♪風の便り−きらめきの刹那 掲示板

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母と子 / ひがしまち
1992年中央公論社刊、平家物語絵巻には、平家都落ちに際して
子供を連れていかなかったのは、平家一門では平維盛だけであった、と記載されております。その絵巻では維盛とその北の方との置き去りにしていく子達を思い嘆くあたりが綿々と描かれれていますね。

関白基通については、この本では、西に向かう途中、春日明神の
使いと思われる童子が目の前を横切って、これおお告げと感じた
から都へ引き返したのだ、ということになっています。

基通の正室平完子の子がどうなったのか、基通の他の子がそれぞれ
全部がどのように生きたのか、その母とともにはっきりわかると
いいのですけれど....。完子は健礼門院とともにその後都へ連れ戻されて尼になったのでしたね。

清盛の孫は生き残ったのでしょうか?
それとも、平氏とは関係のない血筋の子だったのでしょうか?
ただ、「近衛関白基通の御子」というだけでは判らないのが
ぼくには悩みの種の一つです。

仕事が忙しくなりましたので、
では、これにて。

                 ひがしまち
No.215 - 2007/02/17(Sat) 16:33:02
Re: レスが遅くなり申し訳ありません / 手鞠(管理人)
ひがしまち様、こんばんは〜♪
何分、近衛基通についてはこれまでほとんどノーマークで、特に平家滅亡後のことはよくわからなかったものですから、あれこれ調べるのに少々手間取り、レスが遅くなりました。

さて、『尊卑分脉』で確認しましたところ、基通の後、近衛家を継いだ家実の母は源顕信女。外戚の顕信の叔母に基通の祖母(父基実の母)や叔父・松殿基房の母に当たる女性がいますので、そうした関係から基通に嫁したのでしょうね。

家実は治承3(1179)年の生まれとなっていますので、『玉葉』にいう治承元年6月9日に完子が生んだとされる男子の方が年長。世が世であれば当然完子の子が後を継いだことでしょうが、そうならなかったのはやはり朝敵となった平家の血筋を引いていたためか、あるいは年少のうちに夭折してしまっていたか…、この辺りは確かな記録が残っていないようです。

同じく清盛の婿になっていた花山院兼雅と四条隆房は、いずれも清盛の娘だった正室腹の長子を跡継ぎに据えていますので、必ずしも平家の血筋が憚られたわけでもないようですが、とはいえ、別格の摂関家ではそうも行かなかったかもしれませんし、何より基通の場合は平家という後ろ盾を失った後の自身の地盤の弱さも大きなネックだったように思います。

家実の母の出自は家格としてはさほど高くないものの、鎌倉時代初期の頃に朝廷内で隠然たる力を有していた土御門通親も同族の村上源氏。ライバルの九条家と摂関を争う基通が、その系統と連携をとることで優位に立とうと考えても不思議ではなく、数ある子息の中で家実が後継者となったのは、当時としては自然な流れだったのでしょうね。

そういう流れを踏まえれば、完子の子がいながら、それに替えて家実を嫡子にしたことも十分にありえると思いますが、ただ、先に書きました花山院家や四条家の例を見ても、特に平家の血を引くという素性が憚られ、ひた隠しにしなくてはならないほどの切迫感も感じられませんので、恐らくは生まれて間もない時分に亡くなっていたのではないかと…。

だからこそ、平家都落ちに際し、完子は基通と行動を共にしなかった…。もし、二人の間に子があれば、その子のためにも、夫と共に都へ引き返すことを選択したのではないかと思われます。兼雅・隆房室となっていた姉妹がそうしたように…。
No.216 - 2007/02/17(Sat) 22:34:44
母は誰か?... / ひがしまち
「玉葉」も私は見ていないので、藤原基通とその正室平完子の間
に子があったのか、男子だったのか、女子だったのか判りません。
基通の次の近衛関白になった子は、母親が源のなんとかの娘とかで
母親が完子とはなっていませんね。

六波羅探題から書状に「近衛関白基通公御子」と、認められた私の
ほうのご先祖「中左近将監光近」は、その後も「永代」にわたって
山城国普賢寺を居宅居城として、京都から奈良にかけての近衛所領
の地頭職を続けましたが、母のほうの名前が判りません。
後世、松永久秀などとも一時は普賢寺城へ迎えいれたりはあった
ようですが、たくさんの古文書がありながら母親出自だけが不明
です。

近畿伊賀あたり出身の堂上人「沢」家(明治維新後伯爵家)の娘
との正室迎え入れ、など他の女系では記録が残っているのですが。

いずれにせよ、後鳥羽天皇、上皇、法皇は熊野詣を28回もされ
た、とのことだから、京から奈良を経ての道すがら、普賢寺は
通り道でもあり立ち寄られたのではないか、と思われます。
今は京田辺市の普賢寺は丘のいただきに、基通の碑が残って
いるだけ、と聞いています。

               ひがしまち
No.214 - 2007/02/17(Sat) 13:02:00
あるいは子可愛さに... / ひがしまち
そうですね。もうこうなると想像の産物、フィクションの世界
になりますが、基通(普賢寺殿)は残した子供可愛さに戻った
とか、そんな私情は許されない立場だったでしょうけれど、
遣り残した事で後ろ髪引かれる思いにいたたまれず、とか
安徳天皇よりも、後白河上皇をきずかったとか、とにかく完子
に会って話をしてからのことだったのか、会ったとすれば、
どんな話をしたのだろうとか、思いを巡らせてしまいますね。

ところで、吉川英治さんの「新平家物語」で清盛が自分は天皇
のごお落胤なのでは...と悩む箇所がありますが、その根拠は
何処にあったのだろう、と今でも不思議です。

それはさておき、近衛家は後世一時断絶、養子を迎えて近衛家
は続いておりますが、我が家系は実父まで20代目家督家系が
順調に続いております。男系なら藤原基道、女系なら清盛の娘
の一人の血筋も家系上は続いていることになります。

800年って長いようでそれほどの昔でもない、ついこの間、
のこと、「きらめきの刹那」、そんな気がしてきましたよ。

                 ひがしまち
No.212 - 2007/02/13(Tue) 16:06:11
Re: 清盛の落胤説は / 手鞠(管理人)
ひがしまち様
清盛が白河院の落胤という話は、吉川英治氏の創作ではなく、当時から噂されていたという風説によるものです。
武家にしては異例の昇進スピードと、実母が白河院の寵妃祇園女御もしくはその妹とされることから、そうした噂が世間にも広く流布していたようです。もちろん確たる証は残っていませんので、この謎は永久に解明されることはないと思いますが…。
No.213 - 2007/02/13(Tue) 19:35:06
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