[ 掲示板に戻る ]

記事No.851に関するスレッドです


文字は公共的である必要があるか? / 水上雅敏

言葉の基本をなす、声の対立(フォルト・ダーとか)。消えやすい声のこの対立の記憶を外界に刻み込んで残すために、私たちは文字を使うが、これが最初から公共的に互いに分かるものである必要があったのか? 話し言葉だけが分かり合えばよいわけで(分かりあう、とは、原初的には、互いに違う発声ー対立発声ーをしているな、と意識できること―そこで自分の対立発声したものの意味としては他者の対立発声の否定として成り立っている―、として)、あとはそういう自らの対立発声の記憶としての文字(公共化しえていない原初レベルとして「線」と言っておく方がこの仮説的段階としてはふさわしいだろうが)は、個々人が自由に作っておけばいいようにも思えるが。

・・と一瞬思ったものの、やはり、この線も、公共のものである必要があるのだろう。つまり、人々互いが、違う種類の対立発声を行った場合には、やはり、それらの記憶は、外界に夫々が違う種類の線として刻まれている、という風に(つまり、ここでは公共性とはそれぞれが違う種類の線であることが、見て取れること、としている。―個人が他とは「違う」と思っていても、他の人がそう思ってないケースを考えると複雑になりまたそこは後々考えるべきことだと思うが。とりあえず―)。そうでないと、個人において、私の先ほどの対立発声は、他者の対立発声とは違うものであったのだ、という記憶が残らないだろうから(対立発声の記憶を残すものが線だ、とすると、それがそれぞれの人の互いに異質の対立発声に応じた線が似通ってしまっていれば混乱することになる)。

ここで、では、人類の言葉の始まりには理論的には、最低何人集まってこういう作業を行って言葉(話し言葉と文字)が成立したのか、と考えると、3人だと考える。そもそも2人しか人類の初めにいなければ、対立発声も無く、故に意識もない(対立化の作業自体が意識だとすると)、もちろん線も文字も無い、他者とは違う自分という意識もない、ということになるのではないか。三人いてこそ、あちらの人の発声とは違う発声、また、こちらの人とも違う発声をしようとして、2つの発声をしようとするのだろうから(←同一化は人はともかく避けたいものだ、という前提から考えているのだが。想像的同一化はきついし、非現実的でもあるし。)。(ちなみに、「では他の二人とは違う一つの声でもいいじゃないか」ということにもなるが、個人は自分の声との同一化もさけたいわけで、それがまずは対立発声をこそ作って、自分のいずれの声との同一化からも逃れえるようにすると同時に、その対立項の隙間として無を作りたいのだ、と考えておこう。その上で、この対立項を代表する、より象徴的次元を上げた一つの声が発生することはありえるが(フロイト事例のフォルト・ダーが、やがて、フォルトだけの反復になったように)。)。文字のほうも、他の2人の人の描いたそれぞれの線を見てこそ、その隙間にそれらとは違う線をおこう、それら他の2人とは違う声の対立項の記憶を巡らすものとして、ということになるのではないか(ここで、文字の方も、各人が2つの線を使って対立項を作らないのか、という問題も出てきそうだ。しかし、声の対立項2つに対して、その隙間に置かれる一つの線、という方が、言葉の原型なのではないか。消えやすい声を、更に対立させてその隙間に無を作るという方策こそ、無である主体を代表させるに相応しいから、声の対立のほうが先であって、線のほうではないのではないか)。

さて、いま三人のグループを考えたが、そういう三人が互いに作り上げた声対立の3種類、線の三種類があるとすると、それぞれの三角形の中心としての隙間がさらに発生する。これを個々人の発声対立の隙間以上に、より無へと近づく次元を上げた隙間と言えるだろう。ここで、更に、このような3人グループの存在を3つ考え、この3グループの三角形を考えてみる。そこで、今までの3人間についての議論のようなことがこの3グループ間にも―つまりそれぞれの3角形の中心たる隙間3つの間に―起きるとする。すると、そこに、1グループでは無しえなかったほどの無を象徴化する発声対立と文字がそれぞれのグループにおいて発生することとなる。そんな風にして人類の言葉は発展してきているのではないか?

No.851 - 2018/02/10(Sat) 15:27:39