♪風の便り−きらめきの刹那 掲示板

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ご訪問の節には一言なりとメッセージを残していただけますと大変嬉しく存じます
追記 / ひがしまち
我が家の場合のことなど、つい1部書き連ねてしまいました
けれども、現在、我が家の蔵から出た古文書をまだ某国立大学で
たくさん解読中なんです。何年もほうっておかれたものが、
やっと昨年から第三者解読の形では学術的には判ってきたのです。

六波羅探題からの書状も嘉暦三年1300年代初め、北條武蔵守、
越後守の署名もその頃、祖の光近も、基通の子の子、ということ
になりますから訂正しておきます。
昔は男系の祖先の名前を旗印にかかげておけば、御子の御子でも、それで通ったのでしょうし、「やあ、やあ、遠からんものは音に
も聞け、我こそは清和源氏なんの誰それの...」と合戦前に名乗り
合ったとかの物語風と違って、他文書の解読が進みませんと確定
できませんね。....と訂正追記させていただきます。

私は端午の節句の武者人形、ひな祭りの雛人形、日本の祭日の形
ですけれど、全く好みません。つい半世紀前までは戸籍謄本まで
華族とか士族とか明記されていて、否定はできませんが、とても
反感を持ったことを覚えています。天皇だけ残っていればそれは
それで充分。その外戚取り巻きは要らない。

国の歴史文化も階級社会の名残り記述のみでは、ほんとに窮屈、
いやなことですよね。だんだん誰もが格差なんて感じられない
自由な社会になってほしいものです。でもだんだん昔の身分社会
に生きる人の作られた俗な心情なんて理解推測もできなくなる
のではないでしょうか。

                  ひがしまち
No.219 - 2007/02/19(Mon) 09:32:51
Re: 追記 / 手鞠(管理人)
ひがしまち様、こんばんは〜♪
そうですね。史料の世界は日進月歩、ひがしまち様のお家から提供された古文書のような解読中や解読待機中のもの、それに、まだまだ埋もれたままになっているものも数多く残っているでしょうから、今後もどんどん新たな発見が出てくるかもしれませんね。

階級うんぬんについては、ないにこしたことはありませんし、実際、日常レベルではそういう意識はすっかり薄れてしまっているのではないでしょうか。とはいえ、過去にそういうものがあった事実は消せませんし、1000年以上の時をかけて築き上げられたそういう価値観は今を生きる私達が意識しようしまいと、身体の中のどこかに染み付いてしまっているものですから、それはそれでやはり受け入れて行かないといけない部分もあるかと思います。

階級のことはともかく、古くからの慣習や伝統は良きにつけ悪きにつけ日本人の心の根底に根付いているものですから、それを全く無くしてしまうのは淋しいこと。簡略化するなど時代に合わせた変化は当然あっていいと思いますが、今後も受け継いで行けるものはできる限り受け継いで行って欲しいと考えます。
No.220 - 2007/02/19(Mon) 20:24:01
ありがとうございました / ひがしまち
どうもありがとうございました。
ぼくがここに来たのは、1月末に、どこかで「自分と平家を
裏切って基通が都に引き返したのは、完子は許せなかったに
違いありません」という文を見かけたものですから、それが
気になっていて、たまたまここを見つけて来たからなんですよ。

ですから、あまり家系とかにはふだん関心はありません。
歴史小説やらの、虚構の著述の世界のほうに引かれます。

地頭職というものも、自分の居宅とその近辺は個人所有
が認められていたのですが、江戸時代には転封のときなどに
所有のまま移転することは許されなかったものですから、
他人に預けていくしかなくて、そのかなりの土地や家屋など
の預り証文が残っていて、明治九年に藩籍奉還後、祖父が
普賢寺と近辺の所有権を裁判所に訴えたのですけれど、もう
認めてもらえませんでした。今の京田辺市の土地が惜しくて
この一月も東京〜名古屋〜三重〜奈良〜大阪〜九州とドライブ
旅行をしたんですけれど、立ち寄らずで、ただ懐かしい思い
をしただけでした。

では、がんばってください。

                ひがしまち
No.217 - 2007/02/18(Sun) 02:27:53
Re: いえいえ、こちらこそ / 手鞠(管理人)
ひがしまち様、こんばんは〜♪
歴史というものは、往々にして一つの側面だけを切り取って語られがちですから、そういう意見が出るのも致し方のところですね。

基通が都へ引き返したという一事についても、実際は彼なりに平家方のプラス材料を模索してのことだったのかもしれませんが、残念ながら形となるものを何も残していないため、結果として平家を裏切ったという結論になってしまうのですよね。

完子にしても、基通に対して恨み心のみを抱いて生涯を終えたかもしれませんし、でも、そうでないかもしれない…。壇ノ浦から生還した後、基通の元へ戻らなかったのは事実としても、その時の完子の心の内までは誰にもわからないことです。

何かを語ろうとする時、何の根拠もなく断言口調を使ってしまうこともありますが、元々が曖昧模糊な存在の歴史についてのことですから、なるべくそれは慎むべきでしょうね。わざわざ「許せなかったに違いない」と無理に強調せず、「許せなかったのだと思います」と結ぶ。私もこれからは気をつけようと思います。
No.218 - 2007/02/18(Sun) 18:52:08
母と子 / ひがしまち
1992年中央公論社刊、平家物語絵巻には、平家都落ちに際して
子供を連れていかなかったのは、平家一門では平維盛だけであった、と記載されております。その絵巻では維盛とその北の方との置き去りにしていく子達を思い嘆くあたりが綿々と描かれれていますね。

関白基通については、この本では、西に向かう途中、春日明神の
使いと思われる童子が目の前を横切って、これおお告げと感じた
から都へ引き返したのだ、ということになっています。

基通の正室平完子の子がどうなったのか、基通の他の子がそれぞれ
全部がどのように生きたのか、その母とともにはっきりわかると
いいのですけれど....。完子は健礼門院とともにその後都へ連れ戻されて尼になったのでしたね。

清盛の孫は生き残ったのでしょうか?
それとも、平氏とは関係のない血筋の子だったのでしょうか?
ただ、「近衛関白基通の御子」というだけでは判らないのが
ぼくには悩みの種の一つです。

仕事が忙しくなりましたので、
では、これにて。

                 ひがしまち
No.215 - 2007/02/17(Sat) 16:33:02
Re: レスが遅くなり申し訳ありません / 手鞠(管理人)
ひがしまち様、こんばんは〜♪
何分、近衛基通についてはこれまでほとんどノーマークで、特に平家滅亡後のことはよくわからなかったものですから、あれこれ調べるのに少々手間取り、レスが遅くなりました。

さて、『尊卑分脉』で確認しましたところ、基通の後、近衛家を継いだ家実の母は源顕信女。外戚の顕信の叔母に基通の祖母(父基実の母)や叔父・松殿基房の母に当たる女性がいますので、そうした関係から基通に嫁したのでしょうね。

家実は治承3(1179)年の生まれとなっていますので、『玉葉』にいう治承元年6月9日に完子が生んだとされる男子の方が年長。世が世であれば当然完子の子が後を継いだことでしょうが、そうならなかったのはやはり朝敵となった平家の血筋を引いていたためか、あるいは年少のうちに夭折してしまっていたか…、この辺りは確かな記録が残っていないようです。

同じく清盛の婿になっていた花山院兼雅と四条隆房は、いずれも清盛の娘だった正室腹の長子を跡継ぎに据えていますので、必ずしも平家の血筋が憚られたわけでもないようですが、とはいえ、別格の摂関家ではそうも行かなかったかもしれませんし、何より基通の場合は平家という後ろ盾を失った後の自身の地盤の弱さも大きなネックだったように思います。

家実の母の出自は家格としてはさほど高くないものの、鎌倉時代初期の頃に朝廷内で隠然たる力を有していた土御門通親も同族の村上源氏。ライバルの九条家と摂関を争う基通が、その系統と連携をとることで優位に立とうと考えても不思議ではなく、数ある子息の中で家実が後継者となったのは、当時としては自然な流れだったのでしょうね。

そういう流れを踏まえれば、完子の子がいながら、それに替えて家実を嫡子にしたことも十分にありえると思いますが、ただ、先に書きました花山院家や四条家の例を見ても、特に平家の血を引くという素性が憚られ、ひた隠しにしなくてはならないほどの切迫感も感じられませんので、恐らくは生まれて間もない時分に亡くなっていたのではないかと…。

だからこそ、平家都落ちに際し、完子は基通と行動を共にしなかった…。もし、二人の間に子があれば、その子のためにも、夫と共に都へ引き返すことを選択したのではないかと思われます。兼雅・隆房室となっていた姉妹がそうしたように…。
No.216 - 2007/02/17(Sat) 22:34:44
母は誰か?... / ひがしまち
「玉葉」も私は見ていないので、藤原基通とその正室平完子の間
に子があったのか、男子だったのか、女子だったのか判りません。
基通の次の近衛関白になった子は、母親が源のなんとかの娘とかで
母親が完子とはなっていませんね。

六波羅探題から書状に「近衛関白基通公御子」と、認められた私の
ほうのご先祖「中左近将監光近」は、その後も「永代」にわたって
山城国普賢寺を居宅居城として、京都から奈良にかけての近衛所領
の地頭職を続けましたが、母のほうの名前が判りません。
後世、松永久秀などとも一時は普賢寺城へ迎えいれたりはあった
ようですが、たくさんの古文書がありながら母親出自だけが不明
です。

近畿伊賀あたり出身の堂上人「沢」家(明治維新後伯爵家)の娘
との正室迎え入れ、など他の女系では記録が残っているのですが。

いずれにせよ、後鳥羽天皇、上皇、法皇は熊野詣を28回もされ
た、とのことだから、京から奈良を経ての道すがら、普賢寺は
通り道でもあり立ち寄られたのではないか、と思われます。
今は京田辺市の普賢寺は丘のいただきに、基通の碑が残って
いるだけ、と聞いています。

               ひがしまち
No.214 - 2007/02/17(Sat) 13:02:00
あるいは子可愛さに... / ひがしまち
そうですね。もうこうなると想像の産物、フィクションの世界
になりますが、基通(普賢寺殿)は残した子供可愛さに戻った
とか、そんな私情は許されない立場だったでしょうけれど、
遣り残した事で後ろ髪引かれる思いにいたたまれず、とか
安徳天皇よりも、後白河上皇をきずかったとか、とにかく完子
に会って話をしてからのことだったのか、会ったとすれば、
どんな話をしたのだろうとか、思いを巡らせてしまいますね。

ところで、吉川英治さんの「新平家物語」で清盛が自分は天皇
のごお落胤なのでは...と悩む箇所がありますが、その根拠は
何処にあったのだろう、と今でも不思議です。

それはさておき、近衛家は後世一時断絶、養子を迎えて近衛家
は続いておりますが、我が家系は実父まで20代目家督家系が
順調に続いております。男系なら藤原基道、女系なら清盛の娘
の一人の血筋も家系上は続いていることになります。

800年って長いようでそれほどの昔でもない、ついこの間、
のこと、「きらめきの刹那」、そんな気がしてきましたよ。

                 ひがしまち
No.212 - 2007/02/13(Tue) 16:06:11
Re: 清盛の落胤説は / 手鞠(管理人)
ひがしまち様
清盛が白河院の落胤という話は、吉川英治氏の創作ではなく、当時から噂されていたという風説によるものです。
武家にしては異例の昇進スピードと、実母が白河院の寵妃祇園女御もしくはその妹とされることから、そうした噂が世間にも広く流布していたようです。もちろん確たる証は残っていませんので、この謎は永久に解明されることはないと思いますが…。
No.213 - 2007/02/13(Tue) 19:35:06
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