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ルカ13章17節まで / 沙耶香 引用

今日はルカ13章17節までを読みます。

6,7節に
イエスはこのような例えを話された。
「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りにきたが、何も見つからなかった。
そこで、ぶどう園の番人に言った。「見なさい。3年もの間、やってきては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。」
とあるが、何で無花果の木を植えたのに、無花果の実はならなかったのか?ぶどう園にいちじくを植えたら、いちじくは実がならないということはないと思うけれど・・・

No.2059 2007/04/04(Wed) 19:29:22

再ルカ13章17節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ルカ13章17節までを読みます。

お腹が痛くてたまらない。
天のお父様どうか私の腹痛を癒してください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・

11,12,13節の
すると、そこに18年も病の霊につかれ、腰が曲がって、ぜんぜん伸ばすことのできない女がいた。イエスはその女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました。」と言って、手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。
が印象に残りました。

No.2061 2007/04/05(Thu) 15:12:46

Re: ルカ13章17節まで / 昌夫 引用

6,7節ですが、僕の経験では庭に同じように野菜を植えて、同じように世話をしても、実がなることとならないことがあります。ぶどう園にいちじくを植えても、健康でない木であったために、いちじくの実がならないことがあると思います。

旧約聖書の7章1節とエレミヤ24章2節で、イスラエルがいちじくに例えられています。神はイスラエルを選んで、いろいろな奇蹟も見せられ、守られたけれど、イスラエルの人々は罪のために良い実をならすことができませんでした。それで、イスラエルに救い主イエスが必要になりました。

No.2066 2007/04/05(Thu) 22:21:19

Re: ルカ13章17節まで / 沙耶香 引用

旧約聖書のどこの7章1節ですか?
エレミヤ24章2節・・・
一つのかごのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものである。

人間はみな罪のある罪びと・・・だからこそ救い主イエス様が必要なのだ。罪が日常茶飯事だけれど、イエス様によって罪を追っ払ってもらいながら信仰の道を歩んでいきたいものです。

No.2076 2007/04/07(Sat) 00:01:27

Re: ルカ13章17節まで / 昌夫 引用

>旧約聖書のどこの7章1節ですか?

すみません。うっかり書き忘れました。ミカ書の7章1節です。

No.2080 2007/04/07(Sat) 03:15:09

Re: ルカ13章17節まで / 沙耶香 引用

ミカ書7章1節・・・
ああ、悲しいことだ。
私は夏のくだものを集めるもののよう、
ぶどうの取り残しの実を
取り入れるもののようになった。
もう食べられるふさは一つもなく、
私の好きな初なりのいちじくの実もない。

・・・あまりよく意味が分からないけれど・・

No.2081 2007/04/07(Sat) 15:08:41
ルカ12章40節まで / 沙耶香 引用

今日はルカ12章40節までを読みます。

21節の
自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。
が印象に残りました。

30節の
これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。
の異邦人達っていうのはだれのことを指しているのだろうか?

32節の
小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。
はどういう意味だろうか?小さな群れ??御国をお与えになる??天国に入れてくれるという意味だろうか?

37節の
帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。
はどういう意味だろうか?なんだか見えてこない。

No.2052 2007/04/02(Mon) 20:10:38

Re: ルカ12章40節まで / 昌夫 引用

30節の異邦人とは、イスラエル以外の国々の人たちのことです。当時は、異邦人で真の神への信仰を持っている人たちはほとんどいなかったらしいです。

32節の「小さな群れ」は、イエスの弟子たちが、人数の少なかったことと、この世的に偉い人たちではなかったので、「小さな」と呼びかけられたと思います。「御国をお与えになる」とは、神の国に入らせてくださる、ということです。信仰によって神の国のものになった人たちは、イエスさまの再臨の後、天国に住みます。神の国と、天国が完全に同じものであるかどうか、僕はよく分かりません

No.2055 2007/04/03(Tue) 04:31:02

再ルカ12章40節まで / 沙耶香 引用

今朝はもう一度ルカ12章40節までを読みます。

へーーあまり広められていなかったのかな?

えーーー??天国と神の国って違うの?うーん、よく分からない・・・

28節の
しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。
が印象に残りました。

31節の
何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは、それに加えて与えられます。
が印象に残りました。

33節に
持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。
とあるが、お金持ちの人で自分の持ち家や持ち車を売って施しをする人なんているんだろうか?なかなかこの御言葉どおりにできる人なんていないですね。(・・・・・)

40節に
あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけないときに来るのですから。
とありますが人の子=イエス様ですよね?イエス様の再臨のことを言っているのだろうか?

No.2056 2007/04/03(Tue) 10:39:03

Re: ルカ12章40節まで / 昌夫 引用

>へーーあまり広められていなかったのかな?

モーセの律法に基づいた旧約の時代には、異邦人に宣教しようという考えは、ほとんどイスラエルの人たちは持っていなかったのです。預言者のヨナでさえ、異邦人に宣教するように神さまに言われて拒否したほどでした。

33節ですが、自分の持ち物は持たずに、貧しい人々のためにつくした現代のキリスト者としては、マザー・テレサが有名です。現代の日本では、東京のトポス教会の牧師夫妻が上野公園のホームレスの人々の奉仕のために私財を使っておられます。私財を売って施しをされたかどうか知りませんが、私財を犠牲にして、ということと、私財を売ってというのは、表面上の違いで重要ではないように思います。イエスさまは、表面に出る行動よりも、心のことを語っておられることが多いと思います。

No.2060 2007/04/05(Thu) 02:57:51

Re: ルカ12章40節まで / 沙耶香 引用

うん、素晴らしいクリスチャンだと思います。本当は私財なんてものはないのです。イエス様が与えてくださった能力、才能、努力する力を生かして働いて得たお金はイエス様のものなのです。だからイエス様の指示があるとそのとおりに施されるのがいいけれど、なかなかできない人が多いというかほとんどです。
涙涙大涙・・・でも私も東京のトポス教会の牧師夫妻と同じようなことをされている素晴らしいクリスチャンを知っています。
イエス様の心を持たないとできないことですよね?素晴らしいです。

No.2062 2007/04/05(Thu) 15:22:32

Re: ルカ12章40節まで / 昌夫 引用

トポス教会の牧師夫妻や、掲示板でも前に紹介したCENSORED志願者の方たちと一緒に生活しておられるNPO白浜レスキューネットワークの藤藪庸一牧師の活動は、本当に素晴らしいと思います。

それと同時に、表に出た活動が、それほどはっきりキリスト的でなくとも、本当に自分の命を心からイエスに捧げておられて、イエスに与えられた仕事をされていると信じるキリスト者を多く知っています。表に出た行動が33節のままでなくとも、心は同じだと思います。表に出た行動が同じようでなくとも、同じように素晴らしいキリスト者だと僕は思います。

No.2065 2007/04/05(Thu) 22:12:03

Re: ルカ12章40節まで / akane 引用

はじめまして。数ヶ月ほど前に、ここにたどり着きまして、ずっと読ませて頂いておりますakaneです。色々教えられております。

本当に、私にとっても、マザーテレサは心から尊敬するキリスト者です。断定する事は出来ませんが、ひょっとして、私も含めて多くのクリスチャンは、キリストの事を誤解しているのではないだろうか・・・?と想う時があります。熱心に活動していても、見た目ではキリストにあって活動しているように見えても、信仰生活に疲れ果ててしまうクリスチャンも少なくないそうです。

どの人が素晴らしいキリスト者。どの人が素晴らしくないキリスト者と言う風に、評価したり色分けしてしまう自体が、かえって、クリスチャンを窮屈にさせていないだろうか?
神様を信じる故の自由が沢山与えられている筈なのに、自らその自由を奪い取ってしまっているような気がします。

せっかくイエス様と出会っているクリスチャン達を「キリスト者なのに」「こうあるべき」という風に見なしてしまうのは、とても悲しい事だと想いました。
クリスチャンであれ、一人一人違いますし、千差万別ですし、与えられてるものもそれぞれで・・・足りない部分は、神さまが補って下さるので、むしろ・・・その為にお互いに祈りあって励まし合う事が最善ではないでしょうか。。。と想っております。

やりとりを拝見して、感じるものがありまして、書かせて頂きました。割り込みレスになってしまいましたm(__)m

No.2068 2007/04/06(Fri) 10:06:57

Re: ルカ12章40節まで / 沙耶香 引用

素晴らしいキリスト者は少数ながらいます。
トポス教会の牧師夫妻もそうでしょうし、白浜の藤藪牧師もそうでしょうし、また管理人様もこのようにネットでいろんな活動をされているし、いろんな人、団体に施されていて素晴らしいと思います。
御自分のことは、誇らずにいるところもまた素晴らしいと思います。
そういう素晴らしいクリスチャンに対して暴言吐いて困らせるクリスチャンもいます。とんでもない奴ですね・・・

No.2070 2007/04/06(Fri) 14:33:41

Re: ルカ12章40節まで / 昌夫 引用

akaneさん、はじめまして。

数ヶ月もこの掲示板を読んでおられたと知って、とても励まされます。書き込んでくださって、どうもありがとうございます。

イエスさまの言われたことは、ほとんど全部、心のことだと思います。自分の心のことも、なかなか深いところや無意識のところは分かりませんが、他人の心なら、なおさらそうだと思います。akaneさんが書かれたように、表面に表れた行動からいろいろなキリスト者を比べて、評価したりさばいたりするのは良くないと思います。例えば、「あのキリスト者は、私財を売って施したから、それをしていないキリスト者よ素晴らしい。」というような考え方は、イエスさまに喜ばれないと思います。

でもそれと同時に、マザー・テレサのことを聞いたり、いろいろなキリスト者とかかわるとき、キリスト者の中にイエスさまの心を強く感じるときがあります。僕はそういうときに素直に、「素晴らしい。この人のようにイエスさまに近づきたい。」と感じるのは良いことだと思います。これは、人を比べて評価するということと、紙一重だけれど、違うことだと思います。

存在として、一人一人は神のかたちに造られていて、優劣はないけれど、ある側面をとって、その人が神と現在どのような関係にあるかは優劣があると思います。ある側面で、神との関係がとても深くなっている人がいたら、その関係を素晴らしい、と評価するのが良いと思います。このときに、3つのことがポイントになると思います。1.無限の神と人間の関係にはいろいろな側面があるので、一つの側面(たとえば、私財を売って施す)だけに捕らわれないこと、2.存在としての人ではなく、その人と神との関係に注意すること、3.自分の認識は絶対的なものでないので間違っているかもしれないことを意識しておくこと、が重要だと思います。

No.2072 2007/04/06(Fri) 22:42:57

Re: ルカ12章40節まで / akane 引用

管理人様、沙耶香様、レスをありがとうございますm(__)m
こちらも色々励まされています。感謝で一杯です。

ここでは、自分の掲げる理想の信仰を、全てのクリスチャンに対しても"全て適用"させようとすると、様々なきしみが生じてしまうんじゃないかなあという想いがありました。

実は、私自身も、素晴らしいキリスト者を探し求めて旅に出た事があって。。。その度に失望しては喜んでは一喜一憂していた時期があって(^^;それが、後になって、お互いに、大きな傷になってしまいました。
今は、その傷が少しずつ癒されつつ、むしろ・・・素晴らしいと評価されなくても、軽蔑されても、おばかなクリスチャンだと言われても、ずっこけながらも、泥まみれになりながらも、イエス様と共に歩もうとするクリスチャン達の姿に出会って力づけられています。

そんな信仰スタイルもある・・・と言うのをお伝えしたかったのでした。言葉が足りなくて申し訳ありません。

No.2077 2007/04/07(Sat) 01:08:33

Re: ルカ12章40節まで / 昌夫 引用

akaneさん、詳しく説明してくださって、ありがとうございます。

僕のまわりでも、素晴らしいと評価されずに、軽蔑されながら、ずっこけながら、泥まみれになりながら、イエスさまと共に歩もうとしている人たちがおられます。この世と逆になっている神の国では、そういう人たちこそイエスさまが高く評価されているのだろうと思います。

No.2078 2007/04/07(Sat) 02:59:01
ルカ11章残り / 沙耶香 引用

今日はルカ11章残りを読みます。

26節の
そこで、出かけていって、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住み着くのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」
の自分より悪いほかの霊を七つ連れて来てってどういうことだろうか?あまりよく分からない。

私は悪い罪びとです。自分の罪深さを思うとどうにかなってしまいそうなくらいです。今まで親兄弟をいろいろと苦しめてきました。
自分が苦しいからと言って自分の命を絶つようなことをしてはならないんだと思います。
イエス様赦してください。

28節の
しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神の言葉を聞いてそれを守る人たちです。」
が印象に残りました。

30節に
というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。
とあるが、ヨナとニネベって誰だろうか?

31節に
南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともにたって、彼らを罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞く為に地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりも勝ったものがいるのです。
とあるが、ソロモンて誰だろうか?前にもどこかで出てきたと思うけれど、もう忘れました。

39節の
すると、主は言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。
は何が言いたいんだろうか?今一意味が取れない。

42節に
だが、忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、講義と神への愛とはなおざりにしています。
とあるが、このなおざりというのは私ずっとおざなりだと思っていました。おざなりじゃないんですか?なおざりなんですか?

50、51節に
それは、アベルの血から、祭壇と神の家との間で、殺されたザカリヤの血に至るまでの、世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。そうだ。わたしは言う。この時代はその責任を問われる。」とあるが、
アベルの血ってなんだろうか?世の初めから流されたすべての預言者の血の責任てなんだろうか?分からない・・・

No.2045 2007/03/31(Sat) 22:41:19

再ルカ11章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度ルカ11章残りを読みます。

35節の
だから、あなたのうちの光が、暗闇にならないように、気をつけなさい。
が印象に残りました。

46節の
しかし、イエスは言われた。「あなたがた律法の専門家たちも忌まわしいものだ。あなたがたは人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本もさわろうとはしない。
が印象に残りました。でも人間そういう人がほとんどだから・・・自分からその荷物に触れようとするのはイエス様だけかもしれない。

花粉症が少しぶり返して鼻がぐずついています。鼻を切り離したいですが、鼻も私の体の一部で重要な役割を果たすので・・・

No.2047 2007/04/01(Sun) 07:52:46

Re: ルカ11章残り / 昌夫 引用

24−26章は、人から悪霊を追い出すという行為自体には、それほど意味がないことをイエスが教えられていると思います。ユダヤ人の悪霊追放師も、イエスのように、人から悪霊を追い出すのですが、しばらくして、悪霊が、自分よりも悪い他の霊を連れてきて、またその人に帰ってくることがあります。そうすると、その人の後の状態は、悪霊を追い出す前よりも悪くなります。ですから、20節にあるように、神の国はもう来ていることを知って、信仰によって神の国の人となり、もう悪霊が入ってこれないようにすることが大切だということを、イエスが教えられたと思います。

30節は、イエスの生まれられるずっと前に生きたヨナという預言者のことです。ヨナはアッシリア帝国の首都のニネベに宣教に行くように神さまに言われたのですが、ヨナは拒否しました。アッシリア帝国は北イスラエルを滅ぼした国です。ヨナは、イスラエルの敵であって、罪深い異邦人の国の首都であるニネベの人々が悔い改めて、神に赦されることを望まなかったようです。これは、間違ったイスラエルに対する愛国心によるものだったと思います。ヨナのことについては、旧約聖書のヨナ書を興味がわいたときに読んでみてください。

31節のソロモンは、ダビデ王の息子の一人で、ダビデの次に王になった人で、この世的な歴史ではソロモン王のとき、イスラエルは最も栄えました。詩篇で何回かソロモンが出てきました。特に詩篇第72篇は「ソロモンによる」とあるので、この機会にもう一度読んでみたら良いかもしれません。

37−52節で、イエスはパリサイ人と律法の専門家たちを激しく非難されています。特に39節は、パリサイ人たちが、外の行動をきよくしようとしているけれど、内側の心はきよくないことを非難されています。行動がいくら良いもにしても、その行動の動機が、純粋に神の国の義を第一として、神さまに喜んでいただくため、という心にならないと、偽善者でしかないのです。イエスは偽善者を罪人よりも最も激しく非難されました。

46節は、この偽善についてです。人間はどうしても心に偽善があると思うので、偽善のないのはイエスだけだと思います。だから、僕たちの中のイエスに働いてもらって、善い行いをすることだけがキリスト者の道だと思います。

42節に戻って「なおざり」は誠意がない、というような意味で「おざなり」と意味がほぼ同じだけれど、微妙に使い方などが違うようです。僕は「おざなり 辞書」でネットの検索をしてみたら、いろいろ出てきました。ただ、意味や使い方について、いろいろな説があるようなので、あまり調べても時間の無駄のように思いました。

50,51節のアペルは、アダムとエバの息子でした。創世記4章1−15節に、アベルの兄のカインが、アベルをねたんで殺した聖書の中の最初の殺人のことが書いてあります。ザカリヤとは、歴代誌第2の24章18−21節に出てくる、預言をして民に殺されたゼカリヤのことだと思います。このように、預言者や神と親しく交わる人たちは、他の人間たちに憎まれて殺されることが多かったのです。その罪のことが、「責任」だと思います。イエスの降臨からは、イエスを受け入れて罪を赦されるか、イエスを拒否して、罪の責任を自分でとるか、厳しい選択が福音を聞いた人々に与えられています。

No.2049 2007/04/01(Sun) 22:39:34

Re: ルカ11章残り / 沙耶香 引用

うん、そうですよね・・・でもうちの教会は悪霊を追い出すことをかなり強く言っている教会ですね・・・サタンを縛るとか去れとかいうお祈りをよくします。

ヨナは人間だけれど、ニネベは首都名だったの?そうですね?よく文章を見ると、ヨナは、ニネベの人にとあります。えっ??旧約聖書にヨナ書なんてあるの?知らない。

詩篇72章・・・ソロモンによるってソロモンが書いたということかな?うーん、よく分からないけれど・・・読みました。

純粋に神の国の義を第一として行動している人なんて一人もいません。そういう人がいるとしたらイエス様だけです。みんな罪がひそんでいます。

私、おざなりにするはほったらかしにするとかそういう意味だと思っていました。

ザカリヤ=ゼカリヤ??なんだか不思議ですね・・・なんだか難しいですね・・・聖書って・

No.2053 2007/04/02(Mon) 22:30:52

Re: ルカ11章残り / 昌夫 引用

>ザカリヤ=ゼカリヤ??なんだか不思議ですね

新約聖書はギリシア語でもともと書かれて、旧約聖書はへブル語でもともと書かれたので、同じ人の名前でも微妙に音が違っていたりします。

No.2054 2007/04/03(Tue) 04:23:16
ルカ12章20節まで / 沙耶香 引用

今日はルカ12章20節までを読みます。

1節に
そうこうしている間に、おびただしい数の群集が集まってきて、互いに足を踏みあうほどになった。イエスはまず弟子達に対して、話し出された。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。
とあるが、パリサイ人のパン種に気をつけなさいとはどういうことだろうか?それが彼らの偽善のこと???よく分からない・・・

2節に
おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済む物はありません。
とあるが、どういう意味だろうか?全くわからない。

5節の
恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。
の恐れなければならないお方とはイエス様のことですよね?

10節の
たとい、人の子をそしることばを使うものがあっても、赦されます。しかし、聖霊を汚すものは赦されません。
はどういうことだろうか?聖霊を汚すものが赦されないんだったら、人の子をそしることばを使うものも赦されないのではないか?

No.2048 2007/04/01(Sun) 20:37:25

Re: ルカ12章20節まで / 昌夫 引用

1節のパリサイ人のパン種とは、誰の中にもある偽善であって、例えば心を忘れて行いだけを良いものにしようとする律法主義のことだと思います。

2−3節は、最後の審判のときには、隠しているつもりのことも含めて、全てが明らかにされて、さばかれることをイエスが教えられていると思います。

5節の「権威を持っておられる方」は、ここでは、父なる神のように僕には感じられます。しかし、さばかれるのは、イエスなので、特にここで父なる神と子なる神を区別する必要はないと思います。

10節では、子なる神と聖霊を区別することが重要だと思います。ここは、とても解釈が難しいところです。例えば、僕は信仰を持つまで、長い間、「人間が神であるはずはない。」とか「信仰よりも善い行いが重要にきまっている。」などと、キリストをそしることばを多く言って生きていました。そのような恐ろしい罪もあわれみ深い神が赦してくださいました。しかし、信仰を持つ過程で、聖霊が僕を呼ばれたとき、もし僕が聖霊のお導きを拒否して、信仰を受け入れない選択をしていたなら、その罪は赦されなかったのだろうと思います。

No.2050 2007/04/01(Sun) 22:53:44

再ルカ12章20節まで / 沙耶香 引用

ふーん、10節は難しいですね・・・

イエス様って神様であり人間なのですよね?でも人間が神であるはずはないというのはある種当たっているような気もします。
イエス様は人間であり神様であられます。あーでも考えていると混乱してきます。
信仰よりも良い行いが重要は違うけれど、信仰を持つとだんだんと良い行いをするようになってきます。
でも信仰をもつ過程で聖霊が呼ばれたときに、お導きを拒否する人もいるんでしょうね・・・
もったいない選択をするものですね。

今日はもう一度ルカ12章20節までを読みます。

2,3節の
おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずにすむものはありません。
ですから、あなたがたが暗闇で言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。
は隠していることでも明るみに出るということ・・・うん、このあたりがイエス様らしいですよね?人間だと黙っているとわからないというのがあるけれど、神様は隠していることも全部お見通し・・・

15節の
そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
が印象に残りました。

No.2051 2007/04/02(Mon) 13:55:30
ルカ10章24節まで / 沙耶香 引用

今日はルカ10章24節までを読みます。

何だか体調優れないです。憂鬱です。でも、体調優れないときも、憂鬱なときもイエス様がともにいてくれるし、不安心理と対人恐怖で友達ができない私でも友人のようにいつもともにいてくださり本当に嬉しいです。
そして、こうしてこの世的に何の能力もない私がこういう風に掲示板に参加させていただける・・・ありがたいことです。イエス様がおられるからです。

家族みんなが生きている価値がないと叩くが、イエス様だけが私の存在価値を認めてくださいました。

1節に
その後、主は、別に七十人を定め、御自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。
とあるが、70人を定めとあるのは使徒以外だろうか?遣わすのだから、70人全員使徒なんだろうか?

12節に
あなたがたに言うが、その日には、その町よりもソドムのほうがまだ罰が軽いのです。
とあるが、その町よりもソドムのほうがまだ罰が軽いとはどういう意味だろうか?

13節に
ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちの間に起こった力あるわざが、もしもツロとシドンでなされたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰の中にすわって、悔い改めていただろう。
とありますが、コラジンてなんだろう?ベツサイダは国の名前ですよね?ツロとシドンってなんだろう?荒布ってなんだろうか?うーん、全体的に意味不明。

17節の
さて、七十人が喜んで帰ってきて、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」
が印象に残りました。

22節の
すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子が誰であるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」
が印象に残りました。

No.2024 2007/03/28(Wed) 20:42:38

再ルカ10章24節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ルカ10章24節までを読みます。

何だか憂鬱だけれど、天気がいいので、吹っ飛びそうです。イエス様がはれさせてくださったのでしょう。

3節に
さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです。
とあるが、何で狼の中に子羊を送り出すようなものなの?見知らぬ町や村に送り出しているからかな?

頭が痛い、憂鬱、口の中にいろんなものができている。痛い。でも花粉症が大分和らいできたことが救いの一つだ。花粉症ひどいときは、一日中鼻水とくしゃみの番をしていないといけない状態だった。しゅんでもしゅんでも出るし、すぐに鼻がじゅくじゅくしてくるし・・・和らいで本当に楽になった。

4節に
財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。
とありますが、何で、財布も旅行袋も持たずにくつもはかずに行きなさいなのか?何で誰にも道で挨拶してはならないのか?不思議だ。

18節の
イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。
と続く、19節の
確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
が印象に残りました。

23節の
それからイエスは、弟子たちのほうに向いて、ひそかに言われた。「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。
はどういう意味だろうか?あなたがたの見ていることを見る目は幸い???意味がわからない・・・

No.2029 2007/03/29(Thu) 10:48:24

Re: ルカ10章24節まで / 昌夫 引用

1節の70人は12人の使徒とは別の弟子たちだったと思います。

3節は、信仰者がまだ信仰を持っていない人たちに伝道に行くのは、子羊が狼の中に行くほど危険なことであるということだと思います。

4節は、財布も旅行袋も持たないことで、神だけに頼って、伝道するようにということだと思います。また、伝道という特別な指示を受けている間は、挨拶のように伝道に関係しないことに時間を使ってはいけない、ということだと思います。

12節は、創世記19:24−29で罪のために滅ぼされたソドムよりも、イエスを受け入れない町の罪が重いので、最後の審判のときの罰も重くなるということだと思います。

13節のベツサイダはガリラヤ湖の北岸にある町です。コラジンも町だと思われますが、位置ははっきりしません。おそらくベツサイダの近くの町だったと思います。ツロとシドンはどちらも異邦人の国のフェニキヤの地中海沿岸の町です。

荒布は、黒い荒い布で、哀しいときや悔い改めのときに当時のイスラエルの人々が着ました。第1列王記21:27に例があります。

23節は、21−22節でイエスが説明された父なる神からの啓示を与えられ、イエスを神の子と信じて見ている人たちは祝福されている、ということだと思います。

No.2031 2007/03/30(Fri) 00:18:37

Re: ルカ10章24節まで / 沙耶香 引用

12使徒と70人の弟子は別の弟子??だったらもっと弟子はいたかもしれないですね・・・

信仰者がまだ信仰を持っていない人に伝道することは、そんなに危険なことなの?たやすく受け入れられるようなものではないとは思うが、危険なのかな?

創世記19章24―29節・・・
読みましたが、だからソドムとゴモラって何なの?人名なの?

でもコラジンて人名ぽいですよね?アラジンているじゃないですか?だからコラジンもいてもおかしくないから・・・

列王記第一21章27節・・・
アハブは、これらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に荒布をまとい、断食をし、荒布を着て伏し、また、打ちしおれて歩いた。
外套???身につけているもののことかな?

No.2034 2007/03/30(Fri) 10:11:51

Re: ルカ10章24節まで / 昌夫 引用

>信仰者がまだ信仰を持っていない人に伝道することは、そんなに危険なことなの?

伝道者は迫害を受けるものです。

>だからソドムとゴモラって何なの?

2つの町の名です。創世記19章にあるように、罪人が多かったので、神さまが滅ぼされました。

>でもコラジンて人名ぽいですよね?

そうですね、それに、コラジンという町があったとしても、どこにあったかも分かっていません。だから、コラジンが人名である可能性も考えてみると良いです。

でも、ソドムとベツサイダと、ルトのシドンは町の名だということが分かっています。そう考えてルカ10章12−13節を読んだとき、コラジンが人名だと考えて読んだほうがしっくりきますか?それとも、町の名だと考え読んだほうがしっくりきますか?

No.2037 2007/03/31(Sat) 00:17:47

Re: ルカ10章24節まで / 沙耶香 引用

よくは分からないが、ああコラジン。ああベツサイダ。とありますので、ベツサイダと同じ物=町名だと考えたほうがいいのでは?と思います。

No.2040 2007/03/31(Sat) 08:02:21

Re: ルカ10章24節まで / 昌夫 引用

そうですね。このように、ひとつひとつの語の意味を調べるだけでなく、その語のまわりの文に何が書いてあるか(文脈と言います)をよく考えて、ひとつひとつの語の意味をとるようにしていくことが大切だと思います。ひとつひとつの語には、いろいろな意味がありえるので、文脈を考えて、語の意味を考えていくのが、聖書解釈をする上で、とても重要です。

No.2043 2007/03/31(Sat) 22:02:49

Re: ルカ10章24節まで / 沙耶香 引用

私の場合、聖書解釈以前に文脈とかそういう文章理解ができないので、なかなか意味を取るのが至難の業です。でもイエス様がおられるので、きっといつか聖書の意味も取れるようになると信じて期待して感謝します。

No.2046 2007/03/31(Sat) 22:44:38
ルカ10章残り / 沙耶香 引用

今日はルカ10章残りを読みます。

27節の
すると彼は答えて言った。「「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」また「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」とあります。」
と続く28節の
イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
が印象に残りました。

39節の
彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
が印象に残りました。

42節の
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。
が印象に残りました。

No.2030 2007/03/29(Thu) 20:34:17

Re: ルカ10章残り / 昌夫 引用

ルカ10章38−42節のマルタとマリヤの話は、僕のとても好きなところです。この世では、いろいろなことをしていないと価値がないように思われますが、神の国では、イエスさまの前にじっと座って、聞いていることだけが必要なこととイエスさまが言われていると思います。

するべきことがあれば、イエスさまが語ってくださいます。だから、自分で勝手に良いと思うことをするよりも、じっとイエスさまの言われることを静かに聞くことが大切だと思います。

No.2032 2007/03/30(Fri) 00:21:51

再ルカ10章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度ルカ10章残りを読みます。

そうですよね?でも人間はイエス様の御心に従うということを100%できる人なんていません。
自分の意思で決めてしまうのです。だからいろいろ問題起こるのでしょう。
私も今まで数々騙されてきましたが、その時にイエス様と知り合っていたらと思うと・・・
でもそのことも益としてくださいました。感謝します。

27,8節に
すると彼は答えて言われた。「「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」また「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」とあります。」
イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
とありますが、
神を愛するものには無条件で永遠の命を与えるのではなかったのですか?でも神を愛したら、そういうことになるからかな?いや、でも神を愛するクリスチャンでもそういう風じゃない人も時々いますが・・・そういう人の場合は永遠の命は与えられないのですか?どうなのだろうか?

うん、でもやはり42節の
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
が印象に残りました。

No.2033 2007/03/30(Fri) 09:47:41

Re: ルカ10章残り / 昌夫 引用

27,28節については、マルコ12章28−34節もここで読んでおくと良いと思います。

>神を愛するものには無条件で永遠の命を与えるのではなかったのですか?

僕の聖書解釈では、その通りで、そう信じています。

>でも神を愛したら、そういうことになるからかな?

そうですね。ヨハネの手紙第1の4章20−21節から、そういうことになると信じます。

>いや、でも神を愛するクリスチャンでもそういう風じゃない人も時々いますが・・・そういう人の場合は永遠の命は与えられないのですか?

ヨハネの手紙第1の4章20−21節を読むと、「神を愛する」と言いながら、目に見える兄弟姉妹を愛さない人は、偽り者です。偽り者であっても本当に信仰を持っていれば、罪は赦されていると思いますが、偽り者のままでは天国に入ることはできないと思います。僕も全ての兄弟姉妹を心から愛しているわけではないと思うので、偽り者です。でも、信仰を持ちつづけているかぎり、神さまが僕の偽りの罪深い心を聖くしてくださり、いつか死んだときに、天国に入れてくださるのだと信じています。

No.2036 2007/03/31(Sat) 00:10:25

Re: ルカ10章残り / 沙耶香 引用

マルコ12章28―34節・・・
読みました。
ヨハネの手紙第一4章20―21節・・・
神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽りものです。目に見える兄弟を愛していないものに、目に見えない神を愛することはできません。
神を愛するものは、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

うん、でもそうじゃなく、同じ教会の人でも私を迫害してくる人もいますし、避ける人もいます。でも人間罪びとだからそういう性質はあるのかもしれないですね・・・
すべての兄弟姉妹を心から愛することができるクリスチャンなんてそうなかなかおられないと思います。
私が言っているそういう風じゃない人とは明らかに私を迫害してくる人や、挨拶すらしない人です。
でもそういう人でもイエス様が愛した神の子だから、私は愛します。

No.2041 2007/03/31(Sat) 08:14:22

Re: ルカ10章残り / 昌夫 引用

>でもそういう人でもイエス様が愛した神の子だから、私は愛します。

素晴らしい考えですね。主にある兄弟姉妹が、お互いに罪があっても、イエスさまが愛されたように愛しあうとが、イエスさまの新しい戒めです(ヨハネ13:34)。

No.2044 2007/03/31(Sat) 22:07:11
ルカ11章25節まで / 沙耶香 引用

今日はルカ11章25節までを読みます。

うーん、家族内でいろいろ大変なので、寝る時間とか起きている時間とかをいろいろずらさないといけないので・・・家族の迫害にあうといろいろ苦労します。

花粉症よくなっていたのに、少しぶり返しました。
お風呂が3日に一回なのですごく痒いです。イエス様痒さをふっ飛ばしてください。

2,3,4節の
「父よ。御名があがめられますように。
御国が来ます様に。
私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに
負い目のある者をみな赦します。
私たちを試みに会わせないでください。」
というのは教会でいつも主の祈りとして祈っています。

9節の
わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
が印象に残りました。

23節に
わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めないものは散らすものです。
とあるが、散らすもの??ってどういう意味だろうか?

No.2035 2007/03/30(Fri) 20:39:58

Re: ルカ11章25節まで / 昌夫 引用

ここは、僕は、20節が「神の国」のことを少しでも理解するうえで重要だと思います。

23節の「集めるもの」は、神の国に人々を集める人や天使のような霊。「散らす者」とは、神の国の近くから人々を散らして、神の国に人々が集まらないようにする人や悪霊やサタン、のことだと思います。

No.2038 2007/03/31(Sat) 00:22:21

再ルカ11章25節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ルカ11章25節までを読みます。

13節の
してみると、あなたがたも、悪いものではあっても、自分の子供には良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
が印象に残りました。

19節に
もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの仲間は、だれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。
とあるが、別にあなた方の仲間を誰によっても追い出す必要ないではないか?どうしてこういうことを書くのだろうか?

No.2039 2007/03/31(Sat) 07:57:10

Re: ルカ11章25節まで / 昌夫 引用

19節の「あなたがたの仲間」とは、当時のユダヤ人に悪霊を追い出す、悪霊追放師たちがいて、その人たちのことです。その人たちが追い出していたのは、悪霊です。

No.2042 2007/03/31(Sat) 22:00:17
ルカ8章28節まで / 沙耶香 引用

今日はルカ8章28節までを読みます。

2節に
また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、
とあるが、病気を治すという漢字は治すだと思うんだけれど、何で聖書では直すと書いているのだろうか?何か意味があるのだろうか?私はいろいろと体調不良なので、この漢字のことはかなり重要だ。

花粉症は大分よくなってきたが、お腹がもこもこ痛いし、女性特有の不快感でいろいろ辛い。
でも花粉症がよくなって、鼻が通って嬉しい。

12節の
道端に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。
が印象に残りました。
こういう人にならないように気をつけていないと・・・でも人間は罪びとだから、誰でもこういう危険性はあるので・・・

続く、13節の
岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときは喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練の時になると、身を引いてしまうのです。
も印象に残りました。誰でもこういう風になりがちだから、気をつけないと・・・・

No.1983 2007/03/23(Fri) 20:17:57

Re: ルカ8章28節まで / 昌夫 引用

2節での「直す」ですが、何か特別の意味があってこの漢字が選ばれたかどうか、僕には分かりません。

ルカの福音書はもともとギリシア語で書かれていて、ギリシア語には漢字はありませんから、「治す」よりも「直す」という漢字を選んだのは日本語に訳した訳者たちです。僕は聖書は神のみことばと信じていますが、それは、ルカがギリシア語でこの福音書を書いたときに神がルカに霊感を与えたということだと考えます。日本語の訳者に特にそのような霊感が与えられたとは考えていません。だから、どのような漢字を訳者がどのような理由で選んだかということは、僕にとってあまり興味のわく問題ではありません。

No.1985 2007/03/23(Fri) 21:55:22

再ルカ8章28節まで / 沙耶香 引用

うーん、あまり気にするな!!ということかな?

今日はもう一度ルカ8章28節までを読みます。

18節の
だから、聞き方に注意しなさい。というのは、もっている人は、さらに与えられ、持たない人は持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」とはどういう意味だろうか?
持っているというのは何のことだろうか?財産やお金のようなこの世的祝福のことだろうか?
何で持っている人はさらに与えられるのに、持たない人は持っていると思っているものまで取り上げられるのだろうか?これでは持っていない人がかわいそうではないか?イエス様らしくないですね・・・???それとも意味が違うのかな?

24節の
そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」といった。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も治まり、なぎになった。
が印象に残りました。

No.1987 2007/03/24(Sat) 10:36:01

Re: ルカ8章28節まで / Aja 引用

お久しぶりです。

新共同訳聖書を見てみたら「病気をいやしていただいた」となっていました。

広辞苑には「治す」ではなく「直す」の方にいろいろ説明が書かれていて、
〜病気について「直す」を使うときにはふつう「治す」と書く〜と書いてありました。
だからもともとは「直す」の方が使われていたのではないかと思います。
沙耶香さんも広辞苑あったら見てみてください。

No.1989 2007/03/24(Sat) 11:01:07

Re: ルカ8章28節まで / 沙耶香 引用

私は広辞苑は持っていません。

Ajaさんお久しぶりです。元気ですか?

No.1991 2007/03/24(Sat) 21:35:07

Re: ルカ8章28節まで / Aja 引用

元気ですよ〜。先週から風邪をひいて月火水は一日中寝ていましたが。おかげで体がかちかちにこってしまいました。
なんだか今頃になって風邪はやってますよね。インフルエンザの人もまわりに本当に多いです!沙耶香さんも気をつけてくださいね。

No.1992 2007/03/24(Sat) 21:59:04

Re: ルカ8章28節まで / 昌夫 引用

18節はさばきと報いに関すると思います。神さまの愛は2つの側面があると思います。ひとつの側面は、特にこの世で苦しんでいる人たちを慈しみ、恵んでくださるという面です。もうひとつの面は、神さまの愛は聖なので、公平にさばき、報いられるということです。クリスチャンは、神さまの慈しみや恵みの面ばかり知りたくなることが多いですが、公平なさばきと報いという面もしっかり学ぶことが大切だと思います。

それで、公平なさばきと報いということを考えながら、マタイ13章の1−23節を読んでみてください。これを読んでから、もう一度ルカ8章18節を読んでみてください。どういう意味だと思いますか?

No.1993 2007/03/25(Sun) 04:35:27

Re: ルカ8章28節まで / 沙耶香 引用

マタイ13章1―23節・・・
読みました。うーん?どういう意味かはわからないが、マタイの13章12節に同じような御言葉がありますね。
私にはもっている者はさらに与えられるはマタイ13章8節にあるような何十倍にも増えるということかな?と思います。持たない者はもっていると思っているものまで取り上げられるは、4―7節のようにもろく崩れ去ることが言いたいのかな?と思います。

No.1998 2007/03/25(Sun) 08:14:22

Re: ルカ8章28節まで / 昌夫 引用

うん、18節について沙耶香さんの考えている方向が、ずれた方を向いていたのが、直ってきているように感じます。

実を結ぶということや、さらに与えられるということは、この世的な報いではなく、神の国での報いである、と解釈してみてください。それで、このことに注意しながら、ヨハネの福音書の15章1−11節を読んでみてください。

それから、もう一度ゆっくり声に出してルカ8章18節を読んでみてください。イエスさまがどういうことを語っておられるように感じますか?前に読んだときと、感じ方が変わってきましたか?

No.2001 2007/03/26(Mon) 03:28:55

Re: ルカ8章28節まで / 沙耶香 引用

実を結ぶということや、さらに与えられるということがこの世的な報いでなく、神の国での報いである・・・
これだってイエス様がそうおっしゃったのではなく、管理人さんがそう解釈しているだけでしょ?でもそう解釈することで意味が取れるかもしれないからそう解釈してみます。

ヨハネの福音書の15章1―11節・・・
うん、イエス様の御言葉にとどまるなら、喜びを与え多くの実を結ぶと書かれています。

ルカ8章18節・・・
やはり御言葉にとどまらないと土台がないものは崩れるということかな?と思います。

No.2006 2007/03/26(Mon) 10:34:54

Re: ルカ8章28節まで / 昌夫 引用

いろいろな人々がいろいろな解釈をするので、それぞれの解釈をとると、どう読めるか、祈りの中で読んでみると良いと思います。そうしているうちに、イエスさまがどう語っておられるのか、だんだん真理に近づいていけると思います。

ヨハネの福音書の15章1−11節や、ルカ8章18節を読んで、沙耶香さんは、「実を結ぶ」ことや「さらに与えられる」のは、この世的な報いだと思いますか、それとも神の国の報いのことだと思いますか?

No.2009 2007/03/26(Mon) 22:10:02

Re: ルカ8章28節まで / 沙耶香 引用

分からないというのが正直な答えですね・・・
でも普通に読んでいくとこの世的な物だと思えます。だって神の国の報いなんて私たち見たことも聞いたこともないですもん。想像できるだけで、どういうものか量りがたいです。
でも多分イエス様は神の国の報いのこともおっしゃっていると思います。多分両方じゃないかな?

No.2013 2007/03/27(Tue) 21:58:08

Re: ルカ8章28節まで / 昌夫 引用

いろいろ疑問点を考えながら、祈りのなかで何回も聖句を読んで、真理に近づいていくことが大切だと思います。

ヨハネ15章5節で、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」とイエスが言われているのはどういう意味だと思いますか?神の国の報いとこの世的な報いということを考えながら、読んでみてください。

No.2014 2007/03/27(Tue) 23:36:30

Re: ルカ8章28節まで / 沙耶香 引用

ここは牧師がメッセージで説明してくれたところで御言葉にとどまらず、ずれると私たちは何もすることができないということだと思うのですが・・・
神の国の報いとこの世的な報いのこと???関連がわからない・・・

No.2019 2007/03/28(Wed) 08:34:01

Re: ルカ8章28節まで / 昌夫 引用

「何もすることができない」ということは、どういうことだと思いますか。弱いものをいじめてお金をもうけることばかりしていて、御言葉から遠くずれているような人たちが現実にいると思います。でも、そういう人たちも、この世的にはお金をもうけたり、いろいろなことをしていますね。そういう人たちは、「何もすることができない」とイエスが言われたのは、どういうことだと思いますか?

No.2022 2007/03/28(Wed) 10:50:05

Re: ルカ8章28節まで / 沙耶香 引用

何もすることができない・・・?
私も弱いものをいじめてお金をもうけることばかりしている人から被害にあいました。
そういう人たちは何もすることができないとイエス様が言われたのはどういうことか???うーん・・・・神の国では何もすることができないということかな?
だってそういう人は神の国に入ることできないだろうから・・・うーん・・でもよく分からない・・・
あまり考えていると混乱してきます。

No.2026 2007/03/28(Wed) 20:50:04

Re: ルカ8章28節まで / 昌夫 引用

>神の国では何もすることができないということかな?

うん、僕はだいたいそういうことだと思います。信仰者は、この世で、神の国のための仕事を与えられて神の国での実を結ぶのですが、御言葉からずれると、そういうことは何もできない、という意味だと思います。

そういう風に「何もすることができない」の意味を取ると、実を結ぶということは、神の国での実で、自分のためにお金をもうけたりすることは実には入らないように思います。そういうことをしても、何もしたことにならないからです。

こう考えていくと実を結ぶとは、まだ信仰を持っていない人に福音と伝えてイエスさまを紹介をして、信仰を持つようになるのに用いられたり、信仰を持っている人を励まして、信仰を深めることに用いられたりすることだと思います。

牧師にも、「実を結ぶ」や、「さらに与えられる」ということが、どういう意味か、詳しく質問してみると良いと思います。ひとことで、「この世」と言っても、この世での伝道の喜びのように、別の意味で使っていることも多いので、詳しく聞いてみると、牧師も僕と同じように考えておられるのかもしれません。

No.2027 2007/03/29(Thu) 00:36:17

Re: ルカ8章28節まで / 沙耶香 引用

ふーん・・・何だか難しいですね・・・
そうですよね・・・自分のためにお金儲けすることなんて神の国の実には入らないですね・・・
私を騙して巨額のお金を盗んだ人がいますが、その人はなんの悔い改めもなく、日々のうのうと前と同じ職場で働いています。何のお咎めもなくです。
何だかこの世の中は悪いことをする人が得をして正直者が馬鹿を見るというのが通例のようになっていますが、神の国のことを考えるとこの世で悪いことをしてきた人は裁かれるので・・・

No.2028 2007/03/29(Thu) 09:21:39
ルカ9章残り / 沙耶香 引用

今日はルカ9章残りを読みます。

48節の
彼らに言われた。「だれでも、このような子供を、わたしの名のゆえに受け入れるものは、わたしを受け入れるものです。また、わたしを受け入れるものは、わたしを遣わされた方を受け入れるものです。あなたがたすべての中で一番小さいものが一番偉いのです。」
のあなたがたすべての中で一番小さいものが一番偉いとはどういう意味だろうか?一番小さいとは何が一番小さいということだろうか?見た目だろうか?それとも財産のことだろうか?それとも????

54節の
弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」
はどういう意味だろうか?よく分からない・・・

58節の
すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」
はどういう意味だろうか?人の子=イエス様ならイエス様は寝るところもないということだろうか?

60節の
すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」
はどういう意味だろうか?死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせる???意味不明だ。

61節の
別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家のものにいとまごいに帰らせてください。」はどういう意味だろうか?いとまごいってなんだろうか?

No.2012 2007/03/27(Tue) 21:48:58

Re: ルカ9章残り / 昌夫 引用

48節ですが、当時のユダヤでは、子供は価値の小さいものとされていたようです。「小さい」ものとは、この世的に価値がないとされるものだと思います。見た目が悪かったり、財産がなかったり、能力がなかったりすることだとおおいます。一番小さいものは、最もこの世的に価値のないとされる人に、しもべのようにつくす人だと思います。そういう人がいれば、神の国では一番偉い人で、それは、やはりイエスだと思います。

54節の背景は、列王記第2の1章9−12節で、預言者のエリヤがずっと昔に北イスラエルの不信仰な人たちを天から火を呼び下して焼き滅ぼしたことかと思います。昔の北イスラエルに住むサマリヤ人たちが、イエスを不信仰のために受け入れなかったので、ヤコブとヨハネは同じように焼き滅ぼすことが良いのか、と思ったようです。

58節は、「枕する所もありません」は、イエスは夜帰って寝るための家も持っていない、という意味だと思います。

60節の「彼らの中の死人たち」とは、イエスに聞き従わず、霊的に死んでいる人たちのことだと思います。そういう人たちに、葬式をさせ、イエスに聞き従う者は、神の国を言い広めなさい、ということだと思います。

61節の「いとまごい」とは「さりょうなら」と別れの挨拶をする意味だと思います。

No.2016 2007/03/28(Wed) 00:04:14

再ルカ9章残り / 沙耶香 引用

今日はもうう一度ルカ9章残りを読みます。

何で当時のユダヤでは、子供は価値が小さいとされていたんだろうか?だってみんな子供のときがあって大人になるんでしょ???うーん、不思議だ・・・
えーーーでも48節でこの世的に価値がない=見た目が悪い、財産がない、能力がない=私のことだ。
この世的に価値がない私は神の国では高く評価してもらえるのだろうか???分からない・・・でもあまりにもこの世的に価値がなさすぎて神の国でも評価されないかも・・・

列王記第2の1章9―12節・・・
そこで、アハズヤは50人隊の長を、その部下50人とともにエリヤのところに遣わした。彼がエリヤのところに上っていくと、そのとき、エリヤは山の頂にすわっていた。彼はエリヤに、「神の人よ。王のお告げです。降りてきてください。」といった。
エリヤはその50人隊の長に答えていった。「もし、私が神の人であるなら、天から火がくだってきて、あなたと、あなたの部下50人を焼き尽くすだろう。」すると、天から火が下ってきて、彼と、その部下50人を焼き尽くした。
王はまた、もうひとりの50人隊の長を、その部下50人とともにエリヤのところに遣わした。彼はエリヤに答えていった。「神の人よ。王がこう申しております。急いで降りてきてください。」
エリヤは彼らに答えていった。「もし、私が神の人であるなら、天から火が下ってきて、あなたと、あなたの部下50人を焼き尽くすだろう。」すると、天から神の火が下ってきて、彼と、その部下50人を焼き尽くした。
あまりよく分からないが、54節はこのことが書かれているんだ。

いとまごい=別れの挨拶・・・

No.2017 2007/03/28(Wed) 08:21:32

Re: ルカ9章残り / 昌夫 引用

>この世的に価値がない私は神の国では高く評価してもらえるのだろうか?

もし、沙耶香さんがこの世的には価値が低いようにまわりの人々に評価されていたら、神の国では高い評価を受ける人であるということを、イエスさまが48節で宣言しておられると思います。

列王記第2の1章9−12節は、エリヤがイエスの降誕の800年以上も前にしたことが書いてあります。そのこと自体ではないけれど、そのことを背景として、ルカ54節で、ヤコブとヨハネが天からの火のことを語ったと思われます。

No.2023 2007/03/28(Wed) 10:59:40

Re: ルカ9章残り / 沙耶香 引用

嬉しいなー――。私たち精神障害者はこの世的にはかなり低くというより人間扱いされていないです。世間も家族も相手にしてくれないです。
そんな私たちでも神の国では高い評価を受けられるなんて最高ですね・・・
こういうことを聞くと精神障害者にもっともっと、イエス様を広めたいと思うのです。

No.2025 2007/03/28(Wed) 20:46:22
ルカ9章40節まで / 沙耶香 引用

今日はルカ9章40節までを読みます。

22節に
そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」
とありますが、ここの人の子というのはやはりイエス様のことだろうか?だとすると納得できるが・・・

24節の
自分のいのちを救おうと思うものは、それを失い、わたしのために自分のいのちを失うものは、それを救うのです。が印象に残りました。

27節の
しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわないものたちがいます。
はどういう意味だろうか?天国にいくという意味だろうか?

No.2007 2007/03/26(Mon) 20:25:57

Re: ルカ9章40節まで / 昌夫 引用

22節や他のところで、イエスが「人の子」と言われたのは、すべてイエスがご自分ののことを言われたのだと思います。

27節は、さまざまな解釈があります。「神の国を見る」ことが、何を意味するのか、ということがポイントになります。「神の国を見る」とは

A.28−36節にあるイエスの変貌のことを指す。

B.使徒2章1−41節にあるペンテコステの聖霊降臨を指す。

C. AとBの両方を指す。

という3つに説が、主なものだと思います。僕はC説が正しいのではないかと思っています。

No.2010 2007/03/26(Mon) 22:17:13

Re: ルカ9章40節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ルカ9章40節を読みます。

9節28―36節はイエスの変貌のことなの?読んでもよく分からないからなーーー・・・
使徒2章1―41節・・・ふーん、これがペンテコステの聖霊降臨のことなの?読んでもよく分からないですね・・・
では管理人さん説では、イエスの変貌とペンテコステの聖霊降臨を見るまでは、決して死を味わわないものたちがいるということですか?

23節の
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そして私についてきなさい。
が印象に残りました。

花粉症大分よくなってきたが、時々鼻がじゅくじゅくして鼻水やくしゃみが出る。

39節の
ご覧ください。霊がこの子に取り付きますと、突然叫びだすのです。そしてひきつけさせてあわを吹かせ、かき裂いて、なかなか離れようとしません。
と40節の
お弟子達に、この霊を追い出してくださるようお願いしたのですが、お弟子達にはできませんでした。」
が印象に残りました。

No.2011 2007/03/27(Tue) 10:53:25

Re: ルカ9章40節まで / 昌夫 引用

>9節28―36節はイエスの変貌のことなの?

28−29節で、イエスがペテロとヨハネとヤコブを連れて山に登られ、祈っておられるうちに、イエスの御顔の様子が変わり、イエスの着ておられた服も白く光り輝くように変わったということが分かりますか?このことを、「イエスの変貌」と言います。

27節で「ここに立っている人々」の中には、12使徒や他の弟子たちがいたと思います。12使徒の中でも、ペテロとヨハネとヤコブは、イエスの変貌を見て、死を味わわないうちに、神の国を見たと思います。また、他の使徒たちや弟子たちは、ペンテコステのときに、神の国を見たと思います。

No.2015 2007/03/27(Tue) 23:43:47

Re: ルカ9章40節まで / 沙耶香 引用

うん、29節に
祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。とあります。元々は御衣は白くなかったの?イエス様は元々白いものを着ているようなイメージがあるので・・・

何だか難しくてよく分からないですね・・・頭が混乱してきました・・・

No.2018 2007/03/28(Wed) 08:28:23

Re: ルカ9章40節まで / 昌夫 引用

29節の御衣については、元々白かったとしても、光輝いてはいなかったと思います。

No.2021 2007/03/28(Wed) 10:45:02
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