物事には裏表があり、今回”あらし氏”による寺子屋への妨害 にもイイ事がありました。
2年前のNY怒ビンボーさんの投稿記事を改めて読み返す事が出来たのです。
ご存じ無い方もいらっしゃると思いますが、このNY怒ビンボーさんという 方は、長年米国に住んでいる日本人で、以前は、時々この寺子屋に投稿 した下さってました。
ある意味、私にとって”先生”です。 この方の投稿をキッカケにリアルに一歩前に出ることになったのです。
寺子屋に集った7名の女性達が、彼の投稿に触発され、”空の上にいる 小沢一郎氏と地下に存在するネットの支持者を繋げ、地下の支持者は 小沢さんを旗頭に戦おうとしている”と伝えに行こうと計画し実行 したのです。
小沢事務所に押しかけ、綿々と訴える私達女性に向かって、小沢さんは ”それでは私は何をすればいいのですか?”と聞いて下さいました。
それからです。 小沢さんのネット、週刊誌への出演攻勢が始まったのです。
今回、この記事を読みながら、今ならNY怒ビンボーさんの言葉が身に しむように理解出来るような気がします。
NY怒ビンボーさんのツリーをテーマ事まとめてコピーさせて頂こう と思います。
今回はその一回目です。
ぜひ、ご一読頂けたらと思います。
《NY怒ビンボーさん記事【民主主義とは、その原点】》2011/12/26
皆さんは民主主義とは何か考えたことはありますか。
頻繁に使われる言葉ですが、民主主義とは何でしょうか。
多くの方々は、この言葉のオリジンから、私たちの中から代表を選んで、私たちに代わって、 私たちのために政治を行ってもらう、それが民主主義だと思っていらっしゃるのではないで すか。
だから、私たちの代表が私たちの意志を裏切って、ご自分たちのための政治をし始めると、 民主主義の危機などといって怒りをぶつけられるのではないでしょうか。
50年前であれば正解でしょう。 現在でも完全な間違いではありませんが、これは民主主義的政治形態であって、もはや 民主主義そのものではありません。 以前の投稿で言いましたように、言葉の意味は時代とともに変わります。 少し前であればセクハラは人権侵害と考えられませんでした。 また国民から代表が選ばれていても、国内の少数民族を差別弾圧したり、女性と男性が 同じ権利を持たず、それが当然と認識されていれば民主主義国家とは言えません。
今や、民主主義とはフツーの民を重んじる規律規範を言います。
では民を重んじるというのはどういうことなのでしょうか。
アメリカの独立宣言やフランスの人権宣言で、人は平等に創られている、人間は生命、自由、 幸福を追求する権利をもっている、これらの権利は自然権で、人間である限り天から与えら れ生まれながらにして持っているものであり、何人も侵すことができないし、放棄させるこ ともできないと規定しています。
これらの権利は現在の私たちにはあまりにも当然すぎて、それがどうしたのと言いたくなる と思います。 しかし、人権に関する宣言は、人類が誕生して到達した人間とは何かという哲学上の ピナクルなのです。
それ以前の世界は、奴隷といって人間が人の所有物で、所有物でレイプしようが殺そうが罪 に問われることはありませんでした。
身分制度が敷かれ異なった身分だと結婚できないとか、身分が低いので教育を受けられない とか、特定の職業に就けないとか、こういったことが当り前だったわけです。
魔女裁判のように何らかの罪を着せられても、反論する権利も無く、一方的に処刑される ことも多々あったのです。
現在では、大金持ちでも、大統領でも犯罪を犯せば、平等ですから貧乏人と同じように刑務 所に行かねばなりません。
誰も自由で幸福を追求する権利を持っていますから本人の意思で結婚できます。
戦前の日本では、家制度というのがあって、家長の許しが無ければ駆け落ちするしか なかったのです。
会社で大失敗しても社長から責任を取って切腹しろとは言われません。 親といえども子供に暴力を振るうことは許されていません。
子供といえども親の所有物ではないし、人間らしく生きる権利があるからです。
差別的な言葉や侮蔑的な言葉を使用すると、モラルに反するだけでなく人間の平等を否定 することになり、反社会的人物として公の場から退場しなければなりません。
このような基本的人権が民主主義の原点です。
以前、子供がなぜ人を殺したらいけないんですか?と尋ねたとき、有識者がまともに答えら れなかったという逸話を聞いたことがあります。
民主主義の原点を正しく認識し、基本的人権を意識していれば答えは簡単でした。
このように、ほとんどの方々は、基本的人権が民主主義が原点とはっきり認識できていない のです。
自民党の女性議員のブログを覗くと、民主主義の原点は選挙だそうです。 アウトです。
民主主義を議会制民主主義に限定しても、選挙はその政治形態を機能させる手段で、その 原点ではありません。
その原点は基本的人権に基づく参政権があることです。
国民一人一人に選挙権と被選挙権があり、表現の自由に基づいて、候補者は主張や意見を 自由に表明できる、国民はその主張と意見を知る権利が保障されていることです。
おそらくこの方は、物事を印象でしか捉えられないのでしょう。 物事の本質を原理原則に基づいて思考する能力が欠けているのです。
前回の総裁選挙に立候補したマブチ議員は,民主主義の原点は議論だそうです。 これも外れです。
この方は横浜国大卒で学力はあるのでしょうが、やはり物事を印象でしか捉えていません。 議論は結構ですが、何を基準として主張や意見を評価するのでしょうか。 損得ですか。 基本的人権ではありませんか。
民主主義の原点は多数決という人もいます。 では民主主社会は多数決ですべてが決められるのでしょうか。 そうではありません。 結婚相手を家族の多数決で否決できないように、生命、自由、幸福を追求する人権を侵す ようなことは多数決で決めてはいけないのです。
原発の存続廃止を国民投票で決めようという方もいらっしゃいます。
気持ちがわからないわけではありませんが、これははっきり言えば、無知による反民主的主張です。
国民の生命、自由、幸福を追求する人権を多数決で決定してはいけないからです。
機械や装置は必ず壊れるわけですが、一旦事故が起きれば、一瞬にして国民の基本的人権を ほぼ永久的に奪う原発はもともと反民主的なもので、その存在を許されるべきものではない からです。
民主主義社会というのは政治のみならず、人権に基づいた社会体制を言います。
では国家とは何なんでしょうか。
一定地域に住み自由に平等に生きている人たちが、バラバラに生活していたのでは統制が取 れず混乱が生じる、それでは困るから民主主義に基づいた社会体制を築き、この社会体制を 機能させる人たちを決め雇い、強制する力(権力)を与え、民主主義に基づく統治がなされ る組織を国家としています。
少なくともこれが近代国家の成り立ちです。
では憲法とは何でしょうか。 憲法とは国家を統治する権力者と、統治される国民との約束ごとです。
日本国憲法は、フランス人権宣言の影響を強く受けて、統治者は日本国民は自由で平等で、 人間らしく生きる権利を有していると約束し、この基本的人権が損なわれないよう、国民は 不断の努力をしなければいけないと義務を課しています。
不断の努力とは、権利を委ねた統治者に対する抵抗権を言っているのです。
民主主義国家で統治者が自分勝手な支配をするならば、国民は統治者を、それ以外に方法が 無いなら、暴力をもってしても、打倒する権利を有するという抵抗権に疑問をはさむ学者、 知識人は先ずいません。
「政府が人民の諸権利を侵害するとき、蜂起は人民にとってもっとも神聖な権利であり、も っとも不可欠な義務でもある」と200年以上前にフランス人権宣言で抵抗権を人民の権利で もあり義務でもあると規定しています。
国家と国民との契約が破られ、憲法で保障された人権が損なわれるとき、民主主義だから暴力は イカンというのは民主主義を理解していない人の言葉です。
私は非暴力主義ですが、国家が国民を弾圧するとき、それ以外に方法が無いと判断したなら、 民主主義だからなどという理由で、物理的な力で対抗することに躊躇いがあってはならない と思います。
民主主義国家では、フツーの民を重んじ守るための基本的人権を原点原則として法律が制定 され、さまざまな組織や制度やシステムが運営さていなければなりません。
企業、学校、官庁、団体、政治制度、経済制度、教育制度、官僚制度、裁判制度、警察制度、 金融システム、交通システムなどが、民主主義に基づいて運営されていなければ民主主義国 家とは言えないのです。
企業派遣社員制度は反民主主義的なものですし、遠隔地の郵便局が民営化によって廃止され たリ、公共交通の足を失うのも極めて反民主主義的なものです。
高級官僚が地位を利用してノーパンシャブシャブ接待を受け銀行に便宜を計るのは反民主主 義的なお付き合いであり、国が原発災害で危機的な状況でも、その責任者の一人はカラオケ で部下と不倫行為に耽っていたのは反民主主義的性行為であり、オリンパスのコンプライア ンス違反を申告した社員が窓際族に追いやられたのは反民主的報復です。
さて、このような反民主主義的政策や行為に対して、不断の努力をして国民の義務を果たし ている人がどれだけいるでしょうか。
毎年、生活苦から3万人以上の自殺者を出し、生きる権利がないがしろにされるとき、 「政府はケシカラン」、「小沢だ!」と言うだけでは、小沢さん言うところのブツクサ文句 ばかり言ってなんです。
[No.5589] 2013/09/13(Fri) 19:37:10 |