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<カフェ・フジタ>

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精神分析の料金 / 藤田博史
わたしの場合

予備面接=5,000円
精神分析セッション1回=5,000円〜10,000円

※セッションの時間を限定しないラカン学派の精神分析であることを予備面接で説明します。
※2回目以降の料金は予備面接の時に決定します。
※1回のセッションの感覚的な持続時間は30分です。

No.595 - 2013/06/16(Sun) 22:46:55

変動時間セッションと分析家と非分析者の主体 / 水上雅敏
やはり変動時間セッションは重要なことではないか、いわゆる「現実」の知覚で意識される時間というものを優先する、というのは、本人の主体や象徴界の進展を十分には重視してないことではないか、とあらためて感じます。結局、そうやって、現実の時間を優先してセッションを終えてしまう分析家は、非分析者からしても、いわゆる現実の擁護者、権化にすぎず、主体の無い存在としてしか考えられないのではないか、とも思います。と言って、まだ私は変動時間セッションを行っていないのですが・・。
No.594 - 2013/06/14(Fri) 03:42:06

料金 / 水上雅敏
いろいろ考えても結局、分析の料金を高めに(時々言われるように、生活に多少の余裕がなくなる程度に)設定することこそが、切迫感を比分析者に導きだすと言う意味で、正しいわけであり、そうしないまま、「どうにか技法を変えれば被分析者において分析を進展させえるのではないか」、・・とばかり考えているのは、私自身の、料金を上げることに対する防衛ではないか、と思わされる場合があります。あるいは、変動時間セッションで切迫感をひきだすというのもあると思いますが。

あからさまでなくとも、またあまり本人の意識にさえなくとも、他者の要求で分析に来るのではなく、自分の欲望で来るのだ、と、本人自身も意識し、私もわかるために、あるいは最初からスクリーニングをかけるためにも(←無駄な時間と労力を被分析者に負担させないためにも)「まあ、これくらい払ってカウンセリングでも受けておけば、わたしをここに差し向けた親(なり、他の人)を満足させてあげられるだろう」という気持ちでは支払えない程度には高額の料金を設定する、というのも必要なのではないか、と感じる場合もあったりします。

逆に高すぎるのは、高額なお布施を要求する新興宗教に似て、これだけのもの支払って特別なことをやっている私というナルシズムを強めたり、マゾヒズムを温存させ続けたりする可能性もあるかとも思います。

No.593 - 2013/06/14(Fri) 03:34:18

藤田さんへ 「Fujita theory revisited」 / 中野雅哉
なんかメールの出し方がよくわからないんで、ここで失礼します。
次回6/13の発表のタイトルは「Fujita theory revisited」でお願いします。

んで、予告編ですが、今夜はフロイトもラカンも忘れて、藤田理論からスタートすると世界はどう見えるか?というとてもファッキングレートな内容です。てなわけで6/13の夜は、全国津々浦々の暇で寂しがり屋の男性・女性・中性たちよ、世界を放浪中のノイラートの船、新宿クレマスターにハッピーカムカム(^O^)/

No.591 - 2013/06/08(Sat) 22:16:58

ホワイトノイズ凝視 / 水上雅敏
以下『眼球の中のマンダラ』(杉浦康平)(「叢書 文化の現在 2身体の宇宙性」に所収)から抜粋。:

「動き回るノイズパターンを凝視し続けていると、まず画面各所に、回転する小さな輪の群れが見え始める。円運動はすぐに画面いっぱいに広がり、ゆっくりと右左に旋回する多面体(奥行きを持つように見える)の動きの中に、溶解していく。奇妙なことに、瞬きをするたびに、旋回方向が変わる。注視し続けると回転に速度が加わり、再びノイズパターンの中に落下し、消えてゆく。この間わずか数秒〜数十秒。多面体生成は無限に続き、あきることがない。・・人の眼は、奇異な特性に満ちている。乱雑さの中に少しでも規則性が潜在すると、それを積極的に図として取り出し、構造化して見てとってゆく。逆に、規則的な図に微小なゴミが付着し構造が破壊されると、その要因をも易々と摘出してしまう。・・:

蛍の光の一群にシンクロを見ると言うのは、またメカニズムが違うか、実際にシンクロしているのだと思いますが・・。

No.590 - 2013/06/04(Tue) 23:48:58

どこで切り取って意味作用をかけるか 視覚版 / 水上雅敏
山口市の一の坂川では、ほたるの季節後半です。今年はなぜかいつになく数が多いです。基本ゲンジボタルだと思うのですが、どうも3、4メートル範囲内くらいが1グループとなってシンクロして光るのではないか(その外の蛍たちは、また別のグループ内で独自にシンクロとしていて)、と、ここ何年か感じていました。そう思ってさきほども眺めていたのですが、idさんの書き込みをふと思い出し、もしかしたら、自分が勝手にグループの境い目を作ってしまってシンクロしているように感じるだけで、他の人は少しずれたところでグループを区切ってそれがシンクロしているように感じているのかも知れないな、とか、実は、どこも全然シンクロしていないのかも知れない、・・などと考え始めていました。いまだによくわかりませんが・・・。
No.589 - 2013/06/04(Tue) 23:19:20

エーアイアイ〜撮ったのかよ / id
人はそれぞれ異なる音を聞いているということだな。

ttp://www.youtube.com/watch?v=myLpxK279HI

No.588 - 2013/06/02(Sun) 15:04:58

語りの最初の音素と名前 / 水上雅敏
分析中の語りにおいては、各文の出始めに、本人の名前の読みの音素を使うことが多い(名前がMasatoshi、ならm、s、t、shの発音で始まる言葉から文を始める)人もいたりするのではないか・・。希望的観測かも知れませんが。
No.587 - 2013/06/01(Sat) 15:57:44

夢解釈の必要十分な数は4? / 水上雅敏
『La méthode de lecture de l’un nœud』(ttp://jeanmichel.vappereau.free.fr/textes/noeud/chapitre2/chapitre2.html)の「肉屋の女房の夢」は4つの解釈ができる、というくだりの続きの部分の抜粋(かなり後半のa5 - Les quatre interprétations du rêve de “la belle bouchère”:あたり):

Comment par conséquent serrer de plus près le fait qu’un rêve est susceptible de quatre interprétations différentes qui sont chacune aussi justes et coordonnées entre elles, si ce n’est que de se saisir de ces coupures condensant la désorientation de la surface d’empan d’une chaîne faite de plusieurs ronds.

Quatre coupures valent pour trois ronds d’après notre algorithme et le petit calcul que nous venons d’indiquer.

La coupure, c’est ce que doit tracer l’interprétation du nœud qui n’a pas à être exhaustive, passer par toutes les zones; il lui suffit de résumer la désorientation en réorientant l’ensemble de la surface donnant leur sens aux zones de la partie non-nœud qu’elle ne traverse pas. :

le reveでなくてun reveとしている(1行目)ことからは、どんな夢に対しても、4つの解釈が必要十分と言うことでしょうか? 夢は3つの輪で出来ているということでしょうか?

では、ひとりの人の分析全体についても、最終的には4つの解釈に還元できるとか言うこともありえるのでしょうか。

その少し前に

:Dans le cas des chaînes, il y a donc plusieurs coupures. Si le nombre de ronds est noté r, le nombre de coloriage est (2^r) et le nombre de coupures est (2^(r–1)).:

と書いているところからすると、もし夢を作る輪が3つ以外でもありえるとすると、その輪の数をrとして、2の(r−1)乗の数の解釈がありえるのではないでしょうか?

そもそも著者(Vappereau)の言う輪とは何か、結びとは何か、がよくわかってないところでの疑問ですが、夢の解釈のあるべき数が法則的に導き出せる、とでも言っているようなところには興味深いものを感じます。(上記の文で言われているcoupure(解釈に相当する、あるいは、解釈が描くべき?coupure)をどう結び目なり輪なりに見出していくかの手続きはここに書くのは複雑なので、それは本文に託すことご了承ください。)

No.586 - 2013/06/01(Sat) 15:45:18

人間版バウリンガル? / 水上雅敏
「人気上昇・安倍総理の「話し方」をコンピュータ解析」
ttp://news.livedoor.com/article/detail/7668808/

人間版バウリンガルというところなのでしょうか?

「安倍総理や渡辺謙さんから得られる結論は、ビジネスの現場のプレゼンテーションにも、言葉の中身だけでなく、感情の要素も考慮に入れた訓練が必要ということだろう。言葉の背後に潜む感情表現こそ、プレゼン成功の肝になりうるのだ。」(上記記事より抜粋)

しかし本心でない限りいくらコントロールしても、抑圧は回帰するからどこかで本心がばれるでしょうね。コントロールしようとするほど、あきらかに見える形で・・ということになる可能性も高いとも思われますが・・・。

No.585 - 2013/05/13(Mon) 15:49:02

第4の者 / 水上雅敏
遭難した一行が、もうひとり余分にメンバーがいるように感じるというメカニズムはいくつか推測できるが(危機的状況から自分から観察自我を解離する分、全体を数えるときに自分を余計に数えてしまう、とか、一行のなかで行われるパロールのやりとりをつかさどる第三項―父の名―が、まわりが何もない刺激遮断の状況で、幻想的な実体化をうけてしまうとか)、しかし、聖書の以下のダニエル書の第4の人物はどう考えればいいのか。危機状況にいる当の人々が感じた余分なひとり、というのではなく、まったく離れた人(王)に見えた、余分な一人・・・ということですが・・。

その時、ネブカデネザル王は驚いて急いで立ち上がり、大臣たちに言った、「われわれはあの三人を縛って、火の中に投げ入れたではないか」。彼らは王にこたえていった、「王よそのとおりです」。王は答えていった、「しかし、わたしの見るのに四人の者がなわめなしに、火の中を歩いているが、なんの害も受けていない。その第四の者の様子は神の子のようだ」(ダニエル書:3.24〜25)

(上の「三人」とは、改宗をせまった王にさからい、自分たちの神は燃える炉からも救い出してくれる、と言った三人ですが)

No.584 - 2013/05/13(Mon) 14:17:13

自主性唱えて根本は支配している日本の教育、対、オランダの教育 / 水上雅敏
何の番組であったか、オランダの教育が紹介されており、個々の生徒が自主的に決めた勉強を進める。先生としては大変だが、結果はうまくいっている(指標がなんだったか忘れましたが)、という話がありました。

以前私は以下のような旨のこと書きました。

日本でノーチャイム制(授業の始まり終わりにチャイムがならない)の小学校が増えている。理由は基本は自主、自律の精神を育成するという意図から「自分で時計をみて行動できるように」との事のよう。しかし、それなら、突然帰る自主性、自由もあっていいはずで、そうでないかぎりは、「空気を読める人間になれ」という神経症的人間関係をすすめる教育であろう。

ということは、自主性をいうとしたら、理想的には就学義務をなくしておくべきだということです。

そこでオランダの学校ではどうなのだろうと調べてみました。
ttp://www.futoko.org/kodomo/page1115-240.html

守学義務があるのかどうかはっきりわかりませんが、日本よりかなり自由性は強く、登校を希望できる学校の選択域は広いようです。

中途半端にオランダのまねをして、自主性、などいいつつ、「学校の意向を読め、空気を読め、登校した上での自主性だ」などと、一見自由をみとめたようで実はコントロールをしている、そういう教育になってはいけないと思います。

No.583 - 2013/05/13(Mon) 12:39:27

想像的な無と絶対的な無、黄金比、涅槃原則と恒常原則 / 水上雅敏
下記の記事581考えていると、以下のような連想が生じてきました。

私たちが無と思っているのはまだイマジネールなレベルの無ではないか。下記の記事で言ったような根源的幻覚(それ以上還元不能な幻覚)のほうが、まだ、より真の無に近いものでもありえるのではないか。一部の神秘家のように「神は無なり」と言っても、その無は、人間のイマジネールな無を超えた絶対的な無であり、その分、場合によっては神が働きかけてきていると人間が感じられるような錯覚(つまり、実はそうではなく、人間の想う無の位置がずれていたから、向こうが動いているように感じるにすぎないのに)、を起こしえる無ではないか。あえて言えばそういう絶対的な無は「ゼロ」というより、花びらの構成の見せる数学的なeや黄金比のようなものであって、もっとも捕えがたく、規則性に基づいた予測をもっともスカすものではないか。さらに・・、フロイトの涅槃原則を0へと向かう傾向と考えるのではなく、eや黄金比的に進むものと考えると、恒常原則と整合的に考えられるのではないか。

No.582 - 2013/05/13(Mon) 05:02:59

「奇跡の生還に導く声」と、根源的幻覚 / 水上雅敏
NHK「地球ドラマチック「奇跡の生還に導く声〜“守護天使”の正体は?」では、危機状況に陥った人が、近くに(本当は居ないはずの)人の存在を感じたり、声に導かれ助かったりする事例が紹介されました。私としては山で遭難したグループが、どうも一人余分にメンバーがいるように感じるという、よく聞く話が思い出しました。番組の中では、洞窟に潜水中に命綱を見失って危機に陥ったときに、洞窟が明るく見えるようになり、以前一緒によく潜っていた夫の「落ち着いて」という声を聞いて、光るものが目に入るとそれが命綱だった、などの事例がありました。


さて、番組で紹介された科学者は、これは論理的な左脳ではなく右脳の働きだ、などと考えていたようですが、ちょっとナイーヴすぎるのではと思われました。

冷静に助かるほうへと導くのはむしろ論理的思考ではないでしょうか。それが、他者の声として聞こえるというのは、あわてているときに通常なら弁証的に在るはずのもう一方の落ち着かせるはずの思考が、あまりにあわてているものだから解離されて、別の人の声で聞こえる(よくその言葉を言ってくれた人の声と圧縮されるのかも知れませんが)ということなのではないか。上記の事例の「洞窟が明るく見えてきた」というのは危機状態で交感神経が高揚して瞳孔が開いたということではないか、そして、それはまた、それだけあわてていたということであり、上のような解離の在ったことの傍証にもなることのように思えます。

また、はっきり番組見てませんでしたが、宇宙空間の孤独にいた人が、他者の存在を感じた、という事例もあったと思います。そこからの連想ですが、実は、私たちも、常にそういう存在を幻覚しているが、いわゆる現実からの刺激が強すぎて背景化している、とか、現実と重なっていて、その幻覚を意識していない。上記の人は、感覚遮断的な状況にあったため、それが生(なま)で意識されたということなのでは、とも思われました。

さらに、それら幻覚のうちには、神経症的な抑圧が強くていわゆるヒステリー的な解離としてある場合と、もしかしたら、最大限に象徴化を進めても、どうしても残ってしまうような幻覚というのもあるのでは、とも考えました。つまり、ホロ―マスク錯視で、凹面であることがばれたのちにも、どうしても凸面にみてしまうようなのと等価な幻覚版、つまり、どうしても無へと還元しきれない根源的な幻覚があるのではないか、ということです。ホロ―マスク錯視を、そもそも「見る」ということ自体が他者のまなざしを探し続けていることであり、まなざしをその背後に想像させてくれる通常の凸的な他者の顔を期待してしまうのは必然的であるがゆえのものと考えると(←私の勝手な仮説ですが)、刺激の途絶えた外界に対しては、それと等価のような必然的な人物像の幻覚というものがありえるのではないか、ということです。

No.581 - 2013/05/13(Mon) 04:54:40

仏仏辞典の学習から連想された言語の構造 / 水上雅敏
その外国語の辞書、たとえば仏仏辞典など使うと、意味を調べても、さらに知らない単語が出てきて、結局わからない単語のほうが多くなった、ということにもなりかねません。しかし、そもそも言語と言うもの自体そういうものでしょう。母国語でも。だからこそ、ひとつ語を聞いてもいろいろと多くの言葉が連想されるのだと思います。いつまでも仏和辞典で学ぶことは、この連想に歯止めを常にかけ続けていることになるでしょう。仏仏辞典で学べば、上記したように多くの連想もまた仏語で行われてくる、いわば、前意識が仏語化されてくることになると思います。そして欲望を仏語に乗せて語ることもできるようになるでしょう。

たしかに、仏和辞典で調べると意味はすぐに分かりますが、仏仏辞典で調べてわからないまま多くの語や文が留保されたとしても、何かの機会に、一つの語の意味が予想ついただけで、同時に、その語と連鎖していた多くの語や文が芋づる式にわかってきたりもして、結局は、後者のほうが幾何級数的に理解度を増してくれて、前者の成長スピードを追い越してくれることにもなりはしまいかとも思います(数学的に、このスピードを比較する式を作れそうでもありますが・・)。

たしかに「最初の幾つかの語は和訳を知らないととっかかりができない」という反論は一見納得しそうです。しかし、たとえばLet's go!などというのは、和訳しなくてもイメージ化できるから、そういうのがいくつかあればそこから進めていけるのではとも思われます。いずれにしろ、そういう議論を聞くと思い出すのは、中学の教科書だったかで読んだ、解体新書の翻訳の話です。「フルヘッヘンド」が「高くなったところ」との意味だ、と分かっていただけで、そこをとっかかりに訳していった、という話だったと思います(多少記憶違いがあるかも)。

では、単語のひとつの訳がわかっているなり、イメージと結びついていれば十分なのか?

ウィキペディアの循環論法には次のようにあります。「有限の語彙の集合を用いて語彙全体を解説しようとする辞書や百科事典は、その構造上、定義されていない語を用いて定義を行うか、循環を含んだ定義を行うことが避け得ない。ここで挙げた東西の例のような循環の輪が狭い場合は既知の事柄が少なくなり有用ではないが、全体として循環の輪が大きければ、既知の事柄が多くなり有用となる。このように、循環の輪の中に既知の事柄が1つ以上あれば循環定義であっても有用となりうる。」

しかし、一つあればよいと言うのは、全体が関連付けられて体系化していてこそでしょう(どういう関連であるべきかはまだ考察不足ですが)。解体新書と言う限られた語数のものでは全体が体系化していず、むしろ切れ切れにさまざまな単語が入ってきているのでしょうから一つ訳がわかっているだけだとだめでしょう。そこで調べてみると、「フルヘッヘンド」から訳を始めたというのは杉田玄白による作り話のようです。

実際には、
「1.最初に絵を探す。291ページ目に有る絵に、人間の頭の上に「A」と符号が打ってある。
2.次に「A」の符号に対しての説明文を探す。
3.その文中の単語を1個づつ蘭蘭辞典で探す(その文章は頭について記述してあると推測される)。
4.その単語について辞典に書かれている説明文に出てくる単語を1個づつピックアップする。
5.その単語が、他に別の文章で使われていないか探す。
6.その単語が出てくる箇所を見比べて、その単語の意味を推測する。
という作業の繰り返し。
アルファベットも知らないところから医学書を訳すのだからすごい。
大文字/小文字から始め、筆記体は日本語の楷書と行書の違いだと知る。文法も日本語と違い述語が目的語より前に来る事(SV,SVO型)を漢語と同じであることと見抜く。」
・・・ということのようです。以上、
ttp://www.nakanishi-keiichi.com/mt/mt-search.cgi?blog_id=2&tag=%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%83%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%89&limit=20
より。

「(以上の)作業の繰り返し」とあるように、Aと頭の絵の対応からすべてがわかったわけでなく、やはり、いくつかの、絵などの、言語外のものとの対応が糸口とされたのでしょう。

しかし、ではそのような対応(イメージとの対応にしろ、翻訳にしろ)が、最低いくつあ
ればいいのか? 

ふと、素数定理(ある数Nまでの素数の割合は近似的に1/logN (底はe))など使えないか、とも考えました。ある人が今使っている多くの単語は、それ以前のすでに知っていた単語の組み合わせで定義できるはず。そういう単語は合成数と考えて、今持っている語彙数をNとしての、1/logNの割合の単語が言語外のものとの対応が必要(そういう単語は素数と考えるわけですが)と言えるではないか・・。と考えましたが、同音異義語があったり、同義語が有ったりも考えるとそうでもないかも知れず、まだあまり深く考ええてはいません。

と、ここまで言ったところで、ふりかえってみると、そもそも「ではそのような対応(イメージとの対応にしろ、翻訳にしろ)が、最低いくつあればいいのか?」という問いに問題があるのに気づきました。これでは人の言葉の根本のところには、イメージとぴったり対応した語がある、と考えていることになります(これはむしろ、4つ輪のボロメオの第1のエラーの構造を連想させます)。 最初の話(確定した意味に行き着かないからこそ一つの言葉を聞いて色々な言葉が連想される、という旨の)からずれてしまっています。正確には、根本にある、素数的な対応物と言うのは、無に一番近く接している語、というかより正確には多分「シニフィアンのセット」と言うべきなのかなと思います。それ以前の言葉では定義され得ない初めてのシニフィアンのセット(無を囲い込むようなフォルト・ダー的な、あるいは機知のような)・・そういうセットがいくつあればいいのか、というのが正しい問いなのかも知れません。では、個人の持つ言葉に対するそういうセットの割合を素数定理で表現できるか?・・、あるいは最初のフォルト・ダーだけがあれば十分なのか・・、まだ、つきつめえていません.また、素数定理をこう考えた場合、それはラカンがどこかで言っていた「父の名が成立するために必要なポワンドキャピトンの数」を見出すことにならないか、とも思いますが、これもまだ突き詰め得ていません。

No.580 - 2013/05/12(Sun) 04:10:43

団体体操と囚人のパラドクス / 水上雅敏
団体体操の練習で一人だけ失敗くりかえし、その人は申し訳なく感じている・・というようなドキュメンタリー時々見ますが、そこでよく思うこと。”みんなが囚人のパラドクスの囚人のようには動けず、その人を各自がタイミングをとるための土台・参照点にしていて、それで、その人を除いてみんなのタイミングがとれているのだ”、としたら、その人はそのための犠牲になっているということになる。そこに皆気づかずに、その人だけが責められている、その人も自分のせいで団体がうまくいかない、と、罪悪感にさいなまされている、としたら、不当なことだな、・・・ということ。

でも、意外と本番はうまくいく、というドキュメンタリーが多いのは偶然?

No.579 - 2013/04/22(Mon) 18:12:18

無へと向けた囚人のパラドクス / 水上雅敏
囚人のパラドクスを、意味や確信を得る(自分の背中の色を知る)、というより、むしろ、不確信のまま、先に動き出せるかの競争、早く去勢を受けて、むしろ無へといく競争として考えてみる・・。ラカン的には最初からそういうものだったのかも知れませんが、・・。

ともかく、そうすると、言語がこの世界に生じるには、少なくとも3人は必要だったということになるか??? しかし、3人で十分なのか・・? 言語は悠久の昔からあると幻想させてくれるほどの、輪郭の見えないほどの昔の先祖の存在は必要ないのかどうか・・がまだ私の中で考察不足。

No.578 - 2013/04/22(Mon) 18:01:58

コンピューターとテュケー / 水上雅敏
「天才棋士、コンピューターに敗れるの衝撃」(週刊ポスト4月26日号)。ソフトは、「ツツカナ」と名付けられているそうですが、この記事の中に、「ツツカナに疑問手が出て形勢は船江の楽勝形に。人間ならばあきらめて形作りをはじめるような局面になったがコンピューターはあきらめない」とありますが、結局ツツカナが勝ったようです。

将棋全くわかりません。疑問手というのは、失敗したかな、というような手でしょうか?

しかしツツカナにとっては失敗だったのか、ソフトに不足部分があったということなのか? しかし、もしかしたら、そういう偶然性も織り込んだソフトなのではないか(・・しかし、偶然性も織り込み済みというのなら偶然性ではないことになるからそういうのもパラドクシカルで変だけど・・)とも思いましたが、以下の記事など見ると、やはりソフトの不足部分ではあったのでしょうか??

ttp://kobachan358.blog.fc2.com/blog-entry-495.html:以下上記より抜粋(将棋を知らない私にはちんぷんかんぷんですが・・):

「△68金と打つ時『ツツカナ』は自玉の頓死筋に気がついていません。詰め手順が長手数の為、詰まされる局面が読みの範囲の外にあり、途中で読みを打ち切ってしまったのです。
気がついたのは数手後、読みの手数の範囲に詰みの局面が入った時でした。既に遅しでした。大損をしてしまい、敗勢の局面になっていました。人間なら悪手に嫌気がさして、諦めてしまいますが、ここからも頑張るのが、コンピューターソフトの良いところです。最後は逆転しました。詰みを読むのはコンピューターソフトの大得意な分野です。何故、自玉の頓死筋に気がつかなかったかのか?コンピューターソフトは膨大な量をしらみつぶしに読みますが、読んだ局面ひとつひとつに詰みがあるかどうかは調べません。ひとつの局面の詰みを読むなら、一瞬てすが、何億と読んだ局面すべての詰みを読むのには時間がかかすぎるからです。『ツツカナ』のハードはPC一台です。PC一台ですべての局面の詰みを読むことはできません。これがコンピューターソフトの弱点ですが、ハードを増強することによってカバーする事ができます。第5戦に登場する『GPS』はコンピューターを何百台と使用しますので、この弱点が補われています。」

No.577 - 2013/04/21(Sun) 15:52:07

声は日中残滓や文字以上に灯台下暗し的か / 水上雅敏
「灯台下暗し」で、無意識が一番手前のものにこそ出やすいとすると(むろん遠い、幼児期場面にも見出しやすいけど)、まさに、いまここの語り言葉を作っているものにこそ出やすいのだろう。

だとすると、夢でも、日中残滓以上に、文字、さらに線(文字を作るもとになるような)、さらに声にこそより灯台下暗し的な無意識が表れてこないだろうか??

声―線―文字―日中残滓    左ほど灯台下暗し、ということで・・・。

そういうことが夢に見出せるだろうか? 新宮先生が意味不明の文字の夢心象のことについては語っていたが、より無意識を直截にもっとも還元されたかたちで表現するものとして夢の中の声を考えられないか?? むろん、還元しきれていないときでも声の夢はありえるだろうけど、理論的にはそのように考えられないか。

No.576 - 2013/04/20(Sat) 05:13:44

日中残滓場面では、覚醒時にすでに抑圧があったのでは? / 水上雅敏
夢での、日中残滓として使われた前日の何かの場面。前日の覚醒時その場面を経験していたときは、それは何でもないできごとだったのだろうか。そして、夢が、夢見中に、夢思考を象徴するに都合がいいから選びだして使っている単なる材料にすぎないのか。

しかし、むしろ、前日、その場面を経験していた時にこそ実はそこに何か抑圧したくなる思考が付随してすぐに抑圧してしまったということがあったのではないか。この場合、夢分析と言うのはその場面(あるいはそれに隣接した場面)に付随していた思考を思い出す、という作業がメインになるのではないか。この場合、夢は、覚醒時において思考の抑圧が起きたポイントを知らしめてくれているだけのもの、ということになってしまうけど・・。

それとも、その覚醒時には、本当になんとも思わなかった場面(とりたてて思考の抑圧が起きなかった場面。起きたとしても他の場面以上ではないような場面)が、あらためて夢で何かの象徴として使われることがあるのだろうか・・。

No.575 - 2013/04/20(Sat) 04:57:10

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