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創世記31章残り / 沙耶香 引用

今日は創世記31章残りを読みます。

32節に
あなたが、あなたの神々をだれかのところで見つけたなら、その者を生かしてはおきません。私達の一族の前で、私のところに、あなたのものがあったら、調べて、それをもっていってください。」ヤコブはラケルがそれらを盗んだのを知らなかったのである。
とありますが、これはどういうことだろうか?何を盗んだといっているのだろうか?

33節に
そこでラバンはヤコブの天幕と、レアの天幕と、さらにふたりのはしための天幕にもはいって見たが、見つからなかったので、レアの天幕を出てラケルの天幕にはいった。
とありますが、一人一人そういう風にテントを張って生活していたの?

39節に
野獣に裂かれたものは、あなたのもとへ持っていかないで、私が罪を負いました。あなたは私に責任を負わせました。昼盗まれたものにも、夜盗まれたものにも。
とありますが、これらの盗むというのは羊を盗むことなのか?

41節に
私はこの20年間、あなたの家で過ごしました。14年間はあなたのふたりの娘たちのために、6年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。それなのに、あなたは幾度も私の報酬を変えたのです。
とありますが、ヤコブの無念が伝わってきますね・・・・

42節に
もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずにわたしを去らせたことでしょう。神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜裁きをなさったのです。」
とありますが、昨夜誰にどのような裁きをなさったのか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒14章16―20節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると17節が気になるのでこれをもう何度か読みます。
神様はいろんなものを満たしてくださいますね・・・

No.2815 2007/08/15(Wed) 22:04:03

Re: 創世記31章残り / 昌夫 引用

32節で、「盗んだ」とあるのは、19節でラケルが盗んだティラフィムです。ティラフィムは偶像で、まじないのためによく用いられたそうです。30節で、ラバンが「私の神々」と言っているように、ラバンは多くの神々を信じていたようです。ティラフィムは宗教的な意味だけでなく、何か相続などに関わる重要な経済的な意味を持っていたと思われます。例えば、将来に、ラケルかレアがティラフィムを法廷で示すと、ラバンからたくさんの財産を受け取る権利がある、というようなことだと思います。

ラバンはヤコブたちを追ってきて、口先では28節のように、「子どもたちや娘たちに口づけ」することが大切なように言っています。しかし、人の心が表れるのは、口先よりも行動です。ラバンが一番先にした行動は、33−35節にあるように、盗まれたティラフィムを探すことでした。ラバンがヤコブたちを追ってきた一番の理由は、ティラフィムを取り返したい、ということだったようです。

33節。たぶん、天幕に住む場合は、族長やその妻たちのように一族のリーダーたちは、一人一人の天幕を張って生活していたのでしょう。家を建てた場合は、同じ家に住むと思います。

39節、盗まれたのは羊を含む家畜だと思います。

43節にある「昨夜のさばき」とは、24節でアブラハムの神が、ラバンに現れて「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」と言われたことです。ラバンは、神にこのように言われなければ、武力を使って、ヤコブたちには何も持たせずに去らせたと思います。。「さばき」とは、必ずしも罰を与えるという意味ではなく、この場合は「決定する」という意味かと考えます。

No.2816 2007/08/15(Wed) 23:06:11

再創世記31章残り / 沙耶香 引用

今日は、もう一度創世記31章残りを読みます。

ティラフィム??まじないのためによく用いられた偶像??相続にかかわる重要な意味??うーん、よく分からないけれど・・・

あーーでも天幕を張っての生活って、冬は寒いがどういう風に乗り越えたのだろうか?

32―35節に
あなたが、あなたの神々をだれかのところで見つけたなら、そのものを生かしてはおきません。私達の一族の前で、私のところに、あなたのものがあったら、調べて、それを持っていってください。」ヤコブはラケルがそれらを盗んだのを知らなかったのである。
そこでラバンはヤコブの天幕と、レアの天幕と、さらにふたりのはしための天幕にもはいって見たが、見つからなかったので、レアの天幕を出てラケルの天幕にはいった。
ところが、ラケルはすでにテラフィムを取って、らくだの鞍のしたにいれ、その上にすわっていたので、ラバンが天幕を隅々まで探し回っても見つからなかった。
ラケルは父に言った。「父上。私はあなたの前に立ち上がることができませんので、どうかおこらないでください。私には女の常のことがあるのです。」彼は捜したが、テラフィムは見つからなかった。
とあるが、テラフィムというのは相当に価値があるものなのですね・・・

40節に
私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした。
とありますが、天幕を張っているところにいるからだろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒14章21―26節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると22節が気になるので、これをもう何度か読みます。
うーん、神の国に入るには、相当の苦しみを経なければならない・・・・何だかやはり信仰の道は険しい。

No.2820 2007/08/16(Thu) 11:50:44

Re: 創世記31章残り / 昌夫 引用

沙耶香さんが思われたように、40節では、ヤコブの天幕での生活の苦しさを書いていると思います。夜は寒さに悩まされて、眠ることがもできないほどだったと思います。今のホームレスの人たちのように、ヤコブたちも寒さに対するいろいろな工夫をしていたと思います。具体的にどういう工夫かは知りません。

No.2823 2007/08/17(Fri) 01:29:20
罪について。引き続いて / まこと 引用

昌男さん。

#2806へのレスです。

ぶしつけな問いに答えてくださり、恐れ入ります。

>人にYes-Noで質問したりしても、意味がないように
>思います。

いえ。私にとっては無意味ではありませんでした。昌男さんのYES、NOではない3番目のお考えを聞くことが出来たからです。私の知らないお考えを持っておられた昌夫さんには、確かに、無意味だったかもしれません。

現に、私は

>「全知全能の主は、信仰者が信仰から出た行為が罪
>に定められることは決してないようにされる。」

という考えを考慮に入れていませんでしたから、その意味では、私が差し上げた問いには不備があったわけです。

パウロは、自らの宗教(ユダヤ教)と神への信仰に熱心な人でした。しかし、その信仰ゆえに、パウロはキリストを迫害するに至りました。 パウロ自身が、自らの全身全霊をかけて神に仕えようとした結果、彼はキリスト者を迫害するという行為に出てしまったのです。 主は、パウロのこの罪の行為を、ダマスコへの道のりの途中において、直接的に彼に語りかけることによって差し止めました。

パウロの人生への主の介入は、まさしく、昌夫さんがおっしゃるところの、「信仰者が信仰から出た行為が罪に定められることは決してないようにされる。」という神の御心の表れかも知れません。 しかし、問題は、パウロはすでに、神が差し止められた行為を、その時点で、すでに、現に行ってしまっていた、ということです。 

パウロは後に、このことを「知らずにしたことだったのであわれみを受けたのです」と振り返っていますが、それを「知らずにしたことだから罪ではなかった」とは考えていなかったようです。

私の基本的な考えは、「罪の定義」は、本質的に、人間の意思や信仰の有無によらず、絶対的な基準によって定められているが、しかし、その罪に対して、神がいかに人を扱うかに関しては、その人の意志や信仰によって左右される、というものです。

イエスは、弟子たちに、彼らが迫害されることを予言し、「迫害者たちはキリスト者を迫害することによって神に仕えているのだと思う時が来る」、という意味のことを仰いました。

人間がその全身全霊をかけて神に仕えようとしても(これを人は神への信仰と呼ぶでしょう)、その全身全霊の努力自体が神のみこころに反している場合があるわけです。

それでもなお、人間の全身全霊の信仰によって、神の絶対的基準によって定められた罪の定義が左右されてしまうと考えること自体に、私は強い抵抗感を禁じ得ません。それは神を中心とした考えではなく、人間を中心とした考えだと思うからです。

昌夫さんのお考えをすべて否定しているわけでは決してありません。そのことはご理解いただければ幸いです。

No.2808 2007/08/15(Wed) 01:24:26

Re: 罪について。引き続いて / 昌夫 引用

まことさん、レスをありがとうございます。

僕は、パウロはキリスト者たちを迫害したときに、意識上は「神に仕えている」と思いながら、大きな罪を犯したと思っています。意識とは、心の中の本当に表層の部分で、大部分の心の動きは無意識に行われている、と僕は考えます。イエスに出会う前に、パウロには、自分の力で律法を守る、という神の力ではなく、自分の力に頼ってしまう律法主義的な心があった。その律法主義的な心のために、意識の上では知らずに罪を犯してしまったと思います。

自分の入信からの行動を振り返っても、意識と自分の認識として「全身全霊で神に仕える」つもりで、無意識にあった律法主義や憎しみや自己中心のために罪を犯してしまったことは何回もあると思います。僕や人がそれを「全身全霊」の「信仰」と呼ぶかどうか、を罪の基準と考えているわけではありません。

罪には神が決めた絶対的基準があり、ときには、僕たちは、全く知らずに神に全身全霊で仕えようとして罪を犯すことがある、また、罪を犯しても、その人ををどう神が扱われるかに関して、その人の意志や信仰によって違ってくる、ということについて、僕は、まことさんと同意見だと思います。

「罪の絶対的基準が外に表れた行いにある。」というまことさんの考えには同意しません。また、そのような考えには危険があると思います。危険とは、律法主義的な「外に表れた絶対的に良い行いをすることで、心に関係なく神に喜んでいただける。」という考え方です。ヤコブ5:20にあるように、善行は罪をおおうのであれば、善の行いと罪の行いは、ある意味で対称になっていると思います。もし、まことさんの主張されるように罪の絶対的基準が心に関係なく外に表れた行いにあるなら、対称的になっている善行の絶対的基準も外に表れて行いにあると考えるのが妥当だと思います。しかし、それは善行については律法主義的な誤りであることは、おそらく同意していただけると思います。

また、食肉については、まことさんの考えにははっきりした聖書の例外があることは、以前に同意したとおりです。CENSOREDや殺人でさえ、罪の絶対的基準は外に表れた行いにないことが、聖書に書いてあると僕は感じます。

No.2810 2007/08/15(Wed) 05:35:57

Re: 罪について。引き続いて / まこと 引用

昌夫さん。

>罪には神が決めた絶対的基準があり、ときには、
>僕たちは、全く知らずに神に全身全霊で仕えよう
>として罪を犯すことがある

そういう、いわば、信仰を持ちつつ選択した結果罪をおかしてしまうということは、決して無い、というのが、最初のご意見だったのではありませんか? 少し混乱してきました。

>善の行いと罪の行いは、ある意味で対称になってい
>ると思います

これは、なるほどな、と思いました。
外的な律法を重視する余り、その考え方が律法主義へと変化してゆく。その危険性は、確かにありますね。

一つ思ったのは、この「罪の行い」と「善行」との対称性は、「人の罪」と「神の恵み」にも、何かしら当てはまるものがあるのではないかという事です。

「自分の罪」に対して、自らの言い訳を律法によって徹底的に叩かれ、自らの行いの聖さについて挫折し、そして敗北するということ。

一方、その対称として、「神の恵み」に対して、自らの疑いを徹底的に排除し、自らの聖さについて神に全面的に依存し、そして、勝利を得ること。

この両者は、対になっているのかも知れませんね。その意味では、主の恵みを知ることは、聖書の色々な知識について増し加えられるコトよりも、むしろ自らの、自らに対する敗北と挫折に比例するのかも知れません。 ある意味、険しい道のりです。

No.2811 2007/08/15(Wed) 07:02:12

Re: 罪について。引き続いて / 昌夫 引用

>その意味では、主の恵みを知ることは、聖書の色々な知識について増し加えられるコトよりも、むしろ自らの、自らに対する敗北と挫折に比例するのかも知れません。

そうですね。自分の罪の誘惑に勝つ力、純粋に聖い「信仰から出た行為」をする力に絶望したとき、初めて本当に恵みを心から理解することができるのだろうと思います。

人間の側から見た場合、いろいろな行為を「信仰から出た行為」と考えますが、無意識のうちに、自己中心的なものも含むいろいろな心の動きが、どのような行為の背後にもあると思います。神の側から見た「信仰から出た行為」は、純粋に信仰から神の栄光のための行為で、それ以外の「善行」は、イエスが最も嫌われた偽善の行為になると思います。信仰者が、祈ったり聖句を覚えたり努力して、自分では全身全霊の努力で「信仰から出た行為」をしたつもりになっても、結局、人間の力による行為である限り、神の目から見れば偽善にしかならないと思います。そのように自分の人間の力に絶望したとき、信仰者の中に入ってくださっているイエスが、イエスの力で、神の栄光のために「信仰から出た行為」をされると思います。

このように、人間には善行をしようとしても偽善を行う力しかないという、人間の絶望的な状況まで考えにいれると、「信仰者の信仰から出る行為が罪と定めれられることはない。」という僕の考えは、「信仰者の中のイエスがされる行為が罪と定められることはない。」という当然の考えと同じことになると思います。

そして、罪を全て赦して信仰者の中に入ってくださったイエスが、信仰者の体を用いて、罪の誘惑に打ち勝ち、善い行いをしてくださること、それが恵みだと考えます。

No.2814 2007/08/15(Wed) 13:11:48

Re: 罪について。引き続いて / 腑に落ちない、疑問。 引用

昌夫さん。

#2814のご投稿の内容は、それ自体については、アーメンですが、過去の一連のご投稿の内容とも照らし合わせると、どうしても腑に落ちない、すこし不安になる気持ちが生じてきます。

>自分では全身全霊の努力で「信仰から出た行為」をし
>たつもりになっても、結局、人間の力による行為であ
>る限り、神の目から見れば偽善にしかならないと思い
>ます。

そう。人の側での精一杯の行動があったからといって、それが「神の目に本当の信仰であったかどうか」は、わからない訳です。

?@人は、自らの行為が「神が良しと認める信仰」かどうかを、常に、確実に、間違いなく判断することは出来ない。

?A人の側における、自らの行為が信仰から出ているかどうかの判断は、曖昧かつ不確実。

?Bその曖昧・不確実な人間の側の認知に基づいて、神の絶対的基準に基づく罪についての判断を下す。

すなわち、曖昧なものに基づいて、絶対に基づく罪について判断しようとする。 そして、「それが出来る」というところを、考え方の出発点とするのであれば、それは、

人間の曖昧さを、絶対的基準に引き上げるか、
罪の絶対性を、人間の曖昧さに引きおろすか、

いずれかの思考が支配的になっているのではないか? それはまずいのではないか? と言うのが、アブラハムの近親結婚は罪か?という最初の問題からずっと私が感じ続けてきたことです。

残念ながら、その違和感は、未だ残っています。

No.2817 2007/08/16(Thu) 00:58:12

Re: 罪について。引き続いて / 昌夫 引用

まことさん。

僕は、ある時点での人の行為が罪であるかどうか、人間には絶対的な判断をすることは、できないと考えています。

たとえば、アブラハムが異母妹と結婚したことが罪であったかどうかについて、まことさんのようにCENSOREDという行為は心に関係なく絶対的な罪の行為であるとするなら、罪であると結論することができます。これに対し、神が心と行為の関連を見られるなら、アブラハムの心を知らない人間に、その行為が罪であったかどうか、判断することはできません。

しかし、心についてある程度、想像して、聖書に書いてある行為を神が罪と定められるかどうか知ろうとすることは、可能だろうと思います。そのひとつの手がかりとして、信仰者の場合は、神が信仰者と契約関係に入られるので、契約の内容を見ることになります。人が、契約を守っていなければ、神に聞き従う心を持っていなかった可能性が強くあると思います。

アブラハムの異母妹との結婚について、僕が

>妹と結婚するという行為が絶対的に悪くて罪であるのではなく、ある人が神さまとどういう関係にあるかによって、神がその行為が罪であるかどうかを決められるからです。

と書いたのは、このような考えに基づいています。

この考えをとる場合、人間の曖昧さを、絶対的規準に引き上げることも、罪の絶対性を、人間の曖昧さに引きおろすことも必要ないと思います。3番目の可能性として、「罪は絶対であるが、心がどこにあるか知らずに外から行為を見て、それが罪であるかどうか、人間が知ることはできない。自分でさえも、無意識の心がどこにあるかは分からない。神だけが絶対的に知っておられる。」ということがあると思います。

罪の絶対性を、人間の知ることのできる外に出た行いに求めた場合、人間の力で、罪を犯さないようにする可能性が出てくると思います。特定の行動を避けたら良いのですから、それは人間でもできそうです。この考えは、禁欲的な行ないを誇ったりする律法主義的な罠につながっていく危険性があります。また、自分の力に頼ることができるので、自分の中に入ってくださったイエスが、罪の誘惑に打ち勝ってくださる恵みを深く理解できないという危険もあると思います。

No.2818 2007/08/16(Thu) 03:17:10

Re: 罪について。引き続いて / まこと 引用

昌夫さん。

>「罪は絶対であるが、心がどこにあるか知らずに外から行為を見て、それが罪であるかどうか、人間が知ることはできない。自分でさえも、無意識の心がどこにあるかは分からない。神だけが絶対的に知っておられる。【引用終わり】

そう。
そのような、人間には知ることが出来ない、神にしかわからない「罪」という事柄について、神がそれを人にわからせるために、モーセの律法は与えられたのではないのでしょうか?

その「神のみこころに関する、具体的な言葉」に対してさえ、人間には判らないことなのだと言う理由から、それに反する行いを罪ではないとするのであれば、律法は、それを知った人に対して、なんら効力も、意味もなくなってしまいます。

この際、聖書に基づいて罪に関して考えても混乱するだけだから、いっそやめた方が良いのでは?とさえ思えてきます。・・・とは言え、混乱しているのは私だけかも知れませんが。

No.2819 2007/08/16(Thu) 07:05:42

Re: 罪について。引き続いて / 昌夫 引用

>神がそれを人にわからせるために、モーセの律法は与えられたのではないのでしょうか?

僕は、むしろ人が自分には分からない、ということを知るようになるためにモーセの律法が与えられたと思います。自分には完全に律法を守る力どころから、律法に示されている罪とは何かもよく理解することができない。それほどまでに、自分の律法を守る力と、律法を理解する知力に絶望したとき、ローマ7:24のように「私は、ほんとうにみじめな人間です。」と自分に対する絶望を告白するようになり、7:25のように、主イエス・キリストの恵みに感謝するようになるのではないでしょうか?

これは想像ですが、パウロは、パリサイ人として、イエスに出会う前は、律法をすべきでない行為とするべき行為のリストとして読んでいたのではないか、と思います。その間は、自分は行いでは非常な努力をして完璧にしているのに、なぜか平安な心は得られず、十戒の第8戒めの、「隣人のものを、欲しがってはならない。」という心の戒めにはどんなに努力しても従うことができず、苦しんでいたと思います。そして、神の律法に逆らっていると信じるクリスチャンたちを、ますます努力して迫害して、神に認めてもらおうと思っていたのではないか、と思います。

ここで、律法を、罪と善の行いのリストではなく、すべての行いを、神を愛し、隣人を愛する聖い心で行えば、原則的には、当時のイスラエルでは、このような行いが外に表れる、というチェック・リストとして読んでみたらどうでしょう。例えば、もし、僕が、当時のイスラエル人であって、喜んで姦淫をさけ、十分の一税を納める、という心を持っていなかったら、自分と神の関係には、どこかおかしいところがあるのではないか、と考えることができると思います。そのように、自分の心と行いを全ての律法の戒めについてチェックしていけば、やがて、僕は、自分は律法を完全に守るためには、絶望的に罪深く、能力がないことを知るはずだと思います。そして、自分の力にではなく、主に頼ることだけが道であることを心から知るようになるはずです。そのことが、律法の役割であり、「自分はどの行為をすれば罪でないか、知っている。」と考えるようになることが律法の目的ではないと思います。

>その「神のみこころに関する、具体的な言葉」に対してさえ、人間には判らないことなのだと言う理由から、それに反する行いを罪ではないとする

僕は、「人間には、アブラハムの異母妹との結婚が、罪であったかどうか、彼の心を知らないので、知ることができない。」という自分の無知を知っている、と言っているのであって、「彼の行為は罪ではないと知っている」という知識があると言っているのではありません。この2つは、とても違うことなので、これを一緒にすると、とても混乱すると思います。

No.2822 2007/08/17(Fri) 01:23:37
創世記30章 / 沙耶香 引用

今日は創世記30章を読みます。

3節に
すると彼女は言った。「では、私のはしためのビルハがいます。彼女のところにはいり、彼女が私のひざの上に子を産むようにしてください。そうすれば私が彼女によって子供の母になれましょう。」
とありますが、ラケルの非常な嫉妬心が伺えますね。

9―13節に
さてレアは自分が子を産まなくなったのを見て、彼女の女奴隷ジルパをとって、ヤコブに妻として与えた。
レアの女奴隷ジルパがヤコブに男の子を産んだとき、レアは、「幸運がきた。」と言って、その子をガドと名づけた。レアの女奴隷ジルパがヤコブに2番目の男の子を産んだとき、レアは、「なんとしあわせなこと。女たちは、私をしあわせ者と呼ぶでしょう。」といって、その子をアシェルと名づけた。
とありますが、女同士の嫉妬心ってすごいなーーー。

14節に
さて、ルベンは麦刈りのころ、野に出て行って、恋なすびを見つけ、それを自分の母レアのところに持ってきた。するとラケルはレアに、「どうか、あなたの息子の恋なすびを少し私にください。」と言った。
とありますが、恋なすびって一体何だろうか?恋愛に関するものだろうか?

22節の
神はラケルを覚えておられた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。
が印象に残りました。不妊症が改善されたんだからすごいですよね?

25節に
ラケルがヨセフを産んで後、ヤコブはラバンに言った。「私を去らせ、わたしの故郷の地へ帰らせてください。
とありますが、ラバンって一体誰だったのだろうか?前戻っていろいろ見ているが、分からない・・・うーん、すぐ忘れる・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒13章46―50節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると46節が気になるのでこれをもう何度か読みます。
神の言葉は何よりも強く何よりも素晴らしいですね・・・

No.2792 2007/08/13(Mon) 20:17:43

Re: 創世記30章 / 昌夫 引用

ヤコブの12人の息子の子孫が、イスラエルの12部族となるので、ここも家系図を描いておくと良いと思います。ヤコブとレアの息子たちが、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ガブルン。ラケルが産んだ息子たちは、ヨセフとベニヤミン(35章16−18節で生まれます)。ラケルの女奴隷のビルハが産んだ息子がダンとナフタリ。レアの女奴隷のジルパが産んだ息子がガドとアシェル。

14節の恋なすびは、ナス科の植物で、一般に薬としてい用いると性欲増進、受胎力増進の効果があると信じられていたそうです。

22節のように、神が結婚後長く子どものできない女性の不妊症を癒されて子どもが生まれる話は、旧約聖書に多く出てきます。創世記で、今まで沙耶香さんが読まれたところでも、アブラハムの妻のサラは老女になってから、初めて子どもを産みました(18章1−15節、21章1−3節)。イサクの妻のリベカも不妊の女でしたが、神はイサクの祈りに答えられました(25章21節)。

新約聖書でも、バプテスマのヨハネを産んだエリサベツは老女になって、初めて子を産みました(ルカ1章5−25節)。

不妊の癒しと違いますが、処女のマリヤがイエスをお産みになったことも、神が全能の力で、子をお授けになることのひとつの表れです。

ところが、イエスがお生まれになってからは、いろいろな他の奇蹟が記録されていますが、不妊の女が子を産んだという奇蹟は記録されていないようです。イエスがお生まれになってからは、子を産むということの霊的意味は大きく変わったのかもしれません。

25節などに出てくるラバンは、ヤコブの妻のレアとラケルの父で、ヤコブの母のリベカの兄です。

No.2795 2007/08/13(Mon) 22:49:19

再創世記30章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度創世記30章を読みます。

すっごいなーーー。何だか子沢山ですね・・・

>>22節のように、神が結婚後長く子どものできない女性の不妊症を癒されて子どもが生まれる話は、旧約聖書に多く出てきます。創世記で、今まで沙耶香さんが読まれたところでも、アブラハムの妻のサラは老女になってから、初めて子どもを産みました(18章1−15節、21章1−3節)。イサクの妻のリベカも不妊の女でしたが、神はイサクの祈りに答えられました(25章21節)。

うーん、でも何だか聖書の中の話っておとぎ話みたいに聞こえてきますね・・・・時代も全く違うし、現実とかけ離れているので、老女になってから初めて子供を産んだとか・・・現代でそういうことはあるのだろうか?

何だかいろんな人物が出てくるので、全く掴み取れない。

6節に
そこでラケルは、「神は私をかばってくださり、私の声を聞き入れて、私に男の子を賜った。」と言った。それゆえ、その子をダンと名づけた。
とありますが、それゆえダンと名づけたというからには、ダンという名前には何か力強い意味があるのでは・・・・?

8節に
そこでラケルは、「私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った。」と言って、その子をナフタリと名づけた。
とありますが、ナフタリはまたライバルを押しのけるという意味でもあるんだろうか?

9節に
さてレアは自分が子を産まなくなったのを見て、彼女の女奴隷ジルパをとって、ヤコブに妻として与えた。
とありますが、この時代女奴隷までいて複雑極まりないですね・・・

11節に
レアは、「幸運がきた。」といって、その子をガドと名づけた。
とありますが、ガドとは「幸運が来た。」という意味なのだろうか?

13節に
レアは、「なんとしあわせなこと。女達は、私を幸せ者と呼ぶでしょう。」といって、その子をアシェルと名づけた。
とありますが、アシェルとは「幸せ者」という意味なのだろうか?

17節に
神はレアの願いを聞かれたので、彼女はみごもって、ヤコブに5番目の男の子を産んだ。
とありますが、レアはもう子供を授からないようになっていたのに、神様素晴らしいですね・・・

18節に
そこでレアは、「私が、女奴隷を夫に与えたので、神は私に報酬を下さった。」といって、その子をイッサカルと名づけた。
とありますが、イッサカルとは神が下さった報酬という意味だろうか?

23,24節に
彼女は身ごもって男の子を産んだ。そして「神は私の汚名を取り去ってくださった。」といって、
その子をヨセフと名づけ、「主がもうひとりの子を私に加えてくださるように。」と言った。
とありますが、ヨセフという名前には汚名返上という意味があるのだろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒13章51,52節、14章1―3節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると3節が気になるので、これをもう何度か読みます。
主の御業は素晴らしいですね・・・

No.2802 2007/08/14(Tue) 11:54:16

Re: 創世記30章 / 昌夫 引用

>でも何だか聖書の中の話っておとぎ話みたいに聞こえてきますね

特に旧約聖書を読むとき、現代人は、このように感じることが多いと思います。では、主イエスは、どのように旧約聖書を読まれたでしょうか。

沙耶香さんがすでに読まれたルカ書からみてみますと、ルカ4章1−12節で、悪魔がイエスを誘惑したとき、イエスは、4、8、12節で、旧約聖書から「と書かれている」と神のみことばの権威を認めて引用されています。4章21節では、イエスは、ご自分が旧約聖書の預言の個人的な実現であることを言われています。24章44節での「モーセの律法と預言者と詩篇」とは、当時の旧約聖書の3つの部分への分け方から、旧約聖書の全体のことです。だから44節で、旧約聖書に書いてあることは、必ず全部成就することをイエスが宣言されています。

このように、主イエスは旧約聖書が権威ある神のみことばであることを認められていました。イエスを信仰する僕たちは、やはり旧約聖書を神のみことばと信じて信仰を深めていくことがイエスに喜んでいただけると思います。自分の力では、とても信じられないことですから、祈りによって神に信仰を深めていただくとよいと思います。

ここで、少し考え方を変えてみると良いと思います。僕たちは、「おとぎ話」を、現実にはありえない話として子どものときから読んだり聞いてきました。それで、聖書の中の話とおとぎ話が似ていると、聖書の中の話も信じることが難しくなります。だから、聖書の中に書かれているような神の不思議なわざが、まずあり、それを見たり聞いたりした人たちが、ときには自分勝手な自分たちの願いもとりいれながら、おとぎ話を作っていった、と考えてみます。聖書の話がおとぎ話のようなのではなく、おとぎ話が聖書の話のようなのだ、と逆に考えてみるわけです。

次に、神は霊であって見えないし、人間のような姿ではないのですが、聖書の中の話を理解するために、仮に神には見えない腕や手があると想像してみます。現代では、医者が不妊の治療をして、かなり年をとった不妊の女性が子を産まれることもあります。それで、どのような医者よりも知識も力も持っておられる神が、見えない手で、サラやリベカの不妊を治療されていることを想像してみます。このように想像してみたら、人間の医者ができるようなことなら、もっと素晴らしいことを、神がされても驚く必要はないのではないでしょうか。

どちらにしても、聖書を読むときは、自分が読むというより、祈りの中で聞く気持ちになれたら素晴らしいと思います。



6節のダンは「さばき」という意味だそうです。これは、罰を下す意味ではなく、ラケルの立場を弁護してくれる、という意味だと思います。

8節のナフタリは、「格闘する」という意味があるそうです。

11節のガドは、「軍団」という意味があるそうです。

13節のアシェルは、「幸せな」という意味があるそうです。

18節のイッサカルは、「報いがある」という意味だそうです。

24節のヨセフは、「主は加えられる」という意味があるそうです。

No.2809 2007/08/15(Wed) 04:56:08

Re: 創世記30章 / 沙耶香 引用

うーん、聖書は難しいのは分かっていたが、聖書の読み方も難しいし・・・私にはちんぷんかんぷんだ。
天のお父様どうか私が聖書を読むときにイエス様に喜ばれるような読み方ができますように。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・

No.2813 2007/08/15(Wed) 11:12:02
創世記31章28節まで / 沙耶香 引用

今日は創世記31章28節までを読みます。

3節の
主はヤコブに仰せられた。「貴方が生まれた、貴方の先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」
が印象に残りました。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒14章4―10節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると10節が気になるので、これをもう何度か読みます。
癒しの御業はイエス様の特権だから・・・私もそのうちきっと・・・

No.2805 2007/08/14(Tue) 20:38:35

再創世記31章28節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度創世記31章28節までを読みます。

6節に
あなたがたが知っているように、私はあなた方の父に、力を尽くして仕えた。
続く、7節に、
それなのに、あなたがたの父は、私を欺き、私の報酬を幾度も変えた。しかし神は、彼が私に害を加えるようにされなかった。
とありますが、ヤコブの無念が伝わってきますね・・・

16節に
また神がわたしたちの父から取り上げた富は、すべて私達のもの、また子供たちのものですから。さあ、神があなたにお告げになったすべてのことをしてください。」
とありますが神はすべてを見ておられて、きちんと正しく裁かれます。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒14章11―15節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると15節が気になるので、これをもう何度か読みます。
この世のはかなさに比べて天の御国は永遠に素晴らしいとこしえに素晴らしいところです。この世の虚しさ果かなさを思うときにいつも天の御国を思うといいですね・・・

No.2812 2007/08/15(Wed) 11:05:08
罪と罰と信仰義認 / 昌夫 引用

これは、No.2774のまことさんの書き込みに対するレスです。信仰義認について語るためには、まず罪と罰について理解する必要があると思うので、信仰のない場合についての罪と罰について、まず僕の現在の聖書解釈を説明します。

1.神は人の罪の行いも、ご計画のために善用されるけれども、その罪の行いを罰される。

これは、人間には理解しにくいことですが、聖書にかなりはっきり書いてある原則だと思います。例えば、イスラエルの民の罪を罰する目的のために、神はアッシリヤやバビロンを使われました。しかし、アッシリヤやバビロンは、神を信頼して神の栄光のためにイスラエルの民を打ったので、これらの国々の罪の行いも、神が後に罰されました。ハバクク書を読むと、ハバククが異教徒のカルデヤ人を善用される計画を理解できなかったこと、それに対する神の答えは、高ぶる彼らが後にさばかれることでありました。また、ローマ9:14−20節、特に19節の「だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」とあるのは、やはり、神のご計画のために自分の罪の行いが、善用されたのなら、自分の行いは神にさばかれないはずだ、という人間の陥りやすい思い込みについて書いてあるのだと思います。

2.神は、どのような心で行いをしたかを見られて、罪の行いを罰される。心と関係なく、ただ外に出た行いをさばかれるのではない。反対に、心に罪につながる要素があっても、その要素に支配された行いがない限り、罰されない。

心と行いと罪については、まことさんへの最近のレスでいろいろ例をあげましたが、ここで、「神はいない。」と口に出して言う行いについて、もう一度例としてあげておきます。神を無視する気持ちで、「神はいない。」と言えば、罪の行いで罰されることになるが、信仰者が詩篇14:1を声に出して読んで、「神はいない。」と言っても罪ではないと信じます。

罪の要素が心にあっても、その要素が行いに出ないと罰されないということについて、例として、「恐れるな。」という神の命令に逆らうことについて考えてみます。例えばイザヤ書41章19節で、神は「恐れるな。」と命じられていますが、イスラエルの民はまわりの国々の力を恐れる気持ちに支配されたため、何度も罪の行いをしました。これと比較して、イエスはゲツセマネの園で恐怖を感じられたので、恐れる気持ちは持っておられました。しかし、イエスは恐れに支配されず、祈られて、父なる神に支配されました。イエスは罪を一度も犯されなかったために、恐れる気持ちを持つこと自体は罪ではないことが分かります。


次に信仰によって義と認められた場合について考えます。

3.信仰者が新生した時点で、それまでの罪は全て赦され、また、その後の時点でも、どのような罪を犯しても、信仰者は義と認められているので、汚れることはなく、いつも大胆に神の前に出ることが赦される。これは、人の行いによるのではなく、恵みによる。

これはおそらく同意していただけると思います。

4.信仰者の、新生の後の信仰からの善行の報いから、罪の行いによる罰が差し引かれ、何らかの意味の残高が報いとしキリストの再臨の後に与えられる。

ヤコブ5:20に信仰者が善行によって、多くの罪をおおう、ということが書いてあります。

1コリント3章10−15での、建物が信仰者の善行の価値、火とは罪の行いに対するさばきだと思います。新生後の罪は天国での報いの減少の意味で罰されるけれども、信仰者に罪の罰として霊的な死である神との断絶のさばきがくだされることはない。

アブラハムが信仰によって義と認められていたように、ダビデも信仰によって義認されていました。それで、ダビデは詩篇51篇のように、信仰によって姦淫の罪を見過ごされ、霊的に死ぬことはありませんでした。これは恵みです。しかし2サムエル12:7−14のように白昼公然と自分の妻たちが他の人と寝たり、子どもが死ぬという罰を受けました。

上記の1−4の考えから、まことさんの上げられた聖句を考えてみます。

>神は、人の行いに応じて、歯には歯をと、罰せられるお方であると、そういうことですか。

神は公正に行いを罰されると信じます。信仰によって義と認められた時点で全ての罪が赦されてそれまでの罪の行いの罰を受けず、以後に、罪を犯しても汚れない、という恵みは、例外のように思えます。しかし、恵みはイエスがその罰を代わりに受けられたからです。イエスが信仰者のために受けられた罰も考えにいれれば、神は、全ての罪の行いを公正に罰されると信じます。また、その公正の原理は、何らかの「目には目を、歯には歯を」という原理に基づいていると考えています。

>自分の罪について、神は、それに報復すべく目には目をと罰を下す。しかし、我々の罪の行いさえも、善用する!? 一体全体、神について何を理解して良いのか、わからなくなってきます。

罪の行いとその神による善用と、罰と恵みは、人知をはるかに超えた神の愛の、深い表れだと思います。僕たちが理解に苦しんでも驚くにはあたらないと思います。

>ヤコブが、約束の子としての祝福を神から受けたのは、ヤコブ、あるいはエサウの行いによるのではありません。それが善であれ、悪であれ。 その選びは、「神の一方的な選び」によったのです。

神の時間的に行いがある以前の一方的な選びがあるから、人の行いは、選びには関係ないという考えには、論理に飛躍があると思います。例えば、聖書には、救われる人は、神が一方的に選ばれたという教えあります(ヨハネ15:16、ローマ8:28−30)。しかし、この選びは、ローマ10:10にあるように、その人が信仰を持つようになるということを神があらかじめ知っておられること(ローマ8:29)に関係がある、と考えて、問題がないと思います。そして、生きた信仰を持って、善行をするものが、マタイ25:31−46のように救われる。

>「罪」や「信仰義認」についての根本的なところで矛盾しているようなお考え

例えば、信仰者が新生後の罪の行いの罰を受けるという僕の考えは、一見すると、罪の赦しや恵みと矛盾するように見えると思います。しかし、罪の罰として、霊的に死ぬ罰と、それ以外の罰を分けて考えると、矛盾がないことが分かると思います。僕の罪と信仰義認の聖書解釈には論理的矛盾はなく、聖書全体とも矛盾しないように思っています。そのような聖書解釈は他にもあるでしょうし、これからも、自分の聖書解釈と他の人たちの聖書解釈を比べることなどにより、主の恵みと愛をより深く学びたいと願います。

No.2782 2007/08/12(Sun) 04:31:31

Re: 罪と罰と信仰義認 / まこと 引用

昌夫さん。

少しだけレスします。

まず、「罰」という場合、それは幾通りかに区別できると思います。

1.被害者に対する、加害者の償い。すなわち、「目には目を。歯には歯を。」という律法。

2.誰かの生き方を矯正するために与えられる、具体的な苦しみを伴った訓練。すなわち、「導き」。

3.因果応報によって人がこうむる被害について、それが「神に罰せられたのだ」とする勘違い。

私は、神が人を「罰する」というとき、その罰の根底にあるのは、2.であると思っています。

神が、1.の罰を与える方であると考えるなら、それは「神に対する罪は、自分自身の苦しみや祝福の取り損ないという罰によって償われるのだ」と考えることです。そのように考えてしまうと、人は、自分の神に対する罪を、自分の行いによって償おうとする考えへと導かれていってしまうのではないか、というのが私の心配していることです。

>僕の罪と信仰義認の聖書解釈には論理的矛盾はなく

私が懸念しているのは、昌夫さんの「理論的」矛盾なのでは在りません。 また、私はヤコブとエサウの創世記における記述と、その記述に対してパウロが「直接的」に考察している箇所について述べたのに、その記述に対するレスとして、聖書全体の色々なところから章句を引用されては、私としては議論についてゆけなくなり、理論的な矛盾があるかどうかをきちんと整理できません。 
むしろ、私が気がかりにしているのは、神が人をどのように愛するのか、またキリストの福音がどのような原理に基づいて私たちに与えられたのかという事柄に関して、昌夫さんが「信仰義認」の原理に逆行したお考えをどこかもっていらっしゃるように見えるのですが?という事です。

そのような心の奥底、人の人格の根底にある事柄については、私にはとやかく言えないですが。

いずれにせよ、私たちの罪(それが行いであろうと、心の状態であろうと)を償うために「神の御子・キリストが死ななければならなかった」と本当に信ずるなら、自らの罪を自らの行為によって償おうとする考えは止むのだと思います。・・・それが私たちの休み場なのではないでしょうか。

No.2797 2007/08/14(Tue) 00:46:25

Re: 罪と罰と信仰義認 / まこと 引用

追記:

聖書の物語は、過去に起こった、他人ごとではなく、
「私」の物語。

アダムとエバの罪は、私の罪。

アブラハムの弱さは、私の弱さ。

ヤコブの自己中心は、私の自己中心。

イスラエルの反逆は、私の反逆。

パリサイびとの頑なさは、私の頑なさ。

罪とは何か。
神は人を「目には目を」と罰するのか。
信仰義認とは何か。

それを本当に知ろうとするとき、その答えは、自分自身の中に隠されているように思う。 自分自身が神の神秘を知りえるというのではない。ただ、自分自身を徹底的に内観することで、聖書の本当の意味が浮き出して見えてくるのだと思う。

それは、たましいの、呼応。

理論的に矛盾なき理解の探求ではなく・・・。

No.2798 2007/08/14(Tue) 01:48:52

Re: 罪と罰と信仰義認 / 昌夫 引用

アウグスチヌスは、自分がなかなか神を見出せなかったのは、神を自分の外で探して、自分の中で探さなかったという意味のことを書いたそうです。

>自分自身を徹底的に内観することで、聖書の本当の意味が浮き出して見えてくるのだと思う。

とまことさんの書かれたことと関連が深いように思います。アウグスチヌスは、善の神が全てを造られたのに、悪が存在するのは何故か、という論理的な問いを発し続けて、善悪2元論のマニ教を信じたりした末に、キリストの真理を見出しました。彼の場合、理論的に矛盾しないことを求める心と自分自身への深い内観を神が使われて真理へと導いていかれたのだと思います。キリストだけが道ですが、神は人、それぞれに特別な歩き方を用意してくださっているのだと信じています。

ところで、まことさんの罰の分類の背後に「神が信仰者を愛するなら、その人の罪を罰しない。」という考えがあるように感じます。神の愛を慈しみとあわれみととらえ、神のさばきは全く愛とは別のこととしてとらえておられるように思いますが、どうでしょうか。

興味深いことに、アモス3:2に、全く逆のことが書いてあるようです。神がイスラエルの民を選ばれたのが、神の彼らへの深い愛の現れであることが、マラキ1:2−5に書いてあると思います。そのようにイスラエルの民が愛されているなら、彼らの咎が特別に赦される、と人間は考えがちですが、アモス3:2で主は逆に「それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる」と言われました。

神の性質は、愛と公正というように別に分けられるものではなく、神の愛は聖なので、あわれみ、慈しみと同じコインの両側のように公正な咎のさばきが聖なる愛のひとつの側面としてあるのだと僕は思います。

罰をまことさんのように3つに分けた場合、たしかに2番目は、神の愛として、理解しやすい。しかし、1番と3番のような場合であって、人間には愛の表れと理解しがたくても、究極的には神の愛の表れだと思います。

例えば、僕たちは痛みはいやですが、最近のハンセン病の研究で、ハンセン病の菌がすることは、痛みの神経を麻痺させることだけだということが分かったそうです。ハンセン病患者は、痛みを感じないので、釘を踏んでも気づかずに歩きつづけて、足が腐ってきたりするそうです。痛みがいかに神の祝福であるかが分かると思います。

同じように、罪を犯し続けても、何らこの世では罰を受けず、罪を犯しつづけて、地獄に行くということを考えたら、罪を犯して罰を与えられるのは祝福であると思います。

さらに理解が難しいのは、お導きでないときの罰です。特に地獄は神の愛の表れとは、なかなか感じることができません。しかし、C.S. ルイスは「地獄の戸は中から鍵がかかっている。」という意味のことを書いています。敵をも愛される神が、愛する人間が、あくまでも恵みを拒否するのを止められないのも、究極的には、愛の表れだと思います。ある人が、神と永遠をともにすることを本当には望まないなら、その人の選択を尊重される神の愛の表れであると思います。

No.2799 2007/08/14(Tue) 04:19:26

疑問の原点 / まこと 引用

昌夫さん。

>ところで、まことさんの罰の分類の背後に
>「神が信仰者を愛するなら、その人の罪を罰しな
>い。」という考えがあるように感じます。
>神の愛を慈しみとあわれみととらえ、神のさばきは
>全く愛とは別のこととしてとらえておられるように
>思いますが、どうでしょうか。

私が、「神は人を、その罪の故に罰しない」と私が言ったとすれば、それは、次の意味においてです。

「人間が犯した罪について、神はその罪と同等の苦しみをその人に与えること(罪の行為の相殺)自体を目的として、人を罰することはしない。」

神が人を罰するとき。そのすべての場合を包含する考えではありません。

以下、ご参考まで。

会話の内容が、どんどん拡大してゆくので、少し話しを元に戻します。 私が今回疑問を投げかけたのは、#2772の一連の内容が、整合していないと感じたからです。

#2772より引用:

>主のご計画と、人の罪の性質や行いをも善用されて、
>計画を達成される主の御力を読み取るようにするこ
>とが大切だと思います。・・・【中略】・・・
>エサウとヤコブが生まれたときから、ヤコブが主の
>アブラハムとイサクへの祝福の約束を受け継ぐことは
>預言されていました。

つまり、イサクが祝福の約束を受け継いだのは、人の罪の性質や行いを超越して達成される神のご計画によるということ。 ・・・ここまでの内容によって、神の選びのご計画は、人の行いに拠るのではなく、神ご自身の達成したいと願っておられるみこころによるのだ、という一つのテーマが流れはじめます。

それが突然、一転して、

>エサウが選ばれなかった主要な理由は、主の祝福の
>約束を受け継ぐ権利を軽蔑した罪のためであると
>思います。

と、エサウが選ばれなかった理由が、彼の「約束を受け継ぐ権利を軽蔑した」という彼の罪に拠るとなっています。

さらに、もし、神が、

>ヤコブが罪人であっても、主に赦されて愛されたの
>は、ヤコブが主を信頼して主の祝福を強く求めた
>信仰によります

という、ヤコブの罪人としての性質を超越して彼を赦し、愛するのであれば、 なぜ、

>主は後になって、伯父のラバンがイサクに嘘をついて
>だますことによって、ヤコブが嘘をついた罪を罰され
>る

ようなことを、神はヤコブにされたのか?

神の慈しみと愛が、「罰」という形で現れる事があるということには同意します。しかし、その場合、その「罰」によってヤコブは何かを学び、その学んだことから彼の人生は祝福へと導かれて行くはずです。 そのような「導き」は、罪の行いの被害の相殺を目的とした「目には目を。歯には歯を」という性格の「罰」では無いと思います。

神のご計画の達成が、人の行いによらないとし、同時に、エサウについては、彼が選ばれなかったのはエサウのせいだったとする。

神は人の罪を超越して、その人を赦し、また愛する方であるとし、同時に、ヤコブについては、彼が父イサクをだましたその罪について「目には目を。歯には歯を」と彼を罰するお方であるとする。

昌夫さんご自身が説かれたテーマに、昌夫さんご自身の発言がどこか逆行しているように思える。これが私が感じた疑問でした。要するに、私のアタマがこんがらがってしまったんですね。

No.2801 2007/08/14(Tue) 10:53:14

Re: 罪と罰と信仰義認 / 昌夫 引用

>その場合、その「罰」によってヤコブは何かを学び、その学んだことから彼の人生は祝福へと導かれて行くはずです。

僕は、神が人を愛していれば、後の人生の祝福のためだけにその人への「罰」がある、という考えが聖書に基くものであるとは思いません。聖書は神が信仰者だけでなく、地獄に行く人々をも愛してくださることをはっきり述べていると思います。また僕は地獄は罪の罰であり、地獄での苦しみが、その後の祝福につながることはないということも、聖書に書いてあると思います。神は、愛する人が神の恵みを拒み続けるなら、地獄で罰される。これは、理解しがたいし、理解したくないように感じることですが、聖書に基いて神の愛について理解を深めようとするなら、避けて通ることはできないと思います。

>神のご計画の達成が、人の行いによらないとし、同時に、エサウについては、彼が選ばれなかったのはエサウのせいだったとする。

創造のときの神による選びと、人が信仰を持つということの関係は非常に難解です。これは、創造の時点で、神の選びと、信仰を持つかどうかの予知が、同時に行われるからだと思います。エサウとヤコブの場合、創造の時点で、エサウが神の約束を軽蔑する心を持つことをあらかじめ知っておられた神は、エサウを選ばれずに、信仰を持つヤコブを選ばれた。そして歴史の中で選びが実際の行いによって達成されるように、神が人の罪の行いをも善用されます。

エサウとヤコブの場合、神はヤコブの選びにご計画に従って、現実に歴史のなかで、エサウが不信仰の行いをするように、彼がおなかがすいたときに、ヤコブが長子の権利を買うようにされた。また、ヤコブの嘘をつく性質をも善用され、イサクがヤコブを祝福するようにされた。

>神は人の罪を超越して、その人を赦し、また愛する方であるとし、同時に、ヤコブについては、彼が父イサクをだましたその罪について「目には目を。歯には歯を」と彼を罰するお方であるとする。

罪の赦し、ということを、もう少し詳しく考えてみたらどうでしょう。神はたしかに信仰者の罪を超越して、罪を赦し、神の前に出ることを赦される。つまり汚れないようにされて、最後のさばきのときに、神の前に出ても地獄に行かないようにされる。しかし、これは、新生した信仰者がどのような罪をしても、主の栄光のための善行をしても、天国での公正な報いの違いがないということではない。イエスは何回も、天の国の報いについて述べられました。

No.2807 2007/08/15(Wed) 00:30:06
創世記28章 / 沙耶香 引用

今日は創世記28章を読みます。

8節に
エサウはまた、カナンの娘達が父イサクの気に入らないのに気づいた。とあり、続く、9節に
それでエサウはイシュマエルのところに行き、今ある妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻としてめとった。
とありますが、これは何を意味しているのか?あまりよく分からない。

14節の
あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、貴方と貴方の子孫によって祝福される。
が印象に残りました。

続く、15節の
見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
も印象に残りました。

22節に
私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜るものの10分の一を私は必ずあなたにささげます。」
とありますが、あのズルしたヤコブもこういう風にイエス様の心に変えられて素晴らしいですね・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒13章26―30節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・・
何度か読んでいると29,30節が気になるのでこれをもう何度か読みます。
うん、死んでよみがえらせることもできるし、いろんな奇跡の御技を起こせる唯一の救い主=イエス様ですよね・・・

No.2777 2007/08/11(Sat) 20:04:08

Re: 創世記28章 / 昌夫 引用

8節ですが、エサウはカナンの地に住むヘテ人の娘たちを妻にしていました(27章66節)。父イサクは、このエサウの妻たちを気に入っていませんでした。おそらく、妻たちが、主ではなく、カナンの偶像神を崇拝していたからだと思います。それで、エサウは、イサクの異母兄のイシュマエルのところに行き、彼の娘の一人をもう一人の妻として迎えました。

22節でのヤコブの心が、27章で嘘をついたヤコブの心から大きく変えられているとは、僕は思いません。ヤコブはこのずっと後で、神と戦うという深い交わりをして、エサウと和解しますが、その後でも、またエサウに嘘をつきます。ヤコブは25章29節から35章の終わりまでずっと、主の祝福を求める信仰の深い人だったけれども、嘘をつく罪の性質を持っていたことには変わりはなかったと思います。ローマ7章14−25節のパウロと同じだと思います。信仰をいただいても、人間は自分の力では良いことができない、みじめな存在です。ただ、神の力により、人間は本当に良い行いをすることができます。

No.2781 2007/08/12(Sun) 02:55:26

再創世記28章 / 沙耶香 引用

27章に66節なんかありませんが・・・46節のことかな?でも46節にはヘテ人を妻にしたなんて書いてないと思うけれど・・・
46節・・・
リベカはイサクに言った。「私はヘテ人の娘達のことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブが、この地の娘達で、このようなヘテ人の娘達のうちから妻をめとったなら、私は何のために生きることになるのでしょう。」
・・・
妻にしたと書いてないことないですか?

うーん、でもうそをつくのは主の前では罪ですよね?信仰をいただいてより求めてうそをつかないようにならないのかな?

17節に
彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
とあるが、一体ここはどこだったのだろうか?

19節に
そして、その場所の名をべテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。
とあります。今べテルというところにいるみたいだけれど、べテルってどこだろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒13章31―35節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、35節が気になるので、これをもう何度か読みます。
神の恵みはとこしえまで・・・ですよね・・・

No.2784 2007/08/12(Sun) 07:08:28

Re: 創世記28章 / 昌夫 引用

>うそをつくのは主の前では罪ですよね?

うそをつくのが罪であることが多いと思います。ただし、僕はうそをつくことでも、他のどんな行為でも、どのような心でするかによって罪かどうか決まってくると聖書に書いてあると考えています。だから、うそをつくことが罪でないこともあると思います。何か人がした行いが罪であるかどうか、神が決められることで、人間にははっきり分からないと思います。

信仰をいただいてより求めてうそをつかないようにならないのかな?

ヤコブだけでなく、信仰を持っても、人の罪の性質がすぐなくなるわけではありません。しかしだんだん神に変えられて罪の性質が聖められていくと思います。このときに、信仰者の個性の本質にかかわる罪の性質は、なかなかなくなっていかないようです。神はその罪の性質を、ただ取り除くよりも、その性質の良いところを個性として残されながら、聖めていかれることが多いように思います。ヤ

16-19節に出てくるべテルですが、アブラハムが最初にカナンの地に来たときに、シュケムで祭壇を作り、次にべテルの東に祭壇を作りました(12章6-8節)。後になってイスラエルの12部族がカナンの地を分割したとき、べテルはエフライムとベニヤミンの分割地の境のあたりになりました。

No.2785 2007/08/12(Sun) 13:23:11

Re: 創世記28章 / 沙耶香 引用

>>僕はうそをつくことでも、他のどんな行為でも、どのような心でするかによって罪かどうか決まってくると聖書に書いてあると考えています。

このことを牧師に言うと、罪はどういう心でするかによって決まるのではなくて、罪というものは聖書に示されていると言っていて、何だか管理人様説と牧師説とずれていると感じたんだけれど・・・ま、いろんな説があります。

そうですね・・・信仰を持ってもなかなか罪の性質がすべてなくなるわけではないですね・・・だんだん聖められていくといいですね・・・

No.2786 2007/08/12(Sun) 18:04:18

Re: 創世記28章 / 昌夫 引用

罪とは外面的な行いで決まるものではなく、行動の背後にある心と、そこから外に表れている行いで決まってくると聖書に書いてあるように思います。しかし、この掲示板でも、まことさんが僕と違う聖書解釈を主張されましたし、いろいろな解釈があると思います。罪とは何か、ということは、神の罪の赦しと愛を理解するために、とても重要だと思います。沙耶香さんも、自分の牧師と自分の教会の聖書解釈を大切にしながらも、絶対視せず、自分で直接に神に問いかけて、聖書を読みすすんでいって、罪について神のお考えを聞かれたら良いと思います。

No.2788 2007/08/13(Mon) 00:40:45

Re: 創世記28章 / 沙耶香 引用

でも聖書解釈が幾重にもあるんだったら、どれが真実か分からないし、何が何だか分からない・・・
うーん??混乱してきます。

No.2791 2007/08/13(Mon) 17:50:58

Re: 創世記28章 / 昌夫 引用

僕たちは神さまが全てをご存知で、僕たちを愛して全能の力で僕たちを導いてくださっていることを知っています。そうならば、僕たち有限の人間が、無限の真実を知るとが不可能でも、ただ、神さまを信頼し、聖書を読んだりしながら神さまがはっきりと指示をくださるのを待ち、指示をいただいたときは、すぐに聞き従うようにすれば良いと信じます。

聖書を読んで、何かの聖書解釈に確信を持つのは良いことだと思います。しかし、確信は人間の確信であって、絶対ではない、ということをよく知り、確信を絶対視しないことが大切だと思います。そうでないと、人間の造った聖書解釈を神と勘違いして崇拝することになってします。僕たちは、人間の造ったものではなく、絶対に間違わない神を崇拝します。

いくつかの聖書解釈があって、どれにも確信が持てず、そのためにどの行いをするのが良いか分からないときは、何も行いをせずに、静かに神の前に出て、聞くようにすると良いと思います。

No.2793 2007/08/13(Mon) 21:56:14

Re: 創世記28章 / 沙耶香 引用

本当そうですね・・・神の声に聞き従おうと行動を起こすことも大切だけれど、はっきり分からない、はっきり示されないときは、神の前に静まり待っているということも大切です。

No.2803 2007/08/14(Tue) 11:57:38

罪。 / まこと 引用

昌夫さん。

昌夫さんのお考えについて、一つだけ確認させてください。そのために、以下の問いに、差し支えなければ、YESまたはNOで答えてくださいませんか? その回答自体、また、その根拠に対しての追求はしません。

>うそをつくのが罪であることが多いと思います。
>ただし、僕はうそをつくことでも、他のどんな行為
>でも、どのような心でするかによって罪かどうか決
>まってくると聖書に書いてあると考えています。

私の問いは、これです。

問)
聖書に基づいて考えた場合、
自分の父親がまだ生きている間、
自分の実の母親と性的交渉を持つことは、
罪か。

YES :罪である。
NO :罪ではない。あるいは、罪ではない場合がある。

YES,NOの根拠となるお考えについては、割愛してくださって結構です。私としては、それを追求することはしません。

以上です。

No.2804 2007/08/14(Tue) 12:56:52

Re: 創世記28章 / 昌夫 引用

まことさん、問の行為は、聖書に基づいて主の忌まれる行為であると思います。エディプスの神話に自分は知らずに母とこの忌むべき性交渉をしてしまった話がありますね。仮にエディプスが実在の人物なら、信仰から出てその行為をしたのでないかぎり、ローマ14:23にあるように、「信仰から出ていないことは、みな罪です。」

それでは、信仰から出た行為である場合はどうでしょうか。ある信仰者が、自分に与えられた能力と知識から生じる、相手の女性が自分の血縁であるかどうか徹底的に調べる義務を果たした上で、そうでないと確信したとします。彼が主の栄光を無意識も含めて心から願いながら、もし信仰から出た行為として、知らないうちに母と主の忌まれる行為をしてしまったとき、その行為を主が罪の行為と定められるかどうか。もし、主が罪と定められるなら、主はその行為が起こらないようにされるのではないか。

このように考えると、もし、この場合に主がこの行為を罪と定められるなら、全知全能の主は、このようなことが起こらないようにされる力を持っておられると信じます。

ですから、僕の現在の聖書解釈に基づく解釈は、ある意味でまことさんの選択枝にはない、3番目の答えになります。

「全知全能の主は、信仰者が信仰から出た行為が罪に定められることは決してないようにされる。」

この意味で起こりえない行為について、それが罪であるかどうか考えたり、人にYes-Noで質問したりしても、意味がないように思います。

No.2806 2007/08/15(Wed) 00:01:51
創世記29章 / 沙耶香 引用

今日は創世記29章を読みます。

1節に
ヤコブは旅を続けて、東の人々の国へ行った。
とありますが、東の人々の国ってどこだろうか?

3節に
群れが全部そこに集められたとき、その石を井戸の口からころがして、羊に水を飲ませ、そうしてまた、その石を井戸の口のもとのところに戻すことになっていた。
とありますが、何だか飲み込めないが、一体どういうことだろうか?

6節に
ヤコブはまた、彼らに尋ねた。「あの人は元気ですか。」すると彼らは、「元気です。御覧なさい。あの人の娘ラケルが羊を連れて来ています。」といった。
とありますが、何で”あの人”で通じるのだろうか?

18節に
ヤコブはラケルを愛していた。それで、「私はあなたの下の娘ラケルのために7年間あなたに仕えましょう。」といった。
とあるが、ラケルを愛しているから7年間仕える??あまり意味がわからないが・・・

24節に
ラバンはまた、娘のレアに自分の女奴隷ジルパを彼女の女奴隷として与えた。
とありますが、娘に自分の奴隷を与えるとか・・・何だか今から考えたら不気味だけれど、この時代は普通だったんでしょうね・・・

25節に
朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。「何ということを私になさったのですか。私があなたに仕えたのは、ラケルのためではなかったのですか。なぜ、私をだましたのですか。」
とありますが、本当にヤコブの怒りはごもっともだとおもうけれど・・・

28節に
ヤコブはそのようにした。すなわち、その婚礼の週をすごした。それでラバンはその娘ラケルを彼に妻として与えた。
とありますが、ヤコブはよっぽどラケルのことが好きだったのですね・・・うーん??でもレアとも結婚していてラケルとも結婚できるのかな?一夫多妻???どれがどうかどの時期がどうかどこの国のことだか聖書はいろいろ出てくるから混乱していて分からない・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒13章36―40節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると39節が気になるので、これをもうなどか読みます。
すべての救い主は主イエス様だけだから・・・やっぱりこの方を信じるとすべての点で解放されるしいろいろと開かれる・・・

No.2787 2007/08/12(Sun) 19:30:31

再創世記29章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度創世記29章を読みます。

3節に
群れが全部そこに集められたとき、その石を井戸の口からころがして、羊に水を飲ませ、そうしてまた、その石を井戸の口のもとのところに戻すことになっていた。
とありますが、井戸というのはこういう風に使っていたんだ。井戸なんてくみ上げたことがないからよくわからない。

12節に
ヤコブが、自分は彼女の父の親類であり、リベカの子であることをラケルに告げたので、彼女は走って行って、父にそのことを告げた。
とあり、続く13節に
ラバンは、妹の子ヤコブのことを聞くとすぐ、彼を迎えに走っていき、彼を抱いて、口付けした。そして彼を自分の家に連れてきた。ヤコブはラバンに、ことの次第のすべてを話した。
とありますが、このヤコブからの系統って私には全く読めないから・・・

20節の
ヤコブはラケルのために7年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それも本の数日のように思われた。
が印象に残りました。

28節の
ヤコブはそのようにした。すなわち、その婚礼の週をすごした。それでラバンはその娘ラケルを彼に妻として与えた。
が印象に残りました。ヤコブは忍耐強いですね・・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒13章41―45節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると44節が気になるので、これをもう何度か読みます。
それだけ神の言葉というのは素晴らしいということなんですよね・・・

No.2790 2007/08/13(Mon) 11:48:51

Re: 創世記29章 / 昌夫 引用

1節の東の人々とは、メソポタミヤの人々のことで、ヤコブは、11章31−32節に出てきたカラン(ハランとも表記される)に行きました。

2−3節の井戸は、動物が、井戸の縁から直接に水を飲めるようなものだったと思います。それで、野生の動物が水を飲みにこないように、ふだんは、大きい石でふたをしてあったのだと思います。普通、井戸に石でふたをするということはないようです。

6節の「あの人」とは、5節でヤコブが言ったラバンのことです。

12−13節ですが、ヤコブの系図は複雑ですから、家系図を書いておくと良いと思います。僕は聖書の後ろの白紙のページに書いています。11章の27−31節などから、テラの子、アブラム、ナホル、ハラン、サライ。ハランの子にロト。ナホルの子のペトエル。その子のラバンとリベカ。ラバンの子のレアとラケル。リベカはイサクの妻で、その子がヤコブとエサウ。

18節ですが、結婚するときには、夫は妻の父兄に贈り物をしたり、贈り物をするお金がないときには、7年間、妻の父兄のために働くことが当時の習慣だったようです。

25節で、このようにヤコブがラバンにひどい嘘をつかれることを神が許されたのは、ヤコブがイサクに嘘をついたことの罰であったと僕は考えます。神の前に出ることを信仰によって赦された人が、罪の行いに対して罰を受けることは、その罪の悔い改めへの導かれる神の愛の表れだと思います。

28節のように、当時は一夫多妻です。旧約聖書と新約聖書が書かれた時代には、一夫多妻は広く各地で行われていたようです。

No.2794 2007/08/13(Mon) 22:18:24

Re: 創世記29章 / 沙耶香 引用

7年間妻の父兄のために働くのが習慣??うーん、今では考えられないが・・・

ヤコブの系図・・・分からない・・・11章27―31節・・・今少しメモ書きしてみた・・・うーん、わかりにくいです・・・

No.2800 2007/08/14(Tue) 10:49:56
創世記27章 / 沙耶香 引用

今日は創世記27章を読みます。

10節の
あなたが父上のところに持っていけば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。」
が印象に残ったというか、神様は見ておられるので・・・こんなことをしても・・・と信仰者の私は思うけれど・・・

22節に
ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」
とあるが、声が違うと感じるのなら何でもっと突っ込まないんだろうか?

36節の
エサウは言った。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」また言った。「あなたは私のために祝福を残しては置かれなかったのですか。」
が印象に残りました。エサウの無念が伝わってきます。

40節に
おまえはおのれの剣によって生き、おまえの弟に仕える事になる。おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」
とあるが、これはどういう意味だろうか?くびき・・前にも聞いたかもしれないけれど、分からない・・・

46節に
リベカはイサクに言った。「私はヘテ人の娘達のことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブが、この地の娘達で、このようなヘテ人の娘達のうちから妻をめとったなら、私は何のために生きることになるのでしょう。」
とあるが、これはどういうことだろうか?ヘテ人から妻をめとったら何か問題あるのだろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒13章16―20節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると17節が気になるのでこれをもう何度か読みます。
何だかよく分からないけれど、神様は素晴らしいということだ。

No.2771 2007/08/10(Fri) 20:28:53

Re: 創世記27章 / 昌夫 引用

この章だけを読むと、エサウがかわいそうに思え、ヤコブとリベカの嘘とたくらみを、なぜ神が見過ごされたのか、という思いがわいてくるのが普通だと思います。他の章ともあわせて読み、主のご計画と、人の罪の性質や行いをも善用されて、ご計画を達成される主の御力を読み取るようにすることが大切だと思います。

まず、神のご計画はどうであったかというと、25章23節にあるように、エサウとヤコブが生まれたときから、ヤコブが主のアブラハムとイサクへの祝福の約束を受け継ぐことは預言されていました。

まず、エサウが選ばれなかった主要な理由は、主の祝福の約束を受け継ぐ権利を軽蔑した罪(25章29−34節)のためであると思います。このことは、ヘブル12章16−17節にも書いてあります。

それでは、兄のエサウではなく、ヤコブが選ばれたのは、ヤコブが罪を犯さない素晴らしい善人であったからでしょうか。27章でヤコブが父のイサクに嘘をついてだましたのは、主の前に罪の行いであったと思います。主は後になって、伯父のラバンがイサクに嘘をついてだますことによって、ヤコブが嘘をついた罪を罰されるようにされたようです(29−31章)。「目には目を、歯には歯を」という同形報復が、モーセの律法にある公正な罪に対する罰の原則です。ですから、ヤコブが嘘をついた罪が、嘘をつかれることで、罰されたと考えて良いようです。

ヤコブが罪人であっても、主に赦されて愛されたのは、ヤコブが主を信頼して主の祝福を強く求めた信仰によります。後になって、ヤコブは主の祝福を求めて神と戦うほど、主を求める人でした(32章24−30節)。

僕たち信仰者は、罪を犯すものであっても、主の約束を信頼し、主を求める信仰を持ってさえいれば、罪を赦されて主の前に出ることができます。ここで、罪の罰を全く受けないという意味ではなく、大胆に主の前に出て主と直接の関係を持つことをいつも赦されるという意味だと思います。また、主は信仰者の罪の行いされ善用されて、主のご計画を達成されます。

それから、主の前に出るとき、ヤコブのように主と戦うことで関係を深める人もいれば、アブラハムのように、主を信頼しつつ主に質問する人もいます(18章23−32節)。詩篇でのダビデのように、自分の恐れや怒りを正直に主に訴える人もいます。主と人との関係は、人それぞれですが、正直に誠実に主と関係を持ち、外に出た「善い行い」だけで主にとりいろうとする偽善の行いを避ける、ということが信仰者に共通であると思います。

40節の「くびき」は家畜の首につける木などでできたものです。農耕のための道具をつないだり、他の家畜とつないだりします。

ヘテ人は、9章25節でのろわれたノアの孫のカナンの子孫です(10章15節)。ヘテ人たちは、約束のカナンの地で偶像神を崇めて、姦淫や不品行のいろいろな忌むべき行いをしていたようです。当時、真の神である主を信仰し、崇めている人たちは、ほとんどいなかったのですが、カナンの地での偶像神崇拝は、特に忌むべき、のろわれたものだったようです。

No.2772 2007/08/10(Fri) 23:01:35

罪と罰!? / まこと 引用

★ 罪と罰 / まこと 引用

昌夫さん。

>「目には目を、歯には歯を」という同形報復が、
>モーセの律法にある公正な罪に対する罰の原則です。
>ですから、ヤコブが嘘をついた罪が、嘘をつかれる
>ことで、罰されたと考えて良いようです。

ヤコブは、神に罰せられたのですね。

神は、人の行いに応じて、歯には歯をと、罰せられるお方であると、そういうことですか。

私たちが、神をそのような目で見ている限り、

>人の罪の性質や行いをも善用されて、ご計画を達成
>される主の御力

について、実感をもって知ることなど、出来はしないのではないですか。

自分の罪について、神は、それに報復すべく目には目をと罰を下す。しかし、我々の罪の行いさえも、善用する!? 一体全体、神について何を理解して良いのか、わからなくなってきます。


ローマ書9:11、12には、こう書かれています。

「すなわち、・・・約束の子供が子孫と見なされるのです。・・・リベカの子供達(すなわちヤコブとエサウ)は、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方(すなわち神)によるようにと、「兄は弟に仕える」と・・・告げられたのです」ロマ9:8−12

ヤコブが、約束の子としての祝福を神から受けたのは、ヤコブ、あるいはエサウの行いによるのではありません。それが善であれ、悪であれ。 その選びは、「神の一方的な選び」によったのです。すなわち、信仰義認の根本的原則が、ヤコブとエサウの人生によって指し示されている訳です。 

昌夫さんのコメントは、良いこともたくさん書いてあって、参考にさせていただいていますが、「罪」や「信仰義認」についての根本的なところで矛盾しているようなお考えが、私にはどうしても気になってしまいます。

あと、蛇足になりますが「目には目を」という罰則に関する律法は、人間同士についての規定であって、「神−人」間における「罪、即、罰」的な関係性を示唆するものではないと私は理解しています。

以上です。

No.2774 2007/08/11(Sat) 11:19:11

Re: 創世記27章 / 昌夫 引用

まことさん、レスをありがとうございます。

僕は自分の現在の聖書解釈に基づいて沙耶香さんの疑問に答えたり解説したりしています。自分の聖書解釈は確信を持っていたことでも、だんだん変わっていますし、絶対視しているわけではありません。このように自分の考えを掲示板に公開しているのは、いろいろな人々に疑問点などを指摘していただきたいからです。

今回、質問していただいたことに関しては、長くなるので別にスレッドをたててお答えします。

No.2778 2007/08/12(Sun) 02:12:37

Re: 再創世記27章 / 沙耶香(管理人が代理投稿) 引用

今日はもう一度創世記27章を読みます。

この章の内容は絵本かなんかで知っていました。エサウとヤコブの兄弟の父からの祝福の取り合い・・・だからいつもより長く読めたのかもしれないです。

聖書は全体を読まないと理解が不可能だとよく言いますね・・・全体を読んでも神様のことをすべて分かるという人はいないと思います。

13節の
母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取ってきなさい。」
が印象に残ったというか、そこまでしても得たいものなのか?と思ったというか、そんなことして受けた祝福はあとで神様からの報復が帰ってくると思うんだけれど・・・・

16節に
また、子やぎの毛皮を、彼の手と首のなめらかなところにかぶせてやった。
とありますが、すごい小細工だなーーー。

34節に
エサウは父のことばを聞くと、大声で泣き叫び、ひどく痛み悲しんで父に言った。「私を、お父さん、私も祝福してください。」
とありますが、エサウの無念の思いが伝わってくるようです。

36節に
エサウは言った。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」また言った。「あなたは私のために祝福を残して置かれなかったのですか。」
とありますが、名前のヤコブとは何か人のものを奪うという意味があるのだろうか?

41節に
エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブをCENSOREDやろう。」
とあるが、普通人間だったら、実際にそうしなくてもこういう思いが出てくるだろう・・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒13章21―25節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると25節が気になるので、これをもう何度か読みます。
私はその方のくつのひもを解く値打ちもありません。。。素晴らしい言葉ですね・・・

No.2779 2007/08/12(Sun) 02:14:08

Re: 創世記27章 / 昌夫 引用

13節は興味深いです。母リベカが、どうしても父イサクの祝福を自分の愛するヤコブに受けてもらいたかった。祝福によって主の約束を受け継ぐことが、とても素晴らしいと信じることで、主を信頼していたこと、子のヤコブを愛して、自分がかわりにのろいを受けても良いと思っていたことは、どちらも主に喜ばれることだったと思います。夫のイサクとエサウの気持ちを無視し、嘘をついてだまそうとしたことは、主に喜ばれることではなかったと思います。リベカの行いを主がご自身の絶対的に善である計画のために善用されたことは確かですが、主がリベカのこのときの行いを主を喜ばせる行いとされるか、罪の行いとされるかは、聖書からはよく分かりません。

ヤコブの名前は「かかとをつかむ」の意味を持っているそうです。名前の由来については、25章26節にあるように、弟のヤコブが兄のエサウのかかとをつかんで生まれてきたからです。

聖書全体を読んでも無限の神のことを有限の人間がすべて分かるわけはありません。しかし、聖書の一部を読んで、自分勝手な思いで理解すると、神さまからずれていきます。しかも「聖書に書いてあったから」という思いが出るので、とても危険です。例えば27章だけを読んで、人間的な思いからエサウに一方的に同情しすぎるのは、神の思いからずれると思います。

No.2780 2007/08/12(Sun) 02:42:09

Re: 創世記27章 / 沙耶香 引用

あ、そうだったですね・・・兄、弟と言えども双子だったんだ・・・

No.2783 2007/08/12(Sun) 06:29:39

ご回答は不要です。 / まこと 引用

昌夫さん。

>今回、質問していただいたことに関しては、長くなる
>ので別にスレッドをたててお答えします。

本件に関しては、勝手かも知れませんが、ご回答には及びません。

私の書き込みに対して、お気を留めていただくだけで、私としては十分です。

No.2789 2007/08/13(Mon) 09:33:33

Re: 創世記27章 / 昌夫 引用

まことさん。

本件の回答はNo.2782に、昨日書きました。もし、有用であるようでしたら読んでいただければ幸いです。

No.2796 2007/08/13(Mon) 22:51:56
創世記26章 / 沙耶香 引用

今日は創世記26章を読みます。

5節の
これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおいてとおしえを守ったからである。
が印象に残りました。

7節に
その土地の人々が彼の妻のことを尋ねた。すると彼は、「あれは私の妻です。」というのを恐れて、「あれは私の妹です。」と答えた。リベカが美しかったので、リベカのことでこの土地の人々が自分を殺しはしないかと思ったからである。
とありますが、これは前に聖書のどこかの個所で読みましたね。あまり頭に残らない私だけれど・・・

16節に
そうしてアビメレクはイサクに言った。「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。」
とありますが、随分と勝手な言い分ですね・・・・

20節に
ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ。」といって、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。それは彼らがイサクと争ったからである。
とありますが、イサクの羊飼いって一体何だろうか?何だかあまり状況がつかめない。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は1コリント13章7―11節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると7節が気になるので、これをもう何度か読みます。
すべてをかまんし、すべてを信じ・・・うーん、人間にはなかなか難しいですね・・・

No.2767 2007/08/09(Thu) 21:18:54

Re: 創世記26章 / 昌夫 引用

1コリント13章は「愛の章」と呼ばれ、キリスト者にとって一番大切な神の愛について書かれています。特に4−7節に、神の愛が描かれています。これは、人間には難しいのではなく、生まれつきの愛する能力では持つことが不可能な愛だと思います。信仰によって自分の中に入っていただいたイエスに、神と自分のまわりの人々をこの神の愛で愛していただくこと、これが、キリスト者の究極の目標だと信じています。

7節でイサクに起こったことは、12章10−20節と20章でアブラハムに起こったこととよく似ています。神は同じような型を、何回も歴史の中で使われます。

No.2768 2007/08/10(Fri) 01:13:34

再創世記26章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度創世記26章を読みます。

1節に、
さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国にまたききんがあった。それでイサクはゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。
とあるが、ききんとは歴史でならったけれど、食糧難みたいなものだったかな?

5節の
これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったからである。」
が印象に残りました。

24節の
主はその夜、彼に現れて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、貴方の子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」
が印象に残りました。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒13章11―15節を読みます。
天におられるお父様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると11節が気になるので、これをもうなどか読みます。
主の御怒りをかうと相当の困難に陥ります。主を恐れ、主を信じて歩んでいきたいですね・・・

No.2769 2007/08/10(Fri) 11:20:36

Re: 創世記26章 / 昌夫 引用

1節のききんとは、農作物のできがとても悪くて、食料難におちいることです。カナンの地には、雨季以外には水の流れない川しかありませんでした。それで、チグリス・ユーフラテス川のあったメソポタミアや、ナイル川のあったエジプトと異なり、カナンでは雨が降らないと、ききんがすぐに起きました。

No.2770 2007/08/10(Fri) 12:36:01
創世記25章残り / 沙耶香 引用

今日は創世記25章残りを読みます。

21節の
イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。
が印象に残りました。

22節に
子供達が彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」といった。そして主のみこころを求めに行った。
とあったので、これはふたごではないかな?と感じていたら、24節に
出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。
とある。

26節の
そのあとで弟が出てきたが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、60歳であった。
が印象に残りました。60歳で双子を生むなんて素晴らしいですね・・・

31節に
するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。
とありますが、この時代は長子というものがかなりの権利を有したということだろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は1コリント12章1―5節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると3節が気になるのでこれをもう何度か読みます。
あまりよく分からないが、ま、主イエス様がすべての生き物の中の最高峰のお方だということは確かだ。

No.2762 2007/08/08(Wed) 22:31:35

Re: 創世記25章残り / 昌夫 引用

当時の中近東では、男の長子が父が亡くなったときに財産の多くの割合を受け継ぐことになっていたようです。

しかし、ここで、財産を受け継ぐよりももっと重要なのは、神の約束を受け継ぐことです。

神は、アブラハムに約束の地での子孫繁栄と祝福を約束されました。その約束は、アブラハムの長子のイサクが受け継ぎました。当時の習慣に従うなら、イサクの長子のエサウがこの約束を受け継ぐことになったと思います。ところが、ふたごが生まれたとき、主は弟のヤコブを選ばれました(23節)。

ヤコブが選ばれた理由は彼が素晴らしい良い人だったからではありません。ヤコブは、後の27章以降でよく分かるように嘘つきでした。しかし、彼は神と戦っても主の祝福を求める心を持っていました(後で32章24−31節に出てきます)。ヤコブが嘘をつく罪人であっても、神を信頼して神を求める人であったことを、神は喜ばれたと思います。これに対し、エサウは32−33節のように、長子の権利を一食のためにヤコブに売ってしまいました。34節にあるように、エサウが主の約束を受け継ぐ長子の権利を軽蔑していたことが分かります。それで、神は長子のエサウよりも、ヤコブを愛され、ヤコブを選ばれました。

約束の地をほとんど所有していないときに、主の約束は、エサウには、目の前の一食にも劣る夢物語に思えて軽蔑していたのでしょう。僕も45歳になるまでの長い間、キリストによる福音の約束を夢物語と思い軽蔑し、ひたすらこの世での名声やお金などを求めていました。エサウを笑ったりさばいたりすることは、僕にはできませんが、エサウのように主の約束を軽蔑することは、もう二度としたくありません。

No.2764 2007/08/09(Thu) 01:49:53

再創世記25章残り / 沙耶香 引用

牧師に、聖書の読み方をメールで相談してみるととても丁寧に色分けして返信返ってきました。お忙しいのに、とても嬉しいしとても感謝します。

今日は創世記25章残りをもう一度読みます。

うーん、私は33年間ずっと心のどこかで真の神様を求めてきました。でも、母の姉がカトリックの信者で、若いころから修道院で奉仕していて体調を崩し、病気になり何もできなくなったときに教会側は、冷たくあしらったことで、母がキリスト教不信になっていたので、絶対教会にはいけませんでした。
しかし、私はずっといじめられて閉じこもり精神疾患に陥り、そんな時に優しくしてくれる彼に知り合ったと思ったら、それが結婚詐欺だったので、騙され、もうCENSOREDしかないと思っていたときに、イエス様と知り合い、救いを求めて3年半経ちます。
多くの恵と祝福を受けましたし、教会に行くことはほかの人以上に私には特別なことなので・・・

23節に
すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」
とありますが、まさに預言ですね・・・

30節に
エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤いものを私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名は、エドムと呼ばれた。
とありますが、これはエサウがエドムと呼ばれたということだろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は、1コリント13章1―6節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべき男場をお語り下さい。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると5節が気になるのでこれをもう何度か読みます。
自分の利益を求めずに人の悪を思わず・・・何だかとても難しいですね・・・でもこれをきちんと守っているクリスチャンなんてほとんどいないですね・・・

No.2765 2007/08/09(Thu) 10:49:14

Re: 創世記25章残り / 昌夫 引用

30節の、「彼の名は、エドムと呼ばれた。」は、エサウの子孫がエドムという国を作るので、そのことをこのように表現しているのだろうと思います。エドムはイスラエルに敵対する国になります。

No.2766 2007/08/09(Thu) 12:54:46
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