08190
菜根道場BBS THE V
何でもお気軽に書いていってくださいね。

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菜根道場5・10日雑文 NEW / 道場主
 御来房の皆様、こんばんは。
 毎月25日の担当、菜根道場道場主・菜根道人です。

 今年も早いもので3分の1が終わろうとし、例年によって四月に対しては灌頂会や、塙団右衛門の戦死など、色々思うところがあります。
 相変わらず公私に渡って落ち着かず、一年後はおろか数ヶ月後の時分がどうしているかも見えない状態ではありますが、拙サイトは細々ながらも更新を続けていくでしょう。

 では例によって分身達の動向を。

戦国房薩摩守
 現在休息中ですが、構想は練りつつあります。
 早ければ来月末か再来月頭辺りから新作のアップが出来ればと思っています。

特撮房シルバータイタン
 現在制作中の「再生怪人軍団考察」ですが、少し停滞気味です。場合によっては次の新作と並行するかも知れません。
 とはいえ、「舞台は大阪」の様に完全に滞らせている作品もあるので、完全停滞は防ぎたいと思っています。

楽曲房ダンエモン
 今日、真夜さんのミニアルバム『Hppy Days』の解説アップをコンプリートさせました。
 もっとも、同アルバムのリリースは5年も前で、何年も聞いていない曲も少なくないので、改めての見直しを強化したいと思います。

法倫房リトルボギー
 こちらも徐々に新作を制作中です。当初基本路線とした不良刑事三白眼との合作体制が全く取れていないので、アップはかなり先になりそうです。

 ではまた来月。

No.290 2024/04/25(Thu) 22:32:12
菜根道場5・10日雑文 NEW / リトルボギー
 オッス!毎月20日の担当、法倫房リトルボギーだ!!
 何?態度が悪い?まあそう固いことを云うな(お約束)。

 今日話題にするのは先日地裁判決が起きたふざけた裁判についてだ。
 以前にも触れたことがあるが、大阪拘置所に収監されている二名の死刑囚どもが死刑執行の当日告知を違憲として当日告知の禁止と、損害賠償を求めて提訴していたというものだ。

 前に口を極めて罵ったから簡単に述べておくが、死刑判決が下されるほどの酷い殺人をしておいて、自分が命を奪われることに不平を云い、注文や云いがかりを突けることに呆れかえる他ない。

 当然と云おうか、必然と云おうか、死刑囚側の訴えは地裁にて全面的に退けられた。ただ、死刑囚側は既に控訴しており、控訴審となると昨今死刑に関して糞甘判決を連発している大阪高裁が審議することに一抹の不安がある。
 死刑囚サイドの身勝手な云い分を見れば、十中八九控訴棄却されると見ているが、何せ、死刑を巡る法曹界のフィーリングは一般社会とかなり乖離しているんでな。

 それより腹立たしいのが、判決を批判した死刑囚の弁護人が、「死刑執行そのものに反対している訳では無い。」と抜かしていることだ。
 確かにこの裁判ではあくまで当日告知を違憲と訴えたものではある。ただ、この弁護士、別件で絞首刑を憲法違反とする裁判も起こしており、あの手この手で死刑制度を絡めてから封じようとしている。
 Youtubeで見た討論で、別の弁護士から、「じゃあ、絞首刑じゃない死刑なら受け入れるのか?」という質問には言葉を濁して結局是とも非とも答えなかった。
 まあ、どういう確度で見ても死刑廃止論者だろう。

 勿論死刑廃止論を持つことは個人の自由だし、弁護士である以上、担当裁判で死刑を避ける為の尽力は責務であることを俺も過去作で認めているので、死刑を阻止する為に複数の裁判を起こしていることを苦々しく思いつつも、それを辞めろという事は出来ない。
 ただ、気に食わないという事は俺自身の言論の自由として述べさせてもらう。

 同時に訴えを起こしている死刑囚の名前が出ていないのも気に食わない。恐らくは死刑囚の名前が出ることで死刑を課される元となった罪状との比較から訴えが批判され易くなるのを防ごうとの云い分だと思われるが、憲法違反を訴えるぐらいなら、自分達の方が完全に法的に正しいと主張している訳だから、堂々と名前を出せと云いたくはなる。

 最後に懸念しているのは、こういう訴えの連発が原告となっている死刑囚のみならず、他の死刑囚に対する死刑執行への歯止めとなっていないかという問題である。
 勿論死刑廃止派は(口に出さずとも)それも狙いだろうし、法務大臣や法務官僚は例えこれらの裁判で死刑執行命令が出し辛くなっていても、それを認めはしないだろう(正確には得意の「答えを差し控える。」でかわすだろう)。

 死刑を巡る議論自体は大いに行って良いだろうし、原告サイドの云う「死刑のブラックボックス状態」への批判は俺も思うところはある。
 ただ、結局それによって「半年以内の執行」が全く守られず、無駄な時間の経過が余計な劣情を生み続けていることは問題視して欲しいものである。

 ではまた来月。

No.289 2024/04/25(Thu) 22:22:18
菜根道場5・10日雑文 / ダンエモン
 御来房の皆様、こんばんは。
 毎月15日の担当、楽曲房ダンエモンです。

 すっかり房全体の更新を滞らせていましたが、最近になって「真夜の間」の更新を再開しました。
 先月の既報通り、来月に真夜さんのライブに参加するので、今現在は真夜ソングを中心に聴いています。

 コロナ禍を初め、様々なタイミングの悪さから気が付けば9年も真夜ライブに参加出来ずにいました。椎名さんのライブもコロナ禍以降は参加が叶っておらず、図らずも摩季ネェ一本になっていました。

 ただ、ダンエモンは歌詞に惚れるタイプの人間で、趣味は「狭いが深い」の人間なので、本来はそれぞれ「間」を設けているアーティストだけではなく、様々なアーティストの名曲を取り上げたいのが本音です。
 と云っても、採り上げる以上はある程度そのアーティストに詳しくないまま的外れな意見を展開しては失礼に当たるので、現在これ以上「間」を増やすつもりはなく、逆にいくら滞らせても「間」を設けているアーティストは追いかけ続ける所存です。

 来月のライブ後は、当面参加予定がありません(6月・7月に予定されている分は見送りが決定済み)が、それだけに来月はしっかり集中したいと思います。
 それでは。

No.286 2024/04/15(Mon) 21:16:48
菜根道場5・10日雑文 / シルバータイタン
 御来房の皆様、こんばんは。
 毎月10日の担当、特撮房シルバータイタンです。

 更新が停滞気味な拙房ですが、先日新作のアップを初め、徐々に更新を進めています。

 本日話題にしたいのは、3月29日に亡くなられた作家の山本弘氏と、氏が残された言葉について。
 拙道場では扱っていませんが、うちの道場主は歴史・特撮・ライブ以外にも多くの趣味を持ち、その中にファンタジーRPGもあり、山本弘氏はグループSNEを立ち上げたゲームデザイナーの一人で、『ソード・ワールドRPG』のゲームマスターを務めたり、それを舞台にした小説を執筆された作家でもありました。

 山本氏を初めとするグループSNEの面々には特撮の好きな方も多く、RPGリプレイには様々な特撮ネタを持ち込まれ、それも氏の作品を読む楽しみの一つでした。
 一方で、と学会の創設者にして初代会長でもあり、様々な書籍の問題点に舌鋒鋭く踏み込んで問題的された人物でもありました。

 氏は自分の携わるファンタジーの世界にも常に問題意識を持たれ、特にコンピューターゲームのシステム上、RPGが経験値やアイテム獲得の為に殺戮ゲームと化していることや、モンスターという存在に対する偏見や差別をフィクションだからと云って許していいのか?との疑問から、名作「モンスター達の交響曲(シンフォニー)」も作られました。

 そんな氏が生前残された言葉を噺家・立川志らく師匠が「X」(旧ツイッター)にて紹介されていました。
 それは、山本氏の著作「翼を持つ少女」の中で綴られた、

「世の中で最も危険な思想は、悪じゃなく、正義だ。悪には罪悪感という歯止めがあるが、正義には歯止めなんかない。だからいくらでも暴走する。過去に起きた戦争や大量虐殺も、たいていの場合、それが正義だと信じた連中の暴走が起こしたものだ」

 というものでした。

 私自身、以前「全話解説の間」にて『仮面ライダーOOO』第22話の解説制作時に、同話における火野映司の、

 「いっぱい見てきた。誰かを守りたいという気持ちや、自分達の正義を守りたいという気持ちはどんどんエスカレートすることがある。正義の為なら人間はどこまでも残酷になれるんだ。」

 の台詞には思い切り考えさせられたので、氏の作品はソード・ワールド関連のものしか読んだことが無くても、山本氏がかかる言葉を残されていたことに非常に納得するとともに、どこかで遥か昔から氏のそんな考えに共感していたような気もしました。

 うちの道場主も少年の頃、「正義は必ず通る。」と盲目的に考えていた時期があり、自分の正義が通らないのは自分に力が無さ過ぎるからだと捉え、自らの無能を嘆き、惰弱に生まれさせた神を呪ったこともありましたが、今思えば、もし自分が万事に有能な人間だったら、周囲の諫言に一切耳を貸さず、「俺が正しい。」との一念で人々の感情も理解せず独善を押し切り、正義の名の下に残虐人間になっていた可能性は極めて高かったと思うので、弱い人間に生まれたことにホッとしたものを感じる時もあります。

 改めて山本弘氏の御冥福をお祈りするとともに、ありとあらゆる正義・教え・理も暴走すれば元も子もないことを念じ直したいと思う次第です。

 ではまた来月。

No.285 2024/04/15(Mon) 20:54:41
菜根道場5・10日雑文 / 薩摩守
 御来房の皆様、こんばんは。
 毎月五日の担当、戦国房薩摩守です。

 先日お伝えしましたが、新作『末弟考察』をアップしました。普段、冒頭と第壱頁・第弐頁をアップして、その後少しずつ後続頁をアップして完成させるのがパターンなのですが、今回何故か一気に作りたくなって、いきなり完成状態でアップしました。

 そしてこれも先日お伝えしましたが、チョット拙房の制作をお休みします(多分、一、二ヶ月程)。勿論、ネタを探し、構想は練り続けていますので、他の房制作優先と御理解頂ければ幸いです。

 一方、毎年この時期は大坂の夏の陣に想いを馳せる時期でもあります。二年前の四月二九日(厳密には旧暦と新暦で月日がずれますが)、この日に戦死した塙団衛門の墓参りをしました。
 今年は行く予定はありませんが、戦国最後の戦いに命を落としたすべての人々の御冥福を今年もお祈りしたいと思います。

No.284 2024/04/09(Tue) 22:28:44

Re: 菜根道場5・10日雑文 / フランダースの猫
お世話になっています。こちらには本当に歴史に詳しい仮にAさんとさせていただきますが、いらっしゃいますね。
レスポンスも的確な道場主さまとAさんは、もう歴史の専門家や研究者ですね。

歴史は、やっと普通の成績だったわたしにはもうわからないところだらけですね。

わたしも動画や本などで、特に日本の歴史関係のことをみたり読んだりはしています。

もし、歴史が○○だったらなどというサイトもありますね。

たとえば、日本が先の戦争に勝っていたら?など。

わたしとしては、19世紀になってやっと近代化がされ始めたと思います。

自動車、飛行機、鉄道、蒸気船なども19世紀になってからですね。

わたしは、戦争などの悪い歴史は繰り返さないで欲しいです。

あともしフランダースの犬がフランダースの猫だったらどうなっていたか?
わたしなりに予想してみます。

猫が大八車をひいたりは無理ですし、教会でいっしょに旅立ってはもらえないと思います。

作者も、フランダースの猫では作品化が難しいので、フランダースの犬になったのだと思います。

わたしも還暦になりますが、わたしなりの歴史がありますね。

あの時こうしておけばと思うこともありましたが、まあわが人生に悔い無し
てすね。

No.287 2024/04/19(Fri) 07:44:33

Re: 菜根道場5・10日雑文 NEW / ダンエモン
> お世話になっています。こちらには本当に歴史に詳しい仮にAさんとさせていただきますが、いらっしゃいますね。
> レスポンスも的確な道場主さまとAさんは、もう歴史の専門家や研究者ですね。

 いえいえ私などAさんに比べてまだまだ(苦笑)。

>
> 歴史は、やっと普通の成績だったわたしにはもうわからないところだらけですね。
>
> わたしも動画や本などで、特に日本の歴史関係のことをみたり読んだりはしています。
>
> もし、歴史が○○だったらなどというサイトもありますね。
>
> たとえば、日本が先の戦争に勝っていたら?など。
>
> わたしとしては、19世紀になってやっと近代化がされ始めたと思います。
>
> 自動車、飛行機、鉄道、蒸気船なども19世紀になってからですね。
>
> わたしは、戦争などの悪い歴史は繰り返さないで欲しいです。

 一般に「歴史にifは禁物」と云われています。例え出せばキリがなく、最終的には発言者好みのフィクションとなる故に。

>
> あともしフランダースの犬がフランダースの猫だったらどうなっていたか?
> わたしなりに予想してみます。
>
> 猫が大八車をひいたりは無理ですし、教会でいっしょに旅立ってはもらえないと思います。
>
> 作者も、フランダースの猫では作品化が難しいので、フランダースの犬になったのだと思います。

 大型ネコ科動物なら可能かも(笑)。

>
> わたしも還暦になりますが、わたしなりの歴史がありますね。
>
> あの時こうしておけばと思うこともありましたが、まあわが人生に悔い無し
> てすね。

 後悔は誰しもがしたくないものです。私も「後悔」よりは「反省」と捉えています。まあ、失敗の多い人生に変わりはありませんが(苦笑)。

No.288 2024/04/25(Thu) 22:05:39
菜根道場5・10日雑文(先月分) / 道場主
 御来房の皆様、こんばんは。
 毎月25日の担当、菜根道場道場主・菜根道人です。

 ここ二週間ほど、業務・体調・健康のすべてが不調ですっかり各房の更新も、このBBSへの雑文やレスポンスも滞らせてしまいました。
 皮肉を云う訳では無いのですが、もし各房の更新が迅速化するとすれば、それは職を失くしているか、職務を遂行出来ない体になっている時です。
 少し大袈裟に書きましたが、全くあり得ない話ではなく、現在全力でその回避に掛かっています。

 とはいえ、すべては私個人の問題ですし、どんな結果になったとしても、命を落としたり、飢えたりするような事態になる訳ではありません。
 気を取り直して分身達の動向を伝えたいと思います。

戦国房薩摩守
 実は新作「末弟考察」をアップしました。
 いつもは冒頭と、最初の一、二頁をアップして徐々に続きをアップしてコンプリートするのですが、何故か今回は一気に仕上げたい気になり、いきなりコンプリート作としてアップしました。
 次回作も構想はありますが、少しの間他の分身達の活動を優先し、お休みする予定です。

特撮房シルバータイタン
 今月中旬には新作のアップを始める予定です。
 全話解説も着手してはいますが、こちらは完成させてからアップするので、お見せ出来るのはかなり先になります。
 一コマ漫画もアップしたいのですが、ネタも描画ソフトもありません(苦笑)。

楽曲房ダンエモン
 そろそろ遠征したいのですが、休暇と財源の関係で動けずにいます(苦笑)。戦国房を少し休む分、こちらの楽曲更新をいい加減再開したいと思ってはいます。

法倫房リトルボギー
 意図的に休んでます。新作に手を付けていないだけではなく、死刑案件に関するニュースサイトを普段ほどには見ていません。
 最近の精神の不安定に(犯罪・司法処分の違いに関係なく)人を害す・害されるの話題を追い過ぎている気がしたものですから(戦国房を少し休むのも、戦史から距離を置きたい気持ちがあります)。
 ただでさえ態度が悪く、過激意見の多いリトルボギーは少し落ち着かせないと普段以上に暴走論調になりかねないので、お釈迦様の誕生日が近いこの時期ぐらい大人しくしたいと思います。

 それではまた来月。

No.277 2024/04/04(Thu) 00:31:06

Re: 菜根道場5・10日雑文(先月分) / ニャンマンバス
こんにちは、わたしも道場主さまと同じように不調が続いています。
先日の健康診断では、再検査になりました。

それでもライブに行ったり、ふらりと旅にはでますね。

先日は、空知の上砂川に行きました。往復バスを利用しました。

JRの普通列車よりも安く行けるし、チケットショップで買ったので、更に安くなりました。


道場主さまは、来月、岡本真夜さんので東京に来られるそうですが、やはり高速バスで来られるのでしょうか?

夜行バスなら高くはなりますが、やはり3列シートのほうが楽ですね。

11月には組合関係もあり、東京に帰ることが決まっていますが、大阪ライブにも行きたいので、まずは東京に寄って、大阪に行こうかと思っていますが、リーズナブルに行くならやはり高速バスですね。
JRバスの、東海道昼特急だと1日乗りっぱなしになりますが、夜行バスよりは楽ですし、帰りは、大阪から北海道に直接飛行機ですね。

西成区には、格安でも個室で、テレビ、エアコン付き、共用ですが、お風呂、シャワー無料で宿泊できるホテルがたくさんありますので、せっかくですので、数泊はして大阪を楽しみたいと思います。
できたら、高野山もおまいりしたいですね。

わたしは自動車の運転が苦手なので、バス、鉄道などの公共交通機関利用ですので、バスや鉄道の廃止は困ってしまいます。

公共交通機関がなくて、苫前の熊事件の現場や、バス、鉄道が廃止になって、行きたくても行けなくなった場所がたくさんあります。タクシーに乗るのは厳しいです。

No.280 2024/04/08(Mon) 18:33:29

Re: 菜根道場5・10日雑文(先月分) / ダンエモン
> こんにちは、わたしも道場主さまと同じように不調が続いています。
> 先日の健康診断では、再検査になりました。

 再検査、無事済むと良いですね。

>
> それでもライブに行ったり、ふらりと旅にはでますね。
>
> 先日は、空知の上砂川に行きました。往復バスを利用しました。

 二年前に北海道に行ったとき、ようやく函館に行くことが出来ました。札幌、旭川、小樽、登別、苫前には行けましたが、まだ行ったことなくて行きたい稚内、根室、網走は本当に遠いです………。

>
> JRの普通列車よりも安く行けるし、チケットショップで買ったので、更に安くなりました。
>
>
> 道場主さまは、来月、岡本真夜さんので東京に来られるそうですが、やはり高速バスで来られるのでしょうか?

 まだ決まっていません。

>
> 夜行バスなら高くはなりますが、やはり3列シートのほうが楽ですね。
>
> 11月には組合関係もあり、東京に帰ることが決まっていますが、大阪ライブにも行きたいので、まずは東京に寄って、大阪に行こうかと思っていますが、リーズナブルに行くならやはり高速バスですね。
> JRバスの、東海道昼特急だと1日乗りっぱなしになりますが、夜行バスよりは楽ですし、帰りは、大阪から北海道に直接飛行機ですね。

 北海道からだとどうしてもそうなりますよね。

>
> 西成区には、格安でも個室で、テレビ、エアコン付き、共用ですが、お風呂、シャワー無料で宿泊できるホテルがたくさんありますので、せっかくですので、数泊はして大阪を楽しみたいと思います。
> できたら、高野山もおまいりしたいですね。

 まあ、行かれたことあると思いますが、南海電車とケーブルカーの乗り継ぎも時間が掛ります。計画は綿密に。

>
> わたしは自動車の運転が苦手なので、バス、鉄道などの公共交通機関利用ですので、バスや鉄道の廃止は困ってしまいます。
>
> 公共交通機関がなくて、苫前の熊事件の現場や、バス、鉄道が廃止になって、行きたくても行けなくなった場所がたくさんあります。タクシーに乗るのは厳しいです。

 苫前は札幌からバスでも行けるのですが、苫前に着いた後の交通機関が無いので、二度目に行ったときはレンタカーを使いました。
 費用の問題もありますが、車やバイクを運転するとなると酒を飲めなくなるのが一番頭の痛い問題です(苦笑)。

No.283 2024/04/09(Tue) 22:20:12
菜根道場5・10日雑文(先月分) / リトルボギー
 オッス!毎月20日の担当、法倫房リトルボギーだ!!
 何?態度が悪い?まあそう固いことを云うな(お約束)。

 相変わらず凶悪犯への死刑執行が全く行われおらず、やるにせよやらないにせよその意図・その予定・その判断理由を全く明らかにしない死刑運用にやきもきしているが、最近死刑執行はおろか、犯罪発生に対する報道にも明かされないことが多過ぎる気がする。

 何年か前から、犯人逮捕を伝えるニュースの文面に「県警は容疑者の認否を明らかにしてません。」と書かれることが増えた。
 イラつくが、俺も何でもかんでも認否を明らかにしろと云うつもりは無い。組織犯罪などでは他の共犯者を暴走させない為に認否を明らかに出来ないことは充分考えられる。
 「白状した。」という事で、共犯者である反社組織が容疑者の家族に危害を加えるケースもあり得ない話ではない。

 ただ、気に入らないのは、「捜査に支障があるとして認否を明らかにしていません。」と一言言ってくれればまだしも、そう触れられるのは稀で、「明らかにしていません。」の一言で終わらせることが大半で、酷い時には認否それ自体に触れないことすらある。
 書けないことや書けない時があることを考慮に入れても、余りに伏せることやスルーすることが多過ぎては、記事の信用性を大きく損ねるとは云っておきたい。

 加えて酷いと思うのは、不起訴を巡って、その理由を明らかにしない時だ。
 容疑者が不起訴になったのは何故なのか?
 起訴に相当するだけの証拠を集められなかったのか?
 容疑者が白と断定される証拠が出て来たからなのか?
 示談が成立したからなのか?

 多少なりとも明らかにしてくれないと、容疑者への疑念が拭えず、延々と白眼視し続けることとなる。
 確かに充分な証拠が集められなかったとなれば、それを恥じる気持ちは分からないでもない。だが、白である証拠が見つかったのであればそれを明らかにして、誤認逮捕された元容疑者の名誉を回復させるべきである。
 また、完全に被害者側が納得するだけの示談・和解が成立しているのであれば、外野はそれ以上とやかく言う筋合いはなく、要らざる邪推を引き摺らない為にも、「示談が成立して起訴は見送った。」として解決を宣言すべきである。

 そこまで詳しくなくても、一言「証拠不十分」、「示談成立」、「容疑者は潔白でした。」というだけ要らざる疑念は解消し、一時的に警察や検察を非難しても、それを認めた潔さは認めるつもりで俺はいている。
 だが、「不起訴理由を明らかにしない。」で片付けられては、容疑者への疑念も検察への疑念も払拭出来ない。

 組織対個人でも、組織対組織でも、個人対個人でも、明らかに出来ないことの多過ぎる世の中ではあるが、何も明かさず信頼を求めるのは虫が良過ぎるとだけ云っておきたい。

 今回は殆んど愚痴になってしまったな。ではまた来月。

No.276 2024/04/04(Thu) 00:16:05

Re: 菜根道場5・10日雑文(先月分) / ノーコイン
オッス!わたしもYouTubeなどで、いろいろな事件の動画をみたりしています。

死刑関係なく、犯罪者にはなりたくないし、被害者にもなりたくないです。

わたしは、今でも東京と北海道の労働組合員で、組合では、冤罪で獄死された方の支援や、受刑者の待遇改善の運動もしていて、現在、冤罪の可能性が極めて高いある被告の支援もしています。

組合としては死刑反対です。

わたしとしては組合の方針に異論ありません。

まあ、組合にもいろいろと解決しなければならないことがあり、わたしとしては、冤罪ならしなければならないと思いますが、こちらに関しては、まあ組合におまかせという感じです。

労働組合も組織です。いくら正しくても、リストラされたわたしにはよくわかります。

わたしにはわたしなりの考えがあるので、わたしなりにやっては行きますが(まあ中立に近い)冤罪の方の支援や受刑者の待遇改善反対、死刑賛成などと言ってしまえば、組合を去らなければならなくなります。

違う問題でしたが、コロナ前の北海道の組合大会で、組合方針に納得できないなどして、大混乱になり、結果、納得できない数人の人が組合を去って行きました。去ったその中には、当時の執行委員長もいました。


まあ、本音を言えば、死刑制度より、それよりもわたしの老後が心配です。まあ、わたしは年金も少ないので、定年後もある程度は仕事をしないと厳しいですし、もっと歳を取って働けなくなったときはどうしようか?やはり心配です。

ニャンコインやワンコインでもなく、ノーコインになってしまったら大変なことになりますしね。

まあ、平均寿命まではとは思いますけど。こればかりは神仏の世界なので。

No.279 2024/04/08(Mon) 17:26:02

Re: 菜根道場5・10日雑文(先月分) / リトルボギー
> オッス!わたしもYouTubeなどで、いろいろな事件の動画をみたりしています。
>
> 死刑関係なく、犯罪者にはなりたくないし、被害者にもなりたくないです。

 誰だって、そうだぜ(苦笑)。

>
> わたしは、今でも東京と北海道の労働組合員で、組合では、冤罪で獄死された方の支援や、受刑者の待遇改善の運動もしていて、現在、冤罪の可能性が極めて高いある被告の支援もしています。

 「冤罪の可能性」と云うのがネックだな。勿論冤罪でなかったとしても、確たる証拠の無いものが有罪になってはいけねぇ。一方で、本当にやっていたのなら不当に庇われることになりかねん。真犯人か、間違いなくその受刑者がやったことを示す確たる証拠が見つかるのが一番だとは思うが。

>
> 組合としては死刑反対です。
>
> わたしとしては組合の方針に異論ありません。

 まあ、そうだろうな。
 冤罪問題や、人権問題で死刑反対を唱えるのは自由だが、ただただ国家権力に反抗的にやっているだけなら賛成出来んが。

>
> まあ、組合にもいろいろと解決しなければならないことがあり、わたしとしては、冤罪ならしなければならないと思いますが、こちらに関しては、まあ組合におまかせという感じです。
>
> 労働組合も組織です。いくら正しくても、リストラされたわたしにはよくわかります。
>
> わたしにはわたしなりの考えがあるので、わたしなりにやっては行きますが(まあ中立に近い)冤罪の方の支援や受刑者の待遇改善反対、死刑賛成などと言ってしまえば、組合を去らなければならなくなります。

 少しでも反対意見を持てば居られないと云うのは感心出来んな。

>
> 違う問題でしたが、コロナ前の北海道の組合大会で、組合方針に納得できないなどして、大混乱になり、結果、納得できない数人の人が組合を去って行きました。去ったその中には、当時の執行委員長もいました。

 そりゃ穏やかじゃなぇな。

> まあ、本音を言えば、死刑制度より、それよりもわたしの老後が心配です。まあ、わたしは年金も少ないので、定年後もある程度は仕事をしないと厳しいですし、もっと歳を取って働けなくなったときはどうしようか?やはり心配です。
 被害者でもなく、加害者でもなければ差し当たって死刑制度を心配する必要はない。
 我が身だけを案じていられるのはある種の幸せかもしれんな。

>
> ニャンコインやワンコインでもなく、ノーコインになってしまったら大変なことになりますしね。
>
> まあ、平均寿命まではとは思いますけど。こればかりは神仏の世界なので。

 道場主の馬鹿の生涯の野望の一つに、「長寿世界一の記録を打ち立てる。」というものがある。つい先日、日本人男性で最長寿の方が亡くなられ、日本人男性で明治生まれの方がいなくなってしまった。
 確かに健康状態や経済状態によっては長生きが辛い状況もあるかも知れんが、だからと云って死を願うようになりたくはないものだ。

No.282 2024/04/09(Tue) 22:12:47
このサイトの戦国房についての感想5 / ベルトラン
こんにちは、お久しぶりのベルトランです。
また丁寧に返事をいただきありがとうございます。
また記事の内容に対する反論も多くありますがご了承ください。


まず新コーナーの「大敗」を検証のコーナーの上田原の戦いの項目についてです。
前も言いましたが、武田軍は素行が基本的に戦国時代基準でもよろしくないです。
むしろこのあたりのエピソードの非道な武田軍の方が実態に近い姿といえるかもしれませんね。


次に月山富田城の戦いの項目についてです。
実は尼子側の糧道でのゲリラ戦術はあまり成果は上がらなかったようです。
何しろ大内家は日明貿易をしているため、日本有数の有力な水軍を保有していたため、制海権は大内側にあるため、いくら陸上で大内側の補給路を断とうとしても船による水上輸送がいくらでもできるからだそうです。

三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経等の国人衆が再び尼子方に寝返った時点でも大内側が戦力的には優勢で、大急ぎで撤退しなければならないほどの不利でもなかったようです。
したがって大内軍が月山富田城攻めを断念し、撤退した明確な理由は不明のようです。

ちなみに大内義隆がこの大敗を受けて腑抜け化したというのも現在では否定されているようで、しっかり尼子家の反撃に対する備えや、尼子家との再びの決戦に備えての準備をしっかり行っていたようです。
したがって大寧寺の変の原因も研究者によって意見が分かれているようで、不明のようです。
陶晴賢は最近では石見国守護代を務める問田隆盛の同母弟であり、陶興房の実子である興昌の死により陶晴賢が興房の養子になったということが判明するなど、大内家に関するそれまでの常識は否定されつつあるようですね。

ちなみにこの戦いは、元春の吉川家養子の一件にもかかわってきます。
この吉川家の内紛は吉川興経と叔父・吉川経世の不仲といった単純な理由ではなく、吉川家は大内家を裏切ったものの肝心の尼子家は一時月山富田城一城まで追い詰められた打撃からいまだ立ち直れておらず、尼子家の援軍が得られないために、安芸国内の尼子方の一掃を目指す大内方の前に存亡の危機を迎えていたという切実な理由があります。

したがってこの養子縁組も、興経・千法師の殺害も、毛利元就の独断ではなく裏切りに激怒する大内義隆の意向も大きく反映しています。
むしろ養嗣子・大内晴持を失った義隆の方が元就より強硬な態度だったようです。
また大内義隆や毛利元就には、体勢を立て直した尼子家との再びの決戦の際に吉川興経らにに蠢動されると危険という切実な事情もあることは考慮すべきでしょう。
実際他人事だから単純に興経可哀そう、元就ひどい奴みたいに思えるわけで、自分が尼子家が積極的に攻勢に出られないうちに安芸国内の親尼子勢力を一掃して尼子家との再びの決戦に備えなければならない義隆や元就だったらと考えればこれはしかたないといえるでしょう。
歴史上の悪辣な陰謀とされるものも、よく調べると首謀者側にもこういう事情がある場合も多いことが私が被害者に可哀そうとは思っても、加害者を批判することには消極的な理由ですね。


次に姉川の戦いの項目についてです。
この戦いは織田軍の辛勝で、どちらも大敗というほどではなかったのではというのが私のこの戦いへの見解ですね。

姉川の戦いに朝倉義景が参戦しなかった理由は、朝倉家が当時加賀一向一揆と激しく対立しており本国を空にすることに不安があったというのが考えられているようですね。
実際義景が自ら出陣するようになるのは、本願寺が信長包囲網に参加した後のことです。
現在では学者の間では、むしろ朝倉義景は信長との戦いでは最善を尽くしたという見方の方が優勢のようです。


次に三方ヶ原の戦いの項目についてです。
家康が馬上で脱糞した話についてですが、事実か怪しいという説が有力なようですがそもそもそれが事実としても必ずしも恥とは限らないという説もあるようです。
戦場ではもよおしてもトイレに行く暇がない場合もあり、脱糞したとしてもそれが恐怖が原因とは限らないというわけです。
この場合も武田軍から逃げている最中にトイレに行く暇がなかっただけとも考えられますから。


次に長篠の戦いの項目についてです。
最近では織田軍の鉄砲数はやはり三千丁で正しいのではともいわれているようですね。
1581年に定められた明智光秀家中の軍法によると、一千石取りで軍役60人、そのうち鉄砲5挺を用意すべきと定めていて、これはあくまで明智軍の軍法ではあるものの明智軍も織田軍であるため織田軍の事情もそれほど変わりないと考えてこれを当てはめて計算するとだいたい三〇〇〇丁になるからです。

ちなみに佐久間の内応申し出の計略も最近の研究者の間では否定的な見解が優勢のようですね。
穴山梅雪と武田信豊の勝手な戦線離脱については、彼らが参戦したからと言って戦況が覆せたか私には疑問で、穴山梅雪を過剰に悪人扱いすることにやや否定的なのもこの辺りも理由の一つだったりします。


次に人取橋の戦いの項目についてです。
伊達政宗のこの時期の行動は、小手森城攻めでの降兵八〇〇名虐殺も含めても戦国時代では当たり前に行われていたことで、あまり批判するようなことではないような気がします。
まあ倫理的にはそこまで問題はなかったでしょうけど、戦略的に未熟な部分が伊達政宗にあったのは事実でしょうけどね。


次に関ヶ原の戦いの項目についてです。
前も言いましたが上杉討伐は上杉家の堀家への悪質な嫌がらせなど上杉家の行動はかなり問題があり、家康による言いがかりとはあまり言えないんですよね。
また上杉120万石の勢力は伊達・最上などの東北諸大名にとって単独で対抗しがたい脅威であり、それが堀家の越後を手に入れたら完全に太刀打ちできなくなります。
伊達・最上などの東北諸大名がこれに脅威を感じるのは無理からぬことであり、これを言いがかりというのはちょっと上杉家に寛大すぎるように思います。

こういった背景を考えると、本物かどうかは議論がありますが有名な直江状は、家康以上に上杉家の嫌がらせに苦しむ堀家や、こういった上杉家の行動に脅威を受ける伊達・最上などの東北諸大名にとって許しがたいものと言えます。
結局上杉討伐は上杉家の野心か、または上杉家の外交下手により引き起こされた自業自得と言われても仕方ないものであり、これを言いがかりというのは単なる西軍に対する判官びいきでしかないといえます。
そもそも上杉景勝と直江兼続の主従は、御舘の乱のあとの論功行賞で自分の派閥の家臣ばかり贔屓して新発田重家の反乱を招くなど微妙なエピソードが実際には多く、通説のイメージはかなり美化されたものと言えます。

ちなみに最近では家康は三成の挙兵を予想していたわけではなく、起きたとしても鳥居元忠らでも対処可能な程度と軽く考えていて、西軍の挙兵により大坂・伏見などの畿内が掌握されてしまうことは完全に計算外だったという説が有力だそうですね。

ちなみに私が考える関ヶ原の勝敗を分けた要因としては、東軍に比べて西軍に参加した大名の動機に切実さが欠けている点です。
西軍に参加した大名は石田三成のその周辺以外は領地を増やしたいとか、畿内を制圧した西軍有利と判断したとか、利己的な理由が多かったようです。
それに対して東軍はというと、石田三成は細川忠興の改易を決めていて武断派からすると西軍が勝利した場合自分たちに未来はなく、そもそも簡単には西軍に寝返れないわけです。
また東北の諸大名は上杉家の勢力に対抗するためには徳川家の支援を必要としており、彼らもまた簡単には西軍に味方できないわけです。
総じていうなら、徳川がうまく立ち回った以上に西軍の有力者が大局を誤ったという部分が関ヶ原の勝敗を分けた要因のように私は思えますね。


次に鳥羽・伏見の戦いの項目についてです。
前に言った通り、慶喜もずる賢かったり、薄情だったり、最初味方だった薩摩藩も敵対させたりと問題のある人物でもあり、巨大な官僚機構でもある幕府を完全に掌握できてもおらず、慶喜と幕府を完全に滅ぼさなかった未来が史実より良い方向に向かった可能性は低く、まあ薩摩藩の強引なやり方も仕方ない部分もあったのかのかなというのが私の本音ですね。
厳しいことをいってしまえば、薩摩藩の強引なやり方は日本の歴史ををよい方向に導いたことは事実といえますから。


次にミッドウェーの戦いの項目についてです。
太平洋戦争での日本の降伏した時期についてですが、ルーズベルト大統領は実は日本嫌いだったため、ルーズベルトが死ぬ前に降伏した場合は戦後の日本に対するアメリカの態度が史実より悪くなった可能性があるんです。
日本が朝鮮半島やドイツみたいに日本が分割させられたり、農業国化(各種重工業の禁止)も可能性としてありえました。

また、戦後の日本への条件が比較的寛大になった理由としては、硫黄島や沖縄での戦いで予想外の被害をアメリカも受けたため、さすがに本土上陸作戦に消極的になったというのもあります。
また特攻攻撃によるアメリカ海軍の損害も大きかったことも、アメリカ軍に厭戦気分をもたらした大きな要因でもあり、そういった意味では神風攻撃は日本の戦後復興に貢献したといえます。
よって日本の降伏時期はもしかしたらおおむね史実の時期が案外一番最適だったかもしれないわけです。
このあたりが、歴史のもしもを考える上での難しさでしょうね。


「大敗」を検証のコーナーのコンプリートおめでとうございます。
大敗に何を学ぶのもよいですが、歴史において問題としては誤ったもしもがよく言われることです。
例えば保元の乱の上皇方が源為義の夜襲策を却下しなければといわれますが、夜襲策を採用した場合は崇徳上皇の護衛なども残さねばならず、そもそも兵力で大きく劣勢な上皇方がさらに兵力を二手に分けることになります。
後白河天皇方には源義朝、平清盛、源頼政などの名高い武将も参加していて夜襲が成功したかどうかは不明であり、藤原頼長の大和からの援軍を待つという作戦は結果的に失敗したとはいえあの状況としては無理からぬ決断とも言えます。
こういうふうにきちんと分析しない誤った歴史の教訓が結果として太平洋戦争の敗戦の一因程度にはなった部分もあるのではとすら私は思います。


次に新コーナーの真に受けるなよ、「讒言者」を………のコーナーの吉備笠垂の項目についてです。
前も言いましたが、最近では乙巳の変の首謀者は中大兄皇子ではなく軽皇子(孝徳天皇)だという説が有力になっています。
この場合、この古人大兄王粛清の首謀者は中大兄皇子ではなく孝徳天皇の可能性が高くなります。

またそもそも孝徳天皇も子供の有間皇子を次の天皇にしたかったはず。
そう考えると古人大兄王は、乙巳の変の首謀者が中大兄皇子であった場合を想定しても孝徳天皇にとっても目障りな人物ではあり、孝徳天皇にとってもこの事件は都合の良い事件です。
孝徳天皇も喜んで讒言を受け入れて処断した可能性も高いといえます。
不遇な人生を送った人を善良な人だと考えがちですが忠臣蔵の浅野内匠頭と同じく実際は必ずしもそうとは限らないというわけです。


次に蘇我赤兄の項目についてです。
私はこの事件、そもそも冤罪かを疑っています。
紀温湯に湯治として隠棲していた有間皇子が奈良に戻り斉明天皇に湯治旅行を勧めたことが、そもそも中大兄皇子や斉明天皇が都を留守にする間に謀反を起こすことを狙っていたのではないか、蘇我赤兄に煽られる前から謀反を計画していたのではないかと疑っているからです。
政争を厭うていた有間皇子が何故に奈良に戻ったのか?という疑問も、有間皇子がそもそも謀反を計画していたと考えると説明がつきますから。

したがって私はこの事件はあまり悪質度は高いとは思わないのが本音ですね。
少なくとも吉備笠垂よりは悪質度が低いと考えています。
なにしろ、完全な無実の可能性の高い古人大兄王事件と違って有間皇子の事件は完全な冤罪ではないからです。

あとついでに蘇我倉山田石川麻呂の事件についてですが、石川麻呂は最近では中大兄皇子よりも孝徳天皇に近い立場にあったと考えられ、中大兄皇子と孝徳天皇が対立するようになっていたと考えると中大兄皇子にとっては政敵となっていたと考えられます。
また改革により新しい冠位制が施行されたにもかかわらず、石川麻呂は阿倍内麻呂とともに大化前代以来の紫冠を着し続けたとあり、改革の抵抗勢力的な立場であったと考えられ、もはや仲間とは程遠い状況であったようです。
また蘇我倉山田石川麻呂も、少なくとも通説のイメージほど善良ではない可能性も高いと言えます。

また、乙巳の変や古人大兄皇子事件や蘇我倉山田石川麻呂事件に蘇我氏一族が大きくかかわっているのは、蘇我氏の内部抗争が激化していたのが要因と考えられているようです。
蘇我氏滅亡の最大の原因は蘇我氏の内部抗争であると言えるかもしれませんね。


次に川島皇子の項目についてです。
私は川島皇子の悪質度は判別不能だと考えます。
実は日本書紀のこの事件の記事に川島皇子の名がなく、褒賞を与えられた形跡もないため、密告は史実ではないとする説があるそうなんです。
温厚でゆったりした人柄で、度量も広いという川島皇子の伝えられる人物像から考えてもこの説の説得力はそれなりにあるような気がするため、この説の結論が出るまでは悪質度の判定は私としては困難だと考えるわけです。

あと草壁皇子が皇位継承者の座を勝ち得た理由は、どうも母親のごり押しではないようです。
確かに大津皇子の母・大田皇女は鵜野讃良の実姉ですが、天武天皇即位の際にはすでに亡くなっており、皇后には鵜野讃良がなっています。
この時代皇后の産んだ草壁皇子が尊重されるのは筋目として正しく、また草壁皇子は大津皇子より一年年長です。
大津皇子は母親の後見もなく、母親の後見が期待できる草壁皇子の方が天武天皇崩御後の政治が安定するという天武天皇自身の判断も大きかったと考えられます。

またこの7世紀頃の天皇の即位時の年齢は最年少でも敏達天皇の35歳であり、適齢は40歳だとされていたようです
この記事にもあるように、天武天皇崩御時の草壁皇子は二七歳で、一年年少の大津皇子も共に即位基準の年齢に達していません。
母の皇后が中継ぎとして天皇に即位して即位基準の年齢に達したあと皇子が即位するというのが順当でしょうが、やはり母のいない大津皇子は難しいでしょう。
大津皇子は冤罪で粛清されましたが、草壁皇子が後継者に選ばれたのはどうも7世紀頃の天皇即位の基準では正しいと言わざるおえません。

ちなみにこの年齢基準をもとにこの時期の皇族の年齢を見なおしてみると、有間皇子は享年でも一九歳。
中大兄皇子は乙巳の変直後には二十歳で、孝徳天皇崩御時は三十歳であり、そもそも年齢基準に達していないことがわかりますね。


次に藤原四兄弟の項目についてです。
前も言いましたが、「最も得した者を疑え」で考えると、「長屋王が亡くなれば藤原四兄弟が喜ぶ」だけではなく「長屋王が亡くなれば聖武天皇が喜ぶ」というのも成り立ちます。

聖武天皇は母が非皇族で新興勢力の藤原氏出身であったが政治的な弱点であり、聖武天皇が母・宮子に「大夫人」の称号を贈ろうとしたのもそれを解消するための聖武天皇自身の方策でもあったわけです。
そしてこれらの方策にことごとく反対して失敗させたのが、血筋の面では聖武天皇よりも優位な立場にある四人の皇子を持つ長屋王だったわけです。
血筋において長屋王一家に劣等感を持つ聖武天皇の視点からすれば、聖武天皇自身と子孫の皇位継承を守るためには、長屋王と吉備内親王、そしてその所生の皇子たちを消す必要があったわけです。
そのため現在では長屋王の変を単純に「藤原氏の陰謀」として解釈することは否定的な意見が有力のようですね。
むしろ長屋王の変は「聖武天皇の意思」が大きく関与した事件といえます。
また皇親勢力の大物である舎人・新田部両親王が長屋王を糾弾する側に回るなど、藤原四兄弟以外にも多くの賛同者がおり長屋王に反発する者もそもそも多かったことがうかがえ、長屋王を嫌うものが意外に多かったこともこの事件の要因の一つといえます。


次に藤原良房の項目についてです。
実は現在承和の変の首謀者は藤原良房ではないというのが研究者では優勢のようです。
というのも、後に位人臣を極める藤原良房も当時は太政官の序列で6番目の一中納言でしかなく、このような陰謀を自ら主導できるとは考えずらいからです。

首謀者として有力視されるのは、我が子仁明天皇、そして孫の道康親王(文徳天皇)の地位を確実なものにしたい皇太后橘嘉智子、もしくは自分の子供に皇位継承したい仁明天皇自身が有力視されており、藤原氏の陰謀というより皇族同士の権力争いという方が正しい事件といえます。

またそもそも橘逸勢・伴健岑による計画が実際にあったのかどうかも現在の研究者でも意見が分かれるようで、彼らが冤罪かそうでないかは断定するには早すぎるといえます。
私としてはそういう決めつけこそ冤罪の元ではないかとも思いますから、いくら私のような庶民がこういう決めつけや思い込みをして人に迷惑をかけるわけではないとはいえ、不確かな情報による断定はなるべく避けるようにしています。


次に伴善男の項目についてです。
応天門の変の犯人については、善男の長男中庸が独断で放火したという説もあるようですね。
伴善男が大臣に出世すれば中庸自身の出世も有利になりますから。
また私も事件の真相は失火、若しくは政治とは全く関係な愉快犯による放火ではないかとも考えていますが、藤原良相、藤原良相、源信、伴善男のなかで一番怪しい人物を一人選ぶとしたらやはり伴善男ではないかとも思います。
すでに大臣にまで出世している良相、良相、源信に比べれば、大納言でも少しで大臣に出世できる伴一族が最も応天門に放火といった思い切った行動をする理由が少なくともこの中では一番あると思うからです。
伴善男は結局のところ冤罪なのか、冤罪でないのかもよくわからない人物評価の難しい人物とは言えます。


次に藤原時平の項目についてです。
実はこの当時、阿衡の紛議の経験から、藤原の血を引く皇子の誕生を嫌がる宇多上皇と藤原氏と連携し政権の安定を図る醍醐天皇の路線対立が発生していたようです。
また宇多上皇が醍醐天皇に譲位した後も、道真を始め源善・源希・平季長・藤原忠平といった側近集団を新帝の周囲に配置して新帝の政策を主導しようとしたことは、時平や大納言源光ら上級貴族だけでなく、藤原清貫・藤原菅根・三善清行ら中下級貴族を含め激しい反発があったようなんです。
つまりこの事件は、宇多上皇や道真の政治手法に不満を持つ醍醐天皇と藤原時平、藤原菅根らが政治の主導権を奪還しようとした事件のようです。
また道真と並んでこの時代の知の双璧と呼ばれ、ただし栄達はしていなかった学者の大蔵善行の一門と菅原一門の対立という側面もあったようです。

つまり菅原道真はそもそも敵も多い人物でもあり、また前にも言った通り冤罪かどうかも未だ議論があり、陰謀が実在していた可能性もあることは考慮すべきでしょう。
菅原道真も政治家であり、官僚でもあり、ずるい一面などブラックな側面もあって当然であり、神にされたことでかなり美化されている疑いがあるということも考慮すべきでしょうね。

そもそもこの事件は宇多上皇と醍醐天皇との対立が背景にあり、むしろ首謀者は醍醐天皇自身である可能性が高いといえます。
菅原道真は敵の多い人物のため、藤原時平がこの事件においてどの程度主導的であったかは不明な点が多いことは留意すべきでしょう。
そうしてみると子孫が没落した藤原時平はこの事件の責任をすべて押し付けるのに都合のいい立ち位置にいたとは言えます。

またそもそも藤原氏の他氏排斥事件と言われる陰謀の多くに皇族同士の対立などの要因が大きくかかわっていることが明らかになっています。
はっきり言ってしまえば、皇室を正当化するために、実際には上皇や天皇が首謀した粛清事件の責任を藤原氏に過大に押し付けるような歴史の改変が多くあったということです。
そういった意味では藤原氏の陰謀という考えも見直すべき時期にあるといえます。


次に源満仲の項目についてです。
安和の変はわからないことが多すぎますよね。
そもそも告発内容自体が現在に伝わるものは後代に成立し「源平盛衰記」にあるもので史料価値は低いとされているようで、実際には密告の内容がどのようなもので、源高明がどう関わっていたのかも不明のようです。

またそもそも守平親王が皇太弟となった一件に関しては、村上天皇の遺命であって藤原氏は関与していないとする説が近年有力となっているようです。
このため、安和の変の背景に皇位継承問題が無関係でないとしても、それは為平親王が源高明の娘婿として関係を疑われた事実以上のものはなく、皇位継承問題と安和の変の関係は一旦切り離すべきで、「藤原氏の陰謀説」も含めて再考が必要であるとされているようですね。
どうもこの事件をわからないことが多すぎて悪質度の判別は不可能と言わざる負えないようです。


次に梶原景時の項目についてです。
彼のイメージの良くないエピソードについては、例えば逆櫓の話はそもそも後世の創作である可能性が指摘されているなど、そもそも史実か怪しい話が多いんですよね。

頼朝からの鎌倉帰還禁止命令もかなり怪しいです。
なにしろ義経は腰越の後、鎌倉に幽閉されていた平重衡を京都に連行していますが、鎌倉帰還禁止されていたらあり得ない話ではという理由からです。
また頼朝は義経以外の粛清を全て鎌倉で行っており、義経だけ京都に刺客を送り込むという迂遠な方法で行っているのは不自然であり、むしろこの時点で義経を粛清する意図はなかったと見るべきでしょう。
また京都での刺客の襲撃も最近では頼朝とは関係ないトラブルによるものという説もあり、また義経は京都に戻ってすぐに反頼朝勢力と連絡を取り合っているためやはり謀反の意図があったというのが有力のようです。

また一ノ谷の戦い直後に義経が検非違使の任官を受けた一件については、最近では頼朝も了解の上であり別に怒られていないと考えられています。
義経が軍務から外された理由は単純で、そもそも弟が二人いればこの場合平家討伐を片方に任せて、もう片方に京都の留守を預けるのは処罰とは関係なく当然のことではというだけの話のようです。

こういったことから頼朝の義経に対する猜疑心も、景時の義経への讒言も相当誇張されているというのが現在有力のようです。
むしろ私は景時は御家人の監視役という役目を真面目に行ったがゆえに御家人たちの反感を買ってしまった、わかりやすく言えば石田三成のような人物であったのではないかと思います。
だからこそ景時の死の際には、決して少なくない人物が景時の味方をしていたのではとも思いますね。
そういった意味では悪質度はもう少し低くてもよいのではとも思いますね。


次に加納御前の項目についてです。
この事件は大御所派と秀忠派の対立が背景にあるのではとも言われていますね。
まあそもそも加納御前が正純を恨むのも当然ですし、家康がいなくなって後ろ盾がいなくなった状況にうまく適応できなかった正純の失策も大きかったでしょう。
そう考えるとむしろ悪質度は少なくてもよいとすら思いますね。


讒言事件について私が最近思うことですが、そもそも主君が讒言者の讒言を真に受けてみたいな単純な話自体が日本においては非現実的ではないかということです。
これは皇帝による専制体制の確立した中国なら確かにありえることでしょうが、そもそも中国とは違い権力者といえども絶対的な権力を必ずしも保有していない日本では被害者にも何らかの弱点がないと権力者や讒言者もしっぺ返しを受けてしまうように思うのです。
これの実例としては鎌倉私設軍事裁判にもある嘉元の乱の得宗・北条貞時がまさにそのように思いますし、逆に平頼綱一族の誅殺が成功したのは彼らが嫌われていたからではないでしょうか?

そもそも有能ですが不遇な人物は、協調性がないなど人格面などに問題のある人物であることが多いとも言います。
全てがそうとは言いませんが、源義経はまさにそんな感じのところがありますし、保元の乱の崇徳上皇に味方した人物たちも有能でも協調性のない人物が多かったり、あてはまる例も多々あるように思います。
歴史学者などはこのような被害者がなぜ失脚したかの被害者の要因を分析することをむしろ重視するようですね。


あと胡亥と悪宦官・趙高についてですが、趙高の悪事についてはかなり誇張がある可能性も指摘されています。
なにしろ史記は漢王朝側の視点で記された書物ですし、主君である胡亥を弑逆した趙高の立ち位置は秦王朝滅亡の原因を押し付けるには都合のいい立ち位置ですから。

例えば遺言状の改竄の首謀者を趙高と通説ではしていますが、そもそもこれをだれが見ていたのかという疑問は昔からあります。
例えば丞相・李斯は扶蘇と仲が悪かったとありますし、史実では同門の韓非を陥れて死に追い込んだなどずる賢い一面がありますから、遺言状の改竄はむしろ李斯自身が主導して趙高はこの時点では単なる協力者に過ぎず、李斯はその後趙高と仲間割れして政争に敗北したという構図はありえないことではないでしょう。

またそもそも始皇帝が長男・扶蘇を後継者とする遺言状を残したという話自体を疑う意見もあります。
君主が長男より末子を可愛がり後継者を変更しようとしたという話は世界中で珍しい話ではないですし、そもそも扶蘇は焚書坑儒に反対して始皇帝に嫌われたという記述もありますし、同時代の資料の中には始皇帝が重臣たちの進言により胡亥を後継者に決めたという記録もあります。

またそもそも扶蘇が正統な後継者ということ自体を疑う意見もあります。
扶蘇は太子として立てられたことがないのは確実であり、秦王朝は北方の異民族の影響により儒教的価値観が定着した後世の王朝とは違った習慣や制度もあったと言われており、長男の扶蘇が正統な後継者という考え自体が儒教的価値観が定着した後世の見方であり、同時代の秦王朝の制度に当てはまるか不明なわけです。
つまり現在の研究で判明している範囲内では、秦王朝の制度では胡亥こそが正統な後継者であったという可能性を完全には排除できないというわけです。
こう考えると趙高の悪事とされるもの全てが本当に本人が行ったものか疑う余地があるわけです。

あと胡亥の年齢についてはいくつか説があるようですが、一番年少の説では即位時12歳で自害の時は15歳ともいわれるので、趙高の進言に唯々諾々と従ってしまったことを非難するのは年齢を考えると少々酷な評価のようにも思います。


次に戦国の鬼達のコーナーの柴田勝家の項目についてです。
秀吉が成り上がり者であるため織田家中で浮いている印象があると言っていましたが、わたしはむしろ勝家の方が織田家中で浮いている印象があります。

まず勝家は清州会議の参加者の中で唯一この時点で織田家の親族ではありません。
ほかはみな信長の娘と婚姻関係を結んだり、信長の息子を養子にしていたりしています。

また丹羽長秀や池田恒興などの特に信長の信頼の厚い重臣ともそこまで親しい印象はありません。
それに対し秀吉は、丹羽長秀や池田恒興などの他、信長の側近ともよい関係を築き、後継者であった信忠ともよい関係を築き、織田家の主流派の一員であった印象が強く、織田家中で浮いている印象は実のところありません。
結局のところ勝家は信行に味方して信長に敗れたという弱みから生涯織田家中で浮いていたのではないでしょうか。

ちなみに勝家の秀吉へのパワハラの話はかなり事実か怪しいようですね。
一度は信長と敵対した勝家の立場かすれば、新参者ながら美濃攻めのころにはすでに信長の重臣として活躍していた秀吉にむやみにパワハラできるほどの盤石な立場かどうか怪しく、またその後は任地がかなり離れていてそもそも顔を合わせる機会がそこまであったかも怪しいといえますから。


次に未発見の「遺体」は何処に?のコーナーの豊臣秀頼の項目についての続きです。
いまだに方広寺の大鐘に「国家安康」・「君臣豊楽」が消されずに残っている理由は実は単純で、「鐘の文は大きな問題の要点ではなかった」というのが大きいようです。
前も言いましたが、鐘銘問題は豊臣が起こした諸問題の内の一つでしかなく、同時代幕府から鐘銘問題が重視されていたわけではないためのようです。

むしろ天台僧と真言僧との宗派の席順争いの方が大事で、寺社の力が大きい時代背景を考えればうかつな判断をしてしまうと大事になりかねないからです。
またこれはいくら豊臣家の処遇が重要な問題とは言え、大事に発展しかねない宗派の席順争いをわざわざ引き起こすのかという問題に、またそもそも宗派の席順争いはたびたび起きて朝廷や幕府を困らせた問題であることを考えると、研究者が方広寺事件が幕府が意図的に引き起こしたいいがかりによって引き起こされたという通説に現在では否定的な理由なわけです。

またもう一つの重大な問題は浪人問題です。
というのも、そもそも豊臣家が、兵糧や浪人を集めだすなど、幕府との対決姿勢を前面に押し出し始めたのは方広寺事件が発生する一年以上前からで、つまり方広寺鐘銘事件はそもそも事件以前から豊臣家が不穏な動きをするさなかに発生した事件というわけです。
こういったことから、方広寺鐘銘事件が徳川幕府の言いがかりだという見方は研究者の間ではもはや完全に過去のものとなったと言えるわけですね。
また最近の大河ドラマで大坂の陣で豊臣方にも非があるように描かれるのもこのような最新研究が反映されているからなわけですね。

そもそも私の人物評は研究者の意見をもとにしており、私自身だけの評価ではありません。
足利義輝や足利義昭への批判的な評価も基本的に私だけの評価ではなく現実の歴史をよく知る研究者たちの評価でもあるわけです。


さて今回はこれまで。
更新を楽しみにしています。
それではまた。

No.269 2024/03/18(Mon) 23:40:21

Re: このサイトの戦国房についての感想5 / 薩摩守
> こんにちは、お久しぶりのベルトランです。
 お久し振りです、お待ちしていました!

> また丁寧に返事をいただきありがとうございます。
> また記事の内容に対する反論も多くありますがご了承ください。

 了承しました。反論・反証大歓迎です。
 一応、「『大敗』を検証」、「真に受けるなよ、『讒言者』を」、その他の三つに分けてレスポンスさせて頂きます。

> まず新コーナーの「大敗」を検証のコーナーの上田原の戦いの項目についてです。
> 前も言いましたが、武田軍は素行が基本的に戦国時代基準でもよろしくないです。
> むしろこのあたりのエピソードの非道な武田軍の方が実態に近い姿といえるかもしれませんね。

 捕虜三〇〇〇人を打ち首にした志賀城攻めでは他にも城主夫人を人買いに売り飛ばしまでしたそうですね。上田原での大敗は諏訪・佐久での残虐行為が北信濃勢の徹底抗戦を呼んだと見ています。
 逆を云えば、これに懲りたからこそ信玄は第四回川中島の戦い後、高坂弾正に敵味方問わずすべての戦死者を弔うよう命じる程、犠牲者に想いを致す様になったのかも知れませんね。

>
> 次に月山富田城の戦いの項目についてです。
> 実は尼子側の糧道でのゲリラ戦術はあまり成果は上がらなかったようです。
> 何しろ大内家は日明貿易をしているため、日本有数の有力な水軍を保有していたため、制海権は大内側にあるため、いくら陸上で大内側の補給路を断とうとしても船による水上輸送がいくらでもできるからだそうです。

 それは失念していましたね。考えてみれば後世毛利家も水上輸送を活かして信長と対抗する石山本願寺を支援していましたから、毛利家繁栄の手本となった大内家が貿易で反映していたことからも水軍輸送に長けていても何の不思議もありませんでしたね。

>
> 三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経等の国人衆が再び尼子方に寝返った時点でも大内側が戦力的には優勢で、大急ぎで撤退しなければならないほどの不利でもなかったようです。
> したがって大内軍が月山富田城攻めを断念し、撤退した明確な理由は不明のようです。

 ほほう、ベルトランさんでも不明なことがおありですか。
 まあ、すべてが詳細に判明していれば考察する楽しみもなくなりますが(苦笑)。

>
> ちなみに大内義隆がこの大敗を受けて腑抜け化したというのも現在では否定されているようで、しっかり尼子家の反撃に対する備えや、尼子家との再びの決戦に備えての準備をしっかり行っていたようです。
> したがって大寧寺の変の原因も研究者によって意見が分かれているようで、不明のようです。

 過去作「菜根版名誉挽回して見ませんか?」で大内義隆を取り上げていますように、私は政治家・文化人としての義隆を高く買っています。日本でのキリスト教布教を目指したフランシスコ・ザビエルが京都の荒廃振りに失望し、上洛途中で見た山口の繁栄を思い出して義隆に会いに来た程ですから、腑抜けは少し云い過ぎたかもしれません。
 その一方で、基本、私は完璧超人はそうそう現れないものとみていますので、大内家のそれまでの目を見張る様な軍拡が止まった点や、陶晴賢を初めとする武断派が冷遇され出したことからも、軍事的には腑抜けたと見ていました。

> 陶晴賢は最近では石見国守護代を務める問田隆盛の同母弟であり、陶興房の実子である興昌の死により陶晴賢が興房の養子になったということが判明するなど、大内家に関するそれまでの常識は否定されつつあるようですね。
 ふむ、陶興房は「偉人の親達」で採り上げた際にそれなりに調べたつもりでしたが、隆房(晴賢)が養子とは知りませんでした。まだまだ勉強が足りませんね(苦笑)。

>
> ちなみにこの戦いは、元春の吉川家養子の一件にもかかわってきます。
> この吉川家の内紛は吉川興経と叔父・吉川経世の不仲といった単純な理由ではなく、吉川家は大内家を裏切ったものの肝心の尼子家は一時月山富田城一城まで追い詰められた打撃からいまだ立ち直れておらず、尼子家の援軍が得られないために、安芸国内の尼子方の一掃を目指す大内方の前に存亡の危機を迎えていたという切実な理由があります。

 そもそも元春が吉川家に養子入りしたのも、元春の母で、元就の正室だった妙玖が吉川氏の出だった縁によるものと把握しています。
 中国地方の血縁関係は東北地方のそれ並みに複雑に絡み合っていた様ですね。

>
> したがってこの養子縁組も、興経・千法師の殺害も、毛利元就の独断ではなく裏切りに激怒する大内義隆の意向も大きく反映しています。
> むしろ養嗣子・大内晴持を失った義隆の方が元就より強硬な態度だったようです。
> また大内義隆や毛利元就には、体勢を立て直した尼子家との再びの決戦の際に吉川興経らにに蠢動されると危険という切実な事情もあることは考慮すべきでしょう。

 確かにかかる強硬を強要していたとあれば、義隆を文弱に耽溺していたと見るのは考え物ですね。文化趣味に走ったのは事実にしても、現実逃避の度合いとしては然程ではなかったと見るべきでしょうか?

> 実際他人事だから単純に興経可哀そう、元就ひどい奴みたいに思えるわけで、自分が尼子家が積極的に攻勢に出られないうちに安芸国内の親尼子勢力を一掃して尼子家との再びの決戦に備えなければならない義隆や元就だったらと考えればこれはしかたないといえるでしょう。
> 歴史上の悪辣な陰謀とされるものも、よく調べると首謀者側にもこういう事情がある場合も多いことが私が被害者に可哀そうとは思っても、加害者を批判することには消極的な理由ですね。

 元就が生まれた頃の毛利家の置かれた状況を思えば、元就の謀略頭は止むを得ないところも多く、個人的に元就が嫌いな訳ではありません。
 ただ、元就が息子達に「当家を良く思う者は国外はおろか、国内にも一人としているまい。」と云い残していたので、「自分でそう云う程だから相当だったのでは?」とのイメージをやや引き摺っています。

> 次に姉川の戦いの項目についてです。
> この戦いは織田軍の辛勝で、どちらも大敗というほどではなかったのではというのが私のこの戦いへの見解ですね。

 柴田勝家や羽柴秀吉の陣までもが浅井勢に突破され、朝倉軍を打ち破った徳川勢が加勢したことでようやく攻勢に転じたことで、「織田軍大敗」とカウントした訳ですが、些かピンポイント過ぎましたかな?

>
> 姉川の戦いに朝倉義景が参戦しなかった理由は、朝倉家が当時加賀一向一揆と激しく対立しており本国を空にすることに不安があったというのが考えられているようですね。
> 実際義景が自ら出陣するようになるのは、本願寺が信長包囲網に参加した後のことです。
> 現在では学者の間では、むしろ朝倉義景は信長との戦いでは最善を尽くしたという見方の方が優勢のようです。

 確かに義景は越中一向一揆に悩まされていましたね。永禄の変から越前に逃れて来た足利義昭を奉じて上洛出来なかった理由もそこにあり、一方で義昭が反信長包囲網への参加を呼び掛けた時は応じていますから、その時には延暦寺とも協力関係にあり、仏教勢力との一時的な和解が成立していたかも知れません。
 一度義景と宗教勢力との関係を調べてみる必要もあるようですね。

> 次に三方ヶ原の戦いの項目についてです。
> 家康が馬上で脱糞した話についてですが、事実か怪しいという説が有力なようですがそもそもそれが事実としても必ずしも恥とは限らないという説もあるようです。
> 戦場ではもよおしてもトイレに行く暇がない場合もあり、脱糞したとしてもそれが恐怖が原因とは限らないというわけです。
> この場合も武田軍から逃げている最中にトイレに行く暇がなかっただけとも考えられますから。

 戦場で失禁・脱糞した例はごまんとあると思います。ただ、『三河物語』がわざわざ記載していることが引っ掛かるのです。
 勿論、大久保彦左衛門もこの日記が家康の目に留まればヤバかったでしょうから(苦笑)、見せる意図はなかったと思いますが、恨んだり、裏切ったりする訳でもない相手に関してわざわざ脱糞したと記載した訳ですから、家康がそれ程の恐怖を抱く程の大敗をしたと見て、採り上げました。

> 次に長篠の戦いの項目についてです。
> 最近では織田軍の鉄砲数はやはり三千丁で正しいのではともいわれているようですね。
 ほう?織田の三段鉄砲は否定する傾向が強いので、高価な鉄砲三〇〇〇丁も否定的に見られていると思っていたのですが、そうでもなかったと?

> 1581年に定められた明智光秀家中の軍法によると、一千石取りで軍役60人、そのうち鉄砲5挺を用意すべきと定めていて、これはあくまで明智軍の軍法ではあるものの明智軍も織田軍であるため織田軍の事情もそれほど変わりないと考えてこれを当てはめて計算するとだいたい三〇〇〇丁になるからです。
 なる程、数的には考えられますね。拙作でも触れましたが、私は一〇〇〇丁程の保有で、三段鉄砲ならずとも、最前列で発砲した者の後を待機していた者・弾込め直しを終えた者が入れ替わる形での釣瓶撃ちはあり得たと見ていた訳ですが。

> ちなみに佐久間の内応申し出の計略も最近の研究者の間では否定的な見解が優勢のようですね。
 三方ヶ原の戦いにおける戦線離脱と、後々信長から追放刑を受けた史実から、通説や軍記物で嫌な謀略役を振られたという事でしょうか?

> 穴山梅雪と武田信豊の勝手な戦線離脱については、彼らが参戦したからと言って戦況が覆せたか私には疑問で、穴山梅雪を過剰に悪人扱いすることにやや否定的なのもこの辺りも理由の一つだったりします。
 梅雪が最終的に勝頼と袂を分かったのも、その後の家康との交流から武田の血筋を残す為の止むを得ぬ離反との見方があるのは知っています(穴山家断絶後、家康は五男の信吉に武田姓を名乗らせていましたし)。
 ただ、戦況が覆せたか否かは別として、無断離脱はやはり切腹ものと私は考えます。私が設楽原に散った山県昌景・馬場信春・真田信綱・真田昌輝・原昌胤・土屋昌続の身内や家臣だったら、一戦も交えず無断で戦場を離れた梅雪や信豊は決して許せなかったでしょう。
 逆にその様な非難の声や報復が無かったことから、戦線離脱が無かったと考える方がまだまともかも知れません。

> 次に人取橋の戦いの項目についてです。
> 伊達政宗のこの時期の行動は、小手森城攻めでの降兵八〇〇名虐殺も含めても戦国時代では当たり前に行われていたことで、あまり批判するようなことではないような気がします。
> まあ倫理的にはそこまで問題はなかったでしょうけど、戦略的に未熟な部分が伊達政宗にあったのは事実でしょうけどね。

 その後、二つの城を攻め落とした際に、敢えて片方を皆殺しに近い扱いをし、片方を寛容にして様子見をしたりしていますから、残虐度はともかくとして振舞い方と、相手に与えた心証に落ち度があったかもしれませんね。
 普通なら、畠山義継が伊達輝宗にしたことを思えば、政宗に同情する人の方が多くてもおかしくなかった訳ですから。


> 次に関ヶ原の戦いの項目についてです。
> 前も言いましたが上杉討伐は上杉家の堀家への悪質な嫌がらせなど上杉家の行動はかなり問題があり、家康による言いがかりとはあまり言えないんですよね。

 越後の民を裏から糸引いて新参領主である堀家に反抗させる………伊達政宗が葛西・大崎一揆を扇動したみたいですね(苦笑)。

> また上杉120万石の勢力は伊達・最上などの東北諸大名にとって単独で対抗しがたい脅威であり、それが堀家の越後を手に入れたら完全に太刀打ちできなくなります。
> 伊達・最上などの東北諸大名がこれに脅威を感じるのは無理からぬことであり、これを言いがかりというのはちょっと上杉家に寛大すぎるように思います。

 ふむ、確かに伊達政宗・最上義光といった者達にしてみれば、一二〇万石の上杉家は近くにいて嬉しい存在ではありませんね。特に越後は出羽と隣接してますから、山形を治める最上、米沢生まれの政宗には昔から脅威でしたでしょうし。

>
> こういった背景を考えると、本物かどうかは議論がありますが有名な直江状は、家康以上に上杉家の嫌がらせに苦しむ堀家や、こういった上杉家の行動に脅威を受ける伊達・最上などの東北諸大名にとって許しがたいものと言えます。

 まあ、反論したと云うだけで上杉を叩く材料にはなりますね。

> 結局上杉討伐は上杉家の野心か、または上杉家の外交下手により引き起こされた自業自得と言われても仕方ないものであり、これを言いがかりというのは単なる西軍に対する判官びいきでしかないといえます。
 上杉謙信・景勝は好きな武将なので、多少贔屓的に見ている可能性はあります。ただ、三成挙兵後の小山軍議で従軍大名を味方につけた家康が、「上杉を攻めるべきか?三成を討つべきか?」と問うた際にほぼ全員が西に取って返して三成を打つべしとしたことから、云い掛かりに等しい討伐を受けようとしている上杉勢より、常日頃から嫌っている三成に矛先を向ける方が選ばれたとの従来の見解に賛成しています。
 勿論、大坂城内に人質状態にされていた家族のことや、対毛利、対宇喜多との関係も考慮する必要はあるとは思いますが。

> そもそも上杉景勝と直江兼続の主従は、御舘の乱のあとの論功行賞で自分の派閥の家臣ばかり贔屓して新発田重家の反乱を招くなど微妙なエピソードが実際には多く、通説のイメージはかなり美化されたものと言えます。
 まあ、良いか悪いかは別として、景勝も兼続も好き嫌いは激しそうですね(苦笑)。だからこそあの傾奇者・前田慶次が最後の最後に身を寄せたとも思いますが。

>
> ちなみに最近では家康は三成の挙兵を予想していたわけではなく、起きたとしても鳥居元忠らでも対処可能な程度と軽く考えていて、西軍の挙兵により大坂・伏見などの畿内が掌握されてしまうことは完全に計算外だったという説が有力だそうですね。

 鳥居元忠は伏見城に籠り、加勢に来た島津義弘に対して鉄砲を撃ち掛けてそれを拒絶したと云われています。余程の覚悟が無ければできなかったと思うのですが、その辺りはどうでしょう?

>
> ちなみに私が考える関ヶ原の勝敗を分けた要因としては、東軍に比べて西軍に参加した大名の動機に切実さが欠けている点です。
> 西軍に参加した大名は石田三成のその周辺以外は領地を増やしたいとか、畿内を制圧した西軍有利と判断したとか、利己的な理由が多かったようです。

 本戦で日和見的な者達が多かったのもその辺りに原因があったという事でしょうか?

> それに対して東軍はというと、石田三成は細川忠興の改易を決めていて武断派からすると西軍が勝利した場合自分たちに未来はなく、そもそも簡単には西軍に寝返れないわけです。
 細川忠興改易の危機は全く知りませんでした。あの生き残りにかけては驚異的な才能を発揮する(と見ている)細川家がかかる危機に直面していたとあっては、ガラシャ夫人達があれほどまでに抵抗したのも腑に落ちます。

> また東北の諸大名は上杉家の勢力に対抗するためには徳川家の支援を必要としており、彼らもまた簡単には西軍に味方できないわけです。
 東北諸大名が家康の力を必要としたとの見解は興味深い上に、頷けます。伊達と最上が伯父と甥でありながら互いを信用出来なかったので(苦笑)、家康を頼りとしたのはなる程と思わされました。

> 総じていうなら、徳川がうまく立ち回った以上に西軍の有力者が大局を誤ったという部分が関ヶ原の勝敗を分けた要因のように私は思えますね。
 一方で、真田家や九鬼家のように敢えて敵味方に分かれて一族の存続を図った例もありましたから難しいですね。
 特に九鬼守隆は東軍方について勝利した後に、西軍についた父・嘉陸の助命嘆願が家康に受け入れられたのに、それが伝わる前に嘉隆が切腹してしまっていたなんて例もありましたから。

> 次に鳥羽・伏見の戦いの項目についてです。
> 前に言った通り、慶喜もずる賢かったり、薄情だったり、最初味方だった薩摩藩も敵対させたりと問題のある人物でもあり、巨大な官僚機構でもある幕府を完全に掌握できてもおらず、慶喜と幕府を完全に滅ぼさなかった未来が史実より良い方向に向かった可能性は低く、まあ薩摩藩の強引なやり方も仕方ない部分もあったのかのかなというのが私の本音ですね。

 世界史で見ても、革命的な出来事が起きると「敵の総大将の首を見ずには収まらない。」と云う面が洋を問わず強いようです。フランス国王ルイ16世やマリー・アントワネットが本来必要もないのにギロチンに掛けられたのもその為かと。
 結果的に組織としての幕府が潰されたのは仕方ないと思いますが、抗戦の意が殆んどなかった慶喜がああまで追い詰められたのには眉を顰めたくなります。新政府に対しても、強情な幕府内部に対しても。
 確かに大坂城からの逃亡は城内に残る兵にしてみれば、「ふざけんな!」と云いたくなるでしょうけれど、徹底抗戦中止が言葉で通じたとは思えないことを思うと、慶喜の取った行為は良い意味での「肩すかし」と見ています。
 あ、慶喜は結構好きなので、贔屓している可能性を差っ引いておいて下さい(苦笑)。

> 厳しいことをいってしまえば、薩摩藩の強引なやり方は日本の歴史ををよい方向に導いたことは事実といえますから。
 薩長藩閥を考えた際、個人的には薩摩閥より長州閥の方がえげつないと思っています(その理由は書くと長くなるのでまた別の機会に)。

> 次にミッドウェーの戦いの項目についてです。
> 太平洋戦争での日本の降伏した時期についてですが、ルーズベルト大統領は実は日本嫌いだったため、ルーズベルトが死ぬ前に降伏した場合は戦後の日本に対するアメリカの態度が史実より悪くなった可能性があるんです。
> 日本が朝鮮半島やドイツみたいに日本が分割させられたり、農業国化(各種重工業の禁止)も可能性としてありえました。

 「降伏は幸福か」でも触れましたが、降伏のタイミングは本当に難しいです。

>
> また、戦後の日本への条件が比較的寛大になった理由としては、硫黄島や沖縄での戦いで予想外の被害をアメリカも受けたため、さすがに本土上陸作戦に消極的になったというのもあります。
> また特攻攻撃によるアメリカ海軍の損害も大きかったことも、アメリカ軍に厭戦気分をもたらした大きな要因でもあり、そういった意味では神風攻撃は日本の戦後復興に貢献したといえます。
> よって日本の降伏時期はもしかしたらおおむね史実の時期が案外一番最適だったかもしれないわけです。
> このあたりが、歴史のもしもを考える上での難しさでしょうね。

 本当に難しいです。沖縄戦でもアメリカ軍は短期間で制圧出来ると思っていたところを予想外の抵抗に遇い、二万人を超える戦死者を出しました。そのことが国体護持を初めとする占領政策の軟化を読んだ側面は確かにあると思います(過酷な占領政策を取ることで日本人が強力に反発するのは避けたかったことでしょう)。
 一方で、「本土決戦を行えば膨大な犠牲者が出かねない。」との認識は、戦時中は勿論、戦後もアメリカの原爆投下を正当化する論拠となりました(今でもアメリカ人の半数近くは「原爆投下で日本の降伏が早まり、本土決戦が行われれば出たであろう何百万人と云う犠牲が回避された。」と捉えています)。
 くどいですが、本当に難しいです。

> 「大敗」を検証のコーナーのコンプリートおめでとうございます。
 いつもありがとうございます。

> 大敗に何を学ぶのもよいですが、歴史において問題としては誤ったもしもがよく言われることです。
> 例えば保元の乱の上皇方が源為義の夜襲策を却下しなければといわれますが、夜襲策を採用した場合は崇徳上皇の護衛なども残さねばならず、そもそも兵力で大きく劣勢な上皇方がさらに兵力を二手に分けることになります。
> 後白河天皇方には源義朝、平清盛、源頼政などの名高い武将も参加していて夜襲が成功したかどうかは不明であり、藤原頼長の大和からの援軍を待つという作戦は結果的に失敗したとはいえあの状況としては無理からぬ決断とも言えます。
> こういうふうにきちんと分析しない誤った歴史の教訓が結果として太平洋戦争の敗戦の一因程度にはなった部分もあるのではとすら私は思います。

 大敗に敗戦を避ける術を学ぶのも大切ですが、そもそも戦争を避ける術を学ぶ方をもっと大切にして欲しいものです。
 私が「大敗」を題材にしたのも、太平洋戦争における甚大な犠牲を忘れたかのような軍備増強・核武装論に歯止めを掛けたいとの想いもありました。
 勿論、軍拡や核武装を唱える人達は、「あの犠牲を繰り返さない為にこそ。」と反論するでしょうけれど、勢いや面子に囚われて気勢を挙げるだけの者達からは「大敗」の犠牲者を本当に想っているかどうか疑問を覚えます。

No.270 2024/03/22(Fri) 22:04:01

Re: このサイトの戦国房についての感想5 / 薩摩守
 後半のレスポンスは後日行います。
 一応文章を書いたのですが、NGワードが含まれるとしてエラーが出て書き込めません。
 自分で管理している掲示板なのに、NGワードが何なのか特定できていません。
 可能な限り近日中にレスの続きを書き込みたいと思います。

No.271 2024/03/22(Fri) 23:48:05

Re: このサイトの戦国房についての感想5 / ベルトラン
実は私もNGワードのエラーになりました。
私の場合、漢字で「こ〇す」「まっ〇つ」などがNGワードだったようです。

No.272 2024/03/23(Sat) 12:07:10

Re: このサイトの戦国房についての感想5 / 薩摩守
 すっかり遅くなりました。
 レスポンスの続きです。


> 次に新コーナーの真に受けるなよ、「讒言者」を………のコーナーの吉備笠垂の項目についてです。
> 前も言いましたが、最近では乙巳の変の首謀者は中大兄皇子ではなく軽皇子(孝徳天皇)だという説が有力になっています。
> この場合、この古人大兄王粛清の首謀者は中大兄皇子ではなく孝徳天皇の可能性が高くなります。

 ふむ、難波宮で半ば置き去りにされた不遇から孝徳天皇を被害者的に見がちですが、中大兄皇子の陰で結構やることをやっていた人物と云うことですな。

>
> またそもそも孝徳天皇も子供の有間皇子を次の天皇にしたかったはず。
> そう考えると古人大兄王は、乙巳の変の首謀者が中大兄皇子であった場合を想定しても孝徳天皇にとっても目障りな人物ではあり、孝徳天皇にとってもこの事件は都合の良い事件です。
> 孝徳天皇も喜んで讒言を受け入れて処断した可能性も高いといえます。
> 不遇な人生を送った人を善良な人だと考えがちですが忠臣蔵の浅野内匠頭と同じく実際は必ずしもそうとは限らないというわけです。

 本作にも度々見られた、黒幕=処断者の図式が孝徳天皇にも当てはまるという事ですね。余り孝徳天皇のことを考察したことも無かったので、一度詳しく見る必要がありますね。

>
> 次に蘇我赤兄の項目についてです。
> 私はこの事件、そもそも冤罪かを疑っています。
> 紀温湯に湯治として隠棲していた有間皇子が奈良に戻り斉明天皇に湯治旅行を勧めたことが、そもそも中大兄皇子や斉明天皇が都を留守にする間に謀反を起こすことを狙っていたのではないか、蘇我赤兄に煽られる前から謀反を計画していたのではないかと疑っているからです。
> 政争を厭うていた有間皇子が何故に奈良に戻ったのか?という疑問も、有間皇子がそもそも謀反を計画していたと考えると説明がつきますから。
>
> したがって私はこの事件はあまり悪質度は高いとは思わないのが本音ですね。
> 少なくとも吉備笠垂よりは悪質度が低いと考えています。
> なにしろ、完全な無実の可能性の高い古人大兄王事件と違って有間皇子の事件は完全な冤罪ではないからです。

 確かに冤罪ではありません。
 唆されたとはいえ、中大兄に対して挙兵を企てたのですから、事が敗れた上は命を奪われたこともやむを得ないことと思っています。
 ただ、それでも唆した側への悪意は私の中では消えません。変な例えですが、現代の警察が危険視する反社組織を唆して、反社組織がそれに乗ったとしたら、反社組織が罰せられるのは当然ですし、唆した者が重罪なのも当然と考えます。


>
> あとついでに蘇我倉山田石川麻呂の事件についてですが、石川麻呂は最近では中大兄皇子よりも孝徳天皇に近い立場にあったと考えられ、中大兄皇子と孝徳天皇が対立するようになっていたと考えると中大兄皇子にとっては政敵となっていたと考えられます。
> また改革により新しい冠位制が施行されたにもかかわらず、石川麻呂は阿倍内麻呂とともに大化前代以来の紫冠を着し続けたとあり、改革の抵抗勢力的な立場であったと考えられ、もはや仲間とは程遠い状況であったようです。
> また蘇我倉山田石川麻呂も、少なくとも通説のイメージほど善良ではない可能性も高いと言えます。
>
> また、乙巳の変や古人大兄皇子事件や蘇我倉山田石川麻呂事件に蘇我氏一族が大きくかかわっているのは、蘇我氏の内部抗争が激化していたのが要因と考えられているようです。
> 蘇我氏滅亡の最大の原因は蘇我氏の内部抗争であると言えるかもしれませんね。

 蘇我一族である石川麻呂が乙巳の変に加担したのも、腹に一物あってのことだったという事でしょうか。逆にそれならそれで土壇場で抵抗せず自害したのが解せません。たいていそういう奴は往生際が悪いので(←偏見です(苦笑))。


> 次に川島皇子の項目についてです。
> 私は川島皇子の悪質度は判別不能だと考えます。
> 実は日本書紀のこの事件の記事に川島皇子の名がなく、褒賞を与えられた形跡もないため、密告は史実ではないとする説があるそうなんです。
> 温厚でゆったりした人柄で、度量も広いという川島皇子の伝えられる人物像から考えてもこの説の説得力はそれなりにあるような気がするため、この説の結論が出るまでは悪質度の判定は私としては困難だと考えるわけです。

 褒章を得ていないと云うのは盲点でした。欲に眼が眩んだのでないとすれば彼が親友の大津皇子を陥れた人物として名が挙がった要因は何だったのでしょうか?単に鵜野讃良に忖度して行動しないと我が身が危ないと思った?

>
> あと草壁皇子が皇位継承者の座を勝ち得た理由は、どうも母親のごり押しではないようです。
> 確かに大津皇子の母・大田皇女は鵜野讃良の実姉ですが、天武天皇即位の際にはすでに亡くなっており、皇后には鵜野讃良がなっています。
> この時代皇后の産んだ草壁皇子が尊重されるのは筋目として正しく、また草壁皇子は大津皇子より一年年長です。
> 大津皇子は母親の後見もなく、母親の後見が期待できる草壁皇子の方が天武天皇崩御後の政治が安定するという天武天皇自身の判断も大きかったと考えられます。

 ごり押しの有無はともかく、生母が存命であることが重要なのは間違いなさそうですね。

>
> またこの7世紀頃の天皇の即位時の年齢は最年少でも敏達天皇の35歳であり、適齢は40歳だとされていたようです
> この記事にもあるように、天武天皇崩御時の草壁皇子は二七歳で、一年年少の大津皇子も共に即位基準の年齢に達していません。
> 母の皇后が中継ぎとして天皇に即位して即位基準の年齢に達したあと皇子が即位するというのが順当でしょうが、やはり母のいない大津皇子は難しいでしょう。
> 大津皇子は冤罪で粛清されましたが、草壁皇子が後継者に選ばれたのはどうも7世紀頃の天皇即位の基準では正しいと言わざるおえません。
>
> ちなみにこの年齢基準をもとにこの時期の皇族の年齢を見なおしてみると、有間皇子は享年でも一九歳。
> 中大兄皇子は乙巳の変直後には二十歳で、孝徳天皇崩御時は三十歳であり、そもそも年齢基準に達していないことがわかりますね。

 なる程、この御指摘には色々とが合点の行くことが増えました。早々に皇太子となった中大兄皇子が何故になかなか即位しなかったのか?天武天皇崩御後、草壁皇子がすぐ即位しなかったのか?壬申の乱で落命した大友皇子=弘文天皇が即位したのか否か?
 ただでさえ皇族は互いの血縁が複雑で、単なる皇位継承資格者だけならごまんといた訳ですから、要らざる混乱を避ける為にもある程度の年齢に達しないと即位させなかったのが慣例なら天皇不在期が多かったことも納得です。

> 次に藤原四兄弟の項目についてです。
> 前も言いましたが、「最も得した者を疑え」で考えると、「長屋王が亡くなれば藤原四兄弟が喜ぶ」だけではなく「長屋王が亡くなれば聖武天皇が喜ぶ」というのも成り立ちます。
>
> 聖武天皇は母が非皇族で新興勢力の藤原氏出身であったが政治的な弱点であり、聖武天皇が母・宮子に「大夫人」の称号を贈ろうとしたのもそれを解消するための聖武天皇自身の方策でもあったわけです。
> そしてこれらの方策にことごとく反対して失敗させたのが、血筋の面では聖武天皇よりも優位な立場にある四人の皇子を持つ長屋王だったわけです。
> 血筋において長屋王一家に劣等感を持つ聖武天皇の視点からすれば、聖武天皇自身と子孫の皇位継承を守るためには、長屋王と吉備内親王、そしてその所生の皇子たちを消す必要があったわけです。
> そのため現在では長屋王の変を単純に「藤原氏の陰謀」として解釈することは否定的な意見が有力のようですね。
> むしろ長屋王の変は「聖武天皇の意思」が大きく関与した事件といえます。

 基皇子を亡くしたことで半ば正気を失っていたことで暴走したと見ていた聖武天皇ですが、藤原家との血の濃さから彼にも長屋王と対立する要因は充分にあったという事ですね。

> また皇親勢力の大物である舎人・新田部両親王が長屋王を糾弾する側に回るなど、藤原四兄弟以外にも多くの賛同者がおり長屋王に反発する者もそもそも多かったことがうかがえ、長屋王を嫌うものが意外に多かったこともこの事件の要因の一つといえます。
 難しいですね。当時は天武系と天智系の対立もあったでしょうし、何時の時代でも保守と改革の対立もあります。そう見ると政権を握れる握れない以外にも、保守の急先鋒である長屋王には改革を望む者の多くが敵に回ったと見れますね。

> 次に藤原良房の項目についてです。
> 実は現在承和の変の首謀者は藤原良房ではないというのが研究者では優勢のようです。
> というのも、後に位人臣を極める藤原良房も当時は太政官の序列で6番目の一中納言でしかなく、このような陰謀を自ら主導できるとは考えずらいからです。
>
> 首謀者として有力視されるのは、我が子仁明天皇、そして孫の道康親王(文徳天皇)の地位を確実なものにしたい皇太后橘嘉智子、もしくは自分の子供に皇位継承したい仁明天皇自身が有力視されており、藤原氏の陰謀というより皇族同士の権力争いという方が正しい事件といえます。

 桓武天皇の例からも、結局は弟や甥よりも息子大事となり、皇統を継がせたくなる人情はよく分かります。

>
> またそもそも橘逸勢・伴健岑による計画が実際にあったのかどうかも現在の研究者でも意見が分かれるようで、彼らが冤罪かそうでないかは断定するには早すぎるといえます。
> 私としてはそういう決めつけこそ冤罪の元ではないかとも思いますから、いくら私のような庶民がこういう決めつけや思い込みをして人に迷惑をかけるわけではないとはいえ、不確かな情報による断定はなるべく避けるようにしています。

 橘逸勢に関しては、入唐時代に弘法大師様の学友だったことから贔屓目に身がちなのを白状しておきます(苦笑)。

> 次に伴善男の項目についてです。
> 応天門の変の犯人については、善男の長男中庸が独断で放火したという説もあるようですね。
> 伴善男が大臣に出世すれば中庸自身の出世も有利になりますから。
> また私も事件の真相は失火、若しくは政治とは全く関係な愉快犯による放火ではないかとも考えていますが、藤原良相、藤原良相、源信、伴善男のなかで一番怪しい人物を一人選ぶとしたらやはり伴善男ではないかとも思います。
> すでに大臣にまで出世している良相、良相、源信に比べれば、大納言でも少しで大臣に出世できる伴一族が最も応天門に放火といった思い切った行動をする理由が少なくともこの中では一番あると思うからです。
> 伴善男は結局のところ冤罪なのか、冤罪でないのかもよくわからない人物評価の難しい人物とは言えます。

 確かに謎の多い人物です。拙作にて私も愉快犯による犯行の可能性が高く、善男が火を着けたとは思っていないのですが、事件直後早々に源信を犯人として藤原良相に訴えたのが一番解せません。
 讒訴が横行した時代ではありますが、讒訴であることがバレれば重罪であることは誰しもが認識していたでしょうし、実際善男の讒言は善男の犯行とする密告より遥か以前に一蹴されました。
 仮に善男が放火したにせよ、信を嵌める為の行動しては余りに御粗末です。

>
>
> 次に藤原時平の項目についてです。
> 実はこの当時、阿衡の紛議の経験から、藤原の血を引く皇子の誕生を嫌がる宇多上皇と藤原氏と連携し政権の安定を図る醍醐天皇の路線対立が発生していたようです。
> また宇多上皇が醍醐天皇に譲位した後も、道真を始め源善・源希・平季長・藤原忠平といった側近集団を新帝の周囲に配置して新帝の政策を主導しようとしたことは、時平や大納言源光ら上級貴族だけでなく、藤原清貫・藤原菅根・三善清行ら中下級貴族を含め激しい反発があったようなんです。
> つまりこの事件は、宇多上皇や道真の政治手法に不満を持つ醍醐天皇と藤原時平、藤原菅根らが政治の主導権を奪還しようとした事件のようです。
> また道真と並んでこの時代の知の双璧と呼ばれ、ただし栄達はしていなかった学者の大蔵善行の一門と菅原一門の対立という側面もあったようです。

 道真が讒訴された直後、彼を救わんとして醍醐天皇に会わんとした宇多上皇が内裏に入ることを許されなかったのも、御指摘の対立があり、兄が来ることを先刻予測していた醍醐天皇が手を打っていたという事ですね。
 この兄弟仲も一度じっくり調べた方が良さそうですね。

>
> つまり菅原道真はそもそも敵も多い人物でもあり、また前にも言った通り冤罪かどうかも未だ議論があり、陰謀が実在していた可能性もあることは考慮すべきでしょう。
> 菅原道真も政治家であり、官僚でもあり、ずるい一面などブラックな側面もあって当然であり、神にされたことでかなり美化されている疑いがあるということも考慮すべきでしょうね。

 それだけ怨霊として恐れられたという事ですね。確かに道真は政治の世界も学問の世界も対立する相手への悪口が多いことに辟易していたと聞いたことがあります。
 綺麗事だけの人物だったとは思いませんが、謀叛自体は冤罪でしょう。そうでなければいくら皇太子の夭折や疫病が相次いだにせよ、「道真の怨霊」一択で見られたのは、それだけ醍醐天皇陣営に道真を冤罪で嵌めた意識が有ったからだと私は考えます。

>
> そもそもこの事件は宇多上皇と醍醐天皇との対立が背景にあり、むしろ首謀者は醍醐天皇自身である可能性が高いといえます。
> 菅原道真は敵の多い人物のため、藤原時平がこの事件においてどの程度主導的であったかは不明な点が多いことは留意すべきでしょう。
> そうしてみると子孫が没落した藤原時平はこの事件の責任をすべて押し付けるのに都合のいい立ち位置にいたとは言えます。

 まあ、藤原家は時平の弟の忠平が命脈も摂関位も保った訳ですから、世間から異常に恐れられた道真への怒りを時平に集中させたのは考えられる話です。
 平将門や藤原純友が兵乱を起こした際に摂政だった忠平は名前はよく知っていてもその人物像は余り知りません。彼も一度よく調べないといけませんね。

>
> またそもそも藤原氏の他氏排斥事件と言われる陰謀の多くに皇族同士の対立などの要因が大きくかかわっていることが明らかになっています。
> はっきり言ってしまえば、皇室を正当化するために、実際には上皇や天皇が首謀した粛清事件の責任を藤原氏に過大に押し付けるような歴史の改変が多くあったということです。
> そういった意味では藤原氏の陰謀という考えも見直すべき時期にあるといえます。

 藤原氏も数が多く、他氏排斥に際し、藤原家の者が処罰された者の中に名を連ねている例は拙作検証中にも少なからず見られました。
 加害者にも被害者にもを連ねた藤原氏。増え過ぎ、身近過ぎた故、何かあった時に罪を被せ易い存在になった一面もあるようですね。

>
>
> 次に源満仲の項目についてです。
> 安和の変はわからないことが多すぎますよね。
> そもそも告発内容自体が現在に伝わるものは後代に成立し「源平盛衰記」にあるもので史料価値は低いとされているようで、実際には密告の内容がどのようなもので、源高明がどう関わっていたのかも不明のようです。
>
> またそもそも守平親王が皇太弟となった一件に関しては、村上天皇の遺命であって藤原氏は関与していないとする説が近年有力となっているようです。
> このため、安和の変の背景に皇位継承問題が無関係でないとしても、それは為平親王が源高明の娘婿として関係を疑われた事実以上のものはなく、皇位継承問題と安和の変の関係は一旦切り離すべきで、「藤原氏の陰謀説」も含めて再考が必要であるとされているようですね。
> どうもこの事件をわからないことが多すぎて悪質度の判別は不可能と言わざる負えないようです。

 分からないことが多過ぎますが、謀叛人が僅か二年で赦免され、その謀叛人の娘が天下の大権を掌握した者の妻になっていることにすべての答えがある気がします。


> 次に梶原景時の項目についてです。
> 彼のイメージの良くないエピソードについては、例えば逆櫓の話はそもそも後世の創作である可能性が指摘されているなど、そもそも史実か怪しい話が多いんですよね。

 まずは「義経の敵」と見做されたのが大きいですね。

>
> 頼朝からの鎌倉帰還禁止命令もかなり怪しいです。
> なにしろ義経は腰越の後、鎌倉に幽閉されていた平重衡を京都に連行していますが、鎌倉帰還禁止されていたらあり得ない話ではという理由からです。

 どうでしょう?良くも悪くも義経は頼朝の怒りを当初かなり軽く考えていましたから、許されるものと思って臆面もなく腰越までやってきた可能性は充分あると思っています。

> また頼朝は義経以外の粛清を全て鎌倉で行っており、義経だけ京都に刺客を送り込むという迂遠な方法で行っているのは不自然であり、むしろこの時点で義経を粛清する意図はなかったと見るべきでしょう。
 確かに頼朝が他に刺客を放った話を聞きませんね。
 時期も場所も異なりますが、藤原秀衡が余りに頼朝に都合よく逝去したことを指して、頼朝が放った刺客の手に掛かった説を唱える人もいますが、私は過去作でこれを否定しています。
 となると、頼朝は御指摘のように粛清するにしても自領内で図ることが多く、遠隔地に刺客を放つのは流儀の中になかったのかも知れませんね。

> また京都での刺客の襲撃も最近では頼朝とは関係ないトラブルによるものという説もあり、また義経は京都に戻ってすぐに反頼朝勢力と連絡を取り合っているためやはり謀反の意図があったというのが有力のようです。
 ではその刺客は何者が放ったのでしょうか?平家の残党や源義仲縁者による報復でしょうか?

>
> また一ノ谷の戦い直後に義経が検非違使の任官を受けた一件については、最近では頼朝も了解の上であり別に怒られていないと考えられています。
> 義経が軍務から外された理由は単純で、そもそも弟が二人いればこの場合平家討伐を片方に任せて、もう片方に京都の留守を預けるのは処罰とは関係なく当然のことではというだけの話のようです。

 軍務を一時期離れたことへの説明は納得しました。ただ、この時検非違使になったのを問題視されなかったのであれば、平家滅亡後に義経が官位を受けたことは全く不自然でなく、義経に対する咎めが少々理不尽に映ります。

>
> こういったことから頼朝の義経に対する猜疑心も、景時の義経への讒言も相当誇張されているというのが現在有力のようです。
> むしろ私は景時は御家人の監視役という役目を真面目に行ったがゆえに御家人たちの反感を買ってしまった、わかりやすく言えば石田三成のような人物であったのではないかと思います。

 いつの世も、目付け役は嫌われるものですね。

> だからこそ景時の死の際には、決して少なくない人物が景時の味方をしていたのではとも思いますね。
> そういった意味では悪質度はもう少し低くてもよいのではとも思いますね。

 具体的に誰がどう味方したのか詳らかに出来れば、景時を主役にした「名誉挽回して見ませんか?」が書けそうです(笑)。


> 次に加納御前の項目についてです。
> この事件は大御所派と秀忠派の対立が背景にあるのではとも言われていますね。
> まあそもそも加納御前が正純を恨むのも当然ですし、家康がいなくなって後ろ盾がいなくなった状況にうまく適応できなかった正純の失策も大きかったでしょう。
> そう考えるとむしろ悪質度は少なくてもよいとすら思いますね。

 正純が職務上の出世競争の結果とはいえ、多くの敵を作り、父・正信程には控えることを知らなかったことで失脚したのは歴史によくある事件としてそれほど悪質とは見ていません。
 ただただ、釣天井などという大袈裟なでっち上げを持ってきたこと、大久保忠隣改易をそのままし返したようなえげつなさ、加納御前の余りの身内贔屓などを加味して、「やり過ぎ」を感じているまでです。


> 讒言事件について私が最近思うことですが、そもそも主君が讒言者の讒言を真に受けてみたいな単純な話自体が日本においては非現実的ではないかということです。
> これは皇帝による専制体制の確立した中国なら確かにありえることでしょうが、そもそも中国とは違い権力者といえども絶対的な権力を必ずしも保有していない日本では被害者にも何らかの弱点がないと権力者や讒言者もしっぺ返しを受けてしまうように思うのです。
> これの実例としては鎌倉私設軍事裁判にもある嘉元の乱の得宗・北条貞時がまさにそのように思いますし、逆に平頼綱一族の誅殺が成功したのは彼らが嫌われていたからではないでしょうか?

 よく日本史に独裁者いないと云われますが、数々の事件において天皇が強権を発動していないとなると、それでも厳罰が強行されたのは、讒言ではなく本当に罪が有ったか、単純に政争に敗れたから、という事でしょうか。

>
> そもそも有能ですが不遇な人物は、協調性がないなど人格面などに問題のある人物であることが多いとも言います。
> 全てがそうとは言いませんが、源義経はまさにそんな感じのところがありますし、保元の乱の崇徳上皇に味方した人物たちも有能でも協調性のない人物が多かったり、あてはまる例も多々あるように思います。
> 歴史学者などはこのような被害者がなぜ失脚したかの被害者の要因を分析することをむしろ重視するようですね。

 身も蓋もない云い方をすると人望の薄さが重大な欠点という事ですかな。少なくとも如何に讒言されようと極刑になる様な時代と立場にいないことを感謝しています。大権も持ててはいませんが(苦笑)。

> あと胡亥と悪宦官・趙高についてですが、趙高の悪事についてはかなり誇張がある可能性も指摘されています。
> なにしろ史記は漢王朝側の視点で記された書物ですし、主君である胡亥を弑逆した趙高の立ち位置は秦王朝滅亡の原因を押し付けるには都合のいい立ち位置ですから。

 趙高は姓が示す様に元は趙の王族で、その生まれ故に生まれてすぐに宦官にされ、腹の底では秦朝を怨んでいたとの説を聞いたことがあります。
 真実がどうあれ、何を企んでいたとしてもおかしくない人物と見られていたのは間違いなさそうですね。

>
> 例えば遺言状の改竄の首謀者を趙高と通説ではしていますが、そもそもこれをだれが見ていたのかという疑問は昔からあります。

 まあ、日本史の有名シーンにも、「誰が見てたんだ?」と云いたくなる例は多々ありますね(苦笑)。

> 例えば丞相・李斯は扶蘇と仲が悪かったとありますし、史実では同門の韓非を陥れて死に追い込んだなどずる賢い一面がありますから、遺言状の改竄はむしろ李斯自身が主導して趙高はこの時点では単なる協力者に過ぎず、李斯はその後趙高と仲間割れして政争に敗北したという構図はありえないことではないでしょう。
 確かに胡亥即位は李斯の手腕によるところが大きいと思います。あの時点で反対する群臣を押さえることは趙高には出来なかったでしょうから。
 ただ、胡亥への取り入りは明らかに趙高の方が上手くやっており、それが李斯の破滅に繋がったのでしょう。

> またそもそも始皇帝が長男・扶蘇を後継者とする遺言状を残したという話自体を疑う意見もあります。
> 君主が長男より末子を可愛がり後継者を変更しようとしたという話は世界中で珍しい話ではないですし、そもそも扶蘇は焚書坑儒に反対して始皇帝に嫌われたという記述もありますし、同時代の資料の中には始皇帝が重臣たちの進言により胡亥を後継者に決めたという記録もあります。
>
> またそもそも扶蘇が正統な後継者ということ自体を疑う意見もあります。
> 扶蘇は太子として立てられたことがないのは確実であり、秦王朝は北方の異民族の影響により儒教的価値観が定着した後世の王朝とは違った習慣や制度もあったと言われており、長男の扶蘇が正統な後継者という考え自体が儒教的価値観が定着した後世の見方であり、同時代の秦王朝の制度に当てはまるか不明なわけです。
> つまり現在の研究で判明している範囲内では、秦王朝の制度では胡亥こそが正統な後継者であったという可能性を完全には排除できないというわけです。
> こう考えると趙高の悪事とされるもの全てが本当に本人が行ったものか疑う余地があるわけです。
>
> あと胡亥の年齢についてはいくつか説があるようですが、一番年少の説では即位時12歳で自害の時は15歳ともいわれるので、趙高の進言に唯々諾々と従ってしまったことを非難するのは年齢を考えると少々酷な評価のようにも思います。

 胡亥の年齢が即位時に12〜15歳程度だったとするなら、始皇帝が生前に彼を後継者に決めたと云うのは解せません。始皇帝自身13歳で皇位に就き、実権を握るまでは呂不韋や身内にもある程度翻弄されていました。若年の胡亥が二世皇帝になれば彼を補佐する体で自分のやりたいようにやる佞臣が出てくることを始皇帝なら充分推測したでしょうから、普通は扶蘇を選ぶと思います。
 焚書坑儒を巡る対立で心底嫌ったのであれば、蒙恬の元に送るだけでは済まなかったとも思いますので。

No.273 2024/04/03(Wed) 23:38:59

Re: このサイトの戦国房についての感想5 / 薩摩守
> 実は私もNGワードのエラーになりました。
> 私の場合、漢字で「こ〇す」「まっ〇つ」などがNGワードだったようです。

 やはりそうでしたか(苦笑)。
 先ほどその漢字を省くことでようやくレスポンス二段目が遅れました。
 残りもすぐに送りたいと思います。

No.274 2024/04/03(Wed) 23:40:57

Re: このサイトの戦国房についての感想5 / 薩摩守
 ではレスポンス三弾目です。

> 次に戦国の鬼達のコーナーの柴田勝家の項目についてです。
> 秀吉が成り上がり者であるため織田家中で浮いている印象があると言っていましたが、わたしはむしろ勝家の方が織田家中で浮いている印象があります。
>
> まず勝家は清州会議の参加者の中で唯一この時点で織田家の親族ではありません。
> ほかはみな信長の娘と婚姻関係を結んだり、信長の息子を養子にしていたりしています。
>
> また丹羽長秀や池田恒興などの特に信長の信頼の厚い重臣ともそこまで親しい印象はありません。
> それに対し秀吉は、丹羽長秀や池田恒興などの他、信長の側近ともよい関係を築き、後継者であった信忠ともよい関係を築き、織田家の主流派の一員であった印象が強く、織田家中で浮いている印象は実のところありません。
> 結局のところ勝家は信行に味方して信長に敗れたという弱みから生涯織田家中で浮いていたのではないでしょうか。

 ふむ。北陸方面攻略中、勝家と秀吉が論争となり、秀吉が勝手に軍を離脱すると云う、厳罰者の行為を行えたことを疑問に思っていましたが、この頃の勝家には、「織田家重臣筆頭」という立場程には強い権限を有していなかったのかも知れませんね。

>
> ちなみに勝家の秀吉へのパワハラの話はかなり事実か怪しいようですね。
> 一度は信長と敵対した勝家の立場かすれば、新参者ながら美濃攻めのころにはすでに信長の重臣として活躍していた秀吉にむやみにパワハラできるほどの盤石な立場かどうか怪しく、またその後は任地がかなり離れていてそもそも顔を合わせる機会がそこまであったかも怪しいといえますから。

 まあ秀吉と仲は悪かったのは通説通りでしょうね。
 天下人となった秀吉からすれば、仲が悪く、最後には滅ぼした勝家を悪玉にするのは自分の努力を飾るには格好の材料でしたでしょうし。

> 次に未発見の「遺体」は何処に?のコーナーの豊臣秀頼の項目についての続きです。
> いまだに方広寺の大鐘に「国家安康」・「君臣豊楽」が消されずに残っている理由は実は単純で、「鐘の文は大きな問題の要点ではなかった」というのが大きいようです。
> 前も言いましたが、鐘銘問題は豊臣が起こした諸問題の内の一つでしかなく、同時代幕府から鐘銘問題が重視されていたわけではないためのようです。

 鐘銘自体が開戦を決定付けた要素として大きなウェイトを占めていない故、消すには至らなかったという説明はよく分かります。
 ただ、徳川方は当初方広寺大仏開眼供養に対して「延期」を命じており、「中止」までは命じていませんでした。となると、「不吉な文言をどうにかすれば供養はやって良いよ。」と受け止められますので、そこまでクローズアップされた八文字が今も残っていることはやはり解せません。

>
> むしろ天台僧と真言僧との宗派の席順争いの方が大事で、寺社の力が大きい時代背景を考えればうかつな判断をしてしまうと大事になりかねないからです。
> またこれはいくら豊臣家の処遇が重要な問題とは言え、大事に発展しかねない宗派の席順争いをわざわざ引き起こすのかという問題に、またそもそも宗派の席順争いはたびたび起きて朝廷や幕府を困らせた問題であることを考えると、研究者が方広寺事件が幕府が意図的に引き起こしたいいがかりによって引き起こされたという通説に現在では否定的な理由なわけです。

 となると、一度南光坊天海と金地院崇伝がどんな関係だったのか調べてみたい気になってきました。

> またもう一つの重大な問題は浪人問題です。
> というのも、そもそも豊臣家が、兵糧や浪人を集めだすなど、幕府との対決姿勢を前面に押し出し始めたのは方広寺事件が発生する一年以上前からで、つまり方広寺鐘銘事件はそもそも事件以前から豊臣家が不穏な動きをするさなかに発生した事件というわけです。
> こういったことから、方広寺鐘銘事件が徳川幕府の言いがかりだという見方は研究者の間ではもはや完全に過去のものとなったと言えるわけですね。
> また最近の大河ドラマで大坂の陣で豊臣方にも非があるように描かれるのもこのような最新研究が反映されているからなわけですね。

 本日アップしたばかりの新作・「末弟考察」で触れていますが、大坂冬の陣で講和が成立した後、牢人衆の暴走を抑えられない形で夏の陣が始まった側面があり、本音では再戦を避けたかった大野治長が何者かに斬りつけられて負傷する事件まで起きていました。
 一口に牢人と云っても、関ヶ原の戦いに敗れて改易された大名の旧臣もいれば、信仰上徳川幕府打倒を夢見るキリシタン牢人もいたので、この辺りの問題も複雑ですね。

>
> そもそも私の人物評は研究者の意見をもとにしており、私自身だけの評価ではありません。
> 足利義輝や足利義昭への批判的な評価も基本的に私だけの評価ではなく現実の歴史をよく知る研究者たちの評価でもあるわけです。

 逆に私は余り研究者のことを気にしていません。
 勿論、素人なりに集めた知識もその源泉は研究者のもたらしたものですから、全く気にしていないことは無いと思いますが、自分の好き嫌いも大きいことは明言しておきます。
 それを自覚せず、「完全に公正公平に見ている。」と思い込む方が大いに真実を見る目を曇らせると思いますので。


> さて今回はこれまで。
> 更新を楽しみにしています。
> それではまた。

 今回もありがとうございました。
 上述した様に新作をアップしました。何故か今回は一気に仕上げ、初っ端でコンプリート作としてアップしました。
 そのせいだけではないのですが、拙房は少しお休みして田の房を優先させますが、また旧作も新作も宜しくお願いできればと思います。

No.275 2024/04/03(Wed) 23:58:31
一周忌 / 薩摩守
 本日、三月一七日は拙房で採り上げた人物の中で、採り上げた時点で唯一存命されていた蟻田功様の命日です。

 故蟻田先生は昨年の今日、三月一六日から一七日に日付が変わって間もない時刻に老衰の為に熊本県内の高齢者施設にて大往生を遂げられました。
 享年九六歳でした。

 葬儀は近親者による密葬にて執り行われ、逝去が公表されたのは昨年の五月八日のことでした。
 故蟻田先生が如何なる人物だったのかは過去作『天然痘のとの戦い』で詳しく触れていますが、簡単に紹介するとWHO(世界保健機構)の世界天然痘撲滅プロジェクトのリーダーを務めた方で、人類が唯一撲滅に成功した感染症である天然痘撲滅の陣頭指揮を執った人物で、先生の逝去が公表された五月八日は昭和五五(1980)年に天然痘撲滅宣言が出された日でもありました。

 はっきり文面で見た訳ではないのですが、恐らくご遺族を初めとする関係者は先生の偉業を改めて讃える意を込めてこの日に逝去を公表したと思われます。

 そして逝去から一年、メディアにてもネットにても先生の一周忌を伝えるものは見当たりません。御遺族が望まれず、挙行されていないだけかも知れませんが、昭和五五年以降、人類が天然痘に罹患する恐怖と無縁でいられる有難さを思えば、先生の偉業はもっともっと讃えられて然るべきと思いますし、その有難みは未来永劫感謝されるべきと思っています。

 個人サイトで勝手に敬意を払っているだけの私如きが称揚するのもおこがましいかも知れませんが、改めて先生の生前の偉業を讃え直し、その御冥福をお祈りするとともに、感謝の念を捧げる一助になればと思います。

 蟻田功先生が主導した天然痘亡きこの世界に改めて感謝します。

No.268 2024/03/17(Sun) 23:19:06

Re: 一周忌 / 猫猫病院
こんにちは、蟻田先生の一周忌だったのですね。
日時では、コロナでマスク着用が任意になったころ亡くなられたのですね。
少し落ち着いたのを見守るように、極楽に旅立ったのだと思います。

わたしもよくネットニュースをみますが、蟻田先生の一周忌に関しては何もありませんでした。

マスコミとしては、蟻田先生のような偉人の方よりも、芸能人のことやゴシップ記事のほうが好きなようですね。

同じ一周忌でも、特に大騒ぎしたのは、38年前の今日に亡くなられた、ある女性アイドル歌手だったような気がします。
あと、人気投票で当選した、某知事の身内の芸能人の゙方の一周忌など。

天然痘を克服した偉大な先生より、そちら系のニュースのほうが好きなミーハーな人が多いですね。

No.278 2024/04/08(Mon) 16:45:43

Re: 一周忌 / 薩摩守
> こんにちは、蟻田先生の一周忌だったのですね。
> 日時では、コロナでマスク着用が任意になったころ亡くなられたのですね。
> 少し落ち着いたのを見守るように、極楽に旅立ったのだと思います。

 そう思いたいですね。
 充分天寿を全うされたと云える享年でしたが、一〇〇歳なられるか、コロナが終息するまで御存命でいて欲しかったものです。

>
> わたしもよくネットニュースをみますが、蟻田先生の一周忌に関しては何もありませんでした。
>
> マスコミとしては、蟻田先生のような偉人の方よりも、芸能人のことやゴシップ記事のほうが好きなようですね。

 比較するのもどうかと思われますが、後者の方が笑えると思う人は多いかと思います。

>
> 同じ一周忌でも、特に大騒ぎしたのは、38年前の今日に亡くなられた、ある女性アイドル歌手だったような気がします。

 しっかり記憶しています。当時の同級生阿蘇の女性アイドルの大ファンで、周章狼狽するのを宥めすかすのに物凄く苦労しましたので。

> あと、人気投票で当選した、某知事の身内の芸能人の゙方の一周忌など。
>
> 天然痘を克服した偉大な先生より、そちら系のニュースのほうが好きなミーハーな人が多いですね。

 何を好むかは人次第ですが、蟻田氏は功績に比して知名度も、世の称賛も不足しています。それだけ天然痘というものが過去の遺物になったという事かも知れませんが。

No.281 2024/04/09(Tue) 22:03:56
菜根道場5・10日雑文 / ダンエモン
 御来房の皆様、こんばんは。
 毎月15日の担当、楽曲房ダンエモンです。

 少し先の話ですが、5月に岡本真夜さんのライブに参加します。コロナ禍による影響を初め、諸事情あったとはいえ、気が付けば八年、真夜さんのライブに参加していません。
 敬愛するアーティストにあって、摩季ネェが優先なのは変わりませんが、それでも椎名さんや真夜さんとの接触が希薄になるのは悲しいことです。

 何回か書いていますが、摩季ネェと椎名さんにはダンエモンの名前も、顔も覚えられていると断言出来ますが、さすがに2回握手しただけの真夜さんに覚えられている自信はありません(苦笑)。
 それでもある年(もう10年以上前ですが)、一年間の間に摩季ネェ、椎名さん、真夜さん、べーやん(堀内孝雄氏)全員と握手に成功したこともありました。

 仕事も私生活も不調ですが、こんなとこからでも勢いを掴んでいきたいと思っています。

 それではまた来月。

No.265 2024/03/15(Fri) 19:51:56

Re: 菜根道場5・10日雑文 / ネコワシ
こんばんは、岡本真夜さんのライブですが、5月に東京で開催されるそうですが、こちらに来られるのですか?

上京するにも旅費がかかりますね。
インバウンドの影響で、旅費も上がっていますので。
でも、コロナなどで、久しぶりのライブとのことですので、楽しんでください。

わたしは、ウィキペディアなどに載っているミュージシャンでは、神園さやかさん、フォークの工藤忠幸さんなど数名と知り合いになっていますが、現在、ライブだけで東京に行くことはなくなりました。
旅費などの問題もあり、帰省を兼ねて行くことはあります。
工藤忠幸さんは北海道在住で、わたしが北海道移住した当時大変お世話になりましたので、毎年12月のバースデーライブには必ず参加しています。コロナ禍でも、勤務先の特別許可をいただいて参加していました。

わたしが東京にいたときに、病気で入院し、仮退院したあと、主治医の医師に、北海道で静養したいと相談したところ、「お酒類を飲まないと約束してもらえるなら」との条件付きで許可が出ました。
病院でビール飲んですんごく怒られたし、病状により、飲酒はNGてしたので。
サッポロビール飲みたかったけど、残念ながら飲めませんでした。
あと、太田裕美さんが、北海道でコンサートするので、そちらの目的が大きかったです。
札幌、苫小牧、帯広、釧路の4ヶ所で、帯広でのコンサートの次の日に、次の釧路のに行くために、帯広駅から汽車で向かおうとしたら、駅のベンチに裕美さんがすわっていて、サインをお願いして、もう本人は覚えていませんが、その当時で約20ねんまえに裕美さんにお手紙を出したら、お返事をいただき、そのお礼もすることができました。

それでは場を離れようとしたときに、裕美さんから握手を求めて来ました。とてもうれしかったです。

そして、同じ汽車で釧路まで移動し、わたしは時間まで、トロッコ列車に乗るため、、釧路駅であいさつして汽車を降りました。
裕美さんに「ありがとう」と声をかけていただきました。
まあ、とても素敵な思い出です。

残念ながらいまは、地元のジャズライブなどに行くことが多くなり、裕美さんもしばらく行っていません。
東京にいるときに、金沢まで追っかけした、遊佐未森さんにステージでJRのカードだったと思いますが、ステージで渡して握手していただいたり、とても応援していたのですが、2008年の北海道以来、行かなくなってしまいました。


道場主さまは、音楽はリスナーだけだと思いますが、わたしはピアノに続いて、ボーカルのレッスンも再開しました。

ピアノでは、ウルトラマンシリーズの曲も弾いてみましたが、わたしが弾くと、遠い遠い光の国から正義のために、イヌワシのように鳥のように颯爽と飛んで来たウルトラマンではなく、正義の点では同じですが、光の国からネコワシのような頼りないウルトラマンが飛んで来た感じになっていますね。

わたしもイマイチの状態で、認知症なども心配ですので、音楽関係も何らかの形で続いて行きたいですね。

No.266 2024/03/15(Fri) 22:16:03

Re: 菜根道場5・10日雑文 / ダンエモン
> こんばんは、岡本真夜さんのライブですが、5月に東京で開催されるそうですが、こちらに来られるのですか?
 その予定です。前後の日程はまだ決まっていませんが。

>
> 上京するにも旅費がかかりますね。
> インバウンドの影響で、旅費も上がっていますので。
> でも、コロナなどで、久しぶりのライブとのことですので、楽しんでください。

 前にも書きましたが、気が付けば約8年振りです。

>
> わたしは、ウィキペディアなどに載っているミュージシャンでは、神園さやかさん、フォークの工藤忠幸さんなど数名と知り合いになっていますが、現在、ライブだけで東京に行くことはなくなりました。

 北海道からでは何かと大変かと思います。

> 旅費などの問題もあり、帰省を兼ねて行くことはあります。
 まあ、私も関東在住時に関西に行くときは基本帰省を兼ねていました。

> 工藤忠幸さんは北海道在住で、わたしが北海道移住した当時大変お世話になりましたので、毎年12月のバースデーライブには必ず参加しています。コロナ禍でも、勤務先の特別許可をいただいて参加していました。
 それは貴重な縁(えにし)ですね。

>
> わたしが東京にいたときに、病気で入院し、仮退院したあと、主治医の医師に、北海道で静養したいと相談したところ、「お酒類を飲まないと約束してもらえるなら」との条件付きで許可が出ました。
> 病院でビール飲んですんごく怒られたし、病状により、飲酒はNGてしたので。

 そりゃそうでしょう(苦笑)。うちの道場主も痛風持ちゆえに酒は控え目な方です。

> サッポロビール飲みたかったけど、残念ながら飲めませんでした。
> あと、太田裕美さんが、北海道でコンサートするので、そちらの目的が大きかったです。
> 札幌、苫小牧、帯広、釧路の4ヶ所で、帯広でのコンサートの次の日に、次の釧路のに行くために、帯広駅から汽車で向かおうとしたら、駅のベンチに裕美さんがすわっていて、サインをお願いして、もう本人は覚えていませんが、その当時で約20ねんまえに裕美さんにお手紙を出したら、お返事をいただき、そのお礼もすることができました。

 手紙に返事がもらえたのは貴重ですよ。

>
> それでは場を離れようとしたときに、裕美さんから握手を求めて来ました。とてもうれしかったです。

 一応、私も拙房で採り上げている四人のアーティスト全員と握手したことありますが、顔を覚えられているの半数ですね。

>
> そして、同じ汽車で釧路まで移動し、わたしは時間まで、トロッコ列車に乗るため、、釧路駅であいさつして汽車を降りました。
> 裕美さんに「ありがとう」と声をかけていただきました。
> まあ、とても素敵な思い出です。

 そりゃ羨ましいですな。

>
> 残念ながらいまは、地元のジャズライブなどに行くことが多くなり、裕美さんもしばらく行っていません。
> 東京にいるときに、金沢まで追っかけした、遊佐未森さんにステージでJRのカードだったと思いますが、ステージで渡して握手していただいたり、とても応援していたのですが、2008年の北海道以来、行かなくなってしまいました。

 16年は長いですね………。

>
>
> 道場主さまは、音楽はリスナーだけだと思いますが、わたしはピアノに続いて、ボーカルのレッスンも再開しました。
>
> ピアノでは、ウルトラマンシリーズの曲も弾いてみましたが、わたしが弾くと、遠い遠い光の国から正義のために、イヌワシのように鳥のように颯爽と飛んで来たウルトラマンではなく、正義の点では同じですが、光の国からネコワシのような頼りないウルトラマンが飛んで来た感じになっていますね。

 楽器の演奏は全く心得がありません。
 小中学生時代のハーモニカやリコーダーすら普通に吹けませんでした。

>
> わたしもイマイチの状態で、認知症なども心配ですので、音楽関係も何らかの形で続いて行きたいですね。

 まずは趣味を持たないとだめですね。
 その辺り、猫さんも私も心配ないでしょうけれど(笑)。

No.267 2024/03/17(Sun) 23:07:04
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