植草一秀さん、京都で力強く呼びかけ! - ローリエ - 2012/05/21(Mon) 20:36:02 [No.4664] |
└ Re: 植草一秀さん、京都で力強く呼びかけ!ー6月3日デモ(東京で予定) - ローリエ - 2012/05/21(Mon) 20:55:07 [No.4665] |
└ もっと大きく・・・耳障りな(声高な少数派)の声 - hasebe - 2012/05/23(Wed) 14:27:55 [No.4671] |
└ 小沢氏の自民党脱党は、日本からの資金流出を防ぐ為? - hasebe - 2012/05/23(Wed) 22:53:44 [No.4674] |
└ [削除] - - 2012/05/24(Thu) 12:29:29 [No.4675] |
1985年のプラザ合意により、1ドル235円だったものが 1年後には150円にまで急激に円高、ドル安になりました。 日本の輸出産業、繊維、雑貨など壊滅し、その打開に金利を 最低にまでおとし、それがその後のバブルの引き金にもなった とも言われています。 その3年後の1988年、当時の竹下首相は突如、先物取引を導入 株価は4万円にまで届く勢いに跳ね上がりました。 当時、米国からは「日本の金融・資本市場の開放に関 して、(中略)次々と要望が出されていた」わけです。 今と同じで、日本は言いなりに急激な金融市場解放を 他国がしているような保護をすることもなく行ったのです。 日本の金融界も企業、個人投資家の多くは、知識、技術共 に未熟で急激な金融市場の変化に対応出来ずボロボロに なり未だにその影響が尾をひいています。 バブルの崩壊と共に40兆円以上と言われる日本の資金が米国 に流出したとも言われています。 その時、竹下首相に、加熱した株価を一時安定させるため のサーキットブレーカー制度(ストップ、ストップ安で 一時株の売買を止め安定させる)を取り入れるようにと進言 した、たった一人の政治家は小沢さんでした。 それが聞き入れられない為脱党し、細川政権を作り、その 8ヶ月間の政権の潰れる2ヶ月前にサーキットブレーカー 制度を作り上げたわけです。 板垣英憲氏は、その時から竹下氏との戦いが始まった と書いています。 その時結成された「三宝会」が、いまだに影を及ぼしている? 金丸信氏は、金庫の金の延べ棒が検察の手入れで見つかった 際、それは小沢氏の新党結成の資金にしたかった、と語っていた のを当時の新聞記事で読みました。 その間のことを板垣英憲氏がブログに書いています。 <板垣英憲のマスコミに出ない政治経済の裏話> http://blog.goo.ne.jp/itagaki-eiken/e/e286363922b6b209ddd6eb91ae6fec78 『1988年9月3日、竹下登首相が東京と大阪の証券取引所に日本初の デリバティブ「TOPIX日経平均株価の先物取引(裁定取引)導入。 ソロモン・ブラザーズとメリルリンチが、大商い。 サーキットブレーカーをセットしておらず、40兆円が米国に流出し、 バブル経済が崩壊。 小沢一郎官房副長官が竹下登首相に「ストップ」を進言するが、拒否。 小沢一郎官房副長官は、竹下登首相に「あんたは、国賊だ」と抗議する。 ここから、小沢一郎官房副長官は、新党をつくって、自分たちが サーキットブレーカーをセットみせる」と決意。 後ろ盾の金丸信元幹事長(竹下派「経世会」会長)と密に新党つくりの 準備にかかる。 このときから数えると「小沢一郎元代表の戦い」は「24年戦争」となる。』 [No.4674] 2012/05/23(Wed) 22:53:44 |