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<カフェ・フジタ>

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5知覚様式に広げた、サイン・コサイン等価の関係性とは? / 水上雅敏
>糸巻きの在不在(or消失・出現)、とオー・アー

だけに限って考えれば、そこにサイン・コサイン関係を考えてみるというのでも十分なのでしょうが、多分、人間は、持てる限りの種の知覚様式へとこういう知覚間の交差関係を広げていくことでしょう(できる限り差異づけを進展させようとして)。そうすると、単純にサイン・コサインという、二次元の座標で描ける関係性でなく、多次元(5つ感覚があるから、5次元の・・ということになりましょうか?)の直交座標の上へと広げたそれ(2次元で描かれたサイン・コサインの波)と等価な波の関係を描く必要があるかもしれません。いや、まだ本当にそこまで必要あるのかよく考えきれていませんが・・・。

No.635 - 2013/10/10(Thu) 23:27:35

糸巻きの在不在(or消失・出現)、とオー・アーと、サイン・コサイン関係 / 水上雅敏
>オー・アーと言う聴覚的対立と糸巻の在不在という視覚的対立とが、交差しあって、互いの対立が意識されえている

この公差の関係をサインとコサインの関係で考えられないか、と考察中。それは直交や微分的な関係ということとも関連してくると思いますが。

オー・アーの対立と、糸巻の不在・在(あるいは消失と出現)への意識は同時的なのか?? 多分、一方の対立が意識された瞬間は他方は無意識あるいはメタの位置に来ていて意識されない、という背反関係にあるのではないか、とも思うのですが、経験的にシミュレートしにくいのでまだなんとも言えません(背反だからこそシミュレートできないのかも知れませんが)。

No.634 - 2013/10/10(Thu) 23:15:54

糸巻きの在・不在というより、消失と出現の瞬間の対立と考えるべきか / 水上雅敏
オー・アーと言う聴覚的対立と糸巻の在不在という視覚的対立とが、交差しあって、互いの対立が意識されえている、としばらく考えていましたが、厳密に考えると、オー・アーと交差しているのは、糸巻の在・不在という(固定的な在と不在)より、糸巻の「消失への動き」と糸巻の「出現してくる動き」(あるいは消失の瞬間と、出現の瞬間)とするほうが適切であるのか・・。

しかしそうすると、糸巻ではまさにその不在でしかなかった「不在」も音素においては「アー」として象徴的に表現され得る、という音素なりの優位性が薄らぐようでもありますが(むろん、言葉がまず音素でできることの原因となったような声や聴覚なりの特性はそれなりにありますが)。

そんなことを考えていると、『ユング自伝』でであったかに書かれていた、ある部族が「太陽が神なのではなく、太陽の昇る瞬間が神なのです」と述べたという件や、遷宮などで「オー」と叫びつつ神が出現した(とされたり)、神が納まっていく、その「移行」の瞬間こそ
が盛大な行事になったりすることが思い起こされてきました。

No.633 - 2013/10/10(Thu) 23:08:38

あえて無意味な音素対立をふるまおうとする意義 / 水上雅敏
オー・アー(フォルト・ダー)という2音素から言葉が育つ、とばかり考えるより、オー・アーは一旦既に言葉を得たものが、もう一度できるかぎり無意味に向かって還元された形の音素対立を発して今まで囲うことのできなかった更なる無を囲う試み、と考えてみることも必要なのではないか。そこからまた言葉は進展していくが、その時には、再度またそのような喃語的試みを行い始めるという弁証法に我々は一生涯あり続ける、と考えてみてはどうか。

これはまた、子供が望まないのに、早々と「言葉の教室」などに通わせ、「きちん」とした言葉を習得させようとすることへの批判でもあるが。

No.632 - 2013/10/10(Thu) 22:37:52

波長の変換 / 水上雅敏
ttp://www.nirs.go.jp/information/press/2013/08_26.shtml
「光の色を変換するプラスチックの新メカニズムを発見
〜紫外光の可視光への変換等、広範な産業分野への応用が期待〜」

よく理解できていませんが面白そうです。
ついでに、ばらまけば、放射線の波長さえ変えて無害にしてくれるような材料はできないものでしょうか。

No.631 - 2013/10/02(Wed) 00:49:25

カウンセリング独自の時間性 / 水上雅敏
カウンセリングでは、本人が前回語った言葉が1週間後のその次のカウンセリングの回の日の朝の夢の中に出たり、とかあります(いつもカウンセリング当日の朝か、は確信在りませんが)。フロイトは、夢の材料として使われるところの日中残滓を夢の前日の事柄にもとめていたと思いますが、カウンセリングでは1回前のカウンセリングがあたかも前日のことであるかのように日中残滓的に次の回の朝の夢で使われることはしばしばあるように思えます。むろん夢には現実世界における「前日」の残滓も交じっていることでしょうが。

その他、1回ごとに進展が行きつ戻りつしたり、フォルトーダーを行き来するかのような何らかの現象が見られたりするなど、クライエントの中でカウンセリング領域独自の時間性が存在しているように思うことも多いです。

とりあえず、最初の日中残滓の件をとりあげると、これをどう考えるべきでしょうか?
 前回のカウンセリングが前日の目覚めのような位置に置かれていて、その後の1週間は眠っていたようなあるいは夢の途中の様なものであり、今回のカウンセリングの日に再び目覚めた、ということなのでしょうか。
 あるいは、前回語った言葉はかなり欲望の真に迫った言葉であり、そこまで言えたのだからあえて実際の前日の日中残滓で隠して表現するまでもなかったからそれをそのまま使った、ということなのでしょうか。だとすると、考えようによっては、前回からその言葉をさらに進展させるほどの日常は無かったということでもあり、そう考えると、その欲望の部分については、上で書いたようにこの1週間は眠ったままであった、とも言えそうです。さらにそうだとすると、今後望ましいのは、カウンセリング間の1週間においても現実界に開かれ続けてこの欲望の部分もつねに進展させえること、その意味でカウンセリング独自の時間制というものが消えていくこと(カウンセリング場面だけに限られていた現実界への開かれというものが本人において普遍化されることによって)ということになるでしょうか。

No.630 - 2013/10/02(Wed) 00:37:16

唸りこそを利用した人間の特殊性 / 水上雅敏
しかし、コウモリがもし、発する超音波と反射される超音波とが為す唸りを聞いてはじめて動けてるのであれば、そしてもしその唸りの周波数が超音波というほど多いものでなければ、コウモリは超音波を聞けるとは言えなくなりそうですね。

人間だって、もし、超音波をどこかから発し、反射して戻ってくる波との差異のなる唸りを聞くなり感じ取ってなりで動いているというということはないのか、と考えてみましたが、それはわかりませんが、超音波ではありませんが、視覚障碍者が壁の前で立ち止まれるのは構造的にはにたものかも知れませんね。

ところで、人間の面白いところは、超音波や純音の波ではなく、むしろ唸り自体をメディアにして他者とコミュニケートしているところですね。つまり母音がそうであるような(母音=2つの異質な波のなす唸りだとすると)。口の構造が特殊だからそうできるようになったとも言えるだろうし、超音波は出せないし聞き取れないし、純音は出せないからそうするしかなかった、とも言えるかも知れません。

No.629 - 2013/10/01(Tue) 23:53:50

蝙蝠はモアレをとらえて探索するのかどうか / 水上雅敏
>基準の波(や信号、なんでもよいですが)があって、それと、いまやってきている波なり信号のズレの作り出すモアレから、その作り出した実体を再構成する、というこの作業は、クオリアや人の知覚を考えるうえでもなにか参考になるところがあるかも知れません。結局、いわゆるクオリアという意味での知覚意識はこのモアレのようなものではないか、ととりあえず考えてみるとどうでしょうか。知覚器官からやってきている多くの微妙な波をそのままにはとらえられないが(解像度の問題もあり。それ以外にも原理的な問題もあるかもしれませんが)、人間側も遠心的に基準となる波を発していて、それと交差されてそこに結ばれたモアレ(ここでも主体とまなざしの間に像を結ばせるSbarre<>a をまねて、人間から出る遠心的な波・信号<>知覚器官からの求心的な波・信号の中間に結ばれたもの)が知覚意識なりクオリアと言えないか。(626)

・・ということを考えていると、「ある種のコウモリは送り出す超音波と反射してくる超音波との間の振動数のわずかな違いに基づいて餌の動きを探知するが・・」(『脳は物理学をいかに創るのか』武田暁 岩波書店)とありました。少なくともコウモリについては、遠心的な波を発していると言えそうではあります。そして、その反射波との間に成り立つモアレをとらえて餌の動きを探知している、と言えそうでもあります。ただ、一旦メタ的にそのようにモアレとしてとらえるまでもなく、出す超音波波とその反射の波の違いから反射的に動いているのかも知れませんが(ただ、後者のように言ってしまうと、コウモリには意識はないのか、ただ波に動かされる反射的存在でしかないのか、という批判も出てきそうですが)。

No.628 - 2013/09/22(Sun) 03:27:06

ディスレクシアと遡及性の問題 / 水上雅敏
小学校で親の話を聞くと、文字が読めない子が意外と多いようです。本を読ませても、文字を言葉として読めていないようだ、とか言う親の訴えが2,3あったように覚えます。厳密に考えると学習障害に含むべきものなのかよく知りませんが、そうされていることは多いかも知れません(親や、教師や、心理士の間では。)。

ディスレクシアというものなのでしょうが、Wikipedeaで調べると「ディスレクシアは言語によっても現れ方が異なることが示唆されており、イタリア語など(文字がほぼ発音通りに綴られる)では英語やフランス語(綴りと発音の間に複雑な関係がある)より顕在化しにくい可能性が指摘されている」とあったのは興味深いことです。

発音通りに綴られるからイタリア語では顕在化しにくい、とするなら、結局、ディスレクシアに於いては「ある一連の連鎖の区切りをまって遡及的にその意味を推測する」ということが文字レベルではできにくい(それができてこそ、ある綴りは無視すべきものとわかったり、こう発音すべきなのだ、と分かったりするのだから)ということでしょうか? 「この子は、“わ”とよむべき“は”も、“は”と読んでしまうのです」という訴えが親からあったような記憶もうっすらありますが、それもそういうことかもしれません。

ただ、そういうのと違うディスレクシアもあるのかどうかはあまり調べたことありませんのでよくわかりません。また、文字レベルのみではなく、それなりにともかくどういうレベルでも(例えば聴覚レベルでも)、遡及的に連鎖を振りかって意味を推測する、というのが苦手な場合もあるのか、また、実はディスレクシアは基本そうなのか、はよく知りません。いくつかタイプをわけたほうが良いのかも知れません。

このように、遡及的に意味を推測することの困難が、ディスレクシアの人において、他の行動形態に於いても何か特異なことを帰結させていないか、も興味深いことです。

No.627 - 2013/09/14(Sat) 02:38:18

スーパーレントゲン モアレ クオリア / 水上雅敏
柔らかいものも映る「スーパーレントゲン」なるものを何の番組であったか見ました。

キーは「モアレ」。誤解があるかも知れませんが「やわらかいものにはX線があたっても少ししか屈折せずこれまでつかめなかった。しかし、細かな縞模様のついた透明セルロイド紙と、それと微妙にずれた縞模様の付いた透明セルロイド紙をかさねると、大きな縞模様,つまりモアレが見えてくる(つまりそれらにズレがあることがわかる?)という原理を使って、この屈折の存在がつかめ柔らかいものも映し出せるようになった」ということだったように思います。モアレがそのまま、それを生じさせた実体(たとえば柔らかな腫瘍など)を映し出していることになるのだったか、モアレから、実体を逆算して再構成しなおすのだったか把握し落としましたが・・。

基準の波(や信号、なんでもよいですが)があって、それと、いまやってきている波なり信号のズレの作り出すモアレから、その作り出した実体を再構成する、というこの作業は、クオリアや人の知覚を考えるうえでもなにか参考になるところがあるかも知れません。

結局、いわゆるクオリアという意味での知覚意識はこのモアレのようなものではないか、ととりあえず考えてみるとどうでしょうか。知覚器官からやってきている多くの微妙な波をそのままにはとらえられないが(解像度の問題もあり。それ以外にも原理的な問題もあるかもしれませんが)、人間側も遠心的に基準となる波を発していて、それと交差されてそこに結ばれたモアレ(ここでも主体とまなざしの間に像を結ばせるSbarre<>a をまねて、人間から出る遠心的な波・信号<>知覚器官からの求心的な波・信号の中間に結ばれたもの)が知覚意識なりクオリアと言えないか。しかし、では、そのクオリアをそういうものとしてメタ的に意識させているのは何か・・それはまたさらなる遠心的な波なり信号か?・・だとしたら、さきのモアレは崩れてまた新しいモアレが生じることとなり、いつまでもクオリアなり知覚意識の構造は言い得ないことになります。結局、知覚意識とはこういうモアレみたいなものかも知れないけど(それもそもそもはっきりしませんが)、「波なり信号なりがさらにかかってこなくなった一瞬の途切れ自体」として、消去法的にしか定義できないものかもと今のところ考えます。

No.626 - 2013/09/14(Sat) 02:10:50

ヒステリー者における比喩の困難さの特徴 / 水上雅敏
分裂病者は比喩が苦手と言われるが、ヒステリー者にもそれなりの苦手さはうかがえるように思います。

分裂病者では、たとえば、「なぜ怖い時に肝が冷える、と言うのかわかりませんでしたが、怖い時、肝臓が冷たくなることがあって、ああこれゆえなんだな、とわかりました」とかまったく文字通りに実体的にとらえたり。あるいは、「神」もすでに在ることを前提に世界を解釈したり(シュレーバー的に)。

以下、比喩や、多少、ちょっとしたレトリックだったり社交辞令だったりにすぎないものを本気にとらえすぎて実体化しすぎてしまっているヒステリー者の例。

・例えば、「私は人を信じれない」という主訴。「信じる」=「まったく人の言うことを能天気に受け取り、一切疑いもしない」としか考えていないかのようです。
・「私自信が無いんです。自信が無いから緊張するんだと思いますetc.」など言って悩む。「自信」などと言うものは、どこかに在るものではなくて、せいぜいスポーツ選手などが自信ありますかなど聞かれたときに自分を奮起させるためにか、社交辞令かで「あります!」と言うに過ぎないものなのに。
・「親友なら心を開けるべきなのに、わたしはすべてを打ち明けられてない」と悩む。「心を開く」、という詩的表現を、文字通りに実体化しすぎて、すべてなんでも打ち明ける、としてしまっている。

分裂病者との比喩の苦手さとの違いとしては、ひとつは、ヒステリー者だと「それがかなえられない」という禁止をかけられた形で或る概念(それがあれば統合的な自己の鏡像がえられるはずであるもの、−φ)が実体的にとらえられた形になっている、と言えそうにも思えます。まあ、結局は去勢表象の抑圧の結果に過ぎませんが。

No.625 - 2013/08/23(Fri) 03:02:54

(No Subject) / 中野雅哉
いま、計見一雄「統合失調症あるいは精神分裂病」、
田中博「生命と複雑系」を読んでますが、かなり面白い。
みなさんにオススメです。

No.624 - 2013/08/16(Fri) 22:17:22

ネットになぜ自分の悪戯、犯罪を載せるか / 水上雅敏
店員がアイスクリームのショーケースに入り込んだ写真をネットに載せる・・なぜ載せるか?

全てではないにしろ、「無限遠」の位置にある「まなざし」を存在させようとしているのではないか。もちろん「まなざし」のサンブランでしかないが。ネットと言ういつまでもどこまでも人々が見ようとするものと想像しうるメディアを利用して。まなざしを無にしておけずに。まあ、神経症レベルか倒錯レベルかはいろいろあろうが。人に気づかれそうでもある状況での犯罪(痴漢とか万引きなど)もその”一部”にはそういう構造もあるのではないか。

例えば家族に死者がいたり家族と引き離されたりしてその理由の説明がしっかりとなされないでいると、それは自分のせいなのだ、というエディプスコンプレクスからの思い(自分が父を殺した、殺しえて、母と交わりえたという幻想があるゆえに。また、この幻想を、こう思えば、さらに強化できるがゆえに。)を存続させてしまい、そこに含まれる罪悪感から、その、死者なり離れた人のまなざしを復活させようとするかも知れない。そういうことでもありえるのではないか。

冷たいショーケースに棺桶を見るのは、うがちすぎだろうが。

No.623 - 2013/08/12(Mon) 22:54:06

追加 / 水上雅敏
>波の隙間として具体的な知覚が存在する?

逆に言えば、(A波とB波の)うなりとして聞こえている音と同じ周波数の波(C波)を実際に外界において流すならば、その音は聞こえなくなるか?? 今度は、その新しくくわえられた波と、もともとの波との差異のうなりが聞えてくる(つまりA波とC波の差であるうなりと、C波とB波の差であるうなりの2つの唸りがきこえる、とか、その差が等しいならその公差を周波数とする波の音が聞こえる)ということになるか(A−Bのうなりは残らないのかどうか)? 

たとえば200HZと180HZの純音を同時に聞くと20HZの音が聞こえるらしい(『音律と音階の科学』)が、20HZの波を実際に存在させると、180HZと、160HZの音が聞こえるということか?・・とはいえ、この例だと200や180と20は遠いので20と他の2者との間ではうなりは起こさないだろう(ちなみに、この場合、本来の唸りと、実際に来ている20HZである純音の両方を、区別できないままダブらせて聞く、ということになるか??)。

そこで次のようなのを考えてみる。<以下、HZ略>30と70の波が来ているとすると、40相当の音が聞こえる(40くらいの差が在ればもううならず、独立した2つの音が聞こえるものかよく知らないが)? で、40の波を外界に加えると、40−30=10の音と70−40=30の2つのうなりが聞こえるということか? さらにもともとのうなり(70−30の)としての40も聞こえるのかどうか。

No.622 - 2013/08/09(Fri) 03:40:15

波の隙間として具体的な知覚が存在する? / 水上雅敏
うなりの周波数は2つの波の周波数差らしい。が、機械で計った周波数スペクトルには、そのうなりの周波数は出てこない(『音律と音階の科学』講談社 96pを参考)とか、「共鳴器は唸りのテンポに合わせてあっても、唸りによっては鳴らせることができない。それは純音によってしか鳴動しないのである」(『感覚の分析』マッハ著 法政大学出版局)というのは面白い。

ここからして、いわゆる人間の持つ、具体的な知覚(意識に映し出されたレベルの)というものは、そういう「波同士の隙間」として存在している(そこには波は存在していない隙間)、とも言えそうで面白い。たしかに、母音は2つの波で、いわば、2つの波の差=隙間、として構成され聞き取られているわけだし(ちなみに、母音についていえば、さらに他の母音とも、対数軸上においてそれぞれが最も差異化されえるような配分においてそれぞれが存在しているとすると、どこまでも隙間の隙間を求めてこそありえている知覚とも言えそうで面白いが、それはまた別に考察したい)。

そうして(実際の波抜きで。また、波の隙間として)作られた母音なり言葉なりが、ひるがえって、知覚器官を通じてやってきているさまざまな波をトップダウン的に差異化する役割を得ている、という関係も面白い。

No.621 - 2013/08/09(Fri) 03:13:31

黄金比にテュケーは内在しているのか? / 水上雅敏
黄金比にはテュケーは内在しているのか(黄金比は、人の予測をもっともスカすものだとすると。例えば黄金比的なリズムがそうであるように)? 黄金比さえくつがえしてしまうテュケーはあるのか。

例えば、ひまわりの種の並び方には黄金比が見れるらしいが、また、葉の付き方も、太陽の光を全部の葉がもっとも受けやすいように葉は互いの隙間へ隙間へと入っているとしたら、そこにも黄金比があるということになる。ただ、黄金比だけがほしいなら、茎があり花が在るというふうに器官を分化させずに、球体的な花だけのような存在になってもよかったはずではないか。しかし、茎が在り、途中で花となる、というのは、能力的に厳密な黄金比は最初から作れずに近似ですませていたから、どこかで、調整をしなければならなかったということなのか? あるいは、やはり黄金比をこえたテュケーというものがあって、どうしても一回転覆させられて新しい黄金比へと移らないといけない、というふうになっているからなのか? あるいはより次元を上げてみるとそこには潜在的に一定の黄金比があるのだが、そのこの世での現れ方としては、そのように器官が分化したように現れるしかないのか? 

たとえば、ホップ分岐とか、相転移とか、ライジング(rising? 結び目の数学でいうようですが電話コードもねじりすぎると、コードじたいがよじれるというふうに次元の違うねじりがはいってくるような)をそういう突然の方向性の変化(器官の分化など)に対して考えることができるか?

生物に限って考えると、黄金比だけで考えるのに無理があって、胚から成長するにおいての器官分化に寄与するのはタンパク質の一方向への流れだというような話を聞いたことがあるが、そのように、生物の成長においてはある構造においては黄金比に沿って進展しようと言う動きだけではないまた別の要素(ここではタンパク質。さらには重力や、光の方向ももちろんだろうが)があってそれらとの弁証的なからみも考えないといけないということか。

精神においてはどうか? 去勢を得て黄金比的にもっとも無を常に象徴化するように進めているような人でも(ほぼありえないほどの理想の進展を考えるとして)、その象徴化のペースでは対処できないほどの無との出会いがやってくることもあるのか?

No.620 - 2013/08/09(Fri) 02:27:32

人間の可視光の範囲は1オクターブと等価的? / 水上雅敏
「光と色彩の科学」(齋藤勝裕 講談社)によると、人間の可視光の範囲は1オクターブと等価的らしい。以下、pp69−70より抜粋。

:私たち人間の目に見える電磁場を可視光といいますが、可視光は、波長でいうと400〜800ナノメートルの範囲に限られます。すなわち、幅広い電磁場の波長帯域のうち、私たちが目という感覚器官で知覚できるのはわずかこれだけの範囲でしかないのです。
 可視光の範囲に虹の七色が並びます。波長の短いものから並べると順に紫、藍、青、緑、黄、橙、赤となります。紫の端が400ナノメートルであり、赤の端が800ナノメートルになっています。この関係は、倍音の関係になっています。倍音とは、音楽で言えばオクターヴの関係です。すなわち、”下のラ”と”上のラ”は人間の感覚には同じように響きますが、振動数は下のラが440ヘルツ、上のラが880ヘルツと2倍の関係になっています。
同じように、400ナノメートルの光と800ナノメートルの光は、エネルギー的には異なりますが、色彩的には同じものと意識されてしまいます。色円で赤と紫が隣り合わせになり、それが人間の感覚に合っていると思えたのはこのような関係があったからなのです。:(以上)

400〜800という範囲については、文献によって多少のずれがあった記憶もありますが(?)ともかく400〜800ということにすると、そういう対数的にもすっきりとつかみえる範囲に知覚が限られている、というのが興味深いです。もっとも、それはトップダウン的な意識のつかみうる範囲の話であり、視覚器官自体が反応している範囲や、求心的にやってくる知覚の信号の範囲自体は、もっと広いのかも知れませんが、そうだとするとそれはそれでまた面白いことです(その漏れ落ちたものは、どこに溜まっているのか、どう影響しているのか、あるいは、スルーされるだけか)。

さらに以下のように、さまざまな連想がわいてきます。

・まず、色はすぐわかるのに、なぜ絶対音感はありにくいか(そもそも論理的には相対音階しかありえないと私は考えてますが)という問いがありますが、可視光の範囲が1オクターヴと等価、と考えると答えが出るように思えます。つまり、音階の場合は、どこに出発点をとっても、そこからの1オクターヴの上がり方はどれも等価になるから、その意味では、どの音もドetc.になりえる。ところが、色では、音階に比ゆすると、オクターブは特定のひとつしかなくていわばドを一点に決めることができ(例えばスペクトルの左端の青紫をドとするように)る、一番低いのをともかくドと言っていればいい、というようなことになるからだと思います。色彩において、絶対音階の難しさと等価な問題があるとすれば、それは、むしろ明暗の軸の上でのことになるのではないでしょうか。


・可聴音の領域自体は、視覚のように対数的にすっきりした領域に限定されているのかどうか・・。たしか、母音は、それを構成する一番下限の波と、上限の波はそうだった(そしてどの母音のフォルマントも対数軸上ですっきりしたポイントにプロットできる)と思いますが。

・色彩感覚はある意味ベンハムのコマの色彩的。音の感覚は、ある意味、こまの回転が遅くて、白黒の模様の周期がまだ見えているレベルで、ベンハム的な色彩の錯覚は起きていないレベルと言えないでしょうか。ベンハム的な色彩の錯覚を、白黒の周期がはやすぎてついていけなくなったが、コマの同心円の各層に違いがあることだけは少なくとも示そうとして(流行りの言葉で言えば、内容はわからぬが、次元を変えて「メタデータ」だけはつかむように)、可視光のスペクトルをそれらに分配する、というようなものとしてとらえた上のことですが。では、音において、このベンハムコマの色彩の錯覚に等価なものがあるか、といえば、それは、うなりや、母音の感覚だ、ということになるかもしれません。そういえば、母音も、対数的にすっきりとした構成に限定されています。むろん、色彩感覚すなわちベンハムのコマの色彩の錯覚とまったく同様というわけではありません。普通の色彩感覚の場合は、それを呼び起こす波は、外部に存在しており、ベンハムのコマの場合は、それが無い(内部に起きている可能性はあるでしょうが)。ただ、外部の波を、よりストレートに受け取っているのは聴覚であり(とくに、”もし”可聴範囲が対数的にすっきりとしたものに限定されてはいないならば)、相対的には、色彩感覚はよりベンハムのコマの錯覚的、あるいは、母音的と言えるかも、・・とも思います。ここでもう一つの問題は、色彩感覚にしろ、母音や唸りの感覚(あるいはもっとひろげて普通の音の感覚)にしろ、それを意識するためにトップダウン的な遠心性の波をそこに加える必要が絶対的にあるか、という問題です。「うなり」は多くの波の公差として二次的に浮き上がる波で、この様相自体は外部に存在するのだと思いますが、それをストレートに受けるだけではいけないのか、ここにあらためて、トップダウンの波をかけて複合させる必要があるのか、という問題です。多分、必要なのではと思うのですが・・。外有毛細胞(ダンス細胞)のダンスは、その一環なのでしょうか?

・可聴領域や、可視光領域は、動物の場合は、対数的にすっきりとした範囲に限定されているのでしょうか? たとえば、可聴領域についてそうではないとするなら、我々が2倍の周波数の音を1オクターヴ上の同質の音として感じるようには、動物は感じないということなのでしょうか? 

No.619 - 2013/08/03(Sat) 17:40:10

「私の言ってもないことを言ったように伝えられている」という症状について / 水上雅敏
「私のことをひそひそ悪く言っている・いっているように感じる」は、よくある訴え。時々、「私の言ってもいないことが裏で言われたように伝えられている」という訴えも聞かれる。

「他者の言っていないことを言ったかのように自分は聞き取っている」
⇔「自分の言っていないことを言ったかのように他者は聞き取っている」
ととらえると、対称的。常に一人の人で同居しているか、あるいはあらわれは違ってもそのようにもなりうる構造が潜在的にあるかは確認していないが。

ただ、「私の言ってもいないことが裏で言われたように伝えられている」というのがなぜ本人にわかるか、誰に伝えられたかについてケースはどう述べていたかについては私の記憶が薄い。ただ、この伝えてくれた第三者についての認識も本人の症状のうちに包めうる可能性もあるかも知れない。むしろその第三者への思いこそが特徴的であり、症状であって、「あの人たちが、あなたが〜と言ったといっていたよ」と伝えてくる第三者を作りたい、ということこそが問題である可能性もあるかも知れない(さらに、第三者の明確化抜きで裏で言ったこともないことを言われているように伝えられているとか、第三者にそう伝えられたとか、を分析家に言うこと自体も、症状に組み込んで考えるべき分析主体の工作かもしれない。まあ、何につけ、すべてそう考えるべきなのだろうが)。

となると、もし上記の対称性から考えるならば、この第三者と言うのは、「私のことをひそひそ悪く言っている・いっているように感じる」の場合では、何に相当するのか、という問題が出てくる。それは結局その私自身と言うことなのだろうか。私を「第三者との言うのも変だが、そもそも、先ほどの第三者(「あの人たちが、あなたが〜と言ったといっていたよ」と伝えてくる第三者)を第三者と考えていたのが間違いなのであり、実は第三者と言うより本人の鏡像的な存在なのかもしれないと考えられるのならば、問題はないのかも知れない。

時間が在れば、これらの関係をディスクールや囚人のパラドクスでも考えてみたい。

No.618 - 2013/07/20(Sat) 10:33:16

kawaii = kowai / 水上雅敏
番組『探偵ナイトスクープ』ではよくある恐怖症克服の依頼。今回は風船が怖い(比較的大きな風船が。また、割れると思うと、怖い、割れる音が怖い)というもの。大体探偵による治療法とは、いわゆる脱感作的な行動療法(怖いものにだんだん慣れていく)。おもしろいのは、大体の場合、克服したあとは、その恐怖対象は「かわいい」と感じられること。あと時々あきらかになるのが、克服後に、恐怖が別の対象に移ったりすること。あと、興味深かったのが、子のかたつむり恐怖克服を母が求めてきたが、子が克服したとたん、母がかたつむりを怖いと感じ始めたこと。母と子の間をファルスが移動したということか(思考転移のように。どこかに無いといけない、母子の去勢を想像させるものとして)?

「かわいい」と「こわい」は裏表? 

そういえば、「かわいい」、と「こわい」発音も似ている。

No.617 - 2013/07/13(Sat) 15:12:05

ムンクの叫びと三角形とオーロラ / 水上雅敏
ムンクの「叫び」、NHKで先日あらためて見ての発見は、耳をふさぐ人物の後ろの海が青い「三角」であること。

そもそもムンクには、さまざまな形で3がうかがえる。「叫び」にしても、登場人物は三人で、欄干を形成する横棒も3つ。

三角はしばしば邪眼除けとして昔からさまざまな文化で使われるところ。これはなぜかよくわからない。

あと、「叫び」の放送日とほぼ同じくして見たノルウェーの「オーロラ」の映像、これが「叫び」の空のくねった形を連想させた。ムンクの中で「オーロラ」=「自然の叫び」というような連想があったかどうかはもちろん定かではないが。ただ、TVでの「オーロラ」は緑色であって、ムンクが空に塗った赤色と補色で在る分、逆に、背後にオーロラの連想を秘めているのでは、とも考えさせるが、まったく根拠ない。たぶんまったくつながりはないだろう。まずムンクにとってこの赤色にありそうな連想としては家族の女性陣が多く患っていたらしい結核の吐血というところか・・・。

No.616 - 2013/07/11(Thu) 05:29:21

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