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<カフェ・フジタ>

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対象aについて自問自答 / 水上雅敏
鏡像と言っても、まさに文字通り私の鏡の像における私の現実的身体とのズレ(そもそも左右反転からして)、と、たとえば母など欲望をそれ自体が持っている他者を鏡像とした場合の、その、私の現実的身体とのズレ、をどちらも同じ対象aと言っていいのかどうか・・・。たしかに、私の現実的身体の勝手な動きも、すでに他者の欲望が影響しているものだから、鏡に見える私の鏡像も、欲望をもった他者の像として、そのズレは他者の欲望の存在を示す対象aと言っていいのかもしれない・・・(?)。
No.601 - 2013/06/24(Mon) 17:14:34

残念 / 水上雅敏
藤田先生も完全には理解できなかったという、中野さんの発表お聞きしたかったですね。できれば、この掲示板で要点を披露していただくとありがたいです。
No.600 - 2013/06/24(Mon) 17:02:38

中野さんへ / 藤田博史
前回の発表は大変スリリングで興味深く拝聴しました。しかしながら物理的な時間が足らず、わたしとしては完全に理解できたとはいえません。ですから、近いうちにぜひもう一度前回の中野さんの主張をパラフレーズして新たな発表をお願いしたいと思います。お忙しいとは思いますが、どうぞご一考下さい。
No.599 - 2013/06/23(Sun) 14:07:55

初心に戻るぜ / 中野雅哉
この前の発表で言い足りなかったことです。
藤田さんのフェイバリット・フレーズ「精神分析は科学である」という命題はやはり不正確ではないでしょうか?精神分析的病理学の反証可能性の有無がどうとか、治療効果の二重盲検の不可能性がどうとかということではないです。そんなことは二次的なことで、むしろ、藤田理論と不整合ではないかということ。精神分析も科学も「直接的なものを間接的なもので扱うのではなく、(定義し得る)間接的なものだけを直接扱う」という方法のヴァリエーションであると考えたほうが整合的だと思います。そのほうが、フロイトに始まり、ラカンによるシニフィアンの導入に至って明確化された転回をさらに発展させることとしての藤田理論として豊饒なものになるとも思います。「精神分析は科学である」でも、「精神分析は科学のメタ理論である」でもない藤田理論。で、これは推測ですが、藤田さんも実はそのことをわかっていて、それが己の著作が広範に読まれる可能性を高めることに積極的でない理由のひとつなのではないでしょうか。
また、「精神分析は最大のジョークである」との言明は、「精神分析の考える治癒とは、分析主体の持つ任意の理論(症状)のメタ理論が必ず一つ以上成立可能なこと=分析主体をして『享楽を得る方法はこの症状ではなく、あの症状だ』(想像的去勢)や『享楽を得る方法はこの症状やあの症状だけだというわけではない』(象徴的去勢)という認識を産出せしめること、である」という意味でならわかります。不完全性定理への言及もこの意味でのみ理解可能です。逆にいえば、それ以外の意味ならば私にはわからない。傲慢かもしれませんが、上記の意味での精神分析や(量子論的精神分析を含む)藤田理論でないならば「私の考えていたものとは違う」というのが今の私のいちおうの結論です。
私は子供の頃、両親に「お百姓さんに悪いから米粒は絶対に残すな」と教わったので米粒を残さなかったのですが、今や当の両親が米粒をばりばり残していても気にならず、単に私が「お百姓さんに悪いから米粒は絶対に残さない」と思うので残さない。今そんな気分です。ではまた。

No.598 - 2013/06/19(Wed) 10:20:40

児童ポルノ法案に潜在する攻撃性 / 水上雅敏
「子どもを守る」という名目で、児童ポルノを所持しただけで処罰しようとする人々は、「クジラを守る」という名目で攻撃をしかけるシーシェパードに似ている。
No.597 - 2013/06/17(Mon) 03:30:06

藤田先生 / 水上雅敏
情報ありがとうございます。
感覚的な持続時間というのが面白いですね。

No.596 - 2013/06/17(Mon) 03:29:01

精神分析の料金 / 藤田博史
わたしの場合

予備面接=5,000円
精神分析セッション1回=5,000円〜10,000円

※セッションの時間を限定しないラカン学派の精神分析であることを予備面接で説明します。
※2回目以降の料金は予備面接の時に決定します。
※1回のセッションの感覚的な持続時間は30分です。

No.595 - 2013/06/16(Sun) 22:46:55

変動時間セッションと分析家と非分析者の主体 / 水上雅敏
やはり変動時間セッションは重要なことではないか、いわゆる「現実」の知覚で意識される時間というものを優先する、というのは、本人の主体や象徴界の進展を十分には重視してないことではないか、とあらためて感じます。結局、そうやって、現実の時間を優先してセッションを終えてしまう分析家は、非分析者からしても、いわゆる現実の擁護者、権化にすぎず、主体の無い存在としてしか考えられないのではないか、とも思います。と言って、まだ私は変動時間セッションを行っていないのですが・・。
No.594 - 2013/06/14(Fri) 03:42:06

料金 / 水上雅敏
いろいろ考えても結局、分析の料金を高めに(時々言われるように、生活に多少の余裕がなくなる程度に)設定することこそが、切迫感を比分析者に導きだすと言う意味で、正しいわけであり、そうしないまま、「どうにか技法を変えれば被分析者において分析を進展させえるのではないか」、・・とばかり考えているのは、私自身の、料金を上げることに対する防衛ではないか、と思わされる場合があります。あるいは、変動時間セッションで切迫感をひきだすというのもあると思いますが。

あからさまでなくとも、またあまり本人の意識にさえなくとも、他者の要求で分析に来るのではなく、自分の欲望で来るのだ、と、本人自身も意識し、私もわかるために、あるいは最初からスクリーニングをかけるためにも(←無駄な時間と労力を被分析者に負担させないためにも)「まあ、これくらい払ってカウンセリングでも受けておけば、わたしをここに差し向けた親(なり、他の人)を満足させてあげられるだろう」という気持ちでは支払えない程度には高額の料金を設定する、というのも必要なのではないか、と感じる場合もあったりします。

逆に高すぎるのは、高額なお布施を要求する新興宗教に似て、これだけのもの支払って特別なことをやっている私というナルシズムを強めたり、マゾヒズムを温存させ続けたりする可能性もあるかとも思います。

No.593 - 2013/06/14(Fri) 03:34:18

藤田さんへ 「Fujita theory revisited」 / 中野雅哉
なんかメールの出し方がよくわからないんで、ここで失礼します。
次回6/13の発表のタイトルは「Fujita theory revisited」でお願いします。

んで、予告編ですが、今夜はフロイトもラカンも忘れて、藤田理論からスタートすると世界はどう見えるか?というとてもファッキングレートな内容です。てなわけで6/13の夜は、全国津々浦々の暇で寂しがり屋の男性・女性・中性たちよ、世界を放浪中のノイラートの船、新宿クレマスターにハッピーカムカム(^O^)/

No.591 - 2013/06/08(Sat) 22:16:58

ホワイトノイズ凝視 / 水上雅敏
以下『眼球の中のマンダラ』(杉浦康平)(「叢書 文化の現在 2身体の宇宙性」に所収)から抜粋。:

「動き回るノイズパターンを凝視し続けていると、まず画面各所に、回転する小さな輪の群れが見え始める。円運動はすぐに画面いっぱいに広がり、ゆっくりと右左に旋回する多面体(奥行きを持つように見える)の動きの中に、溶解していく。奇妙なことに、瞬きをするたびに、旋回方向が変わる。注視し続けると回転に速度が加わり、再びノイズパターンの中に落下し、消えてゆく。この間わずか数秒〜数十秒。多面体生成は無限に続き、あきることがない。・・人の眼は、奇異な特性に満ちている。乱雑さの中に少しでも規則性が潜在すると、それを積極的に図として取り出し、構造化して見てとってゆく。逆に、規則的な図に微小なゴミが付着し構造が破壊されると、その要因をも易々と摘出してしまう。・・:

蛍の光の一群にシンクロを見ると言うのは、またメカニズムが違うか、実際にシンクロしているのだと思いますが・・。

No.590 - 2013/06/04(Tue) 23:48:58

どこで切り取って意味作用をかけるか 視覚版 / 水上雅敏
山口市の一の坂川では、ほたるの季節後半です。今年はなぜかいつになく数が多いです。基本ゲンジボタルだと思うのですが、どうも3、4メートル範囲内くらいが1グループとなってシンクロして光るのではないか(その外の蛍たちは、また別のグループ内で独自にシンクロとしていて)、と、ここ何年か感じていました。そう思ってさきほども眺めていたのですが、idさんの書き込みをふと思い出し、もしかしたら、自分が勝手にグループの境い目を作ってしまってシンクロしているように感じるだけで、他の人は少しずれたところでグループを区切ってそれがシンクロしているように感じているのかも知れないな、とか、実は、どこも全然シンクロしていないのかも知れない、・・などと考え始めていました。いまだによくわかりませんが・・・。
No.589 - 2013/06/04(Tue) 23:19:20

エーアイアイ〜撮ったのかよ / id
人はそれぞれ異なる音を聞いているということだな。

ttp://www.youtube.com/watch?v=myLpxK279HI

No.588 - 2013/06/02(Sun) 15:04:58

語りの最初の音素と名前 / 水上雅敏
分析中の語りにおいては、各文の出始めに、本人の名前の読みの音素を使うことが多い(名前がMasatoshi、ならm、s、t、shの発音で始まる言葉から文を始める)人もいたりするのではないか・・。希望的観測かも知れませんが。
No.587 - 2013/06/01(Sat) 15:57:44

夢解釈の必要十分な数は4? / 水上雅敏
『La méthode de lecture de l’un nœud』(ttp://jeanmichel.vappereau.free.fr/textes/noeud/chapitre2/chapitre2.html)の「肉屋の女房の夢」は4つの解釈ができる、というくだりの続きの部分の抜粋(かなり後半のa5 - Les quatre interprétations du rêve de “la belle bouchère”:あたり):

Comment par conséquent serrer de plus près le fait qu’un rêve est susceptible de quatre interprétations différentes qui sont chacune aussi justes et coordonnées entre elles, si ce n’est que de se saisir de ces coupures condensant la désorientation de la surface d’empan d’une chaîne faite de plusieurs ronds.

Quatre coupures valent pour trois ronds d’après notre algorithme et le petit calcul que nous venons d’indiquer.

La coupure, c’est ce que doit tracer l’interprétation du nœud qui n’a pas à être exhaustive, passer par toutes les zones; il lui suffit de résumer la désorientation en réorientant l’ensemble de la surface donnant leur sens aux zones de la partie non-nœud qu’elle ne traverse pas. :

le reveでなくてun reveとしている(1行目)ことからは、どんな夢に対しても、4つの解釈が必要十分と言うことでしょうか? 夢は3つの輪で出来ているということでしょうか?

では、ひとりの人の分析全体についても、最終的には4つの解釈に還元できるとか言うこともありえるのでしょうか。

その少し前に

:Dans le cas des chaînes, il y a donc plusieurs coupures. Si le nombre de ronds est noté r, le nombre de coloriage est (2^r) et le nombre de coupures est (2^(r–1)).:

と書いているところからすると、もし夢を作る輪が3つ以外でもありえるとすると、その輪の数をrとして、2の(r−1)乗の数の解釈がありえるのではないでしょうか?

そもそも著者(Vappereau)の言う輪とは何か、結びとは何か、がよくわかってないところでの疑問ですが、夢の解釈のあるべき数が法則的に導き出せる、とでも言っているようなところには興味深いものを感じます。(上記の文で言われているcoupure(解釈に相当する、あるいは、解釈が描くべき?coupure)をどう結び目なり輪なりに見出していくかの手続きはここに書くのは複雑なので、それは本文に託すことご了承ください。)

No.586 - 2013/06/01(Sat) 15:45:18

人間版バウリンガル? / 水上雅敏
「人気上昇・安倍総理の「話し方」をコンピュータ解析」
ttp://news.livedoor.com/article/detail/7668808/

人間版バウリンガルというところなのでしょうか?

「安倍総理や渡辺謙さんから得られる結論は、ビジネスの現場のプレゼンテーションにも、言葉の中身だけでなく、感情の要素も考慮に入れた訓練が必要ということだろう。言葉の背後に潜む感情表現こそ、プレゼン成功の肝になりうるのだ。」(上記記事より抜粋)

しかし本心でない限りいくらコントロールしても、抑圧は回帰するからどこかで本心がばれるでしょうね。コントロールしようとするほど、あきらかに見える形で・・ということになる可能性も高いとも思われますが・・・。

No.585 - 2013/05/13(Mon) 15:49:02

第4の者 / 水上雅敏
遭難した一行が、もうひとり余分にメンバーがいるように感じるというメカニズムはいくつか推測できるが(危機的状況から自分から観察自我を解離する分、全体を数えるときに自分を余計に数えてしまう、とか、一行のなかで行われるパロールのやりとりをつかさどる第三項―父の名―が、まわりが何もない刺激遮断の状況で、幻想的な実体化をうけてしまうとか)、しかし、聖書の以下のダニエル書の第4の人物はどう考えればいいのか。危機状況にいる当の人々が感じた余分なひとり、というのではなく、まったく離れた人(王)に見えた、余分な一人・・・ということですが・・。

その時、ネブカデネザル王は驚いて急いで立ち上がり、大臣たちに言った、「われわれはあの三人を縛って、火の中に投げ入れたではないか」。彼らは王にこたえていった、「王よそのとおりです」。王は答えていった、「しかし、わたしの見るのに四人の者がなわめなしに、火の中を歩いているが、なんの害も受けていない。その第四の者の様子は神の子のようだ」(ダニエル書:3.24〜25)

(上の「三人」とは、改宗をせまった王にさからい、自分たちの神は燃える炉からも救い出してくれる、と言った三人ですが)

No.584 - 2013/05/13(Mon) 14:17:13

自主性唱えて根本は支配している日本の教育、対、オランダの教育 / 水上雅敏
何の番組であったか、オランダの教育が紹介されており、個々の生徒が自主的に決めた勉強を進める。先生としては大変だが、結果はうまくいっている(指標がなんだったか忘れましたが)、という話がありました。

以前私は以下のような旨のこと書きました。

日本でノーチャイム制(授業の始まり終わりにチャイムがならない)の小学校が増えている。理由は基本は自主、自律の精神を育成するという意図から「自分で時計をみて行動できるように」との事のよう。しかし、それなら、突然帰る自主性、自由もあっていいはずで、そうでないかぎりは、「空気を読める人間になれ」という神経症的人間関係をすすめる教育であろう。

ということは、自主性をいうとしたら、理想的には就学義務をなくしておくべきだということです。

そこでオランダの学校ではどうなのだろうと調べてみました。
ttp://www.futoko.org/kodomo/page1115-240.html

守学義務があるのかどうかはっきりわかりませんが、日本よりかなり自由性は強く、登校を希望できる学校の選択域は広いようです。

中途半端にオランダのまねをして、自主性、などいいつつ、「学校の意向を読め、空気を読め、登校した上での自主性だ」などと、一見自由をみとめたようで実はコントロールをしている、そういう教育になってはいけないと思います。

No.583 - 2013/05/13(Mon) 12:39:27

想像的な無と絶対的な無、黄金比、涅槃原則と恒常原則 / 水上雅敏
下記の記事581考えていると、以下のような連想が生じてきました。

私たちが無と思っているのはまだイマジネールなレベルの無ではないか。下記の記事で言ったような根源的幻覚(それ以上還元不能な幻覚)のほうが、まだ、より真の無に近いものでもありえるのではないか。一部の神秘家のように「神は無なり」と言っても、その無は、人間のイマジネールな無を超えた絶対的な無であり、その分、場合によっては神が働きかけてきていると人間が感じられるような錯覚(つまり、実はそうではなく、人間の想う無の位置がずれていたから、向こうが動いているように感じるにすぎないのに)、を起こしえる無ではないか。あえて言えばそういう絶対的な無は「ゼロ」というより、花びらの構成の見せる数学的なeや黄金比のようなものであって、もっとも捕えがたく、規則性に基づいた予測をもっともスカすものではないか。さらに・・、フロイトの涅槃原則を0へと向かう傾向と考えるのではなく、eや黄金比的に進むものと考えると、恒常原則と整合的に考えられるのではないか。

No.582 - 2013/05/13(Mon) 05:02:59

「奇跡の生還に導く声」と、根源的幻覚 / 水上雅敏
NHK「地球ドラマチック「奇跡の生還に導く声〜“守護天使”の正体は?」では、危機状況に陥った人が、近くに(本当は居ないはずの)人の存在を感じたり、声に導かれ助かったりする事例が紹介されました。私としては山で遭難したグループが、どうも一人余分にメンバーがいるように感じるという、よく聞く話が思い出しました。番組の中では、洞窟に潜水中に命綱を見失って危機に陥ったときに、洞窟が明るく見えるようになり、以前一緒によく潜っていた夫の「落ち着いて」という声を聞いて、光るものが目に入るとそれが命綱だった、などの事例がありました。


さて、番組で紹介された科学者は、これは論理的な左脳ではなく右脳の働きだ、などと考えていたようですが、ちょっとナイーヴすぎるのではと思われました。

冷静に助かるほうへと導くのはむしろ論理的思考ではないでしょうか。それが、他者の声として聞こえるというのは、あわてているときに通常なら弁証的に在るはずのもう一方の落ち着かせるはずの思考が、あまりにあわてているものだから解離されて、別の人の声で聞こえる(よくその言葉を言ってくれた人の声と圧縮されるのかも知れませんが)ということなのではないか。上記の事例の「洞窟が明るく見えてきた」というのは危機状態で交感神経が高揚して瞳孔が開いたということではないか、そして、それはまた、それだけあわてていたということであり、上のような解離の在ったことの傍証にもなることのように思えます。

また、はっきり番組見てませんでしたが、宇宙空間の孤独にいた人が、他者の存在を感じた、という事例もあったと思います。そこからの連想ですが、実は、私たちも、常にそういう存在を幻覚しているが、いわゆる現実からの刺激が強すぎて背景化している、とか、現実と重なっていて、その幻覚を意識していない。上記の人は、感覚遮断的な状況にあったため、それが生(なま)で意識されたということなのでは、とも思われました。

さらに、それら幻覚のうちには、神経症的な抑圧が強くていわゆるヒステリー的な解離としてある場合と、もしかしたら、最大限に象徴化を進めても、どうしても残ってしまうような幻覚というのもあるのでは、とも考えました。つまり、ホロ―マスク錯視で、凹面であることがばれたのちにも、どうしても凸面にみてしまうようなのと等価な幻覚版、つまり、どうしても無へと還元しきれない根源的な幻覚があるのではないか、ということです。ホロ―マスク錯視を、そもそも「見る」ということ自体が他者のまなざしを探し続けていることであり、まなざしをその背後に想像させてくれる通常の凸的な他者の顔を期待してしまうのは必然的であるがゆえのものと考えると(←私の勝手な仮説ですが)、刺激の途絶えた外界に対しては、それと等価のような必然的な人物像の幻覚というものがありえるのではないか、ということです。

No.581 - 2013/05/13(Mon) 04:54:40

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