[ 掲示板に戻る ]

過去ログ閲覧モード

創世記25章18節まで / 沙耶香 引用

今日は創世記25章18節までを読みます。

7節に
以上は、アブラハムの一生の年で、175年であった。
とあります。素晴らしい長生きです。

8節の
アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。
が印象に残りました。

17節に
以上はイシュマエルの生涯で、137年であった。彼は息絶えて死に、その民に加えられた。
とありますが、これもまた長寿で素晴らしいです。

18節に
イシュマエルの子孫は、ハビラから、エジプトに近い、アシュルへの道にあるシュルにわたって、住みつき、それぞれ自分のすべての兄弟たちに敵対して住んだ。
とありますが、自分のすべての兄弟たちに敵対して住んだって信仰的ではないですね・・・イエス様的でないです。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はエステル7章1―5節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると4節が気になるので、これをもう何度か読みます。
何度か4節を読んだけれど、あまり意味がわからない・

No.2750 2007/08/07(Tue) 20:33:03

Re: 創世記25章18節まで / 昌夫 引用

ディボーションですが、エステル記は歴史上の話なので、読んだことのない沙耶香さんが、エステル記のごく一部を読んでも、意味がわからないのは当然だと思います。

教会で指定された今週のディボーションの箇所で、新約聖書からの箇所や、旧約聖書ですでに読まれた詩篇や箴言や創世記からの箇所がありませんか?あれば、そこから毎日4−5節を選んで読むのが良いように思います。

機会があったら牧師に相談してみてください。

No.2755 2007/08/08(Wed) 06:22:03

再創世記25章18節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度創世記25章18節までを読みます。

うちの教会では、朝がコリント1、夜がエステルとヨブが出てます。本部のほうではルカが示されているようです。牧師にメールで相談しましたが、でも何だか難しいし面倒なので、なかなか返信こないと思います。
何だかよく分からない・・・

11節の
アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。イサクはベエル・ラハイ・ロイの近くに住みついた。
が印象に残りました。
アブラハムの死後イサクが祝福される・・・いいですね・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は1コリント11章1―5節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、3節が気になるので、これをもう何度か読みます。
やはりすべての生き物の頂点はイエス・キリストですよね・・・

No.2756 2007/08/08(Wed) 11:28:04

Re: 創世記25章18節まで / 昌夫 引用

牧師が指示をくださるまでは教会か本部でその週に示された箇所で、新約聖書からの箇所か、旧約聖書でもう沙耶香さんが読まれた箇所を4-5節選んでディボーションをされると良いように思います。

No.2760 2007/08/08(Wed) 13:11:40

Re: 創世記25章18節まで / 沙耶香 引用

指示をくれたけれど、通読状況がよく理解できていないというのもあり、何だか・・・一番どうすればよいのだろうか?イエス様お教えください。

No.2761 2007/08/08(Wed) 19:18:08

Re: 創世記25章18節まで / 昌夫 引用

神さまは牧師を通じてお導きくださることが多いですが、それは絶対にいつもそうだ、ということではありません。牧師を絶対視すると、牧師の背中しか見えなくなって、本当に絶対に正しい神が見えなくなってしまい、神と自分との直接の関係を深めることができなくなってしまいます。

今回のディボーションに関して牧師のくださった指示が、沙耶香さんの通読の状況をよくご存知でないために、少し御心からずれてしまっている、ということはありえると思います。できるだけ牧師の指示の背後にある「同じ教会の人たちが、聖書の同じ箇所を読んでディボーションをする」という考えを尊重しながら、自分の状況にあわせて最も良いと思える方法を祈りのなかで考えると良いと思います。

No.2763 2007/08/08(Wed) 22:57:15
創世記24章21節まで / 沙耶香 引用

今日は創世記24章21節までを読みます。

2節に
そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手をわたしのももの下に入れてくれ。
とあるが、これはどういう意味だろうか?手をわたしのもののしたに入れてくれ??

21節の
この人は、主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。

・・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒12章6―10節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると7,8節が気になるのでこれをもう何度か読みます。
御使い・・・不思議な生き物だ・・・まだまだ得体が知れない。

No.2726 2007/08/04(Sat) 21:00:03

再創世記24章21節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度創世記24章21節までを読みます。

7節に
私を、わたしの父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、「あなたの子孫にこの地を与える。」と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。
とあります。続く8節に
もし、その女があなたについてこようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。」
とあります。
この7,8節にあるあそことはどこのことだろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・・
今日は使徒12章11―15節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・・
何度か読んでいると15節が気になるので、これをもう何度か読みます。
私は精神疾患患者なため、実際にそうでも私の幻視、幻聴、被害妄想だといわれてしまうことが多い。牧師にもそういわれると悲しいです。私は精神疾患だけれど、幻視、幻聴、被害妄想という症状は出ないのです。そういう症状が出るのは統合失調症(分裂病)の人です。私は神経症なので、そういう症状はでないのです。
あーー、世間のみならず、教会の牧師にまで偏見で見られる・・悲しいなーー。

No.2728 2007/08/05(Sun) 07:11:11

Re: 創世記24章21節まで / 昌夫 引用

2節の「手をももの下に入れる」とは、手を生殖器の下に入れるということだったそうです。遺言を残すような、厳粛な誓約をするときに、このようにする習慣があったようです。

この最年長のしもべは、15章2節に出てきたエリエゼルだと思います。エリエゼルは、アブラハムに子どもが生まれなければ、財産を相続できたのに、相続人のイサクに真実を尽くしている忠実さが素晴らしいと思います。

7,8節にある「あそこ」は、アブラハムの出身地で親族が住んでいるハランのことです。

11節に井戸が出てきますが、創世記には井戸のところで男女が出会い、結婚がつながる、という型がこの後に何回か出てきます。ヨハネ4章4-42節でも神はこの型を使われたと思います。井戸のところで、イエスと女が出会い、イエスと教会の結婚につながっていきます。

No.2729 2007/08/05(Sun) 13:16:43

Re: 創世記24章21節まで / 沙耶香 引用

ふーん、15章の2節に出てきたエリエゼルなんてもう忘れていました。
??管理人様が書いてある、イエスと教会の結婚て何?

No.2733 2007/08/05(Sun) 21:52:19

Re: 創世記24章21節まで / 昌夫 引用

イエス・キリストと信仰者全体の集まりである教会は、キリストの再臨の後に結婚します。エペソ5章30-32節、黙示19章7−9節などを読んでみてください。黙示の「子羊」とは、キリストのことです。

No.2736 2007/08/06(Mon) 06:46:40

Re: 創世記24章21節まで / 沙耶香 引用

エペソ5章30―32節・・・
うん、キリストと教会とをさしていっているとあります。
黙示19章7―9節・・・
うん、読みました。
うーん?でもキリストの再臨の後に結婚するなんて書いていないと思うけれど・・・

No.2737 2007/08/06(Mon) 10:41:53

Re: 創世記24章21節まで / 昌夫 引用

>でもキリストの再臨の後に結婚するなんて書いていない。

確かに黙示19章を見ると、婚姻の方が再臨より先に書かれているのかもしれません。キリストの再臨の直後とその後について、何がどのような順番で起こるかは、聖書解釈の非常に難しいところで、信仰者の間でもさまざまな説があります。機会があったら牧師に聞いてみてください。

黙示19章6−9節に、キリストと教会の婚姻について書かれてあり、11−21節に、白い馬にのったキリストが来られう、諸国の民を打たれ、地上の王たちとその軍勢と戦われ、悪のにせ預言者と獣が地獄に投げ込まれることが書いてあります。

11節の白い馬に乗ってこられるところが、キリストの再臨とすると、6−9節に書かれた婚姻は、再臨の直前に行われるのかもしれません。しかし、6−9節には花嫁の用意ができたことを書いてあるのかもしれません。その場合は、婚姻は再臨の後に起こると考えて、矛盾はありません。

また、6節の、「われらの神である主は王となられた。」とあるのが、キリストの再臨のことであるかもしれません。その場合は、婚姻ははっきり再臨の後ということになると思います。

どちらにしても、いずれ信仰者の集まりである教会は、キリストと結婚するようにひとつになる、ということが、とても重要なことだと思います。旧約聖書では、まだ教会は存在しないし、キリストもまだ地上に人間としては来られていないので、イスラエルと神の結婚について書かれています。これから旧約聖書を読み進めていくときに、結婚ということに注目していると良いと思います。

No.2743 2007/08/06(Mon) 23:21:38

Re: 創世記24章21節まで / 沙耶香 引用

黙示19章6−9節、11−21節・・・
うーん、これだけ読んだだけでキリストの再臨と関係があるなんて全く気づかないです。白い馬に乗ってこられるというのが再臨だというのがまず気づかない。
何で直接的に分かりやすく書いていないのかな?
うーん、何だかとても難しいです。

No.2749 2007/08/07(Tue) 18:28:32

Re: 創世記24章21節まで / 昌夫 引用

>何で直接的に分かりやすく書いていないのかな?

知識を持つということは、必ずしも僕たち人間にとって良いことではないようです。何かの理由でまだ自分に用意ができていないときに、真理を聞くと、大きな問題が起こることがあります。例えば、僕はあるときに「何かの外に出た行い自体に良い悪いがあるのではなく、自分の心が神に向いているかどうかで、良い悪いが決まってくる。」ということが聖書に書いてあると確信しました。その知識は、僕は正しいと今も確信しています。でも、知識を持った直後は、自分の行いにとても不注意となり、大きな間違いを起こしてしまったことがあります。

イエスはマルコ4:33にあるように、それぞれの人の聞く力に応じて話してくださいます。マタイ13章13−15節で、イエスは人間の罪の性質のために、聞く力がなく、直接的ではないたとえ話などで神は語られます。これは、神の罪に対する罰であるとともに、罪の性質があるために聞く力が完全からは程遠い、僕たち人間のためのあわれみでもあると思います。

神が信仰者の罪の性質をだんだん取り除かれていくにつれ、信仰者の聞く力も増して、いろいろな知識が与えられます。このときに、一番注意したいのは、知識のためにおごって、自分の聖書解釈を絶対視してしまうことだと思います。聖書解釈であっても、神から少しでもずれたものを絶対視すると、僕たちは神から遠くずれていってしまいます。

No.2752 2007/08/07(Tue) 23:12:15

Re: 創世記24章21節まで / 沙耶香 引用

マルコ4:33・・・
うん、聞く力におおじて御言葉を話されたとあります。

マタイ13章13―15節・・・
読みました。

うーん、でも私なんかは例え話にすると全く意味不明です。聞き従おうにも意味不明だとどうにもならないです。

No.2759 2007/08/08(Wed) 11:44:52
創世記24章44節まで / 沙耶香 引用

今日牧師がうちの教会や教会の本部に与えられているディボーション個所を読みなさいと言っていたけれど・・・
うーん??でもディボーション個所なら朝と夜に一章ずつくらいだから、今よりペースが速くなり、私にはついていけない。そのことを言うと、合宿のとき、朝一章したじゃない?というから、あの時は4人でしたからできたのであって・・、一人じゃできないというと、イエス様と二人じゃない?というんだけれど・・・
なかなか難しい。あまり考えているとまた混乱してくるから・・・

今日は創世記24章44節までを読みます。

35節に
主は私の主人を大いに祝福されましたので、主人は富んでおります。主は羊や牛、銀や金、男女の奴隷、らくだやろばをお与えになりました。
が印象に残ったというか、この時代は主が奴隷を与えていたんだなーと感慨深いです。

40節の
すると主人は答えました。「私は主の前を歩んできた。その主が御使いをあなたといっしょに遣わし、あなたの旅を成功させてくださる。あなたは、私の親族、私の父の家族から、私の息子のために妻を迎えなければならない。
とありますが、何だか難しくてわけがわからないけれど、親戚縁者と結婚させたいのかな?

44節の
その人が私に、「どうぞお飲みください。私はあなたのらくだにも水を汲んであげましょう。」といったなら、その人こそ、主が私の主人の息子のために定められた妻でありますように。」
が印象に残りました。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒12章16―20節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・・
何度か読んでいると20節が気になるので、これをもう何度か読みます。

No.2732 2007/08/05(Sun) 21:46:33

再創世記24章44節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度創世記24章44節までを読みます。

32節に
それでその人は家の中に入った。らくだの荷は解かれ、らくだにはわらと飼料が与えられ、その人の足と、その従者たちの足を洗う水も与えられた。
とありますが、らくだがいるんだから砂漠だろうけれど、どこからどういう風に水が与えられたのか?

41節に
次のようなときは、あなたは私の誓いから解かれる。あなたが私の親族のところに行き、もしも彼らがあなたに娘を与えない場合、そのとき、あなたは私の誓いから解かれる。」
とあるが、これはどういう意味だろうか?今まで読んだところをきちんと覚えていたら分かるのかもしれないけれど、なかなか難しい。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒12章21―25節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると23節が気になるので、これをもう何度か読みます。
やっぱり何でも栄光は主に帰すことが大切だと語られたような気がします。
うまくいったら、自分を誇ったらいけない。主がおられるからだと思わないと・・・自分にも言い聞かせることが大切だが、私は残念ながら、あまり自分で誇るような材料を持ち合わせていないので・・・

No.2738 2007/08/06(Mon) 11:33:10

Re: 創世記24章44節まで / 昌夫 引用

ディボーションはとても大切だと思うし、基本的には、神さまは自分の教会の牧師を通して語られることが多いと思います。無理をするのはよくないと思うのですが、例えば、使徒のディボーションは少し休んで、教会に与えられているディボーションの箇所から、4−5節を選んで静かに読んでみる、ということも試してみると良いかもしれません。同じ教会の牧師や兄弟姉妹も聖書の同じ箇所を読んでおられるので、ディボーションで神さまが語られたと思うことを話し合う祝福が与えられるかもしれません。自分で考えるというより、神さまに祈りでどうすれば良いか聞いてみて、その答えを聞くために考えるようにすると良いかと思います。

どうか神さまが沙耶香さんのディボーションをお導きくださいますように。

32節の水は井戸からくんできてあったのだと思います。

35節、当時は奴隷も主が与えられました。当時に奴隷という身分が存在したこと自体が悪いのではなく、ほとんどの主人は、奴隷を自分勝手な思いのために悪用したことが悪いのだと思います。神さまは僕たちがイエスの奴隷になることを喜んでくださるので、奴隷という身分の存在自体が悪であるという考え方をすると、おかしなことになっていくと思います。悪は人間の罪という別のところにあります。

40節で、沙耶香さんの書かれたようにアブラハムは、イサクが、ハランに住む自分の親族から妻を与えられることを望んでいます。

41節は、エリエゼルのアブラハムとの誓いの8節のところをエリエゼルが親族たちに説明しています。親族がイサクに妻を与えない場合は、エリエゼルは、アブラハムとして誓いから解かれます。その場合は、エリエゼルはハランでいつまでもイサクの嫁を捜し求めるのではなく、アブラハムの所に帰ることができます。アブラハムは、自分の望みが神にかなえられない場合に、エリエゼルが困らないように配慮して、8節のように言ったと思います。

No.2744 2007/08/06(Mon) 23:52:37

Re: 創世記24章44節まで / 沙耶香 引用

うーん、祈りで神様に聞いてみる・・・うん、そうですね・・・焦って決める必要ないです。そうですね・・・教会の兄弟姉妹、牧師も同じ個所を読んでいるだから、そう考えると牧師と一緒の個所を読めると思うだけで心が満たされます・・・
うーん??あまり考えているとわけがわからなくなります・・・神様一番私に最適な聖書の読み方を教えてください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・

砂漠でも井戸はあるの?砂漠でも家もあるんだ??何だか外国のことは今一把握できない。

いや、でも人間に奴隷を与えると人間は罪人なので、やはりろくな考えにならないと思います。

うーん、何だかいろいろと難しいですね・・・ただでさえ読解力がないのに、いろんな関連個所が出てくるともう何が何だか分からない・・・

No.2748 2007/08/07(Tue) 12:48:49

Re: 創世記24章44節まで / 昌夫 引用

ハランのあたりはユーフラテス川の近くで砂漠ではないと思います。近くにアラビヤの砂漠があるので、らくだを飼っていたのだと思います。

聖書は無限の神の知恵が書いてあるので、一回目に読んで、全てのことがよく分かるという人はいないと思います。一回目の通読で分かるべきことは、分かりやすく示していただけるように祈りながら読んでいけば心配いりません。わけが分からないところは、今は気にしないほうが良いと思います。

No.2753 2007/08/07(Tue) 23:20:29

Re: 創世記24章44節まで / 沙耶香 引用

うん、まだまだ理解できないけれど、それにめげずに読み続けます。

No.2758 2007/08/08(Wed) 11:31:45
創世記24章残り / 沙耶香 引用

今日は創世記24章残りを読みます。

62節に
そのとき、イサクは、ベエル・ラハイ・ロイ地方から帰ってきていた。彼はネゲブの地に住んでいたのである。
とありますが、ベエル・ラハイ・ロイ地方ってどこだろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒13章1―5節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、2,3節が気になるので、これをもう何度か読みます。
イエス様に仕えていると折をみて、聖霊が語ってくださいます。だからイエス様を信頼していつも見上げていなさいと語られたような気がします。

No.2740 2007/08/06(Mon) 20:46:56

Re: 創世記24章残り / 昌夫 引用

62節のベエル・ラハイ・ロイは、16章14節に説明があります。詳しい位置は不明ですが、聖書でエジプト川と呼ばれる約束の地の南の端にある川のあたりにあったようです。

No.2745 2007/08/06(Mon) 23:57:20

再創世記24章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度創世記24章残りを読みます。

16章14節・・・カデシュとべレデの間にあると書いてあります。

47節に
私が尋ねて、「あなたはどなたの娘さんですか。」と言いますと、「ミルカがナホルに生んだ子ベトエルの娘です。」と答えられました。そこで私は彼女の鼻に飾り輪をつけ、彼女の腕に腕輪をはめました。
とあるが、鼻に飾り輪をつけるなんてあまり聞いたことないというか全く聞いたことないけれど、どういう風にするのだろうか?

あーーお腹がたまらなく痛い。イエス様どうかお腹が痛いのを癒してください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・

62節に
そのとき、イサクは、ベエル・ラハイ・ロイ地方から帰ってきていた。彼はネゲブの地に住んでいたのである。
とありますが、聖書にはよくネゲブって出てきまね・・・賛美歌にも時々出てきます。

67節の
イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは、母のなきあと、慰めを得た。
が印象に残りました。特に母の亡き後、慰めを得た。というところが・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒13章6―10節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると10節が気になるので、これをもう何度か読みます。
やっぱり、いずれはよこしまな人や悪魔や悪いことをしている人は主に裁かれます。最後の審判で主が下される判断が一番正しいのです。そのときに後悔しないような生き方をしないと・・・

No.2747 2007/08/07(Tue) 12:35:32

Re: 創世記24章残り / 昌夫 引用

どうか沙耶香さんのお腹が痛いのを癒してくださいませ。

47節の鼻輪は、現代のアメリカ女性が鼻にしていることがあるピアスのような小さいものか、もっと大きいものか、僕は全く分かりません。

62節のネゲブは死海の西のあたりから、アカバ湾のあたりまで、ツィンの荒野とパランの荒野を含むようです。ネゲブは荒野で有名ですが、アカバ湾にあるエツヨン・ゲベルは荒野にはなくて港町です。

No.2754 2007/08/08(Wed) 06:10:23

Re: 創世記24章残り / 沙耶香 引用

何だか難しいですね・・・海外のことなんて全く分からないです・・・

No.2757 2007/08/08(Wed) 11:30:01
自由の律法 / まこと 引用

昌夫さん。

#2735に対するレスです。

>僕が今まで、信仰を持つ前にしてきた大きな罪の数々
>や信仰を持ってからも、知らないでしてしまった神の
>忌み嫌われる行いや知って行った罪について、全て償
>いの行いをしたわけではないけれど、償いの行いをし
>ていないこと自体が罪ではないか、と思うことがあり
>ます。

一連の会話で、このような返信を昌夫さんの内から引き出してしまったことに、少なからず、申し訳なさを感じています。 

私は、これまで昌夫さんの理論構築の基本について批判してきました。しかし、上のような個人的な事柄にまで及んで、昌夫さんの人格を批判しようなどとは、全く考えてませんでした。また、昌夫さんの一連のお考えが、そのような事柄に関連して語られていることを、私としては想像することも無く、結果、そのことをまったく無視してしまいました。

その配慮のなさについて、一言お詫びしたいです。
すみませんでした。

私自身について言えば、私は、夢うつつで、ある幻(まぼろし)を見たことがあります。 私の手には、フレームに入った一枚の写真がありました。 そこには2人の人の顔が映っていました。 一人は愛らしい女性。 もう一人は、自分です。 

しかし、その自分の側の人物の顔は、ぞっとするような、人間の者とは思えない邪悪な目つきをした、どす黒い顔が映っていました。 それが、私自身が自分自身の姿に投影したイメージだったのです。 私は、その日一日、鬱に陥りました。 

「どうして自分はこんな大人になってしまったのか」「若い頃に、どうしてもっと神さまを大切にする生き方が出来なかったのか?」「自分自身がおぞましい!」

やり場の無い激しい怒りと、自己嫌悪。それは、私の、私自身の罪人としての姿の投影だったのだと、私は、はっきりと覚えています。

しかし、その鬱状態、自己嫌悪、そして怒りに救いをもたらしたのは、やはり、神さまの恵みでした。

「わたしは、あなたを愛している。あなたが自分についてどう思おうと、それはゼッタイに変わらない。大丈夫だ。しっかりしなさい。立ちあがりなさい。」という、神のみ声でした。

昌夫さん・・・。

私たちに、本当に「絶対的な律法」があるのだとしたら、つまり、本当に自分自身について如何に理解するかに対する「明らかな絶対的な基準」があるとするなら、それは、私たちが主イエスの愛によって包まれており、救われており、神に赦されており、義と認められているという、そのことでは無いのでしょうか?

それこそが、真の、絶対的な、自由の律法なのでは無いのでしょうか。

その絶対的な律法から、目を離さないでください。

No.2739 2007/08/06(Mon) 12:22:55

Re: 自由の律法 / Aja 引用

昌夫さん、まことさん、お二人の真剣なやりとりによって神さまのあわれみを私自身も感じることができたことに感謝します。

律法によって罪は明らかにされますが、恵みもまたそこに満ち溢れる、ということを知りたいです。

自由をもたらす完全な律法、をひたすら見つめ続けていきたいですね…。

No.2741 2007/08/06(Mon) 22:35:31

Re: 自由の律法 / 昌夫 引用

まことさんが、あやまってくださったことに感謝します。

まことさんの鬱状態と自己嫌悪から愛の声をかけて救い出された神さまの慈しみとあわれみの深い聖なる愛を賛美して感謝します。パウロがローマ7:24−25で書いた、自分に対する絶望と主イエス・キリストによる救いと同じことだな、と思いました。

どうか、神さまが、まことさんとAjaさんと沙耶香さんと僕が、自分のみじめな状態を振り返るのではなく、前にあるキリストの愛と救いから絶対に目を離さないようにしてくださいませ。

僕の場合、イエスに近づいていく道は、論理を力のかぎりおしすすめて理性的な罪や汚れや罰についての知識を深めることも、含まれていると信じています。そういうことを深く知識として知らなければ、僕はイエスの恵みと愛と赦しを心から深く理解することができないと感じます。多くの人は、このようではないけれど、僕はそのように造られています。そのためには、まことさんのように、考え方も感じ方も僕と全く違いながら、意見交換できるキリスト者がおられることは、大きな祝福であり、神さまに感謝します。

No.2742 2007/08/06(Mon) 22:42:46

Re: 自由の律法 / まこと 引用

まさおさん。

>僕の場合、イエスに近づいていく道は、論理を力の
>かぎりおしすすめて理性的な罪や汚れや罰につい
>ての知識を深めることも、含まれていると信じて
>います。そういうことを深く知識として知らなけれ
>ば、僕はイエスの恵みと愛と赦しを心から深く理解
>することができないと感じます。

「罪」・・・。

この言葉の意味を、私たちは色々と考える訳です。ですが、罪とは、それ自体、私たちの想像を絶した深みを持っているように思います。

神が、無限に深遠な知識をお持ちであり、その知識を人間が完全に知ることなどできはしないのと同様に、罪の本当の意味もまた、無限に深遠(深刻)な事柄なのだと、そう感じます。

昌夫さんの探求の先には、結局、「人間には及びもつかないことなのだな」という、罪への絶望と、神への驚嘆があるのかも知れませんね。

私は今月から、神学を学びに、大学院へ行きます。が、私が自分自身に望んでいることは、実のところ、その学びを通して人間の知識がいかに神の前に小さいものであるかを理解することです。 

20年前に洗礼を受けたあの時。

自分が罪人であること。イエスがそのために十字架にかかられたこと。 その二つの事柄に対して心と魂が呼応して、少年ながら、涙を流して「ごめんなさい」と神に祈ったあの時。その、単純だけれども、純粋な悔い改めという原点。 色々な学びがあっても、色々な考えがあっても、人はその「原点」へと立ち返らされるような気がしています。

No.2746 2007/08/07(Tue) 12:29:45

Re: 自由の律法 / 昌夫 引用

どうか神さまがまことさんの大学院での神学の学びを大いに祝福し、人間の知識が神の前にどんなに小さいものであるかをより深く実感させてください。その祝福を通して、まことさんに関わる全ての人々を、大いに祝福してくださいませ。

神学を学んでいろいろな確信を持っても、それが絶対で無限の神の知恵の前には、すぐ消し飛んでしまうほどのものであることを知ることは大きな祝福であると思います。

No.2751 2007/08/07(Tue) 22:53:29
罪と汚れについて / 昌夫 引用

罪と汚れについて少し考えてみました。断言したところは、自分としては確信しているが、自分は人間なので、その確信を絶対視しているわけではない、と理解してください。

モーセの律法によると、罪を犯すと汚れることが分かります。しかし罪を犯さなくとも汚れることもあります。女性が子どもを産むと汚れますが、「生めよ、ふえよ」と言われた神が、女性が子どもを産むことを罪と定められることはないと思います。だから罪とか血とか、生命に関わることに人間が関わったときに、汚れるということだと思います。

モーセの律法では、罪には軽い罪と重い罪があり、それに対応する罰にも軽重があります。汚れも、清めるために時間がたてば良いだけの場合と、いけにえが必要である場合があり、軽い汚れと重い汚れがあるようです。しかし、汚れに対応する罰は、「神の前に出ることができない」ということです。白と黒しかありません。

詩篇51篇と第2サムエル12:13を読むと、ダビデが悔い改めて、信仰によって姦淫の罪を赦されたことが分かります。ところが、第2サムエル12:11を読むと、彼の姦淫の罪に対する罰はくだされます。

これらのことから、「罪の赦し」とは、罪の罰を全く受けないで良いということではなく、罪を犯しても、汚れを取り除いて、神の御前に出て、神と関係をつづけることを許される、という意味だと考えてみたいと思います。

キリストを信じる者は、罪を犯しても、恵みによって汚れを取り除いていただける。汚れがないので、神の御前に出て、神と関係を持つことができる。いのちの根源である神との関係を絶たれる霊的に死をまぬがれます。信仰者は、汚れに関しては、どんな罪人でも白と判定される。黒になることがない。

創世記2章17節で、神が言われたように、知識の木から取って食べたその時に、アダムとエバは汚れて、肉体は生きていても、霊的には死んでしまった。それで、3章8節にあるように、神の御顔を避けなければならないようになった。彼らは汚れて霊的に死んだだけでなく、罪の結果としての罰として、創世記3:16−19にある苦しみを受けることになった。

まことさんが、No.2711で引用されたレビ8章で、24節で「これらのどれによっても、身を汚してはならない。」とありますが、「これらのどれによっても」ということが大切だと思います。もしも神が「あなたが、汚れる行為をすると罪になるので、身を汚してはならない。」と言われたら、女性が子どもを産む行為も罪となり、罪を犯さずに「生めよ。ふえよ。」の命令に従うことが不可能になります。汚れるような行為をすることが罪なのではなく、罪の行為をするから汚れます。だから、神は罪の行為をして汚れることがないように命令されました。

以上からアダムとエバの息子たちが、姉妹と結婚して、身を汚したかもしれないが、身を汚したとしてもそれは罪ではなかったと考えます。神が与えられた状況で、神に聞き従う唯一つの行為を行えば、汚れるとしても、それは罪の行為ではない。これは、女性が子どもを産んで汚れても、産む行為が罪でないのと同じような理由だと思います。

No.2720 2007/08/04(Sat) 02:27:18

Re: 罪と汚れについて / 沙耶香 引用

こういう系統は私には関係なく、まことさんと管理人様でやり取りしていると思っていたけれど、ちょっと私も横レスします。

詩篇51篇と第2サムエル12:13・・・
読みました。
罪を犯したら、その罪に対しての罰は受けるが許されて、神様との関係が絶たれない・・・何だか難しいですね・・・

>>汚れるような行為をすることが罪なのではなく、罪の行為をするから汚れます。だから、神は罪の行為をして汚れることがないように命令されました。

・・・うーん、何だか難しいですね・・・

アダムとエバの息子たちが、姉妹と結婚して、身を汚したかもしれないが、身を汚したとしてもそれは罪ではなかったと考えます。神が与えられた状況で、神に聞き従う唯一つの行為を行えば、汚れるとしても、それは罪の行為ではない。これは、女性が子どもを産んで汚れても、産む行為が罪でないのと同じような理由だと思います。

・・・うーん、これも難しいですね・・・???

No.2724 2007/08/04(Sat) 12:02:20

Re: 罪と汚れについて / まこと 引用

昌夫さんのご投稿を拝読していて、すごく心配になってきました。

昌夫さんのお考えの中には、すでに「アダムとエバの子供達の近親結婚は罪ではなかった」ことを証明したいという、という意図が先立っているように見えるからです。そのために、汚れとは何か、ということで聖書のあちらこちらから情報を集め、最初に証明したいと思った結論になんとか結び付けようとする。 私にはそのように見えてなりません。

これは私の経験上申し上げることですが、そのような命題先取的な考え方をしていると、かえってアタマが混乱して理論破綻する結果になることが多いです。

?@汚れることは、罪を犯すこととイコールではない。
?Aよって、レビ18で、「汚れてはいけない」と神が仰ったのは、「罪を犯してはいけない」ということとイコールではない。
?Bとすると、レビ18で禁じられている近親結婚は、単に身が汚れるだけで、罪ではない。

このロジック、本当に聖書に基づいていますか?

レビ18では、神は、近親結婚を「忌み嫌って」います。「神の忌み嫌うことを、行うこと」は、神の前に罪にならないのか。この単純・直接的な問いにまず答えるべきでは?と思うのですが。

また、上記?@〜?Bのロジックをレビ18:20に当てはめると、「隣人の妻との性交渉」は、単に身が汚れるだけであって、罪ではないことになります。「姦淫してはならない」という十戒に、反しますが、それはOKなのですか?

No.2725 2007/08/04(Sat) 15:16:52

Re: 罪と汚れについて / まこと 引用

ご参考までに、私の考えを少し書き加えたいと思います。(少し前に投稿した内容を、簡潔にしてあります。前文は、私のブログにでも掲載しておきます)

>女性が子どもを産む行為も罪となり、罪を犯さずに
>「生めよ。ふえよ。」の命令に従うことが不可能に
>なります。

この、「アダムとエバの子供達は近親結婚をしなければ子孫を残すことが出来なかったのだから、近親結婚は、当時、彼らにとって罪ではなかった」という考えが、私には以前から気になっていました。

その考えが少しまとまったので、書いておこうと思います。

「生めよ、増えよ、地を満たせ」という命令は、アダムとエバの2人に対して、エデンの園において、与えられたものです。  神は、人を、「選択の余地無く罪を犯さざるを得ない状況」におかれることは無いのですから、アダムとイブは、エデンの園に住んでいる以上、「生めよ、増えよ、地を満たせ」という神の命令を、罪を犯すこと無く達成することが出来たはずです。

しかしながら、そのような、神の御心を罪を犯すことなく達成できるその状態を、アダムとエバは自らの罪の故に失います。すなわち、エデンの園からの追放です。 

エデンの園を追放された彼らは、「生めよ、増えよ、地を満たせ」という神の命令に、罪を犯さねば従えなくなってしまうような状態を、自らの手で、自らに招いてしまったのです。

そう考えるならば、アダムとエバの子供達が近親結婚しなければ子孫を残せないような状況に立たされたのは、神が誘惑したからではなく、アダムとエバの罪のためであった訳です。

以上から、私は、「アダムとエバの子供達は近親結婚をしなければ子孫を残すことが出来なかった。それは神がそうしたのだ。だから、彼らにとって近親結婚は罪ではないはずだ」という考えは、実質的には、アダムとエバの罪の結果を、実は神の責任であるとする「責任転換」ではないのか?と思えてしまうのです。 そして、その責任転換を根拠に、神の定めた聖なる律法に関する例外を、人間の側であれこれ決めてしまう。

神に対する責任転換と、神の律法の自由な解釈の許容。

これらは、アダムとイブが陥った罪と、本質を同じくするものではないか?

「あなたが私のそばに置かれたこの女が・・・」創世記3:12。

No.2727 2007/08/05(Sun) 06:48:18

Re: 罪と汚れについて / 昌夫 引用

まず、罪と汚れと恵みについて、もう少し考えを進めておきます。信仰を持って生まれ変わった人は、恵みによって罪も汚れもない状態になると思います。信仰を持ち続ける限り、キリストの血によって汚れは清められるので、信仰者は、汚れることがなく、罪を犯してもいつでも神の御前に大胆に出ることができると思います。そして、信仰者はどんな罪  人も地獄に行くさばきを受けることはありません。これに対し、信仰者が罪を犯すと、その罰として、良い行いの報いから、引かれてしまうと考えます。たとえば、第1コリント3:10-15は、キリストを土台にした良い仕事も罪の要素の混じったものであれば、その分は天の御国での報いから差し引かれることが書いてあると思います。

次にまことさんのNo.2727ですが、両親が犯した罪の結果として、子どもが罰を受けて罪を犯さないことが非常にこの世的に困難になる、ということがありえることは、聖書の教えに整合的だと思います。しかし、まことさんのお考えのように、両親であるアダムとイブの罪によって、子どもが、どのような選択をしても罪を犯すような状態に陥るというのは、第1コリント10:13、エレミヤ31:29-30に明らかに反すると思います。いろいろな苦しみや困難は人間の罪が原因ですが、善であり、全知全能である神が、一人の人間が罪を犯さざるを得ない状況に置くことはありえない、というのは、僕の持つかなり根本的なところでの神のイメージにかかわることです。アダムとエバの息子たちが姉妹と結婚した行為は罪ではなかったということは、No.2705に書いた論理的理由から、僕は確信しています。

>近親結婚を「忌み嫌って」います。「神の忌み嫌うことを、行うこと」は、神の前に罪にならないのか。この単純・直接的な問いにまず答えるべきでは?と思うのですが。

このことを考えるために、神の忌み嫌うこととして、「神はいない」と発言する行為を考えてみます。「わたしはある」と言われる神を侮辱する、神の忌み嫌うことだと思います。神を憎むよりも、神を無視する高慢さは、神の忌み嫌われることのように思います。しかし、僕は詩篇14:1を声に出して読めば罪になるとは思いません。「神はいない」と発言するという同じ行為でも、その行為の背後にある心によって、罪であるかどうかが決まってきます。

姦淫を「結婚していない男女が性交渉する」行為とします。姦淫の罪はモーセの律法では石打ちによる死罪です。申命記22:23-27によると、ある状況での女性の姦淫の行為は、町で行われたか、野で行われたか、町であれば、彼女が叫んだか、叫ばなかったかで、罪であったりなかったりします。

また、ルカ12:46−48では、同じ行為でも人の知識によって罰の軽重が決まってきていることが分かると思います。罪であるかないかについても同じ原理があると考えて良いと思います。

人は外に現れた行為を重視しますが、神が心を重視されることは、聖書全体の重要なメッセージであると思います。神が罪を決められる絶対的基準が外に出てきた行いにはなく、心にあっても、それほど驚くにはあたらないのではないでしょうか。神が行為が罪であるかどうかを心を見て決められるなら、神がその人の持つ知識、どのように他人の罪を非難してきたか、その人はどのような状況にあるかなど、全てを考慮に入れられて当然と思います。

No.2730 2007/08/05(Sun) 14:35:18

Re: 罪と汚れについて / Aja 引用

ずっと興味深く読ませていただいていました。
何が「罪」かというのは考えれば考えるほど混乱してわからなくなっていきますね。
私としては、アダムの息子たちが近親結婚したことが罪かどうかということは今まであまり深く考えていなかったです。
人が罪だと知りながら犯そうが、知らずに罪を犯そうが、どちらにしても神さまの前で罪である、と思います。
でも同じ行為でも、それが罪になったりならなかったりすることがあるというのも事実ですね。
申命記22章の箇所では、もし男女ともが、状況を無視して姦淫の罪とされるなら、むりやりに乱暴された女性まで罪とされるのはやはり納得がいかないので、この場合女性が罪とされないのは「義」だと思いました。

1テモテ1章13節の聖句を思い出しました。
 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

知らないで犯したならゆるされるとか、時代や状況によりゆるされるとか、そういうことを超えてただ神さまのあわれみを深く知りたいと思いました。

No.2731 2007/08/05(Sun) 21:16:18

そう!そこです!!! \(^0^)/ / まこと 引用

Ajaさん、こんにちは。

>知らないで犯したならゆるされるとか、
>時代や状況によりゆるされるとか、
>そういうことを超えてただ神さまのあわれみを深く
>知りたいと思いました。

YES!!

私が、お伝えしいとがんばってきたのは、まさに、そのコトです。

私は、アダムとエバの子供達が子孫を残すために近親結婚をしたことが、罪であったかどうかを証明することには、興味は無いんです。 と言うか、そんなことは私には出来ないんです。最初から。

むしろ、そのような「理論的な結論」を出そうとしてがんばるあまり、「知らないで犯したならゆるされるとか、時代や状況によりゆるされるとか、そういうこと」について人間の側での解釈に振り回された挙句、「神さまのあわれみを深く知」ることから遠ざかってしまうことを、懸念しています。 エバの犯した罪は、まさに、そのようなものだったからです。

その場合、律法について、明確な規定の廃棄事実が無いのに、それを時と場合によっての適用範囲を変えても良いという基本を出発点とし、その基本を維持するために、律法はもとより、聖書を解釈してゆこうとする。そのような「考え方の基本姿勢」に、私は、とても大きな問題を感じてきました。

そのため、そうではない、律法を神の絶対的なみこころを知るための指標として位置づけるという立場から物事を考えた場合はどうなるか、と言う事について色々と意見してきました。

パウロは、律法を聖なるものとしました。

その律法によって、自分が、神の前にはどうあがいても罪人でしかないのだということが示され、彼は徹底的な自己否定と、律法を守り行うということに対する挫折とを経験したことでしょう。 しかし、その自己否定と挫折にあってこそ、神は、キリストの福音、すなわち「行いによらない、信仰による救い」をくださった。それが、パウロの福音のエッセンスだと思います。 

しかし、この救いは、パウロが自分自身の罪について律法をあれこれ解釈することによって、「時と場合によって自分は罪人では無い可能性があるのだ」ということを何とかして証明しようとしている内は、決して訪れ無かったことでしょう・・・。

イエスキリストの福音は、自分が義人である可能性を探索しているうちは、人に訪れません。むしろ、自分が自らの行いについて義人である可能性を徹底して否定した暗黒の中に、光り輝きます。


以下、昌夫さんに対するレスです。

>神が心を重視される

だからこそ、何か特定の行為が罪であることをきちんと認めることが重要になってくる場合があるんじゃないでしょうか? 人は、自らの心について完全に理解していると思われますか? 私は、自分の「心」について一番理解できていないのは、実は自分自身である場合が しばしば あると思います。 

人は、自分の行動によって、自分の心の本当の姿を知るのです。 人は、自分が律法に反した行いをすることによって、さらに、律法に反する行いをあえてしようとするむさぼりが自らのうちに引き起こされることを認識することによって、自らに罪が内在していることを確かに知るのです。 

昌夫さんの仰るとおり、心の状態によって、行いの本質が決められる場合もあります。 ですが、逆に、行いの状態によって、心の本質が探られる場合もある訳です。

いずれにせよ、

>アダムとエバの息子たちが姉妹と結婚した行為は罪で
>はなかったということは、No.2705に書いた論理的理
>由から、僕は確信しています。

と、理論的理由によって「確信している」と、昌夫さんが仰られている以上、私にはもう何も申し上げることはありません。 上の確信に基づくならば、アブラハムの近親結婚も、罪ではなかったのでしょうネ。

ただ、最後に一言申し上げるなら、きわめて特異的な例外において「証明」された事柄を、一般的・普遍的な事柄へと適用するのは、実は理論的で無いのでは?と私は感じます。

No.2734 2007/08/05(Sun) 22:57:24

Re: 罪と汚れについて / 昌夫 引用

Ajaさん、こんにちは。

どうか、掲示板を読む全ての人々が、自分の思い込みや罪の誘惑に支配されず、それぞれに最も適した方法で、神のあわれみをより深く知ることができますように。そのために、この掲示板の意見交換で罪と汚れについてもっと深く知るべき人は、知ることができますように、お導きください。

まことさん、

>きわめて特異的な例外において「証明」された事柄を、一般的・普遍的な事柄へと適用するのは、実は理論的で無いのでは?

確かに、特殊なことがらで明らかになったことを、すぐに普遍的な事柄に適用するのは論理的ではありません。反対に、イエスのたとえ話のように、特殊な例で明らかになったことから、普遍的な真理を悟ることを神が望まれている場合もあります。何か特殊な例で明らかにされたことがあったら、そのことが、例外であるか、普遍的な真理であるか、ということを、聖書によって調べていくことが重要だと思います。

食肉については、心の状態によって外から見て同じ行為が罪になったり罪にならなかったりすることは明らかです。これが「外に現れた特定の行いが罪になる」という原則の特殊な例外であるか、あるいは、「心の状態によって、外面的に同じ行為も罪であるかどうか神が決められる」という普遍的な原則があるのか、聖書で調べないと、結論はできないと思います。それで、自分の思い込みに支配されないように祈りながら、食肉以外の、他の罪についても調べてみる必要があります。僕は、CENSORED、姦淫、殺人の行いについて、外面的な行為そのものが罪とされるのではない、と考えると、聖書のいろいろな記述が矛盾なく理解できるということを説明してきました。

さらに、離婚という行為を考えると、モーセの律法では、離婚状を渡して妻を離別するように命じて今す。この聖なる律法の規定に心から聞き従えば、離婚をしても罪の行いにはならなかった信じます。しかし、神がひとつにされた夫婦が離婚することは、神の忌み嫌われる行為であることを、イエスがマタイ19章3-7ではっきり説明されています。このように食肉に関して明らかにされたことは、他の罪にもあてはまる普遍的な原則をさし示していると思います。

外面的な行いを神の絶対的基準として重視すると、罪を犯したくないと心から願っている限り、少なくとも僕のような罪深い信仰者はとても苦しい状態に陥ります。僕はおいしいものを食べて、大きな家に住んで生活していますが、この行い自体、貧困に苦しんでいる多くの人たちのことを思うと、神の忌み嫌われる罪の行いではないか、と思うことがあります。僕が今まで、信仰を持つ前にしてきた大きな罪の数々や信仰を持ってからも、知らないでしてしまった神の忌み嫌われる行いや知って行った罪について、全て償いの行いをしたわけではないけれど、償いの行いをしていないこと自体が罪ではないか、と思うことがあります。でも、ゴルフのコーチが、スイングの全部を一度に完全にしろという不可能事を教えないでように、イエスも僕のすべての行いが完全になるという不可能事を教えておられないと信じています。僕は、自分の外面的な行いが、完全からほど遠いということをよく知りながら、イエスがその日に与えてくださる課題の行いをするかぎり、罪を犯しているわけではない、とうことも信じます。イスラエル人が、律法に従っているかぎり、離婚をしても罪ではなかったのと同じことだと思います。

No.2735 2007/08/06(Mon) 01:05:16
創世記22章 / 沙耶香 引用

今日は創世記22章を読みます。

2節の
神は仰せられた。「貴方の子、あなたの愛している一人子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
が印象に残りました。

6節に
アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手にとり、ふたりは一緒に進んでいった。
とあるが、何だか怖い話だ・・・

12節の
御使いは仰せられた。「貴方の手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分の一人子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
が印象に残りました。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒11章15―19節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、17,18節が気になるので、これをもう何度か読みます。
いのちにいたる悔い改めという言葉がとても印象に残りました。

No.2704 2007/08/02(Thu) 18:51:23

Re: 創世記22章 / 昌夫 引用

アブラハムはカナンの地を所有し、子孫が繁栄するという神の約束を信じて、親族のいたハランを出て、知らないカナンの地に出てきました。ところが、アブラハムは22章の時点でカナンの地を全く所有していなかったようです。

しかも妻のサラとの子どもはなかなか生まれなかったので、15章では奴隷のエリエゼルが跡取りになるのか、と思ったり、女奴隷のハガルとの間に子どもを作ったりしました。21章で、アブラハムが100歳のときに、ようやく待望のサラとの息子イサクが生まれ、神は、アブラハムにイサクが跡取りになることを約束されました。

ところが、神はそのようやく生まれた約束の子イサクをいけにえとしてCENSOREDようにアブラハムに命じられました。愛するひとり息子をCENSOREDとは、とても怖い話だし、一般常識的には、神が殺人の罪を犯すように命じられたように感じられます。

しかし信仰の深いアブラハムは、自分の理解できないことでも、ただ神に聞き従うことが絶対的に正しいことであることを知っていました。へブル書11章17−19節で、アブラハムは、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えた、とあります。

自分の考えや一般常識に反することを信じる試練を受けたとき、神が絶対的に善であることと、人を死者の中からよみがえらせるような全知全能の力を持っておあれることを信じることが大切であることが分かると思います。

No.2706 2007/08/03(Fri) 00:21:38

再創世記22章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度創世記22章を読みます。

うん、アブラハムは素晴らしい信仰です。私もそういう風になることが目標ですね・・・
でもこういうあらすじはなかなか読み取れないですね・・・訓練訓練・・・
・・・でも今の時代にこんなことを神様から言われて、自分の子供を捧げる人がいるのだろうか?

9節の
ふたりは神がアブラハムに告げられた場所につき、アブラハムはそのところに祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
が印象に残りました。

17,8節の
わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。
あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
が印象に残りました。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒11章20―24節までを読みます。
天におられるお父様神様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると20,21節が気になるので、これをもう何度か読みます。
やっぱり主イエス様のことを宣べ伝えるのには主の御手がともにあることが大切なのだと語られたような気がします。

No.2712 2007/08/03(Fri) 08:58:12

Re: 創世記22章 / 昌夫 引用

>うん、アブラハムは素晴らしい信仰です。

僕たち信仰者に素晴らしい信仰の父のアブラハムを与えてくださった神さまを賛美して感謝します。どうか僕たちに与えてくださった信仰もアブラハムのように深めてくださいませ。

>今の時代にこんなことを神様から言われて、自分の子供を捧げる人がいるのだろうか?

今の時代に、神さまが文字通りに子どもをいけにえに捧げるように言われることはないと信じます。アブラハムの時代には、子どものいけにえがカナンで多く行われていたそうです。そのことがこの試練の背景になっています。

僕たちがこの世の命を捨てないと、永遠の命を与えられないように、愛する子どもをある意味で捨てないと、本当に永遠の意味で子どもが与えられることはないと思います。生まれつきの愛で愛する子どもを永遠の愛で愛して子どもと主の愛でひとつになるためには、現代でも「子どもを心の中で捨てる」ことが必要になる、ということです。現代では「愛する子どもをある意味で捨てる」ための試練は、いけにえにするのではなく、全く違った形になると思います。たとえば、愛する子どもが家を出て大学の寮に入ったりすることを許すというようなことが試練になったり、悪いことをした愛する子を親として罰するような試練です。

へブル書11章17−19節で分かると思いますが、アブラハムがイサクをいけにえにしようと心に決め、イサクを取り戻したことは、イエスの十字架と復活の型になっています。イエスは十字架で僕たちの罪のためのいけにえとなって死なれ、3日目に復活しました。神がアブラハムにイサクをいけにえとするように言われてとき、イサクはアブラハムの心の中で死んだと思います。22章4節にあるように、アブラハムがイサクを死から取り戻したのは3日目でした。

No.2714 2007/08/03(Fri) 21:51:38

Re: 創世記22章 / 沙耶香 引用

ヘブル11章17―19節・・・・
読みました。うん、22章4節で三日目と書いてあります。そういう型なんですかね?

No.2723 2007/08/04(Sat) 11:35:13
創世記23章 / 沙耶香 引用

今日は創世記23章を読みます。

1節に
サラの一生、サラが生きた年数は、127年であった。
とあるが、かなり長生きですね・・・素晴らしいです。

6節に
「ご主人。私たちの言うことを聞き入れてください。あなたは私たちの間にあって、神のつかさです。私たちの最上の墓地に、亡くなられた方を葬る墓地を拒む者はおりません。」
とありますが、神のつかさとは何だろうか?うーん、今一分からない。

9節に
彼の畑地の端にある彼の所有のマクペラの洞穴を私に譲ってくれるようにしてください。彼があなたがたの間でその畑地に十分な値をつけて、私に私有の墓地として譲ってくれるようにしてください。」
とありますが、マクペラの洞穴って何だろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒11章25―30節を読みます。
天のお父様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると28節が気になるので、これをもう何度か読みます。
御霊による預言はかなり確かなものなのですね・・・

No.2713 2007/08/03(Fri) 19:01:19

Re: 創世記23章 / 昌夫 引用

マクペラというのは、地名です。そこにあったほら穴が、マクペラの洞穴です。19−20節にあるように、マクペラにはこの洞穴だけではなく、畑地もありました。

カナンの地に寄留していたアブラハムが約束の地の一部を初めて所有したのが、この墓地でした。サラだけでなく、後にアブラハム、イサク、彼の妻のリベカ、イサクの息子のヤコブ、彼の妻のレアもこの墓地に葬られます。また、ずっと後にダビデがイスラエルの王となるのが、この墓地のあるへブロンです。

No.2715 2007/08/03(Fri) 22:06:59

再創世記23章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度創世記23章を読みます。

ふーん、いろいろと関連があるのですね・・・

8節に
彼らに告げて言った。「死んだ者を私のところから移して葬ることが、あなたがたのおこころであれば、私の言うことを聞いて、ツォハルの子エフロンに交渉して、
とありますが、ツォハルって誰だろうか?今までに出てきたのかもしれないが、もう覚えていない。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒12章1―5節を読みます。
天におられるお父様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、5節が気になるので、これをもう何度か読みます。
教会での祈りは聞かれるというから・・・

No.2722 2007/08/04(Sat) 11:28:10
罪について / 昌夫 引用

まことさん、これは創世記20章のスレッドのNo.2697へのレスです。創世記20章から離れて、罪について、もう少し、まことさんのお考えをうかがいたいと願いますので、新しいレスをたてることにしました。

>私の意見として捉えてください。しかし、私の信ずるところ・理解するところ・経験したところのすべてを込めて書きました。

これはとても共感がもてます。僕も、聖書を読んだり経験したことから確信しながら、自分の確信を絶対視しないことが大切だと思っています。だから、僕が断定するときも、「こう確信しているが、絶対なのは神なので、これは自分の意見です。」という意味と解釈してください。よろしくお願いします。

>神のみこころに違反しているなら罪であり、違反していないなら罪ではない。・・・これが罪とそうでないもののを分類する基準です。 

ここの「みこころ」が、「天になるようなみこころ」という定義であるとして、全面的に同意します。神がある行為が罪であるかどうか決められます。

その上で、僕は、ある特定の行為が、絶対的にどのような時代でも状況でも罪になるということは、ないのではないか、と考えています。これは、確信ではないですが、90パーセントくらいそうであろうと思っています。

まことさんの言われるように、このような考えは、人間による悪用の大きな危険をはらんでいます。しかし、僕は「この考えは危険だから真理ではない。」ということは、論理的ではないと思います。真理のほとんど、あるいは、全部は、悪用するとき大きな危険をはらんでいると思うからです。

それで、「ある特定の行為が、絶対的に罪であることがあると聖書から証明できるか?」ということが僕のまことさんに聞きたいことです。

具体的にまず父の娘である姉妹との結婚する行為について質問します。僕はアダムとイブの息子たちは、ほぼ確実に、自分たちの姉妹と結婚したと考えています。そして、その結婚は罪でなかったと思います。まことさんはどう思われますか?

No.2699 2007/08/02(Thu) 02:24:59

Re: 罪について / まこと 引用

昌夫さん。(文字色を変えて投稿します)

>絶対なのは神なので、これは自分の意見です。

それはそうですが、それは自らの知性を尽くして聖書を読解して精一杯の正しい解釈を試みることが前提での話です。ですから聖書に根拠がない意見さえも、「これは自分の意見ですから」という理由で押し通すことは、できるだけ避けるように、私は努力します。

>それで、「ある特定の行為が、絶対的に罪であること
>があると聖書から証明できるか?」ということが僕の
>まことさんに聞きたいことです。

結論から言えば、それは「できません」。

「絶対的」と言った時点で、それは既に神の領域です。

私は神ではありません。

私として出来ることは、「既に書かれ、私たちに知らされている事柄」を手がかりに、今、神は私にどのような行動を望んでおられるかを知ろうと、努力することだけです。

その努力をする過程において、「罪とは何か?」という問題に直面するのは不可避な訳ですが、その際、「ある行為が罪であるかどうかを決定付けるための積極的・支配的な根拠として、律法が人間に知られていないということを用いる」のは、考え方として、基本的に間違っているのではないか? それは罪の本質について誤認を招くのではないか? ということを言いたかっただけです。

>具体的にまず父の娘である姉妹との結婚する行為につ
>いて質問します。僕はアダムとイブの息子たちは、
>ほぼ確実に、自分たちの姉妹と結婚したと考えていま
>す。そして、その結婚は罪でなかったと思います。
>まことさんはどう思われますか?

以前にも書いたように、ある一定の行為が罪であるか・無いかについて考える際、私は一つの原則として、

?@聖書のどこかに、それを明確に禁じている記述があるか?
?Aその禁じられた行為に関する規定は、他の箇所で明確に廃棄されているか?

という二つの事柄との照合を行います。

この場合、アダムとイブの息子たちが自分たちの姉妹と結婚したのであれば、それは、やはり、罪です。

むしろ、私としては、昌夫さんがどうして、アダムとイブの息子たちのことを取って、近親結婚が罪ではないとお考えになられるのか、それがなぜかわかりません。その根拠はどこにあるのでしょうか・・・。 アダムとイブの息子とたちだから、罪ではなくなるのですか? 良くわかりません。

いずれにせよ、この記事の冒頭にも書きましたように、私に「絶対的判断」はできません。私が問題視したのは、罪とは何か、また罪の行為とは何かを考える際の基本的考え方についてであって、近親結婚が絶対的に罪であったかどうかについて万人が認めるような答えを出すことには、あまり関心がありません。

絶対的な判断が出来ない以上、私の意見に対する反論は必ず可能です。その反論に対して逐一弁論するつもりも、ありません。

昌夫さんにとっては、ご不満が残る回答かもしれませんね。ご容赦ください・・・。

No.2703 2007/08/02(Thu) 13:10:29

Re: 罪について / 昌夫 引用

まことさん、回答をありがとうございます。

まず、アダムとイブの息子たちがCENSOREDしても罪にならなかったと考える根拠についてお答えします。まず僕の考える大前提として

1.息子たちは、創世記1章28節の「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」という神の命令に従わないと罪になった。

2.息子たちが子どもを持つためには、彼らの姉妹と結婚する以外に神は方法を与えられなかった。

ということが聖書に書かれていると思います。これは同意していただけるでしょうか?

ここで、まことさんの書かれた2つの原則をあてはまめると、CENSOREDは、モーセの律法で明らかに禁止されているし、その禁じられた行為は他の箇所で廃棄されていませんから、アダムとイブの息子たちが姉妹と結婚したのは罪だということになります。それで仮定として

A.CENSOREDはどのような時代、状況でも罪である。

ということを考えて、上の2つの大前提と、他の聖書のはっきりした教えと矛盾が生じるかどうか考えてみます。

大前提の2つと、この仮定が正しければ、アダムとイブは、「生めよ、ふやせよ。」の命令に従えば、CENSOREDの罪を犯すことになるし、CENSOREDしなければ、「生めよ、ふやせよ。」の命令にそむく罪を犯します。どちらにしても彼らは罪を犯すことになります。これは、神は人間が罪を犯すように誘惑されない、という聖書のはっきりした教えに反します。

大前提2つを認めるかぎり、論理的にただひとつ正しい考えは、CENSOREDがいつも罪である、という仮定が間違っているということを受け入れることだと思います。

僕は、CENSOREDの罪に特にか関心があるわけではありませんが、聖書を読んで罪ということを深く考えていく上で、アダムとイブの息子の状況は、分かりやすく参考になると思うので、興味があります。

次に、そういう意味で分かりやすい罪は殺人の罪だと思います。十戒の第6戒に「CENSOREDはならない」という明確な定めがあり、申命記の19章−21章に、裁判で死罪になった人を殺したり、神に命じられた戦争で人を殺したりすることは罪にならないことなど例外が明確に定められていると思います。

まことさんの罪に関する聖書解釈だと、殺人という行為は明確に例外規定がある以外は、いつの時代でも、どのような状況でも罪になると思います。ところが、民数記25章で、ピネハスは殺人をしますが、この行為は、裁判があったわけではないし、例外規定にはあてはまらないと思います。ところが、この行為によって神は彼と子孫を祝福されたと思います。僕たちの普通の考えでは罪の行為のように見えても、神の目には、そうでないようです。

僕は仮定として

B.何か特定の行為が、いつの時代でもどのような状況でも罪であるわけではない。神がある人に文字で、あるいは心に書かれた律法に、そむくことが罪である。

ということを考えています。そうすると、アダムとイブの息子たちが、姉妹と結婚しても罪ではなかったし、ピネハスの殺人も罪ではなかったと聖書解釈をして論理的に矛盾が生じません。もちろん、CENSOREDも殺人は普通には罪ですが、非常に特殊な場合には、聖書に明確な規定がなくとも、それらの行為が罪であるどころか、祝福を受ける行為である場合もありうる、ということが聖書に書いてあるのだと思います。

CENSOREDや殺人などの何か特定の行為が罪になる、という考えは、人間の一般常識に合致していますが、聖書の教えと論理的矛盾なく合致させるのは、至難のわざです。アクロバット的な聖書解釈をしないと、合致させられなということが上記の論点です。

最後に、知識と罪の関係についてです。ローマ1章20節の「被造物によって知られ、はっきりと認められる」ので、異邦人には弁解の余地はない、とあります。知識がなければ、弁解の余地がある、という意味があるように思います。1章32節にも、「神の定めを知っていながら」とあります。

少なくとも、聖書にある知識と罪の関係についての教えは、人間の作った法律でのスピード違反の規定ほど単純ではないように思います。

No.2705 2007/08/02(Thu) 23:59:25

Re: 罪について / まこと 引用

昌夫さん。

今回の昌夫さんの記事を拝読して「罪」という言葉の意味が、私と昌夫さんとでは、少し違うなと思わされたので、そのことを、まず最初に指摘させていただこうと思います。

>何か特定の行為が、いつの時代でもどのような状況
>でも罪であるわけではない。神がある人に文字で、
>あるいは心に書かれた律法に、そむくことが罪で
>ある。

「神にそむいていると人間の側で”知らなければ”、罪ではない」というその前提自体に、すでに私と昌夫さんとの間では食い違いがあるようです。

私が言うところの「罪」とは、神の絶対的基準にそむく、すべてのものを包含するものです。そこには人の内的な動機、外的な行動、人に違反として認知されているもの、認知されていないもの、すべてを含みます。

書かれた律法、あるいは明確な規定が無ければ、人は自らの行動が罪であるかを認知できません。しかし、罪を認知できないことは、罪が存在しないことと同義では在りません。・・・これが私の大前提です。

昌夫さんの「罪」に対する認識は、「絶対的な神のみこころを基準としたもの」というよりむしろ「人間の側の罪悪感の有無」に近いものでは無いでしょうか?


>A.CENSOREDはどのような時代、状況でも罪である。

私自身は現在、ご指摘の通り、A.可能性は排除できないと考えています。ですが、その考えを昌夫さんをも認めねばならないとは、私は考えていません。 

私が問題としている(して来た)のは、あくまで、律法が人間に知られていなかったら、その人間の側の状況を主要因として、神のみこころに対する違反としての「罪の定義」を左右させるのは、考え方として基本的に正しくないのではないか?ということだけです。

>アクロバット的な聖書解釈をしないと、合致させられ
>なということが上記の論点です。

私が最初に会話の切り口として指摘した、アビメレクの例は、どうお考えでしょうか(#2690の記事をご参照ください。) 私は、この記事において、姦淫が罪であるという明確な律法なくしても、アビメレクがサライと性的交渉を持つことは、神の前に罪であったということを指摘しました。・・・これはアクロバット的解釈でしょうか?

もっとも、私の理論はどこかおかしいようです。それは今回の昌夫さんの記事を読んで思いました。

私は、
?@アビメレクがサライと性交渉を持つとことが、彼の知識に関わらず、神の前に実際に「罪」であったことを理由に、
?Aアブラハムとサライとの結婚関係も罪であった可能性を排除できないと考え、
?Bその根拠(理由付け)として、書かれた律法が廃棄されない限り、あらゆる時空において律法は有効である

という理論を展開しました。しかし、良く考えてみると、実は、
?Bは、?@と?Aの産物であり、
?Bが、?@と?Aを導き出したのではありません。
ですから、?Bは、「原則」ではなく、むしろ、「考察」な訳ですね・・・。特定の事象についての考察を、一般に適用可能な原則と呼んでしまったのは、確かに、アクロバット的ですね。失礼しました。

>少なくとも、聖書にある知識と罪の関係についての
>教えは、人間の作った法律でのスピード違反の規定
>ほど単純ではないように思います。

たとえ話ですから、当然ですね。私が言いたかったのは、ある一つの行為について、人間の側でそれが罪(違反)であるとの規定を知らなかったからと言って、それはその人が罪(違反)を犯さなかったということには、必ずしもならない。と言う事だけです。

昌夫さんにおいては、拍子抜けの回答かもしれません。
すみません。また実際にお会いすることが会ったら、その時にでも、またゆっくり話しましょう。

それでは。

No.2707 2007/08/03(Fri) 02:05:18

Re: 罪について / 昌夫 引用

まことさん、レスをありがとうございます。

僕は聖書には、外面的には同じ行為でも、その人が何を罪と認知しているかによって罪であったり罪でなかったりすることがあることは、はっきり書かれていると思います。偶像にささげられた肉に食べるという外面的には同じ行いが、何を罪と信じているかという罪の認知に関する心の状態で、罪であったりなかったりすることが、ローマ14章にはっきり書いてあると思いますが、まことさんは、同意されますか?

もし同意されるのなら、罪の認知によってある行いが罪であったりなかったりする場合があることになります。そして、少なくとも、偶像にささげられた肉を食べる行為については、罪の基準には、人間の認知もかかわることになります。

>昌夫さんの「罪」に対する認識は、「絶対的な神のみこころを基準としたもの」というよりむしろ「人間の側の罪悪感の有無」に近いものでは無いでしょうか?

そうではないと思います。僕はすべての罪は、人間が神が何かの絶対的基準で定められると信じます。そうすると、上の食肉の例でも、神が絶対的基準で罪を定めれていますが、その基準は、単純に外面的な行いではない、といえると思います。

問題は、これは、偶像にささげられた肉を食べる行為のような特殊な場合なのか、もっと一般に多くの行為、あるいは、全ての行為で、罪は人間の認知と関わるのか、ということだと思います。

僕は、その絶対的な基準とは、おそらく、その人に与えられている文章として書かれた律法と、心に書かれた律法だと今のところ考えています。

ところで、誤解を招いてしまったようで申しわけないですが、僕はアクロバット的解釈が必要になると書いたのは、CENSOREDの罪に関して僕が書いたこととについてです。姦淫の罪に関するまことさんの議論に関してのことではありません。

僕はアビメレクは、聖書に書いてある律法とは全く関係なく、姦淫が罪であることをよく知っていたと思いますし、彼がサライと性交渉を持っていたら罪になったと思います。このことに関するまことさんの聖書解釈は、とても自然なものだと思います。

ここでは、アビメレクは、心に書かれた律法から姦淫は罪であると知っていたと思います。No.2705で僕が「心に書かれた律法」と書いたのは、一般に良心と言われるものだと考えています。

アビメレクは心に書かれた律法から姦淫が罪だとは知っていたが、サライが人妻だとは知らなかった。それでも、サライと性交渉をしていたら、罪になったと僕も思います。アビメレクは罪悪感は持たないだろうけれど、罪になったと思います。これは、アビメレクは姦淫が罪であることを知っていたので、サライのことをもっと調べる義務があったからだと思います。それでは、アビメレクが、姦淫が罪であるということも意識的にも無意識的にも、知らなかったら、それでも、罪になったかどうかと考えてみます。この場合には、アビメレクにはサライのことももっと調べる義務もないし、罪にはならなかったろうと考察します。

偶像にささげられた肉を食べる行為だけではなく、殺人やCENSOREDや姦淫の行為も、文書に書かれた律法や良心から各人が意識的、無意識的に罪と認知している内容によって、罪であったりなかったりする。このように考えて、聖書を読んでも矛盾は生じないようである、というのが今までの主要な論点です。

No.2708 2007/08/03(Fri) 04:28:16

Re: 罪について / まこと 引用

昌夫さん(と掲示板をごらんの皆様)。

ご質問がありましたので、お答えします。

>何を罪と信じているかという罪の認知に関する心の
>状態で、罪であったりなかったりすることが、
>ローマ14章にはっきり書いてあると思いますが、
>まことさんは、同意されますか?

確かに、14:23には、「疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。」とありますから、昌夫さんの仰るように、人間の側の認知が、罪の有り無しに関係している場合があるということには同意します。

しかし、ロマ14章にある食肉に関するパウロの教えは、「それ自体で汚れているもの【すなわち物体としての食物】は何一つ無い」(ロマ14:14)というパウロの確信です。 この確信は、「神がきよくしたものをきよくないと言ってはならない」(使徒10:15)という、食肉に関する規定が廃棄されたことがペテロにはっきりと神から告げられている事実に基づいているものと、わたしは考えます。 

このように、古い律法における食肉に関する規定が、(人ではなく)神によって廃棄された背景があってこそ、食肉という具体的行為が罪であるかどうかの判断が、書かれた律法によってではなく、個人個人の認知にゆだねられるに至った訳です。 逆に言えば、そのようなはっきりとした古い規定の廃棄の事実が無ければ、罪のあるなしが人間の認知にゆだねられることは無かったのではないかと、私は考えます。実際、性的不品行について、それが「疑いを感じないなら、やっても良い」と教えている箇所は、聖書のどこにもありません。

したがって、性的不品行と、食肉に関する規定は、比較対象にならないと思います。これは以前にも申し上げたことです(#2692を参照ください)。

あと、性的交渉についての律法が書かれている、レビ18章を改めて学び直してみました。本件に関連して、特に重要だと思ったのは、次の3節です。

「あなた方のうち、だれも、自分の肉親に近づいて、これを犯してはならない。わたしは主(エホバ)である」(6節)「あなたがたはこれらのどれによっても、身を汚してはならない。」(24節)「あなたがたは、わたしの戒めを守り、あなたがたの先に行われていた忌み嫌うべき風習を行わないようにしなさい。それによって身を汚してはならない。わたしはあなた方の神、主(エホバ)である。」(30節)

上記の3節に拠れば、近親者との性交渉が禁じられたのは、その行為が「神の目に忌み嫌うべきこと」であって、それによって人が現実に「汚れる」からです。そして、神は「汚れてはならない」と戒めます。

食肉に関することについては、「すべての食物はきよい」と、神が直々(じきじき)に新約において宣言しています。 しかし、「すべての性交渉はきよい」と言う意味の記述はどこにも見当たりません。

もし、近親者との性的交渉が、人間の罪の認知の有無によって罪になったりならなかったりするのであれば、それは、近親者との性交渉が禁じられた「理由」と、その規定を破ることによる「結果」が、人間の認知によりコロコロと変わることを意味します。

すなわち、人間の認知という人の側の都合が、「わたしはあなた方の神、主である」と仰った方の語られたことの本質(理由と結果)を書き換えてしまう訳です。・・・そんなことがあってよいのでしょうか。それはダメだろう、というのがわたしの言いたいことです。

No.2711 2007/08/03(Fri) 07:37:38

Re: 罪について / 昌夫 引用

まことさん、レスをありがとうございます。

僕とまことさんの考えの共通点と違いを、ここで少しまとめてみたいと思います。

1.罪は神が絶対的に定められ、人間の都合には依存しない、ということは、2人の共通認識です。

2.まことさんは、基本的には、神は特定の行為を絶対的に罪と定められると考えられていると思います。姦淫やCENSOREDなどの行いは、絶対的に罪である特定の行為の例だと考えておられます。

4.食肉などの行いは、罪であるときと、ない場合がありますが、このような例外ははきり聖書に規定と廃棄が書かれています。

5.僕は神の絶対的基準は、その人にその時に神が文書の律法や心に書かれた律法(良心)を与えて知らされたことに、その人がそむけば、罪である、と考えています。さらに、すでに知らされたことから、その人が努力して知るべき義務があるのに、努力を怠ったために、知らないで神にそむいた場合も罪と考えます。

6.僕は食肉のように、特定の行為が罪と定められたり、罪でなかったりするのは、例外ではなく、基本ルールであると考えます。もし、例外があれば、聖書にはっきり分かるように書かれているはずだと考えます。

7.僕とまことさんでは、基本ルールが何であるか、についてNo.2とNo.4のように全く違いますが、No.1のように絶対的基準があり、No.3とNo.5のように基本ルールに例外があれば、聖書にはっきり書かれているはずだ、ということでは同意しています。

これまでのまとめとして、僕のNo.1-7の理解はまことさんの理解と同じでしょうか?

実は、僕は最近に罪と罰と恵みについて週末講義を受ける機会があり、いろいろと考えていたのですが、行き詰っていました。まことさんとの意見交換で、ずいぶん整理ができ、また、「汚れ」を考えないといけないことに気づきました。

僕と考え感じ方の違う信仰者の兄弟であるまことさんが、素晴らしいタイミングで掲示板に現われて、意見を交換してくださっていることに感謝します。人間の考えでは分かりようもない不思議なご計画で、僕たちを真理に近づけてくださる神さまを賛美し、感謝します。

「汚れ」について少し考えがまとまってから、罪の汚れに新しいスレッドを立ててNo.2711にレスをしたいと思います。

No.2716 2007/08/03(Fri) 22:30:04

Re: 罪について / まこと 引用

昌夫さん。

まず最初に、私が昌夫さんにご理解いただきたいと願うのは、私は、人の行う色々な行為について「これは罪である、これは罪ではない」と一つ一つ分別して行くことには、関心が無いということです。

日本ではごみの分別がとても厳しく定められています。数年前に帰国した際(私は現在米国在住です)、その分別ルールの細かさに、アタマが痛くなりました。 私が住んでいる現地では、ごみを分別せずにまとめて袋に入れて出してしまいます。紙、プラスチック、ビニール、生ごみ、壊れた食器、その他諸々、全部一緒です。

「罪とは何か」を考えるとき、昌夫さんは多分、このゴミ袋に手を突っ込んで、「これは紙」「これはプラスチック」「これはリサイクル」と、分別する作業に忙しい几帳面で一所懸命な方。

私自身のイメージは、ごった煮状態のそのゴミ袋を覗き込んで、ただ、「人間はこういう浪費をする存在なのか。」 人間は、生活するだけで、知らずに汚染を生み出すような、そのどうしようもなさに支配された存在なのだなと、悲嘆に暮れている悲観者です。 

そんな私にとって必要なのは、それでも尚、神は人を愛されたのだ、という神の許しであって、ごみの分別作業のための説明書では無いのです・・・。

昌夫さんは、一連の会話において、私に、「まことさんは、私の分別方法の説明書に同意しますか?」と求めてこられたような気がします。しかし、私としては、その説明書に同意するかどうかには関心が無いですし、独自の説明書を考案して昌夫さんに同意を求めるつもりも無いのです。ですから、申し訳ありませんが、私が1〜7の一つ一つに同意するかどうかの回答は、ここでは控えさせてください。

私は、「罪」という事柄を、「病」になぞらえて捉えています。体内の病がなくして、外的な症状は現れませんが、外的な症状が現れないからといって、体内の病が無いことにはなりません。 私たち人類は、この病を、アダムから受け継いでしまっています。認識している・していないに関わらず。

その病は、
自分が病人だと知っている人にも、自分は健康だと思っている人にも、それを治そうと努力している人にも、怠けて病が進行してしうまうがままにしている人にも、例外なく全人類を蝕む「不治の病」です。その病。人を死によって支配してしまう病が、「罪」です。

この病にかかっている故に、人は「神にそむく」行動に出ます。この病さえなければ、人は神にそむく事はありません。ある病人は、その症状が重く、性的不品行、悪事、遊興、ねたみに燃えた生活を送り、自分自身の人生に痛みと更なる神へのそむきを招いています。別の病人は、静かにその病と対峙し、病と向き合いながら生きています。 また別の病人は、自分が病人であることさえ、まだ認識していません。 しかし、どの人も、病人であることには変わりません。

性的不品行という一つの行為は、この「罪と言う病」の症状であり、人は、性的不品行を行うことで、火に油を注ぐごとく、さらに病状を悪化させてゆきます。 神にそむき、そむき続ける悪循環へと落ち込んでゆくのです。 そのように、癒されなくてはならない人が、かえって病原体の蔓延した場所へとおもむき、さらに病気をひどくしてしまうこと。汚れとは、そういうことなのだと、今は考えています。

以下、私のエッセーです:

神がアビメレクを止めた時。 正しい良心でサライを召し抱えたアビメレクが、姦淫の罪によって汚れてはならないと、神は彼を差し止めた。 それはアビメレクに対する神の愛と慈悲。 アビメレクの努力によらない、神の恵み。  では、アブラムが近親結婚することを、なぜ神は止めなかったか? それは、正直わからない。 アブラムはサライを妻としたことで、確かに、神の前に汚れてしまったのではないか? しかし、重要なのは、神は、そのようなアブラム、汚れたアブラムをあえて選び、導き、守り、愛し、そしてイスラエルの父祖とした。 人間の側の汚れをものともせず、ご自分のみこころを果たし、人を愛し通す神。 

それが、私たちの神。その神の愛と恵みの前に、人の一つ一つの行為を罪に定める律法と、その律法によって生ずる罪の債務書を突きつけようとする悪魔は、その力を失う。 

私たちは、神の愛によって、罪から、律法から解放されている。・・・私が知りたいと願うのは、この解放。

No.2717 2007/08/04(Sat) 00:02:02

Re: 罪について / 昌夫 引用

まことさん、僕とまことさんでは、全く違った個性とそれにあわせた神さまへ近づく方法が与えられているのは、かなり前に気づきました。だから、僕の質問に答えていただかなくとも、全く問題はありません。

ただ、どちらの方法がより優れているとうことではなく、個性の違いにより、神さまが別の方法を与えられる、ということを祈りのなかで考えていただくことを願います。

信仰者の目標は、皆、神さまに近づいていくことであるはずですが、もちろんずれていくことがあります。それで自分の方法と違った方法を取っている人を見ると、その人の方法はずれているのだ、と感じることが多いと思います。そうであれば、主にある兄弟姉妹として指摘してあげると良いことも多いと思います。しかし、その前に「自分の目の中の梁を取る」ための祈りと努力をする必要があると思います。

僕が罪について興味を持っているのは、神の愛をもっと知りたいからです。聖書には、はっきり地獄に行く人々がいることが書いてあると思います。神がその人々も愛しておられることも書いてあると思います。自分は地獄に行くしかに人間なのに、恵みによって赦された。神の愛を知るためには、地獄に人々を愛されているとは、どういうことか、恵みとは何か、罪とは何か、もっと深く知ることが必要だと感じています。罪とは何か、ということを深く知らないで、恵みということを深く知ることはできないと思います。地獄を含めて罪の罰とういことを深く知らないで、神の愛と恵みを深くしることはできないと思います。

僕は罪の分別作業そのものには、興味がありません。

No.2718 2007/08/04(Sat) 01:36:23

Re: 罪について / まこと 引用

昌夫さん。

>僕は罪の分別作業そのものには、興味がありません。

私がごみの分別作業のたとえを出したことで、何かお気を害されたのであれば、謝ります。

私が言いたかったのは、お互いに「罪(ごみ)」という問題に直面しているけれども、それにどのようにアプローチして、何を感じているかが違うように思う、と言う事で、どちらが優れているとか、そういうことではありません。 ・・・たとえが悪かったですね。

以下、お土産です:

「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。 キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。なぜなら、神の国は、飲み食いのことではなく、義と、平和と、聖霊による喜びだからです。」・・・ロマ14:15−17

人は、自らの行いを正しくしようとするあまり、他の行動を良しとする人を、不必要に裁いて痛めつけてしまったりします。キリスト者は熱心になれば熱心になるほど、この「愛に基づかない行動」について気をつけていかねばなりませんね・・・。

ところで、お互いに、出すべき意見は出し切ったのでは無いでしょうか。あとは、交換した色々な意見がお互いの心のうちで熟すのを待ちませんか?

No.2719 2007/08/04(Sat) 02:08:47

Re: 罪について / 昌夫 引用

どうか神さまが僕の心を聖め、神の国の義のために書くべきことを書き、書くべきでないことは書きませんように。どうか、主が僕とまことさんを祝福し、意見交換すべきときはし、すべきでないときには止めてくださいますように。僕たちが、愛に基づかない行動を一切しないものに変えていってくださいませ。

No.2721 2007/08/04(Sat) 02:35:20
創世記21章残り / 沙耶香 引用

今日は創世記21章残りを読みます。

27節に
そこでアブラハムは羊と牛を取って、アビメレクに与え、ふたりは契約を結んだ。
とありますが、何の契約だろうか?羊と牛を取って契約???

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒11章4―9節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・・
何度か読んでいると9節が気になるのでこれをもう何度か読みます。
うーん、きよくないものでも神様がきよめたらきよくなるのですね・・・その時々のいろんな状況からいろんなことが変わってくるので、難しいです。

No.2698 2007/08/01(Wed) 21:06:16

Re: 創世記21章残り / 昌夫 引用

27節の羊と牛を取ったのは、当時の習慣として、契約のいけにえとして2つに裂いて、間を通るためだと思います。契約の内容は22−26節から想像すると、アブラハムが、アビメレクと親類縁者たちを裏切らず、真実を尽くすこと、アビメレクは彼のしもべたちが、アブラハムの井戸を奪わないようにすること、ということかと思います。

僕は21章では、12−18節が特に印象に残っています。神は奴隷のハガルの子のイシュマエルではなく、本妻のサラの子のイサクを選ばれました。選ばれたイサクが神のアブラハムとの契約を受け継ぎました。しかし、神はハガルとイシュマエルを愛してハガルに話しかけて井戸を与えられ、イシュマエルの子孫も大いなる国民とされます。

神は人間に違う役割を与えられるけれど、誰でも無条件に愛してくださっているということを信じて賛美し、感謝します。

No.2700 2007/08/02(Thu) 02:38:16

再創世記21章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度創世記21章残りを読みます。

>>神は人間に違う役割を与えられるけれど、誰でも無条件に愛してくださっているということを信じて賛美し、感謝します。

うん、いいですね・・・誰でも無条件に愛してくださるって最高です。そうじゃないと私なんか、誰も相手にしないんだから・・・この世的に容姿、仕事、能力、要領のよさ、性格、世間に通用するものなんて何も与えられていない私を無条件で愛してくださる神様・・・最高ですね・・・

19節に
神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。
とありますが、皮袋って一体何だろうか?当時は”皮袋”なるものに水を入れる習慣があったのだろうか?

25節に
また、アブラハムは、アビメレクのしもべどもが奪い取った井戸のことでアビメレクに抗議した。
とあるが、この時代には井戸を奪い取ることができたのか?不思議だ。うーん???

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は使徒11章10―14節を読みます。
天におられるお父様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、12,14節が気になるので、これをもう何度か読みます。

No.2701 2007/08/02(Thu) 10:28:24

Re: 創世記21章残り / 昌夫 引用

今日はもう一度創世記21章残りを読みます。

>この世的に容姿、仕事、能力、要領のよさ、性格、世間に通用するものなんて何も与えられていない私を無条件で愛してくださる神様・・・最高ですね・・・

本当に神さまは素晴らしいです。

>皮袋って一体何だろうか?当時は”皮袋”なるものに水を入れる習慣があったのだろうか?

皮袋は動物の皮で作った袋です。14節から当時はる旅に出るときには、皮袋に水を入れる習慣があったのだと思います。

>この時代には井戸を奪い取ることができたのか?不思議だ。うーん???

当時のカナンでは、エジプトなどの大国の支配が及ばす、ひとつひとつの町が国であったようです。だからひとつの国の中で法律によって井戸などの財産が守られる状態ではなかったようです。軍事力があれば人の所有する井戸を奪い取ることが簡単にできる状態だったお思います。

No.2702 2007/08/02(Thu) 11:57:01
全738件 [ ページ : << 1 ... 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 ... 74 >> ]

- HOME - お知らせ(3/8) - 記事検索 - 携帯用URL - フィード - ヘルプ - メール - 環境設定 -

- Skin: Modern v1.81 -

Rocket Board Type-X (Free) Rocket BBS