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創世記38章 / 沙耶香 引用

今日は創世記38章を読みます。

1節に
そのころのことであった。ユダは兄弟たちから離れて下っていき、その名をヒラというアドラム人の近くで天幕を張った。
とあるが、ヒラってどういう人だろうか?聞いたことないです。

3―5節に
彼女はみごもり、男の子を産んだ。彼はその子をエルと名づけた。
彼女はまたみごもって、男の子を産み、その子をオナンと名づけた。
彼女はさらにまた男の子を産み、その子をシェラと名づけた。彼女がシェラを産んだとき、彼はケジブにいた。
とありますが、シュアは子沢山だったんですね・・・

7節に
しかしユダの長子エルは主を怒らせていたので、主は彼を殺した。
とあるが、エルは何をして主を怒らせたのか?殺されるまでするということは何か相当悪いことをしているんだろうなーーー。

9節に
しかしオナンは、その生まれる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えない為に、兄嫁のところにはいると、地に流していた。
とあるが、地に流していたって、どういう意味だろうか?何を地に流したのだろうか?

11節に
そこでユダは、嫁のタマルに、「わが子シェラが成人するまで、あなたの父の家でやもめのままでいなさい。」といった。それはシェラもまた、兄たちのように死ぬといけないと思ったからである。タマルは父の家に行き、そこに住むようになった。
とあるが、やもめとは何だろうか?貧乏人とかそういう意味だろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒16章22―26節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句から、イエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・・
何度か読んでいると25節が気になるので、これをもう何度か読みます。
やはり祈りつつ歌う賛美の歌は囚人の心にも響くのです。素晴らしいですね・・・

No.2879 2007/08/22(Wed) 18:39:35

Re: 創世記38章 / 昌夫 引用

1節のヒラは、聖書の中でここと12節にしか出てきませんので、アドラム人でユダの近くに住む友人だった、ということしか分かりません。

7節、エルがどのような心で何をして主を怒らせたのか、聖書には書いていないので分かりません。僕は主は、何をしたかという行いよりも、その行いの背後にある心の方を重視されると考えています。

9節で、オナンは精液を地に流して、子ができないようにしました。子ができても、自分の子とはされず、死んだ兄のエルの子となる、ということになっていたからです。

11節の「やもめ」とは、夫が死んでしまった妻のことです。当時のカナンでは、女が一人で仕事をして生きていくことはたいへん難しかったらしく、やもめは社会的な弱者でした。

No.2881 2007/08/22(Wed) 23:43:40

再創世記38章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度創世記38章を読みます。

うーん、でも精液は地に流しても、多少残るのではないのかな?

やもめ=今でいう未亡人ですね・・・当時のやもめは社会的弱者だったということは私のようなものですね・・・

16節に
道端の彼女のところに行き、「さあ、あなたのところにはいろう。」といった。彼はその女が自分の嫁だとは知らなかったからである。彼女は、「私のところにおはいりになれば、何を私にくださいますか。」と言った。
とありますが、聖書では性交渉のことを男性が女性に入るという表現を使っているのですね・・・うーん、不思議だ・・・。

24節に
約3ヶ月して、ユダに、「あなたの嫁のタマルが売春をし、そのうえ、お聞きください、その売春によってみごもっているのです。」と告げるものがあった。そこでユダは言った。「あの女を引き出して焼き殺せ。」
とありますが、この身ごもっているのはユダの子じゃないの?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒16章27―31節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると31節が気になるので、これをもう何度か読みます。
主イエス様・・・・・

No.2882 2007/08/23(Thu) 13:09:14

Re: 創世記38章 / 昌夫 引用

16節。聖書では、性交渉のことを直接表現することを避けて、「女性に入る」という表現のほかに4章1節のように「女性を知る」という表現を使っています。直接に表現しないので、これらは婉曲表現と言われます。ひとつには、聖書は子どもも読むわけですから、婉曲表現を使って配慮されているのだと思います。

24節は、この時点で、ユダはタマルのみごもった子が自分の子だとは知りませんでした。25-26節で、初めてユダはそのことに気づきました。

38章で、ユダは遊女と思ったタマルとの姦淫などの罪を犯したと思います。しかし神はイエスの先祖となる栄誉をユダと、タマルとのふたごの弟のペレツに与えられました(マタイ1章3節)。ここで、ふたごの弟が選ばれたのは、神がふたごの兄のエサウよりも、弟のヤコブを選ばれたのと同じ型を使われたのだと思います。

No.2884 2007/08/23(Thu) 23:50:04

Re: 創世記38章 / 沙耶香 引用

じゃ、26節の
ユダはこれを見定めていった。「あの女はわたしよりも正しい。私が彼女を、わが子シェラに与えなかったことによるものだ。」こうして彼は再び彼女を知ろうとはしなかった。
という知ろうとしなかったというのはもう一度性交渉することはなかったということかな?

No.2889 2007/08/24(Fri) 12:00:10

Re: 創世記38章 / 昌夫 引用

>もう一度性交渉することはなかったということかな?

そうです。26節で、ユダは自分がタマルと性交渉したのは、いろいろな意味で罪だったことを悔い改めました。これが重要だと思います。これに対し、34章でユダの2人の兄、シメオンとレビは、暴虐の罪を犯しながら悔い改めようとせず、31節で、自分たちの正しさを主張したことと比べておいてください。

主はキリストの先祖として選ばれる栄誉をヤコブの12人のうちユダに与えられます(49章8-12節)。本来はこの栄誉は長子のルベンに与えられるはずでしたが、35章22節で彼は父のそばめと寝るという罪を犯し、次男と三男のシメオンとレビは34章で暴虐の罪を犯しました。それで四男のユダが選ばれましたが、彼に罪の行いがなかったのではなく、悔い改めた、ということだと思います。

No.2891 2007/08/24(Fri) 22:15:18

Re: 創世記38章 / 沙耶香 引用

26節の
ユダはこれを見定めて言った。「あの女は私よりも正しい。私が彼女を、わが子シェラに与えなかったことによるものだ。」こうして彼は再び彼女を知ろうとはしなかった。
のわが子シェラに与えなかったことによるものであるとはどういう意味だろうか?
えーー?34章31節は自分たちの正しさを主張しているの?うーん、よく分からない・・・・

うん、罪の行いが全くない人なんて人間にはいないでしょう。だから罪があったら悔い改めてイエス様に近づいていくことが大切です。

No.2896 2007/08/25(Sat) 11:58:00

Re: 創世記38章 / 昌夫 引用

>わが子シェラに与えなかったことによるものであるとはどういう意味だろうか?

後の時代のモーセの律法で、申命記25章5-6節に、兄が死んだときの戒めがあります。ユダの時代にも、すでにこのことが広く行われていて、兄が死んだときに、弟が兄嫁と結婚する義務があると考えられていたと思います。それで、オナンが死んだとき、ユダはタマルを嫁として三男のシェラに与えるべきでした。ところが、ユダはシェラもまた兄たちのように死ぬといけない、という恐れに支配され、タマルをシェラに与えませんでした。このことが、タマルの14-19節の行動の原因となりました。

34節30節で、ヤコブはシメオンとレビが、困ったことをしたと言ってしかっています。それに対し、彼らは、妹のディナを遊女のように取り扱われたので、その復讐として、シュケムたちをだまして殺したことは正しいことだったと主張しています。「いいのですか。」は「いや、いいはずはないでしょう。」という答えが当然と考えながら、質問の形にしています。

No.2898 2007/08/25(Sat) 13:42:41

Re: 創世記38章 / 沙耶香 引用

うーん、何だか難しすぎる・・・そのつながりがなかなか分からないし、考えていると混乱してきて何が何だか分からなくなってきます。
あーー、私には聖書の理解なんてまだまだだ。

No.2901 2007/08/25(Sat) 18:37:26
創世記39章 / 沙耶香 引用

今日は創世記39章を読みます。

4節に
それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近のものとし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。
とありますが、ヨセフは幸せ者ですね・・・

6節に
彼はヨセフの手に全財産をゆだね、自分の食べる食物以外には、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格もよく、美男子であった。
とありますが、うーん、羨ましい限りですね・・・ヨセフは何でも持っているのですね・・・

10節の
それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも彼女といっしょにいることもしなかった。
が印象に残りました。
素晴らしいですね・・・

17,18節に
こうして彼女は主人に、このように告げていった。
「あなたが私達のところに連れてこられたヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところに入ってきました。
私が声を上げて叫んだので、私のそばに上着を残して外へ逃げました。」
とありますが、こういうことはよくあることですよね?うん、ドラマでよく見たことあります。女性が言い寄った男性に振り向いてもらえないときにする行為です。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒16章32―36節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると34節が気になるので、これをもう何度か読みます。
うん、家族全員で救われるのは相当の祝福ですよね?羨ましいです。

No.2883 2007/08/23(Thu) 21:23:39

Re: 創世記39章 / 昌夫 引用

神は37章6-9節のような夢をヨセフに見せられて、ヨセフを選んでおられました。それでも、ヨセフは兄たちに奴隷として異国の地に売られて、家族から引き離される苦しみを受けました。また、主はヨセフとともにおられて、ヨセフのすることは成功しました。それでも、主人の奥さんの罪のために自分は無実なのに監獄に入れられるという苦しみを受けました。

主がヨセフを選んで、ともにおられて祝福されたこと、それでもヨセフには苦しみも受けたこと、を37章と39章から読み取っておくと良いと思います。

使徒16章34節のように、家族全員がそろって神を信じることは大きな祝福だし、そのようになることを神が喜んでくださります。だから、まだ神を信じていない家族がいれば、その家族が神を信じるようになるように、また信仰を先にいただいた自分がするべきことができるように、よく祈ると良いと思います。

No.2885 2007/08/24(Fri) 01:46:47

再創世記39章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度創世記39章を読みます。

本当にそうです。家族全員がそろって信仰者になることは大きな祝福ですよね。そうなると家族にも温かさやイエス様の愛が生まれるでしょう。
でもいろいろイエス様のことを話しても、偏見の目で見られるだけで、”だから宗教に入っている人は変人、奇人なのだ。”といわれたり、”宗教に入っている人はオウムみたいに何をし出すか分からない、宗教に入っている人は集団になると何をし出すか分からない、本当に得たいが知れない。怖い。”といわれます。
なかなか理解には程遠いです。

祝福には苦しみもあるんですね・・・うーん、でも周りにいる祝福されているクリスチャンはあまり苦労もしないで祝福されている人が多いです。これぞ究極の祝福ですね・・・うん、でも全員がそうなれるわけではないでしょうから・・・
苦労もしないで祝福されている人もいないとクリスチャンになろうとする人いなくなったら困るから・・・

12節に
それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ。」といった。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。
とありますが、こういうヨセフだからこそ、奥さんはかなりの興味を抱いたんだろうと思います。

19節に
主人は妻が、「あなたの奴隷は私にこのようなことをしたのです。」といって、告げたことばを聞いて、怒りに燃えた。
とありますが、主人はヨセフにすべてを任せたほどの見る目のある人だったのに、きちんと見分けないといけないなーーー。それだけ奥さんを愛していたということかな?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒16章37―40節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んだが、一つに絞れなかったので、全体をもう何度か読みます。
昔は卑劣なことがまま赦されていたんですね・・・

No.2888 2007/08/24(Fri) 11:55:24

Re: 創世記39章 / 昌夫 引用

>あまり苦労もしないで祝福されている人が多いです。これぞ究極の祝福ですね

聖書では、イエスは神であるが人間でもあり、人間として、最も祝福されています。イエスはこの世では、十字架にかかられました。「究極の祝福」は、聖書では、この世で苦労しないことではないと思います。

19節。このような妻の嘘を見分けることのできる夫は少ないだろうと思います。

No.2899 2007/08/25(Sat) 13:48:37

Re: 創世記39章 / 沙耶香 引用

あ、そうなの??このような妻のうそを見抜ける夫は少ないの?うーん??

No.2900 2007/08/25(Sat) 18:30:38
創世記40章 / 沙耶香 引用

今日は創世記40章を読みます。

13節に、
3日のうちに、パロはあなたを呼び出し、あなたをもとの地位に戻すでしょう。あなたは、パロの献酌官であったときの以前の規定に従って、パロの杯をその手にささげましょう。
とありますが、献酌官って一体何だろうか?パロの杯をその手にささげる??意味がわからない・・・
パロって一体誰だろうか?

23節に
ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。
とありますが、人間は忘れるんですよね・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒17章1―5節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると3節が気になるので、これをもう何度か読みます。
苦しみを受け死者の中からよみがえられたイエス様ならきっと私の苦しみを一番に理解してくださるはずだ。。。

No.2890 2007/08/24(Fri) 20:30:46

Re: 創世記40章 / 昌夫 引用

パロとはエジプトの王です。

>人間は忘れるんですよね・・・

そうですね。人間は神や人にしてもらった良いことをすぐ忘れてします罪の性質を持っています。反対に、不快なことをされると、いつまでも覚えている性質があります。だから、意識して、神にしていただいたことを思い出して感謝するようにすることが大切だと思います。

No.2893 2007/08/24(Fri) 23:07:46

再創世記40章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度創世記40章を読みます。

うん、人間とはそういう罪な生き物です。誰でもそうです。でも私達神様に導かれた信仰者は、信仰を深めて、だんだんそうではないように、イエス様に変えていただくことができます。そういう風に聞き従っていけると信じて期待して感謝します。
私信仰者になってから神様にいろんなものをいただきました。神様は無限です。牧師がいつも神様は一番の大蔵省で御心なら一億でも出せると言っています。
うーん、素晴らしいです。一番素晴らしいのは永遠の命を与えられたことですね・・・

14,15節に
あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵を施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください。
実は私は、ヘブル人の国から、さらわれてきたのです。ここでも私は投獄されるようなことは何もしていないのです。」
とありますが、ヨセフの悲痛な叫びが聞こえてきそうです。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒17章6―10節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読みましたが、一つに絞れなかったので、全体をもう何度か読みます。
うーん、時代が違うのでいろいろと分かりづらいですね・・・

No.2895 2007/08/25(Sat) 11:49:09
無知ゆえに / まこと 引用

昌夫さん。

#2822へのレスです。

>僕は、・・・中略・・・自分の無知を知っている、
>と言っているのであって、「彼の行為は罪ではない
>と知っている」という知識があると言っているので
>はありません。この2つは、とても違うこと・・・

昌夫さんは、ご自分は「罪に関する自身の無知を知っている」と仰います。その(謙虚な)無知ゆえ、私のように律法に基づいて、ある行為が罪であるか無いかを決定付けようとすることを、ある種、律法主義的な見方であるとされます・・・。

しかし、昌夫さんは同時に、過去に、

>アダムとエバの息子たちが姉妹と結婚した行為は罪
>ではなかったということは、No.2705に書いた論理的
>理由から、僕は確信しています。

と、ご自分の(アブラハムの近親結婚、および、アダムとエバの息子達の近親結婚に関する)確信について、その正しさは理論的に論証されていると仰っています。

上記の二つのお立場の間には、相当の「ひらき」、あるいは「差」があり、私は、その両方の立場取りを整合させるのことに困難を覚えています。議論をしながら、昌夫さんのお考えが変わって来ているのでしょうか。それとも、私が、両者のつながりを理解できないでいるだけなのでしょうか・・・。

いずれにせよ、

人が罪の本当の意味に関して無知なればこそ、人が罪に関して考えるなら、それは神が与えた律法を基準(根拠)に考えて然るべき、と言うのが私の基本スタンスです。

もし、誰かが私に、「CENSOREDは罪か?」あるいは、「同性愛は罪か」と、答えを求めたなら、私は、一体何を根拠に答えたらよいのでしょうか。 自分の想像からでしょうか。現代に生きる人類の誰一人としてそれに該当する人のいない例外的事例からでしょうか。

もし誰かが、「私は救われているか。救われなくてはならないのか?」と、私に答えを求めたなら、私は一体何を根拠に答えたら良いのでしょうか。 自分の想像からでしょうか。例外的事例からでしょうか。

そして、もし自分が、自分自身に、「私は救われているか」と自問自答したとしたら、私は何を根拠に確信を得るべきなのでしょうか。

そういうことを、私は問題としています・・・。

No.2861 2007/08/20(Mon) 05:55:10

Re: 無知ゆえに / 昌夫(管理人) 引用

まことさん、レスをありがとうございます。

>私のように律法に基づいて、ある行為が罪であるか無いかを決定付けようとすることを、ある種、律法主義的な見方であるとされます・・・。

は、誤解を含んでいるように思います。僕も、律法に基づいて罪について考えようとしています。僕が問題と感じるのは、外に出た行いにだけ注目して、心がどこにあるかを無視して、罪かどうかを決定できるという考え方です。

僕は、「良い行い」を律法にある外に表れる行いだけに注目して、心を無視して決定できるという考えを律法主義的な考え方だと思います。僕は以前に書いたように、良い行いと罪の行いは、聖書である意味で対照的になっていると思います。だから、罪の行いについても、もし、外に出た行いを見ただけて決定できると考えるなら、僕は律法主義的で問題があると感じます。

>ご自分の(アブラハムの近親結婚、および、アダムとエバの息子達の近親結婚に関する)確信について、その正しさは理論的に論証されていると仰っています。

僕は、聖書に書いていない外に表れた行いをだけを見て、それが罪であるかどうかは判断できないという意味での無知を知っています。聖書に書かれた行いの場合、その行いが、神になんらかの意味で罰されたという記述があれば、その行いが罪であったと僕は確信を持ちます。

アダムとエバの息子達のCENSOREDについては、僕は以前書いた理由で、「現在の自分の聖書理解では、アクロバット的な聖書解釈を用いないかぎり」罪ではない、という確信を持っています。ただし、僕の聖書理解は、今までも変わってきたし、とても自分の確信を絶対視することはできません。

アブラハムの近親結婚が罪であったかどうかについては、聖書からは確信を得られるほどの記述はないと、最初から思っているし、書いているつもりです。

>人が罪の本当の意味に関して無知なればこそ、人が罪に関して考えるなら、それは神が与えた律法を基準(根拠)に考えて然るべき、と言うのが私の基本スタンスです。

「律法を基準にして考えること」と、「律法に書かれた、外に表れた行いだけを基準にして考えること」は、良い行いについても、罪の行いについても、全く別のことであると思います。僕は、まことさんが、良い行いについては、前者をされているが、罪の行いについては、非対称的にあ、後者をされているように感じています。

>もし、誰かが私に、「CENSOREDは罪か?」あるいは、「同性愛は罪か」と、答えを求めたなら、私は、一体何を根拠に答えたらよいのでしょうか。

外に表れた行動よりも、心を重視するなら、そのような問いに対し、いつも同じ答えをすることができるとは思いません。罪と良いことは対称的になっているとすれば、「断食をすることは良いことでしょうか。」と問われて、いつも同じ答えをすることができないのと同じことだと思います。「断食をすることはあなたの心に関係なく、神に喜ばれる良いことです。」と答えるのは律法主義的だと思います。どちらの場合も、具体的には、その問いを発した人の心をより深く知るために、その人の言われることを聞くことから始めるよりないと思います。

>そして、もし自分が、自分自身に、「私は救われているか」と自問自答したとしたら、私は何を根拠に確信を得るべきなのでしょうか。

現在の僕なりの答えは持っていますが、考えが少しずつ変わっていっているところなので、書くことは今は控えます。ただ、救いの出発点となる義認は、行いでなく、信仰に基づくということを重視したいと思います。そういう意味で、もし、根拠と考えているものが、心に全く関係なく外に表れた行為だけで決まるものなら、そのような根拠は聖書的ではないように思います。まことさんはどう思われますか?

>もし誰かが、「私は救われているか。救われなくてはならないのか?」と、私に答えを求めたなら、私は一体何を根拠に答えたら良いのでしょうか。

自分自身の救いの確信がどこから来るのか、よく理解していなければ、人の質問に答えることはさらに難しいですね。まことさんはこのように問われたら何を根拠に答えられるのでしょうか?

No.2862 2007/08/20(Mon) 06:56:29

Re: 無知ゆえに / まこと 引用

昌夫さん。

>「断食をすることは良いことでしょうか。」と問われ
>て、いつも同じ答えをすることができないのと同じこ
>とだと思います。

同じなんですか? 本当に?

断食をする・しない と、 姦淫をする・しない が、比較対照になるんでしょうか。インパクトが違いすぎませんか?

少し話しが逸れるかも知れませんが、誰かが断食をしなかったからと言って、誰かの心を傷つけたり、家族を崩壊させたり、神に対する誓約を破ったりすることにはなりません。 が、姦淫の罪が実際に起こったケースを見たことはおありでしょうか? 私は教会でインターンをしていたとき、実際に見ました。 

姦淫の結果、夫婦関係は崩壊し、子供達は傷つき、夫婦の一方と子供達は心に深い傷を負い、もう一方は仕事を失ったばかりか、神に対する約束を放棄したという霊的なダメージを負いました。  そのようなケースを目の当たりにしたとき、すなわち「姦淫という罪」が残す傷跡のむごさと物凄さを少しでも実際に見たとき、私は「姦淫(や近親結婚)が、心のありようによっては罪では無いかもしれない」とはどうしても思えないのです。

むしろ、そのような行為が、人間関係を崩壊させ、その悲しみゆえに教会全体に暗い影が落とされたのを見たとき、「神が姦淫を『忌み嫌われた』のは、なるのど、そういうことかと、むしろ納得が行く気さえするのです。


>「断食をすることはあなたの心に関係なく、神に喜
>ばれる良いことです。」と答えるのは律法主義的だと
>思います。

姦淫や近親結婚という特定の行動について、「姦淫するのはあなたの心に関係して、神に喜ばれることもある」という意味の具体的な記述があれば、私の考えも大きく変わってくるんですが・・・。


>どちらの場合も、具体的には、その問いを発した人の
>心をより深く知るために、その人の言われることを聞
>くことから始めるよりないと思います。

それはそうですね。いきなり誰かに「それは罪だ!」と言うのは、無神経でしょう。 実際には、私も同性愛者を支持するクリスチャンの男性と数時間にわたり会話したことがあります。 その男性に対していきなり「同性愛は罪だ」と言ったのでは、そこで会話はご破算となってしまいます。

ところで、その男性の友人の女性は、自分が同性愛者であることを理由に、夫と離婚;そして同性の女性と結婚してしまいました。 彼女はその選択に至る過程で、「これは罪なんじゃないか?」と大いに苦しみ、悩んだそうです。ですが最終的には、「神が私をこのように造られたのであれば、同性愛が罪であるはずが無い。」と確信し、離婚、および同性結婚に踏み切ったそうです。

この女性の心情、苦しみ、苦悩に同情するなら、感情的には、「うん、きっと同性愛は罪じゃない。神様は、今のあなたの選択を喜んでいるよ。」と言いたくなります。が、それをクリスチャンとして、真理を語るべき者として、実際に言うのか? という問題と直面したとき、「聖書にストレートに書かれている事柄」と、「自分の感情」との間で生ずる「戦い」は避けられません・・・。 私が「どう答えるべきか」と書いたのは、その戦いに、どう決着を付けるか、という「やりかた」の問題としての問いかけです。

>自分自身の救いの確信がどこから来るのか、よく理解
>していなければ、人の質問に答えることはさらに難し
>いですね。まことさんはこのように問われたら何を根
>拠に答えられるのでしょうか?

「聖書のみことば」、そして、そのみことばによって語られた「神の約束」と、その「約束の確かさ」です。

神さまが、イエス・キリストを通して語られたみことば。そして彼の使徒達が自らの命をかけて確認し、実践し、そして後世に残した、みことば。 私の救いの確信は、そこから来ます。

私の知性、感情、そして行動が追いつかないことがあったとしても、私の確信の根拠は、みことばを通して語られた神の約束を信ずる信仰へと帰着してゆきますし、それ以外の帰着点があってはならないと考えています。

自らの感情や体験によって、この確信された事柄がより実感を伴って自らの実存の血肉となって行くことはあっても、その確信の原点は、やはり、みことばと神の約束を信ずる信仰にあります。

自分では、「自分は救われていない。愛されていない」と思えても、みことばには「救われている。愛されている」と書かれている。だから、その書かれている事柄を信ずる、ということです。 信仰生活は、そのような「自分の思い」と「みことば」の間で生ずる葛藤に悩みつつ、しかし、両者が合致したその瞬間を喜ぶことの繰り返しだと思います。

No.2865 2007/08/20(Mon) 10:49:15

Re: 無知ゆえに / 昌夫 引用

どうか、まことさんと僕が思いこみに支配されず、真理に近づけられますように。

>断食をする・しない と、 姦淫をする・しない が、比較対照になるんでしょうか。インパクトが違いすぎませんか?

インパクトの違いが問題になるのでしたら、「私がバプテスマを受けることは良いことでしょうか?」という質問ならどうでしょうか。その人のバプテスマを受ける心を全く問題にせずに答えることができる人は、律法主義的だと僕は思いますが、どうでしょうか。

僕は罪の行いを嫌悪しますし、罪の行いは、人間にはたいしたことがないようなものでさえ、この世での苦しみだけ結果だけではなく、地獄で永遠に苦しむ結果になるを引き起こす可能性があるほど恐ろしいものだと確信しています。そのような確信は、外から見た行いだけで罪が決まるという考え方をとらないでも得ることができます。

ですから、僕は罪の行いを、たいしたことがないものとして奨励しているわけではありません。罪とは何か、と考えるときに、外から見た行いだけで決めることができる、という考え方に反対しています。罪の行いでないことを罪に定め、罪であることを罪でないとする律法主義につながる考え方として警戒するからです。

>「姦淫するのはあなたの心に関係して、神に喜ばれることもある」

ある行いが罪でなければ、その行いは必ず神に喜ばれる、と考えるのは誤りだと思います。例えば、結婚していない男女が性交渉する行いを姦淫と定義した場合、女性がこの意味で「姦淫」の行いをしても、罪にならないと聖書に書いてある例として、女性がCENSOREDされて最後まで抵抗する心を持っていたとき、罪にならない、という聖書解釈を以前にあげました。この女性が姦淫の行ないを強制されたことを、神は喜ばれないと思います。しかし、その女性の行いを神は罪とは定めれられないと思います。罪の行いではないが、神には喜ばれない中立的な行いが、多くあるように思います。

同性愛の女性の例も、「同性愛の不品行の行いは心に関係なく罪である」という考え方によらなくても、彼女の行いが、聖書のみことばに照らしていけば、罪であるらしい、ということは、十分言えると思います。

自分のしたいことは、罪であるようでも、罪でないと思いこみたい、というのは、人間の罪の性質からよく起こることだと思います。それで、同性愛の女性が、そういう思い込みに陥っているとして、「外から見た行いで罪が決まるので、同性愛の不品行は罪である」という聖書解釈をいくら説明したところで、彼女は、納得することができないと思います。彼女が、罪の行いを罪でないと思い込んだのなら、どこかで聖書のみことばに反した思い込みをしているはずです。彼女の話をよく聞いて、その思い込みを探して、指摘してあげれば、納得する可能性があるのではないでしょうか。

たとえば、

>「神が私をこのように造られたのであれば、同性愛が罪であるはずが無い。」

という彼女の考えは、神の助けがないと罪の誘惑に負けるように造られた人間という聖書の人間像と全く違う考えであると指摘することができると思います。多くの男性は、多くの女性と姦淫をしたいと思うように神が造られたと思いますが、それは、姦淫をしても罪ではない、という理由にはならないのと、同じではないか、と説明してみたらどうかな、と思います。

今、僕は自分の救いの確信の根拠について考えているところなので、まことさんの救いの確信の根拠について、もう少し質問させてください。ルカ13:24-30で、イエスとともに食べたり飲んだり、大通りで教えていただいて、自分は信仰を持っている、と思っている人たちで、神の国に入れない人たちのことが書いてあると思います。もしそうなら、自分は、そのような人たちの一人ではない、というまことさんの確信の根拠は何でしょうか?

No.2867 2007/08/20(Mon) 13:13:26

Re: 無知ゆえに / まこと 引用

昌夫さん。

>真理に近づけられますように。

はい。昌夫さんも(また私自身も)真理に近づけられますようにと、私もお祈りしています。

>インパクトの違いが問題になるのでしたら、

というより、関連性の薄い事柄を持ち出して、むやみに話を拡大・混乱させないでください、というのが、私が本当に言いたかったことなのですが・・・。

>「私がバプテスマを受けることは良いことでしょう
>か?」という質問ならどうでしょうか。

近親結婚や姦淫が罪かどうかという問題との関連性が、私には希薄に思えます。・・・それを申し上げた上で、独立した事柄としてコメントを差し上げるなら、キリスト教で言うところのバプテスマとは、人の信仰告白に(ほぼ例外なく)必然的に伴う行為として聖書に記録されていますから、誰かがキリストを信じる信仰を持っていることを表明しているのであれば、私は、その条件のみをもって、「バプテスマは受けるべきもの」として、その人に勧めます。

>僕は罪の行いを、たいしたことがないものとして奨励
>しているわけではありません。

はい。私も、昌夫さんがそのようなことを仰りたいのだとは、少しも思っていません。

>罪とは何か、と考えるときに、外から見た行いだけで
>決めることができる、という考え方に反対していま
>す。

私は、
?@律法によって、その行い自体が明確に禁じられていて、
?A聖書の別の箇所によって、その行いが動機面によって罪ではなくなるという事例の記述が無く、
?B聖書の別の箇所によって、その規定が廃棄されたという明確な記述が無い

という一連の条件に当てはまる一例としての、姦淫や近親結婚という特定の行いに限定して論じています。いわば、罪の一側面について、限定された(焦点を絞った)視野から観察しています。  その視野に該当すると思われる、姦淫や近親結婚という行為について、どのように考えたらよいかを、私は論じて来たのであって、「罪」という大きなことがら全体に対して、一般的・普遍的に同じ原理を適用しようという意図はありません。私は、罪の有無が人の動機に左右される場合があること自体を否定はしていません。

もっとも、私の一連の考え方が、そのような「絞り込んだ事例にしか適用できないもの」であることは、昌夫さんとの会話を通して、比較的早い時点で私自身の視点が変わった結果なのですが。

>ある行いが罪でなければ、その行いは必ず神に喜ばれ
>る、と考えるのは誤りだと思います。

たしかに。そのような一般論を主張するつもりはありませんでした。

>結婚していない男女が性交渉する行いを姦淫と定義し
>た場合

定義がすこし違うと思います。姦淫(ADULTERY)とは、すでに婚姻関係にある男女が、その婚姻関係の外にある他の異性と性的交渉をもつ限定された場合を指します。

>女性がこの意味で「姦淫」の行いをしても、罪になら
>ないと聖書に書いてある例として、女性がCENSOREDされて
>最後まで抵抗する心を持っていたとき、罪にならな
>い、という聖書解釈を以前にあげました。

具体的には申命記22:22以降の記述ですね。

確かに、婚約中の女性が、一方的にCENSOREDされた場合は、女性には罪は無いと書かれています。しかし、その事象自体は、姦淫とは別では無いでしょうか? この事例は、その女性が性的交渉を拒んだのに、それが強要された場合は罪にならない、という事例ですね。

しかし、申命記22:22には、「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男も、その女も、2人とも死なねばならない。」とあります。つまり、姦淫の行いが見つけられた場合、その悪をイスラエルから取り除くために死ななければならないとされているのは、「2人とも」なのです。 

男と女、両方がお互いに配偶者のある身であることを認識していた場合。あるいは、どちらか一方は、自分が寝ている相手に配偶者があることを知らなかった場合。その両方の場合に、律法はなんら区別を与えらていません。・・・・それが、なぜなのか。  

思い返せば、創世記において、知らずにアブラムの妻サライと性的交渉を持ちそうになったアビメレクを神様が止めたとき、神様は「あなたが私に罪をおかさないようにしたのだ」と仰っています。 上記の二つの事柄(姦淫について定めた律法と、アビメレクの例)が、人の意志や動機によらず、姦淫が罪となると私が考える一つの根拠です。

>しかし、その女性の行いを神は罪とは定めれられない
>と思います。罪の行いではないが、神には喜ばれない
>中立的な行いが、多くあるように思います。

中立的な行い、という事柄を持ち出すと、さらに話が混乱してしまいます。私としては、昌夫さんの一連のご意見からは、確かに、罪とは、人の動機に深く関連しているのだなということを汲んでいます。今は、それだけに限定したいです。

>ルカ13:24-30で、イエスとともに食べたり飲
>んだり、大通りで教えていただいて、自分は信仰を
>持っている、と思っている人たちで、神の国に入れな
>い人たちのことが書いてあると思います。もしそうな
>ら、自分は、そのような人たちの一人ではない、とい
>うまことさんの確信の根拠は何でしょうか?

私が、何かしらの確信を持ったから、他の人よりも何か優れていたり、先んじていたりする訳ではありません。私は、キリストを信ずる信仰によって、神に義と認められ、その義ゆえに、「かろうじて」救われるのです。 自分で、信仰を持っていると確信している人たちについては、私は、その人たちの救いについてあれこれ言えません。また、そのような人たちに対して相対的に自分の救いを見たりもできません。キリストを通しての救いは、「私の」救いです。

>そのような人たちの一人ではない、というまことさん
>の確信の根拠は何でしょうか?

そのような基準で、私は自分の救いを考えていませんでした。ですから、今は、残念ですが、ご質問にお答えできません。

いずれにせよ、ご指摘のルカの箇所は、だれが神の御国に入るかという事柄に関して、

?@イスラエル(アブラハム)の血統を誇りとし、それに安住して、自分の基準で御国に入ろうとする、古い意味での選びの民であるユダヤ人達と、

?A努力して自分の古い考えや習慣や伝統を考え直し、?@ではなく、むしろイエスへの信仰を通して御国に入ろうとする、新しい意味での選びの民

の二つの選びの民が比較対照されている箇所だと、私は考えています。

その二つの民の間にある違いは、イエスへの信仰の有無だけです。 この意味では、私は、イエスへの自らの信仰を根拠に、自らの救いを確信する、と言えると思います。ご参考までに。

これから忙しくなりますので、今後のレスはかなり遅れることとなると思います。議論がここで終わる可能性も大です。 ご容赦ください。

No.2870 2007/08/21(Tue) 05:21:36

Re: 無知ゆえに / 昌夫 引用

>近親結婚や姦淫が罪かどうかという問題との関連性が、私には希薄に思えます。

僕は、信仰の心を持たないでバプテスマを受けることは、神に喜んでいただける良いことではないこともある、と考えます。聖餐を受けることについては、心の状態によって、それが良い行いでないことがあることが書かれています。このように、バプテスマを受けたり、聖餐を受ける、普通にはとても良いことであることが、心の状態によって神の目には「良い行い」にならないことがあると思います。そうであれば、良い行いと罪の行いが対称的であれば、近親結婚や姦淫のように、普通にはとても悪いことであることが、神の目には「罪の行い」にならないこともあるだろうと考えます。

>私は、罪の有無が人の動機に左右される場合があること自体を否定はしていません。

このことで同意できて嬉しく思います。僕は上記の対称の考えなどから、姦淫に関しても、心を無視して外に出た行いから罪の有無を決めることはできないと今は考えています。

>定義がすこし違うと思います。姦淫(ADULTERY)とは、すでに婚姻関係にある男女が、その婚姻関係の外にある他の異性と性的交渉をもつ限定された場合を指します。

当時のイスラエルでは、婚約は、現在と違って簡単には解消できない結婚の約束であって、姦淫について婚約した男女は、結婚した男女と同じように取り扱われたというようなことを聞いたことがありますが、どうでしょうか。どちらにしても、結婚した後の男女の性に関する罪は「外に表れた行いだけで罪かどうか定める」という読み方をするなら、婚約した後の男女の性に関する罪についても、同じ読み方を取るのが自然であると思います。

ここで、申命記23-26節で、「外に表れた行いだけ見て罪と決める」という読み方と、「行いの背後にある心を重視して罪がどうか決める」という2つの読み方を応用してみて、どちらがより自然な読みになるか試してみたいと思います。

まず、外に表れた行為だけを見る読み方を試してみます。婚約中の女性に石打ちの死刑になるほどの罪があるかないかは、それが町で起こったか、野で起こったか、という場所の違いだけということになります。町での行いなら、女性は石打の死刑の罪にあたる。野での行いなら、罪にはならない。

次に心を重視して読むと、ここは、文字通りに、町で起こったか、野で起こったかという場所が問題になっているわけではなく、同じ性交渉の行いの背後にある女性の心に注意を払ってイスラエルが裁判を行うようにと神がイスラエルでのさばきの原則を教えられているところだと思います。

例えば、当時に声帯の異常で声を出せない婚約中の女性が町で男に最後まで抵抗していたが、声を出せずに犯されたのが見つかった場合を想像してみてください。もし、外に表れた行ないだけを見る読み方をするなら、女性を石打ちの死刑にすることが、申命記23-26に聞き従うことになるという解釈になります。そのように主張する人は、心を重視した別の解釈をして、女性を無罪と主張する人を、神のことばよりも、自分の同情に支配する人と考えるかもしれません。しかし、読み方としては、後者が自然であると思います。

>男と女、両方がお互いに配偶者のある身であることを認識していた場合。あるいは、どちらか一方は、自分が寝ている相手に配偶者があることを知らなかった場合。その両方の場合に、律法はなんら区別を与えらていません。・・・・それが、なぜなのか。  

僕の律法の読み方では、律法は心と行いの関係を教えているので、律法から単純に外に表れた行いだけを見て、裁判官が機械的にさばきをすることが神の意図ではなかったと思います。例えば、上記のように声を出せない女性の裁判の場合、律法から神の意図をできるかぎりくみとって、裁判官がさばきを下していくことを神が望まれたと思います。そのような読み方をするなら、細かい場合分けの規定がないことから、何かを結論していくことは危険だと思います。

しかし、創世記20章については、アビメレクがサラが人妻だと知らずに性交渉しても神の前に罪であったと僕も同意します。僕の罪についての解釈からだと、アビメレクは、明らかに姦淫が罪であるといことを知っていたし、王としてサラが人妻であるかどうか、もっと詳しく調べる能力と義務があったのに、それを怠ったからだと考えます。

救いの確信についてのレスを感謝します。僕はまだ自分の救いの根拠について考えなおしているところです。

No.2886 2007/08/24(Fri) 04:23:53
創世記37章 / 沙耶香 引用

今日は創世記37章を読みます。

2節に
これはヤコブの歴史である。
ヨセフは17歳のとき、彼の兄たちと羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。
とありますが、ヤコブの歴史であるとしておきながら、何でヨセフのことが書いてあるのだろうか?

7節に
見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りにきて、私の束におじぎをしました。」
とありますが、束って一体何の束だろうか?

21節の
しかし、ルベンはこれを聞き、彼らの手から彼を救い出そうとして、「あの子のいのちを打ってはならない。」といった。
が印象に残りました。というかルベンに感動しますね・・・

ヤコブはイサクやエサウを騙したことの罰がこういう風にヨセフを取り上げられるということになっているのだろうか??

・・・癒しに通じる読み方・・・・
今日は使徒16章11―15節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、15節が気になるので、これをもう何度か読みます。
バプテスマ受けたなー--。何年か前に・・・

本当、暑苦しいですね・・・夏が終わらないですね・・・

No.2872 2007/08/21(Tue) 18:50:32

Re: 創世記37章 / ヒロコ 引用

私も見習いたいと思います。聖句を書き込むのを止めて
この祈りの心で一から出直してみます。温かい言葉を感謝します。ありがとうございました。秋はもうすぐですよ!

>天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・

No.2873 2007/08/21(Tue) 19:54:45

Re: 創世記37章 / 昌夫 引用

ヒロコさんが、沙耶香さんのように祈りながら聖書を読み進められるときに、疑問点がでてきたら、この掲示板に質問を書くことを考えてみてください。歓迎します。

>ヤコブの歴史であるとしておきながら、何でヨセフのことが書いてあるのだろうか?

創世記は11の文書からなっています。1-4章に2つの文書があり、5章1節から、3番目から11番目の文書が始まりますが、各文書は「これは・・・の歴史である。」として、始まります。9番目の文書が25章19節から35章29節までで、「これはアブラハムの子イサクの歴史である。」で始まりますが、この文書にはイサクよりも子のヤコブのことがたくさん書いてあります。10番目の文書が36章で、エサウの系図です。11番目の文書が37章2節からですが、この文書にはヤコブの12人の子どもたち、特にヨセフのことが中心に書いてあります。だから、37章2節の「これはヤコブの歴史である。」とは、創世記では、「ここから、ヤコブの子孫たちを中心にした文書が始まる。」という意味だと思います。

7節の束は、何の束かは書いていないのではっきりしませんが、30章14節に麦が出てきたので、たぶん麦だと思います。

>ヤコブはイサクやエサウを騙したことの罰がこういう風にヨセフを取り上げられるということになっているのだろうか?

いえ、僕は違うと思います。聖書によれば、人が苦しむのは、その人の特定の罪の結果でないことも多いので、特に聖書にはっきり書いてあるか、だましたら、だまされた、というような同形態のことでないかぎり、特定の罪の行いとその人の苦しみを結び付けて考えないほうが良いと思います。

ここでは、3-4節のようにヤコブがヨセフだけを息子たちの中で特に偏って愛したこと、3-11節のように、ヨセフが兄たちの気持ちを考えずに見た夢のことを述べたことは、罪であったかもしれません。それらのことが、兄たちのねたみの気持ちの原因になりました。

兄たちのねたみの気持ちから、弟のヨセフを奴隷として売った行いは、罪であったと思います。兄たちの罪の行い結果として、ヤコブもヨセフも苦しむことになったけれど、神は彼らの罪の行いも素晴らしいご計画のために善用されて、ヤコブとヨセフを苦しみから救い出して祝福されることが、50章まで読むとわかります。

No.2875 2007/08/22(Wed) 05:44:18

再創世記37章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度創世記37章を読みます。

8節の
兄達は彼に言った。「おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私達を支配しようとでも言うのか。」こうして彼らは、夢のことや、ことばのことで、彼をますます憎むようになった。
が印象に残りました。

11節の
兄達は彼をねたんだが、父はこのことを心にとめていた。
が印象に残りました。いずれそうなるのに、お兄さん達は・・・

25節に
それから彼らはすわって食事をした。彼らが目を上げてみると、そこに、イシュマエル人の隊商がギルアデから来ていた。らくだには樹膠と乳香と没薬を背負わせ、彼らはエジプトへ下って行くところであった。
とあるが、樹膠と乳香と没薬って一体何だろうか?・・・分からない・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒16章16―21節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると18節が気になるので、これをもう何度か読みます。
イエス・キリストの御名によればみなたじたじですね・・・

No.2878 2007/08/22(Wed) 11:33:25

Re: 創世記37章 / 昌夫 引用

25節の樹膠は、何かの種類のゴムの木の樹脂、乳香は数種の木の分泌物を乾かして作る香料、没薬は別の種類の木の分泌物から作る香料らしいです。乳香と没薬は、マタイ2章11節で、東方の博士たちがイエスがお生まれになったときに贈り物として持ってきたものと同じだと思います。

No.2880 2007/08/22(Wed) 23:27:11
創世記35章 / 沙耶香 引用

今日は創世記35章を読みます。

2節の
それでヤコブは自分の家族と、自分と一緒にいるすべてのものとに言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。
が印象に残りました。

7節に
ヤコブはそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それはヤコブが兄からのがれていたとき、神がそこで彼に現れたからである。
とありますが、エル・ベテルとは何か逃れるとかそういう意味があるのだろうか?

10節に
神は彼に仰せられた。
「あなたの名はヤコブであるが、、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。
とありますが、ヤコブはイスラエルと呼ばれるようになったのかな?すごいな---。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒15章30―35節を読みます。(うーん、34節がないので・・・)
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んだけれど、一つに絞れなかったので、もう何度か全体を読みます。
主の御言葉をだんだんと宣べつたえるといいですね・・・

No.2838 2007/08/19(Sun) 20:01:38

Re: 創世記35章 / 昌夫 引用

7節のエル・べテルは、べテルの神という意味だそうです。ここで「エル」は神で、べテルは「神の家」という意味だそうです。さらにべテルは、家という意味のベツと、エルをあわせた語です。他にもベツという語の入った地名がおおくて、例えば、イエスのお生まれになったベツレヘムは「パンの家」と意味だそうです。

べテルは28章11-19節で、ヤコブがエサウから逃げてハランに向かっていたときに、はしごを見たところです。それで、その場所を「神の家」としてべテルと呼びました。

10節。神がアブラムの名をアブラハムという名に返られてから、聖書は彼をいつもアブラハムと呼びます。ところが、ヤコブはイスラエルと名が変わってからも、ヤコブと呼ばれることが多いです。なぜかは、よく分かりませんが、イスラエルという名は、国の名でもあるので、区別が必要ということがひとつにはあるのかもしれません。

No.2854 2007/08/20(Mon) 03:31:18

再創世記35章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度創世記35章を読みます。

最近の暑さで、頭ががんがん痛い。神様イエス様どうか頭痛を取り去ってください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・

1節に
神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルにのぼり、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」
とありますが、ヤコブとエサウは仲直りしたでしょ?なのにまだヤコブはエサウから逃れようとするの?

8節に
リベカのうばデボラは死に、ベテルの下手にある樫の木の下に葬られた。それでその木の名はアロン・バテクと呼ばれた。
とありますが、
クリスチャンの知人にデボラという宗教ネームをつけている人がいます。オリビアという宗教ネームをつけている人もいます。不思議という宗教ネームをつけている人もいます。お導きでいろいろな人がいます。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒15章36―41節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいたけれど、一つに絞れなかったので、全体をもう何度か読みます。
伝道することはクリスチャンの使命なので・・・

No.2863 2007/08/20(Mon) 10:35:43

Re: 創世記35章 / 昌夫 引用

1節は、神がヤコブにべテルに行くように言われたのであって、ヤコブがエサウから逃れようとしているわけではありません。神が「あなたが兄エサウからのがれていたとき」と言われたのは、28章11-19節のときのことであって、ヤコブとエサウが仲直りをした後のことではありません。

No.2876 2007/08/22(Wed) 05:53:32

Re: 創世記35章 / 沙耶香 引用

うん、私はなかなか意味が取れないし、すぐに勘違いするし、もう全く読み方がなっていないのです。赦してください。

No.2877 2007/08/22(Wed) 10:32:17
創世記36章 / 沙耶香 引用

今日は創世記36章を読みます。

2―5節に
エサウはカナンの女の中から妻をめとった。すなわちヘテ人エロンの娘アダと、ヒビ人ツィブオンの子アナの娘オホリバマ。
それにイシュマエルの娘でネバヨテの妹バセマテはレウエルを産み、
オホリバマはエウシュ、ヤラム、コラを産んだ。これらはカナンの地で生まれたエサウの子である。
とありますが、エサウは子沢山ですね・・・

15節に、
エサウの子で首長は次のとおり。エサウお長子エリファズの子では、首長テマン、首長オマル、首長ツェフォ、首長ケナズ、
とあります。続く16節に
首長コラ、首長ガタム、首長アマレクである。これらはエドムの地にいるエリファズから出た首長で、アダの子である。
とありますが、この首長って一体なんだろうか?

こんなにカタカナ文字で誰が死んで誰が王になったと書きたくられても全く分からないです。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒16章1―5節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると5節が気になるので、これをもう何度か読みます。
教会はだんだんと人数を増やしていけたら理想だけれど、うちの教会はだんだんと減っていきます。悲しい限りです。

No.2868 2007/08/20(Mon) 21:00:05

Re: 創世記36章 / 昌夫 引用

首長と訳されているヘブル語の数字の千と関係のある語で、氏族の長という意味だそうです。

神のされることは人間にはよく理解できないことが多いです。僕もなぜ、36章のいろいろな名が聖書に書かれるほど重要なのか理解できません。

今のところの僕の36章の理解は、次の3つのことです。1.エサウに多くの子孫があって、首長となった人たちが多かった。2.聖書で後でイスラエルの敵国として重要な役割を果たすエドムの国は、エサウの子孫の国である、3.家系は何らかの理由で重要な意味があるらしい。

No.2869 2007/08/20(Mon) 21:39:36

再創世記36章 / 沙耶香 引用

今日は創世記36章を読みます。

1節に
これはエサウ、すなわちエドムの歴史である。
とありますが、エサウはエドムと名前を変えたのですかね?こういう風にイエス様に名前を変えられる人たくさんいますね・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒16章6―10節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、10節が気になるので、これをもう何度か読みます。
福音をのべつたえるのは一番大事なことなのですね・・・

No.2871 2007/08/21(Tue) 09:52:59

Re: 創世記36章 / 昌夫 引用

1節のエサウがエドムであるというのは、25章30節で、彼の名がエドムと呼ばれるようになったからです。これは、神が名を変えられたのではなく、人間が、あだ名のように、呼ぶようになったということかな、と思います。また、エドムは後にエサウの子孫の作る国の名になります。

No.2874 2007/08/22(Wed) 04:02:06
聖書を全部読む / ヒロコ 引用

今まで何度も聖書を読み始めてきたが、必ず途中で挫折。今度は絶対に最後まで読みたい。

No.2857 2007/08/20(Mon) 03:39:16

Re: 聖書を全部読む / 沙耶香 引用

うん、そうなんですよね。私は得に活字アレルギーだから、本を読むのが大の苦手で・・・その上聖書は小さい字でぎっしり詰まっていて、何が何だか分からない。
それにあまり分からず読んでいるので、ずっと読んでいると、どこまで読んだか分からなくなってくるし・・・
だから私はこの掲示板で、だんだんと少しずつ読み出すことができました。
私と一緒に少しずつ読み進めませんか?

No.2864 2007/08/20(Mon) 10:42:13

Re: 聖書を全部読む / 昌夫 引用

ヒロコさん、書きこみの理由を教えてくださってありがとうございます。

どうか、ヒロコさんが聖書を読まれるとき、神さまがともにいてくださいますように。そしてヒロコさんが聖書を読む進む力を与えてくださいますように。

No.2866 2007/08/20(Mon) 12:30:16
創世記1-1から1-7 / ヒロコ 引用

今朝はここまで読みました。私が「聖書」を全部最後まで読むことが出来るように、お祈りをお願いします。

No.2859 2007/08/20(Mon) 04:02:05

Re: 創世記1-1から1-7 / ヒロコ 引用

明日は創世記1-8から出来るだけ多く読みたいと思う。

No.2860 2007/08/20(Mon) 04:05:25
創世記4-1 / ヒロコ 引用

今は創世記4-1を読みます。

アダムはその妻と夫婦生活をし、エバは妊娠して、カインを産んだ。彼女は、喜びと感謝にあふれ、「私は、主によって一人の男の子が与えられました」と言った。

(現代訳聖書)

No.2849 2007/08/20(Mon) 03:06:38

Re: 創世記4-1 / 昌夫(管理人) 引用

ヒロコさん、今後、この掲示板に聖句を書き込まれるときは、どういう目的で聖句を書いておられるのか分かるように説明していただけないでしょうか?よろしくお願いいたします。

No.2855 2007/08/20(Mon) 03:33:29

Re: 創世記4-1 / ヒロコ 引用

2857です。

No.2858 2007/08/20(Mon) 03:46:14
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