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<カフェ・フジタ>

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人間の可視光の範囲は1オクターブと等価的? / 水上雅敏
「光と色彩の科学」(齋藤勝裕 講談社)によると、人間の可視光の範囲は1オクターブと等価的らしい。以下、pp69−70より抜粋。

:私たち人間の目に見える電磁場を可視光といいますが、可視光は、波長でいうと400〜800ナノメートルの範囲に限られます。すなわち、幅広い電磁場の波長帯域のうち、私たちが目という感覚器官で知覚できるのはわずかこれだけの範囲でしかないのです。
 可視光の範囲に虹の七色が並びます。波長の短いものから並べると順に紫、藍、青、緑、黄、橙、赤となります。紫の端が400ナノメートルであり、赤の端が800ナノメートルになっています。この関係は、倍音の関係になっています。倍音とは、音楽で言えばオクターヴの関係です。すなわち、”下のラ”と”上のラ”は人間の感覚には同じように響きますが、振動数は下のラが440ヘルツ、上のラが880ヘルツと2倍の関係になっています。
同じように、400ナノメートルの光と800ナノメートルの光は、エネルギー的には異なりますが、色彩的には同じものと意識されてしまいます。色円で赤と紫が隣り合わせになり、それが人間の感覚に合っていると思えたのはこのような関係があったからなのです。:(以上)

400〜800という範囲については、文献によって多少のずれがあった記憶もありますが(?)ともかく400〜800ということにすると、そういう対数的にもすっきりとつかみえる範囲に知覚が限られている、というのが興味深いです。もっとも、それはトップダウン的な意識のつかみうる範囲の話であり、視覚器官自体が反応している範囲や、求心的にやってくる知覚の信号の範囲自体は、もっと広いのかも知れませんが、そうだとするとそれはそれでまた面白いことです(その漏れ落ちたものは、どこに溜まっているのか、どう影響しているのか、あるいは、スルーされるだけか)。

さらに以下のように、さまざまな連想がわいてきます。

・まず、色はすぐわかるのに、なぜ絶対音感はありにくいか(そもそも論理的には相対音階しかありえないと私は考えてますが)という問いがありますが、可視光の範囲が1オクターヴと等価、と考えると答えが出るように思えます。つまり、音階の場合は、どこに出発点をとっても、そこからの1オクターヴの上がり方はどれも等価になるから、その意味では、どの音もドetc.になりえる。ところが、色では、音階に比ゆすると、オクターブは特定のひとつしかなくていわばドを一点に決めることができ(例えばスペクトルの左端の青紫をドとするように)る、一番低いのをともかくドと言っていればいい、というようなことになるからだと思います。色彩において、絶対音階の難しさと等価な問題があるとすれば、それは、むしろ明暗の軸の上でのことになるのではないでしょうか。


・可聴音の領域自体は、視覚のように対数的にすっきりした領域に限定されているのかどうか・・。たしか、母音は、それを構成する一番下限の波と、上限の波はそうだった(そしてどの母音のフォルマントも対数軸上ですっきりしたポイントにプロットできる)と思いますが。

・色彩感覚はある意味ベンハムのコマの色彩的。音の感覚は、ある意味、こまの回転が遅くて、白黒の模様の周期がまだ見えているレベルで、ベンハム的な色彩の錯覚は起きていないレベルと言えないでしょうか。ベンハム的な色彩の錯覚を、白黒の周期がはやすぎてついていけなくなったが、コマの同心円の各層に違いがあることだけは少なくとも示そうとして(流行りの言葉で言えば、内容はわからぬが、次元を変えて「メタデータ」だけはつかむように)、可視光のスペクトルをそれらに分配する、というようなものとしてとらえた上のことですが。では、音において、このベンハムコマの色彩の錯覚に等価なものがあるか、といえば、それは、うなりや、母音の感覚だ、ということになるかもしれません。そういえば、母音も、対数的にすっきりとした構成に限定されています。むろん、色彩感覚すなわちベンハムのコマの色彩の錯覚とまったく同様というわけではありません。普通の色彩感覚の場合は、それを呼び起こす波は、外部に存在しており、ベンハムのコマの場合は、それが無い(内部に起きている可能性はあるでしょうが)。ただ、外部の波を、よりストレートに受け取っているのは聴覚であり(とくに、”もし”可聴範囲が対数的にすっきりとしたものに限定されてはいないならば)、相対的には、色彩感覚はよりベンハムのコマの錯覚的、あるいは、母音的と言えるかも、・・とも思います。ここでもう一つの問題は、色彩感覚にしろ、母音や唸りの感覚(あるいはもっとひろげて普通の音の感覚)にしろ、それを意識するためにトップダウン的な遠心性の波をそこに加える必要が絶対的にあるか、という問題です。「うなり」は多くの波の公差として二次的に浮き上がる波で、この様相自体は外部に存在するのだと思いますが、それをストレートに受けるだけではいけないのか、ここにあらためて、トップダウンの波をかけて複合させる必要があるのか、という問題です。多分、必要なのではと思うのですが・・。外有毛細胞(ダンス細胞)のダンスは、その一環なのでしょうか?

・可聴領域や、可視光領域は、動物の場合は、対数的にすっきりとした範囲に限定されているのでしょうか? たとえば、可聴領域についてそうではないとするなら、我々が2倍の周波数の音を1オクターヴ上の同質の音として感じるようには、動物は感じないということなのでしょうか? 

No.619 - 2013/08/03(Sat) 17:40:10

「私の言ってもないことを言ったように伝えられている」という症状について / 水上雅敏
「私のことをひそひそ悪く言っている・いっているように感じる」は、よくある訴え。時々、「私の言ってもいないことが裏で言われたように伝えられている」という訴えも聞かれる。

「他者の言っていないことを言ったかのように自分は聞き取っている」
⇔「自分の言っていないことを言ったかのように他者は聞き取っている」
ととらえると、対称的。常に一人の人で同居しているか、あるいはあらわれは違ってもそのようにもなりうる構造が潜在的にあるかは確認していないが。

ただ、「私の言ってもいないことが裏で言われたように伝えられている」というのがなぜ本人にわかるか、誰に伝えられたかについてケースはどう述べていたかについては私の記憶が薄い。ただ、この伝えてくれた第三者についての認識も本人の症状のうちに包めうる可能性もあるかも知れない。むしろその第三者への思いこそが特徴的であり、症状であって、「あの人たちが、あなたが〜と言ったといっていたよ」と伝えてくる第三者を作りたい、ということこそが問題である可能性もあるかも知れない(さらに、第三者の明確化抜きで裏で言ったこともないことを言われているように伝えられているとか、第三者にそう伝えられたとか、を分析家に言うこと自体も、症状に組み込んで考えるべき分析主体の工作かもしれない。まあ、何につけ、すべてそう考えるべきなのだろうが)。

となると、もし上記の対称性から考えるならば、この第三者と言うのは、「私のことをひそひそ悪く言っている・いっているように感じる」の場合では、何に相当するのか、という問題が出てくる。それは結局その私自身と言うことなのだろうか。私を「第三者との言うのも変だが、そもそも、先ほどの第三者(「あの人たちが、あなたが〜と言ったといっていたよ」と伝えてくる第三者)を第三者と考えていたのが間違いなのであり、実は第三者と言うより本人の鏡像的な存在なのかもしれないと考えられるのならば、問題はないのかも知れない。

時間が在れば、これらの関係をディスクールや囚人のパラドクスでも考えてみたい。

No.618 - 2013/07/20(Sat) 10:33:16

kawaii = kowai / 水上雅敏
番組『探偵ナイトスクープ』ではよくある恐怖症克服の依頼。今回は風船が怖い(比較的大きな風船が。また、割れると思うと、怖い、割れる音が怖い)というもの。大体探偵による治療法とは、いわゆる脱感作的な行動療法(怖いものにだんだん慣れていく)。おもしろいのは、大体の場合、克服したあとは、その恐怖対象は「かわいい」と感じられること。あと時々あきらかになるのが、克服後に、恐怖が別の対象に移ったりすること。あと、興味深かったのが、子のかたつむり恐怖克服を母が求めてきたが、子が克服したとたん、母がかたつむりを怖いと感じ始めたこと。母と子の間をファルスが移動したということか(思考転移のように。どこかに無いといけない、母子の去勢を想像させるものとして)?

「かわいい」と「こわい」は裏表? 

そういえば、「かわいい」、と「こわい」発音も似ている。

No.617 - 2013/07/13(Sat) 15:12:05

ムンクの叫びと三角形とオーロラ / 水上雅敏
ムンクの「叫び」、NHKで先日あらためて見ての発見は、耳をふさぐ人物の後ろの海が青い「三角」であること。

そもそもムンクには、さまざまな形で3がうかがえる。「叫び」にしても、登場人物は三人で、欄干を形成する横棒も3つ。

三角はしばしば邪眼除けとして昔からさまざまな文化で使われるところ。これはなぜかよくわからない。

あと、「叫び」の放送日とほぼ同じくして見たノルウェーの「オーロラ」の映像、これが「叫び」の空のくねった形を連想させた。ムンクの中で「オーロラ」=「自然の叫び」というような連想があったかどうかはもちろん定かではないが。ただ、TVでの「オーロラ」は緑色であって、ムンクが空に塗った赤色と補色で在る分、逆に、背後にオーロラの連想を秘めているのでは、とも考えさせるが、まったく根拠ない。たぶんまったくつながりはないだろう。まずムンクにとってこの赤色にありそうな連想としては家族の女性陣が多く患っていたらしい結核の吐血というところか・・・。

No.616 - 2013/07/11(Thu) 05:29:21

平安美人 / 水上雅敏
「<貴婦人>の肉体が「g'ra delgat e gen」と記されている、つまり外見的丸ぽちゃが当時のセックスアピールのように記されていること―「e gen」とは美しいという意味です―これに騙されないようにしてください。なぜなら<貴婦人>たちはいつもこう呼ばれていたのです。」(セミネール7上 邦訳226p)。

こんなことを言われると、よく言われるように平安美人はぽっちゃり型というのも嘘ではないか、とも思ってしまいますがまさかそんなことは・・。

No.615 - 2013/07/11(Thu) 05:14:31

超越数が示す現実界をいかに象徴化しえるか? / 水上雅敏
S barreでも対象aでもない現実界。
超越数がさしているところのものがその一つと言えるか?
対象aが黄金比だとして(ラカンや、また新宮氏が解説しているように)、斜線を引かれた女(La barre)が対象aのサンブランだとすると、超越数のさししめしているところの現実界は、そのサンブランさえないということになるのか。

・・・ということを『連分数の不思議』(木村俊一 講談社)を読んで考えた。

要約すると、まず
・黄金比は代数的数である。代数的数=有理数の方程式の解になるような数。そして黄金比はx^2−x−1=0の解。
・超越数は代数的数でないような実数のこと(πやeはそうらしい)。(以上、『連分数の不思議』講談社 を参考した)
・・ということになる(私が間違っていなければ)。

ということは、整数を係数としたxを使った式であらわされる黄金比は、どうにか有理数の式で囲えると言うことになり、デジタルなものである思考の連鎖と少なくとも関連は付け得るということにはなる。しかし超越数のさすものはそうできない種類の現実界だということになる。

ただし超越数について別の本を調べてみると次のような式に出会った。
・1−1/2+1/3-4/1+5/1-・・・=log2(自然対数)
・1-1/3+5/1-7/1+9/1=・・・=π/4
・・・でこれらも超越数とのこと。超越数でもこういうかたちであればデジタルなものとつなげ得ると言うことか。

しかし対象aの場は黄金比で占められているから、ともかく超越数のさす領域は、対象a以外の現実界の部分だとしか考えられないように思える。

ところで、上記文献における次のような記述も面白い。

1:「黄金比はどの有理数からももっとも離れている無理数であるという結果を紹介した。この話を聞いて、「ということは、黄金比は無理数の中の無理数なんですね?」と質問した人がいる。とてもよい質問だ。答えはNOである。第9章第2節の定理10「リウヴィユの定理」で紹介する通り、有理数から遠く離れた数ほど、精度が高い有理数近似が在る、という結果がある。黄金比がよい有理数近似を持たない、ということは黄金比は無理数の中でもっとも無理数らしからぬ数だ、ということを意味するのである」(p237)<リウヴィユの定理は私が不勉強でもあり省略>
2:「有理数による近似がもっとも悪い無理数は、黄金比である。もしかしたら植物はそのことを知っていて、黄金比回転で葉っぱや松ぼっくりの鱗片を配置しているので植物の渦巻の腕の本数にフィボナッチ数が出てくるのかもしれない」(238p)
3:「代数的数の近似分数の精度はそれほどよくは出来ない。逆に言うと、ものすごく精度の良い近似分数を持つ数は、代数的数ではない。そこでそのような、ものすごく精度の良い近似分数を持つような数を強引に作ってやれば、それが超越数になるのだ。」(270p)

いろいろそこから連想してみた。

精神分析的に、2を実現させるには、隙間隙間へと入っていくような解釈あるいは分析主体側にそういう言葉を進めるような解釈をすればよい、ということだろうが、超越数でしめされる現実界まで象徴化するにはどうするか?・・たとえば今本人の語っているところのものに非常に近似した言葉を返す・・というのが1、3からすると考えられるが、これではまだあまりに単純すぎる考えだ。超越数は代数的数としては表せない=かつての象徴的連鎖との接点が一切持てない、と考えると、思い起こされるのは、フロイトの「構築」。たしか、分析主体が無反応であろうが、「構築」を与えておくのがよいというような旨を彼は述べていたように覚えるが、それについて、「分析主体が彼の持つ象徴的連鎖につなげ得なくても何か「違和物」がそこに差し込まれていると感じ続けることがなにかの効果(たとえば、自分にはまだ知りえない現実界と言う穴が開いていると思い続けられるというような)をもたらすのかな」、と考えたこともあるが超越数はそういうずっと違和物であるような構築に対応すると言えるだろうか?・・とも考えるが、超越数はもっと見えない微細なものであって、これはあまりにおおざっぱな比ゆ的でしかない考えだろう。また、代数的数形成的な解釈と、上記のlog2やπ/4のような式で迫っていくかのような2種の解釈があるかもしれない、と考えてみるのもおもしろそうだ。

また、『オイラーの贈物』(吉田武 ちくま学芸文庫)348pには次のようにある:
「超越数であるeやπを組み合わせたe+πや、e×πが超越数であるかどうか、現在もなお解明されていないのである」:
これも面白い。もし、このように超越数を組み合わせることで代数的数ができるとすると、たとえば、ひとつだけでは分析主体の象徴的連鎖に何も触れず何の反応も起こさないような解釈も、2つ組み合わせれば反応を起こさせ、今までずっと象徴化されない現実界であったものも挟み込むように象徴化できる可能性が多少は示されることにもなりそうだから。といってもまだまだ比ゆ的なレベルを脱していない思いつきに過ぎない。

No.614 - 2013/07/11(Thu) 04:31:58

回転の錯覚と、ひまわり的らせん構造 / 水上雅敏
590(ホワイトノイズ凝視)でもとりあげた件ですが。以下『眼球の中のマンダラ』(杉浦康平)(「叢書 文化の現在 2身体の宇宙性」に所収)から抜粋。

:「動き回るノイズパターンを凝視し続けていると、まず画面各所に、回転する小さな輪の群れが見え始める。円運動はすぐに画面いっぱいに広がり、ゆっくりと右左に旋回する多面体(奥行きを持つように見える)の動きの中に、溶解していく。奇妙なことに、瞬きをするたびに、旋回方向が変わる。注視し続けると回転に速度が加わり、再びノイズパターンの中に落下し、消えてゆく。この間わずか数秒〜数十秒。多面体生成は無限に続き、あきることがない。・・人の眼は、奇異な特性に満ちている。乱雑さの中に少しでも規則性が潜在すると、それを積極的に図として取り出し、構造化して見てとってゆく。逆に、規則的な図に微小なゴミが付着し構造が破壊されると、その要因をも易々と摘出してしまう。・・:

>「奇妙なことに、瞬きをするたびに、旋回方向が変わる。」

単に、バランスをとっているというのみでなく、例えば、ひまわりの種が、時計回りの螺旋(複数)と、反時計回りの螺旋(複数)に沿ってならび、それぞれ回転における螺旋の本数はフィボナッチ数列の隣接する2つの数で与えられる、というようなのと同じ動きが実はそこにあるとは考えられないか。それはまた、種が互いに最も合理的な形で隙間、隙間へと狙ってはいるかたちでもある、つまり、もっともモアレを作らない形であると言えるが、私たちの視覚把握においても、そういう螺旋的な動きを背景にそなえておくことによって、エネルギー節約的に、その規則性からはずれたものだけを抽出すれば視野における全体像をつかめるようにしているのではないか。まさに「規則的な図に微小なゴミが付着し構造が破壊されると、その要因をも易々と摘出してしまう」というように。上記の錯覚は、まさに、そういう私たちの脳の側に常にある、―実は何を見ていてもそのように働いている―自らの視覚的な把握のしかたの反映なのではないか。まばたきは、まさに、そのようにフィボナッチ数の螺旋を一つ一つ逆回転させつつ進めるような、あるいはある限られた寄り添う2つのフィボナッチ数の螺旋を逆回転しつつ反復させるような(それぞれの回転について、まばたきごとに、一方を前景化、他方を背景化、を切り替えている)、そういうスイッチの切り替えになっていないか。・・単に何の根拠もない仮説ですが・・。

あと、記憶違いかも知れませんが、どこかとどこか(前頭と後頭?)の脳波が同調したり崩れたりのリズムが何秒ごとかにある、という話を聞いたこともあり、さらに、これがまばたきとも関係している(←ここになるとさらに私の記憶があいまいですが)とも聞いたこともあると覚えますが、そういうこともここにかかわらせて考えることもできるかも知れません。

No.613 - 2013/07/08(Mon) 05:38:28

とりあえず・・ / 水上雅敏
現実界を多くの波、象徴界を、そのうちの一部の波の抽出と、それを行うトップダウン的な波の交差(言い換えると、スペクトル解析される波とする波?)として考えてみる。
No.612 - 2013/07/07(Sun) 05:55:37

エロス一元論?? / 水上雅敏
>主体も、欲望も動かず、イマジネールなものだけが動いているということになる。

しかし、そう考えると私はエロス一元論だという批判を負うことになるか??

たとえ、イマジネールなものの崩壊を考えたとしても、ただプラスのものが0になるという程度のことしか考えていないようにも見えるから・・。

逆に、欲望を無へと向かう能動的な動きとして認めて、イマジネール的な「存在への希求」は、この無への動きの半ばに一時的に、「マイナス×マイナス」がプラスになるようなものとして現れただけ、ととる見方もありえるかも知れない。

No.611 - 2013/07/01(Mon) 15:17:54

非風非幡 / 水上雅敏
となると、主体も、欲望も動かず、イマジネールなものだけが動いているということになる。

非風非幡(無門関・第29則)という公案を思い出した。「旗が動いた」「いや風が動いたのだ」と争う2人の僧に、「あなたの心が動いたのだ」と告げるもの。しかし、当該の問題の場合それでいいのか? より正確には、どちらかに固定点をとるのはあまりにも恣意的であって、相対的に見るべきだとも思う。しかし、個人的にはイマジネールなものが動く、と考えたほうが考えやすい。天動説より地動説のほうが考えやすいように。

No.610 - 2013/07/01(Mon) 14:57:12

欲望をヌルラインとして考えてみる / 水上雅敏
欲望を、光円錐のヌルラインのようなものと考えて、他の軸を、知覚シニフィアンの連鎖として考えてみることができないか・・。まだ真剣に考えていませんので具体像が出来上がっていませんが・・。
No.609 - 2013/07/01(Mon) 14:38:19

欲望は存在しない、と思考実験してみる / 水上雅敏
欲望と言うものも、無へと向かって何か積極的に前に進んでいるものとイメージされやすいと思うが、実は無に崩されつつ常に無に抵抗して存在を保とうと「空回り」しているイマジネールの位置から見るから、その反映(鏡像的に逆転されたような反映。:電車でこちらが動いているのに、向こうの停止している電車が動いて見える錯覚のような)としてそう見えるだけで、実は欲望と言うものは存在しない、イマジネールな空回りがあるだけだ・・というふうにとらえることはできないか?
No.608 - 2013/07/01(Mon) 14:21:26

自由連想の要求が肛門愛的要求になってしまわぬか / 水上雅敏
「心に浮かぶことすべてを言葉にしてください」という基本原則。これはこれで、肛門愛的な要求になってしまうことはないか。大便をすべて出し切りなさい、というような。しかし、これはぎりぎりしかたのないことであって、この要求を通し、この要求を超えて欲望へとすすむことを期待するしかないのか。「言いにくいことは、言わなくてもよいです」とか、前もってこちらから言うことは、こちら側の抵抗でもありそうだし、相手に対してのおせっかい、前もっての余分な枠づけであるようにも感じる。或る分析で、分析家は当の最初から何も言わずににこにこしているだけであったから、こちらからぽつりぽつりとともかく話し始めた、というような旨の分析主体からの報告を読んだことがあるが、本当ならそういうのが一番良いのか??
No.607 - 2013/07/01(Mon) 14:03:50

中野さん / 水上雅敏
>構造としてとらえた心的なものを再擬人化することになってしまうように思えます。

そうなんですよね。今のところ、欲望はS barre とは違うところからきて、見方によっては、S barre 自身が欲望しているように見えるかも知れないけど、実は、S barre 自身は何もできない案山子のような存在なのではというイメージを持っています。

レスありがとうございました。

No.606 - 2013/06/29(Sat) 04:45:06

水上さんへ / 中野雅哉
間違えちゃった。無限円転→無限遠点。
No.605 - 2013/06/28(Fri) 02:33:09

水上さんへ / 中野雅哉
>S barre <>aの解釈

やっぱり後者のほうがより正確なんじゃないでしょうか?想像界(図像的情報処理)と象徴界(言語的情報処理)に割って入られているから「空間、時間の無限円転」としてしか現実界は指示しえない、という構造。S barre自身が欲望を持っていると考えると、構造としてとらえた心的なものを再擬人化することになってしまうように思えます。

No.604 - 2013/06/28(Fri) 02:28:53

S barre <>aの解釈 / 水上雅敏
Sbarre<>aの解釈。Sbarreが対象aと一体になろうとするというように、S barre自身が欲望を持っているように解釈していいのか、あるいは、もともとはSaとして一体であり、実はSやa両者はRとして今でも一体であるのに、そこに象徴界が割ってはいったものだから、その位置から見ると、2つが分かれていて、2つが一体となろうとしている、と見えるだけか?
No.603 - 2013/06/26(Wed) 13:56:06

(No Subject) / 中野雅哉
藤田さんへ
なるへそ。いろいろ言い回しを変えて多方向から説明を試みるかあ。助かりました。なんか考えてみます。

水上さんへ
そんな大したものではないです。なんかいい語法を考えて、あとでここに書いてみようと思います。

No.602 - 2013/06/24(Mon) 21:29:30

対象aについて自問自答 / 水上雅敏
鏡像と言っても、まさに文字通り私の鏡の像における私の現実的身体とのズレ(そもそも左右反転からして)、と、たとえば母など欲望をそれ自体が持っている他者を鏡像とした場合の、その、私の現実的身体とのズレ、をどちらも同じ対象aと言っていいのかどうか・・・。たしかに、私の現実的身体の勝手な動きも、すでに他者の欲望が影響しているものだから、鏡に見える私の鏡像も、欲望をもった他者の像として、そのズレは他者の欲望の存在を示す対象aと言っていいのかもしれない・・・(?)。
No.601 - 2013/06/24(Mon) 17:14:34

残念 / 水上雅敏
藤田先生も完全には理解できなかったという、中野さんの発表お聞きしたかったですね。できれば、この掲示板で要点を披露していただくとありがたいです。
No.600 - 2013/06/24(Mon) 17:02:38

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