陸山会事件判決が新聞、テレビのメインになっている。やはり「無罪」の与える影響は大きい。
裁判で無罪を受けたのに対し、自民党初め野党は証人喚問、説明責任を果たすべきだと言っているが、民主主義はルールを守る事である。ルールがあるから民主主義である。
指定弁護士が控訴するのかしないのか、見極めてから判断するのが賢明ではないか。威勢よく拳を上げても前には進まない。どう見ても身勝手な頭作りとしか思えない。それよりも復興最優先、ガレキの処理等、被災地・被災者の思いを政治に反映してほしいものだ。政治は優先順位が大事である事を国会議員等しく考えてほしいものである。
新聞各社の社説を読みながら、今回の判決で重要なのは裁判官が検察に対して厳しく捜査の在り方を指摘している事である。
「検察は捜査の猛省を」
この裁判では、検察の捜査の問題点があぶり出された。 石川議員らの捜査段階の供述調書は、供述の誘導など取り調べの違法性や不当性を理由に、その大半が証拠採用されなかった。 判決も、「見立てに沿った供述の獲得に担当検事が力を注いでいた」と、「調書偏重」の検察捜査の在り方を厳しく批判した。 元厚生労働省局長が無罪となった大阪の郵便不正事件でも見られた悪弊だ。検察は猛省し、捜査の適正化を図らねばならない。 石川議員に関する虚偽の捜査報告書が作成され、検察審査会に提出されていたことも発覚した。 「審査会の判断を誤らせるようなことは決して許されない」との判決の指摘は当然だ。検察は、虚偽報告書が作成された意図や経緯を調べ、責任を追及すべきだ。 (読売新聞)
「検察は猛省し謝罪を」
この裁判は、検察が抱える深刻な問題もあぶり出した。 捜査段階の供述調書の多くが不当な取り調べを理由に採用されなかったばかりか、検事が実際にはなかったやり取りを載せた捜査報告書まで作っていた。あってはならないことだ。 法務・検察は事実関係とその原因、背景の解明をいそぎ、国民に謝罪しなければならない。「検察改革」が本物かどうか、厳しい視線が注がれている。 (朝日新聞)
「許せぬ検察の市民誤導」
「事実に反する内容の捜査報告書を作成した上で、検察審査会に送付することがあってはならない」と裁判長は述べた。 小沢元代表の裁判は、新しい検察審制度に基づき、市民による起訴議決を経て、強制起訴されたものだった。 つまり、市民が判断の中核としたとみられる検察側の書類そのものが虚偽だった点を、裁判所が糾弾したわけだ。 問題の報告書は元秘書の石川知裕衆院議員が小沢氏の関与を認めた理由の部分だ。「検事から『親分を守るためにうそをつけば選挙民を裏切ることになる』と言われたのが効いた」と石川議員は述べたという。だが、実際にはそのようなやりとりがないことが、録音記録で明らかになった。 検察が虚偽の文書を用いて、市民を誤導したと指弾されてもやむを得まい。石川議員の供述調書も、検事の違法な威迫、誘導があり、裁判で証拠採用されなかった。取り調べ過程の全面録画(可視化)の議論は加速しよう。 そもそも、巨額なカネはゼネコンから小沢元代表側へと渡ったという見立てで、捜査は始まった。上司から「特捜部と小沢の全面戦争だ」とハッパをかけられたという元検事の証言も法廷で出た。今回の判決でも「検事は見立てに沿う供述を得ることに力を注いでいた」と厳しく批判された。予断となった特捜検察の手法をあらためて見直さざるを得まい。 (東京新聞)
と書いてある。何よりもわかりやすいのは琉球新報の社説で、
小沢判決/検察の「闇」が裁かれた 全面可視化しか道はない
裁かれたのは検察の深い闇だ。そう受け止めざるを得ない。政治資金規正法違反罪で強制起訴された小沢一郎民主党元代表への判決で、東京地裁は無罪を言い渡し、検察の手法を厳しく批判した。 供述を検察が「ねつ造」したことが明らかになったからだ。大阪地検の証拠改ざんもあった。断罪されたのは検察の体質そのものと言える。もはや検察の調書は信頼できない。取り調べを全面可視するほか信頼回復の道はない、と法務当局は認識すべきだ。 今回、「ねつ造」された供述はそのまま検察審査会に送られ、強制起訴の根拠になった。検察審査会の在り方も議論すべきだろう。
証拠改ざんに通底
この裁判の最も重要な瞬間は、小沢氏の弁論などではなく、むしろ田代政弘検事の証人尋問だった。昨年12月の公判で田代検事は、事実と異なる捜査報告書の作成を認めたのだ。 2010年5月、田代氏は元小沢氏秘書の石川知裕衆院議員を再聴取した。その報告書には「あなたは国会議員。やくざの手下が親分を守るようなうそをついてはいけない」と検事に言われたのが効いた、と石川氏が述べ、小沢氏の関与を認めたかのように記した。 だが石川氏はかばんに録音機をしのばせ、隠し録音していた。このため、そのような応答は全くなかったことが証明できた。 田代氏は「過去の供述と記憶が混同した」と弁解したが、あまりに不自然だ。録音されていない「供述」はほかにも数多くある。裁判所が弁解を「にわかに信用できない」と退けたのも当然だ。 取調室は密室である。隠し録音をしていなければ報告書が虚偽だとは証明できなかっただろう。ほかの調書類でも同様の「ねつ造」がないと信用できるだろうか。 検察のストーリーに合わせて事実をねじ曲げた点は、大阪地検の証拠改ざんとも通底する。もはや検察の体質と化していた、と疑わざるを得ない。 検察は取り調べの一部可視化を始めているが、全面可視化は拒んでいる。だが一部可視化は可視化しないのと同じだ。検察に都合のいい部分だけを公開し、ほかは隠しておける仕組みでは、可視化の意味がない。法務当局は、国民の信頼を取り戻したいなら、全面可視化を断行すべきだ。 市民団体は田代検事を虚偽有印公文書作成・同行使罪で告発したが、検察は起訴を見送る方向という。大阪地検の証拠改ざんは最高検が捜査したが、今回は東京地検が担当だ。東京地検の犯罪を東京地検が捜査して、公正と言えるはずがない。最高検か他の地検、警察が捜査すべきではないか。
これらに目を通しながら検察の密室での強圧的、恣意的、意図的なやり方が明らかになった。私は自分の経験に基づき検察がシナリオ・ストーリーに沿って事件を作り上げ、立場の弱い市民の弱みに付け込み調書を取っている事を指摘してきたが、石川知裕代議士が検事とのやり取りをICレコーダーで録音し、これが大きな決め手となった。
検察官が意図的、恣意的に誘導し自分たちの描いた方向に持って行く事が世に知らされたのである。検察官は何時もその様なやり方をして来たのだ。この検察のやり方はいけないと初めて裁判官は断じたのである。今頃気づく司法側にも問題があったと言えるが、大きな前進である。石川代議士の勇気ある行動がこの裁判の決め手となったと言える。
私は、国策捜査は私の時でやめてほしいと願ってきたが、その後も村木事件・小沢事件と続いて来た。本当に国策捜査はもうやめてほしい。そして今回の判決を期に全面可視化を実現してほしいと心から願うものである。
[No.4559] 2012/04/27(Fri) 23:39:48 |