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へブル6章。1-2節。ここにあげられている初歩的な教えのうち、「死んだ行いからの回心」とは、罪から悔い改めて神を信仰する回心と考えられるが、「死んだ行い」という表現が興味深い。ローマ14:23の「信仰から出ていないことは、みな罪です。」ということを思うと、「死んだ行い」とは、信仰から出ない行いだと思われる。キリスト者も、信仰によって与えられた恵みによらず、自分の力を頼り、自分勝手に良いと考える行いをするとき、死んだ行いをすることになるように思う。
3-8節の初歩的でない成熟したキリスト者に対する教えは、厳しい警告になっている。ここはカルバン主義の予定説にたつかどうかによって、いろいろな解釈がされているところである。僕は、信仰を一度いただき、聖霊を受け、この世で天国の前味を味わったものが、信仰を捨てるという罪を犯すならば、もう一度悔い改めて信仰に立ち返ることはありえず、そういう人は、神に国に役に立たない人として地獄に行くさばきを受ける、という意味だと考えます。へブル書の著者は、この手紙のあて先の教会の人々の中に、信仰を捨てる人たちが出るのではないか、という恐れをいだいているので、この厳しい警告を書いたと思います。
9節-12節。厳しい警告の後、すぐに、著者は手紙のあて先の読者たちを励ましている。僕たちも、信仰を捨てようとしている主にある兄弟姉妹が身近にいて、警告の言葉を発するとしたら、その前にも後にも、励ましの言葉を発するようにしたい。著者は読者たちの過去の良い行いを忘れずに書いて励ましている。また、十分な確信を持ちつづけたら、約束のものを相続するのだという報いを語って励ましている。
13-15節。信仰の父と言われるアブラハムの忍耐は、神の祝福の約束を信じたことが基礎になっていた。
16-18節。僕たち信仰者は神のアブラハムに対する約束の相続者である。18節の「二つの事がら」とは何か、分かりにくいが、神のアブラハムに対する約束と、それを確証する誓いであるという脚注の説が正しいと思う。
19-20節。この望みは幕の内側にはいる。父なる神が力強く臨在されているところに、大祭司であるイエスの血によってきよめられていると信じて、はいっていくことが重要だと思う。 |
No.3827 2008/01/31(Thu) 08:31:54
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1節 そうです。成熟を目ざして進まなくてはなりません。 2節 基礎的なことのやり直しは避けたいですが、基礎的なことを抑えて進むということは忘れずにいたいと思います。 6節 堕落してしまいませんように! 8節 自分が 「いばら」や「あざみ」の土地ではありませんように! 11節 熱心に、最後まで! 12節 わたしが怠けず、信仰と忍耐によって約束のものを相続する先達にならう者になっていけますように! 13−18節 神の尊いご性質!神だけができる誓い! 20節 「イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」 Jesus, who went before us, has entered on our behalf. He has become a high priest forever, in the order of Melchizedek. イエスさまのなされた仕事、それを為さしめた神さまに感謝します。 |
No.3828 2008/01/31(Thu) 08:33:11
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