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<カフェ・フジタ>

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(−)×(−)と言葉の弁証法 / 水上雅敏
声を浮かび上がらせるには、例えば、母音だと、2つのフォルマント(異質な周波の波)の結合ということになるが、換言すれば、波と波の間ということで波の無いマイナス(−)の部分として比喩できると考えます。

すると、「オー・アー」は(−)×(−)として表すことが出来ると思います。これが(+)になることは、2つの対立があって初めて知覚意識が発生する(=オー・アー、という、いわば「存在」として感じられる)ということとも対応していると思います。

言葉をこういう対立の弁証的進展として考えると、((−((−)×(−)))×(−((−)×(−))))×・・・
の進展として考ええると思います。

この「×」を、もうすこし言葉の何に対応しているのか(足し算で考えられないか)、はもっと考えたいところですが(比喩と言う以上に何か言えるように)。対数やゼータ関数などにつなげて考えるとより実態にあう何かが導き出せるか、・・とか。

No.656 - 2013/12/08(Sun) 13:23:37

話し言葉の文字数が瞬時にわかる男 / 水上雅敏
探偵ナイトスクープ 話し言葉の文字数が瞬時にわかる男 ttp://www.youtube.com/watch?v=rVfNknQfbaI

リズムでわかるらしい。話された文を適宜区切って、リズムでわかったものを足しているようですが、足し算自体も速いような・・。階段も数えたくなる癖がある、と、多少強迫的な心性もあるような。

自分が話した言葉の文字数もすぐわかるのかに関心がありましたが、それは実験しなかったよう。自分で話しつつあるものがリアルタイムに、あるいはせいぜい、ある程度の瞬間的時間以内にメタの眼で分析されることが出来るのか、を見たかったのですが。

No.655 - 2013/12/08(Sun) 03:29:14

差異化から論理や文法への道筋 / 水上雅敏
パロール以前に論理があった、と考えると、論理を実在化しすぎなのでしょう。多分、最も合理的節約的に、お互いの間で声や声の連鎖が同一化しないように差異づけようとする動きが、あたかも、論理が最初からあったかのように―実はそうではないのに―論理を発生させているのではないか、と思います。それぞれの国語の文法もその動きを支えるために発生したものかと。その辺の発生の仕方を考えてみたいと思います。
No.654 - 2013/12/07(Sat) 04:00:04

子供を神だと仮に考えてみる / 水上雅敏
「子供をほめるのは難しい」、「どうほめ、どう叱るか」・・という相談をスクールカウンセラーなどしてるとよく受けますが、ここで子供を仮に神だと思ってみます。すると、神をほめるとかしかるとかいう話になり、いかに上から目線であったか、がよくわかります。じゃあなんでも子の言うとおりにすべき、というのか、という話になりますが、すでに子供においても大人からの売り言葉に買い言葉というところでしゃべっているところもあるでしょうから、そういうところに反応するのではなく、重要なのは子供にも成り立っているはずの論理を敬う(子供にもすでに論理的な言葉の連鎖はあるはずと考えて、こちらも論理的に対話する)ということになると思います。
No.653 - 2013/12/07(Sat) 03:30:34

思春期が落ち着く、のはいつも良いことか? / 水上雅敏
多感な思春期、とか、疾風怒濤の青年期、とか言って、大人になればそういう揺れは落ち着くもの、というふうに考えられて、たしかに通常そうなりがちですが、その落ち着きがあるいは欲望の放棄、要求の往来でなりたっている世間への屈服ではないか、と考えてみる必要はあると思います。いわゆる職業的アイデンティティーを得て解離を完成させただけではないのか、とか、他国の排斥運動に乗っかって、あるいは大人や親というアイデンティティーを得て、実は自分の見たくない欲望を他者(他国の人々や子供)に投影して仮の落ち着きを得てしまっただけではないのか・・とか。
No.652 - 2013/12/07(Sat) 03:22:03

星の信仰の抑圧 スサノオによる妙見神の殺害? / 水上雅敏
秩父の夜祭もおわり何日かたったという時期でしょうか。
調べてみると、あそこは妙見信仰なんですね。

夜祭から興味が進んで色々探ってみて、途中は端折りますが、古事記は妙見信仰を抑圧したのではないか、それは、妙見祭りが太古は乱交の機会で在っての風紀の乱れから禁止されたとか(これは事実あったようですが)、それが朝鮮から(あるいはアイヌからも?)来た信仰であって、朝鮮やアイヌの存在を、あるいはそこから由来するものを抑圧したかったから(大和朝廷の統一に邪魔になるから?)ではないか、とか、色々考えてしまいました。いわば星の信仰の抑圧。

さらに、ここからはかなり勝手な信ぴょう性の薄い推察ですが、スサノオの殺したやまたのおろちは妙見神あるいはそれを信じる集団だったのではないか(妙見神も剣を持っている(やまたのおろちからも剣が出てくる))とも考えました。乱交とも関係あるのかも知れませんが、どこかで、妙見信仰の流行と人身御供の話の出てくる時期が同じ、という話があります。スサノオはおろちを殺しておろちに御供される娘を救ったわけですので、そう考えました。妙見神は通常亀(玄武??)に乗っているわけですが龍にも乗ったものがあるとかetc.などもそれを支持します。そしてスサノオは「結婚」を初めてした神らしいですが、そこにそれ以前に乱交が対置されるとすると考えてもそこに妙見信仰があったのではないかとも思われるわけです。

妙見信仰が北極星(あるいは北斗七星?)を中心とする一神教??だと考えると、今は一神教を抑圧して、多神教(とは言ってもアマテラス中心のヒエラルキーがあるのでしょうが)になっているということでしょうか。と言っても、妙見神が北斗七星だとすると7つ星が在るから一神教とも言えないでしょうが。

No.651 - 2013/12/07(Sat) 01:49:20

修正 / 水上雅敏
>自分の体が勝手に発声した一音素、と、母からの声の一音素(とは言っても、これも既に子供が再構成して母の声として認識したものであり、現実界の母の声と一致しているとは限らないが)、の相対化。事後的に、「どうも一方には、自分の喉の運動との連動は感じられるが、他方には感じられない」とされる、そういう段階がフォルト・ダー以前にあるのではないか(もしかしたら大人にとっても常時、微妙なかたちで)。

しかし、この前者のほうの相対化だって、それができるのは、後者(通常のフォルト・ダー)ができてこそ、ということもあるから、これらの発生は同時的と考えるべきかもしれない。

No.650 - 2013/11/28(Thu) 12:08:45

タナトス / 水上雅敏
想像的同一化というのは誤解であり、無理のあること(ばらばらの身体にとって統合像は不自然で無理)だから、それを崩して無へと向かいたくなる、というところからの動きがタナトスなのか、あるいは、より積極的なタナトスの動き(想像的同一化がどうであろうと無へと向かう傾向が独立して能動的に在る)を考えるべきなのか・・・。
No.649 - 2013/11/28(Thu) 04:29:33

神経の情報伝達は、電気ではなく「波」? / 水上雅敏
興味深い。

「新説:神経の情報伝達は、電気ではなく「波」」
「神経は、電気によって細胞から細胞に情報伝達すると考えられているが、ニールス・ボーア研究所の研究者が、この理論を覆す新説を発表した。物体の中で音波が反響するように、圧力の波が細胞に伝わっているというものだ。」
「電流は神経が機能する際に副次的に発生しているだけにすぎないという。ちょうどパイプ状の物体の中で音波が反響するように、神経は強い圧力の波を伝えているというのだ。」

ttp://wired.jp/2007/06/14/%E6%96%B0%E8%AA%AC%EF%BC%9A%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E3%81%AE%E6%83%85%E5%A0%B1%E4%BC%9D%E9%81%94%E3%81%AF%E3%80%81%E9%9B%BB%E6%B0%97%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%80%8C%E6%B3%A2%E3%80%8D/
より抜粋

原文
ttp://www.wired.com/science/discoveries/news/2007/06/nerve_communication

No.648 - 2013/11/23(Sat) 11:46:26

自分の声と他者の声の原型的音素セット / 水上雅敏
自分の体が勝手に発声した一音素、と、母からの声の一音素(とは言っても、これも既に子供が再構成して母の声として認識したものであり、現実界の母の声と一致しているとは限らないが)、の相対化。事後的に、「どうも一方には、自分の喉の運動との連動は感じられるが、他方には感じられない」とされる、そういう段階がフォルト・ダー以前にあるのではないか(もしかしたら大人にとっても常時、微妙なかたちで)。その後に、今度は自らの喉の運動を使ってその声を出してみようとする能動性を得ることになる段階が来るのだろうけど。

そう考えると、(運動感覚と連動された)自分の声の原型的音素と、(運動感覚と連動されていない)他者の声として判断されたところの原型的音素のセットが記憶にやどっているのではないか。そこにさかのぼってていこうとするような解釈は、他者と自己の原型的差異、去勢に導くことができるのではないか。

ヒステリー者に時にある、内なる自分の思いか外からの声かわからないような幻聴は、そういう去勢の抑圧によるのではないか。

No.647 - 2013/11/23(Sat) 03:47:13

「叩く音」の意義 / 水上雅敏
某番組でのSM女王様の言葉。「むちは、音が快感なのです。打つ方にも打たれる方にも」。

叱られかたにはいろいろあるのに、なぜ「子供が叩かれる」なのか。また、なぜドラはK氏にビンタだったのか、と疑問だったのですが、以上の言葉は示唆的です。

ここでの音とは何か。

「フォルト・ダー」であれば、人間的な言葉の連鎖にも連結しそうな2音素対立で、また、主体が能動的に発するものであり、糸巻の投げ戻しはこれに従属的に行われ、また、糸巻の視覚像もやはり従属的にベッドの輪郭を境目として在・不在するわけですが、「むち」の音のほうは逆に、能動的に行われる動作や映像的変化(叩く姿)に従属的に鳴るものであり、また、人間的声ではないかたちに還元された一音素とも言えそうに思えます。「叩く音」の心理的重要性はそういうところに起因するのでしょうか? 換言すれば、「フォルト・ダー的対立項の隙間の顕現」、「対象aのサンブラン」的な意義が「叩く音」にはあるということでしょうか? 視覚的には一部の倒錯者や神経症者が「輝き」にひかれるのに対応したような。さらに換言すれば、これは、言葉としてのシニフィアン連鎖を崩して消去された主体(S barre)を生の主体(消去されないS)として復活させようとするようなサド的構造にもつながることでしょうか?

No.646 - 2013/11/23(Sat) 03:12:58

母子間のフォルト・ダー / 水上雅敏
言葉が弁証的に進む、ということは、そのつど、鏡像側の論理に次々に移っていることだとすると、そもそものフォルト・ダーも、母と子の間の一音素づつのやりとりに端を発しているのではないか(で、フロイトの言う、フォルト・ダーはその母子関係を子供が一人で演じているということ・・・。と言ってしまうと、想像的関係のさらなる丸め込み、と誤解されてしまいそうなので、正確にいうと、かつての母子関係をさらに追いやる、という現実界への近づきに応じて、独りでこの2音素を相対化して発声できるようになった、ということ。)。
No.645 - 2013/11/10(Sun) 15:23:25

波動の相対化の前提条件 / 水上雅敏
聴覚的波動を相対化し声を聞きとることができることは、自分の発声運動が相対化(のどの運動と声の相対化)できることも前提なのかどうか?

喃語的な発声の試みがなくても、子供は環境の言葉の音声を相対化して集積しておくことができるか?

No.644 - 2013/11/10(Sun) 14:05:41

言葉の進行の3局面 / 水上雅敏
@言葉の記憶。つまり、うなり(声)の間の差異(相対化)の集積。
A器官から入ってくる波と、それを振り返る波の間に起きるうなり(声)。
B@を遡及的に振り返っての、次に来る可能性あるいくつかの言葉の予期。
(現実的な時間としては、Aが一番最後だが、幻想に応じてBがAよりより未来のものとして順番づけてみた)

Bにおける予期はAにおける実際の波によって、ハズされたり、ハズされなかったりするが、ともかくそうして結局聞き取られたうなり(声)が@の位置に来て、これが循環して言葉の聞き取りが進む。最初の@がどう作られるか(A、Bがまだ全くない時に先行的に)、という問題はあるが、@ABが常にすでに在る、と考える方法もある。

一番今わからないのが、Aの「振り返る波」がどういう角度でどう入ってきているのか、それは本当に波といっていいのか、ということ。

No.643 - 2013/11/10(Sun) 13:31:34

八本足の蝶 / 水上雅敏
東大寺の八本足の蝶。
まさか、「失錯」でもなかろうと思い、色々しらべたところでの今の結論。途中をはしょりますがとりあえず、平家の血をひくものがひっそりと忍ばせた平家供養ではないか、ということ。

お水取りで読み上げられる過去帳の中の「青衣女人」も。

No.641 - 2013/10/27(Sun) 02:12:08

二重否定の中断と夢 / 水上雅敏
思考や言葉の「中断」が症状なり、失錯行為なり、夢として回帰してくる、というのは周知のことでしょう。
2重否定の中断というのが特別な意味をもちうるのかわかりませんが、いくつかのケースで報告された「他者と言い合いをする夢」までの経過を概観すると、次のような共通項が多少ともありえるのではと思われてきました:

@自由連想において個人あてではなく一般他者に向けた形で他責的・要求的な信念を言う。例えば「愚かな人間は見たくない」(実際のケースの言葉でなく、いくつかのケースの共通項から私がみつくろった例)と言う。
Aのちの回にて「「愚かな人間は見たくない」とは言わないが・・」と二重否定が中断された((i)言わない、が最初の否定(ii)が・・が中断された二重目の否定)言葉を言う。
Bさらにのちの回までに、”自分自身が別の人間に「愚かな人間は見たくない」と言われ、逆らう言葉を返す”、という夢を見る。(そして分析の終盤にさしかかる)

夢では、Aで中断された2つの言葉が夢見られている、ととりあえず考えられるでしょう。2つの言葉とは:

まず、「愚かな人間は見たくない」と言う言葉。(中断と言うより否定か。−「見たくないが・・」の、「が」による否定。しかし、「が・・」の「・・・(←やはり見たくない、が入るはずの・・・)」のほうをとると、「愚かな人間は見たくない」が中断されているとも言える。夢がどちらの反映かはわからない)。

もう一つ中断された筈の言葉として、「とは言わないが・・」とためらわせる元となったはずの言葉が考えられます。それは、「そんなことを言ってはいけない」かもしれない。あるいは、「愚かな人間は見たくない」と言われる位置に自分をふと置いてしまって一瞬出てきたさまざまな逆らいの言葉(「そんなこと言うな」「お前こそ見たくない」etc.)かもしれません(後者が出ている場合がこれまでのケースからは多かったような)。(ちなみに、フロイトによると、夢で音声的に聞いた言葉は、以前実際に言ったり聞いたりした言葉である、とのことですから、これもどこかで聞いたり言ったりした言葉ではあるのでしょう)

分析の進展に沿ってまとめると、他者に要求がましい自分のその要求の基準はやはり他者から受けたはずのものであって、その他者の位置に最初は同一化していたが、自分もそう言われる立場になってみることが多少できるほどにはその同一化からは離れ得たがまだためらいがあり(Aの時点)、その後さらに離れることができたと同時にこの夢を見た(要求を言う立場と、言われる立場の二項を、それらから多少離れて相対化して見られた。言われる自分には多少同一化しているが)、ととりあえず考えられるように思えます。他者に要求しまた要求される位置から離れて欲望を生きる方向(他者の要求の無い、道なき道)に動き出す最後のところでこの夢を見たものと言えそうです。でもなぜわざわざこの夢を見たか。「夢は欲望充足」の視点から解釈すると、欲望の方向に最後の一歩を踏み出すには、「私は他者から嫌われ、逆らって出ていくのだ」という形にいったんしたい、そうでないと腹が決まらない、というのがあったのではないかと推測します。

興味深いのは、別段夢を報告しがちではないケースでも、こういう夢は報告されたこと(されないままにいる場合もあるのかもしれませんが)、また、自由連想ですでに言われた言葉が題材になっていることです。なぜこの夢は報告されたかを考えると、それはそもそもが、それまでの自由連想で言おうとしてためらって言えなかった言葉だから、ということかも知れません。ちなみにここで、では何らかの分析家側からの介入で自由連想で言わしめていたなら(たとえば、「「が・・」と中断されましたが、言い切るのにためらわせる思いがあるのですか?」などと分析家が問うて、本人が「私がもし言われる立場なら、こんな逆らう言葉を言いたくないますから(と言って例を挙げ始める)・・」など言うとか)、この夢を待つまでもなくより早く分析を進展させえていたか、と問えるように思えます。それはわかりません。そうしたとしても、常に多少とも抑圧はかけるでしょうし、そもそも分析で言い尽くすことは出来ないから、その分がやはり夢に出ることになるかもしれません。

考えてみたいのは、そもそもの「愚か者は見たくない」という言葉が、一般他者・不特定多数に向けられたものであるからこそ、また、それが自分にも向けられたものとしてこういう夢を見やすかったのではないか、ということです。特定の人に向けられたものであるなら、その人相手に固定しやすく自分に向け返されにくいのでしょうが(それでも鏡像的に自分に向け返されるものにはいずれはなりましょうが)。しかし、実のところどちらが夢になりやすいかはよくはわかりません。ちなみに、「他者/自分=自分/(他者+自分)」という黄金比の式(右項のほうから言うと、”自分が、自分や他者を見る見方(自分が「愚か者は見たくない」と言う)は、他者が自分を見る見方である(他者から、自分が「愚か者は見たくない」と言われてしまう)”が思い浮かびます。件の夢の背後には、そういう数学的必然性も考えられるかも知れません。

二重否定の中断以外なら、どういう夢を見るだろうか、と問うこともできると思います。
・例えば当該の例でいうと堂々と「愚かな人間は見たくない」で終えていた時期はどうだったか? そのあとにこれに反する言葉がチラついて中断したのではない限りは、そういう言葉(反する言葉)の夢は見ていないのではないでしょうか。こういう時期は、むしろ覚醒時の症状として、自分が愚かに見られないように、ととても気にする、と言う形で出る可能性が高いのではと思われます(ケースからも実際そうであるようにも思われます)。
・一重否定の中断だとどうか。例えば「「愚かな人間は見たくない」と言いたいが・・(「「お前こそバカだ」などと言われそうで言わない」、などと続くのでしょうがそこは中断している)」。これだと「お前こそバカだ」の言葉は夢の中で現れえるかも、とも思います。では、ここで二重否定の中断を特別にとりだした意義があるか? あるとすれば、この一重否定の中断ならば、まだ、「〜見たくない」と言っている要求がましい他者側に同一化しているが、「「〜見たくない」とは言わないが・・」という言葉や件の夢はより同一化から離れえたことを示す分析の進展の指標になりうるかも、ということでしょうか。

もう一つ興味深かったのは、あるケースではこういう夢を見たのがそれを報告したセッションの朝ではなく、何日か前の、本人にとっては時の経過や喪失を強く意識させるある種の記念日であったことです。これをどう考えるか。精神分析が現実界と日常以上に直截に出会う場であったとしても、こういう記念日もそのケースにとってはそういう瞬間だったのかも知れません。これまでは、ケースはこの記念日に出会うときには常に「愚か者は見たくない」と言われないようにしようという想像的な思いを新たにしようとしていたが、今回は、それまでの自由連想からまず「愚か者は見たくない」と語りさらに多少とも弁証的に進めて、「「〜見たくない」とは言わないが・・」と言えた分、この記念日(現実界と言う穴のちらつき)に出会ったおり以前の想像的な思いに引き戻されずにむしろ欲望のほうに進め得た、ということでしょうか? そういう意味では、ここに、転移を通して、セッション外の問題も解決していく(セッション外の現実界も象徴化していく)という動きを見られそうでもあります。

こんな風にして、二重否定の中断のことを考えていると、そういうこと以外の被分析者の語りについても、色々センシティヴになってこれるようで、私としてはよいことです。文になかなか句読点を打たずに、次に否定をしつつ、それもまた中断して、文を行き来させているな、こういう人はどんな夢を見るのか、・・など色々考えるポイントも増えてきます。

No.640 - 2013/10/22(Tue) 15:22:43

より無を象徴化できる形式とは / 水上雅敏
オー・アーと糸巻の在・不在(消失、出現)からさらに、なるべく瞬間的、なるべく希薄、なるべく今までにないもっとも予期をスカすような意外な組み合わせ(無意味なランダムというより黄金比的なすかし方の)を求めつつ私たちは進んでいるのか? 無をより象徴化するために。
No.639 - 2013/10/11(Fri) 02:45:14

シカと羊 角を共通項として / 水上雅敏
日本で鹿が神なり神の使いとされるのは、ユダヤ教の羊から来ているのか?
角を共通項として。

ラカンのDes Noms-du-Pere のAbrahamがIsaac を犠牲にするあたりの話(98−99pp)で出てきた羊についてのくだりを読んだときに思い浮かんだことです。

ちなみに、
ttp://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n85076
「一人子を捧げよ、は諏訪大社にもあった。雄羊と鹿の身代わりは武士道のすすめ?」

トンデモ・・と感じられるところも多いですが、しばらく山口に住んでみて山口のいくつかの寺社は古代キリスト教的な伝統とつながってるのではないか、とも思っていたところなので個人的には全く笑い飛ばすわけにはいかない部分もあります。

No.638 - 2013/10/11(Fri) 02:30:34

聴覚領域だって不在は不在でしかないわけですが・・ / 水上雅敏
>しかしそうすると、糸巻ではまさにその不在でしかなかった「不在」も音素においては「アー」として象徴的に表現され得る、という音素なりの優位性が薄らぐようでもありますが

まあ、音素でさえ、そもそも音素間の隙間を問題にして見ると、それももまさに隙間でしかないわけですが・・。

No.637 - 2013/10/11(Fri) 00:00:05

言葉の習得には最初から同一化の作業は無いのでは? / 水上雅敏 [地球外]
言葉の習得を同一化(ある意味を表すための言い回しをまず周りから学ぶ)から考えるより、むしろ、お互いの言葉は、最初から、遠感覚を通じて遠くからさえ同一化へとうっかりつれこまれかねない聴覚的領域においてできるだけ差異を作ろうとする営みこそが形成しているのだ、と考えられないか。
No.636 - 2013/10/10(Thu) 23:47:57

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