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<カフェ・フジタ>

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夢解釈の必要十分な数は4? / 水上雅敏
『La méthode de lecture de l’un nœud』(ttp://jeanmichel.vappereau.free.fr/textes/noeud/chapitre2/chapitre2.html)の「肉屋の女房の夢」は4つの解釈ができる、というくだりの続きの部分の抜粋(かなり後半のa5 - Les quatre interprétations du rêve de “la belle bouchère”:あたり):

Comment par conséquent serrer de plus près le fait qu’un rêve est susceptible de quatre interprétations différentes qui sont chacune aussi justes et coordonnées entre elles, si ce n’est que de se saisir de ces coupures condensant la désorientation de la surface d’empan d’une chaîne faite de plusieurs ronds.

Quatre coupures valent pour trois ronds d’après notre algorithme et le petit calcul que nous venons d’indiquer.

La coupure, c’est ce que doit tracer l’interprétation du nœud qui n’a pas à être exhaustive, passer par toutes les zones; il lui suffit de résumer la désorientation en réorientant l’ensemble de la surface donnant leur sens aux zones de la partie non-nœud qu’elle ne traverse pas. :

le reveでなくてun reveとしている(1行目)ことからは、どんな夢に対しても、4つの解釈が必要十分と言うことでしょうか? 夢は3つの輪で出来ているということでしょうか?

では、ひとりの人の分析全体についても、最終的には4つの解釈に還元できるとか言うこともありえるのでしょうか。

その少し前に

:Dans le cas des chaînes, il y a donc plusieurs coupures. Si le nombre de ronds est noté r, le nombre de coloriage est (2^r) et le nombre de coupures est (2^(r–1)).:

と書いているところからすると、もし夢を作る輪が3つ以外でもありえるとすると、その輪の数をrとして、2の(r−1)乗の数の解釈がありえるのではないでしょうか?

そもそも著者(Vappereau)の言う輪とは何か、結びとは何か、がよくわかってないところでの疑問ですが、夢の解釈のあるべき数が法則的に導き出せる、とでも言っているようなところには興味深いものを感じます。(上記の文で言われているcoupure(解釈に相当する、あるいは、解釈が描くべき?coupure)をどう結び目なり輪なりに見出していくかの手続きはここに書くのは複雑なので、それは本文に託すことご了承ください。)

No.586 - 2013/06/01(Sat) 15:45:18

人間版バウリンガル? / 水上雅敏
「人気上昇・安倍総理の「話し方」をコンピュータ解析」
ttp://news.livedoor.com/article/detail/7668808/

人間版バウリンガルというところなのでしょうか?

「安倍総理や渡辺謙さんから得られる結論は、ビジネスの現場のプレゼンテーションにも、言葉の中身だけでなく、感情の要素も考慮に入れた訓練が必要ということだろう。言葉の背後に潜む感情表現こそ、プレゼン成功の肝になりうるのだ。」(上記記事より抜粋)

しかし本心でない限りいくらコントロールしても、抑圧は回帰するからどこかで本心がばれるでしょうね。コントロールしようとするほど、あきらかに見える形で・・ということになる可能性も高いとも思われますが・・・。

No.585 - 2013/05/13(Mon) 15:49:02

第4の者 / 水上雅敏
遭難した一行が、もうひとり余分にメンバーがいるように感じるというメカニズムはいくつか推測できるが(危機的状況から自分から観察自我を解離する分、全体を数えるときに自分を余計に数えてしまう、とか、一行のなかで行われるパロールのやりとりをつかさどる第三項―父の名―が、まわりが何もない刺激遮断の状況で、幻想的な実体化をうけてしまうとか)、しかし、聖書の以下のダニエル書の第4の人物はどう考えればいいのか。危機状況にいる当の人々が感じた余分なひとり、というのではなく、まったく離れた人(王)に見えた、余分な一人・・・ということですが・・。

その時、ネブカデネザル王は驚いて急いで立ち上がり、大臣たちに言った、「われわれはあの三人を縛って、火の中に投げ入れたではないか」。彼らは王にこたえていった、「王よそのとおりです」。王は答えていった、「しかし、わたしの見るのに四人の者がなわめなしに、火の中を歩いているが、なんの害も受けていない。その第四の者の様子は神の子のようだ」(ダニエル書:3.24〜25)

(上の「三人」とは、改宗をせまった王にさからい、自分たちの神は燃える炉からも救い出してくれる、と言った三人ですが)

No.584 - 2013/05/13(Mon) 14:17:13

自主性唱えて根本は支配している日本の教育、対、オランダの教育 / 水上雅敏
何の番組であったか、オランダの教育が紹介されており、個々の生徒が自主的に決めた勉強を進める。先生としては大変だが、結果はうまくいっている(指標がなんだったか忘れましたが)、という話がありました。

以前私は以下のような旨のこと書きました。

日本でノーチャイム制(授業の始まり終わりにチャイムがならない)の小学校が増えている。理由は基本は自主、自律の精神を育成するという意図から「自分で時計をみて行動できるように」との事のよう。しかし、それなら、突然帰る自主性、自由もあっていいはずで、そうでないかぎりは、「空気を読める人間になれ」という神経症的人間関係をすすめる教育であろう。

ということは、自主性をいうとしたら、理想的には就学義務をなくしておくべきだということです。

そこでオランダの学校ではどうなのだろうと調べてみました。
ttp://www.futoko.org/kodomo/page1115-240.html

守学義務があるのかどうかはっきりわかりませんが、日本よりかなり自由性は強く、登校を希望できる学校の選択域は広いようです。

中途半端にオランダのまねをして、自主性、などいいつつ、「学校の意向を読め、空気を読め、登校した上での自主性だ」などと、一見自由をみとめたようで実はコントロールをしている、そういう教育になってはいけないと思います。

No.583 - 2013/05/13(Mon) 12:39:27

想像的な無と絶対的な無、黄金比、涅槃原則と恒常原則 / 水上雅敏
下記の記事581考えていると、以下のような連想が生じてきました。

私たちが無と思っているのはまだイマジネールなレベルの無ではないか。下記の記事で言ったような根源的幻覚(それ以上還元不能な幻覚)のほうが、まだ、より真の無に近いものでもありえるのではないか。一部の神秘家のように「神は無なり」と言っても、その無は、人間のイマジネールな無を超えた絶対的な無であり、その分、場合によっては神が働きかけてきていると人間が感じられるような錯覚(つまり、実はそうではなく、人間の想う無の位置がずれていたから、向こうが動いているように感じるにすぎないのに)、を起こしえる無ではないか。あえて言えばそういう絶対的な無は「ゼロ」というより、花びらの構成の見せる数学的なeや黄金比のようなものであって、もっとも捕えがたく、規則性に基づいた予測をもっともスカすものではないか。さらに・・、フロイトの涅槃原則を0へと向かう傾向と考えるのではなく、eや黄金比的に進むものと考えると、恒常原則と整合的に考えられるのではないか。

No.582 - 2013/05/13(Mon) 05:02:59

「奇跡の生還に導く声」と、根源的幻覚 / 水上雅敏
NHK「地球ドラマチック「奇跡の生還に導く声〜“守護天使”の正体は?」では、危機状況に陥った人が、近くに(本当は居ないはずの)人の存在を感じたり、声に導かれ助かったりする事例が紹介されました。私としては山で遭難したグループが、どうも一人余分にメンバーがいるように感じるという、よく聞く話が思い出しました。番組の中では、洞窟に潜水中に命綱を見失って危機に陥ったときに、洞窟が明るく見えるようになり、以前一緒によく潜っていた夫の「落ち着いて」という声を聞いて、光るものが目に入るとそれが命綱だった、などの事例がありました。


さて、番組で紹介された科学者は、これは論理的な左脳ではなく右脳の働きだ、などと考えていたようですが、ちょっとナイーヴすぎるのではと思われました。

冷静に助かるほうへと導くのはむしろ論理的思考ではないでしょうか。それが、他者の声として聞こえるというのは、あわてているときに通常なら弁証的に在るはずのもう一方の落ち着かせるはずの思考が、あまりにあわてているものだから解離されて、別の人の声で聞こえる(よくその言葉を言ってくれた人の声と圧縮されるのかも知れませんが)ということなのではないか。上記の事例の「洞窟が明るく見えてきた」というのは危機状態で交感神経が高揚して瞳孔が開いたということではないか、そして、それはまた、それだけあわてていたということであり、上のような解離の在ったことの傍証にもなることのように思えます。

また、はっきり番組見てませんでしたが、宇宙空間の孤独にいた人が、他者の存在を感じた、という事例もあったと思います。そこからの連想ですが、実は、私たちも、常にそういう存在を幻覚しているが、いわゆる現実からの刺激が強すぎて背景化している、とか、現実と重なっていて、その幻覚を意識していない。上記の人は、感覚遮断的な状況にあったため、それが生(なま)で意識されたということなのでは、とも思われました。

さらに、それら幻覚のうちには、神経症的な抑圧が強くていわゆるヒステリー的な解離としてある場合と、もしかしたら、最大限に象徴化を進めても、どうしても残ってしまうような幻覚というのもあるのでは、とも考えました。つまり、ホロ―マスク錯視で、凹面であることがばれたのちにも、どうしても凸面にみてしまうようなのと等価な幻覚版、つまり、どうしても無へと還元しきれない根源的な幻覚があるのではないか、ということです。ホロ―マスク錯視を、そもそも「見る」ということ自体が他者のまなざしを探し続けていることであり、まなざしをその背後に想像させてくれる通常の凸的な他者の顔を期待してしまうのは必然的であるがゆえのものと考えると(←私の勝手な仮説ですが)、刺激の途絶えた外界に対しては、それと等価のような必然的な人物像の幻覚というものがありえるのではないか、ということです。

No.581 - 2013/05/13(Mon) 04:54:40

仏仏辞典の学習から連想された言語の構造 / 水上雅敏
その外国語の辞書、たとえば仏仏辞典など使うと、意味を調べても、さらに知らない単語が出てきて、結局わからない単語のほうが多くなった、ということにもなりかねません。しかし、そもそも言語と言うもの自体そういうものでしょう。母国語でも。だからこそ、ひとつ語を聞いてもいろいろと多くの言葉が連想されるのだと思います。いつまでも仏和辞典で学ぶことは、この連想に歯止めを常にかけ続けていることになるでしょう。仏仏辞典で学べば、上記したように多くの連想もまた仏語で行われてくる、いわば、前意識が仏語化されてくることになると思います。そして欲望を仏語に乗せて語ることもできるようになるでしょう。

たしかに、仏和辞典で調べると意味はすぐに分かりますが、仏仏辞典で調べてわからないまま多くの語や文が留保されたとしても、何かの機会に、一つの語の意味が予想ついただけで、同時に、その語と連鎖していた多くの語や文が芋づる式にわかってきたりもして、結局は、後者のほうが幾何級数的に理解度を増してくれて、前者の成長スピードを追い越してくれることにもなりはしまいかとも思います(数学的に、このスピードを比較する式を作れそうでもありますが・・)。

たしかに「最初の幾つかの語は和訳を知らないととっかかりができない」という反論は一見納得しそうです。しかし、たとえばLet's go!などというのは、和訳しなくてもイメージ化できるから、そういうのがいくつかあればそこから進めていけるのではとも思われます。いずれにしろ、そういう議論を聞くと思い出すのは、中学の教科書だったかで読んだ、解体新書の翻訳の話です。「フルヘッヘンド」が「高くなったところ」との意味だ、と分かっていただけで、そこをとっかかりに訳していった、という話だったと思います(多少記憶違いがあるかも)。

では、単語のひとつの訳がわかっているなり、イメージと結びついていれば十分なのか?

ウィキペディアの循環論法には次のようにあります。「有限の語彙の集合を用いて語彙全体を解説しようとする辞書や百科事典は、その構造上、定義されていない語を用いて定義を行うか、循環を含んだ定義を行うことが避け得ない。ここで挙げた東西の例のような循環の輪が狭い場合は既知の事柄が少なくなり有用ではないが、全体として循環の輪が大きければ、既知の事柄が多くなり有用となる。このように、循環の輪の中に既知の事柄が1つ以上あれば循環定義であっても有用となりうる。」

しかし、一つあればよいと言うのは、全体が関連付けられて体系化していてこそでしょう(どういう関連であるべきかはまだ考察不足ですが)。解体新書と言う限られた語数のものでは全体が体系化していず、むしろ切れ切れにさまざまな単語が入ってきているのでしょうから一つ訳がわかっているだけだとだめでしょう。そこで調べてみると、「フルヘッヘンド」から訳を始めたというのは杉田玄白による作り話のようです。

実際には、
「1.最初に絵を探す。291ページ目に有る絵に、人間の頭の上に「A」と符号が打ってある。
2.次に「A」の符号に対しての説明文を探す。
3.その文中の単語を1個づつ蘭蘭辞典で探す(その文章は頭について記述してあると推測される)。
4.その単語について辞典に書かれている説明文に出てくる単語を1個づつピックアップする。
5.その単語が、他に別の文章で使われていないか探す。
6.その単語が出てくる箇所を見比べて、その単語の意味を推測する。
という作業の繰り返し。
アルファベットも知らないところから医学書を訳すのだからすごい。
大文字/小文字から始め、筆記体は日本語の楷書と行書の違いだと知る。文法も日本語と違い述語が目的語より前に来る事(SV,SVO型)を漢語と同じであることと見抜く。」
・・・ということのようです。以上、
ttp://www.nakanishi-keiichi.com/mt/mt-search.cgi?blog_id=2&tag=%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%83%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%89&limit=20
より。

「(以上の)作業の繰り返し」とあるように、Aと頭の絵の対応からすべてがわかったわけでなく、やはり、いくつかの、絵などの、言語外のものとの対応が糸口とされたのでしょう。

しかし、ではそのような対応(イメージとの対応にしろ、翻訳にしろ)が、最低いくつあ
ればいいのか? 

ふと、素数定理(ある数Nまでの素数の割合は近似的に1/logN (底はe))など使えないか、とも考えました。ある人が今使っている多くの単語は、それ以前のすでに知っていた単語の組み合わせで定義できるはず。そういう単語は合成数と考えて、今持っている語彙数をNとしての、1/logNの割合の単語が言語外のものとの対応が必要(そういう単語は素数と考えるわけですが)と言えるではないか・・。と考えましたが、同音異義語があったり、同義語が有ったりも考えるとそうでもないかも知れず、まだあまり深く考ええてはいません。

と、ここまで言ったところで、ふりかえってみると、そもそも「ではそのような対応(イメージとの対応にしろ、翻訳にしろ)が、最低いくつあればいいのか?」という問いに問題があるのに気づきました。これでは人の言葉の根本のところには、イメージとぴったり対応した語がある、と考えていることになります(これはむしろ、4つ輪のボロメオの第1のエラーの構造を連想させます)。 最初の話(確定した意味に行き着かないからこそ一つの言葉を聞いて色々な言葉が連想される、という旨の)からずれてしまっています。正確には、根本にある、素数的な対応物と言うのは、無に一番近く接している語、というかより正確には多分「シニフィアンのセット」と言うべきなのかなと思います。それ以前の言葉では定義され得ない初めてのシニフィアンのセット(無を囲い込むようなフォルト・ダー的な、あるいは機知のような)・・そういうセットがいくつあればいいのか、というのが正しい問いなのかも知れません。では、個人の持つ言葉に対するそういうセットの割合を素数定理で表現できるか?・・、あるいは最初のフォルト・ダーだけがあれば十分なのか・・、まだ、つきつめえていません.また、素数定理をこう考えた場合、それはラカンがどこかで言っていた「父の名が成立するために必要なポワンドキャピトンの数」を見出すことにならないか、とも思いますが、これもまだ突き詰め得ていません。

No.580 - 2013/05/12(Sun) 04:10:43

団体体操と囚人のパラドクス / 水上雅敏
団体体操の練習で一人だけ失敗くりかえし、その人は申し訳なく感じている・・というようなドキュメンタリー時々見ますが、そこでよく思うこと。”みんなが囚人のパラドクスの囚人のようには動けず、その人を各自がタイミングをとるための土台・参照点にしていて、それで、その人を除いてみんなのタイミングがとれているのだ”、としたら、その人はそのための犠牲になっているということになる。そこに皆気づかずに、その人だけが責められている、その人も自分のせいで団体がうまくいかない、と、罪悪感にさいなまされている、としたら、不当なことだな、・・・ということ。

でも、意外と本番はうまくいく、というドキュメンタリーが多いのは偶然?

No.579 - 2013/04/22(Mon) 18:12:18

無へと向けた囚人のパラドクス / 水上雅敏
囚人のパラドクスを、意味や確信を得る(自分の背中の色を知る)、というより、むしろ、不確信のまま、先に動き出せるかの競争、早く去勢を受けて、むしろ無へといく競争として考えてみる・・。ラカン的には最初からそういうものだったのかも知れませんが、・・。

ともかく、そうすると、言語がこの世界に生じるには、少なくとも3人は必要だったということになるか??? しかし、3人で十分なのか・・? 言語は悠久の昔からあると幻想させてくれるほどの、輪郭の見えないほどの昔の先祖の存在は必要ないのかどうか・・がまだ私の中で考察不足。

No.578 - 2013/04/22(Mon) 18:01:58

コンピューターとテュケー / 水上雅敏
「天才棋士、コンピューターに敗れるの衝撃」(週刊ポスト4月26日号)。ソフトは、「ツツカナ」と名付けられているそうですが、この記事の中に、「ツツカナに疑問手が出て形勢は船江の楽勝形に。人間ならばあきらめて形作りをはじめるような局面になったがコンピューターはあきらめない」とありますが、結局ツツカナが勝ったようです。

将棋全くわかりません。疑問手というのは、失敗したかな、というような手でしょうか?

しかしツツカナにとっては失敗だったのか、ソフトに不足部分があったということなのか? しかし、もしかしたら、そういう偶然性も織り込んだソフトなのではないか(・・しかし、偶然性も織り込み済みというのなら偶然性ではないことになるからそういうのもパラドクシカルで変だけど・・)とも思いましたが、以下の記事など見ると、やはりソフトの不足部分ではあったのでしょうか??

ttp://kobachan358.blog.fc2.com/blog-entry-495.html:以下上記より抜粋(将棋を知らない私にはちんぷんかんぷんですが・・):

「△68金と打つ時『ツツカナ』は自玉の頓死筋に気がついていません。詰め手順が長手数の為、詰まされる局面が読みの範囲の外にあり、途中で読みを打ち切ってしまったのです。
気がついたのは数手後、読みの手数の範囲に詰みの局面が入った時でした。既に遅しでした。大損をしてしまい、敗勢の局面になっていました。人間なら悪手に嫌気がさして、諦めてしまいますが、ここからも頑張るのが、コンピューターソフトの良いところです。最後は逆転しました。詰みを読むのはコンピューターソフトの大得意な分野です。何故、自玉の頓死筋に気がつかなかったかのか?コンピューターソフトは膨大な量をしらみつぶしに読みますが、読んだ局面ひとつひとつに詰みがあるかどうかは調べません。ひとつの局面の詰みを読むなら、一瞬てすが、何億と読んだ局面すべての詰みを読むのには時間がかかすぎるからです。『ツツカナ』のハードはPC一台です。PC一台ですべての局面の詰みを読むことはできません。これがコンピューターソフトの弱点ですが、ハードを増強することによってカバーする事ができます。第5戦に登場する『GPS』はコンピューターを何百台と使用しますので、この弱点が補われています。」

No.577 - 2013/04/21(Sun) 15:52:07

声は日中残滓や文字以上に灯台下暗し的か / 水上雅敏
「灯台下暗し」で、無意識が一番手前のものにこそ出やすいとすると(むろん遠い、幼児期場面にも見出しやすいけど)、まさに、いまここの語り言葉を作っているものにこそ出やすいのだろう。

だとすると、夢でも、日中残滓以上に、文字、さらに線(文字を作るもとになるような)、さらに声にこそより灯台下暗し的な無意識が表れてこないだろうか??

声―線―文字―日中残滓    左ほど灯台下暗し、ということで・・・。

そういうことが夢に見出せるだろうか? 新宮先生が意味不明の文字の夢心象のことについては語っていたが、より無意識を直截にもっとも還元されたかたちで表現するものとして夢の中の声を考えられないか?? むろん、還元しきれていないときでも声の夢はありえるだろうけど、理論的にはそのように考えられないか。

No.576 - 2013/04/20(Sat) 05:13:44

日中残滓場面では、覚醒時にすでに抑圧があったのでは? / 水上雅敏
夢での、日中残滓として使われた前日の何かの場面。前日の覚醒時その場面を経験していたときは、それは何でもないできごとだったのだろうか。そして、夢が、夢見中に、夢思考を象徴するに都合がいいから選びだして使っている単なる材料にすぎないのか。

しかし、むしろ、前日、その場面を経験していた時にこそ実はそこに何か抑圧したくなる思考が付随してすぐに抑圧してしまったということがあったのではないか。この場合、夢分析と言うのはその場面(あるいはそれに隣接した場面)に付随していた思考を思い出す、という作業がメインになるのではないか。この場合、夢は、覚醒時において思考の抑圧が起きたポイントを知らしめてくれているだけのもの、ということになってしまうけど・・。

それとも、その覚醒時には、本当になんとも思わなかった場面(とりたてて思考の抑圧が起きなかった場面。起きたとしても他の場面以上ではないような場面)が、あらためて夢で何かの象徴として使われることがあるのだろうか・・。

No.575 - 2013/04/20(Sat) 04:57:10

ペンタドロン / 水上雅敏
片付けしていると、朝日新聞(2012年4月30日)に「立体の「もと」大発見 平行多面体は元素数1である」という興味深い記事を発見しました。平行移動で空間を埋め尽くしえる立体を平行多面体と言うらしく5個しかないらしいですが、そのいずれをも作り上げうる、立体が見出されたらしいです。ペンタドロンというらしく、その1種類の五面体のみでいずれをつくるにも十分で、だから元素数1とされているようですが、実際に平行多面体を作るときには、その鏡像的なペアを使うようです(それでも元素数1というのが数学的に正式なのかどうかは知りませんが)。

ふとペンローズタイルなども連想しましたが、何か共通項はあるのかどうか・・・。ともかく、この平行多面体が空間を平行移動で埋め得て、さらにその立体はペンタドロンで作れる、となると、私たちの空間認識においても、そういうものが、プロトタイプとしてどこかに還元されて明滅していて(たとえば平均顔のように)、そこから翻って、それを基準としてあとは誤差だけを計算するようにして空間認識を割り出しているようなことはないか・・、という考えも浮かびますが・・期待しすぎかもしれません。

以下、ペンタドロンの詳しい説明など。
ttp://www.ohmiya-h.spec.ed.jp/?action=common_download_main&upload_id=7249
ttp://www.geocities.jp/ikuro_kotaro/koramu/1662_g7.htm

No.574 - 2013/04/15(Mon) 02:16:22

佐村河内守 / 水上雅敏
全聾の作曲家佐村河内守について、NHKで最近見ました。その何日か前、何かのバラエティー番組でであったか、耳鳴りは、本人が外界に対して聞こえにくくなっている周波数のものが聞こえる、という話があったのも、この番組への興味を高めました。記憶から掘り出して書くので間違いも多いかも知れませんが、たしか、佐村河内氏の耳鳴りは、低い轟音のようなものらしいとのこと。ということは、特に低い外界の音がつかめにくいのか・・。そのへんは何も言及がなく、彼の耳鳴りのもとになっている診断名も流されていませんでした。しかし、ttp://emuzu-2.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-9e7a.html によると、片耳は弟の交通死をきっかけに聞こえなくなったとありますから、すべてでなくとも部分的には心因の可能性あるのでしょうか?? 

特に興味深かったのは、その耳鳴りの中ではラの音が流れ続けているとのこと(たしか・・。私の記憶あいまいなのですが・・。)。番組では、耳は聞こえずとも絶対音階が作曲を助ける、と解説されていましたが、実は耳鳴りのラが助けてくれていてこれを基準としての相対音感ではないでしょうか。そしてそこからの相対音階の感覚が作曲を助けているのではないでしょうか。どうも、絶対音階と相対音感があまり区別されていないように思います・・。私の区別のほうが間違っているのでしょうか・・。それはともかくラの音が流れ続けていること自体が理由不明で興味深いです。カオスの中にも法則ができてくるようなものなのか。常に作曲を続けているときに意識に音階をいろいろめぐらすその残余としてラが選べれ続けていたりしてのその反映なのか・・?

それと、たしか、作曲は、そのじゃまになる耳鳴りをかき分けて音を取りに行く感じで大変、というような話があったように覚えます。そのじゃまがなければいいのに・・ということにはなるのでしょうが、もしかしたら、それは、マイナスあってのプラス、フォルトあってのダー、のように、耳鳴りと作曲が相互的に存在させあっているのではないか、・・とこれはいまのところあまり根拠のない考えですが、そういうことを考えさせられました。

少し話はずれますが、最初述べた、「耳鳴りは、本人が外界に対して聞こえにくくなっている周波数のものが聞こえる」という話、脳がかつて音を感じ取れていた時につくられたニューロンの構成、働き方をかつてのままに保ち続けるための自作自演みたいなものなのでしょうか? 幻肢の聴覚型のようなものではないか、などとも考えさせられます。外界からくる信号をつかめなくなる時(現実界と象徴界の疎通性・弁証的なかかわりが弱くなる時)、その欠如を過剰に(本人に苦しみを与えるほど)補うかのように自分で等価物を作り上げてしまうということは、「赤」という神経的には(目の錐体からは)あまり刺激を得ていないはずの色こそむしろ刺激的な色に感じられたりすることなどを連想させます。

No.573 - 2013/04/04(Thu) 16:44:23

はじめに空回りがあった―現実界一元論試論― / 水上雅敏
まったく言葉に接したことのない子供を何人かあつめるとそこに言葉が生ずるか(そもそも親あっての子供で、親同士の会話を胎内で聞いているはずだから、ありえない理想状態を前提としたはなしですが)。以前は私は否定的に答えていたと思います。しかし、”「常識」とは、皆はこれが常識だと思っていると個々人が勝手に推察しているところ、よしんばその共通項に過ぎない”というのと同じくらい、我々の言葉と言うものも根拠がなく、つまりシニフィアンとシニフィエのつながりには根拠が無く暫定的で、個々人でもズレがりうる、と考えると、私たちは言葉と言う特殊なものをどこかから得たと思っているだけで、子供が何人か集められて、互いが理解しあっているのかどうかわからないような関わり方でかかわっているのと構造的にはそんなにかわらないのではないか、そういう意味では、そういう子供の集まりでも言語は生じ得る、と言えるのではないか、という考えに傾いているところです。

人間は空回りする(早生まれ過ぎて、不調和な身体で反射的に反応できない、ということなど)という考えを突き詰めていくとそういう考えになったわけですが・・。

つまり、最初は現実界と想像界の存在だけを考えるわけです。他者と同一化して統合体にしがみつこうとする想像界と、無であって、その統合をばらばらに崩していく現実界との極端な対極の弁証法を考えるわけです。統合体が大きく裂かれても、その間に統合体を産もうとする弁証的な動きの連続が、オー・アー(フォルト・ダー)など2音素対立から、さらにその裂け目に、さらに多くの音素の対立項を増殖させ言葉を作っているのではないか、そして父の名というのはこの裂け目の輪郭に過ぎないのであって、起源を想像界を崩していく現実界の「無」性そのものに求められるのではないか、と考えることもできるように思うのです。

しかし、そこからどのように子供間で、シニフィアンとシニフィエのつながりの暫定的な共通項が生じてくるか? そこがまだはっきりと理論化できていませんが、おなかがすいた時に、たまたま「あ」と言うと、相手がたまたま食事を差し出してくれた、という偶然性が反復して、ある個人の中で、「あ」が食事の記号として結びついた。そしてその個人においては他者は鏡像であって自己と区別できていないから、おせっかいにも相手が「あ」と言ったら他者を自分とまちがえて食事をさしだすようになり、その相手にとっても「あ」が食事の記号となるようになった。これだけだと行動主義の条件反射みたいなものですが、違うのは、人間の場合、上記のように空回り(想像的統合体が安定せず現実界で崩される運命にある)するものですから、この条件反射的な結合も確固としたものでなく、常に崩される、換言すればすぐに個々人によって疑われる(「あ」は本当に食事なのか、と)運命にあるということです。そういう疑いもありつつ、とりあえず複数の子供の間で長引いて存続しているそういう共通項(これも疑われつつですが)として、シニフィアンとシニフィエのつながりの暫定的な共通項が生じたのではないか、とも考えうるように思います。
むろん欲求を満たすためだけの言語を考えるつもりはありません。窮屈な同一化をさけようとする想像界(いわば現実界の方向性に協力するような想像界)―それはまた別の次元での同一化によって、それもまた他者との共通な言語へと発展していく可能性もあるものでしょうが―もあるはずでしょうから。

いわば空回り(現実界)の空回り(想像界)の空回り(想像界の裂け目―上記のような疑いによる―。あるいはそれを象徴界と言ってもいいかも)がここにあって、それが言語を作り上げている、と考えることもできるように思います。マイナス(現実界)×マイナス(想像界)×マイナス(象徴界)とか、穴(R)の穴(I)の穴(S)(←『メビウスの帯』(日経BF社)8pを模して言うと。RISはここで付したものですが)、流れ(R)のうず(I)のそのまたうず(S)、と言ってもいいかも知れない。さらにこれらすべての空回りを現実界の仕業と考えて、現実界一元論から考えてみることもできるのではなどと考えているところです(むろん、まだ疑わしいのですが、ひとつの試みとして)。そもそも、想像界―何かのかたまりを鏡像と見てそれに同一化するという想像界―自体、そのかたまり、例えば、ある一つの音声を取り出してみても、それは、外界からくるボトムアップの波と、大脳からのトップダウンの波の相互作用が作り出した、実体のない空虚なものにすぎない、と考えると、こう考えるのも無理ないように思えます。別段、そう考えたところでどうなるというわけではありませんが、ともかく、こういう空回りの多重性を考えると、ニューロンの構成や信号の伝達の仕方とも合致する側面を見出しやすくなるのでは、とは思います。

こう考えると、言語の発生する動きは無へむかう(現実界に引き込まれて、統合体が緩められていく)人間として非常に自然なことであり、言語は、どこか外部からぽんとやってきたというような特異な点を考える必要もなくなり、最初からあったのだ―今も常に生み出されていて―と考ええるように思えます。となると、「父の名」(上で述べたような、想像界の裂け目の輪郭としての)も、むしろ最初からあると考えるのが自然なものになるわけです。ちなみに、そう考えると、「父の名」を排除している分裂病者は、不自然な無理な努力を重ねている、ということになります。空回りの理論に基づいて見直したニューロンの構成や働き具合に、この父の名の排除がどう反映されているのか、を見るのは興味深く思えます。

ただ、まだ、新しい言語が生まれるのは、子供2人で十分なのか、3人以上いないと私たちのような言語は持てないのではないか、あるいは、やはり、もっと人数と歴史が必要なのか、その限界が見られないくらいの(←これだと、結局言語はまず外部に用意されている、というかつての考えに近づいてしまうわけですが)・・?という疑問は残っていますが・・。

No.572 - 2013/04/03(Wed) 14:23:51

記憶と刺激の合成あるいは弁証法 / 水上雅敏
前書き込みの件、面白さをまだ上手く伝え切れていませんでした。顔の動きと連合した音声の「記憶」と、「今来ている波あるいはその波の解釈」とが合成(あるいは弁証化?)されて、実際のba とgaの間の音daが聞かれてしまう、というのが面白いわけです。頭の中で記憶のみに基づいて音を再現してみた場合、たしかに実際にその音を聞いた場合のような波が(これが、器官からボトムアップしてきている波か、それに対する解釈的なトップダウン的な波かはわかりませんが)起きているのだろうか、という疑問も出てくるわけです。
No.571 - 2013/03/18(Mon) 03:54:51

解釈自身が知覚意識化する? / 水上雅敏
ttp://www.design.kyushu-u.ac.jp/~ynhome/JPN/Auditory/Book/basic-term.html
「聴覚心理学基本用語集」、結構面白いです。

少し抜粋します:
McGurk effect
音韻知覚に関する、聴覚的な手掛かりと、視覚的な手掛かりとを、くい違ったものにして、同時に呈示すると、二種類の手掛かりが引っ張りあうような知覚の生ずること。例えば、/ba/と発音した音を、聴覚刺激として与え、/ga/と発音した顔の動きを、視覚刺激として与えると、多くの場合、音声としては /ba/と/ga/との間に位置づけられる/da/が聴かれる。この場合、被験者は、手掛かりの一部を目で見たとは感じず、耳に/da/が聴こえたと感ずる。:

→視覚器官から来た刺激を解釈して作り上げた音声と、まさに聴覚器官からすなおにやってきた刺激を解釈して作り上げた音声とが、正しく合成されてdaが聞こえたかのように解釈されるというのはとても面白いことのように思います。結局、実はどちらにしても解釈という意味で同じ次元にあるからでしょうか。

No.570 - 2013/03/18(Mon) 01:33:50

大変御無沙汰しております。 / れんぷう
Foujita 先生、たいへんおひさしぶりです。
病者である蓮風です。
ふと先生のことを思い出し、検索したら、ここがあたらしくなってました。
訪問するのは十年弱ぶりくらいでしょうか。


あれから『テレヴィジオン』などを読んだり、割腹自殺未遂があったりで、滑ったり転んだりしてきたのですが、いまは画業で身を立てるべく努力しています。


先だって、自分の症状について書き記したのですが、宜しければ御笑覧いただけますとさいわいです。
http://bit.ly/Zf97ul


お目汚しではありますが、どうぞ宜しくお願いします。

合掌

No.569 - 2013/03/13(Wed) 02:54:24

中野さん / 藤田博史
承知しました。
No.568 - 2013/03/08(Fri) 02:48:06

(No Subject) / 中野雅哉
3/28も用があるので、クレスマスターには行けません。
外しておいてください。お願いします。

No.567 - 2013/03/05(Tue) 01:16:38

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