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記事No.10374に関するスレッドです

ちひろ氏の日本人の価値観、、性と言うべきかも? / 野口純 [ ]
Chihiro Sato-Schuhさんより 
2023年1月3日 
【どっちが偉いのかで支配する】
この3年間、人々がどのような巧妙なやり方で支配されているのかを、とことん見せられてきた。恐怖を掻き立てるイメージをメディアで流して、人をパニックに陥らせると、多くの人はそこで差し出された解決法に、考えもなく従ってしまう。この心理メカニズムを使えば、自分の身を犠牲にするようなことまで、自分からするように仕向けてしまうことができるのだ。そして、こうした手法を、メディアや政府が、思うままに大衆を操作するために使っていることがわかった。
ところで、私たち人間には、本当は誰にでも状況を正しく見通して、正しく反応する能力がある。パニック状態のときでも、何が何だかわからないまま、ちゃんと脱出口へまっすぐに向かっていたりする。それは、頭で考えるとか、情報を処理するとか、そういうレベルのものでさえない。導かれたとしか思えないようなことなのだけれど、それは私たち自身が内に持っている知覚であり、宇宙意識とかハイヤーセルフとか言われるものだ。
古代の人たちは、こうした宇宙意識を当たり前に持っていて、だから植物や動物と話したりするのも普通にできたし、たがいにテレパシー的に交流することもできたらしい。地中の水脈や鉱脈を感じ取ったり、天候を動かしたり、巨大な岩を動かしたりすることもできた。こうしたことは、アボリジニみたいに自然とともに暮らす人々なら今でもできるし、そういう人たちと何ヶ月か一緒に暮らしていたら、誰でもできるようになってしまったりするらしい。
支配者は、つねにこの力を封じ込めようとしてきた。そして、人々が自分で判断するのではなく、支配者に従うように仕向けてきたのだ。政治支配に宗教が利用されてきたのは、まさにそのためだったとも言える。
アフリカや南米を植民地支配しようとしたヨーロッパ人が、まず初めにやったことは、原住民をキリスト教に改宗させることだった。人々に、自分で考えることなどは低いことでしかなく、キリスト教が教えていることこそは正しいことなのだと思わせて、それに従わせたのだ。そうやって、もともと現実の状況を正しく見て、正しく反応できていた人たちが、その力を自ら封じ込めてしまうことになったわけだ。
いかにして、自分はバカだと相手に思わせるかが、支配のカギなのだと思う。それで、複雑な論理を延々と語ったり、相手が知らない難しい言葉を連発したりする。そして、こういうことを理解できるのが当たり前の人間だみたいに思わせたり、こんなことも知らないなんてバカなんじゃないかとほのめかしたりする。これは、詐欺師もよく使う手だ。しかし、この3年くらいは、主流メディアや政治家、買収されているらしい専門家たちも、まったく同じものの言い方をしていた。SNSに出回っていた情報工作員たちも、だいたいこういう手を使っていた。いかにも事情に通じているかのように、あれこれと難しい話をして、こんなこともわからないのなら、自分で判断する力などないと思い込むように仕向けるのだ。
古代ギリシャでは、弁論術で相手を言い負かした方が支配していた。だから、詭弁を使って、相手の思考を誤誘導し、感情に訴えかけて、あることが正しいと思い込ませるようなことが、さかんに行われていた。要するに、どっちが偉いのかを、詭弁で争っていたのだ。
そこで、詭弁で語ってくる相手に向かって、「それは本当にそうなのか?」「それは本当にいいことなのか?」と問いかけていくことで戦っていたのが、ソクラテスだった。彼は、相手の論理のどこにごまかしがあるのかを見抜いていて、それをそのまま暴くのではなく、質問して相手に考えさせたのだ。
詭弁を使って語ってくる相手も、騙そうとしていたわけではなくて、そうした社会に生きていて、自分の感覚から離れてしまっていたのだと思う。そういう相手に対しては、これは違うと説得するよりも、本当にそうなのかを自分で考えさせた方がいい。それでソクラテスは、相手が実は自分で考えていなかったことに気づくまで、問い続けていたのだ。
古代ギリシャにかぎらず、私たちはつねに、本質から離れて、どっちが偉いのかで争っているようなところがある。話し合うというのは、もともとは違う見解を知るためにすることだと思うのだけれど、見解が違うとなると、「バカなのは自分なのか、相手なのか?」みたいな争うモードになっていたりする。政治論議ならば、自分の政党とか自分の派閥とかの方が正しいということを、相手に認めさせるために言い合うことになり、宗教論議では、自分の宗派の論理を語るばかりだ。どちらも、権威の人が言ったことを言っているだけで、自分の考えで語っているわけではない。
それで、自分が権威としている人物が、どういう地位についているとか、どういう賞をもらったとか、何億円稼いだとか、あるいは空中浮遊ができるとか、手から物を出せるとか、そういうことを言い合って、どっちが偉いのかを争っていたりする。こういう人が言っているのだから、これが正しい、という話なのだ。本当に正しいのかどうか、自分で考えているわけじゃないし、わかっているわけでもない。
実のところ、ある意味どうでもいいようなそういう話で、意識を本質から逸らされていることがとても多いと思う。そして、そうやって本質から意識を逸らされるたびに、私たちは自分の健康な思考力や宇宙意識を封じ込めて、誰かの論理に自分を従わせてしまうのだ。
この二千年ほどの歴史の中で、人類は絶えず自分が偉い方になろうとして、ありとある奇妙な努力をしてきたのかもしれない。覚醒者と呼ばれるようになりたいからと、空中浮遊ができるように修行を積んだり、賢い人だと言われたくて、難解な専門用語が並んでいる複雑な論理を覚えたり、といったことをだ。そういうことが、意義のあること、価値のあることだと思えていたのだけれど、結局のところ、そうしたことこそが、私たちの内なる知覚、すべてを正確に見通せる能力を封じ込めてきたのかもしれない。
状況を正確に見通して判断する能力、宇宙意識といったものは、頭頂チャクラだとかサードアイチャクラだとか言われるのだけれど、この封じ込めは、頭の真ん中のところ、松果体のあたりにあるらしい。ちょうど頭骨と背骨が繋がっているところ、頭の後ろの頭骨の下にあるくぼみのところに、オルタ・メジャー・チャクラというあまり知られていないチャクラがあるという話を、今日聞いたところなのだけれど、どうもこのチャクラが宇宙意識の封じ込めの中心になっているような気がした。
オルタ・メジャー・チャクラは、脳と脊髄が繋がっているところで、だから頭と身体を繋ぐ神経ネットワークの要なのだ。蛇はここをつかまれると動きが取れなくなる。いわゆる「首根っこをつかまえる」ような状態が、オルタ・メジャー・チャクラを封じ込めることでできてしまうのかもしれない。
頭と身体を切り離してしまうこと。まさにこれが、支配のために利用された宗教がやってきたことだ。身体的な欲求が悪いことだとして罪の意識を感じさせ、頭と身体を切り離してしまった。しかし、身体の欲求というのは、生きていくために必要なものなのだから、これを抑圧しようとしたら、延々と自分と戦い続けることになり、罪の意識を感じ続けることになる。そうやって、人からあらゆる自尊心を失わせ、自分が愚かな罪深い人間だと思わせて、自分で考える力を奪ってしまったのだ。
それで、オルタ・メジャー・チャクラを意識して解放してみると、今まで、こういうのが偉いとか高いとか言われるようなことのために、いかに多くの力と時間とを使ってきたのかということが、ヒリヒリした感触とともに湧き上がってきた。私たちは、つねに上へ上へと駆り立てられ、それが成長であり進化であるように思い込んできたのだ。だけど、それは遥か高みにある虚像に惑わされて、自分から離れていったことに他ならなかった。そのことが、ヒリヒリした感触とともに感じられた。
ルネサンスは、中世の世界を支配していたキリスト教会の縛りから、人間らしい感覚を取り戻そうとすることから始まった。締めつけられていた時代があれば、その次には必ず解放されて元の姿を取り戻す時代があるのだ。多くの人が、自分を破壊するようなことになっていることにも気がつかなくなるほどに、自分の感覚と切り離されてしまった今、私たちはついに私たちの本当の姿、本当の力を思い出そうとしているのかもしれない。
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画像は、地球の頭頂チャクラと言われるチベットのカイラ

No.10374 - 2023/01/04(Wed) 14:06:57

Re: ちひろ氏の日本人の価値観、、性と言うべきかも? / 野口純 [ ]
Chihiro Sato-Schuh
2日 ·
【思考力を取り戻すときがきた】
この3年ほどで、情報操作が何より大きな支配の手段だったことがよくわかった。存在していない危険が迫っているように見せかけたり、危険なものがいいものであるように思わせたりするのには、メディアを買収して操作すればよかったのだ。そして、それでもSNSを通して漏れてくる情報は、アルゴリズムを使って徹底的に排除していた。ファクトチェッカーという奇妙な組織が現れて、何が正しくて何が間違いなのかを、一方的に判定したりもしていた。これは、専門知識を持ったチームではなくて、人々に知られたくない事実を、もっともらしい理屈をつけて否定するために、お金をもらっている組織だった。このファクトチェッカーに資金を出している財団は、メディアを買収している財団と同じだ。そうやって、いくつもの「独立団体」が同じことを言っているかのように見せかけていたわけなのだ。
しかし、そういった操作された情報は、明らかに現実と違っていたり、筋が通っていなかったりする。言われていることと、現実に起こることとを比べれば、言われていることが正しくないことは、けっこう容易にわかったりする。ところが、多くの人はこのことに気がつかないのだ。それはまるで、思考力が何かの操作でブロックされているように見える。
目の前に見て、すぐにはっきりとわかるようなことでも、およそ3/4の人間は、まわりの人が皆同じことを言っていたら、人の言うことの方を信じてしまうのだそうだ。自分が見ているものの方が間違っていると思い込んでしまう。情報を操作している人たちは、まさにこの状況を作り出すために、複数のメディア、複数の研究機関、複数の審査機関に、同じことを言わせている。
しかしそのとき、自分に見えている事実の方を自分で否定してしまうわけだから、自分で自分の思考力をブロックしてしまうことになる。皆が言っていることの方が真実だとしておけば、変人だとか、頭が悪いと思われたりしなくてすむ。それで、生き延びるための手段として、自分の認識の方を修正するという心理メカニズムが働くことになる。
3/4の人が皆が言うことの方を信じてしまうというこの数字が、世界中どこでもそうなのかどうかはわからない。こういう心理防衛機能が作動するには、それまでにそれなりの下地があるはずだと思うからだ。答えがたった一つしかないかのように、何が「正しい」のかを覚えさせられる学校教育を受けてきた現代人は、すでにこの下地ができていることになる。「これが正しい」と言われていることを答えなかったら、合格点をもらえず、劣等生扱いされるというトラウマを経験しているからだ。
ある意味とても奇妙なことなのだけれど、自分が言っていること、信じていることを、現実に照らし合わせている人は、実はかなり少なかったりする。現実に照らし合わせることを自分でしていない人は、誰かが言ったことを信じているわけなのだけれど、それを信じるに当たって、自分には知識がないからとか、独自の判断をするだけの思考力がないからとか思っている。
ウクライナの戦争が始まった頃、西側のメディアがいっせいに虚偽の報道を始めていて、それについて現地からの情報を書いていたら、繋がってもいなかった人たちが何人もスレッドにやってきて、それは違うと書き込んできた。皆同じような論理を使っていたから、コメント一件いくらで雇われている情報工作員なのは一目瞭然だった。この人たちは、大昔の歴史の話を延々と書いて、こういうことを知らないのでは、この戦争について語る資格はないみたいな言い方をしてきていた。たとえ歴史的にいって、どこの土地がどこの民族のものであると言えるにしても、だからといって、そこに住んでいる人たちを攻撃してもいいということにはならない。だけど、延々と自分がくわしくない領域の話をされると、自分にはわからないけれど、その通りなのだろうと、多くの人は思ってしまうのだと思う。その効果を利用して、情報工作員たちに、直接には関係のない複雑な話を延々と書き込ませるのだ。
そういうやり方から見ても、何とかして人を思考停止状態に追い込んで、誰かが言ったことを鵜呑みに信じるようにさせたいのだ。これは情報工作員にかぎったことではなく、学校教育がすでにそうだ。資格を取るための講習でもそうだし、学術界でもそうだし、スピリチュアルな領域でもそうだ。
論理や現実とは関係なく、言われた通りに信じることを、「宗教みたいだ」とかよく言うのだけれど、宗教だって、そもそもはそんな風に、言われたままに信じればいいといったものではなかった。それは、宗教が大衆操作に使われるようになったからのことにすぎない。宗教とは、もともとは意識の領域を扱う教えなわけなので、信じる信じないの問題ではなく、善悪の問題でもない。それは、意識を変えることで現実を変えるメソッドだと言ってもいい。だから、実のところは何が正しいか正しくないかとかいう問題でさえなく、効果があるのかないのかということに尽きると私は思う。効果が出ないのなら、やり方が間違っているのか、教えが間違っているのかのどちらかだ。そこを見極めるのに、私たちは思考力というものを持っている。だから、本当は誰でも確かめられるようなことなのだけれど、それが権威を信じるようなことにすり替えられている。
知識というものは本来、効果と照らし合わせて評価するべきものだと思う。その知識を使ってうまく行ったのなら、それは使える知識だ。それによって健康になれたとか、壊れたものを直せたとか、人との関係がよくなったとか、紛争を回避できたとか、そういう効果があってこそ、知識というものは有効だ。だけど多くの人は、こうした見地からいって何の役にも立たない知識を、知り尽くしていないといけないみたいに思い込まされているのだ。それで、そういうあれこれのことを知らないから、自分には判断する能力がないとか、その資格がないとか思ってしまう。しかし、私たちがそう思い込むことこそを、情報操作する人々は狙っている。そうなれば、どんなあからさまな嘘だろうと、信じさせてしまうことができるからだ。
多くの場合、私たちは知識や思考力に関しては、ものすごい遠回りをさせられていると思っていいと思う。学校でも大学でも、ものすごい量の必要のない知識を覚えさせられている。私たちはそれが勉強であり、それができるのが頭のいい人だと思い込まされている。しかし、その「頭のいい人」とはほとんどが思考停止状態になっていて、知っている知識と現実とを照らし合わせることができない。
思考力とは、本当は誰もが持っている力なのだ。それは難しい論理とか知識を持っていることではなく、現実と照らし合わせて判断するというような、ごく日常的なリアルな手触りを持っているものだ。意味のない無味乾燥な知識によって、私たちの思考力はすっかり鈍磨してしまったのだけれど、この能力はいつでも取り戻すことができると私は思う。そして、その力を取り戻すことが、古い世界を終わりにして、新しい世界を作ることになるのだ。その時がいよいよ来たのじゃないかと、私は思っている。
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No.10375 - 2023/01/04(Wed) 17:09:56