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1週間で100mSv? / 水上雅敏
先ほど、四国で原発事故が起きても、1週間で放射能100mSvの可能性のある地域からははずれるから山口県は大丈夫、というニュースがありましたが、1週間で100mSvって大変な量ですよね。1年で5200mSvになるし。1年で20mSvでも騒がれているところで。

事故が起きて最初の1週間のみの話?・・だとしてそのあとはいろいろある、・・としても大丈夫とは言えないはず。

大丈夫と言っていたか、確信なくなってきましたが、楽観的なニュースではあったような・・。

まさか、また、単位をごまかして衝撃度をやわらげようとしているわけでもないと思いますが・・。

No.481 - 2012/10/24(Wed) 21:40:10

尼崎事件 / 水上雅敏
たしかに角田被告一人で・・とは考えにくいですね。
あと、目的がよくわからない。

No.480 - 2012/10/24(Wed) 21:29:00

友達 / id
藤田先生がよく引用される安部公房の作品「友達」
人を不安にする嫌な話です。
ttp://blog.goo.ne.jp/koukiseijyu/e/0cd6ab3e6df1ebda1f21ae6e03db1702

尼崎「友達」事件

背景としては、報道されているような「角田1名のサイコパスが親類縁者を手足に使って余所の家族を支配」
という事件ではなく、角田の協力者としての朝鮮系ヤクザ組織があり、地域の警察がそのヤクザ組織側に付いていて被害届を受け付けない、という実態があった。

尼崎連続変死告発の男性 命懸け潜伏 偽名使い近くで監視
ttp://www.sponichi.co.jp/society/news/2012/10/18/kiji/K20121018004353340.html

 兵庫県尼崎市の住宅から3遺体が見つかった事件で、別のドラム缶事件で起訴された角田美代子被告(64)とみられる女らに激しい暴力を受けていたとされる高松市の男性が、尼崎市に偽名で潜伏しながら角田被告を監視し、告発の機会をうかがっていたことが17日、分かった。角田被告の周辺では少なくとも7人が行方不明になっているが、全員の身元も明らかになった。

 命懸けの潜伏生活を送っていたのは、窃盗罪で起訴されている角田瑠衣被告(27)の実父。瑠衣被告は、角田被告の息子と結婚している。

 この実父が妻と瑠衣被告の姉と住んでいた高松市の住宅には03年2月ごろ、角田被告とみられる女が息子の結婚で押し掛けてきてから、激しい暴力で一家を離散に追い込んだとされる。実父は自宅に親戚らを集め、「金がいる。集められるだけ集めてくれ」などと切羽詰まった様子で借金を申し込んでいた。親戚の男性(70)によると、03年10月ごろに一家が高松市の家から姿を消した後、この父だけが同市の男性の家に逃げてきた。

 父は約1年間、男性の家などに引きこもって生活しながら、これまで受けた暴行や金を奪われたことを警察に相談していた。しかし、事件認定されることはなかった。

 業を煮やし「角田被告は高松以外でも事件を起こすだろう。そのときに相談しよう」と決意。あえて角田被告のいる尼崎市に行き、名前を変えて生活。近くで角田被告らの様子を注視しながら“ハチのひと刺し”を狙っていた。

 ドラム缶事件で角田被告の名前が報じられたことから再び警察に相談、捜査が動き始めた。10月に入り、瑠衣被告も、3遺体が見つかった住宅に住んでいた行方不明の祖母(87)や叔父(69)の口座から年金を不正に引き出したとして起訴された。

 近所の人たちによると瑠衣被告の実父は穏やかで人望が厚く、市議に推す話も出ていた。しかし、娘の結婚後は一変。自営業を営み、羽振りが良かったはずなのに「離婚したい」「借金がある」と理由は不自然に変化し、親戚から集めた金は2000万円以上になった。70代の親族の男性は、角田被告が5人前後を引き連れ、パチンコ店やボートレース場に通う姿を目撃。また、親族の別の80代男性は「(実父の)一家を食いつぶしたら、次はおまえだ」と脅されたこともあったと証言している。

 実父はあざなど、ケガが増え、右耳がちぎれかけていたこともあったという。知人の男性は「身内同士でひどいことをさせられて精神的に追い詰められ、警察に行けないようだった」と話した。

No.479 - 2012/10/23(Tue) 11:04:41

永山則夫 / 水上雅敏
NHK『永山則夫・100時間の告白』色々考えさせられましたがとりあえず、シニフィアンレベルで興味深かった点から・・。

・子供の頃の思い出から語り始めたところで、立て続けに「白い」という形容詞をつけるのが目立った点(記憶が曖昧なので間違いがあるかも)。「白い帽子岩。一番最初に思い出すのはこれ・・」「姉さんにおんぶしてもらい、白い大きな貝を海になげていた」「姉さんにおぶわれて坂の上の病院に(姉が精神科に入院するとき)・・・白い看護婦さんがいたのをぼやっと覚えている」。白い・・は何かの隠蔽記憶? (姉は母に言われ中絶し、母に命じられて、漬物石を墓石がわりに置かされたらしいが・・帽子岩とはそれで、白は、骨とか? 貝も骨っぽいし?・・と想像にはとめどないのでこのへんに・・)

・上記の姉の、男性とのセックス場面見て、「姉の口からつばか何かたれてた」と。また、父ののたれ死んだ写真の姿に「びっくりした。つばみたいなどろっとしたのが口から出ている」と。また両方に、穢れた感じ、だったか、きたならしいだったか、同じような感想をつけくわえていた点も興味深い。姉と父を同一視するところもあったのかな、とも考えさせられる。つばに、生と死を見て、それがたままた、姉と父のものだった、という可能性もあるでしょうが・・。

推測ばかりで仕方が無いのですが、基本、罪悪感の強さ(シャツを盗んだということも有るけど、それ以前に、幼児期に虐待されたことで、現実的に証明されたかのようなエディパルな幻想的な罪。また、姉の中絶した子の墓として漬物石をのせたこととか、自分も妹などに暴力をふるったことはどうだったのか・・)、とか、父との同一化への欲望とその禁止(”死にたいが、父のように10円の所持金だけでは死にたくないから、1000円は持っておきたい”・・というズラシ)が強かったのではないか・・などと考えつつ見た番組でした。

No.474 - 2012/10/15(Mon) 01:56:32

藤田先生 / 水上雅敏
レスありがとうございます。

五人組・・調べてみると隣組にその性格がうけつがれた、とありますね。

暴動を起こさせないために、権威がこのような策(小グループ形成、5人組み、隣組)をこうじていて嫌だな・・、と思えているならまだいいのですが、下のもの達も、自らがこの小グループを望んだように、あるいは、そうすることが倫理であるように感じ始めてきているという問題が現在あるのではないか、それが今の「絆」とか仲間意識ではないか、私達は実は暴動を起こされたくなくまた責任をとりたがらない隠れた権威にもて遊ばれているだけではないか・・と考えて先の書きこみとなったわけです。いじめの構造や、学校、教育委員会、市、県庁、国の関係の構造(先の大津市のいじめの件のような)、現代の若者が「元気が無い」(国に対しておとなしい)というのもこの視点からも考えて見たく思っています。こう考えると、安易に地方分権というのもどうかな、とも思います。

No.473 - 2012/10/03(Wed) 16:03:33

水上さんへ / 藤田博史
これがまさに江戸時代の五人組制度の機能の一つだったわけですね。
No.472 - 2012/10/02(Tue) 16:22:39

転覆の予防のための複数の小集団化 / 水上雅敏
多くの小集団を作らせることは、一番トップの権威に対して、個人が暴動を起こすことへの予防策ではないかと最近思ったりする。
No.471 - 2012/09/28(Fri) 12:17:01

憲法17条の / 水上雅敏
和をもって貴しと・・あたりからといえば言えなくもないが、より直接的には、核家族化が問題となった頃?? しかしそれであのころなにが一番問題視されていたのだったのか記憶が掘り起こせない・・
No.470 - 2012/09/26(Wed) 02:50:11

いつから? / 水上雅敏
そもそもいつから心のつながりが大切、・・と言われ始めたのか??
No.469 - 2012/09/26(Wed) 02:40:20

依存の義務化 / 水上雅敏
「秋葉原事件は止められた」加藤智大の手記から読み解く、現代社会の生きづらさttp://news.livedoor.com/topics/detail/6984684/ を読んでの感想。

「――加藤は「社会との接点を確保しろと言われてもどうしたらいいかわからない」と書いています。今の話にリンクしますね。」(抜粋)

依存の義務化が加藤を追いつめた? 「許されたことは義務化される(ラカン)」・・いつからか依存が許されさらに義務化される社会になってしまったということか。

ここの中島氏の論も、まだ、人はつながれる、と思っているところに難点を感じる。人と人との心は結局つながりあえないのだ、というところから、論なり、社会なりを作りなおしたほうがいいのではないか・・。人と人との心はつながりあえる・・というイデオロギーを本気にとっていたから上原美優もつながりをあきらめきれず、あるいは、そうできない自分に罪悪感を抱いて自殺においこまれたということもあったのでは?

No.468 - 2012/09/26(Wed) 02:13:35

教室で高機能自閉症者にありがち?な行動 / 水上雅敏
>しかし、俯瞰ばかりする位置だと、自我を支える対応物たる鏡像が無いから、対応する父なる存在の想像を置く(消したくもあり存在して欲しくもある権威者の想像)・・ということが、自閉症者が教室で、先生に攻撃的になったり、別の先生には従ったり・・という態度を見せることとも対応しているのではないか、とも考えます。(463より)

担任の席に座ったり、教室の前にふらふらと出て行ったり、という担任との同一化をうかがわせるような行動が高機能自閉症者にはありがちなのかなと最近感じてきています。じゃあ、そういう先生の言うことを聞くかと言うと聞きません。言うことを聞くことは、生徒の位置に落ちることになり、担任との同一かが崩れるからでしょうか?。これも同一化を通してまわりの状況を俯瞰でき支配できる位置におこうとする手段とも仮説化できるように思います。

どうするか?

先生同士が互いに尊びあう姿を見せて、誰がボスかわからない、担任がボスかと思ったらそうでもない、校長も他の先生を尊んでいる、というような姿を見せて、ボスに同一化しようとする傾向に肩透かしをくらわす・・、というのがひとつ考えられるかも知れません。ついでに、先生同士の間では(また先生対生徒、生徒相互の間も)、言葉を通して、論理的な対話が為されている、というのを見せられれば、人々の上に、言葉や論理がある、それこそがより上位のものなのだ・・、とそういうのも見せられれば、少しはよいかもしれません。そんなに簡単にいくとも思えませんが、色々考えてみるしかありません。

No.467 - 2012/09/24(Mon) 01:53:14

なぜ低いほうに音程がはずれるのか / 水上雅敏
たいしたことでもないと思いますが、歌の音程が全体的にはずれるとしたら、微妙に低いほうにはずれたまま歌う歌手が多いのはなぜ? もともと歌で要される音程が、声帯にとって無理に高いほうにあるからとか? しかし、自分の耳で聞き取ってそのへん調整できないものか?
No.466 - 2012/09/20(Thu) 16:14:02

フォルト・ダーのコンスタティヴまたパーフォマティヴな側面 / 水上雅敏
フォルト・ダー(ないーある)という2音素。あるーない、とは言え、そのセットは無の象徴化であるとすると、「ない」を基本的に意味している(「ある」と「ない」はその分化)と言えるのではないでしょうか? 

他方、「フォルト・ダー」は聴覚というもっとも消失しやすいメディアでできているのみならず、対立させられ=互いに消失させあわされている、ということからは、この2音素自身が「ない」「無」の犠牲になってもいるともいえる。

その意味では、フォルト・ダーは、無のコンスタティヴであると同時にパーフォーマティヴな表現といえるかもしれません。

分析においても、コンスタティヴのみならず、パーフォーマティヴであるような解釈が出来ればと思いますが(パーフォーマティヴだけでいいのか、コンスタティヴである必要がむしろどのようにあるのかも問題ですが)、なかなか難しく感じています。しかし、このように見ると、意外とそういう解釈はもっとありうるのではとも思います。無論、セッションの中断という明らかにパーフォマティヴな解釈があることはありますが、もっと別の局面でのそういうものです。

ちなみに、「フォルト・ダー」が万人に、コンスタティヴでありまたパーフォーマティヴ(それら音素自体も、消失していく無にさらされたものであるという)である意義をもって幼児期に演じられてきたか、というとどうなのでしょうか? たとえばアンネ・ラウなどはどうなのでしょうか。「ない」が単に、知的に学習したコンスタティヴな「ない」にすぎず、実際のところでは受容されていない・・・、だから、「言葉が全てを言い切れずに消失してしまうがゆえに更に言葉をついで無を象徴化していこうとする動き」が進まない・・、それが、アンネ・ラウの、自然にではなく全てひとつひとつ考えねば物事を進ませえない感覚となっているのではないでしょうか?  (そもそも、ラウにフォルトーダー的なものが発生したのか、あったとしたら、いつどのようにパーフォマティヴ性がそこから奪われたのか・・も興味深いですが)

また、こちらの心にも響く声や抑揚で歌を歌ったり語ったりする人、というのは、フォルト・ダーがパーフォーマティヴにも言えていた人、ということではないでしょうか(人為的にそのように模倣することもできるかも知れませんが)。また、それはこちらの単なる想像的な印象というだけでなく、その声の抑揚の変化のしかたなどにおいて、数学的に、何か自然な消失のカーブが描かれている、などのことはないでしょうか・・? 

No.465 - 2012/09/20(Thu) 14:48:58

高い分析の料金の利点と欠点 / 水上雅敏
一般に、分析の料金は高いな、との印象をもたれると思いますが、その利点と欠点を考えてみました。

高い料金の効果
・これほど払っているのだから、ともかく思い浮かぶことは制限せず語らないと・・という切迫感、真剣な自由連想への動機付けを与ええる。
・生活が少し苦しくなるほどの料金設定をする(→これが料金設定のひとつの目安、どなたかが書かれていましたが)ことで、遊ぶ余裕がなくなり、仕事か分析かの生活となり、禅で言えば作務か座禅かのみというのと同様の、集中を高めえる効果を持つ。
・支払いのために、さらに仕事をしなければならなくなる、という状況自体が仕事へこころを開かせてくれる。
・分析への支払いは、金という肛門愛的なものを、自由連想と言う言葉へと昇華することにも通じてくる(か??)。さらに、同じ自由連想をしたとしても、より高く支払えば、事後的に、より多くの肛門愛衝動を言葉へと昇華させたことになってくる(か??・・ここは不明)

・高い料金の欠点・・これだけ高い分析をうけている私、という空虚なプライド、特権意識が強まってしまう(そこをさらに崩しえる分析ができればよいが・・あるいは、料金を低下させるしか解決はないか??)。あるいは、ここまで支払ったのだから、意味がないはずがない、・・というところに分析の価値を見出してしまうとか、ここまで支払ったのだから後へはひけない、更に続けていこう(宗教への高額のお布施を続ける人のように)・・というだけで余りよくない分析家の分析も続けていってしまう(どんな分析家あいてでも、分析が進まなくはない、と・・ラカンがどこかで確か書いていたと思いますが、それにしても、自由連想をより阻害しない分析家のほうがいいとは思います)。

No.464 - 2012/09/20(Thu) 14:01:23

合同式あるいはプロセデフェティッシュと自閉症 / 水上雅敏
自閉症の構造を、合同式(例えば、6進法の時計の上で巡回させると、4≡10(mod6)で、10は4と合同=針が同じ位置に来るとかの数学)フェティッシュという視点から考えているところです(つい先ほどの思い付きにすぎません)。あるいは、もう少し、言語的で時間系列のある類似物(合同式のように循環するという意味で)として思いつかれたのは、プロセデ(ルーセルの:始まりと終わりの文を少し変えて、その間に色々文を膨らませる技法)フェティッシュという視点。フェティッシュと言うのが適切かどうかはわかりませんが、排除でなく抑圧でもない(??)としたら、それくらいしか思い当たらなかったため、という程度の思い付きです。こういう閉鎖性によって、現実界を排除させている、しかもまだ性器性愛的なものが関わっているとも言いがたい?、という意味では、フェティッシュと言うより、躁うつ病の結び目(現実界を排除している)のほうがより似た構造なのかも知れませんが・・。前者(合同式の件)の仮説は、素因数分解の特異な双子のイデオ・サバン(自閉症、精神病、精神遅滞などさまざまな診断を受けていたよう)についての、サックス(『妻を帽子とまちがえた男』)による考察を参考にしています。ちなみに、ラカンの「盗まれた手紙〜」の中の「括弧の中の括弧」での形式化(1、0、(0000)010とか使って語られているもの)では、記号の時間系列の中に鏡像関係が語られているようでもあり、これを応用すると、自閉症者の思考の形式化
もしやすくなるのでは、とも考えています。

ともかく、自閉症者は、こういう工作によって、言葉に流されてどこか分からないところにどんどん連れて行かれる、という動きを「先取り」して、せき止めて、自分が言葉そのものも俯瞰する位置にたつ(始まりと終わりも視野に入れられるように:時間を、循環的な図像−あるいは限界のある線分の場合もあるでしょうか??―の中に閉じ込めるかのように)、ということをやっているのではないかな、とも考えます(分裂病者との違いをここで見出さねばなりませんが)。その分、その循環的な世界の外や、線分の終わりの先は、何もないように感じて、自閉症者も「世界没落体験」をときに持つのでは(あるいみ、それが、完結しきった文の句読点がわりとして、本人にとっても都合のいいものとして)とも思いましたが、実際持つものかどうか知りません。

しかし、俯瞰ばかりする位置だと、自我を支える対応物たる鏡像が無いから、対応する父なる存在の想像を置く(消したくもあり存在して欲しくもある権威者の想像)・・ということが、自閉症者が教室で、先生に攻撃的になったり、別の先生には従ったり・・という態度を見せることとも対応しているのではないか、とも考えます。

あと音をこわがる、嫌がるということが自閉症者にはあると思いますが、これは何故なんでしょう(少数しか密に関わったことありませんから、普遍化できないでしょうが、出会ったケースで言う限り、声というより、特定の?音を嫌がっていたのが目立っていましたが―運動会のピストル、や授業のチャイム―。)? 単に脳の過敏さ、ですむかもしれませんが。しかし、彼らにおいては、上記のように連鎖による意味形成の明滅の自然な流れが許されないぶん、一瞬一瞬がきれぎれになっていて、そこで感じられる感覚が強く、つまり、その感覚の一つ一つに想像的同一化を強く向けることになる、・・というようなことでもあるのでしょうか? 他方で、滝の音の中に気持ちよさそうに浸ることなど見せる子もいました。意味連鎖からの解放の手段として音(滝の音とかホワイトノイズ的な無意味な音)はやくだってくれるとともに、そうしようとすることが、また、音への過敏さを呼んでしまっている、ということなのでしょうか(本人たちの作った法則を崩す、とか、俯瞰的な支配者てきな位置を崩す、という意味では、特に、唐突的な音とか、命令的な音−ピストルもチャイムもそうですが―がまずいのでしょうか??)?? 

No.463 - 2012/09/16(Sun) 13:59:55

ちょっと不思議な体験 / 水上雅敏
高卒して田舎から東京に出てきた頃「最近よくあるな」と感じていた体験。それは既視感。しばらくそういう時期が続いたように覚えます。
まあ、田舎では、全てが実際既視で、既視感を感じれるほどの目新しい対象の出現はそんなになかった、というだけかもしれませんが・・。私だけそうなのか??

No.462 - 2012/09/16(Sun) 02:21:11

初耳です / 水上雅敏
たしかに興味深いことです。
ということは、何か、花村氏と渡辺氏に、共通項なり、あるいは逆に対照的・対称的なものが奥様方に見られていたということでしょうか?
もちろん、花村氏と渡辺氏、分裂病についての研究が多いとかはありますが、それ以上のなにか、・・が。
また両氏の関係も関わってくることでしょう。

双子は、似た人に惹かれるのかどうか、が話題になることは多いですが、別に花村氏と渡辺氏がどうこうというわけではありませんが、双子に惹かれる心性とか、双子を研究したくなる心性の構造はどんなものか、も考えてみたく思います。

No.461 - 2012/09/16(Sun) 00:12:07

(No Subject) / 藤田博史
大変興味深いことに精神科医の花村誠一氏と渡辺哲夫氏の奥様同士がたしか双子の姉妹であったと思います。
No.460 - 2012/09/15(Sat) 23:37:10

双子の相手のドッペルゲンガー / 水上雅敏
>一卵性双生児の人たちは、ドッペルゲンガーをどのように考えているのでしょうか。

なんだか複雑なことになりそうですね。
双子と精神疾患については、花村誠一氏が時々書かれていたな、という記憶があったので、調べてみました。こういうのがありました。

「これはまったくの偶然であるが、私が担当した初発事例のなかに、ある一卵性のふたごの姉妹例が含まれていて、ほとんど例外的ともいえる濃厚的な治療関係が結ばれた。発端者つまり私の患者は、私を生来親密な間柄にあった対偶者と二重写しするようになり、そのせいもあって、いったんは予想外なまでに良好な寛解状態に達する。わすれもしないあのできごとは、再発シュープのさいに生じたもので、患者はある日、治療者と対偶者を同時に否認する人物誤認を呈し、一挙に、私を「脱殻」ないし「分身」扱いし始めた。これは私にとって、眩暈にも似た感覚を引き起こしたが、患者のほうはといえば、こういう人物誤認が色あせてからも、私との治療関係が安定せず、病像もしだいに慢性化していく。」(『中核ないし解体型における分裂病性記号過程』「分裂病論の現在」弘文堂に所収)

前半は、自分のドッペルゲンガーというより、双子の相手を2人みていた、ということのようですね(治療者に分身させて)。

ここで、少し考えて見ると、その時には寛解状態であったということは、もしかしたら(もしかしたら・・でしかありませんが)、その2人(双子のあいてそのものと、治療者にみたその分身)は、同一でありつつ、また、どこか相違(逆転しているとか)ももっており(ひとりは家にいて、その分身は花村氏として病院に居て・・という程度の相違でもいいのかも知れませんが)、その2人それぞれに対して、同一化を行き来させて、どちらにも一致しすぎないように(一人の人物に、想像的同一化の愛憎が集中して強まりすぎないよう)して自我を保てていたのではないかな、とも仮説づけられるようにも思います。

後半の、「治療者と対偶者を同時に否認する人物誤認」とはどういう否認で誤認か、「分身」とは患者自身が感じた自分のドッペルゲンガーなのか、あるいは花村氏の主観として患者に同一化を向けられているなという感覚なのか、また「脱殻」というのもよくわかりませんが、上記のような2人に分割する方略が保てなくなって、自分と治療者で直の想像的同一化が始まり―その分現実界もより接近しており―、その間で、相手を無にしたり、相手=自分を取り戻させたり、ということが始まったということなのでしょうか・・。

No.459 - 2012/09/15(Sat) 12:09:42

ドッペルゲンガーといえば・・・ / 榊山裕子
わたしが通っていた中高一貫校には、教育上の方針からか、双子枠と帰国子女枠があり、
一学年に何組かの双子や三つ子がいましたが、それぞれクラスは別でした。そんなわけで、
たとえば、音楽室で授業を受けた後、一早く音楽室を出て、教室に戻ろうと廊下を足早に歩いていると、
さっき同じ音楽室にいたはずの人が向こうから歩いてくる、というようなことが起こる。
一瞬、えっ(驚愕)?・・・その人は一卵性の三つ子の一人でした。
わかっているはずなのだけれど(ゆっくり考えれば別の人だということはわかるのだけれど)、
瞬間的に、不意打ちのような驚きに襲われる。
思い返してみると、当り前のように、そういうことが起こっていましたね。

ちなみに、アーティストでは、クエイ兄弟という一卵性双生児のアーティストがいます。
主に人形を使ったドッペルゲンガー感溢れる(?)ストップモーション・アニメーションで
なつかしくも不気味な映像作品を作っています。
現在、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で展覧会を開催中です。

ttp://www.bbc.co.uk/news/entertainment-arts-19409965

一卵性双生児の人たちは、ドッペルゲンガーをどのように考えているのでしょうか。

No.458 - 2012/09/10(Mon) 23:57:31

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