[ 掲示板に戻る ]

過去ログ閲覧モード


空回り / 水上雅敏
人間の脳には、どのようにか、振り返る、あるいは、空回りする、という運動を起こす構造があって、言語によって、それが螺旋的に流しだされないと、ウロボロス的な円運動のまま自己対立をつづけ、自己破壊をきたすのではないか。言葉をかけられない子供は死んでしまうこととか、致死性緊張病の構造とかも、そういう視点から少し考えてみたい。

そもそも、言語自体も、からまわりで、互いが影響し合っていると思っていても、実は、空回りと空回りの交差の関係でしかないようなものだろうけど・・・。ただ、言語においては、その空回り性が、個人に対しては、隠され、「何か螺旋的に進展している」、という幻想を持たせてくれることが、またニューロンの進展にも寄与しているのではないか。

No.549 - 2013/02/08(Fri) 13:24:50

一なる線 / 水上雅敏
「なにこれ珍百景」で、紙を折って、ハサミで一つの直線を切るだけで、開くと、文字や、いくつかの文字の連続(「ネプチューン」でさえ)を作れる人が紹介されていた。例えば、「日」は、その中の、空白である2つの「口」がくりぬけるように、うまく紙を折って、ただひとつの直線を切るようにして作る、ということのよう。
No.548 - 2013/02/08(Fri) 03:37:41

言葉は最初からずれるための仮の手段? / 水上雅敏
言葉を学ぶのは、最初から同一化ではなく、母からずれるための手段(そして自らを無に向かわせるための手段)と考えてみる。ずれさせてくれないのなら、最初から言葉を学ぶ意欲もでないと考えてみる。

すると、クーイングも喃語も、むしろ母の発声しないような音や抑揚でこそなりたっているのではないか、という仮説も出てくる(母子の声のやりとりをビデオで見たことがあり、互いの抑揚がどうであったか記憶が定かでないけど確認してみたい)。

やがて、喃語ではまだ、母からのずれが不十分だと感じ始めて、むしろ言葉を学ぶことでさらに母からずれようとするという段階が来る。

さらに、母からずれる手段であった通常の言葉からもずれようとして、意味とシニフィアンのずれを遊ぶようになる。「犬はにゃんにゃん、猫はわんわん」など。あるいは、母がやってはいけないと言うことをあえてやったり、自らも、自分に「〜してはいけません」と言いつつ、あえてそれをやったりする。

さらに、そうしてシニフィアンの自由性を十分感じれるようになり、無や、自由性が、人生のより大きな局面に見うるようになると、そういう遊びさえ不要となり、通常に言葉を使えるようになる。・・・と考えてみる。

そう考えると、以前、「冷蔵庫をあけてはいけません!」と自ら言いつつ、冷蔵庫をあけて中のものを食べるのを繰り返していた自閉症の子がいたが、その行為は、シニフィアンの自由性を構成するためにあったのか? 同じ子は、「曲を聞き終わるとカセットテープを切りなさい」と親に言われていたものか、聞いた後つねにカセットテープを文字通り「切って(cut)」いて、当時は、私は本人の中で一義的に「切る=cut」となっているのかとも思ったが(その可能性が十分あるが)、実は、親の言う「切る」の意味とは違う「切る」をあえて演じることで、シニフィアンの自由性を遊んでいたのか? (あるいは私たちの「切cutってはいけない」に反する行為をすることでシニフィアンの自由性を遊んでいたのか)・・とも考えられそうでもある。

母からずれるための手段、無へと赴くための手段としての(母の出す音声や言葉とは違う)喃語や言葉を発することがことごとく蹂躙されてしまうことが、「父の名」の排除を助長するひとつの原因となるのだと思う。どういう対応をすればそうなるか? 何を言っても、母との同一化につかまってしまう、母は、母と違うことをさせてくれない、しようとしたらそれもどんどんまねされた、・・などというようなことか? どちらに行っても、母との同一化となってしまう、という状況を考えてみると、ダブルバインドという概念もすこし再評価して考えてもいいかな、とも思う。

ところで・・ラウ(自明性の喪失の)は、言葉を、同一化として学ぼうとし続けたのかも知れない。それは、自分の中で進もうとしてしまう母とのずれや、無に向かうための言葉、に対抗するために・・であったのか、あるいは、後者のそういう動きは当の最初からなかったのか(そういうことがありうるのだろうか?)・・はわからないが・・。

No.547 - 2013/02/07(Thu) 03:43:44

:巨大フジ隊員VSキングギドラ2 / id
サヨクとウヨクの驚くべき質的劣化は、次のまったく新しい風景が生まれる直前の断末魔の叫びなんだろうなぁ。その独特の時間を、直接的ではなく間接的に表現して定着させるのが、芸術家としての自分の仕事なんだろうなぁーーそんなことを最近考えてます。素材を提供してくださっている皆様ありがとう。
makotoaida 2013-02-04 00:03:20

『自分にとって都合のいい表現のみが「表現の自由」で認められるべき、というのが右と左での共通認識』ってのは以前から薄々感じてたけど、こうまで露骨に来るとウンザリする……
返信 iduru_kazumi 3 days ago 34

@takuyakanda 好き嫌いや評論といった表現の中身についてならデマや誹謗中傷を除いて何言ったっていいけど、「美術館に展示するな」は表現するなってことだから、表現の自由から考えれば許されない行為
返信 daken3gou 2 days ago 12

要するに前田朗とか中里見博は、表現の自由を守れといいつつ、実はその表現を自分の好みに限定して考えてる傾向がある。だからある表現は守るけどある表現は規制すべきみたいな矛盾を平気で抱え込むわけだ。しかもそれを正しいと思い込んでる。その正しい理由を説明できないけどw
返信 mametanuki22 3 days ago 21


ttp://togetter.com/li/449395

No.546 - 2013/02/06(Wed) 18:46:11

巨大フジ隊員VSキングギドラ / id
会田誠という人をまったく知らなかったのだが、ある日書店で画集をペラペラとめくっていたら「巨大フジ隊員VSキングギドラ」が目に止まりその怪しい魅力にはまってしまった。

森美術館での展覧会出典の「犬」シリーズ等について、市民団体からポルノであると展示中止せよとのクレームが付いているとのこと。
榊山さんに取り上げて欲しいテーマです。

永井豪のマンガ、バイオレンスジャックのスラムキングが同じコンセプトの人犬を飼っているのだが、会田誠の作品はオマージュなのだろうか。

こちらのページで議論が行われています。参考までに。
ttp://blogos.com/discussion/2013-01-30/Art/

No.545 - 2013/02/01(Fri) 14:19:47

知覚器官自体を操作するトップダウンプロセス、2重のトップダウンプロセス / 水上雅敏
知覚器官からの信号(現実界)に、大脳からのトップダウンプロセル(象徴界、想像界)が関わって、そこに知覚意識が生じてくると考えていて、最初の信号自身(のとりわけ器官に近いあたりの信号)には、トップダウンプロセスは関与できない、と考えていましたが、『音楽嗜好症』(早川書房)を読むと、そうとも言えないようで興味深い問題です。
最初は、トップダウンプロセスが知覚に影響しえたとしても、せいぜい、トップダウンプロセスがかかってきて知覚意識が生じる時点で、あるいはその直前くらいの知覚(いずれにしても、トップダウンプロセスの影響が波及することは考え得やすい大脳内の働き)には影響しても、それ以前の信号には影響を及ぼせないだろう、と思っていましたが。

当該の書185〜199ppでは、蝸牛の損傷、特に有毛細胞の損傷によってか(?)、ある音階が少しずれて聞こえるようになった音楽家ジェイコブは、意志の力でその知覚のひずみを修正できる、それは「顔にも花瓶にも見える図形を目にして花瓶を「見よう」とするようなもの」と述べた件が書かれています。

さらに抜粋すると、:
「ジェイコブは一つの音を集中力で引き留めたとき、そして、そればまた逃げてしまったとき、自分の知覚が変わると感じていた。ということは、たとえ1、2秒にしても、彼は実際に自分の蝸牛管を再調整できたのではないだろうか。・・・最近の研究によって、脳から蝸牛管へ、そして外有毛細胞へとつながる、遠心性の太い接続(オリーブ蝸牛束)が実証されたことで、その考えが裏付けられた。外有毛細胞はとくに内有毛細胞を調整、また、「調律」する役割を果たしていて、もっぱら遠心性の神経支配を受けている。つまり、神経インパルスを脳へ伝えるのではなく、脳から命令を受け取るのだ。」とあります。

以上。こう見ると、間接的にせよ、トップダウンプロセスが外有毛細胞を支配し、内有毛細胞―つまりは、外界の刺激を受け入れるまさにそのぎりぎりの領域―にも影響を与ええるようです。

その意味では、2重のトップダウンプロセスがある、とも言えるでしょうか。「聞きたいものを聞く」と言うとき、刺激は来てても一部を捨象して聞く、という場合もあるでしょうが、また、実際に刺激自体をシャットアウトして聞く、という場合もあるということになります。ちなみに、そういう器官レベルでのシャットアウトというのは、今のトップダウンプロセス(思考)以前にあったトップダウンプロセス(思考、あるいはそれらの総合)によって、行われているということに、多分、なるでしょう(でないと、まずは刺激を受け入れてしまう、ということになります)。となると、欲望(つまりは今までの思考の集積に欠如している穴)もそこにかかわっていることになります。知覚と欲望と、今のトップダウンプロセスの関係をここから考えるのも興味深いです。
また、敷衍すると、思考自体も、考えたくない思考はやって来ていても無視する、とするのみならず、考えたくない思考は最初から無しにする、ということも可能なのでしょうか?? 知覚器官とは話が違うからどうかわかりませんが、「父の名」の排除も、こういうことからも考えられるものかどうか・・。まだよく考えていませんが・・。

No.544 - 2013/01/22(Tue) 15:44:56

利己的なDNAと利己的な欲望と / 水上雅敏
本能がくずれていると言いつつ、人間は結局、子供を産み、子孫を存続させている。利己的なDNAに利用されている。しかし、逆に、言葉や欲望のほうこそ自らを存続させるためにDNAを利用しているようにも見える。しかし、どちらも目的論にひきずられた考えかも知れない・・。
No.543 - 2013/01/21(Mon) 16:11:55

いかに象徴界をひずませず社会に訴える?か / 水上雅敏
社会の不正や間違いを、自分の象徴界の流れを一時的にでも犠牲にせずに訴える方策はあるか? 結局、なおは、訴えつづける方向に自我同一性を見出したように思えるけど(その分は偏っているのかも知れない)。さっと訴えて、さっと自分に戻る、とすべきか? 「鳩のように従順に、蛇のようにさかしく」しつつ。あるいは、自分の象徴界の本流的な流れを大切にし、社会の不正は神や時が正してくれる、などと思いつつ流すべきか。それはそれで象徴界を多少なり自己抑制しているように思えるが、枝葉末節的で支流的な事柄に引っ掛けられるべきではないのかどうか。あるいは、そもそも訴えようとすること自体が、自分自身のヒステリーに(不満を見出そうとする構造)に由来しているだけなのか、そこに正当性が全くないのかどうか・・。

というような問題は今の体罰の問題とも通じてくる問題のようにも思えます。「体罰うけることは自分にとって修行として役立った」(確かに厳しい教師の下で、いろんな幻想を自己分析して象徴界を進展させる奇特な生徒もいましょう)、として皆がずっと黙り続けるばかりで、確かに体罰を恐れる緊張感が本当に役立ったとも感じているのかも知れず(実際は体罰でないほうが成長したかもしれないのに)、また、そのように言うことは謙虚な姿勢なのかも知れませんが、一方、そうする謙虚な生徒ばかりで、誰も訴える生徒が出てこないと、現状がずっと残り続けてしまう、ということにもなりますので・・。

No.542 - 2013/01/21(Mon) 15:47:53

外部からの圧力だけで解離しえるか? / 水上雅敏
出口なおの話に触発されて出た疑問。ある人のヒステリー性の解離が、どこまで外部の圧力に抗するための仕方のない手段であったのか、どこまで個人のエディプスコンプレクスへの固着のせいか、というもの。

この間にさまざまな段階が考えられると思いますが、代表的なものを挙げてみます。

@消去された主体S barreを守るための解離。例えば、このまま権力者に何も窮状と改革を訴えないと命が取られるが、個人として訴えるとそれ自体が命を危うくするから神の権威を使い神に憑依されたかたちをとり訴える場合。

A自分の象徴界を守るための解離。例は上の例に準ずるが、命を狙われるほどではなくても、言論弾圧などに対して、神の権威を使わないと抗しきれないとき。

B外部が特に圧力をかけないが、個人的なエディプスコンプレクスへの固着から、何かエディプスの欲望に触れる表象を見たときに禁止が働き解離するもの。

以上。要約すると@とAは象徴的連鎖を守るための解離。Bは象徴的連鎖を自ら抑圧するための解離。

考察や疑問を補足すると、まず@やAについて。権力者に訴えるひとつの手段として神の憑依を利用するとは言っても、手段と言う意図的なものであるぶん、どこまで本当に解離しえるのか(自分で自分を解離しようとしても、前者の自分が意識に残り不可能なのではないか。)に疑問はあります。ただ、外圧がどうしようもないほど強くて、意図的な手段といえるほど冷静でない状態から解離状態に入る、ということはあり得るかも知れません。しかし、本当に通常に去勢を受容できている個人にも、これがありえるかの疑問は残ります。あったとすればどういう構造のひずみによってか・・。外圧が象徴界の自然な進展と想像界の安定性を強く破るほどのものとして侵入するとともに、それへの怒り、訴えたい感情が優勢となって、一時に象徴的進展がそれに凌駕されて、訴えたいが訴えると殺されるという疑似エディプスコンプレクス構造へと入って、自ら訴えるのには禁止をかけて神の権威を使って訴えようとする・・ということであり得るか、あるいは、そこに以前のもともと残っていたエディプスコンプレクス(それが、誰にも残っている程度のであれ。つまり象徴界によって基本的に常に解消への道をたどり続けているエディプスコンプレクスであれ。)が圧縮されてこそそうなりうるか・・にも考察がまだ至っていません。このへんは、外傷性神経症が、個人的に特殊なエディプスコンプレクスの固着なしに、ただ危機的な事件との出会いのみでありえるか、の議論にも通じることかとも思います。ちなみに、解離でないにしろ、他の神経症症状でも同じような問題を問える場合があるように思えます(たとえば、言論統制に対するハンガーストライキにも思える場合の拒食症など)。

Bを別に分けましたが、なぜエディプスコンプレクスへの固着が起きたかというと、その最初の時点では、子供にとっては@やAと等価と感じられる危機が外部から行われたのかもしれない―実は全てそういう場合かも?個々人に敏感さの違いはあれ・・―(その危機感を感じさせたのが必ず外部からの言葉であるべきか、外傷的な事件のみでもありえるのかはよくわかりませんが。ただ事件にしろ、むしろそこで事件をきちんと説明する在るべき言葉がなかったから、という意味で、問題を「言葉」の領域に収斂することもできるかもしれませんが)ということも補足しておきたく思います。

で、出口なおに戻れば、彼女の解離はどこに位置するか・・。社会への訴えというのは、実は個人的な家族的なエディプスコンプレクスの置き換えであって、本当は後者のほうの問題がより大きかったのだととることもできるかも知れません。そもそもの最初の神がかりも、お告げは、発狂した長女について、五女に対して「西町(長女の嫁ぎ先)に行って36体の燈明を供えて『ご祈念せい』と言うて来て下され」という家族的なものであったし(ただ、これをなぜ解離で言わないといけないか―そんなにまずい言葉でもないと思えるが―、どうエディプスコンプレクスがかかわっているのかは、家族背景がわからずよくわかりませんが)。しかし、やはり、一次的に@、Aに動機づけられたものであるのかも知れず、これはよくわかりません。上記のお告げにしろ、社会への訴えがどのようにか一次的にからんでいるのかも知れません。

No.541 - 2013/01/21(Mon) 14:58:46

感想 2 / 水上雅敏
王仁三郎を、なおはどう思っていたのだろうか、苦々しく感じるところはなかったか、というのもTVを見ての感想です。

TVでは、王仁三郎は、日本の正当な神道の教育も受けていて、また、天皇のもとでの平等な人々という世界観を作ったとの旨ありました。想像的命名中心に生きた人というところでしょうか。

なお自身は、艮の金神という、むしろ恐れられていた、いわば世間からはアブジェクとされていた悪神(信仰していた人も結構いたようですが)をこそ神にしたというところからして、王仁三郎のこの世の天皇中心の世界観などというものは世間に妥協的で、よほど俗っぽく思えはしなかったかどうか。さらに、国には対抗的であったなおからすると、国家主義にもつながる王仁三郎の思想には同意しがたいところはなかったのか?

今、ふと思ったこと。出口なお、という名自体の作用は? 出口→金神なり、世間に隠れた声の出口となる・・??。勘ぐりすぎ? また、(以下ウィキペディア)なおについて「折からの天保の大飢饉のため両親は減児を相談したが、気難しい姑が断固反対し生を得ることが出来た」とありますが、そういう意味では、アブジェクトされた艮の金神との同一化がここに用意されていたようにも思えます。

No.540 - 2013/01/10(Thu) 04:46:01

(No Subject) / 水上雅敏
>できれば普遍宗教を、一度身体に入れておいた方がいいかもしれません。

普遍宗教の定義にもよりましょうが、どうなのでしょうか。言葉があれば、教えなくても、論理的に考えられ、すべてを疑え、思考を弁証化しつづけえましょうが、そういう象徴的去勢への動き、言葉の自然な動きを子供に許す、ということそのものがここでの普遍宗教の定義であれば同意です。そういう意味では、わざわざ宗教の名を出す必要もない普遍宗教ということですが(逆に自分を普遍宗教と言っている普遍宗教ほどあやしいということにもなりかねません)・・。ドルト的な聖書の参照の仕方、というところまでいけばよいのですが。そうでなければ、普遍宗教と名付けられたものの信仰の場合、多分に想像的命名という補填に終わってしまう可能性もあるのが問題のように思えます。

No.539 - 2013/01/10(Thu) 04:43:25

(No Subject) / 榊山裕子
>早めに、
幼少期に、という意味です。

No.538 - 2013/01/09(Wed) 16:00:21

神の名 / 榊山裕子
>神の名のもとで訴えられたら

そういう意味では、早めに、できれば普遍宗教を、一度身体に入れておいた方がいいかもしれません。
予防注射みたいなものでしょうか。

No.537 - 2013/01/09(Wed) 15:31:37

日本人は何を考えてきたのか / 榊山裕子
NHK 「出口なお・王仁三郎」
残念ながら、見逃しましたが面白そうなシリーズですね。
次回は更にすごい。
是非見ないと。

1月13日(日)午後10時〜11時30分
第10回 昭和維新の指導者たち 〜北一輝と大川周明〜

No.536 - 2013/01/09(Wed) 14:41:00

NHK 「出口なお・王仁三郎」を視ての感想 / 水上雅敏
私自身も、訴えたい倫理を、なおのように、意識を解離して、神の名のもとで訴えられたらどんなに楽だろうと思います。特に田舎では。都会では、自分のアイデンティティーがわからぬように多人数に紛れて訴えることはたやすいからそうする必要はないけど。と、考えると、意識解離して神の名を借りて訴えることと、多人数に隠れて訴えることは等価? 
No.535 - 2013/01/07(Mon) 01:04:18

「ドレミの歌」以前の問題 / 水上雅敏
>たしかに、ドレミの歌の「ドはドーナツのド」という後半のドはミの音ですが、そういうことの影響が大きいのかもしれませんね。

しかし、考えてみると、ドレミの歌は明治時代にはありませんから、当時の日本人のドとミのわからなさは別の原因から来ているのかも知れませんね。

しかし、ヨナ抜き音階は分かるわけだから、ドレミで言うと、ファとシがないだけですから、ドとミ相当の音階の区別はもともとできているはずですね。それができないとはどういうことか。とりあえずは、ドとミ、またその間の関係と、他の音との相対的な関係が、西洋のドレミ〜の音階と、ヨナ抜き音階との場合では違っているから、というふうにしか考えられません。

ということは、逆に、西洋の音階のドとミは分からず、ヨナ抜き音階のドとミ相当の音は分かる、ということ自体が、少なくとも、学習以前にも「異質な音階の系列には多少ともことなった感情が連想されていやすい(どういう連想かは一人一人違っても)」ということを示すように思えます。感情の質というものも、結局、想像的に安定した身体像を攪乱する穴に対する、連想や共感覚に過ぎないでしょうから。感情とまで言えるものではなくとも、何か違った雰囲気がドレミ〜とヨナ抜き音階に配分されて感じられているのだろうなとは思います。

No.534 - 2013/01/07(Mon) 00:45:06

年をとると音階は高めに色は青側にずらして判断してしまう? / 水上雅敏
絶対音階が私にあるわけではありませんが、若い頃は今より、音程が当たる割合は多かったと思います。しかし、不思議なのですが、年をとってからは、突然「ド」を聞くと一つ上の「レ」ではないか?とふと思ってしまうことが多いように思います。下がった方に感じることはあまりないように思います(私だけなのでしょうか??)。これはもしかしたら、モスキートーンは年取った人には聞こえないというところから考えるに、周波数の高い音が聞けない分、相対的に、以前は低く感じていた音を少し高い位置のものとして判断してしまっているからでしょうか? 

年をとると、青が見えにくくなる、だからガスの青い炎も見えにくくなるから気をつけたほうがいい、と聞いたことがあります。こうみると、どうやら、音にしろ色にしろ、年をとると高周波のものには緩んだ弦のように神経が共鳴しなくなっているかのように思えますが、色については、音と同様、少しスペクトルをずらして、かつての青(特に紫的なスペクトルの端ぎりぎりのところの青)には色が見えず、かつての緑が少し青がかり、黄色は緑がかり、橙は少し黄色がかって観ている、ということになるのでしょうか?

No.533 - 2013/01/05(Sat) 04:50:09

「ドレミの歌」歌詞を変えた方がいいのでは? / 水上雅敏
>ドとミを聴き分けることができない日本人が多くいた

なぜ、そうなのか。

とこだわって調べてみましたが、以下、
ttp://shop.tokyo-shoseki.co.jp/shopap/special/music/artes/yasuda002.htm
に書かれているように、たしかに、ドレミの歌の「ドはドーナツのド」という後半のドはミの音ですが、そういうことの影響が大きいのかもしれませんね。ソはまともですが、後半に言及のないシ以外は全てそのようにずれていて、罪な歌だと思います。

しかしこれは音階とその名を一致させることの困難さであって、音階自体が混乱して聞かれているというわけでもないのでしょうね。

ついでに、上のページからさらに
ttp://shop.tokyo-shoseki.co.jp/shopap/special/music/artes/yasuda001.htm
へと入ってみましたが、これはアナグラムの視点からだけでも、かなり面白く、もっといろんな歌や、人のかたりをこのように観てみたいな、と思わせる興味深い論考です。

No.532 - 2013/01/05(Sat) 03:43:28

追加 / 水上雅敏
短調、長調の感覚関連から、以下おもしろいです。こういう視点からももう少し考えてみたいと思います。
ttp://hiro-san.seesaa.net/article/250596676.html

No.531 - 2013/01/05(Sat) 01:15:37

純粋な共感覚の痕跡は無いのかどうか? / 水上雅敏
榊山さん。本年もよろしくお願いいたします。

たしかに、小学校時、教師が、長調と短調を教えるために、「長調は楽しく、短調は悲しい感じ。聞いてみるとそうでしょ?」と言っていて、納得しないながらも、基本的に教師におもねっていた私は長調と短調を区別するための指標を得ようとしてムリにそう感じようとしていた記憶がうっすらとあります。

問題は、私が既に述べたような共感覚の影響は全く無くて、すべて訓練でそう感じ始めたのか、逆を教えられていたら、長調=悲しい、になっていたかですね。

やはり後者は難しいのではないか(そもそもこんなこと思いついた人はなぜ短調側に悲しい、をおいたのか?偶然も否定できませんが)。そもそも、「悲しい」とか「楽しい」とは何か、この分類名自体がかなりの単純化ではないか、という問題もあるので、もっと精神分析に、在-不在の想像、(φ←→-φ)を問題としますが、在-不在の想像を、人は、何か似たもののペアに向けて、あるいはそんなに似ていなくてもあえてペアを作りだして、分離して分配しようとする傾向があるのだと思います。混在させてしまって、在の想像を壊してしまわないように。例えば、太陽と月、犬と猫など(そしてそこにペニスのある男性・無い女性を見ようとしたり。むろん、太陽と月や、その文化における男性、女性の機能に応じて、どちらをどちらに分配するかは任意でしょう)。長調と短調と言われる音階にも、在-不在の想像が訓練されずとも否応なく分配されてしまうのではないでしょうか? どちらに不在が分配されるかというと、これは任意と言えば任意なのでしょうが、ドミ♭ソという、ミが長調の場合より多少「落ちている」短調のコードのほうに分配され、ミが相対的に上にある長調のコードの方に、φ=ファルス、しっかりと「上」を向いて勃起したファルスの想像が分配される、とするほうが自然に思えます。「不在」が「悲しい」、とは人によってはならないかも知れないし、悲しみ以外にも、「不在」には様々な感情がさしむけられることでしょうが、ともかく、個人に於いて、不在側と想像される感情が短調側に、在と感じられる感情が長調側にどうしても分配されるのではないか、と思うのです。とはいえ、確かに、訓練の影響も思っている以上に大きいかもしれませんね。悲しみを伝えるには、一般に悲しいと言われている短調を使うのがいいだろうと思ってそういう曲を作ろうとする、葬式の時に長調の曲を流すのは不謹慎だろうと思って遠慮するとか、そういう気遣い、習慣の中でいつのまにか常に訓練を受けているようなものですから。どこまでが純粋に共感覚によるものなのかというのはなかなか難しいです。

あと、余談ですが
>何か似たもののペアに向けて、あるいはそんなに似ていなくてもあえてペアを作りだして

と言いましたが、長調と短調は、このどちらなのか、そもそも物理的に波長的に他の旋法と違ってこの2つは何か似た特徴はあるのか、あるいは、そうではないが、ペアを作るためにあえて短調の音階というものを作ってもってきたのか、そこはよくわかりません(わかる人にはすぐわかることでしょう)。

No.530 - 2013/01/05(Sat) 01:08:37

全522件 [ ページ : 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 ... 27 >> ]