坂本龍一のドキュメンタリー「CODA」、ガンになった以降初めての200名限定ライブ「PERFORMANCE IN NEW YORK: async」映画館で観ました。これは、前編後編といっても過言ではなかったです。
「CODA」twitterからのログ: 音楽家という一面を存分に見せてもらったしプライベート映像も多くとてもよかった。森の中の鳥のさえずりを音楽と捉えて、廃棄されたものを叩いて録音したり、雨の中ベランダ出て頭にバケツ被って音を確認したり、シンバルの上にマグカップ乗せて表面で回して音出したり、北極の水を録音してこの世で一番ピュアな音とかゆってたり アンビエント〜〜〜て感じで 震災やテロや重い話題もありつつ津波ピアノと呼んでるその意味とか考え方もウワッてなるし音楽家のドキュメンタリーはとにかく最高。 映画の劇伴の総集編とも言える内容で、教授が若かりし頃の話ですが、映画のオーダーきたときあまりに無茶苦茶なスケジュールで、一週間で45曲作って、その翌日オケ収録(映像では指揮してた)ってくっっそ震えた今じゃ絶対できませんって言ってたそりゃそうだろうよ/あとオケ収録の直前になって監督からこのイントロ変えたい、変えて。◯◯くんはやってくれた(※海外の人)って言ってて◯◯くんやったのか〜まじか…て悩んでオケの人たちに30分待って!!ってお願いして無事に完成して、そのイントロが映画と合わさったとき本当によくてね……て話とかよすぎる。 asyncについては予備知識ないまま触れる状態で見るんですけど、アンビエントと科学的非科学的な融合だったり現代音楽、心地の良い音の実験に触れられると思っています。「今の」彼の音へのひたむきさが知りたくて。
https://gqjapan.jp/culture/bma/20170511/ryuichi-sakamoto-asynchronization インタビューで「ノイズもサウンドも人の声もすべての音が音楽」と言っていて、実験的なアルバムであることはドキュメンタリーの段階で私の中でも予想していました。あと、ネットに掲載されていたWIREDという記念本?パンフレット的なものの一部で ガラス板の演奏(丸のついた棒で曲線を何回も描いてたな…)をしていたとき「「わあっ」って驚いたような表情で身を乗り出しているんです。あんな無邪気なビョーク姫の姿を見たのは初めてで、そうなるとこっちも面白くなってきていろんなことをやっちゃう」と語った教授のくだりがすごくかわいかったし、ああ、そういうことが音楽だ、と観る前から思っていました。
「async」観たあとの感想を率直に言うと、観た人によって感想は異なるだろう、その人にしかない情景が見えたであろう、感化され思い出すものがきっとあったであろう、ということ。まず、これは私の知っている音楽(旋律が続き、一般的にそう定義できるもの)ではありませんでした。だけれども、私にとって「音楽とは何か」という根源を改めて、考えさせられるものでした。今の、すべての音が音楽に聴こえる坂本龍一が、何を選んで、何を思って、どんな背景があって、この音を生み出したのか。そういう、ずっとずっと原始的なところを彼は描いていて、ピアノの鍵盤を叩く指先の、はかなさ、美しさ、神聖さ、ああ全く到底言葉にはできないのですが、1本の映画のようでもありました。終わりのない音なんてこの世にないんです。「ピアノの音は消えてしまう。だから消えないものに憧れる」という言葉をドキュメンタリーで聴いたときの、その感覚を思い出す瞬間が何回もありました。 私はメロディがあって歌手がいるキャッチーな「歌もの」が大好きな人間なので、ああいったノイズの続くようなものというのは得意ではないんですけど、音楽というよりよっぽど芸術であったし、彼の音が私の中にいま、響いている、空間が満たされている、それだけで、いいんですよね。色々なものが「見えた」、聴くというよりはずっと体感的なものでした。音楽ではないといいながら音楽でもあったので、あのオルガンの美しい旋律、死ぬほど好きで覚えてしまいましたけどね。心地よいというよりはよっぽど切実さ・無機質さがあった印象です。
「async」=asynchronization 非同期という意味合いとのことですが、エーシンク、と読ませて、a-sync(sync=同期) その場そのときその瞬間の音の集合体であり、ばらばらに向かいながら、結局は一つで、結局は人間は一人で。そういうことまで、思わせる音だった。私が感受性が強すぎるせいもあるんですけど、涙が溢れて止まらない瞬間が何度もありました。これを退屈だという人間もいるんだろうと思う。そういう受け手に委ねられた作品を、観ることができて本当によかった。おわります
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