@求められる、市民の力量 鷲田 清一 - えいこ - 2013/10/14(Mon) 11:26:21 [No.5639] |
└ A求められる、市民の力量 鷲田 清一 - えいこ - 2013/10/14(Mon) 11:35:12 [No.5640] |
└ B求められる、市民の力量 鷲田 清一 - えいこ - 2013/10/14(Mon) 11:40:49 [No.5641] |
(10月11日 東京新聞 夕刊) 鷲田 清一 (わしだ・きよかず=哲学者・大谷大教授) 「教養」が、<型>をもたなくなったこと、いいかえると、身体の作法をともなわなくなった ということがある。行為をつうじての自己形成というよりも、読書をつうじて 広く知識を習得し、歴史・文化について、それらを見る目を養うことがめざされた。 こうした「教養」の観念は、「政治的教養というものを、含むことなく、むしろ 意識的に、政治的なものを外面的なものとして、除外して」おり、 福沢諭吉らに代表される、明治期の啓蒙(けいもう)思想への反動としてあったとは、 昭和十六年の、三木清の指摘である。こうした文化への偏重は、 経営や技術など、実学的な知識の、密やかな侮蔑にもつながっていた。 たしかに 多くの知識をもつことは、ものごとを広い視野でとらえるに 必要なことであろうが、もっと重要なのは、それらを、社会運営のなかで 組み立て、使いこなして ゆく、「わざ」である。 [No.5639] 2013/10/14(Mon) 11:26:21 |