただ、恋人から下の名前で呼ばれたいと思うのは、やはり自然なこと。
「淳平君さぁ、ホントにアタシのこと好き?」
 つかさが唇を尖らせて、呟く。
「あ、当たり前だろ!」
「でもさぁ・・・」
 思わず大声を出してしまった淳平の言葉を遮るようにつかさが続ける。
「確か、東城さんのことも”東城”って、苗字で呼んでたよね?それって、アタシと東城さんが同じ扱いって事?」
 さすがは、つかさ。淳平の痛い部分を的確に突いてきている。本気で疑っているわけではないが、淳平の気持ちを確認するための彼女なりの訴えなのだ。
「アタシは・・・・・んむっ!?」
 つかさの言葉が、何の前触れもなく遮られる。突然彼女を抱き締めた淳平の唇によって。ただ単純に触れ合うだけのキスだったが、つかさに対する確かな愛情と優しさがいっぱいに込められている。
 淳平は唇をゆっくりと引き剥がすと、そのまま口をつかさの耳元に持っていく。
「俺は、ホントに・・・・・その、つ、『つかさ』のことが・・・大好き、だから・・・。」
 心臓がどくん、と一つ跳ねる。お互いに、確認するまでもなく相手の顔が真っ赤なのは解っているし、同じぐらい自分の顔が赤くなっているのもわかる。頬に当たる風が、なんだか先程までよりも断然冷たく感じる。
「そ、そんなこと言って・・・・・誤魔化したって・・・」
 口から出た言葉とは正反対に、つかさは恥ずかしそうに、しかしどこか満足したように俯く。
「もうっ!今度から気を付けるんだぞっ!」
 つかさは急におどけてみせ、淳平の額に、握り拳をコツンと当てる。淳平も照れ笑いを浮かべながら「努力します」と、言った。そんな彼を見て、あるいは、そんな彼を笑って許している自分を見てつかさは心でそっと呟く。
――あぁ、やっぱりアタシ、淳平君のこと大好きなんだ――
「それで?アタシは一体どこに連れて行ってもらえるのかな?」
 つかさの笑顔の問いに、淳平は歩きながらつかさに説明していった。右手に、つかさのカバンを携えて。
 互いに笑い合い、からかい合い、冗談を言い合いながら、二人は、これから訪れる数日間の旅に、思いを馳せていった。
 ちなみに先程からのやり取りは、道行く人々に半分微笑ましく、半分呆れられながらしっかりと見られていたという。


[No.1263] 2006/02/27(Mon) 13:25:46
69.net220148140.t-com.ne.jp
第2章『ハイウェイパニック』 (No.1263への返信 / 3階層) - 光

 高速道路とは血管のようなものだ、という人がいる。都市と地方

を結び、人や物資という酸素を乗せた車という名の赤血球の通り

道。それらは行き先で商品やその消費者、あるいは労働力となるこ

とで、酸素が使われ、細胞が息づく。一度問題が起これば、程度の

差こそあれ、巡りが悪くなり、正常な状態ならば淀みなく流れてい

く。

 今正に下り方面に向かい快走しているこの白の軽自動車とて例外

ではない。

「それにしても、驚き〜。」

 日本にいない間の淳平の思い出を聞いて、助手席に座って楽しそ

うに笑っていたつかさが感心したように言う。

「淳平君ってもう自分の車持ってるんだね。」

映画のお仕事ってそんなにもうかるの?というつかさの言葉に、淳

平は「まさか」といって苦笑いを浮かべる。

「まだ事務所に入りたての新人の給料なんてすずめの涙もいいとこ

だよ。」

 じゃあ、どうして?という表情のつかさに、淳平は説明しだす。

 この車の元の持ち主はテアトル泉坂の館長の息子。父親の影響か

らか、彼もまた映画に多少なりとも興味があり、ある日、父親が持

っていた淳平の高校生の時の作品のビデオを見て淳平のことをいた

く気に入ったのだった。淳平もまた、自分では気づきにくい点を的

確に評価してくれる彼の意見を貴重に感じていた。そんな時、館長

の息子が新しいのに乗り換えるからという理由で、淳平に一台譲っ

てくれたのだった。タダではいくらなんでも悪いのでと、多少お金

を払ったようだが、中古車専門店の買取り価格より高く、且つ売値

よりも格安だったので、互いに非常に得をしたことになる。

「でもさぁ」と、つかさ。

「それってやっぱり、淳平君が認めてもらってるってことなんだよ

ね?そう考えると・・・やっぱり嬉しいな。」

 「変なの。アタシのことじゃないのにね」と言って、ニコッと笑

うつかさを見て、淳平の心臓が喜びに震える。この笑顔を守るため

にも、と淳平は思う。

(早く技術を身につけて、西野に何でもしてあげるんだ)

 いつか外村に言ったセリフを心の中でそっと繰り返す。ただし、

あの時とは違い、夢想に近いものではなく、確固たる決意と意思を

込めて。

 すると、そんな気持ちでいた淳平の目に映ったつかさの笑顔が途

端に青ざめる。

「じゅ、じゅ、淳平君!前、前!」

「へ?・・・・・のわぁっ!!!」

 つかさに見とれている間に、車はあっちにゆらゆら、こっちにふ

らふら。気が付いてみれば車はガードレールにぶつかるか否かとい

うギリギリの所を走っていた。淳平は慌てて左にハンドルをきる

が、突然のことに加減が効かず、左側の車線から追い抜こうとして

いたトラックの前に飛び出し、派手にクラクションを鳴らされる。

「どわぁぁぁぁーーーーー!!!」

「きゃーーーーーーーーーっ!!」

 最早完全に冷静さを失って、淳平は無我夢中でハンドルをきる。

数秒後、サービスエリアの駐車場にフルスピードで突入し、二人を

乗せた車は漸く然るべき場所に落ち着いた。

「はぁ、はぁ」

 二人ともぐったりと疲れきって、よれよれになってしまって、肩

で息をしている。

「アハハ・・・その・・・・・大丈夫だった?」

 とりあえず笑って場を和ませようとした淳平の目論見は、どうや

ら大失敗に終わるようだ。

「もーっ!何やってんだよ淳平君!ホントに死ぬかと思ったんだ

ぞ!」

 つかさが堰を切ったように喋りだし、淳平に怒りをぶちまける。

こうなると淳平はただひたすら小さくなっているしかない。時折、

「はい」とか「すいませんでした」とか「仰る通りです」と言う以

外は、静かにつかさのお説教を受けていた。

 つかさマシンガンが弾を全て撃ち尽くしたのは、それから五分後

のことだという。 


[No.1272] 2006/03/06(Mon) 19:17:04
61.net059086147.t-com.ne.jp
第3章『惚気100%』 (No.1272への返信 / 4階層) - 光

 一日で、およそ数百台。年間ではそれこそ何百何十万という車両

が行き来する高速道路。そんな場所にあるサービスエリアなのだか

ら、自然とそれらが通過する時の騒音が生じたり、排気ガス量が増

えるのは当たり前のこと。それは、正直に言って気持ちのいいもの

ではない。とは言え、都会を離れた土地。そもそもの緑の量が決定

的に違うそこの空気は、都心のそれよりもはるかにおいしく感じる

し、長時間車に乗っていた者にとっては、適度な気分転換にこれ以

上のものはない。

 淳平とつかさも、偶然に立ち寄ったのだが、少し手足を伸ばしが

てら先刻から悲しく鳴いている胃の腑を黙らせるために遅めの昼食

を摂ることにしたのだった

「そう言えば、淳平君が卒業した後の映研ってどうなったの?」

 注文した料理を待つ間、つかさは頭に浮かんだ疑問を口にしてみ

た。

「俺たちが引退した直後に、部員が外村の妹一人だけになっちゃっ

てその後休部になっちゃったんだけど、去年からまた新入生が入っ

てきた、って黒川先生が言ってた。」

 つかさが「じゃあ、そろそろ今年の映画の台本作ってるころだ

ね」と言うと、淳平は「ちょっと早いんじゃないかな」と、苦笑い

をし、自分たちのことを思い返していた。東城が台本をしあげてい

たのはだいたい5月の終わりから6月の上旬にかけて。その台本に

全員が目を通した後、キャストを決定し、絵コンテの作成に取り掛

かる。

(そう言えば、よく徹夜で描いてて次の日一日中居眠りしてたな)

 当時のことを懐かしみながら、淳平がクスリと笑う。と、

「コラ。二人っきりの時に、一人でアタシがいない思い出に浸る

な!」

 不満そうな声を出しながら、つかさは淳平の頬を指で摘み、ぐい

っと左右に引っ張る。

「いはい、いはい!いはいっへは!」

 淳平が情けない声を出しながら、つかさの手を解こうとする。そ

の時だった。

「お待たせいたしました。」

 料理を運んできたウェイトレスが淳平たちのテーブルのすぐ脇に

立っていた。しかし、どうにも様子がおかしい。一応笑顔ではある

ものの、営業スマイルと言うよりは、むしろ大笑いするのを必死で

こらえているといった様子である。周りの客に目を向けてみると、

同じように笑うのを我慢しているようだったり、呆れ返っているよ

うだったり、中には露骨に引いてしまっているものもいる。今のや

りとりは完全に周囲の注目を集めていた。あまりの恥ずかしさに、

二人は―――特につかさが―――一言も喋らずに、黙々と食事を済

ませ、大急ぎでその場を離れた。

 急ぎの旅と言うわけではなかったし、むしろ到着が早過ぎてもチ

ェックインできないから、と言うことで、本当なら食事が済んでも

多少ゆっくりしていくつもりだったが、外に出てしまった手前、い

や、そうでなくてもレストラン内に戻るわけにもいかず、二人は時

間を持て余すこととなった。

「見て見て、淳平君。」

 別に何を買うでもなく、ただ売店をブラブラしている時、つかさ

が楽しそうに淳平に話しかけた。つかさの指差す先には、掌サイズ

のネコのマスコットの付いたキーホルダーが売られていた。

(あ、西野っぽい)

 淳平の第一印象がそれだった。いたずらっぽく笑っているその表

情が、照れ隠しにおどけてみせた時のつかさに似ているのだった。

 ふと、つかさがそのキーホルダーを手に取った。

「コラ、淳平君!ちゃんと安全運転しなきゃだめだろ!」

 右手に持ったマスコットを動かしながら、可愛らしく甲高い声で

つかさが言った。

「だ、だから、あれは悪かったってば・・」

 苦笑いしながら、謝る淳平。

 するとその時、淳平の右脚に何かがぶつかってきた。

「おっと。」

「あ・・・」

 見れば、そこには小さな女の子がいた。緑色のワンピースを着

て、ピンクのゴムバンドで長い髪を束ねている。4,5歳位だろう

か、目尻にはうっすらと涙の跡が見える。

「お嬢ちゃん、どうしたの?」


 不安そうな表情を浮かべている女の子に、つかさが優しく声をか

ける。どうしたの、と聞くまでも無く、つかさにも、勿論淳平にも

帰ってくるであろう言葉は容易に想像できた。

「えっと・・・あのね・・・・・お父さんとお母さんが、どこにい

るかわからなくなっちゃったの」

 案の定迷子だった。

「えっと、お名前は何て言うのかな?」

 淳平がしゃがみこんで、目線の高さを女の子にあわせて聞いた。

「んとね、奈々っていうの」

「今、いくつ?」

 淳平に聞かれて、「4さい」と言って、親指以外の指を伸ばした

手を淳平に見せた。

「奈々ちゃんか。良いお名前ね。」

 つかさにそう言われて頭を撫でられると、幾らかホッとしたらし

く、女の子の表情が随分と安らいだ。

 だが、順調なのはそこまでだった。どこから来たのか、どこに向

かう予定だったのか、更にはいつどのタイミングで両親とはぐれて

しまったのかが全くわからないらしい。

「どうしよう。迷子センター・・・が、あるわけないよね、こんな

とこに。」

「さっき、あっちに総合案内所ってとこがあったから、とりあえず

行ってみようか。」

 淳平の提案により三人は、つかさと淳平が奈々を挟んで立ち、手

を繋ぎながら歩きだした。案内所で淳平が係の女性に簡単に事情を

説明すると、場内にアナウンスをしてもらえることになった。

「もうすぐお父さんやお母さんに会えるからね。」

 淳平が優しく慰めてあげると、奈々はくしゃっと顔をほころばせ

笑顔になり、小さな子どもらしく、元気な声で返事をした。

「うん!ありがとう、お父さん!」

「「えっ?」」

 奈々の口から出てきた言葉に、つかさと淳平はパッと後ろを振り

返り、次いで互いに顔を見合わせる。そんな二人の様子を見て、口

元に手を当て、「あっ」と小さく声を上げた奈々を見て、淳平は苦

笑いを浮かべる。

「う〜ん、お兄ちゃんは奈々ちゃんのお父さんじゃないんだけどな

ぁ。」

 一瞬、奈々の父親がもう迎えに来たのかと思ったが、どうやら

奈々は淳平のことを間違えて、お父さんと呼んでしまったらしい。

小学校の高学年の子どもでさえ、教師に対して同じ間違いをするこ

ともあるというのだから、4歳の女の子なら仕方がない。

 奈々は少し照れて、エヘヘと笑い「間違えちゃった」と、おどけ

てみせた。

「もう、奈々ちゃんってば♪」

 つかさがクスリと笑い、人差し指で奈々の額をつん、と押した。

「あっ、お姉ちゃんもお母さんみたい。」

「えっ?」

「お母さんもね、奈々が間違えるとそんな風に奈々のおでこ、つん

ってするんだよ!」

 奈々が楽しそうに、一生懸命につかさに説明する。すると、

「奈々ちゃん!」

 背後から聞こえた声に、三人が振り返る。

「あっ、お母さん!」

 大声の主、奈々の母親が現れ、早速飛びついてきた奈々をしっか

りと抱きとめる。

「奈々、ごめんね。大丈夫だった?」

「うん!お兄ちゃんとお姉ちゃんがとっても優しくしてくれた

の!」

 奈々の言葉で奈々の母は顔を上げ、淳平とつかさに対して何度も

頭を下げ、礼を言っていた。

「可愛かったね、奈々ちゃんって。」

 互いの姿が見えなくなるまで手を振っていた奈々を見送って、同

じように笑顔で手を振っていたつかさが、ふっと息をつきながら言

った。

「ホントに。それにしても、“お母さん”だってさ。」

「淳平君こそ、“お父さん”だって。」

 互いに顔を見合わせ、くすっと笑う。と、

(あれ?俺が奈々ちゃんのお父さんで、西野がお母さんって事は)

(アタシが奈々ちゃんのお母さんで、淳平君がお父さんってことは)

 二人が時を同じくして同じ考えが頭の中に浮かび、揃って同じ答

えにたどり着き、これまた同時に赤面する。互いの顔の赤さから、

相手も同じ事を考えていたのだと悟ると、恥ずかしさのあまり目も

合わせられなくなってしまった。いささか気まずく、妙に長い沈黙

が流れた。

「・・・そろそろ行こうよ。遅くなっちゃう」

 つかさが急に沈黙を破り、歩き始める。やはり淳平の方をまとも

に見れていない。スタスタと早足に行ってしまうつかさを、淳平が

慌てて追いかける。こちらもまだ頬が赤いまま。

「・・あ、あのさ・・・・」

 駐車場に戻ってきて、車の前まで来た時に、たまらなくなり、淳

平が声をかける。つかさは足を止めると、くるりと振り返り

「えっ!?ちょっ・・・」

 棒立ちしている淳平の腕にしなだれ、その肩に頭を乗せるように

して囁いた。

「いつか、アタシと淳平君も・・・なれたらいいね。」

 再び淳平がオーバーヒートする。つかさも自分の言葉に更に頬を

染め、しかし、穏やかな笑顔を浮かべている。

「その・・・・・西野が、嫌じゃないなら」

 掠れそうな声を何とか絞り出し、淳平が囁き返す。つかさはくす

ぐったそうに微笑み、

「淳平君がまぁたアタシのこと“西野”って呼ぶからヤダ!」

 そう言って奈々にして見せたように淳平の額を人差し指でぐいっ

と押した。

「あ、早く行かないと遅くなっちゃうな。」

「コラ、誤魔化すな!」

 つかさに可愛く叱られながら、淳平は運転席へと逃げ込む。それ

でつかさも諦めて、大人しく助手席に収まった。

「じゃ、安全運転でね、淳平君。」

「わかってま〜す。」

「アタシの命、預けたからね♪」

「へ、変なプレッシャーかけないでよ・・」

 淳平が苦笑しながらエンジンをかけると、車が走り始める。二人

分の笑い声と、幸せな空気を乗せて。


[No.1275] 2006/03/10(Fri) 19:08:53
125.net220148140.t-com.ne.jp
第4章『再会二重奏』 (No.1275への返信 / 5階層) - 光

 太陽が、また一段低くなる。昼ごろまでは深く、海洋を髣髴させ

る様な青一色だった空は、その名残を失っている。単純に橙色とも

言い切れず、また、その色を正確に表現し得る言葉は存在を許され

ていない。その色は、宇宙という画家が“太陽”と“地球の大気”

という絵の具を用いてのみ、作られる特別な色。この惑星のみで鑑

賞可能な、大自然の芸術であり、“太陽光の散乱”という、偉大な

る先人の科学的な説明は、無粋なものに他ならない神々しさを持

つ。若干強さを残した夕日が差し込み、つかさは小さなくしゃみを

漏らし、車窓の外に目をやる。

 彼女の視線の先には、二人の人間が映っている。夕日が逆光とな

り、二人ともシルエットとしてしか確認できず、しかも二人のうち

の片方は見知らぬ他人。シルエットの片方が、もう片方に対して何

度か頭を下げ、礼を言われた方は軽く会釈をして去っていった。

「どうだった?」

 車に戻ってきて、今度はちゃんと姿が確認できる状態の淳平につ

かさが声をかける。淳平は運転席に滑り込むと、右手に持っていた

地図を後部座席に放り投げ、口を開く。

「わかったよ。やっぱり、さっきの所で良かったみたい。」

 目線で軽くつかさに謝り、エンジンをかけ、アクセルを踏んだ。

 淳平とつかさを乗せた車は高速道路を降り、長閑な田舎道を“順

調に”走っていた。ように思われた。少なくとも、最初の2,30

分は。都会の複雑な道に慣れているから、という油断が原因か、は

たまた持っていた地図があまりにも大雑把過ぎたせいか、二人を乗

せた車は、500メートル前に気付かずに通り過ぎた道を探して西

へ東へ。そもそも存在すらしていないはずの曲り角を探して北へ南

へ。延々1時間彷徨い続け、それらしい十字路を見つけても、なん

となくと言う理由でその場をパスし、最終手段として地元の人に聞

いてみれば、結局、その道であっていると言われ、なんとも疲労感

の溜まる解決を迎えたのだった。再び二人で例の曲り角に来てみ

て、特別に見つかりづらい場所でもないということを再認識し「お

互いドジだね」からかい合い、直後に見つけた宿泊先のペンション

のでかでかとした―――おおよそ見逃しそうも無い―――看板を見

つけ、二人で大笑いした。そうして辿り着いたペンションは、大き

くはないが、真っ白な壁に若草色の屋根のよく映える、綺麗でさっ

ぱりとした、感じの良い建物だった。正面から見て、二階に五つ、

一階に三つ、桟の部分に見事な意匠を凝らした窓が陽光を照り返

し、美しく輝いていた。

 トランクから荷物を引っ張り出し、3段ばかりの石段を登ってド

アをくぐり、玄関口に置いてある呼び鈴を鳴らした。

「はーい!」

 奥から女性の声が聞こえ、次いでぱたぱたと廊下を走る足音が近

づいてくる。

「ようこそ、いらっしゃいま・・・・・」

 笑顔で現れた女性が途中で言葉をプツリと切り、同時に固まる。

そして、

「うそ・・・」

 彼女の呟きが、直後の沈黙をより一層際立たせる。ちなみに、先

程から彼女と似通った反応をしている女性がこの場にもう一人。

「な、なんで・・・」

 旅行用鞄の取っ手をしっかりと握り締めたつかさが、目をまん丸

に見開いて、同様に呟き、素っ頓狂な声を出す。











「なんでこんなトコにつかさがいるの!?」

「なんでこんなトコにトモコがいるの!?」


 二人が発した大声が見事にハモり、林間に響き渡る。共に目を大

きく見開き、利き手の人差し指をビシリと伸ばして相手をさす。淳

平はと言えば、つかさの隣で固まったまま、つかさとトモコの間で

視線を行ったり来たりさせていた。

 話を聞いてみれば、このペンションは彼女の叔母が経営している

らしく、トモコは手伝いがてら、ここでバイトをしているのだと言

う。

「アンタねぇ、こっちに帰ってきたなら連絡してよ。」

「そんなこと言ったって、今日のお昼ごろに着いたばっかりだも

ん。」

 久しぶりに会話を弾ませている女性二人の脇で、淳平が未だによ

く解っていないような顔をしていたので、つかさが説明しだす。

「私の高校の時の友達。淳平君も会ってるよね?ホラ、修学旅行の

時・・・」

 言われてはじめて気付いたらしく、淳平は「あぁ、あの時の」と

言って大きく頷いた。もっともトモコの方も、その時のことを――

―あの時は順平のことを代理の人間だと思っていたので仕方ない気

もするが―――忘れていたのだが。

「それにしても・・・ふんふん、成程。」

 淳平と簡単な挨拶を交わしたトモコが、淳平とつかさを観察する

ように、見比べるかのようにしげしげと遠慮もなく眺め始めた。

「ど、どうしたの、トモコ?」

 つかさの発した問いが聞こえているのか、いないのか、トモコは

ニヤリと笑うと、さも意味有り気に、何度も頷く。

「帰国直後に、誰も連れずに二人っきりでこんなとこまでね

ぇ・・・」

 そう言うと今度は今までの危険な感じの笑みを拭い、

「私は、何があっても二人の味方だからね!頑張りなよ!」

と、励ますような表情を浮かべ、力強く宣言した。

「ちょっ、コラ!トモコ絶対に何か勘違いしてるだろ!?」

 彼女の目には、二人が駆け落ちでもしているように見えているら

しく、楽しそうにニヤニヤしながら、「照れるな、照れるな」と、

つかさの肩をポンポンと叩いた。

「では、真中様ご夫妻をお部屋までご案内〜♪」

 再びつかさの「トモコ!」と言う怒鳴り声が、辺りにこだまし

た。


 フロントのすぐ脇の階段を上り、二階へ。17段の急な階段を上

りきると、すぐに突き当たり、そこから左右に廊下が伸びている。

部屋の扉は全て片面に集まっており、反対側の窓からは、外の景色

が見えるようになっている。遠く、はるかに見える山の、夕日に染

まる様などもさることながら、その窓は本来、眼下の内庭を見るた

めに作られたものだった。庭には、石英を多く含んだ真っ白な石が

一部の隙も無く敷き詰められ、真ん中よりもやや奥まった所に、立

派な金木犀の木があった。今は花はおろか、蕾すらつけてはいない

が、10月を迎えるころになると、鮮やかな色彩と、言わずと知れ

た香りが、宿泊客達の鼻腔をくすぐり、彼らの旅のおおきな思い出

の一つとなっている。

 階段を上って、右側の一番奥の部屋。ドアに取り付けてある表札

のようなものに『葵』と書かれている部屋に、淳平とつかさは案内

された。

「ここが二人の部屋ね。トイレは部屋に備え付けてあるけど、一応

この階の反対側にもあるから。お風呂は階段を下りたら左に行って

突き当たった所。日毎に男湯と女湯が逆になるから気を付けてね。

2つ隣の『楓』の部屋に仕事で来てるお客さんが一人いるけど、そ

の人も明日の朝チェックアウトらしいから、ほとんど二人の貸しき

り状態。」

 部屋の入り口付近にドスンと荷物を置いたトモコがテキパキと説

明する。随分と慣れた感じで、言葉が淀みなく出てきていること

が、ここでのバイトの経験が浅くないことを示している。そこまで

を一気に言い切って一呼吸置くと、トモコが再び口を開く。

「今日の夕食は、7時から。ここは家族風呂もあるから、夕飯まで

“何してても”良いよ。お二人さん♪」

 トモコのぐふふと笑った顔目掛けて、つかさが渾身の力を込めて

投げた枕が飛んでいくが、既にバタン、と言う音と共に閉まってい

るドアにぶつかり、そのまま床に落ちる。

「アハハ・・・で、実際どうしようか?まだ、結構時間あるけ

ど。」

 淳平が腕時計を覗きながら苦笑する。確かに、このまま7時まで

何もしないで過すには、少々時間がありすぎる。

「とりあえず、ちょっとゆっくりして・・、その後お風呂行こっ

か?」

「えっ・・・」

 淳平が咽を締め付けられたような声を出す。淳平の頭の中は、

様々な表情、様々なはしゃぎ方をしているつかさでいっぱいにな

る。唯一共通していることは、その全てが湯煙の中で、一糸纏わぬ

姿であること。

「何想像してんだよっ!別々に決まってるだろ!」

 夢の中で落下した時の様な衝撃を受けて、妄想の中から一気に現

実に引き戻される。たった今トモコに言われたことも手伝ってか、

つかさの口から“お風呂”と言う単語が出た瞬間に妄想を炸裂させ

ていた。

「べ、別に変なことなんか考えてないってば!」

「そういう言い訳は、伸びきってる鼻の下縮めてからした方がいい

と思うなぁ〜。」

 つかさに突っ込まれて、淳平はばつの悪そうな顔をしながら、慌

てて口と鼻の周りを手で覆った。

「そ、そう言えば、『楓』の部屋に泊まってる人って、どんな人な

んだろうね。」

 鼻の下を元に戻し、誤魔化し笑を浮かべながら、淳平が何とか話

題を逸らそうとして言った。

「誤魔化し方が不自然だって・・・。それより、早くお風呂行こ

う。」

 つかさが呆れたように言いながら、バスタオルを引っ張り出すの


を見て、淳平も準備を始める。支度が終わると、二人は風呂場に向

かった。

「でも、本当にどんな人なんだろうね。」

 淳平が部屋に鍵をかけるのを見ながらつかさは淳平が先程出した

話題をもう一度取り出した。

「ん〜、仕事で来てる、って言ってたから、紀行雑誌の記者と

か・・・」

 考えながら廊下を歩いていた淳平が突如口をつぐむ。噂をすれば

なんとやら、『楓』の部屋の前に差し掛かった時、突然開いた戸

が、淳平の顔に見事直撃し、鼻に激痛を走らせる。

「あっ!ご、ご、ごめんなさい!ごめんなさい!」

 淳平に不可抗力の一撃を与えた人間が、大慌てで何度も謝る。

「だ、大丈夫、淳平君!?」

「えっ?」

 蹲って悶絶している淳平につかさが声をかけると、部屋から出て

きた人物は下げていた頭をぱっと上げ、淳平とつかさをぽかんと見

つめていた。

「ん?」

「イテテ・・・あれ?」

 二人も何かを感じ取ったように、顔を上げてその人物と目を合わ

せる。女性だった。しかも、二人が全く見知らぬわけではない。む

しろ、セミロングの黒髪といい、思わず見惚れてしまいそうになる

ほど整った風貌といい、その女性は間違いなく・・・。











「真中君と、西野さん!?」




「と、東城!?」

「東城さん!?」


[No.1280] 2006/03/15(Wed) 23:47:50
77.net220148140.t-com.ne.jp
第5章『羅針盤MANAKA』 (No.1280への返信 / 6階層) - 光

 深く、濃く、真っ白な湯気で、視界がぼやける。霞の向こう、実

際よりも遠くに感じる電灯のオレンジ色の光も手伝ってか、神秘的

な、静寂の似合う空間ができている。一瞬、夢の中にいるような気

さえしてくるが、湿気をたっぷり含んだむっ、とするような熱い空

気と、足の裏を通して感じる床のひんやりとした感触が、自分の身

体が、自分自身が間違いなくそこにいるのだと教えてくれている。

「うわぁ・・・大きいお風呂だね〜!」

「そうよね。それに、すごくきれいで・・」

 裸で、大きいタオルを一枚体に巻いただけのつかさが、風呂場に

一歩入るなり、感嘆の声をあげ、続いて同じ格好で入ってきた綾が

それに答える。何年か振りの―――幾分劇的な―――再会から数

分、つかさと綾は、二人仲良く風呂に入りながら、綾は小説の次回

作の取材旅行、つかさは帰国直後の観光という互いの近況を報告し

合っていた。

「西野さん、パティシエの修行は?」

 ボディソープで泡立てたタオルで左腕を擦りながら、綾が尋ね

る。

「とりあえず、卒業。あとは、ただひたすら自己訓練、って感じか

な。」

 髪をシャンプーで泡だらけにしたつかさがそう答えると、綾が感

心したような声を出した。

「じゃあ、腕はもう本物ってことだよね?すごいなぁ、西野さ

ん。」

「すごいのは、東城さんもでしょ?淳平君から聞いたよ。直林

賞・・・だっけ?おめでとう!・・・背中、流してあげよっか?」

 泡のついたタオルを伸ばす綾を見たつかさがそう言うと、綾は

「じゃあ、お願いしちゃおうかしら」と言いながら、つかさに背を

向けた。丁寧に綾の背中を洗い終わると、今度は交代して、綾がタ

オルを持ち、つかさの背中を流していく。

(西野さんって、肌が真っ白できれいだなぁ・・・)

 綾の右手が、徐々に速度を落としていく。綾の視線を釘付けにし

ているつかさの肌は、透き通るかのように色が白く、すべすべで、

女性の綾でも、思わず見惚れてしまうくらいきれいだった。

 どこかで、水滴の落ちる音がする。

 ふと、背中を擦られている感じのしなくなったつかさが首だけ後

ろを振り返り、放心したかのようにジッと動かない綾に声をかけ

た。

「東城さん?・・・お〜い?」

 つかさに声をかけられて、綾が、突然大きな音を聞いた仔犬のよ

うに、ピクッと反応し、「ごめんなさい」と、苦笑いを浮かべなが

ら謝り、再びタオルを持った右手を動かし始めた。

 二人とも一通り体を洗い終えたところで、湯舟の方へと向かっ

た。この風呂場中を覆いつくしている湯気の発生源であるそこに、

ゆっくりと爪先を入れていき、やがて肩まで湯に浸かると、どちら

からともなく、ふうっ、と息がもれる。やや温度が高めのその湯

は、どうやら天然の温泉であるらしい。自宅で入るそれとは、成分

が異なるらしく、温泉独特の、あのピリピリとした感触が腕や背中

に感じられた。

「う〜ん・・・」

 湯船に浸かるなり、何を思ったのか、つかさが綾のことを観察す

るかのように、しげしげと眺め始めた。

「どうしたの、西野さん?」

 つかさの視線に気付いた綾が、キョトンとした表情を浮かべ、小

首をかしげて聞くと、つかさが独り言のように呟いた。

「いいなぁ〜、東城さん・・・胸、大きくて・・・」

「え゛っ!?」

 何でもない顔をして大胆な発言をするつかさの視線が今になって

恥ずかしくなってきたらしく、綾は水面をザバッと波立たせて、慌

てて両腕で自らの胸元を隠した。そんな綾にお構い無しに、つかさ

が続ける。

「いいなぁ〜・・・東城さんって、ホントにスタイル良いよねぇ」

「な、何言って・・・、西野さんこそ、スタイル良いと思うわ!」

「ううん、全然!アタシなんか、ホント、貧相だし・・・」

「でっ、で、でも・・・!」

 恥ずかしさのあまり、舌が上手く回らなくなってしまった綾が言

う。

「西野さんの方が、細くてスッキリしてて、肌なんかもすべすべし

てて私よりすごく綺麗だと思うけど・・・」

「でもアタシ、胸小さいし、東城さんと違って、出るとこ出てない

し、ホント、胸小さいし・・・」

 余程自分の胸にコンプレックスがあるらしい。言っている内容が

ほとんど同じ事を繰り返しているだけだということに、言った本人

が気付いていないようだった。

「う〜・・・ちょっと、触らせて!」

「えっ!?ちょ、ちょっと、西野さ・・!」

 言うが早いか、綾の答えも待たずにつかさが綾の胸に手を伸ば

し、ほぐす様に触っていく。

「うわ〜、軟らか〜い!」

「ちょっと・・・や、やめて!西野・・・さ・・・ぁんっ!!」

 つかさの手を上手くかわせずにいながら、綾が艶っぽい声を出し

た。





































 そのころ、
















「・・・」

 男湯では、淳平が一人ポツンと湯船に浸かっていた。が、どうも

様子がおかしい。普段よりもやや猫背気味、前屈みで、微動だにし

ていない。その理由は、

(聞こえてるんですけど・・・)

 ぷいっと、音源に対して背を向ける。聞こえている、と言うの

は、つかさと綾、二人のはしゃいでいる声のこと。ここの風呂は、

男湯と女湯が分厚い壁で仕切られている。それだけならば何の問題

もないのだが、実は、先程から男湯と女湯の両方の換気用の窓が、

ほんの少し開いているのだった。そんな訳で、先程からのつかさと

綾のやり取りは、風に乗って男湯へ。最初こそ、得をした気分で聞

いていた淳平も、徐々に耐えるのが大変になってきている。窓を閉

めようとも考えたが、ひどく錆付いているらしい蝶番の部分が、少

し動かしただけでキーキーと耳障りな音を立て、それが女湯の方ま

で聞こえてしまいそうで、なかなか閉められずにいたのだった。

 もう我慢ならない、とばかりにザバッと立ち上がると、淳平はい

そいそと風呂場から出て、脱衣所へと向かった。


小さく開けた窓を、夜風が潜り抜けた。風呂場の前の壁に寄りかか

っていた淳平が、大きく身震いをする。もうすっかり春とは言えど

も、風の中には“冷たさ”が形を潜めている。熱を帯びた肌の表層

を冷やす夜風が運んできた祭囃子を聞きながら、淳平が窓の外に目

をやる。上り始めの望月が、東の空の低い位置に浮かんでいた。

「お待たせ、淳平君!」

「ごめんなさい、遅くなって」

 女湯の脱衣所から出てきたつかさと綾の声に、淳平はくるりと振

り向き、直後に絶句する。「もう、10年経った」「出てくる気な

いのかと思った」二人が出てきたら言おうと思い、喉の所に用意し

ていた軽口や冗談が、言葉になる前に雲雨霧消する。視線が、二人

の濡れたつややかな髪に、潤んだ瞳に、ほんのりと上気した頬に吸

い寄せられる。

「・・・?真中君、どうしたの?」

 綾の言葉に、淳平がふっと現実に帰り、やがて赤面する。ぽかん

と口を半開きにしたまま、放心したように見惚れている自分がいか

に異様か、どれだけ間が抜けて見えるかを察知し、恥ずかしくなっ

たのだった。

 暴れる心臓をなんとかなだめ賺し、落ち着かせると、風呂でのぼ

せたのではないかと心配する二人を連れて、淳平は夕食のために食

堂へと向かった。

 夕食は、最高だった。前菜に始まりメインディッシュまで、旬の

食材をふんだんに使ったトモコの叔母の料理は、つかさの舌をも相

当に驚かせるものだった。贅の限りを尽くした料理と三人の思い出

話で、腹と心が温かく満たされていった。

「はい。こちら、デザートのケーキになりま〜す。」

 明るい声を出しながら、厨房の方からトモコが出てくる。宿泊客

3人のうちの2人が知り合いで、残った一人もその友達だというこ

とで、かなり砕けた雰囲気で仕事をしていた。彼女の叔母も、最初

に「他のお客様の前では絶対やめてよ?」と軽く注意しただけで、

微笑みながら見ているだけだった。

「どう、つかさ?アタシの自信作は?」

 トモコが少し胸を張るようにして言う。どこか楽しそうにも見え

るトモコに、しっかりと味を見ていたつかさが口を開いた。

「う〜ん、ちょっと酸っぱいかな。レモン使ってるでしょ?甘さが

足りないせいでレモンの味が前に出すぎちゃってるんだよね。」

 でも結構おいしいと思うよ、とつかさが述べた感想を聞くと、ト

モコは「やっぱりか」と言い、苦笑し、「でもなぁ」と、何やらブ

ツブツと呟き始めた。

「甘くしすぎると効果薄いって言うし・・」

「効果?」

 この場の状況にそぐわない単語に、コーヒーカップを口元に運ん

でいる淳平が反応する。

「つかさのケーキにだけ“ちょっと”危ない薬が入ってるのよ。

“今夜のためにね”♪」

 心底楽しそうな笑顔と共に発せられた爆弾発言に、三者三様の反

応が返ってくる。綾はフォークを取り落としたまま固まってしま

い、淳平が、口に含んだコーヒーを水鉄砲のごとき勢いでカップの

中に噴き返した。

「ちょっ!・・・ケホッ・・トモコっ・・・なっ・・・!?」

 呑み込みかけのケーキが喉につかえたらしいつかさが、苦しそう

に顔をゆがめ、激しく噎せる。

 しかし、

「嘘だってば、嘘!いくらあたしでも、そんなことまではしないっ

てばぁ!」

 今にも噛み付かんばかりの形相で迫ってくるつかさを見て、トモ

コが腹を抱えて笑い出す。それこそ、これ以上面白いことがこの世

に存在しようかと言わんばかりに大笑いし、目には涙すら浮かべて

いる。

「で、でも・・・」

 笑い事じゃないでしょ、と叫ぶつかさに、まだ笑い足りないらし

いトモコが、ひーひー言いながら言った。

「彼氏とラブラブなつかさちゃんなら、そんな物無くても・・・ね

ぇ♪?・・わかった、わかった!ゴメンってば!」

 なおも意地悪くニヤつくトモコに、つかさは隣の椅子のクッショ

ンを振りかざしていた。


 二人のいる葵の部屋は、静まり返っていた。と言っても、恋人同

士の放つ甘いそれではない。重く、気まずく、澱んだ沈黙。先刻の

トモコの発言のせいで、互いに意識しすぎてしまっているのだっ

た。

 そりゃ、そうだよなぁ、と、淳平が心の中でそっと呟く。

(あの時言ってたのって、要するに、“アレ”のことだろ・・・)

 考えているうちに、勝手な妄想の中に引きずり込まれそうになる

が、暴走直前、淳平はぶるっと頭を振り、妄想を叩き出した。



























「ねぇ、淳平君・・・」
































 何の前置きも無しに、つかさがポツリと言葉を発する。不意を突

かれた淳平が、電撃を受けたようにビクッと反応し、ピンと背筋を

伸ばした状態で固まった。

「え・・・あー・・・・何?」

 何とか取り乱さないように頑張ってみたが、何か喋ろうにも舌が

上手く回らず、心臓は普段の倍近い早さで脈打ってしまっている。

だが、そんな淳平を全く気にする様子もなく、つかさが続ける。

「アタシと淳平君って、付き合って、長いよね?」

「あ・・・う、うん。高1の冬に別れて、高3の九月にまた付き合

い始めて・・・」




























「た、多分さ!」

 思い出そうとすることで、やや冷静になりつつあった淳平の言葉

をつかさが遮った。
















































「えっと・・・トモコが変なこと言ってたけど・・・その、よく

わかんないけど・・・普通のカップルだったら・・・もう、そ、

“そーゆーこと”しても、良い頃だよね?」

















































 世界から音が消えた。見えない誰かが、スピーカーのつまみをゼ

ロにしたような、音と言う音が、全て喰らい尽くされてしまったか

のような。






































「でも・・・」

「アタシは、淳平君さえ良ければ、って思ってるよ・・・」

 またもや、淳平の言葉の出鼻をくじく。怖がってるんだ、と淳平

は思った。つかさのことは好きだった。これ以上ない位に大好きだ

った。が、大きな、なんとも形容しがたい恐怖が、淳平を取り込

み、押し潰そうと膨れ上がっている。しかし・・・、









































 気が付けば、つかさの肩をしっかりと捕まえ、逸らしていた顔を

自分の方に向けさせていた。淳平の顔を直視してしまい、つかさが

火を噴きそうなほど赤面するが、目は逸らせることができなかっ

た。淳平の真剣な目と、見えない糸で繋がり、どちらからともなく

顔を寄せ、瞼を伏せる。あと5センチ―――キスだけならしたこと

あるはずなのにな―――あと4センチ―――俺、西野を満足させら

れるのかな―――あと3センチ―――西野も、緊張してるんだろう

なぁ―――あと1センチ―――こういう時くらい、つかさって呼ん

だ方がいいよな―――











































 二人の身体が、そっと触れ合う。淳平が驚いて、パチッと眼を開

くと、もたれかかり、額を淳平の肩に乗せたつかさが視界に飛び込

んできた。



































「西野・・・?」

 恐る恐るといった感じで、淳平が声をかける。すると、つかさか

ら予想を超えた返事が返ってきた。

「ぅん・・・淳平くぅん・・」

 瞬間的に鈍っていた淳平の判断力が、つかさのたてる小さな寝言

で元に戻った。

(そりゃ、疲れてるよな。フランスから戻ってきて、そのまま休ま

ずにこっちに来て・・・)

 ふっ、と静かな笑みを漏らす。そのままつかさの華奢な身体をそ

っと横抱きにし、ちゃんとベッドの上に寝かせて、掛け布団を掛け

てやった。

「お疲れ様・・・お休み、西・・・つかさ」

 静かに声をかけ、そっと微笑むと、淳平もつかさを起こさぬよう

注意を払いながら、自分の寝支度を済ませた。

(普通がどうだか知らないけど、俺たちは、俺たちだよな、西野。)

 二人の旅の夜が、どこまでも甘く、更けて行く。






 夢の中でも、つかさはふかふかな何かの上で眠っていた。幸せそ

うな表情で、時折寝返りを打ちながら。

「つかさ。」

 すぐ隣で、同じ様に横になっている淳平が囁きかけてくる。彼の

手には、一本の猫じゃらしが握られている。ふと、淳平の顔が、悪

戯っ子のそれになり、持っていた猫じゃらしをつかさの顔の前で振

り始めた。

「ふふっ・・・淳平君、くすぐったいよ♪」

 つかさが首をすくめてくすくすと笑う。それでも止まる気配のな

い淳平の攻撃をかわそうと、大きく身じろいだ。


























「ん・・・?んん・・・?」

 身体を捩った衝撃で目を覚ます。まだ寝ぼけて、半分夢から戻っ

てきていない状態で、むくっと上体を起こし、暗闇に視線を走らせ

た。

「んぅ?淳平君・・・?」

 開ききらない目で、辺りを見回すが、名前を呼んだ人物が見当た

らない。掛け布団のめくれた隣のベッドを見たところ、どうやら一

度は床に就いたらしい。トイレかな、とつかさは思った。

(そう言えばトモコが、この階の反対側にもあるって言ってたよ

ね・・・)

 僅かに催したつかさが、そっとベッドを抜け、未だ覚醒しきって

いない状態で扉の方へと向かった。と、


























「あれ?」









































 よく見てみれば、入り口のすぐ横にあるトイレには、明かりが点

いていなかった。しかし、つかさが変に思ったのは、それとは別の

ことだった。









































(誰か、いる?)

 廊下で僅かに話し声が聞こえたような気がして、そっと耳を傾け

ると、

「・・・だから、そうして?」

 今度ははっきりと聞こえた。声を落としているようだが、間違い

なく綾が、外で誰かと話している。




































(淳平・・・君?)

 微かに聞こえたもう一人の声は、つかさが聞き間違えるはずはな

い、まごう事なき淳平の声。

 つかさは、そっと戸を開け、様子を見てみた。よくはわからない

が、何となく、気配を殺さなければならないような感じがつかさ

を占領する。





































「あ・・・でも」

「ね・・・お願い。」

 目が慣れてきたのか、戸の隙間から二人の顔がよく見えた。つか

さは、食い入るように見つめていた。綾の何かを懇願するような表

情を。淳平の照れた顔を。

 やがて淳平が恥ずかしそうに微笑み、口を開いた。





































「うん・・・解った」

「ふふっ、良かった・・・」

 綾が嬉しそうに、ホッとしたように笑顔になる。花が咲きそう

な、天使の笑顔。

 数十秒後に淳平が部屋に戻ってきた時、つかさは淳平の記憶にあ

った通りの姿勢でベッドの中にいた。

「西野・・・寝てるのか?」

 淳平がそっと声を掛け、つかさが眠っていること確認すると、淳

平も再び床に就いた。































 つかさは、眠っていた。目をしっかりと開け、今聞いた会話を頭

の中で反芻しながら。

(ダメ・・・疑っちゃダメ!)

 心の中で、強く、呪文のように唱える。

(あの淳平君だもん・・・大丈夫。・・・ちゃんと、淳平君を信じ

て!)

 何度も寝返りを打ち、その度に強く、自分に言い聞かせる。やが

てつかさは眠りに落ちるだろう。しかし、翌朝目覚めるまで、つか

さの眠りが深さを増すことは、とうとうなかった。


[No.1286] 2006/03/30(Thu) 01:30:48
64.net220148140.t-com.ne.jp
第6章『桜 時々 いちご』 (No.1286への返信 / 7階層) - 光

 濃紺に染まっていた東の空が、ゆっくりと、確実に白み始める。

冠雪の代わりに、たっぷりと豊かな緑を湛えた山のシルエットに接

している部分が明るさを増し、その裏の太陽の輝きを受けて神々し

く染まる雲が、細く、流れるような形で浮かんでいる。そこには、

古の文人の心を捉えた、“春のあけぼの”の風景が広がっている。

 朝もやに霞むペンションの前、つかさは一人でひんやりとした空

気を顔に浴びていた。近くの木でスズメが数羽、忙しなくお喋りし

ている以外、ほとんど何も聞こえない。つかさは両手を組んで伸び

上がり、胸いっぱいに空気を吸い込み、ふぅっと脱力した。

「淳平君・・・」

 無意識のうちに言葉が漏れていた。物思いに耽りながら見つめる

先には、今も淳平が幸せそうな顔を浮かべて寝ているであろう、葵

の部屋の窓がつかさをじっと見つめ返してきている。

 どこからか、車の走り去る音が聞こえる。

 つかさは小さく溜息を吐き、やがて、ペンションの中に戻ってい

く。

 つかさが姿を消すのと入れ違いに、山影から太陽が顔を出す。降

り注ぐ朝日に照らされ、朝もやが、溶ける様に消えて行く。背丈の

高い木の枝から、三羽のスズメが、静かに飛び立っていった。



 暖かな西風が、立ち並ぶ木々の間を駆け抜けていく。ごつごつし

た幹の表面を撫で、枝を揺らす。ここ、集愛神社の広い境内には、

立派に育った桜の木が、数え切れないほど立ち並び、桜の数以上の

人々の注目を集めている。一年のうちのこの時期、集愛神社の桜が

長い冬を越え、美しく咲き誇る頃、集愛神社の境内では、“美楼

祭”と言う祭りが開かれる。元々は、地元の人々が揃って行ってい

た花見が現在のような祭りに変わったのは、淳平たちが生まれるよ

りもはるか昔のことだという。地元の人々にしか知られていない祭

りのことを、淳平は角倉の事務所の先輩から聞いていたのである。

「すごいね・・・」

 目の前の満開の桜に圧倒され、つかさがようやくといった感じで

言葉を絞り出す。淳平も一度写真では見ていたものの、実際に目に

してみるのとは、やはり違うらしい。つかさの横に並んで立ち、同

じ様に桜を見つめていた。

「東城さんも来れば良かったのにね。」

「まぁ、仕事が忙しいみたいだったしな。仕方ないって。」

 二人が言うように、綾は今この場にいない。取材旅行中にある程

度考えておいた次回作の案を元に、担当の編集者との打ち合わせが

あるとかで、今朝淳平たちより先に、一人で泉坂に戻ったのだっ

た。

「・・・・・」

 ふと、桜を見ていたつかさの目の焦点がずれる。つかさの頭の中

に、先刻の光景がゆっくりと、染み出してくる様に蘇る。



 小さな、閑散とした駅のホームに、優しい風が流れる。長いこと

風雨に晒され、砂埃で薄汚れた時刻表が、数分後の電車を逃すと、

この何もないホームで延々2,3時間も待ちぼうけを食らわされる

ことを雄弁に物語っている。単線で、片側にしかホームがないそこには、古

ぼけた木製のベンチが一つ。その上で、暖かい日差しを浴び、丸く

なりながら昼寝をしていた、小さなトラかと思うような巨大な野良

猫が、車のエンジン音に飛び起きて、大慌てでどこかへ走り去って

しまう。

「じゃあ、またね。」

 ほとんど無人に等しい駅の改札の前。淳平の運転していた車から

降りた綾が、にっこりと微笑む。一足先に泉坂に帰る綾を、淳平た

ちは車で近くの駅まで送りに来ていた。

「また、そのうち皆で会おうぜ。」

「東城さん、お仕事頑張ってね!」

 すぐ近くに寄せた車の中から、淳平とつかさが手を振る。綾も笑

顔で車内を覗き込みながら二人に向かって手を振った。

「真中君」

 窓を閉め、まさに走り出そうとした時、綾が窓越しに淳平の名前

を呼んだ。淳平がチラッと目をやると、綾は何も言わず、淳平に向

かってパチンとウィンクをした。

「あー・・・」

 淳平が一瞬、困ったように目を泳がせたが、やがて、綾に向かっ

て少し恥ずかしそうに、小さく頷き返した。言葉を用いない二人の

やり取りを、つかさは助手席に納まったまま、右目の端の方だけで

見ていた。



「西野?」

 淳平の顔が目の前にあった。ハッと気がついたつかさは、たった

今頭の中で溢れていたものを、何とか外に追い出そうとしていた。

「どうしたの?大丈夫?」

 急に遠い目をして黙ってしまったつかさの顔を、淳平が心配そう

に表情を曇らせ、覗き込んだ。

「あ、うん、大丈夫。ごめんね」

「本当に?」

 なおも聴き直してくる淳平に、つかさは「本当に大丈夫♪」と、

明るく言って見せると、一歩前に飛び出して、淳平の手首を掴ん

だ。

「ホラ。早く行って、いっぱい遊ぼう!淳平君!」

 キラキラ輝くつかさの笑顔をみて、淳平は顔が火照るのを感じて

いた。つかさが引っ張るような形で、二人は祭りの喧騒の中に飛び

込んでいった。



 桜吹雪の下では、様々な屋台が軒を連ねていた。食べ物を、飲み

物を、土産の品々を、さあ、見ていけ、買っていけ、と言う威勢の

良い商売文句が飛び交い、響き渡る。本当にそれが必要ならば、も

っと質の良い同じ様なものを、より安く手に入れることなど、普通

にできる。が、祭りの雰囲気が持つ魔力が購買意欲を煽り、何故か

その場で買っておかなければいけない気にさせ、財布の紐を緩めさ

せる。

「惜しかったね〜。あとちょっとだったのに・・・。」

 つかさが手に持ったマスコットをぶらぶらと揺らす。魔力の誘惑

は、淳平たちにも例外なく働いていた。ついさっきまで、淳平は、

つかさにせがまれて射的にチャレンジしていたのだった。結果はと

言うと、先のつかさのセリフ通り。つかさが欲しがっていたクッシ

ョンは取ることができず、すぐ横においてあった、今つかさが持っ

ているマスコットにコルクでできた弾が見事命中してしまったのだ

った。

「ごめん、やっぱり難しくて・・・」

 淳平が、つかさの手で揺れるマスコットを見ながら苦笑する。つ

かさは「ま、これはこれで可愛いけどね」と言ってニッと笑い、マ

スコットを淳平に渡した。

「東城なら、こういうの喜んだと思うけど・・・」

 手にしたマスコットを見つめながら、淳平が呟く。

「・・・・・うん、そうだね。」

 やや間を置いて、つかさが淋しそうに答えるが、マスコットを眺

めたままの淳平は、全く気がつく様子がない。

 と、次の瞬間、スッと視線を逸らしたつかさの視界に、妙な光景

が飛び込んできた。

「ねぇ、あれなんだろう?」

 肩を叩いてくるつかさの手を感じて、淳平がつかさの指差さす先

に目をやった。

 そこには、小さな人だかりができていた。とは言っても、そもそ

も集愛神社自体が人ごみを抱えているので、周囲とそう大差あるわ

けではない。しかし、そこにいる人達が明らかに輪を作って、その

中心の何かを見物していた。

「何かあるのかな?」

 淳平が呟いたのをきっかけに、二人がその輪の方に、興味津々で

近寄っていく。輪の中心に向かうにつれて、段々と人が密集してき

て、淳平とつかさの進路が阻まれる。やむを得ず自分の目で見るこ

とを諦め、淳平が他の人に状況を尋ねた。

「あぁ、どうもテレビが来てるらしいよ。」

 人の良さそうな中年の男性が、前の人の頭越しに見えた光景を説

明してくれた。

「だってさ。どうする?」

 聞いたことをつかさに伝えた淳平が、半分押しつぶされそうにな

りながら、つかさに聞いた。

「別にこんな所に来てまでねぇ。それよりもさ、今ならここに人が

集まってきてるから、他の所が空いててチャンスなんじゃない?」

 淳平と同じくぎゅうぎゅうと押されながら、つかさがやっととい

う感じで口を開いた。確かにつかさの言う通り、これだけのここの

人口密度が高ければ、他の所は今が絶好の狙い目ということになる

だろう。淳平は、つかさに向かって一回頷くと、つかさの手を引い

て外に抜け出そうとした。


































































 次の瞬間、淳平はハッとしてサッと後ろを振り返った。空耳か、

もしくは、自分の聞き違いだろうか、今確かに・・・。

「淳平君、聞こえた?」

 声をかけられて見てみれば、つかさも自分と同じように、自分の

耳が信じられないという表情を浮かべていた。その時、











































「ちなみちゃ〜ん、そろそろ用意して!」































































 今度は、間違いなかった。先刻のは、やはり聞き違いではなかっ

たことを、二人は確信した。それが何よりの証拠に、たった今名前

を呼ばれていたその女性が脇の方からひょっこりと現れたのだっ

た。

「はーい!今行きま・・・」

 小さな子どもよろしく、元気に返事をした女性の目が、一点に集

中したままピタリと止まる。























































「どうしたの?ちなみちゃ・・・」

 淳平達から見て、反対側から出てきた大柄な男性も、彼女に右倣

えする。方や愛くるしい少女の様な顔立ち、方や不動明王の様な強

面であったが、目が点になり、口がパカッと開いてしまっている点

では、二人の顔はまったく同じだった。


















































「あぁー!西野さん!」

「ち、ちなみちゃん・・・!?」

 女性二人が、互いを指差し、大声を上げる。















































「真中!?」

「小宮山・・・何で?」

―――――――――――――――――――――――――――――

お久しぶりです。更新がとても遅れてしまい、大変申し訳ございませんでした。


[No.1290] 2006/04/22(Sat) 00:02:50
18.net059086130.t-com.ne.jp
第7章『Mad Compass』 (No.1290への返信 / 8階層) - 光


「あぁー!西野さん!」

「ち、ちなみちゃん・・・!?」

「真中!?」

「小宮山・・・何で?」



































 旅の恥は掻き捨て

意味:旅先では見知った人がいないのだから、多少の恥を晒しても

その場限りである


 一体、どこの誰がこんな諺を創ったのだろうか。少なくとも、今

の自分たちには無縁の諺だ、と淳平は心の中で、その“どこかの誰

か”に向かって文句を言った。

 つかさと一緒に空港を出発してから今までに出会った人間の中

で、顔見知りでなかったのは、前日に会った奈々と、その母親ぐら

いのものであるからだった。

「西野さん、いつ日本に帰ってきたんですか?」

 興味津々といったちなみの言葉に、小宮山も既に淳平へ向けてい

た目を逸らしつかさの顔を注視していた。つかさは、なんか、こっ

ちに来てから会う人会う人、皆に同じこと聞かれてる気がするな

ぁ、等と心の中で呟きながら、トモコや綾にしたのと同じ説明を繰

り返していた。

「ところで、小宮山達はこんなとこで何してんの?」

 つかさの説明が終わるのを待ってから、淳平が小宮山に聞くと、

それまで聞きに回っていた小宮山が口を開く。小宮山曰く、とある

バラエティー番組のコーナーでこの美楼祭のことを取り上げるらし

く、ちなみはその番組の出演者としてロケに来ているとのことだっ

た。

「ってことは、外村は来てないのか?」

「あぁ。普通、社長自ら撮影現場には出て来ねぇよ」

 それもそうだ、と納得したように頷きながら、小宮山とちなみを

見た時から、ひょっとしたら会えるかも、と心のどこかで期待して

いたので、淳平としては少々残念でもあった。








































「でも、小宮山君もちなみちゃんも、あんまり変わってないね。」

 まだ撮影があるから、と言って小宮山たちと別れた後、淳平の隣

を歩きながら、つかさが面白そうに言うと、淳平も「確かに」と苦

笑した。

「でも、東城さんはすっごく綺麗になってたよね?」

「そうなんだよなぁ、あとこの前会った時はさつきも・・・」

 淳平をからかう意図で発せられたつかさの言葉の真意に気付か

ず、淳平は数日前の映研の皆で集まったときのことを思い出しなが

ら、大きすぎる独り言のようにそう言い、直後、はっとなって、つ

かさの方を振り向く。目を向けた先には、つかさが膨れっ面でジト

ッと淳平を睨んでいた。

「あ、いや・・・べ、別にそう言う訳じゃなくて!」

「そう言うわけ、ってどういうわけなのかなぁ〜?」

 つかさが、パニックを起こしている淳平の揚げ足を取り、ぷいっ

とそっぽを向いて、より一層不機嫌顔を作ってみせる。一方の淳平

はというと、つかさの態度に焦りに焦って、何とか上手く言い繕お

うと頭の中で必死に言葉を捜し、酸欠の金魚宜しく口をぱくぱくさ

せていた。

「その・・・西野だって、すごい綺麗になったなぁ、って思うし、

むしろ西野の方が綺麗だなぁって・・・」

 つっかえつっかえ言う淳平に、つかさが「本当にそう思って

る?」と聞くと、淳平が首を千切らんばかりに激しく首を縦に振っ

た。

 つかさが、淳平に見えないところで、クスリと笑いを漏らす。久

しぶりに日本に帰ってきて再会した彼は、体格ががっしりとしてい

て、顔つきも精悍になっていて、逞しく大人っぽいイメージを受け

たのだが、自分への言い訳に必死になっているところなどが子ども

っぽく感じられ、高校時代を思い出させていた。

 つかさがくるりと振り向き「じゃあ、そろそろ許してあげようか

な」と言って、淳平の肩をぽんと叩こうとした。その時だった。



























































「真中ぁ〜!」

 空耳では片付けられないような大音声で、自分の名前を呼ぶ者が

一人。血相を変えて、と言う表現が一番合っているのだろうか、先

ほど別れたばかりの小宮山が、人ごみを掻き分け―――何人かは、

必死の形相の小宮山を見て自ら道を空け―――猛スピードで迫って

きていた。








































































「おい、真中!出演依頼だ!」

















































































 目の前で立ち止まり、苦しそうに肩で息をしている彼に大丈夫

か、と訪ねる間も与えず、小宮山が爆弾を一つ落とした。淳平の思

考回路が一瞬停止する。あまりに突然のことで、いまいち言われた

日本語を理解できていないのだが、何かとんでもないことを言われ

た気がして、淳平は「は?」と間の抜けた音を発し、言っているこ

との意味がこちらに伝わらなかったことを、小宮山に伝えた。

「だから、出演依頼だって!一緒に来てくれ!」

 言うが早いか、淳平の左手首をむんずと掴むと、そのまま元来た

道を戻ろうとする。

「ちょ、ちょっと待ってよ!どういうこと?」

 呆気にとられていたつかさが意識を取り戻し、強制連行されよう

としている淳平の、余った方の手首を掴み、二人を―――というよ

り小宮山を―――引き止めた。

「真中のことを番組のプロデューサーに話したら、“ちなみちゃん

が思いがけないところで高校の時の先輩と遭遇した”って設定の映

像を撮りたいんだって。」

 そういうわけだから、とだけ言うと、本人たちの意向など全くお

構いなしに淳平を引き連れて、あっという間につかさの視界から消

えてしまっていた。

「全くもう。一人でどうしてろって言うのよ・・・。」

 もう見えない二人の背中に向かって、つかさがそっと呟いてみる

が、当然その声が聞こえているはずもなく―――小宮山のあの慌て

方から察するに、聞こえていても無視されそうだったが―――仕方

なしに、あまりその場を動かないようにしながら、周りの人や屋台

や、風が吹くたびに花びらを散らしている桜を眺めることにした。


































しかし、



















































(淳平君・・・)

 こうして一人になって、他にすることがなくなってしまうと、嫌

でも思い出す。

 昨夜、淳平と綾は、間違いなく部屋の前で密談していた。話の内

容は、最後のほうしか聞き取れなかったが。


『ね・・・お願い。』


『ふふっ、良かった・・・』

 薄く開けた扉越しに見えた、綾の顔がつかさの脳裏に蘇る。綾が

頼んだ何かに対して淳平が了解の意を示した後、綾はこれ以上ない

くらいに喜んでいたようだった。




































「バカみたい」

 つかさが、自嘲気味にそっと呟く。

(淳平君は浮気なんかする人じゃないし、東城さんだって、そんな

人じゃ・・・)

 どうかしてるよ、と自分自身を嘲笑った。昨夜のあれは、結局自

分の思い違いだったのだろう。トモコにおかしなことを言われ、気

が動転していたから、普通なら有り得ないようなマイナス思考に陥

ったのだろう。その直前にはおかしな夢も見ていたし、もしかした

ら、本当は夢に過ぎないものを、勝手に現実だと思っているのかも

しれない。そう考えると、つかさは、先程までの自分の行動が、恥

ずかしくすら思えてきた。

「淳平君、早く戻ってこないかなぁ?」

 すっかり機嫌を良くしたつかさが後ろを振り返り、背伸びをして

淳平がいるであろう場所を見た。すると。










































「えーっ、マジ!?」

 つかさの方に向かって歩いてくる、恐らく地元の人間ではない男

性が数人、その中の一人を茶化しながらつかさの脇を通り過ぎよう

としている。

















































「お前、何人同時に付き合えば気が済むわけ?」

「もう五人目、だっけ?」

「バーカ!男ってのは、同時に何人もの女を愛せちゃうもんなんだ

よ!」

 季節はずれの台風の如く現れた彼らは、正に台風の如くそのまま

通り過ぎていった。

 つかさはちょっとの間呆然としていたが、やがて、湧き上がって

くる嫌悪感に身震いし、後ろから彼らの背中をキッと睨みつけた。

(淳平君は、あんな奴らとは違うもん・・・)







































「えーっ!?ヒッドーイ!」

 ありったけの非難を込めた目で睨んでいたつかさの耳に別の誰か

の声が飛び込んでくる。

「でしょ!?私が久しぶりに帰ってきたら、もう他のコといるの!

信じらんない!」

 今度は、女子高生の三人組だった。ぷりぷりと怒りながら、それ

でも最後は、自分がどんな風にその男を振ってやったかの話で、三

人とも大笑いしていた。












































「・・・」

























































 つかさは、ぼーっと立ち尽くしていた。色々なことを考えている

ようで、何も考えることができなかった。様々な物が、頭の中で渦

を巻いている。たった今聞かされた話。それに対する下卑た笑い。

綾の顔。淳平の顔。全てが溶けて、混ざり合っていった。


























































(でも、あれは・・・)
























































 夢だった。そう言い切ろうとして、直後に自ら疑問を投げかけ

る。だとすれば、先程綾が駅で見せたウィンクは、一体何だったの

だろうか?あれは、昨夜の光景が事実であると言うことの証拠では

ないのだろうか?

































































「お待たせ!」

 つかさが、落雷に打たれたかのようにビクリと反応し、サッと振

り向く。ようやく解放された淳平が、よれよれの格好で苦笑いを浮

かべていた。

「参ったよ。中々逃がしてくれなくてさぁ。」

 二人で祭りを見て回り、淳平が撮影でどんなことをやらされたか

を面白おかしく話している間、つかさはじっと黙っていた。始めは

気付かなかった淳平も、そんなつかさの様子を徐々に不振がるよう

になっていった。





















































「ねぇ・・・何か、あったの?」

 太陽が西の空を昨日と同じ真っ赤な色に染めるころ、淳平は漸く

つかさにそう問いただした。つかさは、しばらくの間黙ったまま何

も言わなかったが、やがて、ポツリと言った。

























































「淳平君・・・」










































 神妙な面持ちに、淳平も緊張して、ごくりと唾を飲み込んだ。




































































「淳平君さ・・・東城さんと仲良いよね?」









































 淳平の肩から力が抜ける。もっと、ずっと重い話が出るのかと身

構えていたので、つかさの言葉を耳にした瞬間、少し拍子抜けして

しまったのだった。

「は?・・・いきなり、何を・・・」

「淳平君さ!」

 つかさが、何の予告もなしに大きな声を出す。それまで、絶対に

淳平のほうを見ないようにしていたつかさが、急に向きを変え、淳

平とまともに向き合った。






















































「昨夜・・・東城さんと、何話してたの?」






















































 淳平の顔から、サーッと血の気が引いていく。






















































「何で、西野・・・えっ?」

「昨夜、見ちゃったんだ・・・」

 淳平が、ぐっと口を噤む。言い訳の一つも唱えようとしない淳平

の態度が、つかさの奥底の感情をますます強くしていった。

 気まずい沈黙。周囲の人々も、二人が放つ異様な空気を感じ取

り、徐々に注目し始める。













































「西野、あのさ・・・」

「別にね!」

 最初に口を開いた淳平に、つかさが自分の言葉を割り込ませる。

割り込まれてなお、淳平は何かを喋ろうとするが、つかさが無理矢

理押し切ってしまう。

「アタシは、良いんだよ?東城さんのこと好きだし、淳平君にも、

一番一緒にいたい人といて欲しいし。」

 つかさが、顔中に笑みを浮かべている。どこからか持ってきて、

無理に切り貼りされたようなそれは、却って悲しみの表情を浮き彫

りにしていた。

「西野、だから・・・」

「ごめん・・・ちょっと、別行動にしよっか・・・」

 再び、淳平が何か言うのを遮ってそう言うなり、つかさは脱兎の

如く駆け出し、どんどん淳平から遠ざかっていった。

「西野!?待って!聞いてくれよ!西野!!!」

 近くの木から、桜の花が、花びらに分かれることなく、丸ごと一

つボトリと落ちてきた。


[No.1295] 2006/05/09(Tue) 17:44:37
11.net059086130.t-com.ne.jp
第8章『あいたがひ 覚束無しや 桜人』 (No.1295への返信 / 9階層) - 光

 花の色は 
     
    うつりにけりな
     
          いたづらに

              わが身世にふる

                   ながめせし間に
                    
                       小野小町 

歌意: 桜の色はすっかりあせてしまったなあ。
そして、私の容色も衰えてしまった。
長雨が降り、物思いにふけっている間に。



























 約12時間、見渡す限りの大空を我が物顔で闊歩し、消える刹那

までその空を鮮やかな橙色に焼いた太陽が、その身を山の端に隠

す。それを見計らっていたかのように、“そいつ”は現れた。地上

の人々はその出現を目ざとく見つけると、一様にその巨人に対して

得心のいかぬ様な一瞥を投げかける。昼間の空模様からは誰も想像

も出来ない―――そして、誰も望んでいない―――雨雲が徐々に上

空に広がり、やがて、誰もが予想した最悪の物をもたらした。

 遥か天空より落つる雨粒は、地を、人を、建物の屋根を、それに

勿論、咲き誇る桜を打つ。目を見張るほどに咲いている桜を散らせ

る力も無いほどに弱々しく降る雨は、実はそれが一時のものではな

く、確かな強さで降るそれよりも、降っては止み、降っては止みを

繰り返しながら長く降り続けることを、暗黙のうちに物語ってい

る。





 しとしとと降る雨につややかな髪を濡らしながら、つかさは一

人、暗がりの中に座り込んでいた。時折、細い指先が無意識のうち

に動き、雨水を含んだ前髪をよけている。それ以外全くと言って良

いほど動こうとしていなかったが、やがて小さなため息を一つ吐く

と、抱えていた膝に額を当てて俯いてしまった。

「はぁ・・・。」

 再び、小さなため息を一つ。透き通るように白く形の良い頬を、

小さな雫が流れていくが、それは空から降ってくるものであり、彼

女のものではない。

 つかさは、泣いてなどいなかった。淳平と別行動をとってから今

まで、涙はつかさの目に溜まることも、そこから溢れてくることも

なかった。実際彼女は、自分が泣けば良いのか、怒れば良いのか、

どうするべきなのかがわかっていなかった。何もせず、ひたすらに

淳平の顔を、怒りも愛情も、何の感情も持たず思い浮かべ、ただ一

人、静かに座っていた。

 ふと、つかさがピクリと眉を動かし、顔を上げた。ざわざわと、

大勢の人声が聞こえたのは、どうやらつかさの気のせいではないら

しい。見てみれば、つかさのいる位置から視界に入る全ての人たち

が、やや足早に一方向に向かって進むのが見えた。

「なんだろう・・・?」

 ポツリと呟きゆっくりと立ち上がると、つかさは己が好奇心に身

を委ねて歩き始めた。































 右から押され左から潰されながら、淳平は大勢の人がいる中で走

り回りながら、あちこちに視線を走らせていた。途中、何度もピク

ッと反応しては、目当ての人物を見つけたような気がしたのが、自

分の気のせいであると気付かされながら。

































「くそ・・・」















































 淳平の口から、短いののしり言葉と同時に、チッという舌打ちの

音が漏れる。荒れた気息を整えるために一度立ち止まり、膝に手を

ついて、肩で大きく息をする。













































(違うんだ・・・)





















































 聞くもののいないとわかっている言葉を、心の中だけで呟く。

(西野に・・・、早く西野に話さないと・・・)

 ブルルッ、と頭を振り、淳平は漆黒の夜空を見上げた。雨脚が確

実に弱くなってきている。背後にある月の光でシルエットとして浮

かび上がる憎き雨雲は、驚異的な速さで流れていく。風が強すぎ

る、と淳平は思った。

「このままだと・・・。」

 思わず口に出し、左腕を持ち上げて腕時計を覗き込み、雨水に濡

れている眉根を僅かに寄せた。

 淳平の頭の中に、昨日の光景が蘇る。

『ね・・・お願い。』

 前日の夜、恐らくつかさの耳にも届いたであろう綾の言葉を、淳

平は再び思い出す。

「急がないと。」

 他の誰でもなく、自分自身にそう言い聞かせて、淳平は再び人ご

みの中を猛進していく。駆け出した淳平の足を最後に、地面の水溜

りを波立たせるものはなくなる。一時雨粒を落とし終えた雲を除

け、月が顔を出すまで、そう時間はかからない。





































 淳平が綾の言葉を思い返しているちょうどその時、数十m離れた

ところで、つかさは人の流れに従って歩いていた。この行列に加わ

ってから十数分が経過したが、つかさは未だに自分が参加している

この行列が何であるのかがわからなかった。ただ、周りの人々が

「もうすぐ」とか「楽しみ」などと言う言葉を何度も口にしている

ことから、この先で何か始まるのだろう、ぐらいの予想はしていた

が。












 人の流れは、何の前触れもなしに止まった。すぐ前を歩いていた

人にぶつかりそうになって、つかさが地面についている足に力を入

れる。

































































「うわ・・・。」

















































































 直後、つかさは全ての動きを放棄して、周囲の人々同様、顔を上

げていた。

 つかさの視界いっぱいを、桜の木が覆いつくしていた。それもた

だの桜ではなく、完璧にライトアップされた夜桜だ。






































































「すごい・・・」

 ぽかん、と口を半開きにして、つかさは昼間見ていたものとは全

く違うものを見るような感覚で、目の前の光景を見つめていた。各

木々の根元に置かれた照明に照らされ、幻想的なピンクに輝く桜

は、つかさが子どもの時に絵本で読んだ妖精の光のそれに、どこま

でも似ているのだった。

 つかさはこの瞬間、全てのことを忘れていた。何も考えず、ただ

目の前の光景に感動し、美しさの波にどこまでも深く呑み込まれて

いった。


























































 うっとりと、やや目を細めて桜を見やるつかさの手が、無意識の

うちに空間を泳ぐ。いつも隣にいた彼の手を、温もりを捜して。つ

かさが、自分が求めている手に今触れることはないのだと気付く直

前、ふらふらと彷徨っていた彼女の手を、誰かがガシリと掴んだ。














































































「お疲れ様でした。」

 入り口まで送ってきてくれた担当編集者に丁寧に頭を下げ別れる

と、綾は、うーん、と伸びをし、静かな夜空を見上げた。

「なんか嫌な雲だなぁ。あっちは、大丈夫かな?」

 誰にも聞こえないほど小さく呟き、そのままぼうっ、と空を眺め

る。綾が、ほとんど身動きもせずに固まる。前日の夜、向こうであ

った出来事を思い出しながら。

















































「真中君・・・。」

 その時の彼の顔を思い出し、クスリと笑みを漏らす。外見はこち

らがドキリとするくらいすっかり大人びた彼の中に、未だ残る子ど

もらしい、初々しい部分が見えたような気がして、実際の年齢差は

ほぼ無いに等しいにも関わらず、思わず「かわいい」と思ってしま

っていた。

 ややあって、綾がゆっくりと歩き出す。この世に二人、綾本人

と、その彼にしかわからぬ言葉を、その場に小さく響かせて。














































































「頑張ってね、真中君・・・。」
















































































 踏みしめた足から伝わる振動で、額を流れている汗が地面に落ち

る。境内の桜を夜空に浮かび上がらせているライトも届かぬ木々の

奥。淳平は、ぬかるんだ地面に何度か足をとられながら、ずんずん

と明かりとは逆の方向に歩いていっていた。

「ねぇ・・・ちょっと、淳平君!」

 わき目も振らずに猛進する淳平に手を引かれながら、つかさが語

気を強めて声をかける。桜に見とれていたとき、急に手を掴まれ、

人ごみから引きずり出されたつかさは、正直、何故自分が淳平と、

今現在このような状況にいるのか全くわかっていない。それもその

はず。つかさは何の説明も受けていない。淳平はただ「一緒に来て

欲しいところがあるんだ」とだけ、つかさに伝えたのだった。つか

さが何度か理由を聞こうと試みるも、「時間がないんだ。後で詳し

く話すから」と、一番まともな答えでもそんな感じだった。

 右も左も、前も後ろも、自らの足元すらまともに見えない状態

で、訳も判らぬままに引っ張られ続け、ついにつかさも黙っていら

れなくなった。

「ッ!?」

 掴んでいた手を振りほどかれ、淳平は困惑気味につかさを振り返

る。怒りとも、悲しみともつかぬつかさの表情を目に留め、ほんの

一瞬言葉に詰まったかのように見えたが、何とか、慎重に言葉を選

びながら口を開いた。

「お願いだよ、西野。一緒に来てくれ。」

 つかさは、首を横に振った。俯き、垂れた前髪が顔を半分ほど覆

い隠していて、おまけに星の光も届かぬほどの暗闇だったが、つか

さの目は閉じているだろうと、淳平は思った。

「西野、頼「・・・どうして?」えっ?」

 闇の中で、つかさが顔を挙げる動きを感じる。つかさの、聞き取

れないほど僅かに震えた声が、見えないつかさの表情を淳平に伝え

ている。





























































「どうして何も言ってくれないの?ねぇ、どうしちゃったの?」























































 音が光と同時に貪られていく様を、二人は共感している。少しは

なれたところで鳴いている名前のわからない虫の声以外に何か聞こ

えてこないかと、つかさは耳に全神経を集中させている。が、いつ

まで待とうとも、淳平は声を発しない。重圧を感じるほどの静寂。

時の流れる音ではない音さえ聞こえてきそうなこの状況で、どうし

て最も愛するもの声だけが聞こえてこないのか、と悔しくなり、一

番発したくない言葉を、つかさが口にする。

































































「東城さん・・・・・なの?」

































































「あ、いや!・・・別に、その・・・」

 つかさにとって、発したくない問い。それは同時に、淳平にとっ

ても聞かれたくない問いのようであった。声とは呼べぬ様な音をの

どから出して、見る見るうちに小さくなっていく。決して否定の色

を見せようとしないその態度に、つかさの中で、ついに何かが崩壊

した。


























































「・・・帰ろう。」

「待って!」

 くるりと振り返るつかさの腕を、淳平が捕まえた。

「お願いだから、今は聞かないで。俺のこと、信じ・・・」








































































「淳平君のことなんか、もう信じられない!!!」













































































 枝の上で叩き起こされた鳥たちが数羽、一斉に飛び立つ音がし

た。

 とうとう、我慢し切れなかった涙が、つかさの瞳からあふれた。

長時間留めることは出来ても、一度流れたものを止めることの出来

ない涙を、つかさは敢えて止めようともせず、その場で顔を覆って

泣き始めた。

 つかさの嗚咽のみが聞こえてくる沈黙。長い間、暗闇に焦点を彷

徨わせていた淳平だが、やがてぽつり、と呟くように言う。

「ごめん・・・。」

 喉から搾り出す掠れた音を鼓膜に感じながら、淳平はゆっくり

と、寂しい朗読のように言葉を紡ぎだす。

「西野の言いたいこと、わかる・・・と、思う。だけど、今はとに

かく時間が無いんだ。」

 しゃくりあげるつかさの肩に、暖かさが加わる。視界をふさいで

いた手をどけると、淳平がしっかりと両肩を捕まえて、まっすぐに

こちらを見つめていた。

「・・・ちゃんと説明するから。その後でなら、どんなに西野に嫌

われても構わない。だから・・・」

 永遠のような一呼吸を置き、




















































































「俺のこと、信じて・・・。」














































































 僅かにすすり泣きながら、淳平の方を見つめ返す。瞳にこめた了

承の意を認め、淳平は再び、つかさの手を引き、歩き出した。

 さっきの淳平の目を、つかさは今までに一度、目にしたことがあ

った。忘れもしない、高3の九月。真っ暗な中、誰もいない公園

で、初めて淳平とキスをしたあの時。あの時淳平が言った台詞。

「中学の時とは全然違う気持ち」その台詞を聞きながら、夢のよう

な一瞬に引き込まれる直前、最後に見た淳平の目に、今正に再び会

ったのだった。

 一抹の不安が、無いわけではない。彼でなければ、この暖かい手

を、また振り払っていたかもしれない。しかし、つかさは知ってい

る。あの眼差しを信じて、傷ついたことはあっても、間違ったこと

は一度だって無い。あの真っ直ぐな目に、自分はわくわくさせられ

てきていた。あの真剣な表情だから、自分は淳平に・・・。






























































 数分間淳平に手を引かれて足早に歩くと、どうやら二人は木々の

乱立する林を抜けた。ここはどこなのだろうか。街頭も、それの代

わりになるような物も無いので、辺りは依然として真っ暗なまま。

 つかさは、何とも言えぬ不安を覚えて、存在を確かめるように淳

平の手を更に強く握った。先程とはうって変わって、随分と開けた

場所に立っているらしい。すぐ近くから水の流れる音が聞こえてい

ることから、どうやらどこかの川原にいるようなのだが・・・。

「ふぅ、ぎりぎり間に合った・・・。」

 すぐ隣で淳平が、大きく安堵のため息をつくのが聞こえる。つか

さの目が徐々に慣れてきて、薄ぼんやりと淳平の輪郭が見え始めて

きた。顔を挙げて真っ黒な夜空を見上げている淳平の視線をたどる

と、そこには、よく目を凝らさなければわからない程度に欠けた月

が、流れる雲の脇からそっと顔を覗かせているところだった。月明

かりで、手前の雨雲がシルエットになって浮かび上がっているの

が、何とも風流であった。

 月が完全に姿を見せるまで、つかさはその様子を見つめていた

が、ふと、淳平に肩を突かれて、振り向く。

「見てよ、西野。」

 つかさが、怪訝そうに眉根を寄せる。淳平が指差す先は、真っ暗

闇が広がっているだけのはずだが・・・。
















































































 つかさは、目を大きく見開いたまま、ピクリとも動かなくなる。

視線の先にはブヨブヨと闇が存在しているだけかと思っていたの

で、“それ”を目にした途端、言葉を失った。

 つかさが見つめる先には、一本の枝垂桜の木があった。が、ただ

の桜ではない。黒一色の背景の中に、その桜だけが、遠慮がちな月

光に照らされて闇夜にぼぅっ、と浮かび上がっているようであっ

た。集愛神社の境内でライトアップされていたものとはわけが違

う。まるで、桜それ自体が淡い光を放っていて、薄くぼやけて見え

るような、何とも形容し難い美しさで立っていた。











































「綺麗・・・。」

 つかさが、自分でも意識しないうちに、ポツリと呟く。にわかに

は現実であると信じられないような光景を目にして固まることしか

出来ないでいるつかさに、淳平が優しく声をかける。

「これを、西野と一緒に見たかったんだ。雨が降ってきた時はどう

なることかと思ったけど、雲が晴れそうだったから、また降り出さ

ないうちに見なきゃ、と思って。」

「でも・・・、淳平君、なんでここの桜のこと知ってたの?」

「あ〜・・・・・いや、それは・・・」

 つかさの何気ない質問に、何故かうろたえまくっている淳平。つ

かさはきょとん、と首をかしげて、俯きがちになっている淳平の顔

を覗き込んだ。






















































「その・・・東城に、教えてもらったんだ。」

「えっ?東城さん・・・?」

 意外な人物の名前を聞き驚くつかさに、淳平が首を縦に動かし、

肯定する。

「その・・・西野、何か勘違いしてるみたいだから、言うけ

ど・・・」
 


前日の夜

 眠ってしまったつかさに布団をかけてやり、一旦は自分も眠りに

就いた淳平だったが、深夜、喉が渇いて目を覚ました。中途半端に

寝て起きてしまい、更には酷く口の中が乾燥していて、最悪の形で

の寝覚めとなった。

(下の自販機で、お茶でも買ってくるかな・・・)

 つかさを起こしてしまわぬよう、ゆっくりとベッドを抜け出し、

財布を持って外に出た。すると、

「あれ?真中君?」

「んあ?・・・あれ?どうしたの、東城?」

 廊下には、既に綾が淳平がこれからやろうとしていたことを終え

て、部屋に戻ってくるところだった。聞けば、綾も自動販売機まで

お茶を買いにいっていたとのことだった。

「んじゃ、おやすみ・・・。」

「あ、待って、真中君。」

 別れを告げ、自分も1階に降りようとした矢先、急に綾に呼ばれ

て、淳平はくるりと振り返った。

「何、東城?」

「うん、えっと・・・。」

 振り返った淳平と目が合った途端、呼び止めた綾の方から目を逸

らしてしまう。どうしたんだろう、と淳平は小首をかしげると、や

がて綾が、おずおずと口を開いた。

「真中君・・・西野さんとは、仲良くやってる?」

 ただでさえ静かな状況なのが、より一層静けさが深まった。正

直、あまり良い沈黙ではない。

「うん、まぁまぁ・・・かな?」

 淳平にはわからなかった。彼女は、昔のこととは言え、自分のこ

とを好きでいてくれたはずだ。面と向かってではないにしても、告

白だってされているし、センター試験の後、勉強中に居眠りをして

しまった時に、寝込みを襲われ(?)キスまでされた。それが、ど

うしてこのタイミングでつかさの話が出てくるのだろうか。

 淳平がひとりで思案しているのを他所に、綾は続けて口を開い

た。

「あの、真中君たち、明日集愛神社のお祭り行くんだよね?いいこ

と教えてあげるね。実はね、あそこの裏の林を抜けた先の川原に、

桜の木が一本生えてるんだけど、明日の夜、天気がよかったらそこ

に行ってみて。」

「え・・・」

「私も一昨日見てきたんだけど、その桜がね、月に照らされるとす

っごく綺麗なんだよ。誰もいないから、すごくロマンチックだし、

きっと西野さんも喜ぶわ。」

「でも、何で?」

 綾が話し終わるのを見計らって、淳平が質問を投げる。“何

で?”には、色々な意味が込められている。何で地元の人間でない

綾がそんなことを知っているのか。何でわざわざそれを自分に教え

てくれたのか。“何で自分と一緒にそこへ行こうと誘わないの

か”。

 綾の答えで、綾が淳平の発した“何で”の意味を、正確に捉えて

いたことがわかった。
































































「私ね・・・、今でも真中君のこと・・・大好きだよ。」

 静かでありながら、重く、確かに、綾の言葉が響く。淳平が返事

に窮していると「でもね・・・」と、綾が続ける。

「同じくらい、西野さんのことも大好き。西野さんが出てくれたお

かげで、2年生の時に撮った『夏に歌う者』も、すごく良い作品に

できたから、素敵な思い出になって。それに、真中君に・・・。」

 三度、短い沈黙を挟み、綾が言う。

「真中君に出会えて・・・私が本当にやりたいことも見つけられた

の。前にも言ったけど、真中君を好きだったことも、結局想いは実

らなかったことも、全部に感謝してて・・・私、高校3年間、本当

に幸せだった。」

 だから、と言いかけ、ほんの少し、うっと言葉に詰り、気持ちを

落ち着かせてから再び話し出す。

「だから、あの綺麗な桜を、二人にも見てほしくて・・・。真中君

は心配してくれてるけど、私は大丈夫・・・・・だから、そうし

て?」

 綾の話を、じっと聞いていた淳平の頭の中に、遠い記憶が蘇っ

た。忘れもしない、2月13日。雪に覆われた真っ白な公園。確か

に未来を見つめていた、どこか寂しげで、それでいて晴れやかな、

綾の顔。情けなくて、悔しくて、止められなかった涙。

「あ・・・でも」

 何かが、淳平の中でのた打ち回っている。あの時、さつきも選ば

ず、綾も選ばず、つかさを選んだことは、本当に良かったのだろう

か。今ここで、綾に優しい言葉をかけてあげれば、彼女は喜んでく

れるのではないか。

「ね・・・お願い。」

 でも、と淳平は思い直す。それは、できない。それはつかさの想

いを、綾の決意をも裏切ることになるから。つかさを大事にするこ

とで、綾が身を引いてくれたことへの、何よりの感謝になると思う

から。

 やがて淳平が恥ずかしそうに微笑み、口を開いた。

「うん・・・解った」

「ふふっ、良かった・・・」

 綾が嬉しそうに、ホッとしたように笑顔になる。花が咲きそう

な、天使の笑顔。






































































「別に、西野が想像してたようなことがあったわけじゃないんだ。

確かに、東城のことは、今でも大切に思ってる。でも、俺の一番

は、やっぱり西野・・・だからさ。」

 照れ笑いを浮かべながら話す淳平に、つかさもほんの少し頬を緩

ませて、僅かに赤くなりながら俯く。

「で、でも・・・だったら何でそのこと、アタシに早く言ってくれ

なかったの?」

「あー・・・・・それは、なんつーか・・・」

 曖昧な返事しか返さない淳平に、つかさの表情が再び曇り始め

る。淳平は、何度も口を開いては、飛び出しかけた言葉を呑み込

み、また何かを口にしそうになっては、がりがりと頭をかきむしっ

ていた。













































































「その・・・・・驚かせたくて・・・」

「えっ?」

 返ってきた答えに、一瞬きょとんとするつかさ。その反応を見た

淳平は「だ、だから!」と、何かを諦めたかのように語りだした。

「その・・・今まで知らなくて・・・・・他の女の子から始めて聞

いた所に連れてきただけ、ってのじゃ、なんか・・・・・カッコ悪

ぃから・・・」

 それ以上、恥ずかしくて何も言えなくなってしまった淳平を、つ

かさは何も言わずに見つめていた。と、














































「バカッ・・・」

「んなっ!?」

 突如聞こえた言葉に反応した淳平が、バッと顔を挙げると、つか

さが俯きながら言った。




































































「そんな、カッコイイからいけないんだぞっ!・・・淳平君のクセ

にぃ・・・」

 淳平に見えたつかさは、にっこりと笑っていた。目から、特大の

涙滴を、ボロボロと溢しながら。

「ホントに・・・すごく、不安だったんだから・・・」

 ついに本当に泣き出してしまったつかさを見て、淳平は慌てふた

めきながら、優しくつかさを抱き寄せ、

「ごめんな・・・。」

 耳元で小さく囁いた。つかさは、淳平の胸をハンカチ代わりに使

うことを決めたらしく、涙の滴る顔を、ぐいぐいと押し付けてい

た。

 そんなつかさを抱く腕に、少し力を込めて、もう一度囁く。





































































「なぁ、西野。俺って・・・・・・・やっぱり西野にはふさわしく

なかったのかもな。」

















































































「えっ・・・?」

「西野は、こんなに可愛くて、優しい、素晴しいコなのに・・・俺

は、その西野を不安にさせてるばっかりでさ・・・。」

「そ、そんなことっ・・・!」

 フッと、自嘲したような笑みを漏らす淳平。その言葉を、必死で

否定しようとするつかさの言葉を、更に強く抱きしめて遮り、「だ

けど・・・」と口を開く。













































































「ごめん。やっぱ、俺、西野がいないとダメだから・・・。」

 きつく抱きしめていた腕を緩め、つかさの顔をまじまじと見つ

め、再び零れ落ちそうになっている涙を、指で掬い上げる。

「迷惑かけると思うけど・・・、ずっと、そばにいていいか

な?・・・つかさ?」

 そう言い切り、やわらかく微笑む。つかさも、まん丸に開いてい

た目をゆったりと細くして、ぎゅっと抱きつく。

「いてもいい、じゃないでしょ?アタシが許可するまで、絶対に離

れちゃダメ・・・♪」





 十六夜の月に輝く奇跡の桜は、それから暫くの間二人を惹きつ

け、放さなかった。やがて、それまで遠慮していた雨雲が月を覆

い、雨粒を落とし始めるころ、夢の時間を過ごした二人は、手を取

り合いながら、林の中の元来た道を、戻っていった。

――――――――――――――――――――――――――――――
 久々更新です!遅れてしまい、ホンッッッッットすみませんでしたm(_ _;)m


[No.1309] 2006/08/16(Wed) 17:51:10
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最終章『西に沈む陽』 (No.1309への返信 / 10階層) - SSスレからの転載・たゆ代行書き込み

最終章『西に沈む陽』

 意識がはっきりするより前に、トモコの右手は反射的に目覚まし時計のスイッチを叩いていた。

少ししょぼつく目を頑張って開けて文字盤に目をやり、自分が勝ったことを確認する。


 ペンションの朝は早い。宿泊客達の朝食の支度もそうだが、

覚醒しきっていない状態でお客相手の仕事をするわけにはいかない。

ましてや、余程早起きでもされない限り、彼らよりも遅く起きるなどあり得ないことなのである。

トモコは一応毎日目覚まし時計をセットしてから床に就いているが、

今日の様にベルの音を待たずして目が覚めることも珍しくはなく、

最近では目覚ましが鳴る前に起きることを「勝った」と呼んでいる。

ここ何日か、トモコは“連勝中”である。

 しかしなぁ、とトモコは思った。

(今日は絶対に勝てないと思ったんだけどなぁ・・・。)

 自分に対して少々感心しながら、不意に天井を見上げる。

視線で天井を通り越し、恐らく今も幸せそうな表情を浮かべて眠っているであろう

友人二人のことを見つめようとする。

(行きはちょっと機嫌損ね気味だったのに、

帰ってきたら妙に機嫌良くなってたんだよなぁ・・・)

 その先を、トモコは敢て考えずにおいた。

これ以上ないくらいに意地悪く顔が歪んでいるのが、自分でもはっきりわかったからだった。

つかさも可哀想に、と小さく声に出して呟き、心の中でそっと合掌する。

その可哀想な目にあわせている張本人が自分であるという認識が彼女にあるのかどうかは、

この際追究してはいけない。

 両手で頬を少し強めにパシリと叩き、少し眠気の残る頭に喝を入れてから、

飛び跳ねるようにして起き上がったトモコだった。


一晩経って石化してしまったかのような瞼をピクピク震わせながら、

淳平の意識が夢から帰ってくる。次の瞬間、自分の体の重さに驚かされた。

全身の骨が鉄でできているのではないかと言うくらい重い。

ちょっと頬を掻こうと寝ながら腕をずらすことさえが重労働だった。

肘をついて体を起こすことが途方もないことに感じられる。

「・・・んん・・・・・?」

 喉からつぶれたような声を出し、淳平が何とかうっすらと瞼を持ち上げる。

実に数時間ぶりに光を取り入れて、淳平は平常時よりも5倍ほどの時間をかけて、

目の前の光景に焦点を合わせた。

「!?!?・・・にっ、にぃ・・・・・!?」

 お目覚め一番の非常事態に、淳平の体はひとまず先程までの疲労を、

都合よく忘れることに決めたらしい。

ビクッと上体を起こし、しょぼついてどうにもならなかった目は、

目尻が裂けそうなほど見開かれている。

 あたふたドタバタと、淳平が大騒ぎしたせいか(間違いなくそうであろう)

すぐ隣にいる人物が、眠そうに小さく唸り声を上げる。

すると、今まで優しく閉じられていた瞼がゆっくりと持ち上げられて、

綺麗に透き通った水晶体が姿を現す。

「・・・んにゅ?」

 寝惚け眼で、ほんの少し間の抜けた声を出し、小さく欠伸をしようとしたところで、

淳平の存在に気付いた彼女は、ふわりと微笑み、口を開いた。

「おはよう、淳平君。」

 朝一番のつかさの微笑のショックが強すぎたのか、それとも他の理由からか、

淳平も何とか挨拶を返そうとするも、酸欠状態の金魚のように口をパクパクさせているだけで、

そこから何か意味を持った音声は出てこない。

つかさはと言えば、未だ何が起きているのか理解していない様子で、

眠そうなトロンとした目で、小首を傾げた。

が、突然大きく目を見開いて「まさか」という表情を作り、次いで恐る恐る視線を下にずらしていく。直後、叫び声をあげそうになった口をパチッと両手で押さえ、見る見るうちに真っ赤になっていった。

 ややあって、何とも気まずそうに相手の顔を見つめ、視線がぶつかり、

誤魔化すかのように苦笑する。

やがて、つかさの口を覆っていた手が顔全体を覆ってしまってから、

淳平はそそくさとベッドから這い出した。

「・・・で?」

 嫌がるつかさをなだめ賺して、淳平とつかさの朝食の風景をすぐ横で眺めながら、

トモコがどちらともなく問いかける。

「昨日は何があったの、アンタ達?」

「へっ!?」

 トモコの発した言葉に、淳平は声をオクターブも跳ね上げた。

淳平の正面に座っていたつかさに至っては、

もうトモコの方をまともに見ることすらできなくなっているようだ。

「いや・・・昨日は、別に・・・・・ねぇ?」

 しどろもどろになりながら淳平が答えれば、

「うん・・・・・」

 つかさは、蚊の鳴く声のほうがまだうるさいのではなかろうかという声で漸く返答する。

トモコはほとんど呆れたように溜め息を吐き「あのねぇ・・・」と喋りだす。

「出かける前にあれだけ機嫌悪そうだったつかさが

帰ってきたらけろっとしてて“別に”ってことはないでしょ?」

「「はい?」」

つかさがサッと顔を挙げる。

淳平もそれまでの慌てた表情から一転、突然山道で

人に出くわしてしまったウサギの様な顔になった。

「さぁ、さぁ。このトモコさんに隠し事はイカンよ、つかさ君〜?」

 うりうりと、肘で小突かれながら、つかさはほんの一瞬ポカンとしていたが、

やがてちょっと恥ずかしそうに語りだした。

滞在初日の深夜の淳平と綾のこと。美楼祭で会った小宮山達のこと。

ケンカしたこととその原因など。

トモコは時折、話を遮らないような的確な相槌を打ちながら、つかさと淳平の話しを聞いていた。

つかさが後から気付いたことだが、トモコの情報収集能力の高さはここにあるのではないかと思った。

その相槌の入れ方の上手いこと。最後の桜の件では、ハッと気が付いたときには

ほとんど惚気話になっていた。

「ふ〜ん。・・・まぁ、実際に見てないから何とも言えないけど、

それだけ綺麗な物を二人で見ればケンカもやめるか・・・。」

 一通り聞き終わり、トモコがしみじみと独り言のように言った言葉に、

つかさと淳平はちょっと顔を見合わせた。

あれだけ話させられた後なのだから、確実にからかわれると思っていたつかさにとっては、

少し意外な反応である。

「でも、良かったよ。二人が仲直りしてくれて。」

「えっ?」

「つかさが淳平クンの話する時って、顔がすごいキラキラしてたからさ。

高校のときから思ってたんだ。幸せそうだなぁ、ってね。」

 ポツリ、ポツリと話しながら、トモコは少し照れくさそうに、

くすぐったそうに笑ったが、急に声の調子を明るく変えて、

「だけど、心配する必要なかったね!考えてみれば、つかさと淳平クンだもん!」

と、言いニッと笑った。

「ホント、羨ましいよアンタ達。」

「トモコ・・・」

 つかさも淳平も、一緒にクスリと笑みを漏らす。

二人も、何だか少し変わったくすぐったさを覚えていた。

「んで?その後は?」

「うん。暫くその桜を見てたら、また雲で月が隠れちゃって・・・」

 「雨も降ってきたから帰ってきたんだ。」と、続けようとしたつかさの言葉に、

トモコが「違う、違う。」と、カウンターパンチを入れる。

「それは帰ってくる前でしょ?アタシが聞いてるのは、“帰ってきた後”のことですよ〜?

つ・か・さ・ちゃんっ♪」

 トモコの「グシシッ」と薄気味悪く笑った顔を目の前に頬を引きつらせながら、

つかさは、直前までとガラリと考え方を変えた。

このままで済むなんて一瞬でも思った自分が馬鹿だった。

 腐っても鯛。

やはりトモコは、トモコだったのである。

「しかしなぁ・・・」

 淳平とつかさがチェックアウトした後、片づけを済ませて、

先刻のことを思い出しながらトモコが口を開く。

「ホント、あのコといると飽きないよ。」

 すぐ横にいる叔母にそういいながら、思い出し笑いをする。

「あんまり苛めないの。」

 トモコの額に軽くデコピンをしながら言う彼女こそ、

つかさが“話した”ことも“話させられた”こともしっかりと盗み聞きしていたのだから、

やはりというかトモコの叔母である。

「でも・・・」

 ふっと真面目な顔つきになり、しばし考え込む。

「あの二人、美楼祭に行って、その桜を見てきたのよね?」

「え?うん、そう言ってたけど?」

 その辺りの話も聞いているはずの叔母の口から出た問いに、

トモコはいまさら何を、と不思議に思いながらも答えた。

返事を聞いた叔母は「う〜ん」と唸り、ますます難しい顔で考え込み、言った。

「集愛神社の裏って川はあったけど、あそこに桜の木なんかあったかしら?」



「あれ〜?」

 トモコの叔母が頭を捻っているころ、淳平とつかさは集愛神社のすぐ近くにいた。

来た時にもさんざん迷って着いたのだから、

帰りは同じことは繰り返すまいと言い聞かせていたのも空しく、あっけなく迷子。そのまま泉坂へ向かえばいいものを、二人して「昨日の桜をもう一度」ということになり、それらしい所を見つけてはフラフラと立ち寄っていたのだった。

「確か、こんな感じのところだったよね?」

 地図で集愛神社の位置と周りの風景を見比べながら、つかさもきょろきょろと辺りを見回している。

二人が乗っている車のすぐ脇では、小さなリスが2,3匹、ちょろちょろと駆け回っては、

つかさと同じ様にきょろきょろと辺りに視線を走らせていた。

「でもなぁ、あの時は真っ暗でほとんど何も見えなかったし・・・。」

「でも、これ以上離れちゃうと歩いていける距離じゃなくなっちゃうしねぇ?」

 半ば意地になって見つけ出そうとしていたが、

それも気力体力が充実しているからこそ、そう思えていたのであり、

何よりこれ以上遅くなってしまえば、泉坂到着がいみじき時間になってしまう。

「淳平君。そろそろ行かないと・・・」

「え〜、でも・・・」

 ギリギリになっても尚、このまま帰ることに難色を示そうとした淳平だったが、

くるりと振り向いた瞬間に、口が開かなくなる。

何か言おうとしていた淳平の口を、つかさの唇が完全に塞いだ。

「ホラ、いい子だから行くぞっ!」

 半分照れ隠し、半分自棄になり、無理矢理テンションを上げるつかさ。

淳平はしばらくポカンとしていたが、やがてつかさに倣ってカラ元気を振り絞り、

漸く二人は、泉坂への道に入っていった。



 美楼祭は続く。

最終日の今日の日が落ちるまで、まだまだ続く。

やがて、西の空が緋色を経て紫色に変わり、一番星が姿を現すころ、

小さなリスの目には、何も無かったところにいつの間にやら現れた、

幽霊のように半透明な大きな桜の木が映っていた。










このSSはSS投稿スレッドに投稿されたものです。あくまで保守をかねた仮処置です。事後報告となりますしそのような趣旨ですので作者様の意向に全て沿います。管理人のほうに連絡くださいませ。
手直しされたい場合はパスをお渡しいたします。以後良しなによろしくお願いいたします。


[No.1342] 2007/03/27(Tue) 12:12:37
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