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<カフェ・フジタ>

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水上さんへ / 藤田博史
示唆に富んだ書き込みをいつもありがとうございます。
バタバタしていてROMオンリーで失礼しています。
しっかり拝見していますので引き続きよろしくお願いいたします。

No.855 - 2018/06/28(Thu) 17:41:42

言語過程とアセチルコリン / 水上雅敏
>線条体ではコリン作動性介在ニューロン(CINs)と呼ばれる神経細胞がほぼ絶え間ない活動状態にあり、それが発火するたびにアセチルコリンと呼ばれる化学物質を放出します。 しかし、脳がびっくりするような音や外界からの予期せぬ刺激を受けるとCINsの活動は一時停止するのです  (前投稿で紹介したサイトの抜粋)

→これ見ると、そもそも、アセチルコリンが出ている間は、発火が働き続けてる、と言える一方、ある意味、慣性的あるいはマンネリの発火連続と対応している、と言えるようにも思える。仮説的にここに言語過程を沿わせてみるなら、これは換喩的過程の連続―無への象徴化の次元をあげないレベルで語り或いは思考し続けている状況―と対応できる可能性もあるだろう。とすると、その次元を上げる覚悟が着いた時は、つまりは、無を換喩で隠ぺいせずに無に直面し象徴化しようとするその境目の時も、CINsの活動が一時停止している、といえるかどうか・・

No.854 - 2018/05/18(Fri) 01:13:17

現実に2分の1秒遅れた知覚意識の主観的時間は2分の1秒前倒しするように修正されるのが必要なのか / 水上雅敏
ベンジャミン・リベット(『マインドタイム』岩波書店)が言ったことを意訳すると、現実に対する我々の知覚意識は実際の現実の2分の1秒遅れている。が、主観的には、それを修正するように約2分の1秒戻して(厳密には、EPの位置まで戻して。(=EPとは誘発電位。現実の皮膚刺激が約30ms後に生じさせる一次体性感覚や皮質からの電気反応、頭皮用では正の反応))、実際の時間に合わせる、ということになろう。しかし、よく考えると、修正を考える必要があるのか? 修正など考えなくても、我々は全ての状況を一律に2分の1秒遅れて知覚意識している、それで十分ではないか。そう考えたのは、時計を突然見ると、秒針が普段より長くとどまっているように見えてしまう、という現象の説明がそのほうがシンプルにいくからだ(この現象には名前がついているらしいが、忘れた)。

例えば、突然時計が目に入り秒針が45秒を示していたとする。抜かしてしまったが、こういう突然の事はリアルタイムに近く知覚意識できるとまず考える。そうでないと、例えば突然出てきた車をよけられないだろう。2分の1秒遅れるのは、文脈から大体むしろ予期できる場合のものと云えるかも知れない(世界の知覚も大体そうだし、リベットの実験でも被験者はいつか刺激されること自体はわかってる)。時計に話を戻すと、だから、秒針が45秒を指している時間がいつもより約2分の1秒長い、ということになる(総計で1秒半ほど45秒のところに留まることになる)、とシンプルに言える。で、46秒目は、いつもどおり2分の1秒遅れて知覚意識される。ここで、わざわざさらに修正して、46秒目の主観的な知覚を実際の時間に近く戻すとすると、この現象が説明つかなくなる(また、現実にほぼ対応していた45秒目の知覚意識まで2分の1秒戻すのは非現実的)。また時計以外の現実環境だって、2分の1秒遅れて知覚しているとすれば(リベット的にはそうなる)、別に時計の知覚意識の主観時間だけを2分の1秒戻すのは逆に変だろう。

だがリベットが、この主観時間の修正を主張するのには根拠がある。それは皮膚刺激の知覚意識と、大脳の感覚皮質を直接刺激した場合の主観的時間に関したものである。感覚皮質の刺激は2分の1秒持続させて初めて主観的にその対応する身体部位に知覚意識が生じるのだが、その2分の1秒中のどこかで皮膚への直接刺激を与えると、感覚皮質の刺激による知覚意識以前にその知覚意識が生じると言うのだ。つまり、皮膚刺激も2分の1秒遅れて感じるなら、感覚皮質による知覚意識より遅れて意識されるはずなのに、だ。つまり、ここから、皮膚刺激の場合はまずは2分の1秒知覚意識が遅れるにしても、その主観的時間の位置は約2分の1秒戻されて、本来現実に皮膚刺激された時点のものへと修正されているというわけだ。

ここで、私とリベットの考えとをどう妥協させるか、と考えると、「いつその知覚意識を感じたか?」と内省させた場合のみ、主観時間が現実の刺激位置に近づけて(厳密には上記したEPの位置へと)修正される、と考えると良いだろう。そう考えると、聞かれた知覚意識以外の知覚意識(例えば、現実的には同時に起こっていた、皮膚刺激以外の刺激、例えば同時的にそこに有った風景などの知覚意識)とずれて、聞かれた知覚意識の時間だけ先行してしまわないか、と批判されそうだが、そんなことはない。「そこにあったその風景はいつみたの?」と聞かれたら、その瞬間にその風景の知覚意識の主観的時間も、約2分の1秒早めに修正されることになるだろうから(振り返って見てしまえば、その瞬間に位置がずれてしまう、とは、ちょっと量子を連想させる)。という具合に考え、内省させない場合は2分の1秒遅れたまま、と考えると上記の時計の問題に対する私の考えも温存されるだろう。

それにしても、振り返った場合、なぜ主観的時間が、EPの位置へと修正されるのか。EP自体は、実際の刺激後の30ms後などに起こるものだから、もちろんリアルタイムに主観されないものだが、これがそれまでのあれやこれやの知覚意識なり、知覚意識を生み出すはずの信号なりを、一旦払拭する(=リセットする)役割、いわば、無をもたらす役割を持っている、と考えるとどうだろう。一旦、払拭されて無しかないわけだから、その次に起きてきた知覚意識について、「それはいつ起きたの?」と主観時間を問われれば、その無の時点=EPの起きた時点へと、そのイベントの主観時間が引き戻されることになるのは必然ではないか? 対して、皮質への直接刺激は、EPは事実として生じず、それまでの何も払拭されず無が導入されないので(←このへんはまだ自信ないが。色々と別の考え方があるかとは思う)、主観時間の修正はおこらず、2分の1秒間刺激され続けてやっと知覚意識された時間そのままが知覚意識の主観時間として報告されることになる、ということなのではないか。

ところで最初こう書いた。

>例えば、突然時計が目に入り秒針が45秒を示していたとする。抜かしてしまったが、こういう突然の事はリアルタイムに近く知覚意識できるとまず考える。そうでないと、例えば突然出てきた車をよけられないだろう。2分の1秒遅れるのは、文脈から大体むしろ予期できる場合のものと云えるかも知れない(世界の知覚も大体そうだし、リベットの実験でも被験者はいつか刺激されること自体はわかってる)。

そしてこういう記事を見かけた。≪線条体ではコリン作動性介在ニューロン(CINs)と呼ばれる神経細胞がほぼ絶え間ない活動状態にあり、それが発火するたびにアセチルコリンと呼ばれる化学物質を放出します。 しかし、脳がびっくりするような音や外界からの予期せぬ刺激を受けるとCINsの活動は一時停止するのです≫https://research-er.jp/articles/view/70515

「2分の1秒遅れるのは、文脈から大体むしろ予期できる場合のものと云えるかも知れない」と私が書いた或る種、慣性的、マンネリ的な状況がCINsの活動し続けて居る時であり、秒針が長らく止まって見える現象の時は、これが一時停止している時といえないものか? また、EPの時はどうだろう、などと思った。

No.853 - 2018/05/18(Fri) 01:11:39

人の歯状回の特別さ / 水上雅敏
NHK 人体 「脳」

人間の歯状回では90歳頃まで細胞が盛んに生まれている、とか。マウスではそうではない、と言っていたか聞き逃したが、まあそういうことだろう。
ここで人間だけに、なぜそんな特権があるのだろう、と思ってしまうが、「崩れていくことが生み出す」というような構造を考えれば、特別にプラス方向の特権のように考える必要もなくなるように思う。いい例が思い浮かばないが、ひとつの細胞という統一体が、細胞分裂でバラバラになることがそのまま器官を分化させていくことにつながる、というような。その上でなぜ歯状回について、人間だけそうなのか、と考えると、それは、人間が、早生まれで、身体が十分安定性を得ない時に生まれ、背伸びして統一的な他者の像を自己像と思ってしまって立ち上がり行動する、という無理から始まっていることに起因するのではないか? つまり、その無理な同一化が耐えられず徐々に崩れていき、その崩れ自身の隙間がまた構造化されて、それがまた崩れてその隙間が構造化されていく、ということがこの歯状回の細胞の生成と対応しているのではないか? そして、この構造化を可能にしているのは、これもまた統一体として勘違いされた自己像の崩れということに関係するが、この無理な自己像の崩れの隙間を象徴化しつつ徐々に自己像を無へと軟着陸させていくものとして人間が作り上げているものである言語なのではないか?

No.852 - 2018/02/10(Sat) 15:29:54

文字は公共的である必要があるか? / 水上雅敏

言葉の基本をなす、声の対立(フォルト・ダーとか)。消えやすい声のこの対立の記憶を外界に刻み込んで残すために、私たちは文字を使うが、これが最初から公共的に互いに分かるものである必要があったのか? 話し言葉だけが分かり合えばよいわけで(分かりあう、とは、原初的には、互いに違う発声ー対立発声ーをしているな、と意識できること―そこで自分の対立発声したものの意味としては他者の対立発声の否定として成り立っている―、として)、あとはそういう自らの対立発声の記憶としての文字(公共化しえていない原初レベルとして「線」と言っておく方がこの仮説的段階としてはふさわしいだろうが)は、個々人が自由に作っておけばいいようにも思えるが。

・・と一瞬思ったものの、やはり、この線も、公共のものである必要があるのだろう。つまり、人々互いが、違う種類の対立発声を行った場合には、やはり、それらの記憶は、外界に夫々が違う種類の線として刻まれている、という風に(つまり、ここでは公共性とはそれぞれが違う種類の線であることが、見て取れること、としている。―個人が他とは「違う」と思っていても、他の人がそう思ってないケースを考えると複雑になりまたそこは後々考えるべきことだと思うが。とりあえず―)。そうでないと、個人において、私の先ほどの対立発声は、他者の対立発声とは違うものであったのだ、という記憶が残らないだろうから(対立発声の記憶を残すものが線だ、とすると、それがそれぞれの人の互いに異質の対立発声に応じた線が似通ってしまっていれば混乱することになる)。

ここで、では、人類の言葉の始まりには理論的には、最低何人集まってこういう作業を行って言葉(話し言葉と文字)が成立したのか、と考えると、3人だと考える。そもそも2人しか人類の初めにいなければ、対立発声も無く、故に意識もない(対立化の作業自体が意識だとすると)、もちろん線も文字も無い、他者とは違う自分という意識もない、ということになるのではないか。三人いてこそ、あちらの人の発声とは違う発声、また、こちらの人とも違う発声をしようとして、2つの発声をしようとするのだろうから(←同一化は人はともかく避けたいものだ、という前提から考えているのだが。想像的同一化はきついし、非現実的でもあるし。)。(ちなみに、「では他の二人とは違う一つの声でもいいじゃないか」ということにもなるが、個人は自分の声との同一化もさけたいわけで、それがまずは対立発声をこそ作って、自分のいずれの声との同一化からも逃れえるようにすると同時に、その対立項の隙間として無を作りたいのだ、と考えておこう。その上で、この対立項を代表する、より象徴的次元を上げた一つの声が発生することはありえるが(フロイト事例のフォルト・ダーが、やがて、フォルトだけの反復になったように)。)。文字のほうも、他の2人の人の描いたそれぞれの線を見てこそ、その隙間にそれらとは違う線をおこう、それら他の2人とは違う声の対立項の記憶を巡らすものとして、ということになるのではないか(ここで、文字の方も、各人が2つの線を使って対立項を作らないのか、という問題も出てきそうだ。しかし、声の対立項2つに対して、その隙間に置かれる一つの線、という方が、言葉の原型なのではないか。消えやすい声を、更に対立させてその隙間に無を作るという方策こそ、無である主体を代表させるに相応しいから、声の対立のほうが先であって、線のほうではないのではないか)。

さて、いま三人のグループを考えたが、そういう三人が互いに作り上げた声対立の3種類、線の三種類があるとすると、それぞれの三角形の中心としての隙間がさらに発生する。これを個々人の発声対立の隙間以上に、より無へと近づく次元を上げた隙間と言えるだろう。ここで、更に、このような3人グループの存在を3つ考え、この3グループの三角形を考えてみる。そこで、今までの3人間についての議論のようなことがこの3グループ間にも―つまりそれぞれの3角形の中心たる隙間3つの間に―起きるとする。すると、そこに、1グループでは無しえなかったほどの無を象徴化する発声対立と文字がそれぞれのグループにおいて発生することとなる。そんな風にして人類の言葉は発展してきているのではないか?

No.851 - 2018/02/10(Sat) 15:27:39

中野さん / 水上雅敏
お久しぶり! 横レスで失礼。私も、クレマスターの横昼間通ってみました。また、お会いできるといいな、と思っています。上京の予定はないのですが。
No.850 - 2018/02/10(Sat) 15:27:04

俺は今日、新宿で立ち止まってた / 中野雅哉
お久しぶりです。
今日、新宿で友人の演劇を観て感傷的になりクレマスターでも見て帰るかと思って行ってみたらピンクの看板は昔のままで安藤とかいろいろ思い出してさらにノスタルジックかつメランコリックになってしまいグダグダに退行した心のまま池袋のジュンク堂の精神医学コーナーに寄ったらくだらないのしかねえなと思いながらも寂しかったので精神分析関係の本を三冊も買ってしまいました(たぶん読まない)。
つまり・・・藤田さん、早くまとまった本を書いてくださいね。
お待ちしています。

No.849 - 2018/01/31(Wed) 01:15:20

自閉症(?)と言葉と文字の交差 / 水上雅敏
「自閉症の僕が飛び跳ねる理由」(東田直樹 エスコアール社)読み始めているが、東田氏自身が本当に自閉症なのかどうかは私には分からない。自閉症の子供の典型的な音声言語の様子や、代名詞の反転(すべての人に在るのでもないのだろうが)などはこの文章を見る限りうかがえない(自閉症児の書き言葉はそもそもどうなのか知らないが)。TVでも彼を見たが、極端に言えば、音声言語だけがうまく発せないだけである感じもする。彼に見られる一見自閉症的な嗜好や行動も(本の中で述べてある、回るものが好き、その他の嗜好、行動)、そこだけから再構成できないかとも考えてもいる。TVに出た彼を診たDRの口からも自閉症との診断名は出していなくて、発話に関する失行だか何だかそんなことを言っていたように覚える。以上は前置きで、上記の本には色々示唆的なことが書かれている。以下抜粋と感想:

「人と話をしようとすると言葉が消えてしまうのです」p2
「さすことで言葉を伝えられる文字盤は、話そうとすると消えてしまう僕の言葉をつなぎとめておく、きっかけになってくれました」p13
「いつも同じことを聞いてしまいます。…聞いたことをすぐに忘れてしまうからです。…もう一つ意味があります。言葉遊びができることです。…いつも使っている言葉なら話すことができます。それが言葉のキャッチボールみたいで、とても愉快なのです。言わされて話す言葉と違って、それは音とリズムの遊びなのです。」16−17pp
「僕たちは、よく空中に字を書いています。…僕の場合は、覚えたいことを確認するために書いているのです。書きながら見たものを思い出します。それは、場面ではなく文字や記号です。文字や記号は僕の大切な友達なのです。なぜ友達なのかというと、いつまでも僕の記憶の中で変わらないからです。…僕たちにとって文字や記号は、聞くだけよりも分かり易く、いつでもおもい起こすことができるからです。」pp68−69

⇒これらを見ると、声の対立・弁証的進展と文字、線の交叉がうまく行っていないように思える。或いは、線や文字心的の維持が表象野においては弱いから交叉できない(だから空中に書きつけないといけない)という可能性もあるのかもしれないが。あるいは声の弁証法を惹きつける無を導入する力が弱い―私の仮説で言えば扁桃核の問題―、だからそもそも線・文字を交差させる動機が弱い、というのが在るもかもしれない。

以上のラインから次の事はどう考えられるだろうか。
「コントロールできない声というのは、自分が話したくて喋っているわけではなくて、反射の様に出てしまうのです。何に対する反射かと言うと、その時見た物や思い出したことに対する反射です。それが刺激になって、言葉が出てしまうのです。無理に止めようとすると、自分で自分の首を絞めるくらい苦しくなります。」pp14−15

⇒音声言語と文字や線の交叉が出来ないこと、あるいは無の導入力が弱いことが、言葉が勝手に出てしまうことを説明できるか? 幾つか考えた。
@そもそも思考は、声を出すことそのものだったわけであり、あるいは、思い出したことはそのまま自動的に語ったり語らなかったりするのが自然だったわけであり、その後、より無が見えてくる、無の位置にこちらからは正体不明の他者というものが置かれてくる、そこで、 発声を他者との関係を勘案しつつ調整し始める、ということになるが、この人の場合上記のようなことで言葉が無を象徴化しにくく、又、無を置きにくくなってきているから、そのような調整がし難い。
A上記の様に無を置きにくくまた象徴化しにくくなっている人だから、見た物や思い出したものが、自己の鏡像として残り易くなっていて、しかも本人も無を埋めたいというのが強く(象徴化に行けないので)、見た物思い出したものに、さらに言葉をそわせて無を更に埋めようとする衝動に引きずられてしまうから。
B或いは、逆に、見た物、思い出したものを語ることで、その言葉とそれらを相対化し、疑似的な象徴的対立を作る方に促されてふと言葉を出してしまう、ということだろうか?

No.848 - 2017/11/12(Sun) 13:48:44

扁桃体と眼球間闘争と言語 / 水上雅敏

以前某研修で「扁桃体は不安や恐怖において活動する。蛇など見ると活動する。それは太古蛇を恐れた動物の記憶を我々も引きずっているのかも」的な説明を受けた。「白人において黒人を見ても活動する」、と講師自身が述べていたのだが、それを思えば、「太古の記憶」を持ち出す必要は無く「見慣れぬもの、自我像とは違和的で自我像を揺らがすもの見た場合は活動する」で済ますのが、仮説の節約だろう。

そう考えると、言葉を作る声の連鎖や、文字を作るさまざまな線も、特に初めて聞いたり見たりした当初は不安を起こさせるものとして、扁桃体の活動を引き起こすものではないか。そういう意味で、言葉と扁桃体はつながりの強いものではないか。

ところで「眼球間闘争」というのがあるらしい。左右の目に別々の映像を見せた場合、脳には物理的には双方の映像が入力されている(以前の投稿で書いたような、たとえば一次視覚野は、その映像が最終的に意識されようとされまいと、映像提示の30ms後には活動のピークを示すように・・ということになるか)。しかし、その2つの映像は交代に意識されるらしい(「知覚交代現象」)。その間隔は人によって違うらしい(『心の脳科学』坂井克之 中公新書 p72あたり参考)。ここで両目それぞれに、サルと文章とをジグソーパズルのように切って混ぜ合わせた図形を提示する。すると不思議なことに、修復された猿の映像か、文章の画像かどちらかが意識に上る(同書89−90pp:これが交代するかどうかは、ここで書かれていない(?))。ここで著者は『サルや文字という「もの」に対する知識を脳があらかじめ持っていることが前提になっているわけです』と述べているが、サルと文字を同列に考えるのではなく、文字の方、つまり元来意味不明の線(その更に元はと言えば、視覚映像の裂け目の輪郭みたいなものだろうが)のほうは、サル以上に、上記したように、不安を思い起こさせるものとして抽出され、サルの方はその残りとして意識されるのだ、と考えられないだろうか。雑音の中でも言葉らしきものを優先して掴んでしまう、というのもそういうものだと考えると納得いくから、この場合もそういうことではないのか。

そこまで考えると、ここでサルと文章の映像とどちらを意識しやすいか、とか、そもそも上手く文章の映像を抽出できるか、が、心の病のそれぞれによって、違いえるのではないか、とも思えてきた。例えば、分裂病者ではホロ―マスク錯視が欠ける、とも言われるが、そこに3D的把握を可能とさせる無限遠たる穴の欠如を考えるならば、不安に動機づけられたこの文章映像の把握もうまく行かず、サルと文章のジグソーパズル的映像がそのまま意識される、とかないだろうか。扁桃体が障害された何らかの病の人の場合はどうだろう。

No.847 - 2017/07/03(Mon) 09:07:30

譫妄とアルツハイマー / 水上雅敏
譫妄も、それがその時の本人にとっての現実であれば、ずっとそれは正しい記憶と本人に思われて残り続けてもいたしかたないと思う。あるいはアルツハイマーの見当識のくずれも、一部は、時々起きる譫妄の残骸の集積が影響しているということはないか? アルツハイマーを専門に勉強したことが無いので、単なる思い付きにすぎないが。
No.846 - 2017/07/03(Mon) 09:05:58

トップダウンとボトムアップの神経信号のズレが作り出す「うなり」が知覚意識か? / 水上雅敏
>トップダウンの信号が一次視覚野に達することはあっても(これも確定はできない?)、『外側膝状体にまで到達するかどうかは議論の余地があります』(84p)とのこと (前々投稿より)

・・でトップダウンで一次視覚野に信号が来ているのか、について猿を使った実験がある(同書85p〜:水上のまとめおよび時々感想、誤解があるかも)

・まず、視覚刺激の提示に対して、一次視覚野の活動は30ミリ秒後と100ミリ秒後にピークを示す。最初のはボトムアップの入力信号を反映している。次のはトップダウンの信号を反映していると思われる。というのは、視覚刺激を変化させてこれを見落とした場合(その刺激の模様の変化は目を動かさせるものであるように作られているので、そこで目が動かなかったことで見落としが判明できる)この第2のピークのみ低下するから。(同書p85)

・とはいえ、このトップダウンの信号が一次視覚野に来たがゆえに意識に視覚的映像が上ったのか、意識に視覚的映像が上ったからこそ、このトップダウンの信号が一次視覚野に降りて行ったのか、がまだわからない。(そう言えば幻視もどちらだろう:また、幻視で一次視覚野まで活動するのだったかどうか?)(同書p86あたり)

・そこで100ミリ秒後に、磁気刺激で一次視覚野の活動を抑制してみた(これは、人を使っての実験のよう。人と猿で、30ミリ秒後とか100ミリ秒後の意義が同じならよいのだが、それはともかく)。ここで映像が判別できてないとトップダウンの信号が下りて一次視覚野に到達することで映像が意識され判別できるのだ、ということになるし、判別できたなら、映像が意識され判別されたがゆえにトップダウンの信号が一次視覚野におりたということになる。で、結果的には前者であった。すなわち、意識されたからトップダウンの信号が一次視覚野に降りたわけではなく、下りることで意識された、ということになる。(同書p87)

・ただし『どうして信号が戻ってきたら、私たちが主観的に体験する意識が成立するのか、についてはまったく明らかになっていません』(同書87p)

⇒ちょっと、トップダウンの信号とボトムアップの信号のずれが作り出す「うなり」とか「モアレ」みたいなものが知覚意識なのではないか、とも思った。ちなみにこの「うなり」自体が作り出す音程相当の音叉などをそこにおいても、これは反応しないのではなかったか(マッハの本にこの類の事が書いてあったように覚えるが)。そういう意味では、もうそういう唸りなどは、もはや更に人間の知覚神経の信号へとまるめこむことのできない限界点であり(一回外界を回して、自分の声を聴き取る、というのなら別だが)、そういうものこそが外界の現実知覚として感じ取られるものなのではないか、とも思った。

後記:別件になるが、上記の100ミリ秒かかる過程が連想させるものは、100ミリ秒の間に続けて起きた2つの刺激は一塊として知覚されてしまう、とどこかにあった件。関係あるかもしれない。いつか考えてみたい。

No.845 - 2017/07/03(Mon) 09:05:26

知覚意識の穴は、どこか他の情報で補われる? / 水上雅敏
>・片目の盲点には、もう一方の目からの入力が常に来ている(これ自体私には初耳)<前投稿から>

⇒穴があると、何もない、ではなくて、他のところからの情報で補うわけだ! これはいろいろと応用できそうな観点ではある。厳密に初期段階の知覚ではなく、むしろ意識が作りあげるものに近い知覚だろうが、注察妄想(スタジアムの対岸の人に見られていた、とか)も無限遠と言う穴を埋めるそういう作用のモドキ、みたいなものか。言語の弁証法が出来ていれば、そういうモドキも、すぐ切断して無限遠を維持できるのだろうが。白黒の模様が速く回りすぎてつかめなくなった穴を虹色で補うベンハムのコマの像もそういうものかどうか。そもそも知覚意識、クオリア、というもの自体が、脳波や、神経の信号の隙間たる無を、色んな記憶を引き出して複合させるなどして補っているのではないか。

No.844 - 2017/07/03(Mon) 09:03:47

どこまで知覚器官に近い初期の段階の神経にまで、意識内容からのトップダウン的働きがが作用するか / 水上雅敏
どこまで知覚器官に近い初期の段階の神経にまで、意識内容からのトップダウン的働きがが作用するか、というのには関心がある。『心の脳科学』坂井克之 中公新書 には以下のようにあった(私のまとめ:誤解あるかもしれない)。

@
・片目の盲点には、もう一方の目からの入力が常に来ている(これ自体私には初耳)
・だからその盲点に対応する一次視覚野の領域は常に活動していると思いきや、測定してみるとその視覚情報(他方の目から来ている情報)が見えているときにだけそこは活動し、そうではないと活動低下している。
⇒一次視覚野と言う知覚のかなり初期段階の領域でさえ意識内容と対応した活動変化を示している!(意識内容が一次視覚野を動かしている、とまでは言ってなくてまずは対応している、というのみ) 78〜80pp

A
・目に近い、より初期の知覚処理段階として外側膝状体を見てみるとたとえば『左外側膝状態の内側の右目対応領域はずっと一定の視覚入力をうけとっているにも関わらず、右目からの視覚情報が意識されたか、意識されないかによってその活動レベルが増減する』(p82)らしい。これが意識内容の変化の結果か、原因かは不明。トップダウンの信号が一次視覚野に達することはあっても(これも確定はできない?)、『外側膝状体にまで到達するかどうかは議論の余地があります』(84p)とのこと。

追記:知覚器官に近い、知覚処理段階への、大脳からのトップダウンの影響と言うと、聴覚については、蝸牛オリーブあたりが問題となるか・・・。

追記:このように結構、トップダウンの神経や意識の働きが知覚処理初期段階にまで影響を与えている可能性があるとするならば、もう少し、海馬や言語の作用がそこにからめられて考えられてよい感じもするが、今までの研究では、どうもそれらの作用がまだ矮小化されすぎているような感じがする。

No.843 - 2017/07/03(Mon) 09:02:01

藤田先生 / 水上雅敏
コメントありがとうございます。また何かありましたらお教えください。
No.842 - 2017/06/07(Wed) 22:03:58

水上さんへ / 藤田博史
↓非常に興味深い洞察です。私ももう少し考えてみます。
No.841 - 2017/06/06(Tue) 00:04:02

ノンレムとレムの相互作用 / 水上雅敏
ノンレム睡眠=覚醒時の情報を海馬で因数分解的に単純化して鋭波に乗せて大脳皮質に送り込む。

レム睡眠=ノンレム睡眠中に送り込まれた情報による大脳皮質中のニューロンの組み換えにより、今まで抑圧されていたものが解除され海馬へと流し込まれーあるいはレム睡眠中に幾分かの記憶が皮質に送り込まれて余裕が持てた海馬自身におけるまだ残っていた日中の記憶が浮かび上がってきてーそこで因数分解的に単純化され、再びノンレム睡眠中の鋭波に乗せられ大脳皮質に送り込まれ大脳皮質のニューロンの組み換えが起きる。レム睡眠中の夢はそういうプロセスの産物であるとともに、覚醒後の現実に備えて思考を因数分解的に単純化し、あたらしい思考が入ってくる余地=穴、をあけておくためのものである(このレムの方は、私の仮説。あとは、文献を示したところ以外は全て私の仮説)。

いわば、ノンレム睡眠は、それまでの覚醒中の現実や思考における情報を使って、大脳皮質を整理し穴をあけてさらなる情報が入るようにするためのものであり、レム睡眠は、そうして大脳皮質からフィードバックされてきた情報、或いは、まだ海馬に残っている覚醒中の情報を使って、自らの思考に穴をあけ、現実の未来の情報に開かれるようにするためのものではないか。

そういう相互作用によって、人間は、自己を(大脳皮質も、覚醒時の自分の思考も)差異化し、自己を無へと(想像的統一体をばらばらにする方向に)進めているのではないか。睡眠はそのためにあるのではないのか。

『睡眠の科学』講談社、によると、一睡眠中に、ノンレム⇒レム、という波を4、5回繰り返すらしい。4、5回というのが何か脳や思考の構造上の必然性があるものか興味深いが(こういうノンレムやレムの行き来、や、レム中の夢の皮質あるいは海馬に残った情報と夢自身の行き来、というようないわば渦には、皮質の異層間における、順行性入力(表層)と逆行性入力(深層)の1ユニットの連続(『脳は物理学をいかに創るのか』岩波書店 163p、を連想させるが関連しているかはわからない)、以上の仮説からすると、まずは、回が進むほどより抑圧の解けた夢になっていると考えるが、どうだろう。また、上書の図(24p)によると、回が進むほどノンレムは浅いものとなる(深いものとは脳波が遅くて、同調して振幅が高いものらしい)と共に、レム睡眠の時間は増えている、という対応もうかがえるのも興味深い。このノンレムの変遷について考えると覚醒時の情報に、より通底する大事な素数をまず抽出して皮質に送り込み、特殊な経験にしか対応しない素数をのちの段階に皮質に送り込んでいる、などということはないのか? レムの時間が増えるのは、深いノンレムが不要となった分、余裕が持てたからだろうか。そして、この図では睡眠の最後がノンレムで終わってるのも興味深い。つまり、その後の覚醒生活が、レム睡眠、あるいは、夢等価である、いわば「現実もまた夢」ということにならないか。 ・・とかっこよく終わろうかと思ったら同書116pでは、レムのあとにすぐ覚醒が来ている図もある。これは、いわゆる夢を夢として見きれて終われる人と(新宮の言うイザナギの夢系列―だったか―を全て見切れたような人)、穴の否認が強くて、本来なら見切れるはずの夢も見切らずに、現実も夢の延長のようにすごす人(睡眠の最後がノンレムの人)との違いによるのだろうか。とはいえ、見切ったといっても、さらなる差異化を遂げた人から見れば、その人も夢の中でのように現実を生きていると見られることになるのだろうが。

No.840 - 2017/05/29(Mon) 13:30:24

レム中の眼振 / 水上雅敏
レム睡眠で眼球が動くのは、夢で風景を見ているからではなく、トラウマ治療のEMDRの目の揺れのようなもの、或いは、ラマチャンドラン(『脳の中の幽霊』角川文庫 第7章)が半側無視の患者に眼振を起こさせることで(外耳道に冷水を入れると起こる)半側無視という否認を解除させたような、その眼振に似たものと考えらえないか? 冷水の効果が消えたころには、半側無視が一時的に無くなったその事実自体を患者は全く忘れている、というのも夢に似ている。
No.839 - 2017/05/29(Mon) 13:29:01

藤田先生 / 水上雅敏
>量子状態そのものが自己修復作用を持っていると仮定すると面白いです。つまり、宇宙どこをとっても波束が均一だというものです。

➞コメントありがとうございます。量子状態自身のタナトス、というような連想も浮かんできました。

No.838 - 2017/05/29(Mon) 13:27:53

波動による自己修復作用 / 藤田博史
水上さんの指摘された下記の点においては、量子状態そのものが自己修復作用を持っていると仮定すると面白いです。つまり、宇宙のどこをとっても波束が均一だというものです。
No.837 - 2017/05/18(Thu) 00:27:49

テレポーテーションと対称性の復旧? / 水上雅敏
『もともとはきちんと存在した対称性が自発的に破れるような場合には、ちゃんと破れた対称性を復旧してくれる新しい量子が生み出されるのです』(「脳と心の量子論」治部眞理、保江邦夫 講談社 217p)。

→量子を2つに割るとその間で情報のテレポーテーションが生じる、であったか、そういう話にも通じてくる感じもするが、専門でないので全くわからない。ただ、感じ、のみ。

No.836 - 2017/03/05(Sun) 13:21:38

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