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陽光子の統一真光BBS

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一の木神 / 第25期訓練生
神霊正典より神界での出来事を書き示した
部分を一部抜粋して以下に示します。

「大地将軍」の仇を奉ぜんと、大挙して「
天照彦大神」の軍に対して攻撃を開始せり
。此の時、「八百八光神」の神将の中に、
「一の木神・・大地将軍分霊」と云う神あ
り。部下の諸神霊を率い「天照彦大神)の
「八百幡神」の軍に奮然と斬り込み行きて
遂に討死せり。
扨て、此の「一の木神」の霊は、其後幾多
に分裂して、人間界の身魂として出現せり
。然るに、此の神の身魂を受けて現れし人
間は其の根源の身魂神たる「一の木神」の
経歴を踏んで、悉く天命を全うする事を得
ず。此の事は人間の身魂がその元の神霊の
性来・因縁を踏襲する事実の顕著なる一例
なり。例示すれば、中世に於ける平景清、
近世に於ける佐倉宗五郎、大石良雄、赤垣
源蔵、佐野次郎左衛門、また西郷隆盛、僧
月照、乃木希典等の人々は此の「一の木神
」の身魂を受けし人々なり。此の真理はあ
らゆる所に実現せられ居るものにして、吾
人の身魂は、神界の神霊の個性・行為に支
配され、それと大同小異の型を現出するこ
とは、全く争ふ能わざる事実なり。

以上の内容は簡潔に言えば自身の魂の親神
様の個性や親神様の神界での出来事を私達
一人一人がこの世にて踏襲するという事実
です。

神界での覇権争い

国万造主大神「国常立大神、艮金神」
       VS
盤古大神「天照彦大神、天若彦大神」

で生じた国万造主大神のご引退(追放)
の三次元現界での現れの一つが岩屋梓梁の
追放、歴史上からの抹殺という事実に繋が
ったと私自身は考えております。

話は前後しますが
国万造主大神の分霊神が大地将軍であり、
大地将軍の分霊神が一の木神です。
国万造主大神=大地将軍=一の木神

西郷隆盛は朝鮮に残る岩屋梓梁の足跡調査
をするつもりであったのですが、反対勢力
の陰謀により征韓論なるでっち上げをされ
西南の役にて没する事となります。
まさに、魂論から見ますと志半ばで倒れた
一の木神の性来、因縁を引き継いだものと
思われます。

No.369 - 2013/07/06(Sat) 15:28:43

(No Subject) / 窪田兼清 [関東]
真光と岩屋梓梁顕彰研究?A/窪田兼清

岩屋梓梁のプロフィールの中で
岩屋梓梁の生年月日が誤記されていました。
明応6年は1497年でした、謹んで訂正致します。

No.368 - 2013/07/06(Sat) 10:06:06

真光と岩屋梓梁研究顕彰?A / 窪田兼清 [関東]
真光と岩屋梓梁研究顕彰?A 窪田兼清
一顧だにされなかと思いきや、25期訓練生殿からのお言葉を見て、勇気百倍、ガンガン30数年の思いのたけをを吐き出します。
昭和52年9月16日福岡の松本英一参議院議員のご招待を受け福岡に行き、帰ってから頂いた「易断政府を樹立した岩屋梓梁」を一気に再読、三読した後のある日、急に窪田志一先生のお会いしたくなり、矢も盾もたまらず、とるものとりあえず、渋谷のご自宅をいきなり訪問しました。
快くマンションの一室に招じて頂きました。山ほどの質問事項がありましたが、第一にお聞きした事は
「桃太郎の鬼退治話」の鬼は岩屋梓梁の事ですかと言う質問でした。先生のお答えはYESでした。その詳細は以下は口伝です。それは

永正13年(丙子・ヒノエネ)
岩屋梓梁20歳
3月24日岡山連島の人・三宅和泉守国秀、室町幕府の許可を得たと言い12隻の船にて琉球を征服せんとして薩摩坊津港に停泊中、丁度、6月1日、鹿児島に帰省していた梓梁が激怒、襲撃し壊滅した。のち岩屋梓梁は琉球から中国本土回遊す。

永正14年(丁丑・ヒノトウシ)
岩屋梓梁21歳
瀬戸内海の制海権を巡って、易断党と岡山三宅党と抗争した。瀬戸内海を隔てて梓梁は丸亀に本陣を置き、本陣に見せかけた坂出市沖の沙弥島(しゃみじま・現在地続き)に前線基地を置いた。三宅軍は一気に沙弥島を本陣と思い攻めている間に梓梁は岡山を攻め制圧した。のち徳川氏により勝った梓梁は鬼とされ、桃の産地の岡山の負けた三宅氏が桃太郎となり「桃太郎の鬼退治」伝説に歪曲された。「鬼の城址」(戦後、岩屋梓梁は「岩の神城」と名付けて一大神域を造る。後年、徳川氏により破壊改称さる)は最終決戦の場所である。

ここに書いてる資料の総ては真方衆(まがたんし)窪田本家に伝承された「かたいぐち記」「異端記」からと窪田志一先生の遺された書籍
「易断政府を樹立した岩屋梓梁」「西郷征韓論は無かった」及び遺稿集「岩屋天狗と千年王国」上下巻、八幡書店発行絶版と私への口伝からです。

窪田志一先生の言われるに岩屋梓梁抹殺の手段として徳川幕府は2月3日の「豆まき鬼遣らい」と「桃太郎の鬼退治」がでっち上げられたのです。
無学文盲の私はこの9月24日が「西?ク隆盛百年祭」記念すべき日であったとは露知らなかったのです。窪田志一先生がご自宅のテレビを横目で見ながら私と話しておられるのでこの番組はとお聞きすると「西?ク隆盛百年祭」だと聞かされびっくりしました。
この尊い日に何かに誘われる様にご自宅を訪問し、弟子にさせて頂きました。この日より私の人生は良くも悪くも一変しました。
歴史学者の毛利敏彦、松浦玲氏等は西?ク没後100年を閲して真の西?ク研究が始まると言われているのが印象的である。
私達の頭はすっかり「歴史迷信」に汚染され、正神を鬼として東北に追放したというご教示を頂きながら、鬼退治の鬼は悪い鬼だと思わさられておるのです。
この桃太郎話は初めて公開です。
時あたかも崇教真光の中で某氏が言い出したらしいのですが、救い主様の前世は桃太郎だとか、信長だとかいう説が澎湃として流れてきました。
どちらも御神意とは真逆です。知らず知らずに御神意に反逆しているのです。恐ろしいことです。
鬼は実は王仁(オニ)なのです。王仁をひっくり返せば仁王様すなわち金剛力士です。
寺社の門前に佇立する仁王様は実は岩屋梓梁の姿です。

岩屋梓梁のプロフィール
弥次郎は明応6年(1997年〜1556年)正月、薩摩国伊集院神殿に生まれ、俗称を橋口弥次郎左右衛門兼清、僧名を岩屋梓梁と言ったが背丈十尺(約3メートル)容貌魁偉、頭上右?に 約3寸(約9センチ)の肉腫(角・ツノ・チョン)がおったっていたため、当時の民衆から「岩屋天狗」と異称された。
永正年代末期(1520年代)時の室町幕府を倒して神仏習合、祭政一致の易断教団政府を樹立し、古事記等多くの古典を書いて易断政治の思想的根拠を固め、又、秀吉、家康等多くの英傑を子として残した。
ヤジローは天文18年(1549年)8月、印度のゴアから、宣教師フランシコ・ザビエルを鹿児島に案内してきたが、二人は、翌々年、周防山口に於いて大宗論し、論破されたザビエルは印度へ帰って亡くなってしまったのである。
ところが、ザビエルが宗論に於いて敗退したことに復讐すべき執念をもって、永禄6年(1563年、弥次郎死後7年後)来日した宣教師ルイス・フロイス等は織田信長をそそのかし、多くの武器、弾薬(硝石)商戦艦隊(信長の鉄鋼艦隊と言われている)を提供して、それまで50余年間続いた大阪石姫山(いわひめやま)に籠もる易断政府(現在石山本願寺の一向一揆として歪曲されている)を討滅せしめ、あまつさえ、信長、秀吉、家康等に「岩屋梓梁は日本人ではない、蛮異人だ」「日本歴史は波斯人(アラブ人)が書いたものだ」などと高言追求して、遂に、武将たちをして、岩屋梓梁と易断政府の存在を歴史から抹殺せしめるにいたったのである。
こうして、徳川幕府は、岩屋梓梁の存在を知っている宣教師達を日本から追放、切支丹を禁止して鎖国政策を採り、易断党(エタ党とも呼ばれた、易断政府に参画して政治を執行した神官僧侶、惣、座、学問芸能等の支配者群)の人々を全国一萬ケ所の特殊地域(被差別部落・平家の落人部落・鬼の末流・サンカ等)に居住せしめ弾圧した。
大多数の易断党部落は穢多(エタ)エッタと卑称されている。
以上が岩屋梓梁の略歴である。もっと詳しい略年譜を今後発表して参ります。

No.367 - 2013/07/04(Thu) 06:19:29

窪田兼清様 / 第25期訓練生
ご自身の体験に基づきます岩屋梓梁の貴重
な書き込み有り難うございました。
私も含め、この掲示板をロムしてる多くの
方々も真実の歴史とは何かを希求している
ものと思います。
窪田様による岩屋梓梁顕彰今後とも、よろ
しくお願い致します。

No.366 - 2013/06/26(Wed) 19:44:37

Re: 岩屋梓梁 (橋口弥次郎左衛門兼清)?B / 窪田兼清 [関東]
真光と岩屋梓梁研究顕彰?@
「陽光子の真光統一BBS」を見て驚愕しました。第25期訓練生殿の岩屋梓梁(橋口弥次郎左右衛門兼清)の記事を見させて頂き、晴天の霹靂に打たれた感でした。今まで数種の真光掲示板を見ましたが、余りよい感じを持つことができませんでした。私は崇教真光の組み手です。
昭和46年7月に初研を受講しました。3年間にわたり救い主様の御謦咳に接することを許された幸せ者です。昭和9年生まれの79歳健康。関東在住です。
今日は「聖日のみ祭」の良き日の参拝を終えて帰ってきました。
昭和49年6月23日この日は生涯忘れることの出来ない聖主神幽る悲しい聖日です。
これから始まった8年間にわたった真光裁判。迷いに迷い多くの友を失った悲しい記憶が昨日のことのように蘇ります。
私と岩屋梓梁との接点はこんな事から始まりました。
その頃、加藤郁乎氏が昭和52年6月号(177号)の崇教真光誌に「天地人語」という題名のエッセイを連載されていました。この号の小見出しは『「弥勒」私年号の謎』というものでした。内容は永正という後柏原天皇時代の年号がありながらその永正3年(1503年)を彌勒元年として全国的に民衆は私年号を唱えたと南方熊楠や柳田国男が言っている。諸説は何故「彌勒」などという私年号が産まれたかはよくわからないが、大衆が彌勒下生を渇望したからではないだろうかというような内容だった。その時は何となく読み過ごしました。その1ヶ月後、組み手の友人から「地球ロマン」という雑誌を頂きました。
その編集長は八幡書店の若き日の武田崇元社長でその中に窪田志一先生の本邦初公開の不世出の大英雄である「岩屋梓梁」に関する論文があったのです。彌勒私年号の事も2月3日の豆まきの事の一切が氷解しました。天文2年2月2日に岩屋梓梁は時の後奈良天皇の皇太子殿下の尊仁(たかひと)親王以下16人を伴って天皇にも無断で突如二年半にわたる北州行(ほくしゅうこう)を敢行、東北方面に出発した。これが後年、翌2月3日が徳川氏によって梓梁抹殺の鬼遣らいの豆まきになった。岩屋梓梁は鬼とも愛称されていたので、東北へ正神を鬼として追放した、人類共通の大罪とはここからきているのかと合点しました。私は何か手の舞い足の踏む所を知らずという興奮に襲われました。
織豊、徳川、明治、昭和、平成の500年に及ぶ梓梁抹殺は我々の歴史迷信を助長し、今でも正神追放の大罪を実行しておるのでしょう。
何とか窪田志一先生にお会いすることが出来ないかと思い、「地球ロマン」を私に呉れた組み手の友人(五十君 弘氏・現崇教真光川崎小道場長)を通して武田社長を紹介して頂きお会いできる手立てが出来ました。
武田さんは「地球ロマン」に発表を出し渋る窪田志一先生を引っ張り出し、我々に偉大なる岩屋梓梁を知らしめて呉れた偉大なる功労者です。
この研究で忘れる事が出来ないもう一人の恩人は畏友・稲留左治(いなどめすけはる)君です。君は崇教真光の広島中道場長から各地の指導部長を歴任し故人となりましたが窪田志一先生と同郷の鹿児島伊集院の生まれで、先生と私の間を取り持ってくれました。彼の叔父さんの澄義さんという方が造士館高校(現鹿児島大)で窪田志一先生と同級生で親しくしていた方です。窪田先生の話によりますと稲留家の先祖は梓梁の子で稲留弥四郎祐秀(すけひで)であり、伊集院鉄砲基地時代の鍛冶職頭であった。稲富一夢はその孫祐直であったことが判明した。勿論、この話が出るまでお互いに他人でした。(「西郷征韓論は無かった」98頁参照)
このような目に見えない神の偉大なるお仕組みが働き、稲留君の努力により昭和52年9月16日福岡の松本英一参議院議員のご招待を受け窪田志一先生、武田社長、私が福岡で待ちわびている 稲留君と合流し岩屋梓梁研究の会議がもたれました。解放同盟側は期待に反して取り上げては呉れませんでした。
しかし、私にとっては大変な収穫で細かい話をお聞きすることが出来、しかも、「易断政府(えたせいふ)を樹立した岩屋梓梁」いう絶版の秘伝書を頂きました。
窪田志一先生の経歴
1914年(大正14年)鹿児島伊集院町に生まる
1934年(昭和9年) 第七高等学校造士館卒業
1937年(昭和12年)東京大学経済学部卒業
1937年(昭和12年)東京芝浦電気株式会社入社
1938年(昭和13年)熊本第六師団入隊 予備士官学校卒業 将校
1947年(昭和22年)鹿児島県農協連課長 職員組合長
1948年(昭和23年)『かたいぐち記』、『異端記』を授けら         れ以後日本各地に岩屋梓梁伝承の痕跡を         求め山野を抜渉し、その実証研究に専          念。
1983年(昭和58年)4月1日研究中途において、膨大な遺稿         を残し、卒去す。

従って、今年は窪田志一先生幽界誕生して満30年になります。こういう意義ある年に組み手の皆さんに岩屋梓梁顕彰研究を発表出来るお仕組みに唯々感謝いたすのみです。
真光・救い主様・岩屋梓梁の緊密な関係をこれから順を追って発表してゆきます。
読者の皆様の忌憚のないご意見を賜りたいものです。

No.365 - 2013/06/23(Sun) 20:08:21

ご神体神紋と八咫烏(ヤタガラス) / 第25期訓練生
○チョンのチョン(墨書)の部分です。
太陽の黒点を表すそうです。←明主ご教示
次に八咫烏ですが神武天皇東征神話にも出
てきますし熊野神社の神鳥としても有名で
すね。この八咫烏・太陽のシンボルともさ
れてます。
よく似た話にギリシャ神話太陽神アポロン
の使いとしてカラスが登場します。
八咫烏を調べて行くうちに、高句麗壁画に
その絵があったのでご紹介します。

http://web.joumon.jp.net/blog/2008/10/000607.html

中央に八咫烏、左右に龍と鳳凰です。
一説によると龍は国津神、鳳凰は天津神を
象徴すると言われてます。
当神幽現では現津神(人が神上がり)の
ご用として5次元6次元で龍神としての
働きがあります。7次元に上がって初め
て国津神となります。そう言った意味で
も共通性を感ずるところがあります。
次に若干話はそれるやも知れませんが…
秘密結社としての八咫烏の存在が指摘さ
れてます。日本版フリーメーソンですか
ね!先に投稿しました岩屋梓梁とも関連
しそうなので、少し触れてみました。
興味のある方は(裏天皇、八咫烏)で
検索してみて下さい。

No.364 - 2013/05/30(Thu) 18:39:30

Re: 神界から来た如し(如来) / りんご
> 「梵天界にいた」から「梵天だった」と表現しました。
> 「神界にいた」ら「神だった」と言うのと同じ趣旨です。


常識的じゃないですね。

No.363 - 2013/05/21(Tue) 22:05:26

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