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ルカ3章20節まで / 沙耶香 引用

今日はルカ3章20節までを読みます。

7節に
それで、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群集に言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
とあるが、必ず来る御怒りとはなんだろうか?

14節に
兵士たちも、彼に尋ねて言った。「私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは言った。「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実のものを責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」
とありますが、何でヨハネはこんなことを言うのだろうか?力ずくで人のお金をゆすったり、無実のものを責めたり自分の給料で満足しないものがたくさんいるということなのか?

17節の
また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。
の、箕ってなんだろうか?

No.1940 2007/03/14(Wed) 21:37:05

再ルカ3章20節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ルカ3章20節までを読みます。

4節の
そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
が印象に残りました。特に主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。が印象に残りました。

続く5節の
すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
も印象に残りました。

8節の
それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。「われわれの先祖はアブラハムだ。」などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
が印象に残りました。特に神は、こんな石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。が印象に残りました。

花粉症ひどい。鼻水が絶え間なく出る。ティッシュと格闘している。しゅんでもしゅんでも出るので、ティッシュを突っ込むと息がしにくいしむずがゆくなる。
あーーもーー生きた心地しない。
鼻を切除したい。

No.1943 2007/03/15(Thu) 10:41:08

Re: ルカ3章20節まで / 昌夫 引用

7節の「必ず来る御怒りとは、悔い改めない罪人への神さまの怒りのさばきのことだと思います。

14節は、兵士たちは武器を持っていたので、多くの兵士たちは、力ずくで金をゆすり取ったり、無実の弱者を責めて仕事をさせたりしていたのだと思います。

17節の箕と訳されているギリシア語は、麦のもみ殻を
吹き分けるための、くわだと思います。このくわで、麦を空中に投げ上げると、風で殻は飛んでいき、麦と殻が分けられたそうです。

どうか、沙耶香さんの花粉症が癒されますように。

No.1946 2007/03/16(Fri) 04:49:01

Re: ルカ3章20節まで / 沙耶香 引用

この世の中で弱者を苦しめている悪い人、私を苦しめて今もなお苦しめている結婚詐欺をした人、そういう人に正しく罰を下して欲しい。

箕=くわ・・・ふーん、聞いたことないですけどね・・・今もくわのことを箕と言ったりするのですか?

神様どうか私の花粉症を癒して楽にしてください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・

No.1949 2007/03/16(Fri) 11:10:21

Re: ルカ3章20節まで / 昌夫 引用

僕は日本語の箕が何か知りませんが、たぶん、「くわ」ではないと思います。新約聖書はもともとギリシア語で書かれたそうですが、もとのギリシア語は、おそらく、「もみ殻を投げ上げるためのくわ」という意味だと思います。

No.1951 2007/03/17(Sat) 04:54:13
性欲 / ジン 引用

お初にお目にかかります。1つ聞きたいことがあるみたいなのですが、キリスト教信者の方達は性欲をどうやって抑えるのでしょうか?
 私は私の目的の為に性欲を抑えなければいけないのですが、なかなか性欲を抑えきれず、やはり意志が弱いのか、精神が未熟なのか・・・・
理性が少ないのか・・・いやその他なのか・・・・その他ではないのか・・・御返時を頂ければ幸いです。

No.1922 2007/03/11(Sun) 19:16:05

Re: 性欲 / 昌夫 引用

ジンさん、始めまして。興味深い質問をありがとうございます。

キリスト者といっても、人それぞれだと思います。基本的には、キリスト者は、まず、人間は罪の奴隷であって、自分から性欲や金銭欲や名誉欲の支配から抜け出すための意志や理性の力は持っていないことを知ります。

自分の力ではどうしようもないので、神に頼ります。祈って、神に頼って、神に聞き従おうとするのですが、そうしたくても、自分は本当にはできないことが分かります。それで、神の独り子であるキリストが自分の罪のために十字架で死んでくださったことを知ります。そして、キリストを受け入れます。

キリストを受け入れても、自分の力では、性欲、金銭欲、名誉欲の支配から、本当には抜け出すことができないことが分かってきます。それで、さらに祈って神の力に頼るようになります。それで、だんだん自分は死んでいき、自分の中のキリストが生きられるようになります。自分が本当に死んだら、自分の中のキリストが生きられるので、性欲に支配されるようなことはなくなります。そして、本当に自由になります。生きているうちにそこまでいった人間がいるのかどうか、僕は知りません。

No.1923 2007/03/11(Sun) 20:52:31

Re: 性欲 / 沙耶香 引用

えーーー?生きているうちにそこまでいった人間がいるんだろうか?
なかなか性欲や食欲は本能だから抑え切れないでしょう。でも自分の欲望に支配されずイエス様に支配されたいと祈ってイエス様に近づいていくことはできます。
私たちキリスト者もその途中ですね・・・

No.1924 2007/03/11(Sun) 21:15:34

Re: 性欲 / 昌夫(管理人) 引用

今、失敗して、ごとう ひでたか さんの書きこみを削除してしまいました。神さまは、性も性欲も良いものとして造られたので、良くないものと考える必要は全くないし、結婚での性は素晴らしい、というような内容の書きこみでした。僕も同意見です。

食欲は素晴らしいものだけれど、僕は食欲に支配されたくなくて、神さまに支配されたいのです。それで、時には、食欲に支配されていないことを確かめるために断食をします。性欲にも支配されたくないけれど、神さまが造られた性そのものを、悪いものと考えているわけではありません。

ごとうさん。本当に申し訳ありません。もし、もう一度同じ内容を書き込んでいただけたら、とても嬉しいです。

ただ、次に書き込むときには、HPのURL は掲示板のルール上、つけないようにお願いいたします。

No.1927 2007/03/11(Sun) 23:01:22

Re: 性欲 / ごとう ひでたか 引用

昌夫さん、回答遅れました。
削除に関しては、あることですから語心配なく。こちらこそUrlの件、失礼しました。前回投稿時からの状態が保存されていたようで、そのまま投稿してしまったのです。

自分のコメントについても、昌夫さんの方から代弁頂いていますから、良いとして。また別の機会に、投稿させてもらいますね。ごとう

No.1942 2007/03/15(Thu) 01:08:01

Re: 性欲 / 昌夫 引用

ごとうさん、間違って削除してしまった件、ご理解していただいて、どうもありがとうございます。

No.1945 2007/03/16(Fri) 04:25:06
ルカ2章残り / 沙耶香 引用

今日はルカ2章残りを読みます。

23節の
それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない。」と書いてあるとおりであった。
の主に聖別された者ってなんだろうか?意味がわからない。

24節の
また、主の律法に「山はと一つがい、または、家はとのひな二羽。」と定められたところにしたがって犠牲をささげるためであった。
はどういう意味だろうか?

52節の
イエスはますます知恵が進み、背丈も大きくなり、神と人とに愛された。
が印象に残りました。イエス様はやはり最高ですね・・・

No.1935 2007/03/13(Tue) 20:25:41

Re: ルカ2章残り / 昌夫 引用

イエスは、モーセの律法の下に人間としてお生まれになりました。それで、イエスの両親のヨセフとマリヤは、モーセの律法に従っておられました。モーセの律法は十戒のほかにも、いろいろな律法が創世記から申命記までの五書に書いてあります。

21節で、創世記17:12の律法に従って、生まれて8日目にイエスに割礼が施されました。

22節ですが、レビ記12:1−5によって男の子を産んだ女の人は7日間汚れ、8日目に男の子に割礼が施され、さらにその後33日間、汚れます。この場合の、女の人の汚れは、罪には関係なく、出産の際に命にかかわったための汚れと考えられます。日本の神道で、死体にさわると汚れる、と考えるのとよく似ています。汚れている間は、エルサレムの神殿に行って、神の前に出ることは律法では許されませんでした。それで、33日のきよめの期間が終わってから、レビ記12:6−9にある律法の定めに従って、ヨセフとマリヤはイエスを連れてエルサレムに行かれました。

23節は出エジプト13:2の律法の定めにあるように、初子は人間でも動物でも、主のために聖別されました。聖別されるとは、神のために、特別に分離し、ささげられることです。出エジプト13:12−13と民数記18:15にあるように、人間の初子は購われました。イエスはヨセフとマリヤの初子であるので、主にささげられました。

24節は、レビ記12:6−8にある律法の定めに従って、初子あるイエスが購われたことを書いてあります。普通は1歳の子羊一頭を全焼のいけにえとして捧げて初子を購います。でも、マリヤは貧しかったので、レビ記12:8に従って、羊ではなく、はとを捧げました。

No.1937 2007/03/13(Tue) 22:00:08

再ルカ2章残り / 沙耶香 引用

創世記17章12節・・・
あなた方の中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれた僕も、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。

レビ記12章1―5節・・・
それから、主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。
女が身重になり、男の子を産んだときは、その女は七日の間汚れる。その女は月のさわりの不浄の期間のように、汚れる。
八日目には、その子の包皮の肉に割礼をしなければならない。
その女はさらに三十三日間、血のきよめのために、こもらなければならない。そのきよめの期間が満ちるまでは、聖なるものにいっさい触れてはならない。また聖所にはいってもならない。
もし女の子を産めば、月のさわりのときと同じく、二週間汚れる。その女はさらに六十六日間、血のきよめのために、こもらなければならない。

レビ記12章6―9節・・・
彼女のきよめの期間が満ちたなら、それが息子の場合であっても、娘の場合であっても、娘の場合であっても、その女は全焼のいけにえとして一歳の子羊を一頭と、罪のためのいけにえとして家鳩のひなか、山鳩を一羽、会見の天幕の入り口にいる祭司のところに持ってこなければならない。
祭司はこれを主の前にささげ、彼女のために購いをしなさい。彼女はその出血からきよめられる。これが男の子でも、女の子でも、子を産む女についてのおしえである。
しかし、もし彼女が羊を買う余裕がなければ、二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひなを取り、一羽は全焼のいけにえとし、もう一羽は罪のためにいけにえとしなさい。祭司は彼女のために購いをする。彼女はきよめられる。」

出エジプト記13章2節・・・
「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」

出エジプト記13章12―13節・・・
すべて最初に生まれるものを、主のものとしてささげなさい。あなたの家畜から生まれる初子もみな、雄は主のものである。
ただし、ろばの初子はみな、羊で購わなければならない。もし購わないなら、その首を折らなければならない。あなたの子供達のうち、男の初子みな、購わなければならない。

人でも、獣でも、すべての肉なるものの最初に生まれるもので主にささげられるものはみな、あなたのものとなる。ただし、人の初子は、必ず購わなければならない。また、汚れた獣の初子も購わなければならない。

昔は聖別とかいろんなことがあったのですね・・・何だか昔の律法の定めは難しいですね。

26節の
また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
が印象に残りました。

32節の
異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。
の啓示は辞書で調べると、

恩寵(おんちよう)や奇跡など、通常の人間理性を超越する神の働きによって成り立つ宗教。

だそうです。何だか難しいですよね?

37節に
その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。
とあるが、八十四歳になって、断食をして神に仕えるというのは素晴らしいですよね?なかなかできないです。

No.1938 2007/03/14(Wed) 11:41:53

Re: ルカ2章残り / 昌夫 引用

>何だか昔の律法の定めは難しいですね。

そうですね。モーセの律法にもとづく旧約は、いろいろな行動の定めがあって、そういう意味で勉強するのは、難しいですね。その行動の定めの背後には、いろいろな霊的な意味があります。霊的な意味は人間には分かりにくいので、この世での行動を定めることで、教えてくださいました。イエスさまの十字架以降の新約では、律法は神さまが心に書いてくださるので、霊的なことだけになります。霊的なことは、この世のことより難しいので、かえって、新約のほうが難しいともいえます。

>昔は聖別とかいろんなことがあったのですね

今でも、信仰によって、沙耶香さんも、他の信仰者も霊的に聖別されています。旧約にあったことは、霊的な意味で、新約にも全部あると思います。

32節の、啓示とは、信仰者は、神さまが人間に示されること、と考えるのが良いと思います。辞書は、信仰者でない人のために書かれているので、霊的なことばの意味を知るためには、あまり役にたたないこともあります。

No.1939 2007/03/14(Wed) 21:21:48

Re: ルカ2章残り / 沙耶香 引用

そうですよね?辞書で調べても聖書的なことは書いていないことがままあります。
ルカの3章で箕を調べたら聖書では箕(み)と読むのに、辞書は箕(き)と読んでいたので、多分聖書的な意味は書いていないんだろうと思った。

No.1941 2007/03/14(Wed) 21:40:51
ルカ1章残り / 沙耶香 引用

今日はルカ1章の残りを読みます。

52節の
権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、と
続く53節の
飢えたものをよいもので満ちたらせ、
富むものを何ももたせないで追い返されました。
が印象に残りました。

69節の
救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。
の救いの角ってなんだろうか?

73節に
われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、
とあるが、どんな誓いだろうか?

No.1921 2007/03/11(Sun) 06:50:11

再ルカ1章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度ルカ1章51節から最後まで読みます。

今日は昨日に引き続き、家庭内でいじめ蔑みにあい、もう辛くて辛くてたまらない。イエス様イエス様この問題の中にも光を差し込んでください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
あーーーーもうため息ばかりだ・・本当に辛い。イエス様迎えにきて欲しい。

76節の
幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、と
77節の
神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。
が印象に残りました。

80節の
さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。
が印象に残りました。

No.1926 2007/03/11(Sun) 21:39:35

Re: ルカ1章残り / 昌夫 引用

69節の「救いの角」は、詩篇18:2を読んでみてください。詩篇18:2の救いの角とは、誰のことだと思いますか?

73節の「アブラハムに誓われた誓い」は創世記22章16-18節を読んでみてください。

どうか、家庭内で迫害にあっている沙耶香さんを、主が見守り、救い出してくださいませ。

No.1928 2007/03/12(Mon) 03:16:50

Re: ルカ1章残り / 沙耶香 引用

詩篇18章2節・・・
主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。
わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
うん、わが救いの角とは主イエス様のことだと思います。
でも69節に当てはめると、
イエス様を、われらのために、僕ダビデの家に立てられた。となります。何だかおかしいです??

創世記22章16―18節・・・
仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。

うん、大体子孫繁栄ということかな?と思います。

家庭や自分の教会内に迫害者がいるとかなり辛いですよね?私はそのどちらもなので、相当辛くて堪えます。しかし主イエス様は私を救い出してくださると信じて期待して感謝します。

No.1929 2007/03/12(Mon) 08:34:10

Re: ルカ1章残り / 昌夫 引用

69節ですが、「救いの角」とは、沙耶香さんの考えたとおり主イエスさまです。イエスさまはダビデの家(ダビデの子孫)にお生まれになりました。また、イザヤ52:13−53:12の主の「しもべ」が、イスラエルと世界を救われる、キリスト・イエスさまです。だから、普通には、しもべであるということは名誉ではないけれど、主のしもべであることは、最高の名誉です。それで、ダビデのことを、「しもべダビデ」と書いています。

創世記22章16−18節で、主がアブラハムに与えられた誓いでは、主がアブラハムの子孫を祝福され、子孫によって、すべての国々が祝福を受けるようになる、ということが大切だと思います。

沙耶香さんは、主を個人的に深く知るようになる、という大きな祝福を受けたと信じます。沙耶香さんによって、沙耶香さんのご家族や、教会の兄弟姉妹も祝福されます。その過程として、今は沙耶香さんは迫害を受けていますが、それは産みの苦しみのようなものだと信じています。

どうか、沙耶香さんを通して、今は沙耶香さんを迫害している沙耶香さんおご家族や、教会の兄弟姉妹が祝福されますように。彼らが主を個人的に深く知るようになり、主の愛で沙耶香さんやまわりの人々を愛する人々に変えていただきますように。

No.1930 2007/03/12(Mon) 22:01:17

Re: ルカ1章残り / 沙耶香 引用

本当、普通にこの世的に考えるとしもべなんて不名誉だけれど、イエス様のしもべは最高の勲章ですよね?
管理人様もよく、御自分のことを主のしもべだとおっしゃっておられるし、うちの教会の牧師もそうおっしゃっておられます。

主イエス様に従って行くと迫害されるのは普通だということは分かるが、私の場合は、元々世間からもいろんな人からも、いじめられ蔑まれ、家族からも虐待され、クリスチャンになってからもそれがなくなるようにお祈りしてもなくならない。辛いが試練だと思い耐えます。

No.1934 2007/03/13(Tue) 11:59:56

Re: ルカ1章残り / 昌夫 引用

>辛いが試練だと思い耐えます。

イエスさまも蔑まれて、十字架にかけられました。沙耶香さんが蔑まれ、虐待と迫害を受けて耐えておられる様子をイエスさまが天国から見ておられるだけでなく、沙耶香さんと一緒に耐えてくださっているのだと信じて賛美して感謝します。

No.1936 2007/03/13(Tue) 21:25:51
ルカ2章20節まで / 沙耶香 引用

今日はルカ2章20節までを読みます。

前に結婚詐欺されたときの相手からいろんな仕打ちを受けます。辛いです。神様イエス様私を守りお救いください。アーメン・・・逃げ出したい。CENSORED

12節の
あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。
のみどりごってどういう意味だろうか?主イエス様のことだろうけれど、何でみどりごというのだろうか?

この部分は前に絵本で読んだところと重なるところがあり、理解しやすいですね・・・
読解力のない私みたいな人は絵本から始めると読みやすいかもしれないです。

No.1931 2007/03/12(Mon) 23:44:55

Re: ルカ2章20節まで / 昌夫 引用

12節の「みどりご」という言葉は、「新芽のような子」の意からのものだそうです。新芽は緑色なので、みどりごというようになったらしいです。

どうか、神さまが沙耶香さんを見守って、救い出してくださいませ。

No.1932 2007/03/13(Tue) 02:55:41

再ルカ2章20節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ルカ2章20節までを読みます。

ふーん、新芽のような子・・・素晴らしいですね。

14節の
「いと高きところに、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
が印象に残りました。

20節の
羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話しのとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
が印象に残りました。

No.1933 2007/03/13(Tue) 11:45:07
ルカ1章50節まで / 沙耶香 引用

今日はルカ1章の50節までを読みます。

31節の
ごらんなさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。が印象に残りました。
いよいよイエス様ご誕生という気がして嬉しい。

33節の
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。
が印象に残りました。

35節の
御使いは答えていった。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれるものは、聖なるもの、神の子と呼ばれます。
が印象に残りました。何だか、聖い御言葉ですね・・・

37節の
神にとって不可能なことは一つもありません。
が印象に残りました。だっていろんなことに悩み苦しみんでいる私にとってこの御言葉は本当に力強い御言葉です。

No.1918 2007/03/10(Sat) 09:48:56

Re: ルカ1章50節まで / 昌夫 引用

>神にとって不可能なことは一つもありません。

不可能なことのない神さまの素晴らしい御力を賛美します。父なる神さまの独り子のイエスさまが、降臨して人間として生まれてくださり、僕たちの罪のために十字架の上で死んでくださった、素晴らしい愛を賛美し、感謝します。どうか、神さまの力と愛を僕たちひとりひとりが深く実感し、神さまを心から信頼し、神さまの愛で、神さまを愛しかえせるようになりますように。

No.1919 2007/03/10(Sat) 23:45:40

再ルカ1章50節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ルカ1章50節までを読みます。

34節の
そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
が印象に残りました。男の人を知らない人が身ごもることができる、イエス様の不思議な御業です。

44節の
本当に、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子供が喜んで踊りました。
が印象に残りました。

50節の
そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
が印象に残りました。

No.1920 2007/03/10(Sat) 23:58:01
ルカ1章24節まで / 沙耶香 引用

あれ??ヨハネ終了しちゃった・・・今度はどこへ飛ぼうかな?うーん、前管理人さんがルカも勧められていたと思うので、ルカにします。

今日はルカの福音書の1章24節までを読みます。管理人さんお勧めの区切り方では今回は長すぎるので、途中で切らせてもらいました。お許しください。

13節の
御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。
が印象に残りました。だって不妊の女エリサベツが妊娠を預言されるなんて素晴らしいですよね。

15節の
彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、と
16節の
そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返られます。
が印象に残りました。

No.1914 2007/03/09(Fri) 10:28:24

再ルカ1章24節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ルカ1章24節までを読みます。

11節に
ところが、主の使いが彼に現れて、香壇の右にたった。 
とあるが、右側というのは何か関係があるのだろうか?右の座と何か関係があるのだろうか?

17節の
彼こそ、エリヤの霊と力で主の前触れをし、父たちの心を子供達に向けさせ、逆らうものを義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。
が印象に残りました。

20節の
ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時がくれば実現します。
が印象に残りました。特に最初のほうのこれらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。が・・・

No.1915 2007/03/09(Fri) 20:55:37

Re: ルカ1章24節まで / 昌夫 引用

沙耶香さん、ヨハネの通読完了、おめでとうございます。活字アレルギーと自称されている沙耶香さんが、苦労しながら、詩篇とヨハネを通読された様子を見て、とても励まされます。

>管理人さんお勧めの区切り方では今回は長すぎるので、途中で切らせてもらいました。お許しください。

どうぞ、長すぎるときは、気にしないで、どこでも区切ってください。

8−9節ですが、神殿の中には、聖所という部屋があり、燭台と机と供えのパンがありました。その奥に垂れ幕があり、垂れ幕の後ろに至聖所という最も神聖な部屋がありました。至聖所には、大祭司が一年に一回だけ入っていけにえを捧げました。香壇は、聖所の中の至聖所の垂れ幕の前にあったようです。祭司はくじで一生に一回だけ、香壇に香をたくことができました。祭司のザカリヤにとって、9節にあるように、くじで香をたくように選ばれたのは、一生に一回の晴れがましい出来事だったようです。

もし、祭司の組分けなどに興味がわいたら、歴代誌第1の23−24章を読んでみてださい。

11節の、「主の使い」とあるのは、いわゆる天使だと考えられます。19節にあるようにガプリエルという天使でした。天使が香壇の右に立ったということは、主の権威によって、主のみことばを伝える、という意味があると思います。

13節で、「ヨハネとつけなさい。」と天使が言いましたが、これは、バプテスマのヨハネのことです。ヨハネの福音書を書いた使徒のヨハネとは別人なので、注意してください。

No.1916 2007/03/09(Fri) 23:54:51

Re: ルカ1章24節まで / 沙耶香 引用

詩篇とヨハネだけじゃなくて、箴言もよみましたよ。一番最初は箴言だったのです。
活字アレルギーと自称するだけでなく、理解力も読解力もなく、こんな私をイエス様が支えてくれて見守ってくださり、管理人さんも力をくれてここまでくることができました。感謝します。

祭司の組み分け??よく分からないので、興味はわかない。大体祭司っていうもの自体よく分からない・・・

話しでヨハネは二人いると聞いていてもやはりヨハネと出てくるとヨハネの福音書のヨハネだと思ってしまいますよね?

香をたくのが晴れがましい出来事なんて昔は何だか面白い風習があったのですね・・・

No.1917 2007/03/10(Sat) 09:16:10
ヨハネ21章残り / 沙耶香 引用

今日はヨハネ21章残りを読みます。

脚注の18,9節の説明でシモン・ペテロの場合、イエスに従うことはキリスト者の群れを牧することを意味したが、それは投獄と殉教への道にほかならなかった。とあるが、
何でキリスト者の群れを牧することが投獄の道なのか?
・・・よく分からない・・・・

No.1901 2007/03/08(Thu) 09:24:47

再ヨハネ21章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度ヨハネ21章残りを読みます。

18節の
まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かったときには、自分で帯を締めて、自分の歩きたいところを歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくないところに連れて行きます。
が印象に残りました。
みんな若いときと年をとってからと違ってきます。

No.1906 2007/03/08(Thu) 20:21:25

Re: ヨハネ21章残り / 昌夫 引用

18.19節については、いつか、「使徒の働き」の書を読まれたら、当時のキリスト者のリーダーたちが、「キリストが私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられた」という福音を伝えると、投獄されたり、鞭うたれたり、殺されたりしたことがよく分かると思います。聖書には書いてありませんが、伝承では、ペテロはローマで、逆さに十字架にはりつけられて主のために死んだということです。

日本では、福音を伝えても、投獄されたりしませんが、世界では、今でもいろいろな国々で、キリスト者が福音を伝えたために投獄され、鞭うたれ、殺されています。

No.1910 2007/03/09(Fri) 01:35:07

Re: ヨハネ21章残り / 沙耶香 引用

キリスト者は迫害されるのが常なのですね・・・
私もみなに迫害されています。でもイエス様だけに愛されています。

No.1913 2007/03/09(Fri) 10:07:06
ヨハネ21章14節まで / 沙耶香 引用

今日はヨハネ21章14節までを読みます。

2節に
シモン・ペテロ・デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
とあるが、デドモと呼ばれるトマスってどういうことだろうか?だって名前だったらデドモ・トマスってなるでしょ?

6節の
イエスは彼らに言われた。「船の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
が印象に残りました。イエス様って素晴らしいですね・・・

No.1892 2007/03/07(Wed) 10:41:06

Re: ヨハネ21章14節まで / 昌夫 引用

2節ですが、キリスト時代のパレスティナのユダヤ人たちは、アラム語と、ギリシア語を話していました。トマスは、アラム語で、デドモはギリシア語です。どちらも「ふたご」という意味があるそうです。おそらくトマスというのが本当の名前だけれども、同じ意味があるので、呼び名としては、デドモと呼ばれていた、ということだと思います。これまでにも、11章16節と、20章24節で、「デドモと呼ばれるトマス」が登場しています。

6節ですが、ペテロたちは、漁師でした。でも、自分の漁師としての知識に頼らずに、イエスさまに聞き従ったときに、大きな祝福を受けました。僕たちも、自分の専門と思っている分野でも、自分の知識に頼らず、イエスさまに聞き気従って、大きな祝福を受けたいですね。

No.1895 2007/03/07(Wed) 12:58:46

再ヨハネ21章14節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ヨハネ21章14節までを読みます。

あ、そうですか?アラム語??ギリシア語って聞いたことあるけれど、アラム語はないですね・・・

うん、何でも自分の持っているものに頼らず、全部イエス様に頼れるようになると素晴らしいでしょうね・・・
でも私は自分の知識なんかないからイエス様に頼っているけれど、なかなか理解不能・・・
管理人さんは自分の頭のよさに頼ってイエス様に頼らなくても、理解万能・・・
なかなかうまくいかないですね・・・
でもイエス様今までいろんなことで私に素晴らしい御業を見せてくれました。
本当にちょっとしたことから相当大きなことまで祝福をいっぱいくださいました。信仰歴3年とちょっとながら、イエス様はいろいろな恵を与えてくださいました。

4節に
夜が明けそめたとき、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることが分からなかった。
とあるが、弟子達に分からないなんて悲しいなーーー。

No.1896 2007/03/07(Wed) 21:00:45

Re: ヨハネ21章14節まで / 昌夫 引用

>ギリシア語って聞いたことあるけれど、アラム語はないですね・・・

イエスさまは、おそらくアラム語を話されたと思います。創世記11章27節で、アブラハムがアブラムというもとの名前で登場しますが、31節で出てくるカランというところで、アブラハムの親戚たちはアラム語を話していたようです。その後、イスラエルの人たちはへブル語を話していました。一方、アラム語は中近東の国際語になっていきました。列王記?U18章26節で、ユダ王国の高官たちが、アッシリアの高官に、民の理解できないアラム語で話すように頼んでいます。バビロン捕囚のあと、ユダでアラム語を話すのが一般的になっていったようです。そして、イエスさまの降臨された時代のころは、へブル語ではなく、アラム語がユダヤ人たちの間で一般的に使われていました。また、ギリシア語もとくに、エルサレムから遠く離れたところで使われていました。

4節ですが、弟子たちが、イエスであることが分からなかったのが興味深いですね。ひとつの解釈としては、十字架以前のイエスと見かけが違っていたのかもしれません。おそらく、復活されたイエスは、十字架の以前より10歳くらい若く、20歳くらいに見えたのではいかな、と考えています。

No.1899 2007/03/08(Thu) 03:37:23

Re: ヨハネ21章14節まで / BISKO 引用

こんにちは。

揚げ足取りみたいで、申し訳ないのですが、気になってしまったので・・。

>十字架以前のイエスと見かけが違っていたのかもし
>れません。おそらく、復活されたイエスは、十字架
>の以前より10歳くらい若く、20歳くらいに見えたの
>ではいかな、と考えています。

「夜が明けそめたとき、岸辺に立たれた」イエスが、弟子たちの乗る小船との間に、ある程度距離があったからじゃ無いんでしょうか。加えて夜が明け初めるときですから、遠くのものは良く見えないはずですし。

とは言え、復活されたイエスを間近に見ながら、それがイエスだとわからなかった記事もありますから、一概にはいえませんが。

いずれにせよ、人間という存在は、客観的な事実を見聞きしても、本人が「何を見たがっているか、聞きたがっているか」という基準で、それをどう理解するかを決めてしまいます。 イエスの色々な奇跡を見て、それが「神からのものだ」と理解する者もあれば、「いや、それは悪魔から出ているのだ」と理解した者あったように。

今、思ったのですが、復活のイエスを単に「見た」人は、弟子たちだけではなかったかも知れません。イエスに酷似したその人。手とわき腹に十字架刑の傷跡を残してさえいるその人を見たとき、彼を「復活したイエス」と人に認識させたのは、それもまた「信仰」だったのかも知れません。

No.1900 2007/03/08(Thu) 08:03:27

Re: ヨハネ21章14節まで / 沙耶香 引用

あ、そうなの?イエス様ってアラム語を話されていたの?へーーイエス様が使っていたお言葉気になりますね・・・私は日本語しかしゃべれないが、興味深いですね・・・

へーー復活されたイエス様はそんなに若く見られたんだ?私も見たかったな。復活される前のイエス様も復活した後のイエス様も・・・

No.1902 2007/03/08(Thu) 09:28:02

Re: ヨハネ21章14節まで / 昌夫 引用

BISKOさんの書きこみに感謝します。

>揚げ足取りみたいで、申し訳ないのですが

いえ、特にこういう風に、いろいろな解釈がありうるところは、掲示板でいろいろな意見が出る方が、良いと思います。

沙耶香さん、イエスさまのこのときの復活の体は若く見えたかどうかは、BISKOさんの書かれたように別の意見もあります。こういう風にべつの意見があるときは、基本的には、祈りの中で聖書のほかの部分とつきあわせていきます。でも、沙耶香さんは、聖書を読み始めたばかりだから、4節をゆっくり読んでから静かにして、直接に神さまにどうなのか聞いてみるのも良いと思います。答えてくださるとは限りませんが、このような神さまとの直接の交わりということが、とても大切だと思います。

No.1904 2007/03/08(Thu) 11:58:01

Re: ヨハネ21章14節まで / BISKO 引用

管理人さん。

>いえ、特にこういう風に、いろいろな解釈がありうる
>ところは、掲示板でいろいろな意見が出る方が、良い
>と思います。

私は、聖書には色々な解釈がありうる、とは思っていません。これは、聖書には「一つだけの絶対的な解釈があって、その解釈以外は間違いだ」と言いたいのではありません。

私が言いたいのは、聖書を読む個人個人が、独自の解釈に満足して良い、という前提は、多分正しくないだろう、と思っている、という事です。管理人さんが、実際にそのようにお考えだとは、考えていませんから、以下は「余談」です・・・。 ご興味があればご一読ください。

私たちが何かを「読む」場合、そこにはどうしても個人の「解釈」が入ってきます。解釈無しに何かを読むことはできませんから、これはどうしようもないです。ただ、その解釈が「著者は何を伝えたがっているか」という一定の「枠」に制約されているというコトを前提にするべきだと、私は考えています。

言い換えれば、「聖書の解釈は個人の自由にゆだねられている」という前提の場合、自分勝手な解釈を施し続けた結果、聖書の著者の意図を逸脱した理解を有してしまうという危険性があります。 これは聖書を読む私たちすべてが負っているリスクです。このリスクを最小限に抑えるために、それぞれの解釈をすり合わせたり、あるいは、当時の文化背景を学んで言葉の持つ意味の範囲を絞り込んだりする訳です。

ですから、これもまた少々揚げ足取り気味の意見になってしまいますが、

>沙耶香さんは、聖書を読み始めたばかりだから、4節
>をゆっくり読んでから静かにして、直接に神さまにど
>うなのか聞いてみるのも良いと思います。答えてくだ
>さるとは限りませんが、このような神さまとの直接の
>交わりということが、とても大切だと思います。

という、沙耶香さんへのお勧めが、すこし気になってしまうのです。

神様との直接の交わりというコトと、
聖書の一節をできるだけ正確に理解しようとする試み。
両者は同義では必ずしもありません。

とは言え、両者は切り離せない密接なものですから、どちらか一方を別々に行うということは、バランスを欠いていますよね。

極端な話、
前者が優先されすぎると、聖書のトンデモ解釈によって、外部の意見に耳を貸さないカルト化の原因となります。逆に後者が支配的になりすぎると、聖書を学問的に学んでいるが、神の存在も、イエスの救い主としてのすばらしさも、そんなものは信じません、ということになってしまいます。

難しいですね。実際は、この両極端の間のどこかに、私たちが取るべき立場があるのかも、です。

No.1905 2007/03/08(Thu) 16:19:38

Re: ヨハネ21章14節まで / Aja 引用

個人としてのこともそうですし、教会としての聖書解釈もそうですよね。
いろいろな解釈をするから宗派に分かれてしまうのでしょうけど、それでも自分の属する教会の教義というか聖書解釈にすべての人が同意しているわけでもないのでは?と思います。
あるクリスチャンの友人は、「自分の解釈とぴったり合う教会なんてないから、もしそれを望むなら自分で新しく教会を(宗派を)作るしかないよなあ」と言っていました。

説教を聞きながら「その解釈は私には受け入れられない」と感じたこともけっこうありました。同じ教会に通っている人でも皆が全く同じ信仰を持っているとは言えないと思います。
それでも、十字架への信仰、イエスを救い主と告白すること、その最も重要な部分で一致していたら良いのではないかと私は考えています。

No.1907 2007/03/08(Thu) 21:44:26

Re: ヨハネ21章14節まで / BISKO 引用

こんにちは。

>同じ教会に通っている人でも皆が全く同じ信仰を持っ
>ているとは言えないと思います。
>それでも、十字架への信仰、イエスを救い主と告白す
>ること、その最も重要な部分で一致していたら良いの
>ではないかと私は考えています。

そうですね。

「同じ聖書解釈」イコール「同じ信仰」では必ずしも無く、「異なる聖書解釈」でも「同じ信仰」成り立つ場合もありそうです。

ヨハネの福音書について言えば、20:31の、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストとであることを、あなた方が信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちをえるためである。」が、ヨハネの著者の大目的です。

ですから、ヨハネを読む人2人の人が、「イエスは神の御子・そして、救い主である」という信仰を持ったならば、イエスの復活後の風貌がどうであったかについて、お互いに異なる解釈を持っていたとしても、それは対して問題ではない、と言えるのかも知れません。

>それでも、十字架への信仰、イエスを救い主と告白す
>ること、その最も重要な部分で一致していたら良いの
>ではないかと私は考えています。

仰るとおりだと思います。

:)

No.1908 2007/03/09(Fri) 00:19:34

Re: ヨハネ21章14節まで / 昌夫 引用

聖書を読むときに、意味と意義を分けて考えるのが重要だと思います。意味とは、人間としての著者が自分の想定した読者たちに伝えようとしたこと、と考えます。意味は基本的にはひとつしかない。これに対し、意義とは、神さまが現在生きる自分に伝えようとしておられるか、ということで、これは状況によって、時代によって、人によって、全く違うことがよくあると思います。

ヨハネが21章4節を書いたときに、ヨハネはイエスの復活した体が20歳くらいだったのか、33歳くらいだったのか、どちらかの意図を持って書いたのです。意味はひとつしかありません。意味を知るためには、当時の歴史的状況や、そのころのギリシア語の意味や文法や、ヨハネのギリシア語の使い方や、聖書のほかの部分との関わりなど、いろいろなことを調べる必要があります。そして、どれだけ祈りの中で調べて勉強しても、BISKOさんと僕で解釈が違うように、教会によっても解釈が違ってきます。意味はひとつでも、その意味を有限な人間が完全に知るのは、この世では不可能であり、ただ、らせんのように、文を読んだり文脈を調べたり聖書のほかの部分を調べたりしながら、だんだん意味にぐるぐる近づいていくことができるだけだと思います。

これに対し、意義は一人一人違います。聖句の意味を大きく取り違えていると、自分に対する意義と思ったことが、全く聖句の真の意味と違っていることがありえます。そのときには、僕たちは、主の名によって、とんでもない行動をしてしまうことが多くあると思います。だから、僕たちは、意味をしっかりとるために、勉強する必要があります。

でも、意味がどうであれ、結局、最終的に一番大切なのは、自分が今、神さまに聞き従うためには何をすべきか、ということなので、聖句の意義を知ることが意味をとることよりも重要です。意味を調べる勉強は、あくまでも、意義を知るための準備にすぎないので、聖書の意味の勉強自体を目的化してしまうと、良くないと思います。

ある聖句の今の自分への意義は何か、ということ知ろうとしたら、何よりも、神さまに直接に聞くことが大切だと思います。そのためには、その聖句を読み、神さまの前で静かにすることが、どうしても必要になると思います。イエスさまでさえ、ひとりで祈る時間を長くとられました。まして、僕たちが、日常の忙しさにまぎれたり、聖書の意味の解釈の勉強ばかりしていたり、教会の仕事ばかりをしていると、神さまの声を聖句から聞くことは不可能になるのは当然だとおもいます。

聖書解釈で真の意味に近づいていくための勉強の段階は、一人一人、いろいろです。でも、どの段階にいても、聖句を読み、神さまの前に出て、静かにして、神さまが自分に何をするように言われているか耳をすますことは、できます。僕が沙耶香さんに、聖句を読んで静かにするように薦めているのは、そういう考えからです。

No.1909 2007/03/09(Fri) 01:28:26

意味 と 意義 / BISKO 引用

管理人さん。

レスありがとう。

聖書を読む上での、意義と意味の違い、なるほどなと思いました。確かに、そういう区別は意識せねばなりませんね。

いつだったか、SocietyOfBiblicalLiterature(日本語では聖書文学学会?)というグループのカンファレンスに出席したときに、聖書を研究して、その「意味」を探求している研究者の多くは、実は、信仰を有するという「意義」については全く興味が無いという事実に、少なからず驚かされた経験を思い出します。

聖書の記述の「意味」は正確に理解している。
でも
聖書の記述の「意義」については、神を信ずるということに結びついていない。

そうなってしまっては、元も子もありません。

確かに、信仰者にとっての聖書を読むことの目標は、その「意義」が神の御心に沿ったものであるということになります・・・。 でも、その神の御心というものは、あくまで「ことば」を通して私たちに知らされている訳です。

「意義」は「意味」なくして成り立たない。
同様に、
「意味」は「意義」なくしては無益。

分離できないが、同じものでもありえない両者。
ある意味、「1+1=1」ですね。

No.1911 2007/03/09(Fri) 05:00:57

Re: ヨハネ21章14節まで / 昌夫 引用

BISKOさん、レスをありがとうございます。

1+1=1というのは、とても面白い表現ですね。僕なら、1+1で三位一体の神さまに近づくという意味で、1+1=3と表現したいような気がします。

No.1912 2007/03/09(Fri) 07:09:35
ヨハネ20章10節まで / 沙耶香 引用

今日はヨハネ20章10節までを読みます。

ちなみにヨハネの19章の残りは読んでいてスレッドは下の方に立っています。

9節の
彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
はどういう意味だろうか?死人の中からよみがえらなければならないということが聖書のどこかに書かれているのだろうか?
別によみがえらないといけないことはないのではないか?・・・とかいろいろ考えていると頭が混乱してくるので・・

No.1877 2007/03/05(Mon) 11:41:36

再ヨハネ20章10節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ヨハネ20章10節までを読みます。

5節の
そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。
の亜麻布ってなんだろうか?

No.1881 2007/03/05(Mon) 23:11:02

Re: ヨハネ20章10節まで / BISKO 引用

沙耶香さん。

こんにちは、BISKOです。

細かい説明は管理人さんにお任せしますが、少し書きますね。

今、聖書を読みながら沙耶香さんがしておられることは、喩えるなら、ジグソーパズルのピースをかき集めることだと言えるかも知れません。

ジグソーパズルは、そのピース一つ一つではあまり意味をなしませんね? 変な形をしていて、「多分何かの絵の一部なんだろうなぁ」としか見えない絵柄が描いてあるのが、パズルのピース、一つ一つです。

ジグソーパズルを解いてゆくとき、まずは、外枠になるピースを選別して、外枠を組み立てますね?

この外枠が、クリスチャンの土台である、イエスキリストが救い主であると信じ、彼の復活を信ずるという信仰という枠組み。 そして、この枠組みの中で、聖書というパズルを組み立てて行く訳です。

最初は試行錯誤と、失敗の繰り返し。
そのうち、作業に慣れてきて、
そのうち、何かパターンがあるなと気付き、
そのうち、全体像の予想に基づいて、意図的にピースを選んで組み合わせることが出来るようになってくる。

聖書を読む、というのは、上のような「結構気長な過程」なんですね・・・。

だから、混乱しても、読解力が無いと思っても、知らない事だらけでも、大丈夫ですよ。 気長に、がんばってください。私もそうします。

あ、それはそうと、
ヨハネの福音書は、イエス復活されて後、60年くらい後の、西暦90年ごろに書かれたんだろと考えられていることはご存知でした?

No.1882 2007/03/06(Tue) 01:35:03

Re: ヨハネ20章10節まで / 沙耶香 引用

BISKOさん、レス感謝します。
いや、私、ヨハネの福音書がいつか書かれたかなんて知らない。私何にも知らない。本当に勉強不足でごめんなさい。
でも私の低知能、低能力、読解力のなさ、理解力のなさ、活字アレルギーはすごいんだから・・・並大抵ではないんだ。
でもイエス様により頼み、一歩ずつ進んでいきます。

No.1883 2007/03/06(Tue) 09:53:58

Re: ヨハネ20章10節まで / BISKO 引用

沙耶香さん。

>いや、私、ヨハネの福音書がいつか書かれたか
>なんて知らない。

うん。でも、福音書がイエスの復活後何十年も後に書かれたものである、と言う事を前提にすると、その読み方も少し変わってくると思いますよ。たとえば、「あの時はさぁ、イエス様の仰っていたことの意味がわからなかったよね。今から考えると、良く判るんだけど、当時はチンプンカンプンだった。」という書き方がされていることもあるんですね。

>私何にも知らない。本当に勉強不足でごめんなさい。
>でも私の低知能、低能力、読解力のなさ、
>理解力のなさ、活字アレルギーはすごいんだか
>ら・・・並大抵ではないんだ。

みていると、沙耶香さんは、単に「未だ詳細について知らない」だけであって、低知能でも、低能力でも、読解力不足でも無い気がするんですけど。そんなことはゼッタイ無い気がするんですけど。も少し自信を持っても良いんじゃないかなぁ。沙耶香さんの場合食わず嫌いと言うか・・・。自分には読解力が無いと、自分で思っておられるだけかも知れませんよ。 

大丈夫、大丈夫。

>でもイエス様により頼み、一歩ずつ進んでいきます。

がんばって〜。

No.1886 2007/03/06(Tue) 11:11:52

Re: ヨハネ20章10節まで / 昌夫 引用

BISKOさんの優しい励ましの書きこみに感謝します。

亜麻布については、http://homepage3.nifty.com/hi-daka/ama%20hukin.html を見てみてください。亜麻という植物から作った糸で織った布です。19章40節にあるように、埋葬のときにイエスのからだは亜麻布で巻かれていました。

9節ですが、僕は使徒13章の34-37節から、詩篇16:10で、キリストがよみがえることが預言されているのだろうと思います。ほかに、ホセア6章2節が、よみがえりの預言だとする説などがあるそうです。

No.1887 2007/03/06(Tue) 12:35:26

Re: ヨハネ20章10節まで / 沙耶香 引用

ふーん、亜麻布って亜麻というしょくぶつから作った糸で織った布なの?亜麻というしょくぶつがいまいち分からないなー・・・麻っていうのがよく出てくるからそれに似たものかな?
ホセア6章2節・・・
主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。

詩篇16章10節・・・
まことに、あなたは、私の魂をよみに捨て置かず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。

使徒13章34―37節・・・
神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされたことについては、「わたしはダビデに約束した聖なる確かな祝福を、あなたがたに与える。」というようにいわれていました。
ですからほかのところでこういっておられます。「あなたはあなたの聖者を朽ち果てるままにはしておかれない。」
ダビデは、その生きていた時代において神の御心につかえて後、死んで先祖の仲間に加えられ、ついに朽ち果てました。
しかし、神がよみがえらせた方は、朽ちることがありませんでした。

うん、そうですね・・・イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書ですね・・・

No.1893 2007/03/07(Wed) 10:58:29

Re: ヨハネ20章10節まで / 昌夫 引用

亜麻も、繊維としては、麻の一種とされているようです。でも、一般に麻と言われているものには、植物としては、かなり違う種類のものがあるそうです。

http://www.amakousya.co.jp/amanituite.html

に説明があります。

No.1894 2007/03/07(Wed) 12:06:00

Re: ヨハネ20章10節まで / 沙耶香 引用

繊維名にリネンとあります。リネンって確かネル地の生地だったように思うんだけれど、違うかな?

No.1897 2007/03/07(Wed) 21:03:33

Re: ヨハネ20章10節まで / 昌夫 引用

たぶん違うと思います。ネルは綿やウールで作ったふわっとした感じの布で、リネンはそれほどふわっとしていない感じだと思います。お母さまか、他のまわりの女性に聞いてみると良いかもしれません。

No.1898 2007/03/07(Wed) 21:50:48

Re: ヨハネ20章10節まで / 沙耶香 引用

あ、そうなの?リネン製品とかってありますよね?一体どんなものなんだろうか?母知っているのかな?聞いてみます。

No.1903 2007/03/08(Thu) 09:29:48
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