| 思うたびに 涙溢れ
喪主 中村健さん 最初に申し上げたいのは、父を守るために亡くなられたアフガニスタンの運転手の方・警備の方そして残されたご家族・ご親族の方々への追悼の想いです。申し訳ない気持ちでいっぱいです。悔やんでも悔やみきれません。父ももし今この場にいたらきっとそのように思っているはずです。家族を代表し心よりお悔やみを申し上げます。 私たち家族は今回の訃報に大きなショックと深い悲しみに苛(さいな)まれました。しかし、多くの方々がともに悲しんで下さり、私たち家族へ多くの激励の言葉をかけて下さっています。本当に救われています。 上皇様ご夫妻からのご弔意の賜りをはじめ、いつもそばで父を支えてともに活動して下さり、これからも継続の意向を示してくださっているペシャワール会の皆様、アフガニスタン国での父の活動に賛同しご支援をいただいている大統領をはじめ政府関係の皆様、同じくアフガニスタン国の大変な環境にある作業現場の中で父とともに活動をしていただいているアフガニスタン国の国民の皆様、父の活動にご賛同いただきご支援をいただいている日本の皆様、そして今回の訃報から父を遠い異国に迎えに行くにあたり早急にそして最短の移動スケジュールでいけるようにご配慮していただき、宿泊先まで手配していただいた外務省・大使館・政府関係の職員の皆様、どんなに感謝しても足りません。父が今までもそして命がなくなってもなおアフガニスタンで活動ができるのも偏(ひとえ)に皆様のご賛同・ご協力のおかげとしかいえません。 また今回の事件で警察、航空会社、葬儀会社、保険会社に関わる皆様にはいつも私たち家族の気持ち・立場に立っていただいています。そして24時間、どんな時でも真摯(しんし)な対応をしていただいています。私たち家族は、皆様のおかげで不安・悲しみの気持ちから本当に守られています。感謝しています。 生前、父は山、川、植物、昆虫、動物をこの上なく愛する人でした。家ではいつも庭の手入れをしていました。私が子供の頃はよく一緒に山登りに連れていってもらいました。遊びに行くときは「できればみんなで行こうよ」、「みんなで行った方が楽しいよ」ということを言っていました。みんなと楽しみたいという考えの人でした。 また父がアフガニスタンへ旅立つとき、私と2人きりで話す場面ではいつも「お母さんをよろしく」「家をたのんだ」「まあ何でも一生懸命やったらいいよ」と言っていました。その言葉に、父の家族への気遣い・思いを感じていました。 今、思い返すと、父自身も余裕がない時もきっとあったはずです。いつも頭のどこかで家族のことを思ってくれている父でした。父の、自分のことよりも人を思う性格・どんなときも本質をみるという考えから出ていた言葉だったと思います。その言葉どおり背中でみせてくれていました。 私自身が父から学んだことは、家族はもちろん人の思いを大切にすること、物事において本当に必要なことを見極めること、そして必要なことは一生懸命行うということです。この先の人生において自分が幾つになっても父から学んだことをいつも心に残し、生きていきたいと思います。 最後に親族を代表致しまして皆々様からの父と私たち家族へのご厚情に深く感謝いたします。 親族代表 故人・長男 中村健 *
中村哲さんにお別れ、故郷の福岡
アフガニスタンで4日に凶弾に倒れた福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」現地代表の医師中村哲さん(73)の告別式が11日午後、福岡市中央区の斎場で営まれた。戦乱や干ばつで荒廃したパキスタンやアフガンで、多くの市民とともに人道・復興支援の歩みを進めた中村さん。その死を悼んで泣きはらす人や、涙を拭って志の継承を誓う人など大勢の人々が訪れ、白い花を手向けた。家族と同会による合同葬で、喪主は長男健さん(36)、葬儀委員長を同会の村上優会長(70)が務めた。
祭壇には、数年前に現地で撮影された中村さんの遺影が白い菊の花に囲まれて飾られ、遺体を安置した棺にはアフガニスタンの国旗がかけられていた。中村さんとともに殉職した警備担当者や運転手らアフガン人の遺影も飾られた。会場の壁や入り口付近には、女優の黒柳徹子さんや歌手の加藤登紀子さん、俳優の故菅原文太さんの妻をはじめ、各界から届いた100基を超す供花が並んだ。同会は、参列者からの香典の全額をアフガン復興事業に充てるという。 村上会長は追悼の辞で「先生は、苦難について私たちに語ることは少なく、いつも前を向いて淡々と歩まれました」と霊前に呼びかけ、「中村哲先生の意志を守り事業継続に全力を挙げます」と誓った。中村さんの長男、健さんは親族代表のあいさつで、「20歳のころはよく叱られました。父は『行動しか信じない』とよく言っていました。行動で示していきます」と述べた。 式は午後1時に始まり、参列者が1分間の黙とうを捧げたあと、女優の吉永小百合さんのナレーションで中村さんの人となりを振り返る約10分間の映像を上映。バシール・モハバット駐日アフガン大使、九州大で同級生だった久保千春同大学長、福岡高や西南学院中の同級生、中村さんが洗礼を受けた際の牧師の藤井健児さん、親族の玉井史太郎さんの計6人が弔辞を述べた。会場では、参列者が涙をすする音がやまなかった。 上皇さまと上皇后さま、秋篠宮ご夫妻からは弔意が寄せられた。玉城デニー沖縄県知事、日本医師会(日医)の横倉義武会長、鈴鹿光次・在アフガン特命全権大使からの弔電も読み上げられた。
中村さんは1946年、福岡市生まれ。福岡高、九州大医学部卒。84年5月に現地で医療活動を開始し、アフガン、パキスタン両国に病院や診療所を開設。アフガンで2000年に大干ばつが発生してからは、水源確保のため井戸の掘削や復旧、農業用水のかんがい事業にも取り組んだ。 03年に「アジアのノーベル賞」と呼ばれるマグサイサイ賞を受賞。18年にはアフガン政府から勲章を授与され、今年10月には同政府から名誉市民権(市民証)を授与された。 中村さんは今月4日、アフガン東部ナンガルハル州ジャララバードの宿舎から、かんがい作業の現場に車で向かう途中に襲撃された。 (西日本新聞12月11日)
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No.8343 - 2019/12/12(Thu) 10:18:46
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