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父の家 / ud [地球外]
nationは語源的には「生まれ」だが、日本ではnationを国家という。現在の日本でパトリオット的な意味で日本を家だと思っている人がどれほどいるのだろう。思わせなければと思っている人間はいるが、誰も思ってはいないし、家だと意識することや、その反対を口にすることが危ないことだと感じている。どうしてこんなことになっているのだろうか?国は家であり、家は父のものだからだろうか。

問題は天皇が生きているからではないだろうか。国の父であり、その身体が国家そのものであったような天皇が死んでいないこと、最高の戦争責任者である天皇が死んだように生きていることが、恐らく国を家だと断言することを妨げているし、国は家ではないということを罪深いことにしているのではないだろうか。

天皇が生きている意味を誰も知らないし、天皇が死んでいない理由もわからない。天皇は哀れにそこにいて優しく手を振っているので、優しく意味もなくお辞儀すべきなのだ。連合国やアメリカの欲望を語ることもできるかもしれないが、いずれにしても、天皇はdying father、死に続けている父なのであって、まったくもって死んだ父ではない。自分は暗く慰めもない廃嫡者だと言ってみるわけにもいかないのは、父がまだそこで哀れに生きているからだ。

子供たちはウーアファーターを食べてしまったので、死んだ父が生き返ってしまい、腹の中から謎めいた奇妙な独言が聞こえてくる。

No.317 - 2012/04/11(Wed) 00:39:29

宗教の体裁を持たない宗教のやっかいさ / 水上雅敏
宗教の体裁を持たない宗教はやっかいですね。「人間として当然のことですよ・・(だからあなたもそういう行動をすべきです)」といわれて、相対化されずにすまされてしまう。今の「絆」キャンペーンもそのひとつでしょうが、それ以前にこういうありかたは日本では日常茶飯事だと思います(絆などの言葉さえも出さず、もっと因習化したレベルで)。責任者不在、教祖不在の宗教(実は、どこかにいた場合があったとしても余り追求されない印象もありますが・・。)。だからここに逆らおうとするほうも誰に焦点づけて訴えればいいのかもはっきりせず、そんなことをひとりで躍起になっている自分が馬鹿に思えて(実は同じように思っている人が多く居るかもしれないのに)、別に今逆らわずともまあいいか・・となって身を引いてしまう(革命が日本で起こりにくいひとつの理由?)。そしてずっとその宗教が存続してしまう・・。

こういう宗教の体裁をとらない宗教の成立の構造をどう考えるか。ひとつはヒステリーの構造から考ええるのでしょうね。「別に私はこういう宗教を設立しようと思っていませんよ。私の欲望ではありません。そもそもこれは人間として普通のことなんです。」と、だれも自分がそう欲望したのだとはせず、他者あるいは全体の欲望からだとしているのだ、と考えると・・。

そこまで考えると、こっくりさんが思い浮かんできました。私が中学生のころは流行っていて、10円玉に複数の人が指をのせて質問をすると50音を書いた紙の上を10円が動いてメッセージが伝えられるのですが、誰も自分がその10円玉を動かしたとは感じない。

以上、下記のめだかの集団のことを考えていて出てきた連想。

まあ、このように宗教が宗教の体裁をとらなかったというのは、ひとつは日本が島国であることも大きいのでしょうね。自国の宗教を守るためにそれを名づけて他の国の宗教から相対化するという必要はなかった(中国のコスモロジーが入ってから、アメノミナカヌシの神を中軸にすえた神の系統を作る必要が生じた、だったかの話は聞いたことがありますが、その程度には相対化したのでしょうが)。そして、名づけられない分、それはより強力で普遍的な神として機能しえるわけで、日本の神はそういうものとしてずっと存続しえてきた、とそういうことなのでしょうか・・。

No.316 - 2012/04/10(Tue) 12:18:35

横にあわせるだけで、全体としてある形をなす構造 / 水上雅敏
昨日の某クイズ番組。
めだかの何匹か入ったビーカーのまわりで縞模様を時計回りに動かすとめだかはどうなるか。選択肢:ばらばらに動く、時計回りに動く、反時計回りに動く。

いつも流れと逆に向かってえさのくるのをまっているのだろうから、縞模様を流れとするとその逆に動くかな・・しかし体感の在る流れと縞模様は別だろうし、群れて泳ぐということは横の相手に合わせて動くのだから時計回りかな、多分これだろうな、・・と思っていましたが、やはりこれ(時計回り)が正解でした。理由は流されないように止まっておけるためにめだかはまわりの風景を基準にするためということでした。

時々大量の小魚がうずをまくかのように集団で動く映像が出てきたり、また、ちょっと似たような動きが粘菌の集団などでもあるようですが、こういう、全体としてみるととても調和のとれたような動きは、上記のめだかのように、一つ一つがちょっと横(横のめだかか横の風景かは別にしろ)にあわせるだけ、という動きの集積なのでしょうか・・??

No.315 - 2012/04/10(Tue) 05:17:34

シーター波とDNA的構造 / 水上雅敏
ラットの場所移動に応じて、シーター波の各位相の上で各場所に応じた各場所細胞が発火するタイミングが少しづつずれていくというような実験結果も、313で述べたような、DNAのような螺旋と塩基のような構造から考えられないか・・と思案中。
No.314 - 2012/04/10(Tue) 03:11:55

螺旋と生命 / 水上雅敏
301から
>様々なニューロンの系統を、いくつかの木の林立した林だとする。それは、無を象徴化しようとする思考の弁証的進展にそって枝分かれしたり、やってくる刺激の差異化、差異相互の差異化、という動きに沿って多くの枝が結びついていったりしているとする。それらの木は全てが最初からは相互に結びついているのではないかもしれない。そこで、それらの林立した木全ての上を一陣の風がなぜるように吹いていくとする。その風は、離れた木相互の情報を運ぶものとする。・・・(以下略)

よく考えると、別に林とその間をなぜるような風に分けずとも、そもそも 螺旋(渦巻きではなくへリックス)の上を、信号が進んでいくような構造を考えると統合的に考えることができるかもしれませんね。今のところ、全く、思考の遊びレベルの話で無駄におわるかもしれませんが。

そんなことを考えていると、DNAの二重螺旋が思い浮かびました。どこかに・・脳の実質の構造か、信号の進み方にかはわかりませんが、・・あのような二重あるいは多重な螺旋構造、また塩基の組み合わせに相当するような構造がないか、・・という考えが出てきました。

まったく想像の世界。脳の実態はまず無視して、情報を無駄なく伝える基本構造をまず考えてみたいだけです。

なんだか、脳のかたちがクロスカップに見えてきた・・

No.313 - 2012/04/10(Tue) 03:03:01

NHKは政府の肩を持っているだけか、or何も自分で調べないのか? / 水上雅敏
NHKのこういう方向性、前科がある。

去年の4月5日朝日新聞では「原子力安全委員会は5日、放射線量の高い地域の住民の年間被曝(ひばく)限度量について、現在の1ミリシーベルトから20ミリシーベルトに引き上げるべきか検討を始めた。放射線の放出が長引き、「長く生活する観点で考えないといけない」とし、現実路線への見直しを検討する。 」と基準が大甘になるとのニュースが流れた。ttp://www.asahi.com/health/news/TKY201104050616.html

一方、同じく去年同日[東京 6日 ロイター] では「枝野幸男官房長官は6日午後の記者会見で、避難地域の被ばく量の限度を引き下げることを検討していることを明らかにした。現在、50ミリシーベルト以上の地域を避難地域としているが、これは一時的に大量の放射性物質が出ることを想定した安全基準。しかし、放射性物質が長期間にわたって累積して健康への影響を判断しなければならない事態になっているため、限度量を引き下げることを専門家に検討してもらっているとした。現在、屋内退避地域に指定している20ミリシーベルト以上の地域にも避難地域に含める案も出ているとした。」(抜粋ttp://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-20463020110406 )

一見、基準を厳しくしたように見せかけて(50→20mSv)、その実、結局20mSvまではOKにしようという話になっている。

NHKは上記朝日新聞と同様の内容のニュースは伝えず、後者のように、政府は基準を厳しくしたとのニュースのみ伝えていた。

No.312 - 2012/04/02(Mon) 01:57:57

こんな茶番、もうやめて欲しい / 水上雅敏
避難区域の一部解除。理由を報道したり追求している報道番組を未だ見ていません。
何かかわったのでしょうか?
放射線量がもともと軽かったから?
どうせ同心円的な措置を崩すなら、逆に避難区域に加えるべき放射線の強い地域もあるのでは?

このままだと、被害を軽く見せたいか、補償をしたくないための布石としか思えません。

また、食品中の放射性物質の基準値が厳しくされるとのニュース(NHK)。これもそもそももともとの暫定基準値が緩すぎたとのではないかと疑うべきでしょう。
それよりは確かに厳しいのでしょうが、もともとの基準の甘さ、世界基準なども言わないと。
ttp://kingo999.web.fc2.com/kizyun.html
ttp://kyuenen.tumblr.com/post/4889687271/who-10-bq-kg
とんだ茶番ですね。政府の望むままの言葉でニュースを流すNHK。

No.311 - 2012/04/02(Mon) 01:04:09

榊山さんへ / 中野雅哉
西尾幹二の名前分析については「ちょっと何言ってるかわかんない」ですけど、私が考えるオルタナティブは「明治維新という未完のプログラムの完成、すなわち、無血Civil warによる大日本帝国と日本国の止揚統一としての日本共和国の樹立」ですね。
自分でもちょっと何言ってるかわかんないですけど(笑)。

No.310 - 2012/03/31(Sat) 21:40:56

西尾返し / 榊山裕子
中野さんへ

>私が298を書いた際、念頭にあったのは西尾幹二の取っているスタンスでした。

なるほど、わたしも通常なら西尾さんは取り上げないところなのですが、
ここは西尾さんで返すのが面白いのではないかとふと思ってわざわざ使えそうな言葉を探したのですが、
ある意味、あたり、だったということ、ですね。

ところで、今気付いたのですが、西尾幹二という名前、興味深いですね。
西からWest 、尾から竜頭蛇尾という言葉を連想しました。
そして幹が二つあるということから、日本=二本を連想しました。
そしてこの人の生まれは1935年、少国民世代ですね。
同じ年に生まれた人に大江健三郎、月まで同じなのが、堺屋太一なのですね。

ところで、中野さんは、どういうオルタナティブを提示するべきだとお考えですか。

No.309 - 2012/03/31(Sat) 10:39:07

榊山さんへ / 中野雅哉
おもしろいものですね。
私が298を書いた際、念頭にあったのは西尾幹二の取っているスタンスでした。
榊山さんがあげている西尾氏の原発に関する意見とはまったく関係がないのですが、彼がちょっと面白いなと思うのは、彼が「日本はもともと常に倒錯的でいなければサバイバルできない国家であり、生存するための諸条件がヨーロッパの国々とは根本的に違うのだ、欧米から見て『いざとなると何をしでかすかわからない倒錯民族』でありつづけることで、かろうじて彼らと対峙することができるのだ」(←これ引用じゃないです。あくまで私から見た西尾的スタンスです)と言いきっているところです。
濃淡はあれ、最近、保守派・リベラル左派共にこういう考え方は徐々に確実に浸透してきているように思えます。個人的にはこういう考え方は拒否し、抵抗したいと思っていますが、彼らを嗤うだけでは事は済まないところまできていると感じます。彼らに対してオルタナティブを提示し、優しく粉砕してあげなければならない。

No.308 - 2012/03/30(Fri) 22:26:39

中野さんへ / 榊山裕子
298のディベートごっこのご提案、ありがとうございます。
あれから夏風邪をひいて復帰するのにちょっと時間がかかってしまいました。
レス遅れてすみませんでした。わたしもまだ本調子ではないので、
「ごっこ」ということで、以下にちょっと書いてみます。

たしかに「無責任の体系」でも許しあえる、まるでほどよくぬるい温泉のようないい国、
そんなふうでいられるなら、それもありかもしれませんが、
やはりそうはいかないんじゃないかとあらためて考えざるを得なくなったのが、
昨年の原発事故だったのではないか、と思うわけです。

保守派の西尾幹二氏も原発事故後「人類が「プロメテウスの火」をもてあそんだように、
原発はやってはいけない神の領域に手を突っ込み、その火の玉を制御できなくなってしまった。
その結果、自分たちの頭上に落ちてきたのが今の日本の姿であり、進歩した科学技術の結果なのである。」
と書いておられますが、中野さんのおっしゃる「西洋思想の作った幻想、近代人の病」は、
人間が神の領域に手を突っ込むことからはじまった、とも言えないでしょうか。
それなのに、日本人は、そのことに対する自覚がなかった。
自分が持っている「力」に対する自覚がもてなかった。
「無責任の体系」で暢気に暮らしていきたいのならば、自分たちで制御できないような技術とはおさらばして、
もっと素朴な生活に戻ればいいのでしょうが、でも、原発事故の後始末だけでもこれからまだまだ
長い戦いになるのでしょうね。

なにか問題でも?と問われれば、答は、なにか問題がある、とか、ない、とかではなくて、
問題は既に起こってしまいました、と答えるしかないわけです。残念ながら。
どうでしょうか?

No.307 - 2012/03/24(Sat) 01:46:51

ヒステリーと、男性同性愛あるいは強迫神経症との結託 / 水上雅敏
>母が強い、というのは、そういうことです。そこには家父長制との共犯関係がある。
もっと端的に言えば「強い母」というのはこの日本型家父長制の操り人形に過ぎません。
この連鎖を断ち切るには、母をどうかする、という発想では駄目で、こうした「母」役割から女性を解放するしかないわけです。しかし日本型家父長制にとってはそれはイタイ選択なので、「かあちゃんが強くて」とか言いながらそれを継続するずるずるべったりの選択をしてきたわけです。

夫の家系の名を受け継ぎ、夫の夢を支え・・、まさに「他者の欲望を自分の欲望とする」(大文字のAの欲望ではなく、小文字の他者の欲望を)というヒステリー構造あるいはヒステリーのディスクール、そして自分は家父長だとする男性に、トーテム的な父との同一化、男性的同性愛あるいは強迫神経症の構造、主のディスクールを感じますね。そして、妻と夫、2者が結託している。どちらも疾病利得を得ている。

さらに、そういう退行的な神経症的構造にもとづいた家族のありかたがむしろ義務化されることについては、そこに、ラカンが「許されたことは義務化される」と述べていた現象を見るというのも面白いかもしれない。この義務化、というのは、義務を押し付けてくる存在を上にいつまでも置いておきたいというエディプス構造から来ている、さらに社会的には、そういう自分のエディプスコンプレクスのありかたを次世代にも崩して欲しくない―自分自身に不安が生じてくるから―と考える長老が、次世代に対してこれを義務化する、というかたちで引き継がれる、ということではと思いますが。こんなふうにして倫理がずれてくる。本来倫理的でもないものが倫理的とされ、真の欲望を語ることが悪だとさえされてくる・・。

究極的にはそして原理的には、エディプスコンプレクスを透かして、真の(エディプスコンプレクスからのではない)欲望を語れてくることがここからの解放の道なのだろうなと思います。

No.306 - 2012/03/23(Fri) 16:38:39

ペンローズの立場がまだよくつかめない / 水上雅敏
>「人間の数学者は数学的真理を確認するために、健全であると知りうるアルゴリズムを用いていない」(「心の影1」88ページ)

しかし「心の影 2」190pによると、「人間数学者の理解力は必ずしも、原理的にいかなるオラクル器械よりも協力であるとは限らないということである。上で注意したように、結論G(上の文)は必ずしも、人間の洞察が原理的に停止問題のすべての個別例を解けるほど強力だということを意味しているわけではない。したがって、必ずしもわれわれは、われわれが求めている物理法則は原理的にあらゆる計算可能なレヴェルのオラクル器械を超えると結論する必要はないのである。われわれはただ、どの特定のオラクル器械とも等価でないものを探せばいい、物理法則はほんの少し異なっているだけの何かに導くかもしれないのだ。」とあります。急に手のひらを返されたような。私のもともとのペンローズの理解が間違っていたのかも知れませんが・・。しかし、そうなら、なぜ、「・・等価でないものを探せばいい」といまだにペンローズは言うのか・・。このページ近辺をまだしっかり読んでいませんのでわかりませんが・・。

No.305 - 2012/03/22(Thu) 17:02:04

中野さん / 水上雅敏
ペンローズの理論に対する検討が私自身に無利益であると最初からわかっているならそうですが・・。
No.304 - 2012/03/22(Thu) 16:49:22

水上さん / 中野雅哉
ペンローズが(もっといえば科学者)が持論をどう「解釈」しているかは、ある意味どうでもいいんじゃないでしょうか。

No.303 - 2012/03/22(Thu) 15:54:25

追加 / 水上雅敏
>ペンローズへのとりあえずの批判 現実界の欠如?


むろん、量子的なコヒーレントから自己崩壊の境目を、―それが文章で言えば句読点をうたせて意味を決定させるような亀裂に相当するものとするならば―、ペンローズの理論の中での現実界として見ることができるかもしれません。しかし、ペンローズはこういうものとしてこの境目を見ているかはまだ疑問ですね。基本的には、コンピューターの出来ない部分=穴、を人間は非アルゴリズムで埋めえるのだ、としているような・・。

その非アルゴリズムが、穴を埋めるという方向ではなく、むしろ、穴になんらかの形式を与えている、意識を奈落のそこに引き込みつつそこに形式を与えている、というようなものとして考えているのならば納得がいきますが・・。例えば、意識を単に0に崩壊するというのみならず、そこになんらかのかたちで、マイナス、あるいは、虚数の軸へと引き込んでいく、というような動きであればまだ納得がいきますが・・。ペンローズはそういうものとしてみているのでしょうか?

No.302 - 2012/03/22(Thu) 14:46:26

情報の縦横のやりとり チューブリンとe / 水上雅敏
「心の影2」のチューブリンについて語られているあたりに、ひまわりの花の写真があるのには興味を持てました(p167)。まだほとんど読んでいませんが、次のような議論になってくるとそれはそれで面白いかな、と思われます。(以下、勝手に私の考えたことで、そういう議論に進展してくるのかはわかっておりませんが・・)

つまり、様々なニューロンの系統を、いくつかの木の林立した林だとする。それは、無を象徴化しようとする思考の弁証的進展にそって枝分かれしたり、やってくる刺激の差異化、差異相互の差異化、という動きに沿って多くの枝が結びついていったりしているとする。それらの木は全てが最初からは相互に結びついているのではないかもしれない。そこで、それらの林立した木全ての上を一陣の風がなぜるように吹いていくとする。その風は、離れた木相互の情報を運ぶものとする。いわば、一本(あるいは限定された1グループの)の木に沿った縦断的な情報のやりとりだけでなく、横断的にも情報を送る機能を持つものとして。そして、それによって、処理すべき情報を配分しあうことで、木相互がダブった仕事をやってしまう無駄を省けるようになるとする(「この情報処理は私がやりますから、あなたは別のをやってください。」と木が相互に交流しあうように。どれほど具体的な思考内容が配分されあうものか、あるいは、ただ、様々な信号の出し方が配分されあうだけであって、思考内容はそういう全体の動きの反映なのか、はわかりませんが)。いわば、互いが互いの隙間を担う形になる。こうなると、ひまわりの種の並びのような、数学のeがそこに体現されているようなもの・・・というような議論。実際そんなことを脳がやっているのか知りませんが・・・。

微小管は13列のチューブリン二量体からなっている、とペンローズは述べ(161ページ)そして、この13がフィボナッチ数である云々と語っているところからすると(168ページ)、そういう議論にも行きそうで―まだ確認はしておりませんが―、しかし、そういう議論にいったとしても上に述べた風のような動きがこのチューブリンから発せられるとすべきかどうか・・それはわかりませんが、ともかくこのページあたりの議論は面白そうではあります。とはいえ、上の動きを非アルゴリズム的とすべきなのかどうかもまだわかりませんが・・。

ちなみに、実際、脳の中に、そういう一陣の風が反復的になぜるような動きがあるのを何かの映像で見た記憶があります。脳内全体の血流の映像だったか、脳波の動きであったか忘れましたが・・。粘菌内のカルシウムイオンを光らせると、粘菌の群全体の動きの中に、らせん―対数螺旋かはわかりませんが―がきれいに浮かびあがったり、変化したりする映像を見たことがあります( ttp://www.hokudai.ac.jp/shinchaku.php?did=606 に静止画像を見ることが出来ます)。そこでは、部分と全体が情報をやりとりして無駄な動きはしないようにしているのだと勝手に想像しますが(特に対数螺旋だとすると、部分の情報を全体にもフラクタルに伝えやすくなると思いますが。また、eは素数とも関連するから、ゲーデル数的に情報をそこに載せて全体に伝えるということもしやすくなると思いますが)、粘菌でさえそういうことをやっているとすると、脳も同様のことをやっている可能性はあると思いますね。

No.301 - 2012/03/22(Thu) 03:53:51

ペンローズへのとりあえずの批判 現実界の欠如? / 水上雅敏
>ペンローズはたしかに一見「意識はコンピュータができないこともできる」というありきたりな主張をしているようにも見えますが、

中途半端な科学者かは別としても、こういう考えをペンローズは持っているのではないか、という疑いを払拭できません。意識は何か「プラスアルファ」の機能によって、ゲーデルの示すところの不完全さを超ええているのではないか、と考えているような。茂木さんの解説(「ペンローズの<量子脳>理論」所収の)に今迄頼りすぎて誤解しているのもかもしれませんが・・。ペンローズ自身の書を読むのも遅遅として進まずとびとびですが、全て読んでから見解を述べるのもいつになるかわかりませんので、まずは次のペンローズによるフレーズからはいり、疑問を述べ、また、あえて極端な批判をかけるなどして、今後修正、加筆していこうと思います。

「人間の数学者は数学的真理を確認するために、健全であると知りうるアルゴリズムを用いていない」(「心の影1」88ページ)

I:まず、やはり、この文はコンピューターでも確認出来ないことを数学者は確認している、ということが前提になっているように思えます。 その場合、ペンローズはどういう意味での「確認」を言っているのか問題になります。ちょっと読んだ限りでは、以下の2つが余り区別されてないようにも思います(ちょっとしか読んでいない私の責任でしょうが)。 @念の入った論理的思考からは崩されかねない「なんとなくそうだろう」というレベルの想像的な直観。典型的には、公理系は完全だ、というレベルの直観―ゲーデルがまさに崩したところの―。その直観(公理系は完全だという直観)を持てる人間はすばらしい!、とペンローズはまさか言ってはいないのでしょうが、似たようなことを言いそうな傾向がペンローズにはあるようにも思えます。A想像界にだまされないからこそ得られるような直観。例えば、ペンローズタイルとか。(あるいは、不完全性定理? これ自体は計算不可能にはいるのか、私には判断できませんが・・) @だとしたら、大してコンピューター以上に優れた直観を人間がもっているというわけではないでしょう(しかし、想像界にだまされる構造自体がコンピューターを超えていると考えるのもそれはそれで面白いとはいえるかも知れませんが)。Aはたしかに考慮の余地がありますが・・。

2 「健全であると知りうるアルゴリズムを用いていない」→ペンローズはこれを傍証しようとして、実際のところはコンピューターでも出来るはずのものなのに出来ないとして、コンピューターを価値下げして議論を進めているときがないかどうか。たとえば、「2つの偶数の和となる奇数を見つけよ」で、どこまでも偶数しかないことは人間には自明だが、コンピューターは際限なく動き続ける旨あります(156p「心は量子で語れるか?」)。しかし、これは見つけよといわれたからコンピューターもそうしたわけでしょう。 もし「2つの偶数を、2p, 2qとする。p,qは自然数とする。2つの偶数の和は、2(p+q)である。ゆえに奇数ではありえない」と結論づけえるようなアルゴリズムと、「(奇数が)ありえないとわかれば命令を放棄せよ」というアルゴリズム、そしてついでに、どんなアルゴリズムもとっかえひっかえ持ってきて試行錯誤をしてよいというアルゴリズム(?この最後のものはわざわざアルゴリズムと言わなくても、ひとつのアルゴリズムへ固定させない不安定さを置いておけばよいと思いますが)を加えておけば正しい結論を得て、ストップするのではないでしょうか? まあ、どこまで何をアルゴリズム化できるか私にはよくわかっていないから大きく私が間違っているかも知れませんが・・。

3 茂木氏の解説(ペンローズの<量子脳>理論231p)で「万能」の停止問題解決アルゴリズムの存在の不可能性が示されており、つまるところ人間の直観はコンピューターを超えうるという議論の入り口になっているようなのですが、そもそも、人間の直観だって停止するかどうかの判断は万能的には出来ないのではないでしょうか。できたと思っても部分的な問題に対してのみである、その先にまた停止するかどうかわからない問題はきっと出てくる、と考えれば、それですむのではないでしょうか(対角線論法を待つまでも無く)。人間がなんとなく直観にすぐれているように思えるのは、(まずアルゴリズムから計算していくということはひとつのイマジネールな体系を広げていくということだと思いますが)、そもそも言語的に去勢されている人間は、イマジネールな統一的な体系を放棄することにためらいは少なく、その分、色んな体系をとっかえひっかえ試行錯誤しやすい、とか、差異化・差異相互の差異化の動き、そして、SRIの弁証法から生じるはずの黄金比からくるセンスがあるからであって、等価なものはコンピューターでももしかしたら出来るのではないでしょうか。人間に、コンピュータとは違う何かがあるとしたら―非アルゴリズムどうこう以前に―まず無、そして、無と諸アルゴリズムの弁証法(すぐにアルゴリズムを崩したり、とっかえひっかえする)に過ぎないかも、と、まず仮説を節約したところから考えていくのがいいのではと思います。ペンローズは、どこまで現実界を考慮に入れていたのかちょっと疑問に思えてきます。(むろん、高度に人間と同じ思考をコンピューターにさせようとしたら、コンピューターに欲望や、ばらばらの身体、統合体への想像的指向、コンピューター同士の群れにおける対話、や死や生殖を備え付けないといけないかもしれません。しかし、これらをペンローズが言うところの非アルゴリズムべきかどうかはわかりません。)

>ペンローズの考える「意識」や「心」はむしろ、水上さんがいう「不完全な人間存在」換言すれば「言葉を-話す-存在」を存立根拠にした「色んな階層の数学がいつまでも不決定のまま行なわれているという構造」に近いと思います。

このへん、「とっかえひっかえ」の議論は、「心の影1」p90、のQ2にも通じることかと思いますが、やはりあくまで、人間は「数学的真理を確認できる」という立場からペンローズは議論を進めているように思われ、まずそこが私と違うところですね。

No.300 - 2012/03/22(Thu) 03:47:04

日本の名付け親 / 水上雅敏
日本の名付け親は、本来(?)、「おじ」(母方か、父方か失念)といわれていなかったか、という記憶がうっすらあって色々ググッてみました。しかし記憶違いだったのか(?)、yahoo辞書では「昔は主に母方の祖父が命名した。」とあっただけでした。

「名前のアルケオロジー」(出口顯 紀伊国屋書店)を少し見てみると、名付け親は直接の親ではない部族などは多いようですね。例えば、スーヤという部族(地域?)では、名付け親は、「母の兄弟」(男児の場合)や「父の姉妹」(女児の場合)のようです(173p)。そしてこれらは、近親者ではなく、遠縁者とみなされているとのことです。親が名づけると、インセスト的なイマジネールな領域と、言語的な領域が混同されてしまって、うまく象徴的去勢が行なわれにくいと暗に感じられて親を名付け親にしないことになっているのでしょうか? (母の母とか父の父に名づけられても、ほぼ母や父に名づけられているのと同じ感じになるから、「母の兄弟」「父の姉妹」というのはそこをうまくずらしているなと思いますね)

しかし、じゃあそうやって、うまくインセストなりイマジネールなものを切断するのか、というと、「赤ん坊との連続性・同一性(これは身体的実質的に表象される)が強調されるスーヤの両親は、赤ん坊の「自己」を構成するわけであり、両親が赤ん坊のNG(名付け親)になることはない。名づけるのは「核家族」の外の人間である」(172p)というような記述は、そういうことより、一体感的なイマジネールの領域はそれとしむしろうまく温存し(そう考えるところには著者自身独特の考え方が多分に影響していると思いますが)、言語的な領域はそれなりに別に保っておく手段であることを著者は強調しているようにも思えます。ともかく両親が子どもに名づけるということは「まさに自然と社会を混同することにほかなら」ない、とあり(177p)、ともかく名付け親を別にすることでIとSを混同させないいうことのようではあります。

そうなると洗礼名にも興味が出てきます。スペインの代父母については、「洗礼名を授けるのはいつの両親ではなく、代父母であり、実の両親は洗礼の場面に臨むことも許されない」(177ページ)、「代父母から受け取るのが洗礼名であり、これによって、同じ姓を持つ家族内で他のメンバー、特に兄弟とは異なる個人として人は区別されるのである」とあります。代父母は、核家族外の近親者、望ましくは両親の親や兄弟とのこと(180P)。

いずれにしろ、親が名づけるということは、イマジネールと象徴界を混乱させてしまう、ということなのでしょうね。あの親に名づけられた、というのが、うざったい、どこか近親相姦的幻想に輪をかけられたような感じをもつ人もいるのではないでしょうか。そんな名前は捨てて「名無しの権兵衛」になりたいと思って、それはそれで逆の極端として象徴界を阻害してしまう危険はあるし、少し離れた人から名づけられていたなら、もっと親とも風通しのよい関係を得られていたのに、と思う人もいるのではないでしょうか? もしかしたら、日本で、大家族が少なくなって、祖父母が名づけるというような機会も少なくなったであろう分、逆に、そういう去勢が働きにくい環境になっていないか、ともふと思いました。あるいは、親が名づける分、親が神の位置にくるようで、一人の人として親を等身大に見るのが難しくもなってきたということもないでしょうか・・。

全くの他人ではなく血縁的に少し離れた人が名付け親になる、というのは何か必然性があるのかはよくわかりませんが・・。

ちなみに、臨床場面では、分析主体を呼ぶとき姓か、名か(下の名。・・って、なぜわざわざ断らねばならないほどfirst nameにあたる日本語がなぜ無いのか、といつも思いますが)は迷うところですね。どちらかと言うと私は名(下の・・)で呼びますが、その名さえ、日本の上記の状況からすると、姓以上に、親の欲望(近親相姦的な、と子に想像される可能性もあるし、実際親側からもそうであるかもしれないような)を直接反映してしまうのではないかと思って、それを使うのもどうなのかな、と時に思ったりもします。

余談ですが、日本では、ではそういう他者からの介入が何かないものか、と考えていると、「仲人」が思い浮かびました。で、調べてみると、「仲人の起源は、仁徳天皇40年(紀元352年)2月、天皇は、雌鳥(めとり)の皇女をお妃に迎え入れようと思い、異母弟の速総別尊命(はやふさわけのみこと)を仲立ちにされたという記事が日本書記に記されている。これが仲立ち=仲人という言葉が初めて記録に残っているもので、仲人の起源とされている。物語としては、申し込みを受けた雌女が遣いの速総別を好み、関係を持ってしまう。つまり、仲立ちの男性と申し込まれた女性とが結ばれてしまったという結末になる。」(ウェディング用語辞典 仲人 ttp://wedding.dictionarys.jp/%E4%BB%B2%E4%BA%BA.html)。異母弟が仲介したわけですね。第三者としての他者の位置はうまくキープできなかったわけですが・・。

No.299 - 2012/03/20(Tue) 02:51:13

榊山さんへ / 中野雅哉
面白い考察ですね。垣間見える意図にはほとんど賛成ですが、あえて反論してみます。深い意味はありません。ただのディベートごっこです。

そもそも完全に自身の暴力性や権力性を自覚し、最後まで責任を取りきる強い主体など、西洋思想の作った幻想、近代人の病にすぎないのではないか?たとえ女性が日本型変形家父長制の要請する『母の役割』から解放されたとしても、主体になどなれるはずはない。なぜならそんな強い主体は最初から存在しないからである。我々日本男児がその生き証人である。つまり、日本のシステムは『暴力や権力をオブラートで包み、権力者自身もその暴力性に無自覚でいられるような仕組み』ではなく『主体的権力や主体的暴力こそ幻想である。どんなに主体的であろうとしても、究極のところでは無責任にしか振る舞えない人間の本質を正直に認めた仕組み』であるともいえるのだ。確かにこのようなシステムを耐えがたい抑圧として感じる人々は少なからず存在する。だが、そこからドロップアウトしたがために致命的な社会的不利益をこうむるケースはいまや限りなくゼロに近い。日本はプレ近代病患者も近代病患者もポスト近代病患者も楽しく共存しうるとてもいい国です。
なにか問題でも?

No.298 - 2012/03/19(Mon) 23:09:28

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