[ 掲示板に戻る ]

過去ログ閲覧モード

出エジプト記12章残り / 沙耶香 引用

今日は出エジプト記12章残りを読みます。

22節に
ヒソプの一束を取って、はちの中の血に浸し、そのはちの中の血をかもいと2本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。
とあるが、ヒソプって何だろうか?前も聞いたことあるような気もしますが、もう忘れました。でも文章から、多分はちに植えるものなんだろうなーーと想像しますが・・・・

30節に
それで、その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。そして、エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。
とあるが、これはどういう意味だろうか?死人のない家がないということはどの家も死人がいるということだろうか?それで泣き叫びが起こったのだろうか?

37節に
イスラエル人はラメセスから、スコテに向かって旅立った。幼子を除いて、徒歩の壮年の男子は約60万人。
とあるが、徒歩でなんてすごいなーーー。相当に馬力があったんですね・・・

42節に
この夜、主は彼らをエジプトの国から連れ出すために、寝ずの番をされた。この夜こそ、イスラエル人はすべて、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのである。
とあるが、寝ずの番??主のための寝ずの番・・何の番をしているのだろうか?

43節に
主はモーセとアロンに仰せられた。「過越のいけにえに関するおきては次のとおりである。外国人はだれもこれを食べてはならない。
とあるが、これを食べてはならないの、”これ”って何だろうか?その前のほうに出ていたパンのことだろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒23章31―35節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいたが、一つに絞れなかったので、全体をもう何度か読みます。
何だかいろいろ難しいですね・・・・

No.3011 2007/09/18(Tue) 12:11:54

Re: 出エジプト記12章残り / 大垣 引用

22節のヒソプは、茎の高さが50センチから1メートルくらいのはっか科の草だそうです。茎の先の細長い葉を血に浸して、その血をかもいや門柱につけるのに適していたようです。

30節、主がエジプトの初子を打たれたので、初子が皆死にました。

42節、主がエジプトからイスラエルを連れ出された夜にイスラエルの民を見守ってくださったことを主が「寝ずの番をされた」と比喩的に表現し、イスラエルの民もそれを記念して、毎年この夜は寝ずに主に感謝しながら過越のいけにえを食べる祭りをすることを「主のために寝ずの番をする」と比喩的に表現しています。申命記16章6-7節、特に7節に「そして朝、自分の天幕に戻って行きなさい。」とあるのが、このことに関係していると思います。

43節の「これ」は過越のいけにえの肉のことです。

No.3014 2007/09/18(Tue) 20:02:43

再出エジプト記12章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度出エジプト記12章残りを読みます。

23節の
主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと2本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼすものがあなたがたの家にはいって、打つことがないようにされる。
が印象に残りました。

29節に
真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。
とあるが、これはどういう意味だろうか?地下牢にいる捕虜の初子??うーん???

40節に
イスラエル人がエジプトに滞在していた期間は430年であった。
とあるが、この430年はどうして430年になったのだろうか?何か意味があるのだろうか?

48節に
もし、あなたのところに異国人が在留していて、主に過越のいけにえをささげようとするなら、彼の家の男子はみな割礼を受けなければならない。そうしてから、そのものは、近づいて捧げることができる。彼はこの国に生まれた者と同じになる。しかし無割礼の者は、だれもそれを食べてはならない。
とあるが、そんなに割礼にこだわらなくてもよさそうなものなのになーーーと私は思うけれど・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒24章1−5節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると5節が気になるので、これをもう何度か読みます。
ペストのような存在とはよく言われたものですね・・・

No.3016 2007/09/18(Tue) 20:27:19

Re: 出エジプト記12章残り / 大垣 引用

29節は、身分に関係なk、全てのエジプトの初子を主が打たれたことを書いています。エジプトで身分の一番高かったパロの初子も、身分が一番低いともいえる地価牢にいる捕虜の男の初子も、打たれました。

40節の430年という数字ですが、創世記15章13節では、使徒7章6節ではイスラエルのエジプトでの年数は「400年」となっています。これに対しガラテヤ3章17節ではアブラハムとの契約から430年となっています。どの時点から数えるかによって、400年と430年の違いがあることから、40節の430年という数字はアブラハムの契約を重視していることを示す霊的な意味があるのかもしれません。

48節、アブラハムが信仰によって義とされた(創世記15章6節)後、主はアバラハムと契約を結ばれました(創世記15章13−21節)。割礼は17章9−14節にあるように、アブラハムの契約で、とても重要なイスラエル人への戒めでした。信仰を持たずに、ただ、うわべで割礼をしても意味がないと思います。しかし、信仰を持って義とされ、主の恵みによって、主との契約の行いをするのは、人間が意味を理解できないことでも、とても重要なことだと思います。

No.3017 2007/09/18(Tue) 22:23:26
ヨハネ16章 / 大垣 引用

ヨハネ16章。1節−4a、この世からの反対。15章17節から、弟子たちはこの世から迫害を受けること、2節のように、イエスの弟子たちをCENSOREDことで自分は神に奉仕しているのだと思う人たちまで出てくること。7章24節のように、うわべによって人をさばく人たちは、程度の違いがあっても、このような間違いをしてします。うわべを見て判断する、ということが人間の罪の性質なので、キリスト者も十分に注意が必要である。

4b―15節、聖霊の働き。イエスが迫害をご自分が受けられるなどして、弟子たちを守ってこられたが、イエスが去られた後には、弟子たちが迫害を受けることになる。5節は、13:36と14:5節を読むと、うわべを見ると、ペテロとトマスは、イエスがどこに行かれるか聞いたので、「尋ねる者がありません」は奇異な感じを受ける。しかし、本当に心から彼らはイエスがどこに行かれるか知ろうとして質問したのではないということだと思う。

7節、イエスが去られることによって、エゼキエル26:24−27、ヨエル2:28−32などで預言された終わりの時が来て、聖霊が来られる。父なる神のご計画で、そのような終わりの時が来るにはイエスが一旦、去る必要がある。

8節、聖霊が来ると、世に属す一人一人に、罪を認めさせ、悔い改めへと導かれる。9節、イエスを信じないという罪があるために罪が残るのだ、とういうことを聖霊が個人に示される。10節、この世の義はイエスを十字架にかけてCENSOREDしまうようなものなので、この世の義は神の義とは異なり、間違っているのだということを、聖霊が示される。11節、この世を支配し、信仰者たちを告発するサタンがさばかれたので、この世のさばきは間違っているということを、聖霊が示される。

13節、聖霊は信仰者を真理に導きいれ、父なる神から聞くままを話される。へブル1:1−2のように、イエスは最終的な神の啓示である。しかし、イエスの啓示は無限に深く、人間がすぐに理解できるようなことではない。啓示のそれぞれの状況での含意や、意義は、聖霊が信仰者個人にいろいろな方法で話される。また、当時、目前にせまったイエスの死と復活の意味を、信仰者個人のいる状況とその時点での理解する力に応じて、信仰者に示される。

14節。聖霊は、イエスの栄光を現す。イザヤ42:8のように、父なる神はご自分の栄光を他の者に与えたりなさらない。父なる神とイエスが一体であるので父なる神の栄光と、イエスの栄光は同じものである。イザヤがイザヤ6章で見た父なる神の栄光は、12:41にあるようにイエスの栄光である。

16−33節、この世での苦しみを超えた喜び。16節の、「しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなります。」とは、イエスの十字架での死、「またしばらくするとわたしを見ます。」は三日後の復活のことだと思います。イエスの昇天や、聖霊降臨や、イエスの再臨も意味に含んでいる、とする学者もおられるようです。それらは、直接の意味ではなく、神が同じ型を使われた、と考えたいと思います。

21節、イエスの十字架による弟子たちの悲しみは、子を産むときの苦痛のようなもので、生まれたときの喜びで、もはやその激しい苦痛を忘れる。信仰者は、この世でのすべての苦痛を、そのようにとらえることで、苦痛があってもイエスの中で喜ぶことができる。

24、26節、「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。」は、「イエスの御名によって祈ります」とうわべで言うことによって解決できる問題ではない。お祈りがかなえられないとき、本当にはイエスの名によっては求めなかったことが分かります。自分の欲しいと思うものを求めるのではなく、イエスの血による聖めを信じて、神の前で静まっていくと、イエスの恵みによって、本当に自分が欲しいものを求めるようになっていく。

33節、イエスはユダを送り出したときに、すでに世に勝たれ、十字架で栄光を受けられた。そのことを信じていれば、イエスの恵みによって、イエスにある平安をいただき、勇敢であることができる。

No.3015 2007/09/18(Tue) 20:05:26
ヨハネ15章 / 大垣 引用

ヨハネ15章。1節。エレミヤ2:21のように、神はイスラエルをぶとうの木とされた。この型の真実はイエスがまことのぶどうの木であられること。父なる神は農夫であられ、ぶどうの実を喜んでくださる。

2節、せっかく信仰をいただいても、試練にあって、それを捨ててしまうものは、神が取り除いてしまわれる。信仰をたもって、ぶどうの木にとどまるものも、神が試練を与えて、刈り込みをなさる。試練に耐えるものは、イエスの恵みにより、多くの実を結ぶ祝福をいただける。

3節、ここを聖化の段階におけるきよめと解釈する学者もおられるようですが、僕は違うと思います。信仰者は、イエスの血によって、聖化の途上にあっても神の目から見て、もうきよいのです。だから大胆にまことの聖所にはいり(へブル10:19)、神に近づくことができる。もうきよいと信じて、聖所にはいり、神の前に立つから、その結果としてだんだん信仰者は聖められていく。この聖化は、もうきよいと信じたことの結果である。そして、実をむすぶことも、もうきよいと信じて、神の前に立って指示に聞き従うことの結果である。

4節、試練にあっても信仰を保ち、イエスにとどまることが、僕たちに与えられた責任。後は、イエスが僕たちの中にとどまって、すべてをしてくださる。

5節、イエスの中にとどまらなければ、僕たちは、悪と偽善の行為しかできない。そのような行為も神が善用される。しかし、僕たちが神に喜んでいただける良い行いをするためには、信仰によってイエスの中にとどまるしかない。

7節、イエスの中にとどまるものは、イエスの喜ばれることだけをほしいと思うようになるので、求めるものは全て与えられる。

9節、父に愛されているのに家にとどまらなかった放蕩息子のように、イエスに愛されているのに、イエスの愛に中にとどまらないことを選択するものは、どんどん雪だるまのように罪をかさね、どんどんイエスの愛から遠くはなれていってしまう。どれだけイエスから遠く離れてしまっても、われに返ってイエスの愛のもとへと戻っていけば良い。

10節、イエスは父の戒めを守って父の愛のなかにとどまっておられる。僕たちは、主イエスの戒めを守って、イエスの愛のなかにとどまる。

11節、それは、禁欲の努力によってイエスの戒めを守るのではなく、イエスの恵みによって、喜んでイエスの戒めを守る。

12節、イエスの戒めとは、信仰者が互いに愛し合うこと。この戒めを守ればイエスの愛に近づいて祝福され、守らないとイエスの愛から遠く離れていく。

13節、イエスの十字架による自己犠牲は、神の国での栄光につながる。自己犠牲だけに目をとめると、自分の力に頼る禁欲主義的な間違いにつながっていきがちだと思う。キリスト者は、この世での自己犠牲と、神の国での喜びを同時に見ていないといけない、と思う。

14節、僕たちに罪の性質があるのに、イエスは友と呼んでくださる。

16節、僕たちがイエスを選んだのではなありません。イエスが僕たちを選ばれ、僕たちを任命されたのです。信仰はイエスが与えてくださった。与えられた信仰に応じ、信仰を保つことだけが僕たちの責任。

18-27節。信仰者は世に憎まれ、迫害される。

22節、イスラエルを救うためのメシヤが来て話されたのに、そのメシヤを理由なしに憎んでCENSOREDしまったユダヤ人たちの悲劇。ダビデのまわりの人たち、特にサウルがダビデを憎んだことは、この予型であった。「理由なしに」は正当な理由なしで、ということで、サウルはダビデに嫉妬して恐れ、ユダヤ人のリーダーたちは、自分たちの権益をも守ったり、世の人々の賞賛を得たいという理由があった。

これはキリスト者に持使われる型なので、僕たち信仰者も注意しないと、思いこみや罪の誘惑のために、正当な理由なしで、他のキリスト者を憎んでしまう。

No.3007 2007/09/17(Mon) 22:13:42
ヨハネ14章 / 大垣 引用

ヨハネ14章。2節の「場所を備えに行くのです」は、最近まで十字架の後に天国に場所を備えに行かれたと思って読んでいました。その場合は3節の「また来て」は再臨、ということになる。注釈書で、「十字架に上げられて復活されることによって、天国での場所を信仰者に備えられる」という意味で、3節の「また来て」は十字架の3日後の復活のこと、という説を読んで心惹かれました。神さまが同じ型を使われるということを考えると、両方の意味がある、と考えて良く、そうとりたいように思います。でも、どちらかというと、「また来て」はイエスの復活のことの意味が強いように今は思います。

4節。イエスは「わたしの行く道はあなたがたも知っています。」と使徒たちに断言された。

ところが5節で、トマスは自分たちは道を知らないと言う。

6節で、イエスは、ご自分が道であることを教えられた。僕たち一人一人のために十字架につかれるほど、関心を持ってくださっているイエスは、ご自分を僕たちに個人個人に全く別の方法で示され、全く別のお導きをされることが多い。それでも、父なる神への道はひとつしかない。それは主イエスである。だから、れほど違うお導きを受けても、僕たちはひとつの道を一緒に歩いていくことができる。

ただひとつの道であられる主イエスさまを賛美し感謝します。

10節。イエスが父におられ、父がイエスにおられる、とはどういうことか。僕にはよく分からないし、この世で分かるとも思わないが、イエスと父が一体であられることを、より深く理解していきたい。それによって、17:20−23でのイエスの祈りのように、イエスと父が一体であられるように、信仰者がみな神の愛によって一つとなることに、より深く参加していきたい。

12節。質においてではないが、影響力において、僕たちはイエスがされたよりも大きなわざをするように用いていただける。なんという素晴らしい恵み。賛美して感謝します。

18節。「あなたがたのところに戻って来るのです。」は1.イエスの復活、2.ペンテコステの聖霊の降臨、3.イエスの再臨の3つのうちのひとつか、あるいは、そのコンビネーションという説があるそうです。僕の読んでいるCarson の注釈書では、イエスの復活である、という説。イエスの十字架と復活が条件となって、聖霊の降臨(16−17節)があるので、ここに書いてある、という説です。それが主要な意味であろうと思う。それで、使徒の時代の後のキリスト者にはその型を神が使われ、聖霊にうちに入っていただくことによってイエスを「見る」。

21節。イエスを愛し、喜んで戒めを守る人に、イエス自身がイエスを現してくださる。

27節。イエスは真の平安をくださる。

28節。イエスを愛する人は、このときにイエスが父のもとに行かれることを喜ぶはずであった。イエスとともに、悲しみながら喜ぶはずであった。

31節。「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」は、現実にも、2階の広間から出て行き、霊的にも、「この世を支配する者」であるサタンに対して、イエスが弟子たちとともに対決されていく、ということだと思います。15−17章は、エルサレムをゆっくり歩きながら、あるいは、エルサレムのどこかで立ち止まって話された、と考えれば、18:1と整合的であると思います。ただ、2階の広間にとどまって話し続けられたということも、ありえると思います。

No.3004 2007/09/17(Mon) 02:24:27
出エジプト記10章 / 沙耶香 引用

今日は出エジプト記10章を読みます。

1,2節に
主はモーセに仰せられた。「パロのところに行け。私は彼とその家臣たちを強情にした。それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行う為であり、
私がエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせる為であり、わたしが主であることを、あなたがたが知るためである。」
とあるが、これらのしるし、行ったしるしといっているが、雹と雷のことだろうか?何かほかのことだろうか?

4節に
もし、あなたが、わたしの民を行かせることを拒むなら、見よ、わたしはあす、いなごをあなたの領土に送る。
とあるが、いなごとは一体何だろうか?

11節に
そうはいかない。さあ、壮年の男だけ行って、主に仕えよ。それがおまえたちの求めていることだ。」こうして彼らをパロの前から追い出した。
とあるが、壮年の男って何だろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒23章11―15節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると15節が気になるのでこれをもう何度か読みます。
パウロは今まで殺されても仕方がないような迫害者だったので・・・

No.2999 2007/09/16(Sun) 06:04:54

再出エジプト記10章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度出エジプト記10章を読みます。

2節の
わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせる為であり、わたしが主であることを、あなたがたが知るためである。」
が印象に残りました。

21節に
主はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸べ、やみがエジプトの地の上に来て、やみにさわれるほどにせよ。」
とあるが、やみをさわるって何だろうか?やみって暗闇のことだろうか?暗闇は触れないと思うんだけれど・・・??

28節に
パロは彼に言った。「私のところから出て行け。私の顔を二度と見ないように気をつけろ。おまえが私の顔を見たら、その日に、おまえは死ななければならない。」
とあるが、何でモーセがパロの顔を見たら、その日に死ななければならないのか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒23章16―20節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいたが一つに絞れなかったので、全体をもう何度か読みます。
うーん、昔は100人隊長とか1000人隊長とかいろいろいたんですね・・・

No.3001 2007/09/16(Sun) 22:33:45

Re: 出エジプト記10章 / 大垣 引用

1節の「これらのしるし」は、これから行われるいなごと暗やみの災害なども含めて、主がイエスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から解放するためにされる全ての奇跡的な主のわざのことだと思います。

2節、僕たち信仰者が出会った方が主であることを知ることが大切です。

4節のいなごは、ばったのような昆虫です。特に群棲して移動するいなごは、大発生して作物を食い尽くしつつ移動して、エジプトでは古代から恐れられていました。

11節の「壮年」とは働きざかりの年齢です。この場合、18歳から60歳くらいかな、と想像します。

21節、の「やみにさわれるほど」とは、比喩的な表現です。

28節、パロはモーセに怒り、「次に私の前に出てきたら、処刑するぞ。」というような意味のことを言っています。

No.3003 2007/09/17(Mon) 02:21:13
出エジプト記9章 / 沙耶香 引用

今日は出エジプト記9章を読みます。

4節に
しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別する。それでイスラエル人の家畜は一頭も死なない。」」
とあるが、何でイスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別するのだろうか?家畜の種類が違うのだろうか?

5節に
また、主は時を定めて、仰せられた。「あす、主はこの国でこのことを行う。」
とあるが、この国でこのことを行うって何だろうか?何を行うんだろうか?

8節に
主はモーセとアロンに仰せられた。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはパロの前で、それを天に向けて撒き散らせ。
とあるが、かまどのすすってなんだろうか?ご飯を炊く釜に直火ですすがついていたのだろうか?

9節に
それがエジプト全土にわたって、細かいほこりとなると、エジプト全土の人と獣につき、うみの出る腫物となる。」
とあるが、何でかまどからでたすすが原因でうみの出る腫物となるのだろうか?

14節に
今度は、わたしは、あなたとあなたの家臣とあなたの民とに、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者は地のどこにもいないことを、あなたに知らせるためである。
とあるが、これはどういう意味だろうか?わたしのすべての災害???

23節に
モーセが杖を天に向けて差し伸ばすと、主は雷と雹を送り、火が地に向かって走った。主はエジプトの国に雹を降らせた。
とあるが、素晴らしい御業ですね・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒23章1―5節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると3節が気になるのでこれをもう何度か読みます。
昔はいろいろな役職があって大変だったんだろうなーーー。

No.2992 2007/09/15(Sat) 11:42:17

再出エジプト記9章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度出エジプト記9章を読みます。

3節に
見よ、主の手は、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上にくだり、非常に激しい疫病が起こる。
とあるが、疫病とは一体何だろうか?らい病とかそういうことだろうか?

28節に
主に祈ってくれ。神の雷と雹は、もうたくさんだ。私はおまえたちを行かせよう。おまえたちはもう、とどまってはならない。」
とあるが、とどまるってどこにとどまってはならないのだろうか?

31節に
―亜麻と大麦は打ち倒された。大麦は穂を出し、亜麻はつぼみをつけていたからである。
とあるが、亜麻って何だろうか?字から言って、麻ににたものだろうか?でも麻も聞いたことあるけれど、あまりよく分からないのだ・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒23章6―10節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると9節が気になるので、これをもう何度か読みます。
霊とか御使いに話し掛けられるっていいですね・・・

No.2994 2007/09/15(Sat) 22:06:39

Re: 出エジプト記9章 / 大垣 引用

3節の疫病とは悪質な伝染病のことです。

4節で、主は、エジプトの王のパロが主に聞き従わないたので、エジプトに家畜の疫病の災害をもたらして罰されておられます。だから主がエジプト人の家畜だけが死に、イスラレル人の家畜は死なないようにされました。

5節、「このこと」とは、家畜の疫病の災害のことです。

8節の「かまど」は、火をたいて、れんがを作るために使われたかまどだと思います。当時は電気もガスもなく、直火なので、すすがつきました。

9節、科学的な説明も可能かもしれませんが、霊的な説明として、かまどのすすが、れんが焼きの苦役とイスラエル人のエジプトでの苦しみを表していて、それがエジプト人につくと、主の怒りのために、腫物となったと思います。

14節の「すべての災害」とは、これまでの血(7章14−25節)、かえる(8章1−15節)、ぶよ(8章16−19節)、あぶ(8章20−32節)、家畜の疫病(9章1−7節)、腫物(9章8−12節)の6つの災害につづく、第7の雹(9章13−35節)、第8のいなご(10章1−20節)、第9の暗やみ(10章21−29節)の3つの災害のことだろう、と思います。

28節、「とどまってはならない」とは、エジプトのとどまってはならない、という意味です。

31節、亜麻は長い繊維を持つ植物だそうです。この繊維から作った亜麻糸は、麻糸の一種のようです。

No.2997 2007/09/16(Sun) 03:17:02

Re: 出エジプト記9章 / 沙耶香 引用

>>8節の「かまど」は、火をたいて、れんがを作るために使われたかまどだと思います。当時は電気もガスもなく、直火なので、すすがつきました。

うーん、今や直火というのは高級なイメージがありますが、昔は直火しかなかったのですよね。直火焙煎とか言って、グルメの最先端というイメージがありますが・・・・

>>9節、科学的な説明も可能かもしれませんが、霊的な説明として、かまどのすすが、れんが焼きの苦役とイスラエル人のエジプトでの苦しみを表していて、それがエジプト人につくと、主の怒りのために、腫物となったと思います。

何だかいろいろと難しいですね・・・・

No.3000 2007/09/16(Sun) 06:14:50

Re: 出エジプト記9章 / 大垣 引用

>今や直火というのは高級なイメージがありますが、昔は直火しかなかったのですよね。

そうですね。科学が進んで便利になって、それは素晴らしいことですが、結局、人間が神さまの造られた素材を、いろいろ組み合わせてみても、神さまの造られたものにかなうわけがない、と思います。

>何だかいろいろと難しいですね・・・・

すべてのものは、御子イエスさまのために造られたので、すべてのものに、この世的、あるいは科学的な説明とともに、霊的な説明もあります。両方を一緒に考えると、ややこしくて混乱するときは、霊的な説明の方に目を向けるようにするのが良いと思います。

No.3002 2007/09/17(Mon) 02:04:14
ヨハネ13章 / 大垣 引用

今日から僕も沙耶香さんのように、ここに聖書の1章を読んだ感想を書いてみたいと思います。

ヨハネ13章。木曜日のニサン14日の3−5時に子羊がほふられ、日没の6時ごろからニサン15日の過越しの祭りがはじまり、過越の夕食があったらしい。マルコ14:12で「過越の子羊をほふる日に」とあるので、共観福音書では、最後の晩餐が、この過越の夕食であることははっきりしているようである。ヨハネでは、13:1,27;27;18:28;19:14,31,36,42などから、最後の晩餐は1日前の水曜日の夜であったと解釈する学者が多いらしい。1節や、マルコ14:12の脚注を書いた学者たちもその説をとっている。ある注釈書では、ヨハネも、共観福音書と同じく、最後の晩餐は、木曜の夜であったと考えて、ギリシア語の聖書と整合的である、と述べている。よく調べないと分からないが、この説が共観福音書と考え合わせて最も自然に思われるので、その説をここでは採ることにします。

1節の「過越しの祭りの前に」は、脚注では13−17章にかかると考えているが、これは、洗足式だけにかかると思われる。それで、2節の「夕食の間のことであった。」のギリシャ語はオリジナルに近いと思われるマニュスクリプトの中に「夕食がすっかり出されたときのことであった。」と訳すことができるものがあるそうです。それで木曜の日没前に、洗足式があった。それで、日没の直後に、夕食が始まった。夕食の途中に最初の聖餐式があった。イスカリオテのユダが、聖餐式に参加したかどうかが興味深い。26節のパン切れを浸して与えるのは、夕食の最初のころと考えるのが自然であるらしい。そうすると、ユダは聖餐式の前に出ていったことになる。マタイ26:21−29とマルコ14:18−25は、この解釈と整合的に思える。しかし、ルカ22:15−23では、ユダも聖餐式に参加したように思える。どちらかというと、ユダが聖餐式に参加しなかったが、ルカは、ユダがイエスと同じテーブルで食べたり飲んだりしていた、ということを神学的に強調する目的で、21−23節を15−20節の直後に置いたと思う。

洗足式には、イスカリオテのユダも参加した。1節が、洗足式のことであると思うので、裏切り者も参加する洗足式によって、イエスは愛を残るところなく示された。イエスはおそらく最初からユダが裏切ると知っておられたし、12:6のうように盗人であったことも知っておられたと思う。それでもユダを12弟子の一人として選ばれ、足を洗われ、26−27節のようにパン切れを浸して与えて愛された。イエスは最後までユダを愛された。その愛を拒否したのはユダであった。18節でイエスは詩篇41:9「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。」から引用された。これは、実際にダビデに起こったことであって、ダビデがメシアに起こることの預言として書いたわけではないと思う。神は、同じ型をダビデに使い、また、キリストに使われた。 もしキリスト者が人々の賞賛よりも神の賞賛を求めるなら(12:43)、神は同じ型をキリスト者にも使われるであろう。

36−38節のように、ペテロが3度イエスを知らないと言って裏切ることもイエスは知っておられた。ペテロは悔い改めて、イエスの愛を受け入れ、教会のリーダーの一人とされた。

No.2998 2007/09/16(Sun) 04:07:24
ハレルヤ / じんない 引用

教会に一緒に行っていた未信者の学部生が昨日、イエス様を救い主として受け入れました。彼の魂が救われたことが本当に嬉しいです。感謝して、神様の御名を賛美します。

No.2993 2007/09/15(Sat) 13:27:38

Re: ハレルヤ / 沙耶香 引用

その未信者の学部生はクリスチャンになられてよかったですね・・・永遠の地獄に行くはずだったのに救われて天国にいけます。本当よかったです。

No.2995 2007/09/15(Sat) 22:08:02

Re: ハレルヤ / 大垣 引用

ハレルヤ。

学部生の方がイエスさまを救い主として受け入れられたことで、イエスさまと父なる神さまがどんなにお喜びだろうか、と思ってとても嬉しいです。

No.2996 2007/09/16(Sun) 02:48:35
出エジプト記8章 / 沙耶香 引用

今日は出エジプト記8章を読みます。

2,3,4節に
もし、あなたが行かせることを拒むなら、見よ、わたしは、あなたの全領土を、かえるをもって、打つ。
かえるがナイルに群がり、上ってきて、あなたの家にはいる。あなたの寝室に、あなたの寝床に、あなたの家臣の家に、あなたの民の中に、ああんたのかまどに、あなたのこね鉢に、はいる。
こうしてかえるは、あなたとあなたの民とあなたのすべての家臣の上に、這い上がる。」」
とあるが、これは何かの比喩的表現だろうか?”かえる”というのが何か意味があるのだろうか?

6節に
アロンが手をエジプトの水の上にさし伸ばすと、かえるが這い上がって、エジプトの地をおおった。
とありますが、これはどういうことをいっているのだろうか?

16節に
主はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの杖をさし伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、それはエジプトの全土で、ぶよとなろう。」
とありますが、これはどういう意味だろうか?”ぶよ”とは何者だろうか?

18節に
呪法師たちもぶよを出そうと、彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ぶよは人や獣についた。
とあるが、呪法師が同じようにしてできなかったのは今までで初めてですね・・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒22章21―25節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいたが一つに絞れなかったので、全体をもう何度か読みます。
昔は何かいろんなしがらみがあり、大変だったのだろうな−−と思います。

No.2987 2007/09/14(Fri) 11:29:02

Re: 出エジプト記8章 / 昌夫 引用

主がエジプトに与えられた災害は、文字通りのことが起こったのであって、比喩ではないと思います。それぞれ起こったことに、何か霊的な意味があるのでしょうが、よく分からない場合が多いです。

1-4節のかえるは、当時のエジプトで、珍しい動物ではなかったそうです。しかし、かえるが大発生して、家にもあがってくるということが災害でした。当時、エジプト人たちは、かえるの頭を持ったヘクト神という神をお守りとしていたそうです。かえるの災害は、ヘクト神を崇拝しないように、というメッセージがこめられていたのかもしれません。

16節のぶよは、日本語では、小さい、ハエに似た人や家畜の血を吸う昆虫です。「ぶよ」と訳されたへブル語が、何をさすかは、はっきりしていないようです。

No.2988 2007/09/14(Fri) 11:47:16

再出エジプト記8章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度出エジプト記8章を読みます。

8節に
パロはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「かえるを私と私の民のところから除くように、主に祈れ。そうすれば、私はこの民を行かせる。彼らは主にいけにえをささげることができる。」
とありますが、主に対していけにえをささげることができるというそのいけにえはかえるのことなのだろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒26―30節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると29,30節が気になるので、これをもう何度か読みます。
イエス様の世界でパウロは重要人物ですね・・・

No.2990 2007/09/14(Fri) 21:35:29

Re: 出エジプト記8章 / 大垣 引用

8節では、パロが、かえるが主への祈りで取り除かれたら、イスラエルの民がエジプトから出ることを赦し、イスラエルの民が主にいけにえをささげることができるようにすることを約束しています。パロは15節で、この約束を破ります。

パロがどれくらい、主へのいけにえのことを知って、8節のように言ったか分かりませんが、いけにえが、かえるでないことは、知っていただろうと思います。主へのいけにえは、羊や牛ややぎが中心だったと思います。

No.2991 2007/09/15(Sat) 02:44:01
出エジプト6章 / 沙耶香 引用

今日は出エジプト6章を読みます。

8節に
わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは主である。」
とあるが、誓ったその地とはカナンの地のことだろうか?

30節に
しかしモーセは主の前に申し上げた。「ご覧ください。私は口下手です。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。」
とありますが、どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう?と疑問に思っているのは、モーセが自分のことを口下手だと思っているからだろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒22章1―5節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいたけれど、一つに絞れなかったので、全体をもうなどか読みます。
パウロは熱心な信仰者だが、いろいろな迫害を起こしたんですね・・・

No.2977 2007/09/12(Wed) 12:06:29

Re: 出エジプト6章 / 大垣 引用

8節の「誓ったその地」とは、沙耶香さんの書かれたようにカナンの地です。具体的には創世記13章17節のように、アブラハムがカナンで歩き回った地が約束の地の境になります。当時の習慣として、自分の土地の境をはっきりさせるために、境を歩き、証人に見てもらう、ということがあったそうです。

30節。主はモーセをへブル人たちを救い出す仕事に用いようとされています。ここでモーセはなんとかそれを断ろうとしています。40歳のころには自分の力でへブル人たちを救えると思っていたモーセは、2章12節のようにエジプト人をCENSOREDしまって2章13節のようにへブル人にも受け入れられずに失敗しました。「自分の力に欠けたところがない」と思っている人は、本当に主に用いていただくことはできません。

40年間荒野で羊飼いをしているうちに、モーセはとても謙虚な人間になりました。自分の能力では、とてもへブル人たちを救えないことがはっきり分かっていました。ところが、30節でモーセは逆の間違いをしました。「自分には能力が欠けているから、自分は主に用いられることができない。」という考えを持ってしまいました。

モーセは同じような間違いを4章13節でもしています。そのとき4章14節で主の怒りがモーセに向かって燃え上がりました。そして、「よく話す」兄のアロンを主が用意されていることを告げられました。ここで、モーセが間違いを完全に悟ることができれば、6章30節のようなことをモーセが言うことはなかったでしょう。

このように、人間は、ひとつの間違いをすると、そのことを意識するあまり、逆の間違いをしてしまうことが多いようです。また、同じような間違いを、繰り返してしまいます。主は僕たちの間違いに怒りを感じられますが、忍耐強く、僕たちを真理へと導き、能力の欠けや間違いや失敗があっても、用いてくださいます。

僕たちは、能力の欠けや罪があっても、主に用いていただけることを信じて安心することが大切だと思います。そして、イエスの血によって聖められていることを信じて、主の前に出て、静かに主の声を聞きます。そうすれば、いろいろな方法で指示を与えてくださり、用いてくださいます。

No.2979 2007/09/12(Wed) 21:30:56

再出エジプト6章 / 沙耶香 引用

今日は出エジプト6章を読みます。

12節に
しかしモーセは主の前に訴えていった。「ご覧ください。イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。わたしは口下手なのです。」
とありますが、これは、30節と内容がほとんど同じですね・・・

19節に
メラリの子はマフリとムシである。これらはレビ人の諸子族の家系である。
とありますが、ムシって・・・ね・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒22章6―10節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると10節が気になるので、これをもう何度か読みます。
主に語ってもらえるなんて素晴らしいことですね・・・

No.2980 2007/09/12(Wed) 21:35:49

Re: 出エジプト6章 / 沙耶香 引用

創世記13章17節・・・
立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。

2章12節・・・
あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。

2章13節・・・
次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪いほうに「なぜ自分の仲間を打つのか。」と言った。

>>「自分の力に欠けたところがない」と思っている人は、本当に主に用いていただくことはできません。

本当にそうですね・・・うん、人間どんなにできている人でもイエス様と比べると比較にならないほど欠けているのです。

>>逆の間違いをしました。「自分には能力が欠けているから、自分は主に用いられることができない。」という考えを持ってしまいました。

うーん、これも使ってもらえない。私は欠けだらけだが、イエス様によって輝かせることができるのです・・・と思わないと・・・何だか難しいですね・・・・

4章13、14節・・・
すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」
すると主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぼう。

うん、主に用いられるように静まっていないと・・・

No.2981 2007/09/13(Thu) 11:47:59

Re: 出エジプト6章 / 大垣 引用

そうですね。主に用いられるためには、イエスさま十字架を信頼し、大胆に神さまの前に出て静かにしていると良いです。そうすると、僕たちの中に入ってくさっている主イエスさまが、僕たちの能力全てと僕たちの体を使ってくださいます。そして僕たちがそれぞれ与えられている良い仕事をするようになるように導いてくださいます。

そういう風に頭で分かったら、後はお祈りしていたら神さまがそうしてくださいます。

どうか、僕たちが、イエスさまの恵みで、僕たちが神さまの前で静かにしてよく神さまに聞くことができますように。いろいろな方法で指示をいただいたら、よく悟って、聞き従えますように。

No.2983 2007/09/13(Thu) 20:18:22

Re: 出エジプト6章 / 沙耶香 引用

本当そうです。イエス様に使っていただくようにするには、あまり動き回るより、イエス様の前に静まっているほうがいいことの方が多いです。
下手に動き回るとよくありません。
神様イエス様どうか私たちが、イエス様の恵みで、私たちが神様の前で静かにしてよく神様に聞くことができますように。いろいろな方法で指示をいただいたらよく悟って、聞き従えますように。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・

No.2989 2007/09/14(Fri) 18:07:57
全738件 [ ページ : << 1 ... 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 ... 74 >> ]

- HOME - お知らせ(3/8) - 記事検索 - 携帯用URL - フィード - ヘルプ - メール - 環境設定 -

- Skin: Modern v1.81 -

Rocket Board Type-X (Free) Rocket BBS