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<カフェ・フジタ>

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イントロン テトゥラトゥーリック、エイアイアイ、神経症的抑圧 / 水上雅敏
イントロンは以下など連想させます。

1:テトラトゥーリックと言うのだったか、ラカンが語った、連鎖において論理的にはどうしても棄却されざるを得なくなる要素

2:ある携帯のシャッター音が「とったのかよ」か「エイアイアイ」かのどちらかにきこえる。混ざっては聞こえない件。ttp://ja.wikipedia.org/wiki/SH902i
ちなみに、これは面白い。ttp://www.youtube.com/watch?v=kfWd0jUNGpc
これを書こうとして探し出したものですが、ピッチを下げると私には「エイアイアイ」のほうにより聞こえるよう思います(このyou tubeの投稿者もそのよう)。ともかく、まずは、思考のトップダウンプロセスにおいて、「とったのかよ」と「エイアイアイ」は、分節する箇所がずれていて、どちらも、分節し残しているところがあるということでしょう。イントロンのように。なぜ、ピッチを下げるとエイアイアイに聞こえるのか? そもそもモスキートンのような高周波の波がこのシャッター音には入っていて、そこを聞かない場合には、「とったのかよ」の分節が一番自然に成り立ちやすいということなのか。そういえば、子供の方に、「エイアイアイ」と聞こえる場合が多かったような?記憶もあります(そもそものこの話題の提供番組である「探偵ナイトスクープ」の調査では)。少し、話がずれました。

3:では、神経症的抑圧された要素と言うのはどうなのか。言ってみれば、これは本当はエクソンの位置に来るべきはずだったものが、イントロンの位置に落とされてしまったようなものでしょうか。イントロンとエクソンの関係を、背反とか、直交とか言っていいのか知りませんし、また、テトラトゥーリックで論理的不可能故に棄却されたものとそうでない者との関係をそういっていいのかわかりませんが、そう言わせてもらうならば、神経症的抑圧された要素と、表現されたものとは、まだ斜行的といえることのように思います。

No.676 - 2014/01/31(Fri) 21:20:30

イントロンとタナトス / 水上雅敏
イントロンの働きはタナトスを連想させます。周期的分節を入れ込む働き。
ttp://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/news6/2012/121207_1.htm

No.675 - 2014/01/31(Fri) 20:44:05

補填としての貨幣 / 水上雅敏
以下、もしかしたら、ジョイスの結び目で考えてもよい事例かも??。とりわけ貨幣を補填として。ただ独立国を作りたかっただけの人かも知れませんが。でも、どこからパクモチュとか、パチュと言う名が? 本人の名ともずいぶんずれているし・・。

本当に、何か論理的にも納得できるような必然性から独立国を作りたかったのかどうか、話をよく聞いてみないとわかりませんが・・。


『AFPBB News 2014年01月27日10時43分
自称「国王」が勝手に貨幣印刷、通貨偽造で有罪 仏領ポリネシア
。(c)AFP=時事/AFPBB News 【AFP=時事】

仏領ポリネシアで、国家として承認されていない「共和国」の「王」を自称する男が23日、タヒチの裁判所から通貨偽造の罪で有罪判決を言い渡された。

 アタナーズ・テリ(Athanase Teiri)被告(59)は定年退職した公務員で、自ら「パクモチュ(Pakumotu)共和国」の「タンギュイニ1世(Tanguini I)」と名乗っているという。

 テリ被告は、ポリネシア内での通貨発行とその使用を規定しているフランスの法律に抵触したとみなされ有罪となった。この騒動では「パクモチュ国民」らが店で買い物した際に、被告の娘の1人が印刷したパクモチュ国の貨幣「パチュ」だと主張する紙切れを使って支払いを済ませようとしたことから裁判へと発展した。

 しかし同被告は自らの「報道官」を通して、タヒチ裁判所の司法権は自分には及ばないと主張。「2010年6月2日、王はわが国の独立を宣言した。もはやフランスの支配下にない。他国から裁きを受ける筋合いはない」と述べた。同被告の支持者らは、自国の貨幣発行を断固継続するとしている。

 フランスの海外地域であるポリネシアの当局は、「パクモチュ共和国」とその支持者らに対し徐々にいら立ちを募らせているが、一方で自称「パクモチュ国防衛相」はAFPの取材で、パクモチュ人は「自国領土」内では自由な行動が認められるべきと訴えている。
【翻訳編集】AFPBB News』

No.674 - 2014/01/27(Mon) 18:06:22

茅の輪くぐりと4つ輪のボロメオ / 水上雅敏
茅の輪くぐり。反復宇宙(3つの輪が在る)なのか、同一宇宙(一つの輪)を三回巡っているのか。巡る私は4つ輪のボロメオの第4の輪として考えるとどうか。ttp://www.city.hakui.ishikawa.jp/sypher/www/event/detail.jsp?id=51 で茅の輪をくぐる巫女さんはさらに小さな輪を持っていて、輪の中を輪が通る構造になるが、どういう意味があるのか? なぜ5色なのか。
No.673 - 2014/01/25(Sat) 03:36:24

一陽来復 / 水上雅敏
電車から窓を見つつの傷心旅行って、ある意味、流れる風景があってこそ彼岸に幻想できる無限遠を構成し、その無である無限遠点として喪失対象を取り戻す旅かも知れません。考えてみると、喪失対象にとらわれうつ状態にあった人もそういう形で心身の活動(この場合、プラットホームを歩き電車に乗る、などによって)を意図せぬところから取り戻し始めるのではないでしょうか。まわりが「運動でもしなさいよ」、とせっつかずとも。

そういう意味では過保護な子は運動神経が鈍い子が多い(と、小学時代に同級生を見ていて感じた偏見が加わっている判断かも知れませんが)というのは、要求がかなえられがちの為、喪失の機会が少なく、ひいてはそういう無限遠(まあラカン的には対象aでしょう)に惹かれて心身を自然に使う方に促されてくる機会が少なかったから、ということもあるかもしれません。

No.672 - 2014/01/13(Mon) 19:38:25

神=亀=紙、であったのか / 水上雅敏
三重県の、映画「潮騒」でつかわれた神島は亀島などとも呼ばれていたとのこと(八大龍王がまつられている。そのうち一つは亀で、女神である妙見が乗るはずの眷属。ちなみに浦島太郎を連想させます)。

ふと、思いました。神(かみ)=亀(かめ)だったのではないか、と。他方、紙(かみ)は神であって、和紙=鷲=大きな鳥、ということで大鳥神社があり、この神社はしばしば和紙が作られた近辺におかれたという話を聞いたことがあります。すると妙見(亀に乗る神)と鷲、亀と紙には直接の関係はないのかと探ってみたくなりますが、昔は、浅草の酉の市が行われた鷲大明神社の鷲大明神は鷲にのった妙見菩薩であったとのこと。紙と亀の関係を考えてみると、亀甲文字が思い浮かびます。亀甲の占いの結果を亀甲に書いたというもの。つまりある意味、亀甲は紙と等価であったわけです。

ちなみに亀甲と言うと六角形の模様がありますが、出雲大社の紋に六角形が使われているようです。出雲大社と妙見の関係も探りたくなります。さらに六角形というと、ユダヤの六芒星も連想されます。また、出雲大社の六角形の紋の内側には十字も見えます。
出雲と妙見とユダヤあるいは原始キリスト教との関係は?と考えたくなりますが、あまりにトンデモなのでやめます。

No.671 - 2014/01/01(Wed) 12:29:51

ヤマタノオロチ=八大龍王? / 水上雅敏
>スサノオの殺したやまたのおろちは妙見神あるいはそれを信じる集団だったのではないか(妙見神も剣を持っている(やまたのおろちからも剣が出てくる))とも考えました。

あるいはヤマタノオロチは八大龍王かも知れません。妙見とともによくまつられているように覚えます。

そのうち一つは妙見の眷属である亀であったと覚えます。ともかく昼の信仰(アマテラス)ばかりで、夜の信仰が無いのはおかしく、後者が抑圧(厳密な用法ではありませんが)されているように思えます。しかし、神道の行事のいくつかは夜に行われる、というところに回帰しているのかも知れません。ちなみにこれに伴って抑圧されているのは、役行者の修験道、そこに見られる錬金術と鉱山にまつわる信仰(鉱脈=きらきら光る岩石=地の星)であるように思います。

最初はアマテラスが最上位だったが、アマテラスより元に位置される抽象的な天の御中主の神(妙見と同一化される)は、中国哲学が入ってきたときに、抽象的レベルに対抗的に作り上げたもの、ということをたしか聞いた覚えがありますが、実は、アマテラス以前にあって抑圧されたものが回帰したものかも知れません。

妙見の本来の信仰では、大みそかや初日の出はどうとらえていたのか、とふと思いました。

No.670 - 2014/01/01(Wed) 11:42:49

あけましておめでとうございます。 / 水上雅敏
本年もよろしくお願いいたします。
No.669 - 2014/01/01(Wed) 04:29:58

より難しいことをするほうが楽でぼけないのでは? / 水上雅敏
年取るにつれ、ながら勉強が難しくなるな、と感じてます。
子供のころは、バラエティー番組などTV見つつ勉強しても、TVがあまり障害には感じなかったのですが。

しかし、気のせいか、最近、フランス語など自分にとって難しいものを背景に聞きつつのながら勉強なら、意外とフランス語が邪魔にならない感じがすることがあるようです。で、フランス語も学べて一石二鳥です。

もしかしたら、「ながら」の対象は、むしろ難しいもののほうがいいのではないでしょうか。環境にも同じくらい難しいものがあるほうが、環境全体にもまんべんなく集中するように注意を引きつけられ、本来の勉強にも同じ注意力をそこにもちこめやすくなるのではないでしょうか。

一方で難しい勉強をしつつ、他方ではバラエティー番組のように、簡単なものを無理に反復的に見聞きする、というほうが無理があるのではないでしょうか(子供のころそれが出来たのは、勉強も、バラエティーも同程度に難しかったからとか)。

バラエティー番組を見つつ勉強できなくなった、こりゃいかん、と思ってあえて番組見つつ勉強するというようなことを反復するからぼけるのであって、もしかしたら、環境も年をとるほどむつかしいものにしていけば、それなりにボケずに、ニューロンの発達を進めて行けるのではないでしょうか・・・。まあ、希望的観測にすぎないかもしれませんね。

No.668 - 2013/12/29(Sun) 01:55:19

なぜ本人の言葉で分析を進めるのがよいのか / 水上雅敏
なぜなるべく本人の言葉で分析を進めたほうがいいのか、という疑問はナイーヴでしょうが、まじめに考えるとわからなくなることもあったりしてそういう自問自答はこの掲示板でも時々書いたように覚えます。が、最近思うひとつの理由としては、やはり、本人の言葉と言うのは平たく言うと、本人の経験や身体感覚が交わっている―というとあまりにナイーヴで誤解も多い言い方にもなってしまうので、より正確に言うと、本人によってすでに差異化された多くの思考や、無へと開かれたうえで象徴化されてできた身体感覚の交差しているものである―から、と言えるかと思います。そして、そういう言葉の弁証的対立によってこそ、無駄なく、早く無へと進め、また無を象徴化できるからでしょう。

なるべく早く無へと向かえ(無を象徴化しつつ)ればよい、ということでしょう。解釈はせいぜいそういう被分析者本人の言葉の弁証的対立を触発する程度のものでしかないのでしょう、多分。

あとは、付随した色々なささいな自問自答ですが、解釈の方法のひとつに本人の言った言葉をこちらが繰り返すというのがあるでしょう。どういう言葉を繰り返すかというのは色々ありましょうが、何か特徴的な言葉(普通だとその文脈ではちょっと使わないような言葉とか、反復している言葉とか、いろいろあるでしょう)というのはこちらも繰り返したくなるものです。それは適切なことなのか、という問題があります。利点としては、本人に本人自身の言った言葉を振りかえさせる分、その言葉をさらに去勢に掛ける契機にはなるだろう、というのがありましょうが、他方、あえて問題を言うとしたら、その言葉を本人の意識にも強調させることによって、その言葉で覆われていた別の言葉のかげをさらに薄らさせてしまうかも、というのもあるでしょう。それはちょうど、フロイトが「夢の中の会話」について書いていたところにうかがえるように、夢で強調された言葉はその言葉に付随していた別の言葉や思いを一方でひきつれつつその強調はそれを隠すものでもあると思われるのですが、そのようにです。まあ、それはそのあとのフォローでどうにかなることで、一つの対応方法をとりあげてそれが良いとかまずいとか一義的には言えないでしょうね。

No.667 - 2013/12/28(Sat) 22:33:14

主観的時間 瞑想した日はたっぷり眠った感じと、授業があっという間に過ぎた感じが・・ / 水上雅敏
学生のころ瞑想を熱心にやったりやらなかったりしてましたが、前日瞑想をやった日は授業時間を短く感じ、また睡眠については、他の日と同じ時間寝ていても長く寝ていたように感じられゆったりした睡眠ができました。つまり、どちらにしても自分に快適なように時間が短く感じられたり長く感じられたりしたわけです。

なぜか考えてみました。

瞑想すると、現実界へと開かれてそれを象徴化する動きがとりもどせてくる、つまり、現実界と言う穴へとひらかれるぶん、その周りに多くの文をめぐらせえてくる。

そして、睡眠の主観的な長さの感覚については、睡眠中の思考が現実界へと開かれた量つまりは象徴化の量(つまりはめぐらせえた文の量)が目覚めた時に遡及的に計られ、他の日と同じ時間寝ていても、それらの量が相対的に多い場合は、いつもより長く寝た(長くいろんな思考の時間をすごした)と感じられるのだと思います。だから、瞑想をした日の睡眠は長く感じられる。

授業時間の長さの感覚は、時計の示す時間と「思考が現実界へと開かれた量つまりは象徴化の量(つまりはめぐらせえた文の量)」とが対比され(単位時間/象徴化量)、瞑想をした次の日は、別の日と比べて「単位時間/象徴化量」が少なくなる。だから、授業時間は主観的には短く感じられる。

・・ということだと思います。

蛇足ですが、睡眠中の現実界の象徴化の量が多いとは、たとえば、フロイトのイルマの夢について、エリクソンだったかが、「イルマが口をあける(現実界が露わにしかかる)というところまで覚醒せずに眠れるのはさすがだ」というようなことを言ったようなとこまで夢を見続けられるとか、あるいは、新宮の言う「いざなみの夢系列」を最後まで見れるようになる、とか、そういうことに対応していることでもあろうかと思います。

そういうことを考えると、一口に、クライエントからの睡眠の感覚(麻酔による眠りは覚めたら全然時間がたったように感じないとか)、とか不眠や浅眠の訴え(「8時間は寝ているんですが、あまり寝た感覚がないんです」とか)にも、思った以上にいろいろ重要な情報があるように感じます。

No.666 - 2013/12/28(Sat) 20:27:18

知覚意識の初段階においてはどの領域も知覚にかかる時間は同じ? / 水上雅敏
>むしろ、ゆっくりに見えている部分こそ、しっかりと見ており、リアルタイムに近く見ているのであって、

ゆっくり見えている部分にしろ、そうでない部分にしろ、どちらも「同じくらい」現実界に多少おくれて知覚されている(知覚意識の前駆体レベルでと言うべきか)のであって、注意の強さやめぐる差異化の多さが違うだけであり、振り返った時に前者のほうが差異化が多いから相対的にゆっくりだったように感じる(これが知覚意識。あるいは、これは知覚意識についての解釈というべきか?)、と言うのがとりあえず正確なところかもしれません。

No.665 - 2013/12/24(Tue) 20:09:31

情報量の相対性がある部分の時間感覚をあたえる / 水上雅敏
むしろ、ゆっくりに見えている部分こそ、しっかりと見ており、リアルタイムに近く見ているのであって、なぜゆっくりに感じるかと言うと、その部分について注意を向けているから、たくさんの知覚的差異をなしていたり、多くの連想をめぐらしていたりする分、振り返ると、その情報量が相対的にそれ以外の部分よりは多くなる。その相対性によって、遡及的にその部分の動きがゆっくりに見えたように感じるのではないか。川上哲治が調子の良い時は投手のボールが止まって見えるらしかったような、そういう現象。
No.664 - 2013/12/23(Mon) 12:09:02

視力と言葉に関係があるか? / 水上雅敏
>人間についても言葉の差異と、他の知覚の差異の対応はもしかしたら上に述べたように1対1で同じ数ほど差異化されている可能性もあると思います (657)

モンゴルやアフリカの人では、視力6、0の人がいたりするそうで、信じられないですが、これはもしかしたら目のレンズの問題というより、やはり上記のようなことで、ちょっとした視覚上の差異に言葉の差異が我々の場合以上に交わるように訓練されてきたから、ということはないでしょうか?

それは、たとえば生活上の必要性から。つまり、動物のちょっとした動きに対して、「ほら!」「あぶないぞ!」とか、動物のちょっとした模様に対して、「シマウマだぞ!」などと親が子供に対して言葉を交わらせて注意させてきたから、その視覚的差異が判断に乗りやすくなったから、結局、視力検査の結果がよくなった・・とか。

あるいは、言葉に関係なく、やはりレンズ(や眼球)が敏感なのでしょうか?

しかし、そういうレンズや眼球の敏感さも、上の様なエラボレートされた言葉と知覚の交差がひるがえって作り上げた、ということはないでしょうか?

No.663 - 2013/12/20(Fri) 06:18:16

子供だって相談に来る / 水上雅敏
困った大人に対する子供への相談、支援というのがあまりないのは、子供は自ら相談には来ない、という先入観が大人にあるのかもしれない。小学校のスクールカウンセラーなどに行っても、子供は相談に来ないことを前提にプログラムを組まれている、ということもままある。ところが、結構自ら相談に来る。
No.662 - 2013/12/17(Tue) 23:26:38

困った親や先生とかかわる子供への支援 / 水上雅敏
心理の領域でも子育て支援・育児相談は多いが、困った親(親自体が発達障害であるとか、考え方が変だとか)を持つ子供の支援、困った先生に・あるいは困った学校で学ぶ子供の支援があっていいと思う。無いのは、親や先生が基本的に正しい、という一種のファシズムがそこにあるのかも、とも思う。
No.661 - 2013/12/17(Tue) 23:22:42

リベット的に人間の反射、失錯行為、遠山のまなざしを考えてみる / 水上雅敏
>もともとそう言おうと準備して発声しているから聞き取るのもおそらくもっと早いとして仮に0、2秒かかる、と考えてみる。

しかし、逆に、むしろ唐突なことにこそ、とっさに反射神経が働く、というのもありますね。どう考えるべきでしょうか。ひとつは、むしろ、そういう無の境地である部分こそ、無意識的な言語活動と行動の弁証過程はスムーズにはたらいていて(その意味で、そこでこそ、それ以前の象徴的連鎖の隙間としての欲望をすなおに受け継いでいると言う準備性が良好にはたらいている)、他方、準備していると思っているところには、欲望の率直な流出に禁止をかけている思考も余分に加えられてしまっているから遅くなる、・・という仮説もありえるかな、とも思います。

そう考えると、失錯行為なども、うっかり前者のほうが先に反応してしまったもの、として、時間の観点から再考できるかも知れません。

武道で言う遠山のまなざし(カメラで言うパンフォーカス的なまなざしのようにも思いますが)のように、―変に一部に集中(というか、とらわれ?)しすぎないありかたが重視されるのも、余分な禁止的思考はかけず、全体に、準備されてある欲望の流出がすなおにできるように、ということかも知れません。

No.660 - 2013/12/16(Mon) 10:56:53

弾力的に時間の一部がひずんでまた戻る / 水上雅敏
自分の言ったフォルト・ダー自体も聞き取るのには時間がかかると考える。人は世界を0、5秒遅れて知覚している、というリベット氏の考えに基づくと、0、5秒かかるということになるが、もともとそう言おうと準備して発声しているから聞き取るのもおそらくもっと早いとして仮に0、2秒かかる、と考えてみる。

さらに、いま読んでいる文字や、前からの連続として当然推測されるように現れ出てくる知覚についても、準備性があるから、その知覚意識化には(と言っても最終段階の知覚意識化ではなく途中段階のそれ、と言うべきか:上段の聞き取りの件にしても:正確には知覚意識前段階とか言うべきだろうが上の言い方で許してもらおう)、まあ、0、2秒かそこらかかる(しかかからない)と考える。

しかし唐突に表れたものの知覚意識化(途中段階の)には0、5秒かかる、ということになろう。

しかしリベット的には、これらの遅れは修正されることとなる。

すると、0、2秒遅れたものは、それより0、2秒早く起きたものとして最終段階の知覚意識のところで修正されて現れる。
そして、0、5秒遅れたものは、それより0、5秒早く起きたものとされて。

しかし、これらが修正されたとして、それらの間には0、3秒の時間差があることになる。現実界においては同時に起きたことも、準備性のなかった唐突な領域については、そうでないものに対して0、3秒遅く知覚意識化されていることになる。同時的なものとして知覚意識化された風景も、実は唐突な部分は0、3秒遅れのものを見ていることになる(何万年光年先の星の光も、近くの星の光と同時的に見ているように)。そしてその部分もやがて慣れれば(つまり準備性が出来てくれば)まわりと同じペースで進むことになる(一瞬世界の或る部分が時間が遅れ、弾力をもってそのあとまわりについていきはじめるような様相)。それはたとえば、ふと時計の秒針が目に入った時、最初だけ1秒以上そこにとどまっているように感じられ、そのあとは普通のペースで進むように感じられる、というような例として現れよう。

No.659 - 2013/12/12(Thu) 15:41:38

言葉の材料に近い知覚ほどはやく認識される? / 水上雅敏
昔は、NHKの時報では、時計の映像が流れ、秒針が1秒ごとに刻むように動きつつ、音がピッピッピッポーンとなるものでした。ずいぶん昔に新聞への投稿だったかでたしか次のようなやりとりがあったように覚えます。ある少年「秒針のほうが音より先に動いて見えるのですが」。NHK側「敏感ですね。普通の人は、秒針の動きを掴むのが若干遅れるため、あえて少し先に進めているのです。」(多分、音が先ではなかったと覚えますが・・)。

言葉の材料に近い知覚ほど(結局聴覚、次に視覚<文字から>)リアルタイムに近く速く認識されるということなのでしょうか?

あるいは単に、聴覚的なものはその場限りで消えやすいので速くつかんでいかないとならないから、そちらをより速くつかむように訓練されている、というだけでしょうか?

No.658 - 2013/12/10(Tue) 14:20:59

人間の知覚意識の敏感さと言葉の関係 / 水上雅敏
「メダカは動きによって仲間を引き寄せ「群れ」を形成する」
ttp://news.livedoor.com/article/detail/8332153/

と言う記事がありました。

やはり相対化でこそ物事が知覚できるということでしょうね。犬も、真正面にゆっくり物体が近づいてくると気づかず、物体が横方向に動いてこそそれに気づく、という実験があったように(私の記憶に間違いがあるかも知れませんが)。人間がその意味で止まっている物体もすぐ認識できる敏感さを持つのは、目をより自由に動かせるから、とかがもしかしたらあるのでしょうか(動物とは、目の微細な搖れかたとかに違いがあるのか知りませんが・・)。しかし、それ以上に(あるいはそれではなく)、もしかしたら言葉の存在が影響しているのかも知れません。言葉の音声と映像は、フォルト―ダー(2音素対立と、糸巻の在不在あるいは消滅出現の対立化の交差)に見るように交差し合って初めて知覚意識として上ってくると思いますが、言葉は弁証法を続けられますからそれが続く限り、過去のフォルトダーと糸巻の在不在の作り上げたその交差点である差異(異質の知覚を異質のものであると判断させる差異)、と、聴覚と視覚それぞれにおける差異(フォルトとダーの間、また、糸巻の在不在の間)はつねに無意識において参照され続けると言う意味で記憶として蓄積され続けるでしょうから、何か(物体の模様など微妙なものでも)をちょっと見ても(ちょっとした目の搖動だけでも)、過去のものが連想され差異づけられるゆえに敏感なのかも、とも考えました。(つまりここでは、視覚的相対化(あるいは他の知覚でもよいですが)の起きるところでは、言葉の相対化の記憶(過去に実際に発したり聞いたもの音声そのものと言うより、それらの間の差異<判断されたところの微妙な音素や抑揚間の差異も含めて>、というべきでしょうか))が一対一的に交差している、と考えているわけです。ラカンは、「1秒間に100回の視覚的な強化によって条件づけられた動物は、1秒間に100回の聴覚的強化に反応する・・(中略)・・動物がある領域における100という周波数を学習期間なしに他の領域の100という周波数へと移す」と動物について述べていますが(『精神分析の四基本概念』岩波 308p)、ここの私の解釈には間違いがある可能性は多大に在りますが、人間についても言葉の差異と、他の知覚の差異の対応はもしかしたら上に述べたように1対1で同じ数ほど差異化されている可能性もあると思います)。

No.657 - 2013/12/10(Tue) 12:57:16

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