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@求められる、市民の力量 鷲田 清一 (親記事) - えいこ

(10月11日 東京新聞 夕刊)

鷲田 清一 (わしだ・きよかず=哲学者・大谷大教授)

「教養」が、<型>をもたなくなったこと、いいかえると、身体の作法をともなわなくなった

ということがある。行為をつうじての自己形成というよりも、読書をつうじて

広く知識を習得し、歴史・文化について、それらを見る目を養うことがめざされた。

 こうした「教養」の観念は、「政治的教養というものを、含むことなく、むしろ

意識的に、政治的なものを外面的なものとして、除外して」おり、

福沢諭吉らに代表される、明治期の啓蒙(けいもう)思想への反動としてあったとは、

昭和十六年の、三木清の指摘である。こうした文化への偏重は、

経営や技術など、実学的な知識の、密やかな侮蔑にもつながっていた。

 たしかに 多くの知識をもつことは、ものごとを広い視野でとらえるに

必要なことであろうが、もっと重要なのは、それらを、社会運営のなかで 組み立て、使いこなして

ゆく、「わざ」である。


[No.5639] 2013/10/14(Mon) 11:26:21
A求められる、市民の力量 鷲田 清一 (No.5639への返信 / 1階層) - えいこ

> (10月11日 東京新聞 夕刊)
>
> 鷲田 清一 (わしだ・きよかず=哲学者・大谷大教授)
>

武士や、上層商人としての「素養」」(たしなみ)ではなく、文化人のための「教養」でもなく、

市民社会の「主(あるじ)」としての、市民のなにがしかの力量が、いま、「教養」の代わりに

求められているのだと思う。

 個々の市民が、行政、企業から提供される、流通、医療、教育、福祉などの、サービスの消費者

に甘んじるのではなく、直面している社会課題の解決を、専門家にそっくりまかせるのでもなく。

他の市民とともに、社会運営の一部を、分かちもつ力量を形成すること。

これが現在、教育の軸にあらためて据えられるべきだというのが、

福島原発事の痛い教訓だったはずだ。


[No.5640] 2013/10/14(Mon) 11:35:12
B求められる、市民の力量 鷲田 清一 (No.5640への返信 / 2階層) - えいこ

> > (10月11日 東京新聞 夕刊)
> >
> > 鷲田 清一 (わしだ・きよかず=哲学者・大谷大教授)
> >

教育は、子どもたちが、何十年にもわたって生きながらえてゆく、支えになるべき知恵と、

「わざ」を伝えるためにある。

これまで何千年という、時を経て生き延び、伝えられてきた 思想や、宗教や、習俗を

参照する必要がある。

そのことだけからも、教育というのがとてつもなく大きな、時間地平のなかで

設計されるべきものであることが知れる。


[No.5641] 2013/10/14(Mon) 11:40:49


   @求められる、市民の力量 鷲田 清一 - えいこ - 2013/10/14(Mon) 11:26:21 [No.5639]
A求められる、市民の力量 鷲田 清一 - えいこ - 2013/10/14(Mon) 11:35:12 [No.5640]
B求められる、市民の力量 鷲田 清一 - えいこ - 2013/10/14(Mon) 11:40:49 [No.5641]




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