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<カフェ・フジタ>

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平安美人 / 水上雅敏
「<貴婦人>の肉体が「g'ra delgat e gen」と記されている、つまり外見的丸ぽちゃが当時のセックスアピールのように記されていること―「e gen」とは美しいという意味です―これに騙されないようにしてください。なぜなら<貴婦人>たちはいつもこう呼ばれていたのです。」(セミネール7上 邦訳226p)。

こんなことを言われると、よく言われるように平安美人はぽっちゃり型というのも嘘ではないか、とも思ってしまいますがまさかそんなことは・・。

No.615 - 2013/07/11(Thu) 05:14:31

超越数が示す現実界をいかに象徴化しえるか? / 水上雅敏
S barreでも対象aでもない現実界。
超越数がさしているところのものがその一つと言えるか?
対象aが黄金比だとして(ラカンや、また新宮氏が解説しているように)、斜線を引かれた女(La barre)が対象aのサンブランだとすると、超越数のさししめしているところの現実界は、そのサンブランさえないということになるのか。

・・・ということを『連分数の不思議』(木村俊一 講談社)を読んで考えた。

要約すると、まず
・黄金比は代数的数である。代数的数=有理数の方程式の解になるような数。そして黄金比はx^2−x−1=0の解。
・超越数は代数的数でないような実数のこと(πやeはそうらしい)。(以上、『連分数の不思議』講談社 を参考した)
・・ということになる(私が間違っていなければ)。

ということは、整数を係数としたxを使った式であらわされる黄金比は、どうにか有理数の式で囲えると言うことになり、デジタルなものである思考の連鎖と少なくとも関連は付け得るということにはなる。しかし超越数のさすものはそうできない種類の現実界だということになる。

ただし超越数について別の本を調べてみると次のような式に出会った。
・1−1/2+1/3-4/1+5/1-・・・=log2(自然対数)
・1-1/3+5/1-7/1+9/1=・・・=π/4
・・・でこれらも超越数とのこと。超越数でもこういうかたちであればデジタルなものとつなげ得ると言うことか。

しかし対象aの場は黄金比で占められているから、ともかく超越数のさす領域は、対象a以外の現実界の部分だとしか考えられないように思える。

ところで、上記文献における次のような記述も面白い。

1:「黄金比はどの有理数からももっとも離れている無理数であるという結果を紹介した。この話を聞いて、「ということは、黄金比は無理数の中の無理数なんですね?」と質問した人がいる。とてもよい質問だ。答えはNOである。第9章第2節の定理10「リウヴィユの定理」で紹介する通り、有理数から遠く離れた数ほど、精度が高い有理数近似が在る、という結果がある。黄金比がよい有理数近似を持たない、ということは黄金比は無理数の中でもっとも無理数らしからぬ数だ、ということを意味するのである」(p237)<リウヴィユの定理は私が不勉強でもあり省略>
2:「有理数による近似がもっとも悪い無理数は、黄金比である。もしかしたら植物はそのことを知っていて、黄金比回転で葉っぱや松ぼっくりの鱗片を配置しているので植物の渦巻の腕の本数にフィボナッチ数が出てくるのかもしれない」(238p)
3:「代数的数の近似分数の精度はそれほどよくは出来ない。逆に言うと、ものすごく精度の良い近似分数を持つ数は、代数的数ではない。そこでそのような、ものすごく精度の良い近似分数を持つような数を強引に作ってやれば、それが超越数になるのだ。」(270p)

いろいろそこから連想してみた。

精神分析的に、2を実現させるには、隙間隙間へと入っていくような解釈あるいは分析主体側にそういう言葉を進めるような解釈をすればよい、ということだろうが、超越数でしめされる現実界まで象徴化するにはどうするか?・・たとえば今本人の語っているところのものに非常に近似した言葉を返す・・というのが1、3からすると考えられるが、これではまだあまりに単純すぎる考えだ。超越数は代数的数としては表せない=かつての象徴的連鎖との接点が一切持てない、と考えると、思い起こされるのは、フロイトの「構築」。たしか、分析主体が無反応であろうが、「構築」を与えておくのがよいというような旨を彼は述べていたように覚えるが、それについて、「分析主体が彼の持つ象徴的連鎖につなげ得なくても何か「違和物」がそこに差し込まれていると感じ続けることがなにかの効果(たとえば、自分にはまだ知りえない現実界と言う穴が開いていると思い続けられるというような)をもたらすのかな」、と考えたこともあるが超越数はそういうずっと違和物であるような構築に対応すると言えるだろうか?・・とも考えるが、超越数はもっと見えない微細なものであって、これはあまりにおおざっぱな比ゆ的でしかない考えだろう。また、代数的数形成的な解釈と、上記のlog2やπ/4のような式で迫っていくかのような2種の解釈があるかもしれない、と考えてみるのもおもしろそうだ。

また、『オイラーの贈物』(吉田武 ちくま学芸文庫)348pには次のようにある:
「超越数であるeやπを組み合わせたe+πや、e×πが超越数であるかどうか、現在もなお解明されていないのである」:
これも面白い。もし、このように超越数を組み合わせることで代数的数ができるとすると、たとえば、ひとつだけでは分析主体の象徴的連鎖に何も触れず何の反応も起こさないような解釈も、2つ組み合わせれば反応を起こさせ、今までずっと象徴化されない現実界であったものも挟み込むように象徴化できる可能性が多少は示されることにもなりそうだから。といってもまだまだ比ゆ的なレベルを脱していない思いつきに過ぎない。

No.614 - 2013/07/11(Thu) 04:31:58

回転の錯覚と、ひまわり的らせん構造 / 水上雅敏
590(ホワイトノイズ凝視)でもとりあげた件ですが。以下『眼球の中のマンダラ』(杉浦康平)(「叢書 文化の現在 2身体の宇宙性」に所収)から抜粋。

:「動き回るノイズパターンを凝視し続けていると、まず画面各所に、回転する小さな輪の群れが見え始める。円運動はすぐに画面いっぱいに広がり、ゆっくりと右左に旋回する多面体(奥行きを持つように見える)の動きの中に、溶解していく。奇妙なことに、瞬きをするたびに、旋回方向が変わる。注視し続けると回転に速度が加わり、再びノイズパターンの中に落下し、消えてゆく。この間わずか数秒〜数十秒。多面体生成は無限に続き、あきることがない。・・人の眼は、奇異な特性に満ちている。乱雑さの中に少しでも規則性が潜在すると、それを積極的に図として取り出し、構造化して見てとってゆく。逆に、規則的な図に微小なゴミが付着し構造が破壊されると、その要因をも易々と摘出してしまう。・・:

>「奇妙なことに、瞬きをするたびに、旋回方向が変わる。」

単に、バランスをとっているというのみでなく、例えば、ひまわりの種が、時計回りの螺旋(複数)と、反時計回りの螺旋(複数)に沿ってならび、それぞれ回転における螺旋の本数はフィボナッチ数列の隣接する2つの数で与えられる、というようなのと同じ動きが実はそこにあるとは考えられないか。それはまた、種が互いに最も合理的な形で隙間、隙間へと狙ってはいるかたちでもある、つまり、もっともモアレを作らない形であると言えるが、私たちの視覚把握においても、そういう螺旋的な動きを背景にそなえておくことによって、エネルギー節約的に、その規則性からはずれたものだけを抽出すれば視野における全体像をつかめるようにしているのではないか。まさに「規則的な図に微小なゴミが付着し構造が破壊されると、その要因をも易々と摘出してしまう」というように。上記の錯覚は、まさに、そういう私たちの脳の側に常にある、―実は何を見ていてもそのように働いている―自らの視覚的な把握のしかたの反映なのではないか。まばたきは、まさに、そのようにフィボナッチ数の螺旋を一つ一つ逆回転させつつ進めるような、あるいはある限られた寄り添う2つのフィボナッチ数の螺旋を逆回転しつつ反復させるような(それぞれの回転について、まばたきごとに、一方を前景化、他方を背景化、を切り替えている)、そういうスイッチの切り替えになっていないか。・・単に何の根拠もない仮説ですが・・。

あと、記憶違いかも知れませんが、どこかとどこか(前頭と後頭?)の脳波が同調したり崩れたりのリズムが何秒ごとかにある、という話を聞いたこともあり、さらに、これがまばたきとも関係している(←ここになるとさらに私の記憶があいまいですが)とも聞いたこともあると覚えますが、そういうこともここにかかわらせて考えることもできるかも知れません。

No.613 - 2013/07/08(Mon) 05:38:28

とりあえず・・ / 水上雅敏
現実界を多くの波、象徴界を、そのうちの一部の波の抽出と、それを行うトップダウン的な波の交差(言い換えると、スペクトル解析される波とする波?)として考えてみる。
No.612 - 2013/07/07(Sun) 05:55:37

エロス一元論?? / 水上雅敏
>主体も、欲望も動かず、イマジネールなものだけが動いているということになる。

しかし、そう考えると私はエロス一元論だという批判を負うことになるか??

たとえ、イマジネールなものの崩壊を考えたとしても、ただプラスのものが0になるという程度のことしか考えていないようにも見えるから・・。

逆に、欲望を無へと向かう能動的な動きとして認めて、イマジネール的な「存在への希求」は、この無への動きの半ばに一時的に、「マイナス×マイナス」がプラスになるようなものとして現れただけ、ととる見方もありえるかも知れない。

No.611 - 2013/07/01(Mon) 15:17:54

非風非幡 / 水上雅敏
となると、主体も、欲望も動かず、イマジネールなものだけが動いているということになる。

非風非幡(無門関・第29則)という公案を思い出した。「旗が動いた」「いや風が動いたのだ」と争う2人の僧に、「あなたの心が動いたのだ」と告げるもの。しかし、当該の問題の場合それでいいのか? より正確には、どちらかに固定点をとるのはあまりにも恣意的であって、相対的に見るべきだとも思う。しかし、個人的にはイマジネールなものが動く、と考えたほうが考えやすい。天動説より地動説のほうが考えやすいように。

No.610 - 2013/07/01(Mon) 14:57:12

欲望をヌルラインとして考えてみる / 水上雅敏
欲望を、光円錐のヌルラインのようなものと考えて、他の軸を、知覚シニフィアンの連鎖として考えてみることができないか・・。まだ真剣に考えていませんので具体像が出来上がっていませんが・・。
No.609 - 2013/07/01(Mon) 14:38:19

欲望は存在しない、と思考実験してみる / 水上雅敏
欲望と言うものも、無へと向かって何か積極的に前に進んでいるものとイメージされやすいと思うが、実は無に崩されつつ常に無に抵抗して存在を保とうと「空回り」しているイマジネールの位置から見るから、その反映(鏡像的に逆転されたような反映。:電車でこちらが動いているのに、向こうの停止している電車が動いて見える錯覚のような)としてそう見えるだけで、実は欲望と言うものは存在しない、イマジネールな空回りがあるだけだ・・というふうにとらえることはできないか?
No.608 - 2013/07/01(Mon) 14:21:26

自由連想の要求が肛門愛的要求になってしまわぬか / 水上雅敏
「心に浮かぶことすべてを言葉にしてください」という基本原則。これはこれで、肛門愛的な要求になってしまうことはないか。大便をすべて出し切りなさい、というような。しかし、これはぎりぎりしかたのないことであって、この要求を通し、この要求を超えて欲望へとすすむことを期待するしかないのか。「言いにくいことは、言わなくてもよいです」とか、前もってこちらから言うことは、こちら側の抵抗でもありそうだし、相手に対してのおせっかい、前もっての余分な枠づけであるようにも感じる。或る分析で、分析家は当の最初から何も言わずににこにこしているだけであったから、こちらからぽつりぽつりとともかく話し始めた、というような旨の分析主体からの報告を読んだことがあるが、本当ならそういうのが一番良いのか??
No.607 - 2013/07/01(Mon) 14:03:50

中野さん / 水上雅敏
>構造としてとらえた心的なものを再擬人化することになってしまうように思えます。

そうなんですよね。今のところ、欲望はS barre とは違うところからきて、見方によっては、S barre 自身が欲望しているように見えるかも知れないけど、実は、S barre 自身は何もできない案山子のような存在なのではというイメージを持っています。

レスありがとうございました。

No.606 - 2013/06/29(Sat) 04:45:06

水上さんへ / 中野雅哉
間違えちゃった。無限円転→無限遠点。
No.605 - 2013/06/28(Fri) 02:33:09

水上さんへ / 中野雅哉
>S barre <>aの解釈

やっぱり後者のほうがより正確なんじゃないでしょうか?想像界(図像的情報処理)と象徴界(言語的情報処理)に割って入られているから「空間、時間の無限円転」としてしか現実界は指示しえない、という構造。S barre自身が欲望を持っていると考えると、構造としてとらえた心的なものを再擬人化することになってしまうように思えます。

No.604 - 2013/06/28(Fri) 02:28:53

S barre <>aの解釈 / 水上雅敏
Sbarre<>aの解釈。Sbarreが対象aと一体になろうとするというように、S barre自身が欲望を持っているように解釈していいのか、あるいは、もともとはSaとして一体であり、実はSやa両者はRとして今でも一体であるのに、そこに象徴界が割ってはいったものだから、その位置から見ると、2つが分かれていて、2つが一体となろうとしている、と見えるだけか?
No.603 - 2013/06/26(Wed) 13:56:06

(No Subject) / 中野雅哉
藤田さんへ
なるへそ。いろいろ言い回しを変えて多方向から説明を試みるかあ。助かりました。なんか考えてみます。

水上さんへ
そんな大したものではないです。なんかいい語法を考えて、あとでここに書いてみようと思います。

No.602 - 2013/06/24(Mon) 21:29:30

対象aについて自問自答 / 水上雅敏
鏡像と言っても、まさに文字通り私の鏡の像における私の現実的身体とのズレ(そもそも左右反転からして)、と、たとえば母など欲望をそれ自体が持っている他者を鏡像とした場合の、その、私の現実的身体とのズレ、をどちらも同じ対象aと言っていいのかどうか・・・。たしかに、私の現実的身体の勝手な動きも、すでに他者の欲望が影響しているものだから、鏡に見える私の鏡像も、欲望をもった他者の像として、そのズレは他者の欲望の存在を示す対象aと言っていいのかもしれない・・・(?)。
No.601 - 2013/06/24(Mon) 17:14:34

残念 / 水上雅敏
藤田先生も完全には理解できなかったという、中野さんの発表お聞きしたかったですね。できれば、この掲示板で要点を披露していただくとありがたいです。
No.600 - 2013/06/24(Mon) 17:02:38

中野さんへ / 藤田博史
前回の発表は大変スリリングで興味深く拝聴しました。しかしながら物理的な時間が足らず、わたしとしては完全に理解できたとはいえません。ですから、近いうちにぜひもう一度前回の中野さんの主張をパラフレーズして新たな発表をお願いしたいと思います。お忙しいとは思いますが、どうぞご一考下さい。
No.599 - 2013/06/23(Sun) 14:07:55

初心に戻るぜ / 中野雅哉
この前の発表で言い足りなかったことです。
藤田さんのフェイバリット・フレーズ「精神分析は科学である」という命題はやはり不正確ではないでしょうか?精神分析的病理学の反証可能性の有無がどうとか、治療効果の二重盲検の不可能性がどうとかということではないです。そんなことは二次的なことで、むしろ、藤田理論と不整合ではないかということ。精神分析も科学も「直接的なものを間接的なもので扱うのではなく、(定義し得る)間接的なものだけを直接扱う」という方法のヴァリエーションであると考えたほうが整合的だと思います。そのほうが、フロイトに始まり、ラカンによるシニフィアンの導入に至って明確化された転回をさらに発展させることとしての藤田理論として豊饒なものになるとも思います。「精神分析は科学である」でも、「精神分析は科学のメタ理論である」でもない藤田理論。で、これは推測ですが、藤田さんも実はそのことをわかっていて、それが己の著作が広範に読まれる可能性を高めることに積極的でない理由のひとつなのではないでしょうか。
また、「精神分析は最大のジョークである」との言明は、「精神分析の考える治癒とは、分析主体の持つ任意の理論(症状)のメタ理論が必ず一つ以上成立可能なこと=分析主体をして『享楽を得る方法はこの症状ではなく、あの症状だ』(想像的去勢)や『享楽を得る方法はこの症状やあの症状だけだというわけではない』(象徴的去勢)という認識を産出せしめること、である」という意味でならわかります。不完全性定理への言及もこの意味でのみ理解可能です。逆にいえば、それ以外の意味ならば私にはわからない。傲慢かもしれませんが、上記の意味での精神分析や(量子論的精神分析を含む)藤田理論でないならば「私の考えていたものとは違う」というのが今の私のいちおうの結論です。
私は子供の頃、両親に「お百姓さんに悪いから米粒は絶対に残すな」と教わったので米粒を残さなかったのですが、今や当の両親が米粒をばりばり残していても気にならず、単に私が「お百姓さんに悪いから米粒は絶対に残さない」と思うので残さない。今そんな気分です。ではまた。

No.598 - 2013/06/19(Wed) 10:20:40

児童ポルノ法案に潜在する攻撃性 / 水上雅敏
「子どもを守る」という名目で、児童ポルノを所持しただけで処罰しようとする人々は、「クジラを守る」という名目で攻撃をしかけるシーシェパードに似ている。
No.597 - 2013/06/17(Mon) 03:30:06

藤田先生 / 水上雅敏
情報ありがとうございます。
感覚的な持続時間というのが面白いですね。

No.596 - 2013/06/17(Mon) 03:29:01

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