日本国会・「虚偽政治」物語! 平野貞夫氏 - hasebe - 2014/04/03(Thu) 23:03:49 [No.5833] |
└ 生活の党:中国との草の根交流 - hasebe - 2014/04/08(Tue) 23:09:59 [No.5835] |
└ 平野貞夫氏「団塊世代の政治家の罪と罰」 - hasebe - 2014/04/12(Sat) 22:49:48 [No.5841] |
└ 平野貞夫氏「続:団塊世代の政治家の罪と罰」 - hasebe - 2014/04/17(Thu) 20:48:37 [No.5843] |
└ 『民主・自民・公明』の三党合意が壊したわが国の社会保障と財政の再建! - hasebe - 2014/04/25(Fri) 12:47:32 [No.5852] |
└ 『自民党がカネと利権で当選させたのが二つの選挙ーこれが民主主義か!』 - hasebe - 2014/05/04(Sun) 22:21:46 [No.5858] |
└ 平野貞夫氏=集団的自衛権の憲法解釈 - hasebe - 2014/05/12(Mon) 20:46:57 [No.5867] |
└ Re: 平野貞夫氏=集団的自衛権の憲法解釈 - hasebe - 2014/05/15(Thu) 22:45:46 [No.5871] |
└ Re: 平野貞夫氏=集団的自衛権の憲法解釈 - hasebe - 2014/05/15(Thu) 23:00:15 [No.5872] |
└ 安保法制懇の実態 - 豊後の小兵衛 - 2014/05/16(Fri) 10:49:44 [No.5873] |
└ Re: 安保法制懇の“有識者”は、本当は”無識者”? - hasebe - 2014/05/17(Sat) 21:04:53 [No.5874] |
└ 『米国も日本の立憲主義の危機に気がついたようだ』 - hasebe - 2014/05/22(Thu) 10:34:40 [No.5878] |
日本国憲法第三章「国民の権利及び義務」の第12条 『この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力 によって、これを保持しなければならない。〜』 ある学者が、小沢さんの2009年の陸山会事件の直後、かつて聞いた 軍靴の足音が聞こえる、と警鐘を鳴らしていました。 国民の権利とか自由は、余りにもろいもの。 あっという間に、消えてなくなります。 それを守り育てるのは私達、国民の努力のみ。 小沢さん: 【安倍首相の立憲主義否定になりかねない記者会見の日が、昭和7 年に犬養首相が射殺された「5・15事件」と奇しくも重なる日 だと思い出したようだ。 私に「米国も日本の立憲主義の危機に気がついたようだ。 憲法の射殺が行われないよう、ジョン万次郎の草の根運動をしっ かり発展させよう。戦前回帰≠フ政治に戻してはならない」と 静かに語った。】 これは、5月15日に米国大使館のカート・W・トン首席公使から 招かれ、公使公邸で懇親パーティーでの小沢さんの感想だそうです。 下記に、日本一新の会のメルマガ、平野代表の記事を転載させて いただきました。 ◎「日本一新運動」の原点―213 日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観 ○ 日米草の根交流で日本の「戦前回帰」を止めよう! 5月15日(金)午後6時、安倍首相が「集団的自衛権行使」 に向けて、基本的方向性を示す記者会見を行った。これは憲法の 根幹を改正の手続によらず、内閣の解釈によって変更しようとす るもので、立憲主義という民主政治を根本から崩壊させるものだ。 安倍首相が「戦前回帰の政治」に踏み出すことになると、メルマ ガ・日本一新でもしばしば警告してきた。 この記者会見の同日・同時刻、公益財団法人 ジョン万次郎ホ イットフィールド記念 国際草の根交流センター (http://www.manjiro.or.jp/jpn/ =CIE)の小沢一郎会長ほ か、関係者50名が米国大使館のカート・W・トン首席公使から 招かれ、公使公邸で懇親パーティーが開かれていた。 CIEとは、平成2年11月に国会開設100年に伴って発足 した「ジョン万次郎の会」を母体として、平成四年に設立した、 財団法人である。 略称「ジョン万財団」とも呼ばれ、平成25年には、内閣府より 公益財団の認定を受けた。 ジョン万次郎漂流、150年を記念して、日米市民が「草の根運 動」で国際社会の発展に貢献しようというものであった。 第1回の草の根サミット大会は平成3年に京都で開かれた。 この年が太平洋戦争開戦50年目で、政府も団体も何もやらない 時、この草の根交流が、唯一の戦争はやめようという市民運動と なった。 トン首席公使は挨拶のなかで、先月来日したオバマ米大統領か ら特別の指示があったことを紹介された。「大統領は、これから の国際問題は市民が人間として心の交流を結んでこそ解決できる。 この考えを活かして欲しいと話され、草の根交流に強い関心を持 っていた」と。 「ジョン万次郎の会」は、自民党幹事長時代の小沢一郎氏が発足 させて24年目となった。 小沢氏は、トン主席公使の挨拶を目を閉じて聴いていたが、この 24年という年月を考えてみると20世紀から21世紀への歴史 的激動期であった。 安倍首相の立憲主義否定になりかねない記者会見の日が、昭和7 年に犬養首相が射殺された「5・15事件」と奇しくも重なる日 だと思い出したようだ。 私に「米国も日本の立憲主義の危機に気がついたようだ。 憲法の射殺が行われないよう、ジョン万次郎の草の根運動をしっ かり発展させよう。戦前回帰≠フ政治に戻してはならない」と 静かに語った。 因みに安倍首相の父、晋太郎氏は平成3年5月15日に、順天 堂医院で亡くなっている。 (『父が残した戦場日記』について) このトン首席公使招待の懇親会に、私は『父が残した戦場日記』 という私費出版の書物を持参していた。 太平洋戦争中、ニューギニアで戦死した倉橋一美さんの日記である。 遺族の花井睦(旧姓倉橋)さんからトン首席公使に渡すよう預かっ てきたものである。 公使の夫人は日本人で、公使も日本語が堪能であり、この書物が 日米草の根市民の好意でつくられたことを喜んでくれた。 そこで『戦場日記』が、出版されるに至った経過を紹介してお きたい。 4月末、高知の維持会員である平野成泰氏から電話があり、「ジョ ン万の故里から出征し、太平洋戦争で戦死するまでの1年4ヵ月の 戦場日記が遺族関係者が協力して3月に出版された。 この日記が遺族の元に届くまで、米国の草の根市民の暖かい好意 があった。これを多くの人に伝えて欲しい」とのこと。 万次郎の故里・足摺岬に近い大方村(現黒潮町)で農業を営ん でいた、倉橋一美さんが召集されたのが昭和16年10月、主に 東部ニューギニアで軍馬世話係として参戦した。 昭和18年1月の戦死直前までの1年4ヵ月の出来事を日記につ けていた。 一兵卒の戦争に対する率直な意見、家族を思う気持ちなどが赤裸 々に記録されている。 この日記を大切に思った米軍の兵士、ハットフィールド氏がイン ディアナポリスに持ち帰る。 終戦後、いろいろな草の根市民の手を経て、昭和31年5月にキ リスト教の布教に来日したローズライトさんが四国南端の遺族に 届けたものである。 遺族は、日記を公表する気はなかったが、平成24年に花井睦 さんがニューギニアの慰霊巡拝に参加し、「父の心の声」を多く の人々に知って貰うべく公表を決意した。 内容は戦争の悲劇の実体を具体的に記録した貴重な資料であり 「日本を戦前に回帰させてはならない」との倉橋一美さんの心の 叫びである。 多くの人に読んでもらう機会をつくりたい。 ○「万次郎とユニテリアン思想」(草案) 四、忘れられたユニテリアン思想 (万次郎が教えたユニテリアンの思想) ○万次郎は勝海舟の強い要請で、咸臨丸に通訳として乗り込むが、 海舟の狙いは航海士として世界を六周した万次郎の実力であった。 万次郎の活躍は、乗船していた米国海軍将校でブルック氏の「咸 臨丸日記」に詳しい。咸臨丸を成功させた直後、万次郎は幕府軍 艦操練所教授を免職となる。 この原因について、興味ある見方がある。米国から帰った勝海 舟艦長が老中らに米国の感想を語れといわれ「そうですな、日本 のように能なしが高位・高官を占めているようなことは、米国に は全くありません」と答え、老中たちは怒り「海舟にわかるはず はない」として犯人探しとなる。 やがて渡米前の海舟が、万次郎からレクチャーを受けたとき、 「米国でも木葉は青く、人間は足で歩く。ただ、あの国では、高 い身分や位に就いた者は、いよいよ賢く考え、振る舞いは高尚に なる。日本とは天地の違いだ」と、ユニテリアン思想の説明をし たことが種である。 (童門冬二著『ジョン万次郎と海舟』学陽書房) 万次郎が免職となった理由は、咸臨丸で帰国後外国の要人と会 う機会が多くなる。自由に英語で議論する万次郎が、パーティー などで日本人を見下している外国高官と対等につきあえることを、 身分にこだわる日本の上司が嫌がったことなどが原因であった。 ○青年時代に万次郎に私淑していた大山巌は、日露戦争で総司令 官としてロシア軍の捕虜を大切にしたことで知られているが、ロ ンドン・ニュースが「敵に寛大な日本軍」として報道したことな どである。これは万次郎が若き大山に、国際赤十字の思想(ユニ テリアンのナイチンゲール提唱)を教えていたからである。 (西東玄著前述書) ○「万次郎は不思議な人だ。大名とも話すし、乞食とも話す」と いわれていた。 万次郎は永代橋や両国橋のたもとにたむろする、乞食と親しく、 宴会の帰りに食事の残りを折に入れて持ち帰り途中で親しい乞食 に渡していた。 明治3年に大山巌らと普仏戦争視察のため、欧州に出張すること になる。 政府を代表する人間が、「乞食にあわれみは無用にされたい」と 注意した。 万次郎は「私は彼らをあわれむのではない。 本来人間は皆同じなのに、そのような運命になった人生の無情を 悲しむのだ」と話した記録が残っている。(中濱博著『中濱万次郎』) この万次郎の思想こそ、ユニテリアンの本領である。 万次郎は欧州出張中に足部の潰瘍となり、明治四年の春には一 行を離れて帰国する。この年、44歳で脳溢血をおこしたが回復 する。勝海舟らは万次郎に、何度も明治新政府の要職に就くよう 薦めたが、明治2年に就任した開成学校(東大の前身)の中教授 も辞め、晩年の生活に入る。身体に気をつかったわけだ。 この時期、明治新政府は封建幕藩体制を解体し、近代化を急激 に進めることになる。専制化する新政府に、万次郎はさまざまな 思いをもっていた。征韓論争で新政府が分裂状態となる明治6年 には、中央の政治混乱を避けるように、故郷・土佐の中の浜で暮 らす母親を訪ねている、征韓論争は、西郷隆盛による士族の反乱 として「西南戦争」となる。 一方、万次郎が米国から持ち帰った草の根デモクラシーの一粒 の種は、坂本龍馬や後藤象二郎らによって『船中八策』の「上下 議政局を設け議員を置きて万機を参賛せしめ万機よろしく公議に すべき事」から、『五ヶ条のご誓文』の「広く会議を興し万機公 論に決すべし」に採用されていく。 しかし、専制化した明治新政府は国会の開設に応じず、板垣退助 らは、明治7年に故郷土佐に「立志社」を設立して、自由民権の 確立のため国会開設運動を始める。 自由民権運動の激化と専制政府の弾圧の中で明治14年10月 12日、明治23年を期して「国会を開設する」旨の勅語が発せ られる。 伊藤博文らを中心に、憲法の制定と国会開設の準備が始まる。 この時期、万次郎が政治に関わった記録はない。 明治21年頃、新聞記者であった尾崎行雄が、品川の磯で釣り をしている万次郎に「最近の新政府をどう見るか」と聞いたとこ ろ、ひと言も言わずにじっと釣り糸を垂れていたとのこと。 (中濱博著前述書)(この項、続く) [No.5878] 2014/05/22(Thu) 10:34:40 |