[ 掲示板に戻る ]

過去ログ閲覧モード


水上さんへ / 榊山裕子
ご返答ありがとうございます。

>私自身は私はまさに「現状肯定」なんだろうな、と思っています。変えようとする政治家の、その変えようとする方向性は、ほとんどうさんくさい、何か裏のあるものに思えてしまうからです。それよりは、彼らには、何もさせないほうがまだいい、とそう思うからです。

だとすれば、水上さんのおっしゃる「現状肯定」は抑止力として積極的な意味を持ちますね。
「諦念」というよりは、それもまた「積極的」な「政治的判断」ということになりそうですね。

No.501 - 2012/11/04(Sun) 14:57:07

榊山さんへ / 水上雅敏
私自身は私はまさに「現状肯定」なんだろうな、と思っています。変えようとする政治家の、その変えようとする方向性は、ほとんどうさんくさい、何か裏のあるものに思えてしまうからです。それよりは、彼らには、何もさせないほうがまだいい、とそう思うからです。

しかし、政治家たちがそういう方向に変えようとすることに対しては、反対の意思を表明する、という意味では現状(私利に基づいてシステムを変えようとする方向性を持つ政治がなされている現状)肯定ではない、と言えるでしょう。

何か、新しいシステムを作るというより、むしろ、これまで作ったシステムに既に、私利に基づいたものはないかを探し、そういうものは崩していくという、そういう方向(いわば、マイナスにさせる方向性)へは動いてはいきたいと思っています。今の、政治にはそういう方向はあまりうかがえないな、ということです(どうも、楽観的に、システム変換に過度の期待を寄せすぎて、システムをころころ変えたり、システムを不必要に増殖させているように見える)。「ベターの選択」だからといって、すでに提出されている政治的ないくつかの方向性(改憲や、国軍もそうだと思うのですが、)の中から選ばなければならないという必然性はないわけですし。

No.500 - 2012/11/04(Sun) 13:09:27

悪さ加減の選択 / 榊山裕子
水上さんへ

水上さんは、

>ああまだ政府を信じていたところがあったのだな、と反省し始めたときからさらに諦念が強まったように思います。

とおっしゃいます。しかし

>私の言いたいのは、とりあえずは、あまり目新しいシステム作りなり「改革」(?)なりを、絶対的な必然性もないところでやってくれるな、ということです。

とおっしゃてもいます。
つまり水上さんのおっしゃる「諦念」というのは結局のところ「現状肯定」の別名なのではないでしょうか。
ご自分ではそう思っておられなくても、結果的にはそういうことになるのではないでしょうか。

わたしは丸山眞男の「政治的判断」の次の一節を思いだしました。

「政治的な権威に対する盲目的な信仰と政治に対する冷笑とは実はうらはらの形で同居している。」

以下は、この一節の前後の部分です。1958年の講演を文章化したものですが、今も十分に通用すると思います。これよりうまく語ることはわたしにはできないので、そのまま引用します。

<つまり、政治的な選択というものは必ずしもいちばんよいもの、いわゆるベストの選択ではありません。それはせいぜいベターなものの選択であり、あるいは福沢諭吉のいっている言葉ですが、「悪さ加減の選択」なのです。これは何か頭に水をぶっかけるようないい方ですけれども、リアルにいえば政治的選択とはそういうものです。悪さ加減というのは、悪さの程度がすこしでも少ないものを選択するということです。この中には二つの問題が含まれているのです。すなわち、第一に、政治はベストの選択である、という考え方は、ともすると政治というものはお上でやってくれるものである、という権威主義から出てくる政府への過度の期待、よい政策を実現してくれることに対する過度の期待と結びつきやすい。つまり、政治というものはもともと「自治」ではなくて、政府がよい政策をやってくれるものだという伝統的な態度と容易に結びつくのです。したがって、こういう政治というものをベストの選択として考える考え方は、容易に政治に対する手ひどい幻滅、あるいは失望に転化します。つまり、政治的な権威に対する盲目的な信仰と政治にたいする冷笑とは実はうらはらの形で同居している。政治にベストを期待するということは、強力な指導者による問題解決の期待につながります。政治というものは、われわれがわれわれの手で一歩一歩実現していくものだというプロセスを中心にして思考していったものでなければ、容易に過度の期待が裏切られて、絶望と幻滅が次にやってくる。万事お上がやってくれるという考え方と、なあにだれがやったって政治は同じものだ、どうせインチキなんだ、という考え方は、実は同じことのうらはらなんです。>

No.499 - 2012/11/04(Sun) 12:04:11

中野さんへ / 水上雅敏
そうですか・・。諦念・・私の中にあるのは、やはりそういうことだと思うのです。

それまでも諦念していたけど、拍車をかけたのは震災後ですね。それまでも政府を信じていないと思っていましたが、震災後こんなこと政府がやるのか、ここまで国民のことはどうでもいいのか、とびっくりした自分に、ああまだ政府を信じていたところがあったのだな、と反省し始めたときからさらに諦念が強まったように思います。

No.498 - 2012/11/03(Sat) 11:18:05

水上さんへ / 中野雅哉
概ね反対。
そこまでの日本社会への諦念がまだよく理解できないです。

No.497 - 2012/11/03(Sat) 08:49:17

中野さん / 水上雅敏
そもそも、国際法というのがどうかな(私が国際法をよく知らないということもありますが)、という疑いがある(インターナショナルだからと言って、広くなるだけで客観的とは言えないとは思いますし)のと、それ以前に、そういういさかいに参加せねばならなくなるような状況を作り出してしまった政府、いくら国際法が正当なものと認めようとそもそもそういう状況にこの国を巻き込ませた政府(例えば、国内の政権争いのために、国民に支持を得ようと強硬な外交でポーズをとったことが戦争せざるを得ない状況にさせてしまうとか。・・で、そういうものなのに国際法からは、他国のほうがより悪いと認められて日本が武力で制裁を行うことが正当なものとして認められるということはありえると思いますが)・・そういう政府のために、なぜ私たちや子孫が加担し徴兵され傷つく可能性を高めさせる「国軍」という状況を準備せねばならないのか、という疑問があるわけです。

>ここまで市民社会が成熟したらもういらないんじゃないでしょうか。
私には全然成熟しているとは思えないのです。(たとえば、「絆」教で、がれき拡散を称賛する人々がこれほどいる)

>問題は「システムがどう機能するか」であって「システム考案者の思惑がどうか」ではないと思いますが。

いったん作ってしまったら、あとはうまい具合にごまかされつつ移動されて、権威者の思惑に沿って動かされるのが世の通例だと思います。思惑を問うという以前に、私の主旨は、そもそも必然性もないところで新しいシステムを作ろうとする時点でもう何らかの恣意的な欲望があるはずだから、私は「くさいにおいはもとから断っておく」という意味で、そういうことは最初からさせないのが良いと考えるのです。

>「私欲のぶつかり合いじゃない政治システムにしたい」と考えるのが案外究極の私欲だったりもします。

むろんパラドクシカルな側面はありますが、わたしは、まだ、こういう、自分たち自身の自我を崩そうとする弁証的なシステム崩しのほうがいいです。「私欲ではない」ことを実証できるために、政治家になるには最低賃金とは言わずともそれにより近づいた給料に甘んずるという条件があればなお良いと思います。それでももちろん私欲は残るでしょうが、考えられる限りこれが最善の姿のように思えます。まあ、「あらたな、ぶつかりあいじゃない政治システム」を作るというより―それは確かに、そういうシステムを旗印をかかげて推進しようとする個人が出てくるとおっしゃられるようにそこにも究極の私意がある可能性はあるから―、私の言いたいのは、とりあえずは、あまり目新しいシステム作りなり「改革」(?)なりを、絶対的な必然性もないところでやってくれるな、ということです。こういう改革って、いわば、自己分析からのがれて行動化を起こしていることのように見えるのです。

No.496 - 2012/11/03(Sat) 04:26:12

(No Subject) / 中野雅哉
あ、呼び捨てにしてもうた(笑)。「水上さんへ」です。
No.495 - 2012/11/03(Sat) 00:51:51

水上 / 中野雅哉
>国軍といっても、結局、政府の人間のための軍となるでしょう
国軍になればより国際法に縛られることになります。自衛隊から国軍へ、というのは有限会社から株式会社になるようなもので、経営者の主観的・経験的判断(政治家・学者の解釈)でだけ動けなくなり、市場・社会の客観的判断(インターナショナルな基準)にもさらされるようになるという側面もある。

>日本で、もし天皇をなくして政府がトップに立つと政府の暴走を止めるものがなくなるのではないでしょうか。
政府が暴走したとき、それを止めるのはもちろん「市民社会」です。日本には市民革命の歴史がなかったため、とりあえずそれを天皇とか国体とかに外部委託してきたわけですが、ここまで市民社会が成熟したらもういらないんじゃないでしょうか。

>そもそも制度を変えようとする(天皇廃止や国軍)ところには、誰かの私利私欲があるのではないかと疑わしくもあります。
政治とはそもそも私欲のぶつかり合いだから、そういう疑いは疑いなくあるでしょう。それに「私欲のぶつかり合いじゃない政治システムにしたい」と考えるのが案外究極の私欲だったりもします。問題は「システムがどう機能するか」であって「システム考案者の思惑がどうか」ではないと思いますが。

No.494 - 2012/11/03(Sat) 00:50:51

(No Subject) / 中野雅哉
>榊山さん
そう言われればそうかも。政治的な議論においては、If...then〜形式で語ると相手にされない場合が多い。「クールすぎる」「情動不足」と取られてしまうケースが多いですね。

>藤田さん
それは個々人の語学力と度胸と胃の強さによりますね。食生活による母国束縛力は意外に強いらしいですよ。

No.493 - 2012/11/02(Fri) 23:13:13

政府の人間のために死にたくない / 水上雅敏
>そういう意見がほとんどないのが不思議でたまらない。なぜなんでしょうか?

私としては次のような感覚です。
・国軍といっても、結局、政府の人間のための軍となるでしょう。福島の件を見ても、あれほど情報を隠し、私たちの生命を脅かす政府の人間のために傷つきたくはないというのがあります。
・近代国家とはどこをさされているのかわかりませんが、例えば、米国では、天皇ではなくともキリスト教という、政府とは別の権威が強く並立していると思います。複数の権威が並立することって、互いに足かせになることで互いを暴走させずにおける効果もあるのではないでしょうか。例えば、私の以前の職場では、一時ボスが不在で、2人の副ボスが取り仕切っていた時期がありましたが、その時が一番職場も平穏でした。日本で、もし天皇をなくして政府がトップに立つと政府の暴走を止めるものがなくなるのではないでしょうか。そしてそのうえ、この国では、昔から権威者が儒教を悪用して、どんな権威にでもともかく従順であることが美徳で人間として当然であると洗脳していることから、そこにますます拍車がかかることでしょう。仏教があるとはいえ、キリスト教のように強いトップダウン的な(バチカンからルールが下されるような)組織宗教ではなく、より個々人の内面に任されたものゆえ、一般の人々にとっては、それを通して政府を相対化してみれるほどの防御壁にはなりにくいかと思います。
・むろん、政府が天皇さえ利用する危険も十分ありますが、そもそも制度を変えようとする(天皇廃止や国軍)ところには、誰かの私利私欲があるのではないかと疑わしくもあります。だから、天皇は絶対必要とは言いませんが、今あるものなら別段排除しなくてもいいのではないか、今のままで、政府の私利私欲のために天皇を利用させないように見つめておけばいいのではと思います。ともかく最近はソフトが充実(例えば、憲法も、解釈をいろいろ加えてやっていくとか<批判もありましょうが、それだけ平和憲法の足かせが功を奏しているということでもありましょう>)する前にハード、システムを変えすぎ、枠組みを変えたらどうにかなる、と思われすぎだと思います。
・・という考えから、私は「天皇制廃止して国軍を持つ」という考えは持てないのですね。

No.492 - 2012/11/02(Fri) 03:07:43

この国はいらない / 藤田博史
国を変えるより自分が移動した方が早い。
No.491 - 2012/11/01(Thu) 22:06:59

中野さんへ / 榊山裕子
>そういう意見がほとんどないのが不思議でたまらない。なぜなんでしょうか?

それはこの国の(多くの)人たちが原理原則でものを考えていないし
行動もしていないからだと思います。
原理原則という自分の軸足、要するに基点が定まらないから
最初の一歩をどこに向かって踏み出すか、という発想もできないわけです。

つまり中野さんのご意見は、「近代国家」の原理原則からいえば
まずこうなるという考え方だと思いますが、多くの人は、
これはわかる、これはなんか違うという「気分」から出発して
それに理屈をくっつけているに過ぎないのです。

「不思議」ということに関してはそこに謎があるわけではなくて
原理原則なしに行動するし発言するから、何を考えてんだか次に何をやらかすんだか、
原理原則でものを考える習慣がついている人間からみるとまったくもって予測がつかないので
不思議に見えるだけなんだと思います。

No.490 - 2012/11/01(Thu) 10:23:13

なぜ? / 中野雅哉
やっぱ天皇制廃止して国軍を持つのがさっぱりしてていちばんいいです。
近代国家としてそれがいちばん普通なのに、
そういう意見がほとんどないのが不思議でたまらない。なぜなんでしょうか?

No.489 - 2012/10/31(Wed) 22:57:01

横レスですみません / 水上雅敏
>一歩譲ってその憲法が望ましいと思うのならば、それを踏まえて自前で作りなおせば良いと考えるだけです。

私は、望ましいものであれば、自前でなくてもそのままもらっておけばいいと思うのですが、それではまずいのでしょうか? 新しく作るのは二度手間だし、税金もそれに使われるだろうし・・。

No.488 - 2012/10/30(Tue) 22:05:06

(No Subject) / 榊山裕子
>戦争に勝った側が敗戦国に押し付けたルールを後生大事にするという理屈

わたしはそんなことは言っていません。

No.487 - 2012/10/29(Mon) 20:10:31

(No Subject) / id
>こうしてみると日本は、中国や韓国の無法ぶりや非常識ぶりを
国際的な意味での「大人」として批判する立場に立つのであれば
「欧米」的(2012年現在における括弧付きの「普遍」的)価値観にのっとって
「先進国」の「先輩」として振舞うのが得策なのでしょうね。

>つまり「占領軍が作った憲法は廃棄したらいい」と記者会見で平気で述べるような政治家とか

前段と後段と整合性が無いです。
前段の帰結としては、無法に対しては断固として対抗すべし、処罰すべしです。

>「占領軍が作った憲法は廃棄したらいい」

当たり前だと思うのですが。
戦争に勝った側が敗戦国に押し付けたルールを後生大事にするという理屈がわかりません。
一歩譲ってその憲法が望ましいと思うのならば、それを踏まえて自前で作りなおせば良いと考えるだけです。

No.486 - 2012/10/29(Mon) 19:50:12

訂正 / 榊山裕子
映画ん→請願
No.485 - 2012/10/28(Sun) 13:52:04

フランスF2の報道 / 榊山裕子
ww.youtube.com/watch?v=3g_leJnZ80o&feature=related

NHKBSでは世界のニュースをピックアップして報道していますがその報道の一つです。
先回のフジタゼミでは、藤田先生がフォークランド紛争の例を出されましたが、
ここでもイギリスにとってのフォークランド諸島、そしてフランスにとってのクリッパートン島の問題と
同列の問題としてフランスF2の報道は尖閣諸島の問題を位置づけているわけです。
ということは、日本が尖閣諸島に関して主権を脅かされるということは
フォークランド諸島やクリッパートン島の主権が脅かされることでもあると
少なくともフランスF2の報道は見ているということだと思いました。

こうしてみると日本は、中国や韓国の無法ぶりや非常識ぶりを
国際的な意味での「大人」として批判する立場に立つのであれば
「欧米」的(2012年現在における括弧付きの「普遍」的)価値観にのっとって
「先進国」の「先輩」として振舞うのが得策なのでしょうね。

つまり「占領軍が作った憲法は廃棄したらいい」と記者会見で平気で述べるような政治家とか
「大日本帝国憲法の復活」を求める映画んを提出するような党を
称揚するのはあまり得策ではないのでしょうね。

No.484 - 2012/10/28(Sun) 13:38:43

尖閣列島攻防戦 / id
たぶん支那は正攻法では攻めてこないであろう。

正攻法で攻めてきたら日本の自衛隊によって敗北するであろうから。
そうなると中国共産党は政権を失うであろう。
それがわかっているから、
攻めてくるとしたら漁民に扮した便衣兵だろう。
自衛隊は便衣兵に対応できるだろうか。
ttp://nikkan-spa.jp/311284

No.483 - 2012/10/26(Fri) 22:04:06

述語性同一視は全き同一視か / 水上雅敏
述語性同一視とは「聖母マリアは処女である。わたしは処女である。だからわたしは聖母マリアである」(アリエティの提示した例)というようなものですが、宮本忠雄氏は「患者が口にしたのはついに一度も耳にしたことがない」と述べたそうです『正常思考の分裂病性思考との関係について 分裂病の特異な論理法則(von Domarus) 解説と翻訳 小林聡幸』(臨床精神病理 第22巻第2号)。

しかし、似たような言い回しはロールシャッハテストへの分裂病者の反応などには結構見られるように思います。そもそも「赤いから花です」というよくある反応にも、述語性同一視が推測できますが(神経症者の説明不足でもありえる反応でしょうが)、アリエティ例に近い反応も皆無というわけではないように思います。

実例は出せませんのでよくあるタイプのものを多少創作的に提示すると(実例の本質は変えていないと思います)、蝶に見える図版へまず「ちょうちょ」そのあと「ごはん」と述べたことに対して理由を聞いた折に「ちょうちょは白色。ごはんも白色。(・・)ちょうちょの絵の時にごはんといったのです」というような。(・・・)のところに、「だから」がはいれば、もっと述語同一視っぽいのですが、残念ながら、再確認した一例に於いてははいっていませんでした。替わりに、なんとも非論理的なつなぎの言葉がはいっていたりしました。(・・)の位置に、「ごはんをかけてたべるから」というようなーこれも本質を変えない限りでの私の創作ですが大体そのようなものー。そこは残念ですが、アリエティーの例っぽくはあります。

ただ留意点は以下のようなものがあるでしょう。
・反応への説明を求められて初めてそのように言ったわけで、求められる以前にもともと本人の中において、蝶あるいは蝶の絵=ごはんと知覚あるいは幻想されていたかは疑問であること。
・それに、そもそも「蝶の絵のときにごはんと言ったのです」といっているから、見えているのはやはり蝶であり、蝶あるいは蝶の絵=ごはん、となってるとは即断できないこと。
・先ほど述べた「だから」でつなげていないこと。
・・というわけで、たしかに述語性「同一視」と呼ぶのも疑問があるといえばあります。

なぜこのような答えになるのでしょうか。仮説的に考えてみました。
・基本、なるべく現実界に接触(現実界の象徴化を)したくない。図版を見た瞬間は、反応を出すように求められるので何か応えようとするが、いったん応えたら、自分の応えたそのイメージの部分的な属性からの連想を続けて、この状況(反応を出さないと治療者は満足しない)をしのごうとする。蝶々→白い→ごはん、と。そうする限りは現実界に閉じていられる=自分の今までの反応を破壊して外部にひらいて新しい反応を想像する必要はなくなる。だがら、述語性同一化と言われるような表現となる(実は、たぶん、チョウチョ=ごはん、とは本人の中でもなっていない??)。
・「だから」でつなげないのは、この一例だけの特徴かも知れないが、もう少し勘ぐってみると、「だから」は、まだ、述語性同一視であろうと論理的に説明しようとする意図が見られるが、ここで「ごはんをかけてたべるから」と、より支離滅裂な理由付けを加えることで、論理や他者の独立性(きちんと説明しないと分かってくれない他者)を2重に排除することで、現実界の排除をするため。

さて「私は処女だから、聖母マリアです。」について考えてみると、「蝶の絵の時にごはんといったのです」と蝶のようには一応見れているところから敷衍すると、その人本来の「私はMs〜であり、私はa,b,c,d・・という属性を持つ人間である」というのも分かりつつ、このように言っているという可能性もあると思います。この2重性は、聖母マリアと共有された処女性という属性をeとすると、「e」と「a,b,c,d」という2つの鏡像を行き来して自我を保っていることによる、というのがひとつ考えられるところだと思います(つまり、e<処女>という部分属性を自分の全体として想像する局面と、それ以外の<あるいはそれも含めて、なのかもしれません。>自分の諸属性の集合を自分の全体として想像する局面の行き来)。この行き来に自分を閉じ込めることによって、主体のアイデンティティーを探して、行き着かずいつまでも無があいたまま、自分の属性を「a,b,c,d,・・・・・・」と無限増殖させるしかないプロセスに入らずにいることができるからです(これも現実界の排除)。また、「私は、処女だから、聖母マリアの“ような”ものです」としないのは、“ような”にすると、やはり別物(私≠マリア)であり、私は私で上記のように、いろんな属性を巡らすしかない空虚な主体でしかなくなる=現実界・現実界の主体を認めるしかなくなるから・・、かな、とも思われます。ちなみに「蝶の絵のときにごはんと言ったのです」も、少し奇妙で、図版の作成者は実は「蝶の絵」として描いているのだ(その答えをこちらは当てるのがロールシャッハテストなのだ)としているところからの言葉のようでもあり、これもとりあげるべき問題かも知れません(作者自体も答えを持たない=穴、現実界へと開いている、という状況を排除したいのでしょうか)。ここと、述語性同一視の関係を考えようとするとややこしくなりそうなので、とりあえず、この辺においておこうと思います。

No.482 - 2012/10/25(Thu) 14:25:16

全534件 [ ページ : << 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 ... 27 >> ]