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こんにちは、お久しぶりのベルトランです。 また丁寧に返事をいただきありがとうございます。 また記事の内容に対する反論も多くありますがご了承ください。
まずは新コーナーの毒親のコーナーの鳥羽天皇の項目についてです。 実は鳥羽上皇が崇徳天皇を嫌っていたという通説は最近では否定されているらしいんです。
というのも同時代の公家の記録の検証が進んだ結果、近衛天皇が一七歳の若さで崩御し後白河天皇が即位する以前は、鳥羽上皇と崇徳天皇の親子関係は良好だったらしいことが判明したからです。 同時代の公家の記録には鳥羽上皇と崇徳天皇が共に寺院に参詣したり、崇徳天皇が病気の際に鳥羽上皇が僧侶に回復を祈願させたりと二人の関係が良好であることを示すエピソードが記録されているそうです。
鳥羽上皇と崇徳天皇の親子関係の破綻の原因は、鳥羽上皇が崇徳天皇を嫌っていたからではなく外戚からの圧力に鳥羽上皇が屈したからのようなんです。 どうも実際の鳥羽上皇は穏やかな性格である一方決断力に欠ける人物であり、当時の朝廷での深刻な派閥争いや外戚からの圧力にうまく対処できなかったためにこうなってしまったようなのです。
現実の鳥羽天皇から得られる教訓は、認めたくない英雄達で挙げられた人物のようなずるかったり、強引だったり、節操なかったりする点は指導者としてむしろ必要である。 そう言った部分を持たない善良で穏やかすぎる人物がトップになってしまった場合に発生する弊害を示しているといえるでしょうね。
次に北条時政の項目についてです。 実は時政が後妻の娘婿・平賀朝雅を将軍に据えようとしたというのは実はかなり怪しいんです。
そもそも平賀朝雅が将軍を狙えるほど幕府内での地位が高かったわけではありませんし、将軍を狙ったというのは鎌倉時代の御家人粛清の大義名分によく用いられる話です。 北条時政は結局政治家としてやりたい放題したのが問題なのであって、いわゆる一般的イメージの毒親という感じは私はあまり受けないんですよね。
次に後嵯峨天皇の項目についてです。 今までのなかでは一番毒親度が高いかもしれませんね。 ただ彼も皇位継承以外ではそこまで酷薄な印象もなく、毒親というより政治家として能力に問題がある人物という印象が強いですね。
次に武田信虎の項目についてです。 信虎の場合、追放された政治的敗者であることから実際より悪く言われてきた可能性が高いですね。 信虎が追放された原因はどうも中央集権化を図って国人衆に反発されたのが原因のようですね。 また当時甲斐で災害が多かったのも不運だったかもしれません。 信虎もあまり毒親という感じはあまりしない気がしますね。
まずは人質………その様々な待遇と存在意義のコーナーの源義高の項目についての続きです。 大姫の逸話は同時代資料には確認できず、おおむね吾妻鑑などの後世の資料によるものなので、あまり信用できないんですよね。 吾妻鑑は幕府が成立してから百年以上たった鎌倉時代後期に成立したものなので、そもそも著者がもはや鎌倉幕府が成立したころの史実をそもそも把握していなかった可能性も高いことは考慮すべきでしょうね。
次に大政所の項目についてです。 実は最近では竹阿弥と木下弥右衛門は同一人物であるというのが有力なようです。 豊臣秀吉の同父姉の日秀尼の創建した瑞龍寺に残る瑞龍寺差出にによると弥右衛門は天文12年に亡くなっているのですが、秀長の生年は天文9年で朝日姫の生年が天文12年であるため、秀長と朝日姫の二人は秀頼と同じ父の子である可能性が高いからです。
また秀吉の妹・朝日は夫・佐治日向とは本能寺の変の直後にはすでに離縁していたとされ、どうも家康との婚姻のために無理やり離縁させられたわけでもないようです。 そもそも同時代資料から最近では、家康と朝日姫との婚姻自体が家康から要請して行ったものだとされているようです。
朝日が当時四三歳といっても家康より年下ですし、すでに後継者である秀忠がいるのに新たな正室との間に男子が生まれたら話がややこしくなるので当時としては老女と言っても家康からすれば特に不満はなかったのではと思うんですよね。 また宣教師のフロイスの記録には、当時の武家の娘は同盟関係により何度も再婚するのが普通で当の女性たちもそれを恥とも何とも思わないとあるので、朝日が既に一度嫁いだ身というのも特に問題にならなかったのではないでしょうか? また家康はこの婚姻により秀吉と義兄弟になったことで高い官位に叙されそのことを家臣に自慢する手紙まで残っていることを考えると、少なくとも家康自身はこの婚姻に満足していたように思うんですよね。
次に伊達秀宗の項目についてです。 独眼竜政宗で秀宗の生母・飯坂御前が「これは島流しじゃ……。」とぼやいていた話についてですが、正直伊達本家の仙台藩62万石のほうが余程流刑地ではないかと私としてはツッコミたくなったんですよね。 なにしろ当時の仙台は奥州の僻地ですし、それどころか当時は経済・文化の中心は京・大坂などの上方ですから、江戸でさえまだまだ発展途上の田舎とすらいえます。
仙台藩六二万石と言っても奥州の僻地で気候も厳しいことに比べると、伊予宇和島10万石は気候も比較的温暖で瀬戸内海に面した水運の要衝ですし当時の経済・文化の中心である京・大坂にも近い良い土地です。 少なくとも私だったら仙台藩62万石よりも伊予宇和島10万石の方が余程よさそうな気がします。
実際幕末では伊達宗城の元藩政改革を行い、日本人だけでの蒸気船建造に最初に成功するなど存在感を発揮し国政にも影響を与えた宇和島藩に比べて仙台藩は発展が遅れている印象が否めず、仙台藩62万石の大身に割には地味な存在に終わりましたから。
実は武田勝頼が奥平家の人質を粛清したのは失敗だったかもしれないんですよね。 人質を処刑することの欠点は相手の家と決定的な対立関係になってしまうことであり、実際勝頼は長篠の戦いで奥平氏の徹底抗戦で長篠城が攻略できずに敗戦してしまいました。 奥平氏が徳川家に降伏した原因は信玄の死の混乱に乗じての徳川軍の攻撃に対し武田軍の援軍が遅れたからであり、決して奥平氏が積極的に寝返ったわけでもないので人質を解放してもよかったはずです。 そうしていれば長篠の戦いで奥平氏は降伏していたかもしれず、そうなっていれば長篠の戦の行方も変わっていたはずです。
それに対し徳川家康は三方ヶ原の戦いの後奥平氏などの奥三河国衆が武田方に寝返った際に、自分が悪いと彼らの人質を解放してます。 奥平氏が信玄の死後寝返った理由はそれもあり、また寝返った後に家康の娘を嫁がせただけでなく、処刑された奥方の実家との婚姻も成立させて処刑された奥方の実家にまで配慮を見せています。 高天神城陥落の後に勝頼が国衆に見放されていくのも、高天神城を見捨てたことと、賦役の増大以外にも勝頼と家康の国衆への配慮の差も大きいわけです。 いくら戦国時代でも人質をむやみに処刑するのはリスクが大きい一面もあったということですね。
次に夜討ち集のコーナーの保元の乱の項目についての続きです。 当時の貴族はかなり武術・戦術音痴に陥っていたと言いますが、実際には優秀な公家も多かったんですよね。 兵学に詳しい公家に武士が兵学を学んだり、北畠顕家のように勇敢な公家も実在しました。
武術・戦術音痴の貴族というイメージはどちらかというと江戸時代の公家のイメージが大きいんですよね。 またそもそも朝廷から権力を奪った幕府をはじめとする武家側による勝者の歴史観という面も大きんです。 このような決まり切ったイメージが新たな研究により現在次々と見直されつつあるわけです。
次に厳島の戦いの項目についての続きです。 文と武で分けることが間違いという訳ではないと思います。
しかし文治派と呼ばれる人たちはあくまでも文官的な仕事をしていただけであり、必ずしも戦争反対の平和主義者なわけではありません。 例えば三国志など古代中国でも主戦派の文官もいますし、穏健派や慎重派の武官もいるはずです。 これは日本の文治派や武断派でも同じだというわけです。
またそもそも領国を統治するには当然ながら石田三成ポジションの文官的な存在が必要なわけであり、このような吏僚派を登用することは源頼朝や織田信長、武田信玄など武家の棟梁は全て行っていることであり、文治派を登用することが文弱を意味するのなら信長や信玄など戦国大名はすべて文弱ということになってしまいます。
つまり文治派と呼ばれる人たちは文官的な職務を行う武士のことであって、戦争反対の平和主義者を意味しているわけではない。 文と武で分けると言ってもこれは職務で分けているの意であって戦争に対する考え方で分けているわけではなく、文治派と言おう呼び方がこういった勘違いを起こしやすいために吏僚派と呼ぶことが最近では多くなっているわけです。
次に嫡男はつらいよのコーナーの武田義信の項目についての続きです。 実は義信謀反の直前に、勝頼が諏訪で武田家家臣に補佐されて政務を開始しています。 つまり諏訪という一地域だけとはいえ軍事・行政を指揮する立場となった勝頼に、28歳にもなっていまだ形式的な家督継承もされない武田義信はこの時点での待遇において弟の勝頼に差を付けられてしまったわけです。
また飯富虎昌については、武田義信と親しかったから謀反に加担したというより単に信玄の政策に不満があっただけではないでしょうか。 信玄に不満を持つ飯富虎昌ら武田家家臣と、父信玄に不満を持つ武田義信が手を組んで信玄を失脚させようとしたのが義信謀反事件の実態ではないでしょうか。
保元の乱や平治の乱でもそうですが、それまで特に親しかったわけでもない人々が、共通の強敵と対決するために手を組むことは歴史上それなりにあることです。 共に信玄に謀反を起こしたとはいえ、武田義信と飯富虎昌がその前から親しい関係にあったとは必ずしも限らないのではないかとも思います。
次に反故にするんじゃねぇ!のコーナーの満州開拓民と南満州鉄道の項目についての続きです。 私は単に悪の侵略者とそれに立ち向かう正義の集団みたいな絵にかいたような状況は基本的に存在しない、歴史上の出来事には様々な側面があるという実例としてこれを取り上げただけでして、当時の日本軍のことを擁護するつもりもないんですよね。 まあこういう面もあったという話です。
次に菜根版名誉挽回してみませんかのコーナーの武田勝頼の項目についてです。 こうゆう今まで悪い評価がされてきた人の評価が見直される場合に逆に過大評価や過剰な美化をされることがよくありますが、実は勝頼にもそういう部分があるんですよね。 まず勝頼にとってのターニングポイントとなった長篠の戦い、御館の乱、高天神城落城の三つの事件で最終的には自らの選択で判断ミスをしていることです。
御館の乱については景虎側が圧倒的に不利な上に、勝頼も織田徳川に対する備えのために救援が困難だったことは事実ですが、景勝側に景虎の助命をするよう交渉するなどしていればたとえそれが失敗したとしても北条家の勝頼への印象は史実よりは改善していたでしょう。
高天神城見殺しについても確かにこのとき高天神城の救援はほとんど不可能な状況でしたが、そもそもしばらくまえから補給すらしていませんでした。 長篠の直後織田軍に岩村城がこうりゃくされていますが、失敗したとはいえ勝頼は援軍に向かったために岩村城落城は勝頼の威信を大きく低下させることはありませんでした。 高天神城落城についても補給の努力をする、例えポーズだとしても援軍として出撃するなどしていれば史実ほど勝頼の威信が低下しなかったはずであり、結局勝頼の判断には疑問があります。
また軍事費がかさんで領民の負担が増大したのはやむおえないですが、その上に新府城築城までしたのはやはり勝頼の判断ミスではないでしょうか? しかも勝頼は同時期に諏訪大社の改修まで行っていますが、これは流石に領民の負担を考えなさすぎでしょう。
高天神城見殺しについても武田家家臣や武田領の領民からすれば、北条領の上野国の大半を制圧しさらに新府城築城や諏訪大社の改修を行う力はあるのに高天神城のは援軍どころか補給も行わないと見えているわけです。
そして勝頼と比較されるのが徳川家康です。 家康は信玄の西上作戦の時に味方の城を救援するために出撃して三方ヶ原で戦い敗北した後は武田に寝返った国衆の人質を自分の責任だと言って解放し、また味方に付いた奥平氏を厚遇しました。 まさに国衆にとって理想的な対応をしてくれる家康が隣接していたら、武田家臣が勝頼にいい印象を持てなくても仕方ないでしょう。
武田滅亡の際、勝頼は実は国衆からの人質を全員処刑しています。 現代目線で人道的な批判はしませんが、これでは万一奇跡が起きて織田徳川連合軍が撤退したとしても甲斐の国衆は勝頼に反発して勢力回復は不可能でしょう。
またもはや事態打開をあきらめて見事な最期を遂げることを考えるとしたら、むしろ新府城にとどまって最後の戦いをすべきだったでしょう。 そうしていれば少なくとも、史実の逃げまどいながらさまよった末の無残な最期よりはましな最期になったでしょう。
結局勝頼は大局を見ての判断力に問題があり予算配分にも難がある人物、侍大将としては優秀でも武田家当主としては問題があったということでしょう。 勝頼が置かれた状況が悪かったのは事実にしろ、当人の能力にも問題があった部分もあったわけです。
もっとも勝頼が武田家を継いだ時の状況では、どうやっても滅亡はいずれ免れなかったように私も思います。 最悪なタイミングで浅間山が噴火するなど、完全に運に見放されていた武田家は滅亡するしかなかったかもしれませんね。
次に菜根版名誉挽回してみませんか女性編の項目の淀殿のコーナーについてです。 彼女の通称の淀君が蔑称というのは実はかなり怪しいようです。 というのも幕末に編纂された徳川幕府家譜で徳川家康の継室・朝日姫が朝日君、秀忠の継室・崇源院が於江与君とされているなど、江戸時代に高貴な女性の名前に君がつけられることは他にもあったからのようです。 ちなみに恐らく同時代には彼女は淀様と呼ばれていたというのが現在有力のようですね。
淀殿の悪評について徳川幕府によるものという話もありますが実は彼女の悪評はむしろ豊臣びいきの記録に多く、逆に徳川方の記録には彼女は特に批判されていません。 どうも淀殿の悪評は豊臣びいきの人たちが豊臣方の悪い部分を彼女に押し付けて秀頼などを擁護するために生まれた部分が大きいようです。 歴史の捏造はよく勝者の陰謀と言われますしそれも間違いではありませんが、このように敗者に共感する人たちによって生まれる捏造も判官びいきの傾向の強い日本では多いということです。
ベネズエラの事態について道場主さんは憤っているようですし、私もそれも理解できます。 しかしベネズエラは経済が完全に破綻しインフレ率は200%オーバー、国外脱出した難民は現在600万人ともされるという末期状態の国なのも事実なんですよね。
そのため今回の一件でむしろトランプの行動を支持するベネズエラ人が少なくないのも事実ではあるんですよね。 そして彼らの中にはトランプの行動を批判する諸外国の人々に強く反発する人も多くいます。
実際「国際法はなにもしてくれなかった」「部外者が勝手なことを言うな」と憤るベネズエラ人もし目の前にいたとしてもトランプの行動批判ができるかと考えると、今回の事態に対して必ずしも短順に批判する気にも私はなれないんですよね。
さて今回はこれまで。 次の更新を楽しみにしています。 それではまた。
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No.662 2026/02/09(Mon) 00:18:19
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