[ 掲示板に戻る ]

過去ログ閲覧モード


「ドレミの歌」以前の問題 / 水上雅敏
>たしかに、ドレミの歌の「ドはドーナツのド」という後半のドはミの音ですが、そういうことの影響が大きいのかもしれませんね。

しかし、考えてみると、ドレミの歌は明治時代にはありませんから、当時の日本人のドとミのわからなさは別の原因から来ているのかも知れませんね。

しかし、ヨナ抜き音階は分かるわけだから、ドレミで言うと、ファとシがないだけですから、ドとミ相当の音階の区別はもともとできているはずですね。それができないとはどういうことか。とりあえずは、ドとミ、またその間の関係と、他の音との相対的な関係が、西洋のドレミ〜の音階と、ヨナ抜き音階との場合では違っているから、というふうにしか考えられません。

ということは、逆に、西洋の音階のドとミは分からず、ヨナ抜き音階のドとミ相当の音は分かる、ということ自体が、少なくとも、学習以前にも「異質な音階の系列には多少ともことなった感情が連想されていやすい(どういう連想かは一人一人違っても)」ということを示すように思えます。感情の質というものも、結局、想像的に安定した身体像を攪乱する穴に対する、連想や共感覚に過ぎないでしょうから。感情とまで言えるものではなくとも、何か違った雰囲気がドレミ〜とヨナ抜き音階に配分されて感じられているのだろうなとは思います。

No.534 - 2013/01/07(Mon) 00:45:06

年をとると音階は高めに色は青側にずらして判断してしまう? / 水上雅敏
絶対音階が私にあるわけではありませんが、若い頃は今より、音程が当たる割合は多かったと思います。しかし、不思議なのですが、年をとってからは、突然「ド」を聞くと一つ上の「レ」ではないか?とふと思ってしまうことが多いように思います。下がった方に感じることはあまりないように思います(私だけなのでしょうか??)。これはもしかしたら、モスキートーンは年取った人には聞こえないというところから考えるに、周波数の高い音が聞けない分、相対的に、以前は低く感じていた音を少し高い位置のものとして判断してしまっているからでしょうか? 

年をとると、青が見えにくくなる、だからガスの青い炎も見えにくくなるから気をつけたほうがいい、と聞いたことがあります。こうみると、どうやら、音にしろ色にしろ、年をとると高周波のものには緩んだ弦のように神経が共鳴しなくなっているかのように思えますが、色については、音と同様、少しスペクトルをずらして、かつての青(特に紫的なスペクトルの端ぎりぎりのところの青)には色が見えず、かつての緑が少し青がかり、黄色は緑がかり、橙は少し黄色がかって観ている、ということになるのでしょうか?

No.533 - 2013/01/05(Sat) 04:50:09

「ドレミの歌」歌詞を変えた方がいいのでは? / 水上雅敏
>ドとミを聴き分けることができない日本人が多くいた

なぜ、そうなのか。

とこだわって調べてみましたが、以下、
ttp://shop.tokyo-shoseki.co.jp/shopap/special/music/artes/yasuda002.htm
に書かれているように、たしかに、ドレミの歌の「ドはドーナツのド」という後半のドはミの音ですが、そういうことの影響が大きいのかもしれませんね。ソはまともですが、後半に言及のないシ以外は全てそのようにずれていて、罪な歌だと思います。

しかしこれは音階とその名を一致させることの困難さであって、音階自体が混乱して聞かれているというわけでもないのでしょうね。

ついでに、上のページからさらに
ttp://shop.tokyo-shoseki.co.jp/shopap/special/music/artes/yasuda001.htm
へと入ってみましたが、これはアナグラムの視点からだけでも、かなり面白く、もっといろんな歌や、人のかたりをこのように観てみたいな、と思わせる興味深い論考です。

No.532 - 2013/01/05(Sat) 03:43:28

追加 / 水上雅敏
短調、長調の感覚関連から、以下おもしろいです。こういう視点からももう少し考えてみたいと思います。
ttp://hiro-san.seesaa.net/article/250596676.html

No.531 - 2013/01/05(Sat) 01:15:37

純粋な共感覚の痕跡は無いのかどうか? / 水上雅敏
榊山さん。本年もよろしくお願いいたします。

たしかに、小学校時、教師が、長調と短調を教えるために、「長調は楽しく、短調は悲しい感じ。聞いてみるとそうでしょ?」と言っていて、納得しないながらも、基本的に教師におもねっていた私は長調と短調を区別するための指標を得ようとしてムリにそう感じようとしていた記憶がうっすらとあります。

問題は、私が既に述べたような共感覚の影響は全く無くて、すべて訓練でそう感じ始めたのか、逆を教えられていたら、長調=悲しい、になっていたかですね。

やはり後者は難しいのではないか(そもそもこんなこと思いついた人はなぜ短調側に悲しい、をおいたのか?偶然も否定できませんが)。そもそも、「悲しい」とか「楽しい」とは何か、この分類名自体がかなりの単純化ではないか、という問題もあるので、もっと精神分析に、在-不在の想像、(φ←→-φ)を問題としますが、在-不在の想像を、人は、何か似たもののペアに向けて、あるいはそんなに似ていなくてもあえてペアを作りだして、分離して分配しようとする傾向があるのだと思います。混在させてしまって、在の想像を壊してしまわないように。例えば、太陽と月、犬と猫など(そしてそこにペニスのある男性・無い女性を見ようとしたり。むろん、太陽と月や、その文化における男性、女性の機能に応じて、どちらをどちらに分配するかは任意でしょう)。長調と短調と言われる音階にも、在-不在の想像が訓練されずとも否応なく分配されてしまうのではないでしょうか? どちらに不在が分配されるかというと、これは任意と言えば任意なのでしょうが、ドミ♭ソという、ミが長調の場合より多少「落ちている」短調のコードのほうに分配され、ミが相対的に上にある長調のコードの方に、φ=ファルス、しっかりと「上」を向いて勃起したファルスの想像が分配される、とするほうが自然に思えます。「不在」が「悲しい」、とは人によってはならないかも知れないし、悲しみ以外にも、「不在」には様々な感情がさしむけられることでしょうが、ともかく、個人に於いて、不在側と想像される感情が短調側に、在と感じられる感情が長調側にどうしても分配されるのではないか、と思うのです。とはいえ、確かに、訓練の影響も思っている以上に大きいかもしれませんね。悲しみを伝えるには、一般に悲しいと言われている短調を使うのがいいだろうと思ってそういう曲を作ろうとする、葬式の時に長調の曲を流すのは不謹慎だろうと思って遠慮するとか、そういう気遣い、習慣の中でいつのまにか常に訓練を受けているようなものですから。どこまでが純粋に共感覚によるものなのかというのはなかなか難しいです。

あと、余談ですが
>何か似たもののペアに向けて、あるいはそんなに似ていなくてもあえてペアを作りだして

と言いましたが、長調と短調は、このどちらなのか、そもそも物理的に波長的に他の旋法と違ってこの2つは何か似た特徴はあるのか、あるいは、そうではないが、ペアを作るためにあえて短調の音階というものを作ってもってきたのか、そこはよくわかりません(わかる人にはすぐわかることでしょう)。

No.530 - 2013/01/05(Sat) 01:08:37

調性と日本人 / 榊山裕子
水上さん、こんにちは。本年もよろしくお願いいたします。

>長調はなぜ楽しく、短調はなぜ悲しく聞こえるか

という問題を考えるには、その前提として,音楽を理解するということは、幼い頃からの訓練によってなされているということ、つまり言語の習得と似ていることを考慮しておく必要があるように思います。

これは調性音楽を聴いたことのない人間が、長調、短調にそのような感情の差異を聞き分けることができるか?という問いとして考えてみることができるかもしれません。

たとえば明治時代のある外国人宣教師は、当時、ドとミを聴き分けることができない日本人が多くいたことを証言しています。
これらの音を聴き分けるために「ドミソ」だけを毎日毎日繰り返し指導されたという生徒の証言も残っているそうです。この訓練は外国語の習得に似ています。
日本人生徒たちが、ドとミを聴き分けることができる前から長調は楽しいと感じることができたのかどうか、
果たしてそれを感情の在り方の差異として聴き分けることができたのか、
その過程についての証言があれば面白いのですが。

No.529 - 2013/01/04(Fri) 14:19:40

長調と短調の関係 / 水上雅敏
長調はなぜ楽しく、単調はなぜ悲しく聞こえるか、というのは、長調と短調の2つしかなければ人は人の根源的な差異化である在(こちらはたぶん楽しい、に通じる)と不在(悲しいに痛じる)をそれらに分配してみるはずで、そのうえ、例えば、長調であるドミソに比して、短調であるドミ♭ソは、後者は、ミ♭となっている分、その落ち込んだ感じが、悲しくて重力に引きずられるまま寝付いてしまいたい感じ、呼吸の重い感じ、などとの共通項があるから、共感覚的にそうなのだろうな、と思っていたのですが、

『The Geometry of Musical Chords』  
( ttp://www.brainmusic.org/EducationalActivitiesFolder/Tymoczko_chords2006.pdf
)
Dmitri Tymoczko 著の最初のページの右側にある次の文は興味深いものでした。

:・・the C major chord is inversionally related to the C minor chord {C, E♭, G}, or {0, 3, 7}, because
{0, 3, 7}≡{ 7 – 7, 7 – 4, 7 – 0} modulo 12Z:

私の理解したところでは、ド(C)を0として、半音も入れると、音階は0〜11(最後のシ)のナンバーが付けられるわけで、これに応ずると、ハ長調(C major)のドミソは、0,4,7で、ハ短調のドミ♭ソは、0,3,7だが、ドミソをソミドに反転させて7,4,0にして、7からそれぞれを引くと、0、3,7というハ短調の和音が構成できる(別言すれば、ハ長調のドミソの反転と短調のドミ♭ソを加えると、それぞれどれも7になる?)ということかと思いますが、このこと自体が、直接的に、なぜ長調は楽しく短調は悲しい感じがするか、という答えにはなってはいませんが、こういう関係がある、というのは今まで気づかず、私には目からうろこのことでした(普通に知られていることなのかも知れませんが・・)。

No.528 - 2013/01/03(Thu) 23:52:24

iPS 構造と流れ / 水上雅敏
年末には、TVではサイエンスゼロを初めとして、iPSの話が多かったですね。そのつながりで、ばらばらにされたプラナリアの断片が多くのプラナリアとして再生するとき、必ず一方が頭に、逆側が尾になるのはなぜか? それは、そもそも元のプラナリアに於いてタンパク質の一方向の流れがあって、切られると、その流れが、断片の後方側で停滞してそこにタンパク質が停滞し、前方にはタンパク質がなくなる、そして、そのたまった側が尾になり、前方側が頭になるのだ、という話がありましたが(私の誤解が混在しているかも知れませんが)、興味深かったです。私としては、どこか、まず、プラナリアには、部分=全体というような、フラクタルな構造があるんだろうな、と思っているのですが、そこに、更にタンパク質の「流れ」、という、時間的でアナログなものが作用しているのがおもしろかったのです。

ここで思ったこと。構造+時間的なアナログなもの、と二分化させて考えず、例えば、時間と空間を、「時空」として考えるように、もっと関連づけて考えられないか、あるいは、多次元の中の、ちょっとした表現の違い、として考えられないか、ということ。そして又、逆に、生命における、内部と外部という二分化。つまり、構造(先のことでいうとフラクタルな)に対して、例えばタンパク質の「流れ」というような、外部からの作用が、生命の発現には必要なのではないか、と思わせる関係。(上記のプラナリアの件ではタンパク質の流れ自体も、切られた部分は受け継いでいたから、明らかにそれは外部とは見えないわけですが、死んだマウスからiPS細胞をとって精子化し、そこからマウスを作った折には、たしか生きたマウスの卵子に受精させた、とかありましたが、そこから考えると、やはり、生きた動きという、構造外からの介入が必要なようにも思えます)。むろん、そういう内部と外部も超えて、この2分を包括しえる見方も考えてみたいですが・・。又、構造と流れ、という連想から、脳のシナプスや脳波や信号の伝達v.s.血流。この両者が情報伝達に寄与しているのではないか、などということ。

余談でふと思ったことですが、プラナリアを分割して、より多くのプラナリアは作れるわけですが、多くのプラナリアをまぜて大きな一つのプラナリアをつくるというわけにはいかないのでしょうか? やはり、詳細化、差異化のほうに生命は向かうしかないのか・・?

あと、iPSから、分化した細胞をつくる難しさが語られていましたが、心臓の細胞を作るためには、4種類のタンパク質をある時間をおいて特定の順で与えればいい、というのも興味深い物でした(この4種類ということ自体も、細胞をiPS化させるときも4種類が要ったということから興味深いです。これは偶然でしょうが)。もし、身体全体が、何らかのフラクタルな構造の延長(というのは私の勝手な考えですが)とすると、部分的な器官やその細胞だけを最初から独立したかたちで作るというのはかなり難しいことなのかな、と思います。通常なら、ある器官や細胞は、身体「全体」からの作用を受け取って、また、何かを返しつつの、双方向的なやりとりを自然に行えるのですが、この場合はそういう訳にもいかないので・・。それでも心臓の細胞が出来た、とは! しかし、もっとそういう本来ならあるはずの「全体」、そして、全体との双方向的なやりとりを模倣する何らかのやりかたがあれば、よりたやすく精巧なものができるのでは、と素人が身勝手にも思っています。むろん、何かの生きた個体を借りて、そこにiPSをくっつけて心臓細胞なりを育てるというやりかたはありですが、それは既に行われていることでしょうし、人間でそれをしようとしたら倫理的な問題もあるでしょうからそういうわけにもいかないことは多いでしょう。

No.527 - 2013/01/03(Thu) 22:42:45

ピダハンと去勢不安 / 水上雅敏
ピダハン(NHK)年末に見ましたが、ピダハンの言語は、結局、去勢を出来るだけ避けようとして出来た言語のように思います。

例えば、シニフィアンとシニフィエの分離を、出来るだけ避けて、言語学の言うシーニュを模倣しているように見えるというのもその一つでしょう。擬声語や、抑揚が豊かなのは上記の分離に抵触しないからでしょう。リカージョンの欠如もこの分離を避けようとする戦略でしょう。例えば、リカージョンの欠如に沿えば、「彼はこう言った」とは言っても「彼がこう言うのを私は聞いた」とは言わない、ということになりますが、これは、後者の「かれ」は「私の記憶の中の彼」になり、いわゆる通常言うときの「かれ」とは違うシニフィエをになっているため、、後者を許してしまえば、一つのシニフィアン(「かれ」)に2つのシニフィエをになわせることになり、つまりシニフィアンとシニフィエの密着に裂け目をあけ、去勢の脅威を感じさせることになるからでしょう。

番組では、ピダハンを話す人が、自分の名前を表明するとき、「私は、自分を〜と呼ぶ」と言わず、「人は私を〜と呼ぶ」と言っていたのも印象的でしたが、これも、対象としての自分と名付ける自分を創る、つまり、自己分割をする=自分に穴を開けてしまう=去勢をあらわにさせてしまう、という危険をさけるためかと思います。

そういう言語を持つピダハンの人々には不安がない、とか、番組ではかなり理想化されていましたが、上記したように、同じものにも別の言い回しがある(今までの一義的なシニフィアンとシニフィエの擬似的な密着が壊される)ことへの不安があり、そういうシニフィアン・シニフィエの分離を根本的なところで導いてもいる言語の自然な連鎖=弁証的な進展、がどこに自分を連れて行くか分からないということに対する不安、があるのだと思います。彼らにうかがえる外国人に対する恐怖あるいは警戒心、閉鎖性、というのはそういう不安を背景とした症状レベルでの現れかと思います(外国語と出会うということは、同じシニフィエにも違うシニフィアンがあることとの出会いでもあるし)。

そういえば日本語も、主語の欠如とかありがち、擬声語も豊かで、どこかピダハンにている心性が背後にあるように感じます。外国人へのおそれや排他性とか(田舎では未だにこれがあきらかに伺えるのですが)、外国語が苦手(とくにまず訳してから学ぶというありがちな姿勢)も、そういう言語のありかたと無関係ではないようにも思います(言語がそういう文化の原因だと言うつもりはありませんが)。

No.526 - 2013/01/03(Thu) 22:12:51

4つ輪 4次元あみだ 群論 / 水上雅敏
4つ輪の結び目→あみだくじ化(あるいは、4次元・多次元あみだくじ化)→群論化、・・そうやって、代数的に、4つ輪の結び目の変化(精神病から神経症の結び目への移行など)をこまかく追えないか、と考えているところです。

しかし、4次元あみだ、ってありそうですが、検索しても意外と数学的に語られたものはないですね。昔、4次元ルービックキューブというのを見たことがありましたのでそこから考えましょうか・・。

あと、4つ輪全体を多次元座標に置く? あるいは第4の輪だけを、4次元軸を使わねば描けない、3つの輪(SRI)の間の関係性を表現しているものとして考える?・・、自分でも何を言っているのかはっきりわかりませんが、ともかくそういう思考が今、思考の出発点としてあります。

こんなことは数学を知る人にはすぐに答えをだせることなのでしょうが・・。

No.525 - 2013/01/03(Thu) 22:11:17

がん放置療法のすすめ / id
「がん放置療法のすすめ 近藤誠 文春新書」のすすめ

岸田秀先生の著作の次に読むべき目からうろこ本。
医者から殺されないために、がんについて知りましょう。
ピンクリボン運動なんて、実態は乳房削除運動にしかすぎないし。

「近藤誠」がウィキペディアに出てこないのはなぜなのか?

No.524 - 2013/01/03(Thu) 09:33:11

さよなら「精神分析」 / 中野雅哉
おめでとうございます。
今年は、藤田理論をカッコ付きの「精神分析」から解放する試み、をここに書こうかと思っています。なんつってね。

No.523 - 2013/01/02(Wed) 00:51:03

謹賀新年 / 水上雅敏
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします

No.522 - 2013/01/01(Tue) 22:23:02

新年明けましておめでとうございます / 藤田博史
掲示板《カフェ・フジタ》を開設して12年の歳月が流れました。丁度干支が一回りしたことになります。
通算アクセス数ももうすぐ50万になろうとしています。
今年もまた、この場で活発な議論を交わしてゆきましょう。
今年もよろしくお願いいたします。

掲示板管理人 藤田博史

No.521 - 2013/01/01(Tue) 17:33:36

憲法 / id
前回のゼミテーマについて。
今の憲法は勝者が敗者に押し付けた憲法で、勝者の占領政策遂行と継続を容易にするための方便だったと考える。
護憲論者は奴隷の鎖自慢というやつではないか。
だいたい前文からして嘘ばっかりだし。廃棄すべし。

「人類普遍の原理」ってなんだよ。
「平和を愛する諸国民」から領土を奪われ、領土をよこせと恫喝され、核兵器を持たれミサイルを飛ばされて、因縁をつけられているんですけど〜


>日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

No.520 - 2012/12/22(Sat) 13:36:20

ホロ―マスク錯視の必然性 / 水上雅敏
ホロ―マスク錯視。ホロ―なのだ、とわかっていてさえ、普通に膨らんだ顔に見えるとのこと。しかし、こういう錯視があるからこそ、一見ランダムに見える模様の中にも、人の姿が隠されていれば、それにさっと気づく、という芸当ができるのだろうな、と思います。

そんなことを考えていて、なぜ、やはり膨らんだ顔に見えるか、と考えましたが、それは、そもそも「見る」ということは、他者のまなざしを探し続けることであるから、だと思います。つまり、そもそもまなざしは八方からやってきているわけですが、それを収斂して、能動的に自分がそれを探しつつ、ものを「見る」のだと感じられるようにするために、見てくる他者の顔(普通に膨らんだ他者の顔)をふと置いてしまうことになるからだ(その目の背後に無限遠=まなざしを収斂して想像できるように)と思います。つまり「見ること」には、ホロ―マスク錯視的な錯視が必然的にともなうことになるように思えるのです。

分裂病者はホロ―マスク錯視を持てない、とされますが、これは父の名の排除ゆえに、そもそも無限遠としての穴を置けず、3次元的奥行を構成できないからとも考えられますが、
不思議なのは、病者は、ねんどで人形を作るおり、平坦どころか、凹んだ顔を作ることがあるらしいことです(中井久夫氏の著のどこかにそうあったような)。作っているうち、見る―見られるが、混乱し、人形側に同一化した私の顔が、人形を見つめる私の顔に押し込められるように感じられることの表れなのか、何か人形に内部を充満させないほうがよい理由でもあるのか、そこのところはよくわかりません。

No.519 - 2012/12/21(Fri) 16:39:46

訂正 / 水上雅敏
訂正

ビタハン→ピダハン

のようですね。

No.518 - 2012/12/17(Mon) 04:24:41

ビタハン ただタブーによる制限にすぎないのでは??? / 水上雅敏
ビタハン。残念ながら、大半見のがしました。チョムスキーの出ていたところと、ビタハンでは言語ではあるはずのリカージョンがない・・とか言う部分のみ見ましたが・・。

ともかく丁度、少し前にチョムスキー批判(どうも彼の言う生得的な構造は、複雑で、恣意的で必然性のないように思える)をしようと思っていたので、グッドタイミングな話題ですね。

リカージョンとは何?と調べてみると、例えば、英語で言うと関係代名詞を使った節のように、文の中に文があるというような入れ子的になったような構造でしょうか?(よくわかっていませんが)。チョムスキーは言語にはこれが必ずある、としているらしいですね(ネットで少し調べた限りだと)。それがない言語がある!チョムスキーの言っていた、言語にはリカージョンが必ずあるということは間違いだ! ということが、番組で押し出したい主旨だったのでしょうか・・(よく知りませんが)。

となるとチョムスキー以前に、この番組のその主旨への批判ということになりますが、言語の表に出ていなくとも、背景ではリカージョンを使って考えている、ということはありえるのではないか。思考としてはあるのに、その表出が伝統的に許されていないだけではないか? ・・と考えることもできるのではないでしょうか。

そもそも、言語は自らが振り返られるというプロセスなしには考えられない(あったとすると自意識もないし、何をしゃべったかもわからないし、しゃべったことの修正もきかない)とすると、文に対して、文が差し向けられているはず。文のみならず、ある文の中の単語に対しても、すぐに多くの文が連想されてめぐらされているはず・・ということで、潜在的には(前意識的には)関係代名詞節的なものは、そこにあるはずではないでしょうか(これは、チョムスキー的な生得説を持ち出さなくても、無の象徴化をめざしての弁証法として自然に進むプロセスに思えます)。

色や、数、過去や未来を表す言葉がない、というのは、もしかしたらそれらは彼らにとっては、一次元高い視点から抽象化するものに感じられたり(色や数の言葉)、いかにも知覚されてあるといえるような現実から一次元離れたところから俯瞰して見るかのような内容(過去や未来の話)を語ることのように思われたり、また、リカージョンにしても、文に入れ子的に付属した文ということで主節よりはちょっと次元を上げた文を付け加えることのように思われたりなどして、それらはどこか神の領域を侵すものであり、人間がやることではない、というような感じからタブーにされているだけなのだ、ということはないでしょうか(実は十分それらを表現する代理的な文は前意識の中に存在しているのに)?

神の領域などと言わずとも、名は実体を殺す・見えなくさせるとか、言葉にするとこの感情を失わせてしまう、不安なことは考えないようにしよう、とかの感覚は、現代人にもありがちかと思いますが、これと共通するような心性からのタブーでしかないのではないか? あるいは、一昔前は、日本では、「そんなプリンシプル言ったってしかたないよ。現実的じゃない」と年長者が若者に諭していた抽象的思考の制限、あるいは、ラカンや理論なんか語らず技法を語れ!というような傾向と似たものではないか・・。或る分裂病者は「Aさん、Bさんと言うのはあるが、「人」というのは存在しない。だから「人」という言葉を出すな!」というようなことを言っていましたが、そういう実在論的態度、と共通するところからのタブーなのではないか、そんなことを思います。

しかし、そういうところではそれなりの神経症症状が発現してはいないか? そのほうに私は興味があります。

以上、番組はほとんど見ていないところでの感想なので的外れな批判かも知れません。
ビタハンについては、主には、以下を参考にしました。
ttp://booklog.jp/users/looperibi/archives/1/4622076535
ttp://d.hatena.ne.jp/uometorinome/20120515/1337089035

No.517 - 2012/12/16(Sun) 17:33:05

ピダハン / id
NHK教育 地球ドラマチック 2012年12月15日(土) 午後7:00〜午後7:45(45分)
         再放送 12月24日(月) [(日)深夜] 午前0時00分〜0時44分

ブラジル・アマゾンの奥地に、不思議な言語を持つピダハンと呼ばれる少数民族がいる。ピダハンの言語には数や色を示す言葉がなく、過去や未来の表現もない。アマゾンの豊かな自然の恵みの中で、「過去」を思い患うことも「未来」を憂うこともなく、充実した「現在」を生きているのだ。心豊かなピダハンの暮らしを、長年にわたって彼らと共に暮らした元宣教師のアメリカ人言語学者の目を通して見つめる

ttp://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2012-12-15&ch=31&eid=34825

No.516 - 2012/12/15(Sat) 10:55:45

知覚意識化は差異化のスピードあるいは細やかさが不足のとき / 水上雅敏
結局、知覚意識化されてくるものというのは、差異化のスピードの追いつかないもの、あるいは、差異化の細やかさに不足があってその網目から逃れてしまうものに対する、最後のなけなしの(ひとつ次元を変えたところでの)差異化によるのではないか? ベンハムの駒にさまざまな色が見えてくるときは、その白黒の模様の転変の速さに動体視力がついていかないときである(?)とか(その色の差異によって、どうにか駒上の同心円的に分けられた白黒模様のそれぞれのパターンに差異があることだけは浮かび上がる色の違いによってどうにか伝えられている)、300、400、500Hzの波を聞いたときは、それぞれが聞こえるわけではなく、それぞれの共通差異である100Hzの音が聞こえる(換言すると、それぞれの波が重なって構成する「うなり」という一番大きな波だけをつかめている、ということになるのだが)、というところから見ると・・。

幻聴の場合はどうなっているのか、ということも興味深い。

No.515 - 2012/11/23(Fri) 03:18:42

全507件 [ ページ : 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 ... 26 >> ]