[ 掲示板に戻る ]

過去ログ閲覧モード

ルカ17章19節まで / 沙耶香 引用

今日はルカ17章19節までを読みます。

2節に
この小さいものたちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんなものは石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
とありますが、前にどこかで小さいものということを説明を受けたんだけれど、もう忘れてしまった。

癒しに通じる読み方・・・
今日はヘブル人の手紙12章5―8節を音読します。
天のお父様神様どうか今から読む聖書の聖句から語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
6節が気になるので、もう2度6節を読みます。
神様は愛するわが子には訓練を強いることが多いと語られました。

No.2107 2007/04/11(Wed) 22:36:09

再ルカ17章19節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ルカ17章19節までを読みます。

3節の
気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば赦しなさい。
が印象に残りました。

4節に
かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、「悔い改めます。」と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
とありますが、どういう意味だろうか?七度も罪を犯さなくても、2,3度犯したら罪を犯さないようにするのが普通でしょ?

7,8節の
ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野良から帰ってきたとき、「さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。」としもべに言うでしょうか。
かえって、「私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。」としもべに言うでしょうか。
はどういう意味だろうか?何だか意味が取れないし状況がつかめないんだけれど・・・

10節に
あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。」と言いなさい。」とありますが、自分に言いつけられたことをみなしてしまう・・・これは素晴らしいことではないか?それをなすべきことをしただけなんていわれたらかなわない。

No.2108 2007/04/12(Thu) 14:17:57

Re: ルカ17章19節まで / 昌夫 引用

2節の「この小さい者たち」は、ここでは「この」が指すのは誰か書いていないので、聞いていた弟子たちと考えて良いと思います。マタイ18章1−7節を読んでみてください。イエスは、同じような意味の説教をされていて、マタイ18:6では、「この小さい者たち」とは、子どもたちのことです。

4節は、1日に7回も自分に対して罪を犯しては悔い改める人など、普通にはいないだろうけれど、それでも、赦しなさい、とイエスが教えられています。1日に7回も罪を犯す人でも赦すのだから、まして、1日に2,3回罪を犯す人でも赦しなさい、ということです。聖書では、このように、「まして」という考えを使って語られることが多いです。

7−10節で、僕たち神のしもべが、神に対して謙虚な気持ちで仕えるべきであることを主イエスが教えてくださっています。僕たち信仰者が神のことばに従うと、「従ったから、その分、祝福してください。」という心になってしまうことが多くあります。また、「もう神の国の仕事をして疲れたので、勝手に休みます」という心になることも多いです。そのようなときに、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。」という謙虚な心をいただけるように、お祈りすると良いと思います。

主を愛するしもべは、主に言いつけられた、なすべきことをするのはもちろんですが、さらに、言いつけられなくとも、主を愛する気持ちから、主に喜んでいただけることができるようになると、さらに素晴らしいと思います。そういう気持ちがあると、「なすべきことをしただけです。」と言えるようになるのだろうと思います。

7−8節はたとえ話です。野で仕事をしてから帰ってきたしもべは、さらに、家でも食事の用意をする仕事をします。同じように、僕たち神のしもべは、ひとつの神の国の仕事をして、疲れきっていても、「主よ。私は疲れきっています。でも、あなたの御心でしたら、さらに仕事を言いつけてくださいませ。」という意味の祈りができると良いと思います。

No.2119 2007/04/16(Mon) 00:43:04

Re: ルカ17章19節まで / 沙耶香 引用

マタイ18章1―7節・・・
うん、読みました。
うん、でも神の言葉に従うのは祝福されたい、恵を受けたいというのがありますよね?

うん、すべて御心ですよね?御心だったら、またさらに仕事を言いつけられてもできる力もくださいます。

No.2125 2007/04/16(Mon) 19:31:04
ルカ19章24節まで / 沙耶香 引用

今日はルカ19章24節までを読みます。
私なんか最低だ。具合が悪くなって寝てしまっていました。頭が痛いしお腹も痛い。この世の中から消し去りたい。教会でも牧師以外誰も相手にしてくれない。最低な奴だ。
8節に
ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私が騙し取ったものは、四倍にして返します。」
が印象に残りました。
私も結婚詐欺で多額騙し取られました。その騙し取った悪者もこのように悔い改めて、神様に近づいてくれたら嬉しいです。

・・・癒しに通じる読み方・・・
ルカ17章26―30節を音読します。
天のお父様神様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様が語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
音読すると29節が気になるので、もう何度か音読します。悪いことをしていると後で必ず裁きがくるから、悪いことは悔い改めなさいと語られました。
神様は人の心のどんな細かいところもご存知です。ちょっとした悪い心もお見通しです。

No.2122 2007/04/16(Mon) 02:08:24

再ルカ19章24節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ルカ19章24節までを読みます。

頭痛腹痛治らない・・・あー今の空の状態の曇っている状態=私の心だ。でもきっとイエス様が澄み切った青空に変えてくださると信じます。

9節の
イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
と続く10節の
人の子は、失われた人を探して救う為にきたのです。」
が印象に残りました。
イエス様どんなに罪深い人でも悔い改めると赦してくださいます。

・・・癒しに通じる読み方・・・
ルカ17章31―37節を音読します。
(関係ないけれど、36節がない・・・)
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
33節が何だか気になるので、33節をもう何度か音読します。
よく分からないけれど、自分のために動く人はいろんなものを失い、自分のいのちをもイエス様に捧げる人は永遠のいのちが与えられると語られたような気がします。

No.2123 2007/04/16(Mon) 11:19:05
ルカ18章残り / 沙耶香 引用

今日はルカ18章残りを読みます。

22節に
イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけかけたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについてきなさい。」
とありますが、お金持ちで自分の持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやってから、イエス様についていく人なんていないです。
でも御言葉にすべて従えるクリスチャンなんていないですからね・・・

28節に
すると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」
とあります。ということはペテロは自分の家を貧しい人に分けたのかな?うーん・・素晴らしいですね・・・・

29,30節の
イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てたもので、誰一人として、この世にあってその幾倍かを受けないものはなく、後の世で永遠のいのちを受けないものはありません。
が印象に残りました。
でもこれはこの世的にいろんなものをもっている人のための御言葉ですね。

No.2116 2007/04/14(Sat) 18:23:32

Re: ルカ18章残り / 沙耶香 引用

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ17章21―25節までを音読します。

天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
静まっていると24節が気になるのでもう何度か音読します。
イエス様の再臨の日が必ず来ますので、その時まで理不尽なこの世でも生きられると語られたような気がします。

No.2117 2007/04/14(Sat) 20:20:54

再ルカ18章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度ルカ18章残りを読みます。

42節の
イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの振興があなたを直したのです。」といわれると、と
続く43節の
彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについていった。これを見て民はみな神を賛美した。
が印象に残りました。

No.2118 2007/04/15(Sun) 07:17:21
ルカ14章残り / 沙耶香 引用

今日はルカ14章残りを読みます。

19節に
もうひとりはこう言った。「5くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断りさせていただきます。」
とありますが、牛は一匹二匹と数えるのではなかったですか?くびきってなんだろうか?

24節に
言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わうものは、ひとりもいないのです。」」
とあるが、どういう意味だろうか?
招待された人というのは貧しい人や不具の人や盲人や、足なえの人だと思うんだけれど、そういう人では不満なのだろうか?

26節に
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まないものは、わたしの弟子になることができません。
とありますが、自分の父や母を憎むなんて親を敬えと言ったイエス様らしくないですね・・・

33節に
そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、私の弟子になることはできません。
とありますが、そんなことしているクリスチャンなんて見たことないですけれど・・・

No.2085 2007/04/07(Sat) 21:43:10

Re: ルカ14章残り / 昌夫 引用

19節ですが、「くびき」は牛の首のあたりにつける道具で2頭の牛をつなぎ、また耕作のための道具などにつなげるのに使われたようです。牛は日本語では、一頭二頭と数えると思いますが、当時のパレスティナでは、「くびき」で数えられていたのだろうと思います。

24節の「招待されていた人たち」は、16節で「大ぜいの人を招いた」とある人たちであって、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえではありません。16−24節はたとえ話で、宴会の主人は神、最初に招待された大ぜいの人たちはイスラエルの人たち、「貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえ」とは異邦人のことだと思います。

26節も、「憎む」という言葉は、なかなか普通のイエスさまのイメージにあわないですね。祈りのなかで、イエスさまがここで何を言われたのか、考えてみると良いと思います。憎むということは、普通、愛することの反対と考える人が多いですが、沙耶香さんは、愛の反対が憎しみだと思いますか?愛して尊敬しながら憎むことがあると思いますか?

33節ですが、ここも、イエスさまは、「財産全部を捨てる」という表面に現れる「良い行い」のことではなく、財産全部をイエスさまに委ねる心のことを語っておられると思います。

No.2087 2007/04/08(Sun) 02:19:59

再ルカ14章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度ルカ14章残りを読みます。

あ、牛は一頭、二頭と数えるんだったの?あ、そう・・・

えーーでも異邦人=イスラエル以外の人でしょ?イスラエル人の中にも、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえがいるのではないんですか?

今愛して尊敬している人実際にいますけれど、その人たちを実際憎んだことは一度もありません。
でもよく愛と憎しみは表裏一体だと言います。でも私は愛し尊敬している人を憎むなんてことはないです。
うーん、人それぞれなのでは・・・?分からない・・

33節ですが、管理人様そういう風に御自分に対してごまかしていませんか?(失礼なこというな!!)

32節に
もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。
とありますが、最初から講和を求めればいいのにと思ってしまうのですが・・・

No.2088 2007/04/08(Sun) 06:58:56

Re: ルカ14章残り / 昌夫 引用

26節ですが、愛と憎しみの関係というのは、とても複雑でよく分からないと思います。僕は愛の反対は、無関心であって、憎しみは無関心よりもかなり愛に近いと思っています。仮に人と罪を分けて考えてみると、愛する人の中にも、人間としての罪の性質があり、人を愛しながらも、その人の罪の性質を憎み、その性質が神さまによって聖められるのを望むのが正しいのかもしれません。例えば、家族の中にひどい嘘つきの人がいたとして、その人を愛しているなら、嘘つきの性質を憎んで、それが取り去られて、その人がイエスに近づくのを望むことが、本当の愛だという気がします。

28−32節はたとえ話です。イエスの弟子になろうとするとき、また、弟子になて、これからも弟子でありつづけようとするとき、自分がどういう犠牲を払わないといけないか、意識するとともに、現実的にこれから何を犠牲にすることになるのか、今のうちに考えておかないといけない、ということがポイントだと思います。

32節の敵とは、誘惑などの信仰の道からそらそうとする力のことだと思います。キリスト者は、自分の力で誘惑に勝てる力がないことを知らないといけないと思います。だからといって、誘惑という敵と講和を結ぶわけにはいきません。それで、自分は捨ててしまい、イエスの力に頼るしかないので、33節のように自分の財産全部を捨てることになります。

だから33節の解釈がとても重要です。

どうか、僕が自分をごまかしたい誘惑に負けず、また、思い込みに捕らわれず、33節でイエスさまが語られたことを理解できますように。

まず、33節を、ルカ18章22節と比べてみると、18:22では「売り払い」という言葉が使われているのに対し、14:33では、「捨て」るという言葉が使われています。このことから、僕は、捨てるというのは、必ずしも売り払うことではなく、自分の財産の所有権は主イエスにあり、自分は管理しているだけ、という心を持つように言われていると考えます。これは、ルカ16章1−13節のまかされた財産を知恵を持って「管理」するという考えと一致すると思います。

No.2091 2007/04/08(Sun) 23:53:09

Re: ルカ14章残り / 沙耶香 引用

28―32節はたとえ話なの?その後の管理人様の説明がよく分からない。イエスの弟子となることが何を犠牲にしないといけないか?とか意味がわからない。何を捧げるかということかな?うーん・・・もっと具体的に言ってくれないとよく分からない・・・

ルカ18章22節・・・
イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけかけたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、私についてきなさい。」
ルカ14章33節・・・
そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。

私は18章22節を読んでも、14章33節を読んでも、財産全部を売り払いなさいといっているように思いますが・・・
でも解釈は人間がするものなので、みんな自分に都合のいいようにしてしまいます。
だから本当の主イエス様の思いなんて分かりようがないのです。
失礼に当たったらごめんなさい。赦してください。

No.2094 2007/04/09(Mon) 10:45:27

Re: ルカ14章残り / 昌夫 引用

>でも解釈は人間がするものなので、みんな自分に都合のいいようにしてしまいます。

人間にはどうしてもそういう傾向があります。それで「イエスさまの思いなんて分かりようがない」と僕も思いますが、そこでとどまるなら、聖書を読む必要はないわけです。完全には分からなくとも、真理を求めて、少しずつ近づいていこうとすることが重要だと思います。

だから、まず祈りの中で聖書を読むことがまず大切だと思います。それから、たとえば「弟子になる人は、自分の財産を全部売り払う必要がある。」という教義を考えるとき、自分に考えにあって気にいるところだけでなく、そうでないところもあわせて、読んでいくことが必要だと思います。そして、特に自分の教会の解釈を重視して、牧師に聞いてみると良いと思います。その上で、他の教会た兄弟姉妹の解釈を参考にしていくと良いです。

聖書を解釈するとき、具体的なことを書いてあるのか、たとえ話か、よく注意するようにすると良いと思います。26節と33節にあるように、イエスはここで弟子になることを話されており、27−32節は弟子が実際に塔を建てたり、戦争をすることではなく、たとえ話だと思います。

具体的には、26−33節は水のバプテスマを受けてイエスの弟子となる前に、あるいは、その後でも、信仰者が自分がイエスの弟子であることに、心を新たにするときに、「自分の所有物は何もない。全て主イエスの持ち物だ。」という気持ちになり、静かにイエスの前に出て、聞き従うように、という意味だと思います。バプテスマを受けた信仰者にとって、大切なところなので、牧師にも解釈を聞いてみてください。

No.2100 2007/04/10(Tue) 23:10:48

Re: ルカ14章残り / 昌夫 引用

>えーーでも異邦人=イスラエル以外の人でしょ?イスラエル人の中にも、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえがいるのではないんですか?

もちろん、事実としては、イスラエル人の中にもそういう方々がおられます。

14章16−24節もたとえ話です。たとえ話は真理について、イメージで語るものなので、イメージを事実ととると混乱します。

たとえ話の読み方を学ぶためには、マタイ13章3−23節を読むと良いと思います。3−9節のたとえ話の中で、種は御言葉を聞く人のことです。人間は、鳥に食べられたりしない、などど考える混乱します。たとえ話の中のことは、イメージであって、事実ではないということです。

同じように、ルカ14章16−24節はたとえ話です。だから、イメージとして読むとよいのであって、21節の貧しい人たちは、現実には、異邦人にあたるけれど、異邦人が全て事実として貧乏人だと言われているわけではありません。

No.2101 2007/04/10(Tue) 23:23:44

Re: ルカ14章残り / 沙耶香 引用

マタイ13章3―23節・・・
うん、ここは前にも読んだことがありますね・・・
うーん、でもたとえ話とか比喩とか難しいですね・・・
聖書解釈も人それぞれでみな大体自分にとって都合のいいとり方をしてしまいます。どれが絶対とは人間にはいえません。イエス様だけです。

No.2106 2007/04/11(Wed) 20:23:17
ルカ16章15節まで / 沙耶香 引用

今日はルカ16章を読みます。

8節の
この世の子らは、自分達の世のことについては、光の子らよりも抜け目がない者なので、主人は、不正な管理人がこうも抜け目なくやったのをほめた。
はどういう意味だろうか?
抜け目なく何をやったのだろうか?意味不明・・・

9節の
そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友を作りなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなた方を、永遠の住まいに迎えるのです。
はどういう意味だろうか?わからない・・・

続く11節の
ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。
も意味がわからない。大体不正の富というのが今一よくわからない。不正に得た富のことだろうか?だとしたらこの文章ちょっとおかしくないですか?不正に得た富に忠実でなかったらなんていうことを言うのがおかしいし・・・うーん・・何だか意味不明。

13節の
しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
が印象に残りました。
この世を象徴しているようです。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ15章8―10節を音読します。
天のお父様、どうか今から読む聖書の聖句から語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か音読すると10節が気になるので、10節をもう二度音読します。
やはり神様は罪を悔い改めることを喜ばれるので、どんな罪びとでもイエス様と一緒に赦してあげることが大切だと語られたような気がします。

No.2096 2007/04/09(Mon) 22:03:10

再ルカ16章15節まで / 沙耶香 引用

今日はルカ16章15節までを読みます。

15節に
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとするものです。しかし、神は、あなたがたの心をご存知です。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。
とありますが、これは私のような弱者にとっては心強い御言葉です。嬉しいです。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ16章1―4節を音読します。
神様イエス様どうか、今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か音読したが、一つに絞れなかったので、もう一度全体を読みます。
きちんとお金を管理できないような人間には財産も何も任せられないと言われたような気がします。
私のことだ。何年か前に結婚詐欺によって多額のお金を奪われました。自分のお金すらきちんと管理できないような人間最低ですよね?騙されやすい、お人よしにもほどが有るとよく言われます。

No.2097 2007/04/10(Tue) 13:01:15

Re: ルカ16章15節まで / 昌夫 引用

16章1−8節はたとえ話ですが、僕の考えでは、このたとえ話は、この世と天の御国では逆になっているということと、マタイ10章16節にある「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」に関係すると思います。

この世では、人々は、蛇のように抜け目なく、自分がこの世で楽をするために富を集めようとします。このたとえ話で、管理人は蛇のように抜け目なく富を集めていますが、この世ではなく、神の国のために富を使った、ということだと思います。

とても解釈の難しいたとえ話なので、牧師にも解釈を聞いてみられると良いと思います。

9節と11節は、「不正の富」とは、不正なことをして富をこの世で得てきた人が持っている富や、そういう人たちから寄付を受けた教会や信仰者の持つ富と考えると良いと思います。その富を使って、神の国に属す人たちに奉仕して、彼らの友人になりなさい、ということだと思います。例えば、マザー・テレサの活動に寄付をした人で、かなりの不正をしていた人がいたそうで、そのことで、マザー・テレサを厳しく批判した人がいました。9−11節を読むと、寄付された富が不正な手段で得られたものかどうかは、問題ではなく、富を神に忠実に聞き従って神の国のために使うことが重要です。

>どんな罪びとでもイエス様と一緒に赦してあげることが大切だと語られたような気がします。

そうですね。僕たち信仰者がまだ悔い改めをしないで罪にあるときに、イエスさまは、僕たちを愛して十字架の上で僕たちの罪のために死なれました。そのことを思って感謝するとき、僕たちも、自分に罪を犯す全ての人々を赦したい、という気持ちになっていくようにイエスさまがしてくださると信じて感謝します。

No.2102 2007/04/10(Tue) 23:46:16

Re: ルカ16章15節まで / 沙耶香 引用

??管理人は蛇のように抜け目がなく富を集めていますが、この世ではなく、神の国のために富を使った??でもこの世で楽をする為に富を集めたのでしょ?なのに神の国のために富を使ったの?・・何だか意味がおかしくないですか?

??不正をして得たお金でも神のために寄付すると神様喜ばれるのですか?分からない・・・

どんな罪びとでも同じ人間で同じ罪びとです。その人が罪深いわけではありません。みんな同じ罪人なのです。その罪に対して怒るというのはクリスチャンらしくないです。罪を赦せるように祈ってイエス様に近づかないと・・・

No.2105 2007/04/11(Wed) 19:56:03
ルカ16章残り / 沙耶香 引用

今日はルカ16章残りを読みます。

16節に
律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これにはいろうとしています。
とありますが、脚注に、人種や民族の差別なく、誰でも熱心に求道するものが神の国に入れる福音の時代が到来した。
とありますが、じゃそれまでは熱心に求道しても神の国には入れなかったのですか?

17節に
しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。
とありますが、どういう意味だろうか?

24節の
彼は叫んでいった。「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」
はどういう意味だろうか?全く分からない・・・

27節の
彼は言った。「父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。」
はどういう意味だろうか?彼というのはお金持ちの人のことですよね?何のためにラザロをお金持ちの人のおとうさんの家に送るんだろうか?

No.2098 2007/04/10(Tue) 18:42:20

Re: ルカ16章残り / 沙耶香 引用

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネ13章1―5節を音読します。
神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か音読していると、3節が気になりましたので、3節をもう2度音読します。
あまりよく分かりませんでした。

No.2099 2007/04/10(Tue) 19:39:30

Re: ルカ16章残り / 昌夫 引用

16節ですが、聖書の書いてあることが真理であって、関連するように思えることであっても、書いていないことは必ずしも真理でないので注意が必要です。16節は、福音が宣べ伝えられてから、人々は神の国に入ろうとしている、と書いてあります。ここには、福音が宣べ伝えられる前には、神の国に入れたかどうかについては何も書いてありません。ルカ13章28節に、アブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者(全て、福音が宣べ伝えられるずっと昔に死んだ人たちです)は神の国にはいっている、とはっきり書いてあります。

17節は、マタイ5章18節を読んでみてください。モーセウの律法は、全てイエスの十字架によって完全に成就されたと考えられます。

19−31節はたとえ話です。1.たとえ話の金持ちの人とは、現実では、この世でぜいたくして、地獄に行く人、2.たとえ話のラザロは、現実では、この世で貧乏で病気で苦しむが、天国に行く人、のことです。たとえ話のなかで、金持ちは、地獄の炎の中で苦しんでいて、水が一滴でもほしいと天国にいる先祖のアブラハムに願っています(24節)。大きな淵が天国と地獄の間にあって、水ももらえないと分かり、金持ちは、せめて、自分の5人の兄弟が、地獄に来ないように、ラザロに彼らのいる家に行って、地獄のことを教えてもらいたい、と願っています(27節)。

No.2103 2007/04/11(Wed) 00:03:32

再ルカ16章残り / 沙耶香 引用

今日はルカ16章残りをもう一度読みます。

あ、そうなの?じゃ福音が宣べ伝えられるまえに死んだ人たちは神の国に入っていたんだ??えーー??でもそういう人たちが神の国に入っていたなんて何で分かるの?どうやって証明するの?

マタイ5章18節・・・
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅び失せない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

うん、本当に天国と地獄は、天と地との差です。だから地獄に落ちると大変だから、天国に入れるように、家族に福音を宣べ伝えているのだが、そんな御伽噺みたいなこと誰が信用するんか?
あんたみたいなこと言いよったら、世間は渡れんのじゃ。だからお前は世間から取り残されてるんだと言われます。実際世間から取り残されているので・・・
何だか辛い。

25節の
アブラハムは言った。「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、よいものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、お前は苦しみもだえているのです。
が印象に残りました。
私は生きている間はこの世の中、世間の末端といわれ、世間や家族からいじめ蔑まれ生きてきました。でも死後は全く逆なのだと・・・この世の中だけだったら私なんかは・・・・

たとえ話・・・
では29節の
しかしアブラハムは言った。「彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。」
はどういう意味だろうか?兄弟5人も旧約聖書をよく読むべきだということかな?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ16章21―25節を音読します。
神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句から、イエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・・
何度か音読すると25節が気になりましたので、これを二度音読します。
今までほとんど悪いものばかり受けて苦しんできたけれど、天国に入ると慰められるので辛抱しなさいと語られました。
でも、今だって悪いものばかりではありません。悪いものの中に神様がちゃんとイエス様的よいものを入れてくれているので、ちゃんと悪い中でも生きていけるようにしてくれています。イエス様だからできる御業です。感謝します。

No.2104 2007/04/11(Wed) 11:27:23
ルカ15章 / 沙耶香 引用

今日はルカ15章を読みます。

うん、お兄さんの気持ちよく分かります。これと同じようなことが、ずっと罪ばかり犯して神様に仕えずに生きてきて、最後の最後で悔い改め天国にいける人に対して、今まで必死で神に仕えてきた人が不公平だと感じるのと似ていると思います。
でも人間には不公平だと感じても神様がどう見るか、神様の視点が一番大事だし一番正確なのだから・・・
一番いいようにしてくださると信じます。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ15章28―32節を音読します。
天のお父様神様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・

家でいろんな問題が起こっていますので、何だか辛くてたまりません。イエス様のところに逃げ出したい。
家族なのに、何でこんな風にいろいろ辛く当たってくるのだろうか?神様イエス様助けてください。

何度か音読しました。
どこか一節に絞ることができなかったので、もう2度全体を音読します。
父の戒めを一度も破らずつかえてきた息子も、遊女と遊び父の身代を食いつぶした息子も、同じ罪びとだと語られたような気がします。

No.2090 2007/04/08(Sun) 21:25:30

Re: ルカ15章 / 昌夫 引用

ルカ15章11−32節は、僕のとても好きなたとえ話です。このたとえ話で、父とは神さまのことだと思います。放蕩息子が帰ってきたとき、20節で父が走ってきてくださいます。聖書の中で、神が走られるのは、ここだけだと思います。僕たち罪人が神の方を向くと、神は走ってきて抱いて口づけしてくださる。

兄息子の気持ちは、確かによく分かりますね。神は、罪人の悔い改めを喜ばれる。人は、特に自分に害を及ぼした人の罪の悔い改めを、神と心をひとつにして喜ぶことが、なかなかできない。これは、僕たちが神を本当に深くは愛していないからで、そこに罪の本質があると思います。

No.2092 2007/04/08(Sun) 23:59:11

再ルカ15章 / 沙耶香 引用

そうですよね?なかなか人間は特に自分に害を及ぼした人の罪を赦すことはできません。
でも私は心から悔い改めるなら赦そうと思います。心から悔い改めているかどうかをお決めになるのはイエス様だから・・・・
神様にすべてを委ねる、これが永遠の目で見ると一番の得策なのです。

7節の
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪びとが悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の正しい人に勝る喜びが天にあるのです。
が印象に残りました。
私の浅はかな考えでは、悔い改める必要ない99人の正しい人より罪びとが一人悔い改めたほうが喜びがまさるというのが不思議だというか・・・
同じ喜びじゃないのかな?と思うんだけれど・・・

No.2093 2007/04/09(Mon) 09:54:25

Re: ルカ15章 / 沙耶香 引用

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ15章の3―7節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・

3度音読しました。静まっていると7節が気になるので、7節をもう2度音読します。

静まっていると、イエス様はいつでも赦せる心を持っておられるので、悔い改めていない罪があるならいつでも悔い改めることができるといわれたような気がします。
私はCENSORED未遂の経験を悔い改めていなかったように思います。そりゃー辛くて八方塞だったんだけれど、でも神様に対する罪なのです。悔い改めます。

No.2095 2007/04/09(Mon) 11:27:54
ルカ14章17節まで / 沙耶香 引用

今日はルカ14章17節までを読みます。

11節の
なぜなら、だれでも自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高くされるからです。
は謙遜するものは神から高く評価されるということだろうか?

14節に
その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。
とありますが、義人の復活のときってなんだろうか?

15節に
イエスと一緒に食卓についていた客のひとりはこれを聞いて、イエスに、「神の国で食事をする人は、何と幸いなことでしょう。」といった。
とあるが、神の国で食事をする人ってどういうことをいっているんだろうか?神の国って食事をするという行事がはたしてあるのだろうか?

No.2069 2007/04/06(Fri) 14:29:01

Re: ルカ14章17節まで / 昌夫 引用

11節は、沙耶香さんの解釈されたことが書いてあると思います。例えば、この世で犯罪人として十字架にかかられて、全ての人々に奉仕されたイエスが、神の国では最高位につかれています。同じように、キリスト者でも、他の人々に身を低くして奉仕している人たちが、神の国では高くされるということだと思います。

14節の「義人の復活」とは、信仰によって義と認められた人たちが、最後の審判の前に復活して復活の体をいただくことです。

15節の神の国で食事をする人は、神の国に入る全ての信仰者だと思います。マタイ26章29節で、イエスは神の国でぶどう酒を使徒たちと一緒に飲まれると言っておられると思います。また、ルカ24章41−43節で、復活されたイエスが魚を食べられました。こういうことから、イエスの再臨の後に神の国に入る信仰者たちは、イエスと一緒に実際に食事をすると思います。

No.2074 2007/04/06(Fri) 23:24:39

再ルカ14章17節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ルカ14章17節までを読みます。

うん、本当にこの世の中で高く評価されているは、学識や財産や容姿や名誉や仕事や収入がいい人なので、私なんかは一番縁遠い人間になります。
でもそんな私でもイエス様とともにイエス様の栄光の為にいろいろ奉仕していると神の国で高く評価されるようになると信じます。

マタイ26章29節・・・
ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造ったものを飲むことはありません。」
ルカ24章41―43節・・・
それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」といわれた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。

ふーん、神の国ではイエス様と実際に一緒に食事ができるんだ。楽しみですね・・・

3,4節の
イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」といわれた。
しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった。
が印象に残りました。

8節に
「婚礼の披露宴に招かれたときには、上座にすわってはいけません。あなたより身分の高い人が、招かれているかもしれないし、
とありますが、イエス様があなたより身分の高い人が招かれているかもしれないし、という言葉を発するなんて、イエス様らしくないですね・・・

No.2082 2007/04/07(Sat) 15:48:06

Re: ルカ14章17節まで / 昌夫 引用

>イエス様らしくないですね

僕たちが、聖書を読んでいて、こういう風に感じるときはイエスさまに近づくチャンスだと思います。僕たちは、どうしてもとか「イエスさまはこういう方」というイメージを自分の中で持っています。イエスさまは無限なので、人間の持つイメージには収まりきりません。それで、どうしても、聖書を読んでいると「あれっ、ここは、自分のイメージのイエスさまらしくない。」と思うところが出てきます。多くの人は、自分のイメージの方を大切にして、そういう聖句を無視したり、ひどくなると否定したりして、せっかく本当のイエスさまに近づくチャンスを無駄にしてしまうと思います。

なぜ、沙耶香さんのイエスさまのイメージと、イエスさまの御言葉が、ここであわないのか、祈りのなかで考えてみると良いと思います。

No.2086 2007/04/08(Sun) 01:55:46

Re: ルカ14章17節まで / 沙耶香 引用

その周辺を何度か読み返しました。

たとえ話をされていて、そのたとえ話の中で、世間の風習を語っているんだと思います。

No.2089 2007/04/08(Sun) 07:20:56
ルカ12章残り / 沙耶香 引用

今日はルカ12章残りを読みます。

42節に
主は言われた。「では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な思慮深い管理人とは、いったいだれでしょう。
とあるが、この思慮深い管理人とは誰のことだろうか?

49節の
わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。
は地獄に落とされたときのことをいっているのだろうか?

50節の
しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。
のバプテスマは脚注にイエスが「とこしえの御霊によって神におささげになった」注ぎの血、購いの死のこととあるが、意味不明だ。分からない・・・

No.2057 2007/04/03(Tue) 20:28:38

再ルカ12章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度ルカ12章残りを読みます。

お腹が痛い。痛くてたまらない・・・頭も痛い。憂鬱・・・イエス様イエス様イエス様・・・

44節に
わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。
とありますが、この中の彼とはイエス様のことだろうか?

45,46節に
ところが、もし、そのしもべが、「主人の帰りはまだだ。」と心の中で思い、下男や下女を打ち叩き、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、
しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰ってきます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実なものどもと同じ目にあわせるに違いありません。
とありますが、
この場合の主人はこの家の主人のことかな?しもべとはこの家の使用人のことかな?このことを通してイエス様と私たちクリスチャンとの関係のことが言いたいのかな?

59節の
あなたに言います。最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られないのです。
のそこから出られないのそことは前節の牢獄のことだろうか?

No.2058 2007/04/04(Wed) 13:22:43

Re: ルカ12章残り / 昌夫 引用

42節の思慮深い管理人とは、1.使徒たち、2.教会のリーダーたち、3.キリスト者全員、という3つの解釈がありえそうだと思います。キリスト者は誰でも世の光として、神の国の真の食べ物であるイエスの光を反射してまわりの人々に与える役目があるので、僕は、3番のキリスト者全員と考えます。

43節の帰って来る主人とは、再臨される主イエスのことだと思います。そうすると、44節の「彼」とは42節の「管理人」で、僕の解釈ではキリスト者のことです。

45−46節で、「主人」とは主イエスのこと、「彼」とは、この場合、御言葉に忠実でないクリスチャンのこと、「不忠実なもの」は信仰を持たない人、のことだと思います。ここは、信仰をいただいていても、罪のためにおりおりに主イエスのことを忘れてしまう僕たちクリスチャンへの厳しい警告だと思います。

49節の火とは、聖霊のことだと思います。ここで火は「さばき」と「聖くすること」や「鍛えること」のシンボルとして使われていると思います。聖霊は(12章10節にあるように)火のようにさばかれ、また、火のように信仰者を鍛えられるので、イエスは「火」と言われたと思います。ルカ3章16−17節にある火のイメージだと思います。「さばき」と「救い」は正反対のように思う人が多いのですが、聖書では表裏一体となっているようです。いつかイザヤ書を読まれると、「さばき」と「救い」交互に書いてあるところが多いことが分かると思います。

50節のイエスが受けられる「バプテスマ」とは、ここでは十字架の死のことだと思います。

59節の「そこ」とは沙耶香さんの思われたように前節の「牢」のことだと思います。

No.2064 2007/04/05(Thu) 22:01:32

Re: ルカ12章残り / 沙耶香 引用

そうでしょうね・・・本当にそうですね・・・クリスチャンになっても罪の性質は残っているのです。
そのたびに悔い改めるけれど、なかなかイエス様のように真っ白にはならないのが人間です。

No.2084 2007/04/07(Sat) 21:27:18
ルカ13章残り / 沙耶香 引用

今日はルカ13章残りを読みます。

24節の
「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。
はどういう意味だろうか?狭い門??何を狭い門から入るのだろうか?何が言いたいのだろうか?

27節の
だが、主人はこういうでしょう。「私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。」
はどういう意味だろうか?脚注にどこのものだか=宗教的本質を問う語で、神から来たものか生まれながらの人か、の意とあるが、ますます分からなくなります。

29節の
人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
はどういう意味だろうか?いろんな人が天国に集まるんだという意味かな?

30節に、
いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、今先頭のものがしんがりになるのです。
とあるが、この文章ではしんがりとは最後とか末尾という意味に聞こえるが、そうなのだろうか?しんがりなんていう言葉聞いたことないです。

No.2063 2007/04/05(Thu) 20:32:42

Re: ルカ13章残り / 昌夫 引用

24節の「狭い門」’とは、神の国の門だと思います。

ところで聖書を読むときに「イエスさまは何を言いたいのだろうか」と考えるより、「イエスさまは何を言っておられるのだろうか」と考えるようにすると良いと思います。考え方に大きな違いがあると思います。沙耶香さんは違いがあると思われますか?

27節は、マタイ7章13−23節と同じようなことをイエスが教えておられると思います。「不正をなす者ども」をイエスは「全然知らない」と言われます。キリストに向かって「主よ、主よ。」と言ったり、キリストの名によって預言をしたりしている人も、いつか本当にイエスと個人的関係を持って知っていただかなければ、神の国に入ることはできないということだと思います。

29節は、イスラエル人だけでなく、異邦人も神の国に入るということを言われているのだと思います。

30節の「しんがり」とは、日本語では特に軍隊が退却するときの最後尾のことです。ここでは沙耶香さんの思われたとおり末尾という意味だと思います。

No.2067 2007/04/05(Thu) 22:35:50

再ルカ13章残り / 沙耶香 引用

順番間違えたようだけれど、今日はもう一度ルカ13章残りを読みます。

うーん、分からない・・・イエス様が何を言いたいのかとイエス様は何を言っておられるのか?違い分からない・・・

マタイ7章13―23節・・・
読みました。何だかクリスチャンでも神の国に入れない人もいると思うと不安ですね・・・だってどこで線引きされているか分からないじゃないですか?不正をなすものではないにしても、罪はあるわけだし・・・
キリストに向かって「主よ。主よ。」と言ったり、キリストの名によって預言している人もイエス様との個人的関係を持って知っていただかなければ、神の国に入ることはできない・・・・なんていわれたら、どうしたらいいのか分からなくなります。

あ、じゃ25,26,27節の
家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、「ご主人様。あけてください。」といって、戸をいくらたたいても、もう主人は、「あなたがたがどこの者か、私は知らない。」と答えるでしょう。すると、あなたがたは、こういい始めるでしょう。「私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。」だが、主人はこういうでしょう。「私はあなたがたがどこのものだか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。」
の主人というのは家の主人ではなく、イエス様のことだったの?戸をあけてくれないというのは神の国のことだったの?
そういう比喩だと気づかなかったです。純粋に家の主人とその家のしもべだと思っていました・・笑・・・

No.2071 2007/04/06(Fri) 18:26:18

Re: ルカ13章残り / 昌夫 引用

>違い分からない

では、例えば沙耶香さんの言ったことに対して誰かが「沙耶香さんは何が言いたいのですか?」と聞いたときと、「沙耶香さんは何を言われたのですか?」と聞いたときで、沙耶香さんは、違う感じを受けると思いますか?

>どうしたらいいのか分からなくなります。

本当に、「主よ。主よ。」と言って「良い」行いをしていても、神の国に入れないかもしれないとすると、どうういう行いをしたらよいのかは分かりません。聖書には、どういう行いをするかよりも、イエスさまに対する信仰を持ちなさい、ということが書いてあると思います。本当に信仰を持っているなら、いずれ自分はイエスさまと個人的関係を持って知っていただいている、という確信がいただけると僕は思います。その確信がまだない場合は、自分のいろいろな行いに注意するより、まず、自分の信仰について祈りのなかで深く考えるのが良いと思います。

良い行いをして神に認めてもらおうとするとイエスさまが最も嫌われた偽善的な律法主義になってしまいます。ルカ10:38−42のマリヤのように、静かにイエスさまの前に出て御言葉を聞くことだけが必要なことです。でも、神に聞き従う真の信仰を持っていれば、何かをするようにイエスさまが言われます。それで、ヤコブ2章20−26節にあるように、信仰者は良い行いをするはずです。だから、もし、信仰を持ったつもりでも良い行いが出てこない場合は、自分の信仰についてよく検討する必要があると思います。また、マラキ3章8−10節を読むと、偽善的な目的ではなくて、信仰を深める目的で、御言葉に聞き従って良い行いをするように努力することは、神さまに喜んでいただけることだと思います。

No.2073 2007/04/06(Fri) 23:08:43

Re: ルカ13章残り / 沙耶香 引用

何を言っているのかというのは、そのまま直通という感じで、何が言いたいのかというのは、要約しているという感じかな?
管理人様は、自分はイエス様と個人的関係を持って知っていただいているという確信がいただけていますか?でも私はその確信だって驕りではないか?という思いもあります。
ルカ10章38―42節・・・
これはもう何度も読んでいるところですが、もう一度読みます。御言葉を聞き入ることが一番大事なことだということですよね?
ヤコブ2章20―26節・・・
うん、行いのない信仰は死んでいると書いています。行いによって義と認められるともあります。
マラキ3章8―10節・・・
御言葉に聞きしたがってよい行いをするように努力することが書かれているのだろうか?10分の一を捧げることについて書いているのではありませんか?

でもいろいろ難しいですね・・・罪を悔い改め、信仰を深めるように努力しているつもりだし、イエス様とともによい行いにも参加させてもらっているつもりだが、でもそれでも神の国に入れてもらえるかどうかなんて本当のところはイエス様にしか分からないでしょ?

No.2075 2007/04/06(Fri) 23:52:23

Re: ルカ13章残り / 昌夫 引用

>何を言っているのかというのは、そのまま直通という感じで、何が言いたいのかというのは、要約しているという感じかな?

そうですね。そして、イエスさまの言われることは、要約しようとしないで、そのまま直通で聞いたほうが良いと思います。

>管理人様は、自分はイエス様と個人的関係を持って知っていただいているという確信がいただけていますか?

僕はそういう個人的な関係の確信をいただいたというのが、自分の信仰だと思っています。これは、自分が良い人だからとか、良い行いをしたから、イエスさまに知っていただいた、と思うなら、驕りになると思います。でも、自分の罪を知ってイエスさまにすがりついたので、罪を赦してく個人的な関係を持ってくださった、というのが信仰です。似ているようでも、紙一重で、全く違うことだと思います。

例えば、沙耶香さんが、イエスさまに祈るとき、イエスさまは、個人的に沙耶香さんを知って、聞いていてくださると信じていませんか?そう信じるなら、沙耶香さんも個人的に知っていただいている確信を信仰としていただいている、と思います。

>御言葉を聞き入ることが一番大事なことだということですよね?

信仰をいただいたら、イエスさまの前に出て、従う気持ちで、静かに御言葉を聞くことだけが、必要なことである、ということだと思います。何かするべきことがあったら、何らかの方法で語ってくださいます。

マラキ3章8−10節は、信仰から喜んで捧げる気持ちになれなくとも、10分の1を捧げるという、行動をすることによって、信仰を深めなさい、ということが書いてあると思います。

>でもそれでも神の国に入れてもらえるかどうかなんて本当のところはイエス様にしか分からないでしょ?

そうですね。僕たちにできるのは、自分に真の信仰が与えられていて、罪が赦されて神の国に入れてもらえると確信することだけだと思います。それが真実だと断言する権利は僕たち人間にはないと思います。それから、神さまへの愛が深まって、神さまの栄光が現れることだけを望むようになるとき、自分が神の国に入れてもらえるかどうかは、どうでも良い、という気持ちになるキリスト者も多いようです。

No.2079 2007/04/07(Sat) 03:12:41

Re: ルカ13章残り / 沙耶香 引用

私は不安の性格だから何に対しても不安を感じます。個人的に私を知って聞いてくださると信じていますが、どこかに不安があり、私なんかみたいな罪びとはイエス様に嫌われているんじゃないか?とかいう不安があり、私なんかは祈っても聞いていただけないのではないか?という不安はあります。
不安の病気でいつも何に対しても不安が付きまといます。祈っていますがなかなか改善されません。

私も神様に対する愛は深いと思っていますし、なかなか神の国に入るかどうかなんてどうでもいいとは思えないです。だって牧師がいつも天国にいけず、地獄に行ったら最後だ、ずっと永遠に苦しみ続けるんだというから・・・

何だかいろいろ難しいですね・・・考えていると余計にわけがわからなくなってきます。

No.2083 2007/04/07(Sat) 15:58:16
全738件 [ ページ : << 1 ... 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 ... 74 >> ]

- HOME - お知らせ(3/8) - 記事検索 - 携帯用URL - フィード - ヘルプ - メール - 環境設定 -

- Skin: Modern v1.81 -

Rocket Board Type-X (Free) Rocket BBS