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<カフェ・フジタ>

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自分の声と他者の声の原型的音素セット / 水上雅敏
自分の体が勝手に発声した一音素、と、母からの声の一音素(とは言っても、これも既に子供が再構成して母の声として認識したものであり、現実界の母の声と一致しているとは限らないが)、の相対化。事後的に、「どうも一方には、自分の喉の運動との連動は感じられるが、他方には感じられない」とされる、そういう段階がフォルト・ダー以前にあるのではないか(もしかしたら大人にとっても常時、微妙なかたちで)。その後に、今度は自らの喉の運動を使ってその声を出してみようとする能動性を得ることになる段階が来るのだろうけど。

そう考えると、(運動感覚と連動された)自分の声の原型的音素と、(運動感覚と連動されていない)他者の声として判断されたところの原型的音素のセットが記憶にやどっているのではないか。そこにさかのぼってていこうとするような解釈は、他者と自己の原型的差異、去勢に導くことができるのではないか。

ヒステリー者に時にある、内なる自分の思いか外からの声かわからないような幻聴は、そういう去勢の抑圧によるのではないか。

No.647 - 2013/11/23(Sat) 03:47:13

「叩く音」の意義 / 水上雅敏
某番組でのSM女王様の言葉。「むちは、音が快感なのです。打つ方にも打たれる方にも」。

叱られかたにはいろいろあるのに、なぜ「子供が叩かれる」なのか。また、なぜドラはK氏にビンタだったのか、と疑問だったのですが、以上の言葉は示唆的です。

ここでの音とは何か。

「フォルト・ダー」であれば、人間的な言葉の連鎖にも連結しそうな2音素対立で、また、主体が能動的に発するものであり、糸巻の投げ戻しはこれに従属的に行われ、また、糸巻の視覚像もやはり従属的にベッドの輪郭を境目として在・不在するわけですが、「むち」の音のほうは逆に、能動的に行われる動作や映像的変化(叩く姿)に従属的に鳴るものであり、また、人間的声ではないかたちに還元された一音素とも言えそうに思えます。「叩く音」の心理的重要性はそういうところに起因するのでしょうか? 換言すれば、「フォルト・ダー的対立項の隙間の顕現」、「対象aのサンブラン」的な意義が「叩く音」にはあるということでしょうか? 視覚的には一部の倒錯者や神経症者が「輝き」にひかれるのに対応したような。さらに換言すれば、これは、言葉としてのシニフィアン連鎖を崩して消去された主体(S barre)を生の主体(消去されないS)として復活させようとするようなサド的構造にもつながることでしょうか?

No.646 - 2013/11/23(Sat) 03:12:58

母子間のフォルト・ダー / 水上雅敏
言葉が弁証的に進む、ということは、そのつど、鏡像側の論理に次々に移っていることだとすると、そもそものフォルト・ダーも、母と子の間の一音素づつのやりとりに端を発しているのではないか(で、フロイトの言う、フォルト・ダーはその母子関係を子供が一人で演じているということ・・・。と言ってしまうと、想像的関係のさらなる丸め込み、と誤解されてしまいそうなので、正確にいうと、かつての母子関係をさらに追いやる、という現実界への近づきに応じて、独りでこの2音素を相対化して発声できるようになった、ということ。)。
No.645 - 2013/11/10(Sun) 15:23:25

波動の相対化の前提条件 / 水上雅敏
聴覚的波動を相対化し声を聞きとることができることは、自分の発声運動が相対化(のどの運動と声の相対化)できることも前提なのかどうか?

喃語的な発声の試みがなくても、子供は環境の言葉の音声を相対化して集積しておくことができるか?

No.644 - 2013/11/10(Sun) 14:05:41

言葉の進行の3局面 / 水上雅敏
@言葉の記憶。つまり、うなり(声)の間の差異(相対化)の集積。
A器官から入ってくる波と、それを振り返る波の間に起きるうなり(声)。
B@を遡及的に振り返っての、次に来る可能性あるいくつかの言葉の予期。
(現実的な時間としては、Aが一番最後だが、幻想に応じてBがAよりより未来のものとして順番づけてみた)

Bにおける予期はAにおける実際の波によって、ハズされたり、ハズされなかったりするが、ともかくそうして結局聞き取られたうなり(声)が@の位置に来て、これが循環して言葉の聞き取りが進む。最初の@がどう作られるか(A、Bがまだ全くない時に先行的に)、という問題はあるが、@ABが常にすでに在る、と考える方法もある。

一番今わからないのが、Aの「振り返る波」がどういう角度でどう入ってきているのか、それは本当に波といっていいのか、ということ。

No.643 - 2013/11/10(Sun) 13:31:34

八本足の蝶 / 水上雅敏
東大寺の八本足の蝶。
まさか、「失錯」でもなかろうと思い、色々しらべたところでの今の結論。途中をはしょりますがとりあえず、平家の血をひくものがひっそりと忍ばせた平家供養ではないか、ということ。

お水取りで読み上げられる過去帳の中の「青衣女人」も。

No.641 - 2013/10/27(Sun) 02:12:08

二重否定の中断と夢 / 水上雅敏
思考や言葉の「中断」が症状なり、失錯行為なり、夢として回帰してくる、というのは周知のことでしょう。
2重否定の中断というのが特別な意味をもちうるのかわかりませんが、いくつかのケースで報告された「他者と言い合いをする夢」までの経過を概観すると、次のような共通項が多少ともありえるのではと思われてきました:

@自由連想において個人あてではなく一般他者に向けた形で他責的・要求的な信念を言う。例えば「愚かな人間は見たくない」(実際のケースの言葉でなく、いくつかのケースの共通項から私がみつくろった例)と言う。
Aのちの回にて「「愚かな人間は見たくない」とは言わないが・・」と二重否定が中断された((i)言わない、が最初の否定(ii)が・・が中断された二重目の否定)言葉を言う。
Bさらにのちの回までに、”自分自身が別の人間に「愚かな人間は見たくない」と言われ、逆らう言葉を返す”、という夢を見る。(そして分析の終盤にさしかかる)

夢では、Aで中断された2つの言葉が夢見られている、ととりあえず考えられるでしょう。2つの言葉とは:

まず、「愚かな人間は見たくない」と言う言葉。(中断と言うより否定か。−「見たくないが・・」の、「が」による否定。しかし、「が・・」の「・・・(←やはり見たくない、が入るはずの・・・)」のほうをとると、「愚かな人間は見たくない」が中断されているとも言える。夢がどちらの反映かはわからない)。

もう一つ中断された筈の言葉として、「とは言わないが・・」とためらわせる元となったはずの言葉が考えられます。それは、「そんなことを言ってはいけない」かもしれない。あるいは、「愚かな人間は見たくない」と言われる位置に自分をふと置いてしまって一瞬出てきたさまざまな逆らいの言葉(「そんなこと言うな」「お前こそ見たくない」etc.)かもしれません(後者が出ている場合がこれまでのケースからは多かったような)。(ちなみに、フロイトによると、夢で音声的に聞いた言葉は、以前実際に言ったり聞いたりした言葉である、とのことですから、これもどこかで聞いたり言ったりした言葉ではあるのでしょう)

分析の進展に沿ってまとめると、他者に要求がましい自分のその要求の基準はやはり他者から受けたはずのものであって、その他者の位置に最初は同一化していたが、自分もそう言われる立場になってみることが多少できるほどにはその同一化からは離れ得たがまだためらいがあり(Aの時点)、その後さらに離れることができたと同時にこの夢を見た(要求を言う立場と、言われる立場の二項を、それらから多少離れて相対化して見られた。言われる自分には多少同一化しているが)、ととりあえず考えられるように思えます。他者に要求しまた要求される位置から離れて欲望を生きる方向(他者の要求の無い、道なき道)に動き出す最後のところでこの夢を見たものと言えそうです。でもなぜわざわざこの夢を見たか。「夢は欲望充足」の視点から解釈すると、欲望の方向に最後の一歩を踏み出すには、「私は他者から嫌われ、逆らって出ていくのだ」という形にいったんしたい、そうでないと腹が決まらない、というのがあったのではないかと推測します。

興味深いのは、別段夢を報告しがちではないケースでも、こういう夢は報告されたこと(されないままにいる場合もあるのかもしれませんが)、また、自由連想ですでに言われた言葉が題材になっていることです。なぜこの夢は報告されたかを考えると、それはそもそもが、それまでの自由連想で言おうとしてためらって言えなかった言葉だから、ということかも知れません。ちなみにここで、では何らかの分析家側からの介入で自由連想で言わしめていたなら(たとえば、「「が・・」と中断されましたが、言い切るのにためらわせる思いがあるのですか?」などと分析家が問うて、本人が「私がもし言われる立場なら、こんな逆らう言葉を言いたくないますから(と言って例を挙げ始める)・・」など言うとか)、この夢を待つまでもなくより早く分析を進展させえていたか、と問えるように思えます。それはわかりません。そうしたとしても、常に多少とも抑圧はかけるでしょうし、そもそも分析で言い尽くすことは出来ないから、その分がやはり夢に出ることになるかもしれません。

考えてみたいのは、そもそもの「愚か者は見たくない」という言葉が、一般他者・不特定多数に向けられたものであるからこそ、また、それが自分にも向けられたものとしてこういう夢を見やすかったのではないか、ということです。特定の人に向けられたものであるなら、その人相手に固定しやすく自分に向け返されにくいのでしょうが(それでも鏡像的に自分に向け返されるものにはいずれはなりましょうが)。しかし、実のところどちらが夢になりやすいかはよくはわかりません。ちなみに、「他者/自分=自分/(他者+自分)」という黄金比の式(右項のほうから言うと、”自分が、自分や他者を見る見方(自分が「愚か者は見たくない」と言う)は、他者が自分を見る見方である(他者から、自分が「愚か者は見たくない」と言われてしまう)”が思い浮かびます。件の夢の背後には、そういう数学的必然性も考えられるかも知れません。

二重否定の中断以外なら、どういう夢を見るだろうか、と問うこともできると思います。
・例えば当該の例でいうと堂々と「愚かな人間は見たくない」で終えていた時期はどうだったか? そのあとにこれに反する言葉がチラついて中断したのではない限りは、そういう言葉(反する言葉)の夢は見ていないのではないでしょうか。こういう時期は、むしろ覚醒時の症状として、自分が愚かに見られないように、ととても気にする、と言う形で出る可能性が高いのではと思われます(ケースからも実際そうであるようにも思われます)。
・一重否定の中断だとどうか。例えば「「愚かな人間は見たくない」と言いたいが・・(「「お前こそバカだ」などと言われそうで言わない」、などと続くのでしょうがそこは中断している)」。これだと「お前こそバカだ」の言葉は夢の中で現れえるかも、とも思います。では、ここで二重否定の中断を特別にとりだした意義があるか? あるとすれば、この一重否定の中断ならば、まだ、「〜見たくない」と言っている要求がましい他者側に同一化しているが、「「〜見たくない」とは言わないが・・」という言葉や件の夢はより同一化から離れえたことを示す分析の進展の指標になりうるかも、ということでしょうか。

もう一つ興味深かったのは、あるケースではこういう夢を見たのがそれを報告したセッションの朝ではなく、何日か前の、本人にとっては時の経過や喪失を強く意識させるある種の記念日であったことです。これをどう考えるか。精神分析が現実界と日常以上に直截に出会う場であったとしても、こういう記念日もそのケースにとってはそういう瞬間だったのかも知れません。これまでは、ケースはこの記念日に出会うときには常に「愚か者は見たくない」と言われないようにしようという想像的な思いを新たにしようとしていたが、今回は、それまでの自由連想からまず「愚か者は見たくない」と語りさらに多少とも弁証的に進めて、「「〜見たくない」とは言わないが・・」と言えた分、この記念日(現実界と言う穴のちらつき)に出会ったおり以前の想像的な思いに引き戻されずにむしろ欲望のほうに進め得た、ということでしょうか? そういう意味では、ここに、転移を通して、セッション外の問題も解決していく(セッション外の現実界も象徴化していく)という動きを見られそうでもあります。

こんな風にして、二重否定の中断のことを考えていると、そういうこと以外の被分析者の語りについても、色々センシティヴになってこれるようで、私としてはよいことです。文になかなか句読点を打たずに、次に否定をしつつ、それもまた中断して、文を行き来させているな、こういう人はどんな夢を見るのか、・・など色々考えるポイントも増えてきます。

No.640 - 2013/10/22(Tue) 15:22:43

より無を象徴化できる形式とは / 水上雅敏
オー・アーと糸巻の在・不在(消失、出現)からさらに、なるべく瞬間的、なるべく希薄、なるべく今までにないもっとも予期をスカすような意外な組み合わせ(無意味なランダムというより黄金比的なすかし方の)を求めつつ私たちは進んでいるのか? 無をより象徴化するために。
No.639 - 2013/10/11(Fri) 02:45:14

シカと羊 角を共通項として / 水上雅敏
日本で鹿が神なり神の使いとされるのは、ユダヤ教の羊から来ているのか?
角を共通項として。

ラカンのDes Noms-du-Pere のAbrahamがIsaac を犠牲にするあたりの話(98−99pp)で出てきた羊についてのくだりを読んだときに思い浮かんだことです。

ちなみに、
ttp://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n85076
「一人子を捧げよ、は諏訪大社にもあった。雄羊と鹿の身代わりは武士道のすすめ?」

トンデモ・・と感じられるところも多いですが、しばらく山口に住んでみて山口のいくつかの寺社は古代キリスト教的な伝統とつながってるのではないか、とも思っていたところなので個人的には全く笑い飛ばすわけにはいかない部分もあります。

No.638 - 2013/10/11(Fri) 02:30:34

聴覚領域だって不在は不在でしかないわけですが・・ / 水上雅敏
>しかしそうすると、糸巻ではまさにその不在でしかなかった「不在」も音素においては「アー」として象徴的に表現され得る、という音素なりの優位性が薄らぐようでもありますが

まあ、音素でさえ、そもそも音素間の隙間を問題にして見ると、それももまさに隙間でしかないわけですが・・。

No.637 - 2013/10/11(Fri) 00:00:05

言葉の習得には最初から同一化の作業は無いのでは? / 水上雅敏 [地球外]
言葉の習得を同一化(ある意味を表すための言い回しをまず周りから学ぶ)から考えるより、むしろ、お互いの言葉は、最初から、遠感覚を通じて遠くからさえ同一化へとうっかりつれこまれかねない聴覚的領域においてできるだけ差異を作ろうとする営みこそが形成しているのだ、と考えられないか。
No.636 - 2013/10/10(Thu) 23:47:57

5知覚様式に広げた、サイン・コサイン等価の関係性とは? / 水上雅敏
>糸巻きの在不在(or消失・出現)、とオー・アー

だけに限って考えれば、そこにサイン・コサイン関係を考えてみるというのでも十分なのでしょうが、多分、人間は、持てる限りの種の知覚様式へとこういう知覚間の交差関係を広げていくことでしょう(できる限り差異づけを進展させようとして)。そうすると、単純にサイン・コサインという、二次元の座標で描ける関係性でなく、多次元(5つ感覚があるから、5次元の・・ということになりましょうか?)の直交座標の上へと広げたそれ(2次元で描かれたサイン・コサインの波)と等価な波の関係を描く必要があるかもしれません。いや、まだ本当にそこまで必要あるのかよく考えきれていませんが・・・。

No.635 - 2013/10/10(Thu) 23:27:35

糸巻きの在不在(or消失・出現)、とオー・アーと、サイン・コサイン関係 / 水上雅敏
>オー・アーと言う聴覚的対立と糸巻の在不在という視覚的対立とが、交差しあって、互いの対立が意識されえている

この公差の関係をサインとコサインの関係で考えられないか、と考察中。それは直交や微分的な関係ということとも関連してくると思いますが。

オー・アーの対立と、糸巻の不在・在(あるいは消失と出現)への意識は同時的なのか?? 多分、一方の対立が意識された瞬間は他方は無意識あるいはメタの位置に来ていて意識されない、という背反関係にあるのではないか、とも思うのですが、経験的にシミュレートしにくいのでまだなんとも言えません(背反だからこそシミュレートできないのかも知れませんが)。

No.634 - 2013/10/10(Thu) 23:15:54

糸巻きの在・不在というより、消失と出現の瞬間の対立と考えるべきか / 水上雅敏
オー・アーと言う聴覚的対立と糸巻の在不在という視覚的対立とが、交差しあって、互いの対立が意識されえている、としばらく考えていましたが、厳密に考えると、オー・アーと交差しているのは、糸巻の在・不在という(固定的な在と不在)より、糸巻の「消失への動き」と糸巻の「出現してくる動き」(あるいは消失の瞬間と、出現の瞬間)とするほうが適切であるのか・・。

しかしそうすると、糸巻ではまさにその不在でしかなかった「不在」も音素においては「アー」として象徴的に表現され得る、という音素なりの優位性が薄らぐようでもありますが(むろん、言葉がまず音素でできることの原因となったような声や聴覚なりの特性はそれなりにありますが)。

そんなことを考えていると、『ユング自伝』でであったかに書かれていた、ある部族が「太陽が神なのではなく、太陽の昇る瞬間が神なのです」と述べたという件や、遷宮などで「オー」と叫びつつ神が出現した(とされたり)、神が納まっていく、その「移行」の瞬間こそ
が盛大な行事になったりすることが思い起こされてきました。

No.633 - 2013/10/10(Thu) 23:08:38

あえて無意味な音素対立をふるまおうとする意義 / 水上雅敏
オー・アー(フォルト・ダー)という2音素から言葉が育つ、とばかり考えるより、オー・アーは一旦既に言葉を得たものが、もう一度できるかぎり無意味に向かって還元された形の音素対立を発して今まで囲うことのできなかった更なる無を囲う試み、と考えてみることも必要なのではないか。そこからまた言葉は進展していくが、その時には、再度またそのような喃語的試みを行い始めるという弁証法に我々は一生涯あり続ける、と考えてみてはどうか。

これはまた、子供が望まないのに、早々と「言葉の教室」などに通わせ、「きちん」とした言葉を習得させようとすることへの批判でもあるが。

No.632 - 2013/10/10(Thu) 22:37:52

波長の変換 / 水上雅敏
ttp://www.nirs.go.jp/information/press/2013/08_26.shtml
「光の色を変換するプラスチックの新メカニズムを発見
〜紫外光の可視光への変換等、広範な産業分野への応用が期待〜」

よく理解できていませんが面白そうです。
ついでに、ばらまけば、放射線の波長さえ変えて無害にしてくれるような材料はできないものでしょうか。

No.631 - 2013/10/02(Wed) 00:49:25

カウンセリング独自の時間性 / 水上雅敏
カウンセリングでは、本人が前回語った言葉が1週間後のその次のカウンセリングの回の日の朝の夢の中に出たり、とかあります(いつもカウンセリング当日の朝か、は確信在りませんが)。フロイトは、夢の材料として使われるところの日中残滓を夢の前日の事柄にもとめていたと思いますが、カウンセリングでは1回前のカウンセリングがあたかも前日のことであるかのように日中残滓的に次の回の朝の夢で使われることはしばしばあるように思えます。むろん夢には現実世界における「前日」の残滓も交じっていることでしょうが。

その他、1回ごとに進展が行きつ戻りつしたり、フォルトーダーを行き来するかのような何らかの現象が見られたりするなど、クライエントの中でカウンセリング領域独自の時間性が存在しているように思うことも多いです。

とりあえず、最初の日中残滓の件をとりあげると、これをどう考えるべきでしょうか?
 前回のカウンセリングが前日の目覚めのような位置に置かれていて、その後の1週間は眠っていたようなあるいは夢の途中の様なものであり、今回のカウンセリングの日に再び目覚めた、ということなのでしょうか。
 あるいは、前回語った言葉はかなり欲望の真に迫った言葉であり、そこまで言えたのだからあえて実際の前日の日中残滓で隠して表現するまでもなかったからそれをそのまま使った、ということなのでしょうか。だとすると、考えようによっては、前回からその言葉をさらに進展させるほどの日常は無かったということでもあり、そう考えると、その欲望の部分については、上で書いたようにこの1週間は眠ったままであった、とも言えそうです。さらにそうだとすると、今後望ましいのは、カウンセリング間の1週間においても現実界に開かれ続けてこの欲望の部分もつねに進展させえること、その意味でカウンセリング独自の時間制というものが消えていくこと(カウンセリング場面だけに限られていた現実界への開かれというものが本人において普遍化されることによって)ということになるでしょうか。

No.630 - 2013/10/02(Wed) 00:37:16

唸りこそを利用した人間の特殊性 / 水上雅敏
しかし、コウモリがもし、発する超音波と反射される超音波とが為す唸りを聞いてはじめて動けてるのであれば、そしてもしその唸りの周波数が超音波というほど多いものでなければ、コウモリは超音波を聞けるとは言えなくなりそうですね。

人間だって、もし、超音波をどこかから発し、反射して戻ってくる波との差異のなる唸りを聞くなり感じ取ってなりで動いているというということはないのか、と考えてみましたが、それはわかりませんが、超音波ではありませんが、視覚障碍者が壁の前で立ち止まれるのは構造的にはにたものかも知れませんね。

ところで、人間の面白いところは、超音波や純音の波ではなく、むしろ唸り自体をメディアにして他者とコミュニケートしているところですね。つまり母音がそうであるような(母音=2つの異質な波のなす唸りだとすると)。口の構造が特殊だからそうできるようになったとも言えるだろうし、超音波は出せないし聞き取れないし、純音は出せないからそうするしかなかった、とも言えるかも知れません。

No.629 - 2013/10/01(Tue) 23:53:50

蝙蝠はモアレをとらえて探索するのかどうか / 水上雅敏
>基準の波(や信号、なんでもよいですが)があって、それと、いまやってきている波なり信号のズレの作り出すモアレから、その作り出した実体を再構成する、というこの作業は、クオリアや人の知覚を考えるうえでもなにか参考になるところがあるかも知れません。結局、いわゆるクオリアという意味での知覚意識はこのモアレのようなものではないか、ととりあえず考えてみるとどうでしょうか。知覚器官からやってきている多くの微妙な波をそのままにはとらえられないが(解像度の問題もあり。それ以外にも原理的な問題もあるかもしれませんが)、人間側も遠心的に基準となる波を発していて、それと交差されてそこに結ばれたモアレ(ここでも主体とまなざしの間に像を結ばせるSbarre<>a をまねて、人間から出る遠心的な波・信号<>知覚器官からの求心的な波・信号の中間に結ばれたもの)が知覚意識なりクオリアと言えないか。(626)

・・ということを考えていると、「ある種のコウモリは送り出す超音波と反射してくる超音波との間の振動数のわずかな違いに基づいて餌の動きを探知するが・・」(『脳は物理学をいかに創るのか』武田暁 岩波書店)とありました。少なくともコウモリについては、遠心的な波を発していると言えそうではあります。そして、その反射波との間に成り立つモアレをとらえて餌の動きを探知している、と言えそうでもあります。ただ、一旦メタ的にそのようにモアレとしてとらえるまでもなく、出す超音波波とその反射の波の違いから反射的に動いているのかも知れませんが(ただ、後者のように言ってしまうと、コウモリには意識はないのか、ただ波に動かされる反射的存在でしかないのか、という批判も出てきそうですが)。

No.628 - 2013/09/22(Sun) 03:27:06

ディスレクシアと遡及性の問題 / 水上雅敏
小学校で親の話を聞くと、文字が読めない子が意外と多いようです。本を読ませても、文字を言葉として読めていないようだ、とか言う親の訴えが2,3あったように覚えます。厳密に考えると学習障害に含むべきものなのかよく知りませんが、そうされていることは多いかも知れません(親や、教師や、心理士の間では。)。

ディスレクシアというものなのでしょうが、Wikipedeaで調べると「ディスレクシアは言語によっても現れ方が異なることが示唆されており、イタリア語など(文字がほぼ発音通りに綴られる)では英語やフランス語(綴りと発音の間に複雑な関係がある)より顕在化しにくい可能性が指摘されている」とあったのは興味深いことです。

発音通りに綴られるからイタリア語では顕在化しにくい、とするなら、結局、ディスレクシアに於いては「ある一連の連鎖の区切りをまって遡及的にその意味を推測する」ということが文字レベルではできにくい(それができてこそ、ある綴りは無視すべきものとわかったり、こう発音すべきなのだ、と分かったりするのだから)ということでしょうか? 「この子は、“わ”とよむべき“は”も、“は”と読んでしまうのです」という訴えが親からあったような記憶もうっすらありますが、それもそういうことかもしれません。

ただ、そういうのと違うディスレクシアもあるのかどうかはあまり調べたことありませんのでよくわかりません。また、文字レベルのみではなく、それなりにともかくどういうレベルでも(例えば聴覚レベルでも)、遡及的に連鎖を振りかって意味を推測する、というのが苦手な場合もあるのか、また、実はディスレクシアは基本そうなのか、はよく知りません。いくつかタイプをわけたほうが良いのかも知れません。

このように、遡及的に意味を推測することの困難が、ディスレクシアの人において、他の行動形態に於いても何か特異なことを帰結させていないか、も興味深いことです。

No.627 - 2013/09/14(Sat) 02:38:18

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