[ 掲示板に戻る ]

過去ログ閲覧モード


失錯行為のいくつかのレベル / 水上雅敏
自分で気づける失錯
人から指摘されるとたしかにしていたと気づける失錯
人から指摘されても、そんな失錯したとも思えぬ・思い出せないような失錯・・
があると思います。余裕あれば、その構造の違いを少し考えてみたい・・

No.336 - 2012/04/30(Mon) 00:09:01

口で出せる周波数帯が広がった場合、新しい母音が生じるのか? / 水上雅敏
人間の見える可視光線の領域が広がったとしても、新しい色が見えるわけではなく、今見える青紫から赤までのスペクトルが、そのまま、それらの領域にひきのばされるだけではないか。今見ている以外の色があるとは思えませんし・・。狭まった場合も、これまでのスペクトルは縮小されてそのまま採用されるのではないか。色の種類を削減しないほうが様々な波の微妙な違いを意識するにはよいし。つまりいずれにしても、紫と赤が両端を占めるのではないか・・。

では、母音についてはどうか? 人の口で出せる限りの最大の周波数の波と、最低の周波数の波とをあわせたもの(というか母音のうち最大および最小の周波数の波の組み合わせを使っているもの、というべきか??)は、「イ」音だと聞きます。では、人の口で出せる周波数の幅が広がった場合、その最大と最小の波の組み合わせはどんな母音になるか? 色からアナロジャイズすると、それはやはり「イ」なのか。直感的にはどうもそうは思えません。やはり使用される波の組み合わせが代われば別の母音になるのではないか、と感じます。しかし、新しい母音があるとするのも非現実的にも思えます。結局どうなるのかわかりません。

ともかく、色の場合は、母音のように両端にある波を組み合わせる話ではないから、単純にそこから母音の場合を演繹すべきではないのでしょう。では、色の場合も、可視光線の領域の両端の波を組み合わせた場合、そこで出来てくる色彩は、可視光線の幅の変化に応じて、それなりに様々に異なってくるのでしょうか?

No.335 - 2012/04/29(Sun) 23:45:32

新型うつ / 水上雅敏
新型うつ、先ほどのNHKの番組で紹介されたようなものだとすると、単純に神経症構造のひとつの表れにすぎないものに思えます。

内因性の鬱病がベースであるような新型うつというのはあるのかないのか・・。

No.334 - 2012/04/29(Sun) 22:02:12

前世退行催眠 / id
藤田先生 体験してもらうと面白いかも。

ttp://mixi.jp/view_event.pl?id=69201235&comment_count=0&comm_id=8599

No.333 - 2012/04/24(Tue) 09:59:12

記憶の再生のメカニズム / 水上雅敏
質問されたら考えて答えが出てくる、というふうにさせている心や脳のメカニズムはどうなっているのか・・・意外と難しいことのように思います。今考え中。
No.332 - 2012/04/23(Mon) 00:28:40

ロボットに組み込むべき倫理 / 水上雅敏
昨日のサイエンスzero はロボットのことでした。最後の約10分ほどしか見ていないのですが、その中で、ロボットの危険性、つまり反倫理的なことをしてしまうこと、これをどう防ぐかというような話がありました。結局、人間世界で、どういうことが大多数の考えかという情報をインターネットなどでなるべく集めてロボットに判断させる、ということのようでした。たとえば、人を殺す、というのはどうやら反倫理としている意見が多そうだからそれは行わないように自己制御させるようにする・・・というような主旨であったかと思います。

しかしこれでは多数決の倫理ですね。多数がいいと言えば、何でもOKとなりかねない。たとえば「差異化を助けてくれる存在は破壊しない」(たとえば人を殺すのは、私たちの象徴界をゆたかにしてくれる存在を消滅させてしまうからまずい)というような法則をプログラムする方が、よりよいように思います。すると大多数の人間が倫理を外れてきても、それを批判してくれるロボットができるかもしれません。

No.331 - 2012/04/23(Mon) 00:24:16

不完全性を認めてそこで進めていけるほど・・ / 水上雅敏
全体を俯瞰しようとするほど、何も決定できなくなるのではないでしょうか。
例えば、辞書で「右」は「南を向いたときに西にあたるほう」。「南」は「日の出るほうに向かって右の方向」とあり、右が決定できていないことになります。

分裂病の解体型、とくに内省型と一部でいわれる病者たちにこういう思考の存在を仮説してみてもいいかも、とも思います。彼らの決断不能性とか、意味のつかめなさの感じ(たとえば「自明性の喪失」68P)とか。全体を俯瞰して、すべての部分の意味を確実に知ろう、と試みる傾向は、必然的に、それぞれの部分にそれぞれ独自に完全な意味をあたえよう、とすることになってくるでしょうが(ひきつづく文脈の連鎖の中で或る部分に暫定的に意味をよりそわせるということではなくなって)―シニフィアンとシニフィエの密着のように―それは他との関係性をなくすことでもあるから、それはそれで逆に、意味が消え去っていくということになっているのでしょう。分裂病解体型の病者の絵などで、絵画中の各アイテムが関連つけられず、ぽつりぽつりと独立したように書かれているのは、そういう試みの一環で、最後の最小限の意味が各アイテムにおいては保たれているレベルのものといえるのでしょう。

話をもどすと、結局、健常者は、全体を俯瞰し自分はすべてを完全に知っているのだと感じえるような第三者の位置にくることから身を落とし続けて、とりあえずのところで句読点を打って、部分部分において意味を暫定的に確定させつつ(また、暫定的でしかないのだと認めつつ)進んでいるということでしょう。

暫定性、不完全をできるだけ認めつつ進めることが出来るほど、その不完全性のところに、無意識に生じている多くの連鎖もそこに交差してきて、物事をみても色んな連想を交差して(病的な混交の形ではなく)豊かに見られてこようし、語る言葉においても、ウィットを聞かせた言葉を突然返す(失錯の形ではなく)、などもより出来てくるかとも思います。

それはまた、分析の進展の指標でもありましょう(完全性への固執、俯瞰する位置=第三者の父の位置、に来るというエディプスコンプレクスの解消にも通じることですから)。

しかしとりあえずでさえどう意味が確定してくるか、が問題です。これはまた後日書きます。

No.330 - 2012/04/20(Fri) 17:47:08

てんかんと意識 / 水上雅敏
>てんかんだからと言って、完全な意識消失をともなわないタイプの発作もあるはず。それを考慮せず意図的な殺人と考えるのはどうか・・。

説明不足でしたね。
多少とも意識あり多少は運転をコントロールできても、かなり難しい、とそういう場合もあるのではないか、ということです。

たとえば、『躁うつ病とてんかん』クレペリン、p12で、不全発作・痙攣型に、「まず、患者は転倒して腕や脚に痙攣が起るが、意識は失われないという形のものがある。あるいは転倒はしないが、体が硬直して、自分の腕や脚がきゅっとひきつける感じがすることもあり・・」(一部を抜粋)とあります。その他いろんな発作のタイプがあるでしょうから安易に結論は出せないかと思います。

ただ、会社にてんかんがあることを報告していなかった(?本当かどうかわかりませんが)とすれば、そのことは問われるのかも・・。

No.329 - 2012/04/16(Mon) 16:06:55

古事記とユーモア 呪術は信じられていたのか?? / 水上雅敏
299より
>余談ですが、日本では、ではそういう他者からの介入が何かないものか、と考えていると、「仲人」が思い浮かびました。で、調べてみると、「仲人の起源は、仁徳天皇40年(紀元352年)2月、天皇は、雌鳥(めとり)の皇女をお妃に迎え入れようと思い、異母弟の速総別尊命(はやふさわけのみこと)を仲立ちにされたという記事が日本書記に記されている。これが仲立ち=仲人という言葉が初めて記録に残っているもので、仲人の起源とされている。物語としては、申し込みを受けた雌女が遣いの速総別を好み、関係を持ってしまう。つまり、仲立ちの男性と申し込まれた女性とが結ばれてしまったという結末になる。」(ウェディング用語辞典 仲人 ttp://wedding.dictionarys.jp/%E4%BB%B2%E4%BA%BA.html)。異母弟が仲介したわけですね。第三者としての他者の位置はうまくキープできなかったわけですが・・。

こんな話を読むと、日本書紀とか古事記、どうしようもない人間の滑稽なさがをユーモラスに描こうと意図した節も多いのではないかとふと思えてきました・・。

また、話はずれますが、古事記を読んでいると、あの時代の人々が、本当に類感呪術(にわとりを鳴かせると太陽が昇るとか)など信じていたのか、今のわれわれと同じように信じていないが儀式としてやっていただけなのではないか、古事記を書いた人も信じていなかったのではないか、ユーモラスな劇として書いただけではないのか・・今の我々が、勝手に昔は人々の思考はあんなにナイーヴだったのだ、と思おうとしているだけなのでは、と疑問に思えてきました。では、なぜそういう記録を人は残し、私たちはそう思おうとするのかという疑問も出てきました。

まあ、しかしその後の人でさえ、たたりをおそれて、都を移すというようなことがあったとすると多少とも確かに信じていたのか・・。それに、今だって、厳密には因果関係がはっきりしないところで、因果を勝手に見ているような理論が科学にさえあったりするし、私たちもその中に浸って生きているところも多分にあるだろうから、確かに類感呪術なども信じられていたのかも知れませんが・・。

No.328 - 2012/04/15(Sun) 13:45:34

今回の京都の事件 / 水上雅敏
てんかんだからと言って、完全な意識消失をともなわないタイプの発作もあるはず。それを考慮せず意図的な殺人と考えるのはどうか・・。てんかんへの偏見を助長しないことを狙ったという意図もあるのかもしれないけど。
No.327 - 2012/04/14(Sat) 12:58:37

カーボンナノチューブ、螺旋、ニューロンの通道 / 水上雅敏
カーボンナノチューブ面白いですね。
基本的には6角形であるその並びに多重螺旋をみることが出来るようですね。(ウィキペディア 「カーボンナノチューブ」などにも画像があります)

>そんなことを考えていると、DNAの二重螺旋が思い浮かびました。どこかに・・脳の実質の構造か、信号の進み方にかはわかりませんが、・・あのような二重あるいは多重な螺旋構造、また塩基の組み合わせに相当するような構造がないか、・・という考えが出てきました。

と313で述べましたが、何かヒントにならないものかと思案しています。

それと、「Newton 周期表 第2版」92pには「このらせんの角度によって、カーボンナノチューブは電気を通しやすくなったり、通しにくくなったりする」とあります。電気抵抗と言うと、フロイトのニューロンの通道の件なども思い出されます。実際のニューロンがこのように電気抵抗を変化させるものかどうかはわかりませんが・・。人口知能を作るとしたら役立つ考えかも。

No.326 - 2012/04/13(Fri) 14:24:56

アトムトランジスタ / 水上雅敏
アトムトランジスタ面白いですね。特に「演算回路とメモリーの一体化」が可能となるというところ。たしかに精神分析的にも、それらが別々ではないと思われますから。

ttp://tf.digital-dime.com/newproduct/dimescope/11/03/pc_1.htmlにも、
>制御や演算と記憶の機能が合体することで、人間の脳に似たデジタルネットワークを作ることができるという。長谷川主任研究員らは、「アトムトランジスタ」などを使うことで、脳のシナプスのように振る舞う素子や神経回路を自ら作り替えたりする動作を確認しているが、この技術がさらに発展すれば「人工知能」の実現も夢ではないだろう。
とあります(抜粋)。

どんな構造でなりたっているのか興味あるところです。


その他、以下など参考になりそうです。
ttp://www.jst.go.jp/pr/announce/20101224/
ttp://bizex.goo.ne.jp/column/ip_16/84/38/

No.325 - 2012/04/13(Fri) 14:01:25

3進法、e進法、直観主義論理 / 水上雅敏
電話のメニューシステム、「〜のかたは1を、〜の方は2を、押してください」というもので、もっとも早く目的地にたどり着くためには、いくつづつの選択肢を各段階で出すのが一番効率的か。これは3つづつである、とのことです(たしか、『ベッドルームで群論を』みすず書房、からの情報)。まあ、内容にもよるのでしょうが・・。

そして件の書では、3進法の利点がかかれていましたが、本当であればe進法というのがもっとも効率的であるとのころ。

e個づつのメニューシステム、というのは無理でしょうが・・。しかし、或る段階では3、ある段階では2個として、平均をeにするとどうなのか・・。

ニューロンの枝分かれにも、こういう3なりeなりの進法が使われていないか・・それほどエコノミカルなら・・。

虹が7色に分かれて認識されやすいのも、人間の頭が、3なりeなりで区分したがるからか(3つの色とその隙間、および両端の色で7つで)・・。

1、0、−1、というe進法があるらしいが、直観主義論理とからめて考えられないか。二重否定(−1のー1)を肯定(1)とするのでなく、0とする、というふうに考えて。でそうしたニューロンモデルをつくれないか・・

3なりe進法がそれほどエコノミカルなら、いままでの色んな分類も、3なりe個に分割(さらに下位分割)して、新しい分類法から考えなおしてみてはどうか・・。

色々連想が湧きます。

夢なり、絵なりで時に何らかの3の表現が精神的な回復を示唆することがあるように思いますが(3身一体的に、男性像が描かれた時と、言語の進展が相関したケースとか)、それはどうか・・。3つの項が、その後無限の関連の進展する基本だからであって、これは3進法とか、e進法とかは多分関係ないか・・・。

No.324 - 2012/04/13(Fri) 04:10:29

宮本亜門 I got Merman. / 水上雅敏
先ほどのNHK「仕事学」では宮本亜門さんが出ていた。
「I got Merman.」というのが、初めてのミュージカル作品だったらしい。
Mermanが、Miyamotoにも、 Amonにも、 Mamaにも聞こえてきた。

No.323 - 2012/04/13(Fri) 00:40:34

被災地と狂犬病 / 水上雅敏
狂犬病Wikipediaでは次のようにありました。

>2008年の四川大地震によって多くの飼犬が野犬化しており、噛傷被害を受けた被災者も増加しているが、ワクチンが無く、傷を洗って消毒するだけで帰している状況のために今後狂犬病の被害が拡大する可能性があるとの見方もあり[16]、青川県では地震によって野犬化した犬の殺処分を行うことが決定された

No.322 - 2012/04/12(Thu) 18:37:17

狂犬病 / 水上雅敏
避難区域に残された犬に狂犬病が流行る危険はないのでしょうか・・。
これからのボランティアもそろそろ気をつけないと・・とも思うのですが・・。

No.321 - 2012/04/12(Thu) 18:29:28

カモフラージュ? / 水上雅敏
北朝鮮、そして大飯原発の話題、特に後者によって、瓦礫広域処理の話題は陰になっている間に、いつのまにか進められてしまいそうな予感も・・。
No.320 - 2012/04/12(Thu) 17:11:44

「心の理論」からの若干の考察 / 水上雅敏
「心の理論」について
ttp://www005.upp.so-net.ne.jp/ma2ma3/kokoro.html
などを見ると、自閉症児の「心の理論」の持てなさは、結局「出会いそこね」の認められなさに還元しえるのではないかと思われる。換言すると「他者との間隙」というような無の拒絶(否認と呼ぶべきかわからないが。抑圧ではないのだろう)がそこにあるように思われるのである。

逆説的だが、自閉症児は「他者の心が理解できない」、というのではなく、「他者の心は理解できないものだということを認めてない」ということである。この理解できなさ(という無)を認めえてこそ、色々と他者の心を仮説化し、斟酌できるのだと思うのだが。

そう考えると、言語性IQの低いことも整合的に理解しうる。なぜなら、言語では、通常、一旦語り始めると、弁証的に語りがさらに進むという流れが始まり、それは結局無を象徴化するという方向に進むものとしてあり、そう考えると、無を拒絶する自閉症者にはこのような流れによる言語のエラボレーションが出来なくなることになるから、あるいは、その流れを自ら強行に中断することになるから。

これは「父の名」の排除からくるのか? 私としては、「父の名」は、成立させられかけて挫折するという反復にあるのではないか、と今のところ思うのだが・・。抑圧でもない(それだと定義上、回帰が神経症症状なり失錯なりの形でくる、となるはず)とすると、否認と言うべきか。言語自体をフェティッシュとしての・・。まあそう言っていいのかどうかわからないが・・。

ある自閉症児は玩具を目の前にして「おまえ、する?」と一見私に尋ねる形はとるも、その玩具で自分が遊び始めた。「おれ、これやりたい」という欲望を、他者から尋ねられる形にすることで、表明していたのか。自分が欲望をもつ(=欠如(無)を持つ)存在である、としたくなくて・・。ということは、どこかで欲望をまず感じていて、「おれ、これやりたい」というほどエラボレイトされた言葉ではなくとも、それと等価の意味を持つ言葉が心をまずよぎったのではないか。とするとその分程度の「父の名」の働きはある。しかし、自分の欲望を自分の欲望として認めて、さらに言葉の流れをつむぐ、とまでは行かないところで、この流れは中断される、というところで「父の名」が挫折させられているといえないか?

さてまた、ここ(「お前、する?」)に、他者の鏡像(i(a))を自分の中にさらに巻き込んだ形での、自作自演を考えられるだろう。どうしてもやりたいことを自らの欲望として責任を持って言葉で表明せず、「他人の要求によるのだ、他人のためにやってあげているのだ」、とするのは、ヒステリー者のよく行なうところと思うが、ヒステリー者と違うのは、自閉症者の場合は、自らの言葉の全体が他者からの言葉の形に変換されて語られているというところか??(ヒステリー者の場合は、表向き、一応自らの欲望を表明するらしき言葉も基本的には語るから)。もし、自閉症者の言葉にフェティッシュを言うなら、一旦、このように変換された言葉へのフェティッシュ、ということだろうか? フェティッシュがこの場合、通常のフェティッシュに課せられる性的な意味合いは持っていない(?)とするならば、「しがみつきの対象」、ととりあえず言うべきか。しかし、いつも、語っているわけではないから、しがみつきとも言えないかもしれないが・・。しかし、少なくとも「おれ、したい」という表明をうめつくす(否認する?)「対象」として使われているような言葉には思える。この「他者の要求の形への変換」の構造についてはもう少し考えたい。「自我が無く他者の言葉をそのまま語る」、だったか、チェルマックの言っていた(?)パラフレニーの構造との異同も考える必要があるかもしれない。

上記サイトによると、自閉症者は、言葉を文字通りに受け止め「Can you pass me the salt?」に「yes」と答えたまま、食卓塩をとろうとしないということ。これも、「他者の心のわからなさ、出会えなさ」ということをむしろ認めていないからこそ、「他者はもっと別のことを言おうとしているのかもしれない」、と考え色々仮説化しないことによるのではないか。

「「AはBという信念を持つ」という他者の表象の認知の問題がクリアーできる段階で、学校のルールが理解できなかったり周囲を無視してしまうといったたぐいの行動は激減した」(当該サイト内で紹介された辻氏の言葉)とある。ここで「AはBという信念を持つ」とは、自分とは違うAさんの思いを色々仮説化してこそ持てる思いだろうが、ここに自閉症者は失敗する。自閉症は自分の思いとAさんの思いを混同・混乱・同一化させる(これは当該サイトの色んなテスト結果から推量される)から失敗するのだ、と考えると、やはり、問題は「心を理解できない」ことにあると考えるよりは、まずは「他者の心は理解できないもので、自分の思いとははなれたものなのだ」という出会いそこね(無)の認められなさがあるからなのだと考えれば簡単なのではないか。そしてこれを認めえると言うことは、「他者は自分とは違う、独立した、思った通りには動いてくれない存在なのだ。自分に全能的に応じてはくれない存在なのだ」と気づいたということ(=自分の全能性が軽減された)でもあるから、この段階(出会いそこねを受け入れた段階)ですでにルールや周囲無視の軽減が相関するのもトートロジー的に当然ではないか。私が言いたい事は、何か「他者の心を理解する能力」といってしまうと、「共感的に他者の思いを「結論」づける能力(他者の思いをなぞにのこしたままではなく)」であり、また、それは「培ってつけるべきプラスαの能力である」、という響きがあり、また、「そういう能力があってこそルールに従える」、という考えが世間的にあるとするなら、それは間違いで、むしろ他者の思いを謎に残す能力があってこそ、他者尊厳が成り立ち、ルールにも従えるのだ、ということ。


ここで、アスベルガー者(自閉症者にも??)に共感覚者が多い(?)とも聞いたことがあるが、この構造について考えたい。まず、健常者は、フォルト・ダーを表在化させて、フォルト・ダーの隠喩次元を高める形で(フォルトをはらんだダー、さらには、フォルトをはらんだダーをはらんだフォルト、などと続き)、言葉をつむぎ、無を象徴化するという動きにはいるのだと考えよう。「おまえする?」という自閉症者は、フォルト・ダーを決定しようとした(=無を認め、自分の欲望を語ろうとした)瞬間に、他者の要求の言葉を自作自演的に持ってきて「そこに僕は応じているんだ」、というかたちにしてそれを挫折させているのだと考えよう。つまり、フォルト・ダーの隠喩次元は高められないまま、こころの奥で、フォルト・ダーはこわれたレコードのように反復しているのだと考えよう。ここで、健常児の場合、フォルト・ダーの間隙に無を認めえているからこそ、そこに視覚的な糸巻きの在・不在も交差させるというような知覚様式の交差(聴覚、視覚に限らず)が入ってきて、それら知覚様式間・内での差異化および差異の差異化が、無を象徴化する方向に高められるのだと考えよう。自閉症者では、フォルト・ダーと言った瞬間(あるいはもはや表立って言わないのが常態になっているかも知れないが)、そのフォルト・ダーの間隙(無)は拒絶されることになるから、他の知覚様式の交差も一瞬は入りかけても拒絶されることになる。そして、それぞれの知覚様式における表象が、(互いの知覚様式との交差から離れて)ブロックのように独立して(完全な独立は構造上ありえないと思うが)編成されることになる。そして、事後的に、関連性を補填するように(なにか、意味作用をなしたり、ものごとの分類に都合がよいように? しかしそもそも無を認めない者であるから、イマジネールに互いのブロックがくっつきやすかったり、できるだけ多くの知覚をブレンドして無を全能的に埋めたい、というのが根本にあるのではないか)、異種知覚間での統合が行なわれることになる。これが彼らの共感覚の構造なのではないか。

共感覚の話題からは離れるが、この「各知覚様式のブロック化」、ということが、自閉症者と関わる折には、「視覚的に、絵でもかいて説明することが大切」(話されるだけでは、どんな順序に行動したらいいか、とか自閉症児はつかみにくいから)とされるゆえんではないのか。ということは、そういう形でこちらが関わり続けることは、このブロック化をささえ続けてしまう、という問題があるのではないか。根本はいかに、本来の欲望を言葉で表明できるようにさせるかということではないか。しかしやはりこういう妥協策でいくしかないのか・・。

No.319 - 2012/04/12(Thu) 15:26:06

ネオ伝統主義 / ed
皇居を中心とする東京の風景を見た外国人がそれを「空虚な中心」と呼んでから、
この国の人々は、その言葉に呪縛されてしまった節がありますが、あれはもともと徳川の城で、
本来、高貴な方の住むべき「家」などではありませんでした。

ということで、天皇には是非とも本来の京都の家にお戻りいただきたい。美学的な観点から見ても
京都御所の伝統、格調、その優美さは、建て増しの旅館のような江戸城などとは比べるべくもありません。
江戸城は公園として人々に開放し、現在の国の家は国会議事堂か首相官邸とすればよい。

さすれば、われらは名実共に重なり合う危険のない「2人の父」と「2つの家」を持つこととなり、
日本=二本文化は、それでこそ、これからも未来永劫、栄えることでありましょう。

No.318 - 2012/04/12(Thu) 11:38:13

父の家 / ud [地球外]
nationは語源的には「生まれ」だが、日本ではnationを国家という。現在の日本でパトリオット的な意味で日本を家だと思っている人がどれほどいるのだろう。思わせなければと思っている人間はいるが、誰も思ってはいないし、家だと意識することや、その反対を口にすることが危ないことだと感じている。どうしてこんなことになっているのだろうか?国は家であり、家は父のものだからだろうか。

問題は天皇が生きているからではないだろうか。国の父であり、その身体が国家そのものであったような天皇が死んでいないこと、最高の戦争責任者である天皇が死んだように生きていることが、恐らく国を家だと断言することを妨げているし、国は家ではないということを罪深いことにしているのではないだろうか。

天皇が生きている意味を誰も知らないし、天皇が死んでいない理由もわからない。天皇は哀れにそこにいて優しく手を振っているので、優しく意味もなくお辞儀すべきなのだ。連合国やアメリカの欲望を語ることもできるかもしれないが、いずれにしても、天皇はdying father、死に続けている父なのであって、まったくもって死んだ父ではない。自分は暗く慰めもない廃嫡者だと言ってみるわけにもいかないのは、父がまだそこで哀れに生きているからだ。

子供たちはウーアファーターを食べてしまったので、死んだ父が生き返ってしまい、腹の中から謎めいた奇妙な独言が聞こえてくる。

No.317 - 2012/04/11(Wed) 00:39:29

全533件 [ ページ : << 1 ... 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 ... 27 >> ]